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2016年12月9日金曜日

(増補版)467E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年8月~1888年9月)

題:(増補版)467E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年8月~1888年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年8月20日、三池鉱山が三井組へ払い下げられた。
  1876年(明治9年)この年に、旧三井物産が設立された。
  そして、この頃、三池炭鉱は、工部省の直営事業であ
 った。
  幸いなことに、出炭量が増えて、販路の開拓に苦慮し
 ていた。
  1877年(明治10年)工部卿であった伊藤博文は、その
 輸出がひらめいた、そして・・、
  旧三井物産社長の益田孝に、三池炭の輸出を持ちかけ
 た。
  益田は大牟田まで赴き、その石炭の質を確かめるため、
 実際に、七輪で焚いてみた。
  硫黄分が多く、着火しやすい良質な三池炭に感心した
 益田は輸出契約を締結した。
  そして、翌年の1878年には、三池炭輸出の委託販売権
 を獲得した。
  三池炭は、旧三井物産を通して、上海、香港、シンガ
 ポールなどの海外各地へ輸出された、そして同時に、
  旧三井物産も外国に支店を増やした。
  海外展開を大きく拡張して行った。
  明治政府は、官営事業の民間への払下げを打ち出して
 いた。
  民間企業の充実・・そして、拡充・・、
  ・・が、しかし、三池炭鉱は、優良事業として民間払
 下げをせず・・官営を続けていた。
  1888年(明治21年)、しかし、ようやく・・三池炭鉱
 の払下げが決定した、そして、入札が行なわれた。
  政府の指値は、400万円という高額だった・・当時とし
 ては破天荒な金額であった。
  たとえば、三菱に払い下げられた長崎造船所は9万円だ
 った。
  価格に関わらず三池炭鉱を落札しなければならないと
 した益田は、三井銀行を説得し、100万円の融資を取り付
 けた。
  三菱と熾烈な競争が展開された・・、
  その結果、455万5000円で、三井組が三池炭鉱を落札し
 た。
  この時、三池炭鉱と共に三井が手に入れたかったのは
 人材としての鉱山技師・團琢磨(だんたくま)だった。
  黒田藩勘定奉行の養子であった團琢磨は、1871年、岩
 倉使節団とともに渡米し、マサチューセッツ工科大学で
 鉱山学を学んでいた。
  1878年に帰朝し、東京大学助教授などを経て、
  1884年、工部省に採用され、三池鉱山局に勤めていた。
  三井組の三池炭鉱落札の時、團は、三池炭鉱の湧水対
 策を学ぶため、欧米各国の炭鉱を視察中であった。
  ニューヨークで、民間に払い下げられた「その事実」
 を知った。
  職場の払下げにより、失職した。
  行き場を無くした團は、義兄に相談し、義兄のの斡旋
 で、福岡県庁への入庁が内定していた。
  しかし、益田は、これを聞いて驚いた。
  益田は、以前から團の才能を買っていた。
  「三池の落札価格に、團の価値も入っている」と、益
 田は、主張した。
  そして、福岡県庁の2倍の給金で、團を招聘した。
  1889年、旧三井物産は、「三井炭鉱社」を組織した。
  團は、事務長に就任した。
  1893年には、三井鉱山合名会社が設立された。
  専務理事となった團は、最新の排水ポンプによる湧水
 問題の解決をした。
  また、三池築港など鉱山事業などをして・・その手腕
 を発揮した。
  後に、三井合名理事長まで上り詰めた。
  三井の雄となった。
  三井鉱山は、三井のドル箱として・・、
  三井銀行、旧三井物産とともに・・戦後、石炭産業が
 斜陽化するまで「三井の御三家」の一角を担い、三井を
 支えた。、
  三井財閥の発展を支える大切な中核事業として存在し
 た。
  そして、日本を支えた。
  (三井広報委員会のホームページを参考にした)
1888年8月21日、尋常師範学校設備準則を制定した。
  この法律で、我が国初めての『修学旅行』という言葉
 が使われた。
  1886年(明治19年)に、師範学校令が公布され、わが
 国の師範教育制度は、ここにはじめて整備への第一歩を
 踏み出した。
  これ以前から、理知的に進んでいた日本は・・師範教
 育も、すでに、発展して来ていた・・が・・、
  全国的に整備された教員養成制度は、まだ、確立され
 ていなかった。
  この師範教育制度の改革を進めたのが、文部大臣・森
 有礼であった。
  森は、国民教育の根本は「師範教育にあり」とした。
  そして、その重要性を認め、
  師範教育の理念を制度の上において・・実現しようと
 努めた。
  1886年(明治19年)4月10日、「師範学校令」が公布さ
 れた。
  そして、この師範学校令、ならびに、その後、これに
 関連して設けた諸規程によって・・、
  小学校・中学校・帝国大学とは全く別個に、独立させ
 て・・「教員養成のための師範学校制度を確立しよう」
 とした。
  師範学校令・第一条:
  「師範学校ハ教員トナルヘキモノヲ養成スル所トス但
 生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備へシムルコトニ注目
 スヘキモノトス」。
  師範学校令に続いて・・、
  1886年(明治19年)5月26日、「尋常師範学校ノ学科
 及其程度」(女生徒については、明治22年10月)、
  1886年5月28日、生徒募集規則、および、卒業生服務規
 則、
  1886年6月4日、尋常師範学校男生徒の学資支給に関す
 る件、
  1888年8月21日、尋常師範学校設備準則・・を定めた。
  高等師範学校については・・、
  1886年(明治19年)10月14日、「高等師範学校ノ学科
 及其程度」、高等師範学校生徒募集規則、および、高等
 師範学校卒業生服務規則・・を定めた。
  尋常師範学校の入学資格は、高等小学校卒業以上の学
 力を有し、年齢17年以上20年以下の者、修業年限は4年と
 した。
  高等師範学校には、男子師範学科と女子師範学科とを
