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2016年9月3日土曜日

(増補版)412E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年4月~1885年5月)

題:(増補版)412E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年4月~1885年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
(追記)1885年1月、北里柴三郎が、ドイツへ留学した。
  (~1891年まで)
  ここで、水素ガスを用いてウシの嫌気性菌・気腫疽菌
 (きしゅそきん)の純培養に成功し、
  ついで、破傷風菌の純培養に成功、破傷風毒素・破傷
 風免疫の研究に進んだ。
  北里 柴三郎(きたさと しばさぶろう、1853年1月29日
 ~1931年6月13日)は、日本の医学者・細菌学者。
  従二位・勲一等旭日大綬章・男爵・医学博士。
(追記)1885年1月25日、北原白秋が福岡県に生まれた(~
 1942年11月2日)詩人、童謡作家、歌人。
  日本を代表する詩人。
  熊本県玉名郡関外目村(現・南関町)に生まれ、まも
 なく福岡県山門郡沖端村(現・柳川市)にある家に帰る。
  父・長太郎、母・シケ。
  北原家は、江戸時代以来栄えた商家で(油屋また古問
 屋と号し、海産物問屋であった)、
  当時は、主に、酒造を業としていた。
  1901年(明治34年)(16歳)、大火によって北原家の
 酒蔵が全焼し、以降、家産が傾き始めた。
  白秋自身は、依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲
 載していた。
  この年、初めて「白秋」の号を用い・・、
  1904年(明治37年)(19歳)、長詩『林下の黙想』が、
 『文庫』四月号に掲載された。
  感激した白秋は、父に無断で中学を退学し、早稲田大
 学英文科予科に入学した。
  上京後、同郷の好によって若山牧水と親しく交わるよ
 うになり・・、
  1906年(明治39年)(21歳)、新詩社に参加し、与謝
 野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知り合
 った。
  『明星』で発表した詩は、上田敏、蒲原有明、薄田泣
 菫らの賞賛するところとなり、文壇の交友が、さらに広
 がった。
  1909年(明治42年)、『スバル』創刊に参加した。
  処女詩集『邪宗門』を上梓し・・、
  官能的、唯美的な象徴詩作品が話題となるが、年末に、
 実家が破産し、一時帰郷を余儀なくなった・・しかし・・、
  1910年(明治43年)、『屋上庭園』二号に掲載した白
 秋の詩『おかる勘平』が、風俗紊乱にあたるとされ、発
 禁処分を受けた(同誌は、年内に廃刊された)。
  1912年(明治45年 / 大正元年)、母と弟妹を東京に呼
 び寄せ・・、
  年末には、一人故郷に残っていた父も上京した。
  そして、白秋は、隣家にいた松下俊子と恋に落ちた。
  しかし、俊子は夫と別居中の人妻だった。
  2人は、夫から姦通罪により告訴され、未決監に拘置さ
 れた。
  1913年、春、俊子と結婚する。
  三崎に転居するも、父と弟が事業に失敗・・・、
  白秋夫婦を残して、一家は東京に引き揚げる。
  『城ヶ島の雨』は、この頃の作品。
  1914年(大正3年)(29歳)、肺結核に罹患した俊子の
 ために、小笠原父島に移住するも、ほどなく帰京。
  父母と俊子との折り合いが悪く、ついに離婚に至る。
  1916年(大正5年)(31歳)、詩人の江口章子と結婚。
  そして、東京・小岩町の紫烟草舎に転居した。
  筆勢・・いよいよ盛ん。
  1917年(大正6年)(32歳)、阿蘭陀書房を手放し、再
 び、弟・鉄雄と出版社アルスを創立した。
  この前後、家計はきわめて困窮し、妻の章子は胸を病
 んだ。
  1918年(大正7年)(33歳)、小田原に転居。
  『赤い鳥』の童謡、児童詩欄を担当する。
  優れた童謡作品を次々と発表・・
  この翌年・1919年あたりから、生活ようやく安定。
  1920年(大正9年)(35歳)、『白秋詩集』刊行開始。
  伝肇寺境内の住宅の隣に、山荘を新築した際の祝宴は、
 小田原の芸者総出という派手なものだった。
  それに、白秋の生活を金銭的に支えて来た弟らが反発
 し、章子を非難する。
  着物のほとんどを質入れしたと言う章子は、非難され
 るいわれもなく、反発した。
  章子は、その晩・・行方をくらました。白秋は不貞を
 疑い章子と離婚。
  1921年(大正10年)(36歳)、佐藤菊子(国柱会会員)
 と結婚。
  信州滞在中、想を得て、『落葉松』を発表する。
  1922年(大正11年)(37歳)、長男・隆太郎が誕生。
  1925年(大正14年)(40歳)、長女・篁子が誕生。
  1937年(昭和12年)(52歳)、糖尿病、および、腎臓
 病の合併症のために、眼底出血を引き起こし、入院した。
  視力のほとんどが失われたが、さらに、歌作に没頭す
 る。
  1941年(昭和16年)(56歳)春、数十年ぶりに、生ま
 れた地の柳川に帰郷し、南関で叔父のお墓参りをし、
  さらに、宮崎、奈良を巡遊。
  また、この年、芸術院会員に就任するも、年末にかけ
 て病状が悪化する。
  1942年(昭和17年)(57歳)、小康を得て、病床に執
 筆や編集を続けるも、11月2日、阿佐ヶ谷の自宅で逝去し
 た。享年57歳。
(追記)1885年2月10日、ハワイ王国のホノルルに領事館を設
 置した。
  1868年6月20日には、153名の日本人が移民第1号として
 ホノルルに到着した。
  明治元年の渡航なので、「元年者」と呼ばれた。
  別史料には以下の様に記す・・、
  1885年(明治18年)2月8日、最初の「官約移民」943名が
 渡った。
  この時、中村治郎初代日本国領事と、官吏2名が着任し
 た。
  ハワイ王国において、アメリカ合衆国に続いて、外交
 使節の第2号であった。
  翌々日の1885年(明治18年)2月10日に、「日本領事事務
 所」を開設し、旧ロイヤル・ハワイアン・ホテル内(ダ
 ウンタウンにあった)にオフィスを構えた。
(追記)1885年2月21日、品川硝子製造所を、稲葉正邦、西
 村勝三へ貸下げ、民営化を図った。
  近代ガラス工業の礎となった「品川硝子製造所」。
  スタートは、1873年(明治6年)、品川興業社・硝子製
 造所の開設だった。
  太政大臣・三条実美の家令だった村井三四之助は、三
 条実美の支援によって、イギリスから設備を輸入すると
 共に、トーマス・ウォルトンを招聘し、国内のガラス職
 人を採用した。
  しかし、ガラス器の製造は困難で、1876年(明治9年)、
 政府に買い上げを願い出た。
  工部省が買上げ、
  1879年には、イギリス人技術者のジェームス・スピー
 ドを雇い入れ、板ガラスの製造を目指した、しかし、製
 造はできなかった。
  因みに、板ガラスは、1920年(大正9年)に、日本板硝子
 が、コルバーン法を導入して、生産開始した。
  そして、コルバーン法は、溶解窯(ようかいがま)か
 ら板のままガラスを、一度、垂直に引き上げ、やわらか
 いうちに曲げ水平にして徐冷すると・・説明されている。
1884年4月、隅田川の一銭蒸気が始まった。
  一銭蒸気とは、東京の隅田(すみだ)川を定期航行して
 いた小型客船のことで、
  この時、隅田川汽船株式会社が営業を開始した。
  吾妻(あづま)橋~永代(えいたい)橋間を7区間に分け、
 乗船料が1区間1銭だったための愛称で、
  料金改定後もこの名でよばれた。
  焼玉エンジンの音からポンポン蒸気ともいった。
  最盛期には、年間200万人近くを運んだが、
  1942年(昭和17年)燃料不足で姿を消した。
  錦絵があり・・、東京両国通運会社 川蒸気往復繁栄
 真景図 重清 東京都公文書館蔵 (36.6×24.7センチ)
 三枚構成で、
  右に建物が描かれ、両国橋付近に立つ東京両国通運会
 社で、会社の旗も翻っている。
  明治から大正にかけて東京の川には、約68の「渡し場」
 があった。
  明治政府が、1871年(明治4年)より、橋梁・渡船の整
 備を奨励し、
  私設の橋や渡船に免税の措置を取ったため、盛んにな
 った。
  道路は、ほとんど変化せず江戸時代のままだった。
  また、武士の無賃も廃止された。
  渡し賃を取ることも認められ、1人あたり、一厘から
 五厘~七厘ぐらいであった。
  江戸時代よりも明治の方が渡しは盛んになった。
  特に、下町の人口が増えるに従い、隅田川や大川に渡
 しが増えた。
1885年4月、横浜の衛生改善のため、上水道の建設が始まっ
 た。
  (因みに、下水道は1869年に始まっていて、1871年に
 は完成していた)。
  上水道について、神奈川県知事は、英国人技師H.S.パ
 ーマーを顧問として、相模川の上流に水源を求め、
  1885年(明治18年)近代水道の建設に着手し、
  1887年(明治20年)9月に、完成した。
  この時を遡ること8年の1877年(明治10年)に、
 コレラが大流行(明治12年、15年、19年も同様)して、
 衛生的な近代水道の必要性が高まっていた。
  また、横浜の下水道について・・、
  1859年(安政6年)、横浜が開港されると、小漁村にす
 ぎなかった横浜の様相は一変した。
  波止場の建設、居留地整備をはじめとして、開港地と
 してのまちづくりがはじめられた。
  横浜は、外国の窓口としての性格から、当時の最先端
 とも言える様々な技術や文物がもたらされた。
  横浜の近代的な下水道の発祥も、外国人居留地の整備
 からはじまった。
  日本を含む世界で、コレラが流行していたため、居留
 地の外国人たちは、排水と下水道の整備を切望した。
  当時の横浜の主要道路には、掘割が布設され、下水道
 の役割を担っていたが、十分な機能を果たすものではな
 かった。
  1864年(元治元年)11月、幕府と各国領事との間で「
 横浜居留地覚書」が取り交わされていて、
  居留地の下水道整備も書かれていたが、実際に整備を
 進めたのは、明治になったからの御雇い外国人のイギリ
 ス人ブライトンの指導の下で進められた。
  居留地の下水道整備計画は、1869年(明治2年)に着手
 され、1871年(明治4年)に完成した。
  この下水道は、瓦製陶管による下水管を埋設するもの
 だった。
1885年5月2日、最初の文芸同人誌となる「我楽多文庫」が
 硯友社から創刊された。
  わが国最初の純文芸雑誌『我楽多文庫』、尾崎紅葉・
 山田美妙らにより創刊さる。
1885年5月5日、札幌、函館、根室3県に於いて、徴兵令施
 行までの間、屯田兵を置いておく屯田兵条例が制定され
 た。
  それまでの屯田兵例則(とんでんへいれいそく、明治7
 年10月30日太政官達)は、屯田兵の根拠となる太政官達は、
 廃止された。
  「屯田兵は、徒歩憲兵に編制し、有事に際して速かに
 戦列兵に転ずるを要す」この条文に憲兵とあるように、
 屯田兵は、平時に警備などの警察的任務を担うこともあ
 った。
  しかし、本務は、農業による自活(政府にとっては経
 費節減)と、戦時の兵備にあった。
  屯田兵条令:
  第一条:屯田兵ハ屯田歩兵屯田騎兵屯田砲兵屯田工兵
     ヲ以テ編成シ北海道枢要ノ地ニ配置シテ其警備
     ニ充ツ
  第二条:屯田兵ハ兵農相兼ヌルノ制トス、平素ハ給与
     ノ兵屋ニ居住シ軍事上ノ訓練及開墾耕稼ニ従事
     セシム
  第三条:屯田兵ハ府県ヨリ志願者ヲ召集シ本籍ヲ北海
     道ニ移シ家族ト共ニ移住セシム
  第四条:屯田兵ノ服務期限ハ二十ヶ年ニシテ現役八ヶ
     年後備十二ヶ年トス、後備役服務中ハ戦時若ク
     ハ事變ニ際シ召集ス、平時ニ在テハ勤務演習ノ
     為メ召集シ及簡閲點呼ヲ為ス服役期限中満四十
     歳ニ至リ又ハ死亡若クハ事故ニヨリ免役シタル
     トキハ其家族中適当ノ男子ヲシテ兵役ノ残期ヲ
     相続セシム、若シ適当ノ男子ナキトキハ兵役ヲ
     免ス、屯田兵ニシテ召集ノ条件ニ違背シ其他正
     当ノ理由ナクシテ兵役ノ義務ヲ履行セザル者ハ
     兵役ヲ免ズ(以下略)
1885年5月7日、電信条例が改正され、電信取扱規則が制定
 された。
  和文モールス符号改正。
  1885年6月23日、電信条例電信取扱規則局内心得書制定
 の記述もある。
1885年5月7日、千葉重太郎、死去
  江戸時代末期の剣客、鳥取藩藩士。
  北辰一刀流桶町千葉道場の創設者・千葉定吉の長男。
  幼少より父・定吉から北辰一刀流剣術を学び、
  1853年(嘉永6年)に、父が鳥取藩の剣術師範に就任し
 たため道場を任された。
  剣士としての力量については説が定まらないが、本家
 筋にあたる玄武館道場が千葉道三郎の代になって衰退し
 た一方で、
  重太郎が、道場を任された後も桶町道場の人気は衰え
 ず、幕末期は師範の実力が道場の盛衰に直結する時代で
 あったと推測され、この観点からも重太郎の実力の程が
 分る。
1885年5月8日、九州改進党が解党した(5月10日説あり)
  九州改進党(きゅうしゅうかいしんとう)は、
  明治時代前期に、九州地方の民権派が合同して作った
 地方政党で、
  政治的には改進党ではなく、自由党系である。
  中央の自由党と連携しつつ、九州地方を舞台に独自の
 民権運動進めてきたものの、
  政府の弾圧や自由党解党の影響を受けて3年余りで解散
 した。
1885年5月9日、日本銀行が、初めて兌換銀行券を発行した。
  日本銀行から、兌換銀行券の発行が始まる。
  翌年より銀本位制に → 銀本位制度確立へ
  この銀行券は、銀貨兌換券であるから、券表面に、「
 此券引かへに銀貨拾圓相渡可申候也」と記されている。
  日本で最も古い紙幣は、安土桃山時代末期、1600年頃
 に、伊勢山田地方(現在の三重県伊勢市)で流通し始め
 た「山田羽書」であると言われている。
  「山田羽書」は、伊勢神宮の神官であった山田御師(
 祈祷奉賽を行う神官で商人も兼ねていた)によって秤量
 ( 銀貨の釣り銭の代わりに発行された、端数銀貨の預か
 り証・端書)だった。
  当時、銀貨は額面を持たず、重さを量って使う秤量貨
 幣だったので、
  端数を調整するために切遣い(必要な目方だけ切って
 使用)する習慣があった。
  しかし、元和年間(1615年~1624年)に、幕府が、銀
 貨の切遣いを禁止したため、羽書は、端数処理の簡便化
 に役立った。
  後に、一定の額面を持つようになり、伊勢神宮信仰に
 も支えられた山田羽書は、人々の非常に高い信用を得て、
 単なる預かり証から次第に人々の間で流通する紙幣とし
 ての役割を果たすようになった。
  また、「山田羽書」の影響を受けて、周辺地域でも有
 力商人による羽書の発行が見られるようになり、
  これらの私札は、後の藩札の元になったと言われる。
  わが国で最初に発行された日本銀行券は、1885年5月9
 日に発行された「旧十円券」で、
  この銀行券は、銀貨兌換券で、券表面には「此券引か
 へに銀貨拾圓相渡可申候也」と記されていた。
1885年5月15日、イギリス海軍が、朝鮮の巨文島を占領した。
1885年5月16日、外交暗号
  外務卿の井上馨は、暗号の重要性を痛感し、
  1883年に、外務省内に電信符号編纂掛を設け、権少書
 記官・栗野慎一郎を責任者に指名して研究させた。
  1885年5月16日、この日に起草の井上外務卿から在外各
 公使領事宛の通達(電信課長・佐藤愛麿の印あり)では、
  暗号で伝えられた内容を、任地の政府などに知らせる
 ような場合には、適宜パラフレーズすることによって暗
 号についての手がかりを与えにくくすることを指示する
 とともに、
  目下、使用中の暗号電信簿に代わる符号を編纂中であ
 ると伝えた。
  そして、この年・1885年3月には、「暗号電信符号取調
 費」の裁可も得ている。
  英文用の5桁数字コードが、1904年に制定した仮名符
 号の使用心得書によれば、
  1885年に、英文用のコード(明治18年符号)が制定さ
 れていた(当時、外交官が電文を英語で書くのは普通の
 ことだった)。
  これは次のように、英語の語句に5桁数字を割り当てる
 ものだった。
  平文の配列は、アルファベット順で、その後に数字に
 対する符号を集めたセクションがある。
  15768 and  15314 are  22534 by
  24443 characterized  52115 Japanese Gov't
  57941 moderation  66719 The proposals of
  68448 reasonableness  93657 8
  「使用心得書」によればp.863に数字のセクションがあ
 るということなので、00001から99999までのコードをほ
 ぼフルに使った大部のコードブックであった。
  ABCコードなど当時の欧米の主だった商用暗号をも上回
 る規模だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:哲学者が言う・・ツキジデスの罠
    覇権を持った国が、新興する国を排除する。
.
1941年12月8日、ルーズベルトは、第二次世界大戦を以下の
 様に言った。
  『植民地の争奪が、今回の戦争の実相だ』・・と、
  つまり、「アメリカも植民地が欲しかったのだ」・・
 と、白状したようなもの・・、
  「植民地が欲しくて、アメリカも戦争したのだ」と白
 状したようなもの・・
  日本は、江戸時代の遠い昔から・・、
  米欧列強の『力を誇示したやり方』に苦しめられて来
 た。
  その列強の横暴に、『多大な賠償金を支払わされたり』
 して・・、
  弱小国家の悲哀(ひあい、悲しくあわれ)を味わわさ
 れて来た。
  また、日本は、インドや中国などにおける、列強各国
 の非人道的な酷(むご)いむしりを見て来た・・
  どぎついやり方などを見て来ており・・、
  明治新政府は、その様な事態からの脱却を目指し、
 「富国強兵索を目指す」ことを国是として来た。
  即時に、豊かな国と・・強い国を作りたいと・・、
  そして、このような様々な歴史の流れの中に、欧米列
 強の『傲慢さ』があった。
  第二次世界大戦の遠因の一つとして言われるのが・・、
  力を付けて来た日本が、第一次世界大戦の時、戦勝国
 としてパリ講和会議に出席し・・、
  ここで日本は、「人種平等であるべきだ」と主張した。、
  第一の・・主要な・・重要な・・日本の主張のポイント
 だった。
  『人種は・・平等で・・あるべきだ』
  日本の主張の第一重要ポイントとして主張した。
  今・現代では、当然すぎるほど当然な『正論』である
 が・・、
  有色人種の・・新興の国が・・なんだと・・見られて
 いた・・残念ながら・・、
  当時は、まだまだ、欧米列強のキリスト教の教義に洗
 脳され、マインド・コントロールされた『有色人種蔑視
 感は強く』・・、
  アメリカ本土では、黒人の方々が酷い人種差別を受け
 ていた・・(今でもそうだが・・?)
  アメリカが主導する会議の列強各国は、黄白の差別感
 は依然と強く・・残存し・・、
  有色人種の日本の主張は、微塵も理解されなく・・打
 ち砕かれてしまった。
  アメリカのカルフォルニア州では、日本人の移民を拒
 否し・・、新聞にあおられた人々は、黄色い日本人を合
 唱していた・・、
  この様なアメリカの行為は、日本中を大憤慨させてい
 た。
  日本は、また、青島(中国のチンタオ、1922年に返還)
 は還付を、『強引』に迫られ、
  1924年には、「排日移民法」が作られ、決定とされた。
  これらは、完全に哲学者が言う「ツキジデスの罠」で
 あった。
  『覇権国が・・新興国を・・排除する』・・古来から
 あった歴史の事実だった・・
  「覇権を持った国(アメリカやヨーロッパ列強各国)
 が、新興する国(日本)を排除する」という状況だった。
  これは、何度も歴史に現れる・・古来からの・・数々
 の・・繰り返されて来た事だった。
  ある意味・・人類の愚かさが繰り返されて来た・・、
  動物的性向がなされて来た・・、
  覇権を持ったアメリカは、新興して来た日本を排除し
 たかった。
  そして・・排除した・・。
  アメリカが筆頭になって、グルとなって排除した・・、
  アメリカは、新興する日本へのパワーシフト、「中心
 勢力の移動」を快く思っていなかった。
  日本を、ことあるごとに潰そうとした。
  潰そうとして来た。
  これは、日本がロシアに戦勝したとき、日露戦争の日
 本戦勝後に・・、
  『手のひらを返したように』・・、
  ・・アメリカの態度は・・変わった。
  この「ツキジデスの罠」現象は、深刻な現象で・・、
  歴史において、そのほとんどが『戦争に至る』という
 深刻な対立だった。
  今、南シナ海において、中国の力の誇示による強行策
 が取られ、
  この中国と、アメリカをはじめとする諸国の対立が、
 この度の仲裁裁判によって、完全に中国の主張が退けら
 れ、
  また、その決定を受け入れないと、否定する中国との
 間で、「ツキジデスの罠」状態になって・・行っている。
  かつての日本が、第一次大戦後の日本が、人種差別の
 撤廃を主張し、
  米欧列強の植民地政策に対抗した新しく起きた新興国
 として存在していた。
  アメリカは、これまで、西部のインディアンの方々の
 地を奪い、メキシコの地を奪い、太平洋の諸国の島々を
 奪い、フィリピンを植民とし・・、
  そして、中国の地に至り・・日本とぶつかった。
  そこに、黄白の差別感払拭の日本の意見は、通らなか
 った。
  これが、第二次世界大戦の遠因の一つとなった。
  だから、アメリカ大統領のルーズベルトが・・、
  この大統領が言うとおりの、貴方の国・アメリカを含
 む米欧列強諸国の植民地政策に起因した戦争だったので
 す。
  有色人種の地を植民地とする欧米列強と・・、
  その有色人種蔑視の黄白差別を無くせと、有色人種の
 地を植民地とする事を否定する・・主張する新興国・日本
 との対立の実相だったのです。
  そして、まだ、アメリカは、南米などを、アメリカの
 準植民地の様に考えていたというアメリカだった。
  その様な帝国主義そのもののアメリカだった・・、
  植民地にあぐらをかく帝国主義国家だった。
  その覇権を・・その一部であっても・・崩されたくな
 かった・・であった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年9月1日木曜日

(増補版)411E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年3月~1885年4月)

題:(増補版)411E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年3月~1885年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1885年3月16日、日本鉄道の品川線の新駅として目黒駅と目
 白駅が開業した。
  2週間遅れたという説と、当初の予定通りの3月1日の開
 業だという説がある。
1885年3月17日、全権大使・伊藤博文が、西郷従道と、天津
 にて李鴻章と会見(天津条約の談判)
  日本は、交渉の全権を伊藤博文に委ね、北京へ派遣し、
  清国も、交渉の場を天津に設け、全権を北洋通商大臣・
 李鴻章とした。
1885年3月18日、プロシア参謀少佐・メッケルが、軍制改革
 指導のため、来日した。
  そして、陸軍大学校教官として着任した。
  メッケルは、ドイツ(プロシア)の陸軍軍人で、大モ
 ルトケのもとで養成された軍人だった。
  1883年に、日本陸軍が、ドイツの兵制を採用した際、
 陸軍卿・大山巌が、桂太郎大佐と共にドイツに渡り、
  普仏戦争で勲功をたてたメッケル参謀少佐を、
  モルトケ参謀総長の推薦も受け、
  この年・1885年に、陸軍大学校教官として来日した、
 月俸500ドルだった。
  当時は、参謀少佐で、3年間、高等兵学の軍制学、戦略
 戦術を講じ、
  陸軍の最高顧問として陸軍大学校長・児玉源太郎らに
 助言をした。
  また、学識経験に富み、学生達を懇切に指導した。
  先制を説き、緒戦に勝たねばならぬと教え、
  精鋭なる軍の最大要素は軍人精神だとする持論を説き、
 陸軍に大きな影響を与えた。
  そして、陸軍兵術、師団編制を中心とする陸軍の編制、
 高等司令機関の完備、一般兵役義務制度の確立など、
  あらゆる分野において、
  日本陸軍の近代化を実現させ、
  その後の日清・日露戦争のための基礎を築いた。
  教え子達の多くは、日清・日露の戦争で、参謀将校を
 務め、陸軍の戦勝は、メッケルに負うと高く評価された。
  1888年(明治21年)に、帰国した。
  1904年(明治37年)、日本政府は、勲1等瑞宝章を贈っ
 た。
  また、第2次世界大戦終戦まで、日本陸軍の兵術思想に
 大きな影響を及ぼした。
1885年3月21日、万国郵便為替約定に加入した。
1885年3月31日、大阪商業講習所を、府立大阪商業学校と
 した。
  大阪商業講習所(おおさかしょうぎょうこうしゅうじ
 ょ)は、1880年(明治13年)11月、五代友厚らによって
 大阪府に開設された商業教育機関で、
  この年・1885年3月に、府立大阪商業学校に改組された。
  現在の大阪市立大学などの源流。
  開校のきっかけとなったのは、福沢諭吉門下で、慶應
 義塾に学んだ加藤政之助による新聞論説だった。
  加藤は、1879年8月に、編集主幹を務める『大坂新報』
 紙上に、社説「商法学校ヲ設ケサル可ラス」を掲載した。
  全国の商業の中心として栄える大阪に、なぜ、商法学
 校がないのかという問題提起を行った。
1885年3月、女医第1号の荻野吟子さんが、上野で開業した。
  日本で最初の女医となった。
1885年4月3日、特派全権大使・伊藤博文、西郷従道ら、天
 津において、李鴻章全権と談判を開始した。
  日本は、交渉の全権を伊藤博文に委ね、北京へ派遣し、
 清国も、交渉の場を天津に設け、全権を北洋通商大臣・李
 鴻章とした。
  日本の主張は、「朝鮮国王の要請」によって王宮内に
 詰めていた竹添進一郎公使と、日本公使館護衛隊が、
  袁世凱率いる清国漢城駐留軍の攻撃に晒された。
  これは、まったくの遺憾であり、
  また、政変の混乱が広がる漢城市街で、清国軍人によ
 り、在留日本人が多数殺害・略奪されたと厳しく主張し
 た。
  そして、朝鮮からの日清両国の即時撤兵と、日本商民
 殺傷事件に関係する清国軍指揮官の処罰を求めた。
  清国は、朝鮮王宮における戦闘は、日本側が戦端を開
 いたと反論した。
  また、甲申政変を引き起こした朝鮮開化派勢力に、協
 力した疑いもある。
  軍を出動させた竹添公使の行動を強く非難した。
  漢城における日本商民殺傷事件は、政変によって暴徒
 化した朝鮮の軍民によって引き起こされた・・と、清国
 軍の関与を否定した。
  撤兵問題については、日清両軍の朝鮮半島からの退去
 が早々に合意を見た。
  しかし、以後の朝鮮半島への両国の軍隊派遣に関して、
 主張は食い違った。
  伊藤は、第三国の侵攻など特別な場合を除いて、日清
 共に出兵するべきではないと主張した。
  李は、朝鮮が軍の派遣を要請すれば、清国は宗主国と
 して軍を派遣しないわけにはいかないとした。
  だから、壬午事変・甲申政変のような内乱であっても出
 兵はあり得ると主張した。
  結局、出兵に関する相互通知のみを取り決め、
  伊藤の主張する両国の永久撤兵案は退けられた。
  日本商民殺傷事件に関する清国軍の関与も、清国側は、
 決して認めず、
  瑣末事(さまつごと、些細で取るに足らないこと)で
 あるとして取り合おうともしなかった。
  しかし、伊藤の執拗な追及に折れて、清国軍内部で再
 調査を行い、事実であれば将官等を処罰するとの照会文
 を取り交わした。
1885年4月6日、府県に、小作慣行調査を指示した。 
  農商務省が、小作条例案を起草するため、全国の小作
 慣行調査を府県に指示した。
  『明治十八年小作慣行調査抄』農商務省
  因みに、1898年の調査による統計では・・、
  全国の農家の27.2%が小作農で、45.5%が小作地だっ
 た。
  調査項目(1921年の場合)
   (1)小作契約の締結、
   (2)小作契約の期間、
   (3)小作料、
   (4)小作料の納入、
   (5)小作料の滞納、
   (6)耕地整理が小作慣行に及ぼす影響、
   (7)米穀検査と小作慣行との関係、
   (8)小作契約の登記および小作地に対する制限、
   (9)地主または小作の賠償、
  (10)小作地修繕改良およびその負担、
  (11)小作契約当事者の変更、
  (12)契約の解除および消滅、
  (13)土地管理人、支配人、世話人等、
  (14)その他小作に関する重要事項、
  (15)永小作、
  (16)刈分小作その他特殊の小作、
  (17)小作に関する慣行の改善を要する諸点、理由、そ
    の方策、
1885年4月10日、国防会議条例を制定した。
1885年4月18日、専売特許条例が公布された。
  専売特許条例が制定され、公布された。
  特許法の前身。
  特許制度整備の必要性が再認識される一方で、近代化
 の実を示す必要があったため、
  高橋是清・初代専売特許所長の尽力により、1885年(
 明治18年)「専売特許条例」が公布された。
  特許第1号は、明治18年7月1日、東京府・堀田瑞松によ
 り出願された「堀田式錆止塗料とその塗法」だった。
  なお、1905年(明治38年)に、特許制度を補完するため、
 実用新案法が制定された。
1885年4月18日、天津条約が調印(締結)された。
  朝鮮問題に関し、全権・伊藤博文は、清国代表・李鴻
 章と天津条約を調印した。
  清国と甲申事変の処理として調印した内容:
  (1)日清両国は、朝鮮から即時に撤退を開始し、4箇
    月以内に撤兵を完了する。
  (2)日清両国は、朝鮮に対し、軍事顧問は派遣しない。
    朝鮮には、日清両国以外の外国から一名または数
    名の軍人を招致する。
  (3)将来、朝鮮に出兵する場合は、相互通知行文知照
    を必要と定める。
     派兵後は速やかに撤退し、駐留しない。
  ・照会文によって、日本商民殺傷事件の再調査と事実
   であった場合の処罰が約束された。
1885年4月20日、イギリス公使が、イギリス海軍による巨文
 島(こむんとう、朝鮮半島の南部沿岸沖にある小群島)
 の一時占領を通告し、占領された。
  巨文島は、イギリス海軍本部の命により、イギリス海
 軍の3隻の軍艦によって占領された。
  これは、アフガニスタンでのパンジェ紛争に直面して、
 ロシアの伸張の機先を制するためのものだった。
  当時、ロシアは、朝鮮半島北東部の永興湾(現在の元
 山市付近)を、軍港としての利用を模索しており、イギ
 リスはこれに対抗する必要があった。
  イギリスは、清国と日本に、巨文島の占拠を通告し、
 住民を動員して兵舎や防御施設を建て、
  また、上海との間に電信線を敷設した。
  清国は、当初、ロシアへの対抗策として、および、朝
 鮮に対する自国の優先権を国際的に確認するために、イ
 ギリスによる巨文島占拠をある程度は認めるつもりだっ
 た。
  しかし、朝鮮問題に発言力を持つ李鴻章の強い反対に
 より態度を変え、イギリスに退去を求めるとともに、朝
 鮮政府の支援へ転じた。
  朝鮮政府は、現地調査のために、政府有司堂上・厳世
 永と外務協辦(外交顧問)を務めていたメレンドルフを
 派遣し、
  巨文島のイギリス海軍の指揮官や、長崎に滞在してい
 たイギリス東洋艦隊司令官と交渉を行ったが、決定的な
 対応を得ることはできなかった。
  この様にイギリスは、巨文島を「第2の香港」とするべ
 く、既成事実化を進めたが、各国の反対は強硬だった。
  ロシア公使・ヴェーバーは、ロシアがイギリスに対抗
 して朝鮮の適当な土地を占領することを公言し、積極的
 な反対運動を行った。
  (イギリス・ロシアをはじめとする列強各国の領土を
 奪う帝国主義が跋扈・ばっこしていた。
  この時、当然の様に、イギリスに朝鮮は奪われた)
  アフガニスタンにおけるロシアの脅威が縮小した後、
 イギリスと清国の間で交渉が行われ、最終的に、イギリ
 ス艦隊は巨文島の基地を放棄することを決めた。
  イギリス人は、1887年2月27日に、基地を破壊して立ち
 去ったが、その後も彼らは島を訪問し続けた。
  若い水兵をそこに埋葬することもあった。
  島々が、日本との併合に入った1910年以後、訪問は頻
 繁ではなくなった。
  島には、10人のイギリス人水兵と海兵が埋葬されてい
 る。
1885年4月25日、井上馨外務卿が、条約改正草案を各国大使
 に送り、条約改正会議の予備交渉を開始した。
  寺島宗則・第4代外務卿の後を受けて参議兼外務卿とな
 った井上馨は、
  最難関のイギリス公使には、上野景範に代えて、省内
 きっての親英派で強硬派でもある森有礼を起用した。
  そして、法権・税権の部分的回復を盛りこんだ改正案
 を作って、
  1879年(明治12年)9月19日、森駐英公使に基本方針を
 訓令した。
  同年・1879年11月には、在欧各国の公使に対し、海関
 税則改正と開港場における外国人の不当な慣習・『日本
 人を未開人扱いすること』など
  (まったく卑劣な不当なこの習慣は、キリスト教に端
 を発する「有色人種蔑視」思想、これを無くしなさいと
 日本はずーっと言って来ている。
  これは、単に、日本の為だけではないという見地に立
 っていた。
  人種差別意識から行われる、他国の領土の奪取の行為
 を日本はずーっと見て来ていた。
  これ等の日本だけでない行為を無くしたいとしていた。
  ここが日本の偉い所だった。
  有名なのは、第一次世界大戦の戦勝国として会議に出
 席した日本は、条約に「有色人種蔑視の廃止条項」を入
 れる様に主張した。
  しかし、アメリカなどの欧米各国の列強の反対により
 否決された)
  ・・この是正、日本の行政規則における軽微な罰則・
 制裁条項をもつ規則についての外国人への適用などを骨
 子とした条約改正方針を、各国に通知するよう訓令を発
 した。
  1880年(明治13年)3月の官制改革においては、参議と
 卿は分離されたが、井上外務卿のみは、条約改正に携わ
 る関係から、その例外とされた。
  なお、井上を補佐した最初の外務大輔(次官)は、前
 駐露公使・榎本武揚であり、
  外務少輔には、上野景範が任じられ、
  榎本が海軍卿に転出すると、上野が外務大輔に昇格し
 た。
  また、1880年5月以降は、横浜のアメリカ副領事であっ
 たヘンリー・デニソンが、外務省顧問に採用された。
  1880年6月、井上案の骨子を基に、修好条約改正案、お
 よび、通商航海条約改正案が準備され、
  同年・1880年7月6日、条約改正会議を日本で開催する
 ことをアメリカ・清国を除く各国に通知した。
  この改正案の内容は、駐日オランダ公使からリークさ
 れ、7月16日付ジャパン・ヘラルド紙に掲載された。
  翌年・1881年(明治14年)2月、井上は、条約改正案を
 関係各国に回付した。
  当初の列国の態度は、日本案は要求のみ多く、それに
 対する報酬は少ないとして、要求に対する対価や譲与を
 求める姿勢が強かった。
  その後、森有礼駐英公使は、イギリス側の対応を探り、
 双方で交渉の課題と進め方について協議したが、
  イギリスは、関税規則改正に関わる交渉にのみ応じる
 方針であることが判明した。
  1881年7月23日、イギリス外相グランヴィル伯は、森駐
 英公使に対し、日本提出の条約改正案による交渉に反対
 の意を表明、東京での予備会議開催を提案した。
  これに対し、ドイツは、法権回復の交渉にも応じる構
 えがあるとの意向を示し、
  イギリスの方針とは異なる感触を得たが、
  東京での予備会議開催に対しては、イギリスと同意見
 であり、他の各国もこれに追随した。
  井上は、各国の要求を容れて、改正の基礎案を審議す
 るための予備会議(条約改正予議会)を開くこととした。
  12月28日の御前会議での諒承を経て、予備会議は、翌
 年・1882年(明治15年)1月25日に、東京の外務省で、第
 1回がひらかれ、
  フランス・ドイツ・イギリスなど8か国が参加した。
  この後、アメリカ合衆国・ベルギーなども加わり、同
 年・1882年7月27日まで、計21回開催された。
  なお、この年・1882年3月3日、伊藤博文は、明治天皇
 陛下に憲法調査のための渡欧を命じられ、
  1882年3月14日には、ヨーロッパに向け出発している。
  井上改正案は、「取らんと欲せば、必ず酬うる所なか
 るべからず」という方針に立ち、
  日本が関税を引き揚げて税収増加を図ること、日本の
 行政規則を条件づきで外国人に及ぼすこと、12年後に対
 等条約の締結を提議する権利を有することなどの代わり
 に、
  外国人には、土地所有権、営業権、内地雑居権を与え
 ようというものであり、
  中には、宮城県の野蒜築港後に同港を開き、区域を設
 けて外国人の雑居を許すという案もあった。
  これについては、政府部内でも佐々木高行、大木喬任、
 山田顕義の参議3名が、日本人は失うもの多く、得るとこ
 ろは少ないとして強く反対し、政府上層部の意見が分裂
 した。
  そのため、井上は、一時は辞任の意向を示すほどであ
 ったが、寺島前外務卿が慰留、岩倉具視や山縣有朋らが
 3参議を取りなして、結局、ひきつづき井上の方針が採用
 されることとなった。
  なお、小野梓は、1882年『外交を論ず』を著し、冒頭
 にトルコの例をひいて、列国共同会議を開くことは列国
 共同の圧力を受けることにほかならないとして、共同会
 議を開くべきではないと強く主張した。
  井上の改正案は、諸外国からも法権・税権のいずれに
 対しても批判が相次いだ。
  これに対し、井上は、日本は、法典の整備に鋭意取り
 組んでおり、日本国内の裁判所に外国人判事を任用する
 用意があると回答、
  1883年(明治16年)4月5日の第9回予議会では、日本の
 法律に服する外国人には、内地開放(内地雑居)を行う
 旨宣言した。
  内地開放とは、内地旅行や内地通商に関する制限を撤
 廃することであり、
  外国人の土地所有や、企業活動の自由を認めることで
 あったが、これは、法権の束縛された当時の日本にとっ
 て唯一最大の切り札であり、
  列国が、明治初年から繰り返し主張してきたことでも
 あった。
  この宣言は、イギリスはじめ列国からは、意外の念を
 示されながらも歓迎された。
  1883年6月1日の第13回予議会で、井上は、新条約批准
 5年以内の暫定措置として、領事裁判を認めながらも、そ
 の裁判は、外交官ではなく、外国の法律の専門家による
 ものとし、
  また、法律は、日本の国内法を適用するという案を提
 示した。
  税率の改正に関しては、日本の要求が、自由貿易の理
 念に反するとの批判をかわすべく、
  大蔵省で進めていた紙幣整理の償却費400万円の確保が
 目的であるとして、従来5パーセントであった税率を、奢
 侈品25パーセント、他の物品15パーセントに引き上げる
 案を示した。
  イギリスはこれに反対、増収総額300万円程度となる税
 率案を提示した。
  それに対し、ドイツは日本に対して好意的で、結果的
 には、総額360万円の増収額となる税率に定められた。
  なお、新条約の施行期間としては、裁判については12
 年、税率については8年と定められた。
  以上、予備会議での交渉は、新条約の方針の協議に止
 まるものではあったが、
  井上の内地開放宣言が功を奏し、日本は一貫して協議
 の主導者たる立場に立つことができた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:新事実が次々に明らかになり、従来の論拠は崩れている・・、
.
1933年3月4日、アメリカ合衆国の第32代大統領に、フラン
 クリン・ルーズベルトがなった(~1945年4月12日)
  ルーズベルトは、第二次世界大戦の「戦争を作った」
 という言葉を残した。
  アメリカ合衆国経済を、世界恐慌に影響されたどん底
 から回復させたいとの意味もあった。
  1941年12月の第二次世界大戦への参戦による史上最大
 の軍拡、軍需経済、戦時経済の著しい増大によって
 アメリカ経済は、完全に回復し、失業者も激減した。
  また、多額の戦債をつぎ込んだイギリスが負けること
 は避けたかった。
  アメリカ国民の方々は、そして、アメリカ国民の世論
 は、第一次世界大戦の参戦の苦い経験から戦争にかかわ
 るのを避けたいと考えていた。
  そして、ルーズベルトは、選挙で、『戦争にはかかわ
 らない』、『参戦しない』と訴え、大統領選挙に当選し
 た大統領だった。
  そして、自身も、何度も、『戦争に介入しない』と宣
 言していた。
  戦争に参戦するとは、口が裂けても言えない状況だっ
 た。
  チャーチルからは、「ドイツが、イギリス本土上陸寸
 前だ」と、参戦を頼まれていたが、動けない状況だった。
  ここで仕組んだルーズベルトの仕掛けが、真珠湾攻撃
 の仕掛けだった。
  ニューヨークタイムズ記者のアーサー・クロックは、
 「隔離声明以来、ルーズベルト大統領は、日本の敵意を
 煽り、枢軸側へ追いやるために、あらゆる手段を駆使し
 た」と報じた。
  また、日本を病人になぞらえ、ルーズベルトの発言「
 日本を隔離するのだ」・・という事から『隔離演説』と
 言われた、この演説は・・、
  アメリカ国民の方々を、戦争に順応させるレトリック
 的キャンペーン(巧みな言い回しの、国民を惑わすキャ
 ンペーン)の始まりを告げる「国民だまし」のものであ
 ったと言われている。
  ルーズベルトは、反省をしたのか、ブリュッセル会議
 (九ヶ国条約会議)が開催されたとき・・、
  アメリカは、隔離演説で見せたような『挑発的な言明』
 は避け、
  会議で、ウェルズ国務次官は「日本を侵略者呼ばわり
 するのは、我々の考えではない」と発言したり・・、
  「日本を懲罰するのではなく、単に、意見を交換する
 だけだ」などと述べた。
  また、ルーズベルトは、大粛清をしたソ連のスターリ
 ンの共産主義を受け入れた。
  ルーズベルトの「その容共的な姿勢」と・・、
  そして、そのスターリンの「侵略行為を黙認」したこ
 とは、当然として、アメリカ国民の方々から批判された。
  また、ルーズベルトは、日中戦争の、中国の蒋介石を
 支援するために『莫大な軍事費をつぎ込んだ』(これが、
 日中戦争の泥沼化への原因)、
  そして、日系人にだけの厳しい対応をした、強制収容
 を実施した有色人種への差別観の強い大統領だった。
  この様な、この大統領の行為が、アメリカにおける人
 種差別の解消の遅れの原因の1つとなった。
  ルーズベルト大統領は、アメリカ国民へ明らかにすべ
 きことを秘密にした大統領だった。
  大切な事でも秘密にし、隠した。
  「ルーズベルト秘録(産経新聞社刊)」の本には、そ
 のことが書かれている。
  この本で明らかになったこと、その事によって・・
  東京裁判についても秘密が明らかになり、この本で少
 なくとも『東京裁判」の訴因のいくつかは明確に崩れた。
  「東京裁判」なんて、その様な裁判で・・、
  そもそも、この『東京裁判」については、既に、海外
 での諸研究によって、国際法の上では・・『不法・不当
 の欠陥裁判』であり、
  現在の国際戦争裁判の前例には「なり得ない」という
 国際的なコンセンサスが出来ている。
  ・・中国は、相変わらずこの東京裁判史観で物を言っ
 ている。
.
  そして、次の話・・、
.
1933年3月4日、この時、アメリカのルーズベルトが、アメ
 リカ大統領になったが・・、
  このルーズベルトが起こした戦争の結果、日本は敗戦
 となり、占領政策がなされ・・
  日本の歴史は、外国(アメリカ)の占領軍・GHQが、
 その強大な権力によって、戦後の一時期のこの時期に、
 急遽、作り上げ・・、
  そして、被占領国の日本へ押し付けた。
  この急場づくりの、押し付けの歴史観は・・、
  「日本断罪のための歴史観」に縛られた歴史に過ぎな
 かった。
  この様な歴史が、学校で、正しいとして、子供たちに
 教えられ、
  刷り込まれた、日本の子供たちは・・、その歴史観を
 信じて来た。
  終戦直後の巨大な権力が、GHQが、日本統治の成否
 がかかっている中で、急遽、必死に押し付けたその歴史
 観は・・当然、正確であろうはずはない。
  正しい歴史観を感得するには、ある程度の時の経過が
  必要なのである(60年程度以上)・・、
  そして、戦後の時を経て・・例えば、今・現在、我々
 は、共産主義の終焉を見つつある時代の中に居る。
  そしてまた、戦勝国で秘匿されて来た真資料が・・公
 開され、真実を知る状況にもなっている。
  新資料・真資料の中には・・、
  既に、従来の判断を180度転換するという『驚愕の真実・
 事実』が明らかになっている。
  例えば、アメリカの「ルーズベルト政権」では、200名
 を超える大量のソ連の工作員がいた・・、
  アメリカの各省の次官クラスなどの要職に居て、
  対日政策に・・決定的影響を与えていた。
  また、ロシアの公開資料からは・・、
  1938年の『張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)』や、
  1939年の『ノモンハン事件』は、ソ連に責任があるこ
 とが明らかになりつつある。
  今まで歴史の事実と思われていたことが、変わりつつ
 ある。
  そして、この新事実によって、東京裁判のいくつかが
 裁判されるべきでは無かったという事になっている。
  今・現在、東京裁判は、それでなくても、国際法では
 「不法の裁判だとされている」、
  また、「不当の裁判とされている」。
  これが、国際的コンセンサスとなっている。
  東京裁判を論拠として、靖国参拝が、とやかく言われ
 ているが、その論拠は崩れている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年8月29日月曜日

(増補版)410E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年3月)

題:(増補版)410E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年2月2日、静岡県下85ヶ村の借金等農民1500人が、伊
 豆銀行や金貸業者を襲撃した。
  1884年に、繭価暴落などで、借金に悩んだ秩父の農民
 が、困民党を結成などして、金貸し業者などを襲撃した
 が、その様な流れの中に、この騒動もあった。
  松方財政に端を発する事件があった。
  しかし、詳細は調べ得ない。
1885年2月7日、軍隊と行きあった場合は右側通行となる(
 右肩の鉄砲との衝突を避けるため)
  因みに、日本の沖縄県が、第二次世界大戦後にアメリ
 カ軍の統治下に置かれた時、車の左側通行を変更させら
 れていた(対面交通の向きを変えさせられていた)。
1885年2月7日、岩崎弥太郎が没した。
  郵便汽船三菱の創設者の岩崎彌太郎が52歳で死去し、
  後に、弟の彌之助が、第2代社長に就任し、三菱社を
 設立した。
1885年2月7日、閣議で、対清交渉方針を決定した。
  これまで積極的に関与することを留めていた日本は、
 この年より方針を変えた。
  日本と連絡を取り合う安駉壽(あんけいじゅ)の言葉、
  「改革希望派の人には、三々五々相集りて相談を為せ
 ども、之を発する勇気の乏きと、之を引率する統領なき
 に苦めり」
  「何卒此上は、外兵の余威を借りて内部の改革を行う
 より外に手段なきに付、貴国は今暫く其兵を駐留せしめ
 られんこと内心希望せり」
1885年2月9日、日本鉱業会が設立された。
  「鉱業ノ進歩改良ヲ謀リ併セテ鉱業上ノ知識ヲ交換ス
 ル」(創立時の規約第1条)
  この学会は、日本最初の学会で、鉱山業に関する科学・
 技術上の問題のほかに、製鉄・製鋼技術の問題も扱った。
  規約にも、「事業ノ改良発達ヲ期スル」とあった。
  後に、1914年、日本鉄鋼協会が設立された。
1885年2月20日、朝鮮国正使・徐相雨らが来日し、天皇陛下
 に国書を奉呈した。
  朝鮮は、1876年~1885年まで、6回の使節団/視察団を
 日本に送っていた。
  それは、公式であり、また、非公式であり、
  修信使、および、朝士として、多彩な人物が、明治維
 新後の日本の変化を探索しようとした。
  その朝鮮の使節は、日本の近代的文物や制度、そして、
 開港後の姿を使行録に詳しく記録した。
  近代化の受容を強いられた朝鮮事情、朝鮮のの対応を
 現していた。
  そして、この時の使行は、1885年2月5日~1885年4月3
 日までの旅程で、
  日本に留まった期間は1ヶ月と20日だった。
  第5次修信使という、この使節団の目的は、外交的交渉
 ではなく、漢城條約の条項であった「国書を持って日本
 に謝意を表明するため」新しく派遣されるという形で、
 全権大使の徐相雨に、欽差大臣という肩書きをもって出
 発させた。
  徐相雨、穆麟徳、朴戴陽以外にも、日本語通事、中国
 語通事、従人3名が同行し、
  正使と副使、そして、従事官の3使体裁を揃えた使節だ
 った。
  この正使と副使が、それぞれ 從二品の高官に任命され
 て国王の国書を奉呈するためだったという点では、
  修信使という名称を使わなかったとしても、以前の修
 信使行のような威容を誇っていたと言える。
  何よりも、彼らは、刻々と新しく生まれ変りつつある
 日本の現実を、実際に目にしたのだった。
  いわゆる文明開化であり、西洋化であり、機械化であ
 って、
  当時の修信使たちは、その社会と制度の変化一つ一つ
 に対し、目を見張った。
  (李孝庭氏の論文より抜書き構成した)
1885年2月20日、農商務省水産局を設置した。
  農商務省(のうしょうむしょう)は、1881年4月に設置
 された農林、商工行政を司った中央官庁だった。
  農林・水産・商業・工業・鉱業などの産業行政一切を
 担当した。
  明治政府は、日本産業の資本主義化を達成するため、
 殖産興業政策をその課題に掲げ、
  農商工の各分野で行政指導を進めた。
  欧米の機械制工場制度の移植や鉄道、電信の導入など
 を促進した工部省(1870設立)、
  農政を所管した内務省(1873創設)、
  さらに、大蔵省が、当時の産業振興の重要な部門であ
 った。
  工部省中心の移植産業政策と、内務省中心の在来農業
 の資本主義化政策は、1870年代に、めまぐるしい機構の
 改廃、統合を重ねる過程で、相互に補完しあいながら、
 資本主義育成策の重要な部分をなした。
  1885年の内閣制成立とともに、工部省が廃止されて、
 農商務省が、唯一の産業主務官庁となり、
  駅逓(えきてい)事業は、逓信省に分離した。
1885年2月24日、伊藤博文を、対清交渉全権大使に任命した。
  参議・伊藤博文を、特派全権大使として清国へ差遣(
 さけん、公の使者として派遣すること)する。
  西郷従道と井上馨が、これに従った。
  朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため清に派遣され
 た。
1885年2月24日、内務省が、国道表を告示した。
  本年一月太政官第壹號ヲ以テ國道之儀布達相成候ニ付
 該線路別表之通相定候條此旨告示候事
              内 務 卿伯爵・山縣有朋
  路線中前號路線ト相通用スヘキ者(例ヘハ第貳號東京
 ヨリ大坂港ニ達スル路線中其神奈川驛迄ハ第壹號東京ヨ
 リ橫濱港ニ達スル路線ト同線ナル如キ類)ハ之ヲ略シ其
 番號ヲ記ス(以下略)
  國道表  
  壹號:東京ヨリ橫濱ニ達スル路線  
  驛名:日本橋、管轄名:東京府、國名:武藏、
  驛名:品川、 管轄名:東京府、國名:武藏、(以下略)
  貳號:東京ヨリ大坂港ニ達スル路線
  驛名:神奈川、管轄名:神奈川縣、國名:武藏、
  驛名:保土ケ谷、管轄名:神奈川縣、國名:武藏、
                      (以下略)
  三號:東京ヨリ神戸港ニ達スル路線 (以下略)
  四號:東京ヨリ長崎港ニ達スル路線 (以下略)
  五號:東京ヨリ新潟港ニ達スル路線 (以下略)
  六號:東京ヨリ函館港ニ達スル路線 (以下略)
  二十六號:大坂府ト廣島鎭臺トヲ拘聯スル路線  
  驛名:大坂、管轄名:大坂府、國名:攝津、
  驛名:尼崎、管轄名:兵庫縣、國名  攝津(以下略)
  四十四號:東京ヨリ沖繩縣ニ達スル路線
  驛名:山家、管轄名:福岡縣、國名:筑前、
  驛名:鹿兒島、管轄名:鹿兒島縣、國名:薩摩
  驛名:那覇、管轄名:沖繩縣、國名:琉球(以上)
1885年2月、硯友社(けんゆうしゃ)の結成
  大学予備門 (のちの第一高等学校) の学生・尾崎紅葉、
 山田美妙、石橋思案と、高等商業学校の丸山九華らの4人
 が、文学結社の「硯友社」を結成した。
  当時流行の政治小説に対し、芸術主義を標榜(ひょうぼ
 う、主義・主張などをはっきりと掲げ示すこと)した。
  そして、1885年5月に、機関誌『我楽多 (がらくた) 文
 庫』を発行した。
  巌谷小波(いわやさざなみ)、広津柳浪、川上眉山、泉
 鏡花、小栗風葉らが、前後して加わり、
  たちまち明治文壇の一大結社となり、明治20年代の文
 壇の主流となった。
1885年2月、麻疹が大流行する。
  麻疹(はしか)は、小児に多い発疹性(ほっしんせい)
 の急性感染症で、学校感染症の一つである。
  感染症予防法の5類感染症の一つ。
  厚生労働省のホームページには(抜書き構成した)・・、
  麻しんは、麻しんウイルスによって引き起こされる急
 性の全身感染症で、
  麻しんウイルスの感染経路は、空気感染、飛沫感染、
 接触感染で、その感染力は非常に強く・・、
  免疫を持っていない人が感染すると、ほぼ100%発症し、
 一度感染して発症すると、一生免疫が持続すると言われ
 ている。
  また、麻しんウイルスは、ヒトからヒトへ感染すると
 言われ・・、
  感染すると、約10日後に、発熱や咳、鼻水といった風
 邪のような症状が現れる。
  2~3日、熱が続いた後、39℃以上の高熱と発疹が出現
 して、肺炎、中耳炎を合併しやすく、患者1000人に1人の
 割合で脳炎が発症すると言われている。
  死亡割合も、先進国でも、1000人に1人と言われている。
  近年は、ワクチンの2回接種が行われ、麻しんに感染す
 る人数は減っている。
1885年3月1日、赤羽~品川間の鉄道開通(官私営鉄道の最
 初)
  品川線開通:日本鉄道の品川線(品川~新宿~赤羽間)
 が開通し、新橋~赤羽間直通旅客列車の運転を開始した。
  現在の山手線の前身。
  板橋駅、内藤新宿駅(現=新宿駅)、渋谷駅が開業。
  1887年に新宿駅に改称。
1885年3月9日、初めて電話機・電燈が輸入された(エジソ
 ンが電話機と白熱電燈26個を工部大学に寄贈)
1885年3月16日、福沢諭吉が、時事新報に「脱亜論」を発表
 した。
  初出:『時事新報』1885年3月16日
  内容:(前略)・・近代西洋文明がわが日本に入った
 のは、嘉永の開国を発端とする。
  国民はようやくそれを採用するべきことを知り、しだ
 いに活発の気風が生じたものの、進歩の道に横たわる老
 害の幕府というものがあり、これはいかんともできなか
 った。 
  幕府を保存しようとすると、文明は決して入ってくる
 ことができない。
  なぜかといえば近代文明は日本の旧体制と両立するも
 のではなく、旧体制を改革すれば、同時に幕府も滅亡し
 てしまうからである。
  だからといって、文明をふせいてその侵入を止めよう
 とすれば、日本国の独立は維持できなかった。
  なぜならば、世界文明の慌しい情勢は、東洋の孤島の
 眠りを許すものではなかったからだ。 
  ここにおいて、わが日本の人士は、国を重く、幕府を
 軽いとする大義に基づき、また、さいわいに神聖なる皇室
 の尊厳によって、断固として旧幕府を倒し、新政府を立
 てた。
  政府も民間も区別なく、国中がいっさい万事、西洋近
 代文明を採り、ただ日本の旧法を改革したばかりではな
 い。
  アジア全域の中にあって、一つの新機軸を確立し、主
 義とするのはただ、脱亜の二字にあるのみである。
  わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、
 国民の精神は既にアジアの旧習を脱し、西洋の文明に移
 っている。
  しかしここに不幸なのは、隣国があり、その一を支那
 といい、一を朝鮮という。
  この二国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗
 に養われてきたことは、わが日本国民と異ならないので
 ある。
  だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗
 教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものが
 あるためか、日・支・韓の三国を並べれば、日本に比べ
 れば支那・韓国はよほど似ているのである。
  この二国の者たちは、自分の身の上についても、また
 自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らない。
  交通便利な世の中にあっては、文明の物ごとを見聞き
 しないわけではないが、耳や目の見聞は心を動かすこと
 にならず、その古くさい慣習にしがみつくありさまは、
 百千年の昔とおなじである。
  現在の、文明日に日に新たな活劇の場に、教育を論じ
 れば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智とい
 い、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際に
 おいては真理や原則をわきまえることがない。
  そればかりか、道徳さえ地を掃いたように消えはてて
 残酷破廉恥を極め、なお傲然として自省の念など持たな
 い者のようだ。
  筆者からこの二国をみれば、今の文明東進の情勢の中
 にあっては、とても独立を維持する道はない。
  幸い国の中に志士が現れ、国の開明進歩の手始めに、
 われらの明治維新のような政府の大改革を企て、政治を
 改めるとともに人心を一新するような活動があれば、そ
 れはまた別である。
  もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに亡
 国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されること
 は、一点の疑いもない。
  なぜならば、麻疹と同じ文明開化の流行に遭いながら、
 支那・韓国の両国は伝染の自然法則に背き、無理にこれ
 を避けようとして室内に閉じこもり、空気の流通を遮断
 して、窒息しているからだ。
  「輔車唇歯」とは隣国が相互に援助しあう喩えである
 が、今の支那朝鮮はわが日本のために髪一本ほどの役に
 も立たない。
  のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理
 的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・
 韓国の評価で、わが日本を判断するということもありえ
 るのだ。
  例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制で、法律は
 信頼できなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国
 かと疑うだろう。
  支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなけれ
 ば、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違
 いない。
  支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もそ
 の影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もま
 た無情と推量されるのだ。
  事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。
  喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、
 愚かで無法、しかも残忍で無情なときは、たまたまその
 町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、
 他人の悪行に隠れて埋没するようなものだ。
  その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害
 となっていることは実に少なくなく、わが日本国の一大
 不幸というべきである。
  そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣
 国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないの
 である。
  むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退を
 ともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だから
 と特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接
 するように処置すべきである。
  悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。
  筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものであ
 る。
.
  (今日の言葉)
.
  題:キリスト教の大罪が、後々までも続いて行く事が
    悔しい。
.
2016年8月3日、リオ・オリンピック(ブラジルのリオデジ
 ャネイロ・オリンピック、~2016年8月21日)を見ている
 と、気になることがある。
  色々な方たちが頑張っている。
  日本の選手の方々も本当によく頑張った。
  選手の方々の一人一人に血のにじむ努力があり、ドラ
 マがあり・・、
  メダルをとれた人、残念だったがもう少しで手に届い
 た人、頑張ったが残念だった人などと・・、
  悔しくもある人、喜びの中にある人・・、
  そこにある色々な一人一人のドラマに涙した。
  色々な国々の若い選手たちが、頑張っている姿を見せ
 ている。
  色々な国々、色々な民族の方々、そのそれぞれに、美
 しいドラマが、やはり、あるのだろう。
  感動と涙があるのだろう。
  しかし、何か気になることがある。
  どうしても変だなと感じる事がある。
  あの民族の祭典と言われるオリンピックに、インディ
 オの方々が、また、インディアンの方々が・・、
  オリンピックという民族の祭典に・・、
  このインディオの方々や、インディアンの方々の姿が
 見かけられないのだ。
  スペイン・ポルトガル・イギリス・アメリカ合衆国・
 カナダ・オーストラリアに殺戮された民族・・、
  インディオの方々や、インディアンの方々などの民族
 の方々の姿が見られないのだ。
  イギリス・オーストラリアに殺戮されたアボリジニの
 方々の姿が見かけられないのだ。
  殺戮されなかったら、インディオの方々も、また、ア
 メリカ・インディアンの方々も、
  そして、アボリジニの方々も・・、
  このリオ・オリンピックに、他の民族の方々に交じっ
 て、感動のドラマを演じて居られただろう。
  そこにも感動のドラマや、感動の涙があったのだろう
 と思う。
  殺され、そして、少なくされた民族の、残された方々
 が・・、
  悔しさの中で、この民族の祭典・リオ・オリンピック
 を見ているのだろうと思う。
  キリスト教の教義に繰られ、洗脳され、マインド・コ
 ントロールされた「悪辣な者ども」によって、抹殺され
 た民族の、リオ・オリンピックに出場していただろう人々、
 出場していただろうなという影の姿・負の姿の民族の方々
 が、影の形で、負の形で見えて来る。
  また、残された民族の方々も、この様に見ているのだ
 ろうなという・・残され少数になってしまった民族の方々
 の姿も見えてくる。
  悔しさを噛みしめながら、無念の気持ちの中で、見て
 いる方々が居られる姿が見えて来る。
  今、残されて、少数になったインディオの方々や、イ
 ンディアンの方々などで・・、
  特に、若い方たちに、自殺が多い状態となっているこ
 とが悲しい。
  民族の行く末に、希望が持てなくなっているのだとい
 う。
  キリスト教の大罪が、後々までも続いて行く事が悔し
 い。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年8月28日日曜日

(増補版)409E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)

題:(増補版)409E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年1月17日、羅馬字会(ろーまじかい)創立、第一回
 例会を開催した。
  矢田部良吉、外山正一らが、羅馬字会を創立した。
  漢字・仮名を廃して、ローマ字を国字に、との主張を
 かかげた。
  そして、この年に、ローマ字による日本語のつづり方
 「羅馬字にて日本語の書き方」を発表した。
1885年1月20日、秋田院内鉱山が、古河一兵衛へ払い下げ
 られた(詳細は前記を参照ください)
1885年1月25日、千葉医学校が開校した(現在の千葉大学)
  医学校(いがっこう)は、医師になるための学校、医
 師養成学校で、
  1883年の文部省の医学校通則では、公立医学校には甲
 種と、乙種の別が定められた。
  甲種には、宮城、秋田、千葉、新潟、石川県金沢、愛
 知、三重県甲種、京都府、大阪、神戸、岡山県、徳島、
 福岡、長崎、熊本の各医学校が認定された。
1885年1月25日、大山巌が、欧州の兵制視察を終えて帰朝し
 た。
  大山巌とともに、川上操六、桂太郎も帰国。
  この頃の、日本の軍制(ぐんせい、軍の維持・管理・
 運用などに関する諸制度の総称)を見ると・・、
  日本にドイツの軍制をもたらしたのはドイツ人だった。
  中でも、ドイツ陸軍参謀将校のヤーコプ・メッケル少
 佐だった。
  メッケルは、1885年3月~1888年まで、陸軍大学校の
 「お雇い教師」として中央政府に雇用された。
  そのため、その活動も当初、陸大での軍事教育が中心
 であった。
  メッケルの軍事教育は・・、
  陸大のような高等教育機関では、本来おこなわないは
 ずの「日本の操典(日本陸軍が作成した、各兵種の教育、
 および、戦闘についてのしっかりした拠り所となる書)
 の研究からはじめる」点で斬新であった。
  また、参謀旅行や図上戦術などを特徴とする点で実践
 的なものでもあった。
  しかし、1886年12月に、ドイツ陸軍師団参謀ブランケ
 ンブルクが来日した。
  このことで、時間の余裕ができた状況となったメッケ
 ルは、日本陸軍の軍制改革そのものについても、多様な
 提案を行なった。
  メッケルの提案によって、改正・改革された日本の軍
 制の例には・・、工兵隊の編成についてや、徴兵制度が
 ある。
  メッケルの提案の結果、「工兵隊編成改正」や、徴兵
 制度の条例改正(1889年の徴兵事務条例改正)が行なわ
 れた。
  そして、メッケルの提案によって、1873年以来の鎮台
 制度も改革された。
  (京都大学へ提出した布施将夫氏の論文を参考にした)
1885年1月26日、南条文雄が、はじめて東京大学で梵語を教
 えた。
  日本で、初めて、本格的にサンスクリットを教えたの
 は、
  1991年に、「博言学」の「お雇い教師」となったフロ
 ーレンツだった。
  そして、空海に限らず、サンスクリットを学習した日
 本人は、19世紀末以前にはいなかった。
  初めてサンスクリットに接した日本人は、1879年に、
 オックスフォードに学んだ南条文雄と笠原研寿だった。
  フローレンツは、ヴェーダ文献を始め、広くサンスク
 リット文献に通じていて、
  サンスクリット研究の導入者として、最も適任だった。
  それより数年前に(1885年/1887年)、南条文雄は、
 非常勤講師として東京大学でサンスクリットを教えたこ
 とがあるものの、扱うことができたのは仏教文献に限ら
 れていた。
  (桃山学院大学の報告で、小林信彦氏が、1989年、関
 西外国語大学の公開講演で配布されたものの抜書き)
1885年1月27日、ハワイへの第1回移民
  ハワイへ、第1回の約官移民団(927人)が、横浜港か
 ら出発した。
  日本からハワイへの移民は、1868年から行われていて、
  1902年には、サトウキビ労働者の70%が、日本人移民で
 占められるほどであった。
  1924年のアメリカ本土で成立する「排日移民法」成立
 まで、約22万人の日本人がハワイへ渡った。
  因みに・・、
  1881年3月、ハワイ王国の王様であるカラカウア1世が
 来日して、赤坂離宮で明治天皇陛下と会談をした。
  これは、結局は、ハワイの窮状を、日本に助けて戴き
 たいというものだった。
  カラカウア王の提案は・・
  (1)カラカウア王の姪で、王位継承者のカイウラニ王
    女と、山階宮定麿親王(後の東伏見宮依仁親王)
    との縁組をいたしたい。
  (2)日本・ハワイの合邦(日本とハワイが連邦状態に
    なりたい)。
  (3)日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷設をし
    たい。
  (4)日本主導による「アジア連邦」の実現・・だった。
  このハワイ王国の危急存亡を救っていただきたいとい
 う提案は・・、
  アメリカ合衆国によるハワイ侵略が目に見えた形にあ
 ったからだった。
  そして、このハワイ王の提案は、よくヨーロッパでも
 行われていた王家存続の方法だった。
  そして、ハワイ人の人口も何故か急激に減少した。
  ハワイの方たちの減少をもくろんで、ハワイの方々(
 ハワイ人)には抵抗力のない病原菌が持ち込まれたとい
 う話もあった。
  その人口減の関連で、ハワイへの日本人移民策が推し
 進められる。
  1890年には、ハワイ総人口の40パーセントが日本移民
 という状態となっていた。
  1894年7月4日、ハワイ共和国が成立した。
  1895年1月、最後の王党派による大規模な武力蜂起が起
 きた。
  しかし、武力鎮圧された。
  1895年1月16日、リリウオカラニ(ハワイ王国の最後と
 なってしまった女王)は逮捕され、廃位された。
  この後、アメリカ移民の白人のサンフォード・ドール
 は、ハワイをアメリカ合衆国に併合する条約を作り、こ
 の条約が成立したときハワイ準州の初代知事に任命され
 た。
  1898年8月12日、アメリカ大統領ウィリアム・マッキン
 リーは、ハワイのアメリカ合衆国領への編入を宣言した。
  そして、イオラニ宮殿に掲げられていたハワイ王国の
 国旗は降ろされた。
  そして、星条旗が掲げられた。
  この時、古来のハワイ住民らは、悲しみの声を上げた。
  1899年、そして、その翌年、ハワイ王国の後継者であ
 るカイウラニ王女は、24歳という若さで病気で逝去され
 た。
1885年1月28日、発火しやすい黄リンマッチを禁止した。
1885年1月、広目屋(広告業)が、楽隊を雇って宣伝に用い
 ることを始めた(別の説もある)
  チンドン屋は、披露目屋・広目屋(ひろめや)・東西
 屋(とうざいや)などと呼んだ。
  1878年(明治11年)12月11日の『郵便報知新聞』見出
 しに「チンドン屋よろしく大道飴売」とあり、
  また、1889年(明治22年)10月6日の『東京日日新聞』
 見出しに、「条約改正論戦、チンドン屋総出の形」など
 に見られるように、
  チンドン屋は、明治の初期から存在した。
  しかし、用例が少なく確かではない。
1885年1月、田中智学(たなかちがく)が、立正安国会を設
 立した。
  田中智学は、宗教家で、東京に生まれた。
  町医者多田玄龍の3男。
  東京江戸川一之江妙覚寺で得度し、後に、僧籍を返還
 し、
  日蓮宗を脱して日蓮主義による宗教活動を提唱した。
  1880年、横浜で、蓮華会を結成し、在家仏教運動を開
 始した。
  1885年、東京に移って、立正安国会を創立した。
  日刊新聞『天業民報』を発行し、
  1914年に、門下の信仰団体を統一して、国柱会を設立
 した。
  名称は、日蓮の著『開目抄』にある「われ日本(にほん)
 の柱とならん」に由来する。
  法華経と国体との一体化を説いた。
  『法華経(ほけきょう)』を信行(しんぎょう)し、日
 本国体を開顕(かいけん)し、立正安国の真世界を目ざす
 ことにあり・・、
  在家仏教の立場から、仏教改革を提唱、実践した。
  その独自の日蓮主義は、高山樗牛(ちょぎゅう)らに影
 響をあたえ・・、
  伊勢丹(いせたん)創業者の初代小菅丹治(こすげたんじ)
 らも内外から教勢の発展に努めた。
  著名な会員に、石原莞爾(いしはらかんじ)、宮沢賢治
 らがいる。
.
  (今日の言葉)
.
  題:人類救済のためにも・・無くさなければならない
   宗教となっている。
.
  キリスト教は、『有色人種の蔑視教義』で、長い歴史
 に渡って、有色人種を殺戮して来た。
  キリスト教聖書で、神が叫ぶ、「奴隷にせよ」・・と、
  奴隷に関するキリスト教の卑劣な教義も、キリスト教
 の聖書に書かれているが故に・・、
  記されたところが聖書ゆえに、人類の歴史にその奴隷
 制が、消えることなく続き、卑劣な行為が行われて来た。
  特に、アフリカの黒人の方々が、酷(ひど)い扱いを
 受けた。
  可哀想な人々であった・・、
  行為者は白人・・、
  キリスト教が洗脳した『肌の色の違い』で、悪行為が
 さも、正義の行為のように錯覚されて・・行われた・・
 そして・・
  アメリカに連れて行かれるその船倉で、その船底で、
  船倉が、赤道を越えて行く長旅である為・・、
  人間の生きていられる様な状況でないため・・環境で
 はないため・・、
  その様な劣悪な環境の中で、多くの黒人の方々は亡く
 なって行った。
  そして、生き残って・・行き着いたアメリカ合衆国で、
 長い長い期間、反省が行われるわけではなく・・家畜同
 然の扱いを受ける・・卑劣な扱いを受けた。
  また、キリスト教の卑劣な考え方・・、
  「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅しても良い」
 という・・、
  キリスト教のこの考え方・教義で・・、
  何人の方々が。。正義だと言って殺され・・亡くなっ
 たというのであろうか?
  南米・中米・北米で・・、
  また、その離島で・・、
  多くのインディオの方々が・・、
  そして、インディアンの方々が・・、
  スペインのキリスト教徒、および、キリスト教の聖職
 者たちに・・、
  50年間にも渡る、また、長い期間に渡る殺戮で・・、
  1000万人もの方々が・・殺戮された。
  また、アメリカ合衆国で、インディアンの方々が・・、
  そして、カナダの地でも、インディアンの方々が・・、
  殺戮された。
  卑劣な有色人種の蔑視のキリスト教の教義・考え方・・
  この教義・考え方かから、この様な卑劣な行為がなさ
 れて来た。
  今・現在、キリスト教を説明する書物は・・、
  キリスト教が破たんに満ちていることを記している・・
  それらの、教義の崩壊の声に満ち満ちている。
  すべての書籍が、キリスト教が最終段階であるのを指
 摘している。
  そして、弱弱しく言う、「自分たちの肯定する歴史的
 な事実に基づこう」・・と・・、
  したがって、その歴史的な事実が覆(くつがえ)され
 れば・・、キリスト教のそのすべてが成り立たなくなる。
  キリスト教学者は、涙ぐましい努力をしている・・が、
  その努力は・・覆される結果となっている。
  そして、言う・・、
  「キリスト教徒は、自身の信仰の墓穴を掘る様な事が
 あるかもしれないが、客観的かつ冷静に行なおう」と・・、
  そして、また、言う・・、
  「過去にキリスト教研究者は、勇気を奮(ふる)い起
 こし、大胆に、(キリスト教を守る)防衛努力をした・・と、
  崩されたキリスト教の過去の栄光の歴史の立て直しの
 『防衛的努力』がなされた」・・と、
  崩される例が多いが、防衛努力をしたと、それをしよ
 うと言う・・、
  しかし、そのほとんどが、むなしい結果に終わった。
  19世紀のイギリスの神学者で枢機卿だったジョン・ヘ
 ンリー・ニューマンは、
  自分の研究結果が、あまりに無残なため、自分の研究
 結果である「理性の時代」を、
  神学校の学生を守るため(読ませられないため)(見
 せられないため)、その研究結果の書類を、金庫にしま
 って、鍵をかけてしまった・・という・・、
  今、キリスト教の史家や研究者は、そうする限界を認
 めている・・、
  (研究しても良い結果は得られない・・と)。
  そして、それは、同時に、それは、信じている宗教の
 破壊につながることも理解している・・と言っている・・、
.
  そして、次の話・・、
  イエスには弟たちが居たが、その一人・ヤコブが・・、
  原始キリスト教の信徒の中で揉(も)めていた事で、
 解決の為の意見を言った。
  これが、初めての教会会議だったと言う・・が、
  それは、『ユダヤ教の食事と性行為に関するいくつか
 は認めよう』となった、
  そして、『それを守ろう』となった。
  この事は、満場一致で皆の総意となった。
  この決定に、特に、アンティオキア派の信徒は、喜ん
 だ。
  パウロも認めた。
  これが、キリスト教の教会会議の『総意』の最初の記
 録となっている。
  この後の、キリスト教の最高会議であるローマ法王も
 出る公会議では・・、
  異論は「異端だ」とレッテルが張られ、死刑に処せら
 れ、そして、追放された。
  全教会一致の会議、整合一体化の神秘体の宗教と、意
 味不明な自画自讃がなされた。
  そして、説明ができなくなると「精霊」が出て来た。
  そして、「精霊が命ずる」となる。
  この様な決定の経過が辿られて「全教会一致の会議」
 の宗教となっている。
  こんな事だから、腹の底では納得していない。
  パウロでさえ『違う事』を伝えている。
  パウロも、腹の底では違う事を考えていたのだ・・、
  キリスト教の宗教の構造が、この様なものだから、あ
 ちこちで不一致にあふれるた・・、
  「全教会一致の強引な決定の美」がなされた・・、
  その「おまじない」の様な決定は、あちこちで、その
 ため逆に、不一致を生み出していた。
  パウロの行なった例の様に・・。
  今・現代になって、その不一致の結果が、修復できな
 い、収拾できない、混乱を収めることが出来ない事態と
 なって表れている。
  研究者や史家も、お手上げの状態となっている。
  そして、崩壊へ向かっていると研究者たちから言われ
 ている。
.
  そして、次の話・・、
  キリスト教徒で学者の田川健三氏は言う・・、
  「2000年の間、これだけ広まれば、悪い所もあるだろ
 う」・・と、尻をまくった言い方をする・・、
  その説明のはじめから・・完全に信じてはいない。
  「数多くの害悪も流してきた」・・と、胡散臭い(う
 さんくさい)所もある・・と言う。
  そして、「くだらない部分も大量にある」・・と、田
 川氏は言う。
  そして、氏は言う、「だが、せっかくだから、何か汲
 (く)み取りたいところを見つけたい」・・と、
  キリスト教は、この様な状態になっている。
  最後のあがき的な宗教となっている。
  キリスト教から、離れなさい・・、
  そして・・、
  人類救済のためにも、キリスト教は無くさなければ・・
 ならない。
..
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