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2016年9月16日金曜日

(増補版)419E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年12月~1885年12月)

題:(増補版)419E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年12月~1885年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年12月27日、阪堺鉄道(はんかいてつどう)開業式
  阪堺鉄道は、南海電気鉄道の前身となる鉄道事業者。
  現在の南海本線難波駅~堺駅間を開業させた。
  日本鉄道と東京馬車鉄道に次ぎ、日本で3番目の民営鉄
 道事業者(私鉄)。
  関西における商業都市として栄えた大阪と堺の間を結
 ぶ鉄道計画は明治初期から考えられていた。
  それが具体化することになったのは、両都市における
 有力者や、明治初期の財界人である藤田伝三郎・松本重
 太郎・田中市兵衛・外山脩造などが集まった1882年頃の
 ことだった。
  同年・1882年5月に、大阪堺鉄道として大阪府に出願し
 工部省へ進達された。
  しかし、翌年・1883年2月に、敷設区間が大阪府内に留
 まること、普通の鉄道と異なるとの理由により大阪府に
 て詮議することとして返戻されてしまった。
  そして、種々、検討がなされ・・、
  1883年に、敷設が始まり、
  1885年12月27日、開業式が挙行される運びとなった。
  1885年12月29日、難波駅を起点にし、天下茶屋、住吉
 を経て大和川北岸(大和川駅)に至る区間の営業を開始
 した。
  大和川橋脚を架ける工事には、時間・費用を要すると
 見られたため、このような暫定開業となった。
  1887年5月に、堺市街へ入るための延伸工事を開始し、
  1887年10月に、洪水によって中断を余儀なくされるが、
  1888年3月に、竣工した。
  そして、1888年5月15日、堺の吾妻橋駅まで延伸運転が
 開始され、大和川仮駅は廃止された。
1885年12月28日、井上勝が、初代鉄道長官に任命された。
1885年12月28日、内閣に統計局を設置した。
  統計院を廃止し、内閣に統計局を設置した。
  翌年・1886年(明治19年)2月15日に、各省院庁に統計
 主任を置き、統計局との連絡に当たらせることとし、
  ここに、統計局を中心とした政府統計組織体系が確立
 した。
1885年12月28日、布告・布達は、官報掲載を以て公式とし、
 別に配布しないことを定めた。
1885年12月、東京商船学校が、逓信省の所管となる。
1885年、別子銅山の亜硫酸ガスによる被害が拡大した。
  急激な近代化の道をひた走っていた日本。
  1691年(元禄4年)に開かれた別子銅山も、機械設備の
 導入、索道、鉄道の敷設などによって、出鉱量の拡大が
 図られた。
  また、これに対応する製錬能力を確保するため、別子
 山中にあった製錬所は、新居浜の沿岸部に移設された。
  しかし、繁栄の象徴となるはずだった新居浜の製錬所。
  その排出される煙(亜硫酸ガス)が、周辺地域の農作
 物に被害を及ぼした。
  予期せぬ事態が発生した。
  しかし、誠実な対策の努力がなされた・・が・・
  1904年(明治37年)四阪島に移転した溶鉱炉の試験運
 転を開始すると間もなく、
  対岸の宮窪村友浦から麦の葉に被害が出た。
  1905年(明治38年)本操業を開始すると、越智・周桑
 両郡の各村から煙害の叫びが起こった。
  1906年~1907年(明治39~40年)煙害の声が、一層、
 大きくなった。
  愛媛県、別子鉱業所が、それぞれ調査し、
  その結果、農業被害は煙害であることが確認された。
  被害地域は、新居浜製錬所当時よりもはるかに広い範
 囲にわたり、
  四阪島を中心に、越智・周桑・新居・宇摩四郡の農村・
 山林地帯まで拡大した。
  1908年(明治41年)煙害は従前より一段と激しくなっ
 た。
  これは、この年に「煙害日和」(被害の多い時の気象、
 つまり、海陸各地の風向きが一致して風力が弱いときや、
 静穏な時、日光が強くて気温が高いとき等のことをいう)
 が、頻繁に続いたものと考えられた。
  前記の四郡の麦作は、減収になったばかりか、7月~8
 月には、亜硫酸ガスに襲われた稲の葉に一様に黄褐色の
 斑点が生じ、
  前年程度の結実さえも期待できなくなった。
  被害区域は、三郡四町38ヶ村(宇摩郡の被害地域はこ
 れには含まず)に及び、
  被害を受けた農家戸数は3万余戸、
  田畑反別は、およそ1万2000町歩~1万3000町歩に達し
 た。
  四阪島は、新居浜、今治からそれぞれ18キロメートル
 離れているといっても、内海であったために、
  西よりの風を除くどの方向の風でも、どこかに被害が
 発生した。
  特に、春から夏の農作物育成期には、北東よりの風が
 多く、それだけ被害を激化させることとなった。
  農民たちが、4年間に被った損害額は、米麦の被害だけ
 で合計約37万円になると算定された。
  一戸当りの被害額は10円強と少ないが、この地域一帯
 が愛媛県第一の穀倉地帯であることを考慮すれば、農民
 が物心両面に受けた打撃は決して小さくはなかった。
  農家煙害の被害は米麦のみならず、
  山林、果樹、そ菜等にも及ぶが、それらの被害は、自
 給度の高い生活を営んでいる普通の農家にとって、きわ
 めて重大な問題であった。
  当時は、亜硫酸ガスの回収方法が確立されておらず、
 技術的に解決することは極めて困難だった。
  そのため、時の、住友総理事・伊庭貞剛は、
  製錬所を四阪島へ移転するという決断を下した。
  四阪島は、新居浜から約20キロ離れた無人島で、
 ここに製錬所を移転すれば、亜硫酸ガスは瀬戸内海上で
 拡散され、
  煙害が発生することはないと考えた。
  しかし、無人島に製錬所を作るには、港や道路、住宅
 をはじめとするインフラを、初めから整備しなければな
 らず、
  莫大な費用がかかった。
  実際にかかった総建設費は、
  当時の別子銅山の2年分の純利益に相当した。
  約170万円という、まさに、社運を賭けた大事業だった。
  煙害問題は、周辺の農民に深刻な被害をもたらします
 が、
  その一方で、産銅業は、日本が世界の列強に対抗して
 いくための基本となる事業であった。
  休止するわけはなかった。
  この様なジレンマのなか、伊庭は、あくまでも、損害
 賠償で片づけることをせず、
  事業の利益をつぎ込んででも、将来のための『真の解
 決策』を求め、
  煙害の根絶にこだわった。
  しかし、1905年(明治38年)に、操業を開始した四阪
 島の製錬所は、
  予想に反し、煙害を愛媛県の東予地方全体にまで拡大
 させる結果となった。
  瀬戸内海上で拡散されると考えた亜硫酸ガスが、風に
 乗って、そのまま四国本土にまで流れた。
  農民達は、煙害の根絶と、損害賠償を求めて、激しい
 運動を繰り広げた。
  これに対して、住友総理事・鈴木馬左也は、
  「(煙害の)除害方法については、住友家においても
 熱心に研究しており、
  また、政府の調査会も、これに重きを置いて研究され
 るであろう。
  その方法が、発明されれば、住友家は、除害設備など
 少しも厭うところではない、
  たとえ、煙害に対する損害を弁償する額以上であって
 も、これを支出して、施設する覚悟である」
  ・・との決意で事態にあたった。
  住友は、その後も、煙害問題の完全解決まで、終始、
 この姿勢を貫いた。
  1910年(明治43年)被害者農民との間で、損害賠償と
 亜硫酸ガス排出抑制のための操業制限に関する契約が結
 ばれた。
  農民側が挙げた「被害の実例」は下記・・、
  (1)一般耕作物の被害は大きく、大根の根がふとらず、
    そ葉類は生育しない。
  (2)苗、葉に赤色はん紋を生じる。果樹は結実の減少
    を来し、ついに枯死する。
  (3)松の葉が伸びにくく、葉の色は黄褐色に変わる。
  (4)桑の葉が繁茂せず、養蚕も臭煙に襲われ不結果を
    生じる。
  (5)呼吸器病が増加する。
  (6)藁の目方が軽く、靭性を失って縄などに適しない。
  (7)屋根瓦、漆喰、石垣などが赤変する。
  (8)墓石に生えた苔がことごとく剥落する。
  (9)降雨の際屋根の点滴が泉水に落ち、鯉や鮒などが
    死ぬ。
  一方で、煙害克服に向けたさまざまな技術改良に着手
 した。
  まず、原料中の硫黄分を減少させるため、
  1913年(大正2年)に、住友肥料製造所を開設し、硫化
 鉱に含まれる硫黄から硫酸を作り、
  さらに、これから過燐酸石灰を製造した。
  また、煙害の除去、軽減のため、いくつもの試験研究
 を実施した。
  これらの対策により、四阪製錬所から排出される硫黄
 量は、1926年(大正15年)には、1919年(大正8年)の半
 分にまで減少した。
  大正末、ドイツ人ペテルゼンが発明した「塔式硫酸製
 造方法」(硝酸を使用して亜硫酸ガスを硫酸にする方法)
 を導入することにより、
  四阪島製錬所は、ようやく煙害根絶のきっかけを掴(
 つか)んだ。
  1927年(昭和2年)には、ペテルゼンと正式に特許実施
 契約を結び、工事を実施した、
  さらに、選鉱操業の変更もあって、放出される亜硫酸
 ガスの量は減少し、
  また、その濃度も希薄となり、
  もはや、実害を伴う煙害は見られなくなった。
  さらに、1937年(昭和12年)には、中和工場の建設に
 着手した。
  これは、溶鉱炉の煙突から放出される希薄な亜硫酸ガ
 スを、アンモニア水で中和して、
  すべて、亜硫酸アンモニアの溶液として回収する。
  この設備は、1939年(昭和14年)7月に、完成。
  以後、亜硫酸ガスはまったく見られなくなった。
  煙害の被害を根絶した。
  四阪島に製錬所が移転してから34年後のことだった。
1885年、朝鮮の勢道政治が盛ん
  朝鮮では、1392年~1910年まで李氏朝鮮が続いたが、
 その後期に、勢道(せいどう)政治となった。
  清朝には完全に屈服し、
  定期的に、貴族の娘を数知れずとなく清の宮廷に献上
 する習わしがあった。
  また、冊封(さくほう)使節が清から到来すると、言
 葉にすることも憚(はなか)られる性的接待をする韓国・
 朝鮮の慣例があった。
  こうした事実からも、鬱積(うっせき)した心理が朝
 鮮にはあり、
  また、その長年の反動からの形成されて来た体質も存
 在した。
  排他的な、恨みもともなった。
  また、反動的に出て来た優越の入り交じった感情もあ
 った。
  過去の韓国・朝鮮の歴史について・・、
  韓国の歴史教科書には・・、
  「勢道(せいどう)政治による中央政治の不正・腐敗
 と堕落は、そのまま地方政治に波及し、地方の官吏や郷
 吏は、権力を乱用して私利私欲をむさぼった。
  彼らは、法律にない各種の税金を思い通りに徴収し、
 百姓を捕らえては罪名を着せ、財物を略奪したりする風
 潮が生じた」・・とある。
   (参考)勢道政治:せいどうせいじ、朝鮮の李朝におい
    て、国王の信認を得た特定の人物や集団が・・、
    政権を独占する場合を指し、
    世道(せどう)政治ともいう。
     こうした人物や集団は、王室と血縁関係か婚姻
    関係にある外戚の場合が多く、
     正祖時代(1776年~1800年)の洪国栄(1748年~
    1881年)以来、外戚の勢道政治が李朝末期まで続い
    た。
     特に、純祖(在位1800年~1834年)以降は、幼少
    の国王が相ついだため勢道政治に拍車をかけ、
     安東金氏(純祖、哲宗の両時代)、豊壌趙氏(憲宗
    時代)、驪興閔氏(高宗時代)などによって政権の私
    物化が行われた。
1885年、朝鮮に対する、列強の横暴
  ロシアが、朝鮮から海軍基地(永興湾)の提供を受け
 ようとした。
  朝鮮の李朝は、ロシアににじり寄った。
  日英中は、この案を潰した。
  この反動で、イギリスは、朝鮮の巨文島を占領した。
  ロシアは怒った。
  そして、ロシアも朝鮮を占領すると言った。
  中国も仲介をした、
  そして、ロシアの占領がないことを条件に、イギリス
 も占領を止めた。
  中国は、朝鮮への勢力圏を拡大したいと意識していた。
  各国の欲の勢力圏争いが展開した。
  そして、この頃、アフリカ分割の大国の欲が、主に、
 ヨーロッパ列強の各国が展開することになる。
  日本は、この頃から、朝鮮は独立させたいとし、
  そのためには、清国に朝鮮半島から手を引かせたいと
 考え始めた。
  また、その実現のためには、やむを得ない場合には、
 戦争にも至るだろうと意識し始めた。
  この様な時、朝鮮に農民の反乱が起きた。
  李朝では、鎮圧できなかったため、清国に出兵を要請
 した。
  日本は、条約に基づいて、朝鮮へ出兵した。
  これが日清戦争の原因となった。
1885年6月23日、イギリスに、第一次ソールズベリー侯爵内
 閣が発足した。
  この時に、アイルランド国民党の党首チャールズ・ス
 チュワート・パーネルと連携して、第二次グラッドスト
 ン内閣を倒閣することに成功し、
 代わって保守党政権第一次ソールズベリー侯爵内閣を発
 足させた。
  パーネルに配慮して、アイルランド小作人に自作農へ
 の道を開くアシュバーン法を制定したが、
  総選挙の敗北を経て、
  アイルランド国民党がグラッドストンとの連携に動い
 た結果、
  1886年1月には、退陣に追い込まれた
1885年、ダイムラーが、世界で初めて、オートバイを発明
 した。
  ダイムラーとマイバッハは、1890年に、ドイツAGを退
 社し、
  ダイムラー・モトーレン・ゲーゼルシャフト(ダイム
 ラー・エンジン会社)を設立した。
  その会社の目的は、オットーの会社で発明したのと同
 じ技術を使って、小型で高速の内燃機関を作ることであ
 った。
  1885年、ダイムラーとマイバッハは、オットー・サイ
 クルの内燃機関を積んだオートバイを設計、開発した。
  そして、特許も取得した。
1885年12月28日、イギリスの人種差別に憤(いきどお)る
 インドの方々が、ボンベイで第1回インド国民会議を開
 いた。
  イギリスの植民地であった英領インドのボンベイ(現・
 ムンバイ)で、72人の代表を集めて第1回の会議が開催さ
 れた。
  この会議は、インドにおける人種差別的行政に憤った
 インド人初のイギリス下院議員となったダーダーバーイ
 ー・ナオロージーが、
  インド知識人層の不満を吸収しつつ、
  インド人の政治参加を漸次拡大するための体制補完的、
 穏健的な団体として設立した。
  当初は、年末の4日間だけ活動する程度のものであった。
  これは、当時のイギリス人のインド総督の承認が必要
 なためだった。
  インドの方々が、イギリスの行なう人権無視の政治に
 目覚め、
  そして、イギリス側も、その統治側からすると、「急
 増する反英勢力への安全弁」としての役割を期待してい
 た。
  (参考)インド国民会議派
    インド最大、最古の政党で、会議派と略称される。
     1885年のこの年に、ボンペイで開催されたイン
    ド国民会議に起源を発し・・、
     ガンジーの指導の下に、1920年、小ナーグブル
    大会を基として近代的な政党に脱皮し、
     独立運動を指導した。
     1947年の独立以後、1977年から2年半ほどジャナ
    タ党に政権の座を譲ったが、一貫して中央政府の
    構成する与党となっている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:1931年という年は・・、
.
1931年6月、中村震太郎大尉事件(~7月)が起きた。
  日本の軍人中村大尉が、中国の南興安嶺(現:チチハ
 ル)辺りを旅行していた時、中国軍に捕らえられ、
  日本側には一切伝えられずに、処刑された。
  スパイ容疑とされた。
  中村大尉は、正式なビザを持っていた。
  この事が、後に、日本へ伝えられると、日本国民は怒
 り、国内は沸騰した。
  中国側へ、日本は抗議をした。
  中国側は、「日本によるデッチ上げだ」とした。
  そして、調査にも応じなかった。
  逆に、日本のデッチ上げだとして抗議をして来た。
  当時の日本の幣原(しではら)外相は、今で言う「日
 中提携路線」で行くという方針で、
  また、「国際協調路線」で行くという路線だった。
  日本国民の世論にも耳を貸さず、日本の主権を犯され
 た事にも目をつむった。
  この時、日本の陸軍省や、参謀本部も、内閣の路線を
 不満ながらも受け入れた。
  しかし、明らかに、日本兵士の命が、日本の主権を無
 視されて奪われ、軽んじられていた。
  中国は支援を受け、後ろ盾を得て強気だった。
1931年7月、万宝山事件が起きた。
  満州の地で、開拓していた朝鮮の農民の方々が、中国
 人に虐殺された。
  この地域にいる日本人居留民の間にも、ますます不安
 感は高まった。
  東京の日本政府の「国際協調路線」や、「日中提携路
 線」で、
  結局、何もしない路線に対しても不安は増した。
  この地で戦われた25年前の日露戦争の後から駐留して
 いる日本軍(日中間の合意によって駐留している関東軍)
 も、何もしない方針である政府方針で、事が処せなくな
 っていた。
  結局、中国からの武力行使をやられる状況と、
 日本政府の穏便な何もしない方針が、現地の関東軍を板
 挟み(いたばさみ)にした。
  切羽詰まった状態に、追い詰めた。
  そして、「武力行使もやむを得ない」という判断に至
 らせた。
  その様な緊縛(きんぱく)した現地の状況だった。
  何か対処をしなければと追い詰められ・・て、
  9月18日、柳条湖において満鉄線爆破に至った。
1931年9月、ソ連の指令を受けたゾルゲらは、満州事変の直
 後から動き始め、日本に対ソ連攻撃をさせないようにす
 るため、日中全面戦争へと導いて行き、日中戦争を推進
 した。
  そして、日本を日米戦争に誘い込んで行った。
  リヒャルト・ゾルゲは、ソビエト連邦のスパイで・・、
  ドイツの有力新聞「フランクフルター・ツアイトング」
 の記者という隠れ蓑が与えられた。
  1933年~1941年にかけて、ゾルゲ諜報団を組織し、日
 本で諜報活動を行い、朝日新聞記者だった尾崎秀実もゾ
 ルゲ諜報団だった。
  ドイツと日本の対ソ参戦の可能性などの調査に従事し、
 ゾルゲ事件の首謀者として日本を震撼させた。
  イギリス警察が、1933年5月に、ゾルゲをソ連のスパイ
 とほぼ断定した。
  ソ連は、頑なに自国のスパイではないと言っていたが、
 1964年11月5日に、ゾルゲに対して「ソ連邦英雄勲章」が
 授与され、その働き・スパイ行為を評価した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年9月14日水曜日

(増補版)418E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年12月~1885年12月)

題:(増補版)418E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年12月~1885年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1885年12月24日、逓信省を東京・日本橋区本材木町に仮設。
  逓信省(ていしんしょう)は、工部省の電信局、灯台
 局から引き継ぎ、
  また、農商務省の駅逓局、管船局の各局管掌事務を引
 き継いで設置され、
  郵便、電信、灯台業務、船舶業務、簡易生命保険など
 を管理した中央官庁の旧称だが、この年に設置され、
  駅逓局、電信局、灯台局、管船局、会計局、庶務局の
 6局があった。
  初代大臣は、榎本武揚だった。
  当初の逓信省は、郵便、郵便為替(かわせ)、および、
 貯金、電信、海運の全般を管掌した。
  後に、電気・航空行政も管掌した。
  1868年、駅逓司が設置された、
  1885年、逓信省が設置された、
  1887年2月に、郵便のマークとして親しまれている〒を
     制定し、
  1890年以降、電話事業を開始し、
  1892年~1909年には、鉄道行政も管轄した。
  1893年以降、官設・私設鉄道事業を管轄、陸上交通を含
     む広範な行政官庁となった。
      この間、とくに郵便・電信業務の近代化をはか
     り、日露戦争前後の時期には、ほぼこれを完成
     した。
  1908年12月5日、鉄道監督行政は、新設の鉄道院(内閣
     直属)に移り、
  1909年に、電気行政を、
  1916年10月、簡易保険を、
  1923年に、航空局を陸軍省から引き継ぎ、民間航空事
     業の監督、育成を担当した。
  1925年に、万国郵便条約、
  1926年、郵便年金を創始した。
  1928年に、国際無線電信条約などに加盟した。
  1943年11月、行政整理のため解体され、運輸通信省が
     新設されて統合され、
  1945年5月、逓信院と改称、内閣に移管され、
  1946年7月、ふたたび逓信省として復活し、ただし、所
     管は通信行政のみに縮小、
  1949年6月1日、郵政省と電気通信省とに分割した。
  1952年、電気通信省の主体は日本電信電話公社(現:
     日本電信電話株式会社となり、電波監理行政や、
     日本電信電話公社の監督業務を担当し、
  1985年、電気通信省は、日本電信電話公社を経て、こ
     の年に、民営化され、日本電信電話株式会社と
     なった。
  2001年、総務庁などと統合されて総務省となる。
  2003年、発足した国営公社「日本郵政公社」に郵政事
     業が引き継がれた。
  2007年、同公社の民営化、分社化に伴い、日本郵政グ
     ループ各社に引き継がれた。
1885年12月24日、工部大学校が、工部省廃止に伴い文部省
 へ移管された。
  1871年、工学寮が、伊藤博文・山尾庸三(ようぞう)の
     建議に基づいて発足し、
  1873年、機械工学者ダイエルほか8人のイギリス人教師
     を招いて開校し、
      工学頭(こうがくのかみ)は山尾、教頭はダイ
     エル、
      土木、機械、造家、電信、化学、冶金(やきん)、
     鉱山の7学科をもつ、6年制の官費の専門学校で、
     学理面と実地面とを融合した、当時、世界でも
     進歩的な工学教育機関であった。
  1877年に、工部省工学寮工学校を改称し、工部大学校
     が設立された。
      日本最初の工業教育機関で、総合的な工業教
     育を行なった。
      工作局長・大鳥圭介(けいすけ)が総理となっ
     た。
      工部省の事業をになう技術者を、外国人から
     日本人に切り換える教育をした。
      6年制をとり、予科・専門科・実地科の3期に
     分けた。
  1879年に、最初の卒業生19人を出し、
  1881年、陸軍参謀本部(東京)をカペレッティが設計し
     た。
  1882年に、造船科を増設、
  1885年、工部省廃止に伴い文部省に移管され、
  1886年、東京帝国大学工芸学部と合併し、帝国大学工
     科大学となった。
      辰野(たつの)金吾、高峰譲吉、藤岡市助、井
     口在屋(いのくちありや)ら、明治の工学界・産
     業界の指導者・技術者を輩出した。
      近代工学の理念の移植と定着が、意外と早か
     った事が驚かれている。
      日本人の優秀性がここにもある・・、
  1887年、工部大学校本館(東京)をボアンビル(C.de
     Boinville)が設計した、
1885年12月25日、東京・浅草に仲見世が新築された。
  「仲見世ホームページ」を抜書きし、その概要を記す
 と・・、
  仲見世は、日本で最も古い商店街の一つ・・とある、
  徳川家康が、江戸幕府を開いてから、江戸の人口が増
 え、浅草寺への参拝客も一層賑わった・・と、
  それにつれて、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられて
 いた近くの人々に対して、
  境内や、参道上に出店営業の特権が与えられ・・、
  これが、仲見世の始まり・・、
  元禄、享保(1688? 1735)の頃・・、
  江戸時代に、伝法院から仁王門寄りの店を役店(やく
 だな)と呼んで、
  20件の水茶屋が並び・・、
  雷門寄りは平店(ひらみせ)と呼び、
  玩具、菓子、みやげ品などを売っていて・・、
  次第に、店も増えて、日本でも一番形の整った門前町
 へ発展していった。
  明治維新になると・・、寺社の所領が政府に没収され、
 浅草寺の境内も・・東京府の管轄となって・・
  ・・政府は、新しく東京に5公園を作って、
  公園法を制定して・・、
  以前からの一切の特権を、仲見世から取り上げた。
  1885年(明治18年)5月、東京府は、仲見世全店の取り
 払いを命じ・・、
  泣き泣き退店した後に・・、
  1885年12月に、煉瓦造りの洋風の・・豊かな新店舗が
 完成し、近代仲見世が誕生した・・、
  そして、浅草の繁昌が始まる・・、
  途中・・関東大震災と・・戦災での完全な焼失があっ
 たが・・
  今の仲見世には・・東側に54店、西側に35店、合計89
 店の店舗があり・・長さは約250メートル・・
  美しい統一電飾看板と・・四季折々の装飾が石畳に映
 えて・・雷門をくぐった海外からのお客さまなどは、み
 ごとな日本的情緒に思わず「ワンダフル」を連発いたし
 ます・・と記されている。
1885年12月26日、鉄道局官制を制定した(12月22日説あり)
  日本の鉄道の所管官庁は、1871年(新橋~横浜間鉄道
 開業の前年)に設置された工部省鉄道寮(のち工部省鉄
 道局)が最初だった。
  1885年に、工部省が廃止されると、鉄道局は内閣の直
 属となった。
  その後、相次いで所管が変更されるが、この混乱は、
 鉄道の国有化の問題があったからだった。
  このため、政府は、1908年12月5日、鉄道局と帝国鉄道
 庁を統合した内閣鉄道院を新設し、再び、内閣の直属機
 関とする。
  1885年12月22日、新橋~横浜間の定期乗車券発行規定
     を制定 主要事項
  1885年12月25日、鉄道本局の位置を旧工部省構内と定
     めた(内閣告示第7号) 主要事項
  1885年12月26日、鉄道局官制を定め(内閣達第79号)、
     長官・技監・事務官・技長・属・技手を置く、
     同時に、鉄道局長官具状事項7か条を定め、その
    他は長官の専行に任せる 主要事項
  1885年12月26日、鉄道局長官の事務処理事項通達(内閣
    書記官局令第14号) 主要事項
  1885年12月26日、会計について会計事務取扱方通達(内
    閣書記官局令第15号) 主要事項
  1885年12月28日、鉄道局長官に井上勝就任 主要事項
  1885年12月28日、鉄道局長官・井上勝
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカは、満州の日本の権益を認めていた。
   また、東部内蒙の日本の権益をも認めていた。
    アメリカは、日本の権益(満州、東部内蒙古)を
   認めていた。
.
1921年11月12日、ワシントン会議(~1922年2月6日)
  1914年~1918年まで、第一次世界大戦が戦われたが、
 その第一次世界大戦後に、第29代アメリカ合衆国大統領
 ウォレン・ハーディングの提唱で、この時、ワシントン
 D.C.で国際軍縮会議が開かれた。
  国際連盟の賛助を得ずに実施されたこの国際会議・・、
  太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・アメ
 リカ・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベル
 ギー・ポルトガルの計9カ国が参加した。
  ソビエト連邦は、会議に招かれなかった。
  アメリカ合衆国が主催した初の国際会議であり、また、
 史上初の軍縮会議となった。
  このワシントン会議は、ワシントン体制を作る目的も
 あった。
  総額47億ドルにのぼる対英債権をもつアメリカの発言
 力は絶大であった。
  そして、このアメリカは、第二次世界大戦(1941年)の
 時には、この債権のあるイギリスが負けることを避けた
 いために、第二次世界大戦に『参戦したい』という第32
 代アメリカ大統領のルーズベルト(任期:1933年~1945
 年)が居た、
  (選挙戦の時は「参戦しない」と、何度も言っていた
 ルーズベルトだった)
  そして、アメリカが主導するこの会議・ワシントン会
 議、
  また、アメリカに引っ張られるヨーロッパ列強各国。
  この時までには、アメリカには、「日本を取り込む」
 という選択肢であった。
  しかし、「日本の取り込みが無理ならば、皆で、列強
 各国で包囲して追い詰めて行く」という選択肢もあった。
  その「日本取り込みの行動」の中に、石井・ランシン
 グ協定があった。
  石井・ランシング協定は、1917年11月2日、アメリカ合
 衆国ワシントンD.C.で、
  日本の特命全権大使・石井菊次郎とアメリカ合衆国国
 務長官ロバート・ランシングの代表で締結された。
  中国での特殊権益に関する協定で、
  アメリカが、日本の中国の領土を認めるというものだ
 った。
  公文によって共同宣言をした「公式の国際取り決め」
 だった。
  協定の内容は、日本・アメリカ両国が、中国の領土的・
 行政的統一を尊重して、中国大陸における門戸開放政策
 を支持することを誓った上で、
  日本の中国大陸における特殊権益(満州・東部内蒙古)
 を『認める』ものだった。
  すなわち、アメリカの中国政策の一般原則と、日本が
 主張する特殊利益との間の妥協点を決定するものであっ
 た。
  しかし、ワシントン会議の後、アメリカの主動の列強
 各国の『ワシントン体制』が出来上がって行った。
  そして、日本は孤立させられて行く。
  日英同盟は、アメリカによって破棄させられた。
  そして、「九カ国条約」で、中国について「列強は常
 に強調して臨み、各国が勝手に利権を広げない」として、
 日本はタガをはめられ、歯止めをかけられて行った。
  そして、ソ連(1917年のロシア革命で共産党国家を樹
 立していた)は・・、
  世界各国でも共産革命を起こしたいとし、
  また、起こさせようと、世界の各国で画策していた。
  コミンテルン(国際共産党組織)によって、資本主義
 国で労働争議を起こしたり、
  テロ事件を起こすという秘密工作を行っていた。
  日本が手助けして建国し、独立した満州にも、このコ
 ミンテルンの指令を受けた者が、中国本土から流入して
 来た。
  この頃、中国は、国民党政府が統一を果たしていた。
  この国民党政府が、コミンテルン勢力と共に、満州に
 流入して来た。
  満州に入植していた、満州に居た日本人に対し、暴行
 を働いたりした。
  また、日本人と同じく、満州開拓に居た朝鮮の方々へ
 も暴行したり、迫害したりした。
  そして、満州で人々を煽り、プロパガンダ活動をした。
  また、日本製品の不買運動をし、極めて過激な排日運
 動まで始めた。
  この様な行動で、1931年の満州事変へと至って行く・・、
  それ以前、、1929年11月には、ウォール街に始まる株
 の大暴落が起きていた。
  そして、世界は大恐慌の嵐に襲われていた。
  日本の経済も、大きく落ち込んだ・・、
  その様な中、アメリカやイギリスは、日本からの製品
 輸入を完全に締め出す策に出た。
  関税同盟を結び、日本商品に対し高率な関税を課し、
 貿易協定などで関税障壁を張り巡らせた(ブロック経済
 体制)
  日本経済は、完全にどん底になった。
  自殺が頻繁に起きた。
  また、餓死者も出た。
  農家の娘の身売りなどの社会不安が蔓延する日本とな
 った。
  満州に日本人が居たのは、満州国の建国も手助けした
 が、日露戦争で日本が戦勝し、条約にのっとり、ロシア
 の侵略の区切りを付け、そして、止めたという行動があ
 った。
  日本人兵士の命を犠牲にした、平安があった。
  そして、日露戦争の戦勝の日本は、ポーツマス条約で、
 「南満州鉄道(満鉄)や、その付属地の経営などの権利
 を持っていた」。
  国際法に基づく行為だった。
  中国を統一した漢民族の国民党政権は、この様に平安
 な満州の地、
  満州族(女真族)の地の満州の平穏の地に、波風を立
 てる行為に出た。
  国際法上でも立派に存立している地に、武力で侵略し
 て来た。
  満州事変の伏線となった行為、1930年の満州事変の前
 年の行為だった。
  そして、この翌年・1931年、満州事変は起きる。
  この安寧状態に対し、挑戦するこの行為に、大きくか
 らんでいたのが、アメリカだった。
  アメリカは、日本が得ていた満州鉄道の様な利権が欲
 しかった。
  アメリカは、露骨に日本の満州鉄道と並行に鉄道を敷
 く行為を始めた。
  これは、日本と締結した条約に、中国が違反する行為
 だった。
  中国は、アメリカに鉄道を引かせることを許諾しては
 いけなかったのだった。
  日本と中国は、取り決めをしていた。
  アメリカの行為は完全に、この条約違反行為だった。
  日本潰しの意図で、あえて行った条約無視行為でもあ
 った。
  また、満鉄付属地の鉱山経営もできる日本の行為にも、
 条約無視で足を引っ張った。
  日本人に土地売買を禁止する法律を作ったりした。
  そしてまた、条約で決めた鉱山事業まで禁止して来た。
  日本は、欧米のような「搾取だけ」の行為ではなく、
 その地の利益にもなるように、資本を投下して、経営し
 ていたが、
  この巨大な資本投下した企業経営が、続けられなくな
 る事態に陥(おちい)った。
  アメリカは、第二次世界大戦に参戦するとき、イギリ
 スに大きな投資をしていたので、イギリスを助けたいと、
 だから参戦したいという経緯(いきさつ)があったが、
  アメリカは、満州で、この逆の行為をした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年9月12日月曜日

(増補版)417E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年11月~1885年12月)

題:(増補版)417E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年11月~1885年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
(追記)1883年8月、清仏戦争が起きた(ベトナムの取り合い)。
  中国の清と、フランスの戦いである。
  また、1885年4月にも、この2つの国は戦争している。
  フランスは、インドに於いて、イギリスとの植民地の
 奪い取り(争奪戦)に敗け・・、
  「それなら別のアジアの国を植民地にしよう」とベト
 ナムへやって来て・・植民地にしようと進出して来た。
  まったく武力の強い、欲深いヨーロッパ列強の国々が、
 アジアの弱い国々を分捕(ぶんど)るという、弱い者い
 じめのしたい放題だった。
  このフランスの領土的野心の行動は、1840年代から始
 まっていた。
  そして、この戦争に負けた清国は、また一つ、朝貢国
 (清国へ貢物・みつぎものを持って訪れる国)が減った
 のだった。
  ベトナムが、フランスの支配下に入ったからで・・、
  清国への朝貢国は、次々と減って行っていた。
  朝貢国が減るということは、『清国では、皇帝の徳が
 なくなって行く』という意味があった。
  中国・清を中心とする『アジアの秩序が崩壊している
 事態』であった。
  清に残された最後の朝貢国は朝鮮だった。
  清は朝鮮を失いたくないと、強く思っていた。
  そこで、日本を敵視した。
  明治維新、産業を興し、そして、学び、努力して、国
 を富ませ、強くしてきた日本が、力を持って来ていた。
  この状況から、日清がぶつかる時が来ていた。
  日本は、開国した朝鮮に、その近代化を手助けした。
  また、朝鮮の、独自の国を守ろうという、力を得たい
 とする行動を援助した、軍隊の制度改革を援助した。
  色々と援助する日本だったが、日本の改革に取り残さ
 れた一部に、冷遇されたと不満を持つものが居た。
  そのエネルギーが、壬午事変(じんごじへん)として
 暴発した。
  1882年に起きたこの事変に、清は、この時に乗じ、
 数千の軍隊を派遣して来た。
  また、なんだかんだと清は、軍隊を派遣して来た。
  1884年には、日本の明治維新を見本として近代化を進
 めたいと金玉均たちの起こしたクーデターの時も、
  清は、軍の力を行使し、押さえ込んだ(甲申事変・こ
 うしんじへん)
  日本の軍事力は、この時点では、清にはおよばなかっ
 た。
1885年11月11日、三条実美太政大臣、黒田清隆の右大臣任
 命につき、諸参議と協議を行った。
  開拓使長官・黒田清隆は・・、
  「北海道開拓使官有物払下げ」を申請して・・
 (1400万円余の官営開拓事業をわずか39万円・無利息30
 年賦で、同郷の薩摩藩政商・五代友厚らに払下げようと
 した)
  「それは、汚職なのだ」という事件が、1881年に起き
 る。
  そして、払下げは中止となった。
  黒田は、北海道開拓10年計画の終了にあたり、1400万
 円の国庫金を投下した官有物を、五代友厚に払い下げよ
 うとした。
  払下げは、すでに閣議決定を経て、公式に発表されて
 いた。
  大隈重信が大反対をした。
  世論も攻撃をした。
  政府は、立往生をした。
  しかし、これは、権力闘争の色があり、喧嘩両成敗の
 決着となった。
  大隈は辞職し、黒田の行なった払下げは中止に・・、
  大隈の国会開設が急進的国会開設論で・・、
  また、イギリス流議院内閣制を推していたのも懸案(
 けんあん、問題とされながらまだ解決がつかない問題)
 になっていた。
  この政変を、決着を付けられたのが、明治天皇陛下の
 『1890年(明治23年)に国会を開設する』という詔が、
 1881年10月12日に、下りてだった。
  因みに、この黒田清隆は・・、
  薩摩藩の出身で、戊辰戦争で活躍し、五稜郭開城に際
 して榎本武揚(えのもとたけあき)を助命し、
  明治政府では、開拓次官、そして、後に、参議兼開拓
 長官として北海道開発に力を尽くした。
  そして、1888年に、首相となり、一度、失脚した大隈
 重信(外相)とともに、条約改正を試みた・・が、失敗
 する。
  1883年7月20日の、岩倉亡き後・・、
  その岩倉にあった調整能力は喪失状態であった。
  現状の太政官制と大臣とを前提とする限り、新たな政
 治関係の創出はむずしく・・、
  太政官制の改革が喫緊(きっきん、差し迫っていて、
 重要なこと)の課題となっていた・・、
  この頃、三条実美が、右大臣補任を主張した。
  三条は、自分の引退に繋がりかねない太政官制の改革
 には反対だった。
  止む無く、右大臣に黒田清隆を推薦した。
  そして、微妙な波紋を広げたこの問題も・・、
  曲折の後に、天皇陛下が、先ず組織を定めて、然る後
 その人を議するべしとの事態打開に動き、
  伊藤の期待した内閣制度創設へとようやく動き出した。
  12月に入ると、伊藤はかねて用意していた内閣制度案
 を提出し、
  諸参議の了承を得て、
  これを受けて、三条が、即日、官制改革案と総理大臣
 は伊藤が適任である旨を上奏した。
  そして、早くも12月7日に、機構改革と、伊藤の内閣総
 理大臣就任が内定した。
1885年11月11日、足利織物講習所が設立された。
  足利の織物の発展に貢献した人たち
  工商会の父:川島長十郎
  川島長十郎は、五十部町の人で嘉永元年(1848年)4
 月、当時丹南藩の領地であった五十部村の目付役、平右
 衛門の子として生まれました。
  明治5年学制発布とともに小学校設立に尽力し、村の
 人びとの敬意を受けて戸長(村長)になります。
  明治12年、栃木県議会議員になり10年間勤続、その間、
 足利織物の発展に尽くしました。
  当時足利織物は粗製乱造がたたり声価が失墜していま
 したが、彼は各地の業界を視察、組合設立の必要を説き、
  明治15年足利工商会を組織しました。
  明治18年(1885年)には、染織講習所設立に尽力し、
 さらに明治21年には、足利、簗田機業組合の2代組合長に
 就任しました。
  評価の悪かった足利輸出織物が他に比類なしといわれ
 るようになった影には、他の先達とともに、川長こと、
 川島長十郎の力が大いにあずかっています。
  (足利市ホームページより)
1885年11月13日、華族女学校の開校式(皇后宮行賓)
  東京に華族女学校が開校し、屋内体操場が竣工する。
  華族女学校行啓
  後に、学習院女子中・高等科になる、皇族・華族子女
 のための官立の教育機関として華族女学校の名で東京・
 四谷に創立された。
1885年11月14日、最初の坑業組合となる九州の筑豊石炭坑
 業組合が成立した。
  日本の発展と共に必要とされて、採炭量は年率20%で
 伸びた。
  筑豊炭田の石炭産出量は、1882年(明治15年)が19万
 1000トン)で、3年後の1885年(明治18年)が35万3000
 トンとなった。
  当時、日本の平均の伸び率は10%位だった。
  この様な中、筑豊の炭坑主たちは、福岡県の指導のも
 とに、
  1885年11月に、筑豊石炭坑業組合を設立した。
  以後、筑豊の石炭鉱業の発展に士道的役割を果たした。
  組合の初期の目的は、価格決定権など、石炭市場の主
 導権を握っていた問屋勢力から、主導権を回復する事に
 あった。
  生産者による流通支配が成功する確率は、どの産業に
 おいても高くないが、
  特に、流通における卸売業者(問屋)が、生産者を支
 配する形態は歴史上どの産業にもあったが・・挑戦的な
 行動であった。
  そして、このような行動は、古くにもあった。
1885年11月18日、兵式体操を学校で実施するため、教員の
 体操伝習所(たいそうでんしゅうじょ)養成を決定する。
  体操伝習所は、1878年、東京に設置された文部省直轄
 の西洋式体操の教育機関で、
  日本で最初の体操専任教師が養成された。
  アメリカ人 G.A.リーランドを教師として、西洋の体操
 を導入した。
  リーランドの退任後は、坪井玄道が、その跡を継いで、
 日本の学校体育の基礎確立の中心となった。
  また、手引書を出すようになって、ようやく体操が、
 全国的に普及しはじめた。
  その体操は、軽体操と呼ばれ、
  後には、普通体操と呼ばれるようになるが、内容は、
 やはり保健的性格のものであった。
  そして、遊戯場が、次第に、体操場と呼ばれるように
 なっていく。
  しかし、この伝習場での体操は、室内体操場で実施す
 ることを前提にしていたため、
  屋外が、体操実施の場として本格的に機能し始めるの
 は、1886年に、兵式体操が、学校へ導入されてからであ
 った。
  実際に成果をみるのは、体操学校(現,日本体育大学)
 や、東京高等師範学校体操科(現,筑波大学体育科学系)
 などの体育教員養成学校が整備されてから・・、
1885年11月18日、明治天皇陛下が、日比谷操練場に御閲覧
 された。
  日比谷公園・・、
  維新後、江戸時代には鍋島・毛利家など8家の大名屋敷
 だった現・日比谷公園は、一時、政府の推奨により桑畑
 や茶畑に転用された。
  しかし、1871年(明治4年)に、陸軍日比谷操練場とし
 て使用され、
  1885年(明治18年)から、陸軍日比谷練兵場と名称を
 変え、
  その後、政府は、練兵場を青山へ移し、
  日比谷官庁街計画を立てたが、
  1889年(明治32年)の東京市区改正設計において、「
 帝都にふさわしい公園」をつくることを決定した。
  現在の日比谷公園の礎が着手された。
  そして、陸軍省は永田町(現・憲政記念館付近)に、
  海軍省は、築地(現・中央卸売市場)に設置されてい
 た。
1885年11月21日、黒田清隆が、右大臣就任を辞退した。
1885年11月23日、大阪事件
  大阪事件:自由党員による国内改革計画
  自由党の大井憲太郎ら、自由民権運動の再興をめざし
 た朝鮮でのクーデターによる日清対立計画が発覚し、大
 阪で逮捕された。
  最終的な逮捕者は合計で139人に上った。
  (氷川清話)大井憲太郎らの朝鮮クーデター計画(大
 阪事件)
1885年12月10日、文部省内に図画取調掛が設置された。
  後の東京美術学校。
  東京芸術大学の説明に・・、
  前身は、1879年、音楽の調査・研究をはかるために、文
 部省に設置された音楽取調掛を引きついで、
  1887年に、発足した東京音楽学校と、
  1885年に、国粋保存と日本画振興のもとに、文部省専
 門学務局設置の図画取調掛が発展して、
  工部大学校付置の工部美術学校を母体として、同じく、
 1887年に、設置された東京美術学校がある・・と、
1885年12月12日、公立小学校の修業期間について、1年で
 1学級の学年制に改められる。
  この年に、文部省は、等級制を廃して、半年単位の級
 編成をやめ、
  修業期間1年をもって1学級とすることとし、学年制が
 小学校に普及していくこととなった。
1885年12月16日、東京大学理学部鉱工業関係学科を分離し、
 工芸学部を新設。
  また、文学部政治学科を法学部に移し、法学部を法政
 学部と改変。
1885年12月21日、朝鮮と海底電線設置条約続約に調印した。
  因みに、1896年には、日清戦争で獲得した台湾への電
 信線敷設のため、日本最初の本格的海底ケーブル敷設船
 となる沖縄丸を導入。
  国産船では小笠原丸が、1906年に、太平洋横断ケーブ
 ル工事を目的として建造された。
1885年12月22日、内閣制度が発足
  内閣制度が確立し、設置された。
  伊藤博文が初代の総理大臣に就任し(宮相兼務)
  (第一次伊藤博文内閣が発足)、
  井上馨外務卿が外務大臣となった・・ほか。
  最初の内閣は、11名で構成された(内閣総理大臣、及
 び、宮内・外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・
 農商務・通信の各大臣を置く)
  閣僚は、薩長土肥で構成された。
  また、宮中に内大臣をおいた(三条実美)
  宮内以外の諸大臣で内閣を組織することを定める。
  太政官制を廃止し、内閣制度が発足(施行)
  太政大臣、左右大臣、参議の制を廃し、新たに内閣各
 省を置き、官制改革が行われる。
  また、工部省と参事院、制度取調局を廃止し、
  宮中顧問官と逓信省を新設、
  工部省所管の燈台局・電信局を逓信省へ、
  鉄道局を内閣直属に、
  鉱山・工作関係事務を農商務省へ、
  長崎造船所を大蔵省へ移管した。
1885年12月23日、内閣法制局と宮内省御料局を設置した。
  初代法制局長官・山尾庸三を任命した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:怨念が、充ちて行く
.
2016年9月6日、フィリピン大統領が、アメリカに対して暴
 言を言った・・と報じられた・・が、
  ・・というが、
  ここに至るまでの事を知り、吟味して、「暴言」と決
 めつけたのかが・・疑問・・・?
  (読売新聞、2016年9月7日)には・・、
  フィリピン大統領のドゥテルテ大統領は・・、
  フィリピンの庶民層の『圧倒的支持』を受けて大統領
 となった人である・・と、
  ドゥテルテ・フィリピン大統領は、その様な人だと・・、
  そして、このフィリピンの庶民層の方々は・・、
  旧宗主国のアメリカに対して反感を持って来た・・と
  また、そのアメリカを後ろ盾として、アメリカの陰で
 旨(うま)い汁を吸って来たフィリピンのエリート層に
 対しても、フィリピン庶民層の方々は反感を持って来た
 ・・と、
  その様な歴史の経過の中で、ドゥテルテ大統領の暴言
 と言われる・・発言があった・・、
  ある意味では・・暴言ではない・・
  『公憤である』・・『義憤である』・・、
  (参考)義憤:ぎふん、道義に外れたことに対する、
     また、不公正な事に対する憤(いきどお)り。
  この事によって、アメリカ大統領と、フィリピン大統
 領の会談が取り止めとなった・・・・が・・、
  そのフィリピン大統領ドゥテルテ氏の発言は・・、
  「アメリカは、フィリピンで多くの悪事を働いて来た
 ・・が、今まで謝罪したことがない」
  「アメリカは、我が国・フィリピンを侵略し、我々・
 フィリピン人を牛耳り(ぎゅうじり)支配した」
  「フィリピンは、隷属国(れいぞくこく、奴隷の様に
 隷従する国)ではない」
  「私は、フィリピン国民には誠実に答えるが、彼(ア
 メリカ大統領のオバマ氏)に対しては、気にしてない」
  「彼(オバマ大統領)は何様だと言っているのだ。
  私(フィリピン大統領)も、主権国家のれっきとした
 大統領なのです」
  「我々・フィリピン人が、アメリカの植民地人だった
 のは、遠く過ぎ去った昔のことだ。
  (私の主人顔をするな)、私の主人は、フィリピンの
 国民だけだ。
  敬意は、示されなければならない」
  「質問や声明を投げかけるだけなら(誰にでもできる)
 それだけではいけない」
  「裁判なしで人を殺してきた酷い記録がある」
.
  そして、この発言の翌日のフィリピン大統領ドゥテル
 テ氏の発言・・、
.
  「私の発言が(会談中止の)直接の原因だ」
  「アメリカ大統領への個人的な攻撃と受け取られてし
 まった、(この様に受け取られたのなら)後悔する、(
 しかし、これは社会を良くしたいという公憤だ)」
  (参考)公憤:こうふん、社会の悪に対して、自分の
       利害を越えて発する憤(いきどお)り。
  「すべての国、アメリカとも関係を深め、フィリピン
 独立(1946年に、アメリカから独立した)の方針を進め
 て行くのが我々・フィリピンにとって重要だ」
  (参考)1943年、日本によるフィリピンの解放によっ
 て、フィリピンは独立した。
  しかし、卑劣な事に、アメリカは、この1945年の日本
 の敗戦とともに、フィリピンを、再度、植民地とした。
  しかし、その後、フィリピンの方々は、1946年に、再
 度、独立を勝ち取った。
  そして、この様な、二度にわたるアメリカの植民地時
 代の苦しさを知っている、その庶民層の大統領だった。
.
  そして、この日の、この読売新聞は、別の欄に・・、
  オバマ大統領の発言を載せている・・、
.
  「ベトナム戦争で犠牲になった市民への和解の精神で
 ラオスを訪問した。
  不発弾処理に3年間で9000万ドル(この日レートで、92
 億4000万円)をラオスに拠出する。
  アメリカは、ラオスの傷をいやす道義的責任がある」
.
  (評)アメリカは、歴史が進めば進むほど、そして、
 歴史が経過すればするほど、
  戦争ばかりしているアメリカは・・、
  世界のあちこちで、『アメリカに対する怨念が、充ち
 て行く』
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年9月11日日曜日

(増補版)416E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年9月~1885年11月)

題:(増補版)416E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年9月~1885年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
(追記)1885年1月9日、漢城條約(甲申事變善後約定)締
 結。
  この条約は、京城条約ともいう。
  1885年1月9日、特派全権大使の井上馨は、朝鮮全権・
 金宏集と漢城条約(甲申事変善後処理の条約)に調印し
 た。
  前年の1884年12月4日の甲申の変 (京城事変) に関して、
 日本と李氏朝鮮との間で取りかわされた条約で・・、
  甲申の変の事態収拾のため、日本は、全権大使として
 外務卿・井上馨を派遣し、
  事変の翌・1885年1月7日から、朝鮮の全権大臣・金弘
 集と交渉した。
  日本の全権大使・井上馨は、大局的見地に立ち、早期
 締結へ向けた提案をし、早期締結が実現した。
  そして、1885年1月9日に、条約は締結された。
  なお、1885年4月18日に、朝鮮問題に関し、日本と中国
 の清との間で取り決めた天津条約もある。
  朝鮮の甲申政変の結果、日朝間で漢城条約を1885年1月
 に結んだのに対し・・、
  天津において、伊藤博文と李鴻章のあいだで締結され
 た天津条約は・・、
  朝鮮からの『日清両国軍隊の撤兵』、『両国軍事教官
 派遣の停止』、『朝鮮出兵の際の相互事前通告』などを
 取り決めた。
  これによって朝鮮出兵に関して日清両国の立場は対等
 となった。
  第二次世界大戦の時、アメリカは、日本に秘密にして、
 この天津条約で禁止されている様な「軍事教官の派遣」
 を中国に対して行っていた。
  また、アメリカは、さらに踏み込んで、攻撃部隊(武
 器と兵員)まで、中国・国民政府軍へ、日本に秘密裏に
 送り込み、日本攻撃して戦闘状態に入っていた。
  卑劣なアメリカの『秘密の参戦である』。
  日本の真珠湾攻撃を『どうのこうのと言う資格は、ア
 メリカにはない』(アメリカの卑劣なプロパガンダ)
(追記)1885年6月28日、上野駅が開業した。
  1882年(明治15年)11月に、寛永寺の寺院跡約29,800
 坪(約98,512m²)を東京府より借り受け、上野駅の用地
 とした。
  上野駅の敷地は、寛永寺の僧坊があった場所で、
  維新後は、政府が官営地として所有していたものを借
 り受けた。 
  他の駅とは違って、初めから多くの線路、施設があっ
 た。
  1883年(明治16年)7月28日、上野~熊谷間の仮開業・
 開通に伴い、上野駅を開設し、駅は仮開業で荷物扱い所
 を充てた。
  1883年8月、貨物の取扱いを始める。
  1883年10月、郵便物の取扱いも始める。
  1884年5月、上野~高崎が開通。
  1884年6月28日、天皇陛下をお迎えして、正式な開業式
 が行われた。
  但し、駅舎は仮駅舎であった。
  1885年(明治18年)7月、煉瓦造2階建て、237坪(約783
 m²)の本駅舎が竣工した。
  これが、初代駅舎で、三村周が設計、毛利重輔が監督
 した。
  当時の汐留駅や横浜駅を踏襲した形だった。
  また、1885年に、大宮駅~宇都宮駅の区間(利根川渡
 河区間を除く)が開通すると、上野駅は、東京側のター
 ミナルとして繁盛するようになった。
1885年9月29日、郵便汽船三菱と共同運輸が合併し、日本郵
 船が設立された。
  支店が梅ケ崎町に開設され、
  長崎と中国、フィリピン、北南アメリカとの航路が結
 ばれ、九州唯一の外国航路の港となった。
1885年9月29日、東京法学校が、東京大学法学部と合併した。
1885年9月、東京師範学校が、女子部生徒の制服を洋服と
 した。
1885年9月、坪内逍遙が、「小説神髄」を発表する。
  坪内逍遥の文学理論書(上巻:小説の原理論、下巻:
 その技法論)
  著者名を坪内雄蔵とし、東京大学時代からの小説探求
 をイギリスの諸文献、『ブリタニカ』などから得た知識
 をもとに組織した日本最初の体系的小説論。
  人知と文化の発達とともに発達してきた文学の頂点に
 たつのは小説だとの基点に立ち・・、
  「人情」の模写を通して人生の因果の理法と、人間界
 の構造を照出し、
  小説における心理的写実主義を唱え・・、
  心理観察と客観的態度の尊重を説き・・、
  その中の芸術性を重んじた。
   そして、日本の小説は、改良されなければならないと
 提唱した。
  その結果、戯作や勧善懲悪の文学の衰退を招き、
  尾崎紅葉らの写実派の台頭に影響を与え、
  また、自然主義の作家たちにまで大きな影響を与えた。
  日本近代文学の黎明期における、最初の理論書として
 の役割を果した。
1885年10月1日、日本郵船が営業を開始(創業)した。
  日本郵船株式会社の発足。
  郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の合併により、9月29
 日 日本郵船会社を設立、10月1日創業、資本金1,100万
 円、所有汽船58隻。
  (日本郵船ホームページより)
  当社グループは、海・陸・空にまたがるグローバルな
 総合物流企業グループとして、安全・確実な「モノ運び」
 を通じ、人々の生活を支えることを基本理念として、日
 々の企業活動を行っております。
  世界の人々の豊かで、安心できる暮らしに貢献するこ
 とを誇りに思うと同時に、その社会的責任を深く感じて
 います。
  (代表取締役社長・内藤忠顕氏挨拶より抜書き)
1885年10月1日、東京瓦斯会社が開業した。
  渋沢栄一、大倉喜八郎ら、東京瓦斯会社を設立。
  後の東京ガス。
  当社本月(10月)一日創立す、東京瓦斯局の払下を受
 け、資本金二十七万円を以て組織し、社名を東京瓦斯会
 社と称し、本社を芝区浜崎町に置く。
  瓦斯料金は一千立方呎に付金三円とす。
  (東京瓦斯(株)データベースより)
  東京ガスグループは、1885年の創立以来、130年にわた
 り首都圏を中心とした地域への都市ガス供給を通じて、
 お客さまの豊かな暮らしや社会の発展を支えてまいりま
 した。
  1969年には、日本で初めて、LNG(液化天然ガス)を導
 入し、
  その後、半世紀近く「LNGのパイオニア、天然ガスのト
 ップランナー」として、LNGバリューチェーンの確立・強
 化と天然ガスの普及・拡大に努め、国内外からも大きな
 評価を得ています。
  東日本大震災を経て、2011年11月に策定・発表した「
 チャレンジ2020ビジョン」では、このLNGバリューチェー
 ンの一層の高度化を図り、日本の「エネルギーセキュリ
 ティーの向上、エネルギーコストの低減、エネルギーシ
 ステムの革新」に貢献するとともに、東京ガスグループ
 の持続的な成長・発展を目指すこととしています。
  (代表取締役社長・広瀬道明氏挨拶より抜書き)
1885年10月5日、フリーメーソン長崎支部奉献式が行なわれ
 た。
  支部は、下り松50番地に創設。
  フリーメイソンは、16世紀後半から17世紀初頭に、判
 然としない起源から起きた友愛結社。
  起源とフリーメイソンリーに関して、対外的な資料が
 少ないため、諸説存在する。
  因みに、関係すると言われる、オリンピックを提唱し
 たというクーベルタン男爵は・・、
  女性の参加は、男性にとって良からぬことであると考
 えていた。
1885年10月7日、高瀬真卿(たかせしんけい)が、本郷に、
 私立予備感化院を開設した。
  1886年に、東京感化院と改称した。
  高瀬真卿によって、日本最初の組織的な少年感化院が
 設立された。
   高瀬真卿は、明治~大正時代のジャーナリスト、社会
  事業家で、
   仙台で「東北毎日新聞」を発刊し、自由民権論をとな
 えた(茨城新聞や仙台日日新聞なども主宰)
   東洋的な儒教精神と、それに基づいた家族制による感
  化が行なわれた。
  1882年(明治15年)の福島事件で、交友が処罰され、ま
 た、自身も獄中生活を経験し、感化事業に従事するよう
 になった。
  1884年(明治17年)東京集治監の教誨師となり、
  1885年(明治18年)私立予備感化院(のちの東京感化院
 錦華学院)を湯島(東京)に創設した。
1885年10月12日、事業主で作られた東京活版組合が、解雇
 職工の無断再雇用禁止を申し合わせた。
1885年10月15日、高崎~横川間が開業する。
  鉄道局の高崎~横川間の鉄道が開業。
  日本鉄道とあわせて東京と横川が結ばれた。
  関連事項:東京と大阪を結ぶ幹線は中山道経由とする
 ことが決定していた。  
  東海道経由に変更(1886年)  
  横川~軽井沢間開通(1893年)
1885年10月17日、東京・浅草公園六区に水族館が開館した。
  (10月11日説あり)
  浅草公園六区(あさくさこうえん ろっく)は、東京都
 台東区浅草にある日本の歓楽街。
  通称:浅草六区という。
  因みに、近くにある浅草花やしき(あさくさはなやし
 き)は、東京都台東区浅草二丁目28番1号にある遊園地で、
  1853年(嘉永6年)に、千駄木の植木商、森田六三郎に
 より牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園し
 た。
  当時の敷地面積は、約80,000m2(24,200坪)だった。
  江戸期は、茶人、俳人らの集会の場や、
  大奥の女中らの憩いの場として利用され、
  ブランコが唯一の遊具だった。
  明治に入り、浅草寺一帯を浅草公園地とした際、
  花屋敷は、奥山一帯と共に、第五区に指定された。
  しかし、敷地は縮小し、
  1885年(明治18年)に、木場の材木商・山本徳治郎(
 長谷川如是閑の父)と、
  その長男・松之助が、経営を引き継いだ。
  翌年・1886年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板と
 して掲示した。
  この頃でも、利用者は主に上流階級者であり、
  園内は、和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していた。
  しかし、徐々に、庶民にも親しまれるようトラ、クマ
 など動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマ
 ーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示した
 りした。
  浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、
 動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸な
 ど)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった。
1885年10月20日、メートル法条約に加入した。
  日本は、1885年のこの時に加盟手続を終わっていたが、
 公布されたのは、翌年・1886年4月16日であった。
  因みに、2013年8月時点の加盟国数は55、準加盟国数は
 38である。
  1795年に、フランスは、メートル法を制定し、
  1799年に、標準器を完成したが、その国内での普及は
 強い抵抗にあい、一時的に後退を余儀なくされた。
  1840年に至って、ようやく強制使用の段階に達した。
 その間、メートル法は1816年に、イタリア内の州により、
  1821年に、ベルギーを含むオランダ王国により採用さ
 れ、
  また、1832年には、K.F.ガウスにより地磁気の測定に
 応用されるなど、その使用は、徐々にではあるが確実に
 広まっていた。
  そして、メートル法による度量衡標準の国際的統一、
 および、その完成を目指して、1875年5月20日、パリで締
 結された条約。
  14ヵ条の本文と、22ヵ条の付則と、6ヵ条の過渡規定か
 ら成る。
  パリに、度量衡万国中央局を設置すること、国際度量
 衡委員会、国際度量衡総会その他を規定したもの。
1885年10月、神田に貸本屋が開業した。
  この年に、東京神田に開業した貸本屋の「いろは屋」
 の蔵書は、その9割が学術書であり、
  顧客の大半は学生で、
  1ヶ月の貸し出し冊数は、8000冊~9000冊に及んだと
 いう。
  また、貸本屋の中には、閲覧室まで備えていたものも
 あり、
  居付き(いつき、その場所に住みつく)の貸本屋がこ、
 の様に繁盛したのは、公共の図書館が、まだ、ほとんど
 無かったため。
  因みに、明治20年頃までに、本屋の企業形態が変化し
 ている。
  それまで、書物問屋・地本問屋・絵草子屋・貸本屋か
 ら、活版印刷による洋本屋・輸入翻訳本屋・新聞雑誌ジ
 ャーナリズムへと主役が交代して行った。
  そして、この変化と共に、日本橋から神田神保町への
 移動が対応している。
  江戸時代の本屋仲間は日本橋・京橋だったが、
  1906年(明治39年)の組合員構成をみると、急激に神
 田の書店が増加している。
  また、1902年(明治35年)に、組合の正式な業務とし
 て、新古書籍の交換が始まり、これが、古書市場の始ま
 りとなっている。
   (参考:慶応技術大学、大内田鶴子氏論文より)
1885年11月3日、東京帝国大学の学生と横浜の外国人の間
 でボートレースが行なわれた。
  日本初の国際ボートレースとなる。
  別の史料に・・ボートレースの最初は・・
  1863年(文久3年)10月5日~6日に、開催されたグラン
 ド・ヨコハマ・インターナショナル・レガッタが最初。
  最初は、軍人が主体だった。
  1871年(明治4年)頃から、居留民による競技団体が組
 織され、
  最終的には、横浜アマチュア・ローウィング・クラブ
 に統合された。
  因みに・・ヨット・レースの最初は・・
  ヨット・レースは、最初ボート・レースに付属して行
 われていたが・・、
  1886年(明治19年)10月、横浜セイリング・クラブが結
 成され、これ以降盛んになり、
  1927年には、横浜ヨット・クラブと改称、この年には
 モスキート・ヨット・クラブもできた。
1885年11月9日、種痘規則が制定された。
  1798年、エドワード・ジェンナー、天然痘予防のため
 牛痘種痘法を発表した。
  1849年、長崎に痘苗到着した。そして、日本の種痘が
 始まった。
  1876年、天然痘予防規則ができた。
  1885年、種痘施術心得書
  そして、この年・1885年に制定された種痘規則では、
 1歳未満と、5歳~7歳の間に合計3回の実施が義務付けら
 れた。
  そして、1909年(明治42年)に種痘法が改正され・・、
  第一条 種痘ハ左ノ定期ニ於テ之ヲ行フ、但シ痘瘡ヲ
   経過シタル者 ( 天然痘に罹ったことがある者 )ニ
   付テハ此ノ限ニ在ラス
  (1)第一期 出生ヨリ翌年6月ニ至ル間、但シ 不善感
   (種痘後、傷口にオデキができない場合 )ナルトキ
    ハ、翌年6月ニ至ル間ニ於テ更ニ種痘ヲ行フヘシ
  (2)第二期 数ヘ歳10歳、但シ不善感ナルトキハ、翌
    年12月ニ至ル間ニ於テ更ニ種痘ヲ行フヘシ
  定期前2年以内ニ善感シタル種痘ハ第二期ノ種痘ト看
  做ス・・ということで
  全感した場合、つまり種痘を植え付けた傷口に、「オ
 デキ」ができて成功した場合には、合計2回で済むことに
 なった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ大統領が、真珠湾攻撃前に、開戦の決定をしていた。
    アメリカ大統領のルーズベルトは、日本が攻撃す
   る前に、『日本を攻撃せよ』との指令を出していた。
   事実上の宣戦布告である。
   真珠湾攻撃前に、開戦決定をしていた、そして、攻撃した。。
    奇襲されたから戦争したなどは嘘の話だ。
    アメリカよ! 嘘をついてまでして、日本を貶(
   おとし)めるは、いい加減にしてくれ!
    嘘つき国家が、恥ずかしくないのか!!
.
1941年7月23日、ルーズベルト大統領を含む、米国首脳が
 フライング・タイガーによる日本本土爆撃計画に、この
 日に署名し、事実上の宣戦布告をした。
  日本の真珠湾攻撃の前であり、
  日本が真珠湾攻撃をしてきたから、参戦したのだなん
 て『真っ赤な嘘』である。
  (この以前に、アメリカは、既に、中国で秘密裏に、
 日本攻撃をしている)
  日本を虐(いじ)めて、いじめて、いじめ抜いて、先
 に攻撃させる様にしよう(日本が先に戦争を始めたと見
 せかけよう)というアメリカ首脳陣の考えだった。
  先に、銃を抜かさせて、正当防衛が成立するという狡
 猾(こうかつな、狡(ずる)いキリスト教の考え方に洗
 脳されている。
  以上の様に・・、日本が、アメリカと戦端を開こうと
 開くまいと・・、
  アメリカは、先に、日本との開戦の方針を決定し、
 事実上の開戦の意思を公式のアメリカの意思とした。
  そして、アメリカの日本締め付けのより卑劣な行為が
 始められ、そして、続けられる・・
  その締め付けは・・立て続けに行われた・・、
  1941年7月25日、在米日本資産を凍結
  1941年8月1日、米国が対日石油輸出を全面禁止
  1941年11月26日、ハルノート提示
  そして、日本はやむを得なく・・12月7日、真珠湾攻撃
 をする。
  どこの識者も、政治家も言う・・、
 「石油を絶たれたら、最悪であり、我が国も戦争に至る」
 ・・と。
  そして、このフライング・タイガー(アメリカ戦闘機
 部隊)こそが、
  アメリカが、真珠湾攻撃以前から対日戦争に参戦して
 いた何よりの証拠だった。
  真珠湾攻撃よりも4ヶ月以上前に、アメリカによって
 日米戦争は始まっていた。
  (読売新聞、1991年7月8日)の記事で、アメリカの嘘
 の一部がバレているが、
  ビルマで、既に、日本機と戦って、撃墜したなどと書
 かれている、
  また、この戦闘部隊はアメリカの正規軍だと分かった
 などが書かれている・・
  しかし、読売は一部でアメリカを庇(かば)う・・、
  その記事の内容・・、
  大戦中の義勇軍「フライングタイガーズ」 
  正規の空軍部隊だった 米紙が報道
  【ロサンゼルス七日=桝井成夫】
  第二次大戦で、蒋介石総統の中国国民党軍に協力、中
 国南部とビルマ戦線で日本軍機を大量撃墜したことで知
 られる「フライングタイガーズ」は、
  日米開戦半年前の一九四一年春、米国防総省の承認の
 もとに、空軍基地から集められた戦闘機パイロット二百
 五十九人による正規の“エリート空軍部隊”だった、と
 六日付のロサンゼルス・タイムズ紙が報じた。
  同部隊は、これまで、民間義勇軍とされ、国防総省自
 体、陸軍省や大統領とのつながりをいっさい否定してき
 たが、
  約百人の生存者が、国防総省に史実を認めるよう請願、
 このほど退役軍人として認められたという。
  同紙によると、「フライングタイガーズ」のパイロッ
 トは、蒋介石の軍事顧問クレア・シェンノート氏によっ
 て、
  当時の新米パイロットの五倍相当に当たる月給六百ド
 ルと、日本軍機一機撃墜ごとに五百ドルという破格の報
 酬で、全米各基地から集められた。
  全員は、農民や伝道師、エンジニアなどを装ってビル
 マに集結。
  蒋介石政権が、米国に借金する形で資金を負担、弱体
 の中国航空部隊を裏で支えた。
  現地で飛行訓練を積んだ後、十二月の真珠湾攻撃直後
 から、国民党軍のマークが入ったP40戦闘機に搭乗、
 中国南部とラングーン周辺で日本軍機と交戦し、日本陸
 軍航空隊の戦闘機など日本軍機二百九十六機を撃墜した
 とされている。
  同紙は「フライングタイガーズ」研究家デービッド・
 フォード氏の証言として、
  当時のモーゲンソー米財務長官が取り決めた国民党へ
 の一億ドルの融資が役に立ち、
  ルーズベルト米大統領経済顧問のロークリン・カーリ
 ン氏が、計画全体の調整役を務めたとの見方を示してい
 る。
  さらに同紙は、「フライングタイガーズは、大統領と
 米軍中枢の承認を受けている」との米陸軍航空隊ヘンリ
 ー・アーノルド将軍のメモ(一九四二年)も見つかった
 としている。
  真珠湾奇襲の半年前に米側が軍事行動をスタートさせ
 ていたことを示すものとして議論を呼びそうだ。
.
  また、別史料の(読売新聞、1991年11月24日)による
 と・・、
.
  「真珠湾攻撃」の5か月前 米が日本爆撃計画 「大
 統領も承認」/ABCテレビ''
  米・ABCテレビが「米の責任」を論評
  【ニューヨーク二十二日=藤本直道】
  米ABCテレビは、二十二日夜の報道番組「20/20」
 で、日本軍の真珠湾攻撃の五か月も前に、
  フランクリン・ルーズベルト米大統領は、中国本土か
 ら日本への長距離爆撃計画を承認していたと伝え、
  同大統領は、日本を意図的に開戦へ追い込んだと論評
 した。
  真珠湾五十周年を前に、日本の奇襲を改めて強調する
 報道が多い中で、
  米国の開戦責任を米国側からまじめに論じたものとし
 て異色の番組。
  この爆撃計画そのものは、一九七〇年に公開された公
 文書の中にあったが、
  その後歴史家に検証されることなくやみに埋もれてい
 たという。
  同テレビは、当時のパイロットや大統領補佐官などの
 生々しい証言を伝え、
  米政府が日本への石油禁輸を決めた時期と、対日爆撃
 計画承認がほぼ同時期であり、
  大統領補佐官の証言からも、ルーズベルト大統領が、
 日本を開戦に追い込む意図であったと論評している。
  この計画は、JB355と名付けられ、一九四一年七
 月二十三日に、大統領だけでなく、当時の戦争長官、海
 軍長官なども署名。
  ビルマから中国への物資補給路を援護するため中国に
 雇われた米人パイロット・グループ、フライング・タイ
 ガースを率いるクレア・シェンノート氏がこのJB355
 計画にもからんでいた。
  米政府は、日本の弾薬工場や重要な産業施設を爆撃す
 るため、長距離爆撃機六十六機を供与するほか、
  数百万ドルにのぼる経費や兵員も負担することを承認
 していたが、
  これは当時の米国の『中立法に反する』という。
  シェンノート氏は、この爆撃により「日本の紙とマッ
 チの軸で出来たような建物を灰に出来る」と報告してい
 たが、作戦実施に手間取っているうちに真珠湾攻撃が始
 まった。
  (ここまでhttp://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/18552735.htmlから転載)
  (評)アメリカも、当時の、アメリカ大統領のルーズ
 ベルトが、日本を戦争に追い込んでいたということが分
 かったと・・、
  そして、真珠湾攻撃の5ヶ月とか、6ヶ月以前に、既に、
 行動を起こしていたという事実が明らかになった・・と。
  なんだかんだと遅れて真珠湾の後になったという読売
 新聞の記事は「作り話記事」となっている。
..
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