 置き、
  男子師範学科の入学資格は、尋常師範学校を卒業した
 者とし、その修業年限を3年と定め、
  女子師範学科は、尋常師範学校第2学年修了者を入学さ
 せ、修業年限を4年とした。
  1890年(明治23年)3月25日、女子部を分離して、女子
 高等師範学校を創設した。
  (文部科学省のホームページを参考にした)
1888年9月1日、東海道線の浜松駅~大府駅間が開通した。
  愛知県大府市にある大府駅(おおぶえき)が、この時
 のこの開通による官設鉄道線開業により、2線の分岐駅と
 なった。
1888年9月8日、森鴎外が、ドイツから帰国した。
  明治の文豪・森鴎外のこのドイツ留学には、美しいロ
 マンスがあった。
  鴎外の代表作の「舞姫」にもなっているが・・、
  鴎外のドイツの恋人(舞姫ではエリス)は、実際の話
 だった。
  エリスは、鴎外を追って日本へ来た。
  鴎外のこのドイツからの帰国から一週間もたたない頃、
 横浜港に入港した客船のゲネラル・ベーター号から、ひ
 とりのドイツ人女性が降り立った。
  女性の名をエリーゼと言った。
  エリーゼは、現在の銀座五丁目にあった築地精養軒に
 宿泊し、鴎外への気持ちを実現したいとした。
  鴎外と会えることを心待ちにした。
  しかし、このエリーゼの来訪は、海軍中将の娘である
 登志子との縁談が整いつつあった鴎外の周囲を動揺させ
 た。
  鴎外の親戚や友人が、帰国を説得するために精養軒に
 連日通った。
  鴎外自身も数回精養軒を訪れた。
  結局、エリーゼの恋は実現を果たせずに・・来日から
 約1ヶ月後・・ドイツに帰国した。
  しかし、鴎外の心には、生涯エリーゼを忘れることは
 無かった・・と・・言われている。
  鴎外の次女の小堀杏奴の著作に・・、
  「この女性とは、その後、長い間、文通だけは絶えず
 にいて、
  父は、女性の写真と手紙を、全部一纏めにして死ぬ前、
 自分の眼前で、母に焼却させた」・・と、記されている。
  (小堀杏奴「晩年の父」より)
1888年9月11日、高等師範学校附属学校に尋常中学科(現・
 筑波大学附属中学校・高等学校)が設置された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:色々な・・はなし・・
.
紀元前3万年、北アメリカ大陸に最初に住んだ人々は、アジ
 ア系のモンゴロイドであった。
  この人々・インディアンの方々は・・、
  氷河期であったおよそ3万年前から1万年前にかけて、
 凍結したベーリング海などを渡って、
  シベリアからアラスカを経由し、
  広大な南北アメリカ大陸各地入り、そして、分散して
 行った。
  こうした人々・インディアンの方々は、母系社会によ
 る独自の文化を育んだ。
  今、アメリカ合衆国には、そのずーと後に来た白人が
 我が国土の様な顔をして住んでいるが・・、
  この白人たちの論理は・・、
  「この先住の民であるインディアンの方々が国家を形
 成していなかったから」・・なんて、屁理屈を言う、
  「だから、土地を奪ってもよかったのだ」・・という
 筋の通らない屁理屈論理を展開している。
  「部族は形成していたが、国家は形成していなかった」
 という理屈・論理である。
  もし・・ある家が、家庭崩壊していたら・・、
  家庭という状況が崩壊し、家庭が形成されていなかっ
 たら・・第三者は、その家を「乗っ取っても良い」とい
 う論理である。
  その様な論理が、「正義であるわけはない」。
  そして・・、
  近世まで、北米には、中南米に匹敵するインディアン
 文明が存在しないとされていたが、
  近年発掘が進み・・、
  8世紀から16世紀頃まで続いたとされるミシシッピ文化
 の存在が、マウンド(土塁)群と呼ばれる墳墓遺跡によ
 って確認された。
  そのうちもっとも大規模なものは・・イリノイ州セン
 トルイス郊外のカホキアと呼ばれる大遺跡で、
  最盛期で1万人に達したとされている。
  この超巨大遺跡は・・、
  1982年に「カホキア・マウンド州立史跡」として世界
 遺産に登録された。
  イタリア(ジェノヴァ)人クリストファー・コロンブ
 スは、スペイン女王の承諾を受け、
  大西洋周りによるアジア発見を志したが、
  1492年に、西インド諸島に到達した。
  これに引き続き、1498年、英国人・ジョン・カボット
 が、
  北米大陸の東海岸を探検し、英国がこれを領有(ニュ
 ーイングランド植民地)、
  1534年、フランス人ジャック・カルティエが、セント
 ローレンス川を遡って、これをフランスが領有化(カナ
 ダ植民地)するなどがあった。
  これらのヨーロッパ人による南北アメリカ大陸の探検
 と開拓、インディアンに対する領土略奪と虐殺がはじま
 った。
  16世紀に、ヨーロッパで、キリスト教の宗教改革がな
 され、プロテスタント(新教徒)が生まれた。
  その様な中で、イギリスでは、宗教的な迫害(はくが
 い、弱い立場の人々を追い詰めて、苦しめること)を受
 けたピューリタン(清教徒)が、1620年のメイフラワー
 号で、アメリカへ渡った。
  これをきっかけとして、新天地を求めた新教徒が相次
 いで入植した。
  現在のアメリカ合衆国を作ったと言われるこの人々は、
 アメリカ大陸に渡った最初、厳しい冬期・厳寒期が越え
 られず、餓死者が多く出る・・大変出るという状況だっ
 た。
  餓死者が出るくらいと言うより、ほとんどが死んでし
 まうかという酷(ひど)さだった。
  元のイギリスへ、再び、帰ろうかという状況だった。
  この窮地(きゅうち、追い詰められて逃げ場のない苦
 しい状態や立ち場)を救ってくれたのが、アメリカ・イ
 ンディアンの方々だった。
  アメリカ・インディアンの方々に助けられ、耕作物の
 種類を教えてもらい、
  また、その生育方法なども教えを受けたりと、
  越冬方法なども教えてもらい。
  やっと、力を付け、安住できるようになった。
  すると、今度は、安住ができるようになると・・、
  今度は、アメリカ・インディアンの方々と混住できな
 いと、人種差別の行動に出た。
  キリスト教の「有色人種蔑視の考え方」に洗脳された
 頭に影響され、
  有色人種であるアメリカ・インディアンの方々の追い
 出しに出た。
