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2016年2月26日金曜日

(増補版)302E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年9月~1871年11月)

題:(増補版)302E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年9月~1871年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年9月18日(8月4日)最初の侍従長が任命された。
  侍従長の徳大寺実則(とくだいじさねつね)は、明治
 天皇陛下の政治関与に強く反対し、
  侍補(じほ、宮内省内に置かれた役職)制度が定めら
 れて、天皇陛下の親政運動が行なわれた時には、その阻
 止に強く動いた。
  また、自らの政治的関与も、強く戒めていて、
  政界に転じた実弟の西園寺公望(さいおんじきんもち、
 公家、政治家、教育者)とは、公の場所以外では会話も
 しなかった。
  天皇親政運動: 明治前期の天皇陛下を政治的君主とし
 て強化しようとした元田永孚(もとだながざね、熊本藩
 士、儒学者、男爵)ら 侍補による政治運動。
1871年9月19日(8月5日)太政大臣・三条実美(さんじょう
 さねとみ、公卿、政治家、公爵)が、鉄道一部竣工につ
 き、横浜に於いて汽車に試乗した。
  翌日の9月20日(8月6日)に、参議・木戸孝允、同大隈
 重信、工部大輔・佐藤象二郎、工部少丞・吉井源らも、
 横浜~金川(神奈川)間を試乗した。
1871年9月23日(8月9日)散髪脱刀令(さんぱつだっとうれ
 い)、政府の開化政策の一つとして、旧風を改め、散髪・
 廃刀の自由を許した。
  明治政府は、太政官布告を以て「散髪脱刀令」を布告。
  士族の断髪、脱刀、服装の自由化。
  平民の羽織袴も無制限に、
  江戸時代末からすでに行われていた。
  「半髪(はんぱつ、野郎頭。男の月代さかやきのある髪
 の結い方)頭をたたいてみれば、因循姑息(いんじゅんこ
 そく、古い習慣に頼って、その場をしのごうとすること)
 の音がする。
  惣髪(そうはつ、月代を剃らず、髪を全体に伸ばし、頭
 頂で束ねたもの)頭をたたいてみれば、王政復古の音がす
 る。
  ジャンギリ頭(髪を散切・ざんぎりにしたもの)をた
 たいてみれば、文明開化の音がする」と流行歌(はやり
 うた)があった。
  民衆は、喜んで受け入れた。
  しかし、熊本で、不満な小学校教師たちが、学校を閉
 校することが行われた。
  また、この布告は、女性の断髪も促した。
  髪を切る婦女が多いため、この風潮を止めようと、
  1872年に、東京府では「婦女子散髪禁止」の告諭(こ
 くゆ、言い聞かせる言葉)を発した。
  脱刀は、強制ではかなった。
  士族の帯刀者が多い状態だった。
  1875年12月に、陸軍卿・山形有朋が、徴兵令によって
 武士の帯刀の必要性はなくなったとし、廃刀を建議し、
  1876年(明治9年)に、帯刀禁止令(廃刀令)が出され、
 軍人や警察官以外は帯刀禁止となった。
1871年9月23日(8月9日)米麦輸出禁令の撤廃。
  安政期に、列強五か国と条約条約を取り交わしたが、
  そこにあらわれた欧米列強諸国の外交意図は、
  日本を、欧米資本主義の大量生産品を売りさばくため
 の、また、その原料を輸入するための、
  半植民地的な市場と位置づけるものだった。
  板垣退助が、会津で見た様な「君国ノ滅亡」の危機は、
 目前に迫っていた。
  この様な状況にあって、新政府には・・、
  日本が国家としての独立を保つため、
 そして、政治・経済・軍事の近代化を、
  最も短い期間内に、なし遂げる必要性が痛感した。
  この様にして、新政府は・・、
  わが国が、大久保利通が「万国ニ御対立」と表現した
 様に、万国と対峙(たいじ)するために、
  統一国家の建設、そしてまた、
  資本主義の発展という歴史的な使命を達成する必要を
 痛感した。
  新政府の政権の足元をおびやかすものは、
  明治元年以来、再び盛り上がってきた農民一揆だった。
  農民大衆の重租に対する不満は、極度に達し、
  政権の基礎に脅威を感じさせるまでになっていた。
  1868年(明治1年)~1870年(明治3年)の間に90件の
 農民一揆が発生し、
  そのうちの20件は、新政府が直轄する県のものだった。
  政府は、日々の莫大な支出に充てるための
  商人からの借入の返済に、
  安定し、まとまった歳入を確保しなければならず、
  その唯一の恒常的な財源は、幕藩体制から引き継いだ
 封建的な貢租である旧地租だった。
  それは、全歳入の6割未満(通常歳入の8割)であり、
  全歳入の2割強は、不換紙幣の発行、および、三井・
 小野・島田を筆頭とする商人からの臨時借入、および、
 外債だった。
  商人からの借入は、政商を生み出した。
  歳出は、その約4割が、家禄賞典禄等の旧封建支配者
 救済の費用であった。
  陸海軍費は、一般行政費の2倍に近く、さらに内乱・
 外征の戦費も多額にのぼるものだった。
  明治政権は、「農民からの封建的搾取に右足を置き、
 政商資本たる商業・高利貸資本家層の援助に左足をのせ
 るもので、
  そして、崩れ行く封建支配収拾の任務と、
  欧米列強に対抗する軍事力創出の強兵富国策実現の任
 務とを、一身に体現(たいげん、身を以って実現するこ
 と)していた。
1871年9月24日(8月10日)江藤新平が、左院副議長に就任。
1871年10月2日(8月18日)明治天皇陛下、馬車を召され浜
 殿へ行幸(馬車にて行幸の始め)
1871年10月2日(8月18日)東京、大阪に鎮台を設けた。
  鎮台(ちんだい)は、 明治初期の常備陸軍のことで、
 1871年(明治4年)に、東京・大阪・鎮西(小倉)・東北
 (石巻)の4鎮台を置き、
  1873年(明治6年)に、東京・仙台・名古屋・大阪・
 広島・熊本の6鎮台となった。
  また、1888年(明治21年)に、師団と改称した。
1871年10月4日(8月20日)この頃、条約改正使節に大隈重
 信をほぼ内定した。
1871年10月5日(8月21日)伊豆の石室埼燈台が竣工す。
1871年10月5日、長崎~ウラジオ間の海底電信線敷設工事が
 完成した。
  11月21日に、長崎~ウラジオストックの通信を開始し
 た。
  また、別史料には・・、
  日本最初の海底ケーブルは、1871年8月(明治4年6月)
 に敷設された長崎~上海間、及び、長崎-ウラジオストク
 間のものである。
  現在の長崎市南山手一丁目18番地には、「国際電信発
 祥の地」の碑があるが、
  かつて、ここにあったホテルベルビューの一室を借り
 ていた大北電信会社によって、
  1871年9月26日(8月12日)、一般公衆電報の取り扱い
 が始まった。
  これは、日本における国際電報事業が開始された日で
 あり、翌年・1872年、開通した欧亜陸上電信線と接続さ
 れた。
1871年10月6日(8月22日)坂本龍馬、中岡慎太郎両家共、
 その姪に故人の家督相続を許される。
1871年10月7日(8月23日)華族・士族・平民相互の結婚を
 認めた。
1871年10月7日(8月23日)御所機能が廃され、東京への首
 都機能の移転が行われた。
  京都では京都御所を後に残して、1871年(明治4年)ま
 でに刑部省・大蔵省・兵部省などの京都留守・出張所が
 次々に廃され、中央行政機関が消えていった。
  また、留守官は、1870年6月(明治3年5月)に、京都府
 から宮中に移され、
  1871年2月(明治3年12月)に、京都の宮内省に合併、
  1871年10月7日(明治4年8月23日)には廃され、東京へ
 の首都機能の移転が行われた。
  東京への移転を完了し、この実施により、中央集権体
 制が作り上げられた。
1871年10月(8月)官庁で椅子の使用が始まった。
  この年に、椅子、テーブルの使用が流行し始めた。
1871年10月15日(9月2日)官吏月給制の実施
  官吏の給与を月給制とする
1871年10月15日(9月2日)この頃、条約改正使節が大隈か
 ら岩倉具視に代わった。
1871年10月18日(9月5日)東京の元聖堂大成殿に文部省直
 轄の博物館を開設し、物産所所蔵の物品を移す。
1871年10月20日(9月7日)田畑勝手作の許可
  農民に希望の作物を作らせた。
  大蔵省が「田畑夫食取入ノ余ハ諸物品勝手作ヲ許ス」
 と令した。
  江戸幕府は、石高制と年貢の米納原則を維持するため
 に田畑勝手作禁止令を出した。
  しかし、時代が下って来ると商業作物の生産が広まり、
 形骸化していった。
  明治になって、政府は、輸送手段が発達したことや、
 年貢の石代納(こくだいのう、年貢米で納める代わりに、
 貨幣で納めること)を認めたことを理由に、田畑勝手作
 禁止令を撤廃し、農民がそれぞれの土地に適した農産物
 を生産することを奨励した。
  これは、農民の生産意欲の向上とともに、政府への租
 税収入の安定・増加を図る事になった。
  そしてまた、計画されていた地租改正にともなう租税
 の金納化に備えた措置でもあった。
  これに続いて、翌年の1872年には、田畑永代売買禁止
 令を廃止する地所永代売買解禁が出された。
  田畑勝手作の許可[1871年10月20日(明治4年9月7日)
 大蔵省布告第47号]
  是迄夫食不足ノ訳ヲ以田畑ヘハ米麦雑穀ヲ重モニ作付致
 シ桑楮漆茶藍麻藺菜種其外ノ作物共其土地ニ適当致シ候
 テモ作付不致或ハ元地頭領主ヨリ差留候向モ有之候処追
 々運輸ノ道辨利相成其上是迄米納ノ向モ願次第石代納御
 差許相成候事ニ付村々百姓銘々ノ夫食取入候外ハ何品ニ
 限ラス勝手ニ作付致シ候方下々ノ利潤ニモ可相成候間総
 テ従来其土地ノ貢租辻ヲ以テ年季ヲ究メ検見ノ場所ハ新
 規定免ノ規則ニ照準シ定納相願候上ハ屋敷成並田畑勝手
 作共御差許可相成候条地味ノ善悪作物ノ損得篤ト勘弁イ
 タシ充分仕当ニ可相成見込有之候ハ丶可願出事
  右ノ通管下村々ヘ触達願出候モノ有之ニ於テハ従前ノ貢
 租辻等篤ト相糺不都合無之候ハ丶聞届置追テ可相届事
  但田畑成畑田成共貢租辻増減無之分ハ総テ可為本文之通
 事
1871年10月22日(9月9日)ドン(正午号砲の制)を制定。
  江戸城より初の午砲、正午を知らせた。
  正午、宮城内・旧江戸城本丸の
 庭園にて、近衛師団の砲兵が空砲による最初の報時を行
 なった。
  江戸時代の時の鐘に代わるもの。号砲、午砲。
  その発射音の「ドン」が俗称となる。
  全国の陸軍師団司令部所在地に於いても、各師団砲兵
 にて的確に実施。
  師団所在地の都市を中心に「ドン」という言葉が普及。
1871年10月30日(9月17日)武門の流弊除去(無礼討ちの禁)
 (旧暦8月17日説あり)。
  1862年の生麦事件の時は赦されたが、武士の特権であ
 った「無礼討ち」を禁止した。
  流弊:(りゅうへい)以前からの悪い習慣。
1871年11月1日(9月19日)、政府印刷事業が始まった。
  日本における印刷業の本格的定着は、この年の政府令
 による4種類の郵便切手の印刷によって始まった。
1871年11月4日(9月22日)明治天皇陛下、日比谷操練所に
 て陸軍整列御閲兵(最初の天長節観兵式)
1871年11月5日(9月23日)華士族・平民相互の結婚の許可。
1871年11月5日(9月23日)、新政府が、西郷隆盛(43歳)
 を迎え、筆頭参議に据えた。
  西郷は、1871年4月に提案した御親兵の編成が成り、
  1871年8月、木戸とともに参議になり、
  そして、この日、新政府は、西郷を筆頭参議に据え、
  岩倉使節団が、米欧に派遣された際は、筆頭参議とし
 て留守政府を総理した。
  そして、外遊派は、新規事業と政府首脳部人事の凍結
 を西郷に誓約させたが、
  留守政府では、各省が学制、徴兵制度、地租改正など
 の重要政策実現に邁進した。
  破壊の時代にときめいた者は、必ずしも新時代建設に
 も適任とはならなかった。
1871年11月12日(9月30日)日本の「野球の初め」
  我が国の初めての野球の試合が行われた。
  そして、最初の国際試合は、「一高」対「横浜在留ア
 メリカ人」。
  無敵を誇る一高チームが、アメリカ側に他流試合を申
 し込んだが「まあ、やめておきましょう」という返事で、
 相手になってくれなかった。
  明治29年に、やっとこの試合が出来た。
  因みに、野球という言葉は、明治27年、中馬庚(ちゅ
 うまんかなえ、教育家)が、「Ball in the field」を訳
 して「野球」と命名した。
  また、因みに、「ショート・ストップは、戦列で時期
 を見て待機し、動き回ってあちこちを固める”遊軍”の
 ようだ」と説き、
  「遊撃手(ゆうげきしゅ)」という名称が広まった。
  1970年に、特別表彰で、野球殿堂入りした。
..
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2016年2月25日木曜日

臨時ブログ:コンクリート(今日は、固いコンクリートの話です)

臨時ブログ:コンクリート(今日は、固いコンクリートの話です)
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  コンクリート。
  コンクリートは、砂利と、砂と、セメントに、水を入
 れながら混ぜ、こねて作られます。
  混ぜ、そして、こねると「ドロドロしたもの」になり、
 この水を入れた時点から、セメントと水は反応(化学反
 応)を始める。
  だから、水を入れて混ぜ始め、そして、その混錬が終
 わったら、なるべく早く型に入れる必要がある。
  型に入れるのが遅くなれば、なるほど、コンクリート
 の品質は低下する。
  コンクリートは、ドロドロしているから、どの様な型
 にも、当然、入る。
  だから、好きな形に、ものを作ることが出来る。
  型に入ったコンクリートは、熱を出しながら固まって
 行く。
  だから、建物や、橋や、トンネルなどを作ることが出
 来る。
  気温が低いと固まらない、または、固まりが不十分に
 なる。
  だから、北海道の様な、極寒の地の冬は、特に、大量
 の灯油を燃やし・・温める。
  東京でも、厳しい低温が予想されれば温める。
  この様にして、その化学反応を進め、固まらせて、強
 度を出させる。
  そして、日が経ち、過ぎて行くと強度が出て来る。
  強度が出て来れば、皆さまを支えることが出来る構造
 躯体になることが出来る。
  そこに、家具や机や機器や、好きなものを入れられる。
  楽しい住宅になったり、楽しい買い物ができるショッ
 ピング・センターになったり、好きな所へ早く行くこと
 が出来る高速道路になったり、
  楽しい家族旅行が快適に行けるトンネルや、新幹線を
 走らせられたりする。
