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2020年1月8日水曜日

(増補版)674E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年6月~1897年6月)

題:(増補版)674E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年6月~1897年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年6月12日、日本機械学会が設立された。
  これは、機械工学とその関連分野の学会・・
  設立の目的:「機械に関する学術、技芸の進歩、発達
 をはかり、かつ工業の発展のためにつくす」・・
  民法第34条により、文部大臣の認可を受けた社団法人・・
  会員数は、1996年3月現在、正員36,616名、准員2,466
 名、学生員5,598名、特別員1,053社の合計45,733名・・
  組織:東京の本部・事務局と・・
  全国各ブロックに置かれた8支部(北海道、東北、関
 東、東海、北陸信越、関西、中国四国、九州)・・
  および、20部門(計算力学、バイオエンジニアリング、
 材料力学、機械材料・材料加工、流体工学、熱工学、エン
 ジンシステム、動力エネルギーシステム、環境工学、機
 械力学・計測制御、機素潤滑設計、設計工学・システム、
 生産加工・工作機械、FA、ロボティクス・メカトロニク
 ス、情報・知能・精密機器、産業・化学機械、交通・物流、
 宇宙工学、技術と社会)・・からなる。
  (参考)FA:Factory Automation(ファクトリーオ
     ートメーション) ・・ 工場の自動化
  日本人のために、日本人が設計・製造し、日本人がそ
 れを使い生活するところから機械の国産化の歴史が始ま
 る。
  日本の産業革命は、この学会が設立された時期とほぼ
 同時期に確立したと言われている。
.
1897年6月16日、あめりかが詭弁のハワイ併合をする。
  米・ハワイ併合条約が調印され、ハワイ併合がなされ
 た。
  日本政府は、この不誠実なアメリカの行為に対して抗
 議を行った。
  (参考)詭弁:きべん、道理に合わない、言いくるめ
     の議論。ごまかしの議論。
 「詭弁を弄(ろう)する」。論理学で、相手の思考の混乱
 や感情につけ入って相手をだます、見掛け上は正しそう
 な、虚偽の推論。
.
1897年6月17日、神奈川県の船大工の360名が同盟罷工を行
 なった。
.
1897年6月18日、京都帝国大学(後の京都大学)が創立した。
  (6月22日説あり)
  創立以来「自由の学風」を建学の精神としている。
  日本で2番目に創設された、帝国大学の流れを汲んでい
 る国立大学・・
  大学の起源は、1861年9月20日(文久元年8月16日)に
 長崎に設立された長崎養生所(後、長崎精得館へ改称)
 まで遡る。
  1949年、理学部教授・湯川秀樹が日本人初のノーベル
 賞に輝いた。
.
1897年6月20日、高山樗牛(たかやまちょぎゅう)が、日本
 主義を提唱した。
  文学者、文芸評論家、ジャーナリスト、美学者、倫理
 学者、
  1871年1月10日、山形県に生まれる・・山形県鶴岡の酒
   井藩士の子(旧庄内藩士斎藤親信・ちかのぶ、芳の
   次男として生まれる)
  1873年(2歳)高山家の養子へ(父方の伯父・高山久平
  の家)、養父の転勤で山形、福島と移る・・
  少年期から投書雑誌「穎才新誌」や地元新聞に投稿す
 るなど、文才を発揮する。
  1886年(15歳)上京し、東京英語学校に入学・・
  1887年(16歳)第二高等学校に入学(1888年説あり)
  1891年(20歳)学校の有志らと語らって「文学会雑誌」
   を創刊し数編の論文を載せた・・そこに、人生への
   懐疑、文学への志向などすでに浪漫主義のモチーフ
   があった・・
  1893年(22歳)東京帝国大学文科大学哲学科に入学。
  1894年(23歳)大学在学中、「平家物語」に材を取っ
   た悲恋物語の歴史小説「滝口入道」を日就社の懸賞
   募集に応募し、当選し「読売新聞」に掲載された。
   一躍有名になったが、以後は小説の筆を執らなかっ
   た。
   学問の活性化を目指してエッセイストの道を選択し
   た・・
  帝大文科大学の帝国文学会機関誌「帝国文学」や博文
 館の雑誌「太陽」などに、それまでの戯作を批判し理想
 主義的文学を高く評価する評論を次々と発表し、注目を
 集める。
  1895年(24歳)「帝国文学」発刊に参加・・上田敏、
   姉崎嘲風(あねさきちょうふう)らと編集委員となる・・
   近松文学に託して自らの思いを吐露する・・「愛」
   こそ「人生に対しては幸福の最大なる源」であり、
   「情死」こそ「幸福なる愛の最後」と書く・・
  1896年(25歳)大学卒業と同時に第二高等学校教授に
   就任し、一時、中央論壇から離れる・・が・・評論
   への志望が強く、翌年4月、二高教授を辞職し博文館
   へ入社・・
  1897年(26歳)「太陽」を主宰し復帰(主幹を務める)・・
   鋭い批評文を精力的に書く・・それとともに、東京
   帝国大学や東京専門学校(早大)に出講する。
   国家を史上の人格的存在ととらえ(国家至上主義)、
   それを自我の独立と直結する日本主義を井上哲二郎
   らと唱えた・・論壇を領導(りょうどう、統率して
   指導すること)する・・日本主義を太陽に掲載・・
   木村鷹太郎らと大日本協会を起こし、機関誌「日本
   主義」を創刊した・・
  1900年(29歳)欧州留学を目の前にして、突如、血を
   吐いて倒れる・・
   次いで、ニーチェの死に際し、大いに感化を受ける・・
  「美的生活を論ず」等でニーチェの思想を賛美し、ニ
  ーチェ主義を主張する・・個人主義へ転換・・本能満
  足主知を主張し、浪漫主義宣言として反響を呼ぶ・・
  ニーチェへ傾倒は、ニーチェを天才主義の文明評論家
 として解釈し礼讃する・・ニーチェの強烈な「超人」的
 な個性に魅かれて行く・・「美的生活を論ず」など大き
 な反響を引き起こした・・
  この天才主義、主我主義は、理想の人格を日蓮に見い
 出し、崇拝し傾倒した・・日蓮を絶対的な予言者と見た・・
  1902年(31歳)文学博士となる・・
  明治35年12月24日(1902年)歿、32歳
  死の直後、桑木厳翼(くわきげんよく)が、樗牛の「煩
 悶(はんもん、浪漫主義~日本主義~個人主義の三変)は、
 一貫して一つの問題に触れて居(い)」た、それは「人生
 問題と云(い)ふものゝ解決であつた」と述べている・・
  このように、変転する彼の思想遍歴のうちに新しい時
 代の刻印をはっきりと見ることができる。
  著「美的生活を論ず(1901年)」「わが袖の記(1897
 年)」「文明批評家としての文学者(1901年)」「平家
 雑感(1901年)」「平相国(1902年)」「日蓮上人と日
 本国(1902年)」「日蓮と基督(1902年)」「日蓮上人
 とは如何なる人ぞ(1902年)」など。
  言葉:己れの立てるところを深く掘れ、そこには必ず
    泉あらん
.
1897年6月26日、河口慧海(えかい)が、チベット調査に出
 発した。
  河口慧海(かわぐちえかい)、黄檗宗の僧侶、仏教学
 者、チベット探検家、大正大学教授。
  「チベット旅行記」など著書多数。
  中国や日本に伝承されている仏典に疑問が指す・・従
 来の漢訳仏典の正確さに疑問を抱いた。
  仏陀本来の教えの意味を知りたいと・・それが分かる
 物を求める・・梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を
 決意・・チベット語原典の研究を志して、インドからチ
 ベットへ密入国・・
  日本人で初めて首都・ラサに至り、チベット一切経な
 どの多数の貴重な資料を将来(しょうらい、持って帰る
 こと)した。
  「西蔵旅行記」「在家仏教」をはじめとして数多くの
 著作を残している・・慧文社から著作選集も出版されて
 いる。
  1866年(慶応2年)摂津国堺山伏町(現:大阪府堺市堺
 区北旅籠町西3丁)生まれた。
  1899年(明治32年)(33歳)1月、仏陀成道の地ブッダ
   ガヤに参り、摩訶菩提会の創設者であるダンマパー
   ラ居士より釈迦牟尼如来の舎利をおさめた銀製の塔
   とその捧呈書、貝多羅葉の経文一巻をチベットに辿
   り着いた際に法王ダライ・ラマに献上して欲しいと
   託された。
  1900年(34歳)7月4日、ネパール領トルボ(ドルポ/ド
   ルパ)地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)
   を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成
   功した。
  1902年(明治35年)(36歳)5月上旬、日本人だという
   素性が判明する恐れが強くなった為にラサ脱出を計
   画した。
    親しくしていた天和堂(テンホータン)という薬
   屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典
   などを馬で送る手配を済ませた後、
  1902年(36歳)5月29日、英領インドに向けてラサを脱
   出する。
   捕まった者たちが投獄の上、責め苦に会っていると
   いう情報を聞きながら・・ネパールへ
  1903年(37歳)3月、慧海が自ら書いたチベット法王ダ
   ライ・ラマ宛ての上書をネパール国王を通じて法王
   へ送ってもらう事に成功・・また、国王より多くの
   梵語仏典を賜る。
  因みに、1887年(明治20年)前後から、日本仏教界に
 は「入蔵熱」(チベット入国フィーバー)が起こってい
 た。
  何人もの有為の仏教徒が、ヒマラヤ山脈からチベット
 高原にかけ、果てしなく広がる「未テラ・インコグニタ
 知の土地」の探検に名乗りを上げていた。
  当時、チベットは国が閉ざされていた。
  チベットの内情はほとんど知られない国だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:2040年、アメリカの白人が、50%以下になり、マイノリティになる・・
.
