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2016年8月12日金曜日

(増補版)398E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年7月~1884年7月)

題:(増補版)398E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年7月~1884年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年7月21日、横須賀造船所の開渠式
  日本海軍の造船工業に、一つの転機をもたらした横須
 賀造船所。
  その造船所のドック竣工式が行われた。
  北白川宮能久親王殿下(きたしらかわのみやよしひさ
 しんのう、明治天皇陛下の義理の叔父)には、海軍卿・
 川村純義以下の随員を従えて、御臨場いただき、
  儀式は、華麗かつ荘厳を極めたという。
  1880年(明治13年)6月より、伊豆や相模の各地から船
 渠用の石材切出に着手し、
  石の総数約27,800個、使役延人数約272,600人という大
 工事であった。
  新聞報道も、当時としては珍しい電燈が、式当日の夜、
 点火され、不夜城を現出したと報じている。
  1887年(明治20年)正月に、東京市街に電燈が点火さ
 れ始めるより3年も前の事で、
  人々が驚異の眼で見つめたと伝えている。
  現在の米海軍横須賀基地にあった横須賀製鉄所(造船
 所)が、1865年(慶応元年)11月15日に建設が始められ
 て・・という説明もある。
  造船所の計画は、フランスの力を借り、現実化した。
  幕府は、アメリカに協力要請をしたが、
  当時、アメリカは南北戦争中で協力できないと言われ
 た。
  この時、フランスは、主要産業の製糸業の「カイコ」
 が、伝染病によって壊滅した。
  産業が成り行かない状態となり、日本に生糸輸入を頼
 り、また、伝染病に強い「カイコ」を求めた。
  駐日フランス公使・ロッシュは、積極的に幕府への接
 近を図った。
  この時、この幕府とフランスとの仲立ちをしたのが、
 栗本鋤雲(くりもとじょうん、外国奉行)だった。
  栗本鋤雲は、幕閣・小栗忠順(おぐりただまさ、のち
 小栗上野介、勘定奉行、外国奉行)と竹馬の友であり、
  また、関係を作ったフランス人のカションは、栗本が
 函館にいた時に共に過ごした仲だった。
  小栗、ロッシュ、栗本、カションの4人で話が進み、1
 ヶ月もたたないうちに、造船所の設置場所として横須賀
 決定されるというトントン拍子に話が進んだ。
1884年7月22日、横浜正金銀行が「外国人為替取組手続き」
 を定めた。
  厳しいインフレの収束が課題となっていた1880年にな
 ると、
  正貨の吸収と、生糸などの主要物品の直輸出奨励を通
 じた貿易の振興を目的に、
  輸出商と政府が、主要な担い手になる形で、為替専門
 銀行として横浜正金銀行が設立された。
  直輸出奨励金融・・御用外国荷為替制度の成立・・
  正貨吸収を主目的とする御用外国荷為替制度の成立・・
  御用外国荷為替制度の発展・・外国人為替取組制度の
 成立・・
  日本の貿易は、居留地貿易が支配的であり、外国商人
 を相手として、外国為替業務を行ってこそ、同行が外国
 為替業務を拡張することができた。
  これによって、「海外為換の権を占むる」ことができ、
 また、輸出為替手取金として正貨、外貨を獲得すること
 もできた。
  外商との外国為替取組は、これまで外国銀行によって
 独占的に取扱われてきた。
  だが、マーカンタイル銀行が、困難に陥り、正金銀行
 設立の前年の1879年に、一時、横浜支店を閉鎖し、同年
 までに、オリエンタル銀行は前述の要因によって、殆ん
 どの準備金を失って、無能力となっていた。
  セイロンのコーヒー生産が、黄葉病による打撃を受け
 たことも、同行の貸付金回収不能をもたらし、オリエン
 タル銀行の経営危機をもたらした。
  オリエンタル銀行の営業状態が、危険性を孕んでいる
 という噂も、1883年には、その筋の人々の耳に入ってい
 た。
  また、その他の在日外銀も資金が不足していた。
  すなわち、1883年に、「外国各商館並ニ銀行ニ於テ金
 融極メテ逼迫当行〔横浜正金銀行〕ヘ為替ヲ依頼致旨申
 込候申込候者」が少なくなかった。
  原頭取は、「時期こそいたれり」と、1883年8月初旬頃
 から、外国商人に対する荷為替取組開始の計画を練った。
  同年・1883年10月24日に、原頭取は、「外国人為替取
 組ニ付伺」書を、松方大蔵卿宛に提出した。
  この上申書において、「好時機ヲ失ハス彼等〔外国人〕
 ノ依頼ニ応シ候ハゝ往々外国為替拡張ノ基トモ相成可申
 且外国ニ於テ収入スヘキ金額モ増加可致」と主張した。
  1883年10月30日、松方大蔵卿は、この出願を認可し、
 かくして、正金銀行は、外国銀行の力の弱まった機会を
 利用して、外国人為替取組を開始するに致った。
  堅実経営方針をとる正金銀行は、身元確実で信用でき
 る外商だけを相手に、為替を取組み、外国人為替は、支
 払延滞の憂いがなかった。
  しかも、この為替の抵当物が外国に到着すると、ただ
 ちに、この為替手形は外国で割引され、荷物が引取られ、
  正金銀行は、支払期限以前に為替金の支払を受けた。
  かくして、外国人荷為替取組開始後、この取扱高は増
 大した。
  外国人為替取組の前途は、有望であった。
  松方大蔵卿は、正貨の吸収、外国為替権の回復を図ろ
 うと考えていた。
  前者に関しては、松方大蔵卿は、紙幣整理政策を推進
 していたが、このためには、紙幣の正貨(金銀とくに銀)
 との交換消却のために、政府が、正貨を国内で蓄積しな
 ければならなかった。
  政府は、準備金中の紙幣を、正金銀行に預入れ、同行
 に外国荷為替を取組ませ、輸出為替手取金(外貨)で返
 納を受け、これを日本に現送しようとした。
  しかも、正貨の獲得は、外債利払・軍艦代その他の各
 庁経費などの政府対外支払上からも必要であった。
  とくに、1882年以来の、軍備拡充計画に伴って、海軍
 艦艇等の代金の対外的支払が増大したことが、この必要
 性を高めたのであった。
  これについて、松方大蔵卿は、紙幣整理のための財政
 整理を断行したけれども、
  国権の強化・対外的危機(1882年の朝鮮事件)への対
 処のために軍事・警察機構を大蔵卿就任以来強化しよう
 とした。
  軍備拡張は、1882年12月25日に、政府部内で正式に決
 定され、
  軍事費は、1883年度以後、急速に増大した。
  海軍軍備拡張案は、1882年には、出超による正貨不足
 の相対的解消を背景として、
  前年の漸進的整備・国産化重点主義から軍艦の輸入依
 存主義に転換している。
  1883年以降、海軍急速整備・軍艦の組織的輸入を中心
 として海軍軍備が拡張された。
  松方が、軍艦兵器輸入の一時的制限を主張するに至る
 のは、国際収支の赤字が予想される1887年(明治20年)
 に至ってからだった。
  かくして、松方大蔵卿は、直輸出奨励という従来の政
 策を基本的に転換しようとした。
  「外国為換金取扱規程」第11条では、為替取組は、原
 則として本邦商人と取組むべきであるとされ、
  「必要ノ場合ニ於テ外商ト取組ヲナサントスルトキハ
 其事由ヲ大蔵省ヘ開申シテ認可ヲ請クヘシ」と定められ
 ていた。
  正金銀行の為替取組を増加させようとすれば、外国人
 為替取組を制度として定着させる必要があった。
  1884年6月9日、大蔵卿・松方正義は、太政大臣・三条
 実美に対して、正金銀行に外国人為替を取組ませるよう
 上申し、
  翌月・7月22日に、太政大臣がこれを認可した。
  同月・7月に、大蔵省は、「外国人為替取組手続」を定
 めて、これを正金銀行に令達した。
  かくして、1884年(明治17年)7月に、外国人為替取組
 制度が成立した。
  「外国人為替取組手続」の制定は、1880年制定の旧荷
