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2014年7月4日金曜日

グルグル回った・・話・・はなし・・、

 題:グルグル回った・・話・・はなし・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 イエスが、姦淫の女性を裁いた話・・。
 キリスト教徒は、裁いたではなく・・「赦(ゆる)した」
と言ってくれというのだろうが・・、
 結局、結局、イエスが・・判断し・・裁断し・・、
そして、裁き・・赦したのだろう。
 許(ゆる)すも・・赦(ゆる)すと、書いてくれとキリ
スト教は色々とうるさい。
 余談だが、預言者も、予言者にしてくれと言う。
 イエスを予言者と言わないでくれと・・、
 ただの予言の者とは違いますと・・イエスは預言者であ
ったのだと・・。神からの言葉を預かったのだと・・。
 これが、キリスト教は正解だと言う。
 エリヤで無くエリアだと・・。山田(やまだ)でなく山
田(やまた)だと・・。余談が長過ぎたが・・、
 イエスは、十字架以前は人だったという。
 この様な話が、キリスト教にあるが、実際は、神の御身
分なのだ。
 パウロは人間だという見解。人間派の人。
 今、そのキリスト教は、パウロ・キリスト教になっている
が・・、「が」なのである。
 パウロは、十字架以前のイエスを捨てたのだ・・が・・、
 つまり、「イエスの十字架の血」と「イエスの復活」だ
けを利用したパウロだが・・、
 つまり、イエスの言葉や、イエスの行動を無視したパウ
ロなのだが、それらを捨てたパウロだが・・、
 だが、だが、キリスト教は、シッ茶かメッチャカの事を
演じている。
 姦淫の女性を赦すイエスが好きだという声が多いが・・、
 イエスは、十字架に架(か)かって・・、
 キリスト教の神と新しい契約が出来・・、
 新約のキリスト教ができたという。
 イエスも、復活し神になれました・・と。
 神の右に座っている・・と。
 誰も見たこと無いが・・誰が見たのか知らないが・・。
 ここだけを・・使えば・・十分だの・・パウロ、
 だから、パウロは、十字架の血とイエスの復活だけを使
ってキリスト教を作った。
 そして、みんなが賛同して、今でも、『そのキリスト教』
だ。
 それ以前のイエスは、見向きもされない、見向きもしな
いとなったのだが・・、
 パウロの路線を採用したキリスト教は・・、
 この部分のイエス・・人間イエス・・を、拾いに行きま
した。
 大矛盾の発生です。
 キリスト教徒に明確に示さないので、また、明確にもで
きないから・・しょうがないが・・、
 可哀想なのがキリスト教徒・・、
 頭の整理がつかない・・
 悩む人も多いし、どうせ「そんなもの」と思っている人
やら・・そして、心を削る所作(しょさ)・行為を・・身
の内で・・心で・・行うが・・処理ができない人が居る・・
できるわけが・・ない。可哀想な形になる。
 だから、十字架以前を人間イエスと称するが・・、
 人間の時のイエスの言葉やイエスの行動を捨てたという
が・・、
 そうや問屋がおろさない、
 言ってる方も・・堂々巡りになる、キリスト教のシッ茶
かメッチャカぶり・・、
 そして、キリスト教は・・事を・・『理路整然』に説明
できない宗教の代表となり下がっている。
 そこで、「信じなさい」「信じなさい」とだけ言う。
 「考えるな」「考えるな」とだけ言う。
 そう言う訳が、お分かりでしょう。
 その人間イエスが、姦淫の女性を赦した。
 そうです・・赦して差し上げるべきです。
 赦すのは・・赦したのは・・当り前です。
 誰でもします・・そんなこと・・何も姦淫を赦したから
キリスト教は素晴らしいという話になる話ではありません。
 今・現代には存在しない罪なのです。
 古いキリスト教だから存在する話なのです。
 そんな事をなどを・・とやかく言うところを・・ぐるぐる
回っているキリスト教。
 人生の無駄・・時間の無駄から離れなさい。時間を大切
にしなさい。
 また、この様なキリスト教に貴重な人材を投入しないよ
うにしよう。
 また、金や人類の財産を投入しないようにしよう。
 次世代に伝えて行かないようにしよう。
 戦争の大きな原因にもなっているキリスト教は人類を救
いませんし、あなた方も幸せになれません。
 また、大量な献金を強いられる状況から抜け出しなさい。
 キリスト教聖職者もかすみを食べて生きてられません。
 また、金銭欲の強い聖職者も生存しています。
 キリスト教故に話がグルグル回ったことは、了解してい
ます。だから、最初の原文のまま載せました。
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /

2014年7月3日木曜日

特に、優秀な人から去っている・・、

 題:特に、優秀な人から去っている・・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 1937年・・、
 スペインのゲルニカという町が・・
 ドイツ軍によって、無駄別爆撃を受けた。
 沢山の一般市民の方々が亡くなった。
 スペインは、大きなショックを受けた。
 スペイン人のピカソも、大きなショックを受けた。
 彼は、大きな「ゲルニカ」という絵を描いた。
 スペインの方々にとって大変な事であったでしょう、同
情を差し上げます・・・が、
 スペインは、その何百倍、何千倍というインディオの方
々を殺戮しています。また・・、スペインは、
 ユダヤ民族の方々に対しても、多くの命を奪っています。
 今・現代、この様な事を、アメリカが・・、
 イラクで・・ベトナムで・・、あちこちで行っています。
 イラク戦争だけでも・・、ベトナムも悲惨でしたが・・、
 イラクの方々は、100万人以上もの方々が亡くなられて
おられます。・・・アフガニスタンも悲惨です。
 第一次世界戦争の騒ぎが・・、第二次世界戦争で、また
また大きくなり・・一般の方々の命は、より大勢の方々が
奪われ、殺され、亡くなられた。
 何ら戦争に関係のない方々の死者数が急増している戦争
の形になっています。
 今、人間は、無限に大きな死を伴う戦争に拡大させてい
る。
 広島・長崎の多くの方々の何十倍、何百倍、千倍以上と
いうもの方々が・・亡くなる戦争の時代となっている。
 『人類の半数以上が亡くなる危険』も秘めています。
 キリスト教がその引き金になってきた。今でもそうだ。
 底流で・・大きくこの宗教が悪影響を与えている。
.
 そして、次の話。
 イエスの言ったことを・・、
 イエスの気持ちを反映させながら・・、今的に言うと・・、
 安息日・・? 
 麦の穂の先っぽを、ちょっと、仲間が摘まんだくらいで、
とやかく言いなさんな!
 安息日と言ったって、人間様のためにあるんだよ。
 神が疲れるわけがないだろう。
 「7日目に休まれた」なんて聖書に書かれているけど、
可笑(おか)しいとは思わないのか?
 キリスト教の神は疲れるのかい?
 ユダヤ教の信徒の俺には理解できないけどね。
 キリスト教の神だけではないか、疲れたとか、休みたい
とか、何とか言って、休んだりするのは・・。
 何でもできる神なんだろ、キリスト教の神は・・、
 何でもできる神が、疲れるなんてオカシイと思わないか、
間違いだと思わないのか?
 えっ? ぶたれた? 
 ぶたれたぐらいで、がーがー騒ぐな!
 うるさい奴らだ。
 右の頬(ほお)をぶたれたなら、左の頬もぶたれて来い。
 相手が馬鹿馬鹿しくなるだろう。そんな手も使え。
 わーわー騒ぐな!
 麦の穂先をちょっと摘まんで、食(く)ったくらいで、
腹の足(た)しになんかに、なる訳ないだろう。
 そんな事、ちょっと考えれば分かるだろ。
 2キロ行ったら、3キロ行ってやれ・・、
 何でもひねくれて、やってやれ。
 どうせ、馬鹿馬鹿しい世の中なんだから。
 あちこち戦争ばっかりで・・、
 終末思想が充満している世の中でさー・・。
 この様に、希望も何もなかった中でキリスト教は出来あ
がった。
 そして、このような中で、イエスの言葉もできた。
 ある意味、可哀想な人たち、
 可哀想な時代だった。
 現代の幸せに、達成された幸せに・・感謝せよ!!
 そういう意味でも・・、
 キリスト教は、現代では『無用の長物』となっている。
 次世代に伝えて行ってはならない宗教。
 無駄な労力と、金も無駄にもなる。
 貴重な方々を、キリスト教から救え!
 キリスト教に優秀人材と資金を投入するのは止めよ。
 特に、優秀な人材は、早く、キリスト教から離れなさい。
 アメリカでは、すでに、その行動が始まっている。
 親戚や、近所の手前、その様なことは口にしないが・・
と、キリスト教を離れているという、言葉がある。
 特に、優秀な人から去っているという。
.
 (注):本日は、2通、投稿しています。前もお読みくださ
い。
   (詳しくは、以下のブログへ)
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今、悪い形で『独占の形が現われている』。

 題:今、悪い形で『独占の形が現われている』。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教聖職者は・・、
 言葉に詰まって言う・・、
 『古代だから良かったのだ』・・と、
 キリスト教聖職者は、キリスト教聖書の記述を弁護して、
その様に言う。
 では、古代だから良かったのなら・・、
 現代では・・どうなのですか?
 それが・・質問なのですが・・??
 質問の答えを避け、質問には答えません。
 答えられないのです。
 キリスト教徒とは・・この様な宗教なのです。
 何ら、現代の、今の時点で・・答えることはできません。
 その様な宗教です。ダメなのです。役に立ちません。
 『経時劣化』をしている宗教なのです。
 キリスト教聖職者も・・答えることができません。
 そんなのを、一生懸命勉強したって、また、一生を奉(
ささ)げたって、何の役に・・立つのだろうか?
 現代に通じない宗教を・・。
 キリスト教を、早く、離れなさい。
.
 そして、次の話。
 キリスト教は、偶像崇拝を忌避する。
 その教義だ。
 しかし、この言葉は、「偶像崇拝を忌避することになっ
ている」・・としたい・・その現状なのだ。
 いつもの、キリスト教の『教義の適当さ』なのだが・・、
本当に、キリスト教は『適当な宗教』である。
 キリスト教の紀行文を読んでも、びっくりするぐらい偶
像が出て来る。
 その偶像を、聖像と呼んで、崇拝している。
 偶像崇拝そのもの、適当で、いい加減な宗教だと思う。
 ドストエフスキーは・・、
 キリスト教聖職者の少女姦淫を描いたが・・、
 現代でも、キリスト教聖職者の、少女や少年へのいかが
わしい報告は・・後を絶たない。
 キリスト教聖職者の廻りに、イエスの言葉なんかを無視
して、このたぐいの話がまとわりついている。
 イエスの言葉など、『聖職者が率先して』、何の役にも
立たない言葉にしている。
 それにしても、あのイエスの言葉は、イエス自体にも姦
淫の気配がある、感じさせると言える。
 イエスも、際立って・・このことを、彼の気性の荒さか
ら言葉としたが・・、『女を見たら姦淫だ』
 もっと女性を否定的に見るのでなく・・、
 性悪説的な、後ろ向きに見るのではなく・・、
 気品のある女性とか、高貴なかぐわしさのある女性とか
と・・前向きに、上品に、理知的に想像をしてみなさいと
・・イエスに言いたい。
 卑劣なあんちゃんの・『捨てぜりふ』の様な言い方も、
止めなさい。
 因(ちな)みに、ドストエフスキーは・・、
 カトリックを嫌った、忌避(きひ)し、嫌悪していた。
 ドストエフスキーさん・・正解です。
.
 そして、次の話。
 キリスト教は、権威を欲(ほ)しがった。
 権威を得るためには、あらゆる事をした。
 あらゆる事とは?・・と、世に問うと・・、
 世には・・「殺すことまで?・・殺人まで?」などとい
う声が、話があるが・・、
 びっくりするなかれ・・キリスト教はそうなのである。
 キリスト教は、宗教であるまじき・・殺人までもした。
 人殺し宗教である。
 1例を言えば・・、
 キリスト教の教義に・・「神を畏(おそ)れよ」・・と
いう教義があるが・・、
 キリスト教は、神の権威を得るために・・、
 この『教義の実践』までした・・人を殺し神を畏れさせ
た。
 キリスト教は、人を殺すことまでして、民衆を畏れさせ、
権威を得たいとした、そして、権威を得たと錯覚した。
 また、キリスト教は、権威を得ると共に「金(かね)を
欲しがり」、
 権威を得るとともに・・金と権威の両方を得て・・、
 キリスト教の周りには、その「権威と金と富」が集まる
とともに、人々も群がった。
 芸術家も群がった。唯一の就職先だったから・・、
 信仰心からの芸術ではなかった・・、
 これと同じ様な例、状況が、NHKに起きている。
 半分税金みたいにして、全国から集めた、集まったNH
Kの受信料は・・それこそ膨大な額となる。その巨額な金。
 NHKは、その膨大な受信料を湯水のように使い、
 また、その巨額な金に群がる人々を繰り、また、群がる
企業を繰って・・囲まれている。
 この金に、支配力を働かせている・・NHKである。
 NHKには、今、悪い形で『独占の形が現われている』。
 また、何ら『競争原理』も働いていない。
 何しろ、一般の人の4倍の給料は異常過ぎるな高給であ
る。
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2014年7月2日水曜日

性悪説のキリスト教は、『社会悪をもたらす』。

 題:性悪説のキリスト教は、『社会悪をもたらす』。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の思考形態は、『性悪説』です。
 物事を良く見ようという考え方ではありません。
 このキリスト教の否定的な思考形態の『性悪説』に洗脳
されて行くと、
 思考も、当然、その様になって行きます。感化されます。
 例えば、人間のマイナス面ばかりに、気がとられていく。
 『あの人はいやだわー』、『そう、○○さんもー』・・
と、世の中すべてを、その洗脳された性癖で見て行く傾向・
状態になって行く。
 また、キリスト教は、人間の性のマイナス面ばかりに、
気がとられていく・・「キリスト教的思考形態」は・・、
 どうしてもマイナス方向に囚(とら)われてしまい、
 性のマイナス面ばかりに、目を向けてばかりいる傾向に
陥(おちい)る。
 本当は、キリスト教の、その様な洗脳から逃れて・・、
 もっと性の素晴らしさに目を止めるべきです。世の中の
すべての素晴らしさに目を留めるべきです。
 女性にはこんな素晴らしさが在(あ)る・・と。
 キリスト教は、女性蔑視の宗教です、その様なDNAが、
聖書のあちこちにあり、また、どこらかに潜(ひそ)んで、
子供や女性、そして、人々へ悪影響を与えています。
 今・現代でも、女性の司祭が居ないとか、パウロは、目
を覆(おお)うような女性蔑視の記述をしたとか・・と、
 それらの悪さについて、キリスト教は、目をつぶって、
事実を覆い隠(かく)しているが・・。
 キリスト教は、(特に、女性の)「自己の性の美しさを
見い出す事の出来る人が、輝いている」ということを知ら
ない。
 そして、キリスト教は、「性は神から与えられた」と考
えるため、「男と女以外の存在を認めない」。
 これは、明らかに、「キリスト教の神の見落とし」で、
また、「失敗」なのです。
 キリスト教の聖書に、「キリスト教の神は『男』を作っ
た」と書き・・、
 そして、キリスト教の『男尊女卑』の性格付けとなっ
た記述、「女性が男の骨から作られた」・・と、劣悪な記
述、非科学的な記述に極まる。
 この劣悪な性差別を、堂々と、教義にしている態度に怒
りが沸く。
 キリスト教聖職者は、何とも思わない人々の様だ、洗脳
され、感化されている。恐ろしいものだ。
 この様に、キリスト教の聖書記述は、また、馬鹿馬鹿し
いレベル記述の為、男と女性以外の存在を、今・現代にお
いても『認めていない』。
 また、この様な、差別を、キリスト教は行っている。
 まったく、現代にマッチしない、『送れた宗教』となっ
ている。
 そして、キリスト教の考え方・教義は・・、
 神が作りし「男」と「女」・・、
 そして、その「結婚」は・・、
 『キリスト教の神によって定められた』としている。
 まったく、『限定的な』、『狭い』見方しかしない、で
きない、キリスト教の考え方・教義となっている。
 結婚以外の存在を認めていない。
 結婚以外で存在している方々を・・、
 『キリスト教の神の定めし事をなさない人々』と見てい
る。
 キリスト教は、結婚を最終目標とする宗教。
 だから、その考えの延長線上には・・、
 キリスト教の聖書には・・、
 兄が亡くなったら、その弟が、兄の妻の未亡人と結婚す
る事が記述されている。『その様にせよ』・・と。
 しかし、この様な倫理観の存在の必要性はアウト。
 現代での、この教義の適用は、『笑って否定される』。
 今・現代でも、キリスト教聖書には、堂々と、この様な
事が書かれている。
 聖書を読むことの・・何と時間の無駄なことか・・とな
る。
 この様な倫理観のキリスト教なのである。読む必要は、
 まったくない。
 キリスト教の教義は、これを理想なのだとしている。
 しかし、さすがに、この様な事を、今・現代、『その様
にせよ』とは、さすがにキリスト教も言えずに・・、
 キリスト教は、唯(ただ)黙(だま)っている。黙過(
もっか)である。黙過は罪である。
 『神の意思の無視』である。人間上位になっている。
 キリスト教は、御都合主義で、何ら、『キリスト教の神
を敬ってなんかいない』。
 人に「神を信じよ」「神を信じよ」と、口先で言うが・・、
 適当に存在している。
 また、この様に、古い倫理観の宗教なのです。信じるに
あたいしません。
 何ら現代において、『ためにならない宗教』なのです。
 現代社会に、『悪しかもたらさない宗教』です。
 この様な宗教は、次世代へ伝えて行ってはいけません。
..
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薄氷を踏む様な理屈で出来あがっている宗教=キリスト教

 題:薄氷を踏む様な理屈で出来あがっている宗教=キリスト教
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖地は、エルサレムである。
 この事は、動がし難い事実なのだ。
 そしてまた、キリスト教は、このエルサレムの地の宗教
なのである。
 このエルサレムで、キリスト教は歴史を刻んで来た。
 この砂漠の地・エルサレムの宗教なのである。
 『何で、ここまで言わなければならないか』という話が
ある。
 この砂漠の地の宗教だと言われることを嫌う、キリスト
教徒の富岡幸一郎・関東学院大学教授が、無理な話の展開
をする。
 砂漠の地の、奪い取りの地の宗教だということを嫌って
いる。
 氏の様な、知的なポジションにいる人が、屁理屈を言い
出していることは、大いに反省をして戴きたいところだ。
 キリスト教には、この事例の様な、「嘘に近い話」から
「まるっきり嘘」という話が、本当にたくさん、多く存在
する。
 富岡教授は・・
 「イエスは、ガリラヤの生まれで、ガリラヤは、緑豊か
な地で、この様なキリスト教もあり・・」と話をはぐらか
す。
 誠実な話の言い方を展開していない。
 だからって、はっきり事を、最後まで説明していない、
中途半端に、うやむやに、話をはぐらかす・・、
 つまり、砂漠の地の様な宗教を嫌い、砂漠の地のエルサ
レムのキリスト教を、富岡氏は否定している。
 これとはまた別に、イエスには、聖書から来る「救世主
が生まれる地のベツレヘム」で生まれなければならないと
いう縛り(しばり)があり・・、
 『イエスは、ベツレヘム生まれだ』という「くだらない
説」もある。
 イエスを、聖書通りの救世主にしたいだけの話である。
 ところが問屋がおろさなかったという話の結末になって
いる。キリスト教学者の努力のたまものだ。これも動がし
難い事実、ガリラヤなのだ。
 富岡教授の話は、また、聖書の記述は、逆に、イエスは
救世主ではないと証明するという結果になっている。お粗
末な話だ。
 イエスは、富岡教授の言う通りガリラヤ生まれで良いの
だ。イエスは、救世主が生まれる地のベツレヘムではない。
 富岡教授は・・、
 この事も言ってしまった・・という事に結果なっている。
 キリスト教は、エルサレムであり、エルサレムの宗教で
ある。富岡氏が何と言おうと・・。
 だから、キリスト教は、その地・エルサレムの砂漠の地
の宗教である。
 そのエルサレムを、聖地として・・奪還する話が、キリ
スト教の歴史に大きく関係して来る。
 だから、故に、富岡教授の話は、ただ事を惑(まど)わ
すだけの話なのだ。
 事を良く知らない人を、惑わし、誤認させるだけの話な
のだ。
 イスラム教徒から聖地を取り返すという話で持ち上がっ
た十字軍は、エルサレムの奪還(だっかん)の話なのだ。
 だが、しかし、名目通りエルサレムに行った十字軍は、
二桁の数ほど行われ、組織された十字軍の内、1回しかな
いというテイタラクだった。
 なんと、誠実にエルサレムを目指したのは、第一回の十
字軍だけだった。
 あとは、エルサレムを目指すという名目で、実際、彼ら
が、十字軍が、やる事は、沿道の人々の富の略奪だった。
 十字軍は、強盗団の『烏合の衆(うごうのしゅう)』だ
った。
 信仰心より、物取り(ものとり)が・・目的だった。
 そもそもが、人集めが、信仰心より、財産の無い二・三
男の不満対策にあった。
 そのため、当然の、成り行きだった。
 キリスト教は、この様な、体たらくな十字軍を「美しく
プロパガンダ(嘘宣伝)」した。
 聖なる軍なのだと・・、
 そんなことは、程遠い状況だった。
 最近、ローマ法王は、この十字軍の悪行について『謝罪
のミサ』をした。
 エルサレムの巡礼が難しくなったために・・、
 イエスの弟・ヤコブの骨だとして発見された骨を・・、
 スペインへ運び、墓を作り・・、
 その墓の上に、聖堂を、いつもの如く・・キリスト教は
建てた。
 これが、スペインの「サンティアゴ・デ・コンポステラ」
である。
 そして、ローマ法王が・・、
 ここへの巡礼は、エルサレムの巡礼をしたのと同じ「あ
りがたさ」が、「御利益」があるとした。
 御利益宗教=キリスト教の面目躍如である。
 この後、スべインの地への巡礼が行われる様になった。
 教会も、あちこちに建てられた。
 エルサレム巡礼の代わりとしてスタートし、ローマ法王
がエルサレムと同じ「ありがたさ・御利益がある」との御
託宣(ごたくせん)が・・功を奏(そう)した。
 イエスの弟・ヤコブが、イエスと同等の「ありがたさ・
御利益がある」という話となった。イエスと同じにしてい
いのか??
 また、キリスト教に偏するNHKが、仏教の墓を憎み、
キリスト教徒の日野原重明氏が提唱している森林葬を、キ
リスト教に偏するNHKは支援した。
 その支援する意味から、仏教の墓を攻撃した。
 そしてまた、蔑視放送を盛んにした。
 また、「千の風になって」の歌を盛んに放送した。
 「お墓の前で泣かないでください、私はいません」と、
 NHKは、あらゆる方法で、仏教攻撃を、盛んにした。
 プロパガンダした。
 しかし、このスペインの、ヤコブだという骨を見つけて、
埋葬して、墓を作ったこの話には、NHKは何ら同様な放
送はしていない。
 「ヤコブは居ません」・・と、
 NHKに、放送しなさいと言いたい。キリスト教に偏す
るNHKよ! この事を放送せよ!・・と。
 そして、このヤコブの『骨をありがたがる』、この様な
キリスト教会は、ヨーロッパのあちこちにある。
 『マリアの乳だ』というのまである。イエスが飲んだ乳
である。「聖遺物」だと称している。
 キリスト教に、馬鹿さ加減もいい加減にしてくれと言い
たい。
 それこそ、この様な事を、NHKは放送せよ、マリアの
乳を・・。
 この様に、キリスト教に偏し、巧妙なる伝道放送行為を
しているNHKよ! 大いに反省せよ! 
 NHKのこの様な事例は実に多い。
 そしてまた、キリスト教は、次世代に伝えてはいけない
宗教です。また、信仰する方々は早く離れて下さい。
..
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2014年6月30日月曜日

その民も、多くの果(み)を結び・・そして、その再生も無限に続いて行く

 題:その民も、多くの果(み)を結び・・そして、その再生も無限に続いて行く
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教 ヨハネ伝に・・、
 「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯(ただ)一つにて
在るらん、もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし」・・
とある。
 ・・・が、・・しかし、
 これを読んで思うことは・・、
 「キリスト教が、パレスチナの地に、イスラエルの地に
落ちて、西欧の地に伝え広まらずにおれば・・
 唯(ただ)一つの地の民も、殺されずに・・、滅するこ
ともなく、幸せな時を持てたのに・・と、思う。
 数々の無念の死もなかったのに・・と・・、
 しかし、広まりて・・、亡くなりし民、極めて多く、
 泣く母、また、極めて多し・・、
 そして、キリスト教、その母の命をも、また奪いし」。
 「誓うべし・・、亡き多くの民に誓うべし・・、
 その誓うべきこととは・・、
 キリスト教を次の世代に、伝え行くことを『断つること』
・・を、誓うべし・・、
 そして、亡くなりし多くの民のことを思い・・祈れ、そ
して、涙せよ」
 「そして、また思う・・、
 その民の一人でもが・・、
 その無念の死に・・キリスト教によって至らされたその
死に、その民の一人でもが・・、
 その民の一粒でも、無念の死から逃れ、死なずば・・、
 唯(ただ)一つにて在らん・・、
 もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし」・・と。
 そして、この様な再生が・・ある様に・・、
 キリスト教も言いし『この様な再生』がある様に・・、
 もの事は、すべて次なるものへ、再生され行くもの、こ
れが理(ことわり)なり。
 『初め』と思いしことも・・、
 『始め』と思われし時も・・、その理(ことわり)から
再生され、そして、出(いだ)されしもの・・、
 故に、再生されしものの『前が在りし』が理(ことわり)。
 その『始まり』は・・極めて遠くの以前に辿(たど)り
行きて・・、
 そして、無始となり・・、
 また、尊(とうと)い再生も・・、
 『終わり無く続きて』・・
 無終となれり・・、
 無始無終となれり・・。
 これが、真。
 佛教の理(ことわり)なり。
..
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同じ民族と・・同じ信仰をする者だけの・話

 題:同じ民族と・・同じ信仰をする者だけの・話
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は、愛の宗教ではありません。
 愛についてなど、ほとんど言っていません。
 そのほとんどが、選民だとして自画自賛した民族が、生
き残ることと、戦争のことです。
 キリスト教は愛の宗教と言いますが・・嘘です。
 愛の宗教へ「逃げ込まざるを得ない状況」だから、その
様に、必死になって言っているだけです。
 キリスト教がよく言う嘘となっています、プロパガンダ
(嘘宣伝)です。
 キリスト教の聖書に、僅(わず)かに、愛を言っている
ところがあります。
 キリスト教の聖書に、「愛する者たちよ、愛し合おうで
はないか」と、愛し合おうと呼びかけています。
 キリスト教は、声を大きくして、「キリスト教は、愛の
宗教だ」と言いますが、キリスト教学者でさえ・・、
 「そうではない」ということを、示しています。
 キリスト教学者は、キリスト教の根幹の教義を説いてい
ますが、愛など、ほとんどないことを示しています。
 キリスト教学者は、キリスト教の教義の根幹・考え方を
説明する中で、愛の話から遠く離れた「キリスト教神学A」
とか、「キリスト教神学B」だとかと説いています。
 キリスト教が、その愛の宗教だなんてことを、まったく
説明していません。
 そして、そして、最後の方になってやっと・・、「僅(
わず)かだ」という表現を使って説明しています。
 『キリスト教には分量は多くなく(僅か)」・・として、
キリスト教の愛の話の僅かなことを示し、キリスト教の愛
の説明をする。義理を果(は)たすかのように・・。
 キリスト教は、今、「キリスト教は、愛の宗教だ」「愛
の宗教だ」と言いますが、これは、一般の方々を完全に惑
(まど)わす言葉となっています。
 誠実なキリスト教ではありません。
 人々に誤認混同(ごにんこんどう)を起こさせています。
 このキリスト教学者が、キリスト教の愛の宗教の事例だ
と例示した僅かな事例なのが、それが・・、冒頭の「愛す
る者たちよ、愛し合おうではないか」の言葉です。
 キリスト教が、あれほど『愛の宗教だ』と言うのなら、
キリスト教の聖書の「あちこち」に、愛のことについて書
かれているのかと思われるでしょうが・・、まったく違い
ます。
 キリスト教の聖書に書かれていることは、先にも言いま
した「民族生き残りと戦争のこと」です。
 キリスト教が、民族の生き残りを祈る宗教ですから当然
なことです。
 愛の宗教は、それこそ「キリスト教という宗教が、宗教
として、生き残りをかけて、前面に持ち出した」だけのこ
とです。
 キリスト教の、そのわずかな愛の話も、「愛する者たち
よ、愛し合おうではないか」の言葉の様に、キリスト教の
神が愛し合おうと呼び掛けただけに過ぎません。何ら深い
話でも何でもありません。
 キリスト教の有名な「隣人愛」の話も、「同じ民族」で、
しかも、「同じ宗教を信じている人」への愛です。
 その狭い・偏狭(へんきょう)な愛なのです。
 キリスト教は、都合が悪いので、このところは、ひた隠(
かく)しにしています。近頃は、その言葉「隣人愛」は、
あまり言いません。
 キリスト教は愛の宗教ではありません。
 キリスト教は、プロパガンダ(嘘宣伝)で、愛の宗教の
様に思わせているだけです。
 キリスト教の基本的スタンスは、「愛し合おうと呼びか
けても、愛さない者は神を知らない者だ」とするスタンス
です。聖書に記されています。
 これは、神の救いがおよぶ人は、キリスト教の神を信じ
る者だけだと同じスタンスです。
 結局、キリスト教の神は、キリスト教の神を信じない者
を「異教徒」として、キリスト教の教義の「異教徒は殺せ」
と殺されるスタンスの中に存在する・・と同じ様に、そし
て、異端として、異端者として存在すると同じ様に・・、
 愛についても同じことになります。キリスト教の神を知
らない者となります。
 キリスト教は、キリスト教に博愛がある様に言いますが、
とんでもないのレベル。
 キリスト教には、博愛の精神はまったくありません。
 そしてまた、キリスト教の基本的スタンスは、「人には、
生まれながらの原罪がある」と、人を性悪に捉(とら)え、
信じない異教徒は殺せと、『愛も同じく』、愛さない者は
神を知らない者として排除をする。
 こんなのは愛でも何でもありません。
 勝手に、まったく勝手に、神の愛によって、ひとり子を
この世につかわしたと・・愛がある様に『作り話』を、言
うが、信がなければ排除する様に、愛さないものも排除す
るに帰結(きけつ)します。
 キリスト教には、否定者を受け入れる大きな度量(どり
ょう)はありません。
 大きな度量を持たない宗教、まったくない宗教。逆に、
排除・殺す宗教。
 異端者として排除し、異教徒として排除し、愛さない者
として排除する。愛とはほど遠い宗教というのが真実。
 付け焼刃で作られた「キリスト教の愛の神学」は、底の
浅い付け焼刃です。
 「愛し合うなら、キリスト教の神は私たちの中にどとま
る」。すべて、この考えにとどまり、これ以上になれない
キリスト教の教義の愛。
 博愛のかけらもない。
 愛さない者は、見捨てられ、切り捨てられる。挙句(あ
げく)の果ては殺される。
 同民族的の中の愛の話。
 そして、愛さない者は、永遠の生命は持てないと、罰の
話を持ち出し、脅(おど)し、精神的な、卑劣なストレス
を与える宗教次元。低次元のキリスト教。
 この様な宗教は、次世代に引き継いではならない。また、
キリスト教徒のあなた方も・・幸せにはなれません。
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   (詳しくは、以下のブログへ)
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