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2016年12月30日金曜日

(増補版)475E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)

題:(増補版)475E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年(明治22年)、出来事:
・憲法発布:2月11日、大日本帝国憲法が発布された。
  天皇陛下が定める欽定憲法。
・内閣総理大臣
 黒田清隆:明治21年4月30日~明治22年10月25日
 三条実美:明治22年10月25日~明治22年12月24日(内大
      臣兼任)
 山県有朋:明治22年12月24日~明治24年5月6日
・森有礼文相暗殺:2月11日、東京・麹町区(現=千代田区)
 永田町の文部大臣官邸で森有礼文相が国粋主義者に刺さ
 れ、2月12日に死亡した。
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1889年、内閣・行政:
・市の成立:2月、内務省が36の市を告示。
・特別市制:3月23日、東京・京都・大阪を特別市制とする
 ことが公布。
・市制:4月1日、日本に初めて31の市が誕生した。
 江戸御府内を基礎とした15区により東京市が成立。
 年内に計40の市ができた。
・第1次山県有朋内閣(12月24日~)
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1889年、皇室:
・新宮殿:1月11日、天皇陛下が赤坂の仮皇居から新宮殿に
 移られた。
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1889年、国際・国際会議:
・エッフェル塔完成:3月31日、[フランス]パリのシャン・
 ド・マルス広場に建設されたエッフェル塔の落成式が行
 われた。
  フランス革命100周年を記念して開催されたパリ万博の
 シンボルとして建てられた。
  高さは312.3mで、当時、世界一高い建造物。  
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1889年、防衛・軍事:
・徴兵令改正(一年志願兵制度)公布:1月22日。
 1年志願兵の制が始まった。
・憲兵条例を改正公布(憲兵):3月。
・陸軍省 「陸軍歴史」(全30巻)出版
・海軍省 「海軍歴史」(全25巻)出版
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1889年、経済・金融・貿易:
・日本生命保険会社開業:9月20日、
・ビール工場建設:日本麦酒目黒工場(現恵比寿)完成
  日本麦酒醸造会社(現=サッポロビール)が東京・下
 目黒村(現=渋谷区恵比寿)にビール醸造所を建設。
  煉瓦造りの3階建ての工場を建て、ドイツ人技術者を招
 き、ドイツ産の麦芽を使用してドイツ製醸造機械で生産
 を始めた。  
  1888年、工場地購入
  1890年、恵比寿麦酒発売
  1899年、ビヤホール
・年末、神奈川県、石油貯蔵規則を発布し、石油小売商人
 困難となる。
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1889年、物価:
・物価:氷、1貫目:8銭。
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1889年、交通・運輸:
・東海道鉄道全通:
・鉄道一千哩記念祝賀会
・九州鉄道開業
・横須賀線開通
・国府津~静岡間開通:2月1日、東海道線の国府津~静岡
 間が開通。国府津~沼津間は箱根の山の北側を回るルー
 トで現在の御殿場線。
・東海道線の静岡~浜松間が開通し新橋~長浜間が全通し
 た:4月16日。
・中央線開業:4月11日、甲武鉄道の新宿-立川間が開業。
・甲武鉄道の立川~八王子間が開業:8月11日、新宿-八王
 子間は1時間17分。中央線の前身。
・東京乗合馬車会社が開業:5月11日、
・東海道線の車両に便所が設置:5月、
・丸亀~琴平間開通:6月23日、讃岐鉄道の丸亀~琴平間が
 開通した。
  現在の予讃線・土讃線の一部で、四国の鉄道の始まり。
・横須賀線の大船~横須賀間が全通:6月16日、
・東海道線全通、湖上連絡船廃止:7月1日、馬場(のち=
 大津、現=膳所)~米原~関ヶ原が開通し、新橋~神戸
 間を結ぶ鉄道の東海道本線が全線開通した。
  直通列車は、1日1往復で所要時間は約20時間。
  運賃が改定され、新橋-神戸間は下等で3円73銭。
  長浜~大津間の琵琶湖の湖上連絡船は廃止:初の鉄道連
 絡船(1883年)
・東京湾汽船(現=東海汽船)が開業:11月11日、
・博多~千歳川間開通:12月11日、九州鉄道の博多~千歳
 川(久留米近くの筑後川の右岸にあった)間が開通した。
  現在の鹿児島本線の一部で、九州の鉄道の始まり。
.
1889年、衣:
・警察官・消防官の帯剣が制定された。
・服飾に復古的な傾向強く現れ始め、日本髪用品の売れゆ
 きが良くなる。
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1889年、食:
・フランスの万国博覧会に上菱ビール出品される。
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1889年、住:
・凾館水道竣工
・東京石工組合認可
・木挽町に歌舞伎座建つ
・大阪電燈、京都電燈、名古屋電燈、それぞれ開業
・福島県郡山水道会社開業
.
  (今日の言葉)
.
  題:次期アメリカ大統領のトランプ氏で、この様な筋の通
    らない話は変わると考えるが・・
.
1905年、アメリカは、日露戦争によって、アメリカが目指
 した「日本の勝利」「ロシアの敗北」の目標が達成され
 た結果、
  「中国市場を獲得したい」というアメリカの目的や、
  「ロシアの満州支配の強まり除去」(ロシアの市場化
 の動きを除きたい)のアメリカの目的が達成され、そし
 て、そうなると感じた。
  しかし、実際にその様になってみると、そこに、用済
 みとなった日本が居て、今度は、中国(清)のアメリカ
 の市場化の対抗軸に日露戦争に勝利した日本が居た。
  この時点が・・、この日露戦争の後こそが・・、
  「アメリカが、日本を叩きたいとした出発点」だった、
 「日米対立の序曲」だった。
  今までのアメリカの行動の原点には・・「自分たちの
 利益を追求したい」だけがあった・・、
  そこには、常に、戦争を介在していた・・、
  今度は、その日本を除きたいとする・・その様なアメ
 リカが居て・・、
  アメリカは、日本をその様な位置に位置づけた。
  ここに日本の悲劇があった。
  (アメリカは、共に進むかたちを、常に、取ろうとし
 て来なかった)。
  この翌年の1906年、セオドア・ルーズベルト大統領(
 第26代アメリカ大統領、在任期間:1901年9月14日~1909
 年3月4日)は・・、
  「日本との将来の対決を予想した」。
  そして、愚かにも「対日戦争計画(オレンジ計画)」
 の準備を命じた。
  それは、日露戦争における、日本の見事な勝ちっぷり
 にあった。
  日本の連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊に、見事
 な完勝をした。
  それは、「新たなアメリカの脅威」だった。
  アメリカのセオドア・ルーズベルトは、日本の勝利に
 よって満州のアメリカの市場化への道・通商の道が開か
 れると期待した。
  つまり、日本が、ドアボーイの様に演じると思った。
  しかし、日本の一級の軍事力がそこに見えた、見てし
 まった。
  アメリカは、むしろ逆に、「アメリカが、うまい汁と
 吸っているフィリピン」が奪われるという恐怖・脅威を
 感じた。
  そして、さらに日本にとって、日米にとって、悲劇な
 事は、この脅威論を背景に、アメリカ西海岸に広がった
 「黄禍論(黄色人種の日本人が、禍(わざわい)を起こ
 すという論理)」だった。
  (これは、低級なマスメディアによってあおられた)。
  さらにまた、「アメリカ西海岸に、日本が攻めて来る」
 という、まったく根も葉もないことを、アメリカで言い
 ふらされた。
.
  そして、
.
1906年、この年から、卑劣な事だが、アメリカでは、日本
 との『戦争の仮想シミュレーション』が、毎年、なされ
 た。
  セオドア・ルーズベルト大統領(第26代アメリカ大統
 領、在任期間:1901年9月14日~1909年3月4日)が、命じ
 て始められた『対日戦争計画』である。
  「オレンジ計画」と名付けられたこの計画は、具体的
 な戦争シミュレーションで、
  毎年、日本を仮想敵国として実施され、戦争のやり方
 が検討され、見直された。
  もう、日本との「戦争ありき」の、「対日戦はやるの
 だ」の頭しかないアメリカだった。
  戦争回避の話はなされず、回避策が皆無のアメリカだ
 った。
  アメリカ海軍省戦争研究所は、対日戦争に、凝り固ま
 っていた。
  好戦的なアメリカだった。
  真珠湾で日本が攻撃する筋へ持って行かれた。
  真珠湾の日本の奇襲の作り話は、本当に「ちゃんちゃ
 らおかしい作り話」なのだ。
.
  そして、
.
1913年5月19日、排日土地法
  この年に、アメリカのカリフォルニア州は、日本人移
 民の農地所有を禁じる法律を制定した。
  日本政府は、当然、抗議した。
  アメリカは、日本を逆恨みした。
  これを利用した「日本を悪者に貶(おとし)める組織」
 が、ウォー・スケア(戦争騒ぎ)を煽(あお)り、高ま
 らせられた。
  「日本軍が、攻めて来る」のではないかという病的な
 危機感に覆われた。
  海軍次官補だったフランクリン・ルーズベルト(1933
 年に、第32代アメリカ大統領になる)は、この様なカリ
 フォルニアに、1914年に訪れ、
  元中国軍の顧問だったホーマー・リーが書いた本「サ
 クソンのH」が送られている。
  その本は、「イギリスが、アジア系民族によって亡ぼ
 されそうになる」という予言的に書かれた刺激的内容に
 なっている。
  この様な本を、フランクリン・ルーズベルトは読んで
 いる。
  この元中国軍顧問の男が、中国、もしくは、共産・コ
 ミンテルンの工作員の可能性は否定できない。
  また、今・現在でも、この類の様な工作が、アメリカ
 や日本などの「特に、マスコミや官僚」に、なされてい
 るという可能性が否定が出来ないという。
  それは、マスコミや官僚をターゲットにするのが、「
 効率が良い」からである。
.
  そして、
.
1915年、日本を貶(おとし)める工作がなされた二十一ヵ
 条要求。
  これは、日本がはめられた事件だった。
  今、新事実が、次々に明らかになって来ているが、
 そして、歴史的事項が、あらゆる年代で書き換えられて
 いるが・・、
  この事件でも、新事実がが明らかとなった。
  当時、中華民国大統領の袁世凱(えんせいがい)が、
 中国国民を納得させるために、この二十一ヶ条を、日本
 に書いてくれと、『日本側へ頼んでいた』ということが
 明らかとなった。
  これは、当時の日本の外務大臣である加藤高明の自伝
 にも書かれているが、
  また、東郷茂徳元外相が、巣鴨プリズン(刑務所)に
 入っている時に記した回顧録にも出て来る。
  中国の「引っ掛け外交」だった。
  日本に「エサ」を撒(ま)いて、日本の失策を作ると
 いう作戦だった。
  世界へ、「日本は武力を背景に、不当極まる要求を、
 押し付けて来た」と宣伝された。
  あえて、日本へ「最後通牒」を出してくれと頼んだと
 いうことは、おくびにも出さなかった。
  日本は、完全に嵌(は)められて悪者にされてしまっ
 た。
  これは、中国の狙い通りに展開した。
  以後、日本の立場は急速に悪くなった。
  日本への世界の圧力は、急拡大して行った。
  この様な裏まで知って、そして、判断する国などなか
 った。
  日本は、悪者にされ、「武力で脅されたので無効だ」
 の論理が出てきた。
  正式に交換された条約までが無効という話になった。
  近年も、韓国が、この論調を主張するという臆面ない
 行動をとり、また、不正義な行動をしている。
  信頼などあったもんじゃない状態。
  この頃の話に、「田中上奏文」という日本が、引っ掛
 けにかかった「引っ掛け話」がある。
  これは、日本を引っ掛かけていたという事が、2005年
 に明らかになった。
  「日本の悪玉化」=「ディーモナイゼーション(悪魔
 化論)」で、日本は、どうしようもない「悪玉」にされ
 た。
  今・現代、「靖国神社参拝」が、中国によって「ディ
 ーモナイゼーション」されている。
  そして、アメリカが、中国と同じ論調となっている。
  しかし、次期アメリカ大統領のトランプ氏で、この様
 な筋の通らない話は変わると考えるが・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年12月28日水曜日

(増補版)474E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月~1889年1月)