  恩も義理もないキリスト教の宗教の世界に住む人々の、
 耕作地を拡大したいという欲に敗けた姿も出た。
  そこには、仏教の教える「共生の姿」はなかった。
  アメリカ合衆国は、イギリスとの戦争に勝つと、ミシ
 シッピー河以東の地は、「我が領土だ」と、勝手に奪っ
 た。
  そしてさらに、卑劣なことに、そこに住む本当のその
 地の持ち主であるインディアンの方々の追い出しにかか
 った。
  アメリカ・インディアンの方々は、昔から居て、幸せ
 に暮らしていた、
  当然の生活をしているのに関わらず、
  アメリカは、その手に入れた地から、奪い取った地か
 ら、先に住んでいたアメリカ・インディアンの方々の追
 い出しにかかった。
  ただ、イギリスとの戦争に勝っただけなのに・・であ
 る。
  アメリカ・インディアンの方々に、何ら関係がない事
 なのに・・である。
  まったく関係のないアメリカ・インディアンの方々に、
 初めの恩も何も棄てて、自分だけの利益だけに執着し、
 卑劣な行為をし始めた。
  アメリカ・インディアンの方々は、力で、武力で殺戮
 され、
  そして、ミシシッピー川以東に居る人々のすべてを、
 河の西へ行けとされた。
  生活が出来なくなったインディアンの方々は、ミシシ
 ッピー川以西に追われた。
  殺戮を伴う追い出しに、やむを得ず、逃げて行った。
  この際限ない欲に敗けた者どもの追い出しは、また際
 限なく繰り返された。
  アメリカ合衆国は、その後、追い出したその地から、
 また、さらに、インディアンの方々を追い出し・・、
  その様な卑劣な行為を繰り返し、アメリカ合衆国は出
 来て行った。
  インディアンの方々の土地を奪って行く、西へ西へと
 奪って行く、その地を奪って行く。
  今、アメリカ・インディアンの方々は、人口が激減し、
 絶滅に瀕している。
  そして、キリスト教は、その弱いインディアンの方々
 を殺戮し、土地を奪った行為を賞賛している。
  そして、1620年の移民は、アメリカのプロテスタント
 の間で『偉業として称えられている』。
  「マニフェスト・デスティニー」だと・・???
  当然、インディアンの方々からは、民族虐殺の始まり
 として、『罪なる行為の始まり』として
  「ピルグリム・ファーザーズの感謝祭」には、大規模
 な抗議が行われている。当然である・・、
.
  そして、次の話・・、
.
1644年、江戸時代の初期のころ、中国では、明朝が滅び
 (1644年)、清朝が成立したばかりだった(1644年)
  明朝の生き残りの勢力の鄭芝龍・鄭成功親子は、台湾
 へ逃れた、
  そして、鄭政権を作った。
  鄭成功は、日本人を母として、日本とも関係の深い政
 権だった。
  この時、清朝の台湾侵略の脅威に脅(おびや)かされ
 ていた。
  その脅威が生じるたびに、鄭成功は、江戸幕府に援軍
 を要請して来た。
  この時、江戸幕府は、鎖国体制だったが、台湾を守ろ
 うと「出兵を決定」した。
  この時の清朝は、「韃靼(だったん)人」による政権
 で(モンゴル)と同じ政権だった。
  鎌倉時代のモンゴル来襲も意識下にあって、出兵の必
 要を感じ、意識し、決意していた。
  老中は、「台湾の安全が、日本の安全に直結する」と
 意識していた。
  今・現代、中国共産党政権が、覇権の拡大路線をとる
 とき、この史実は、よく心しておく必要がある。
  今、完全に北朝鮮は「ロシア離れ」を起こし、中国共
 産党政権の息のかかった中にいる。
  「六か国協議」にしたって、北朝鮮の「核爆弾開発」
 と、「ミサイル開発」の最も大切な「詰めの時期」に、
  北朝鮮が安全に、それなりに、過ごす『時間稼ぎ』に
 使われ、
  結局、北朝鮮の目的が達せられつつある。
  この開発を、裏から応援していたのが、中国共産党政
 権であった。
  中国は、覇権拡大とともに、当然、対抗勢力の分断行
 為をする。
  韓国が、北朝鮮の核開発の進展とともに揺れ出し、38
 度線が、対馬海峡に移ってくる気配も感じられる。
  中国共産党政権の狙いの中に、当然、「日米分断」が
 あり、「太平洋を半分づつ」と、アメリカに言った意識
 もある。
  分断には、まず、「日本を封じ込める」という戦略も
 取る。
  過去に、「ABCD包囲網」で、日本を包囲した記憶
 が消えないのだろう。
  アメリカの覇権に、とって代わりたい中国共産党政権
 がある。
  長期的にも、それを達成したいがある。
  その達成のため、中国共産党政権は、「国際的合意」
 という手を使うだろう。
  簡単に言えば、「クラスのいじめられっ子」状態に、
 そして、「国際的合意だからやれ」と、日本の不利な事
 を押し付けて来るのだろう。
  その発言力を高めるため、「二桁の軍事費」を投入し、
 増大し続けている。
  今までの人類の歴史にない規模の異常な軍事費の急拡
 大を続けている。
  アメリカは、「世界の警察官」の立場はとれないと、
 止めたと、放棄の公言をした。
.
  そして、次の話・・、
.
  題:文明開化の地でパンが作られ始めた・・、
.
1860年、パンの発祥(横浜)
  パンの発祥地という事で、横浜に石碑が建った(2016
 年11月9日報道)
  石碑が建った場所は、横浜の日本大通りで、1860年に
 開業したという。
  記事:
  最初にパン店が出来たとされる横浜市中区日本大通り
 に8日、「近代のパン発祥の地」と書かれた石碑がお目見
 えした。
  パン食文化発祥の説明とともに、開港直後から親しま
 れてきた「イギリス流山型食パン」と丸形の「フランス
 パン」の写真が焼き付けられており、早速、観光客らが
 見入っていた。
  同市総合パン協同組合などによると、最初のパン店が
 開業したとされるのは1860年。
  外国人の日用食品街「お貸し長屋」の一角で、内海兵
 吉という人物が、フランス人にパン製法を習って始めた。
  当初は、良い発酵方法がなく、「焼きまんじゅう」の
 様だったという。
  イギリス流の山型食パンは、イギリス人のパン店で修
 業をした打木彦太郎氏が庶民に広め、今も元町にある「
 ウチキパン」が当時の製法を引き継ぐ。
  こうした伝統を多くの市民に知ってもらおうと、パン
 業者が加盟する同組合などが碑の設置を進めて来た。
                 (読売新聞より)
.
  そして、次の話・・
.
1922年11月17日、アインシュタイン氏が来日した(~12月
 29日までの43日間)
  フランスなどを訪れ、そして、日本への訪問を目的に
 夫婦で客船「北野丸」に乗船し、そして、11月17日に訪
 日した。
  アインシュタイン氏は、大正天皇陛下に謁見ている。
  アインシュタイン氏は、ラフカディオ・ハーンが記し
 た美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、
  科学の世界的連携によって、国際関係を一層親善に導
 くことが訪日の目的である・・と語った。
  そして、アインシュタイン氏は、2人の息子にあてた手
 紙に、
  「私が会った全ての人々の中で、日本人が一番好きだ。
  謙虚で、物分かりや察しがよく、
  技術に対する勘があるから」・・と、訪日した際の感
 想を述べている。
  広島では、多少なりとも原子爆弾開発を後押しした行
 為を行ってしまったと悔やみ、そして、謝罪した。
  また、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹氏と面会
 した際にも、同様の理由で、涙ながらに謝罪したという。
.
  アインシュタインには、その言葉に、多くある日本を
 賛美する言葉がある。
  以下の文は、1922年に、アインシュタインが日本を訪
 れた時に、
  日本に託した言葉だと云われている。
  アインシュタインは、日本と日本人に対して、敬愛の
 念を持っていた。
  彼が残した色々な文面には、日本を賛美する言葉が数
 多く残されている。
  アインシュタインが日本で最も感銘を受けたのは、建
 築をはじめとする・・、
  日本の伝統的芸術であり、やさしい国民性であったと
 言われている。
  日本の良い歴史や、日本人の素晴らしい精神性を学び、
 アインシュタインがこよなく愛した、よき日本人となり、
  世界平和の発信リーダーとなれる国にしましょう。
.
  アインシュタインの言葉・・
.
  近代日本の発達ほど世界を驚かしたものはない。
.
  その驚異的発展には、他の国と違ったなにものかがな
 くてはならない。
.
  果たせるかなこの国の歴史がそれである。
.
  この長い歴史を通じて一系の天皇を戴いて来たという
 国体を持っていることが、
.
  それこそ、今日の日本をあらしめたのである。
.
  私はいつもこの広い世界のどこかに、
.
  一ヶ所ぐらいは、このように尊い国がなくてはならな
 いと考えてきた。
.
  なぜならば、世界は進むだけ進んで、その間、幾度も
 戦争を繰り返してきたが、
.
  最後には闘争に疲れる時が来るだろう。
.
  このとき人類は必ず真の平和を求めて
.
  世界の盟主を挙げなければならない時が来るに違いな
 い。
.
  その世界の盟主こそは武力や金の力ではなく、
.
  あらゆる国の歴史を超越した、世界で最も古くかつ尊
 い家柄でなくてはならない。
.
  世界の文化は、アジアに始まってアジアに帰る。
.
  それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。
.
  我々は神に感謝する。
.
  神が我々人類に日本という国を作って置いてくれたこ
 とである。
  (日本を知る会のホームページを参考にした)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年12月5日月曜日

(増補版)466E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年7月~1888年8月)

題:(増補版)466E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年7月~1888年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1888年7月21日、枢密院議長の伊藤博文が、書記官長の井上
 毅に憲法草案の内、枢密院で問題になった点についての
 再検討を指示した。
1888年7月29日、朝鮮の志士・金玉均が、小笠原から札幌へ
 移された。
1888年7月30日、辰野金吾(たつのきんご)設計の工科大学
 本館が落成した。
  この建物の敷地は、本郷における工学部発祥の地と言
 える。
  1888年(明治21)年、ここに学部最初の校舎、旧工科
 大学本館が建った。
  建物には時計台のある大きな中庭があり、一種の広場
 のように使われていた。
  設計は、東京駅や日本銀行な設計で有名な辰野金吾教
 授。
  震災後完成した現在の1号館は、1996(平成8)年、建
 築学科の香山壽夫教授によって増改修が行われ、光庭が
 屋内化され「広場」が復活した。
  学生たちの生活の中心であり、卒業式などを行うハレ
 の場にもなっている。
  (東京大学創立130周年記念事業 知のプロムナード 
 ナビゲーション・ブック)より
1888年7月31日、大久保一翁(おおくぼいちおう)が没した。
  幕末~明治時代の武士(幕臣、幕府閣僚)、政治家(
 維新政府の官僚)
  当初の実名は忠寛。名ははじめ忠正、のち忠寛(ただひ
 ろ)。
  通称は金之助、三市郎。号は石泉。
  1818年(文化14年)11月29日、旗本・大久保忠向の子
   に生まれ。 江戸出身。
  1842年(天保13年)24歳、家督相続。
  1854年(安政1年)5月、36歳、(ペリー来航後)目付
   に登用され、海防掛を担当、軍制改正用掛、蕃書調
   所頭取、外国貿易取調掛を兼ねる。
   駿河町奉行を経て、
  1858年(安政5年)5月、40歳、禁裏付を命ぜられ京に
   赴任、
  1859年(安政6年)、41歳、京都町奉行となる。
   安政の大獄で志士捕縛に当たった配下の専横に対し
   て粛正を図り、かえって西ノ丸留守居に左遷され、
   次いで罷免された。
  1861年(文久1年)10月、43歳、復帰して外国奉行、
  1862年、44歳、大目付、次いで側御用取次。
   この頃、大政奉還を前提とした諸侯会議・公議政体
   論を唱え松平慶永、勝海舟らに影響を与えたものの、
   幕府有司の反発を受け罷免、
  1862年11月、44歳、差控に処せられる。
  1864年(元治1年)7月、46歳、勘定奉行に任ぜられた
   が4日後に免職、
  1865年2月、47歳、隠居し一翁と改名。
   この様に、老中・阿部正弘に重用され、大老・井伊
   直弼(なおすけ)にうとまれた。
   井伊没後、外国奉行、大目付などとなり、松平慶永
   (よしなが)らと大政奉還を説いた。
  1868年(明治1年)50歳、鳥羽・伏見の戦で徳川軍が敗
   北してのちの
  1868年1月、会計総裁、次いで若年寄として海舟と共に
   江戸を開城に導き、新当主徳川家達に従い静岡に移
   住した。
  1872年(明治5年)5月、54歳、命により東京府知事と
   なり東京会議所の民会組織への改革を図り挫折、以
   来、教部少輔,元老院議官を歴任したが、新政府とは
   隔たったところに身を置く。
  1887年(明治20年)69歳、子爵。
   「なにひとつ世のためはせでまうつしに のこす姿の
   はずかしきかな」。
   晩年、写真を撮ったときの感慨。
   維新後は、東京府知事、元老院議官。
  1888年(明治21年)7月31日死去。72歳。
  (氷川清話)7月、山岡鉄太郎、大久保一翁逝去
1888年8月1日、東京築地の海軍兵学校が、広島県江田島に
 移った(開校は8月13日)
  海軍兵学校は、大日本帝国海軍の将校たる士官の養成
 を目的とした教育機関。
  そして、海軍兵学校は、海軍機関学校、海軍経理学校
 とともに海軍三校と呼ばれた。
  その規模では、イギリスの王立海軍兵学校、アメリカ
 の合衆国海軍兵学校とともに、世界三大士官学校の一つ
 に数えられている。 
  英語教育を重視し、総計、1万2433名の卒業生を輩出し
 ている。
  戦後、各界のリーダーとして活躍する卒業生も多い。
  沿革として、1869年に出来た海軍操練所がある。
  因みに、山本五十六元帥は32期の卒業生。
  南雲忠一大将は36期。
  (参考)
  1886年(明治19年)1月に、海軍兵学校次長兼教務総理
 に補せられた伊地知弘一中佐は、英国留学の経験から「
 兵学校を僻地に移転するの理由」なる一文を草して、江
 田島への移転を強く訴えた。
  その理由とするところは・・、
  第一、生徒の薄弱なる思想を振作せしめ海軍の志操を
   堅実ならしむるに在り。
  第二、生徒及び教官をして務めて世事の外聞を避け精
   神勉励の一途に赴かしむるに在り。
  第三、生徒の志操を堅確ならしむるため繁華輻輳の都
   会を避くるを良策とす」というのであった。
  1886年(明治19年)5月、呉に鎮守府が設置された関係
 もあって、江田.島移転が本決まりとなり、
  1886年6月には、東京から派遣された視察団が、建設用
 地の測量を開始した。
  1886年(明治19年)11月、新校舎建設工事に着工、
  1888年(明治21年)4月、物理、水雷、運用の3講堂と
 重砲台、官舎、文庫等落成。
  1888年同年8月1日をもって、海軍兵学校は、江田島本
 浦の新校舎に移され、東京から回航して江田内に面した
 表桟橋に繋留された東京丸を生徒学習船として・・、
  1888年8月13日から開校された。
1888年8月1日、兌換銀行券条例を改正し、発行限度7000万
 円とする保証準備発行を定め、
  特別の場合は、政府の許可で制限外発行とする保証準
 備屈伸制度が布かれた。
1888年8月1日、内国通運が、貨物早達便を開始した。
1888年8月7日、読売新聞が磐梯山の写真を掲載した。
  新聞の写真掲載の初めとされる。
  福島県の会津磐梯山の大噴火を銅版画で掲載。
  報道写真の元祖とも言える試みだった。
1888年8月16日、東京市区改正条例が公布された。
1888年8月20日、家茂、27年忌、
  家茂の27年忌に、勝海舟が読んだ弔辞
  「旧臣勝安房、昭徳公霊前に口演」という文章は、熱
 のこもった感動的なものだった。
  家茂将軍夫人の皇妹和宮は、未亡人となってからは、
 髪を下して静寛院と称された。
  結婚生活はわずか4年だった、
  しかも、江戸城総攻撃の時は、宮は徳川家と生死を共
 にする覚悟を表明された。
  この宮を救うためにも、勝海舟は、その当時、奔走し
 たのであったが、
  亡き将軍・家茂への恩は、いつまでも勝海舟の胸に消
 えなかったのであろう(氷川清話より)
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本人の優秀さを示す、また、一つの事例がある・・、
.
1987年(昭和62年)世界初のエイズ治療薬AZT(アジド
 チミジン)が、日本人の満屋裕明氏が発見・発明し、
  この年に、アメリカで承認され、
  患者の方々は、治療の恩恵を受ける事が出来る様にな
 った。
  満屋裕明氏は、エイズに効果があるという薬の用途を
 立派に発明し、「栄光の発明者」となった。
  しかし、問題が起きた。
  アメリカという、卑劣な地の発明に原因があった。
  この薬の値段を、満屋祐亮氏は聞いて驚いた。
  1年間で、治療費が、約1万ドル(当時のレートで約150
 万円〉と、前例のない様な高額だった。
  まず、アメリカは、日本のような医療保険制度がない
 遅れた国だった。
  アメリカの所得の低い方々には、その薬価の為、その
 薬の恩恵が受けられず、
  次々と、エイズで命を落として行った。
  折角、良い薬が出来たというのに・・、
  薬の開発者の満屋裕明氏は、その姿を見て、胸が痛ん
 だ。
  良い薬を開発したというのに、その恩恵に浴せないア
 メリカの方々が多く居た。
  その状況を解決できない遅れたアメリカ合衆国だった。
  そして、満屋氏が怒りが湧いたところは、その高価な
 薬になる理由だった。
  満屋氏は思った・・「なぜ、こんなに高いのだ、この
 薬は、政府の研究機関で、アメリカの国民の方々の税金
 を使って開発された薬ではないか?」・・と感じた。
  エイズ問題の活動家たちも、抗議行動を起こした。
  濡れ手で粟の利益を享受しているのは製薬会社だけだ
 った。
  この薬が出来た貢献度は、まったくない製薬会社だっ
 た。
  この製薬会社は、この薬が、エイズ治療になるとか、
 ならないとか、まったく分かっておらず・・不明な薬を、
 ただ、エイズへの効果を発見した満屋氏へ、「送っただ
 け」のことしかしなかった会社だった。
  実験なども、この会社は、まったく行わなかった。
  実験などは、製薬会社と、まったく関係ない所で確か
 められたのだった。
  つまり、満屋裕明氏は、特許で認められている「薬の
 有効な用途を、最初に発見・発明した人」だった。
  その特許の「用途発明」をした発明者として、れっき
 と認められる人だった。
  また、実験などは、製薬会社はまったくせず、
  製薬会社と、まったく関係ない所でその薬の効果は確
 かめられた。
  (発明性の確認が製薬会社とまったく別の所で確認さ
 れた)。
  逆に、この製薬会社は、当時、治療薬がなく、そして、
 治療法もなく、危険とされていた「エイズ・ウイルス」
 から遠ざかり(逃げ)・・、
  この製薬会社は、まったく、エイズウイルスを取り扱
 おうともしなかった。
  危険性の高い患者の血液検査も拒んで、研究協力もし
 なかった。
  研究の足を引っ張っていた。
  しかし、しかし、この会社は、発見者・発明者に知ら
 せずに、隠密に、特許を申請し、独占するというハレン
 チな事をした。
  権利は、会社だけが独占した。
  (だから・・発明者の方々は、まず、論文発表などの
 公表をする前に、最速で、特許を申請すること、
  そして、共同で研究している輩たちが、誠実に行動せ
 ず、真の発明者から「大切な特許権」を盗む事例が多い
 ので、注意を要する。
  この事例の場合には、共同研究者でもないのに盗んだ
 という最悪の破廉恥さがある)
  この製薬会社の不正義は、アメリカのメディアも取り
 上げた。
  ニューヨーク・タイムズは、「薬を開発し、リスクの
 多くを負ったのは、(満屋裕明氏らが居る)アメリカ政
 府だ」との論説記事を載せた。
  製薬会社は、別の企業や消費者団体から「特許は無効」
 などの訴訟が起こされた(発明者でもない人を発明者と
 した・・など)。
  満屋氏も、法廷の場に立って発明状況などを証言した。
  製薬会社側の弁護士から、威嚇の様な詰問を、連日、
 受けた。
  莫大な金がからむ、大発明の権利訴訟、満屋氏は、命
 の危険の恐怖に襲われた。
  その様な話もあるアメリカという国の中、「僕も殺さ
 れるのではないか?」と思った。
  暗い駐車場など、怖い思いを多くした。
  医学論文の発表は、勿論、発明者の満屋裕明氏が、世
 界初の発明者として発表しているので(この「初」とい
 う所に特許性がある)、
  世界は、満屋裕明氏を、『エイズ治療薬の初の発明者・
 開発者』として認めている。
  しかし、アメリカの訴訟の不正義が、ここでも起きた。
  満屋氏などの訴えは認められず、敗訴した。
  製薬会社側の勝訴となった。
  製薬会社は、満屋氏へは1円の報酬も支払っていなかっ
 た。
  この訴訟で、アメリカの法律の不備が明らかになった。
  連邦政府管轄の研究所で開発された薬の権利関係を定
 めた技術移転法が整備された。
  満屋氏の次なる研究目標=「安価なエイズ治療薬の開
 発」の意義がここに生まれた。
  人類のために、安価なエイズ治療薬の開発の大きな意
 義が生まれた(人類の皆様が、安心して安価な薬の享受
 が出来なくて、何の意味があるのか・・?)
  もっと安価な治療薬の開発の必要性を感じが満屋氏は、
 その薬の開発に乗り出した。
  満屋氏の本当に凄い所は、その大きな意義を達成して
 しまったところにあった。
  第二・第三のエイズ治療薬を開発してしまったところ
 にあった。
  人類が絶滅するのではと恐れられた「恐怖の病気・エ
 イズ」を克服して戴けたのだった。
  しかし、アメリカは、この例の様な「特許権を奪う行
 為が多発している」。
  アメリカだけのへ理屈理論の「先発明主義」などがあ
 って、日本の大発明は、いくつも盗まれている。
  満屋氏には、「ノーベル賞の授賞資格が、立派にある」
 が、
  このノーベル賞の査定委員会が、また、曲者で、
  この様ないきさつの満屋氏は、有色人種の日本人とい
 うこともあり、特に、不利に働いている。
  残念だが・・。
  (読売新聞、2016年11月22日を参考にした)
.
  そして、次・・、
.
1987年、世界で、初めて、。エイズに効く治療薬が開発さ
 れた。
  開発したのは『日本人』である。
  本当に、人類を滅ぼすと言われたエイズ治療薬を、初
 めて開発した日本人は、本当に、本当に素晴らしい。
  この薬は、日本やアメリカで承認され・・、
  それまで・・「死の病(やまい)と恐れられていた病
 気が克服された」。
  「薬を待ち望んでいた患者の方々へ、恩恵がもたらさ
 れた」。
  薬の名は「AZT]。
  エイズは、それまで、「人類を滅亡させる病(やまい)」
 とまで言われ、そして、恐れられていた。
  この薬を作った人は、開発者ではないが、ジェローム・
 ホーウィック博士。
  アメリカ・ミシガンがん研究所(1919年~2012年)。
  しかし、この薬は、エイズの薬として開発されたので
 はなかったので、世に、この点で埋もれていた。
  エイズに聞くとは分かっていない薬だった。
  つまり、エイズ治療薬としての発明に至っていなかった。
  ジェローム・ホーウィック博士は、だから、エイズ治
 療薬の発明者ではない。
  この薬が、エイズに効くではないかと「偉大な発見を
 したのが、日本人の満屋裕明(みつやひろあき)氏」だ
 った。
  エイズウィルス(HIV)薬の発見者・発明者だ。
  ジェローム博士も満屋裕明氏も、ノーベル賞クラスの
 業績を作ったのである。
  ジェローム博士が、出身大学からAZT合成の功績で
 表彰された時、満屋氏は、博士に会いに行った。
  そして、博士を讃え、お礼を言った。
  博士にとても喜んで戴き、博士は、受賞記念講演で、
 アメリカ詩人・エマーソンの詩を朗読した。
  「成功とは何か。しばしば、そして沢山笑うこと。聡
 明な人々の称賛と、子供たちの愛を勝ち取ること。偽り
 の友の裏切りを許すこと。世界を少しだけ良くして去る
 こと・・」、
  博士は、その詩を書いた紙を「進呈する」と言って手
 渡してくれました。
  うれしかった。
  今でも大切にしています・・と満屋氏は書く。
  ジェローム博士にしてみれば、埋もれた物質(薬)を、
 エイズ治療薬として発明してくれた満屋氏が居られたか
 らこそ、世に注目され・・そして、浮かび上がることが
 できたのだった。
  そういう意味で、ジェローム博士は、満屋氏へ感謝の
 心・感謝の意思を表したのだった。
            (読売新聞を参考にした)
.
  (追伸)
  ☆アメリカの「先発明主義(せんはつめいしゅぎ)」
 の卑劣な所:
  この主義でアメリカは、他国の特許を奪うことをよく
 するのだが、
  アメリカの研究者が、先に発明していたと認定されれ
 ば、例えば、日本人の特許権が奪われるのである。
  例えば、研究者のノートか何かにそれが書いてあって、
 先に発明していると認定されると、特許権を奪えるので
 ある。
  日本の特許は、「先願主義(せんがんしゅぎ)」であ
 って、
  日本の考え方は、先に発明したと気が付いたなら、特
 許庁へ「特許申請の願書」を提出しなさい・・という考
 え方である。
  例え、発明しても、特許庁のその願書と同じことをし
 ていたとしても、それが発明をしたと気が付かなければ、
 「発明したことにはならないのですよ」という考え方で
 ある。
  例えば、風車をいくら作ったとしても、そして、それ
 を大きくして発電機を付けたとしても、『風力発電』を
 発明したと気が付かなければ、
  そして、それを、山や野原に設置して風力で発電する
 のだと、その発明をしたのだと・・気が付かなければ、
 発明したことにはならないのですよ・・という考え方で
 ある。
  「先願発明」を発明としている国が多いが、アメリカ
 だけが「先発明主義」をしているという異常さがある。
  ☆アメリカの特許法の異常さの二つ目は・・、
  サブマリン特許:潜水艦の様に潜っているのである。
  「特許が出願されました」と公開されずに、秘密にさ
 れていて、
  特許権があるとは知らずに、その特許と同じことをし
 ていたら、
  急に、こんな特許が出願されていて特許権を持ってい
 たのだと、急に公開されて、特許権侵害で多額のお金を
 取られるのである。
  アメリカは汚く、この手で、日本の企業から何回も多
 額の金を奪った。
  さも、水面下に隠れていて、急に浮上するからサブマ
 リン特許と言うのである。
  何しろ、アメリカは不正義な国である。
  アン・フェアな国である。
  盗人(ぬすっと)みたいなことばかりしている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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2016年12月4日日曜日

臨時ブログ:雑感(2016・12・4)

臨時ブログ:雑感(2016・12・4)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1935年以降、ABCD包囲網が形成された。
  Aはアメリカ合衆国、Bはイギリス、Cは中華民国、
 Dはオランダ・・日本が、これ等の国々に、包囲網を形
 成されて、本来自由に行われるべき貿易が、制限され、
 貿易面で苦しめられた。
  そして、今・現代の・・日本の安全保障は・・、
  日本という国をを守るのは、日本の考えによって、日
 本が守る行動する・・当然である・・自国の防衛である。
  しかし、当然のこの話も・・、
  ひん曲がった話が・・展開する今なのである。
  そして、この話が関係するジャンルにおいて、前記し
 た「かつての様な」、「日本包囲網」が出来つつある。
  それは・・、
  日本以外の諸国の合意が無ければ、日本の主権によっ
 て自主的にやる「この防衛という行動」も・・できない
 という、筋の通らない話が・・存在するのである。
  日本を守るのは、当然、「日本以外の国から守る」の
 である。
  どこの国でもそうである。
  しかし、その行動をしようとすると、「その諸国の合
 意を得よ」という話なのである。
  例えば、アメリカを例に言うと・・、
  アメリカが、アメリカという自分の国を守る行動をし
 ようとすると、「カナダやメキシコの同意を得よ」とい
 う話に置き換えるようなものである。
  この様な例にすれば、「それはおかしい」とすぐに分
 かるわけなのだが・・?
  こと、日本の話になるとそうではないのである。
  かつて、アメリカの元国務長官のキッシンジャーが、
 日本に対して言った。
  その逆は・・ない。
  日本だけに課せられる。
  クラスの「いじめっ子」状態である。
  まったくおかしい話である。
  その様な事が、「国際的」という中で行われようとし
 ている。
  そして、「グローバルな規約が良い」のであるという
 言い方をする。
  「グローバルが良い」という言葉が、その言葉だけが
 良いという雰囲気の中で『踊る』のである。
  その言葉が踊る中で行われるのである。
  この言葉は、キリスト教に偏するNHKがよく使う。
  キリスト教に偏するNHKは、この「グローバルが良
 い」を良く言う、そして、放送する。
  この言葉をプロパガンダ(嘘宣伝)する。
  「刷り込み行為」を、よくする放送局となっている・・
  だから・・注意を要する。
  また、NHK出身の千葉商科大学教授の宮崎緑も、二
 言目には「グローバルが良い」を言うから・・また、注
 意を要する。
  「日本は、主権を持った国である」・・当然。
  国際だからという・・グローバルだからという・・話
 を紛れ込ませて、「日本の権利をはく奪する行為」が、
 なされようとしている。
  かつて、この様な虐(いじ)め方が、ヨーロッパで行
 われた。
  その結果、とうとうその国は、それらの圧迫をはねの
 けようと、「ヒトラー」という人物を生み出した。
  ヒトラーは良くないことを行なったとはいえ・・それ
 を生み出させた責任は、それらの『その他の国』にあっ
 た。
  その責任は・・逃れられない。
  しかし・・この話は封印されている・・国際社会から
 隠されている。
  それは良くない。
  ヒトラーの出現の陰には、この様な国際社会という虐
 め集団のヨーロッパ社会の『圧迫と虐め』があった。
  この様な国際という社会が、グローバルというひん曲
 がった社会理念・観念が、「悲惨なヒトラーの罪悪行為」
 を生んだ。
.
  そして、次・・、
.
2016年11月9日、アメリカ大統領選挙が、11月8日に投開票
 され、共和党候補のドナルド・トランプ(70歳)が、
  民主党候補のヒラリー・クリントン(69歳)を破り、
  当選した。
  このトランプ当選で、アメリカだけでなく世界に激震
 が走った。
  クリントンなら「今まで通り」で未来予測もでき、大
 変化もなく、「安泰だ」だった。
  だが?・・トランプは予測不可能、予測が出来ない?
  そんなところに、今、世界はいる。
  超大国アメリカのトップだからだ。
  アメリカは、共和党の「赤」と、民主党の「青」が拮
 抗(きっこう、勢力がほぼ同等のものどうしが、互いに
 張り合って優劣のないこと)した。
  別の言い方をすれば、「ほぼ二分された」「真っ二つ
 の分断・分裂状態」・・である。
  アメリカの世界戦略が変わるのか?
  今、アメリカの戦略上の退潮は明らかな状況にあり、
 アジアにおいてもアメリカの退潮があり・・、
  縄張りに囲い込もうとする中国と、今までの覇権を維
 持しようとするアメリカが、つばぜり合いをする状況。
  アメリカが、退潮だといって、そんなにすんなり、手
 を引いて行くことはない・・、
  しかし、横須賀の原子力空母や、沖縄の嘉手納の戦闘
 機は、より中国から遠い後方へ移動がなされる方向へ。
  そのような状況の中で、アメリカと中国による、囲い
 込みがなされていく。
  アメリカの対中融和姿勢は、オバマ政権でも行き詰り、
 対中強硬路線へ転じた。
  2030年頃には、米中の国防予算が、逆転するという。
  そして、中国は、日米分離を精力的に行う、当然に。
  また、そのために、中国は、対日融和政策をとる、日
 本囲い込みのために・・。
.
  そして、次・・、
.
1973年9月22日、アメリカの国務長官に、ヘンリー・キッシ
 ンジャーがなった。
  この第56代アメリカ合衆国国務長官は、リチャード・
 ニクソン大統領と、ジェラルド・フォード大統領に仕え、
 1977年1月20日まで務めた。
  アメリカが望むことで・・、キッシンジャー(アメリ
 カの元国務長官)は、過去のこの任務にある時に・・、
  「日本が、今後も核保有しないこと」や、
  「日本が、再軍備(つまり、憲法改正)して軍事能力
 を高める事はしない」・・と、国際公約させようとした。
  この日本に対する要求に対し、日本が、「その要求を
 受け入れる事によって失われる点の補完(ほかん、不十
 分な部分を補って、完全なものにすること)に対して、
 何ら配慮されていない、日本だけが失われる」という片
 務(へんむ、契約当事者の一方だけが義務を負うこと)
 の状況の要求が行われた。
  逆に、日本からアメリカへ、同じ要求がなされたら、
 アメリカは応じられるというのか?
  例えば、「アメリカは、今後、核保有をしない」や、
 「アメリカを軍備のない状態にして、軍事能力を高める
 ことはしない」・・である。
  これを、アメリカは受け入れられる訳がない。
  この様に、自国のことに置き換えて言われてみれば、
 如何に、自分たち・アメリカは、過大な要求を日本にし
 ていたかが分かるだろう。
  アメリカは、卑劣な要求をしたのである。
  一方的に、日本にばかりに要求を出す国なのである。
  そこには、対等な国対国の公正さ・公平さはない。
  アメリカは、この様な時・・第三国の話を持ち出す。
  日本が、その様な条項を受け入れられないなら、「北
 朝鮮が核放棄できるわけがない」・・と来る。
  何故、日本だけが負担を追わねばならないのだ?
  例えば、北朝鮮に核放棄できないのは、アメリカの核
 攻撃の心配があるからであって・・、
  だから、北朝鮮のその心配を除くのが第一なのだ、
  故に、アメリカは、北朝鮮に核放棄させるために、ア
 メリカは核放棄するか、または、北朝鮮へ核攻撃はしな
 いと約束するのが必須なのだ。
  「アメリカは、北朝鮮へ核攻撃はしない」という条約
 を結ぶべきだ。
  「アメリカが信用されるか?」が問題なのだが、
  アメリカは、自国が不利になる事は、一切、逃げる。
  それを、臆面もなく、日本へすり替えて要求する。
  日本は、中国以上に、アメリカでのロビイストを増や
 し、日本を理解してもらうように努める必要がある。
.
  そして、次・・、
.
2016年11月時点の新聞に、次の本の広告があった。
  本の名は:「カエルの楽園が地獄と化す日」
  百田尚樹氏と石平氏の本である。
  そして、その広告記事に書かれていたことは・・、
.
  ☆中国の軍事冒険主義は、今後、さらにエスカレート
   する
  ☆軍艦、戦闘機の次は何が来るのか?
  ☆ベストセラー作家・百田尚樹と、中国人の本心を知
   る石平が、最悪の日本侵略シナリオを警告
  ☆軍事衝突、巨額の損害賠償請求、政権転覆、粛正・・
  ☆戦慄シュミレーション・不気味な予言は、すでに半
   分的中した。
  ☆戦わずして尖閣を奪われるシナリオ
  ☆中国は、なぜ日本侵略を企(たくら)むのか
  ☆チベット、ウイグルで見た恐ろしい支配の実態・沖
   縄「独立」を足掛かりにした侵略
  ☆日本が、中国に占領されるとき
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive