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2013年1月24日木曜日

アメリカの独立への道、そして、翻弄されるインディアンの方々

題:アメリカの独立への道、そして、翻弄(ほんろう)されるインディアンの方々
(悲惨な戦争を無くせないのでしょうか)
.
 イギリスは、7年戦争に勝利したものの重い戦費負担に苦しんだ。
 そこでアメリカを圧迫した。
 種々の物品に課税した。
 また、茶の販売権を独占した。
 それらを英国本国だけで決定した。
 アメリカは『習慣的な自治権の侵害だ』と強く反発した。
 「アメリカの代表が居ない所での課税決定は決定事項ではない」
との論理であった。
 納税の拒否やイギリス製品の不買運動をし、事態は険悪になった。
 その様な経緯の中で、1773年にボストン茶箱事件が起きた。
 (ボストン港に停泊中の東インド会社の船舶から茶箱が海に投げ
捨てられた。イギリス本国は、罰としてボストン港封鎖を決定した)
 翌年の1774年より、アメリカの各植民地から代表が集まり、会議
が持たれた。
 会議では、『自治権を守ること』と『武力による抵抗も辞さない』
ということが決定された。
 翌1775年、ちょっとしたことで武力衝突が起きた。
 ボストン近郊で、アメリカ抵抗派の武器を押収しようとしたイギ
リス軍と、駆けつけたアメリカ植民地民兵との衝突である。
 これがアメリカの独立戦争の発端となった。
 アメリカ側は、制海権がイギリスに握られているのでヨーロッパ
からの武器輸入がままならなかった。
 アメリカは、各地の戦いに惨敗した。
 司令官のワシントンは、フランスやスペインの参戦を期待した。
 ニュージャージーに進軍したイギリス軍が略奪や強姦をするとい
う愚行も起きたりした。
 この様な中、北米植民地で発行されていた4つの新聞は、最初は
(不思議なことなのだが)3分の1しか独立を支持していなかった。
 新聞メディアは独立に反対の姿勢だった。
 しかし、だんだん独立支持へと変わっていった。
 1777年に、アメリカは連合規約を締結し、国名を「アメリカ合衆
国」とした(批准成立は1781年)。
 それまでは、邦(憲法で州が発足するまでの呼称)の各々が、兵
の動員や物資の調達や将校の昇任などがバラバラだった。
 イギリス国王は、『7年戦争後のアパラチア山脈以西へのイギリ
ス人植民者の入植を禁止した宣言』を出していたため、先住民のイ
ンディアンの方たちは、この宣言が「7年戦争の後には、イギリス
人の入植がない」ということで、「自分たちの土地が守られている
」と解釈し、この戦いにおいて、インディアンの方たちはイギリス
側について戦った。
 イギリス軍は、このインディアンの方たちとドイツ傭兵なども加
え戦っていた。
 しかし、戦いの長期化で食糧不足に陥っていた。
 この状況はアメリカ軍も同様で、1777年から1778年においての
厳冬にアメリカ軍の兵の2000人が栄養不足や疫病で死んだ。
 この数は兵の約20%にあたる高率な数字となっている。
 イギリス軍は、だんだん最前線への兵の補充も滞(とどこお)っ
て来た。
 前線の兵も減少していた。
 一方、アメリカは民兵が近隣から駆けつけるという状況だった。
 ニューヨーク邦でイギリス軍が降伏したりする様になった。
 1778年に、今まで、静観していたフランスが、イギリスをたた
く機会だと、アメリカの独立を承認し、アメリカと同盟を結び、参
戦した。
 (この様な事は日本の関ヶ原の戦いでもあった)。
 海軍力を持つフランス軍とイギリス軍との海戦も起きたりした。
 1779年、フランスの要請でスペインも対英参戦した。
 このアメリカ独立戦争のフランスの参戦は、戦域が国際的に拡大
して行った。
 ヨーロッパ、カリブ海、西アフリカ、インドなどへ及んだ。
 大西洋の制海権もイギリスだけのものでなくなった。
 しかし、良いことばかりではない。
 アメリカは民兵の給料が払えないとか、食料も遅配するとかで、
民兵の不満は高まっていた。
 一部民兵が反乱を起こすこともあった。
 1781年、フランスは財政悪化から和平の斡旋に乗り出した。
 アメリカ司令官のワシントンは、和平交渉で有利な条件を得よう
とフランス軍と連合してイギリス軍を攻めた。
 フランス海軍も協力してイギリス軍への補給を断ったりした。
 1781年10月、イギリス軍で信頼されていたコーンウォリスの部
隊が孤立し、とうとう降伏した。
 この名将の降伏は、イギリス本国に衝撃を与え、ノース首相は「
ああ、これで万事休すだ」と叫び、イギリス王のジョージ三世は、
戦争継続論であったが、イギリス議会はこれに抗して「終戦を決議
」した。
 1782年11月から、和平交渉が開始され、
 1783年9月に、アメリカの独立が承認され、講和条約が調印され
た。
 この時、アメリカは、「ミシシッピー川以東の広大な土地」を購
入した。
 (イギリスが譲渡、先住民のインディアンの方たちの権利を無視)。
 この戦いは、将校の狙い撃ちを避けたりした『限定戦争』であっ
た。
 この時からアメリカは、「戦後処理」と「建国」の期間となる。
 1788年に初代大統領に選出されたのはワシントンだった。
 ワシントンは就任すると、まず、先住民・インディアンの方々と
の関係調整を行なわざるを得なかった。
 それは、ワシントンの就任の年の1年前に制定された「北西部条
例」に関する事だった。
 この1787年の北西部条例の制定によって、新領土がアメリカ人に
開放されたからだ。
 先住民・インディアンの方々は反発した。
 紛争が多発した。
 ワシントンは、議会に軍事支出を承認させ、『新民兵法』を制定
させ、民兵の兵力動員をした。
 そして、遠征隊を結成し、インディアンを掃討を始めた。
 派遣した軍は、先住民・インディアンの方々を破り、先住民の方
々の村落や田畑を徹底的に破壊した。
 焦土作戦を強行した。
 弱い者いじめの様相だった。
 先住民・インディアンの方たちは降伏し、居住区域はオハイオ川
流域以西に押し込められた。
 ここに退去せざるを得ない状況に置かれた。
 この時の終戦処理に、条約締結という手法がとられた。
 この様な条約の締結は、対象となる先住民の方々を、形式的には
「独立した国家」と認めたというものであった。
 しかし、多くの場合、その条約は、アメリカ人側によって無視さ
れることが多かった。
 悲しいことに、この事が、また、新たな紛争を生み出して行った。
 題:アメリカの独立への道、そして、翻弄されるインディアンの方々(完)
 

2013年1月23日水曜日

先住民・インディアンの方々の意志は無視され、そして、戦争に

題:先住民・インディアンの方々の意思は無視され、そして、戦争に
(悲惨な戦争を無くせないのでしょうか)
.
 アメリカの独立戦争・・・。
 この話の背景を、まず、お話しますと、インディアンの先住民の
方々は、17世紀の末にはアメリカ大西洋岸(アメリカの東海岸)か
ら駆逐され、そして一掃させられて居りました。
 そして、イギリス国王は、『7年戦争後のアパラチア山脈以西へ
のイギリス人植民者の入植を禁止した宣言』を出していました(7年
戦争については後記を参照下さい)。
 先住民のインディアンの方たちは、この宣言が「7年戦争の後には、
イギリス人の入植がない」ということで、「自分たちの土地が守ら
れている」と解釈しました。
 そのため、アメリカのイギリスからの独立を目指す独立戦争にお
いて、インディアンの方たちはイギリス側について戦いました。
 しかし、独立戦争後、アメリカは「アパラチア山脈からミシシッ
ピー川に至る広大な土地をイギリスから得た(先住民に関する話は
無し)」。
 この事に対する先住民のインディアンの方たちの落胆は大きかっ
た。
 インディアンの方たちの意思は、まったく無視され、理解されず、
そして、インディアンの先住民の権利へも、まったく配慮されない、
理解も示されないこれ等・土地に関する取り決めでした。
 インディアンの方たちは、この事について抗議の行動を起こしま
した。
 これ等の土地でのアメリカとインディアン先住民の方たちとの戦
争が激化することになりました。
 1787年の『北西部条例』で、ミシシッピー川以東の土地がアメリ
カ人に開放されました。
 その間、この件に関し、インディアンの方達への説得や相談など
の意思の疎通の機会はありませんでした。
 事は必然的に紛糾しました。また、紛争は激増しました。
 アメリカは、戦い方において残虐さが増しました。
 先住民の女性や子供にも多数の犠牲者が出ました。
 無限定戦争です(東京大空襲も無限定戦争です。無差別に東京の
住民を焼き殺しました)。
 悲惨さが、より大きいこの無限定戦争が繰り返されました。
 イギリス人との白人間の独立戦争では、戦争の自制観が見られま
したが、インディアンの方たちに対する対先住民戦争では『無限定
戦争観』による戦闘でした。
 (限定戦争については、後述を参照下さい)
 それは、戦争にまったく関係のない方々(女性や子供たちなど)
への悲惨な多くの犠牲者を生みました。
 (「野蛮」視した異人種に対するという態度です)。
 キリスト教の原住民蔑視の思想・考え方は、南米・中米・北米メ
キシコ及びその離島などでも見られましたが、また、アフリカの方
々への『人間ではない』との発言などもキリスト教聖職者の発言と
して記録されて居りますが、アメリカのこの戦いにおいてもその状
況でした。
 (異人種・先住民への蔑視)。
 (アフリカの方々の奴隷の歴史も悲惨)。
 この時代、戦争で決着させる傾向がありました。
 キリスト教の生まれた地、及び、その時も、錯綜する人種・民族
間で富の奪い合いの戦いは繰り返されていました。
 このDNAをキリスト教は持っています。
 (参考)アパラチア山脈(Appalachian Mountains)は、カナダ
及び、アメリカ合衆国東北部に位置し、北東から南西方向に全長約
2,600kmにわたって延びる丘陵・山脈。
 (参考)七年戦争(しちねんせんそう、英: Seven Years' War、
独: Siebenjähriger Krieg、1756年-1763年)は、プロイセン
及びそれを支援するグレートブリテン王国(イギリス)と、オース
トリア・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた
戦争である。七年戦争は、ヨーロッパにおいては、イギリスの財政
支援を受けたプロイセンと、オーストリア・ロシア・フランス・ス
ウェーデン・スペイン(1762年参戦)及びドイツ諸侯との間で戦い
が行われた。並行して、イギリスとフランスの間では北アメリカ、
インド、各大洋上で陸海に渡る戦いが繰り広げられた。
 (参考)アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそう, 英: Am
erican War of Independence)は、 1775年4月19日から1783年7月3
日までのイギリス本国(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿
岸のイギリス領の13の植民地との戦争である。現在のアメリカでは
アメリカ独立革命(英: The American Revolution)もしくは革命戦
争(英: the Revolutionary War)と呼ばれ、主にイギリスではアメ
リカ独立戦争と呼ばれている。なお、日本の歴史教科書では、「ア
メリカ独立戦争」と表記することもあれば、単に「独立戦争」と表
記することもある。
 (参考)ディー‐エヌ‐エー【DNA】 《deoxyribonucleic acid》
 1 ⇒デオキシリボ核酸 2 俗に、遺伝子のこと。また、先祖から
子孫へ連綿と伝わるもの。「父の―を受け継ぐ」「歴代モデルの―
を引き継いだ新車」「ジャ...
 (参考)く‐ちく【駆逐】 [名](スル) 1 追い払うこと。「悪
貨は良貨を―する」「私は此不安を―するために書物に溺れようと
力(つと)めました」〈漱石・こゝろ〉 2 馬や車などで追いかける
こと。「馬車相(あい)―して進み...
 (参考)限定戦争はその定義に基づけば敵の殲滅によって戦争を
終わらせる戦争ではなく、より限定的な目標を達成することを勝利
とした戦争である。限定戦争ではその目的を制限することによって、
戦争に投入する軍事的手段を制限し、かつ可能な限り少ない費用で
平和を達成するよう努力しなければならない。戦略理論において、
この限定戦争の原理は目的と手段の適合として説明されている。リ
デル・ハートは戦争状態にある国家の目的とは可能な限り少ない人
的、経済的な損失で敵の抵抗する意思を屈服させることであると論
じている。つまり、敵に対する作戦を考える上では敵の意思を打ち
砕くことと損失を最小化することが重要であり、無闇に敵の軍事能
力を破壊するために犠牲を増やしてはならない。

2013年1月21日月曜日

そして、それから起きたインディアンの方々の悲劇

題: そして、それから起きたインディアンの方々の悲劇
................(悲惨な戦争を無くせないのでしょうか)
.
 キリスト教の底流にある基本的考え方・教義「異教徒・異邦
人への見方や考え方」。
 それは、「自分たちと違う神を信仰する民。それは異質であ
り、受け入れられない」という。
 そして、キリスト教の教義「異教徒は殺せ」の教義などで異
教徒・異邦人を否定する。
 まず、その感情が最初に出て来る宗教に、アメリカに渡った
入植者(侵入者たち)もあった。
 キリスト教のこの教義が心底に刷り込まれていた。
 入植当初は、厳しい北米の冬の気候に、餓死が相次ぐような
辛酸の中に居た入植者たち。
 救ったのは先住民のインディアンの方々だった。
 越冬の仕方を教えて貰(もら)い、トウモロコシの栽培法な
ども教えて貰い、細々でもアメリカに留まる事が出来る様にな
った。
 当初は、この様に、入植者たちと先住民のインディアンの方
たちは共存していた。
 しかし、入植者たちの意識は、「定着し、土地を所有する」
であり、インディアンの方たちには「土地は皆の刈り場」であ
り、「皆の耕作地」の意識で、私有するという観念がなく、入
植者(侵入者)とインディアンの方々との間には土地に対する
考え方・観念の違いが存在した。
 インディアンの方々は、「どの土地にでも狩猟や耕作をする
利用権」を求めた。
 インディアンの方々は、昔からの、祖先の時代からの、生活
の基盤が脅(おびや)かされた。
 しかし、入植者による浸食される土地が拡大して行った。
 バージニアでは、ピューリタン入植の年からわずか2年の後
の1622年に、インディアンの方たちは止むなく折り合えない
事態を訴える行動に出た。戦いになった。
 ニューイングランドでは、1637年に、入植者(侵略者)たち
の軍が、実力行使の攻撃をインディアンの方たちへ仕掛けた。
 入植者とインディアンの方たちとの戦いは、だんだん熾烈を
極めて行った。
 使われる武器の殺傷能力が大きくなっていった。
 当然、持ち込んだのは入植者のヨーロッパ人キリスト教徒た
ちだった。
 ライフル銃は射程距離が一段と高く悲惨な殺戮状況となった。
 また、戦術も一斉射撃方式を入植者たちの軍はとり、殺戮の
プロの前にインディアンの方たちは曝(さら)された。
 インディアンの方たちは、弓矢・手斧の類いであり、そして
、自分たちの死、命の代償として得たわずかな銃だった。
 当初の入植者とインディアンの方たちとの共存の心はもう遠
くどこかへすっ飛んだ状況であった。
 バージニア議会では「先住民との共存はあり得ない」と決議
した。
 民兵を組織しインディアン掃討作戦に乗り出した。
 悲惨な非人道的な攻撃・戦いだった。
 襲撃した部族か否かに関係なく、インディアンなら誰かれ構
わず、無差別攻撃が強行された。
 この様な行為が、双方に深い憎悪の感情を更に増幅した。
 悲惨な戦いは繰り返された。
 入植者側は、軍隊の力を背後に持って、先住民・インディア
ンの方たちの支配地域の土地を植民者に開放して行った。
 先住民を追放するという意識と「それを当然視する感情・増
上慢」が行動の基本にあった。
 悲惨な行為が継続して行われた。
 ニューイングランドの場合は、インディアンの方たちの女性
や子供が多数殺されるという悲惨さが増した行為が行なわれた。
 この戦闘で、入植者側に着いた先住民インディアンの兵は「
あまりにも凶暴すぎる」と叫んだ。
 また、「あまりにも沢山の人たちを虐殺し過ぎる」と嘆いた。
 入植者のヨーロッパ人キリスト教徒たちは、先住民インディ
アンの方たちを「悪魔」と呼んだ。
 「サタン」と呼んだ。
 「(キリスト教の)神の名によって撲滅せよ」と叫んだ。
 キリスト教聖職者のコットン・マザーは、「この日、われわ
れは600人の異教徒(インディアンの方たち)を地獄へ送った
」と言い、神に感謝した。
 また、戦闘も拡大の一途、戦争で、ニューイングランド全域
の戦い(フィリップ王戦争)となり、入植者側は、志願兵を募
(つの)り、悲惨さがさらに増した殺戮行為が行なわれた。
 この時、入植者たちは「アメリカ最強のインディアンのリー
ダーを殺した、掃討した」と喜んだ。
 掃討した将軍を「掃討者」と称賛し、英雄視した。
 これ等の行為の底には、キリスト教の教義「(キリスト教の)
神の義によれば、人を誅してもよい」の意識があった。
 この戦争中、インディアン側に捕虜となった植民者側の白人
女性(メアリー・ローランソン夫人)は、3カ月後に釈放され、
体験を語ったが、インディアンの王の息子のためにシャツや帽
子を作ってと頼まれ、作ると、きちんとお礼も払って戴いたと
言い、また、タバコも勧められ、(入植者側で言われている様
な)残虐さはまったく感じられなかったと語った。
 対比して想念(そうねん)されるのは、先住民を野獣に例え、
それが常道の入植者のキリスト教徒側、また、「狼やライオン」
と呼び、「害虫の絶滅だ」と呼んだ。
 そして、言った「この地に根付いた神の教会の繁栄を妬(ね
た)んだサタンの誘惑に」動機づけられていると言った。
 インディアンの方たちの行動に対して卑下し、蔑視して言い、
我々は、キリスト教の信仰に基づいた正しい行為なのだと言い、
先住民の排斥は合理だとした。
 先住民は「野蛮人」「悪魔」として蔑視する感情が定着され
ていた。
 入植者間では、ヨーロッパ人どうしやキリスト教徒同士の場
合には、ある一定の枠内の戦争「限定戦争」の考えがあるが、
「野蛮」とされた人々(インディアンや異人種)に対しては限
定のない「無限定戦争」を当然視し、是認した。
 その戦争の悲惨さに対しても良心に咎(とが)めを感じない
と言う。
 まったく、キリスト教の教義に沿った意識のもとにあった行
為であった。
 死者の比率に関しても、インディアンの方たちが入植者より
「5倍」の方たちが亡くなるという劣悪な戦争を強いられてい
た。
 当然視された非人道の哀しい戦いであった。
題: そして、それから起きたインディアンの方々の悲劇(完)

2013年1月20日日曜日

インディアンの知恵

 題: インディアンの知恵。
.
 コロンブスの発見がきっかけとなったアメリカ大陸は、その後、
白人の論理、及び、キリスト教の論理でいい様にされた。
 私物の如く、なめ尽くされた。
 英国のピューリタンは、自国での宗教トラブルで自国に居られな
くなりアメリカへ逃れ、やって来た。
 1620年の事である。
 オランダは、ピューリタンのその時から遅れること6年の1626年
ころ、アメリカに来た。
 植民地化してニューアムステルダムを建設し始めた。
 英国の初めての入植は、ピューリタンより13年早く、バージニア
に入った。
 最初に入った人は、本国で食いつぶした年季奉公人で、次に、ア
フリカの黒人の方たちが奴隷として入れさせられ、酷使され、大土
地経営のプランテーション型植民地で、家畜同様に働かせられた。
 非人道的経営で事業を拡大して行く。
 道具とされたのは同じ人間の黒人奴隷の方たち(キリスト教聖書
で奴隷が説かれている。利用できる弱者を家畜の様な奴隷として使
うということを)。
 オランダが建設したニューアムステルダムは、約40年後に、英国
に奪われ占領され、名前がニューヨークと変えられた。
 フランスは、ピューリタンの入植の年を遡(さかのぼ)る事12年
の1608年に、ケベックに貿易拠点を作った。
 そして、そこからアメリカの内部地へ進出して行った。
 ローレンス川を遡り、五大湖へ進み、そこからミシシッピ川を下
り、ピューリタンの入植の年から62年の後の1682年にメキシコ湾の
河口へ至った。
 その地をルイジアナと命名した。
 そして、領有権を主張した。
 それから32年後の1717年にニューオーリンズを建設した。
 仏領は英領を取り囲むように展開され、英仏間は、険悪な状態に
あった。
 ヨーロッパ本国同士が戦争状態となり、続けてアメリカの地も戦
争の様相が高まる険悪状態となった。
 スペインも黙って見てはいなかった。
 スペインは、既に、キリスト教徒とそれに同行したキリスト聖職
者たちが、南米・中米・北米メキシコなどで、人非人の様な殺戮に
継ぐ殺戮で、領土を我が物にして来たが、その続きで、アメリカに
ついては、ピューリタン入植より遡(さかのぼ)ること55年の1565
年に、既に、フロリダ半島に砦(とりで)を建設していた。
 そして、ニューメキシコやアリゾナに進出した。
 既に、スペインは極悪なやり方でメキシコに拠点を設けていたの
で、アメリカにおいては、1588年にスペインの無敵艦隊が敗れた事
もあり、そして、国力の急激は衰退もあったため、テキサスやカリ
フォルニアに進出するが、入植は少なく、アメリカの地は、実質、
英仏とオランダの間での争奪戦となった。
 この形相は、まったく、国の規模での、私利私欲の弱肉強食の強
盗行為で、地獄の様相の世界だった。
 キリスト教及びキリスト教聖職者たちには、それを押しとどめ、
反省する境地も、考えも教義も、力も、何もなかった。
 キリスト教聖職者は、一緒になって行動し、誰も居なくなった荒
れ地にキリスト教会を建てるという行動だけだった。
 英国は、特に、利益を求め、アメリカに限らず世界各地を跋扈(
ばっこ)した。
 当時、英国は絶対王政であり、商業による利益追求獲得に躍起(
やっき)となっていた。
 貴族層が輸出作物生産用の大土地を獲得し、富を拡大したいと餓
鬼の境涯にいた。
 また、英国内の土地を失った貧しい農民がアメリカの土地を求め、
自作農になりたがっていた。
 その為、年季奉公人が大量に移住した。
 その移住において、移住者の保護の為の本国からの常備軍を常駐
させるという行為はなかった。
 理由は、膨大な費用がかかるためだった。
 植民者自身が生命や財産の防衛をすること、「自衛」によること
を基本とした。
 故に、侵入者(入植者)は自衛のための武器を持った。
 アメリカへの進出の目的に土地を得たいという目的があったため、
既に、アメリカ先住民の「インディアン」との衝突の因は厳然と存
在した。
 当時、アメリカには約200万人のインディアンが生存していた。
 この方々に、これから悲惨な歴史が展開される。
 当初、キリスト教徒の入植の初期、侵入者たちは、少数である事
もあり、また、北米大陸の厳しい冬の気候の越冬方法を知らなかっ
たため、「サー・ウォーター・ローリー」の様に入植に失敗して英
国に帰る例もあった。
 その為、先住民のインディアンから越冬方法を習い、トウモロコ
シの栽培法を習って食いつないで、か細く生活をしていた。
 また、バージニアに入植した「ジョン・ロルフ」の様に、インデ
ィアンの娘と結婚する例もあった。
 (ポーハタン族の族長の娘・ポカホンタス)。
 この結婚は「政略結婚だ」と言われている。
 初期は、この様に、共存の行動がとられたが、しかし、後に、イ
ンディアンは裏切られ、牙(きば)をむかれる。
 キリスト教は、少数の宗派である「クエーカー教徒」の善行の例
をあげて、大々的に声を大きくして美談や言い訳を言うが、まった
くのプロパガンダであり、クエーカー教徒は、少数宗派であり行動
も一部の小規模の行為であり、言い逃れである。
 人々に誤認混同を起こしている。
 本当のこと、真実は、土地強奪の殺戮を伴う極悪行為である。
 その悪行為、キリスト教徒の悪行為を隠すものだ。
 また、インディアンには、争いがあっても相手を残酷に殺戮しな
いという行動があった。
 それは、争いがあっても「相手を滅しない」という考えで、また
それは、少数民族のインディアンの争い方で、先祖からの教え・智
慧であった。
 インディアンと戦ったイギリス人将校がいう。
 その証言で「まず、インディアンと戦って流血が少ない事に驚い
た」と言う。
 そして「インディアンは近づいての酷(むご)い殺し合いは避け
ている」と言う。
 その事が分かったと言う。
 将校は言う「我々ヨーロッパ人は、敵に近づき、銃弾を直射する
が、そして、その行為は、よく、しばしばするが、彼等はしない」
と。
 インディアン社会は生産力も弱く、生産従事者の減少は痛手であ
る事、民族の損失をまず知っていて、民族としての認識の上に共倒
れを避けていた。
 『儀礼的戦争の思想』とも解釈できる。
 キリスト教の編まれた古代の砂漠の地では、飢餓と飢えとの世界
と背中合わせだったが、その様な環境の中で、キリスト教が考えた
事、教え説いた事は、聖書の申命記を見ると分かる。
 その様な時、民族の生存を大義名分として「(キリスト教の)神
の義があれば、人を誅しても良い」という教義・考え方が説かれ、
行動の原点となっていた。
 神の義を錦の御旗として、隣国の富を奪いに行く。
 そして、キリスト教の神は叫ぶ。
 「殺せ、殺せ」と。
 そして、「○○人は皆殺しにせよ」と、そして、「△△人は男だ
け殺せ」と。
 また、神は叫ぶ「生娘は生かしておけ」と、そして「奴隷にせよ、
奴隷にせよ」・・などと。
 インディアンは、苦しくとも、最後は自分たちに戻って降りかか
ってくる悪行為だと理解している。
 キリスト教の教えとの差である。
 そのインディアンの、その後の運命は、ヨーロッパ人の侵入者と
の激しい殺戮で、その相互殺戮の激しさの中でインディアンは激減
し、入植者の数は増え、土地を巡る争いの益々の増加の中に歴史は
展開する事となる。
 今、人類は益々大量に、無差別に、人々を殺戮する兵器を持つ状
態となっているが、次なる兵器は自分以外の人間は全てを全滅させ
るものとなっていくだろう、その道を歩んでいる。
 自分たちだけで何ができると言うのだ。愚かなことだ。
 インディアンの知恵が大切なのだ。
 題:インディアンの知恵。(完)