紀元前7200万年、この頃の恐竜の骨が、北海道で見つかっ
 た。
  全身骨格の可能性がある。
  希少な例。
  2013年9月から本格発掘を開始する。
  ハドロサウルス科の恐竜。7.2トン。
  全長8メートル。白亜紀後期。
  顎(あご)と歯。
  800~1000本の歯を持っている。
  植物を食べていた。
  裸子植物も食べる歯だった。
  2014年9月、頭部発見を目指す。
  歯の化石発見。頭もあるはず ⇒⇒ あった。
     ・
     ・
     ・
9世紀~10世紀、神聖ローマ帝国が成立した(1806年まで
 続いた)
  神聖ローマ帝国は、ローマ皇帝が頂点に居る国家だっ
 た。
  しかし、それはプロセイン、オーストリア、バイエル
 ンなどの「領邦国家」や、ハンブルク、ケルンなどの「
 自由都市(帝国都市)」が350くらい集まって構成されてい
 た。
  この領邦国家の下には、農村や領邦都市があった。
  それらは、領邦君主の政治支配は受けるが、都市はお
 おむねギルドなどの市民の団体によって運営されていた。
  農村は、東部などでは領主が直接経営する場合もある
 が、西部ドイツでは、村の運営も村人自身にゆだねられ
 ているのが多かった。
  領邦国家や自由都市が集まって一つの有機体の「神聖
 ローマ帝国」を構成していた。
  1806年、この神聖ローマ帝国が、ナポレオンによって
 命脈を絶たれた。
  そして、この頂点に居た君主は、絶対君主として「キ
 リスト教の神」から授けられたと、長い間、ヨーロッパ
 で、何らかの政治的主張の根拠とされたのが、いつも「
 キリスト教の神」だった。
  この考え方も、命脈が絶たれる時代となっていた。
  啓蒙主義者たちは、「人間の持つ理性を気付かせた」。
  君主の権力の源にキリスト教の神へ求め王権の絶対性
 を主張し唱える「王権神授説」があったが、これを批判
 した。
  啓蒙主義者たちは「歴史の主体を人間に於いてその根
 拠を説いた」。
  「キリスト教の神の姿」が消える時代となった。
  当然の人間主体の正当な論理だった。
     ・
     ・
17世紀〜18世紀半ば、ヨーロッパに列強諸国が成立した時
 代。
  各々の個性が異なるフランス、イギリス、ロシア、オ
 ーストリア、プロイセンが成立した。
  そして、これから、世界で悪さを始める。
.
17世紀、綿に関わる産業が、17世紀のイギリス産業革命の
 主要産業となった・・ここにインドの犠牲があった・・
  綿花を原料とする木綿・綿織物は、インドが原産であ
 る。
  12世紀になって中国へ伝わり、重要な産業となった。
  また、西方にも伝わり、イスラム世界を経由してヨー
 ロッパにも伝えらられた。
  17世紀のイギリスの産業革命の主要産業となって、イ
 ギリス産綿布は、インドや中国に運ばれ、大きな経済的
 変動の要因になった。
  インドには、豊かになる素地があった。
  広い国土に、そして、その沃野に綿は良く育った。
  また、綿工業もよく育っていた。
  しかし、イギリスは、このインドを単なる綿の原料供
 給国に貶(おとし)めてしまった。
  インドの綿産業を奪い、綿製品の消費国にして利益を
 収奪した。
  イギリスは、綿工業の製品を大量生産し、インドの産
 業を潰した。
  それは、イギリスの目的通りのけいかだった・・
  そして、イギリスは、産業革命がさらに進んだ。
  逆に、インド綿産業は破壊されて、そして、無くなっ
 た。
  そして、インドは、イギリスの市場となって落ちぶれ
 た。
  これを、イギリスは、インド社会を「文明化した」と
 称した。
  キリスト教の神の「倫理的信託だ」と称した。
  イギリスに、「インドを文明化する使命があった」と
 論じた。
  発展途上のインドに、「半未開状態に居る事を押し付
 けた」。
  「停滞状態に居る事を押し付けた」。
  そして、イギリスは、インドを支配した。
  自身は、これを「天命だ」「義務だ」と称して、侵略
 状態を正当化した。
  この様な「ヨーロッパ諸国の『偽善論』で世界の支配
 が行われた」。
  フランス・ドイツの列強諸国も、競い合いながら、同
 様にして「世界で収奪した」。
.
1642年、イギリス議会とイギリス王室が内戦を起こした。
  10年間にわたる大戦争で、何十万人という犠牲者を出
 した。
  クロムウェルが率いる議会軍が王朝軍を破り・・
  1649年、国王のチャールズ一世を処刑し・・
  共和制を宣言した(ピューリタン革命、1642年~1649年)
  イギリス王室は途絶えた・・
  そして、このイギリスの共和制も、クロムウェルの死
 去によって終わった・・
  1660年から、王政に再び復帰した。
     ・
     ・
18世紀末、この頃に至ると、キリスト教国のヨーロッパ諸
 国は、やっと『劣等感から』立ち直ることができた。
  18世紀の初めに知った、特に、「中国の事実」は衝撃
 的だった。
  まず、中国の歴史の事実が、キリスト教の構築して来
 た「歴史を完全に破壊した」。
  そのキリスト教の歴史の空理空論が実証された。
  しかも、その中国の「史実は、確かなもの」で崩すこ
 とが出来なかった。
  キリスト教の架空の作り話が痛烈に指摘された状態に
 なった。
  そして、この打ちのめされたヨーロッパは、この状況
 から立ち直るためにとった方策は、「徹底的な中国やア
 ジアの卑下だった」。
  2000年以上前に、ヨーロッパが影も形も無かった頃に、
 中国は立派な社会・文化・文明を築いていたが・・「そ
 の状態で進歩は停止し、今は、その古いままにある」と・・
 屁理屈を言った・・
  この徹底的な蔑(さげす)みによってヨーロッパは、
 やっと立ち直った。
  中国が、世界最古で、かつ現在でも最高の民族である
 ことを認めますが、その水準に停止している・・と、「
 200年前のヨーロッパ」のままだ・・と・・
  ヨーロッパは、何ら根拠のない「こんな薄ら根拠」で
 立ち直った。
  卑劣な「中国やアジアの差別化によって」自らを慰め、
 そして、救われた。
  モンテスキューは、自著「法の精神(1748年)」で、
 政体がヨーロッパでは「専制政体や君主政体」で自由を
 基礎として、文化の進歩や発展が生じるが・・
  中国やアジアは、古来から常に専制政体が存続してい
 て、その政体は、「人間の隷属を基礎としている」ので、
 文化も変化せず進歩もしないし、停滞していると決め付
 けた。
  その様なヨーロッパは、中国やアジアは、暖(あった)
 かいからそうなるのだなどと、もっともらしい風土論で、
 その自信回復を支持した。
  アジアを無気力とし、ヨーロッパは、強い国と強い国
 が接し、互いに接して、その国々は、ほぼ同様な勇気を
 持っていると自身を讃美した。
  肥沃で広大な沃野を持つアジアを評価してない、また、
 ヨーロッパのハレムの女性の存在などに目が行ってない、
 また、市民的奴隷制の存在にも目が行ってない。
  ローマなど奴隷制社会である。
  「アジアの政治的な隷属」などヨーロッパが指摘でき
 る立場にはない。
.
1806年〜1807年、ロシアは、江戸幕府に、日本との通商を
 断わられた腹いせに、『日本の領土の樺太(現:サハリン)』
 や『日本領の択捉島(えとろふとう)』にある日本の施設
 を襲撃した。
  この様なことを卑劣にも繰り返していた。
  特に、択捉事件の時は、南部藩と津軽藩の藩兵と激し
 い交戦をした。
  日本は、退却を余儀なくされた。
  このことを江戸幕府は、隠すことなく全国の諸大名に
 報じた。
  ロシア船蝦夷地襲撃の情報は瞬(またた)く間に全国へ
 広まった。
  「蝦夷地での騒動の噂を禁じた町触(まちぶれ)も出さ
 れたりした」。
  また、「日本国の大恥」「異国之物笑(いこくのものわ
 らい)」などと幕府の軍事面の失点を非難する言葉もあっ
 た。
  攘夷の意識は国民の中にもあった。
  日本近海への外国列強の接近に対する危機感は、幕府
 や大名だけでなく、「一般国民にも高かった」。
  民衆も、地域共同体の運営を通じた政治的才覚が民の
 中にも育っていた。
.
1820年以降、アメリカやイギリスの宣教師が次々とハワイ
 へ押し寄せた・・そして・・
  1898年に、アメリカに併合されてしまった。
  その後、英語化が進められ、現在はハワイ語は消滅の
 危機にある。
.
1862年4月4日、ユゴーの「レ・ミゼラブル」が発売された。
  翌日の午後、パリで第一部上下巻6000部が完売した。
  第二部、第三部の発売の日には、朝6時に早くも出版社
 の前の通りは人であふれ、行列の整理のために警察官が
 出勤する騒ぎになった。
  そして、「レ・ミゼラブル」は世界各地でベストセラ
 ーとなった。
.
1870年、ダーウィンが「種の起源」を発表したのが1859年
 だった。
  当然、従来のキリスト教聖書の教えるところの人間の
 位置づけと真っ向から対立するため・・
  キリスト教の宗教界は大騒ぎとなった・・
  大きな批判の声が挙げられた・・反対の声が挙げられ
 た。
  そして、論争がなされた・・
  しかし、キリスト教が敗けるのも早かった。
  1870年を過ぎる頃は、キリスト教の命運は尽きていた。
  各国の学界も、進化論に軍配を挙げた・・
  進化論の位置づけもゆるぎないものとなっていた。
.
1896年6月、ロシアは、ニコライ二世の戴冠式に出席した中
 国・清の李鴻章に莫大な賄賂を送り、条約を締結した。
  その条約は、対日秘密条約で「露清防敵相互援助条約」
 (李・ロバノフ密約)だった。
  内容は、条約の標記の内容の他・・
  鉄道敷設権をロシアへ与えるものだった。
  ロシアは、黒龍江省と吉林省を通ってウラジオストッ
 クに通じる中東鉄道(東清鉄道)の敷設権を得たのだった。
  さらに、1896年10月、東清鉄道に関する条約が改定さ
 れて、黒龍江省と吉林省と盛京省の東三省鉄道とシベリ
 ア鉄道の接続が認められた。
  そして、ロシアは、傲慢にも、1897年12月、中国・清
 を脅した。
  ロシアは、旅順に軍艦を入港させて清を脅し、強引に
 次のことごとを要求した。
  ①黄海沿岸の一港の租借、
  ②工業の独占権、
  ③満州と内モンゴルの鉄道敷設権(満蒙鉄道敷設権)、
  ロシアは、シベリア鉄道の有効性を向上したかった。
  この鉄道ですみやかに兵力を東アジアへ運びたかった。
  ロシアの南下政策で、益々、日本海沿岸から朝鮮が、
 ロシアの行動しやすい権益利益領域となって来た。
.
1898年5月、ロシアが、中国・清へ最終的な利益獲得要求を
 した・・それは・・
  ①旅順と大連の25年間の租借、
  ②満州を横断する東清鉄道から旅順と大連までの南支
   線の敷設権。
  ロシアは、これによって満州を通過してその南の旅順
 まで南下できる様になった。
  このことによって、ロシアは、渤海湾とその周辺の制
 海権を得た。
  また、渤海湾に面する天津から北京に至る重要な戦略
 的領域を押さえた。
  そして、この頃、ロシアは、韓国の高宗が親露政策を
 とっていたこともあり、ロシアは、韓国へ軍人を派遣し
 た。
  また、軍事教官の派遣と国王警備の編成について韓国
 側と進めた。
  また、ロシアのアレクセーエフが、韓国の財政顧問と
 なった。
  また、彼は、関税長にも任命された。
  また、露韓銀行も開設された。
  完全にロシアの南下政策の領土獲得政策が日本の水際
 まで迫って来ていた。
.
1898年、イギリスのアジアにおける政策が大転換した。
  その原因は、大胆な行動をするロシアだった。
  この年、ロシアは、中国・清をまったく馬鹿にした威
 圧的な条約を結んだ。
  イギリスにとって一番気になったのは渤海湾、および、
 その周辺のロシアの『制海権が確立』したことだった。
  このことによって、ロシアは、中国の首都・北京への
 海上要路が制圧できる様になった。
  それでなくても、ロシアは、武力的にまた威圧的に領
 土を奪い、十二分に陸上の要衝を抑え、戦略的優位を持
 つに至っていた・・陸上でも制圧していた・・
  ロシアの行動は、単に、経済的利益を得るという行動
 だけではなかった。
  この様なアジアのバランスを崩す侵略国家・ロシアの
 出鼻をくじいたのが日本だった。
  日本は、日露戦争で、この侵略国家・ロシアの出鼻を
 くじいたのだった。
  また、日清戦争で中国・清は、日本との戦いに敗け、
 韓国を属国としていた冊封体制を止めさせられた。
  これは、単に、韓国を独立させたというだけの話だけ
 でなく、東アジア諸国にも影響を与えた。
  中国の冊封から逃れさせた。
  その様な中国へ、また、東アジア諸国への利権を求め
 てヨーロッパ列強諸国が寄り付いて来た。
  ただ、ロシアの領土的侵略的野心を持った行為は、単
 なる経済的利権を求める「今までの形」を変えて、侵略
 国家丸出しで・・ロシアは覇権を構築して来た。
  今、中国が、南シナ海の戦略基地化の侵略的事例の様
 に・・今、中国は、この時のロシアの様な行為をしてい
 る。
  この時の、卑劣な条約によるロシアの進出に、イギリ
 スは、方針を大転換した。
  ロシアの圧倒的な戦略的優位の確立という事態を黙過
 できないとした。
  1898年5月、イギリスは、ロシアへの対抗措置として、
 渤海湾の反対側に、威海衛を軍港として中国・清から租
 借した。
  また、1898年6月、すでに手にしていた香港島の対岸(
 中国本土の側)の九竜半島を99年の租借をした。
.
1920年代〜1930年代、日本は、この頃、盛んにコミンテル
 ンの策動にあった・・が、しかし、それに対して日本は
 あまりにも無防備だった。
  そして、今、日本は、中国の膨大な金と人(工作員)の
 策動を受けているが、それに対する防備が「無策」と言
 われている。
  日本は、今、諜報機関が必要とされている。
.
1996年~1997年、NHKの岡山局の放送部長が、架空の飲
 食費名目で着服、90万円の詐取(さしゅ、金などをだま
 し取ること)をしていた。
.
1998年~2000年、NHKの編成局のチーフプロデューサー
 とEPが、1998年から2000年にかけて、カラ出張をして、
 架空経費請求を繰り返した。
  これによって300万円を着服した。
.
2000年、怪(あや)しい日本のメディア
  スパイ容疑で北朝鮮で逮捕され、拘留された日本経済
 新聞の元記者の杉島隆という人が居るが・・
  結局、この年に、1年半の拘留の後に、杉島氏は釈放さ
 れた。
  しかし、この時、TBSが怪しいニュースを報じた。
  TBSは、特ダネの様に「現在、北朝鮮に拘留中の杉
 島氏に死刑判決が出ました」と間違いニュースを報じた。
  実際は、釈放されたのにである。
  何で、こうなったのか?
  これは、北朝鮮からTBSに偽の間違った情報がリー
 クされ、流されたのを、TBSは、喜び勇んで特ダネ的
 に放送したのだった。
  そして、この事によって、TBSという放送局は、北
 朝鮮と、この様なニュースが流れる特別な関係を持って
 いることを露呈してしまった・・ばれてしまった。
  また、不思議な事に・・
  この時、北朝鮮の取調官(北朝鮮という国の官吏)が、
 この釈放された日本経済新聞元記者の杉島氏に、「日本
 のメディアは、おまえの事をちゃんと報道するかな」と
 言っていたという・・?
  TBSと北朝鮮の怪しいつながりが感じられる言葉だ・・?
  そしてまた、日本の国民は、この様な報道機関の、こ
 の様なレベルのニュースを聞かされているということ。
  杉島氏は、日本に帰国後、この事情を聞くために、T
 BSの偉い人を訪問した・・しかし、無視されたという。
  重責を担う報道機関であるなら、当然、この事情を国
 民に明らかにする行動を起こすはずだ・・また、責任あ
 る回答をすべきだった。
  ちなみに、日本の大切な報道機関の一つであるこのT
 BSが、一時、赤字で困窮したとき・・外国資本が入り、
 それ以後、この外国資本を意識する放送をしているよう
 に感じられた。
  ある意味、日本の国民のための大切な報道機関の一つ
 のTBSが、資本を出した外国を意識し、ある意味コン
 トロールされた放送姿勢になっていると言えた。
  TBSは、「ある特定宗教」に有利な放送をよくする。
  日本のメディアに、アメリカ系資本が入って来ていて、
 コントロールされている傾向が強くなっている。
.
2004年8月、NHKのソウル支局長が不適切な経理処理をし
 ていることが発覚した。
  このNHKの支局長は、1993年~1997年の間、外部プ
 ロダクションへの支払いを、月60万円~210万円も上乗せ
 して請求していた。
.
2015年9月5日、NHKの自虐放送。
  NHKの全編が『日本が悪い』の自虐放送だった。
  かくらきよし。経済ジャーナリスト。
  NHKが、氏素性のはっきりしない者に「土曜コラム」
 を話させ放送していた。
  2015・9・5、午前5時50分、NHKラジオ第一、
  天皇陛下が、戦争を宣言したから戦争が始まったと言
 わんばかりの話し方だった。
  また、「現政権が進めている政策が、戦争を誘発する」
 と印象されるような言い方だった。
  全放送を通して自虐的で、日本が悪いのだの言い方で・・
  そして、単純論理の言い方をつなげた放送で、「日本
 の70万の軍隊で、中国各地を占領したから、日本が悪い」
 という言い方だった。
  また、「アメリカやイギリスに挑戦していったから悪
 いのだ」の言い方だった・・こんな放送をするNHK・・
  「アメリカは、我慢していて、そして、満を持してや
 った」と・・、
  「アメリカとイギリスが正しくて、日本が悪い」とい
 う言い方で、公正さはまったく無かった。
.
2020年1月7日、元徴用工(旧朝鮮半島出身労働者)訴訟で原
 告代理人を務める弁護士らが、元徴用工問題の解決策を
 検討するため、日韓両国の法曹・政財界関係者らによる
 「共同協議体」の創設を提案した。
  協議が進む間は、訴訟で敗訴した日本企業の資産売却
 手続きを中断する可能性も示唆した。
  以上、2020年1月7日の読売新聞から・・
  これは詭弁だ。
  日韓の条約で、これは「韓国政府が対応する」ことに
 なっている・・この筋から逃げている・・
  正論をどうするかから逃げている。
  問題は、韓国政府にある・・その韓国政府の責任を追
 及していない。
  「日本は、まったく、この問題の関係者ではない」と
 条約で調印されたが・・この件から逃げている。
  韓国がよくやる引っ掛けの「こんな手」にひっかかる
 な!!
  韓国政府よ!! 誠実に対応しなさい・・責任を取りな
 さい!!
  資産売却手続きを凍結するというのなら、韓国が違反
 して、禁輸国へ輸出した物品の日本からの輸出も凍結せ
 よ!!
.
2020年1月7日、中国が日本の国会議員に金を掴(つか)ま
 せた。
  不正を働いた・・中国の日本工作の一端が表に出た・・
  中国が、金を使って日本の国会議員の抱き込みを謀(は
 か)った。
  中国がやっている金を使った日本工作の一端が暴露さ
 れた。
  読売新聞2020年1月7日の報道によると・・
  カジノを中核とした日本の統合型リゾート(IR)事
 業を巡る汚職事件で、中国企業側が現金100万円を提供し
 たとしている5人の衆議院議員側の内、日本維新の会の下
 地幹郎衆議院議員(58歳)(比例九州)が6日、那覇市で
 記者会見し、受領を認めた。
  下地氏は「深く反省している」と謝罪し、返金の意向
 を示す一方、進退については「後援会と相談したい」と
 述べた。
  5人のうち、公に受領を認めたのは初めて。
  (評)中国からの工作は、金によるものが多いが、様々
    な形で、また、色々な方面から日本を解体をした
    いと、中国工作が行われている。
.
2040年、アメリカの白人が、50%以下になり、マイノリティ
 になる・・
  ニューヨーク・タイムズが報じている。
  また、「超大国の自殺」の本で、パトリック・J・ブキ
 ャナンは、アメリカの人口における人種の比率の変化が
 著しい・・と指摘している。
  半世紀前には、白人が90%で、黒人が10%弱だったが・・
 現在、白人は70%以下となり、黒人が15%、ヒスパニック
 系とアジア系で15%と、白人比率の急減少を指摘している。
  国の形も大変化する。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  NHKは、CCTVへ映像を何十年も前から映像資料
 を渡している。
  例えば、一例として、国会の委員会の審議状況の映像
 のすべてを渡している
  CCTVは中国中央電視台で、中国(中華人民共和国)
 の国営放送のテレビ局。
  国営通信の新華社とともに「メディア」と言うより、
 中国共産党のための宣伝機関とされている。
  これはスパイ行為である。

2020年1月6日月曜日

(増補版)673E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年6月)

題:(増補版)673E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年5月、東海道線の大垣駅~長岡駅間の勾配改良工事に
 着手した。
.
1897年5月、甲武鉄道が、旅客運賃の賃率市街線3等運賃の
 1銭3厘を1銭2厘の標準に改正し、実施した。
  同時に、従来の定期乗車券を廃し、回数乗車券を設定
 した。
.
1897年5月、京都鉄道が、京都駅の使用について、鉄道局と
 協定をした。
  その結果、京都駅発着列車本数が制限された。
  そのため、同社は、同社発着用の京都起点駅として大
 宮駅を仮設とした。
.
1897年6月1日、官営八幡製鉄所が開庁した。
  八幡村に官営製鉄所が開庁した。
  背後に筑豊炭田が控え、また、海陸の輸送も便利だっ
 た。
.
1897年6月1日、沖ノ山炭鉱(後の宇部興産)が創立した。
  本社:山口県宇部市
  創業目的は、宇部炭田開発のため、渡辺祐策によって
 匿名組合沖ノ山炭鉱が創設された。
  (1928年株式会社に改組)
  (参考)匿名組合:とくめいくみあい、商法上の契約
     によって組織される営業のための組合。
      当事者の一方(匿名組合員)が相手方(営業
     者)の営業のために出資し、相手方がその営業
     から生じる利益を分配することを約するもの。
  その後、炭鉱用機器の製作修理を目的とする匿名組合
 宇部新川鉄工所(1914年設立、1917年(株)宇部鉄工所に改
 組)、
  同鉱の石炭・粘土と付近に産出する石灰石を利用する宇
 部セメント製造(株)(1923年)
  さらに、宇部炭の完全ガス化による硫安製造のために
 宇部窒素工業(株)(1933年)が相次いで設立された。
  同一資本であるこれら4社が合併して、1942年3月、宇
 部興産(株)が発足した。
.
1897年6月1日 総武鉄道の成東駅~銚子駅間が開通し、本所
 駅~銚子駅間が全通した。
.
1897年6月4日、台湾の基隆(きいるん)から入港の大阪商
 船「福岡丸」船内で死亡した婦人を検疫した結果、ペス
 トと判明した。
  日本はすでにその兆候をつかんで検疫をする様にとの
 告示が出ていた。
  1897年(明治30年)5月5日、内務省告示第37号 台湾
 ニ於ケル「ペスト」伝播モ兆アル同地ヲ発シ又ハ同地ヲ
 経及ヒ同地ヲ発シ他港ヲ軽テ来ル船舶ヲ諸港ニ於テ検疫
 ヲ実施ス
  1897年(明治30年)6月7日、内務省告示第44号、台湾
 及清国上海上以南ノ地方ヲ発他港ヲ軽テ来ル船舶ニ検疫
 ヲ実施ス 
.
1897年6月5日、鉄道学校が創立され開校した。
  岩倉高校の前身の私立鉄道学校。
  神田錦町に開校した。
  1901年(明治34年)8月5日、現在の上野に移転。
  現在の岩倉高校は、鉄道界の恩人の岩倉具視の遺徳に
 因(ちな)んで、岩倉の二文字を校名に冠した(1903年
 12月21日)
.
1897年6月7日、日本勧業銀行の設立が許可された。
  1896年(明治29年)、農工業の改良のための長期融資
   を目的に「日本勧業銀行法」(勧銀法)が制定され
   た。
  1897年、日本勧業銀行が政府を中心に設立され、東京
   に本店を置き、支店は大阪のみに限った。
  それ以外の地は、北海道を除き、各府県に事実上の子
 会社である農工銀行(勧業銀行法と同時に制定された「
 農工銀行法」に基づく)が設置された。
  勧銀への取り次ぎ、または、勧銀と同等の業務を行っ
 た。
  なお、基幹産業(特に重化学工業)向けには別途:日
 本興業銀行(興銀)が設置され、勧銀との棲み分けが行
 われた。
  また、北海道には、勧銀や興銀の代わりに北海道拓殖
 銀行(拓銀)が設置された。
.
1897年6月10日、古社寺保存法が公布された。
  この法律は、古社寺の建造物や宝物の保存に関する事
 項をさだめ、国宝指定が始まった。
  明治政府は、1871年(明治4年)「古器旧物保存方」を
 布告し、廃仏毀釈によって破壊された文化遺産の調査を
 始めた。
  古社寺保存法では、古社寺の建造物及び宝物類で、「
 特ニ歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範」であるものを「特別保
 護建造物」または「国宝」に指定し、保護した。
  当初、本法の所管官庁は内務省であったが、1913年に
 は文部省となった。
  日本における明治時代以降の文化財保護法制は、1871
 年(明治4年)の太政官布告「古器旧物保存方」に始まった
 が・・
  文化財の保存と公開、そのための補助という文化財保
 護行政の基本的内容を一応もりこんだのは、この1897年
 の「古社寺保存法」が最初だった。
  なお、その後、1919年に公布された「史蹟名勝天然紀
 念物保存法」が制定された。
.
1897年6月10日、雑誌「実業之日本」が創刊された。
  読売新聞の記者であった増田儀一と光岡威一郎が設立
 した大日本実業学会から創刊された月刊誌。
  これは経済雑誌で、大日本実業学会(後の実業之日本
 社)が発行した。
  四六倍判(B6判)、本文50ページ、定価10銭。
  実業界の成功事例を載せて好評を得た・・
  また、実業人の修養雑誌としても人気を得た。
  1899年から月2回となるが、1945年に月刊に復した。
  実業という言葉を普及させた。
  実業界の青年に、俸給生活に安易につくことを戒め、
 自ら独自の進路を発見し、進んで艱難(かんなん)を冒す
 ことを説いた。
.
1897年6月12日、長崎入港の福岡丸でペストで男子船客が死
 亡した。
  1897年6月4日に入港した福岡丸船の乗船の男子船客発
 病して、船内で死亡した。
  これは、初めて長崎港にペストが侵入した事例。
.
  (今日の言葉)
.
  題:第二次世界大戦のとき、ドイツは東からソ連を攻めてくれと日本に言った・・
    日本は、「日ソ中立条約」があるからその様な事は出来ないと、「きっぱりと断った」・・
    しかし、そのソ連は、日ソ中立条約を一方的に破って、日本の領土の占守島に攻めて来た・・
    日本は、ここでの戦いで勝利した・・しかし、終戦となっていたので武器を置いた・・
    日本とソ連は、「合意の上」でその武器を置く「終戦の式をした」・・
    しかし、ソ連は、その後、日本の領土の千島列島と北方四島に対し武力行使をして「日本の領土を不法に奪った」・・
.
18世紀の末、イギリスのインドの植民地支配が進む・・イ
 ンドの方々は深刻な貧困に陥(おちい)って行った。
  インドの方々は、イギリスに反抗して「糸車で綿布を
 作った」。
  イギリスは、植民地・インドの美味しいものをしゃぶ
 り尽くした。
  インドには、綿栽培から綿布を作って衣服を得るとい
 う一連の産業と文化があった。
  宗主国・イギリスは、そのシステムを破壊した。
  イギリス自身のため、自分の利益のために、インドを
 破壊した。
  インドで綿花だけを作らせた。
  インドでは、その後のことは行わせず、、その後の工
 程のすべてをイギリス国内で行った。
  産業革命をしたイギリスは、それでインドを破壊した。
  それで出来た綿布を、インドで高く売った。
  インドの方々を「ただの消費者とした」。
  決してインドの方々に『綿布を作らせなかった』。
  インドの方々は「糸車で綿布を作った」、それが、イ
 ギリスへの『反逆の証(あかし)』だった。
  また、イギリスは、インドの安い労働力を使ってアヘ
 ン(麻薬)を作らせて、それを中国へ売った。
  中国には、イギリスが買いたいものが山ほどあった。
  その一つの中国茶は高級品だったが、イギリスの一般
 家庭でも飲めるほどになった。
  しかし、輸入超過のイギリスが使った手が「中国への
 麻薬販売だった」。
  中国が止めてくれと何度も言ったが、イギリスは止め
 なかった。
.
1840年、アヘン戦争
  イギリスはアヘンの密貿易をして、そして、中国を侵
 略していた・・そのイギリスと中国との戦い・・
  中国・清政府は、アヘンを投棄した・・傲慢なイギリ
 スは、この行為に抗議して開戦した・・当然のようにイ
 ギリスが勝利した。
  1942年、南京条約を締結して、香港などを割譲させ、
 中国権益を奪った。
  これを契機に、ヨーロッパ列強諸国は餌食(えじき)
 に群がる様に中国をむしばんで行った。
  満州、満州と言うけれど、そして、この満州で日本が
 酷(ひど)いことをしたと言われるが、そして、その被害
 を中国が受けたと言われるが、それは、日本を貶(おとし)
 める「誇大に語られる洗脳工作」・・
  まず、満州では、そのロシアがほとんどを占めた・・
 日本もいたの程度・・
  しかし、陰に隠れて、何も語られないイギリスは、隠
 密裏にされているが、さも中国の中に居ないようにされ
 ているイギリスだが、何と第一の中国の利権国だった・・
 何しろ中国侵略の歴史があった・・
  そして、第二がロシア(歴史的な侵略行為国・・南下
 政策という侵略行為を続けた国)・・
  第三がフランス(ベトナム・ビルマ・タイから北上す
 る)・・以上の三国でほとんどが占められていた・・
  そのあと、第四がドイツ・・そして、第五が日本・・
  この国々が、中国の美味しい汁を吸っていた国々・・
 ヨーロッパ列強と言われる国々がほとんど・・
  だから、第一のイギリスは、この日本とロシアを笑う
 が如く、満州以外のすべての中国の『いちばん美味しい
 良い所』を全部押さえていた。
.
1858年7月、コレラ流行・・我国最大の流行
  伝染病の流行で、多くの死者が出たという我が国の怖
 い事例がこの年である。
  1858年7月、支那より長崎に入港したアメリカ軍艦ミシ
 シッピー号により、日本全国に及んだ。
  江戸に於いて最も甚だしく、7月27日より9月23日まで
 の55日間の死者が26万人以上という。
  また、8月の1ヶ月間の死者が3万1000人以上・・
  8月26日までに10万3000人以上が死亡した。
  全国で患者数が数十万、死者十数万に達したと推定さ
 れている。
  『頃痢流行記』に記される惨状・・
  「死するもの多き一町に百数人、少なきは五十、六十
 人、葬礼の棺大道小路に陸続きて昼夜を棄ず絶ゆる間な
 く、お府内数万の寺院は何処も門前に市をなし。焼場の
 棺所せまきまで積ならべて山をなせり・・」と・・
  之が腐敗して臭気甚だしく、更に流行を強める處があ
 る為、八月寺社奉行より速に処理するよう、コレラに関
 する初めての防疫触令が発せられた。
  この時の日本の蘭方医家は活躍する・・
  河に沿って流行するを好むと発し、此病の伝染を防ぐ
 の法は、政令を以て域市、船舶、或は病院に此患人あれ
 ば之を外に移し、無病者と隔離別居せしむるを一良法と
 す・・と提言し、
  尚、予防の処置が重要と提言し活躍している。
  そして、一般人の公衆の予防を法令を以って布達すべ
 きとも提言している。
.
1895年4月17日、下関条約・・日清戦争後の講和会議を経て
 下関条約が結ばれた。
  日清戦争の清も戦争する前は「まさか日本には負ける
 とは思っていなかった」。
  ロシアにしたって「清は負けたかもしれないが、我々・
 ロシアは日本に負けるはずはない」と思っていた。
  だから、ロシアの不凍港を求めた領土侵略は凄まじか
 った。
  ロシアが「最強国だった」からだった。
  基本的に、この様な心がロシアにあった。
  日露戦争を、世界のどこの国も日本が負けると思って
 いた。
  ロシアの横暴はこの様なところから来ていた。
  日清戦争後の、ロシアなどの日本への三国干渉もこの
 様なところから来ていた。
  欲しかった遼東半島を、日清戦争後の下関条約で日本
 に取られ、ロシアの不凍港にしたかった地を失ったから
 だった。
  しかし、傲慢(ごうまん)なロシアは、日本にその遼
 東半島を返還させた。
  日本を戦争で打ち負かせたいとした清の戦争の敗戦の
 結果を、超大国のロシアは横やりを入れて取り上げた。
  そして、後に、ロシアは、この遼東半島を奪う・・結
 局、自分のものにする。
.
1935年8月31日、アメリカで、中立法が成立した。
  ヨーロッパの戦争に巻き込まれるのを恐れたアメリカ
 が、この法律を制定した。
  この年(1935年)のイタリア・エチオピア戦争を機に
 制定され、交戦国への軍需品輸出と借款(しゃっかん)
 供与を禁止した。
  この背景には、アメリカ国民の方々の戦争に関与する
 ことへの回避と、孤立主義の選択があった。
.
1939年9月4日、アメリカが、欧州大戦に中立宣言をした。
  アメリカは、ドイツにそれ程恨みがあるわけではなか
 った。
  そして、ドイツに投資をしている投資家や企業も沢山
 あった。
  例えば、ドイツに子会社を持っているフォードやGM
 などはドイツが戦争を始めても、以前とまったく変わら
 ずドイツ子会社を営業させ続けていた。
  アメリカにとってドイツと戦わなければならない理由
 は見当たらず・・
  特に、当時、アメリカは孤立主義を採り、議会が参戦
 に賛成する雰囲気はなかった。
  しかし、1940年中盤に入ると一変する。
  イギリス支援に傾き・・
  日本へも圧力をかけ始めた。
  この一変の理由の一つに、ドイツのマルクの『世界通
 貨化の動き』があった・・この動きと反ナチスへのアメ
 リカの態度の転換は連動している。
  今、中国が、アメリカ・ドルの世界通貨に挑戦し、中
 国・人民元の世界通貨化と、中国の仮想通貨(暗号通貨)
 を実施しようとしている。
  今、米中で摩擦が起きているが、この摩擦は、『この
 意味からも尋常ではない』。
.
1941年3月11日、中立国のアメリカが、レンドリース法を成
 立させて、アメリカ自らは参戦しない代わりに、ソ連や
 イギリス、中華民国などの、ドイツや日本、イタリアと
 の交戦国に対して大規模軍事支援を開始する。
.
1941年8月頃、ドイツが日本に対し、東から対ソ攻撃を行う
 よう働きかけた。
  しかし、日本は、独ソ戦開始前、すでに、ソ連と1941
 年4月13日に、日ソ中立条約を締結していたので、これを
 きっぱりと拒否した。
  (しかし、ソ連は、この「日ソ中立条約を誠実に守ら
 なかった」)
.
1941年10月中旬、ドイツ軍がモスクワに接近する。
  ドイツ軍は、1941年7月16日にスモレンスク・・
  1941年9月19日に、キエフを占領・・
  さらに北部のレニングラードを包囲し、
  1941年10月中旬には、首都モスクワに接近。
  モスクワ市内では一時混乱状態も発生し、そのため、
 ソ連政府の一部は、約960km離れたクイビシェフへ疎開し
 た。
.
1944年、アメリカの軍事視察団が、中国共産党のメッカで
 ある延安に行った・・第二次世界大戦が行なわれている
 最中だった・・
  毛沢東幹部らは、この軍事使節団を大歓迎した。
  1944年7月~1944年11月は、毛沢東の共産党軍とアメリ
 カは蜜月状態だった。
  そして、中国の背後に居るアメリカという状態となっ
 た・・
  巧妙にアメリカは立ち回った。
  中国・共産党軍の毛沢東は延安に居て・・
  アメリカは、この延安の毛沢東のところにエマーソン
 という外交官を派遣した(1944年11月)
  アメリカは、この様に中国・共産党軍のところに外交
 官を派遣する行為の様に「アメリカは、中国・共産党軍
 の毛沢東を承認していた」。
  エマーソンは、後に、ライシャワー駐日大使の下で駐
 日公使を務めるほどの重要人物だった。
  そして、アメリカは、この毛沢東軍に大量の武器を供
 与した。
  OSS(戦略事務局、後のCIA) 長官のドノヴァンは、
 延安の毛沢東に大量の武器や物資を送った。
  その目的は、「中国・共産勢力を勢いづかせることだ
 った」。
  また、この時、アメリカのジャーナリズムも毛沢東を
 讚美し、その素晴らしさを新聞に書き立てた。
  アメリカのジャーナリストのスメドレーは、毛沢東の
 共産党軍に密着取材して、讚美した記事を世界に発信し
 た。
  この様に毛沢東勢力を、アメリカは、あらゆる面から
 支援した。
  アメリカの国家を動かしている勢力が、それが狙いだ
 った。
  中国・蒋介石軍は、日本と戦わせられて、衰弱をさせ
 られ、疲弊させられていた。
  日本は、中国の首都・南京が陥落すれば戦争は終結す
 ると見ていた。
  しかし、その様にはさせじと・・戦争終結をさせなか
 ったのはアメリカだった。
  日本が仕切りに「和平提案をする」が、蒋介石は引き
 延ばした・・アメリカの差し金だった。
  あやふやな態度であった。
  和平をしようとしない蒋介石は「事実上、和平拒否を
 しているのと同じだった」。
  アメリカによる「蒋介石勢力の疲弊策」で推移した。
  蒋介石軍は、更なる中国・奥地の重慶へ逃げた。
  この様にして・・アメリカが背後にいる中国での戦い
 は続いて行った。
  中国・蒋介石軍に、上海の日本祖界を攻めさせたアメ
 リカの筋書き通りの展開が続いた。
.
1944年11月、アメリカ軍事視察団の要員の一人としてエマ
 ーソンが、中国共産党の拠点の延安へ行った。
  占領下の日本国民に、戦争に対する贖罪(しょくざい)
 意識を植え付けるため、連合国軍総司令部(GHQ)が、
 中国・延安で、中国共産党が、日本軍捕虜に行った心理
 戦(洗脳工作)の手法を取り入れたことが英国立公文書
 館所蔵の秘密文書で判明した。
  (産経新聞)
  GHQの工作は、「ウオー・ギルト・インフォメーシ
 ョン・プログラム(WGIP)」と呼ばれ、現在に至る
 まで日本人の歴史観に大きな影響を与えている。
  文書は、GHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官だ
 った米国の外交官、ジョン・エマーソンが、1957年3月12
 日、共産主義者との疑惑が浮上したカナダの外交官、ハ
 ーバート・ノーマンとの関連で米上院国内治安小委員会
 で証言した記録で、「ノーマン・ファイル」(KV2/
 3261)にあった。
  1944年11月に、米軍事視察団の戦時情報局(OWI)
 要員として延安を訪問したエマーソンは、中国共産党の
 支配下で野坂参三(延安では岡野進と称した)元議長が
 日本軍捕虜の思想改造に成功した、として「岡野と日本
 人民解放連盟が行った活動の経験と業績が、対日戦争(
 政策)に役立つと確信した」と証言。
  さらに「共産主義者の組織であったが、捕虜たちが反
 軍国主義や反戦活動に喜んで参加するまで吹き込み(洗
 脳)に成功したことから彼らの成果はわれわれ(米国)
 の対日政策に貢献できると思った」と述べている。
  エマーソンは、後に、「(延安での収穫を元に)日本
 に降伏を勧告する宣伝と戦後に対する心理作戦を考えた」
 (大森実『戦後秘史4赤旗とGHQ』)と告白した。
  エマーソンが「対日政策に貢献できる」と証言した「
 心理戦」は、日本兵に侵略者としての罪悪感を植え付け
 るもので、軍国主義者と人民(国民)を区別し、軍国主
 義者への批判と人民への同情を兵士に呼びかける「二分
 法」によるプロパガンダ(宣伝)だった。
  GHQは、終戦直後の1945年9月に「プレスコード」
 (新聞綱領)を定めて言論を統制し、一般人の私信まで
 検閲を実施した。
  1945年10月には、「日本人の各層に、敗北と戦争を起
 こした罪、現在と将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国
 主義者の責任、連合国による軍事占領の理由と目的を周
 知徹底する」との一般命令第4号を出した。
  さらに、1945年12月8日から全国の新聞に『太平洋戦史』
 を掲載、翌日からラジオ番組『真相はこうだ』を放送さ
 せ、戦勝国史観を浸透させた。
  日本人にさきの戦争への罪悪感を植え付けた連合国軍
 総司令部(GHQ)の「ウオー・ギルト・インフォメー
 ション・プログラム(WGIP)」。
  その原点は、大戦末期の中国・延安で中国共産党によ
 る日本軍捕虜に対する「心理戦」にあった。                  
  「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙に
 いとまがない」
  1945年12月8日、GHQの民間情報教育局(CIE)に
 強要され、新聞各紙が連載を始めた『太平洋戦史』では、
 「大東亜戦争」を公的に使用禁止し、冒頭から「真実を
 隠蔽(いんぺい)した軍国主義者」と「大本営発表にだ
 まされた国民」を二分して対峙(たいじ)させ、日本が
 非道極まりない国だったと全国民にすり込んだ。
  それは現在も国民的な「神話」となっている。
  文芸評論家の江藤淳は『閉された言語空間』で、WG
 IPと規定し、「日本と米国との戦いを、『軍国主義者』
 と『国民』との戦いにすり替えようとする」と指摘。
  『軍国主義者』と『国民』の架空の対立を導入して、
 「大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、
 『軍国主義者』が悪かったから起(おこ)った災厄」と
 米国の戦争責任を『軍国主義者』に押しつけたと指摘し
 た。
  『軍国主義者』と『国民』の対立という「二分法」の
 「洗脳」を1944年11月、延安で学んだのがGHQでマッ
 カーサーの政治顧問付補佐官を務めたジョン・エマーソ
 ンだった。
  英国立公文書館所蔵の秘密文書によると、エマーソン
 は、1957年3月12日、米上院国内治安小委員会で、初期G
 HQが民主化のため日本共産党と手を握ったことを認め
 ている。
  エマーソンは、戦前の1936年から1941年までと、終戦
 直後の1945年~1946年、さらに、1962年から1966年まで
 3度日本に駐在した日本専門家。
  占領初期は、政治顧問として対敵諜報部に所属した。
  エマーソンが『戦後秘史4』で大森実に語ったところ
 によると、ルーズベルト大統領のニューディール支持者
 で大戦中は米戦時情報局(OWI)要員として中国・重
 慶に赴任し、中国共産党・八路軍の対日心理作戦の成功
 に注目し、戦後の占領政策を視野に経験に学ぼうとした。
  エマーソンらOWIのスタッフが作成した『延安リポ
 ート』(山本武利編訳)によると、野坂らは、天皇批判
 を軍国主義者に置き換え、軍国主義者と人民(国民)を
 区別し、軍国主義者への批判と人民への同情を呼びかけ
 る心理工作を繰り返し、贖罪(しょくざい)意識を植え
 付けた日本軍捕虜を反戦兵士に「転向」させるまで洗脳
 した。
  野坂の日本人民解放連盟は、八路軍敵軍工作部と表裏
 一体で、彼らの工作は中国共産党によるものだった。
  中国共産党は、反戦日本兵の育成を通じて、徐々に厭
 戦(えんせん)感と贖罪意識を強め、やがて日本人全体
 を精神的捕虜にする狙いだった。
  中国軍が連合軍捕虜を外部隔離や尋問、集団・自己批
 判させて共産主義者に強制的思想改造したのは、1950年
 に勃発した朝鮮戦争が最初で、「洗脳」の新語が生まれ
 たが、延安では集団批判で日本人捕虜に「洗脳」の原型
 といえる思想改造が行われた。
  エマーソンらGHQの実務家にとって延安で学んだ「
 捕虜」洗脳は、占領政策を遂行するためのよき「先例」
 となった。
  GHQは、「洗脳」手法を積極的に取り入れ、東京裁
 判などの節目で展開し、「悪い侵略戦争をした」と日本
 人に自虐史観を植え付けた。 
  (参考)二分法:「共通の敵を打倒するため連帯でき
     る諸勢力と共闘する」との毛沢東の理論。
  中国共産党は、戦後一貫して少数の軍国主義者と大多
 数の日本人民を区分する対日外交政策を取っている。
  1972年の日中国交正常化の際、中国内の反日感情を抑
 制するための根拠として使われた。
  教科書問題や靖国問題でも同じ論法をとっている。
  反日プロパガンダ招いた壮大な「歴史戦」 外交評論
 家・加瀬英明氏
  「GHQは、日本民族から独立心を奪い、精神を破壊
 して未来永劫(えいごう)にわたって属国とするために
 WGIPを仕掛けた。
  軍国主義者と人民を区分する『二分法』は、毛沢東時
 代からの中国共産党の教化政策。
  米国は、朝鮮戦争まで中国共産党と太いパイプがあり、
 エマーソンの証言通り、延安で成功した日本人捕虜に対
 する手法を占領政策で日本が二度と歯向かわないように
 利用した。
  その結果、自虐史観が蔓延(まんえん)し、『河野談
 話』『村山談話』のように日本人自身が過剰に自己否定
 し、中国、韓国の反日プロパガンダを招いた。
  壮大な『歴史戦』といえる」
  (参考)ウオー・ギルト・インフォメーション・プロ
     グラム(WGIP):GHQが占領政策として
     戦争に対する罪悪感を日本人に植え付けるため
     行った宣伝計画。
      日本の歴史や文化・伝統を破壊し、日本人自
     身が日本人を否定して精神を改造するよう誘導、
     原爆投下や大都市の無差別爆撃などを行った米
     国の正当化を図った。
      新聞や雑誌、ラジオを検閲し、占領政策にあ
     うよう書き直させたり、発禁処分にしたりした。
      検閲に協力した日本人は数千人といわれ、メ
     ディアや官界、大学などで活躍した。
.
1945年12月8日、日本がハワイの真珠湾を攻撃する際、アメ
 リカは、事前に、準備よく、ハワイの真珠湾から空母4隻
 を退避させていた。
  アメリカには、日本の技術によって、何が起きるかは
 予知できていた。
  日本は、魚雷を戦闘機から投下して艦を破壊できる技
 術を開発していた。
  当初は、投下した魚雷が海中に没したりして、目的を
 果たせないでいた・・しかし、日本はその技術を得た・・
  日本が技術開発し、航空機によって軍艦を撃沈した時、
 世界は驚嘆した。
  この時、戦う形態が大変革した。
  この時から、「航空機が戦いの主軸となる」と明らか
 に示されていた。
  アメリカは、さすが、これからの主軸の「航空母艦と
 積載された戦闘機」を犠牲にはできなかった。
  傍受した情報などで、日本が攻めてくることを知って
 いたアメリカによって、空母4隻は事前に隠されていた。
  空母の居ない真珠湾だったが、日本が開発した航空機
 からの魚雷攻撃によって、多くのアメリカの艦船に多大
 な被害を与えた。
  これで「ルーズベルトの目的が果たされた」。
  ルーズベルトは、すでに、近しい人に「明日、日本が
 攻めて来るよ」と言っていた・・
  この一例の様に、アメリカは、すべて日本の動き・情
 報は事前に掴んでいた。
  これが・・ルーズベルトの筋書きだった・・アメリカ
 の筋書きだった。
  「日本から大被害を受ける」「アメリカ国民を驚嘆さ
 せる」「壊滅的だと危機感を抱かせる」「何とかしなけ
 ればと思わせる」、そして、「日本は卑怯な奇襲をした」
 「だから、ここで正義のために立ち上がらなければなら
 ない」と・・
  アメリカ世論は大転換した。
  ルーズベルトは、日本が真珠湾攻撃した時、思惑通り
 に行ったとイギリスのチャーチルへ電話をした・・二人
 は喜び合った・・アメリカの援軍がヨーロッパにも来る・・
 と・・
  アメリカは、この後、ヨーロッパ戦線、そして、太平
 洋戦線へ「大手を振って乗り出して行く」。
  ルーズベルトは、「私は、戦争に反対です。戦争はし
 ません」を大統領選の公約として大統領になった人。
  アメリカ国民の方々の「アメリカは戦争をしない」に
 迎合した大統領だった。
  しかし、この様な形で「アメリカ国民の方々を裏切っ
 た」。
  ここまでに至る道は必然という行為しかして来なかっ
 たルーズベルト、一途に日本との開戦を目指したルーズ
 ベルト、真珠湾は、ただ、その結果に過ぎなかった。
  真珠湾の前からアメリカは隠密利に中国へアメリカ軍
 を派兵し、兵器も送り込み、真珠湾攻撃の前から日本に
 秘密に奇襲攻撃をしているアメリカだった。
  ベトナム戦争の時も、最後はアメリカは影から外へ出
 て来て、「アメリカ対北ベトナム」の戦いになったが、
 この中国でもアメリカは大いに介入した。
  そこに「日本を叩きたいアメリカ」があった。
  中国の戦いにおいて「日中戦争」というのは間違い、
 「日中米戦争」である。
  アメリカは、「遠慮会釈なしに戦争に関わった」。
.
1949年10月1日、中国(中華人民共和国)が建国した。
  国共内戦に勝利した毛沢東が北京を首都とする中華人
 民共和国の成立を宣言した。
  後に、蒋介石の中国国民党が、広州から台湾へ逃亡し
 た。
  そして、これがソビエト連邦の支援を受けながら建国
 したと言われるが、『そのソ連が讃美するほど』この建
 国にアメリカが支援していた。
  日本が第二次世界大戦に敗けた後(敗ける直前から)、
 アメリカは、意外な動きをした。
  日本が敗けて、中国では国共内戦が始まった。
  アメリカは、この中国の戦い(共産党の毛沢東と国民
 党の蒋介石の戦い)の内・・アメリカは意外にも「共産
 党の毛沢東を応援した」。
  アメリカのトルーマン大統領は、戦後すぐに、ジョー
 ジ・マーシャルを特使として中国へ行かせた。
  アメリカは、毛沢東を支援した。
  そして、マーシャルは、国民党への武器援助の実施を
 遅らさせた。
  そして、蒋介石に、毛沢東を攻撃しない様にと要求し
 た。
  この時、毛沢東・共産党は「崩壊寸前」の状態だった。
  マーシャルは、「共産党に対する攻撃を停止しなけれ
 ばアメリカは蒋介石を支援しない」と圧力をかけた。
  その結果、共産党と国民党の即時停戦が成立した。
  蒋介石は、もう少しで勝利するところだった。
  勝利を目の前にして、蒋介石は、アメリカの強要で攻
 撃を停止せざるを得なかった。
  この停戦の期間中、毛沢東は体制の建て直しができ、
 息を吹き返すことができた。
  中国・共産党軍は、力を盛り返すことができた。
  そして、その後、国共の戦いで、毛沢東は勝利に終わ
 った。
  そして、1949年、中華人民共和国が建国された。
  共産中国の中華人民共和国を作ったのは『アメリカだ
 った』。
  アメリカの反共運動をしたマッカーシー上院議員は、
 共産スバイ狩りの「赤狩り」をしたが、「共産・中国は
 アメリカがつくった」という本を出版した。
  この本の中で、マーシャルの背信外交を批判している。
  また、バーンズ国務長官も著書「素直に語ろう」の中
 で次の様に書いている・・
  「スターリンは、マーシャル将軍を称賛した。
  中国問題に決着をつけられる人間は、マーシャル以外
 には居ないと言った。
  スターリンは、こうも言ったかもしれない。
  自分(スターリン)が満足できる様に・・」・・と・・
  ソ連の外務大臣のグロムイコも、回想録で、マーシャ
 ルを絶賛している。
  ルーズベルトの周りは、社会主義者ばかりだった。
  側近のハリー・ホプキンスも、ルーズベルトの夫人の
 エレノア・ルーズベルトも社会主義者だった。
  この社会主義者のルーズベルトの側近たちに取り入っ
 たマーシャルだった。
  共産主義を防ぐふりをしながら、実際は、これらの意
 向を受けて共産化を支援した。
  今、日本にも、大量の金と人(工作員)を使った中国の
 働きかけ・意向の方向へ動かそうという動きがなされて
 いる。
.
1995年、この年から「ヴェノナ文書」が公開された。
  この極秘史料が公開されたことで、第二次世界大戦の
 真実の姿が分かって来た。
  このアメリカの文書は、ワシントンのソ連大使館など
 からモスクワに打電されたソ連の情報機関員(スパイ)の
 電報を集めたもの。
  アメリカ政府は、日本に対して行なっていたことと同
 じ行為(傍受)をソ連に対しても行っていた。
  ソ連の通信のすべてを傍受していた。
  この暗号も、当初はあまり解読できなかったが、しか
 し、アメリカは傍受と共に解読を延々と続けた。
  この行為は、第二次世界大戦後のレーガン大統領(1981
 年1月20日就任)の頃まで延々と解読作業を続けた。
  解読作業には、スーパー・コンピューターも駆使され
 た。
  この解明された内容からアメリカ政府内にうようよと
 ソ連スパイが居ることが分かった。
  アメリカ共産党員が300人以上アメリカ政府内に潜入し
 ていることも分かった。
  F・ルーズベルト政権(任期:1933年3月4日~1945年
 4月12日)の財務次官のハリー・D・ホワイトもソ連のス
 パイだった。
  この男は、日本へ出す「ハル・ノート」を起草してい
 る(1941年11月26日に日本側へ出された)
  ハル・ノートは、非常に高圧的に日本へ要求事項を突
 き付けた文書で、「最後通牒」と言われた。
  これを受け取った日本は、1945年12月1日、御前会議を
 開き「開戦もやむなし」となった。
  本当は、日米交渉は、この頃、ぎりぎりのところで「
 まとまりそう」でもあった。
  この情報を得ていたソ連のコミンテル、あるいは、ス
 ターリンは、ソ連のスパイのホワイトやアルジャー・ヒ
 ス(アメリカ国務省の高官)に、ハル・ノートの草案を作
 らせた。
  ソ連のモスクワは、このハル・ノートを「日米に戦争
 を始めさせ、開戦に踏み切らせる最後の切り札」という
 位置付けにしていた。
  また、日米が開戦すると、日本は、アメリカとの戦争
 にかかりきりとなり、ソ連のリスクは減り・・
  また、アメリカは、ドイツと戦うソ連に、莫大な援助
 を開始すると見られていた。
  さらに、何故?この様な工作をソ連が必死しにしたの
 かは、1941年秋頃は、ソ連は、ドイツに一方的に攻めら
 れ、モスクワが陥落寸前にあったからだった。
  何としても、「日本のリスクを低減させ」、そして、
 極東の戦力をドイツ戦線へ集結させたかった。
  そして、ソ連は、この時、同時に、日本に居るソ連の
 スパイも動かした。
  ゾルゲや尾崎秀実(ほつみ)である。
  このスパイ以上の大物スパイが居たとも見られている。
  この頃の東京帝国大学は、ソ連のスパイの巣だった。
  ここでスパイが量産されていた。
  ここ出身の尾崎秀実は、近衛内閣のブレーンで、日本
 の国策決定に大きく関わっていた。
  そして、強行策を提示して行く。
  日米の開戦打開の会談を進める側より、日本を対米戦
 争へ向かう方向へ動いている。
  ドイツとの同盟の必要性も提言している。
  その底に、日本で革命を起こしたいがあった。
  「ゾルゲ事件」「企画院事件」「満鉄調査部事件」な
 ど、その一端が事件となっている。
  また、宮中にも多くの共産主義者が潜入していて、天
 皇陛下の側近たちの中にも疑わしい動きをするものが居
 た。
  ゾルゲ事件で逮捕され、「有罪」となった西園寺公一
 (きんかず)は、特に謎が一杯である。
.
2020年、今、中国のかつての「冊封体制」が、また、築か
 れ始めている。
  東アジアに、中国は、かつての冊封体制(さくほうた
 いせい)を築こうとしている。
  反対するものは抹殺である。
  冊封体制に入れば利益収奪の対象となる。
  ウィンウィンはない。
  一方的に貢ぐ行為が要求される。
  利益を上げても中国外への「持ち出しは禁止」である。
  その利益は、中国内で再投資せよと・・
  そして、中国の発展に寄与する経済活動をせよと「近
 代的奴隷システム」に組み入れられる。
  働いたって女房・子供の生活費や教育費として持ち出
 しはできない。
  巨大な強力な「中国の武力」によってその囲い込みが
 計られている。
  日清戦争は、この様な中国・清の囲い込みから朝鮮を
 脱却させた・・「朝鮮は独立国だ」と、日本は清に認め
 させた。
  そして、この「冊封体制」というのは、文字通り「冊
 の中に封じておく」というもの。
  冊の中で、中国の都合良くやっていれば「良し」とす
 るもの。
  中国の意に反すれば成敗される。
  日本は、その中国・清の「鼻っ柱」を、日清戦争で朝
 鮮独立を認めさせて「折った」ということ。
  (参考)鼻っ柱を折る:はなっぱしらをおる、つけ上
     がった相手の向こう意気や自信をくじく。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  ロシア(旧:ソ連)よ!
  千島列島と北方四島を日本に返還しなさい。
  終戦後の1945年8月18日に、占守島に奇襲攻撃して来た
 行為を反省しなさい。
  占守島の戦いで日本は戦いに勝っていたのに、終戦後
 であったので、ソ連(現:ロシア)と合意の上で日本は
 武器を置いた・・日露間の戦争はここに終わった。
  しかし、日ソの合意の終戦の後、日本兵の居ない日本
 領の千島列島と北方四島をソ連(現:ロシア)は不法に
 占拠し始めた。
  千島列島の最北端の占守島の戦いで、日本が武器を置
 く式を日露合意で行ったことを遵守せよ!
  だから、君たちには、日本の領土を勝手に盗る行為を
 行なう正義の論理は無い。