ページビューの合計

2017年5月31日水曜日

(増補版)531E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年2月~1891年2月)

題:(増補版)531E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年2月~1891年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年2月26日、板垣退助が、立憲自由党を離党した。
  少し振り返る形になるが・・
  大同団結運動の主導者・後藤象二郎が、1889年3月、突
 如、黒田清隆内閣に入閣するに及んで、入閣賛成派と反
 対派が激しく対立し、大同団結運動が分裂状態に陥った。
  この時、板垣は、後藤や河野広中に説得されて上京し、
  1890年5月、愛国公党を組織し、大同派の団結を図った。
  1890年9月、板垣らの努力で愛国公党、自由党、大同倶
 楽部(くらぶ)は合同し、立憲自由党を結党して民力休養、
 政費節減を掲げて政府攻撃に乗り出したが、
  板垣は、第一議会開会中の1891年2月、土佐派議員が政
 府に買収された責任を感じて離党した。
  1891年3月には復党して党総理となり、
  1895年には、伊藤博文内閣との協力関係を進め、
  1896年4月、内務大臣となる。
  1896年9月、内相を辞し、党活動に専念し、
  1898年、憲政党内閣のもとで、ふたたび内務大臣とな
 ったが・・
  1898年10月、辞職した。
  その後、政治活動から身を引いて社会問題に専心した。
1891年2月27日、帝国議会の衆議院が、中江兆民の辞表を受
 理した。
  中江兆民は、民党を結成しようと奔走し、
  1891年9月、立憲自由党が結党された。
  そして、『立憲自由新聞』の主筆を務めたが、自由党
 土佐派の裏切りによって政府予算案が成立した。
  兆民は、このことに憤り、1891年2月に辞職した。
  その際、「小生事、近日亜爾格児中毒病相発し、行歩
 艱難、何分採決の数に列し難く、因て辞職仕候。此段御
 届候也。」という辞表を提出した。
  自身をアルコール中毒と主張する辞職願は、僅差で承
 認されたが、政府の土佐派切り崩し工作への皮肉である
 という批判を受けた。
1891年2月28日、九州鉄道会社線の遠賀川~黒崎間が開業し
 た。
1891年2月、横川~軽井沢間の軽井沢側から着工された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本は、いざという時にはやりますという、精緻な、
    且つ、超強力な、防衛体制の構築のため・・
     論議を尽くして行かなければならない。
.
1606年、アメリカの植民地化の勅許状が出た。
  誰がその地に居ようが、「その地をイギリスのものと
 せよ」とのイギリス王の命令書が出た。
  イギリスのジェームス一世は、北アメリカの恒久的な
 イギリスの植民地とする勅許状を出した。
  そして、この年・1606年に設立されたロンドン会社(
 後のヴァージニア会社)が、
  翌年・1607年に、105人の植民者の一団を、新大陸・ア
 メリカへ送り付けた。
  その北アメリカの地の植民地化の命令を出したイギリ
 ス王の名を取って『ジェームズタウン』と名付けた。
  ここが、北アメリカにおける、イギリスの最初の植民
 地であるヴァージニアとなった。
  最初、入植者たちは金銀を求め、漁(あさ)った。
  それは、16世紀に、メキシコやペルーなどの中米南米
 など広大な地で、掠奪や殺戮の限りを尽くし、殺人鬼と
 化していたスペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者
 たちが、金銀を求める姿と同じだった。
  また、儲けの要である東洋への通商路を求めた。
  数年間、探索が試みられた。
  それに、植民者としての新天地のその生活との闘いの
 日々だった。
  1609年~1610年の冬は、特に、厳しい寒さで、「餓死
 の時期」と呼ばれた。
  当時、500人を超える植民者たちが居たが、餓死などで
 60人に減っていた。
  厳しい生存状況の中で、多くの生命が失われた。
  生き残った者たちは、その厳しさに耐えられず、植民
 を断念しようとさえした。
  生きる事がおぼつかない植民者たちの「一攫千金の夢」
 は潰え去っていた。
  この窮地を救ってくれたのが、先住民であるインディ
 アンの方々だった。
  まったく、ここに、厚い厚い恩が生まれているのだが・・?
  インディアンの方々は、命がけで、この厳しい冬期を
 越える事を教えた、そして、危機を救った。
  しかし、しかし、この危機の時期が過ぎ去ると、この
 様な破たん寸前の危機を救って戴いた恩があるのに・・?
  喉元過ぎれば熱さを忘れる・・この植民者たちの恩忘
 れの輩たちだった・・このインディアンの先住民の方々
 を追い出しにかかった・・その土地が欲しい・・だった・・
  そして、インディアンの方々を殺戮して行く。
  1919年には、イギリスは、たくさんの植民者と年季奉
 公人と称する人間を送り込んだ。
  これは、オーストラリアでもやった事と同じように、
 イギリス本国で不要になった人たちを、「物を片付ける
 が如く」に棄民した。
  キリスト教徒は、恩や縁ということを簡単に捨てる・・、
  だからイギリスも、よく、この様に、国民を棄民した。
  (アメリカは、黒人の方々を棄民した・・あのリンカ
 ーンが・・)
  この時も、その棄民をした。
  ロンドンの町の道端に居る極貧者を、連れ出して行き、
 かり集めて、アメリカへ送り込んだ。
  ロンドン市は、その促進のために税金から金を出した・・
 支出した(あたかも人間の・・ロンドン市民の清掃事業
 であった・・卑劣である)。
  また、女性も、「植民地花嫁」として送り込んだ。
  花嫁を得た植民者は、120ポンドの煙草を支払った。
  名目は美しく渡航費と称したが、あたかも女性を買う
 がごとくの行為だった。
  そして、この1619年8月20日には、さらに悪い事をしで
 かしていた。
  人類史上の最悪の大汚点である「アメリカの奴隷貿易」
 が始まった。
  キリスト教の聖書に書かれた「奴隷狩り」の教えの如
 くの行為が行われた。
  オランダ船が、20人のアフリカの方々を奴隷として、
 ジェームズタウンに連れて来た。
  アメリカ人は、卑劣にも、このアフリカの方々を奴隷
 として買った。
  アメリカ人たちは、この行為を『輸入』と称した。
  意識の遅れた者どもだった。
.
1960年代、アメリカは、この頃になって、やっと、黒人か?
 否か?の記入を・・自己申告制にした。
  キリスト教は、有色人種を蔑視して来た。
  キリスト教の歴史は、その最初から、その差別の歴史
 だった。
  そして、人々へ、その教義を刷り込んで来た。
  キリスト教の聖書に書かれている「奴隷狩りの行為」、
 それは、隣国の民を、安易に奴隷にした。
  聖書で、キリスト教の神は、隣国に攻め込み、隣国の
 民を「奴隷にせよ、奴隷にせよ」と叫んだ・・そして、
 その行為を、キリスト教の神の「正義だ」とした。
  キリスト教国のアメリカは、アフリカの黒人の方々を、
 長い期間、奴隷にして来た。
  そして、黒人の方々を虐げてきた。
  WASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)
 の白人のキリスト教徒たちは、黒人の方々を奴隷として
 使い、そして、蔑んだ。
  この大汚点の歴史が・・アメリカに残った。
  本当い軽蔑すべき行為だった。
  国勢調査や、色々な人口統計において、アメリカは、
 「白人」「黒人」「その他の人種」と書くことを要求し
 た。
  それは、特に、黒人の方々を差別するためのものだっ
 た。
  「黒人であるか否か」を知るためのものだった。
  この事を端緒にして、黒人の方々は卑劣な差別を受け
 た。
  少しでも黒人の血が入っていれば、「黒人と記せ」と
 要求された。
  決して「白人」とはしなかった。
  国勢調査局は、「黒人の血の割合が、どんなに少なく
 ても黒人として申告しなければならない」と指示した。
  卑劣である。
  1960年以降になって、やっと、黒人の方々にも「自己
 申告制」が採用され、黒人と記すのは本人次第と、やっ
 と、なった。
  しかし、1970年に制定されたルイジアナ州法では、32
 分の1以上の黒人の血が混じっている住民は、「黒人とす
 る」とされた。
  そして、出生、結婚、死亡などの証明書には、その人
 種を記せとされた。
  黒人の詩人であるラングストン・ヒューズは、「アメ
 リカ合衆国では、黒人という言葉は、ともかく血管の中
 に、いくらかでも黒人の血が流れている者には、誰にで
 も適用されるのだ」と嘆き、詠った。
  この事は、「たとえ、白人の血が、いかに多くても、
 黒人の血が一滴でも確認されれば、その人は、「白人」
 ではなくて、れっきとした「黒人」だという事」を意味
 された。
  「白い黒人の悲劇」が生まれた。
  今まで、白人だと誰もが思っていた方が、ある時、何
 かのきっかけで、黒人の血が、一滴でも混じっているこ
 とが判明すると、
  その瞬間から、その人は、黒人として、白人社会から
 黒人社会へと追い返された・・追放された。
.
2005年12月29日、韓国の廬武鉉(ノムヒョン)大統領は、
 「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」、
 別名「親日派糾弾法」を公布した。
  日本が、誠実に朝鮮半島・韓国の国づくりをしたこと
 は顧(かえり)みられなかった。
  日本から朝鮮半島・韓国へ、莫大な資本を持って行っ
 て朝鮮半島を創って行った善意はまったく顧(かえりみ)
 られなかった。
  そして、逆に、その行為を無視し、日本に協力して「
 国造りに励んだ人々」を吊(つ)るし上げた。
  日本の統治時代に、日本に協力した人間は、その子孫
 の財産までも、その全部を、没収するという法律だった。
  恐ろしいまでも事実誤認をして、罪に落とす法律だっ
 た。
  また、これは、過ぎ去った過去を罰するという、やっ
 てはいけない行為となっている。
  国際的にもやってはいけないとされている「非難され
 るべき非常識行為」である。
  例えば、もし、あなたが、以前に酒を飲んだからと、
 今、その行為を罰するという法律(禁酒法)を作って、
  その法律が出来たからと言われ、そして、逮捕された
 ら・・?
  あなたは、どうしますか?
  こんな事、あり得ますか?
  また、今、住んでいるあなたの家が、過去のある時に
 建てたその家が、その時は合法だとされ、建築許可され、
 そして、建築したのに・・、
  今、過去にさかのぼって・・その家は違法だという法
 律ができて、法律違反だとされ、「あなたの家は取り壊
 せ」と、命令が出されたら、あなたは、従いますか?
  どう思いますか?
  国際的にも・・「このような事は出来ない」とされて
 いて、
  また、常識的にも、この様な事を、国家が行なっては
 いけない事となっている。
  しかし、韓国は、この様な事をした・・行った。
  この様な法律を作って、親日家を虐(いじ)め、そし
 て、その人々を潰した。
  そして、韓国国民の方々へ反日感情を煽(あお)った。
  また、この法律で、遡(さかのぼ)って、「李完用(
 りかんよう)」という人を売国奴だとされた。
  その他の人々にも、さかのぼって、日本に協力したと
 した人々をリストアップして、卑劣な糾弾(弾圧、嫌が
 らせ)行為をした。
  朝鮮戦争の英雄の、白善燁 (ペクソンヨプ) 将軍まで
 も糾弾された。
  反日意識が、朝鮮・韓国の国民の方々へ刷り込まれた。
  そして、現在、韓国に在住する、韓国へ行った家族の
 日本人の子弟・子供(仕事などで韓国へ行った日本人子
 弟)に対し、慰安婦を強制連行する様な日本人の子だと、
 虐(いじ)めが行われている。
  変に煽る韓国政府・・異常に煽る韓国政府が、ここに
 ある。
  問題を吹き返している。
  また、日本が統治したと言ったって、そのほとんどが、
 朝鮮の方々によって行政・政治などが行なわれた。
  その8割以上の方々が、多数が、朝鮮の方々だった。
  この事実が、ユーチューブに公表されるや、日本の公
 共放送のNHKは、直ちに、必死に、削除した。
  公正であるべき公共放送のNHKの異常な行動だった。
  韓国の異常行動を糾弾する行為を覆い隠すNHK、「
 事実を隠す行動をするNHK」だった。
  親日であれば、真実を捻じ曲げてまでして監獄へ入れ
 るという韓国の現状を伝えないで、韓国を庇(かば)う
 NHKだった。
  韓国の最高裁までもが、この行政の行動に追従した。
  この裁判で判明したことだが、登記簿謄本までも、書
 き換えるという、考えられないレベルの異常行為がなさ
 韓国だった。
  韓国は、国際的な常識も通じない国となっている・・
 そして、その国政は、シッチャカ、メッチャカとなって
 いる。
  国民の方々が、可哀想な状態である。
.
2010年、韓国系アメリカ人
  2010年のアメリカの国勢調査では、韓国系アメリカ人
 は、約170万人で、アメリカの総人口の約0.6%を構成して
 いる。
  因みに、日系アメリカ人は、2005年の国勢調査におい
 て122万人強で、アメリカ合衆国の総人口の0.4%を占めて
 いる。
  2011年の調査では、アジア系アメリカ人の内訳では、
 中国系、フィリピン系、インド系、ベトナム系、韓国系
 に次いで、日系アメリカ人は6番目となっている。
  そして、この在アメリカの韓国系アメリカ人が、慰安
 婦問題をアメリカで煽っている。
  しかし、北アメリカの日系人は、韓国系アメリカ人や
 中国系アメリカ人などと比べると、民族街に集結したり
 することが少ない。
  特に、アメリカでは、第二次世界大戦において、差別
 的な、そして、違法で異常な強制収容される歴史があり、
  また、アメリカに対する忠誠を誓う日系兵士の奮戦な
 どの努力もあり、
  強制収容されるときは、不動産などの財産を失うとい
 う苦しみもあり、
  その様な歴史から、日系アメリカ人は、あまり民族性
 を出さずに、民族的に集結するようなことも控え、同化
 するように努力していた。
  しかし、韓国系アメリカ人は、この対極の状態に居た。
  アメリカに渡った韓国系アメリカ人は、競合の少ない
 黒人街の貧困地域で商売を始めた。
  ここで、黒人の方々を差別した。
  従業員に、黒人の方々ではなく、ヒスパニック系を雇
 用した。
  そして、民族的にも集結し、閉店後は、「韓国人街」
 へ帰った。
  この様な行動から、黒人の地元住民の方々から、自分
 たちだけでまとまって、「自分達を差別しながら、自分
 達から儲けている連中」と思われた。
  この様な事から、1992年4月29日のロスアンゼルスの
 「黒人暴動」とか、「ロス暴動」と差別的に白人たちが
 呼ぶ、黒人の方々の「差別撤廃を訴える行動」が・・、
 この時、韓国人商店襲撃へと結びついた。
  韓国系アメリカ人は、この様な状況になる様な事を行
 なっている。
  また、韓国系アメリカ人は、ヒスパニック系アメリカ
 人やインド系アメリカ人などとも、色々、トラブルを起
 こしている・・この様な差別的行為が、あまりにもひど
 いので、アメリカ国内で問題となり騒がれた、そして・・
 この様な民族性がある・・少なくとも、温厚な民族性で
 はない。
  氏より育ち・・というが・・同情すべき歴史の中にあ
 った。
  (参考)氏より育ちとは、人間を形成するときに大事
    なのは、家柄よりも教育や環境であるということ。
     日本は、幸いにして、豊かな、そして、様々な
    文化の中に育まれた長い歴史の中にある・・、
.
2012年8月10日、韓国の李明博大統領が、明らかに日本の領
 土である竹島に上陸するという行為をした。
  李明博・韓国大統領は、「日本の右傾化に歯止めをか
 けるため(上陸した)」と発言した。
.
2012年8月14日、韓国が、日本の天皇陛下の謝罪の土下座を
 要求した。
  李明博・韓国大統領の発言、「天皇が足を縛って跪
 (ひざまづ)く土下座をするなら、(日本へ)訪問して
 もいい」だった。
  日本のメディアは、何故か?これを、ほとんど報道し
 なかったが、一部の報道機関だけが、多くを修正して報
 道した。
  日本の天皇陛下が侮辱された発言に対し、日本のメデ
 ィアのほとんどが、韓国を庇(かば)った。
  韓国を糾弾する日本のメディアは、ほとんどなかった。
  報道の中立性が、まったくない日本の報道機関だった。
  この様な暴言を許してしまう日本の報道機関。
  正義を追求し、闘うという姿勢が、まったくない日本
 の報道機関だった。
  常識ある国の状態を逸脱した国であっても、その侮辱
 発言は、常に、正すという姿勢の報道機関であらねばな
 らない。
.
2013年、この年の韓国は異常に感じた(いつもだとの声が
 聞こえるが・・?)
  そこで、以下の事が言いたい・・、
  韓国は、今まで、中国の冊封思想・冊封態勢の意識の
 下にあった。
  遠い昔から、中華の冊封思想の影響下にあった。
  そして、現在、韓国は、アメリカが心配するほど、そ
 の冊封思想の中国に歩み寄った。
  アメリカ離れがあった。
  そして、アメリカと体制を共にする日本からも離れた。
  それ故、韓国は今、特に、李朝時代の冊封体制に入る
 かどうかの瀬戸際にある。
  中華の冊封体制下に入るかどうかの是非が、真剣に韓
 国に問われている。
  重要な課題となっている。
.
2017年、北朝鮮のミサイル開発が急進展している。
  北朝鮮の国民の方々にとっては、アメリカが、北朝鮮
 を「悪の枢軸」と呼び、また、アメリカから、「テロ国
 家」と呼ばれた。
  当時、その様に呼ばれたイラクは、アメリカから攻撃
 され、国もメチャメチャにされ、そして、滅びた。
  この時、北朝鮮の指導者、及び、国民の方々は、本当
 に、戦々恐々とした心境・状況だったと思われる。
  それ故に、『国を、そして、国家を、しっかり守らね
 ばならない』と思っただろう。
  そこで、今やっている様な、核開発をし、また、ミサ
 イル開発もして行く必要性があるのたと・・つくづく感
 じた事だろう。
  今年・2017年の正月、北朝鮮指導者は、テレビで、そ
 の達成率が、「ほとんど完成に近づいた」と放送した。
  そのテレビを見た北朝鮮の国民の方々は、「アメリカ
 からの攻撃の恐怖が、これで薄らいできた」と思っただ
 ろう。
  「将軍様が、北朝鮮に、アメリカが攻めて来られない
 ようにして下さっている・・防衛努力をして、その様に
 して戴いている」・・と、そう思っているだろう・・
  そして、その事を、「有り難く感じている」だろう。
  「将軍様のお蔭で、安心していられる」と思っている
 だろう。
  将軍様のやっていることは、北朝鮮を攻めてくる相手
 に対する攻撃力を強くしているが、これは、攻めて来ら
 れない様にしていることで・・国が、簡単に攻められな
 い様にしている・・防衛力を強くしているのだ・・と思
 っているだろう。
  一方、日本は、北朝鮮から7分でミサイルが届くという
 状況の中にある。
  7分は、「あっ」という間だ。
  最近、北朝鮮は、高高度からミサイル攻撃をする技術
 を手に入れた。
  その高度な技術を手に入れた・・開発した。
  日本には、この『ミサイル攻撃を防ぐ手立てがない』
 という。
  その技術はないという、
  その兵器システムがないという・・、
  『3発が、関東地方に落ちたら、日本は、それでおし
 まいになるでしょう」と軍事専門家は言う。
  日本はおしまいになるでしょう・・と言う。
  日本には・・「アメリカの核の傘」があるという。
  その意味は、「日本には、『アメリカの核抑止力』が
 あるから安心してください」・・という意味だという。
  だから、「日本は、核など持たなくてもいいのだ」と
 アメリカから言われていると言う。
  何か・・??・・こちらに力点があるように思える??
  「だから、日本は、核を持つな」・・と・・
  アメリカには、「日本には核を持たせない」という『
 強い意志』があると専門家は言う。
  日本の核が「両刃の剣になる」ことを恐れている。
  この点は、中国も同じで・・日本の核保有に対し強く
 恐れ、この点についての「米中の密約(秘密条約)」が
 あるという。
  トランプ大統領までは、強くこのことが踏襲されて来
 ていた。
  しかし、トランプ大統領は、「日本は、守るべきは守
 りなさい」と言っていて・・至極、当然の考え方になっ
 てきた。
  「守りたくても守れない日本」から変われる道を開い
 て来た。
  トランプ大統領は、核について、「持つのなら、持ち
 なさい」と言った。
  長らくというか、今まで、アメリカには無かった考え
 方だった。
  そして、アメリカ在住の長い方が、証言的に言う・・、
  「アメリカ政府筋が、日本に核を持たせまいとするの
 は、罪悪感ないし、恐怖心があるからだ」・・と。
  そして、日本の大政治家の中川昭一氏は・・2006年の
 だいぶ以前い言った・・
  2006年に、北朝鮮の核実験があった時に・・理性的に
 核管理ができるかどうか疑わしい国家:北朝鮮が、核保
 有国になろうとしている時に・・
  それでも、核の議論さえしようとしない日本の現状を
 憂えて、そして、その様な状況を皮肉をも込めて・・、
  「わが国には『非核五原則』がある」と・・名言とも
 言うべき言葉だった。
  核を、「作らず、持たず、持ち込ませず」という非核
 三原則が日本にあるが・・それに・・
  「発言させず」、そして、「考えさせず」という空気
 まであって、横行していて・・と嘆いた。
  その心の中で、このままでは『日本民族の滅亡』の姿
 を恐れ、見たのだろう。
  「丸腰である人間は、銃に撃たれない」という常識の
 世界を信じているだけで・・本当に安全なのか??・・
 と・・、
  その様な常識の通じる国家もあるだろうが・・??
  その様な理想論の中に住んでいてよいのだろうか??
  そんな世界観なら・・新聞記事の三面記事は、記事が
 無くなって、真っ白になるだろう。
  そうでないのが世の中・・この方が常識・・
  多くの国民の方々の命がかかっている世界を・・その
 様な常識の世界に・・理想論の世界に置いたままで良い
 のか?・・良い訳は・・『ない』・・
  ここに、無責任な「座して死を待て」という論理がある・・
 その如くの言葉がある。
  石破茂(元防衛大臣〉の言葉・・2009年5月に、北朝鮮
 が地下核実験に成功したときに言った言葉・・、
  「敵基地攻撃論については、私が、防衛庁長官の時に、
 法的には排除されないと行ってきた。
  東京を火の海にするという宣言(北朝鮮の宣言)があ
 って、ミサイルを日本に向けて撃つ段階であれば、そこ
 を叩くのは『理論的にはありうる』。
  ただ、ノドン(北朝鮮ミサイル)が、どこにあるか分
 からないのにどうやって叩くのか。
  (北朝鮮のミサイルが)200基、配備されて居るとして、
 二つ、三つ、潰(つぶ)して、あと全部、(日本の各都
 市に)降ってきたらどうするんだ。誠に現実的ではない」
 (朝日新聞、2009年5月27日、カッコは筆者の記入)
  これは、北朝鮮の肩を持つ言い方・発言となっている、
 ある意味、無責任な裏切り発言となっている。
  「日本の方々の命の重み」に責任を果たしていない。
  その様な発言となっている。
  石破茂氏は、最初から、日本人の方々の命を救うには
 どうするか?・・という、逃げられない、避けられない、
 重大な、大切な思考を・・安易に・・放棄している。
  石破氏は、キリスト教徒であるが、キリスト教徒らし
 い性悪説に因る考え方「ことを成し得ない」という悲観
 論的な発言となっている。
  大切・重大な日本の『防衛論の可能性』の論議を放棄
 している。
  「抑止が大切」と言っておきながら、日本国民の生命
 と財産を守るという「きちんとした体制を作ろう」とい
 う話から逃げている。
  ヨーロッパに・・スイスという永世中立国があるが、
 きちっと国防を国の重要論題として、核も所持し、その
 抑止効果も含めてしっかり存立している。
  きちっとした国を守る体制を確立する事こそが大切な
 のだ。
  ふわふわとした防衛論や理想論では、話が地について
 いないのだ。
  日本は、いざという時にはやりますという、精緻な、
 且つ、超強力な、防衛体制の構築のため・・論議を尽く
 して行かなければならない。
  核保有を含めて・・。
  民進党は、この論議を前向きにとらえ、推進役になる
 くらいの行動を・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年5月29日月曜日

(増補版)530E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年2月)

題:(増補版)530E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年1月29日、「旅客甲丙間ニ到ル途中切手紛失シ乙駅
 ニテ賃金徴収方」を通達(鉄二調甲第48号)
1891年2月3日、内村鑑三が、第1高等中学校を辞職した。
1891年2月4日、横川~軽井沢間の路線が、中尾線(アプト式)
 を採用することに決定された。
1891年2月5日、川上音二郎一座が、堺で旗揚げ興業をした。
  川上音二郎(かわかみおとじろう、1864年1月1日~
 1911年11月11日)は、俳優、興行師。
  1878年、14歳のとき故郷を出奔。
  自由党壮士となったが、講釈師、寄席芸人になったり、
 「書生にわか」を試みたりした。
   1891年(27歳)堺で、川上書生芝居を旗揚げし、地方
 巡演ののち、『板垣君遭難実記』で東京公演に成功した。
1891年2月8日、大阪鉄道会社線が、稲葉山~王寺間を開業
 した。
1891年2月18日、三条実美が逝去した(55歳)
  三条 実美(さんじょう さねとみ、1837年3月13日~
 1891年2月18日)は、幕末・明治の日本の公卿、政治家。
  位階勲等爵位:正一位大勲位公爵。
  右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族
 院議員などを歴任した明治政府の最高首脳人物の一人。
 元勲。
  公卿では摂家に次ぐ名家清華家の出で、禄は約469石。
  家臣の尊攘志士・富田織部の訓育を受け、漢学者志士・
 池内大学に学んだ。
  1859年(22歳)大老・井伊直弼の弾圧を受けて、父・
 実万が辞官落飾となったことから政争に巻き込まれ、次
 第に尊攘思想を強めて行った。
  尊攘派公卿の中心人物となる。
  急進的攘夷派の指導者として、長州藩と提携。
  1862年(25歳)14代将軍・徳川家茂に、攘夷督促(とく
 そく)の朝命を伝えるなど、尊攘派公卿の先鋒(せんぽう)
 となり運動したが・・、
  1863年(26歳)八月十八日の政変:会津・薩摩を中心
 とする公武合体派のクーデターにより失脚し、七卿落ち
 の一人として長州へ逃れた・・そして、
  さらに、1865年(28歳)幕長間の紛争に巻き込まれる
 のを避けて、大宰府に移り、王政復古を機に上京した。
  維新後は、明治新政府に重用され、
  1868年1月9日(31歳)、岩倉とともに副総裁に就任し
 た。
  そして、太政大臣・内大臣等を歴任するなど国家建設
 に尽力した。
  1889年(明治22年、52歳)一時、首相を兼任した。
1891年2月20日、土佐派自由党議員の裏切りにより、政府支
 持の動議可決(自由党が分裂)
  この日、予算削減をめぐって紛糾していた衆議院で、
 大成会の提出した「予算削減は政府同意を経て議会で決
 議する」という議案に、立憲自由党土佐派が、議会解散
 を避けるためと、予算削減を行うために妥協し、決議し
 た。
1891年2月21日、中江兆民が、議会の弱腰を批判し、衆議院
 議員の辞表を提出した。
1891年2月24日、立憲自由党が分裂した。
  土佐派など29議員が離党した。
1891年2月25日、三条実美の国葬が行われた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:漢江の奇跡(ハンガンのきせき)は・・、
    日本の経済援助なしではできなかった。
.
紀元前6年頃、イエス・キリストが生まれる。
  イエスの生誕は、紀元前6年頃ともいわれている、また、
 紀元前4年頃ともいわれている。
  そして、その中間ともいわれている。
  西暦が決められた頃は、西暦0年がイエスの生誕とされ
 ていた。
  しかし、その後、生誕とさられる年数は変転した。
  生誕だけで、この様な状態で、つまり、その存在が不
 確かなのである。
  没したのは、紀元後30年頃とされている。
  「キリスト」という意味は、「膏(あぶら)を注がれ
 た(塗られた)者」「受膏者」という意味のヘブライ語
 で・・、
  故に、イエス・キリストが姓名ではない。
  当時、「イエス」という名を持つ人は何人も居て・・、
  だから、ナザレ生まれのイエス(ナザレのイエス)と
 言われて個人を特定した。
  しかし、このイエス・キリスト(ナザレのイエス)の
 実在は証明されていない。
  初期のキリスト教が、1世紀~2世紀のころ、都合の悪
 い書類を大量に焼却した。
  この事によって実在が証明できなくなった・・または、
 本当に実在していなかったのか?
  いずれにしても、実在証明の出来ない事となっている。
  イエスの活動は、その最晩年の1年か、2年の超短期だ
 った。
  それまでは、父と同じ職業の大工をしていた。
  もしかすると、父の没後、大工を止め、エルサレムで
 予言者を始めたのかとも言われている。
  この頃のエルサレムは、町の娘に売春をさせていたエ
 ルサレム神殿が存在したり、また、戦争も頻発するとい
 う世情の中にあった。。
  巡礼の参拝で来た地方の人たちを相手に、その不特定
 の男たちを相手に、街の娘たちは恥辱の行為を強いられ
 ていた。
  そして、その様なエルサレム神殿の前で、「金持ちの
 豪華な供物より、貧乏人の貧しい供物の方が価値がある
 のだ」などという程度の道徳論を披露するイエス・キリ
 ストだった。
  いつも、決まった少人数のグループと活動していた。
  いつ聖書を読んでも、その人間関係の狭さが気になる。
  イエスは、平均寿命が三十数年という時代の、最晩年
 の1年か、2年の超短期間、エルサレムの広場で、予言者
 稼業をしていた。
  聖書にも記されているが、イエスは、故郷の人たちか
 ら、「予言者とは、うまいことをやっているな」と言わ
 れていた。
  イエスは、故郷の人たちからは、普通の人に見られて
 いた。
  だから、イエス自身も故郷の人たちに対し、「話が、
 そして、暗示がかからない」と嘆いている。
  イエスの子供の頃から、イエスを見ている故郷の人た
 ちには、普通の人と変わらない状態だった・・その様に
 見られていた。
  「あのイエスが、予言者をやっているよ」という状態
 だった。
  だから、イエスに向かって、「予言者業とは、うまい
 事をやっているな」の言葉になった。
  当時、エルサレムには、この様な予言者を仕事とする
 者が大勢いて、その多くが刑場で殺された。
  麦の一粒が落ちたら、その一粒のままにあるという乾
 燥した砂漠地帯の環境の中で育ち・・だから・・、
  天の雨の恵みが豊かに降り注ぐ、その様な豊かな地の、
 価値ある言葉は、想像もできない、また、話すこともで
 きない。
  砂漠の恵みの少ない地、わずかな恵みに群がる人々が
 居るという地・・だから、飢餓と背中合わせの地で・・、
  聖書もある様に・・キリスト教の神が、隣国の民を、
 『奴隷にせよ、奴隷にせよ』と叫び、隣国の民さえ自民
 族の生きる糧とせよという神の叫ぶような地・・その様
 な教え・・、
  豊かな思想・思考は生まれない。
  だから、そこは、奪い取りと殺戮だけとなる。
  そして、無理やりの神殿娼婦にさせられた街の娘は、
 神殿にやってくるお参りの見ず知らずの男の相手をさせ
 られた。
  キリスト教は、この様な環境の世界の宗教。
  男尊女卑の世界であった、その教えであった。
.
1600年、イギリス東インド会社ができた。
  インドの方々を殺戮し虐げた、酷いイギリスの会社が、
 この年に、出来た。
  世界遺産に登録すべき人類の歴史の大汚点だった。
  アジア貿易を目的に設立された、イギリスの勅許会社
 である・・と、表面は美しく説明されている。
  アジア貿易の独占権を認められ、イングランド銀行か
 ら貸付を受けながら、
  17世紀~19世紀半ばにかけて、アジア各地の植民地経
 営や交易に従事した(国としての行動)
  アジア貿易と美しく言うが、実態は、植民地で、奴隷
 のようにインドの方々を働かせ・使役し、搾取した。
  イギリスの勅許会社と言う通り、国が勅命で行なう行
 動は、「イギリスという国」なのであって、「イギリス」
 そのものだった。
  会社なんだから、イギリスという国ではないというの
 は「虚言」で『逃げ』だった。
  (イギリスは、この様な言い逃れを言って、世界中で
 悪行為ばかりしていた)
  アジア貿易の独占と言ったって、武力で以って、力で
 従わせて行った。
  従わないインドの方々は殺戮し、また、木に吊るして
 殺した。
  木に吊るして死んでも、そのまま並木道は、その様な
 可哀想なインドの方々が、ずらりと吊るされ、見せしめ
 にされ、インドの方々を恐怖に陥(おとしい)れ、この
 様な力で従わせさせていた。
  こんな事を長い期間(17世紀~19世紀の300年近くも)
 し続けたイギリスだった。
  それだけ、様々な、考え付くすべての悪の酷いことを
 した。
  東インド会社が、酷いことをする故に、イギリスは、
 卑劣な逃げのかたちを作った、隠れ蓑とした。
  それは、東インド株式会社という名で誤魔化した。
  東インド株式会社だけで、あんな卑劣な、大々的な殺
 戮や、戦争が・・出来る訳が無い。
  すべて、イギリスという国家と同時進行・連動だった。
  陰に隠れるイギリス国家は卑劣であり、劣悪・卑劣な
 罪悪漢である。
  こんな卑劣な論理が成り立つならば、国家が、どんな
 悪いことをやっても、「○○という個人がやった」とい
 う言い訳が成立し、それで済まされてしまう。
  国の責任は回避される怖ろしい事である。
.
1867年、旧根岸競馬場
  居留地の外国人の娯楽として競馬が始まった。
  関東大震災で大きな被害を受けた。
  現在でも残る一等馬見所は、7階建て、高さ28.77メー
 トル。
  客席を覆う大きな庇(ひさし)は、市柱が少なく、客
 席からコースを良く見渡せた。
  戦後、米軍に接収された。
  今は、市が管理している。
  しかし、廃墟(はいきょ)同然の様で、壁面は、蔦(
 つた)に覆われている。
.
1869年10月、三菱の前身となる土佐開成商社が成立した。
  岩崎弥太郎は、土佐藩最下級士族の岩崎弥次郎の長男
 として1834年に出生した。
  1855年(21歳)に、江戸へのぼり、安積艮斎の塾に入
 門するも、父の奇禍(父親が酒席で庄屋と喧嘩して投獄
 された)で、帰国し、父に連座して入牢された。
  1859年(25歳)に、土佐藩参政・吉田東洋の門下生と
 なり、後に、藩の下横目の職を得て、長崎に出張するが、
 無断帰国し解職された。
  1866年(32歳)に、再び、土佐商会主任として長崎に
 行き、藩の貿易に従事し、同所閉鎖後は、大坂出張所で
 働く、
  1869年10月(35歳)土佐藩首脳の林有造が、海運業私
 商社として土佐開成社、後の九十九(つくも)商会を立
 ち上げた。
  代表は、海援隊の土居市太郎と、長崎商会の中川亀之
 助で、
  岩崎弥太郎は、事業監督を担当した。
  1870年(36歳)の維新後に、土佐開成商社が九十九商
 会と改称して、船2隻を土佐藩外債を肩代わりする条件で
 入手し、海運業に従事した。
  後に、三川商会と改名した。
  1873年(39歳)に、三菱商会となる。
  1874年(40歳)に、台湾出兵で政府輸入船を託され軍
 事輸送にあたり、
  1875年(41歳)政府の補助金を受けて国内海運を独占
 し、三菱財閥の基礎を築いた。
  1885年(明治18年)51歳で没した。
.
1869年(明治2年)パン、ビスケットを専門に製造する木村
 屋が創業した。
  そして、1874年に、創業者の木村安兵衛とその次男で
 二代目の英三郎が、あんぱんを考案した。
  翌年・1875年に、明治天皇陛下に献上された。
.
1895年、日清戦争によって、日本が、中国(清)に勝った
 ・・という事は、朝鮮にとって天地がひっくり返るよう
 な出来事だった。
  中華思想に「冊封体制」という思想があり、中華が周
 囲を冊封して行く、つまり、属領として支配して行くと
 いう思想で、
  「貢を持って従属すれば良し」の思想である。
  中国は、その民族は色々と変わったが、この体制は、
 常に変わらず、同じ冊封体制をとり続けて来た。
  朝鮮の歴史も、この中国の体制下に従属させられて来
 た。
  朝鮮は、古代から中華の属領としての月日を過ごし、
 この属領である事をアイデンティティとして来た。
  中華を主とする主従関係下に密接な関係を作り上げて
 来た。
  日本が、この朝鮮の主である中華(清)を負かした事
 は、だから、驚天動地の事だった。
  朝鮮は、中華(清)から解放された。
  冊封体制のない状況の中に置かれた朝鮮は、その驚き
 の中で、独立した。
  日本の中国へ出した書・・「日出ずる処の天子、書を
 日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)しや」との
 日本の毅然とした対等の独立した立場をとった日本だっ
 た。
  この時、冊封体制の下の体制に入ると思っていた中華
 の煬帝は、怒りに怒ったという。
  日本の態度は、朝鮮とは、まったく違っていたのだっ
 た。
.
1945年8月28日、アメリカ軍の日本進駐。
  アメリカは、卑劣な事に、最初、戦後の日本に進駐す
 る兵士を、黒人兵だけとした。
  それは、日本が、まだ、徹底的に抵抗すると思ってい
 たからだった・・
  ・・レジスタンスを組織したりして・・、
  その為、人種差別的に、その様なことが起きるか否か
 の見定めもあり、白人兵を危険に曝(さら)さないとい
 う方針で、黒人兵だけを組織し、日本へ進駐した。
  因みに、終戦直後の、第二次世界大戦における日本の
 敗戦からサンフランシスコ講和条約締結までの間、
  連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の占領下に置
 かれた日本であった。
  故に、主権と行政権を留保した。
  日本の降伏に伴い、日本政府が受諾したポツダム宣言
 の文面では、ウィンストン・チャーチル英国首相の提案
 によって、「日本領土」ではなく、「日本領土内の諸地
 点」への「保障占領」となっていた。
  そして、降伏文書の調印まで、日本本土(北海道・本
 州・四国・九州)に先遣隊として到着したアメリカ主導
 で組織された連合国軍は、1945年8月28日から、日本への
 進駐を開始した。
.
1950年6月25日、朝鮮戦争
  この日、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金
 日成率いる朝鮮人民軍(北朝鮮軍)が、突然、韓国に侵
 攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。
  その2日後の6月27日に、マッカーサーは、朝鮮半島に
 おけるアメリカ軍の全指揮権を国防総省から付与された。
  ただちに、軍需物資の緊急輸送と、アメリカの民間人
 救出のための船舶、飛行機の手配を行った。
  そして、朝鮮戦争の司令官となったマッカーサーは、
 中国との国境に流れる鴨緑江(おうりょっこう)に架か
 る橋を爆破したいと、アメリカ本土・ワシントンに、そ
 の作戦の許可を求めた。
  その橋を渡って中国軍(中共義勇軍と称した)が、続々
 と渡って来ていた。
  マッカーサーの作戦は、至極、当然の、筋の通った作
 戦だった。
  すぐに行なうべき作戦だった。
  しかし、アメリカ本土・ワシントンからの許可は下り
 なかった、許可は得られなかった。
  武器弾薬と共に中共軍が、ぞくぞくと入って来ていた
 のにである・・、
  この時のアメリカの作戦は・・、
  「アメリカは、戦争に勝ってはならない」。
  「いつまでも戦うのが良いのだ」・・だった。
  マッカーサーは、回顧録で、この時の詳細を記した。
  マッカーサーの作戦のすべてが否定された・・と、
  すべてに「ノー」と言って来た・・と、
  また、おかしなことに、蒋介石の国民党軍が、国連軍
 に加わって参戦し、応援したいと、参戦の意思を強く示
 したが・・、アメリカ本土のワシントンは許可をしなか
 った。
  そして、マッカーサーは、優秀で、頑張りすぎると解
 任されてしまった。
  マッカーサーは、ここに至って初めて気づいた、
  「自分は、アメリカのエスタブリッシュメントのメン
 バーではない」・・と。
  (参考)エスタブリッシュメント:establishment、既
    存体制と訳されることもある。
     イギリスでいわれはじめたもので、社会改革を
    はかろうとする者から攻撃される既成の社会秩序
    の総体をいうが・・、
     通常は・・国家、政府機関、支配階級、特権階
    級などをさす。
  そして、総てを察したマッカーサーは、1951年5月3日、
 アメリカ議会の上院軍事委員会で、第二次世界大戦(大
 東亜戦争)について重要な証言をした・・、
  「日本が戦争に至ったのは、その大部分が安全保障の
 必要に迫られたからだった」・・と、
  日本の存立を否定したアメリカの行為に、やむを得ず
 の戦いを起こしたのだった・・と、
  「日本の大義」を認めた・・そして、そう認識した証
 言を行なった。
  大東亜戦争の真実を証言した。
  さらに、朝鮮戦争には、後日談がある・・、
  国連軍が組織される時、スターリンは、安全保障理事
 国として「拒否権を発動できた」・・しかし・・
  『そうはしなかった』・・、
  国連軍が創設されなければ、スターリンが応援する北
 朝鮮の勝利となる・・
  しかし、スターリンは、拒否権を発動しないで、「そ
 の会議に出席するな」と指令した。
  アメリカとグルになっていたことが事実となって、今、
 知る所となっている。
.
1965年、漢江の奇跡(ハンガンのきせき)は、日本の経済
 援助なしではできなかった。
  さらに、日本は、韓国を統治していた時代、日本は、
 アメリカやヨーロッパがやったような統治ではなかった。
  アメリカやヨーロッパは、ただただ、植民地から利益
 を奪取しただけだったが、日本は、韓国のインフラを整
 備した。
  また、日本の誠実な統治によって、韓国の民族資本が
 蓄積された。
  これもあったから、日本からの巨額の戦後賠償金も生
 き、見事な「漢江の奇跡」が出来た。
  この日本の性善説の韓国救済行為は、世界へも影響を
 与えた。
  ただ単に、韓国だけに留(とど)まらない行為だった。
  欧米の・・そして、イギリスが・・、インドや、オー
 ストラリアのアボリジニの方々などで行なった性悪説の
 殺戮や略奪行為、
  そして、アメリカの西部地域の殺戮と掠奪、および、
 太平洋地域の掠奪、および、フィリピンをはじめとする
 アジア地域での性悪説の略奪行為・・その様な行為とは、
 まったく違う。
  (参考)1965年、韓国は、日本と日韓基本条約を結ん
    だことにより、無償金3億ドル・有償金2億ドル・
    民間借款3億ドル以上(当時1ドル=約360円。現在
    価格では合計4兆5千億円相当)。当時の韓国の国
    家予算は3億5千万ドル程度)の日本からの資金供
    与及び貸付けを得ることとなった。
     国際協力銀行によると、1960年半ばから1990年
    代までにトータル6000億円の円借款が行われ、韓
    国はこうした資金を元手に「漢江の奇跡」の象徴
    とも言われる京釜高速道路をはじめとした各種イ
    ンフラの開発や、浦項総合製鉄をはじめとした企
    業の強化をおこなった。
     インフラ整備後は、日本の民間企業によって大
    規模な投資がおこなわれた。
     しかし、韓国では、日本による多額の経済・技
    術援助が韓国の発展に寄与したことを一般には知
    らされていないため、多くの韓国人は、自国が独
    力で経済成長を達成したと考えていると指摘され
    ている。
     恩を売りたい訳ではないが、人として、助けて
    戴いた日本に対しての礼をしっかり尽くして戴き
    たい。
     決して、恩を仇(あだ)で返すようなことはし
    ないこと。
.
1981年3月30日、レーガン大統領暗殺未遂事件
  アメリカのロナルド・レーガン大統領は、大統領選挙
 の期間中から「FRBに対する疑念」を口にしていた。
  大統領に当選した後、レーガンは、FRB議長に面会
 を申し込んだ。
  FRB議長は断った・・拒否した。
  FRB議長は、アメリカ大統領の面会要請を断われる
 ほど絶大な権力を持っていることを示した。
  レーガン大統領の再三の面会要請によって・・面会が
 行われるが・・その面会で、レーガン大統領は・・、
  「FRBは、何故、必要なのか?」
  「この質問を良く受けるのだが・・」と切り出した。
  その言葉を聞いて、FRB議長は慌てた様子を周囲に
 示した。
  FRBの存在に懐疑的だったレーガンは、大統領に就
 任してわずか2か月後の1981年3月30日に、ワシントンで
 銃撃された。
  緊急手術が行なわれて、幸い、危うい所を助かった。
  アメリカの大統領は、政府が独自に紙幣を発行しよう
 としたり、民間資本の中央銀行を廃止させたり、規制し
 たりすると、暗殺の危機にさらされる。
  これまでのアメリカが、そのことを示している。
.
1991年、ミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカで、
 1991年に、ソ連が崩壊しロシアとなり、エリツィンが大
 統領になると、アメリカは、ジェフリー・サックスとい
 う国際主義の経済学者をリーダーとするアメリカ人顧問
 団をロシアに送り込んだ。
  そして、価格統制を廃止し、市場経済を導入した。
  そして、さらに、「バウチャー方式」という手法で、
 ロシア国営企業の民営化を推し進めた。
  これは、政府が国民に対し、一定金額のバウチャー(
 民営化証券)を配布し、民営化された企業の株式と交換
 できるようにする方式で、
  表向きの導入理由は、「従業員は、自分が働いている
 会社の株式をバウチャーによって取得して、株主になる
 ので、働くモチベーションが上がる」というものだった。
  しかし、現実には、商才に長(た)けた連中が、この
 株式の意味が分からないロシアの方々から、バウチャー
 を安く買い漁(あさ)って行った。
  そして、買い集めたバウチャーで、国営企業を払い下
 げてもらい、オーナーとなり、新興財閥となった。
  銀行や、自動車販売会社や、石油会社などの・・この
 新興財閥のほとんどが・・ユダヤ系だった。
  エリツィンとアメリカによって、この様な新興財閥が
 次々と誕生した。
  そして、莫大な富を独占した。
  膨大な富を独占したこのグループは、さらに、政治に
 も・・、
  このグループは、エリツィン大統領を全面的に支援し、
 政治にも強い影響力を及ぼした。
  そして、また、1996年の大統領選挙においても、エリ
 ツィンを全面的に支援した・・そして、その功績で・・、
 このグループの一員が、第一副首相に就任した。
  また、さらに、このグループの要員が、ロシア安全保
 障会議副書記や、CIS(独立国家共同体)執行書記と
 なった。
  このグループの新興財閥は、「政商」として富を独占
 した。
  ロシアの方々は、この時点で、そのあまりの酷(ひど)
 さに、激しい批判の声を上げた。
.
2017年5月25日、イギリスのコンサート会場で、爆発テロが
 あり・・22人の方々が無くなった、尊い命が失われた。
  また、この後、死者数は増加した。
  イギリス中部のマンチェスターのコンサート会場で22
 日夜(日本時間23日の朝)に起きた自爆テロで、8歳の
 女児1人を含む22人が亡くなり、また、59人が負傷した。
  イスラム過激派組織「イスラム国」が犯行声明を出し
 た。
  (イスラムの方々は、このイスラム国はイスラム教で
 はないと言っている)
  イギリスでは、2005年7月に、52人もの人々が亡くなる
 「ロンドン同時テロ」がある。
  イギリス警察当局は、5月23日、実行犯の男をサルマン・
 アベディ容疑者(22歳)と特定したと発表した。
  アベディ容疑者は、リビア系イギリス人。
  イギリス警察当局は、5月24日、「我々の捜査対象は、
 ネットワークだ」と述べ、単独犯ではないとの見方を示
 した。
  ラッド英内相も、5月24日、イギリスBBC放送に対し
 て、アベディ容疑者が、「一人で行動していたのではな
 いかもしれない」と述べた。
  リビアから最近帰国したとの地元紙報道も事実だと認
 めた。
  イギリス紙ザ・タイムズは、容疑者が「3週間前にリビ
 アに行き、数日前に帰って来た」と友人が述べたと伝え
 た。
  コロン仏内相は、フランス・テレビで、5月24日、アベ
 ディ容疑者がシリアに渡航し、イスラム過激派組織「イ
 スラム国」と関係があったとの情報をイギリスとフラン
 スの情報機関が把握していると述べた。
  当然、上記のイスラム国やテロ犯を弁護する訳ではな
 いが、
  また、当然、この様な行為を、憎むが・・
  テロが悪いという事だけに集中するのは良くない。
  その奥にある巨悪が問題なのだ・・
  何故、テロをせざるを得ない状況になっているのか?
  その視点を持たなければ、「テロは無くならない」。
  テロを起こさせる原因の原点を辿(たど)って行くと・・
  自分だけが裕福になり、その様な世界システムを強い
 立場にあるから、金があるから、だから、自分に都合の
 良い社会システムを作ってよいのだ・・という所に居て、
  狡猾に作り出している輩たちが一番悪い輩なのだ。
  自分に都合よいシステム、結局、それは、「社会の歪
 (ひずみ)」を作り出している・・その様な輩たち・・、
  更にその輩たちへ、「これが正義である」と錯乱的に
 思考させるキリスト教の考え方・教義が悪いのだ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive