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2017年1月13日金曜日

(増補版)481E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月~1889年3月)

題:(増補版)481E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月~1889年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年2月、全国で憲法発布の祝賀会が行われる。
  理解していない人も多かった。
  1889年2月9日:東京では、11日日の憲法発布をひかえ
 てその準備のため、言語に絶する騒ぎを演じていた。
  至るところで奉祝門(ほうしゅくもん)、イルミネー
 ション(照明)や行列等の祝賀行事が行われた。
  だが、こっけいなことには、誰も憲法の内容を存じな
 いのだ。
  1889年2月11日(東京)本日、憲法発布。
  天皇陛下の前には、やや左に向かって諸大臣、高官が
 整列し、そのうしろは貴族で、そのなかに、維新がなけ
 れば立場をかえて将軍であったはずの徳川(田安)亀之
 助氏(徳川家達氏)や、
  ただ一人(洋服姿でいながら)なお、正真正銘の旧い
 日本のまげをつけているサツマの島津侯(忠義=島津久
 光の長男で、開成所を創設、藩の近代化を進め、また、
 1867年、密勅を受けて上洛し、王政復古に尽力した)を
 認めた。
  珍妙な光景だ!‥‥残念ながらこの祝日は,忌(い)
 まわしい出来事で気分がそがれてしまった――森文相の
 暗殺である。
  1889年2月16日(東京)日本憲法が発布された。
  新聞が、すべて満足の意を表している。
  東京帝国大学で26年間医学を講義したドイツ人医学者
 ベルツの日記より抜粋した)
1889年2月12日、黒田清隆首相が、地方長官に超然主義の
 方針を訓示した。
  超然主義は、他の動きには関知せず、自分の独自の立
 場から事を行うという主義で・・、
  大日本帝国憲法下で、藩閥官僚政府が、政党の影響を
 受けずに政治を運用しようとした政治姿勢を言った。
  この時の黒田清隆首相が、地方長官を鹿鳴館に集めて
 演説した。
  その中で、「政府は、常に一定の方向を取り、超然と
 して政党の外に立ち、至公至正の道に居らざる可らず」
 とのべたことから『超然主義』が一つの政治姿勢をあら
 わす言葉として使われるようになった。
  大日本帝国憲法は、政党内閣を制度として認めていな
 い。
  藩閥官僚、とりわけ山県有朋系の官僚内閣に政党政治
 から距離を置く傾向があった。
  (薩長閥の均衡と交代を基調に、組閣や内閣運営を行
 なう体制としたいという意向だった)。
  しかし、政党の政治的力はしだいに強まって行った。
  その後、超然主義を持続することは困難となった。
1889年2月13日、海軍治罪法が公布された(2月15日説あり)
  海軍治罪法は、大日本帝国海軍の軍人を主な対象に施
 行された軍法で、
  1884年(明治17年)に、海軍治罪法(明治17年3月21日
 太政官布告第8号)として制定され、
  1889年(明治22年2月15日法律第5号)に全部改正され
 た。
  1922年(大正11年)に「海軍軍法会議法」(大正10年
 4月26日法律第91号)が制定され、それにより廃止された。
  構成は・・、
  第一章:総則、第二章、軍法会議ノ構成、第三章:軍
 法会議ノ権限、第四章:海軍検察、第五章:審問、第六
 章:判決、第七章:再審、第八章:復権、第九章:特赦
1889年2月15日、秋田新報(秋田日報)をあらためて、秋田
 魁新報(あきたさきがけしんぽう)が創刊された。
  東北地方で最も長い歴史を持つ新聞で、首相になる犬
 養毅が主筆を務めていた時もあった。
1889年2月23日、『女学雑誌』が、皇室典範を批判した。
  女学雑誌は、1885年7月に、「女学新誌(1884年)」の
 後身として創刊された女性向け婦人雑誌で、
  (婦人論が活発になった風潮をみて「女学新誌」を、
 1年で廃刊して「女学雑誌」を創刊した)
  編集のほとんどを明治女学校の校長・巌本善治が担当
 し、
  男女同権論や自由恋愛論など、婦人解放の立場に立っ
 た啓蒙的な活動をしていたが、
  その後は、北村透谷、石橋忍月、山路愛山、内田魯庵
 らを登場させ、明治浪漫主義文芸運動の母体となった 。
  明治20年代(1887年代)のオピニオン・ジャーナリズム
 の一翼を担った。
  1904年(明治37年)2月、526号で廃刊となった。
  (1903年には『文学界』が分離独立していった)
1889年2月、『頓智協会雑誌』が、憲法発布に合わせ、宮武
 骸骨が程度の悪い絵などを使い、
  寓意画入りの「頓智研法発布」論説を掲げ、 不敬罪で
 発禁処分を受けた。
  (同誌創刊者で編集発行人の宮武外骨(みやたけがい
 こつ、20歳)は、3月4日に、収監された)
1889年2月、全国で、憲法発布に関する錦絵出版が盛んにな
 る。
1889年3月2日、東京図書館官制を公布し、東京図書館を文
 部省直轄機関として独立させた。
  東京図書館官制公布によって東京教育博物館から分離
 し、独立の図書館となるが、
  財政や施設が、ともに貧弱であり、国立図書館という
 にはまだまだ不十分でだった。
1889年3月9日、参謀本部条例、海軍参謀本部条例が公布さ
 れた。
  参謀本部は、創設以来、日清戦争に至るまで、制度は
 しばしば改正された。
  外征ができるための機構の改編だった。
  1886年(明治19年)、参謀本部は、陸海軍を統一管掌
 する機関となった。
  そして、参謀本部に陸軍部と海軍部が置かれた。
  1888年(明治21年)に、陸海軍を統一管掌する参謀本
 部を参軍と改めた。
  そして、その下に陸軍参謀本部と海軍参謀本部を置く
 制度となった。
  機構の充実のための措置だった。
  翌年の1889年に、参軍制は廃止され、参謀本部条例が
 制定されて、陸軍の軍令機関として参謀本部は残り、
  海軍の軍令機関は、海軍大臣に属する海軍参謀本部に
 機構を縮小された。
  1889年5月、陸地測量部条例が公布された。
  参謀本部の一局であった測量局は分離され、本部長直
 属の独立官庁として、陸地測量部となった。
  その主務は、「陸地測量を施行して兵要地図、及び、
 一般の国用に使うべき内国図を製造し、修正して正す業
 務、そして、その他の量地に関する事を行なった」。
  そして、下部組織に三角・地形・製図の三科、および、
 修技所を置いて、測量局の業務を引き継いだ。
  この時の組織改正によって、全国規模で行われる測量
 については、行政上・国防上の見地から、陸地は陸軍に、
 水路は海軍で、それぞれ統括するという方針が組織面か
 ら確立された。
  これは、1945年の終戦まで継続された。
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  (今日の言葉)
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  題:アメリカのこと・・、
.
1924年7月1日、アメリカは、卑劣にも「排日移民法」を施
 行(しこう、実際に行うこと。政策などを実行すること)
 した。
  アメリカは、日本を、国家として貶(おとし)めた。
  また、アメリカは、日本人を人種として貶めた。
  また、アメリカは、日本の文明を貶めた。
  アメリカは、その様な、あらゆる点で、日本を貶める
 法規を作った。
  日本へ、そして、日本人へ、強い劣等意識を突き付け
 た。
  何ら、その法の根拠はなく、ただ、感情的に差別した。
  根には、キリスト教の有色人種蔑視の教義・考え方が
 あった。
.
  そして・・、
.
1927年(昭和2年)3月、昭和金融恐慌(経済恐慌)が発生
 した(日本経済)。
  因みに、世界大恐慌は1929年に始まった。
.
  そして・・、
.
1928年、アメリカ大統領のフーバーが、「貧困という言葉
 が無くなるだろう」と豪語するくらい、アメリカは好景
 気だった。
  しかし、この時、アメリカ景気は、曲がり角に来てい
 た。
  第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは、大戦への
 輸出によって発展した重工業の投資、
  帰還兵による消費の拡張、
  モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍
 進、
  ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、
  同地域への輸出の増加などによって・・「永遠の繁栄」
 と呼ばれる経済的好況を手に入れた(この後の時代のル
 ーズベルト大統領も第二次世界大戦を引き起こして利用
 した戦争景気)。
  1920年代前半に、既に、農作物を中心に余剰が生まれ
 ていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題
 は発生しなかった。
  しかし、農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの
 復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。
  また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国
 の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市
 場からの離脱などにより、アメリカ国内の他の生産も過
 剰になって行った。
  また、農業不況に加えて、鉄道や石炭産業部門も不振
 になっていた。
  1927年に、ジュネーブで行われた世界経済会議では、
 恐慌に備えて商業・工業・農業に関する多くの決議が審
 議・採択された。
  商業では、関税引き下げ、
  工業では、コストダウン目的の産業国有化、独占禁止
 と生産調整の国際協定、
  農業では、方法の改良と資金の貸付について議論され
 た。
  しかし、決議そのものは、各国議会から無視されてし
 まっていた。
  3月には昭和金融恐慌が起きた。
  そして、1929年7月30日、ニューヨーク・タイムズが
 信用収縮に直結するような重大事を書いた。
  ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返
 還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。
  他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額
 で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出
 しであった。
  記事によると、請求されている資産のうち、およそ500
 万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また、
 100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命の
 ときから不法に預けられているものであった。
.
  そして・・、
.
1929年7月30日、世界恐慌のきっかけとなるニューヨーク・
 タイムズ紙が信用収縮に直結するような重大事を書いた。
  ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返
 還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。
  他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額
 で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出
 しであった。
  記事によると、請求されている資産のうち、およそ500
 万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また、
 100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命の
 ときから不法に預けられているものであった。
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  そして・・、
.
1929年10月25日、この日のニューヨーク・タイムズ紙が、
 「株式市場は、史上最大の破壊的な落ち込みに襲われた」
 と、大見出しで歴史的大暴落を報じた。
  この約2か月後、アメリカのホワイトハウスが火事に
 なり西棟が焼け落ちた。
  アメリカ国民へ、一層、暗いイメージを与えた。
.
  そして・・、
.
1929年12月24日、クリスマスイブのこの日の夕刻、ホワイ
 トハウスが火事になり、5時間後には瓦礫(がれき)の山
 になり、分厚いコート姿のフーバー大統領は、ただ呆然
 (ぼうぜん)と立ち尽くしていたと記録されている。
  ホワイトハウス西棟が焼け落ちた。
.
  そして・・、
.
1932年11月、ルーズベルトは、前任の大統領のフーバーと
 の大統領選挙に勝った後、11月に、ホワイトハウスに、
 わざわざ、立ち寄った。
  フーバーとルーズベルト、二人が、直接、顔を合わせ
 たのは、この時が初めてだった。
  ルーズベルトは、上機嫌だった。
  フーバーは、足元を見つめ、苦虫を噛み潰したような
 顔をしていた。
  重苦しい雰囲気を破ったのはフーバーだった。
  フーバーは、アメリカの現状や課題などを語りだした。
  約1時間にわたって語り続けた。
  「第一次世界大戦で最大の債権国となったアメリカ」
  「世界が大不況にある今、その債権の借金を取り立て
 ては駄目で、一時的にもあきらめなければならない」
  「不況の悪循環は、避けねばならない」などと。
  同行していたルーズベルトの政策顧問のレイモンド・
 モーレイは、「フーバーが、具体的な数字を含め、完全
 に問題点を理解しており、その緻密(ちみつ)さに圧倒
 された」と証言している。
  その間、ルーズベルトは、まるで素人のような質問を
 繰り返すばかりで、問題点や、論点を理解していなかっ
 たという。
  アメリカは、間違った選択をしたと言える。
  今、2017年、オバマ大統領から、トランプ大統領へと
 バトンが渡されて行くが、この様な間違いのバトンタッ
 チではないことを・・祈る。
  ルーズベルトの様な、「問題点や論点を本当の意味で
 理解していないで、トンチンカンな素人に毛が生えたく
 らいで大統領になった」という・・過去の悪い事例の様
 にならない様にと・・祈る。
.
  そして・・、
.
1933年3月4日、フランクリン・ルーズベルトが、第32代の
 アメリカ大統領に就任した。
  ルーズベルトは就任した際、ヘンリー・モーゲンソウ
 を連邦農業審議会の議長に指名した。
  そして、翌年の1934年に、財務長官のウィリアム・ウ
 ッディンが病気で辞任すると、このモーゲンソウを、後
 任の財務長官に指名した。
  そして、ルーズベルトが、この財務長官のモーゲンソ
 ウに言った言葉が記録されている。
  それは・・、「私〈ルーズベルト)はジャグラー(曲
 芸師)なのだ。
  右手と左手がまったく別々の動きをする。
  例えば、欧州向けに特定の政策があっても、北米や南
 米では、まったく正反対の政策を、平気で実施すること
 が出来る。
  私は、矛盾だらけで、ミスリード(失敗の間違った政
 策〉だってする。
  戦争に勝つためなら・・嘘だってつく」。
  この言葉は、本当に、アメリカの政治を現わしている。
  アメリカの利益になれば、嘘だってつき、弱い者でも
 誰でも暴力をふるう。
  領土や、金を、利益を奪う・・である。
  歴史学者のウォーレン・キンポールが、ルーズベルト
 を軽蔑して「曲芸師(ジャグラー)」と呼ぶ。
.
  そして・・、
.
1945年2月4日少し前、ヤルタ会談が開かれる前の事である。
  アメリカが、地中海方面での会談を望んだ。
  しかし、スターリンは、「長旅が禁じられている」「
 気候の変化がよくない」などと、のらりくらりと会談の
 出席を断り続けた。
  ドイツが敗退し始めると、ソ連の東欧占領が確実にな
 って行った。
  逆に、アメリカのルーズベルトは、そうした状況に焦
 っていた。
  早急に戦後を協議する必要性に迫られていた。
  スターリンは、ソ連軍の進撃があればあるほど、占領
 地域が拡大して行った。
  協議の開催が、遅ければ遅いほどソ連に有利に働いた。
  スターリンも、その様に判断していた。
  ルーズベルトは、この頃、体が、体調が、最悪な状態
 にあった。
  焦るルーズベルトに、イギリスのチャーチルが「最悪
 の場所」と呼んだヤルタに向かうしか選択の道は残され
 ていなかった。
  ヤルタはクリミアの都市で、クリミア半島南端に位置
 し、黒海を臨んでいる地。
  スターリンには近いが、体が弱っているルーズベルト
 には遠かった。
.
  そして・・、
.
1945年2月8日~2月11日、ヤルタ会談が行われた。
  ヤルタは、ソ連領のクリミア半島南端に位置し、黒海
 を臨む地だった。  
  このヤルタ会談は失敗だった。
  ドイツがソ連領から退却し始めて、それで、ソ連は、
 自信を付けたのか? ヤルタ会談以降のソ連は、特に、
 横暴となった。
  ヤルタという遠隔地に赴(おもむ)いたアメリカ大統
 領のルーズベルトには、その出張は重荷だった。
  その様なルーズベルトの印象が、スターリンにその様
 な横暴な態度をとることをさせたのか?
  何しろ、チャーチルが言うように、ヤルタは「最悪の
 場所」だった。
  この事からも、この地が会談場所として選ばれた事は、
 ソ連の勝利の一端が伺(うかが)える。
  ヤルタ会談から2か月後、駐ソ連大使のハリマンは、是
 非、帰国したいと、アメリカ国務省に願い出た。
  すると、国務長官のステティニアスは、「持ち場を離
 れることは許されない」と拒否した。
  サンフランシスコの国連憲章会議に出席するソ連外相
 のモロトフに同行するという名目で、ハリマンは、4月19
 日に、ワシントンに来ることが出来た。
  早速、翌日・1945年4月20日、ハリマンは、ホワイトハ
 ウスを訪れ、新大統領のトルーマンに会った。
  ルーズベルトの葬儀から5日後だった。
  国務長官のステティニアスと国務長官代理のグルーが
 同席した。
  ハリマンは言った、「大統領、今、ヨーロッパでは新
 たな野蛮による侵略が起こりつつあります」・・と。
  「ソ連に対する幻想を捨てなくてはなりません」と。
  ハリマンは、ヤルタ会談以降、ソ連が横暴となり、欧
 州解放宣言にもかかわらずソ連占領地では、傀儡(かい
 らい)政権が樹立され、どんどん共産化が進んでいる・・
 と報告した。
  ハリマンは、1945年5月にも、再度、帰国し政府首脳に
 訴えた。
  「日本をどうするか?」の話を乗り越えた、大きな懸
 念が生まれていた。
  そして、日本を、この様な状態にした行為が正しかっ
 たのか?
  また、良かったのか?
  また、日本を、完全破壊するのか?
  ・・の疑問が・・、
  アメリカ政府首脳の頭に去来していた。
  国務長官代行のグルーは、眠れぬ夜を過ごした。
  この様な時の流れの中で、ルーズベルトが進めてきた、
 20億ドルもの巨費を投じて開発した原子爆弾が完成しよ
 うとしていた。
  新大統領トルーマンと、陸軍長官スティムソンと、ト
 ルーマンに大きな影響力を持つ新国務長官のバーンズら
 3人は、それを、原爆を日本に投下すべきかの国際法違反
 行為の原爆投下の選択をどうするかが迫られていた。
  グルー等は、「日本の国体維持・天皇制維持の承認を
 する」・・それで、「原子爆弾投下は、一種の脅し」で、
 戦争の早期終結を計る・・という考え方にあった。
  そして、その提案をした。
  だが、トルーマンの決断に影響を与えたのは・・バー
 ンズだった。
  トルーマン大統領をはじめ、アメリカの政府首脳たち
 は、このバーンズの強力な原子爆弾投下論に対する意見
 を持っていなかった。
  結局、このバーンズの投下論が、アメリカ政府意見・
 判断となった。
  バーンズは、1945年5月28日に、核融合の研究者で、原
 爆製造計画に携わってきたシカゴ大学のレオ・ジラード
 と会った。
  手にはアルバート・アインシュタインの推薦状を持っ
 ていた。
  サウスカロライナのバーンズの自宅を訪ねていた。
  ジラードは、最初、トルーマン大統領に面談を求めた
 が、トルーマンからは、バーンズに会ってくれと言われ
 ていた。
  ジラードは、15ページもの書類をバーンズへ渡し、原
 爆開発に携わった科学者の総意を記した内容を説明した。
  それは、『ナチズムの終焉のために開発してくれ』と
 言われ、ユダヤの方々の研究者が多く参加し、組織され
 た開発組織によって開発されたのだった。
  日本へ投下すべきとして開発されたのではない。
  「(ドイツが降伏して)戦争終結が間近な今、原爆投
 下の意味はない」。
  「原爆投下は単なる破壊でしかない」。
  「原爆の使用によって、戦後、ソ連などと一層の開発
 競争を強める可能性もあり、使用は、まだ、控えるべき」。
  バーンズは、その話を聞き、信じられないという顔を
 した。
  そして、言った・・、
  「あなた方は何もわかっていない。巨額の開発費に見
 合う結果を出さずに、次の研究への予算が議会を通ると
 でも思うのですか?」・・と反論した。
  バーンズは、結果を、成果を出さないと政治問題化す
 ると言った。
  スティムソンやグルーの脅しに使うという意見に対し
 ても、
  バーンズは、「そんな警告を与えたら、目標地点に捕
 虜の米兵を送り込むだろう」
  「原爆が不発(使わない)で終わったら、原爆が不発
 だったと逆宣伝されるに違いない」・・と。
  そして、ポツダムでの会談へ向かうトルーマンらのア
 メリカ政府首脳たちは、この時には、「京都、広島、新
 潟」の三地点のどこに投下するか?・・の話になってい
 た。
.
  そして・・、
.
  アメリカのやった事。
  アメリカは、国際法で「してはならない」とされた『
 非戦闘員(民間人)の殺戮』をした。
  民間人殺戮を目的とした「原爆投下」や「じゅうたん
 爆撃」など・・、
  そして、負けた国のプライドや、文化や価値観を、土
 足で踏みにじった。
  そして、敗戦国を二度と立ち上がれないようにした。
  明らかに、その様にしようという意思でもって行った。
  未発達の昔でも、非武装の婦女子を大量に、無差別に
 殺戮はしなかった・・という、人類の『最低の掟」を踏
 みにじった。。
  このやってはならない卑怯・卑劣な事を、アメリカは
 行なった。
  アメリカとは、その様な国である。
  アメリカは、自分が正しいのだと、そして、自分こそ
 正義だと、「独善的な考え方」で、事を処理し、そして、
 外交をした。
  自分たちだけに都合の良いイデオロギーや、歴史解釈
 をやった。
  これが正しいのだと、他国に一方的に押し付けた・・
 また、押し付け続けた。
  納得しない者・・国は・・異教徒とされ・・
  「異教徒は殺せ」とキリスト教の考え方となった。
  また、今も・・多分に・・その中にいるアメリカとな
 っている。
  納得できない・・お前が・・悪いのだ・・と・・、
  また、戦争に勝つためなら何をやってもいいのだとい
 う考え方で・・、
  「戦争に勝つためには手段を選ばず」・・と、
  非武装の子供や女性を含む一般人を・・大量に無差別
 に虐殺した。
  そのアメリカの歴史が、累々と積み重なって来ている。
  ネイティブ・アメリカン(アメリカ・インディアン)
 の方々は何千万人と・・殺された。
  ベトナムの方々も、卑劣な武器によって殺され・・新
 しい武器を試す・・などという・・卑劣な行為もなされ
 た。
  フィリピンの方々も、ドゥテルテ大統領が怒ったよう
 に・・多くの方々が、フィリピンの方々も殺された。
  ハワイの方々も・・メキシコの方々も・・
  日本も・・日本人は、卑劣な武器である原爆を落とさ
 れ、また、都市という都市を、市民をターゲットにして、
 非戦闘員に対して、無差別に大量の爆弾が落とされた。
  この他、まだまだ数多くの行為がある・・
  また、アメリカは、戦争に勝つと、負けた国を徹底的
 に叩き潰した。
  二度と自主防衛すら出来ないようにしておこうとした。
  こんな事は・・どこの国もやらなかった。
  傲慢でエゴイスティックな鉄血宰相のビスマルクでさ
 え、やらなかった事を・・アメリカはした。
  ビスマルクは、「相手の国に恨みを残すようなことを、
 してはならない」・・と、口癖のように言っていた。
  しかし、野蛮性を持ったアメリカは、戦争に勝つと、
 相手の国に土足で上がり込んで来て・・、
  相手国の人々(国民)へ、「戦争に敗けた国は邪悪な
 国である」というプロパガンダ(嘘宣伝)を吹き込んだ。
  さらに・・敗戦となった国が、二度と独立した外交政
 策や国防政策を実行できないようにするため、
  敗戦国を「不能国家」「去勢国家」に作り替えを行な
 った。
  キリスト教の神が居るから「勝ったのだし」・・その
 様な行為が「許されるという迷信」の下に行われた。
  卑怯・卑劣な独善的な外交アジェンダ(政治・政策的
 な分野で、検討課題、行動計画)を押し付けてくる。
  ケナンや、ウォルツなどが言っている・・、
  「第一次世界大戦の後、アメリカが、あんな無責任外
 交をしていなければ、第二次世界大戦は起きていなかっ
 た」・・と、
  アメリカ外交の二大目標は、「日本とドイツを二度と
 自主防衛できない状態にしておく」とした。
  アメリカは、日本人の歴史解釈まで強制的に変更させ
 た。
  そして、アメリカは、戦争に勝ったのだからと、さも
 権利の如くに、敗戦国をディモナイズ(悪魔化)した。
  また、ディヒューマナイズ(非人間化)した。
  アメリカは、敗戦国の子供や女性を含む一般市民を『
 何百万人も虐殺していること』に対しての「罪悪感」さ
 え感じていない。
  今でも、現代でも、アメリカは、中東で、アフガンで、
 世界中で、ディモナイズし、ディヒューマナイズしてい
 る。
  ディビット・ハルバーズタムは言う・・、
  「アメリカ外交を見ると、本当に『アメリカ人は田舎
 者だ』と思う。
  アメリカ人は、いつまで経っても、国際政治が理解で
 きない田舎者の集団だ。
  だから、ベトナム戦争の様な愚劣な戦争をやって、と
 んでもない破壊行為を実行するのだ」・・と、
  アメリカは、自分たちだけが、世界を支配するんだと
 いう意識しかなかった。
  自分たちがすべての国を押さえつけていないと駄目だ
 ・・と、傲慢に考える。
  ウォルツも言う・・、
  「アメリカ外交というのは、自分たちのやり方を、全
 部、他の国に押し付けようとする。
  過剰な介入主義を実行する。
  それが出来ない場合は、腹を立てる。
  そして、そっぽを向き、引きこもって、孤立主義をや
 る」・・と。
  トランプも・・これなのか・・?
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年1月12日木曜日

(増補版)480E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月~1889年2月)

題:(増補版)480E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月~1889年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年2月6日、横浜正金銀行条例改正。
  横浜正金銀行条例が改正され、6月1日に施行される。
  取締役の就任に、大蔵大臣の許可が必要となる。
  また、大蔵省による、特別監督制度が始まった。
  正金銀行の政府所有株が、家族世襲財産法に該当とな
 る。
  横浜正金銀行の対外金融機関化が進んだ。
  正金銀行の業務は、創設後から海外関係が多く、特に、
 欧米銀行との為替取引がその大半を占めており、国立銀
 行と異なっていた。
  こうした状況下で、1987年(明治20年)7月、政府は、
 「横浜正金銀行条例」(勅令第29号)を制定した。
  この条例は、正金銀行が、創設時の準拠法規である国
 立銀行条例に比べ、外国貿易・為替関係業務を担当する
 特殊銀行の条例として、
  さらに、正金銀行は、政府の保護監督のもと特殊金融
 機関(外為・貿易金融機関、政府在外資金取扱銀行)で
 あることを法的に明確にするものであった。
  この条例によって、正金銀行に対する大蔵省の監督規
 定が明らかとなり、その後の正金銀行の営業活動の規制
 も強化されることになった。
  そして、1888年(明治21年)9月、正金銀行と日本銀行
 は協約を締結し、両行ともに政府の機関であり、
  外国に関する業務(国際金融)は正金銀行が取扱い、
  日本銀行は、その後見役として必要な円資金(年間300
 万円、年3部)を供給し、その返済は正貨で行うことにし
 た。
  しかし、1889年(明治22年)3月、正金銀行は、この間
 の政府資金による御用外国荷為替制度が廃止されて、経
 営の転換を余儀なくされた。
  この制度の廃止により、正金銀行は、外国為替相場の
 変動、為替資金の調達・貸出金利など、外国為替業務に
 おける損益は自行に帰着する事になった。
  正金銀行は、営利採算を考慮した経営を行なうことが
 不可欠となり、こうした条件のもとに外国貿易・為替を
 専門担当して行くことになったが、
  その後においても、正金銀行の経営は依然として政府
 の強い規制(政府出資や大蔵省の管理機構)のもとに置
 かれた。
  また、その間、富田鉄之助日本銀行総裁が、日本銀行
 による外国為替の取り扱いを要求し、大蔵省や正金銀行
 と激しく対立した。
  しかし、1889年6月、松方大蔵大臣は、日本銀行が正金
 銀行に資金を供給して、
  正金銀行に、外国為替の取り扱い、及び、正貨吸収に
 当らせることにした。
  富田は、これを拒否して、日本銀行総裁を辞任したた
 め、松方大蔵大臣は、この後任として、川田小一郎を登
 用する事とした。
  こうして、1889年10月、「準備金」が、紙幣交換基金
 特別会計に移されたが、
  政府は、正金銀行を、国際金融の直接の担当者とする
 方針を堅持し、
  正金銀行は、日本銀行との間に外国為替手形再割引契
 約を締結した(年額1000万円を限度、2分)、
  日本銀行の信用供与、そして、さらに、政府の保護政
 策を背景に、対外進出をすすめ、外国貿易・為替を取扱
 い、日本の対外貿易における商権の回復に努めた。
  しかし、1890年(明治23年)、正金銀行は、凶作に伴
 う金融のひっ迫や、
  同行内部の紛争に加え、
  アメリカのシャーマン銀買上法に伴う銀価の暴騰、
  さらに、ベアリング恐慌の影響のもと、
  再び、経営の危機に直面した。
  (菊池道男氏の論文・その他を参考にした)
1889年2月9日、東京府の指示で、東京在住の俳優・鑑札・
 納税事務の合理化ための東京俳優組合を結成した。
  日本俳優協会の前身、頭取に市川団十郎
  鑑札:かんさつ、ある種の営業や行為に対して役所が
 与える許可証。
1889年2月10日、『風俗画報』が創刊された。
  風俗雑誌で、東陽堂発行。1916年3月に廃刊となった。
  通巻478号。号数外の増刊を含む総冊数は517冊。
  西欧のグラフ雑誌の影響を受け、はじめは主として石
 版画で、後に、写真版が挿入された。
  日本で初めて誌名に「画報」の文字が使われた。
  創刊号は28ページ、定価10銭。
  「画ヲ以テ一ノ私史ヲ編纂スルノ料ヲ作ル」ことを目
 的に、江戸時代風俗の考証、各地に伝わる地方風俗の紹
 介、刊行時における流行風俗の記録を編集方針としたが、
 創刊当初は、復古調の時流を反映して、江戸研究に重点
 が置かれた。
  絵にふりがな付の文章が載った。
1889年2月11日、大日本帝国憲法(欽定憲法・明治憲法)が
 発布した。
  翌年・1890年11月29日に施行された。
  また、同日、皇室典範、衆議院議員選挙法、貴族院令、
 議員法、大赦令、会計法を公布した。
  アジア初の近代的な憲法(立憲君主制) で、国号が大日
 本帝国となった。
  ドイツ・プロシアの立憲君主制を範としたもので、そ
 の制定は、1881年の政変に際して決定されていた。
  天皇主権を原理とする成文憲法で、7章76か条からなる。
  天皇陛下の大権、臣民の権利・義務、帝国議会の組織、
 輔弼(ほひつ)機関、司法、会計などについて規定される。
  伊藤博文を中心に井上毅(いのうえこわし)らが起草し
 た。
  明治維新にあたり、政府は、五ヵ条の誓文、政体書を
 出し政府組織を整えるとともに、版籍奉還、廃藩置県、
 身分制の廃止、徴兵令、地租改正等によって近代国家と
 しての体裁を形成していった。
  しかし、西洋諸国との間の不平等条約を撤廃させるた
 めには、富国強兵政策を推進する一方で、文明国にふさ
 わしい近代法典を整備する必要があった。
  勝海舟、憲法発布記念章授与(氷川清話)
  勝海舟、勲一等に叙せられ瑞宝章を賜う(氷川清話)
  憲法、皇室典範発布(氷川清話)
    内閣総理大臣 伯爵 黒田清隆
    枢密院議長  伯爵 伊藤博文
    外務大臣   伯爵 大隈重信
    海軍大臣   伯爵 西郷従道
    農商務大臣  伯爵 井上馨
    司法大臣   伯爵 山田顕義
    大蔵大臣
    兼内務大臣  伯爵 松方正義
    陸軍大臣   伯爵 大山巌
    文部大臣   子爵 森有礼
    逓信大臣   子爵 榎本武揚
 大日本帝国憲法
  第一章 天皇
  第一条:大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
  第二条:皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之
   ヲ継承ス
  第三条:天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
  第四条:天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲
   法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
  第五条:天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
  第六条:天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
  第七条:天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及
   衆議院ノ解散ヲ命ス
  (以下、略)
1889年2月11日、 「皇室典範(こうしつてんぱん)」が公布し
 た。
1889年2月11日、 「議院法」が公布した。
1889年2月11日、 「衆議院議員選挙法」が公布した。
   「貴族院令」公布、
   「大赦令」公布
1889年2月11日、万歳三唱が始まる。
  天皇陛下が、青山観兵場へ臨幸し、その時、帝大・外
 山正一教授の音頭によって、万歳三唱が始めて行われた。
1889年2月11日、大阪朝日新聞が、憲法全文を東京より電報
 を使って入手し、号外を発表した。
1889年2月11日、新聞「日本」が創刊された。
  社長:陸羯南
1889年2月11日、西郷隆盛へ、正三位が追贈された。
1889年2月11日、文部大臣森有礼、暴漢に襲われ重傷。
  森有礼(もりありのり)、日本の武士(薩摩藩士)、
 外交官、政治家。
  初代文部大臣を務めた他、一橋大学を創設し、明六社
 会長、東京学士会院初代会員、大日本教育会名誉会員を
 務め、明治六大教育家に数えられた。
  正二位子爵。
  2月11日の大日本帝国憲法発布式典のこの日、
  式典に参加するため、官邸を出た所で国粋主義者・西
 野文太郎に短刀で脇腹を刺された。
  応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去した。
 43歳だった。
  当時の新聞の誤報が原因という話がある(伊勢神宮不
 敬事件)
  文部大臣・森有礼が兇徒に倒れる(氷川清話)
  明治22年には文相・森有礼の暗殺(氷川清話)
1889年2月12日、森有礼が死去した。
  享年:42歳。
.
  (今日の言葉)
.
  題:やむなく、日本は、対米戦争を決意した・・、
.
1941年9月6日、種々いろいろと、戦争を避けようと努力し
 て来た日本だったが・・、やむなく、日本は、対米戦争
 を決意した・・、
  ・・が、このことを、
  アメリカは、暗号解読をして、すでに知っていた。
  アメリカ上下院合同真珠湾調査委員会の報告書によれ
 ば・・、
  アメリカは、1941年(昭和16年)9月6日の日本の御前
 会議の内容を暗号解読機「マジック」によって解読し、
 把握していた。
  日本が対米戦争を決意したことや、12月1日を、対米交
 渉の最終期限などのことまでも・・、
  アメリカは、11月25日までに、既に把握していた。
  ドール米陸軍大佐(元ルーズベルトの娘婿)の証言と
 も符合する。
  ドール大佐は、朝食の場で、ルーズベルトが、「明日
 (12月7日(日本時間:8日))戦争が起きる」と発言し
 てたということを暴露している。
.
  そして・・、
.
1941年、アメリカが、どう言い繕(つくろ)おうが・・、
  何と! アメリカは、第二次世界大戦が、はじまる前
 から日本の交信を傍受し、かつ、その解読に成功してい
 た。
  日本の手の内は、アメリカに、大戦の開始前から筒抜
 けだった。
  しかも、日本は、そのことを知ってか? 知らずか?
  その状態で、戦争末期まで至って行った。
  当然、真珠湾攻撃に至る前の、アメリカの日本大使館
 と日本(本国)の交信内容を、アメリカは把握しており、
  真珠湾攻撃が『奇襲』だと、降って湧いたように「戦
 争が起きた様に言うアメリカの言い方」は・・、
  「ちゃんチャラおかしい『真っ赤なウソ』なのだ」、
  故に、1945年7月頃も・・、
  アメリカ・イギリス・ソ連のポツダム会談が開かれる
 前の頃も・・、、
  日本が、必死に戦争を終結しようと行動している事も、
 すべて筒抜けであった・・、
  日本外務省とモスクワ大使館の秘密交信も筒抜けだっ
 た。
  日ソ中立条約を頼りに、日本は、中立国・ソ連に・・
 「戦争終結の仲立ちをしてもらおうと、必死に行動して
 いた」。
  日に日に増して行く日本のその絶望的な交信量の多い、
 そのすべての交信内容が・・、
  連合国の知るところにあった。
  そして、アメリカの駐ソ連大使のハリマンが、就任直
 後、すぐに感じていたソ連の対応の仕方・・、
  「友好という関係を築くより、現実的な利益を優先す
 る態度」、
  そして、「目的のためには手段を選ばないという態度」、
  この様な、ソ連外交の凄(すさ)まじさは、日本の駐
 ソ連の佐藤大使も、「その凄まじさ」を思い知らされた。
  これは、2016年の安倍首相も、プーチンに感じられた
 ことでしょう・・、
  そして、戦争終結をソ連へ依頼して、交渉を続けてい
 た日本の駐ソ連の大使へ、突如、マ反対のこと、「ソ連
 の対日の宣戦布告」がなされた・・、
  仲立ちの話をしに行ったら、宣戦布告をなされた・・、
 日本の大使も、さぞ、びっくりされたことであろう。
  ソ連は、この様な国なのだ。
  アメリカのルーズベルトがエサを撒(ま)いたとはい
 え・・。
  ソ連とは、今後とも、この様な「スタンス」で対して
 行かなければならない国なのだ。
  アメリカのルーズベルトが、他人(ひと)のもの、中
 国や日本の領土をソ連にやっているときは、
  エサを貰っている時は、「蜜月」だったが・・、
  そのルーズベルトも死に、おいしい土産が途絶えると、
 そのアメリカとソ連の関係はおかしくなり、
  アメリカでは、ソ連に対する強い疑惑が湧き、蜜月も
 終わり、その次にやって来たのは共産主義への激しい怒
 りだった。
  ソ連への反撥があった1950年代前半のアメリカの「マ
 ッカーシズム」という激烈な反共産運動だった。
.
  そして・・、
.
1941年10月頃、昭和天皇陛下が、日本の陸海軍に対し、ア
 メリカ・イギリスへの攻撃を禁じられていた。
  戦後になって・・、
  アメリカのヘラルド・トリビューン誌が・・、
  「ヒロヒト(昭和天皇)の1941年における平和への呼
 びかけは、彼を救うかもしれない・・連合軍は、彼を皇
 位にとどめるか」・・という論説記事を掲載した。
  アメリカ国務省の公開文書の中に、日本の真珠湾攻撃
 のほぼ2ヶ月前に、天皇陛下が、日本の陸海軍に対し、
 アメリカ・イギリスへの攻撃を禁じていた・・という、
 文書が含まれていた。
.
  そして・・、
.
1941年11月26日、日本の連合艦隊が真珠湾へ出撃した。
  1941年11月23日、大日本帝国海軍第一航空艦隊(機動
 部隊)が、日本の領土・択捉島(えとろふとう)単冠(
 ひとかっぷ)湾に集結し、
  1941年11月26日に、真珠湾攻撃のため、連合艦隊は、
 ハワイへ向けて出港した。
  アメリカは、通信を傍受するなど、この情報を完全に
 掴んでいた。
.
  そして・・、
.
1941年12月1日頃、ハワイの新聞が、「1週間後に、日本が
 攻めて来る」と報道した。
  日本の秘密情報は、アメリカに筒抜けだった。
  アメリカは、そこまで、日本の情報を掴(つか)んで
 いた。
  アメリカ軍内で、「アメリカ艦隊を、ハワイに置いて
 おいてよいのか?」・・ということが、問題となったく
 らいだった。
  航空母艦は隠した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年1月10日火曜日

(増補版)479E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年2月)

題:(増補版)479E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年1月20日、大日本水産会の水産伝習所が開所した。
 後の東京水産大学。
  歴史・・、
  1888年(明治21年)11月29日、東京府認可
  1889年(明治22年)1月20日、開所式:仮校舎
   京橋区木挽町(大日本水産会)
   大みくに とまさん道をわたつみの
      波の底まで ひらきつくせよ(小松宮親王)
  1889年(明治22年)7月31日、日本橋区箱崎町3丁目1番
   地
   北海道庁建物へ移転
  1890年(明治23年)5月31日、芝区三田四国町に移転
   教場2棟、現業教場1棟、事務所1棟
  1893年(明治26年)11月3日、新築校舎落成式(52,140
   m2)教室2階建、食堂、寄宿舎(2階建)、事務所等
  1894年(明治27年)8月31日、火災により教室、寄宿舎
   各一棟焼失
  1895年(明治28年)5月15日、教室・現業場竣工
  1897年(明治30年)3月、水産講習所開設に伴い廃校?
  (港区立、港郷土資料館ホームページを参考にした)
1889年1月22日、徴兵令が大改正され、公布された。
  徴兵令の抜本的改正(1月23日説あり)
  徴兵猶予の制度廃止、戸主の徴兵猶予を廃止
  官吏、官立学校生徒、戸主、代人料納入者などの兵役
 を免除する広範な免役条項が存在していたが、
  再三の改正によってしだいに制限されて行き、この年
 に、徴兵令の抜本的改正が行われ、
  従来の徴集猶予制が廃止され、国民皆兵の原則が図ら
 れた。
  この後の徴兵制の基本的骨格が確定された。
1889年1月23日、三池鉱山が、三井組に払い下げられた。
1889年1月24日、官吏の政事上・学術上の演説、叙述を解禁
 する。
1889年1月25日、石川島造船所が、会社組織に改組して発足
 した。
  沿革・・、
  1853年(嘉永6年)石川島造船所が創設された。
  1876年(明治9年)石川島平野造船所が設立された。
  1889年(明治22年)有限責任・石川島造船所が設立さ
   れた。
  1907年(明治40年)播磨船渠(株)設立(後に合併) 
  1924年(大正13年)(株)石川島飛行機製作所が設立
   された(後の立飛企業(株)、新立川航空機(株)) 
  1929年(昭和4年) 自動車部門分離、(株)石川島自
   動車製作所設立(後にいくつかの合併を経て、いす
   ゞ自動車(株)に
   播磨船渠(株)が(株)播磨造船所に改称した。
1889年1月27日、中外物価新報が、中外商業新報と改題した。
  『日本経済新聞』の前身。
  1876年12月2日、三井物産の益田孝(たかし)らが週刊
   で創刊したタブロイド4ページの『中外物価新報』が
   起源。
  1882年7月、三井物産の手を離れた(週3回刊。
  1885年7月、日刊となり、
  1889年1月27日、『中外商業新報』と改題した。
    経済、財政を中心に、政治その他内外の情勢の報道
   にあたったが、日清(にっしん)戦争後の企業勃興(
   ぼっこう)期ごろから紙面も充実、
   わが国財界の発展とともに社業も発展した。
  1911年8月、資本金 10万円で日本の新聞社最初の株式
   会社となり、
  1920年7月、一挙に 100万円に増資した。
  1942年(昭和17年)11月1日、政府の新聞統合令により
   「日刊工業」「経済時事」両紙と合併。
   「日本産業経済」と改題、後の「日本経済新聞」
1889年1月31日、憲法修正案の再審会議が終了した。
1889年1月、『国民之友』掲載の裸体が、話題を呼ぶ(発禁、
 裸美人を口絵にした最初)
  民友社発行の雑誌。
  1887年2月、創刊、
  『新日本之青年』 (1887年) で一躍評論家の雄となっ
 た徳富蘇峰が始めた進歩的評論誌で、初め月刊であった
 が月2回、3回、週刊となり、時の藩閥政府の干渉政策に
 対抗、自由と平等の実現を期する急進的平民主義の立場
 をとった。
  後に、国家主義に転じ、
  1898年(明治31年)『国民新聞』に併合されて廃刊し
   た(別説:1899年8月、第 372号で廃刊)
1889年2月1日、みやこ新聞を都新聞と改めた。
  演劇・文芸記事に特色があって下町好みの新聞であっ
 たが、
  1942年、新聞事業令 (1941.12.公布) により『国民新
   聞』と合併、
   夕刊地方紙の『東京新聞』となった。
1889年2月1日、国府津~静岡間の鉄道が開通した。
  東海道線の開通で(国府津~沼津間は後の御殿場線)
  開通に伴い、新橋~静岡間に直通列車上下2本が設定
 されたが、運転当時は片道7時間5分を要した。
1889年2月1日、静岡一番町で大火。1200戸焼失。
  東海道線の開通日たるこの日、1889年2月1日、静岡県
 庁所在地に於ける鉄道開業故に、開通式典、及び、開通
 披露式には、駅前に移転新設された西洋式旅館・大東館
 に於いて盛大に開催する為に、
  前日までに東京から次々と政府高官が来静し待機して
 いた。
  開業当日深更、静岡一番町在の焼芋屋の残火不始末が
 原因で同家から出火し、
  折から駿河湾から吹く冬の季節風に煽られた事から火
 は次々と燃拡がり、
  静岡町中心部13町1100世帯が焼失する明治22年静岡大
 火が発生した。
  この大火の影響で、中心部から離れた静岡停車場や大
 東館は被災焼失外地で無事だったが、
  時の初代静岡縣知事・関口隆吉(せきぐち たかよし)
 は、被災民の心情に配慮し、開通式典会場を静岡駅構内
 ホーム上に変更し、且つ、会場たるホームを幕で囲み簡
 素厳に執行させ、披露式典に於いて出席者に配布する為
 に準備されていた、幕の内弁当、餅、紅白饅頭、酒類は、
 全部被災民への見舞供与に活用された。
  また、当日は、該県内御殿場に於いても大火が発生し、
  県将来の為に期待を抱いていた者達にとって、幸先良
 い日ではなかった。
1889年2月1日、東京美術學校が開校した。
  東京・上野公園に移転した東京美術学校(現=東京芸
 術大学美術部)が開校し、
  絵画科、彫刻科、美術工芸科、漆工科の4科で、74人の
 生徒が入学した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本・・かく戦えり・・、
.
1943年5月12日~5月29日、アッツ島の戦い(アッツとうの
 たたかい)は、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍
 のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍
 との戦闘。
  山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊
 は、上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉
 砕した。
  太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北
 (玉砕)が発表された戦いであり、
  また、第二次世界大戦で唯一、北アメリカで行われた
 地上戦であった。
  1943年7月29日~、キスカ島撤退作戦、
  1943年(昭和18年)7月29日に行われた日本軍の北部
 太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊
 撤収作戦。
  キスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず、日
 本軍は無傷で守備隊全員の撤収に成功した。
  このことから「奇跡の作戦」と呼ばれている。
  1944年6月15日~7月9日、サイパンの戦い(サイパンの
 たたかい)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)中、1944年6月
 15日~7月9日に行われ、
  アメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島におけ
 る戦闘。
  斎藤義次中将が指揮する第43師団を、主力とした日本
 軍が守備するサイパン島に、ホランド・スミス中将指揮
 のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団
 が上陸し、戦闘の末に日本軍は全滅した。
  このサイパンの戦いにともない、海上ではマリアナ沖
 海戦(6月19日〜20日)が戦われた。
  1944年7月24日~8月2日、テニアンの戦い(テニアンの
 たたかい)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)中、1944年7月
 24日~8月2日に、マリアナ諸島テニアン島において行わ
 れた日本軍とアメリカ軍との戦闘。
  テニアン島では、日本軍守備隊側が、民間人の安全に
 配慮した(角田海軍中将が「軍と共に玉砕する事はない
 のですよ」と説明を行った)
  戦闘開始前に、住民の方々は安全な地へ退避してもら
 い、当然、日本軍人が戦った。
  日本軍:戦死者 約8100名、生存者 313名
  アメリカ軍:戦死者 389名、戦傷者 1816名
  1945年(昭和20年)8月6日の広島、8月9日の長崎への
 原爆投下作戦の B-29 は、ここから発進した。
  1944年9月15日~11月25日、ペリリューの戦い(ペリリ
 ューのたたかい)
  この戦いは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15
 日~11月25日にかけ、ペリリュー島(現在のパラオ共和
 国)で戦われた。
  日本軍守備隊(守備隊長:中川州男陸軍大佐)と、ア
 メリカ軍(第1海兵師団長:ウィリアム・リュパータス海
 兵少将、第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少将)
 の陸上戦闘。
  アメリカ側の作戦名は、ステールメイトII作戦(「膠
 着」の意味)。
  要塞化した洞窟陣地などを利用し、ゲリラ戦法を用い
 るという、日本軍が見せた組織的な抵抗戦術は、アメリ
 カ軍を苦しめ、後の硫黄島の戦いへと引き継がれた。
  1945年2月19日~1945年3月26日、硫黄島の戦い(いお
 うとうのたたかい、いおうじまのたたかい)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に、東京
 都小笠原諸島の硫黄島において、日本軍とアメリカ軍と
 の間で行われた戦い。
  アメリカ軍側の作戦名は、デタッチメント作戦。
  1945年3月26日~6月23日、沖縄戦(おきなわせん)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年
 (昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍とイギリ
 ス軍を主体とする連合国軍と、日本軍との間で行われた
 戦い。
  連合軍側の作戦名は、アイスバーグ作戦(氷山作戦)。
  アメリカの太平洋の島伝いに北上する飛び石作戦は、
 順調に進んで行ったが、
  アメリカ軍の死傷者の数は、欧州戦線に比べてかなり
 多くなっていた。
  欧州方面での戦死者が13万5000人だったのに対し、太
 平洋方面は17万人を越えていた。
.
  そして、・・
.
1945年(昭和20年)4月7日、沖縄への海上特攻に赴いた戦
 艦大和をはじめ巡洋艦矢矧(やはぎ)など二隻、駆逐艦
 三隻が、敵(アメリカ)の空襲を受けて沈没した。
  「現場の海面で、浮遊物につかまり、漂流中の無抵抗
 な乗組員に対して、
  空母を飛び立ったアメリカ軍戦闘機の群が、執拗に来
 襲しては情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した」
  (矢矧の原艦長の証言)
  「この悲惨な状況をあざ笑うかのように、アメリカ軍
 機は、何時間にもわたって、無抵抗の漂流者に、執拗な
 機銃掃射を加え続けた」(著書「伊藤整一」、大和と運
 命を共にした第二艦隊司令長官)
  同様な残虐行為は、ニューギニア近海でもおこなわれ
 た。
  1943年(昭和18年)3月3日、この日に起きたビスマル
 ク海戦(空襲)の結果、
 陸軍の兵士を乗せた輸送船八隻と駆逐艦四隻が、敵機の
 攻撃により沈められたが、
  沈没した日本の艦船からボートや筏で逃れ、浮遊物に
 つかまり漂流中の千名の兵士達に対して、
  アメリカとオーストラリア軍の飛行機が、低空から機
 銃掃射をおこない、
  機関銃の弾を撃ち尽くすと、基地に戻り弾を補給し、
 映画撮影のカメラマンまで乗せて、何度も、弾の補給に
 往復しては攻撃を続けた。
  「決して男らしいやり方ではなかった」と、第五爆撃
 隊のある少佐は戦闘記録の中で報告していた。
  「隊員の中には、気分が悪くなる者もいた」。
  救命ボートや、その周辺を、文字どおり血の海に変え
 たその殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルムが、
 十年ほど前に、オーストラリアのテレビ局から放映され
 て、
  国民に大きなショックを与えた。
  「我々は、フェアーな戦をしたと思っていたのに..
 と」。
  (容赦なき戦い、ジョン・ダワー著)
  ちなみに、ハーグの陸戦条約第23条では、兵器を捨て
 た自衛手段を持たない漂流者に対する攻撃を禁止してい
 る。
  アメリカ海兵隊兵士による蛮行  ルーズベルト大統領
 の息子で、海兵隊大尉のジェームズ・ルーズベルトも加
 わっていたカールソン襲撃隊は、
  戦死した日本兵の死体を切り刻み、男根と睾丸とを日
 本兵の口中に詰め込んだ。
  太平洋戦争について熱心な研究者で著書もあり、また、
 テレビの連続番組(戦線、Battle-Line)のプロデューサ
 ーであるシャーマン・グリンバーグが、
  20年後に、カールソン隊員の一人にその時の模様を(
 テレビで)詳細に語っている。
  その隊員は、戦友たちのやった蛮行を写真に撮ってい
 た。
  (ジョセフ・ハリントン著の「ヤンキー・サムライ」
 から)
  「その二」:マキン島へ救援に赴いた私(谷浦中尉)
 は、戦場で妙なことに気が付いた。
  どういうものか仰向けになった屍体が15~16あり、し
 かもすべて下腹部を露出している。
  死後一週間経っていたため、原形は完全に崩れていて、
 顔の穴という穴はすべて蛆で真っ白である。
  どうしてこんな格好をしているのだろう。
  被弾して苦痛のあまり無意識にズボンをずり下げたの
 か?。
  アメリカ兵といえばキリスト教徒であり、日本人以上
 に文明人とみなされ、しかも選りすぐった精兵とこの種
 の蛮行を結びつけることなど、遺体収容作業に当たった
 誰一人として思いつく者はいなかった。
  戦後50年経って、意外な事実を知り、愕然とした。
  それは、マキン襲撃の際に行われた海兵隊の蛮行を物
 語る、翻訳された出版物を読んだからである。
  (マキン、タラワの戦い、独立陸戦隊、中隊長谷浦英
 夫著)
  「その三」:作家・上坂冬子氏の著書によれば、硫黄
 島の洞窟内から、戦後、米兵により持ち去られた日本兵
 の頭蓋骨は1000個にもなる。
  彼等は、それでロウソク立て、灰皿やペン皿を作った
 といわれ、
  また、硫黄島で戦死した日本兵の頭蓋骨と称するもの
 が、ロサンゼルスの骨董店で一個25ドルで売られていた。
  (硫黄島いまだ玉砕せず)
  「その四」:リンドバーグが見たもの、1927年(昭和
 2年)に、チャールズ・リンドバーグは、ニューヨークか
 らパリへ、史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功
 したが、
  この偉業は、後に、「翼よあれが、パリの灯(ひ)だ」
 の題名で映画化された。
  彼は、1944年昭和19年)に、ニューギニアの米軍基地
 で陸軍将校として4ヶ月過ごしたが、
  その体験を、日記に記して、後に、「第二次大戦日記
 上巻、下巻」として出版した。
  (この本は、私が読んだ後に、どういう理由からか絶版
 になった)
  それによると、彼は、戦場で見たものにショックをう
 けた。
  それは、兵士が嬉々として敵を殺したからではなく、
 米兵が、日本兵に対して抱く露骨な人種蔑視の念と、そ
 れに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩であった。
  たとえ、敵味方に別れて戦い、軍服に違いがあるとし
 ても、敵の人間としての勇気は勇気として、兵士の使命
 は使命として、認めなければならないにもかかわらず、
 太平洋地域の連合軍の中には、そうした感情のカケラも
 ないことを発見した。
  そこでは、士官も、兵士も、日本人に対する人種差別、
 蔑視から、自分達と同じ人間とは考えず、人間以下の単
 なる動物としか見ていなかった。
  1944年(昭和19年)6月21日、この日の日記には、
  日本人捕虜にタバコをやり、気がゆるんだところを後
 ろから押さえ、のどを「真一文字にかき切った」という
 のを、日本兵捕虜殺害の一例として教えてくれたある将
 軍との会話を要約している。
  残虐行為に対するリンドバーグの異議は、嘲笑と「あ
 われみ」をもって軽くあしらわれた。
  6月26日の彼の日記には・・、
  日本兵捕虜の虐殺、および、パラシュート降下中の日
 本航空兵の射殺について述べている。
  降伏し捕らえられた二千数百人という日本兵捕虜のう
 ち、捕虜収容施設に引き渡されたのは僅か百人か二百人
 に過ぎなかった。
  残りの者たちは殺害されたが、事故に遭ったと報告さ
 れた。
  「仲間が降伏したにもかかわらず機関銃で撃たれたと
 いう話が、日本兵に広がれば、投降しようという者など
 まずいなくなるだろう」とリンドバーグは聞かされた。
  つまり、黄色い猿に過ぎない捕虜を取り扱う、余分な
 手間や面倒がはぶけるという理由からであった。
  7月13日の日記では、
  「われわれの兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようと
 する兵士を射殺することをなんとも思わない。
  彼等は、ジャップに対して、動物以下の関心しか示さ
 ない。
  こうした行為が大目にみられているのだ」と記されて
 いた。
  8月30日に、リンドバーグは、中部太平洋ギルバート諸
 島にあるタラワ環礁を訪ねた。
  そこでは、日米の激戦が行われ、米軍も甚大な死傷者
 が出たのだが、
  日記には、捕虜になった数少ない日本兵を一列に並べ、
 尋問に英語で答えられる者だけを残し、
  あとは全て殺させた海軍士官のことが出てくる。
  ある仲間のパイロットから直接聞いた話によれば、後
 ろ手に縛られた日本人捕虜達を、輸送機に乗せて収容施
 設のある地域に輸送する際に、彼等を、飛行中に突き落
 とす行為がおこなわれた。
  そして、報告書には、捕虜全員が自分から飛び降りた
 と記録された。
  (以上、第二次大戦日記、チャールズ・リンドバーグ
 著)
  ニューギニア戦線でのオーストラリア軍や、マッカサ
 ー指揮下の第四十一師団は、
  「捕虜を取らない」、つまり、武器を捨て両手を上に
 挙げて降伏しようとする日本兵や、
  既に、降伏した日本兵を殺するので有名だった。
  軍事歴史家デニス・ウォーナーは、1982年年に出版し
 た日本の特攻隊に関する本の中で、
  ブーゲンビル島での自らの体験を紹介している。
  そこで彼は、投降しようとした日本の負傷兵を、オー
 ストラリア軍の司令官が射殺するように命じるのを目撃
 する。
  「しかし、彼等は、傷つき、おまけに降伏を望んでいま
 す」と、日本軍の大規模攻撃が失敗に終わったあとの戦
 場で、部下の大佐が司令官に反論した。
  「私の言うことが聞こえただろう」と、両手を挙げた
 日本兵からわすか数ヤード離れただけの少将(司令官)
 は答えた。
  「捕虜はいらない。
  全員射殺してしまえ」。
  そして、彼等は撃たれた。
  日本軍も、負傷兵や捕虜に対する連合国側の殺害に関
 する情報をつかんでいて、
  戦時中の日本からの対米宣伝放送(東京ローズ)では、
 第四十一師団のことを「屠殺者、Slaughterer」と呼んで
 いた。
  終戦直後、ある米陸軍大尉が、公表した記事には、第
 四十一師団、捕虜を取らずという堂々たる見出しが付け
 られていた。
  この師団が、例外的に、日本兵を捕虜にしたのは、軍
 事情報の収集のために、捕虜が必要な場合だけであった。
  (容赦なき戦争、副題太平洋戦争における人種差別、
 カリフォルニア大学教授ジョン・ダワー著)
  アメリカ軍の日本の病院に対する爆撃  昭和十九年
 (1944年)五月二十四日に、
  ブーゲンビル島ラバウル基地にあった第八海軍病院が、
 米軍機による攻撃を受けて、患者、看護婦、医師ら千四百
 名が死傷した。
  病院の屋根には、国際法の定めに従い、上空からよく
 見えるように赤十字の標識を大きく塗装していたにもか
 かわらず、それを無視して、病院の建物に対して爆撃や
 銃撃を加えるという国際法違反の非人道的攻撃をおこな
 った。
  日本兵の遺体を損壊する行為  日本兵を自分達と同じ
 人間とは見なさない連合国兵士による、死体や、死にか
 けた日本兵から金歯、耳、骨、頭皮、頭蓋骨などを収集
 し、
  戦果の証とする堕落した行為が広く行われていたこと
 も、
  米国民の間で戦時中からよく知られていた。
  日本軍との戦いを前にして、武勇自慢をし合う若い兵
 士達の会話を、ジャーナリストのリチャード・トレガキ
 スが記録している。
  「ジャップは、金歯をたくさん入れているそうだが、
 それを頂いてネックレスでも作るかな」と一人が言う。
  「おれは、奴らの耳を持って帰るよ」ともう一人が宣
 言する。
  「塩漬けにしてな」。(ガダルカナル日記、1942年)
  戦後出版された水兵の日記の1944年(昭和十九年)
 七月の記述に、すでに、十七個の金歯を集めた海兵隊員
 がいて、
  その最後の金歯は、サイパンで負傷してまだ手を動か
 している日本兵の頬を、ナイフで切り裂きほじくり出し
 て取ったものだ、と事もなげに述べられている。
  (容赦なき戦争、ジョン・ダワー著)
  太平洋の激戦地ペリリュー島および沖縄で、日本兵の
 死体から 手を切り取って、戦果のトロフィーとする、
 金歯をあさる、死体の空いた口を目がけて小便をする、
 恐れおののく沖縄の老女を撃ち殺し、「みじめな生活か
 ら、解放してやっただけだ」 と気にも留めない海兵隊員
 の様子を目撃した。
 (E・スレッジ、生物学者、1981年に出版の回想録)
  「その五」:フィリピンのラグナラ州カランバには、
 日本兵を収容するルソン第一捕虜収容所があったが、
  ここは、フィヒリピンにおける最大規模の収容所であ
 った。
  米軍の発表によれば、収容された捕虜のうち、戦争が
 既に終了した昭和二十年(1945年)末までに、栄養
 失調で死亡した日本兵捕虜は、一万二千人にものぼった。
  もし、日本側の捕虜収容所が、このような米兵の大量
 死を起こしていたら、原因や経過はどうであれ、B C 級
 戦犯裁判に掛けられて多数の責任者、兵隊が絞首刑にな
 ったことは間違いない。
  しかし、ここの米軍責任者は、誰も罪を問われなかっ
 た。
  そこには、「バターンの死の行進」に対する復讐の意
 図から、敗戦後も栄養失調状態であった多数の捕虜に対
 して必要な食糧補給をしなかったからである。
  (孤島の土となるとも、B C 級裁判)
  「その六」:ベトナム戦争においても、かなりの数の
 アメリカ軍兵士が、ベトナム人の頭蓋骨を収集していた
 が、
  アジア人が、アメリカ人兵士の死体に対して、このよ
 うなことをすれば、アメリカではどんな反応が起きるか
 は、考えてみる価値があるだろう。
  (米英にとっての太平洋戦争、下巻)
  太平洋戦争中の米国による日本人に対する残虐行為は、
 人種差別に根ざすものだと英国人ジャーナリストのラッ
 セル・スーパーは述べています。
  「アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮する
 ことに、気がとがめなかった。
  彼らは、太平洋において人種戦争を常に派手に戦って
 きた。
  新聞の大見出しになる種を探しているアメリカの高官
 連中は、公然と、日本人を殺すことはシラミを殺すより
 も悪いことではないと言明した。
  この残虐性は、四ヶ月後に、広島、長崎でその頂点に
 達することになる」
.
  参照:http://soumoukukki.at.webry.info/200802/article_4.html
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年1月9日月曜日

(増補版)478E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)

題:(増補版)478E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年(明治22年)1月1日、日本標準時が開始された。
  1886年(明治19年)7月13日に、日本の標準時に関して
 初めて制定された法令である「本初子午線経度計算方及
 標準時ノ件(明治19年勅令第51号)」が公布された。
  そして、この日、適用された。
1889年1月1日、東京~熱海間に、公衆市外電話の通話が開
 始された。
  市外電話創始の地の碑がある・・、
  熱海市役所から北へ200メートルの地点にあるレイホー
 ニューフジヤホテルの敷地内に、この碑はある。
  その碑文の概要は・・、
  温泉と風光に恵まれ、冬暖かく、夏涼しい熱海は、明
 治の頃、多くの政治家や政府高官が、保養や会談のため
 来遊したので、東京との連絡が非常に多く、
  そのため、東京~熱海間に電話回線が敷かれ、明治22
 年1月1日に開通しました。
  東京の電話交換業務が開始されたのが、それから2年後
 の明治23年12月でした。
  それまで、熱海側は、内務省きゅうき館(熱海電信局)、
 東京側は、木挽町にあった東京電信局で、通話料のほか、
 呼出手数料をとって、公衆電話の取扱いを開始したもの
 です。
  これが、わが国最初の市外通話です。
  きゅうき館のあったのが, この場所でしたので、わが
 国市外通話発祥の地を記念して「市外電話創始の地」の
 碑を立てました。(中略)
  東京で、電話交換業務が始まるより前に、東京~熱海
 の市外電話ができていたとは、当時から、大物政治家や
 有名人が、多数熱海に来ていたことが分かる。
1889年1月1日、高島炭坑で、新規募集坑夫らが、募集係の
 約束不履行に反発して紛争を起こした。
1889年1月3日、朝日新聞が、大阪朝日新聞に改題された。
  大阪本社発行の「朝日新聞」が、「大阪朝日新聞」と
 改題された。
  1940年9月1日には、大阪朝日新聞と東京朝日新聞の題
 号を「朝日新聞」に統一した。
1889年1月7日、英・仏・露・墺・伊の各国駐在公使へ、改
 正条約草案を送付し、条約改正交渉再開を開始した。
1889年1月16日、水戸~小山間の鉄道が開通した(今の水戸
 線)。
  水戸鉄道(みとてつどう)は、現在の東日本旅客鉄道
 (JR東日本)水戸線及び常磐線の一部を建設、運営した
 私設鉄道である。
  1889年に開業し、1891年に日本鉄道に事業譲渡され、
 消滅した。
1889年1月16日、枢密院が、憲法修正案につき再審会議を開
 催した(1月17日説あり)。
  この日、枢密院は、憲法草案の第二審会議を開催し、
 当日の内に、ほぼ原案通り可決した。
  これを受け、伊藤は、1月27日、井上、伊東、金子とと
 もに、枢密院第三審会議に提出する憲法草案を協議した。
  その結果、枢密院第三審会議に提出された憲法草案に
 おいて、質問条項について「両議院ニ於テハ文書ヲ以テ
 政府ニ質問ヲ為スコトヲ得」(第50条)と、
  「両議院」が主語から外され、主語を明記していない
 ものの「議員」と読むのが自然なように修正された。
  この修正について、伊藤は、1月29日の第三審会議で
 「両議院ハト云フトキハ必ス議院ノ名ヲ以テスルヲ要ス
 ルカ如シ故ニ之ヲ改メタリ」と説明した 。
  「十月草案」以来の憲法草案が「議院の質問権という
 思考を維持してきた」にもかかわらず、「その観念を放
 棄するという意味をもった」。
  この修正に対しては、同日の審議で議院全体の名で質
 問がなされるべきとの異議が唱えられた。
  審議は、翌日に持ち越され、逆に「議院法ニ明文アル
 ヲ以テ足レリ」として野村靖枢密顧問官から本条削除の
 提案が出された。
  採決の結果、出席者18名の内、10名が削除に賛成し、
 質問権の条文は削除されてしまった 。
  これにより、質問制度は、帝国憲法に位置づけられた
 質問権から、議院法に位置づけられた議事手続へと後退
 することとなった 。
  そして、帝国憲法は、1889年2月11日に発布され、
  1947年に、日本国憲法が施行されるまで、改正されな
 かった。
  1月31日、議了。
  2月11日、大日本帝国憲法発布。
  また・・、
  (新庄勝美氏論文「1889年帝国憲法の公布:立憲主義
 時代の開幕に向けて)には、以下の様な記述がある。
  枢密院第一審会議は、1888年(明治21年)6月18日から
 はじまり、7月13日に議了している。
  議決された憲法草案は、天皇陛下に奉呈され、天皇陛
 下は、これについて内閣での再検討を命じられた。
  再検討とはいうものの、実際は、伊藤博文が中心とな
 って作業が進められ、
  枢密顧問官を除いて閣僚だけの要人たちによる事実上
 の修正審議だった。
  そこでまとめられた24ヵ条の修正条項は、翌・1889年
 (明治22年)1月初め、閣議で了承された。
  枢密院の再審会議に付すべき憲法・議院法等の修正決
 議案の決定をみたのは同・1月12日だった。
  なお、皇室典範は、この時には除外されていた。
  1889年1月16日に開会した第二審会議に報告されたこれ
 らの修正決議案については、内閣による修正条項に限り
 審議し、第一読会を省いて開かれた第二読会で同日に可
 決された。
  この第二審会議後、伊藤議長は、修正条項に関して内
 閣法律顧問・ロエスレルに意見を求めるとともに、井上、
 伊東、金子を招いて議決事項の再検討を行う機会が設け
 られた。
  その後も見直しがなされ、細かい規定ミスに手が加え
 られ、修正箇所が16ヵ条となった憲法修正原案が、同・
 1月29日~1月31日の3日間にわたり開かれた第三審会議(
 1回の読会で議事決了する方式)において決定された。
  そこでの会議の進め方は、第二審会議の例にならい、
 議長による修正諸条の朗読に続いて、意見提出があって
 も議決で賛成を得られなかった諸条と意見未提出の諸条
 については表決せずに可決とするという手順で進められ
 た。
  このように議決されていった憲法草案を最終確認する
 ために、1889年2月5日に、最後の枢密院会議が招集され、
 字句の対校を行った上で「大日本帝国憲法」(7章76条)
 と題して清書され、
  皇室典範や議院法、衆議院議員選挙法、貴族院令など
 とともに、天皇陛下に上奏された。
  枢密院会議における憲法審議は、天皇陛下臨御のもと
 に厳粛な雰囲気のもとに進められた。
  「三審会三読会」方式の会議は、日数にすると14日間、
 午前と午後をそれぞれ1回の会議として計算すると24回、
 通算時間数は46時間50分にわたった。
  枢密院での審議経過・会議全体はきわめて効率よく、
 淡々と進められた。
  憲法起草者や枢密院顧問官のそれぞれの矜持の火花を
 散らしての激しい応酬も時にはあった。
  帝国憲法原案の起草作業に心血を注いできた憲法起草
 者にしても、「維新以来文勲武勲中より」選ばれた顧問
 官にしても、近代立憲国家体制づくりという国事に共に
 携わっている以上は、激しい質疑応答のやりとりがあっ
 ても不思議ではなかった。
  自説に固執する顧問官に対して質問・討議の打ち切り
 を宣した議長、
  顧問官の質問・提案への果敢な論駁を試みた起草者、
  説得力ある例証によって顧問官の質問に答えた井上毅
 や伊東己代治らの報告員、
  これら「語り手」たる起草者らに対して「聞き手」の
 立場に甘んずることなく論戦を繰り広げた顧問官。
  これらの会議参加者による議論の応酬の末に、重要な
 条項修正も可能になった例が少なからずあった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:キリスト教教義「シャローム」から来る無条件降伏の要求
.
1942年11月8日、アメリカとフランスが戦う
  北アフリカのカサブランカ上陸で、アメリカとフラン
 スが戦った。
  アメリカ大統領ルーズベルトは、完全にアメリカの
 『国益を追求』して、第二次世界大戦まで仕掛けたが、
  それらの史実の一端はすでに示したが・・
  色々の史実で・・そのことが・・分かるが、
  そして、その一つが・・以下・・、
  「ルーズベルトは、フランスのドゴールを嫌った」。
  フランスのドゴールは、イギリスへ逃げ・・「自由フ
 ランス」を掲げ・・名乗っていた。
  そして、「フランスの栄光」という言葉もよく使った。
  そして、誇り高き・・また・・気位の高いドゴールの
 「フランスの栄光」という言葉には、
  アフリカやアジアにある『仏領植民地の復活』を意味
 していた。
  しかし、イギリスも含め、英仏の植民地主義は、アメ
 リカの『国益』にそぐわないと、ルーズベルトは嫌った。
  英仏からの解放をも含む大東亜共栄を目的とする日本
 と路線は一致していた。
  実は、アメリカとフランスは、この第二次世界大戦で
 戦っている。
  カサブランカ会談の前に行われた「北アフリカ上陸作
 戦」で、アメリカとフランスの「初めての軍事衝突」が
 なされた。
  1942年11月8日、アメリカ軍の上陸部隊(アイゼンハワ
 ー将軍)は、4つに分かれて、モロッコのカサブランカや、
 アルジェリアのアルジェなどに上陸した。
  大した抵抗はないとしていたが、そこに居た「フラン
 ス植民地軍が抵抗した」。
  フランス植民地軍は、アメリカに植民地が取られると
 見えた。
  フランス植民地を奪いに来た「侵略軍と解釈した」。
  その抵抗は激しかった。
  まだ、これまで本格的な戦闘経験をしていなかったア
 メリカ軍は、大きな犠牲を出した。
  悲惨な状況となった。
  アメリカ軍の上陸用舟艇が浜辺に着くたびに、フラン
 ス軍から猛烈な砲火を浴びた。
  上陸できない状態が続いた。
  アメリカ軍のアイゼンハワー将軍は、やむなく停戦交
 渉をせざるを得なかった。
  フランス植民地軍の発言力があり、また、本国のビシ
 ー政権の要人ジャン・ダルランと停戦交渉をした。
  因みに、ダルランは、フランスがナチス・ドイツに降
 伏する時、ドイツに協力し、その見返りにビシー政権の
 指導者アンリ・ペタン将軍の後継者に指名されていた。
  そして更に、アイゼンハワー将軍との交渉では、フラ
 ンス領北アフリカ全域の高等弁務官という地位を、アメ
 リカとイギリスに保証させ、そして、停戦に応じた。
  ダルランは、この後、1942年12月24日、フランス人青
 年に撃たれ、その銃弾に倒れている。
  また、アイゼンハワーは、アイゼンハワーで、「ダル
 ラン取引」と言われるこの停戦交渉について、アメリカ
 国内で批判を受けた。
  そして、困ったことが生じた。
  それは、ダルランの地位を保証したため、「フランス
 領の北アフリカが、まるで独立をしたかのような格好と
 なった」。
  そして、最高司令官に任命されたダルランに、連合国
 から武器と弾薬あ提供され、ドイツと戦うダルランが作
 り出された。
  ルーズベルトは、このダルランと、ジローを支援した。
  イギリスが、ドゴールを推している姿勢と違った。
  ちなみに、ジローは、1879年生まれ、1940年にドイツ
 軍の捕虜となったが、
  1942年に逃亡し、アメリカ軍の北アフリカ上陸作戦に
 合わせて連れて来られていた。
  アメリカは、そりの合わないドゴールに代わって、こ
 のアンリ・ジロー将軍を据えようとしていた。
  この様に、複雑なフランスは、1940年6月、ドイツ機甲
 師団の破竹の進撃に、フランスは、あっさり降伏し、
  それ以来、フランスは、アメリカの味方なのか? 
  それとも・・準敵国なのかさえ、分からなくなってい
 た。
  この様に、ドイツに融和的なビシー政権に抵抗するド
 ゴールを、イギリスは拾い上げた。
  アメリカと違った路線だった。
.
1943年1月14日、カサブランカ会談(~1943年1月23日)
 (~26日説あり)
  アメリカのF・ルーズベルト大統領とイギリスのW・
 チャーチル首相が、モロッコのカサブランカで開いた第
 3回連合国戦争指導会議。
  この時の最終日に、無条件降伏をルーズベルトは示し
 た。
  無条件降伏をルーズベルトが口にした時にチャーチル
 は絶句した。
  チャーチルは、「そこまで要求していいのか?」と反
 問した。
  歴史上にもない「異例」な条件だったからだった。
  その様な例は、今まで無かったからだった。
  それまでの通例の「講和会議」に持ち込んで終戦する
 という通常のやり方ではなかったからだった。
  ある条件における終戦を拒否した「それまでにない常
 軌を逸したルーズベルトの異例さ」があった。
  「日本嫌い」のルーズベルトと・・、
  キリスト教に洗脳された「日本人という蔑視さるべき
 有色人種」に対するルーズベルトの完全絶滅の後に来る
 「キリスト教の『シャローム』の平和」にマインド・コ
 ントロールされたルーズベルトがあった。
  日本には、このキリスト教教義により突き付けられた
 「条件の一切を認めない」という事から、とことん戦い
 続けるしか道は残されなかった。
  卑劣な条件を、敗けると分かっている日本に突き付け
 たルーズベルトだった。
  戦争を長引かせることと、この異常さにチャーチルは
 反対したが、ルーズベルトはここを押し切って、ルーズ
 ベルトの思い通りに事は進んで行った。
  この様なマル秘の話は、めったに公にされなかった。
  アメリカとイギリスの首脳だけの会談・・と言うより
 密談だった。
  そして、米英軍のアフリカ作戦成功後の作戦について、
 シチリア島とイタリア本土への上陸を敢行することを決
 めた。
.
1943年1月21日、アメリカ大統領のルーズベルトは、北アフ
 リカの上陸作戦を成功させた約2万人のアメリカ第5軍兵
 士を慰問していた。
  この時のルーズベルトの心境は・・、
  太平洋でのミッドウェー海戦(1942年6月5日)で、日
 本の機動部隊をほぼ壊滅していて、
  日本との戦争の決着がほぼ見え・・、
  そして、今、アフリカ上陸作戦を成功させて、第二次
 世界大戦の決着が見えて来ていて、
  ルーズベルトは、この時、アメリカ兵たちとともに、
 ジャズバンドの演奏する「チャタヌガ、チューチュー」
 の軽やかなメロディーを聞きながら、アメリカ兵たちは
 笑い声でリズムをとる声をを快(こころよ)く聞いてい
 た。
  昼食が並ぶテーブルがあった。
  北アフリカのカサブランカ会談は、1943年1月14日に始
 まっていた。
  ソ連首相のスターリンは欠席していた。
  また、中国の蒋介石は招待されていなかった。
  故に、結局、米英の首脳会談となっていた。
  ソ連は、この時、ドイツの200個師団(約200万人)と
 壮絶な死闘を繰り広げていた。
  このアフリカの米英が、上陸作戦をした地には、30万
 人のドイツ・イタリア軍が居た。
  1941年6月以降、イギリスは、ドイツとの本格的な交戦
 を避けるようになった。
  それに対して、ソ連の方は、ドイツとの戦いが厳しく、
 スターリンが、カサブランカ会談に欠席するくらいだっ
 た。
  これは、すでにこの時、大戦後の姿を見る戦況の状況
 になっているからだった。
  次なる対抗軸上に居るソ連が見え始めていた。
  ソ連軍を消耗させ、
  さらに、ソ連の国力そのものの減退を招かせようとし
 ていた。
  戦後になって、欧州における「そのソ連の脅威」を阻
 止するためだった。
  だからソ連は、ドイツの軍が、ソ連に集中している現
 状を辛(つら)いと思っていた。
  アメリカ・イギリス軍によるフランス上陸を、今か今
 かと待っていた。
  この第二戦線が、早く出来て、ソ連へのドイツ軍の攻
 勢が弱まってもらいたいと思っていた。
  スターリンは、疑惑を持っていた。
  そして、その疑惑が強くなっていた。
  スターリンは・・、
  「あなた方が約束した第二戦線はどうなったか?
  もうこれ以上、時間を浪費すべきで無い」・・という
 電文をルーズベルトへ送りつけた。
  結局、このスターリンが望む第二戦線が出来るのは、
 ソ連の消耗を進ませようと実行を遅れに遅らせた。
  結局、ソ連が、ドイツを破り、ソ連の勝利が確定した
 後の「ノルマンディー上陸(1944年6月6日)」まで第二
 戦線は形成されなかった。
  「スターリングラードだけでなく、ロシア中央でも、
 ドイツとの戦闘が激しくなっている。
  こんな時に、ロシアを離れられる訳はない(カサブラ
 ンカ会談に出席できるわけはない)」のスターリンだっ
 た。
  ルーズベルトは、「ドイツの戦後を話し合おう」とい
 う状況・心境であった。
.
1943年1月24日、ルーズベルトの無条件降伏の要求宣言が出
 た・・、
  カサブランカ会談の最終日だった。
  アメリカ軍幹部を含め、だれ一人も予想しないものだ
 った。
  イギリス首相・チャーチルは怒り、その怒りで顔が青
 ざめていた。
  そして、「これでは、ドイツ軍の決意を強めるだけだ」
 と批判した。
  誰もが・・日本とドイツが、最後の一兵になるまで戦
 う決意を固めたと思った。
  ルーズベルトは言った・・、
  「皆さんに知ってもらいたい、ドイツと日本の戦争能
 力を、完全に破壊するまで、決して平和はやって来ない
 です。
  我々は、ドイツ、イタリア、日本に対し、無条件降伏
 を突き付けたい」・・と、
  キリスト教に強く洗脳されたルーズベルトは、キリス
 ト教の「シャローム」の教義・考え方があった。
  「完全破壊をして平和が来る」という教義で、キリス
 ト教の歴史に、有色人種の絶滅が多いのは、この卑劣な
 教義の影響・・、
  アメリカ国務長官コーデル・ハルは、これを聞いて言
 葉を失った。
  ハルは、「ドイツなど枢軸国などは、冷静な判断を無
 くして絶望的な戦いを繰り広げ、
  結果として、破壊されつくした敵国は、自ら復興でき
 なくなり、最終的に、アメリカがその責任を負わなくて
 はならない」・・と。
  ルーズベルトは、反省したのか? 1943年12月に、「
 無条件降伏は、ドイツ、日本の指導者に求めたものだ」
 と訂正した。
  そして、「無条件降伏は、ドイツ、日本の一般市民に
 求めたのでは無い」・・と否定した。
  故に、日本の歴史教科書にある「日本は、無条件降伏
 をした」という記述は、間違い。
  ルーズベルトの後のトルーマン大統領も、一時は、無
 条件降伏を口にしたが、
  沖縄戦で手ひどい反撃を受け、更なるアメリカ兵の死
 を回避したいアメリカ軍指導部は、即座に、条件受け入
 れを了解した。
  だが、アメリカ政府内に、無条件降伏にこだわる意見
 もあった。
  そして、アメリカは、論議の末に、結局、「天皇、及
 び、日本政府は、占領軍最高司令官に従属する」という
 条件で・・日本の国体維持の『有条件』での日本の降伏
 の形となった。
  しかし、この様ないざこざが終戦を遅らせる最大の原
 因になった。
  日本の子供たちの歴史教科書の『無条件降伏の記述を
 訂正せよ!』。
.
1945年8月14日、日本は、『降伏』をアメリカに通達した。
  戦争が終わった。
  戦争を、その身に痛く感じた方々は、開戦の悪さは言
 わなかったが、終戦の遅さは『悪かった』と言われた。
  卑劣なルーズベルトが、日本の国体まで奪おうとして
 いたことが・・終戦が延び延びになった原因だった。
  アメリカとソ連が、停戦を送らせていた・・、
  ソ連には、日本領土が欲しいという理由があった、そ
 して、日本領土を奪い・・
  そして・・
  アメリカは、無条件降伏という前例のない、そして、
 何ら実のない空論の「シャローム」の観念からくる要求
 があった。
  そして、その「シャローム」の完全破壊の原爆投下と、
 その原爆の威力を知る実験がしたかった。
  戦後に来る、ソ連との対抗軸上にある武器のデーター
 を得たくて、卑劣な非人道的な原爆を投下した・・
  そして・・
  「シャロームの観念上の国体まで奪おうという卑劣さ」
 があった。
..
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