題:(増補版)474E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年、アメリカ合衆国のショエリダン将軍が没した。
  この将軍の有名な言葉に、
  「私がこれまであった中で最も良いインディアンは死
 んだインディアンだ」。
  まったく卑劣な人種差別の言葉である。
  アメリカの将軍たちは、インディアンの方たちに対し
 て、この様な人種差別意識を持っていた・・そして・・、
  『病的なまでの憎悪』を持っていて、強力な武器で、
 あまりにも残忍なやり方で、インディアンの方々を殺戮
 して行った。
  「徹底殲滅の姿勢」、この時に、アメリカ政府の指令・
 取らせていた姿勢が・・この「徹底殲滅の姿勢」だった。
  (参考)
  ショエリダン将軍:(1831年~1888年)両親は、アイ
 ルランドのキャバン州からの移民。
  リンカーンが、シェリダンについて言った・・、
  「褐色のがっしりした小男(身長:165cm)、胴長短足
 で、絞首台に吊るすには不十分な短い首、足首がかゆけ
 れば屈むことなく掻くことができる長い腕」・・と。
  リンカーンの人間性も分かる言葉となっている・・、
  陸軍士官学校の時、級友と喧嘩して、銃剣で突き殺そ
 うとした(そして・・1年間の停学)。
  このショエリダンの言葉である「最も良いインディア
 ンは・・死んだインディアンだ」は、アメリカで流行語
 となり、白人アメリカ人に、度々、使われた。
1888年8月31日、イギリスで、「切り裂きジャック」による
 最初の殺人事件が発生した。
  19世紀末のロンドンの売春婦連続殺人犯「切り裂きジ
 ャック」の犯行だった。
  (参考)
  切り裂きジャックは、1888年にイギリスで連続発生し
 た猟奇殺人事件の犯人の通称。
  未解決事件であり、21世紀の現在でも犯人の正体につ
 いてはいくつもの説が唱えられている。
  解剖学的知識があるとされて、ジャックの職業は、医
 師だという説が有力視されているが、近年、肉屋である
 という説も有力とされている。
  また、被害者に抵抗の後がない事から、同性の女性だ
 という説もある。
  被害者数は、5人から20人とする説がある。
1888年9月3日、帝国イギリス東アフリカ会社
  イギリスのビクトリア女王が、東アフリカ会社の勅許
 をウィリアム・マッキノンに与えた。
  帝国イギリス東アフリカ会社は、イギリス王室勅許状
 を受けた特許会社で、
  スコットランド出身の資本家であるマッキノン(1823年
 ~1893年)が創設したイギリス領インド蒸気船海運会社が、
 東アフリカのザンジバルへの航路を1872年に開設した際、
  さらに、内陸への進出を計画したことが端緒となった。
  1885年に、ドイツ東アフリカ会社が、ザンジバルの対
 岸の本土部へ進出すると、
  イギリスは、ザンジバルの首長を通して、東アフリカ
 沿岸を間接的に確保しようとした「それまでの方針」を
 変え、
  マッキノンが以前から主張していた商事会社による内
 陸統治という考えをとるようになった。
  特許会社は、王室から独占特許状を与えられて、貿易
 や生産の独占をしようとして許された会社で、
  ある範囲の行政権限をもって、植民地経営を行なった
 会社で、植民地統治をした組織であった(実質はイギリ
 ス)。
  1895年には、イギリス政府が自ら統治に乗り出し、東
 アフリカ保護領が形成された(イギリス領東アフリカ)。
 イギリスの植民地である(本性が飛び出した)。
  さらに、1920年には、ザンジバルの首長の権益が残っ
 ていた海岸部を合わせて、ケニア植民地、および、保護
 領とした。
  最初は、モンバサ港周辺にイギリスが持っていた商業
 利権をもとに、
  1888年、勅許会社の帝国イギリス東アフリカ会社(IBEA)
 が設立されて・・経営(統治)が開始され、
  1895年に、現在のケニアに相当する部分が保護領とな
 り・・、この保護領は・・
  1920年に、直轄のケニア植民地となる。
1888年、イギリスが、サラワク王国、ブルネイ、北ボルネ
 オを保護国化(実質の植民地)した。
  1841年、ブルネイのスルタンが、イギリス人探検家ブ
   ルックにサラワクを領地として与え、「白人藩王」
   が誕生した。
  1846年、サラワク王国が、ブルネイから独立した。
  1881年、イギリスの北ボルネオ会社が、サバを租借し
   た。
  1888年、サラワク王国と北ボルネオ会社に、領土を侵
   食されたブルネイが、イギリスの保護領となった(
   乗っ取られた)。
  1890年、サラワク王国が、リンバン川流域を併合した。
   テンブロンは、ブルネイ本土から切り離された。
  1963年、サラワクとサバが、マレーシア連邦に参加し
   た。
   ブルネイは、イギリス領のまま残り、テンブロンは、
   その飛び地となった。
  1984年、ブルネイが、イギリスから独立した。
  ボルネオ島の北側にあるブルネイは、古くから中国の
 文献に交易拠点として記載されて、アジアとヨーロッパ
 を結ぶ「海のシルクロード」の中継地として繁栄してい
 た。
  18世紀に、東側にあるサバが、「海賊の島」として有
 名なスールー諸島のスルタンに取られてしまった。
  そして、19世紀には、内乱が起こり、ブルネイのスル
 タンが、1839年に、やって来たイギリス人の探検家ジェ
 ームズ・ブルックに鎮圧を頼んだ。
  そして、鎮圧に成功したブルックに、スルタンはクチ
 ン(現在サラワク州の州都)を領地として与えてラジャ
 (藩王)に任じた。そうしたら・・、
  ブルックは、白人王(ホワイト・ラジャ)に即位して
 サラワク王国を作った(国を乗っ取った)。
  そして、イギリスの保護の下で、次々とブルネイの領
 土を奪って拡大していった(植民地の拡大)。
  1881年、一方のサバも、イギリスが作った北ボルネオ
 会社が、この年・1881年、スールー島のスルタンから租
 借し、ブルネイの領土を侵食しながら拡大して行った。
  こうして、東西から挟み撃ちにされたブルネイは、残
 った領土を保全しようと、
  1888年に、イギリスの保護領になったが、間もなく内
 陸部からも勢力を拡大していたサラワク王国にリンバン
 川流域を奪われて、テンブロンは飛び地になってしまっ
 た。
1888年11月14日、パストゥール科学研究所が設立された(
 1887年説あり)
  L・パスツールの業績を記念して、1888年、パリに設立
 された医学研究所。
  設立にあたっては、フランス内外・世界からの醵金(き
 ょきん)による多くの寄付金が寄せられた。
  また、11月14日の開所式には、フランス大統領が列席
 するなど、この研究所は、当初からフランスにおける、
 伝染病の研究・治療の中心としての役割が期待された。
  そのため、この研究所には、所長のパスツール以下、
 彼の弟子たちを中心に優秀なスタッフが集められた。
  彼らは、狂犬病など伝染病の予防と治療にあたるほか、
 生物化学や細菌学など基礎的研究に取り組んだ。
  創設時の建物は、現在、パスツール博物館となってお
 り、彼が使用した顕微鏡はじめ、各種実験器具類が、完
 全に保存されているほか、
  自然発生説否定のために創案した「ハクチョウの首型
 フラスコ」や、研究発表のための乳酸菌・酵母などの微
 生物形態図、カイコの図なども保存されている。
1888年6月15日、ドイツのヴィルヘルム2世が即位した。
  (~1918)
  独帝フリードリヒ3世死去し、ヴィルヘルム2世即位。
  年に二回皇帝が代わったことから「三皇帝年」と言わ
 れた。
  プロイセン王子フリードリヒ(フリードリヒ3世)と、
 イギリス王女ヴィクトリアの長男としてベルリンに生ま
 れた。
  1888年に、祖父ヴィルヘルム1世、父フリードリヒ3世
 が相次いで死去したことにより、29歳でドイツ皇帝・プ
 ロイセン王に即位した。
  祖父の治世において、長きにわたり宰相を務めたオッ
 トー・フォン・ビスマルク侯爵を辞職させて親政を開始
 し、治世前期には、労働者保護など社会政策に力を入れ、
 社会主義者鎮圧法も延長させずに廃止した。
  しかし、その後保守化を強め、社会政策にも消極的に
 なっていった。
  1908年のデイリー・テレグラフ事件以降は、政治的権
 力を大きく落とした。
  一方外交では、一貫して帝国主義政策を推進し、海軍
 力を増強して、新たな植民地の獲得を狙ったが、イギリ
 スやフランス、ロシアなど他の帝国主義国と対立を深め、
 最終的に第一次世界大戦を招いた。
  オーストリア=ハンガリー、オスマン=トルコ、ブル
 ガリアと同盟を結んでイギリス、フランス、ロシアを相
 手に4年以上にわたって消耗戦・総力戦で戦うこととなっ
 た。
  1916年に、パウル・フォン・ヒンデンブルク元帥とエ
 ーリヒ・ルーデンドルフ歩兵大将による軍部独裁体制が
 成立すると、ほとんど実権を喪失した。
  大戦末期には膨大な数の死傷者と負担に耐えきれなく
 なった国民の間で不満が高まり、ドイツ革命が発生する
 に至った。
  革命を鎮めるために立憲君主制へ移行する憲法改正を
 行なったが、革命の機運は収まらず、結局オランダへ亡
 命して退位することになった。
  そのままなし崩し的に、ドイツは、共和制(ヴァイマ
 ル共和政)へ移行し、ホーエンツォレルン家は、ドイツ
 皇室・プロイセン王室としての歴史を終えた。
  ヴィルヘルム2世自身は、戦後もオランダのドールンで
 悠々自適に暮らし、ドイツ国内の帝政復古派の運動を支
 援した。
  1925年に、ドイツ大統領となったヒンデンブルクは、
 帝政復古派であったが、ドイツ国内の議会状況から帝政
 復古は実現せず、最終的に反帝政派のアドルフ・ヒトラ
 ーによる独裁体制が誕生したことにより復位の可能性は
 なくなった。
1888年11月2日、咸宜帝(かんぎてい)が仏官憲に引渡され
 た。
  阮朝(グエンちょう)は、1802年~1945年にかけて存
 在したベトナムの王朝。
  咸宜帝(かんぎてい、1872年7月22日~1943年1月14日)
 は、阮朝の第8代皇帝(在位:1884年~1885年)
  1884年に、13歳で即位したが、
  1885年・翌年に、抗仏勤皇大蜂起の檄を発して王都フ
   エを脱出、地方の在地知識人にフランスへの徹底抗
   戦を訴えた。
   フランスは、ただちに兄の同慶帝を立て、咸宜帝に
   帰順を呼び掛けた。
   咸宜帝はこれに従わず、農村を転々として抵抗を続
   けたが、
  1888年、ついに捕らえられてアルジェリアに配流され
   た。
   やがて、現地でフランス人女性と結婚し、3児をもう
   けた。
  1943年、72歳で死去した。
1888年10月7日、中国初の海軍「北洋艦隊」が編成された。
  (北洋海軍創設)
  中国、清末期の新式海軍・主力艦隊。
  李鴻章によってつくられ、『定遠』『鎮遠』など甲鉄
 砲塔艦4隻、巡洋艦7隻、装甲砲艦1隻を中心とした。
  威海衛に基地を置き清国海軍の主力であった。
  1891年に、品川、長崎、呉、神戸を親善訪問して、中
 国海軍の主力として勢威を誇った。
  海軍の戦備が劣っていた日本に衝撃を与えた。
  中国海軍の主力として勢威を誇ったが、日清戦争で惨
 敗し、壊滅した。
1888年5月13日、ブラジルで摂政イザベル皇女が奴隷制廃止
 法案に署名 (米大陸の奴隷制終焉)
  キリスト教は、キリスト教の神が容認した慣行として
 「奴隷制が認められている」。
  キリスト教聖書にも、キリスト教の神が「奴隷にせよ。
 奴隷にせよ」と叫んでいる。
  この様に、キリスト教という「宗教として容認する」
 という形態であったことで、無くなることなく人類の歴
 史に続いて来て、悲しい歴史を刻んだ。
  また、卑劣な事に、その事がキリスト教の聖書にも書
 かれているからこそ、消えることなく、
  奴隷制は人類の歴史の中で無くなることなく続いた。
  日本においても、キリスト教宣教師がからんだ南蛮貿
 易で、日本女性が奴隷(性奴隷)として売られている。
  1582年、天正遣欧少年使節の少年たちも港々に居る売
 られた日本女性を見ているが、そのことは秘密にされ、
 キリスト教によってプロパガンダ(嘘宣伝)された。
  織田信長は、キリスト教宣教師がその様な悪とは知ら
 なかったが、豊臣秀吉は、その情報を得て、臣下に確認
 を行わせ、その事実を知り、政策を一転させた。
  1587年7月、キリスト教の禁教の施策となった(天正
 遣欧少年使節の5年後)。
  1596年、再び、秀吉が禁教令を出す。
  従った宣教師たちは、長崎出島から、ちゃんと出航し
 て行ったが・・、
  問題なのは、違反して、日本に潜伏した宣教師たちだ
 った。
  秀吉が、ちゃんと法を発令したのにもかかわらず、法
 に従わないキリスト教宣教師たちが居た。
  また、その宣教師たちは、日本の一般民衆を惑わした。
  そのため、再び、禁教令が出された。
  取締り行為もせざるを得ず、行なった・・この事を、
 キリスト教は「殉教だ、殉教だ」と騒いだ。
  法律に従わない「お前たちが悪いのだ」。
  法律違反行為者を取り締まるのは当たり前だ。
  その代表例が、キリスト教が「日本二十六聖人」と美
 化している人たちだ(法律違反者たち)。
  法に従わなかった人々、または、地下に潜ったキリス
 ト教聖職者たちに惑わされて法を破った人たちである。
  秀吉は、マニラのキリスト教本部にも「領土的野心を
 持たぬ事」と通達している(キリスト教宣教師は、日本
 の植民地化への先兵となっていた)
  この様な事は、歴史教科書から一切が隠されている。
1888年10月29日、スエズ運河の自由航行に関する条約締結
  1869年に開通したスエズ運河は、1882年以降、イギリ
 スによって軍事占領された。
  これに対し、ヨーロッパ諸国が、運河の自由通航の保
 障を求めたため、この条約が締結された。
  原締約国は、イギリス、ドイツ、オーストリア=ハン
 ガリー帝国、スペイン、フランス、イタリア、オランダ、
 ロシア、オスマン帝国(日本は加入してない)
  この条約は、運河の自由航行を定めているが、戦時に
 は、しばしば、航行が阻害された。
  第二次世界大戦中に、枢軸国の艦船が通航を拒まれた
 のをはじめ、
  1956年のスエズ危機(第二次中東戦争)では、一時運
 河が封鎖された。また
  1967年の第三次中東戦争による運河の閉鎖は、1975年
 まで続いた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ヤルタ会談・・くせものの会談・・密約のある会談・・
    嘘をつく癖のあるキリスト教に洗脳されたルーズベルトも・・同じだった・・
.
1945年2月3日、ヤルタ会談をするため、アメリカ大統領ル
 ーズベルトが、黒海に突き出たソ連領のクリミア半島の
 突端のヤルタに着いた。
  ソ連のスターリンは、まだ着いてない。
  ルーズベルトとスターリンの会談は、翌日・4日、午後
 4時に、スターリンの表敬訪問の形で始まった。
  1943年11月のテヘラン会談以来の約15か月ぶりだった。
  互いに戦果を褒め合い、打ち解けたムードだった。
  フランスを参加させるか?と、その第二次世界大戦の
 終結が見えている状況のこの中で、フランスの功績につ
 いての話になった。
  「フランスに、参加する資格はあると思いますか?」
 とスターリンは言った。
  二人は、すでに、「フランスの功績は無かった」で合
 意していたが、この言葉が出た。
  ルーズベルトは、「あるとすれば、それは親切心から
 ですな」と言い、同席しているソ連外相のモロトフと共
 に、一同は、大声で笑った。
  日本の「に」の字も出ない。
  「日本は、すでに決着している」という一同の認識だ
 った。
  この会談自体が、第二次世界大戦後の勢力圏をどう配
 分するか?に、思惑を巡らす状況だった。
  日本は、「完全に、負けるから」の認識の中にあった。
  世界の勢力圏の話し合い、駆け引きだった。
  すでに、イギリスとソ連の意見が、合わない状況にあ
 った。
  つまり、日本への原爆投下の必要性は、この時点でさ
 え「まったく、無かった」、必要性はないの認識の中に
 あった。
  死に体の日本、原爆投下の必要性なし・・だった。
  キリスト教の「シャローム」の教義=異教徒の完全抹
 殺の後に、平和が訪れるという迷信に洗脳された、キリ
 スト教徒のルーズベルトは、「無条件降伏を要求」して
 たが・・、イギリス首相も驚くという「無条件降伏を日
 本へ要求」していて・・、
  そして、異教徒の完全破壊の教義に洗脳された頭の中
 から、「原爆投下が出てきた」。
.
1945年2月8日、ヤルタ密約
  千島列島は、日本のものです。
  びっくりなさるかもしれませんが、北方四島はもちろ
 んの事・・千島列島も日本のものです。
  ただ、厳しい言い方だが、『ルーズベルトが、馬鹿だ
 った』。
  1945年2月8日、ヤルタ密約の協議が行われた。
  この協議で「ソ連の対日戦争を始めること」について
 話し合われた。
  この協議に参加したアメリカ大統領のルーズベルトは、
 まったく、この協議に関する基礎知識がない状況だった。
  ここが悲しい事だった。
  「有色人種の日本の事だ」と軽く見ていた。
  この様な人間性のルーズベルトだった。
  本当に、キリスト教の有色人種蔑視観というのは多く
 の有色人種の方々へ悪影響を与えている。
  この場のルーズベルトもそうだった。
  まったく、当事者能力が不足しているのであった。
  この協議に同席したアメリカ国務省のソ連専門家・ボ
 ーレンは、戦後に、この場のルーズベルトの交渉が、ま
 ったくお粗末だった事を、「厳しく批判した」。
  最大の、最高の交渉者であるべき、このアメリカ大統
 領のルーズベルトの認識の無さはゼロに等しかった。
  「樺太や千島列島」が、日本領土になっているのは、
 「日露戦争で日本が得た」・・と、間違って認識してい
 た。
  ボーレンは、このソ連との協議のために、「基礎知識
 が書かれた本」を、ルーズベルトへ渡していた。
  しかし、ルーズベルトには、まったく、この基礎知識
 が頭に入っていないという事に、ボーレンは、この協議
 が始まって気づいた。
  ルーズベルトは、この基礎知識の本に、目を通してい
 なかった。
  読んで居なかった。頭に入れていなかった。
  事実関係を、まったく理解していないで、協議に臨(
 のぞ)んでいた。・・オソマツ・・
  ボーレンは、「千島列島は、ソ連へ渡すべきではなか
 った」・・と言っている。
  しかし、悲しいかな・・と言うべきか? 愚かな者た
 ち・・と言うべきか?  この協議を行なうアメリカ側
 に、ほとんどと言って、一人も・・この極東の常識・基
 礎知識を持つものが居なかった。
  アメリカ国務省のこのソ連専門家のボーレンは、つく
 づく、『あれほど簡単に、ソ連のスターリンへ、千島列
 島を渡すべきではなかった」・・と言った。
  このアメリカの『ミス』は・・、例えば、仮の話であ
 るが、立場を代えて話すと・・、日本の代表が、ソ連と
 話し合って・・「今、アメリカの州となっている『アラ
 スカ州は、元は、ロシアのものだったですよね』・・だ
 から、アラスカはソ連のものです」・・と、ソ連へ渡し
 てしまったら・・どう思うか?・・その様なものだ。
  こんな『決定的なミス』が、アメリカによってなされ
 ていたのだった。
  樺太は、ロシア人が来る前から日本人が住み始めてい
 た。
  日本人の領土だった。
  その後、ロシア人も来て・・住み始めた。
  そして、そのうち、ロシア人がどんどん来るようにな
 って、樺太の担当者が幕府へ日本人も樺太に来て住まな
 いと、樺太はロシアのものの様になると言った。
  しかし、日本人は思った様に増えず、そして、幕府は
 ロシアと協議して共同の地とする。
  しかし、その後、樺太・千島列島の交換条約をロシア
 と締結する。
  そして、日露戦争に勝利した日本は、樺太の半分の所
 有権を復活し、南樺太を以前の状態に戻した。
  南樺太が日本の地になった。
  つまり、千島列島は、ソ連へ簡単に渡すような地では
 なかった。
  しかし、アメリカの協議をする面々は、まったく、そ
 の知識がなく、「日露戦争で日本が得たのだ」という間
 違った・大雑把な思い込み、間違い知識しかなく、日本
 の歴史の過程の中で、堂々と日本の固有の領土となって
 いるという理解は無かった。
  薄っぺらな知識と間違った思い込みしかないというア
 メリカの協議をする面々だった。
  協議の最高責任者であるルーズベルトは、「ロシアが、
 戦争で取られたものを取り返すだけのもとだ」と、びっ
 くりするぐらいの、間違いの、薄っぺらな思い込みの中
 で協議をしていた。
  この間違い知識の中で・・ことの処理がなされた。
  だから先に記した逆の話、「アラスカは、ソ連のもの
 だと言ったら、アラスカは、ソ連のものになるのか?」。
  この協議自体が成立していない、「再審ものだ」。
  このヤルタ密約協議が、間違っていると分かっていた
 人が、もう一人いた。
  しかも、この協議の場に、この現場に・・居た。
  それは、駐ソのアメリカ大使・ハリマンで・・、
  ハリマンも、この千島列島についてのアメリカのルー
 ズベルトと、ソ連スターリンの話の中に居て、
  『この話はおかしい』と分かっていた。
  この密約協議で、スターリンは、卑劣にも・・引っ掛
 け発言をしていた。
  スターリンは、しきりに・・「日露戦争で、日本が奪
 った領土を、単に、取り返したいだけだ」・・と、何度
 も、「この引っ掛け発言を」している。
  何度も・・何度も・・この引っ掛け発言をして・・強
 調した。
  基本的に、ルーズベルトに基本的知識が無かったのが
 悲しい事で・・問題なのだが・・、
  その上に、ルーズベルトには、「日本の島など取るに
 足らぬ」の認識があった。
  悲しい事に・・こんな輩が、世界を「不安定にする」
 のだ。
  薄っぺらな知識で、責任だけが大きい輩が・・?
  しかし・・駐ソ大使のハリマンは「偉かった」。
  しっかり・・この点を・・ルーズベルトに「指摘した」。
  ハリマンは、しっかりした知識で、「千島列島は、(
 樺太・千島交換条約で)日本の領土として正式に認めら
 れてます」という知識で、指摘した。
  また、ハリマンは、はっきり、スターリンが、ルーズ
 ベルトをはめている・・欺(あざむ)いていると見てい
 た。
  そして、ルーズベルトに、はっきりと忠告をした。
  しかし、しかし、愚かなるこの大統領は・・言った、
 「ソ連が、日本と戦ってくれるなら、日本の千島列島な
 ど取るに足らぬ、つまらぬ事だ」・・と。
  馬鹿め!
.
  キリスト教は、この宗教が出来た古代の時代に、また、
 この宗教の出来た地である砂漠の地で・・、
  飢えに襲われ、
  そして、どうしようもない時は、
  ナイルの恵まれた流れの地、そして、実りある地に、
 身分をかなぐり棄てて、なりふり構わずに・・逃げ込ん
 だ。
  また、そして、隣国の富を奪いに行ったりして、飢え
 を凌(しの)いだ。
  この様な、自然の厳しさゆえに取ったやむを得ない行
 動でも・・このうしろめたさを・・民は・・、
  キリスト教の神の義があるから・・と、自らを慰(な
 ぐさ)めた。
  そのキリスト教の神の義によって許してもらえるのだ
 と、免罪符と同じ考え方をした。
  戦いとなって他民族を殺す事になっても・・「(キリ
 スト教の)神の義があれば、人を誅しても良い」と考え
 た。
  飢えているのだから・・と、許しがあると・・その様
 な苦し紛(まぎ)れの宗教を創った・・神を創った。
  赦しを作った・・、
  天からの恵みの少ない砂漠の地の・・「このような赦
 (ゆる)しの形をとった宗教=キリスト教という宗教」。
  しかし、現代の・・「恵まれた時代に生きている時」
 も、
  また、「恵まれた地に生きている時」で・・あっても、
  このキリスト教の赦(ゆる)しの教理に洗脳されて、
  また、この教理が一人歩きをし・・悪さをし始める・・
  自分の利を求めて殺戮に及(およ)んでいる。
  「(キリスト教の)神の義」があるから「正義なのだ」
 と言って、
  そして「自分が強く」、そして「自分が大きく」、そ
 して「自分が恵まれて」いても・・、
  「義がある、正義なのだ」・・と、
  「小さい者を、そして弱い国を」攻め、そしてキリス
 ト教の教義「シャローム」を求める・「無条件降伏」を
 要求する。
  シャロームのキリスト教教義の「完全絶滅」のキリス
 ト教の教理にマインド・コントロールされて「原爆投下
 を実行する」。
  それらすべてを、「キリスト教の正義」だとする。
  「不正義な行為を・・正義だ」とする。
  キリスト教によって、「不正義を・・正義と錯覚する」。
  キリスト教に強い信仰心を持っていたアメリカ大統領
 ルーズベルトは、その行為を正義だとして、「許されな
 い行為」を、「悪の行為のことごとくを」、アメリカと
 いう強力な国家を利用して行った。
  自分の考えを正義だとして、アメリカという豊かな国
 と、国民の方々を、その命を利用した。
  多くの武器・弾薬を、アメリカ国民の方々の多くが「
 戦争反対を叫ぶのにもかかわらず」、自分の考えに合う
 国だけに正義だとして、その豊かさをもって、言葉に尽
 くせぬほどの大量の武器・弾薬を、世界中にばらまいた。
  戦争の、戦いの・・輸出をした。
  悲惨な戦争が広まるのは・・当たり前だった。
  考えの違う者たちを悪として、その様な行動をした。
  キリスト教の法王が行なう公会議が、「考えが違う者
 たちを・・異端として・・殺戮したように」
  「異教徒は殺せと・・キリスト教の教義の行動をした
 ように」、弱者を殺戮し、虐げた。
  ルーズベルトのニューディール政策でも、回復しなか
 った頑固な世界恐慌の悪い景気の影響は・・、
  (ルーズベルトのニューディール政策で、アメリカ景
 気は回復したと言われているのはプロパガンダ・嘘宣伝)、
  アメリカの景気回復は、このルーズベルトがやった「
 戦争景気で回復した」。
  武器・弾薬を、アメリカ国内でどんどん作り、世界中
 にばらまいた。
  「戦争を作って・・回復した」とは言えないので、こ
 こでも嘘をついた。
  嘘で固められた行動だった。
  命を亡くなされた方々が、言葉を尽くせぬほど多いの
 に、ただただ、唖然として、怒りが湧く。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年12月26日月曜日

(増補版)473E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月~1888年12月)

題:(増補版)473E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月~1888年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年12月3日、角藤定憲(すどうさだのり)らが、大阪の
 新町座で、壮士芝居を興業した。
  角藤定憲は、壮士芝居の創始者で、中江兆民の門下、
 また、自由党壮士。
  壮士芝居とは、自由党壮士の芝居の意味で、自由民権
 運動の末期に、政府の言論取締政策のなかで、政治宣伝
 と糊口(ここう、細々と暮らしをたてること)の資を得
 るため演劇改良も兼ねて演じたもの。
  1888年12月、角藤定憲 (すどうさだのり) が中江兆民
 の後援を得て大阪で旗揚げしたのが最初。
  そして、1888年12月のこの時、大阪新町座で改良演劇
 として、自作小説を脚色した『耐忍之書生貞操佳人』と
 『勤王美談上野曙』を上演した。
  新演劇の導火線となった。
1888年12月3日、全国を3府43県と改めた(12月4日説あり)
  愛媛県が、香川県から分離して1道3府43県となり、現
 在の47都道府県の区分がほぼ確立した。
1888年、写真印刷業の最初
  アメリカで技術を習得した小川一真が、この年に、日
 本で最初に、写真版印刷業を始めた。
  絵葉書を安価な画像媒体として可能にした背景は、写
 真製版技術の普及である。
  絵葉書で使用されたコロタイプと呼ばれる写真製版技
 術は、1870年代にドイツで開発されたといわれる。
  この方法は、ゼラチンを版面とする写真印刷法で、一
 つの版で、数千枚しか刷れないこと、印刷スピードが遅
 いなどの欠点があるが、高画質なので、書画・水墨画な
 どの美術印刷に適した。
  日本では、アメリカで技術を習得した小川一真が、
 1888年に、写真版印刷業を始めたのが最も早く、
  その後、まもなく、写真版に手彩色をほどこすことも
 行われた。
  横浜では、そうした彩色写真が外国人向けのお土産と
 して作られ、明治20年代にスーベニアル・アートとして
 発達した。
  絵葉書も、その技術と伝統を受け継いでいる。
  横浜の絵葉書作製に携わった会社・個人としては、上
 田写真版合資会社、星野屋、トンボヤ、カール・ルイス
 などがあげられる。
  当時の彩色絵葉書は、写真師が撮影した風景や人物の
 写真を、絵葉書となる紙にコロタイプで墨刷りし、それ
 に一枚一枚手で彩色をほどこすことによって完成した。
  彩色については、まず、プロの画工が絵付けの見本を
 つくり、それにもとづき、内職の女性たちが手彩色の作
 業をおこなった。
  こうした分業により、現在に伝えられる彩色絵葉書が
 つくられた。
  なお、彩色をほどこさないモノクロ絵葉書も多数つく
 られた。
  (横浜開港資料館ホームページを参考にした)
1888年12月6日、第28、第35両国立銀行の合併が許可された。
  1882年、中央銀行である日本銀行が開設され、
  1883年、国立銀行条例の改正、そして、
  1884年、兌換銀行券条例により、紙幣発行は、唯一、
 日本銀行のみが行うようになった。
  そして、この年に、第二十八国立銀行(浜松二十八銀
 行)が、静岡三十五銀行(現在の静岡銀行)に合併した。
1888年12月7日、後藤象二郎が、東海と北陸へ、大同団結
 運動展開のために向かう。
1888年12月8日、牛島謹爾(うすじまきんじ)が、郷里久留
 米を出発、渡米の途に上る(後に、馬鈴薯の栽培に成功
 し「馬鈴薯王」となる)
  牛島謹爾(1864年~1926年) 明治-大正時代の移民。
  1864年(文久4年)1月6日、福岡県久留米で農家の三男
   として生まれた。
  1885年(21歳)上京して、漢学塾二松學舍(現:二松
   學舍大学)に入塾した。
  1888年(明治21年)(24歳)渡米。はじめ、サンフラ
   ンシスコのアメリカ人家庭で働きながら英語を学ぶ。
   のち、カリフォルニア州ストックトンの沼地をひら
   き(苦闘の開拓)、
   良種のジャガイモの大量生産に成功。
   6万エーカーを超す大農園を起こし、「ポテト王」と
   よばれた。
   在米日本人会の初代会長として排日問題の対応にあ
   たった。
  1908年(44歳)結成された在米日本人会の初代会長と
   して、排日運動の緩和につとめるなど、大きな功績
   をあげた。
  1926年(大正15年)3月27日、日本へ帰国する途中、ロ
   サンゼルスで死去。63歳。勲五等双光旭日章。
1888年12月11日、東京美術学校が、上野に設立された。
  東京美術学校が、小石川から上野に移転した。
1888年12月13日、枢密院が、貴族院令の審議を開始する。
1888年12月17日、衆議院議員選挙法と貴族院令の審議が終
 了する。
1888年12月18日、特許条例(明治21年12月18日勅令第84号)
 が公布された。
  1885年(明治18年)4月18日、本格的な特許法である専
   売特許条例(明治18年太政官布告第7号)が公布・施
   行された。
  1888年(明治21年)審査主義を確立した特許条例(明
   治21年12月18日勅令第84号)が公布された。
  第1条
  新規有益ナル工術、機械、製造品及合成物ヲ発明シ又
 ハ工術、機械、製造品及合成物ノ新規有益ナル改良ヲ発
 明シタル者ハ此條例ニ依リ特許ヲ受クルコトヲ得
  特許トハ発明者ニ他人ヲシテ其承諾ヲ経スシテ前項ノ
 発明ヲ製作、使用又ハ販売セシメサル特権ヲ許スコトヲ
 謂フ
1888年12月23日、明石から姫路まで開通。 全通(1901年)
1888年12月27日、陸軍軍医学舎を陸軍軍医学校とあらため
 た。
1888年12月28日、東京府高等女学校(後の東京府立第一高
 等女学校)設置
1888年12月28日、文部省が、学生生徒の健康診断に当たる
 活力検査を開始した。
1888年12月31日、長崎市成立直前の長崎区総町90町、総戸
 数6846戸、人口4万3351人(男2万1517・女2万1843)
 上長崎村・下長崎村の各一部の総戸数1477戸、人口7299
 人
1888年6月23日、フレデリック・ダグラスが、黒人として
 初めてアメリカ大統領候補に指名された。
  フレデリック・ダグラス氏が、『真の黒人奴隷の解放
 者』である。
  この栄誉を、アメリカの白人たちは、黒人の方々の虐
 げ者たちは、リンカーンへ奪うことまでした、そして、
 プロパガンダ(嘘宣伝)までしている。
  そして、フレデリック・ダグラス氏の活躍や歴史を含
 め、
  黒人の方々の解放までの戦いが、アメリカ白人社会に
 よって、封印されて来た。
  卑劣な事である。
  自分たちの汚れた歴史を隠し、蓋(ふた)をしようと
 して来た。
  しかし、最近、黒人の方々の解放運動などの歴史が、
 少しづつ、明らかになって来ている。
1888年11月6日、第26回 アメリカ大統領選挙
.
  (今日の言葉)
.
  題:自由主義陣営と共産主義陣営の・・勢力圏取り合いの話に既に移っていた。
    アメリカの話が、嘘なのだと、作り話なのだと、この様な史実からも・・立証された・・、
.
1944年10月9日、夜9時、イギリス首相のチャーチルは、モ
 スクワのクレムリンで、スターリンに会っていた。
  イギリス外相のイーデンが・・同席していた。
  この頃は、完全に、第二次世界大戦は終わったとして、
 「戦いの後について」の駆け引きが行われていた。
  日本は、完全な「死に体」で、もう「降伏状態」で、
 話題にも上がらなかった。
  そして、戦いの後の有利な形を作りたいとして、ソ連
 は、第二次世界大戦を一緒に戦った仲間という意識から
 完全に違った体制の国・共産圏の国として、違う世界の
 離れた国として存在し、
  大戦の終結後の・・対立する新しい相手として存在し
 ていた。
  日本に・・原爆を投下して、早く戦争を終わらせたい
 と、アメリカは思ったから、広島・長崎に原爆を落とし
 たなどという話は・・その様な感覚はまったく無く・・
 すでに、その様な話は・・通り越し・・そして、終わっ
 た話となっていた。
  つまり、この話は・・アメリカの「後からの作り話だ」
 ということが、この時のイギリスとソ連の話し合いにお
 いても・・はっきりと証明される。
  話は・・自由主義陣営の領土(地域)をいかに広くと
 るか?・・に、あった。
  如何に・・共産圏の占領区域(領土)を狭くするかに
 あった。
  だから、先の話は・・「アメリカの幼稚な嘘」だった。
 「戦争を早く終わらせたかったから、原爆を投下した」
 という話は「嘘で、浮いた話」となっていた。
  この時、チャーチルは、事務的な話し合いの後、頃合
 いを見て、突然、紙と赤鉛筆を取り出した。
  そして、スターリンへ渡した紙には、「ルーマニア:
 ロシア90パーセント、ギリシャ:イギリス90パーセント、
 ロシア10パーセント、ユーゴスラビアとハンガリー:双
 方50パーセントづつ」・・などと、書かれていた。
  スターリンは、すぐに、青鉛筆で、自分の考えを書き、
 突き返した。
  しばらく・・沈黙となった・・、
  そして、反省したのか・・チャーチルが言った・・、
  「数百万人の運命を、こんな風に扱うのは・・いかが
 なものか・・」・・、
  「これは、焼き払う」・・と。
  スターリンは、「いや、保管しておいてくれ」と、平
 然と言った。
  この後も・・当事者を抜いた領土の・・勢力圏の取り
 合いは続いて行った。
  ルーズベルトは、大統領選挙の最中だったので欠席し
 ていた。
  自由主義陣営と共産圏に分断されて行く。
  この様に、武力で勝った者たちには・・、日本が与え
 た「東南アジアの国々の独立の様な事」は、この場には
 無かった。
  勝った者が、「その上に立つという意識」しかなかっ
 た。
  欧州分断だけがあった。
  ルーズベルトがそそのかした東アジアの領土取りで火
 が付けられたスターリンは・・、
  東アジアとともに、東欧の領土欲・制圧・共産圏化に
 向けて圧倒的な行動を起こして行った。
  そして、当のルーズベルトは、東欧の共産圏化に対し
 ても、スターリンの勢いにあっけにとられたのか、気が
 抜けたのか、対抗措置を取らず、取ることをせず、取る
 ことが出来ずにか・・東欧は共産化して行った。
.
  そして、その・・日本は・・、
.
1944年10月24日、戦艦武蔵が撃沈した。
  起工:1938年3月29日
  進水:1940年11月1日
  排水量:満載、72,809トン
  全長:263.0m
  速力:27.46ノット
  乗員:約3,300名
  兵装:46㎝(45口径)砲3連装3基9門ほか
  搭載機:零式水上偵察機・零式観測機他、最大7機
      カタパルト2基
  建造所:三菱重工業長崎造船所
  運用者:大日本帝国海軍
  2015年3月2日、シブヤン海海底で発見された。
.
1945年4月7日、戦艦大和が撃沈した。
  起工:1937年11月4日
  進水:1940年8月8日
  就役:1941年12月16日
  排水量:満載、72,809トン
  全長:263.0m
  速力:27.46ノット
  乗員:3,332名(最終時)
  兵装:45口径46㎝3連装砲塔3基ほか
  搭載機:7機、カタパルト2基
  建造所:日本、呉海軍工廠
  運用者:大日本帝国海軍
  因みに、戦艦武蔵は、大和撃沈にさかのぼること、約
 5ヶ月半前の1944年10月24日に撃沈されていたが・・、
  日本が、真珠湾攻撃をした頃は、航空機・戦闘機で、
 軍艦などの艦船は沈められないと言われていた。
  しかし、日本は、この真珠湾攻撃の時、戦闘機に、魚
 雷を抱かして、海へ投入する攻撃方法を生み出した。
  日本人の叡智が、この攻撃法を生み出した。
  海への投入角度などの研究と訓練を重ね、艦船撃沈の
 効果ある攻撃法だとして確立した。
  それによって、真珠湾攻撃が行なわれ、航空機による
 攻撃が、絶大なる戦果を上げた。
  しかし、戦争末期、不沈艦として戦場に投入された「
 大和」「武蔵」は、
  その建造の秘密情報をすでに知っていたアメリカは、
 その攻撃法を練った。
  結局、やったことは、日本と同じだった(真似)。
  戦闘機に魚雷を抱かせ、訓練を重ね、日本の真珠湾攻
 撃と同じように、戦闘機からの魚雷によって「大和」や
 「武蔵」の戦艦を撃沈した。
..
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2016年12月24日土曜日

(増補版)472E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年11月~1888年12月)

題:(増補版)472E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年11月~1888年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年11月20日、 「大阪毎日新聞」の発刊
  1876年(明治9年)創刊の「大阪日報」を、1888年(明
 治21年)「大阪毎日新聞」と改題した。
  大阪日報をあらため、大阪毎日新聞が創刊された。
  当初、東海散士主筆のもと、政治色の強い紙面を構成
 したがふるわず、しだいに穏和な論調に。
  1882年、筆禍対策の「身代り紙」として興された「日
 本立憲政党新聞」に事実上受け継がれた。
  1885年、「大阪日報」に題号を戻し、いったん休刊の
 後、
  1888年11月、大阪実業界の支援により「大阪毎日新聞」
 として再発足した。
1888年11月26日、大隈重信(黒田内閣外相)が、大審院外
 国人判事任用の条約改正案を、この日、ドイツ公使に手
 渡し、以後、各国公使にも手渡す。
  大隈は、薩摩藩出身の第2代内閣総理大臣・黒田清隆に、
 条約改正を任されるという体制にあった。
  大隈は、井上のような国際会議方式は日本にとって不
 利であるという認識に立って、
  列国間の利害の対立を利用する個別交渉の方針を採用
 した。
  それにより、1888年11月30日に、駐米公使兼駐メキシ
 コ公使の陸奥宗光が、メキシコとの間に日墨修好通商条
 約を締結することに成功した。
  これは、アジア以外の国とは初めての完全な対等条約
 であった。
  これにより、メキシコ合衆国国民は、日本の法権に服
 することを条件に、内地開放の特権が与えられた。
  陸奥は、この後、すぐにアメリカとの交渉に乗り出し
 た。
  この時は、調印に至らなかったが・・、
  以後の流れは・・アメリカと新条約を調印。
  ドイツ・ロシアとも調印(発効せず)
  イギリス誌「タイムズ」が大審院に外国人判事を任用
 する大隈草案を掲載した(1889年)
  この後、日本国内で違憲論が起きた。
  そして、大隈遭難事件が起きる(大隈外相が、玄洋社
 の前社員の爆弾テロで負傷した)
  条約改正交渉は中止となる。
1888年11月26日、枢密院が、衆議院議員選挙法の審議を開
 始した。
  1888年4月に、憲法草案を審議するために枢密院が設け
 られたが、枢密院は、天皇陛下の最高顧問機関だった。
  条約改正交渉で、伊藤首相の退任を要求する声が高く
 なり、伊藤博文は枢密院議長に転出した。
  そして、黒田清隆が首相に就いた。
  そして、この年・1888年6月~翌年・1889年1月まで、
 枢密院での審議が行われて、大日本帝国憲法と、その付
 属法、及び、皇室典範が決められた。
1888年11月26日、東京(築地)に、海軍大学校が開校された。
  日本海軍の上級将校教育機関。
  今・現在、海上自衛隊には、海上自衛隊幹部学校があ
 り、これに相当する。
  1888年7月14日、勅令第55号により海軍大学校官制が
 制定され、
  1888年8月28日、東京・築地旧海軍兵学校生徒館に開校。
  初代校長は、海軍省軍務局長井上良馨が兼任し、
  1888年11月26日、授業が開始された。
1888年11月30日、日墨修好通商条約(にちぼくしゅうこう
 つうしょうじょうやく)
  条約改正後、最初の締約である日本・メキシコ間に対
 等条約が成立した。
  はじめての対等の通商条約で、治外法権が無く、関税
 自主権のある、平等条約であり、メキシコにとっては、
 アジアの国と初めて締結した条約であった
  ワシントン在勤の日本全権陸奥宗光と、駐米メキシコ
 公使ロメロとの間で協議された(大隈重信外相)。
  この頃、大隈外相は、大審院に外国人判事を登庸する
 などを骨子とする新通商条約案を各国公使に通告した。
  この頃は、安政の五カ国条約として、アメリカ(日米
 修好通商条約)、オランダ(日蘭修好通商条約)、ロシ
 ア(日露修好通商条約)、イギリス(日英修好通商条約)、
 フランス(日仏修好通商条約)と不平等条約の状態にあ
 り、李氏朝鮮とは逆不平等条約(日朝修好条規、日本が
 有利)を結んでいて、
  平等条約は、清と結んでいる日清修好条規のみだった。
1888年11月、初の少年雑誌「少年園」が創刊した。
  最初の本格的児童雑誌といわれている。
  文部省で教科書作成にあたった山県悌三郎を主筆に、
 教育・啓蒙を発刊の主旨とした。
1888年12月2日、東京人造肥料会社が、過燐酸石灰肥料の生
 産を開始した。
  1887年4月 高峰譲吉博士が、イギリス留学中に化学肥
 料製造工場を見学した内容を日本に紹介した。
  これを受けて、渋沢栄一(第一銀行創業者)、益田孝
 (当時の三井財閥有力関係者)など当時の財界の首脳が
 発起人となって前身である東京人造肥料会社を設立した。
  別史料:1887年2月、東京人造肥料会社(のちの東京人
 造肥料株式会社)設立 (日産化学ホームページ)
  別史料:1887年2月、東京人造肥料株式会社の設立準備
 会が発足し、社長に渋沢栄一、技師長兼製造部長に高峰
 譲吉の就任が内定する。
  1887年3月、高峰は、農商務省に在籍したまま人造肥料
 製造機械及び原材料買い付けのため欧米に出張する。
  1887年11月、高峰が帰国し、
  1887年12月、東京人造肥料株式会社が正式に設立され、
  1888年9月から本格的な製造が開始された。
  因みに、同社は、日産化学工業株式会社として現在に
 至っている。
  (参考)に、高峰は、1888年3月、5年間、勤務した農
 商務省を退職し、研究者県起業化としての道を本格的に
 歩むことになる。
  渋沢は、「元来は学者であるけれども、一面において
 事業を処理していく才能を持っている」と、高峰の企業
 家としての能力を高く評価した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:熱烈なキリスト教信徒だった「 ルーズベルトの評価 」
    その行動は、大きくキリスト教的考え方に影響されていた。
.
1945年4月12日、ルーズベルト大統領が亡くなった。
  ルーズベルトは、アメリカでも、「戦争を引き起こし
 た張本人」と描く書籍が、今でも、毎年の様に書店に並
 ぶ。
  また、ルーズベルトが、脳出血で倒れ、結局、これが
 原因で亡くなるのだが、
  この時、ルーズベルトの傍らには、ずーっと、愛人が
 いた。
  この事は、20年間、アメリカでは秘密にされた。
  妻への連絡も遅れるという異常な状態だった。
  ルーズベルトは、1945年4月12日、午後1時15分、倒れ、
 その日の午後3時35分に、こと切れた。
  63歳だった。
  約10時間の後、ソ連のアメリカ大使館に伝えられ、
  ソ連のアメリカ大使は、ソ連側へ緊急電話を入れ、そ
 の事情を伝え、スターリンへの会見を申し込んだ。
  その7時間後、クレムリンを訪れたアメリカ大使に会う
 と、スターリンは、自ら出迎える態度を示し、
  わざわざドアまで足を運び、アメリカ大使を驚かせた。
  スターリンは、悲嘆にくれた表情で、アメリカ大使の
 手を30秒以上も握りしめ、お悔やみの言葉も早々にして、
 スターリンは言った・・、
  「新大統領の下でも、アメリカの政策は変わらないの
 でしょうね、私は変わらないと信じる」・・と。
  政策とは・・、ヤルタ合意の事であって・・、
  スターリンが、ルーズベルト大統領から言われている、
 「日ソ中立条約を破棄して、日本へ戦端を開き、日本の
 領土を取る」と促され、そそのかされたことなどの事だ
 った。
  アメリカは、そのソ連の行動を認めるという事だった。
  スターリンは、繰り返し、繰り返し、そのことを確か
 めたのだった。、
1945年4月12日、ルーズベルトは、アメリカのジョージア州
 の静養地で死に至る脳出血に倒れた。
  愛人のラサフォードが付き添っていた。
  妻のエレノアは、大分、時間が経った、その日の深夜
 になって、やっと、そのことを知った。
  エレノアは、従姉妹(いとこ)のローラとは中が悪か
 った。、
  エレノアは、その中の悪い従姉妹のローラに、ルーズ
 ベルトが倒れた時の様子を聞いた。
  ローラは、復讐の意味を込めて、エレノアに、愛人の
 存在を告げた。
  エレノアは表情一つ変えなかった。
  しかし、エレノアの長女・アンナは、父親と愛人の関
 係を、すでに、知っていて、その事もこの時、同時に知
 ったのだが、エレノアは、この長女に裏切られた方に、
 大きなショックを受けた。
  ルーズベルトと言うと「ニューデール政策」が有名だ
 が、この政策の柱になった失業者入植運動「アーサーデ
 ール」は、エレノアの発案だった。
  妻のアイデアを、ルーズベルトは拝借したのだった。
.
  そして、次の話・・
  追い詰められた日本、2ヶ月後に、日本は降伏するが・・
  日本は、その様に追い詰められている日本であったが・・
  アメリカ兵を丁寧に葬るという日本だった。
.
1945年6月12日、静岡空襲、その時の犠牲のアメリカ兵を弔
 う日本人。
  アメリカが、国際法違反の一般市民をターゲットにし
 た。
  静岡市民をターゲットにしての空襲を行なった。
  日本は、真珠湾攻撃の時、一人も、アメリカ国民の
 方々(アメリカ市民)への攻撃や空襲を行っていない。
 殺していない。
  しかし、このアメリカは、本当に、無制限に、日本の
 一般市民を攻撃し、殺戮し続けた。
  この静岡空襲の時、アメリカのB29爆撃機が、静岡上
 空で衝突事故を自軍機同士で起こし、墜落した。
  静岡の優しい日本の国民の方々は、この事故の墜落で
 亡くなったアメリカ兵を賎機山(しずはたやま)に葬り、
 慰霊碑を建立し、1972年(昭和47年)から、毎年、その
 アメリカ兵の霊を慰める慰霊祭を開催している。
  今では、アメリカ軍も参列している。
  また、よく嘘を付くルーズベルトが、「真珠湾攻撃は
 『奇襲』だと嘘を言った」が・・、
  (因みに、ルーズベルトの言葉に、『嘘をついたって
 いいのだ』という言葉がある)
  この事も、おとなしい日本人は、静かにしている。
  奇襲ではない。
  アメリカ国民の方々は、今でも真実が知らされていな
 いで、「真珠湾攻撃は、奇襲だった」と信じている。
  ルーズベルトのプロパガンダ(嘘宣伝)だと知らない。
  この逆に、日本が、プロパガンダを言うことはない。
  (参考):
  静岡大空襲は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)
 6月19日深夜から20日未明にかけて、アメリカ軍のB-29
 爆撃機137機により旧静岡市(現在の静岡市葵区・駿河区)
 の市街地が受けた空襲。
  マリアナ諸島から飛び発ったアメリカ軍第314航空団の
 空の超要塞と名付けられたB-29大型戦略爆撃機137機は、
 伊豆半島波勝崎付近から本土上空に侵入、伊豆半島上空
 を北上し、富士山手前上空で旋回し静岡市上空に向かう
 が、一旦静岡市街上空を通過し、御前崎上空から再び静
 岡市街上空へと向かった。
  3時間余りの爆撃で投下された焼夷弾は13,211発、被害
 は死者1,952名余、負傷者5,000名余、焼失戸数26,891戸
 に上った。
  この静岡大空襲を含め、旧静岡市は1944年(昭和19年)
 暮れから終戦迄に合計26回の空襲を受けている。
.
  そして、次の (今日の言葉)
.
  題:アメリカは、世界を繰る・・
    そして、NHKも「フィクションだ」「作り話だ」「嘘話だ」と言い訳をして、繰る・・
.
1909年、リーという中国系の男に繰られるアメリカ、そし
 て、そのアメリカが、世界を繰る。
  この年、アメリカ社会に恐怖を与える本が出版された。
  この本を書いた男が、ホーマー・リー。
  この男は、アメリカのコロラド州に生まれた作家・冒
 険家・戦略家。
  ロサンゼルスの中国人社会やチャイナタウンで影響を
 受けた。
  ルーズベルト政権支援の中国貿易の代表にもなった。
  (ルーズベルトは、「私の先祖は、中国貿易に従事し
 ていて、私は、中国人に親しみがある」と言い、
  「そんな私が、日本をやっつけようというスティムソ
 ンの提案に同意しないわけがない」と発言していること
 を想起させる)。
  リーは、中国要人が、軍資金が欲しいとアメリカに来
 ると仲介し、便宜を図る事もした。
  中国の孫文の側近として居たこともある人物。
  そして、この男=リーは・・、
  アメリカが、移民した日本人を虐(しいた)げている
 時・・、変な空想小説を書いた。
  (そして、アメリカは、1924年に至り、排日移民法を
 つくり、日本人移民を排除している)
  その本は、「アジア系民族によって滅ぼされるイギリ
 ス」についての空想をデッチアゲた小説をだった。
  日本人へ向けられたアメリカにおける日本人への蔑視
 と虐待があった。
  この様なアメリカの風潮を煽った小説だった。
  しかし、リーは、自分さえ儲かればよいと、書いては
 いけない事まで書いたのが「この本だった」(中国工作
 員だったらしい?)。
  だが、しかし、この男=ホーマー・リーは、この本の
 他にも、1909年にも、日本を貶(おとし)める本を書い
 ていた。
  この本は、ベストセラーとなり、大変、儲けたリーは、
 味を占めた。
  同じことを、第二次世界大戦直前にもした。
  1909年の日露戦争後の時も、アメリカ社会に大きな影
 響を与えていた。
  リーは、第二次世界大戦の直前にも、この様な小説を
 書いた。
  本の題は、「無知の勇気」という。
  結論的に言うと、歴史的事実と何も関係ない作り話の
 本で、
  「日本が、フィリピン、ハワイを占領し、開戦の1ヶ月
 後には、アメリカのロサンゼルスに日本軍は上陸すると
 いう、とてつもなく強い日本軍を描き、
  10ヶ月以内には、ワシントンに向けて進撃して行く」
 という、桁ちがいの嘘話となっている。
  アメリカの方々を、「日本への恐怖に突き落とした」。
  その恐怖からベストセラーとなり、本を売ろうという
 魂胆が見える本だった。
  しかし、これは、こんな個人的な儲け話以上に、問題
 の社会現象を作り上げて行った、日本・・恐ろし。
  この事は、当然、ルーズベルトも知っている事だった。
  これと似た、社会を繰ろうという行為をNHKがやっ
 ている。
  巨大な放送媒体を使って、日本全国の茶の間に入って
 行くNHKが、「日本を、視聴者の方々を繰ろう」とし
 ている。
  気に入らない政権を倒そうとするし、
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教の「巧妙な
 る伝道行為」も多くしている。
  今・現在でも、ずーっと、キリスト教に偏するNHK
 は、社会を繰ろうと作り話を放送している。
  例えば1例、(読売新聞、2016年12月15日)でも報じ
 ていた。
  キリスト教に偏するNHKは、視聴率の良い日曜大河
 ドラマで、キリスト教の「巧妙なる伝道行為」を数多く
 行って来たが、歴史的事実などは無視してやって来たが、
  しかし、NHKは、『歴史的事実は尊重している』と
 言って来た。
  しかし、上記の読売新聞で、それまで言って来たNH
 Kの「論理は崩れた」。
  来年(2017年)放送予定のNHK・日曜大河ドラマ「
 井伊直虎」の、「基本的根拠が崩れる新史料」が見つか
 った・・という、読売新聞の報道だった。
  今まで、時代考証を・・ドラマが、歴史的事実と違っ
 ていないというチェックの考証を・・
  東京大学などの権威ある学者に依頼して、
  「歴史的事実と違わないようにしています」という論
 理だった・・が、崩れてしまった。
  また、視聴者から、NHKに多く寄せられる「史実を
 無視しているではないか」というクレームや、
  「史実と違う」という指摘に対して、
  「時代考証をしっかりしています」と答えて来たNH
 Kだった。
  どうしても違ったという場合は、「ドラマを面白くす
 るために、脚本家が、その様にした」・・と、
  脚本家という「他へ、責任を転嫁」して来たNHKだ
 った。
  しかし、この「井伊直虎」の場合は、これからの・・
 直後の・・放送予定であり・・、
  新史料発見が、放送予定直前というということで、ニ
 ッチモサッチモ行かない時であり、
  しかし、この新史実は、根本的な差異であって、
  ドラマの根底が崩れる去るという大きな問題だった。
  従来、「女性と考えられてきた『井伊直虎』が、男性
 だった」というのである。
  女性と男性という、主人公がまったく違うという根本
 的な重大な差異なのである。
  根本的な違いによって、ドラマ全体の根底が、ひっく
 り返る大問題が、急浮上したのである。
  新しいこのドラマの公開は、1か月未満後に迫っている。
  この時の、NHKの説明は・・、
  「ドラマは、あくまでフィクション(作り話し、嘘話)
 ですから、影響はありません」・・と言った。
  あれほどNHKは、「NHK史観」で、時代を捻じ曲
 げ、キリスト教に有利な話をでっち上げ、
  キリスト教の「巧妙なる伝道行為」をしてきたNHK
 が、「史実ですから」と言ってきたNHKが、
  ここに来て・・「作り話ですから」と言った。
  視聴者の方々は・・今までのNHKの口から出まかせ
 の話に、史実と錯覚して来た。
  事実と錯覚して来た。
  視聴率の高いこのドラマを利用して、この様な事ばか
 りして来た。
  フィクション・作り話・嘘話なら、このドラマの放送
 開始と最後に・・、
  「このドラマはフィクションであり、作り話であり、
 史実に基づいて居りません」とはっきりと視聴者の方々
 へ知らせよ!
  事実ではありません!と、視聴者の方々へ知らせよ!
  NHKは、この他にも多くの問題を抱える問題放送局
 となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年12月22日木曜日

(増補版)471E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年11月)

題:(増補版)471E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年10月31日、議員法の審議が終了する。
1888年10月、勝海舟が、正三位に叙せられる(氷川清話)
1888年10月、コンドル設計の宮内省庁舎と、木子清敬設計
 の皇居正殿・豊明殿が完成した。
1888年10月、長崎にコレラ流行する。
  「長崎くんち」の奉納踊りが中止となる。
1888年10月、勝海舟の「海軍歴史」編纂(へんさん)成っ
 た。
  25巻(明治22年海軍省出版)(氷川清話)
1888年11月1日、山陽鉄道の兵庫駅~明石駅間が開通した。
  同時に開業した。
  旅客と貨物の取り扱いを開始。
1888年11月1日、馬場辰猪(ばばたつい)が、アメリカで死
 去した(1850年6月24日~1888年11月1日) 
  明治期の自由民権家で、土佐藩(高知県)藩士の馬場来
 八虎の次男として生まれた。
  江戸の藩費留学し、福沢諭吉(慶応義塾)に学び、
  1870年(明治3年)20歳、藩命によりイギリスに2回留
 学(1878年まで・・途中、一時帰国)、英国法(法学な
 ど)を修めた。
  滞英中、小野梓らと日本学生会を組織した。
  帰国後、小野らが結成した文化啓蒙団体(共存同衆会)
 に参加して多数の講演を行った。
  これを「共存雑誌」に発表した。
  1881年、31歳、大石正巳、末広重恭らと国友会を組織
 して、長野、山形、新潟などに遊説し、自由主義思想の
 啓蒙につとめ、
  1881年(明治14年)10月、自由党創立とともに常議員
 に選ばれ、同党の理論的支柱として活躍した。
  しかし、1882年(明治15年)板垣自由党総理の外遊に
 反対し常議員を辞任、
  1883年(明治16年)9月、自由党を脱党した。
  1885年(明治18年)11月、爆発物取締罰則違反容疑で
 逮捕されたが、
  1886年(明治19年)6月、無罪放免となり、まもなくア
 メリカに渡った。
  全米各地で、日本の実態を紹介する講演や明治政府の
 専制ぶりを批判する論説を発表するなど精力的な活動を
 続けたが、
  1888年(明治21年)夏以降、体調をくずしペンシルベ
 ニア大学病院に入院、満38歳で客死した。
  遺著『日本政治の状態』の表紙にみえる「頼むところ
 は天下の輿論、めざす仇は暴虐政府」の言葉は、彼の執
 念を示すものとして有名。
  <著作>『馬場辰猪全集』全4巻
  <参考文献>安永梧郎『馬場辰猪』、西田長寿「馬場辰
 猪」(明治史料研究連絡会編『民権論からナショナリズム
 へ』)、萩原延寿『馬場辰猪』
1888年11月1日、松旭斎天一(しょうきょくさいてんいち)
 の浅草文楽座での万国第一等手品が評判となり、60日間、
 興業が行われた。
  奇術師・松旭斎天一は、越前福井藩の陪臣・牧野海平
 と妻音羽の長男として生まれた。本名:服部松旭。
  家断絶により、叔父の唯阿が、住職を勤める阿波国(徳
 島県)西光寺へ移住した。
  同寺で孤児となり仏門に入ったが、宗教の奇跡を自作
 自演して破門にされた。
  大道芸の手品師となる。
  1878年(明治11年)イギリス人・ジョネスと共に上海
 へ渡り、西洋奇術を学ぶ。
  大仕掛けな舞台奇術を志し、
  1888年(明治21年)浅草の文楽座で水芸、大砲芸や宗
 教劇奇術で成功した。
  欧米巡業(1901~05)後は、歌舞伎座をはじめ、全国の
 大劇場に出演した。
  大道芸の手品を近代的な舞台奇術にまで発展させた。
  <参考文献>青園謙三郎『松旭斎天一の生涯』
1888年11月5日、日本画家:狩野芳崖が没した(61歳)
  1828年(文政11年)1月13日、長門(ながと)国(山口県)
   長府藩の御用絵師・狩野派の四代董信(ただのぶ)(
   晴皐)の長男として生まれた。幼名:幸太郎。
   家は、代々、毛利家の御用絵師をつとめていた。
   狩野派の絵師の父に手ほどきを受けていた。
   また、同家の菩提寺である覚苑寺の霖竜和尚に参禅、
   大きな精神的感化を受ける。
   後に、「芳崖」の画号のもとになった「禅の極致は
   法に入りて法の外に出ること(法外)」という言葉も、
   霖竜から与えられたものという。
  1841年、(13歳)この頃より、松隣,松林と号した。
  1846年(弘化3年)18歳、江戸に出て、木挽町、狩野勝
   川院雅信(ただのぶ)に入門し、たちまち頭角を現
   した。
  1849年(21歳)この頃、勝海雅道(ただみち)の称を
   許された(師の一字を受けて勝海と号した。
  1849年(21歳)芳崖と同日入門の橋本雅邦(がほう)と
   ともに、その英才を謳(うた)われ、竜虎とうたわ
   れた。
   佐久間象山(しょうざん)にも学んで、進取の気性に
   富み、狩野派の粉本主義に疑問を抱いて、従来の狩
   野派の筆法に西洋画の画法を取り入れた。
   新しい日本画の領域を開拓した。
   独創を試み、危うく破門されるということもあった。
  1850年(22歳)この頃、塾頭となる。
  1852年頃(24歳)師の名から一字を得て雅道と号して
   独立、長府藩の御用絵師となる。
  1855年(安政2年)27歳(30歳ころともいわれる)、帰
   郷、雪舟・幸村らの作品に傾倒し、この頃から、芳
   崖と号した。
  1860年、32歳、ふたたび江戸に出て、江戸城本丸再建
   に際し、大広間天井画を描く。やがて江戸払いとな
   って郷里に戻る。
   幕末は、国事に奔走し,馬関海峡の測量図などを描く。
  1871年(明治4年)43歳、廃藩置県で禄(ろく)を失った。
   そのため、生活に困窮し、他業に転じるなど辛酸を
   なめた。
  1877年、49歳、上京、精工社で輸出用陶器や漆器の下
   絵描(か)きなどに従事したが、貧窮を極めた。
  1879年頃(51歳)「犬追物図」制作のため島津家雇と
   なる。
  1882年、54歳、アーネスト・フェノロサの知遇を得た。
  1884年、56歳、第2回内国絵画共進会に出品した『桜下
   勇駒図』『雪山暮渓』が、フェノロサに認められ、
   フェノロサを介して岡倉天心とも親交を結び、
   鑑画会に加わって新しい日本画の創出に力を注ぐこ
   とになった。
   図画調査会雇となる。
  1885年、57歳、第1回鑑画会大会で「伏竜羅漢図」が3
   等賞となった。
   文部省図画取調掛雇となり、フェノロサや天心と力
   をあわせて東京美術学校の創設に努めた。
  1886年(58歳)第2回鑑画会大会で一等賞を受賞した
   『不動明王図』(重要文化財)は、西洋の絵の具を
   用いた色調が鮮やかで、構図の斬新(ざんしん)さと
   ともに、新しい表現を切り開く強い意志をうかがわ
   せる。
   鑑画会の中心作家として、フェノロサと二人三脚で
   日本画の近代化を進めた。
   代表作は、この晩年の数年間に集中しており、ここ
   に至って、狩野派、室町水墨画、維新後の明清画研
   究に、遠近法や西洋的色彩などの西洋絵画研究が加
   えられ、それらが集大成された。
   「不動明王図」「岩石図」「暁霧山水図」(いずれも
   東京芸大蔵)のほか、絶作「悲母観音図」(東京芸大
   蔵)は、日本画近代化の第一段階における記念碑的作
   品ともなっている。
   フェノロサ、ビゲローらとの関係から、アメリカの
   ボストン美術館、フィラデルフィア美術館、フリア
   美術館にも作品が収蔵されている。
   図画取調掛雇となる。
  1888年(60歳)同校の日本画科主任教授に内定したが、
   1889年の翌年の開校を待たず(開校の3ヶ月前)の
   1888年(明治21年)11月5日、60歳で没した。
   死の直前に完成した『悲母観音』(重要文化財)は、
   近代日本画の代表作の一つとして名高い。
   この他の代表作として「大鷲」
   『河北倫明・高階秀爾他編『日本の名画1 狩野芳崖』
1888年11月15日、天竜川に鉄橋架設が竣工した。
  早川橋梁(出山鉄橋)
1888年11月16日、今日新聞と歌舞伎新報を吸収して、都(
 みやこ)新聞が創刊された。
  1884年9月、小西義敬により夕刊紙「今日新聞」として
   東京で創刊された。
   初代主筆は、仮名垣魯文として、夕刊紙『今日新聞』
   が創刊され、
  1888年11月、黒岩涙香主筆の朝刊紙『みやこ新聞』と
   なり
  1889年2月、『都新聞』と改題(朝刊紙となる)
   小説や歌舞伎・花柳界関係、演劇・文芸記事に特色
   があって下町好みの新聞であったが、
  1892年,改進党の楠本正隆の買収後、政治的には改進
   党寄り,後には、政友会系といわれたが、
   党派色は薄く、日露講和反対運動で,マスコミの大
   勢に従った程度にとどまった。
   内容は、歌舞伎、花柳界などの通俗記事と、小説の
   充実を本領とし、黒岩涙香の翻案小説、伊原青々園
   の探偵実話、劇評などにより、東京下町を中心に読
   者を集めた。
  1942年、新聞事業令 (1941年12月、公布) により『国
   民新聞』と合併、夕刊地方紙の『東京新聞』となっ
   た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:第二次世界大戦の原因を作ったスティムソン(アメリカの国務長官)
.
1933年1月9日、この日から約2ヶ月の後に、ルーズベルトが
 大統領に就任(1933年3月4日に、第32代大統領となる)
 するのだが、
  この日に、スティムソン(ルーズベルトの前の大統領
 のフーバー大統領の国務長官)が、ルーズベルト宅に訪
 れた。
  ルーズベルトとスティムソンは、これが、最初の出会
 いだった。
  スティムソンは、自分の考えを伝えた。
  ルーズベルトは、スティムソンの話を聞き、スティム
 ソンの考えに全面的に同意した。
  そして、ルーズベルトは、後悔したように言った・・、「
  もっと早く(日本への経済制裁を)実施させるべきだ
 った」・・と。
  さも、「失敗した」というように舌打ちをした。
  そして、「日本は、いずれ屈服するだろう」と言った
 (スティムソン日記)。
  ルーズベルトは、このスティムソンの考えの継承を、
 アメリカ国内、および、世界に発表した。
  しかし、スティムソンと違ったところは、「スティム
 ソンが、日本への経済制裁をしても、戦争につながらな
 い」と考えていたのに対し、
  ルーズベルトは、「必ずしも、戦争につながらない事
 もない、戦争に至ることもありうる」と考えていた。
  そして、側近のタグウェルから、「戦争の危険」を言
 われると・・、
  「戦争になるなら、早い方がよい」と、戦争を避けよ
 うという意思はないという所を見せた。
  ルーズベルトは、完全にアメリカが強い状況にあるか
 ら、早いうちに「力で屈服させよう」という路線の中に
 あった。
  話し合って、とことん話し合って、「卑劣な武力行使
 である戦争」は、避けようという姿勢ではなかった。
  ルーズベルトのこの軍事優先の考え方に対し、抗議の
 手紙が来た。
  この事について、妻のエレノアへ「日本が悪いと責任
 を転嫁した」。
  その様な捉え方で、話し合いではなく、戦争に至るの
 はやむなしと考える、思考停止しているルーズベルトだ
 った。
  「日本が、誇大妄想に取りつかれているから」と、思
 考展開して、ルーズベルトは、日本を捉えていた。
  その日本に対する「固定的捉え方・固定観念」から、
 ルーズベルト自身は、「戦争行為の実施・・やむなし」
 の考えに取りつかれていた。
  妻のエレノアによると、ルーズベルトは、ウッドロー・
 ウィルソン政権(第28代大統領、1913年3月4日~1921年
 3月4日)の海軍次官補だったころから、
  ルーズベルトは、ハワイやグァム島や太平洋の島々に
 ついての日本に対する脅威や安全に不安を持っていた。
  そして、話し合いで解決するという考え方より、「日
 本を仮想敵国と見て叩く」ルーズベルトが、そこに居た。
.
1933年1月9日、ルーズベルトが大統領になってない、約2ヶ
 月前のルーズベルトの前の大統領であるフーバー大統領
 (第31代大統領)の国務長官であるスティムソンは、ル
 ーズベルトの「ある言葉」を聞いて思った・・、
  「(ルーズベルトは)いわゆる侵略による領土の変更
 を認めないという(前政権の)原則を受け継ぐことを明
 らかにした。
  ‶侵略国〟というあいまいな定義だけで、国際紛争にお
 ける中立の立場を捨て、一方の国に制裁を加えるという
 誤った政策を意味している。
  極東に大きな戦争を招く政策を支持したのと同じこと
 だ。
  いずれ米英が、日本に対し戦争を仕掛ける事になるか
 もしれない」・・と。
  スティムソンは、アメリカが、イギリスと共に、日本
 との戦争になると感じた。
  ルーズベルトは、この様に大統領になる前から、日本
 との戦争に至る路線にある大統領だと感じさせた。
  日本が、真珠湾攻撃をしたから第二次世界大戦がはじ
 まったのではなかった。
  ルーズベルトには、日本との戦争を、大統領として行
 う行為として、大統領になる前から意識し、存在させて
 いた。
  これまでのアメリカには、分岐点があった。
  日露戦争までは、日本の支援国であった。
  日本が、精一杯、ロシアと戦っている時、絶妙のころ
 合いに仲介してくれた。
  日本は、ロシアとの戦いに「勝利」という結果を得た。
  満州を、ロシアから日本へ移譲(いじょう、権利が移
 ること)された。
  日本の『侵略ではない』。
  アメリカには、判断の分岐点があった。
  このアメリカが仲介して、ロシアから移譲され、権利
 が、ロシアから日本へ移った満州を、アメリカは承知で、
 戦争の仲介しておきながら・・、
  その後、手のひらを返したごとく『侵略だ』と言い出
 した。
  これは、アメリカが、大義名分を作りたかったからだ
 った。
  だから、この様に言い出したのだった。
  一時、日本を理解し、同じ立場を取ったアメリカだっ
 たが・・、
  しかし、東アジアの小さい国・日本が、侮(あなど)
 れない国という意識が芽生えた。
  日英同盟の破棄するように、アメリカは、動いた。
  日本とイギリスを分断する行動をした。
  1902年に結ばれた日英同盟は、1923年に失効とされた。
  アメリカと共に日本は、イギリスとも、袂(たもと)
 が分かたされた。
  アメリカ・イギリスなどと対峙する立場という「好ま
 ざる立場」に立たされた。
  モーリーは、大統領就任前のルーズベルトを、レック
 ス・ダグウェルと共に訪ね・・、
  国務長官の『スティムソン外交の好戦性』を説き、
  このままでは戦争に至ることを説こうと、ルーズベル
 トを訪れた。
  しかし、ルーズベルトは、数時間におよぶ説得を聞い
 たのち、
  日本との戦争は避けられないと言い、
  避けるより、早い時期に戦った方がよい・・と・・平
 然とルーズベルトは答えた。
  驚いたダグウェルが・・、
  「ですが、日本は、人口増と急激な工業化で、新たな
 市場を必要としている。
  日本の行動が、イギリスと比べて酷いとは思えない(
 イギリスの方が酷い)」・・と言った。
  すると、ルーズベルトは・・、
  「私の先祖は、中国貿易に従事したことがある。
  だから、いつも、私は、中国人には親しみがある。
  そんな私が、日本をやっつけようというスティムソン
 に同意しないわけがないではないか」・・と。
  (「FDRのニューヨーク時代」ケネス・デービス著)
  (参考)
  モーリー(レイモンド・モーリー)は、ルーズベルト
 大統領を支援し、ニューディール政策の策定に当たった。
  だが、1933年9月、モーリーは、連邦政府の権限拡大に
 反対し、国務次官補を辞任した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年12月17日土曜日

臨時ブログ:私たち日本人が、長い歴史の中で持ち続けて来た日本独特の精神文化を思い出しなさい、そして、日本に強くありなさいという励ましのメッセージが込められている。

臨時ブログ*:私たち日本人が、長い歴史の中で持ち続けて
  来た日本独特の精神文化を思い出しなさい。
   そして、日本に強くありなさい・・という励ましの
  メッセージが込められている。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 イスラエルのヘブライ大学にベン=アミー・シロ二ー教
授という方が居られる。
 この方は、日本の勲2等瑞宝章を受けている。
 この方は、杉浦千畝の本当の姿を暴露している。
 以下は、この教授の話を要約し、まとめたものである。
 杉浦千畝と言えば、キリスト教が「日本を貶(おとし)
め、そして、キリスト教徒の杉浦千畝が素晴らしいことを
したとデッチアゲタ話」である。
 キリスト教は、杉浦千畝が、キリスト教徒だったからユ
ダヤの方々を助けたのだと、嘘の話をデッチアゲタ。
 その時、日本は、ユダヤの方々にビザを発給してはいけ
ないとして、ユダヤの方々を虐(しいた)げていたという
嘘の話をデッチアゲてまでして、日本を貶(おとし)めた。
 キリスト教は、本当に嘘ばかり言う宗教である。
 しかし、嘘をついて、日本を貶(おとし)めるところま
でやる行為は、「絶対に、許せない」。
 「自分の宗教・キリスト教を美化したいからと、日本を
貶めることまでするという行為は許せない」。
  この様に、キリスト教は、嘘ばかり言う宗教である。
  また、この様な類いの日本を貶める話を、世界に発信
している宗教である・・本当に始末に負えない許せない宗
教である。
 また、キリスト教に偏するNHKは、この嘘のキリスト
教の話を、そのまま、日本全国に放送している。
 そして、日本の貶め放送を世界へ配信している。
 酷いNHKとなっている。
 そしてまた、最近は、腰ぎんちゃくの様に読売新聞まで
が、この嘘話に乗っかって、間違いの嘘話を記事を書いて
いる。
 ベン=アミー・シロ二ー教授も、ナチスドイツの迫害を
受けている方で、
 日本関係の書籍も、多数、書かれている方である。
 世界に名高い日本研究者で、名誉教授になられている。
 東アジア学科教授となって、毎年、500名を超える学生
に、日本の歴史や文化の講義を続けている。
 ヨーロッパやロシアは、宗教はキリスト教で・・そのキ
リスト教において・・「イエス・キリストを殺したのはユ
ダヤ人だ」と、ユダヤの方々を虐(しいた)げている。
 日本には、当然、昔から、その様なユダヤの方々に対す
る差別はない。
 勿論、虐げ行為もしていない。
 ヨーロッパでの1例・・キリスト教徒のシェイクスピアを
例に言うと(古代から、キリスト教は、ユダヤの方々を虐
げて来た))、
 彼の戯曲でも、ユダヤの方々を、金貸しとして悪どく描
き、金が返せなければ、「人肉で返せ」と言うなどと、
ユダヤの方々を卑劣に描いている。
 この例でも分かる様に、キリスト教は、ユダヤの方々を
卑劣に処遇した。
 スペインというキリスト教国は、どこまでもユダヤの方々
を追いかけて、宗教裁判で殺した。
 コロンプスとその船員たちも・・それから逃れた人々だ
った。
 日本は、明治の時代も、ユダヤの方々を『お雇い外国人』
として日本へ招聘し、教師として尊敬し、多くを学んだ。
 当然、差別なく遇した。
 例えば、アルベルト・モッセは、ドイツ系ユダヤ人の方
だったが、伊藤博文は、明治憲法を作る時は、多くのアド
バイスを戴いた。
 また、日本は、本当にユダヤの方々に感謝しなければな
らないのが、日露戦争の時のことである。
 『ポグロム』という卑劣な行為が、ロシアにおいて、ユ
ダヤの方々に対して行われていた。
 反ユダヤのツアー政府でも行われた・・このポグロムは、
ロシア語で『破壊』とか、『破滅』を意味する言葉である
が、
 ユダヤ人の方々に対して行われる集団的な・・あらゆる
種類の迫害で・・「殺戮」「略奪」「破壊」「差別」など
を言う「卑劣な行為のこと」である。
 その様なロシアという大国を・・小国の日本が「打ちの
めした」のが日露戦争だった・・、
 ユダヤの方々は・・たいへん大喜びし、沸き立った。
 それより、日本が・・ユダヤの方々へ感謝しなければな
らないことは、「日露戦争を戦う資金が全くなかった」の
を救って戴いたことだった。
 アメリカも、イギリスも・・貸そうとはしなかった。
 その様な時、ヤコブ・シフという有名なユダヤ人の銀行
家が、日本へお金を貸してくれたのである。
 「日本は負ける」という世界の見方をかえりみず・・お
金を貸してくれたのだった。
 日本が負けたら返って来ないお金を・・貸してくれたの
だった。
 「返金されないリスク」を背負ってくれたのだった。
 しかも、イスラエルの英雄となっているヤコブ・シフは、
友人の銀行家がたへも協力を求め・・軍資金集めをして戴
いたのだった。
 高橋是清が財務大臣として、軍資金集めに、ヨーロッパ
へ行き・・そして、ロンドンへ赴いて・・会議の場で・・
軍資金を必要とすると訴えたことに対し、
 アメリカ・イギリスは無視したのに・・その呼びかけに
応えて戴いたのだった。
 ヤコブ・シフは、それだけでなく日本赤十字社などに対
しても多額の寄付をして戴いている。
 1905年に、ヤコブ・シフは、日本に招かれ、明治天皇陛
下との謁見も果たし、
 日本は、首相をはじめ、全会議、そして、多くの人々が
感謝の意を示した。
 明治天皇陛下から、勲一等旭日大綬章を授けられた。
 また、イスラエル国歌の「ハティクバ(希望)」を作詞
したナフタリ・インベルも、大変な親日家で、日本ファン
だったが、
 日本の勝利を知って、大いに喜び、その詩を、英語・ヘ
ブライ語・イーディッシュ語で発表し、ニューヨークで出
版し・・そして、明治天皇陛下に捧げた。
 ユダヤ人の方々は、「ユダヤ人の報復を、ユダヤ人に代
わって日本が、ロシアへ行なった」と言い、思った。
 この時のユダヤ人の方々の日本への愛は、熱狂的だった。
 日本の連合艦隊司令長官の東郷平八郎(とうごうへいは
ちろう)、
 ロシアのバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎の名前を
付けるユダヤの方々も多くいた。
 その一人が、今、エジプトで有名な映画プロデューサー
となっている。
 そして、トーゴー制作所は「今でも活躍している」。
 ロシアは、ユダヤの方々を、兵士として、多くの方々を
徴兵していた。
 いや応なく、ロシア兵として戦い、ユダヤの方々は亡く
なった。
 そして、日本の捕虜になった方々もいた。
 しかし、勿論、日本は、そのユダヤ人の方々を差別する
ことなく対応した。
 ユダヤの捕虜の方々は、日本で温かいあつかいを受けた。
 収容所の中で、シオニスト・グループさえ作ることが出
来た。
 そして、兵士たちにヘブライ語を教える事も出来るよう
に扱われ、また、自由に手紙を書くことさえも許された。
 この捕虜の方々は、世界中のシオニストグループへ、こ
の収容所から手紙を書いて・・活動さえできた。
 そして、戦後、自由の身になっても、ロシアに戻ること
を拒否した。
 ロシアなんか戻りたくないと、長崎などに住みついたの
だった。
 ロシア革命の時、赤軍を、トロツキーというユダヤ人が
率いていた。
 それ故に、「彼らユダヤ人が、革命を始めた」と決め付
けられた。
 「ユダヤ人が、世界を制覇しようとしている」と嘘宣伝
された。
 反ユダヤ主義が語られた。
 「革命の張本人は、ユダヤ人だ」として、アメリカやイ
ギリスは、日本に、シベリアへ出兵をしてくれと頼んだ。
 アメリカ・イギリスは、他に出兵中で、シベリアには出
兵できず、日本へ「赤軍壊滅」を要請した。
 日本は、この要請に応え、出兵し、南シベリアやウラジ
オストクなどを管理下に置いた。
 『侵略』ではない。
 要請に基づく出兵によってであった。
 日本政府は、また、冷静で、偉かった。
 この時、日本は、「この反ユダヤ主義は本当か?」と、
冷静に考えた。
 そして、2つのグループを、その調査と勉強に送り出した。
 その一人が、安江仙弘という日本人で・・、
 彼は、ユダヤ人指導者たちに会い、また、本なども訳し
たりして事実を知り、
 そして、日本に戻ると・・「ユダヤ人はよくやっている」
と報告した。
 その後、この安江仙弘は、ユダヤの方々が満州へ逃れて
来た時に、満州に定住する事を助けた。
 (この地・満州の軍の最高指揮官の東条英機も、定住の
許可を与えた)
 また、内田康哉(やすや)という外務大臣は、戦後、イ
スラエル国の建国を認めるバルフォア宣言を支持した。
 そして、また、日本人は、ユダヤ人のアインシュタイン
を温かく大変な歓迎をもって迎えた、1922年の事だった。
 この年、ノーベル賞をとったアインシュタインは、妻と
ともに日本を訪れた。
 また、1920年から1930年にかけて、多くのユダヤ人音楽
家が日本へ訪れ(虐げから逃れ)、多くの音楽家が、日本
に留まった。
 この後、大戦中に、同盟関係にあるドイツは、これに憤
慨して、「追放しろ」と日本に迫った。
 (1940年9月27日、日本、ドイツ、イタリアの三国同盟)
 しかし、日本は「きっぱり」これを拒絶した。
 「日本は法治国家だ」「日本は法を重んじる国なのだ」
「彼等は日本に留まれるのだ」と言った。
 「何ら悪いことはしていないからだ」と言った。
 多くのユダヤ人の方々が、日本に留まった。
 ナチスドイツは、この様な事を、日本に要求する政府だ
った。
 (しかし、この事実が明白にあるのに、杉原千畝を、キ
リスト教は、千畝がキリスト教徒だということで嘘のデッ
チアゲをした)
 杉原千畝は領事ではなく、副領事なのだが、リトアニア
のカウナスに赴任された。
 千畝が赴任する以前の1930年代には、既に、日本は、「
ナチスのユダヤ人に対する考え方」に対する方針を明確に
決めていた。
 その結果を先に記せば、「何ら他の外国人と同じである、
同等である」という結論だった。
 「差別の『さ』の字もない当然の結論だった」。
 だから、当然、満州に受け入れ、日本に受け入れ、また、
日本の管理下にあった上海にも受け入れた。
 (当時、上海には、イギリス・オランダなどの管理地な
どがあった)。
 ユダヤ人の方々の事は、すでに、1938年に、近衛内閣で
討議され、何ら、ナチスとの同盟とは、当然、関係なく、
その同盟に左右されなく、ユダヤの方々を、他の外国人と
同様に対応すると決定している。
 日露戦争にも応援して戴いたユダヤの方々でもあった。
 公正・公平な日本の当然の帰結だった。
 恩も忘れない日本だった。
 「日本は、昔から人権を大切にする国」だった。
 女性の方々の人権も、同様に差別をする日本ではないこ
とはよく知られている。
 世界で最初の長編小説を書いた紫式部を考えれば分かる。
 紫式部は、差別なく、高い教育を受け、この様な高い芸
術性のある作品を、
 それも、遠い昔に、世界で最初に書いた女性という輝(
かがや)かしい歴史のある日本だった。
 日本が、ユダヤの方々を差別するわけがない。
 逆に、アメリカやイギリスは、ユダヤの方々を差別した。
 アメリカのニューヨークに、船で逃れて来たユダヤの方々
を、「アメリカは、追い返している」のである。
 戦争の世界を、逃げ惑う方々を、救助すべき方々を、可
哀想に、憤りが湧く・・、
 本当に軽蔑すべきアメリカの行為だった。
 この様な事を隠し、嘘のプロパガンダするアメリカや、
イギリスだった。
 現在のトランプ次期アメリカ大統領が、犯罪者の移民は
送り返すと言っている話とは違う・・、
 トランプ氏の場合は、当然であり、当時の日本にも、こ
の様な基準があった。
 しかし、このことを、キリスト教が、過大に、ひん曲げ
て、何も知らない人を誤魔化して、「日本は虐げ行為をし
ていた」というハレンチな嘘発言をしている。
 犯罪者や麻薬中毒者などの移民の排除は、どこの国でも
やっていることを、あえて、取り上げて、国民などへ嘘を
言い続けるキリスト教やNHKの言い方なのである。
 このユダヤの方々の救済と上記をすり替えている。
 そして、美しく杉浦千畝の話を作り上げるキリスト教や
NHKなのである。
 この当時、外交官だった馬淵睦夫氏も・・、
 「当時の、どこの日本の大使館でも、ユダヤの方々へビ
ザを発給していました。杉原千畝だけではありません。日
本の方針が、そうだったのですから」と言われている。
 キリスト教やNHKは嘘を言わない事・・また、特に、
キリスト教に偏するNHKは嘘放送をしない事、そして、
尻馬に乗って嘘記事を書く読売新聞なども・・反省せよ。
  ヒトラーのドイツが、「ユダヤ人が世界を制圧しよう
としている」と言った時・・、
 日本は、「そんなに頭が良い天才ならば、彼等を大切に
して、彼等の優秀さに協力してもらおう」と、半分、バカ
にして、茶化して言うくらいの日本だった。
 千畝の嘘話は、本当に、怒りが湧く嘘話である。
 アメリカやイギリスは、卑劣な事に、ユダヤの方々の通
過ビザでさえ拒否し、そして、「入国を拒否した」。
 ただの「通過ビザ」ですよ・・と、言われるアメリカ・
イギリスだった。
 そこまで拒否し、ユダヤの方々を虐めるアメリカ・イギ
リスだった。
 ユダヤの方々は、それで、已む無く、アメリカ近くのキ
ュラソー島へ行こうと決めた(また、ここは、ビザが無く
ても入国できるという事を発見したからだった、苦労する
ユダヤの方々だった)
  杉原千畝の居た近くのポーランドが、ドイツとソ連に
分けられた事で、特に、千畝のいる地に逃れて来るユダヤ
の方々が多く居た。
 また、近くの国々も、同様な状況から、ユダヤの難民の
方々が多く出た。
 アメリカとイギリスの公館が、ユダヤの方々へ、卑劣な
行為、上記の様にビザを与えることを拒否したから・・ま
た、日本の公館に集中した、
 (この事を、世界の記憶遺産に申請せよ、登録せよ)
 ユダヤの方々は、ヨーロッパには逃れる所がない事に気
付いた。
 そして、満州や日本などへ逃れて来た。
 日本は、ユダヤの方々の救助地となっていた。
 アメリカやイギリスに問題の原点があった。
 因みに、杉原千畝は、怪しまれる人物像だった。
 その怪しさゆえに、その怪しさによって、ソ連は千畝を
拒否した。
 ソ連で、自分の宗教を棄てて、ロシア正教(キリスト教)
になっているのに・・拒否された。
 行動がおかしかった・・、
 また、ソ連女性を妻にもしたが・・拒否された・・
 已む無く、日本政府は、リトアニア赴任とした。
 ソ連で、危険で信用できない人物とされ、日本へ通報さ
れたのだった。
 日本は、杉原を、ソ連から出さざるを得なかった。
 日本は、逆に、リトアニアから情報を送る役目をさせた。
 杉原は、その様な使い道の人間だった。
 杉原は、この地を探り、地下組織を探りあて突き止めた。
 その仲間たちと連絡も取れるようになった。
 そして、彼らと協力する活動をし始めた。
 彼等のイギリス本部との秘密事項の連絡役をした。
 領事館にも、彼らのメンバーを雇い入れた(杉原を監視
する監視役だったのか?)
 こんな怪しい中の、杉原の所へ、多くのポーランド人が
逃れて来た。
 使われた杉原という立場も見える。
 ここを、キリスト教が美しく仕立てたのだった、嘘も使
って・・。
 キリスト教は、千畝が、多い数のビザを出したとしてい
るが・・?
  それでも、ほかの領事館より少し多いくらいだった(
1割~2割くらい多い程度)、
 つまり、他の領事館も同様な事をしていたのだ(アメリ
カ・イギリスはやらないし・・)。
 ユダヤの方々は、ソ連が通過できるので、(ソ連は、ユ
ダヤの方々へビザを拒否していたが、通過は許していた)
そのルートで逃れた。
 ロシア領事館に1億ドルくらいの金を使ったという話も
ある。
 (アメリカなどに居たユダヤの方々のお金が使われた)
 ユダヤの方々は、ロシア領を通り、満州へ入り、また、
ウラジオストクから船で日本に入国した。
 満州に定住し、また、日本へも入国もした。
 ユダヤの方々は、日本に入国する時に、日本はドイツと
同盟を結んでいる国だから、「強制収容所に叩き込まれる」
のではと心配し、思っていた・・しかし・・しかし・・、
 日本に入国で来たユダヤの方々は、日本で優しく温かく
迎えられた。
 しかも・・日本は、ユダヤの方々の船を出迎える「日本
政府の船」まで出していて、ユダヤの方々は出迎えられた。
 日本政府は、この様に、ドイツに全く影響されていない。
 杉原千畝のキリスト教・NHKの話は、まったくのデッ
チアゲの嘘。
 杉原千畝の出身の町まで、このキリスト教・NHKの嘘
に引っ掛かって、町の方々の税金を使って「杉原記念館」
まで作っているから・・悲劇だ。
 しかも、この避難したユダヤの方々は、ユダヤ教団があ
る神戸に迎えられている。
 そして、ミール・イエシバ(ユダヤ教学校)の宗教活動
もできて、そして、活動もした。
 また、通過ビザは2週間だったが、「2週間が経たから出
て行って下さい」とも言われなかった。
 「みなさん、2週間の期限がきましたよ」なんて言われ
なかった。
 日本は、すべての事情を理解していた。
 その様な思いやりのある日本だった。
 キュラソー島への行き方も知らないユダヤの方々の事情
もあったし、理解する日本だった。
 逆に、「行く先が見つかるまで居て良い」と言われて、
ユダヤ人の方々が「驚いたくらい」だった。
 この様な日本政府の対応の裏には、小辻節三と、その友
人の外務大臣・松岡洋右(ようすけ)が居た。
 また、上海に向かった人たちは、上海で成功し、長年、
住みつき、大変、裕福になった人たちもいた。
 シロ二ー教授は、「広島・長崎に投下された原爆の一考
察」という論文で博士号を取得された。
 アインシュタインやオッペンハイマーらのユダヤ人の頭
脳を利用して、アメリカは原爆を開発したが、
 このユダヤの開発者たちは、「原爆は、ナチスドイツに
対して使うために開発した」と、明確に言っている。
 アインシュタインが、ルーズベルトに、この事を言って
(原爆が開発できる、ドイツに使用する)、この考えが受
け入れられて、開発が開始された。
 そして、開発のための巨大なシステムが、アメリカ政府
によってつくられ、多数のユダヤ人研究者が動員された。
 その一人のジュリアス・ロバート・オッペンハイマーは、
ユダヤ系の人で、ロスアラモス国立研究所の所長で、原爆
開発のマンハッタン計画を主導した。
 「原爆の父」を言われている。
 「ヒトラーの行動を止めるのだ」と、難民でもあったユ
ダヤの方々は、この開発の目標に向かって競って参加した。
 しかし、皮肉にも・・彼らの愛する日本に投下されてし
まった。
 シロ二ー教授は、「頑張って、ここは言いたい」と言っ
て言う・・、
 「原爆は、日本に投下しようとして作らされたものでは
なかったのです」・・と。
 「日本に落す理由はまったく無かった」と、シロ二ー教
授は言う。
 「日本に落とす」という情報が流れた時、ユダヤ人の方々
は、大反対して、ルーズベルト大統領に嘆願書を出した。
 その時、副大統領だったハリー・トルーマンも、この事
は知っていた訳で、
 ルーズベルトの急死で、大統領となったその副大統領だ
ったトルーマンは、当然、「この事を知っていた」。
 「投下する必要性のない日本」「すでに滅びていた日本」
 「1945年には、日本は滅びていると世界中が見ていた日
本に、投下する必要性は、誰の目にもなかった」
 そこに、キリスト教の「目には目を」の教義に洗脳され
た復讐思想があった。
 二言目には、アメリカは、「真珠湾を奇襲をした」と、
アメリカは言った。
 しかし、ここで、嘘を言うな・・と、言いたい。
 奇襲なんて作られた話だ・・、戦端は、「アメリカへ先
行していた日本の潜水艦」への、『アメリカによる攻撃』
で、既に、開かれていたのだ。また、日本の電信をすべて
解読していたアメリカは、刻々と伝わる・・ハワイへ向か
う日本の連合艦隊の電信を傍受している。またまた、中国
では、極秘で、ルーズベルトが命令を下している。日本と
戦え・・と、中国にいるアメリカ軍が、既に、真珠湾攻撃
以前に、日本へ攻撃を加えている。これこそ、日本へのア
メリカの奇襲である。日本潜水艦への攻撃を、「あれは、
クジラだ、クジラだ」と嘘を言ったって、数多い日本の潜
水艦が未帰還になっているのだ。こんな数多い日本の潜水
艦のすべてがクジラだったと、アメリカは言うのか?嘘を
言うな・・、
 さらに、アメリカは、「軽蔑すべき嘘の言葉」を連ねる。
 「早く戦争を終わらせて、兵士を母国へ返したかった」
など、原爆投下についても・・屁理屈のオンパレードを繰
り広げている・・原爆投下の「後ろめたさを披露」してい
る・・、
 そして、最後のナレーションで、次の言葉が流れる・・、
 ベン=アミー・シロニー博士は、誰よりも日本の皇室の
存在を理解しています。
 日本民族の歴史を見つめ、日本人以上に、日本の良さを
理解し、
 日本精神を心から愛しています。
 そして、ユダヤ人として、独自の視点で、日本と、日本
人に勇気を与えてくれています。
 シロニー教授の鋭く、深く、そして、愛情に満ちた言葉
に、戦後、私たち日本人が、長い歴史の中で持ち続けて来
た日本独特の精神文化を思い出しなさい、そして、日本に
強くありなさいという励ましのメッセージが込められてい
る。
..
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2016年12月14日水曜日

(増補版)470E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)

題:(増補版)470E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年10月13日、帝国大学文科大学哲学科に精神物理学(
 実験心理学)科目が新設された。
  この年、元良、日本人心理学者として初の博士号取得。
  元良帰国。
  帝国大学文科大学哲学科で「精神物理学」を担当した。
  東京大学文学部心理学研究室、初代教授・元良勇次郎
 先生(在任期間:1890年~1912年、在任中に没する)
  また、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部のホ
 ームページには、以下の興味を引く記述がある。
  心理学は、実に多くの領域と境を接している。
  心理学は、人間の心的、知的な機能を探求するそれ自
 体独立した基礎的な学問である。
  また、一方で「こころ」とは何かということを考える
 と哲学と関わらなければならない。
  生物学的な諸領域、医学とも密接に関連している。
  さらに、電子工学、情報工学など人間の使う機械を作
 り、また、人間の機能を代行する機械を作ろうとする領
 域とも関わっている。
  本研究室では、こうした幅広い領域に関わる心理学と
 いう学問を実験という実証的な手法で取り組む学風を持
 っており、知覚・注意・記憶・思考などの心理現象を精
 神物理学的手法・神経科学的手法・認知科学的手法によ
 って研究している。
  また、文化認識や科学方法論などについても研究を行
 っている。
  したがって本研究室出身の研究者は心理学のみならず、
 幅広い隣接分野において活躍しているものも少なくない。
1888年10月14日、自由民権運動の大同団結民権派の385人が、
 大阪で懇談会を開催した。
  1888年、後藤は、大同団結を唱えて地方遊説を行い、
 雑誌『政論』を発行し、地方名望家層の政党への組織化
 を図った。
  しかし、改進党系の多くは、この動きに加わらず、独
 自の組織化に着手したため、旧自由党系中心の運動に転
 化した。
  1889年3月、しかも、後藤自身が逓(てい)相に就任し、
 運動から退くと、直前の恩赦で多くの有力民権家が出獄
 し指導者に迎えられたこともあって、運動は分裂し、
  大同倶楽部と大同協和会が発足した。
  ここに、大同団結運動は完全に終焉した。
  民党連合の基礎をつくった意義はあった。[
  (1886年末~1889年に、民権派による反政府統一運動)
  1889年、後藤象二郎の黒田内閣入閣で挫折した。
1888年10月14日、皇城二重橋の架替が竣工した。
  二ヵ年を要し、鉄橋として架け替えられ竣工した。
  但し、二重橋と名付けられた経緯には、諸説があるの
 で注意を要す。
  因みに、鉄橋の手前に、1887年に完工した石橋(西ノ
 丸大手橋)があり、
  郵政省は切手のデザインにおいて「二重橋(石橋・鉄
 橋)」と記している。
1888年10月21日、井上毅(いのうえこわし)が、憲法にお
 ける軍隊編成権や議会予算議定権の問題をモッセとロエ
 スレルに質問する。
  1881年、明治政府がプロイセン流立憲主義に転換し(
 明治十四年の政変)、
  井上毅が、憲法の草案を作成したが、その草案は、多
 くロエスレルの討議、指導によるものだったとされる。
  彼の提出した「日本帝国憲法草案」のほとんどが受け
 入れられ、大日本帝国憲法となった。
  カール・フリードリヒ・ヘルマン・ロエスレル(1834
 年12月18日~1894年12月2日)は、ドイツの法学者・経済
 学者で、
  明治の日本でお雇い外国人の一人として活動した。
  アルベルト・モッセ(1846年10月1日~1925年5月31日)
 も、ドイツの法律家で、お雇い外国人として日本に招か
 れた一人。
  伊藤博文ら、日本から調査に訪れた代表たちに、1882
 年~1883年にかけて、師のルドルフ・フォン・グナイス
 トと共に講義を行った。
  1886年(明治19年)に訪日し、モッセ以前にヘルマン・
 レースラーが既に招聘されていたが、モッセの憲法制定
 や地方制度の創設への貢献の方がより実質的な影響を与
 え、それ故に、「明治憲法の父」と言われている。
1888年10月27日、皇城を「宮城」と改称した。
  皇城西の丸に、新宮殿全体が落成し、
  「宮城〔きゅうじょう〕」と呼ぶ告示が出された。
  (明治宮殿落成し皇城を宮城と改称)
1888年10月27日、深川骸炭所が操業を開始した。
  古河鉱業会社の深川骸炭所が竣工して、操業を開始し
 た。
  コークスの製造とその品質向上、そして、それに対応
 する優れた高炉に努力した技術者が、技師・福岡健良氏
 (深川骸炭所、コークス製造)と、野呂景義氏(釜石・
 八幡のコークス高炉に成功)だった。
  国が豊かになり、強くなる、富国強兵の元にある鉄・・
 その鉄の品質を左右するのが、還元剤だった。
  木炭に代わって、石炭を乾留したコークスが、高炉に
 おける還元剤として、英国で誕生して約300年が経過し、
  その間にも、高炉も目覚ましい発展を遂げた。
  そして、その発展を支えたのは・・スムースな炉内の
 ガス流れを可能とするコークスの品質であった。
  そして、その大切なポジションを占めていたのが・・
 官営製鉄所の「釜石」「八幡」だった。
  そこを支えたのが、望ましいコークスの生産だった。
  これが無ければ、建物も、工場も、艦船もできない。
  しかし、涙ぐましい失敗と汗があった・・、
  日本人の真面目さと優秀さと『頑張り』があった・・、
  国の基本は、すべてここからスタートした・・、
  公共放送・NHKは、『頑張らない』をキャンペーン
 放送した・・本当に、国を堕落させる放送を、長い期間
 に渡って行なった・・頑張ることを否定した・・
1888年10月28日、四国初の鉄道の伊予鉄道の松山~三津ヵ浜
 間開通 
  1887年9月14日に、民営としては日本で2番目の伊予鉄
 道会社が創立された。
  そして、この日・1888年10月28日に、松山(後の外側、
 再び松山)~三津間で、鉄道が開業された。
  因みに、2001年(平成13年) 10月12日から、松山市内
 線で「坊っちゃん列車」レプリカ運行が開始されている。
1888年10月28日、東京音楽学校(旧制)が、5線譜表記の箏
 曲集を出した。
  1887年10月4日、東京音楽学校が、東京府下谷区(現在
 の台東区の西部)に設立され、官立(唯一)の音楽専門
 学校だった。
  (参考:下谷区と浅草区が台東区になった)。
  文部省大臣官房直属の機関であった音楽取調掛の掛長
 であった伊沢修二の他、菊池大麓・外山正一・穂積陳重
 ら当時の代表的学者7名が連署した「音楽学校設立ノ儀ニ
 付建議」に基づいて、同掛を改称し設置された。
  伊沢が、事実上の初代校長に就任した。
  その後、奏楽堂を含む校舎が新築され(現在は上野公
 園内に移設)、
  1890年5月12日に、開校された。
  日本最初の音楽教員・音楽家・音楽鑑賞家の養成機関
 で、当初、西洋音楽の教育を中心とした。
  修業年限1年の予科と本科(2年制の師範科、および、
 3年制の専修科)から構成された。
  しかし、翌年・1891年には、早くも、国費節減と関連
 して帝国議会で存廃論議が起こり・・、
  1893年6月、高等師範学校に移管され、附属学校に格下
 げされたが、
  1899年には、伊沢らを中心に再び独立し、
  1900年には、学科を再編成して5科とし、以後、新制
 移行までこの体制が基本的に存続した
  1949年5月、学制改革にともない発足した新制の東京
 芸術大学音楽学部の構成母体となった。
  因みに、奏楽堂は、上記のように東京音楽学校の校舎
 として、1890年(明治23年)に建造され、
  日本における音楽教育の中心的な役割を担って来た。
  2階の音楽ホールは、かつて瀧廉太郎がピアノを弾き、
 山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペ
 ラ公演でデビューを飾った。
  創建から80年近く経過した昭和40年代(1965~)に入る
 と、建物の老朽化が目立つようになり、
  校舎を都外へ移設する構想が持ち上がったが、1983年(
 昭和58年)に、台東区が東京藝術大学から譲り受けること
 となった。
  そして、1987年(昭和62年)現在の地(上野公園内)へ
 校舎を移築・復原し、「旧東京音楽学校奏楽堂」として
 一般への公開を開始した。
  さらに、1988年(昭和63年)には、日本最古の洋式音楽
 ホールを擁する校舎として、重要文化財の指定を受けた。
ました。
  尚、現在、保存工事のため休館中、再開は平成30年度の
 予定。
1888年10月28日、清国が、日清条約改正交渉の一時中止と
 将来の再開を了承(りょうしょう、承知すること)した。
1888年10月30日、帝国大学(後の東京大学)に、臨時編年
 史編纂掛(史料編纂係)が設置された。
  1793年(寛政5年)、国学者の塙保己一は、幕府の援助
   をうけて和学講談所を開設した。
    そして、明治となり、政府の修史事業は、この事
   業を引き継ぐかたちで始められた。
  1869年(明治2年)3月、和学講談所跡(現:千代田区
   六番町)に史料編輯国史校正局が開設された。
  1869年4月、明治天皇陛下は、三条実美に宸筆の勅書を
   下し、同局の総裁に任じた。
  1872年(明治5年)、太政官正院に歴史課が設けられた。
    ついで、修史局として内務省地誌課を合併し、修
   史館となった。
    内閣制度の成立とともに臨時修史局となった。
  1888年(明治21年)10月、帝国大学に国史科を創設す
   るに際して、修史事業は帝国大学に移管された。
    当初は、臨時編年史編纂掛と呼ばれた。
  1893年(明治26年)、編年史の形の編纂事業は停止さ
   れた。
    代わって、外国人教師ルートヴィヒ・リースの意
   見をいれて、蒐集した史料自体を編纂刊行すること
   となった。
  1895年(明治28年)、帝国大学文科大学に史料編纂掛
   が設置された。
  1901年(明治34年)最初の成果である『大日本史料』
   『大日本古文書』が発刊された。
  1906 年(明治39年)外務省から『幕末外国関係文書』
   編纂の事業を引き継いだ。
  1929年(昭和4年)現在の史料編纂所という名称になっ
   た。
  1949年(昭和24年)文部省から維新史料編纂事業を引
   き継いだ。。
  (東京大学史料編纂所・ホームページを参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:2016年の話・・、
    TPPについて・・他
   『アジアの成長を取り込む』・・これは『嘘』
.
2016年2月4日、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)が
 署名された。
  この協定が論議された時、「グローバリズム」の議論
 が花盛りだった。
  これは、結局、大きな国が有利になる論理で、小さな
 国が大きな国に飲み込まれるという大国主義なのである。
  また、超巨大なアメリカの多国籍企業(ポンと大金を
 政治献金する企業)に都合の良い考え方である。
  因みに、巷(ちまた)の話的であるが・・、200億円を
 『好きに使いなさい』と選挙の時にポンと出す、つまり、
 アメリカの政治が、200億円で買える的な話も・・ある。
  国力の大きさに依拠して、その意思を対外的に押し通
 そうとする大国の行動様式なのである。
  その問題点に気付いたアメリカの方々が増えている。
  「拝金的な金の亡者」だけにはなりたくない・・と、
 また、「グローバリズム一点張り」ではないのだ・・と
 気付いたのだった。
  「アイデンティティが破壊されるではないか」・・と
 気付いたのだった。
  アメリカだって、その固有の国民性が崩壊する事に対
 し、当然、そうなって欲しくないと思っているのだと、
  家族を愛し、家族を大切にし、郷土を愛し、郷土を大
 切にし、愛国心を大切に思い、この様なアイデンティテ
 ィを大切にする、本来のナショナリズムを大切にする・
 ・その様な国でもあるのだ・・と、本来のナショナリズ
 ムを大切にする国なのだ・・と、その大切さが語られる
 国なのだ・・と・・、
  極限状態なら、特に、国を思う人たちの国なのだ・・
 と・・、
  日本の真珠湾攻撃を・・「奇襲だ」と嘘の話をでっち
 上げられて・・、
  参戦する事に、国論が急に沸き上がったアメリカのご
 とくだった・・、
  攻められたアメリカを思うアメリカ国民の方々だった。
  グローバリズムは、今までの歴史では・・、
  サイクル的に・・、
  湧きあがったり、低調になったりを・・繰り返して来
 た。
  ・・が、今、グローバリズムは、下り坂を・・下り始
 めている。
  郷土を愛し、国を愛し、家族を愛し、本来のナショナ
 リズムを大切にして行く方向へと・・流れは変わり・・
 流れている・・、
.
2016年2月4日、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)が、
 署名された。
  日本でよく言われているTPPに加盟した場合、「ア
 ジアの成長を取り込める」というのは・・嘘である。
  参加国は・・、
  (1)アメリカ合衆国(14兆2646億ドル)(58.8%)、
  (2)日本(5兆4589億ドル)(22.5%)、
  (3)カナダ(1兆5109億ドル)(6.2%)、
  (4)メキシコ(1兆881億ドル)(4.5%)、
  (5)オーストラリア(1兆106億ドル)(4.2%)、
  (6)マレーシア(2222億ドル)(0.9%)、
  (7)シンガポール(1819億ドル)(0.7%)、
  (8)チリ(1695億ドル)(0.7%)、
  (9)ニュージーランド(1284億ドル)(0.5%)、
  (10)ペルー(1275億ドル)(0.5%)、
  (11)ベトナム(898億ドル)(0.4%)、
  (12)ブルネイ(145億ドル)(0.1%)、 
    計 24兆2669億ドル(100%)
  ()はGDPで大きい順に記した、単位:億ドル、
  TPPに加盟した場合、TPPがもたらす各国の経済成長率
 への影響には『ばらつきがある』。
  10年間で、経済成長率をどれだけ底上げするかについ
 ては、ラテンアメリカ諸国や東南アジア諸国では、10年
 間で2%以上の押し上げになる。
  (それでも単年度で見れば0.2~0.3%程度の押し上げで
 しかない)
  一方、日本やアメリカでは、何と・・TPPは、経済成長
 にマイナスに作用してしまうと予測されている。
  TPPに加盟してアジアの成長を取り込むという主張があ
 るが、日本やアメリカは、取り込むどころか取り込まれ
 てしまう。
  アメリカは独裁的だ。
  「民主主義を植え付けるのだ」と、戦争を始めた。
  「まったく、民主主義的ではない論理」を掲げて、民
 主主義と見せかけ、誤解させて、戦争を始めた・・、
  民主主義ではない民主主義の陰に隠れて、戦争を始め
 た・・、
  そして、強大な軍事力で、何も罪のない人々を殺戮し
 て行った。
  やっている事は、独裁的だった。
  独裁国家の行為だった。
  「関税が無いことが、良いのだ」という自分の都合の
 良い規則を、さも正しい様に言う(トランプ氏になって
 変わったが・・)
  「関税は、誰もが自由に決められる」という国際規約
 を間違いだという。
  「関税は、自由に決めてはいけないのだ」・・と、「0
 パーセントが良いのだ」と、関税を固定しようと主張し
 ている。
  そして、それを、他国に押し付けている。
  俺が言うのが正しいのだ・・と・・、
  「関税自主権を認めないアメリカ」となっている。
  独裁国家となっている。
  さらに、この独裁国家は、国際的に公表しなければな
 らない事を公表するなと言った。
  だから、国際社会に公表されたTPP資料は、「墨を
 塗りまくった真っ黒の史料だった」。
  結局、秘密だらけで、TPPは決めてしまおうという。
  アメリカという国は、今・現在でも、言いたい放題の
 国、やりたい放題の国・・自国の論理で・・、
  そして、結局、自分の言う事を聞かない国は敵国だと
 来る。
  キリスト教の最高の会議である公会議が、ローマ法王
 の出る公会議が、
  自分の言う事を反対したら「異端だ」と決めつけ、殺
 したり、追放したりしたが・・、
  その迫害と同じことをしている。
  今・現在、アメリカ大統領の二人の候補者の方々は、
 どちらも、「TPPに反対」だという。
  このことからも、甘利さんの頑張りが見えて来る。
  甘利さんの人材を失うは・・惜しい・・、
.
2016年11月20日、オバマ外交、寂しい最後。
  「リマ発」、オバマ米大統領は20日、アジア太平洋経
 済協力会議(APEC)首脳会議の一連の日程を終え、
 任期最後の外遊を締めくくった。(中略)
  「次期大統領に最も伝えたい事は、米国は世界秩序に
 欠くことの出来ない国家であるということだ」・・
  米国が超大国として担う特別な役割を強調した。
  ・・「力の行使」ではなく、「力の抑制」に重点を置
 いたところに特徴がある。
  「世界唯一の超大国が、進んでその力を抑制し、国際
 的に合意された行動規範に従ってこそ、これは従う価値
 のある規則なのだというメッセージを発する事が出来る」
  (中略)
  前任のブッシュ政権が、国際法上の正当性を曖昧にし
 たままイラクで軍事介入に踏み切り、それが国際秩序の
 混乱をもたらしたとの万感が根底にあった。
  (中略)
  トランプ氏の下で外交が内向きになるとの懸念が広が
 る。
  記者会見でオバマ大統領は、「世界の指導者と関われ
 ば国家の厳粛な責任に気付き、考え方の修正を迫られる」
 と願望の入り混じった思いを語った。
  (読売新聞、2016・11・22を参考にした)
.
2016年12月9日、この日の新聞、2題、アメリカ次期大統領
 トランプ氏が、フィリピンのドゥテルテ大統領に理解を
 示した、・・と、イギリス「EU離脱」を下院が動議可
 決した。
  前のトランプ氏の記事は、「麻薬対策を良くやってい
 る。今後も進めるべきだ」と、トランプ氏が、ドゥテル
 テ大統領を褒めた話。
  ドゥテルテ大統領は、「聖人になった気持ちだ」と喜
 んだという。
  そして、トランプ氏は、「関係を修復しよう」とドゥ
 テルテ大統領へ言った(電話会談)。
  後の記事のイギリスの件は、448対75の賛成多数でEU
 離脱を可決した。
  グローバリズムが、アメリカやNHK、キリスト教に
 よって意味なく美化されているが、
  キリスト教国・イタリアも、ポピュリズム(大衆迎合
 主義)の広がりで、経済が破綻(はたん)状況であると
 いう。
  不良債権を処理しないで放置で、根深い悪弊がはびこ
 っている状態だという。
  甘い話ばかりしないで、正業に就いて真面目に働きな
 さい。
  人を繰(く)って、甘い汁を吸おうという行為は止め
 よ。(読売新聞、2016.12.9を参考にした)
..
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2016年12月12日月曜日

(増補版)469E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)

題:(増補版)469E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年10月7日、新皇居(明治宮殿)が完成した。
  1868年(明治元年)から1869年(明治2年)に行われた
 東京奠都によって、旧江戸城西の丸御殿が皇居となった
 が、1873年に失火により西の丸御殿は焼失した。
  直ちに、新宮殿造営が政府により上奏されたものの、
 西南戦争の戦費等の財政負担も大きく、国内整備が先決
 との明治天皇陛下の御意向により、新宮殿造営は見送ら
 れた。
  このため、旧紀州藩江戸藩邸であった青山御所が仮皇
 居となった。
  しかし、青山御所では、儀式典礼に支障をきたすよう
 になったため、ようやく宮殿造営が勅許された。
  新しい宮殿(明治宮殿)は、旧江戸城西の丸に建設さ
 れることとなり、1888年(明治21年)10月7日に落成した。
  この明治宮殿(めいじきゅうでん)は、かつて宮城(
 現皇居)に存在した建物で、明治時代から第二次世界大
 戦末期まで、皇室の中心的施設であった。
1888年10月7日、中国初の海軍「北洋艦隊」が編成された。
  北洋艦隊(ほくようかんたい)は、清国の海軍の主力
 艦隊で、李鴻章によって新式海軍が編制された。
  威海衛に基地を置き、
  『定遠』『鎮遠』など甲鉄砲塔艦4隻、巡洋艦7隻、装
 甲砲艦1隻を中心とした。
  1891年に、品川、長崎、呉、神戸を親善訪問し、海軍
 の戦備が劣っていた日本は衝撃を受けた。
  日清戦争において、大日本帝国海軍連合艦隊と交戦(
 黄海海戦、威海衛海戦)し、日本の威海衛攻略の際に壊
 滅した。
1888年10月9日、登記印紙規則が公布された。
  登記印紙は、この時・1888年に、発行されたのが最初
 であったが、
  1898年に、収入印紙に統合され、廃止された。
  しかし、登記に関する手数料の歳入が、登記特別会計
 として、1985年に独立したことに伴い、復活した。
  ただし、登記特別会計が、2010年度をもって廃止され、
 一般会計に組み込まれたため、
  2011年4月1日以降は、再び、収入印紙に統合され、新
 規の発行は中止された。
  既に発行された登記印紙は当面有効で、収入印紙と組
 み合わせての使用も可能である。
  登記法:戸長役場の公証は無料であったが、管理が不
 十分な場合があったため、明治政府は、全国的機関であ
 る裁判所が、不動産の公示を担当するのが適切であると
 して、
  1886年(明治19年)に「登記法」(明治19年8月13日法
 律1号)を制定した。
  「登記法」は、ドイツの登記制度を参考にして、物的
 編成主義を採用した。
  即ち、地券台帳に基づき、あらかじめ各筆ごとに用紙
 を準備し、所有権の移転や、担保権の設定がある都度、
 登記簿に記載することとした。
  また、登記をすることによって、直接利益を受ける者
 (登記権利者)と、登記をすることによって不利益を受
 ける者(登記義務者)とが共同してすることを要するも
 のとする共同申請主義を規定した。
  印紙税は、商取引等の背後に担税力(たんぜいりょく、
 課税対象となる個人や法人などが、実際に税負担を受け
 持つことができる能力の事を言う)があると想定し、
  これに関連して作成される文書に印紙を貼らせて課税
 するものであり、流通税(取引税)の一種。
  1873年(明治6年)「受取諸証文印紙貼用心得方規則」
 (明治6年太政官布告56号)により導入された。
  当初の内容は、証書類を金銭その他諸受取の第1類と、
 田地屋敷建屋売渡証文、借用金証文等の第2類に分け、
  後者は、10円以上に対しその金額に応じた段階的な税
 率(概ね1%)を賦課した。
  その後、数次にわたる改正を経て、
  1899年(明治32年)に「印紙税法」(明治32年法律54
 号)が制定され、現行の「印紙税法」(昭和42年5月31日
 法律23号)により全部改正されるまで施行された。
  登録免許税は、登記のための手数料的性格のものでは
 なく、不動産の権利の移転等の背後に担税力があると推
 定して課税する流通税(取引税)の一種。
  1871(明治2)年の地券交付以来、1889(明治22)年に
 廃止されるまで、地券の新規交付、売買による交付、書
 換ごとに地券証印税を課していた。
  1886年、「登記法」(明治19年法律1号)が制定され、
 登記に際して登記税が課せられるようになった。
  その後、日清戦争後の国費膨張に対処するため、同法
 は1896年(明治29年)に「登録税法」(明治29年法律27
 号)に改められ、
  「民法」が、1898年(明治31年)に施行されたのを受
 けて、翌年・1899年に「不動産登記法」(明治32年2月24
 日法律24号)が制定された。
  (明海大学・周藤利一教授の論文などを参考にした)
1888年10月9日、紫溟新報を改題し、九州日日新聞が創刊
 された。
  1882年に、紫溟新報が創刊され、
  1888年に、紫溟新報が、九州日日新聞と改題し、
  1942年(昭和17年)4月1日、第二次世界大戦による政
 府と軍部の「一県一紙令」により、熊本の2大紙「九州
 日日新聞」と「九州新聞」(政友会系)の2紙が合併して
 「熊本日日新聞」が朝夕刊セットで創刊された。
  1954年(昭和29年)8月1日、「猫てんかんで死滅、ネ
 ズミの激増で悲鳴」の見出しで水俣病を初めて報道した。
1888年10月10日、国会議事堂(仮議事堂)の起工式。
  1881年(明治14年)10月12日、明治天皇陛下の勅諭に
 よる国会開設の決定以来、議事堂の建築が建議されて来
 た。
  1885年(明治18年)に、内閣制度が発足すると議事堂
 建設の取り組みが始まった。
  1886年に、議事堂本建築の計画は、内閣に臨時建築局
 が設置され、ドイツ帝国から建築家を招聘し、
  官庁集中計画と議事堂の設計が成された(議事堂、お
 よび、中央官衙(かんが)建築に関する準備調査に着手)
  当初、ドイツのエンデ・ベックマン事務所により、本格
 的なネオ・バロック様式で計画されたが、
  1887年に、建築予定敷地を、現在位置(当時の麹町(こ
 うじまち)区永田町1丁目)とすることが閣議により決定
 されたが、
  官庁集中計画には多額の経費が必要であり、帝国議会
 の開設も切迫していたため、この計画による議事堂建築
 は中止された。
  具体的計画の立案は、この財政事情などの理由から大
 幅遅延となった。
  井上馨の失脚(1887年9月)も影響し、実現に至らなか
 った。
  しかし、1890年を期して「國會」(議会)を開く事が
 表明されていて、この第1帝国議会に間に合わせるため、
  1888年10月に、起工された。
  こうして、麹町区内幸町二丁目(現・千代田区霞が関
 一丁目、現在の経済産業省敷地)に仮議事堂が建設され
 た。
  ドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラー、および、
 臨時建築局技師・吉井茂則の設計による第一次仮議事堂
 は、第1回帝国議会召集前日の1890年(明治23年)11月24
 日に竣工した。
  1891年(明治24年)年1月20日、竣工の翌年の会期中の
 未明に、漏電により出火し、仮議事堂は全焼した。
  このため、貴族院仮議場として山下町の帝国ホテル食
 堂(当初は華族会館内・旧鹿鳴館)を、
  衆議院仮議場として、虎ノ門(とらのもん)の東京女学
 館(旧工部大学校)を使用し、急場をしのいだ。
  その後、吉井とドイツ人建築家オスカール・チーツェ
 の設計による第二次仮議事堂が、昼夜兼行の作業で再建
 され、
  同年・1891年10月30日に竣工した(第2回帝国議会は
 11月21日召集)。
  しかしまた、1925年(大正14年)に、二度目の火災に
 遭う、そして、木造の仮議事堂を再建した。
  1894年8月、日清(にっしん)戦争が勃発に際し、広島
 市内に臨時の仮議事堂が突貫工事で建築され、
  同年・1894年10月14日に竣工し、
  翌年・1895年10月15日に召集された第7回(臨時)帝国
 議会が開かれた(東京以外の開会の唯一の事例)
  1897年、本建築化が浮上したが、財政事情などで頓挫
 した。
  1899年、議院建築調査会の設置をはじめ、敷地の調査、
 地盤調査、材料調査等も実施された。
  官民各界における、建築様式、設計方法などの議論も
 活発に行われながらも、
  数次にわたる計画の休止、延伸を繰り返した。
  1906年~1907年、日露戦争後には、仮議事堂の改修、
 および、本格的な議事堂の建設が浮上し、決まったが、
 財政事情と大正政変により、実施は延期された。
  1917年(大正6年)現議事堂への動きが始まった。
  当時の大蔵省に設置された議院建築調査会の発足と、
 それによる18年度からの予算計上により、ようやく設計
 着手の運びとなった。
  設計者については、朝野の多くの議論ののち、「建築
 意匠設計はこれを国内一般の懸賞競技に付する」ことが
 決定された。
  また、第一次、第二次仮議事堂の設計や、当初の本建
 築計画の際は、当時の日本の技術水準、不平等条約改正
 の政略面などから、外国人建築家の協力を受けていたが、
  技術力の充実、国威と国産の充実を図ることなどによ
 り、応募者は日本人のみとし、また、
  材料も、やむをえぬもの以外は国産品に限ることとし
 た。
  このような経過を経て・・、
  1918年(大正7年)9月になって、新議事堂の意匠が一
 般公募されることになった。
  翌年・1919年(大正8年)2月、設計競技による応募作
 品118通中、一次選考・二次選考の二段階方式の競技設計
 を通過した4図案が決定した。
  そして、その中から、宮内省技手の渡辺福三案(実際
 には、宮内省内匠寮有志による案)が1等に選ばれた。
  当選案の様式が、新旧各層の反発を呼び、
  とくに、下田菊太郎は議会に働きかけて〈帝冠併合式〉
 (欧風の壁体に和風屋根を載せる)の採用を請願し賛意を
 得た。
  結局、その設計案は参考とするにとどめ、
  大蔵省営繕(えいぜん)管財局(当初、臨時議院建築局。
 技師長・矢橋賢吉)の手により実施設計がまとめられ、
 デザインは大幅に変更された。
  1920年1月30日、着工、
  原敬内閣総理大臣などが参列して、現在地である永田
 町の高台において、地鎮祭を挙行、
  新議事堂の建設が始まった。
  1923年(大正12年)に、関東大震災に見舞われたが、
 建設中の新議事堂、および、第二次仮議事堂は無事だっ
 た。
  しかし、1925年(大正14年)9月18日、仮議事堂は、
 改修作業中の作業員の火の不始末から火災を起こし、焼
 失した。
  このため、政府は、第三次仮議事堂設置を決め、新議
 事堂の建設は、さらに遅延することになった。
  同年・1925年12月の開会の通常帝国議会に間に合うよ
 うに、仮議事堂が、9月29日に建設着手し、
  昼夜兼行の突貫工事で、わずか3か月で建設され、
  同年・1925年12月22日に完成した。
  1936年(昭和11年)、新議事堂の完成が近づいた2月26
 日には、二・二六事件が発生、
  陸軍武装青年将校の一群が永田町一帯を占拠した。
  2月29日早朝に、武力による鎮圧が決定されると、東京
 湾御台場沖に、海軍の軍艦40隻が集結、永田町に艦砲射
 撃の照準を合わせ、反乱軍を威嚇した。
  こうした苦難を経て、新議事堂が、広田弘毅内閣総理
 大臣、冨田幸次郎衆議院議長、近衛文麿貴族院議長など
 約2800人の来賓を迎えて竣工式を迎えたのは、
  着工から実に17年を経た、1936年のことだった。
  1936年(昭和11年)11月7日、帝国議会議事堂として竣
 工し、完成した。
  敷地面積:10万3000平方メートル、建物平面積:1万3358
 平方メートル。
  第二次世界大戦を経て、1955年代・昭和30年代に入り、
 周辺の国有地が衆議院、および、参議院への移管される
 とともに、パレスハイツ(現最高裁判所庁舎)・ジェフ
 ァーソンハイツ(現衆参議長公邸)・リンカーンセンタ
 ー(現国土交通省庁舎)等の米軍接収地も返還が決まっ
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:冷戦に勝利したアメリカは、その後、本当に勝利したアメリカの道を歩んでいるのか?
.
1991年12月、ソ連が崩壊した。
  この時、ソビエト連邦共産党の解散を受けた各連邦構
 成共和国の主権国家としての独立と、
  ならびに、同年・1991年12月25日のソビエト連邦(ソ
 連)大統領ミハイル・ゴルバチョフの辞任に伴い、ソビ
 エト連邦が解体した。
  冷戦が終結した。
  冷戦に勝利したアメリカ。
  アメリカと競り合ったソ連は敗北した。
  しかし、アメリカは、冷戦に勝利しても軍事費を削減
 しなかった。
  他の国々が軍事費を削減している中でも、アメリカだ
 けは軍事費を削減しなかった。
  逆に、新しい兵器の開発をどんどん続けていた。
  ミサイルも、戦闘機も、駆逐艦も、宇宙兵器も、新し
 い世代の兵器を開発していた。
  アメリカの思惑は、『他の国に絶対にアメリカにチャ
 レンジできない国際環境を作ろう』・・という思惑だっ
 た。
  アメリカは、「アメリカだけが、アメリカという一極
 だけが、覇権を握る」だった、
  そして、「アメリカだけが、一極で・・覇権を握って
 いたい」だった。
  しかし、歴史はそう甘いもんじゃなかった・・「そう
 は問屋が卸(おろ)さなかった」。
  他のグループは、その様なアメリカへ・・金をかけて
 開発している兵器が使いずらい方法によって、「アメリ
 カへのチェレンジ」をして来た。
  アメリカの開発した最新兵器も無力化した。
  アメリカへのチャレンジは、「ゲリラ」や「テロ」で
 チャレンジされた。
  そして、また、その様なアメリカの国力は・・、アメ
 リカは、逆に、愚かなことに・・「そのアメリカの高額
 な・・そして、金を食う最新兵器開発費用」によって、
 アメリカ経済は疲弊した。
  この様な歴史は、「繰り返されていた」のである。
  アメリカの「軍事的な支配権を拡(ひろ)げたい」が、
 逆に、「国力消耗」を来たしていた。
  ハプスブルク王朝が、そうだった・・また、オスマン・
 トルコ帝国が、そうだった・・ナポレオンが、そうだっ
 た・・そして、19世紀のイギリスが、そうだった・・
  そして、20世紀後半のソ連が、前記の様にそうだった・・、
  そして、21世紀の今・現在、進行中の中国共産党政権・・
  1980年代後半から、アメリカは、世界一の借金国とな
 った。
  アメリカの紙幣・ドルが、世界の基軸通貨を良い事に、
  アメリカは、ドル紙幣の「紙っぴら」を刷り続けてい
 る。輪転機を廻し続けている。
  こんな事が、いつまでも・・続く訳がない。
  アメリカの真似ばかりをしている中国共産党政権もま
 た、このアメリカと同じことをし続けている。
  アメリカのレーガン大統領の時は、平均貯蓄率は12パ
 ーセントだった、
  しかし、ブッシュ(息子)大統領の時は、マイナス2パ
 ーセントと、マイナス域に入ってしまった。
  金がないのである。
  日本は、貢(みつ)がされているのである。
  日本企業が、ペテンの様な言い掛かりで、金をむしり
 取られているのである。
  アメリカの実質経済規模は世界経済の2割なのに、アメ
 リカの軍事費は、世界全体の軍事支出の5割~6割なので
 ある。
  異常なのである。
  アメリカの次期大統領のトランプ氏は、日本へもっと
 金を出せと言い、「軍事費を負担せよ」と言っている。
  日本が最高に協力しているのにである。
  日本の防衛予算(軍事費)は、今の倍にしないとだめ
 だと言われている。
  国の安全保障は大切だから、しっかり予算化して行か
 なければならない危険な状況にある今なのである。
  甘いことは言っていられない今なのである。
  理想論はその後にしなければならない今なのである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年12月11日日曜日

(増補版)468E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年9月~1888年10月)

題:(増補版)468E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年9月~1888年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年9月12日、地方制度編纂委員会が、府県制、郡制の法
 案を提出した(9月17日説あり)
  1884年(明治17年)、区町村会法の改正などにより数町
 村を単位とする連合戸長役場制が導入された。
  村々の連合による行政単位の広域化が図られた。
  しかし、連合村は、過剰な行政負担に相当する財政基
 盤を有しなかった。
  このため、明治政府内部において、新たな地方制度が
 模索された。
  1888年(明治21年)、この市制・町村制の公布に至るこ
 ととなった。
  この法案は、内務卿・山田顕義の命を受けた内務省大
 書記官・村田保が、
  1884年(明治17年)5月、町村法草案を作成したことに
 始まる。
  村田の転出後、同年・1884年12月、内務省内に町村法
 調査委員会が設置された。
  1885年(明治18年)6月、町村法草案が立案された。
  草案段階では、連合戸長役場方式による制度改正が志
 向されていたが、1886年(明治19年)7月に提出され、
  御雇外国人・アルベルト・モッセの意見書を契機とし
 て、町村合併による改革が図られることになった。
  1887年(明治20年)2月、地方制度編纂委員会(内閣に設
 置)が、地方制度編纂綱領を策定し、
  翌・1888年3月、地方長官会議の席上において、政府は、
 府県知事に対して「町村合併標準」を提示した。
  この「町村合併標準」では、原則300戸をもって一町村
 とすることや、なるべく、連合戸長役場管轄区域内の町
 村を合併して一町村とすることなどが示された。
  同年・1888年9月17日、市制・町村制法案が、地方制度
 編纂委員会より内閣に提出され、
  最終的には、1888年(明治21年)4月25日、市制・町村
 制が公布された翌年・1889年4月1日、施行されることが
 決定した。
  公布された後の同年・1889年6月に、内務大臣訓令第352
 号により、
  300~500戸を標準として合併すること、
  合併に際しては、連合戸長役場の管轄区域をそのまま
 合併して差し支えのないものはそのまま合併することが、
 府県知事に指示されている。
  市制・町村制により、市町村は、地方自治体としての地
 位を確立したが、内務省や府県知事などの監督権が強く、
 自治権は限定されたものだった。
1888年9月12日、駐清公使・塩田三郎が、日清条約改正難航
 のため、一時中止と将来の交渉再開を清国に通告した。
  1886年3月31日に、井上馨外相が 、日清修好条規改正
 を清国政府へ提議するよう、公使・塩田三郎に指示して
 いた。
  日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)は・・、
 1871年9月13日(明治4年7月29日)に、天津で、日本と清
 の間で初めて結ばれた対等条約で・・
  内容には・・、
   ・両国は、互いの「邦土」への「侵越」を控える(第1
   条)
   ・外交使節の交換、および、双方に領事を駐在させる
   (第4条、第8条)
   ・・など、といった内容であった。
  1886年8月、北洋艦隊(最新鋭艦「定遠」と「鎮遠」な
 ど)の長崎来航時の長崎事件、清との交戦の可能性のあ
 った清国海軍兵士による乱暴。
  海軍力で優位にある大国の清が侵攻するかもしれない
 という想定も考えられた。
  清の「定遠」や「鎮遠」は、当時の世界最大級の砲を
 4門そなえ、装甲も厚い東洋一の堅艦で、日本海軍にとっ
 て化け物のような巨大戦艦だった。
  それに威圧されたのだった・・海軍力増強へ向かう。
  日本の海軍力は、軍艦総トン数、1876年:14300トン
 1893年:50861トンに増加している。
  軍事費(一般会計の歳出決算額に占める軍事費)1876
 年・17.4%(陸軍11.6%、海軍5.8%)、1893年:27.0%
 (陸軍17.4%、海軍9.6%)
1888年9月13日、伊藤博文が、西郷従道ら釜山、元山、ウラ
 ジオストクの視察のため出発した。
1888年9月15日、尋常師範学校教員に執務中に制服着用を命
 じた。
   1886年(明治19年)8月、文部大臣・森有禮の西欧的な
 教育政策から、
  東京女子師範学校の生徒が、洋服を制服として着用し
 たことから、
  各師範学校に、この影響が及んで行った。
  同年・1886年、秋田師範学校女子部が、制服を洋服化
 し、
  1888年(明治21年)には、福島の師範学校でも、洋服
 の制服を制定した。
  師範学校の女子教師についてみると・・、
  1888年(明治21年)10月1日の「官報」第1578 号に、
 「埼玉県尋常師範学校、〈中略〉女教員ハ洋服又ハ裳袴
 ヲ着シ」とあり、
  教師には洋服以外に裳袴を認めた例であり、学生より
 は服装規定がゆるやかだった。
1888年9月17日、枢密院が、議員法の審議を開始した。
1888年9月25日、宮内省に臨時全国宝物取調局を設置した。
  宮内省のこの局によって、全国の文化財調査を実施し、
  また、博物館についても、1886年に、宮内省の所管と
 した。
  日本における博物館の創設は、1867年(慶応3年)に
 フランスのパリで開催された万国博覧会を契機として、
  1871年( 明治4年)に、文部省内に博物局が設けられ、
 湯島聖堂を博物館としたことで、その第一歩が踏み出さ
 れた。
  奈良においては、1874年(明治7年)に、官民合同によ
 る奈良博覧会社が設立され、
  東大寺大仏殿廻廊を会場として、正倉院宝物をはじめ
 貴重な寺宝類が陳列された。
  この博覧会は、1890年(明治23年)まで続けられ、明
 治維新後の廃仏毀釈によって 荒廃・散逸の恐れのあった
 多くの文化財は、この博覧会によって人々に貴重な遺産
 として認識されるようになった。
  ことに奈良は、廃仏毀釈の影響を受けることが著しか
 ったが、
  こうした文化財の保存に対する関心の高まりのなかで、
 政府は、1888年(明治21年)に、宮内省の臨時全国宝物
 取調局を設けて全国の文化財調査を実施し、
  また、博物館についても、1886年(明治19年)に、宮
 内省の所管とし、
  ついで、1889年(明治22年)、帝国博物館(東京)、
 帝国京都博物館とともに帝国奈良博物館の設置を決定し
 た。
  1895年(明治28年)4月、帝国奈良博物館の開館が実現
 した。
  その後、1900年(明治33年)、宮内省は、官制改正に
 伴い 帝国博物館を帝室博物館に改名し、帝国奈良博物館
 も奈良帝室博物館となった。
 (奈良国立博物館ホームページを参考にした)
1888年9月26日、守田勘弥が、新設予定の歌舞伎座創立に対
 抗して、新富、市村、中村、千歳の4座同盟を結成して、
 興業の調整をしようと提案した。
  この後、新富座は、歌舞伎座と歩調を合わせながら明
 治の歌舞伎黄金時代を築いて行った。
  しかし、新富座は、1910年(明治43年)松竹が買収し
 て、松竹の経営下に移った。
  新富座は、日本の近代劇場化の端緒となったが・・、
 1923年の関東大震災で被災すると、そのまま再建されず
 劇場は廃座となった。
  現在、京橋税務署が建っている。
1888年10月1日、伊藤博文、西郷従道ら帰国した。
1888年10月1日、日本初の火災保険会社の東京火災保険会
 社(現=安田火災)が営業を開始した。
  日本で保険制度が始まったのは、江戸時代の末期と考
 えられている。
  江戸幕府は、1858年(安政5年)、アメリカ、オラン
 ダ、ロシア、イギリス、フランスと相次いで修好通商条
 約を締結し、外国貿易の門戸を開いたが・・、
  これに伴って、外国の保険会社がわが国に進出した。
  この商館を代理店として、主に、海上保険の営業が開
 始された。
  損害保険等の保険制度は、外国で考えられた制度であ
 るが、
  この保険の考え方を紹介したのが福沢諭吉だった。
  1866年(慶応2年)に発刊した『西洋事情』の中で「
 火災請負ひ(火災保険)」、「海上請負ひ(海上損害保
 険)」のことについて解説した。
  また、翌年の1867年(慶応3年)に刊行した『西洋旅案
 内』の中では、
  保険の仕組みを「災難請合の事(イシュアランス)」
 という表現で、次のように述べている。
  「災難請合とは、商人の組合ありて、平生無事の時に
 人より割合の金を取り、万一其人へ災難あれば、組合よ
 り大金出して其損亡を救う仕法なり。
  其趣旨は、一人の災難を大勢に分ち、僅の金を棄て大
 難を遁るる訳にて・・」・・と、
  生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上
 請合(損害保険)の三種の災難請合について説いている。
 (注・イシュアランスは、insuranceの誤読と思われる)
  その後、1869年(明治2年)山東一郎編の『新塾月志』
 の2月号には、「インシュランス」を支那語に訳すと、
 「保険、又は、担保」という文字を当てるという記述が
 ある。
  訳語には、ウケアイというふりがながついていて、他
 にも請負、受合、担保という文字も使われている。
  「保険」という文字が使われるようになったのは、1977
 年・明治10年代に入ってからだった。
  火災保険は、イギリスで、1710年に、「サンフワヤオ
 ヒス」という保険会社が、創設されたのに始まると言わ
 れている。
  日本では、この年・1888年(明治21年)10月1日、東
 京火災保険会社(現・安田火災)が業務を開始したのが
 はじまり。
  日本で火災保険が誕生するまでには、いくつかの経緯
 を経た。
  明治初期に、日本は、外国の新しい制度や技術を導入
 するため、御雇い外国人を招聘し、それぞれの基礎を築
 いた。
  火災保険制度もドイツ人のパウル・マイエット博士に
 よって生まれた。
  マイエットは、1878年(明治11年)4月、「日本家屋保
 険論」という講演を行っている。
  その中で、「火災保険は国民生活の安定、財産の保護、
 産業の発達に多大の効果があり、
  日本には、水火災の被害が、毎年、膨大な額に達する
 にもかかわらず、保険制度が存在しないことは遺憾であ
 り、国営火災保険を早急に実施すべきである」と提言し
 た。
  これは、マイエットの母国・ドイツの「公営強制火災
 保険制度」の影響を強く受けたものだった。
  当時、参議兼大蔵卿であった大隈重信は、この提言に
 共鳴し、
  1879年(明治12年)4月、マイエットを大蔵省顧問に迎
 え、
  同年・1879年5月7日、大蔵省内に火災保険取調掛を新
 設して、各種の家屋の価格や現存する家屋数等の調査を
 開始した。
  1881年7月、調査結果に基づいて作成された「家屋保険
 法案」が太政大臣に提出されたが、
  この法案に対し、当時、イギリス自由主義の旗頭であ
 った田口卯吉は、「火災保険の趣旨には賛成するが、国
 が強制するのは自由の精神に背くもの」と反対意見を述
 べた。
  また、内務卿・松方正義も、「明治10(1877)年の西
 南の役によって、政府の財政は疲弊しており、人民にも
 地方税、備荒儲蓄法等の新たな税負担が相次いでいる時
 に、家屋保険を強制することは受け入れがたい」と反対
 した。
  1882年(明治15年)このことから、参事院は、太政大
 臣に対して、財政難と市民の負担増を理由に「火災保険
 は民営とし、これを保護することが良策である」と上申
 した。
  これを受けて太政大臣は、「家屋保険法案」の廃案を
 決定し、国営保険制度は頓挫した。
  そして、数年が経て後、関連した官立保険局設立計画
 書を参考として、
  有限責任東京火災保険会社(安田火災の前身)が、わ
 が国初の民営火災保険の創設を計画し、この年、1888年
 (明治21年)10月1日、火災保険業務を開始した。
  1891年(明治24年)引き続き、明治火災、
  1892年(明治25年)日本火災が創業した。
  現在、火災保険料は、建物の所在地や建築状態、用途、
 環境などによって、料率の算定が行われているが、スプ
 リンクラーや消火栓設備などの消防用設備を備えること
 によって、保険料が割り引かれている。
  (東京消防庁、ホームページを参考にした)
1888年10月1日、小田原馬車鉄道(後の箱根登山鉄道)の国府
 津~小田原間が開通した。
  東海道本線の開通に先立って、1888年(明治21年)の
 この時、、国府津より小田原を経て、箱根湯本へと、馬
 車鉄道が開業した。
  そして、『鉄道唱歌』に・・、
  「國府津降りれば馬車ありて酒匂小田原遠からじ」と
 歌われた。
  交通の動脈を外れた小田原宿が衰退した。
  110軒もあった旅籠が次々と廃業した。
  小田原は、必死に鉄道誘致を行なった。
  そして、1920年(大正9年)國府津~熱海間に熱海線が
 開業した。
  これによって、東京~横浜~小田原へ列車が通った。
  そして、箱根観光や湯治の拠点として、小田原は回復
 した。
  鉄道開業は、町を挙げて祝った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:NHKの屁理屈論理の放送(広島・長崎に原爆を落とされたのは、
    日本が、中国の重慶の爆撃をしたからだ・・と放送した。
    まったく、根拠のない、嘘の、日本人を洗脳する卑劣な放送だった。
    そして、アメリカは、真珠湾攻撃前に、中国で、隠密裏に、日本を
   奇襲攻撃をしていた。
    アメリカよ!・・謝罪せよ!!
.
1938年12月4日~1943年8月23日、重慶爆撃
  1937年に起きた第二次上海事変の結果、日本軍は、中
 華民国の首都・南京を攻略し占領した。
  これに対して、中国・国民政府は、首都機能を南京か
 ら漢口に移転した。
  しかし、漢口も陥落したため、さらに、内陸である四
 川の重慶への首都の移転をした。
  アメリカは、この年・1937年から、この中国の国民政
 府・蒋介石へ、大量の武器などの軍事物資を「援蒋ルー
 ト」を通じて送り続けた。
  後に、正規のアメリカ軍人(例えば、クレア・リー・
 シェンノートら)を参加させ、
  また、退役軍人だと称したり、義勇軍だと称したりし
 てアメリカ軍をも、秘密裏に対日戦に参戦させた。
  れっきとした大統領のルーズベルトの命令であった。
  日本の真珠湾攻撃以前に、アメリカは、この様な事を
 していた。
  日米の戦端は、日本の真珠湾攻撃以前に開かれていた。
  日本が、「真珠湾攻撃の奇襲をした」何て言われる筋
 合いはない。
  逆に、『アメリカが、隠密裏に、中国で、日本を奇襲
 攻撃をしていた』のだ。
  アメリカよ!・・謝罪せよ!!
  日中戦争が収束しないで、拡大の一方だったのは、日
 本を叩きたいアメリカの思惑だった、方針だった。
  この様な経緯の中で、真珠湾攻撃へ至ることは、アメ
 リカが承知し、れっきとした方針だった。
  この様な、これからの経緯をたどる中で、日本は、こ
 の時、中国の重慶を爆撃した。
  (因みに、第二次上海事変も、「起こされた事変」だ
 った。
  この頃の日本の方針は、穏便に収めたいという方針だ
 った)
  この様な中、中国軍も、ここ重慶へ撤退し、逃げた。
  それ故、日本は重慶を爆撃した。
  しかし、NHKは、日本の公共放送NHKは・・、
  この爆撃が、広島・長崎の原爆投下をした原因になっ
 たのだという論理をNHKは言い出した。
  まったくの言い掛かりである。
  卑劣な、そして、真実を知らない言い掛かりである。
  朝日新聞が、慰安婦問題で、嘘記事・捏造記事を書き
 謝罪をしたが、
  NHKも、この論理・言い掛かりも、この様なもの。
  また、毎日新聞も、朝日新聞と同じ様なことをしよう
 としているから注意を要する。
  ひたすら日本だけの悪い所を言い続け、公平な言い方
 をしていない。
  NHKも同じ事をした。
  その言い方の卑劣な所は、「広島や、長崎に原爆が落
 ちたのは『自業自得だ』的な言い方」のところである。
  NHKは、たちが悪い。
  それは、「日本が先に中国の無差別爆撃をしたからだ」
 の言い方である。
  東京大空襲の無差別爆撃も、大阪の無差別爆撃も、日
 本の各地の都市の無差別爆撃も、皆、この中国のこの爆
 撃行為が原因だのような言い方である。
  そして、アメリカが原爆を投下したのは、だから、正
 しいのだの言い方である。
  正しい訳がない。
  さも、低劣な論理の『町のあんちゃん』が、「お前が、
 先に手を出した」、「俺につっかけたから、刺したんだ」
 という言い掛かりがごとくである。
  こんな言い方が、世の中に通るなら、世の中が、まっ
 たく恐ろしい世の中になってしまう。
  世の中に、常識が通らないこの様な放送を、公共放送
 であるNHKが、全国放送をするから・・恐ろしい。
  NHKは、時々、この様な国民をだまし、そして、洗
 脳する嘘放送をするから恐ろしい、始末が悪い。
  こんな簡単な論理が解らないで、マスメディアを繰り、
 そして、利用できるという立場にNHKは居る。
  常識が、まったく無いと言える。
  NHKは、巨大な放送媒体を使って、超強力な影響力
 のある放送媒体を、我が物の様に使って、まったく自制
 心なく、この様なプロパガンダ(嘘宣伝)放送をしてい
 る。
  スペインは、日本より早く空爆をしている。
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教国・スペイ
 ンには、この様な偏見放送はしない。
  スペインが、空爆で、嫌と言うほど爆弾を投下したの
 が、1936年~1939年のスペイン戦争時・・、
  日本の重慶爆撃が、1938年12月4日~1943年8月23日で、
 8年も後の事である。
  完全に、スペインの方が早い。
  空爆の行為は、1914年から始まった第一次世界大戦で、
 既に、行なわれていた。
  また、1849年には、オーストリア帝国が、ベニスを気
 球で爆撃している。
  1871年には、フランス政府が、パリコミューンに爆撃
 している。
  1911年には、イタリア軍が、飛行機からトルコに手榴
 弾手を投下している。
  1912年~1913年に、バルカン戦争で、22ポンド爆弾を
 開発して、盛んに都市爆撃をしている。
  1914年の第一次世界大戦では、ドイツが、パリ爆撃を
 し、
  1915年は、飛行船で、
  1917年に、イギリス本土爆撃を、
  そして、イギリス・フランスも、その報復爆撃を、1915
 年後半には、戦闘機・爆撃機と別れて盛んに爆撃してい
 る。
  日本は、1914年9月の青島の戦いで、海軍のモーリスフ
 ァルマン式飛行機の4機で、青島市街が最初。
  この飛行機は、ライト兄弟の飛行機の様な飛行機で、
 爆撃したと言えないくらいだった。
  そして、この戦いは、第一次世界大戦であるので、こ
 の後、ドイツ戦艦に対して実施した。
  命中しなかったという。
  心理効果を狙った。
  NHKよ! 重慶爆撃以前に、こんなに空爆の事例が
 あるのに・・、
  何故?? 重慶爆撃だけが、「原爆投下につながった
 のか?」「広島・長崎の原爆投下につながったのか??」
 ・・説明せよ!!
  説明できなければ、謝罪せよ!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年12月9日金曜日

(増補版)467E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年8月~1888年9月)

題:(増補版)467E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年8月~1888年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年8月20日、三池鉱山が三井組へ払い下げられた。
  1876年(明治9年)この年に、旧三井物産が設立された。
  そして、この頃、三池炭鉱は、工部省の直営事業であ
 った。
  幸いなことに、出炭量が増えて、販路の開拓に苦慮し
 ていた。
  1877年(明治10年)工部卿であった伊藤博文は、その
 輸出がひらめいた、そして・・、
  旧三井物産社長の益田孝に、三池炭の輸出を持ちかけ
 た。
  益田は大牟田まで赴き、その石炭の質を確かめるため、
 実際に、七輪で焚いてみた。
  硫黄分が多く、着火しやすい良質な三池炭に感心した
 益田は輸出契約を締結した。
  そして、翌年の1878年には、三池炭輸出の委託販売権
 を獲得した。
  三池炭は、旧三井物産を通して、上海、香港、シンガ
 ポールなどの海外各地へ輸出された、そして同時に、
  旧三井物産も外国に支店を増やした。
  海外展開を大きく拡張して行った。
  明治政府は、官営事業の民間への払下げを打ち出して
 いた。
  民間企業の充実・・そして、拡充・・、
  ・・が、しかし、三池炭鉱は、優良事業として民間払
 下げをせず・・官営を続けていた。
  1888年(明治21年)、しかし、ようやく・・三池炭鉱
 の払下げが決定した、そして、入札が行なわれた。
  政府の指値は、400万円という高額だった・・当時とし
 ては破天荒な金額であった。
  たとえば、三菱に払い下げられた長崎造船所は9万円だ
 った。
  価格に関わらず三池炭鉱を落札しなければならないと
 した益田は、三井銀行を説得し、100万円の融資を取り付
 けた。
  三菱と熾烈な競争が展開された・・、
  その結果、455万5000円で、三井組が三池炭鉱を落札し
 た。
  この時、三池炭鉱と共に三井が手に入れたかったのは
 人材としての鉱山技師・團琢磨(だんたくま)だった。
  黒田藩勘定奉行の養子であった團琢磨は、1871年、岩
 倉使節団とともに渡米し、マサチューセッツ工科大学で
 鉱山学を学んでいた。
  1878年に帰朝し、東京大学助教授などを経て、
  1884年、工部省に採用され、三池鉱山局に勤めていた。
  三井組の三池炭鉱落札の時、團は、三池炭鉱の湧水対
 策を学ぶため、欧米各国の炭鉱を視察中であった。
  ニューヨークで、民間に払い下げられた「その事実」
 を知った。
  職場の払下げにより、失職した。
  行き場を無くした團は、義兄に相談し、義兄のの斡旋
 で、福岡県庁への入庁が内定していた。
  しかし、益田は、これを聞いて驚いた。
  益田は、以前から團の才能を買っていた。
  「三池の落札価格に、團の価値も入っている」と、益
 田は、主張した。
  そして、福岡県庁の2倍の給金で、團を招聘した。
  1889年、旧三井物産は、「三井炭鉱社」を組織した。
  團は、事務長に就任した。
  1893年には、三井鉱山合名会社が設立された。
  専務理事となった團は、最新の排水ポンプによる湧水
 問題の解決をした。
  また、三池築港など鉱山事業などをして・・その手腕
 を発揮した。
  後に、三井合名理事長まで上り詰めた。
  三井の雄となった。
  三井鉱山は、三井のドル箱として・・、
  三井銀行、旧三井物産とともに・・戦後、石炭産業が
 斜陽化するまで「三井の御三家」の一角を担い、三井を
 支えた。、
  三井財閥の発展を支える大切な中核事業として存在し
 た。
  そして、日本を支えた。
  (三井広報委員会のホームページを参考にした)
1888年8月21日、尋常師範学校設備準則を制定した。
  この法律で、我が国初めての『修学旅行』という言葉
 が使われた。
  1886年(明治19年)に、師範学校令が公布され、わが
 国の師範教育制度は、ここにはじめて整備への第一歩を
 踏み出した。
  これ以前から、理知的に進んでいた日本は・・師範教
 育も、すでに、発展して来ていた・・が・・、
  全国的に整備された教員養成制度は、まだ、確立され
 ていなかった。
  この師範教育制度の改革を進めたのが、文部大臣・森
 有礼であった。
  森は、国民教育の根本は「師範教育にあり」とした。
  そして、その重要性を認め、
  師範教育の理念を制度の上において・・実現しようと
 努めた。
  1886年(明治19年)4月10日、「師範学校令」が公布さ
 れた。
  そして、この師範学校令、ならびに、その後、これに
 関連して設けた諸規程によって・・、
  小学校・中学校・帝国大学とは全く別個に、独立させ
 て・・「教員養成のための師範学校制度を確立しよう」
 とした。
  師範学校令・第一条:
  「師範学校ハ教員トナルヘキモノヲ養成スル所トス但
 生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備へシムルコトニ注目
 スヘキモノトス」。
  師範学校令に続いて・・、
  1886年(明治19年)5月26日、「尋常師範学校ノ学科
 及其程度」(女生徒については、明治22年10月)、
  1886年5月28日、生徒募集規則、および、卒業生服務規
 則、
  1886年6月4日、尋常師範学校男生徒の学資支給に関す
 る件、
  1888年8月21日、尋常師範学校設備準則・・を定めた。
  高等師範学校については・・、
  1886年(明治19年)10月14日、「高等師範学校ノ学科
 及其程度」、高等師範学校生徒募集規則、および、高等
 師範学校卒業生服務規則・・を定めた。
  尋常師範学校の入学資格は、高等小学校卒業以上の学
 力を有し、年齢17年以上20年以下の者、修業年限は4年と
 した。
  高等師範学校には、男子師範学科と女子師範学科とを
 置き、
  男子師範学科の入学資格は、尋常師範学校を卒業した
 者とし、その修業年限を3年と定め、
  女子師範学科は、尋常師範学校第2学年修了者を入学さ
 せ、修業年限を4年とした。
  1890年(明治23年)3月25日、女子部を分離して、女子
 高等師範学校を創設した。
  (文部科学省のホームページを参考にした)
1888年9月1日、東海道線の浜松駅~大府駅間が開通した。
  愛知県大府市にある大府駅(おおぶえき)が、この時
 のこの開通による官設鉄道線開業により、2線の分岐駅と
 なった。
1888年9月8日、森鴎外が、ドイツから帰国した。
  明治の文豪・森鴎外のこのドイツ留学には、美しいロ
 マンスがあった。
  鴎外の代表作の「舞姫」にもなっているが・・、
  鴎外のドイツの恋人(舞姫ではエリス)は、実際の話
 だった。
  エリスは、鴎外を追って日本へ来た。
  鴎外のこのドイツからの帰国から一週間もたたない頃、
 横浜港に入港した客船のゲネラル・ベーター号から、ひ
 とりのドイツ人女性が降り立った。
  女性の名をエリーゼと言った。
  エリーゼは、現在の銀座五丁目にあった築地精養軒に
 宿泊し、鴎外への気持ちを実現したいとした。
  鴎外と会えることを心待ちにした。
  しかし、このエリーゼの来訪は、海軍中将の娘である
 登志子との縁談が整いつつあった鴎外の周囲を動揺させ
 た。
  鴎外の親戚や友人が、帰国を説得するために精養軒に
 連日通った。
  鴎外自身も数回精養軒を訪れた。
  結局、エリーゼの恋は実現を果たせずに・・来日から
 約1ヶ月後・・ドイツに帰国した。
  しかし、鴎外の心には、生涯エリーゼを忘れることは
 無かった・・と・・言われている。
  鴎外の次女の小堀杏奴の著作に・・、
  「この女性とは、その後、長い間、文通だけは絶えず
 にいて、
  父は、女性の写真と手紙を、全部一纏めにして死ぬ前、
 自分の眼前で、母に焼却させた」・・と、記されている。
  (小堀杏奴「晩年の父」より)
1888年9月11日、高等師範学校附属学校に尋常中学科(現・
 筑波大学附属中学校・高等学校)が設置された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:色々な・・はなし・・
.
紀元前3万年、北アメリカ大陸に最初に住んだ人々は、アジ
 ア系のモンゴロイドであった。
  この人々・インディアンの方々は・・、
  氷河期であったおよそ3万年前から1万年前にかけて、
 凍結したベーリング海などを渡って、
  シベリアからアラスカを経由し、
  広大な南北アメリカ大陸各地入り、そして、分散して
 行った。
  こうした人々・インディアンの方々は、母系社会によ
 る独自の文化を育んだ。
  今、アメリカ合衆国には、そのずーと後に来た白人が
 我が国土の様な顔をして住んでいるが・・、
  この白人たちの論理は・・、
  「この先住の民であるインディアンの方々が国家を形
 成していなかったから」・・なんて、屁理屈を言う、
  「だから、土地を奪ってもよかったのだ」・・という
 筋の通らない屁理屈論理を展開している。
  「部族は形成していたが、国家は形成していなかった」
 という理屈・論理である。
  もし・・ある家が、家庭崩壊していたら・・、
  家庭という状況が崩壊し、家庭が形成されていなかっ
 たら・・第三者は、その家を「乗っ取っても良い」とい
 う論理である。
  その様な論理が、「正義であるわけはない」。
  そして・・、
  近世まで、北米には、中南米に匹敵するインディアン
 文明が存在しないとされていたが、
  近年発掘が進み・・、
  8世紀から16世紀頃まで続いたとされるミシシッピ文化
 の存在が、マウンド(土塁)群と呼ばれる墳墓遺跡によ
 って確認された。
  そのうちもっとも大規模なものは・・イリノイ州セン
 トルイス郊外のカホキアと呼ばれる大遺跡で、
  最盛期で1万人に達したとされている。
  この超巨大遺跡は・・、
  1982年に「カホキア・マウンド州立史跡」として世界
 遺産に登録された。
  イタリア(ジェノヴァ)人クリストファー・コロンブ
 スは、スペイン女王の承諾を受け、
  大西洋周りによるアジア発見を志したが、
  1492年に、西インド諸島に到達した。
  これに引き続き、1498年、英国人・ジョン・カボット
 が、
  北米大陸の東海岸を探検し、英国がこれを領有(ニュ
 ーイングランド植民地)、
  1534年、フランス人ジャック・カルティエが、セント
 ローレンス川を遡って、これをフランスが領有化(カナ
 ダ植民地)するなどがあった。
  これらのヨーロッパ人による南北アメリカ大陸の探検
 と開拓、インディアンに対する領土略奪と虐殺がはじま
 った。
  16世紀に、ヨーロッパで、キリスト教の宗教改革がな
 され、プロテスタント(新教徒)が生まれた。
  その様な中で、イギリスでは、宗教的な迫害(はくが
 い、弱い立場の人々を追い詰めて、苦しめること)を受
 けたピューリタン(清教徒)が、1620年のメイフラワー
 号で、アメリカへ渡った。
  これをきっかけとして、新天地を求めた新教徒が相次
 いで入植した。
  現在のアメリカ合衆国を作ったと言われるこの人々は、
 アメリカ大陸に渡った最初、厳しい冬期・厳寒期が越え
 られず、餓死者が多く出る・・大変出るという状況だっ
 た。
  餓死者が出るくらいと言うより、ほとんどが死んでし
 まうかという酷(ひど)さだった。
  元のイギリスへ、再び、帰ろうかという状況だった。
  この窮地(きゅうち、追い詰められて逃げ場のない苦
 しい状態や立ち場)を救ってくれたのが、アメリカ・イ
 ンディアンの方々だった。
  アメリカ・インディアンの方々に助けられ、耕作物の
 種類を教えてもらい、
  また、その生育方法なども教えを受けたりと、
  越冬方法なども教えてもらい。
  やっと、力を付け、安住できるようになった。
  すると、今度は、安住ができるようになると・・、
  今度は、アメリカ・インディアンの方々と混住できな
 いと、人種差別の行動に出た。
  キリスト教の「有色人種蔑視の考え方」に洗脳された
 頭に影響され、
  有色人種であるアメリカ・インディアンの方々の追い
 出しに出た。
  恩も義理もないキリスト教の宗教の世界に住む人々の、
 耕作地を拡大したいという欲に敗けた姿も出た。
  そこには、仏教の教える「共生の姿」はなかった。
  アメリカ合衆国は、イギリスとの戦争に勝つと、ミシ
 シッピー河以東の地は、「我が領土だ」と、勝手に奪っ
 た。
  そしてさらに、卑劣なことに、そこに住む本当のその
 地の持ち主であるインディアンの方々の追い出しにかか
 った。
  アメリカ・インディアンの方々は、昔から居て、幸せ
 に暮らしていた、
  当然の生活をしているのに関わらず、
  アメリカは、その手に入れた地から、奪い取った地か
 ら、先に住んでいたアメリカ・インディアンの方々の追
 い出しにかかった。
  ただ、イギリスとの戦争に勝っただけなのに・・であ
 る。
  アメリカ・インディアンの方々に、何ら関係がない事
 なのに・・である。
  まったく関係のないアメリカ・インディアンの方々に、
 初めの恩も何も棄てて、自分だけの利益だけに執着し、
 卑劣な行為をし始めた。
  アメリカ・インディアンの方々は、力で、武力で殺戮
 され、
  そして、ミシシッピー川以東に居る人々のすべてを、
 河の西へ行けとされた。
  生活が出来なくなったインディアンの方々は、ミシシ
 ッピー川以西に追われた。
  殺戮を伴う追い出しに、やむを得ず、逃げて行った。
  この際限ない欲に敗けた者どもの追い出しは、また際
 限なく繰り返された。
  アメリカ合衆国は、その後、追い出したその地から、
 また、さらに、インディアンの方々を追い出し・・、
  その様な卑劣な行為を繰り返し、アメリカ合衆国は出
 来て行った。
  インディアンの方々の土地を奪って行く、西へ西へと
 奪って行く、その地を奪って行く。
  今、アメリカ・インディアンの方々は、人口が激減し、
 絶滅に瀕している。
  そして、キリスト教は、その弱いインディアンの方々
 を殺戮し、土地を奪った行為を賞賛している。
  そして、1620年の移民は、アメリカのプロテスタント
 の間で『偉業として称えられている』。
  「マニフェスト・デスティニー」だと・・???
  当然、インディアンの方々からは、民族虐殺の始まり
 として、『罪なる行為の始まり』として
  「ピルグリム・ファーザーズの感謝祭」には、大規模
 な抗議が行われている。当然である・・、
.
  そして、次の話・・、
.
1644年、江戸時代の初期のころ、中国では、明朝が滅び
 (1644年)、清朝が成立したばかりだった(1644年)
  明朝の生き残りの勢力の鄭芝龍・鄭成功親子は、台湾
 へ逃れた、
  そして、鄭政権を作った。
  鄭成功は、日本人を母として、日本とも関係の深い政
 権だった。
  この時、清朝の台湾侵略の脅威に脅(おびや)かされ
 ていた。
  その脅威が生じるたびに、鄭成功は、江戸幕府に援軍
 を要請して来た。
  この時、江戸幕府は、鎖国体制だったが、台湾を守ろ
 うと「出兵を決定」した。
  この時の清朝は、「韃靼(だったん)人」による政権
 で(モンゴル)と同じ政権だった。
  鎌倉時代のモンゴル来襲も意識下にあって、出兵の必
 要を感じ、意識し、決意していた。
  老中は、「台湾の安全が、日本の安全に直結する」と
 意識していた。
  今・現代、中国共産党政権が、覇権の拡大路線をとる
 とき、この史実は、よく心しておく必要がある。
  今、完全に北朝鮮は「ロシア離れ」を起こし、中国共
 産党政権の息のかかった中にいる。
  「六か国協議」にしたって、北朝鮮の「核爆弾開発」
 と、「ミサイル開発」の最も大切な「詰めの時期」に、
  北朝鮮が安全に、それなりに、過ごす『時間稼ぎ』に
 使われ、
  結局、北朝鮮の目的が達せられつつある。
  この開発を、裏から応援していたのが、中国共産党政
 権であった。
  中国は、覇権拡大とともに、当然、対抗勢力の分断行
 為をする。
  韓国が、北朝鮮の核開発の進展とともに揺れ出し、38
 度線が、対馬海峡に移ってくる気配も感じられる。
  中国共産党政権の狙いの中に、当然、「日米分断」が
 あり、「太平洋を半分づつ」と、アメリカに言った意識
 もある。
  分断には、まず、「日本を封じ込める」という戦略も
 取る。
  過去に、「ABCD包囲網」で、日本を包囲した記憶
 が消えないのだろう。
  アメリカの覇権に、とって代わりたい中国共産党政権
 がある。
  長期的にも、それを達成したいがある。
  その達成のため、中国共産党政権は、「国際的合意」
 という手を使うだろう。
  簡単に言えば、「クラスのいじめられっ子」状態に、
 そして、「国際的合意だからやれ」と、日本の不利な事
 を押し付けて来るのだろう。
  その発言力を高めるため、「二桁の軍事費」を投入し、
 増大し続けている。
  今までの人類の歴史にない規模の異常な軍事費の急拡
 大を続けている。
  アメリカは、「世界の警察官」の立場はとれないと、
 止めたと、放棄の公言をした。
.
  そして、次の話・・、
.
  題:文明開化の地でパンが作られ始めた・・、
.
1860年、パンの発祥(横浜)
  パンの発祥地という事で、横浜に石碑が建った(2016
 年11月9日報道)
  石碑が建った場所は、横浜の日本大通りで、1860年に
 開業したという。
  記事:
  最初にパン店が出来たとされる横浜市中区日本大通り
 に8日、「近代のパン発祥の地」と書かれた石碑がお目見
 えした。
  パン食文化発祥の説明とともに、開港直後から親しま
 れてきた「イギリス流山型食パン」と丸形の「フランス
 パン」の写真が焼き付けられており、早速、観光客らが
 見入っていた。
  同市総合パン協同組合などによると、最初のパン店が
 開業したとされるのは1860年。
  外国人の日用食品街「お貸し長屋」の一角で、内海兵
 吉という人物が、フランス人にパン製法を習って始めた。
  当初は、良い発酵方法がなく、「焼きまんじゅう」の
 様だったという。
  イギリス流の山型食パンは、イギリス人のパン店で修
 業をした打木彦太郎氏が庶民に広め、今も元町にある「
 ウチキパン」が当時の製法を引き継ぐ。
  こうした伝統を多くの市民に知ってもらおうと、パン
 業者が加盟する同組合などが碑の設置を進めて来た。
                 (読売新聞より)
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  そして、次の話・・
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1922年11月17日、アインシュタイン氏が来日した(~12月
 29日までの43日間)
  フランスなどを訪れ、そして、日本への訪問を目的に
 夫婦で客船「北野丸」に乗船し、そして、11月17日に訪
 日した。
  アインシュタイン氏は、大正天皇陛下に謁見ている。
  アインシュタイン氏は、ラフカディオ・ハーンが記し
 た美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、
  科学の世界的連携によって、国際関係を一層親善に導
 くことが訪日の目的である・・と語った。
  そして、アインシュタイン氏は、2人の息子にあてた手
 紙に、
  「私が会った全ての人々の中で、日本人が一番好きだ。
  謙虚で、物分かりや察しがよく、
  技術に対する勘があるから」・・と、訪日した際の感
 想を述べている。
  広島では、多少なりとも原子爆弾開発を後押しした行
 為を行ってしまったと悔やみ、そして、謝罪した。
  また、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹氏と面会
 した際にも、同様の理由で、涙ながらに謝罪したという。
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  アインシュタインには、その言葉に、多くある日本を
 賛美する言葉がある。
  以下の文は、1922年に、アインシュタインが日本を訪
 れた時に、
  日本に託した言葉だと云われている。
  アインシュタインは、日本と日本人に対して、敬愛の
 念を持っていた。
  彼が残した色々な文面には、日本を賛美する言葉が数
 多く残されている。
  アインシュタインが日本で最も感銘を受けたのは、建
 築をはじめとする・・、
  日本の伝統的芸術であり、やさしい国民性であったと
 言われている。
  日本の良い歴史や、日本人の素晴らしい精神性を学び、
 アインシュタインがこよなく愛した、よき日本人となり、
  世界平和の発信リーダーとなれる国にしましょう。
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  アインシュタインの言葉・・
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  近代日本の発達ほど世界を驚かしたものはない。
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  その驚異的発展には、他の国と違ったなにものかがな
 くてはならない。
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  果たせるかなこの国の歴史がそれである。
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  この長い歴史を通じて一系の天皇を戴いて来たという
 国体を持っていることが、
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  それこそ、今日の日本をあらしめたのである。
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  私はいつもこの広い世界のどこかに、
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  一ヶ所ぐらいは、このように尊い国がなくてはならな
 いと考えてきた。
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  なぜならば、世界は進むだけ進んで、その間、幾度も
 戦争を繰り返してきたが、
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  最後には闘争に疲れる時が来るだろう。
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  このとき人類は必ず真の平和を求めて
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  世界の盟主を挙げなければならない時が来るに違いな
 い。
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  その世界の盟主こそは武力や金の力ではなく、
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  あらゆる国の歴史を超越した、世界で最も古くかつ尊
 い家柄でなくてはならない。
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  世界の文化は、アジアに始まってアジアに帰る。
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  それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。
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  我々は神に感謝する。
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  神が我々人類に日本という国を作って置いてくれたこ
 とである。
  (日本を知る会のホームページを参考にした)
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