  これらの事を実現させてくれている『コンクリート』。
  昔は、この様な、命や暮らしを支えてくれるものに、
 感謝し、祈ったものだ。
  物だけでなく、それを実現させてくれた道具や機械、
 あらゆる、すべてのものに、感謝の気持ちを捧(ささ)
 げた。
  その様な感謝の気持ちの中に、暮らして行くことが大
 事だった、そして、大切だった。
  今は、それがない。
  素晴らしい素材=コンクリート。
  この素晴らしいコンクリートを成り立たせているのが、
 「砂利」「砂」「セメント」「水」。
  この素材が、今、「ピンチ」です。
  良質な素材は、既に、『枯渇』しました。
  この様な意味からも、出来たものは、出来上がったも
 のは、大切にしなければなりません。
  安易に、NHKの様に、「建物は○○年、橋は△△年」
 と放送し、
  また、NHKの近所の「子供の城は壊す事になりまし
 た」などとニュースにならないニュースを放送して、洗
 脳する、マインド・コントロールする事は、「社会悪」
 です。
  使い続けることが出来る建物・社会資本の見本が、上
 野の前川国夫の「文化会館」です、そして、ル・コルビ
 ュジェの国立西洋美術館です。
  国立西洋美術館は、世界遺産に登録して、『永久』に
 使って行こうとしています。
  この姿勢でなければなりません、この姿勢が正しいの
 です。
  武甲山は無くなりました。
  急に、この様に言われても、何の事かが、お分かりに
 ならないと思います。
  ここが、「セメント」の古里なのです。
  武甲山は、無くなりました。
  関東地方のセメントは、この武甲山の山を削って作っ
 ています。
  山野草の図鑑を見ると、武甲山に生えているという記
 述の希少な植物がありますが、
  その消息が、心配なほど武甲山は、そのほとんどを無
 くしました。
  埼玉県秩父にある武甲山。
  登山ガイド・ブックのブルー・ガイドブックスにも掲
 載された登山できる山・武甲山は、今は、ありません。
  皆、東京や、その近県の、建物や橋や、トンネルや高
 速道路などなどに、なってしまいました。
  かつて、山男が、足の下に踏み固めた道はありません、
 山は、今は、ありません。
  この様な状況からも、出来上がったものに感謝し、大
 切にして行かなければなりません。
  武甲山は・・あと、半分です。
  アフリカの川鰻(かわうなぎ)。
  この希少な川鰻まで食べてしまおうという日本人。
  次世代の方々に残せ、飢えているアフリカの方々のた
 めに残せ・・、
  飢えているアフリカの方々が、食べられるくらいの量
 の食べ物を捨てている日本人。
  物は、何でも大切にしなさい。
  ベニヤ板で、熱帯雨林を「はげ山」にしている日本人。
  このベニヤ板で建物の型が作られている。
  そして、コンクリートを作っている砂利の話。
  川の砂利は、角がとがってなく、丸く、コンクリート
 の骨材(こつざい)として使うのに適している。
  しかし、川の砂利の採取をすると川底が下がり、川が
 深くなる。
  その結果、川に設けられた橋の基礎が露出して来た。
  ひどい橋は、その基礎の下の杭まで現れ、出て来てし
 まう状態となった。
  杭は、上からの重い荷重を支えるためで、この上から
 の方向の力には強いが、横からの力には弱い。
  その橋に、電車が走ったり、自動車が走ったり、振動
 が、その横からの振動が杭に加わり、そしてまた、加え
 続けられたりすると劣化し、品質が低下したり、
  また、地震で橋が揺らされて、杭にその横揺れの力が
 加わったりすると、横の力に弱い杭は、折れたりする恐
 れがある、その心配があった。
  それらの悪現象が出るまで、川の砂利が取り続けられ
 た。
  それで、採取禁止になると・・、
  川の岸、川岸を掘って、川砂利を取った。
  深い大きな穴・「砂利穴」が出来た。
  その砂利穴は、浅瀬が無く、急な斜面の穴なので、子
 供たちが落ちやすく、
  岸へ上りずらい、「アリ地獄」のような状態の為、子
 供たちが、よく転げ落ちて溺(おぼ)れ死んだ。
  多くの子供たちが、この罠の様な、コロコロすべる砂
 利の岸から転げ落ちた。
  アリ地獄のような砂利穴に落ちておぼれ死んだ。
  皆が行く、子供もよく行く、川に仕掛けられた、あた
 かも罠のような状況だった。
  川砂利は、この様な、犠牲となってしまう子供たちが
 出る状況において、供給された。
  そして、その子供の命の入った砂利で作ったコンクリ
 ートで、都市の建物などが建設された。
  亡くなった子供たちの事などへ、思いがおよばずに、
 出来上がった、新築なった建物へ入居した。
  そこに、皆の笑顔があった。
  だが、陰で泣いている、亡くなった子供さんと、その
 御両親、兄弟姉妹、親戚、近所の方々、学校の友達など
 など、多くの泣いている方々が居た。
  川砂利は枯渇して、この様な惨事まで生み出して、川
 砂利採取は禁止された。
  川砂。
  コンクリートを作るには砂も必要。
  川の砂は、常に、川の水で洗われていて、洗浄されて
 いて、コンクリートが嫌う不純物などが無く、良質だっ
 た。
  しかし、川砂利と同様の問題を起こした。
  また、その砂や砂利の洗浄水が川を汚染した。
  魚の遡上が問題となったりした。
  川砂採取も禁止で採れなくなった。
  そこで、やむなく、海の砂を使った。
  海砂は、塩分が含まれていた。
  これは、コンクリートに対して大問題だった。
  清浄な水を使って洗った。
  洗ってその塩分を取り去ろうとした。
  しかし、塩分は、そんなに簡単に取り切れるものでは
 ない。
  塩分が含有する、残る、その海砂で、コンクリートが
 作られ、建設に使った。
  砂が無いので、やむを得なかった。
  塩分の入ったコンクリートが、世の中に供給された。
  そのコンクリートは、鉄筋を錆びさせた。
  それ故、海砂は、必死に洗浄された。
  コンクリートの強アルカリ性も鉄筋を錆びさせないよ
 うに働いた・・が、しかし、海砂は、川砂の様な最適な
 骨材ではなかった。
  そして、砂や砂利は、山にそれを求めて行く。
  ここにも問題があった。
  まだまだ言い足りない部分がありますが、この様な背
 景で、あまり関心が無かったでしょうコンクリートに、
 この様な背景があります。
  コンクリートは、非常に『貴重』なものなのです。
  NHKが煽って、世は、すぐ壊して、建て直すという
 風潮になっていますが、反社会的な行為です。
  社会資本は、しっかりメンテナンスして、しっかり大
 切に、使い切って行くのが、社会正義です。
(追伸)
  1936年に建設されて、80年が経過している国会議事堂
 が建て替えをしなくて、長く使っていて、
  その約半分のNHKが、何故、建て替えなければなら
 ないのだ。
  アメリカのエンパイアー・ステートビルなど、しっか
 り長く使っているビルは目白押しにある。
  参議院の予算委員会で、自民党の二之湯さとし議員が、
 NHKに、ゴマをすって「50年、NHKは使ったから」
 と言って、NHKの建て替えを容認しましたが?
  根拠はまったくありません。
  NHKを管轄する総務大臣が、NHKへ、「視聴者の
 方々へ、建て替えについて誠実に説明する義務がありま
 す」と言われたが、NHKは、その説明責任を果たして
 いません。
  NHKは、耐震補強をしてお金をかけているならば、
 まだまだ、しっかり使用が出来ます。
  まだまだ大切に使って行って下さい。
..
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2016年2月24日水曜日

(増補版)301E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年9月~1871年9月)

題:(増補版)301E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年9月~1871年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年9月2日(明治4年7月18日)文部省が設置された。
  文部省が創設され、江藤新平が、初代文部卿(文部大
 輔)になり、学制の改革が急速に行なわれた。
  維新直後は、江戸時代以来の諸藩がなお存続しており、
 個別に藩内の教育を統轄し、また、独自の教育改革を行
 なっていた。
  したがって、新政府の教育政策の直接の対象は、府県
 の教育に限られ、
  それは、全国的に見れば一部の地域に過ぎず、
  全国の大部分を占める諸藩の教育は、新政府の直接統
 轄するところではなかった。
  明治四年七月に廃藩置県が行なわれ、
  その後、新政府は、初めて全国に統一した行政を実施
 できる体制となり、
  これに伴って、全国の教育行政を総括する機関として
 文部省が設置された。
  文部省の設置は、廃藩置県後まもない、この日・明治
 四年七月十八日であり、
  「大学ヲ廃シ文部省ヲ被レ 置候事」という太政官布
 告が発せられた。
  この大学を廃止して文部省を置くということは、この
 時まで、大学が、教育行政の機能をもっていたためで、
  明治二年七月の官制改革によって、教育行政官庁とし
 て「大学校」が設置されていて、
  同年の明治二年十二月に、これを「大学」と改称した。
  当時の大学は、最高学府であるとともに、教育行政官
 庁でもあった。
  明治三年七月に大学本校は閉鎖され、その教育・研究
 の機能を失ったが、行政官庁としての大学は存続してい
 た。
  そして、その大学が廃止されて、新しくもっぱら教育
 行政を担当する機関として文部省が設置されることとな
 った。
1871年9月6日(7月22日)寄留・旅行者の鑑札制の廃止
  旅行の自由が許可される。
  現代においては、「旅行の自由」は当たり前の様に思
 えるが、これは戸籍にからんで、様子が少し違った。
  1871年5月22日(4月4日)、新政府はかねてより準備を
 進めていた 全国的統一戸籍の編製を命じた。
  明治四年戸籍法の公布(壬申戸籍)で、
  制定の動機は、その前文に・・
  『戸数人員ヲ詳ニシテ猥ナラサラシムルハ政務ノ最(
 モ脱か) 先シ重スル所ナリ』とある。
  脱籍浮浪の徒の取締と復籍 (本籍返し)や、
  人民の居住、交通に関する制限監視の統一化という点
 があった。
  そして、短期の移動(旅)について、
  「出生死去出入等ハ必其時々戸長ニ届ケ、戸長之ヲ其
 庁ニ届ケ出」るとある。
  また、「凡ソ旅行スルモノ、官員ハ其官省等ノ鑑札ヲ
 所持シ、 自余ハ臣民一般其管轄庁ノ鑑札ヲ所持スヘシ
 (略)鑑札ニハ当人名住所ト職分ヲ 記スヘシ」とある。
  つまり、管轄外に旅行する者は、戸長に届け出て、鑑
 札の交付を 受けて携行するようにと義務付けられていた。
  しかし、この時から4か月もたたないこの日・7月22日
 に 鑑札は廃止となった。
  しかし、旅行届の方は、これまでの「規則ノ通可相心
 得事」、つまり、「継続する様に」とが命じられた。
  中央法令たる戸籍法に基づいて、 実際に戸籍事務を扱
 う地方の行政体が、管轄下の住民に、旅行時の届出を命
 じる仕組みとなった。
  山口県の令を見ると、1872年7月(明治5年6月)に、
 「是迄之通」「届出を命じる布達が出され」、「戸籍法
 が改正される明治十九年まで旅行届 が提出され続けてい
 た」ことが確認できる。
  しかし、中央政府の法令であったので全国で実施は、
 されたはずであるが、実態としては「旅行は自由化」だ
 ったという。
1871年9月11日(7月27日)紙幣司
  大蔵省内に紙幣司として現在の国立印刷局が創設され
 た。
  そして、1871年10月(8月)に紙幣寮と改称した。
  創設当初の業務は、紙幣の発行、交換、国立銀行(民
 間銀行)の認可・育成など紙幣政策の全般がなされた。
  しかし、当時、国内では、印刷技術が未熟であったこ
 とから、
  明治政府は、近代的な紙幣の製造を、ドイツやアメリ
 カに依頼していた。
  しかし、紙幣は、国内で製造すべきであるとの声が強
 まったため、紙幣寮において、紙幣国産化の取組が行わ
 れることとなり、
  併せて、証券類、郵便切手が、1872年2月(明治5年1月)
 に、製造開始され、活版印刷等の印刷・製紙業務を行う
 こととなった。
1871年9月13日(7月29日)太政官に、正院・左院・右院を
 置いた。
  太政官官制改定、新たに正院、左院、右院を置く。
  正院(せいいん)は、明治維新政府の太政官職制発布
 後の最高政治機関で、
  他の二院に優越して、立法・行政・司法の三権の事務
 に対する最終決定権を持った。
  廃藩置県が断行された結果、9月13日に、太政官制が根
 本的に改革され、太政官に正院・左院・右院の三院が設
 けられた。
  太政大臣・左大臣・右大臣・参議などで構成された。
  3院のなかで、正院が中枢的地位を占めたので、正院の
 ことを太政官と呼んだ。
  1873年5月2日の改革で、正院の権限はさらに強化され、
 拡大された。
1871年9月13日(7月29日)日清修好条規(にっしんしゅう
 こうじょうき)
  日清修好通商条約成る(氷川清話)
  天津で、日本と清の間で初めて結ばれた最初の対等条
 約だった。
  特異性があると言われ、ヨーロッパ諸国や、アメリカ
 の列強諸国から、軍事的な密約があるのではないかとい
 らぬ疑惑をもたれた。
  これらの列強は、日本と中国が手を結ぶこと、同盟が
 怖かった。
  アメリカは、特に、日本が中国と手を結ぶ事を恐れた。
  また、この条約に対する列強各国の反対論には、この
 条約の条項に、日本と中国が、不平等条約を打ち破る条
 項があったためだった(儲け・利益の要だったから)。
  その様な状況から、批准は遅れた。
  1873年(明治6年)4月30日に、批准書交換がされて発
 効した。
1871年9月18日(8月4日)江藤新平(えとうしんぺい)が、
 左院1等議員に転ず。
  江藤新平は、佐賀県の下級武士の家に生まれ、(1834
 年~1874年)、領内の国学者に学ぶ、肥前佐賀藩士、
  藩の目付、代官を経て、貿易方を務める。しだいに、
 尊攘運動に参加し・・、
  1862年(文久2年)の28歳で、佐賀藩を脱藩し上京、尊
 王攘夷運動に参加(攘夷派の公卿と提携した)、
  帰藩を命ぜられ、帰藩後、藩庁より永蟄居に処せられ
 る。
  1867年(慶応3年)の33歳のとき、許されて群目付(こ
 おりめつけ、監察)となる。
  明治政府の成立とともに、明治政府に登用され、
  1868年(明治1年)の34歳の時、東征大総督府軍監とな
 り、江戸遷都を主張した。
  ついで江戸鎮台判事として、江戸開城直後の施政を担
 当した(民政兼会計営繕の任にあたる)。
  会計官判事、東京府判事、佐賀藩権大参事、制度局御
 用掛を歴任し、法制関係の官職を歩む、
  1871年(明治4年)の37歳で文部大輔、ついで左院副議
 長をつとめ、フランス流の民法典編纂(へんさん)に従
 事、
  1872年(明治5年)の38歳に司法卿となり、司法制度の
 確立・近代化に尽力した。
  司法権の独立・警察制度の統一をはかり、改定律例(
 かいていりつれい)の制定をした。
  後に、1873年(明治6年)の39歳に参議となり、征韓論
 を主張、西郷隆盛・板垣退助らに同調する。
  征韓論が受け入れられず辞職、1873年10月に下野した。
  1874年1月に、明撰議院設立建白書に、板垣退助・副島
 種臣(そえじまたねおみ)らと署名。
  1874年2月(明治7年)の40歳に、佐賀征韓党に推され
 て首領となり、憂国党(秋田県権令をやめた島義勇が結
 成した党)と結んで、不平士族に推されて、佐賀の乱を
 挙兵し、県庁を襲った(司法卿の時に、長州系の疑獄事
 件に腕を振るっていたのが関係したのか?)。
  しかし・・、政府軍に鎮圧され、薩摩・土佐に逃れた
 が、政府に逮捕され、
  1874年4月13日、処刑(斬罪のうえ梟首・きょうしゅ、
 さらし首)により没す(41歳)、
  のちに、大赦令(しゃれい、赦免、または特赦・大赦
 の命令)によって罪名消滅した。
  地代、家賃の値下げ、問屋仲買の独占の廃止など、民
 衆の要求を反映した近代化政策を行いながらも、
  大久保利通(おおくぼとしみち)や、岩倉具視(いわくら
 ともみ)らが政権を牛耳(ぎゅうじ)る有司(ゆうし、役人、
 官吏)専制体制を克服する道を誤り、士族の反乱にそれを
 求めることとなった。
..
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2016年2月22日月曜日

(増補版)300E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年5月~1871年8月)

題:(増補版)300E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年5月~1871年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年6月5日(4月18日)平民の乗馬を許した。
  中近世の日本では、馬術は、長く武芸の一つとして位
 置づけがなされていた。
  それ故、乗馬は、基本的に武士のみに許されていた。
  それ以外は、馬子など別の者に馬を引かせる場合に限
 って騎乗が許された。
  たとえ、自分の馬でも自ら手綱を握ることはできなか
 った。
  1871年になって、平民の乗馬が許可された。
1871年6月8日(4月21日)西郷隆盛が、島津忠義(薩摩藩主
 →鹿児島藩知事、華族)に従い、廃藩置県に備えて、常
 備兵四大隊を率いて京都に入った。
1871年6月10日(4月23日)初めて鎮台(ちんだい、軍政機
 関、鎮守府)を設置する(明治初期の常備陸軍)。
  東山道本営を、陸前石巻(分営:福島・盛岡)、
  西海道本営を、豊前小倉(分営:博多・日田)に設け、
 地方の警護にあたった。
  1888年に、師団と改称した。
1871年6月11日(4月24日)戸口調査のため民家各戸に番号
 を記入せしむ。
  1871年戸籍法に基づいて、1872年に実施。
1871年6月(4月)「安愚楽鍋(あぐらなべ)」(著者:仮
 名垣魯文、かながきろぶん)が出版された。
  牛鍋を囲む庶民の雑談の形で,文明開化の世相を滑稽
 に描いた。
  田舎(いなか)武士、職人、生(なま)文人、芸者、商人
 などの登場人物の会話のなかには、蒸気車、伝信機(てれ
 がらふ)、こうもり傘など、開化の文物が縦横に取り上げ
 られている。
  すでに牛なべは、文明開化を象徴する食べものになっ
 ていた。
  この6年後の1877年頃には、牛鍋屋は急増する。
1871年6月(4月)お雇い外人
  お雇い(御雇)外国人(おやといがいこくじん)は、
 幕末から明治にかけて、「殖産興業」などを目的として、
 欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用され
 た外国人のことで、欧米人を指すことが多い。
  そして、その国籍や技能は多岐に亘り、
  1868年(慶応4年/明治元年)から1889年(明治22年)
 までに、
  日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍の
 者の資料として、『資料 御雇外国人』や『近代日本産業
 技術の西欧化』がある。
  この資料から、2,690人のお雇い外国人の国籍が確認
 できる。
  内訳は、イギリス人 1,127人、
      アメリカ人  414人、
      フランス人  333人、
      中国人    250人、
      ドイツ人   215人、
      オランダ人   99人、
      その他    252人 である。
  また、期間を1900年までとすると、
      イギリス人 4,353人、
      フランス人 1,578人、
      ドイツ人  1,223人、
      アメリカ人 1,213人 とされている。
  1871年(明治3~4年)の時点で、太政大臣・三条実美
 の月俸が800円、右大臣・岩倉具視が600円であったのに
 対し、
  外国人の最高月俸は、造幣寮支配人ウィリアム・キン
 ダーの1,045円であった。
  日本人の大臣の1.7~1.3倍という超高給だった。
  その他、グイド・フルベッキやアルベール・シャルル・
 デュ・ブスケが600円で雇用されている。
1871年6月18日(5月1日)大井川の輦台渡、廃止となる。
1871年6月26日(5月9日)車馬道、人道の制、初めて東京
 市街主要大通りに開く。
1871年6月27日(5月10日)新貨条例
  新貨条例定めて、一円を単位とする。
  新貨条例を制定、「円」 と「金本位制」。
1871年6月30日(5月13日)参議・副島種臣(そえじまたね
 おみ)が、樺太の境界問題の解決のため、ロシアへ派遣
 を命ぜられた。
1871年7月1日(5月14日)種痘苗を各府県に頒ち、種痘を
 奨励する。
1871年7月15日(5月28日)洋服屋開店広告初めて現われる。
  洋服の普及の初め、洋服店が出現した。
  横浜の五十二番街、及び、東京茅場町に各一軒の洋服
 屋が開店した。
1871年7月(5月)木戸孝允が、『新聞雑誌』を創刊した。
  「新聞雑誌(しんぶんざっし)」は、参議となる木戸
 孝允が出資して、出身藩の長州藩の山県篤蔵(やまがた
 とくぞう)に、東京で創刊し、発行させた新聞だが、
  紙名は、ニュースの他に世間の雑事も掲載するという
 意味(政治・経済・教育・人事のほか、海外事情の紹介)。
  そして、新政府の文明開化や廃藩置県などの政策を、
 国民に周知徹底させることを意図していた。
1871年7月、食肉が広まり、販売権をめぐって商人・南屋喜
 重に屠牛場免札が許された。
  そして、8月に、屠牛場の開設が鑑札制となった。
1871年8月4日(6月18日)陸奥の尻屋岬燈台が竣工する。
1871年8月11日(6月25日)西郷隆盛と木戸孝允が、参議と
 なる 。
  この後に断行される廃藩置県によって、公卿と諸侯の
 大半が一掃される。
  そして、維新の功臣が政府の中核となる。
  この直前、郡県制への移行の実現のため、兵士を引き
 連れて上京した薩摩藩出身の西郷隆盛は、木戸孝允一人
 を参議とすべしとした。
  そして、他の者は省庁に下ることを提案し、大久保ら
 の賛同を得たが、木戸本人が固辞したため、
  西郷自身も参議に就任するという妥協に応じて、共に、
 参議に就任した
1871年8月12日(6月26日)民部省が長崎~上海の通信を開
 始した。
1871年8月23日、ドイツ医学の輸入の初め、
  ドイツ人教師が到着した。
  大学東校(東京大学医学部の前身、以下、東京大学と
 いう)で、ドイツ式医学教育を本格的に始めた。
  明治政府は、1870年(明治3年)、東京大学(医学校:
 大学東校)兼病院において、3年契約で、2名の医師を招聘
 したい旨をドイツ連邦公使に依頼した。
  先方の条件には、医学校の長たるべきこと、天皇陛下の
 侍医たること・・などが盛り込まれていた。
  契約は成立したが、肝心の教師たちは、なかなか来な
 かった。
  この時、プロシャ(ドイツ)は、普仏戦争のまっ最中
 だった。
  来る予定の二人の教師は、現役の軍医だったので、来
 日がなかなかできなかった。
  肝心の教師が来ないとなって政府は苦慮した。
  そこで、ボードイン(オランダ出身の軍医、長崎養生
 所のポンぺの後任)に頭を下げて、1870年8月(明治3年
 7月)に、帰国するまで講義してくれるよう頼むという始
 末だった。
  それでも、まだ、約束の教師は来なかった。
  今度は、フランス人のE. マッセを12月まで雇用した。
  そして、翌年の1871年になっても、まだ来なかった。
  急場しのぎで、アメリカからデンマーク人 O.シモンズ
 を招いた。
   1871年8月23日に、ようやく、ドイツ人教師たちは、
 夫人同伴で横浜港に着いた。
  1871年8月25日の朝、一小隊の儀伎騎兵に護られた陸軍
 一等軍医正(中佐)のミュルレル(1824年生まれ、47歳)は、
 華々しく東京大学(東校)玄関に到着した。
  彼は、ただちに、ドイツ語で演説を始めた。
  この急場を、松本良順の弟子で語学に秀でていた司馬
 凌海(しばりょうかい)が通訳した。
1871年8月29日(明治4年7月14日)廃藩置県
  廃藩置県の詔書が出る。
  この日・明治4年7月14日、午後2時、東京にいた各藩の
 知藩事56人が皇居大広間に呼び出され、
  そして、明治天皇陛下によって廃藩置県の詔(みこと
 のり)が発布された(以下、その詔)。
  朕惟フニ更始ノ時ニ際シ内以テ億兆ヲ保安シ外以テ万
 国ト対峙セント欲セハ宜ク名実相副ヒ政令一ニ帰セシム
 ヘシ朕曩ニ諸藩版籍奉還ノ議ヲ聴納シ新ニ知藩事ヲ命シ
 各其職ヲ奉セシム然ルニ数百年因襲ノ久シキ或ハ其名ア
 リテ其実挙ラサル者アリ何ヲ以テ億兆ヲ保安シ万国ト対
 峙スルヲ得ンヤ朕深ク之ヲ慨ス仍テ今更ニ藩ヲ廃シ県ト
 為ス是レ務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ政令
 多岐ノ憂無ラシメントス汝群臣其レ朕カ意ヲ体セヨ
  (数百年因襲いんしゅうの久ひさしき
  或あるいは其その名ありて其実そのじつ挙あがらざる
 者あり
  何を以もって億兆を保安し
  万国と対峙たいじするを得んや
  仍よって今 更に 藩を廃し県と為なす)
  ・・
  藩は、県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京へ
 の移住が命じられた。
  各県には、知藩事に代わって新たに中央政府から県令
 が派遣された。
  なお同日、各藩の藩札は、当日の相場で政府発行の紙
 幣と交換されることが宣された。
  当初は、藩をそのまま県に置き換えたため現在の都道
 府県よりも細かく分かれており、3府302県あった。
  また、飛地が多く、地域としてのまとまりも後の県と
 比べると弱かった。
  そこで、明治4年(1871年)10〜11月には3府72県に統
 合された。
  その後、県の数は、明治5年(1872年)69県、明治6年
 (1873年)60県、明治8年(1875年)59県、明治9年(1876
 年)35県と合併が進み(府の数は3のままである)、明治
 14年(1881年)の堺県の大阪府への合併をもって完了し
 た。
  だが、今度は、逆に、面積が大き過ぎるために地域間
 対立が噴出したり事務量が増加するなどの問題点が出て
 来た。
  そのため、次は分割が進められて、明治22年(1889年)
 には3府43県(北海道を除く)となって最終的に落ち着い
 た。
  江戸城明け渡しという形で、流血を見ずに 中央政権の
 交代が実現した 翌年の1868年6月11日に、新政府の統治
 機構である政体書が発表された。
  これが、現在の都道府県の前身と言え、府県 が、最初
 に設けられたのが、この政体書だった。
  薩長土肥がリードした「版籍奉還」は1869年7月25日に
 行われ、諸侯は 新政府から任命されたという形になり、
 「知藩事」となった。
  藩に対しては、「藩制」などによる統制が加えられた
 ものの、基本的に、まだ、地方は、殿様の支配が続く分
 立体制だった。
  財政問題と余剰人員化した士族とを抱えて 苦しい諸藩
 だった。
  脱落する藩も出てきた。
  軍事・教育・司法・財政を、「全国一致之政体」にし、
 近代国家に脱皮したい政府にとっても、中央政府の強化
 は大きな問題だった。
  これを解決したいために行われたのが、この廃藩置県
 だった。
1871年8月29日(7月14日)外国はびっくり:廃藩置県の「
 外国新聞報道」
  この廃藩置県が行われた時、外国の新聞記者は、これ
 は凄(すご)いと、各社が外電を打った。
  一つの体制が滅びていく時には、ヨーロッパであれば、
 間違いなくギロチンになる様な世界的革命である廃藩置
 県を、日本は、血の一滴も流さずにやった・・と、
  「武士階級の最終的な自己否定」であった廃藩置県で
 あったからだった。
  廃藩置県の断行は・・、
  廃藩置県案は、西郷隆盛、大久保利通・木戸孝允ら薩
 長の要人間で密かに練られた。
  そして、三条実美・岩倉具視・板垣退助・大隈重信ら
 の賛成を得て成案となった。
  そして、この日、新政府は、在京の知藩事を皇居に集
 めて廃藩置県を出した。
  そして、藩は府県となった、知藩事は免職された。
  そして、中央政府から府知事・県令が派遣された
  旧来の藩制を廃して郡県制度を敷き、中央集権をはか
 った。
  そのままに、県に置き換えたため、細かく分かれ、全
 国で3府302県になった。
  飛地も多く、地域としてのまとまりも弱いというとこ
 ろもあった。
  これは後に、11月14日に、統合され、3府72県になっ
 た。
1871年頃、裏側の諸要素が見えない明治
  明治以来の日本人が、久しくヨーロッパの明るい側面、
 近代的なシンボル、自由や平等や進歩だけを受け入れよ
 うとし、
  その背後にある、これとは正反対の方向へヨーロッパ
 を引っ張っている裏側の諸要素が、
  如何に根強いかを見ないで、
  極めて表面的で空疎な理想主義に走っていた。
1871年~1872年、何でも西洋が良いの風潮
  この頃、何でも、かんでも、「西洋に学べ、西洋に遅
 れを取るな」の風潮が世を風靡した。
  この叫びが、日本全土を駆け巡り、野火の様に広がっ
 て行った。
  西洋の何も分からない時代、ただただ、西洋は進んで
 いる、西洋から学べとなっていた。
  こんな時、キリスト教が何たるかを知らず、キリスト
 教を良きものと盲信した。
.
  そして、今日の言葉・・、
.
  かつては「建設省」という「省」があった。
  その頃の日本は、何もない時代だった。
  日本は、一生懸命に建設した。
  その努力のかいもあって、幸いにも目的は達して、そ
 の省の名前は、国の形に不相応になった。
  そこで、その省の名前は変わり、建設省の名前は無く
 なった。
  マンションでも何でも、竣工すれば、出来あがれば、
 建設されれば、その次に、「その維持」に意を配るのが、
 当然の行動となる。
  維持費の積み立てもする。
  その維持の実施を考える「組織も作られる」。
  何もしないで、放っておけば、「何でも壊れる」ので、
 当然の行為だ。
  国は今、「社会資本」に「維持メンテナンス」が「必
 要」で「大切な時」なのである。
  国には今、「社会資本」の「維持メンテナンス」の「
 組織が必要な時」なのである。
  「社会資本メンテナンス省」、もしくは、「社会資本
 メンテナンス庁」が必要な時なのである。
  NHKのような組織などが、間違い観念を煽り、有り
 もしない「2016年問題」が煽られる状況となっている。
  その様なインチキに煽られ、公的機関は、まだ、使え
 る多くの社会資本を壊して、作り直そうとしている。
  もう地球資源の多消費型社会は終焉しているのにだ。
  その様な状況の、地球の状況の中を、多くの公的機関
 の建物・社会資本が壊される事になっている。
  NHKのインチキ放送が、「2016年問題」が持ち上
 がって乗っかり煽っている。
  また何と、この多くの社会資本は、「壊すという方針」
 になっている。
  「そう簡単に壊すなよ」と言いたい。
  「リユースする道を考えよ」と言いたい。
  デザイン良く耐震補強すれば良いだろうに・・。
  建物内部だってセンスの良い設計事務所に依頼すれば、
 びっくりするくらい、見違えるほどになる。
  まだまだ、社会資本は使えるのだ、大切に使って行き
 なさい。  リユースならば、費用は半分で済む。
  その残った半分の費用は、そのお金は、国民へ還元せ
 よ。
  そうすれば、社会が潤(うるお)い、景気を刺激する。
  金のない時に無駄遣いはしないこと。
  このNHKのインチキ放送で、損害賠償を請求される
 リスクまで、国民は負う羽目になっている、その可能性
 は否定出来ない。
..
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2016年2月21日日曜日

(増補版)299E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年2月~1871年5月)

題:(増補版)299E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年2月~1871年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年2月27日(明治4年1月9日)1月、賊広沢真臣を殺す(
 氷川清話)
  横井小楠、大村益次郎に続いて広沢真臣(ひろさわさ
 ねおみ)も暗殺される。39歳、
  広沢真臣は、長州藩士で、藩の財政改革(安政の改革)
 に参画し、また、倒幕運動(尊王攘夷派)に尽力した。
  幕長戦争(長州征討)の際には、長州藩を代表して広島
 に出張し、厳島で幕府方の勝海舟と休戦協定を結んだ。
  明治になり、維新政府に参画し、海陸軍務掛、内国事
 務係、同判事などを歴任し、政府最高位の参議となった。
  何故、暗殺されたのか?
  理由不明の中に、必死の捜査が行われた。しかし、迷
 宮入りとなった。
  (因みに、この2年前に襲撃されて死亡した同じく長州
 藩出身の大村益次郎の場合は、薩摩や長州の不平分子の
 関与だという)。
  1879年(明治12年)に、広沢家は、維新の功を賞せら
 れ、華族に列せられた。
  広沢家の様に、士族から華族になる例は稀だった。
1871年3月6日(1月16日)西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通
 らが、治政改革のため土佐の山内容堂訪問した。
  何で、西郷らは、44歳の土佐藩主の容堂でなければな
 らなかったのか?
  徳川末期には、徳川慶喜を支えた容堂だった。
  辞官納地が徳川慶喜が押し付けられたとき、薩摩・土
 佐・尾州・芸州が土地をそのまま保有しておきながら、
 何故?徳川宗家に対してだけなのか?と擁護した。
  これは、正論であった。
  種々、容堂は、徳川側に立った。
  その時、最後は、容堂は酒に酔っていると無視された。
  鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、土佐藩兵に対し、『
 この戦いに加わるな』と厳命した容堂だった。
  (土佐藩兵は、藩主の命を無視して官軍に参加した)
  明治となれば、反主流派である。
  維新になって、内国事務総裁という役職に就任したが、
 容堂は、すぐに、2年足らずの1869年に辞職した。
  そして、隠居になって、酒楼通いの、この様な容堂に、
 西郷らのそうそうたる人たちが訪問した(容堂は、この
 翌年・1872年、脳溢血に倒れ、46歳で没する・・が?)。
  因みに、西郷隆盛は、この4年前の1867年3月22日に、
 薩摩藩主の命によって、容堂に面会している。
  そして、その時、時局の重大性を話し合い、容堂の上
 洛をしきりに頼んでいる(意気投合している)。
  この時、西郷らの頭にあったのは「政府改革案」だっ
 た。
  この後、世は、廃藩置県へと流れて行く。
  すべての大名(旧藩主)の失職である、そして、東京
 へ移住せよと命じられるのである。
  代わって中央政府が権利を持つという改革(クーデタ
 -)である。
  各藩主の反抗に対する相談だったのか?
  いきなりの廃藩置県の断行もできないという事で・・、
1871年3月14日(1月24日)郵便に関する布告がなされた。
  東京・京都・大阪間に郵便開設のため同規則を領布
 (りょうふ、有料で提供する)し、4月20日(3月1日)
 より実施するとした。
  そして、この日の3月14日(1月24日)に、「書状ヲ出
 ス人ノ心得」、及び、「郵便賃銭切手高並代銭表」、
 「郵便規則表」等、郵便に関する一連の太政官布告が公
 布された。
1871年3月22日(2月2日)西郷隆盛、山内容堂、板垣退助、
 山県有朋ら上京す。
  行動したのは、万一の反乱に対処するための軍組織を
 しっかり作ることだった。
  東京に着いた一行は、1871年3月28日(2月8日)に会談
 し、御親兵の創設を決めた。
  そして、明治維新政府の大変革が本格化して行く。
1871年3月24日(2月4日)二卿事件(にきょうじけん、政府
 転覆未遂事件)の首謀者が東京に入る。
  案の定と言っていいのか?・・この様な事件が起きる。
  攘夷派の公卿、愛宕通旭と、外山光輔が、明治政府の
 転覆を謀ったクーデター未遂事件。
  尊皇攘夷の中心的な役割を果たしてきた薩摩藩と長州
 藩。
  その両藩を中心とした明治政府が、成立したことによ
 って、攘夷が断行されると信じていた全国の攘夷派は、
 明治政府が、戊辰戦争が終わると、直ちに、「開国和親」
 を国是とする方針を打ち出したことに強い失意と憤慨を
 抱いた。
  これは、倒幕に参加していた薩摩藩・長州藩・土佐藩・
 肥前藩の薩長土肥の志士や、公家の一部にも及んでいた。
  彼らは、明治政府を倒して、新しい政府を作り直して
 攘夷を行って、外国と戦うべきであると唱えていた。
  その先駆けとなったのが、1870年1月2日(明治2年12月
 1日)に、長州藩で発生した大楽源太郎に率いられた奇兵
 隊などによる「脱隊騒動」であった。
  この反乱は、木戸孝允らによって間もなく鎮圧された
  ものの、
  大楽は、九州に逃亡し、攘夷派が藩政を掌握していた
 久留米藩や、熊本藩の河上彦斎らの支援を受けて再起を
 伺っていた。
  一方、大楽の救援に駆けつけていた土佐藩の堀内誠之
 進は、京都に逃れて、同地の攘夷派志士の糾合を画策し
 ていた。
  そして・・、
  かつて、廷臣二十二卿列参事件(1866年10月8日に発生
 した公家による事件・騒動)にも加わったことのある愛
 宕通旭(おたぎみちてる、幕末の公卿→官僚)は、
  この頃、明治政府の参与を免ぜられて京都に引き籠っ
 ていた。
  愛宕は、新政府の実権を握った薩・長の下級武士らに
 よって、「天皇の藩屏(防備の囲い)」であった公卿が、
 政治の中枢から切り離されていくことに、苛立ちを感じ
 ていた。
  家臣の比喜多源二・安木劉太郎らは、これに同情し、
 新政府を倒して、明治天皇陛下を京都へ連れ帰り、攘夷
 を断行するべきであると進言した。
  弾正台(だんじょうだい、警察機関)で、横井小楠暗
 殺事件の捜査を担当しながら、
  逆に、横井を糾弾しようとしたことで知られる古賀十
 郎と、その友人である秋田藩の中村恕助は、
 比喜多によって、仲間に招き入れられると、天皇陛下と
 主だった公卿が東京にいる以上、まず、東京で事を起こ
 さなければ意味がないと説いた。
  これに同意した愛宕は、1871年3月18日(明治4年1月28
 日)に、比喜多・安木らを連れて京都を発ち、
  この日・1871年3月24日(2月4日)に、東京に入った。
  愛宕主従は、古賀・中村に誘われた秋田・久留米藩士
 や、土佐の堀内誠之進らと謀議を重ね、秋田藩内の同志
 に呼びかけて日光を占領し、東京に火を放って天皇陛下
 を京都に連れ出す作戦を練った。
  この様に、新政府がその基盤を置いた薩長でさえも、
 洋式装備に統一され実戦的訓練を受けた軍隊を擁してい
 て、
  成立間もない新政府にとって不気味な存在であった。
  そして、静岡藩を初めとする旧組織の親藩・譜代の諸
 藩の動静には過敏にならざるを得なかった。
  小規模な蜂起反乱が勃発した。
  そして、事態は、新政府は、横井小楠・大村益次郎を
 早々に失い、
  そしてまた、雲井龍雄処刑の責任者・広沢真臣が、1871
 年(明治4年)に暗殺されるなど、不安定な中に、政府は
 あった。
1871年3月28日(2月8日)浅草の大火に・・消防ポンプ
  東京(浅草)の火事に、初めて消防ポンプが使用され
 た。
  『続武江年表』には・・、
  明治四年二月八日戌下刻(午後9時頃)浅草本願寺後
 田島町火事、田原町迄焼る。消防器械ポンプ始て用い、
 便利を知る。
1871年4月2日(2月13日)帝都に、親兵(しんぺい)設置。
  明治政府の最初の直属軍隊。
  「御親兵」と呼ばれた。
  明治新政府は、1868年3月13日(明治1年2月)に、はじ
 めて政府直属軍としての親兵を設置した。
  この設置は、必ずしも安定してなかった国内事情に由
 った。
  富国強兵策の対外的な面だけではなかった。
  内国的な面もあった。
  1868年閏4月に、各藩の献兵による京都警衛隊の制が
 定められたが、この制は翌年の1869年2月に廃止され、
  十津川郷士などの約400人の親兵を有したにすぎなか
 った。
  東京遷都後の皇居警衛には、長州藩兵があたっていた
 が、
  1870年12月に、山県有朋は、鹿児島にいた西郷隆盛に
 薩・長・土3藩の献兵による親兵創設を説き、
  翌年・1871年2月に、薩摩藩歩兵4大隊・砲隊4隊、長州
 藩歩兵3大隊、土佐藩歩兵2大隊・騎兵2小隊・砲隊2隊の献
 兵による親兵設置が令せられた。
1871年4月4日(2月15日)大蔵省造幣寮の創業
  今まで、藩札のほかに、民間紙幣の私札が、近世初期
 から各地において発行されていた。
  1871年4月4日(2月15日)に、政府は、造幣寮(現在の
 大蔵省造幣局)の開業に踏み切り、
  そして、新貨の鋳造にのり出した。
  1871年6月27日(5月10日)には、新貨条例を制定し、
 公布し、
  「円」という貨幣単位を採用した。
  (金貨を本位貨幣、銀貨を補助貨幣とする新貨制度を
 実施し、
  これまでの両にかわって、円が通貨となり円、銭、厘
 の十進一位の単位が決定した)
  そして、これによって、江戸時代の両・匁・文の体制か
 ら切り替えた。
  新しい金貨・銀貨・銅貨は、円形の貨幣となり、江戸時
 代の楕円形の大判・小判、なまこ形の丁銀、不定形の小粒
 であった豆板銀などが、円形に統一された形状をもつこ
 とになった
1871年4月11日(2月22日)兵の配属・配置
  鹿児島藩:歩兵四大隊、砲兵四隊、
  山口藩:歩兵三大隊、
  高知藩:歩兵二大隊、騎兵二小隊、砲兵二隊を、
 御親兵として招徴し、兵部省の隷下に置いた。
1871年4月20日(3月1日)郵便制度がスタート
  官営郵便事業の開始(前島密)
  日本で、最初の郵便切手の発行(この時に発売された
 切手は、銭48文、銭100文、銭200文、銭500文、半銭、壱
 銭、弐銭、五銭など)
  郵便ポストもこの時に始まった。
  この日の4月20日(3月1日)に、東京〜京都〜大阪間
 に、現行の制度の礎となる郵便制度が確立され、
  東京・京都・大阪に、最初の郵便役所が創設された。
  布告に用いられた「郵便」の名称は、前島の案に準じ
 た。
1871年4月24日(3月5日)江藤新平が、対外策を岩倉具視へ
 呈す。
  江藤新平は、1870年2月(明治3年1月)には、佐賀に帰
 郷して準家老に就任し、藩政改革を行うが、
  後に、中央に呼び戻され、1871年1月(明治3年11月)
 に太政官中弁となる。
  1871年2月(明治3年12月)、虎ノ門で佐賀藩の卒族に
 襲撃されて負傷する。
  1871年4月(明治4年2月)には、制度取調専務として国
 家機構の整備に従事し、
  そして、大納言・岩倉具視に対して30項目の答申書を
 提出する。
  近代的な集権国家と、四民平等を説き、国法会議や民
 法会議を主催して、箕作麟祥らとともに民法典編纂に取
 り組んだ。
  江藤は、「フランス民法と書いてあるのを日本民法と
 書き直せばよい」「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」とい
 うほどフランスの法制度を高く評価ていた。
1871年4月30日(3月11日)神武天皇祭(じんむてんのうさ
 い)の始まり(後に、4月3日に改める)
  初代の天皇陛下である神武天皇の崩御日にあたる4月3
 日に毎年行なわれ、神武天皇の天皇霊を祭る。
  崩御日は、『日本書紀』によれば紀元前586年(神武
 天皇76年)3月11日であるが、これを太陽暦に換算し、
 4月3日とした。
  宮中の皇霊殿と、神武天皇陵に治定される奈良県橿原
 市の畝傍山東北陵で儀式が行われる。
  神武天皇祭は、幕末の孝明天皇の時代、1860年(万延
 元年)3月11日に、神武天皇の御陵祭として始まり、
  1871年(明治4年)9月に定められた「四時祭典定則」
 で規則化された。
1871年5月22日(4月4日)壬申(じんしん)戸籍(旧暦4月
 5日説あり)
  戸籍法が制定された(太政官布告によって制定)。
  国民を華族・士族・卒・神官・僧侶・平民に区分した。
  (1945年に、身分制度が廃止された)
  戸主中心の戸籍で、やがて、旧民法が出来ると「家」
 制度の根幹を成した。
  1872年(明治5年)2月1日に、施行した。
  この戸籍法は、不備が多く、多くの機能(印鑑証明、
 地権等)を持たせたことにより、複雑となった。
  また、必要限度の要件さえ整っていれば、記載様式も
 特に設けられなかったことから、
  地方によって書式の詳細に格差が生まれた。
  また、以後、6年に一度改編するという規定も、大区
 小区制施行と併せて行われた1回程度で、多くの問題点が
 あった。
1871年5月22日(4月4日)旧藩札発行の禁令。
1871年5月25日(4月7日)専売特許条例が制定された。
  我が国で初めての特許法と言える『専売略規則』が公
 布された。
  しかし、技術の未発達により、特許を得られる発明品
 が少なかったことや、審査員の不足などがあり、
  翌年・1872年に、施行が中止された。
  しかし、人力車やガラ紡のように、特許制度が整備さ
 れていないことで様々な問題が生じると、再び、制度の
 必要性が確認され、復活が求められるようになった。
  これを受けて、新たに、1884年(明治17年)に、「商
 標条例」が、1885年(明治18年)に、「専売特許条例」
 (明治21年に特許条例に改正)が、
  1888年(明治21年)に「意匠条例」が公布され、本格
 的な特許制度が開始された。
1871年5月27日(明治4年4月9日)長崎製鉄所を長崎造船所
 と改称した。
  1872年(明治5年)に、長崎製作所と改称する。
1871年5月30日(4月12日)皇城(皇居)に電信開設す。
1871年5月、売春業者の新規開業禁止。
1871年5月、兵部省に軍楽隊が設置された。
  軍楽隊の初めの、薩摩藩の軍楽伝習隊に、ダブルリー
 ド系の楽器が入っていないのは、楽器が高価であったり、
 習得するのが困難な楽器だったらしいが・・、
  この当時、アメリカやフランス、ロシアの軍楽隊には、
 サキソフォーンが既に採用されていた。
  しかし、イギリスやドイツ、イタリアにおいては、ま
 だ採用されていなかった。
  この事と、規模こそ違うものの、編成上のバランスな
 どを考えると、
  やはり、フェントンは、薩摩藩軍楽伝習隊に、イギリ
 スの軍楽隊のスタイルをそのまま移そうとした。
  1870年6月に、薩摩藩軍楽伝習隊に、楽器が到着した。
  しかし、彼等に、帰藩命令が出されたのが、1870年9月
 だった。
  つまり、彼等は、楽器を手にしてわずか三ヶ月で、伝
 習が打ち切られた。
  この様な、短期間では、楽器から一通り音を出せるよ
 うになるだけでも難しいが、
  彼等は、「イギリス国家」などの楽曲を数曲、演奏で
 きるほどに上達していた。
  また、フェントン作曲の初代『君が代』、および、現
 行『君が代(国歌)』を初演した。
  さらに、彼等は、郷里の薩摩に戻って、そこの土地で、
 指導者としても活動した。
  1871年(明治4年)に、150人を超える人数の軍楽隊と
 なって再上京し、明治政府兵部省の軍楽隊の基礎となっ
 た。
  なお、フェントンは、1876年(明治9年)に、雅楽局式
 部寮に赴任した。
  そして、初期の軍楽隊は・・、
  1871年5月に、明治政府は、兵部省に、前記の薩摩藩軍
 楽隊を基礎とした軍楽隊を設置した。
  1871年7月に、兵部省は、陸軍部と海軍部に分かれ、
  1871年9月には、軍楽隊も、陸軍軍楽隊と海軍軍楽隊に
 分かれた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive