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2016年5月21日土曜日

(増補版)355E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年12月~1879年1月)

題:(増補版)355E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年12月~1879年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
明治10年代(1877年~1887年)、この頃の日本の風潮は、
  何でも、西洋は優れているという『明治の思い込み』
 だった。
  それは、西洋の宗教・キリスト教においても起きてい
 た。
  日本人のキリスト教の殉教のイメージは、キリスト教
 の宣教師のイエズス会士・ジャン・クラッセが書いた本
 によって大きく影響された。
  クラッセの本が、西洋の素晴らしさを持っているのだ
 と勘違いしてしまった。
  ジャン・クラッセは、日本の本当の事情を知らずに、
 西洋の頭の思い込みで、この本を書いてしまった。
  その様な『間違い本』によって、日本は影響されてし
 まった。
  ここに、明治初頭の『西洋は何でも優れている』とい
 う『明治初頭の思い込みの頭』の日本の劣等感が作用し
 た。
  彼の著書を、明治初頭の10年代に、太政官(だじょう
 かん)本局の翻訳官が翻訳した。
  本『日本西教史(せいきょうし)』という名で出版さ
 れた。
  ここで、この本の間違ったイメージが、強烈に日本に
 定着してしまう。
  この事は、日本の教科書にも記載されてしまう。
  また、解説書にも記載されるという、このキリスト教
 イエズス会士の間違い見解一色となってしまった。
  徳川幕府は、西洋がしたのと同様に、大弾圧をしてい
 たのだ・・と、なってしまった。
  事実は、『まったく逆である』。
  これによって、現代の日本人の殉教のイメージが決定
 づけられてしまった。
  事実は、まったく、本当にまったく、違っていた。
  徳川幕府の基本的な姿勢は・・
  「キリシタンの捕縛は、極力少なく収めたい」であっ
 た。
  今までの間違った情報に洗脳された頭で聞くと驚かれ
 ると思います。
  それだけ、キリスト教によるプロパガンダ(嘘宣伝)
 がなされて来ていた。
  幕府は、例え、キリシタンだと分かられてしまっても、
 知人・友人や親せきでも良いから、
  「キリスト教を棄教した」と、仮にでも言えば、捕縛
 には向かわなかった。
  誰でも、容易に捕縛から逃れられる様にと、『逃れの
 道』が作られていた。
  刑場でも、『矢来の一部を取り外した形にして、逃れ
 られる様に』していた。
  取り締まりを厳しくして、少しでも見過ごさなく捕縛
 するという姿勢では・・全くなかった。
  西洋での厳しい状況が、この様な状況が、イメージが、
 日本に持ち込まれ、その様にプロパガンダ(嘘宣伝)さ
 れていた。
  また、キリスト教は、殉教することが神の信仰にこた
 える道だと、美しく殉教をすることを勧めていた。
  親子連れで、わざわざ名乗り出たという事例が記録さ
 れている。
  卑劣な殉教の洗脳であった。
  また、今、キリスト教会が必死に宣伝している、子供
 向けの本「フランダースの犬」は、この殉教死の洗脳本
 で、
  殉教死をすることに「マインド・コントロール」して
 いる。
  また、「フランダースの犬」の本は、自殺奨励的にな
 っている。
  先日も、女学生二人が、手をつないで電車に飛び込む
 という痛ましい事故があったが、
  キリスト教は、大いに反省すべきだ。
  この様な事故を誘因している。
1878年1月28日、世界最初の電話機が、米国コネチカット州
 ニューヘイブンに架設された。
1878年2月19日、エジソンの発明の蓄音機が、ニューヨーク
 にて世界最初の特許権を獲得する。
1878年、イギリスが、キプロス島をトルコから奪った。
  そして、1925年に、イギリスの直轄統治領になる。
  第二次世界大戦後は・・反英テロが活発化する。
  イギリス本国と対立を深めて行く。
1878年3月3日、サン=ステファノ条約
  この年の、露土戦争の講和条約で、ロシア帝国とオス
 マン帝国の間で結ばれた。
  オスマン帝国は多額の賠償金とともに、
 (1)アルメニア、ドブロジャ、ベッサラビア、および
   アナトリア東部バトゥミ、カルス、アルダハン、バ
   ヤジト地方(トルコ語版)のロシアへの割譲
 (2)ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立の承認
 (3)ブルガリアへの自治権の付与(マケドニアを含む大
   ブルガリア公国が成立)
 (4)ボスニア・ヘルツェゴヴィナへの自治権付与
 ・・などを課せられた。
  しかし、ヨーロッパ南東部におけるロシアの影響力の
 拡大、
  特に、ブルガリアの領土がエーゲ海に接していること
 によりロシア海軍がエーゲ海北部に拠点を置くことを恐
 れたイギリス、オーストリアの干渉により、
  1878年6月のベルリン会議によって、ブルガリア国境が
 縮小されて、マケドニアはオスマン帝国に復し、ロシア
 は、バヤジト地方などの放棄を余儀なくされた。
1878年4月29日、ニューヨークに初めて高架鉄道が開通した。
  高架鉄道は、全部、鉄で作られた。
  車道の上方へ高さ3メートルから9メートルくらい(窪
 地は高くなる)に線路を敷設した。
  その車道に、太い鉄の柱がにょきにょきと立った。
  その鉄柱に支えられた鉄橋の上を汽車が走った。
  枕木は木であるが、すべてが鉄で、汽車が疾走して走
 ると、ゴーゴーと凄まじい音を出して走った。
  また、高架鉄道と言ったって、今の日本の高架鉄道の
 イメージとまったく違って、ハシゴを上って行って、汽
 車に乗った(乗車するまでの危険性があった)。
  汽車の燃料は、無煙炭にして、極力、煙が出ないよう
 にした。
  通勤のために利用する人が多く、朝晩は、満員状態が
 多かった。
  高架鉄道の下の道路にも、路面電車が走っていて電車
 の花盛り状態だった。
  町の景観は、今の日本の高速道路の様に、町が暗くな
 り、景観は悪くなり、また、苦情を抑えるため鉄道会社
 が周辺を買った。
1878年6月13日、ベルリン会議開催 (~1878年7月13日)
  露土戦争の結果起こった国際紛争解決のために、ドイ
 ツのビスマルクが主催した国際会議。
  イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア・ハンガ
 リー帝国、ロシア、イタリア、オスマン帝国の7か国が
 参加し、
  バルカン半島の新独立国の領域が決定された。
  バルカン問題:いわゆるバルカン諸国は、現在、旧ユ
 ーゴスラビア、アルバニア、ブルがニア、ルーマニア、
 ギリシャ、トルコ(欧州領)であるが、
  1878年のベルリン会議後、第一次世界大戦に至る時期
 の、この地をめぐる国際紛争は多発した。
  オスマン・トルコ治下の、スラブ系民族の独立運動、
 これに乗じたロシアの南下政策、ドイツの中近東3B政
 策、
  イギリスの東地中海政策など列強の帝国主義政策、
  また、オーストリア対セルビアの民族対立などを含む
 厳しい緊張が続いた。
  それ故、この地域は、「ヨーロッパの火薬庫」と言わ
 れた。
  バルカン戦争)1次=1912年、2次=1913年)を経て、
 サライェボ事件(1914年)が第一次世界大戦の遠因とな
 った。
  この地の民族問題は、今日の複雑なバルカン情勢の歴
 史的背景となっている。
1878年10月21日、ドイツの宰相ビスマルクが、「社会主義
 者鎮圧法(しゃかいしゅぎしゃちんあつほう)」を制定
 した。
  (1890年に廃止されたが、この制定によって逆に、社
 会主義者たちを団結させた)。
  これは、社会主義労働者党(後のドイツ社会民主党)の
 勢力の伸長が目覚ましかったため、
  その発展を恐れ 、弾圧するために発布した法律だった。
  この法律によって・・、
  社会主義的傾向をもつすべての結社、集会、出版を禁
 止した。
  また、特定地域の部分的戒厳令の施行、違反者の居住
 地制限などを既定した。
  社会主義者運動は・・大きな打撃を受けた。
  しかし、地下活動によって・・党勢は拡大して行った。
  ビスマルクは、この年・1878年に、皇帝狙撃(そげき)
 事件が起きると、この時がチャンスだと、これを口実に
 し、議会の協力を得て、この法律を制定していた。
  しかし、ビスマルクは、その後、同法のさらなる強化
 を図ろうとした。
  また、有効期限の延長をしようとした・・が、1890年
 1月、議会は否決した。
  そのため、1890年9月に失効し、ビスマルク退陣の一因
 となった。
1879年、出来事:
・演説会が盛んに行われた(自由民権運動)。
  多くの人へ・・国会開設の必要性を訴えるための方策
 は、演説会と新聞だった。
  そして、翌年・1880年に、演説会ブームが起きる。
  1880年の1年間で、東京の民権家が関東でおこなった演
 説会の回数は・・259回だった。
  また、植木枝盛が、1ヶ所の演説会に3日間、5回出演
 し、客は500~800人集まったという事例がある。
  板垣が、大阪夷座で演説をしたときは、5000人分のチ
 ケットが売り切れた。
・長崎造船所に、東洋一の立神船渠(たてがみせんきょ、
 現:第1ドック)が完成した。
  幕末に、幕府が力を入れていた造船も、花開いて来た。
  日本の柱になって行く・・その後に、三菱長崎造船所
 の主力工場となった。
1879年、論文・哲学:
・「民権自由論」(植木枝盛)
・ 「大森介墟古物編」(エドワード=モース)→大森貝塚の調
 査報告書。
 モースの日本初の発掘報告書 "Shell Mounds of Omori"
 が出版された。  大森貝塚発見(1877年)
・ 「天路歴程」(漢訳からの重訳・初めての口語体翻訳小説)
 (作・バンヤン、訳・佐藤喜峰)
1879年、流行:
・大八車が流行した。
・コレラが、松山から発生し、全国に蔓延・・そして、
  →迷信、まじないの類が・・流行した。
・撃剣会が、再度、流行し、道場が増加した。
・ウサギ飼育と、売買が流行した。
・官吏に・・髭を生やすことが流行した。
1879年、マスコミ:
・ 「朝日新聞」 が、大阪で創刊された。
・ 「山陽新報」 岡山で創刊。
・ 「福嶋新聞」 創刊。
・写真新聞 「歌舞伎新報」 創刊。
・東京絵入新聞が「毒婦お伝のはなし」を挿し絵入りで15
 回の連載をした。
1879年、娯楽・囲碁:
・灯火による講談 「磁石指北針」
  後に、機械の運動を映写して説明する会となる。
・村瀬秀甫〔しゅうほ〕(後の、本因坊)が、中川亀三郎、
 小林鉄次郎らと囲碁結社「方円社」を設立した。
1879年、衣:
・千住製絨所が成り、毛糸の生産も始まった。
・印刷局抄紙部でカセイソーダの製造がはじまり、洗濯石
 鹸もつくった(明治14年に廃止)
・唐チリメン(メリンス)の輸入が盛ん。
1879年、食:
・北海道紋別に製糖所が設置された。
・東京小石川興農社で、各種の缶詰をつくり利益をあげた。
・広島の博進社が、缶詰製造をはじめ、日清戦争以来、牛
 肉缶詰が盛んになる基となった。
1879年、その他:
・梟首刑(きょうしゅけい、さらし首)が廃止された。
・府県会が開始された。
・印刷局が、懐中日記を発行する。
  大蔵省印刷局が、フランスの日記簿を参考にして「懐
 中日記」を発行した。
・国立銀行150行に達する。
  新しく出来た銀行の信用度が低く、金兌換券(国立銀
 行券)を発行すると、即座に、金に兌換されてしまうた
 め、
  1876年6月末の国立銀行券残高は、わずか6万円になっ
 た。
  この様な状況では、十分な産業資金を供給できないた
 め、
  政府は、1876年4月に、国立銀行条例を改正した。
  国立銀行の設立要件を緩和し、金貨兌換性を停止した。
  この改正国立銀行条例によって、国立銀行の設立、お
 よび、経営が容易となり、また、有利でもあったので、
  国立銀行が、各地で、続々と設立された。
  その結果、紙幣は、増発されて、
 物価が騰貴して行く。
  国立銀行の行数の推移は・・、
  1873年: 2行、1874年: 4行、1875年:  4行、
  1876年: 5行、1877年: 26行、1878年: 95行、
  1879年:151行、1880年:151行、1881年:148行、
  1882年:143行、
・大阪に、硫酸製造会社が設立された。
  政府は、当初、大阪を首都しようとした。
  そこで、重要な造幣工場を大阪市に設置する方針をと
 った。
  1869年(明治2年)に、外国人技師を高給で迎え、最新
 技術を導入し、大阪市に造幣寮を設立した。
  造幣寮は、地金・地銀の分析のために硫酸を必要とし
 た。
  この硫酸製造のため、大阪アルカリ社の設立となった。
  初め、硫酸は、ドイツから輸入した。
  しかし、1872年(明治5年)に、イギリス人御雇外国人
 ローランド・フィンチを招いて、国内で硫酸を製造する
 ようにした。
  1875年(明治8年)のフィンチの帰国後、豊原百太郎と
 山口武が、硫酸製造を引き継いだ・・、
  その後、硫酸製造が、収益性の高い産業だと認識され、
  また、清に硫酸を輸出するようになり、
  1879年(明治12年)に、大阪アルカリ会社の前身であ
 る硫酸製造会社が創設された。
・姫路の私塾で、ルソーの「民約論」の講義をしたところ、
 警察官に中止させられた。
  『この本は、一昨年に、政府の許可で翻訳が出版され
 たのだ』と抗弁した。
  読むのはいいが、教えるのはいかんとの命令が出た(
 朝野新聞)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年5月18日水曜日

(増補版)354E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年8月~1878年12月)

題:(増補版)354E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年8月~1878年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1878年8月30日、明治天皇陛下が巡幸される(~11月9日)
  明治天皇陛下が、岩倉具視、大隈重信らと、北地巡幸
 に御発(北陸・東海道地方)
  明治期(1868年~1912年)の、明治天皇陛下の地方巡
 幸は、97件。
1878年8月、夜間興行が、新富座で初めて行われる。
  ガス灯を設備し、夜間上演が可能という画期的な近代
 劇場だった新富座で、日本初の試みの夜間興行が行われ
 た。
1878年9月3日、観象台(かんしょうだい、東京天文台)が
 創設された。
  東京・本郷本富士町の文部省用地内に、東京帝国大学
 理学部の観象台が創設された。
  東京天文台の前身。
  1878年、東京大学理学部の観象台として本郷構内に発
      足した。
  1888年、旧内務省および海軍省の天文関係の業務が統
      合され、改称された。
  1921年、麻布飯倉の地に、東京天文台が設立され、
  1924年、三鷹に移転し、現在に至る。
1878年9月11日、愛國社 再興第1回大會
  大阪で、愛国社の再興大会が開かれた。
  1875年に、立志社が中心となって結成された日本で最
 初の全国的政治結社だったが、
  中心人物の板垣退助の参議復職で自然消滅した。
  しかし、1878年に、地租改正反対闘争が、各地で盛り
 上がるや、
  この年に、植木枝盛(えもり)らの主唱によって、再興
 大会がもたれた。
  翌年・1879年の第2回大会には、18県21社が結集した。
  これを契機として、自由民権運動が急速に発展した。
  1880年3月の第4回大会には、2府27県の国会開設請願
 署名者10万1161名の代表97名が大阪に結集した。
  名を国会期成同盟と改め、
  土佐立志社の片岡健吉、福島石陽(せきよう)社の河野
 広中(こうのひろなか)を代表に選んで、
  政府に「国会を開設するの允可(いんか)を上願する書」
 を提出した。
1878年9月15日、最初の鉄道事故
  新橋~横浜間の河川が氾濫し、3日間の運転休止。
  因みに、世界で最初の鉄道事故は、1830年9月15日、イ
 ギリスのランカシャーのパークサイド駅で発生した。
  この日は、リバプール-マンチェスター鉄道の開業当
 日という記念すべき日だった。
  この日に、代議士が、知人に挨拶をしようと線路を横
 切ったところ、轢かれて死亡した。
  汽車の速度を知らなかったので予測できなかったとい
 う。
  日本の最初の鉄道事故として、標記の他に、1877年に
 発生した「東海道線西ノ宮列車正面衝突事故」とする説
 がある(これは、死亡事故としての最初)。
  死亡事故でなければ、さらにさかのぼって、
  1874年に、「新橋駅構内列車脱線事故」がある。
  ポイント故障で、機関車と貨車が脱線した(死亡は無
 し)。
  しかし、日本の鉄道が開業した1872年9月12日に、記念
 すべき鉄道開業式のこの日に、
  線路に入り込んだ見物人が、機関車に引かれて、指を
 切断している。
  (参考)「事故の鉄道史――疑問への挑戦」
1878年9月19日、佐野常民が、博愛社(日本赤十字社の前身)
 の存在と、その事業を社会に知らしめる為に、宣伝文を
 作成した。
  因みに、佐賀の七賢人と言われた佐野常民は、1878年
 6月に、博愛者副総長に大給恒とともに就任した。
  また、佐野常民は、1867年のパリ万国博覧会に、佐賀
 藩の団長として、
  そして、6年後のウィーン万国博覧会に、博覧会事務副
 総裁として渡欧した。
  そして、その時、西欧の先進的な知識・技術・思想の
 見聞・習得に努め、
  同時に、各国に赤十字社が組織されていることを知っ
 た。
  そこで、1877年の西南戦争の惨状に、博愛者の創設と
 西南戦争の救護活動の行動を起こした。
  10年後に、日本赤十字社となり、常民は、初代社長に
 就任した。
1878年10月1日、初めて、鉄道往復切符が発行された。
1878年10月8日、桂太郎が、「陸軍参謀局拡張の議」を太政
 官に上申した。
  陸軍省による参謀局の拡張上申は、軍令機関の組織・
 機構・権限の拡張で、
  その直後の軍令.機関の分離・独立を意味し、桂太郎陸
 軍少佐 (参謀局勤務) の建議を基本にして行なわれた。
1878年10月12日、山県有朋陸軍卿が、「軍人訓戒(ぐんじ
 んくんかい)」を配布した。
  西周(にしあまね)が起草し、天皇陛下の絶対神聖、
 軍隊の中立化を説き、軍人勅諭の先駆となった。
  西南戦争後の近衛砲兵の反乱である竹橋騒動を起因と
 して、
  明治・大正時代の代表的な藩閥政治家であり、元老、陸
 軍の最長老として、山形有朋(やまがあありとも)が示
 した。
1878年10月16日、札幌農学校の演武場が完成(札幌時計台)
  基本構想図は、教頭のW・ホイラーが作成した。
  開拓使工業局主席技術者・安達喜幸が、設計・監督。
  費用は、3869円16銭3厘。
  演武場は、農学校生徒の兵式訓練や、心身を鍛える体
 育の授業に使う目的で建設された。
  2階は、兵式訓練や体育の授業などの屋内体育館や、中
 央講堂、
  1階は、研究室、講義室、動植物や鉱物の標本展示室
 など
  演武場が完成したときに、時計台はなく、小さな鐘楼
 のみ、
  開業式に出席した開拓長官・黒田清隆の発案で、時計
 の設置が決定した。
  1881年(明治14年)7月、玄関正面部と鐘楼を取り壊し、
 骨組みを強化して、時計を設置した。
  改修費は1329円
  北海道・札幌農学校の演武場(現=札幌市時計台)が
 落成する。
  演武場(Military Hallの訳)とは学生に軍事訓練を行
 う道場のことで、
  米マサチューセッツ農科大学のミリタリー・ホールを
 模して造られた。
  下見板張りの外壁の木造2階建て建築で、
  2階には、練兵場と武器室があり、兵式訓練や体育の授
 業などの屋内体育館や中央講堂として使用され、
  1階は、研究室、講義室、動植物や鉱物の標本展示室と
 して使われた。
  時計がつけられていなく小さな鐘楼(しょうろう)の
 みだったが、開業式に出席した開拓長官・黒田清隆の発
 案で、時計の設置が決まった。  
1878年10月20日、東京大学に生物学会が創立された。
  東京大学の初代動物学教授であった大森貝塚発見者の
 モース(E. S. Morse)が、東京大学、植物学教授・矢田
 部良吉とともに創立した。
1878年10月24日、体操伝習所(たいそうでんしゅうじょ)
 の設立(体操教育始まる)
  この年に、東京に設置された文部省直轄の西洋式体操
 の教育機関で、
  アメリカ人 G.A.リーランドを教師として西洋の体操を
 導入し、
  リーランドの退任後は、坪井玄道が、その後を継いで
 日本の学校体育の基礎確立の中心となった。
1878年10月28日、郡区町村制が決まり、町村に初めて自治
 体としての性格が与えられた。
  地方制度の根本となる郡区町村編成法、府県会規則、
 地方税規則に基づくもの。
1878年11月1日、明治天皇陛下が、車駕(しゃが、くるま。
 乗り物)東行し金原明善(きんぱらめいぜん)夫妻
 を召見(しょうけん、呼び寄せて対面すること)
  金原 明善氏:(1832年7月4日~1923年1月14日)、明
 治時代の実業家。遠江国長上郡安間村(現浜松市東区安
 間町)出身。浜名郡和田村村長。
  天竜川の治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代
 日本の発展に活躍した。
1878年11月2日、東京府、15区6郡を定める。
  東京府が、大区小区制を廃して15区6郡(麹町、神田、
 日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂など15区)を定めた。
1878年11月2日、西南戦争の功により、有栖川宮熾仁を大勲
 位に叙す。
1878年11月2日、学校体操が、初めて東京女子師範にて実施
 された。
1878年11月16日、北海道・函館で大火。
  13ヶ町が焼失。焼失家屋954戸。
1878年12月5日、参謀本部條例
  陸軍参謀局を廃し、陸軍省に参謀本部を設置 
1878年12月10日、教育総監部の前身となる監軍本部創設
  (中部は野津鎮雄、東部は谷干城、西部に三浦梧桜)
1878年12月10日、紙幣局を、大蔵省印刷局と改称
  大蔵省印刷局が創立(大蔵省紙幣局を印刷局と改称)。
  1871年7月27日、大蔵省内に紙幣司創設
  1871年8月10日、大蔵省紙幣司を紙幣寮と改称
  1872年9月20日、大政官正院印書局設立
  1875年4月、抄紙局設置(現王子工場)
  1875年9月4日、大蔵省紙幣寮と太政官正院印書局が合
 併され大蔵省紙幣寮となる
  1876年4月5日、抄紙局操業開始(現王子工場)
  1876年10月10日、印刷工場が東京大手町に落成
  1877年1月11日、大蔵省紙幣寮を紙幣局に改称、現業
 官庁となる。
  1877年、国産第1号紙幣を製造(国立銀行紙幣一円(新
 券)12月28日発刊)
  1878年12月10日、大蔵省紙幣局を印刷局と改称。
1878年12月13日、監軍本部條例
  陸軍監軍本部を置く (後の教育総監部)
1878年12月15日、停車場扱いの電信開始される(最初は新
 橋・横浜両駅のみ)
1878年12月24日、侍従長を置く(米田虎雄中佐任命)
1878年12月26日、従来の海軍始の儀式を廃せられる
1878年12月、東京の風月堂が、日本初の国産チョコレート
 を製造・販売する。
  輸入したチョコレートを加工したもの。
  新聞に掲載された日本初のチョコレートの広告には、
 「貯古齢糖」という漢字があてられた。
1878年12月末、井上良馨(いのうえよしか、軍人)が、艦
 の艦長となり初の国産軍艦「清輝」が出港、ヨーロッパ
 諸港を回航した。
  軍艦・清輝は、ヨーロッパ航海を最初に成し遂げた日
 本艦となった。
.
(今日の言葉)
  知人が幼い子供と散歩をしていた時・・、
  その子供との散歩のところへ・・、
  運悪く・・車が突っ込んで来た。
  知人は、とっさに逃げ、幸い、けがはなかった。
  しかし、子供は・・けがをしてしまった。
  奥さんは、知人を攻めた。
  何故?・・子供を抱いて逃げなかったの?・・と、
  知人を攻めた、
  問い詰めた。
  とっさの場合だったので、その様になってしまった・
 ・と、
  知人は「気詰まそうに」・・私に話した。
  幸い子供の怪我も大けがではなかったので、
 事は、話は・・おさまって行ったが、
  心に・・何かが残った。
  冷静に事を処すことが出来たら・・、
  当然、その知人は、自分の子供も一緒に抱いて逃げ、
 事を避け、無事に・・事態を収め得ただろう。
  それが、妻と一緒の散歩のときも・・その様に・・、
  家族全員を守ろうと・・知人は・・行動しただろう。
  その時・・、実の親、ご両親の場合も、
  知人は・・守ろうとしただろう。
  また、その時、妻のご両親の場合であっても、
  その様にしただろう・・と・・想像する。
  そして、親友だったら・・?
  近所の良く話しあう・・気の合った方々だったら・・
 と、考えて行くと・・、
  高校野球の場合もそうだ。
  自分の子供が甲子園に出ることになって・・、
  大変、うれしくて・・出るんだ、出るんだ・・と、必
 死に出るんだと周りの人に知らせ、必死に応援していた
 方が居たが・・、
  また、地元のチームが敗退したので、その隣の地域の
 チームを応援しています・・と、言う話も聞いた事があ
 ったが、
  守る、応援する、助ける・・という行為は、
  自分の周りの社会から始まって行く・・、
  オリンピックでも、日本の選手のメダル獲得を喜ぶ。
  これは、自然の心情なのだ。
  しかし、この自然の心情が・・尊いのだ。
  故に、当然に、
  愛する家族が、妻や子供が、そして、愛するご両親、
 親族、そして、地域の方たち、
  そしてそして、日本の方々へと・・その意識は広がっ
 て行く。
  その愛する方々が、危険に犯された時に、
  その意識のもとに・・行動を起こす。
  自動車事故から守る・・という話と、
  他国から危険にさらされた時、家族の生命も危うくな
 ると思われた時、守ろうという意識と、そして行動が起
 きる。
  俺は逃げるという事を言う人もいるだろう。
  一人で逃げるのかい?
  えっ! 家族は連れて行くって??
  ご両親は?
  兄弟は??
  そして、戦争が悪いのだ・・と言うのかい?
  そうだ。君の言う通り、戦争は悪いのだ。
  それで・・、そう言って・・そう言っていれば・・戦
 争は起きないのかい?
  起きなかったのかい??
  人間の歴史は、そんな簡単なことで、戦争を避ける事
 が出来てきたかい?
  歴史を見ても分かるように、
  「戦争は悪いのだ」と言って、戦争を避けることが出
 来なかったことを示している、
  あなたも分かっているでしょうが・・。
  戦争が起きて、家族が危険にさらされ、
  ご両親が危険にさらされ、
  地域の方々が危険にさらされ、
  国の人々が危険にさらされ・・
  自分だけ逃げることが出来ない時・・
  あなたはどうするのだ。
  その時、あなたには・・、
  家族を守り、ご両親を守り、兄弟を守り・・、
  地域の人を守り、そして、国の方々を守るという、
  『崇高な使命』があります。

..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年5月16日月曜日

(増補版)353E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年6月~1878年8月)

題:(増補版)353E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年6月~1878年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1878年6月10日、陸奥宗光らが、挙兵陰謀で逮捕された。
  紀州派の大立者である元老院幹事の陸奥宗光は、
 明治10年の西南戦争の勃発の時、西郷軍に通謀(つうぼ
 う、相手方とあらかじめ示し合わせて事をたくらむこと。
 共謀)したという疑いと、
  土佐の立志社の林有造、大江卓、岩神昂らと共謀して、
 政府顛覆クーデターを計画した・・として、1878年(明
 治11年)8月21日、禁固5年の刑に処せられた。
  1877年(明治10年)2月、鹿児島の私学校党が決起した
 という報道が東京に届いた時、
  西郷隆盛の去就がまだはっきりせず、廟議は区々に分
 かれて定まるところがなかった。
  この時、最初から堂々と討薩論を主張したのが、内閣
 顧問の木戸孝允と、元老院幹事の陸奥宗光の二人だけだ
 った。
  「今日の急務は、速やかに廟議を一定して、征討の帥
 を出すことである。
  すでに、私学校党が、武器をとって起った以上、政府
 たるものは、これが討伐に躊躇してはならない。
  佐賀の乱、萩の乱の前例もあることである。
  よろしく英断果決全力をつくしてこれを討伐しなけれ
 ばならない」・・と、
  右大臣・岩倉具視や参議・大久保利通に、その説を鼓
 吹した。
  また、この機会を利用して内閣改造をはかり、木戸を
 説いて京都行在所の廟議を動かし、
  板垣退助と後藤象二郎の二人を入閣させて、
  この際、薩長独裁の風を改め、内政を革新し、挙国一
 致で西郷にあたるべきだと主張した。
  やがて、西郷出兵の知らせが京都に入り、1877年2月19
 日、政府はついに西郷征討の詔勅を発した。
  西南戦争の戦局は、はじめ必ずしも政府側に有利では
 なく、
  政府は、徴兵だけでは足りないので、北海道の屯田兵
 まで動員したが、それでも足りず、
  各県の士族を募集して、出征させることになった。
  陸奥は、紀州に赴いて壮丁を募集し、自らこれを率い
 て征討軍に参加しようと決意し、
  岩倉を説き、伊藤博文、大久保利通に会見してその応
 諾を受けようと東京から海路神戸に向かった。
  しかし、陸奥の建議は、伊藤にも大久保にも取り上げ
 られなかった。
  「行在所軍人取扱」(官軍の参謀長兼兵站総督)の鳥
 尾小弥太は、はじめ一切募兵には反対で、常備兵だけで
 征討すべきであるという意見だった。
  維新の頃、鳥尾は、木戸の内意を受けて大阪の陸奥の
 邸に寄宿していた。
  陸奥は、鳥尾にすすめて紀州藩に仕官させ、戊兵副都
 督として兵制の改革にあたらせた。
  今は、中将となったその鳥尾が、陸奥の建議に大反対
 したのである。
  鳥尾は、「陸奥に旧紀州藩兵の募集を任せるのは危険
 千万である」。
  「陸奥は、一世に傑出する手腕を有する人物である」。
  「もし彼に、紀州の兵力を任せたならば何をするかわ
 からない」と、密かに、伊藤と大久保を説き、
  当時、陸奥の反対派だった紀州藩士・三浦安を起用し、
 旧藩主・徳川茂承を説き、
  機先を制して、紀州の壮兵募集に着手させた。
  この藩閥政府の陰険なやり方には、さすがに、ものに
 動じない陸奥も激昂した。
  かくして、陸奥の計画した諸策はことごとく敗れ去り、
 陸奥は不平満々としてその日を送っていた。
  陸奥が、大江卓にすすめられて、土佐派の政府顛覆(
 てんぷく)の陰謀に関係するに至ったのはこの時だった。
  土佐の立志社の一派、林有造や大江卓の一派は、西南
 戦争に乗じて、武力をもって大久保専制政府の顛覆をは
 かり、
  国会開設の目的を達成しようとクーデターを計画した。
  この機に乗じて、新内閣を組織し、立憲政治を実現し
 ようというのである。
  大江らは、陸奥が、紀州藩の戊兵都督(総司令官)で
 あったことに着目し、
  なんとかして、陸奥をこの企てに加担させようと、陸
 奥を訪問して、土佐挙兵の秘密を打ち明けた。
  陸奥は、大江と黙契して、大阪鎮台襲撃の策を決した。
  また、土佐の挙兵の準備と同時に、紀州においてもこ
 れに応じる計画を定め、
  密かに、募兵の計画を進めた。
  更に、挙兵の準備と同時に、大江および岩神昂とはか
 り、重臣暗殺の準備を始めた。
  そのリストに、大久保利通、伊藤博文に次いで、征討
 軍総参謀長・鳥尾小弥太の名を加えた。
  一方、林有造は、上海から買い込むスナイドル銃の代
 金を作る為の金策に奔走していたが、
  うまくいかず、
  1877年4月14日、官軍の援軍が、熊本城に達して、西郷
 軍の形勢が怪しくなってきた。
  戦局の推移と共に、高知の立志社では、戦機すでに去
 るとみて挙兵中止を唱えるものも出てきた。
  6月1日、高知に戻った挙兵派の林有造は、ありあわせ
 の銃と同志で決起しようと、いまさらのように拙速主義
 を唱えたが、
  1877年6月4日、政府は、高知の小池県令と相談の上、
 中岡商店に貯えられていた小銃1500挺と、火薬を陸軍省
 買上げの名義で押さえ、神戸に持ち去った。
  これより前、薩軍が熊本進撃の最中、桐野利秋は、中
 央の形勢を探らせるため鹿児島属、土佐人の三浦介雄を
 高知に向かわせた。
  三浦は、古勤王党の桑原兵八、左田家親などに面会し
 て桐野の内意を伝え、彼らは薩軍に内応することを約し
 た。
  この時、三浦は、立志社には何ら相談も働きかけもし
 なかったので、立志社のほうで、藤好静、村松政克を密
 使として薩軍に遣わした。
  二人は、1877年5月16日、江代の本営で、桐野利秋に面
 会して立志社の意向を伝え、
  1877年5月26日に高知に帰って来た。
  この事がやがて政府の密偵によって洩れ、捕縛の第一
 着手となった。
  1877年6月14日、藤好静、村松政克を捕縛。
  1877年6月25日、岩神昂、川村矯一郎を大阪で拘引(こ
 ういん、人を捕らえて、無理に連れて行くこと)。
  1877年8月8日、林有造は、竹内綱(吉田茂の実父)の
 屋敷で、外商・ローザと会見しようとして門を出たとこ
 ろを拘引された。
  1877年8月17日より、片岡健吉など8名が捕縛される。
  翌年の1878年(明治11年)4月24日に竹内綱、
  1878年5月1日に、中村貫一、
  1878年5月15日に、大江卓、岡本健三郎が拘引された。
  陸奥は、すでに拘引を免れない事を知ると、鳥尾小弥
 太を訪ねて、真相を打ち明け、前後の処置を謀った。
  鳥尾は自首をすすめたが、
  1878年6月10日、陸奥が、自首しないうちに拘引された。
  この日、陸奥は、羽織袴の出で立ちで、
  途中、親友の中島信行の宅に立ち寄り、後事を託して
 から入獄した。
  1878年(明治11年)8月21日、東京臨時裁判所で、大審
 院の判決が下る。
  林、大江、岩神は禁獄10年、陸奥は禁獄5年だった。
  禁獄(きんごく):牢獄に拘禁すること。
  紀州人で陸奥と行動を共にしていた者は、陸奥が口を
 閉ざして名前を出さなかったので、皆、罪を免れた。
  (参考:竹橋事件100周年記念出版編集委員会『竹
 橋事件の兵士たち』1979年、現代史出版会発行)
  この後、1882年に、陸奥は、特赦されて欧米に渡り、
  1888年、外務省特命全権公使としてメキシコとの日墨
 修好通商条約に調印し、我が国最初の対等条約を結んだ。
1878年7月12日、政治結社・集会に警官の立ち会いや禁止す
 る権限を定めた。
  1878年7月、政府は、愛国社の再興を目ざす自由民権運
 動の高まりに対抗して、
  政治結社、集会に対する警察官の視察と、民心扇動、
 国安妨害と認めるものの禁止を命じた。
  しかし、自由民権運動は、国会開設請願運動として全
 国的に高揚を見せ、
  1880年3月には、国会期成同盟が結成された。
  こうした状況に対し、政府は、同年・1880年4月5日、
 集会条例を制定し、
  政談演説会、政治結社は、事前に警察署に届け出て許
 可をうけること、
  警察署は、国家の安全に害ありと認めたときは許可し
 ないこと、
  会場監視の警察官に集会解散権を与えること、
  軍人・教員・生徒の政治活動を禁止すること、
  集会の広告、政治結社相互の連絡、屋外集会を禁止す
 ること・・などを定め、弾圧体制を強化した。
1878年7月15日、東京の工部大学開校式式場に初めて万国旗
 を掲げた。
1878年7月15日、日本初の本格リゾートホテル、富士屋ホテ
 ルが開業した。
1878年7月19日、大阪株式取引所が開業した。
1878年7月22日、地方三新法公布(郡区町村編成法制定され
 る)
  太政官布告で郡区町村編制法制定。
  大区小区制を廃して、郡区町村を置くことを定めた。
  郡町村の名称と区域は、江戸時代のものを継承した。
  この日に、  「府縣會規則」  「地方税規則」
1878年7月27日、高島炭鉱暴動
  高嶋炭坑坑夫虐待事件が起こった。
  長崎の高島炭鉱で、苛酷な労働条件と納屋制度に反対
 し、賃上げ要求とともに坑夫が暴動化した。
  100余人が逮捕された。
  さらに、体験者が、1888年に、雑誌《日本人》にその
 実態を発表した。
  1870年3月、同年6月、1872年11月、1873年2月と、この
 騒動以前に、4回の騒動が発生していた。
  1888年の雑誌「日本人」への発表が発端になって、社
 会問題化した。
  政府が乗り出し、調査し、待遇改善を勧告した。
1878年7月、東京・両国区若松町の西洋菓子舗風月堂が、ア
 イスクリームを「アイスキリム」として売り出した。
1878年8月20日、「立志社の獄」の大審院判決が出た。
  林有造ら土佐立志社武力行使派に禁獄10年など
  林有造・大江卓:禁獄10年、
  元元老院幹事の陸奥宗光:禁獄5年、
  片岡健吉:禁獄100日
  板垣退助:取り調べをされず。
1878年8月23日、竹橋事件(近衛砲兵大隊の反乱起こる)
  西南戦争の恩賞や俸給(給料の減額)に不満をもつ近
 衛砲兵隊の二百数十人が、この日の夜、
  東京・竹橋の営舎(現=千代田区北の丸公園に建つ国
 立近代美術館と国立公文書館の裏のあたり)で蜂起し、
 制止する大隊長・宇都宮茂敏(うつのみやしげとし)少佐
 と、週番の深沢巳吉(ふかざわみのきち)大尉を殺害して、
 厩に放火した。
  砲兵大隊兵営と向かい合っていた近衛歩兵第二連隊に
 協同を呼びかけた。
  同隊から30余名が呼応し、
  兵士90人余は、山砲一門を引いて営外に出て、麹町区
 飯田町(現=千代田区九段南1丁目、区役所のあたり)
 の参議・大隈重信邸に砲弾を打ち込み、
  さらに、赤坂の仮皇居(現=迎賓館)に押しかけ、天
 皇陛下に直訴しようとしたが、
  東京鎮台の軍により、翌・24日午前2時ごろには、全員
 が逮捕され、鎮圧された。
  10月15日、陸軍裁判所で、死刑53人などの判決。
  深川越中島の刑場で、53人は銃殺刑に処された。
  陸軍卿・山県有朋は、この事件を契機に、軍人訓戒・
 軍人勅諭を発し、軍の規律強化をはかった。
  最近の研究では、自由民権思想とのかかわりが指摘さ
 れている。
  真相は、闇(やみ)に包まれているが、関係者遺族など
 の掘り起こし研究が進んでいる、それによると、地租改
 正反対一揆(いっき)や、自由民権運動の影響がみられる
 史実が明らかにされつつある。
  (氷川清話)明治11年には、竹橋騒動と呼ばれる近衛
 兵の反乱、
..
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