 為替法(後に一部改正)、1882年制定の新荷為替法に続
 く、3度目の基本御用荷為替法の制定であった。
  正金銀行は、「外国為換金取扱規程」と「外国人為替
 取組手続」の2法のもとで、外国為替業務を拡張すること
 となった。
  外国人荷為替(輸出荷為替)取組制度の第1の目的は、
 正貨の獲得であった。
  松方大蔵卿の上申書においては、大蔵省が、正貨を十
 分収得できることが、外国人の為替取組依頼に応じる根
 拠とされている。
  また、この制度は、外国銀行に掌握されていた外国為
 替権を日本に取戻すという目的を持っていた。
  外国人為替取組によって、御用荷為替制度が、正貨獲
 得・蓄積という目的を持つことが、ますますはっきりし
 た一方で、直輸出奨励という目的は、後景に退いたので
 あった。
  この制度の樹立は、農商務省、とりわけ1884年に、『
 興業意見』の編纂主任を勤めた同省大書記官・前田正名
 の直輸出奨励構想と鋭く対立した。
  前田は、外商の貿易支配を激しく批判し、地方在来小
 規模産業の保護を主張し、
  その輸出貿易拡張方策の1つとして、海外直輸出荷為替
 金融を便利にすることを主張した。
  すなわち、『興業意見』では、政府が、海外に払出す
 べき正貨に相当する資金を、海外荷為替資金に充当し、
 輸出品に低利をもって荷為替金を貸与し、その貨物を、
 海外輸出品関係の同業組合が設立した海外大商店その他
 に輸送して売却し、この代金で、荷為替資金を支払い、
 この資金を、その地の銀行に振込み、必要に応じて政府
 が、これを引出して用いるべきであると主張した。
  外国人為替取組の手続きは次のようなものだった。
  横浜正金銀行は、政府から預かる外国為替元金〔紙幣〕
 の中から、銀貨〔銀兌換券を含む〕を買入れる。
  この銀貨をもって、参著後6ヵ月以内〔1888年6月の改
 正では4ヵ月以内〕払いの為替を、外国商人から船荷証券
 をとって買入れる。
  外国人為替手形、および、船荷証券は、駐外領事に発
 送され、これらは、到着後、正金銀行出張員に引渡され
 る。
  同出張員は、荷主に、これら書類を引渡し、受取った
 貨幣を領事へ納入する。
  身元が確実で、十分信用できる荷受主に対しては、為
 替金支払の承諾に対し、時宜により人金前でも船積証書
 を引渡した。
  外国人為替を取組む前に、正金銀行が、当座の資金を
 外国人へ貸出すことも行われた。
  外国人為替取組制度成立後、1886年に至るまで、正金
 銀行の為替取扱高が、顕著な増加を示すに至った。
  1884年には、外商を相手とする為替取組高が、同行の
 為替取組高の半ば以上、1885年には、これがその大半を
 占めるに至った。
  1886年1月に、原頭取は、「先年外国人荷為替ノ取組ミ
 ヲ相開キ候テ以来当行為替取組高頗ル巨額ニ上リ当港輸
 出生絲荷為替ノ如キ其総額凡ソ四分ノ三ガ当銀行ニ帰シ
 候相成……今日ニ於テハ本港為替ノ権ハ殆ント当銀行二
 帰セントスルノ有様」であると述べている。
  それではなぜ、正金銀行が、居留地の外国銀行に対抗
 して、外国人を相手とする輸出荷為替の取組を増大させ
 ることができたのか。
  これはまず、第1に、国家の保護が、正金銀行に与えら
 れて同行の基礎が強化されてきたし、
  また、外国人為替取組後、これが強化されたからだっ
 た。
  すなわち、前述の原の改革は、正金銀行と国家との結
 びつきを強めるものであった。
  また、原は、1883年4月の臨時株主総会で、定款の改正
 を行い、「政府の実質的監督権の強化」を図った。
  従来、定款最後の別段規定の条項に規定されていた、
 大蔵卿が必要と認める場合は、正金銀行頭取を改選・選
 定できるという条文は、第8条の頭取選出の条項で規定さ
 れるようになった。
  また、株主の発言投票権は、所有株式500株以上の場合
 にこれを増加しないという従来の制限は廃止され、政府
 所有株の発言投票権は激増した。
  このような正金銀行の国家機関的性格の強化は、政府
 の資金援助を容易にした。
  正金銀行が、外国人為替取組を開始しようとした当時、
 同行は、居留地で銀貨を支払う必要があったが、1883年
 6月の改革で、同行は、所有銀貨を紙幣と交換していた。
  銀紙の相場の開きは残っていた。
  そこで、同行は、8月7日に、居留地外商が、輸出する
 生糸に対する為替を取組むために、銀貨需要に対する準
 備として、年利2%で銀貨90万円の賃下げを大蔵省に出願
 した。
  同年・1883年10月10日に、松方大蔵卿は、銀貨50万円
 に限り、無利子で正金銀行に預入れることを許可した。
  政府銀貨預金に依存して、正金銀行は、外国人為替取
 組を開始した。
  「外国為換金取扱規定」第2条で、政府が、正金銀行へ
 為替資金として預け入れる紙幣の限度額は、400万円と定
 められていた。
  1884年(明治17)2月に至り、太政官へ稟議の上、政府
 は、正貨獲得のために、時機によりては、多少制限額を
 超過して正金銀行に貸出せることを決定した。
.
  (今日の言葉)
.  
  題:歴史的に見ると、意外とあっけないものなのだ・・、
.
   (民族の安定性・・いつまでも続くと思うな親と国)
    しっかり守ろうという気概を持つことが大切・・
    気概:きがい、困難にくじけない強い意志
.
紀元前37年~668年、高句麗が存在した。
  高句麗(こうくり)は、今の中国東北部の南部から
 朝鮮半島北中部にあったツングース系民族による国家と
 いう。
  最盛期は、満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とし
 た。
  隋、唐を始めとする中国からの侵攻を、度々(たびた
 び)撃退したが、
  最終的には、唐・新羅の遠征軍により滅ぼされた。
  このツングース系民族は、満州からロシア領のシベリ
 ア・極東にかけての北東アジア地域にの広い地域に住み、
 ツングース諸語に属する言語を母語とする諸民族として
 歴史を刻んで来た。
  今・現在のツングース系民族は、満州民族、シベ族、
 オロチョン族、エヴェンキ(ソロンを含む)、エヴェン、
 ナナイ、オロチ、ウリチ、ネギダール、ウデヘ、ウィル
 タなど諸民族が居るとされている・・が・・、
  これらの民族は、満州民族を除いて人口が少なく、漢
 民族(中国語)や、ロシア民族(ロシア語)の影響が大
 きく、固有の文化や居住権が危機にさらされている・・
 と解説されている。
  日本が手を貸して、1932年に建国させてあげた満州民
 族(女真族)は、「今は居ない」と書く書物もある。
  (ここは漢民族の中国の地ではない、ツングース系民
 族の地なのである)
  高句麗は、日本の教育では、朝鮮民族の国と教えられ
 ている。
  朝鮮でも、当然、朝鮮民族とみていて、「中国の北部
 までその領域を広げた国」として誇りにしている。
  また、この中国の北域は、朝鮮民族の領域なのだとい
 う意見が韓国・朝鮮にある。
  今、半島だけのように見られている朝鮮民族ではある
 けれど・・と・・、
  しかし、中国は、高句麗を、「朝鮮民族の国」ではな
 く、「中国の地方政権だ」としている、言っている。
  「朝鮮民族なんかじゃない」としている。
  今、中国の主張している南シナ海の「九段線」が、国
 際的に否定され、「中国領ではなくなった」が、
  この様に、歴史を見ると、民族の行く末・盛衰は激し
 いのである。
  中国の領土的拡大路線は続く・・、
  そして、台湾を中国領とする行動が続けられている、
  そして、日本を飲み込み、「太平洋を半分づつにしま
 しょう」と、アメリカに言っている中国である、
  因みに、今、中国が領有した国は、「内モンゴル自治
 区」「広西チワン族自治区」「チベット自治区」「新疆
 ウィグル自治区」・・など。
  今、中国は、各地を侵略している。
  日本民族も、『平和の夢を貪(むさぼ)っている』と、
 過去の上記の民族の様になる。
  歴史的には、意外とあっけないものなのだ・・、
.
  (追伸)
  もう一度、満州を改めて考えてみると・・、
  上記の様に・・満州は、朝鮮に言わせれば、高句麗が
 あったように「朝鮮のものだったのだ」と言い、
  中国は、今・現在、漢族の中国が、ツングース系民族
 の地を領有していて、「中国の一地方だ」と言うし、
  当時、ロシアは、この満州を含む広域に南下して来て、
 朝鮮まで奪おうとしていた。
  アメリカも、満州の権益が欲しいと、中国を抱き込ん
 で、日本をターゲットとして、ぶつかって来ていた。
  ここ満州は、ツングース系民族の方々の地なのであっ
 て、この弱小の民族であるがゆえに、この様な状況にな
 っていた。
  日本が侵略したというのは、アメリカを含む日本以外
 の国々の「自分に都合の良い言い方だけのこと」であっ
 て、
  弱小の民族の地を、アメリカや各国も侵略していると
 いう状況であった。
  しかし、日本だけは、それを本来の線に戻そうという
 行動をした。
  満州人の地に、満州国を手助けして樹立した。
.
  (追記)
  イギリスとドイツも中国の侵略国だった。
  特に、イギリスは最大の中国領の占領国だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年8月10日水曜日

(増補版)397E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年6月~1884年7月)

題:(増補版)397E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年6月~1884年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年6月中旬、第1回医術開業試験が施行された。
  歴史・・、
  1874年(明治7年)「医制」が公布された。
   (文部省より東京・京都・大阪三府に布達)
    国家の試験による医師の開業許可制を採用した。
  1876年(明治9年) 内務省は「医制」を全国に及ぼす。
    各県は、県規則により医師の開業試験を実施した。
  1879年(明治12年)内務省は「医師試験規則」を各県
   に達し、全国統一の試験を実施した。
  (大学卒業者等に対しては無試験で開業免許を授与し
   た)。
  1883年(明治16年)内務省は「医師免許規則」及び「
   医術開業試験規則」を布達。
  1884年(明治17年)より試験実施。
  医術開業試験では、西洋医学の知識を問う問題が出題
 された。
  それまでは、医師といえば、漢方医が主流であったが、
 医術開業試験の導入により、新規に開業する医師は、西
 洋医学の知識が必須になった。
  これは、医師の西洋化において画期的な出来事だった。
  医師免許は、医術開業試験合格者の他、医学教育機関
 の卒業者に対しては無試験で与えられた。
1884年6月15日、わが国最初の女性専門誌『女学新誌』が
 刊行した。
  (近藤賢三編集)が修正社から発行した。
  ⇒翌・1885年7月20日に『女学雑誌』になった。
  初代編集人の近藤賢三は、婦人論が活発になった風潮
 をみて、それを1年で廃刊し、新たに「女学雑誌」を創刊
 した。
1884年6月24日、和解調停の勧解略則が制定された。
  勧解(かんかい)は、紛争当事者のどちらか一方の申
 し立てによって、裁判所の裁判官が、民事上の争いを和
 解させる制度で、
  江戸時代にあった内済(ないさい、事を荒立てないで
 調停する制度)をもとにして、フランスのコンシリエイ
 ションの影響を受けて成立した制度であり、
  この年に、勧解規則が制定され、治安裁判所に勧解係
 2名を置いて、勧解事件を取り扱った。
  勧解略則施行心得では、勧解係1名は、その地方の資産
 家で、風俗習慣を熟知する人望ある者を選任することに
 なっていた。
1884年6月25日、日本鉄道が高崎まで延長され、明治天皇陛
 下の御臨席のもとで上野駅で開通式が開かれた。
  この日、陛下は上野~高崎間を往復、御乗車された。
  この年、高崎、前橋まで延長され、全通した。
1884年6月25日、貞明皇后の御生誕
  旧摂家・公爵である九条道孝の四女として御生誕の後、
 大正天皇陛下の皇后となられた。
1884年6月26日、参謀本部に測量局が設置された。
  陸地測量事業が、参謀本部に管轄統一された。
  そして、1888年に、測量局が、陸軍参謀本部陸地測量
 部を経て、
  翌年・1889年に、参謀本部陸地測量部となった。
  陸地測量部によって、本格的な全国の三角測量と水準
 測量が行われ、
  正確な地形図が作成された。
  発足時には、参謀本部測量局など以前の組織による測
 量、また、内務省地理局による全国測量の業績があり経
 験豊富な技術者も配属されていた。
  部内の職制は、三角科、地形科、製図科、修技所が設
 置され、
  三角科は、三角測量を主とした広範囲の大地測量を担
 当、
  地形科は、三角測量後の内部の詳細な地形や地物を測
 量した。
  また、修技所は、第二次大戦中、教育部に改称され、
  陸地測量部は、第二次大戦終結の1945年まで継続した。
  その後、地理調査所をへて国土地理院になり、
  教育部(旧修技所)は、国土交通大学校測量部に引き
 継がれた。
1884年6月26日、フェノロサが、岡倉天心とともに関西を巡
 り、法隆寺夢殿の救世観音像を発見し、公開へ・・、
1884年6月、菊亭香水(きくていこうすい、佐藤蔵太郎)の
 『惨風悲雨 世路日記(さんぷうひう せいろにっき)』
 が刊行した。
  明治末年までに、数十万部のベストセラーとなった。
  内容の一例は・・、
  CがBに何か食べさせて馬にしてしまうのだが、馬にな
 ったBにAがなすびを食べさせると、元のBに戻ることが
 出来たという
1884年7月6日、工部省が、長崎造船局を廃止とし、郵便汽
 船三菱会社に貸し下げ、長崎造船所と改称した。
  郵便汽船三菱会社社長の岩崎弥太郎が、政府から25年
 間借り受けることになった。
  この時、郵便汽船三菱会社は、政府と共同運輸会社と
 の戦いの真最中であったが、基幹産業として着目した。
  岩崎彌太郎が所有する37隻の修理と、造船所経営の必
 要に迫られて、官から民に移譲した。
   急速な近代化を図りたかった。
  背景には官営事業の失敗もあった。
  1887年(明治20年)4月に至り、岩崎彌之助(岩崎弥太
 郎の弟)が、大蔵大臣伯爵・松方正義に長崎造船局の払
 下げを申請した。
1884年7月7日、華族令を定める。
  華族を5爵に定め、制度化する華族令が制定された。
  公爵11人、侯爵24人、伯爵76人、子爵327人、
 男爵74人。 
  (氷川清話)華族に五爵を置く。
  この日、制度取調局の局長・伊藤博文を中心に制定さ
 れた。
  従前の華族を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に区
 分し、基本的に旧公家の華族は家格により、旧諸侯の華
 族は石高により、それぞれの爵位を授爵した。
  また、国家に勲功ある者を新たに華族に列し、勲功に
 よりそれぞれの爵位を授爵した。
1884年7月14日、群馬県・中小坂鉱山を、坂本弥八へ払下げ
 の許可をした。
  この鉱山は、群馬県下仁田町にあった鉄鉱山で、
  江戸時代末期に発見されたと考えられる。
  幕末には、水戸藩が設立した反射炉で使用される鉄を
 供給したり、
  江戸幕府による、溶鉱炉建設予定地ともなった。
  明治維新後は、1874年(明治7年)に、イギリス人技師
 を雇い入れ、洋式高炉などの近代的な製鉄設備の建設を
 開始した。
  イギリス人技師とスウェーデン人技師の技術指導のも
 とで本格的な近代製鉄を始業した。
  民間経営で、良質な鉄を比較的安価に生産することに
 成功し、日本の製鉄業の草分けとなった。
  その後は、1961年(昭和36年)まで断続的に操業が行
 われた。
  中小坂鉄山が発見され、鉱山開発が開始された幕末期
 は、諸外国との緊張が高まりを見せており、
  1850年代、とりわけ1853年(嘉永3年)のペリー来航以
 降、幕府や諸大名が大砲鋳造に取り組むようになってき
 た。
  すでに、18世紀末の段階で、欧米では、旧来の青銅製
 の大砲ではなく、鉄製の大砲が用いられているようにな
 っていたが、
  1840年代、高島秋帆、そして、江川英龍らが、鉄製の
 大砲の採用を進言した。
  しかし、1850年代以降、各地で反射炉が建設されて鉄
 製の大砲が鋳造されたが、せっかく鋳造された大砲の多
 くが不良品であった。
  鉄製大砲の鋳造が上手く行かない原因は、これまでの
 日本の製鉄原料となっていた砂鉄が、大砲の砲身の材料
 鉄としては不向きで、
  岩鉄、すなわち、鉄鉱石の鉄を用いる必要があると考
 えられた。
  当時、水戸藩の徳川斉昭は、強硬な攘夷思想を持って
 おり、攘夷を果たすことを目的として反射炉を建設して
 鉄製の大砲を鋳造することにした(成功せず)。
  万延元年遣米使節の目付として渡米した小栗忠順は、
 ワシントン海軍工廠などの見学を通じて、日本に鉱工業
 を興す必要性を痛感した。
  小栗の進言によって、1865年(慶応元年)横須賀造船
 所の建設が開始され、横須賀造船所で用いる鉄の供給元
 として中小坂鉄山が注目されることとなった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:カイロ会談と天皇陛下のお言葉
    (アメリカ・イギリスへの攻撃禁止)
.
1943年11月22日~27日、カイロ会談が開かれた。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、この時、日本の無
 条件降伏を改めて要求した。
  日本の降伏がはっきり自覚されて、この会議が開かれ、
 そして、この発言になっている。
  この時は、広島・長崎に原爆が落とされる1年9ヶ月以
 上も前の事である。
  こんなに早い時期から、アメリカの戦争遂行の最高責
 任者であるアメリカ大統領ルーズベルトは、「アメリカ
 が勝つことは間違いない」という見解にあった。
  であるならば、戦争を早く終わらせるために、広島・
 長崎に原爆を落とすのだ・・というアメリカの論理は、
 成立しない。
  「作られた論理だ」と・・この点からも言える。
  この頃、アメリカの極東専門家らの間でも「降伏後の
 日本をどう扱うか?」が話し合われたりしている。
  このように、日本の敗戦は誰の眼にもはっきりしてい
 た。
  原爆投下の必要性は、「まったくと言ってない」。
  中国の重慶では、国民党の孫文の長男の孫科(立法院
 長・国会議長)が、「日本の戦犯を厳しく処せ」と言う
 ほど、日本の敗戦は誰でも知る、世界的に知られること
 になっていた。
  アメリカ大統領ルーズベルトは・・、
  「日本の自動車や航空機のエンジン製造を禁じる」と
 か、
  「軍工場、軍艦の造船所を取り壊す」とか、
  「日本人ほど憎むべき敵はいない」とか、
  「(日本人を)飢えで死なせるほどではない」とかと、
  日本との戦争に、もう勝つという確信の中に居て・・
 好きな発言をしている。
  この様な戦争が、1年9か月続き、原爆が落とされる。
  必敗の日本に落とす必要性は、明らかにまったくない。
  うっぷん晴らしと言える。
  また、アメリカが手に入れていた次期の兵器・原爆の
 威力確認(性能確認)からの投下だった。
  卑劣な、軽蔑すべき・・人体実験。
  白人種のドイツ人の頭上には落さないとヨーロッパで
 言われているように、
  キリスト教の「有色人種の蔑視」の観念に洗脳され、
 マインド・コントロールされた流れの中で、日本人への
 『安易な原爆投下行為』だった。
  (第一次世界大戦後の会議で、日本はあれほど「有色
 人種への蔑視はするな」と言っていたのに・・である)
  日本の敗戦後が、いろいろ話し合われるこの頃・・、
 アメリカのヘラルド・トリビューン紙は、次の報道をし
 た・・、
  「ヒロヒト(昭和天皇)の1941年における平和への呼
 びかけは、彼を救うかもしれない」と、
  この様な論説記事を掲載した。
  そして、この論説記事の中に・・、
  日本の真珠湾攻撃の約2か月前に、天皇陛下が、日本陸
 軍と海軍に対して、
  「アメリカ・イギリスへの攻撃を禁じる」という攻撃
 禁止をしていると報じた。
  その裏付けとして、アメリカ国務省の公開文書に、そ
 の証拠があると解説した。
  しかし、アメリカのこの様な動きを中国は牽制した。
  中国は、日本の天皇制を嫌った。
  この時も、中国は、国家主導でキャンペーンをした。
  今も昔も、中国のやることは同じだった。
  この中国のキャンペーンは、びっくりするぐらい幅広
 く行われ、影響があった。
  アメリカの外交誌「フォーリン・アフェアーズ」を動
 かし、反対報道された。
  また、米上院の委員会でも議題となった。
  因みに、このカイロ会談に、蒋介石を出席させたのは
 ルーズベルトであった。
  蒋介石が、日本と休戦協定・単独講和を結ぶ事で抗日
 戦を断念し、連合国の戦線から脱落する恐れがあった。
  その中国を、米英ソの三巨頭に加えて祭り上げ、
  第一次世界大戦で得た日本の領土の返還させ、また、
 台湾などの返還や、常任理事国入りさせて・・などと持
 ち上げて、寝返りしないようにした。
  大戦中、それまでの蒋介石は、英米からの支援が少な
 いことに不満を持っており、日本に寝返るのではないか
 と噂が絶えなかった。
  しかし、素晴らしい支援が得られるからと夫人同伴で
 カイロ会談に出席した。
  そして、日本を無条件降伏させるまで戦う事を約束さ
 せられ、
  蒋介石が日本と停戦する事を禁じさせられた。
..
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2016年8月9日火曜日

(増補版)396E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年5月~1884年6月)

題:(増補版)396E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年5月~1884年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年5月6日、奈良正倉院を、宮内庁に移管した。
  正倉院は、東大寺の正倉(倉庫)だったが、
  1875年(明治8年)3月10日に、収蔵されていた宝物の
 重要性に鑑み、
  東大寺から内務省の管理下に置かれた。
  そして、1881年(明治14年)4月7日、農商務省の設置
 に伴い、内務省博物局が農商務省へ移管され、
  この年・1884年(明治17年)5月に、宮内省所管とな
 った。
1884年5月7日、戸長官選制(明治17年5月7日太政官第41号
 達)
  区町村会法が改正された、戸長官選となる。
  戸長公選制を廃止し、府知事・県令が選任することに
 なった。
1884年5月9日、大阪道頓堀の中座に、舞台用照明としてア
 ーク灯が取り付けられた(5月10日説あり)
  客席証明を行なったもので、評判となる。
  アーク放電を利用した。
  アーク放電は、電極に電位差が生じることにより、電
 極間にある気体に持続的に発生する絶縁破壊(放電)の
 一種。
1884年5月12日、人造絹糸
  フランスの化学者シャルドネにより、人造絹糸が発明
 され、学会に発表・報告された。
  最初の人工繊維のレーヨンの歴史に於いて・・、
  1848年に、クリスチアン・フリードリヒ・シェーンバ
 インは、綿からニトロセルロースを作り、
  それを溶液に溶かして、
  小さな穴から押し出して、繊維を作るのに成功した。
  また、1884年には、シャルドネが、人工の絹に関する
 最初の特許を取得した。
  その後、紡糸機を導入し、布を織って、
  1889年のパリ万博に展示して注目された。
  これが、最初の合成繊維「レーヨン」だった。
  その後に、商業生産を開始するが、高価で、燃えやす
 い性質だった。
  そのため、生産停止に追い込まれた。
  また、生産で作られる排水が、環境に対して有害なこ
 とから、
  1930年代まで、主に電球のフィラメント用としてのみ
 生産されるだけだった。
1884年5月13日、群馬事件が起こる(5月16日説あり)
  群馬県下の自由党員・湯浅理兵(りひょう)、日比遜
 (ゆずる)、清水永三郎らの起した反政府暴動。
  不況下の困窮農民らに、学校廃止、減租請願を説き、
  農民、博徒、猟師らを誘って、高崎で予定された中山
 道鉄道開通式での、政府高官襲撃を企てた。
  また、高崎鎮台を襲撃、政府打倒を企てたが果たせず、
 高利貸し・警察署を襲撃したが、食糧が尽きて解散した。
  首謀者は逮捕された。
  自由民権関係の事件は・・、
  加波山(かばやま)事件(1884年9月)、
  秩父事件(1884年10月31日~11月9日)、
  飯田事件(1884年に起きた挙兵の計画事件)、
  名古屋事件(1884年12月)・・が、起きた。
  (氷川清話):自由党壮士による政府転覆計画の暴力
 事件が各地に起こる。
  (氷川清話):名古屋事件と、自由党壮士による政府
 転覆計画は後を絶たず、国外では京城での甲申事変(竹
 添公使の軍隊出兵)
  また、この日・5月13日、自由党員湯浅理兵らは、農民
 を妙義山に集めていて、
  5月16日には、湯浅理兵らは、警察署などを襲撃した。
1884年5月15日、京都の葵祭が復活した。
  岩倉具視は、公卿出身の政治家であり、
  幕末に、下級公家ながら、孝明天皇の侍従となり、公
 武合体派として尊攘派に攻撃され、辞官・落飾していた。
  王政復古の直前に復活し、復帰後に倒幕に転向し、王
 政復古の行動をした。
  新政府において、首脳陣として重責を務め、
  1871年(明治4年)に右大臣となり、条約改正交渉と米
 欧視察の特命全権大使に任命され活躍した。
  京都府知事・北垣国道(きたがきくにみち)などと「保
 勝会」を組織し、
  京都の内裏や桂離宮、葵祭などを保存・復興する運動を
 起こした。
  1871年から中断していた葵祭の再興に尽力し、
  1884年に、賀茂祭は、官祭(勅祭)となり、5月15日を、
 祭日と定め勅使の行列も復活した。
1884年5月17日、東京帝国大学理学部に、造船学科が新設さ
 れた。
1884年5月24日、学習院の初代院長に谷干城が任命された。
1884年5月20日、租税・関税両局を廃止し、大蔵省に主税局
 (徴税を司る部局)が正式に設置され、
  また、府県に主税長を設置した。
1884年5月25日、長浜~大垣間に鉄道が開通した。
  それに伴い、鉄道連絡船が本格就航した。
1884年5月26日、兌換銀行条例が公布した。
  銀本位制の兌換銀行券条例を導入し、
  これによって、日本銀行を唯一の発券銀行として、銀
 行紙幣を回収した。
1884年5月27日、蒸気起重機を、初めて横浜停車場の荷揚場
 に建設し、運輸に便ならしめた。
1884年6月1日、初の天気予報
  天気予報を巡査交番所に掲示が開始した。
  日本で、最初の天気予報が出された。
  この日の予報は・・、
  「全国一般風ノ向キハ定マリナシ天気ハ変リ易シ但シ
 雨天勝チ」
  ・・以上が全文だった。
1884年6月7日、商標条例が定められる。
  商標条例の公布により、農商務省工務局に、商標登録
 所が設けられた。
  翌年・1885年4月に、専売特許条例が公布され、同局に、
 専売特許所が設けられた。
  さらに、1886年2月に、農商務官制の公布とともに、新
 たに専売特許、および、商標登録の事務を管掌する「専
 売特許局」が設置された。
  因みに、知的財産権とは・・、
  知的財産基本法の第2条に・・、
  この法律で「知的財産」とは、発明、考案、植物の新
 品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生
 み出されるもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現
 象であって、産業上の利用可能性があるものを含む。)、
 商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を
 表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技
 術上又は営業上の情報をいう。
  2 この法律で「知的財産権」とは、特許権、実用新案
 権、育成者権、意匠権、著作権、商標権その他の知的財
 産に関して法令により定められた権利又は法律上保護さ
 れる利益に係る権利をいう。
  ・・とある。
1884年6月7日、東京数学会社が、東京数学物理学会と改組
 した(日本物理学会の前身)。 
  日本物理学会は、1877年(明治10年)に、数学を含む「
 東京数学会社」として創立された。
  この「会社」とは、societyの意味で、数学から始まっ
 たのは和算の伝統があったからだという。
  因みに、日本物理学会が、1877年の創立に対して・・、
  ドイツ物理学会が、1845年、
  アメリカ物理学会が、1899年、
  日本は、アメリカより早い・・、
1884年6月12日、鹿鳴館で日本初のバザー
  日本最初のバザーが、鹿鳴館で、華族の方々が開いた
 (キリスト教関係者ではない)。
  「婦人慈善会」が、3日間にわたり、東京日比谷の鹿
 鳴館で開いた。
  会場の2階2室に飾りつけられた陳列棚は13だった。
  緑葉で装飾し、日章旗を交叉させ、1棚に30~40種の
 諸品を載せた。
  値段を記した紅白の札を付け、出品総数は3千有余、
  棚ごとに、貴族や政界の夫人総出の受持ち係が配置さ
 れた。
  第1番の松方夫人他、第2番の西郷夫人他、第3番の
 大山夫人他から第13番の長岡夫人他まで
  出品物は、手袋、靴足袋、巾着、人形、扇子、手巾、
 襟巻など多種。
  陳列室のほかに、書画展観席があり、
  客の休憩所には、階下の食堂があてられ、喫煙、茶菓
 の店が設けられた。
  集客は、新聞広告、前例のない斬新な試みとして世の
 耳目を集めた。
  この試みは脚光を浴び、錦絵の題材にもなった。
  3日間の入場者は、実に約1万2千人となり、
  売上は、約8千円(現在の金額で1憶7千万円)に達
 し、大盛況のうちに終了した。
  収益金は、看護婦養成所に寄付された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:全権あるアメリカ大統領の意思でなく、原爆は投下
   された。
    (アメリカ国民の方々は、嘘で、繰られていた)
.
1945年8月6日、午前8時15分、アメリカによって、広島に、
 人類で初めての原爆が投下された。
  16万6000人の広島の方々が、2ヶ月~4か月の間に亡く
 なった。
  まったく非人道的な、
  また、国際法に違反する「アメリカの卑怯な行為」だ
 った。
  アメリカのトルーマン大統領は、この悪辣行為を、「
 戦争を早く終わらせ、数万のアメリカ兵士の命を救うた
 めだ」と・・、
  アメリカの国民の方々へ『嘘の説明』を言った。
  不埒(ふらち)な大統領だった。
  さも正しい正義の行為の様に言って、その様にアメリ
 カ国民の方々へ思い込ませた。
  アメリカ国民の方々は、そのことを信じ込まされ、マ
 インド・コントロールされ、
  そして、マインド・コントロールされ続けて来た。
  しかし、最近の研究や未公開の資料から、このアメリ
 カの国民の方々が、信じ込まされて来たという事が嘘だ
 ということが明らかになって来た。
  原爆計画の責任者や、アメリカ政府関係者などの証言
 や、日記の調査などが進むと、原爆投下の真相が分かっ
 て来た。
  アメリカ大統領のトルーマンは、原爆投下に否定的だ
 った。
  しかし、トルーマンは、ルーズベルトの死で、急に大
 統領になった事もあったため、心の準備もなく、また、
 不十分で、指導力も無かった。
  また、自分の考え、意思を主張する「明確な力」もな
 く、
  指導者たる資質にも欠ける大統領だった。
  アメリカ軍の意見に「引きずられた」。
  ここに広島・長崎の原爆投下の悲劇があった。
  このアメリカ大統領は、引きずられる他に、方法はな
 かった。
  この様な、アメリカ政治の状況が明らかになった。
  今まで指摘されて来た事が確認された。
  アメリカの全権を持つ大統領が、腑抜けだったため、
 繰られたアメリカ国民の方々は、真実を知らされること
 はなく、また、真実を知ることなく、
  『国際法違反の原爆投下行為』が行なわれた。
  アメリカは、不正義な汚名を着ることとなった。
  歴史に、『消すことが出来ない汚名』が刻まれる事に
 なった。
  某大学教授が、自著に書く・・、
  「国に嘘がある以上、やはり教育においても、嘘を嘘
 で塗り固めるような努力が続けられことになる。
  その様な嘘で成り立つ思考様式が、若い世代を、延々
 と、長い期間拘束し、
  腐敗させる、
  そして、結果、「冷笑の人間像」を作り出し、
  そして、すべての心を深く蝕んでいく」・・と。
  戦後、アメリカに作られ、アメリカに繰られ、
  そして、マインド・コントロールされた「日本の歴史
 の嘘」・・押し付けられた・・歴史教育の嘘。
  長い期間における、その嘘の歴史教育に、『自虐史観」
 に、多くの日本の子供たちが、蝕(むしば)まれている。
  この様な・・「人間形成の根幹」にある教育において、
 嘘で塗り固められ・・そして、
  成長した青少年が、
  しっかりした人間性も形造られず、不安定な社会だと
 感得して、
  結果・・不埒な、おぞましい事件を起こしている。
  日本人の人間性形成の基底を「繰られた結果」となっ
 ている。
  日本に来た多くの西洋人が、日本人の倫理性の高さを
 賞賛しているが・・、
  過去の歴史から、また、先祖から受け継がれて来た誇
 り高き流れの中に、
  そして、その様な状況に育まれた「誇り高き日本の心」
 をもつ日本人を称賛した。
  その様な状況が、戦後、破壊されて来ている。
  立ち戻ることこそ大切なことなのだ。
  (読売新聞、2016年8月6日)の「試写室」欄も読んで
 下さい。
..
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2016年8月7日日曜日

(増補版)395E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年3月~1884年5月)

題:(増補版)395E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年3月~1884年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年3月10日、芝浜離宮の延陵館に天覧相撲が催され、初
 代梅ケ谷に横綱を許される。
1884年3月13日、自由党大会が開催され、総理への専断決行
 権付与を決議した。
  警察官を侮辱した自由党員が逮捕され、これをきっか
 けに高田事件が勃発した。
  取締り側と、過激な行動に走る自由党員という悪循環
 が繰り返された。
  更に、他党との対立も激化した。
  同じ民権派の立憲改進党との対立が、自由党内の混乱
 に拍車をかけた。
  帰国した板垣は、党の先行きに不安を感じた。
  解党するか? 
  または、党再建のために10万円の政治資金を調達する
 か?
  板垣は、このいずれかの選択を提議した。
  だが、松方デフレで、有力な資金提供者であった豪農
 層の余裕がなくなっていたこともあり、
  資金集めは順調に進まず、失敗に終わった。
  暴力沙汰ばかりに嫌気がはしり、民心も離れつつあっ
 たこともあった。
  そして、この時、1884年3月に、総理権限を強化して
 板垣の下に党員の結集を図った。
  しかし、執行部は、地方の急進派を押さえきれなかっ
 た。
  自壊作用が働き始めていた。
1884年3月15日、地租条例が制定された(太政官第7号布告)
  税率の固定、法定地価の決定。
  従来の地租改正条例を廃して、地租、及び、その税率
 の法的根拠とした。全29条。
  地租改正で紛糾した諸規定の整理を目的に、1885年の
 地価改訂の実施と、地租改正条例第6条以下の廃止(地価
 改訂・地租増徴の制限撤廃)が制定された。
  そして、1889年に、土地台帳制度の見直しに伴って改
 正が行われた。
  これによって地租に関する法的整備は完成した。
1884年3月17日、宮中に制度取調局が設置された。
  参議・伊藤博文が長官に任命された。
  明治憲法体制へ移行するための制度整備をはかるため
 新設された部局(憲法制定取調局)で、
  立憲政治に備える諸制度の改革、および、法案の起草、
 審査を行った。
  憲法、および、諸制度の調査、研究を終えて欧州から
 帰国した伊藤博文の上奏に基づき設置された。
  3月21日に、伊藤は、宮内卿も兼任し、宮中の制度的
 整備も推進することになった。
  太政官に属する重要機関たる参事院(1881年10月21日
 設置)の主要な構成員が、制度取調局御用掛を兼務した。
  伊藤のもとで、のちに、憲法の起草を担当する参事院
 議官の井上毅(こわし)、
  同議官補・伊東巳代治や、太政官権大書記官・金子堅
 太郎(けんたろう)、太政官権少書記官・渡辺廉吉、牧野
 伸顕らが制度取調局御用掛を兼任した、
  井上、伊東らは、憲法問題などの重要事項について調
 査し、渡辺、牧野ら少壮官僚は、その下にあって諸般の
 制度取調べに従事した。
  この制度取調局において、内閣制とそれに伴う諸官制、
 官吏任用制度、地方制度、行政裁判制度および国会、皇
 室、華族の諸制度などの立案・改革作業が行われた。
1884年3月21日、海軍治罪法が制定された(太政官布告第8
 号)
  大日本帝国海軍の軍人を主な対象に施行された軍法の
 一つ。
  治罪法は、刑事訴訟法典で、
  日本で最初の治罪法は、1882年1月1日に施行され、御
 雇外国人 G.ボアソナード (フランス人) が、フランス治
 罪法を基礎に諸国の法を参照して原案を起草した。
  それを、元老院において修正のうえ公布された。
1884年3月25日、質屋取締条例が制定された。
  この年に、質屋のみに適用される全国統一立法として
 質屋取締条例が制定され、
  取締りの強化が図られた。
  この条例による過酷な取締りによって検挙される質屋
 業者が相次ぎ、
  不況による営業不振から増加しつつあった質屋の廃業
 にいっそうの拍車をかけることになった。
  そのため、同条例の改正運動が活発化し、
  1895年には、同条例の厳しい質受けの禁止や、警官の
 立入検査などの条項を修正し、罰則規定を緩和した質屋
 取締法が制定された。
  同法は、第二次世界大戦後に質屋営業法が制定される
 まで、取締りの基礎とされた。
1884年3月2日、弥生式の土器の発見
  東京大学予備門の学生が、本郷弥生町の向ヶ丘貝塚か
 ら土器を発見。
  いわゆる弥生式土器。
  1884年(明治17年)3月2日、東京府本郷区向ヶ岡弥生
 町(現東京都文京区弥生)の向ヶ岡貝塚で、
  貝や縄文土器とともに、口縁を除いてほぼ完形の壺が
 出土した。
  発見者は、学士院会員・海軍中将造兵総監・有坂鉊蔵、
 理学博士・坪井正五郎、白井光太郎。
  発見地については、1889年(明治22年)、坪井正五郎
 が『東洋学芸誌』に報告し、
  1923年(大正12)に、発見者の有坂鉊蔵が記録を残し
 ている。
  向ヶ丘貝塚の正確な位置については長い間不明であっ
 たが、
  東京大学文学部考古学研究室が、本郷キャンパスの一
 角、工学部9号館の近くで遺構の一部を確認し、その周辺
 であることがほぼ確定的となった。
1884年4月2日、明治天皇陛下・皇后陛下が、隅田川に海軍
 兵のボート競漕を御観覧された。
1884年4月10日、イギリス公使は、条約改正に関し新覚書を
 外務卿・井上馨に手渡した。
  その内容は・・、
  「関税率改正条約締結12年後に、内地開放を条件とし
 て、関税自主権を認める」だった。
  長い日本の努力は、なかなか実らなかった・・、
  結局、日本が豊かな経済力を示し、強い軍事力を持た
 なければ、頭をたてには振らなかった。
1884年4月12日、海底電信線保護万国連合条約と追加条約に
 加盟した。
  明治17年4月仏蘭西国巴里府ニ於テ別冊海底電信線保護
 万国連合条約ニ加入ス右奉 勅旨布告候事
  第1条:此条約ハ諸政府ノ管領海中ニアルモノヲ除クノ
   外都テ法律ニ依テ布設シ且条約国ノ内1国若クハ数国
   ノ領地殖民地又ハ属地ニ陸揚シタル海底電信線ニ適
   施スルモノトス
  第2条:故意ト疎虞懈怠トヲ問ハス海底電信線ヲ切断又
   ハ破損シ因テ電気通信ノ全部又ハ一部ヲ妨害シ若ク
   ハ不通ニ致シタルトキハ之ヲ罰スヘキモノトス但損
   害要償ノ為メ私訴ヲ起スモ妨ケナカルヘシ
    海底電信線ノ切断又ハ破損ヲ避クル為メ精々注意
   ヲ加フルモ自己ノ生命或ハ船体ノ安寧ヲ保護スル正
   当ノ目的ニテ已ムヲ得ス其切断又ハ破損ヲ為シタル
   トキハ此条款ヲ適施セサルモノトス
1884年4月16日、長浜~敦賀間の鉄道が全線開通した。
  琵琶湖の連絡船を経由して、京都・大阪とつながる。
  長浜~敦賀間の鉄道建設は、日本人だけの手による工
 事だった。
  建設資材は、石材を除くほか、木材に至るまですべて
 京阪神から運ばれ、資材輸送のため、木造外輪蒸気船「
 長浜丸」が造られた。
  平地部の工事は順調に進み、
  1882年3月10日、工事中の柳ヶ瀬トンネルをはさんで、
 長浜~柳ヶ瀬間と柳ヶ瀬トンネル西口~金ヶ崎間が開通
 した。
  当時、わが国最長だった柳ヶ瀬トンネル(全長1,352m)
 は、2年後に完成して、
  長浜~敦賀間は、1884年4月16日に開通した。
  長浜~関ヶ原間の工事は、1882年6月に着工、1883年5
 月に開通するスピード工事だった。
  当時の長浜は、まさに鉄道のまちだった。
  1889年(明治22年)7月、東海道線・新橋~神戸間の全
 通で、長浜の鉄道基地としての時代は去った。
1884年4月17日、学習院
  華族会館が経営している私立学校学習院が、宮内省所
 轄の官立学校となった。
  1877年に、皇族・華族の子弟の教育のために、華族有
 志が結成・創設した華族会館の経営の学校として東京に
 設立されていた。
  学習院の起源は、幕末の京都に設けられた公家の教育
 機関にある。
  18世紀の初め、光格天皇が、朝廷の権威の復活を強く
 意識して、平安時代におかれた大学寮以来の教育機関を
 構想した。
  そして、続く仁孝天皇の時代に、公家のための学問所
 を作る計画が決まり、
  孝明天皇に代わった1847(弘化4年)年3月に、
  京都御所の東側(建春門前)に学問所の設置が実現し
 た。
  そして、講義が開始された。
  翌々年・1849年(嘉永2年)に、「学習院」の額(=勅
 額)が下賜されて、学習院の名称が定まった。
  経書を主とし、国書も講じた。
  その後、生徒の激減にともない、1868年(明治1年)に、
 明治政府は、これを大学寮代と改称して再興をはかった
 が、
  同年・1868年8月には閉鎖された(1867年閉鎖説あり)。
  1877年に至り、華族教育のために、東京神田錦町に華
 族会館運営の学習院として再建・開校され、
  1879年(明治12年)から児童・生徒の制服が定められ、
 これが日本で学校の制服を定めた最初といわれている。
  そして、この年・1884年(明治17年)、宮内省の管轄
 の官立学校へ移管された。
  翌年・1885年(明治18年)には、学習院の女子教科が
 廃止され、宮内省御用掛に任じられた下田歌子が中心と
 なって、華族女学校が設立され、
  1906年(明治39年)、学習院に合併され学習院女学部
 となり、
  さらに、1918年(大正7年)、女子学習院として独立し
 た。
  その後、第二次世界大戦に至るまで、学制は、幾度か
 変更されたが、初等科、中等科、高等科を備え、高等科
 の卒業生は、帝国大学への入学資格を有していた。
  第二次世界大戦後の華族制度の廃止で、廃校さえ論議
 されたが、
  1947年(昭和22年)に、学習院に関する皇室令・宮内
 省令の廃止によって官立としての学習院が終わりを告げ、
  同時に、財団法人・学習院として再発足することにな
 った。
  そして、私立学校となり、
  女子学習院は、学習院女子部として吸収された。
  初代院長は、安倍能成(あべよししげ)であった。
  1997年(平成9年)に、短期大学部を改組し、学習院女
 子大学が設置された。
  2010年(平成22年)に、幼稚園から初等科、中等科、
 高等科までの一貫した教育体制をもつ総合学園となった。
  大学所在地は、東京都豊島(としま)区目白1-5-1
1844年4月17日、神戸又新日報が創刊された。
  神戸又新日報(こうべゆうしんにっぽう、1884年創刊
 ~1939年休刊)は、かつて存在した日本の日刊新聞で、
 兵庫県神戸市の「五州社」が発行した
  1884年5月19日、第1号を発刊し、創刊時の紙名題字は
 尾崎行雄によるとされている。
  立憲改進党系の政論新聞として出発した。
  1890年9月16日夜半、和歌山県串本町沖で遭難したオス
 マン帝国(現在のトルコ)の軍艦「エルトゥールル号」
 の遭難に際し、第一報を報じた「東京日日新聞」を含め
 た全国他紙に先駆けて、翌・1890年10月、義捐金活動を
 行った。
1884年4月、社会教化団体の東京修身学社が、日本講道会と
 改称した。
  〈形而上ノ理ヲ究メ〉〈道徳ノ教ヲ弘ム〉ることを目
 的として、〈講義、演説、著述、翻訳、問答〉をおもな
 事業とした。
  (参考)形而上:けいじじょう、
  1、形をもっていないもの。
  2、哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介
   した経験によっては認識できないもの。超自然的、
   理念的なもの
  (参考)形而上学:けいじじょうがく
  1、アリストテレスでは、あらゆる存在者を存在者た
   らしめている根拠を探究する学問。すなわち第一哲
   学または神学。
  2、現象的世界を超越した本体的なものや絶対的な存
   在者を、思弁的思惟や知的直観によって考究しよう
   とする学問。主要な対象は魂・世界・神など。
1884年5月1日、大阪商船会社が創立され開業する。
  日本の海運を支える創業であった。
  瀬戸内の船主による93隻の船を現物出資して設立され
 た。
  瀬戸内海では、1877年の西南戦争以降、戦後不況に突
 入した。
  たちまち激しい運賃値下げ、貨客の争奪競争が始まっ
 た。
  船主たちは、船体の修理もままならず、海難事故も頻
 発した。
  見かねた大阪府は、取締規則を定めて、船主の協調を
 促したが、協定破りも現れ、なかなかうまくいかった。
  そこで、当時の自主的協調機関であった同盟汽船取扱
 会社頭取・中原昌發(まさはつ)は、
  当時、愛媛県新居浜に居住していた住友家総理人の広
 瀬宰平を訪ね、群小船社を統合し一大船社を創立するこ
 との必要性を説いた。
  当初、老齢・病気を理由に、断っていた広瀬であった
 が、中原の熱心な説得の結果、ついにこれを引き受ける
 に至った。
  しかし、数多くの船主を取りまとめることは容易では
 なかった。
  船価の査定においては、船主のエゴがむき出しとなっ
 たり、
  苦情が噴出したり・・と、
  いったんは、査定中止とせざるを得ぬ事態となった(
 1883年(明治16年)4月)。
  広瀬は、これら船主の納得を得るため、あらゆる調整
 努力に奔走した。
  そのかいもあり、ようやく解決に至ることができた。
  しかし、また、定款の審議でも紛糾した。
  3日間を要したがまとまらず、創立委員側が、反対船主
 の条件に妥協し、障害を克服することができた。
  こうして、1884年(明治17年)5月、有限責任大阪商船
 会社は開業に漕ぎ着けた。
  資本金120万円。
1884年5月3日、英国東洋銀行横浜支店が、支払い停止とな
 った。
  明治期に「英国東洋銀行」と書かれたオリエンタル・
 バンクは、
  19世紀のイギリス植民地のインドにあった植民地銀行
 である。
  1842年、ボンベイで設立され、1893年に、恐慌で倒産
 した。
  独占的地位を占めていたこの銀行から、日本は、金を
 借りたが、
  利率が、15%~18.2%という、現在では考えられない
 くらいの高い利率であった(高利貸しクラス)
  日本も、1880年に、横浜正金銀行などを設立したりし
 た。
  横浜正金銀行は「準備金」をとおした正貨吸収に努め、
 政府も保護政策をし、また、日本銀行も信用供与し、対
 外金融機関としての役目を果たして行くようになった。
  また、わが国の各種金融機関も、金融基盤を固めて来
 て、外国への不合理な資金流出を防ぐ手立てが出来て来
 ていた。
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  (今日の言葉)
.
  占領と侵略:日本は、正当な占領を満州で行なった。
.
  ロシアと中国(清国)の条約が存在していた。
.
  アメリカは、大東亜戦争(第二次世界大戦)で戦勝し
 た。
  日本に勝って日本を占領した。
  「占領した」と言われている。
  しかし、これは・・「アメリカが侵略した」と言える
 のだ(または、言える可能性が十分ある)。
  日本は、「満州を侵略した」となっている。
  ならば、アメリカも・・「日本を侵略した」となるか
 らだ。
  第二次世界大戦後で、アメリカのプロパガンダで、日
 本は何しろ悪かったと言われている・・が、しかし・・
 ・・?
  日本は、日露戦争で戦勝し、戦争に勝って満州を占領
 した(侵略ではない)。
  大東亜戦争(第二次世界大戦)で、アメリカが、日本
 を占領したのと同じである。
  あの日露戦争は、ロシアとだけと戦っていたのではな
 い。
  中国とも戦っていた。
  日本は、その中国に戦勝し、その結果、満州を占領し
 たのである。
  第二次世界大戦で、アメリカが、日本を占領したのと
 同じである。
  中国は、ロシアとの条約で、日本とロシアが戦ってい
 るとき、「ぼけーっ」としていられたのではない。
  「ぼけーっと」していられなかった。
  中国は、ロシアとの条約で、『戦う取決め』をしてい
 るからぼけーっとしていられなかった。
  日本は、そのロシアと中国と戦った。
  日本は、「中露同盟軍」と戦った。
  この条約は秘密にされていたので、あまり知られてい
 ないが、
  『中国は、れっきとした対戦国』だった。
  戦勝した日本は、「第二次世界大戦で、アメリカが日
 本を占領した」のと同じに、満州を占領した。
  『侵略でも何でもない』。
  国際法にのっとった占領行為である。
  アメリカの、戦後のプロパガンダで、日本は悪くされ、
 「侵略なのだ」とされてしまった。
  日本は、アメリカが世界を手玉に取り、そして、音頭
 を取った包囲毛に囲まれて、やむを得ず、やむを得ない
 戦争に至ったが・・、
  この戦争の終了後も、アメリカは、そのつじつま合わ
 せの嘘を言い、プロパガンダを言っている。
  日本は、まったく、事実でない事を言われている。
  占領したアメリカ、強い立場のアメリカは、弱者の日
 本をいいように、それをプロパガンダしている。
  アメリカは、西部を、インディアンの方々の、先住民
 の方々の土地を奪った時も、自分たちは正義だと・・勝
 手な、自分勝手な事を言って土地を奪った。
  キリスト教の論理を持ち出した・・、
  そして、メキシコの土地も卑劣な方法で奪った。
  太平洋に至れば、太平洋の島々を奪い、
  フィリピンを奪い、
  そして、中国に至って・・日本とぶち当たった。
  際限を知らないアメリカの欲が、中国で展開された。
  限りないアメリカの帝国主義の侵略とぶち当たった。
  そして、世界を手玉にとって、日本を孤立させる方針
 でやって来た。
  1896年、教科書にも載ってない、ロシアと中国(清国)
 の同盟条約・・「露清秘密同盟(李鴻章ロバノフ条約)」。
  ロシアまたは中国(清国)のいずれかが、日本と戦争
 になったら、他方が軍事援助をする。
  中国(清国)は、日清戦争の敗戦を非常に悔しい思い
 でいた。
  中国(清国)は、日清戦争終結の翌年・1896年、ロシ
 アとこの条約を結んで、日本への復讐戦をしたいと企図
 (きと、あることをくわだてる)していた。
  そして、日露戦争の時、中露同盟軍となった。
  日本は、その『中露同盟軍』との戦争に勝ち、アメリ
 カの日本占領と同様に、満州を占領した(侵略ではない)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive