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2015年9月5日土曜日

(増補版)200D2/3:気になった事柄を集めた年表(1808年~1808年)

題:(増補版)200D2/3:気になった事柄を集めた年表(1808年~1808年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1808年4月、幕命によって、間宮林蔵が、再び、松田伝十郎
 とともに、樺太(カラフト)に渡り探検し、
  また、翌年には、樺太の北西岸を調査の後、ギリヤー
 ク人に同行してシベリアを探検し、アムール川下流のデ
 レンを訪れ、周辺諸民族の清国への朝貢の実態を把握し
 た。
  この探検によって、カラフトが島であることを発見し
 た。そして、樺太地図を作製した。
  この地図を見たシーボルトは、この海峡を「間宮の瀬
 戸(間宮海峡)」と名付けた。
1808年4月7日、幕府が、ロシア人の択捉島上陸事件(文化
 露寇)の処置の不始末につき、
  松前奉行・戸川安論(とがわやすとも、やすときと表記
 するものもある)を罷免した。
1808年4月、幕府が、江戸湾の防備を強化し、砲台を修築
 した。
  また、1810年には、房総及び相模の房相沿岸に砲台を
 築き、浦賀奉行や、譜代大名家に海岸防備を固めさせた。
1808年6月、関東が、長雨と洪水により、米価が高騰した。
  幕府は、窮民を救済し、旗本に惜米を許可した。
1808年夏、蒲生君平(がもうくんぺい、勤王家、1768年~
 1813年)が、荒廃した歴代天皇陵を調査した「山陵志(
 さんりょうし)」を刊行。
  著書で、前方後円墳という用語をはじめて使い、その
 名付け親となった。
  幕末の尊王論に大きな影響を与えた人。
1808年8月、フェートン号事件(10月説あり)
  イギリス船のフェートン号事件が起きた。
  同船は、長崎港に、突然、侵入して来た。
  卑劣な事に、オランダ国旗を掲げて入港して来た。
  長崎奉行役人は、だまされ、欺かれて出向いた。
  同船は、その長崎奉行の役人と、通詞を捕まえ、また、
 オランダ商館を襲って、商館員を2人捕まえた。
  完全に、条約も、法律も、あったもんじゃない行為を
 した。
  さらに、ボートで長崎港の中を我が物顔に乗廻し、捕
 らえたオランダ商館員を人質として、オランダ商館から
 薪・水・食糧を奪い、また、長崎奉行に薪・水・食糧を
 要求した。
  そして、水と野菜と肉を引換えに人質を解放し、長崎
 港から出て行った。
  実際は、フランス革命後のごたごたに、イギリスに対
 抗したオランダ・フランスの事もあったが、そして、オ
 ランダ商船を捕まえる目的であった。
  それは、イギリス東インド会社の総督の方針を受けて
 の行動であった。
  まったくのイギリスだけの都合での行動だった。
  可哀想に、降って湧いた事件で、長崎奉行の松平康英
 は、責任をとって自刃した。
  この事件に、佐賀藩も兵を出し、長崎奉行所と対処し
 たが、やりたい放題にやられたことで責任をとらされた
 のだった。
  この事件は、幕府に大きな衝撃を与え、以後、異国船
 打ち払い令の発布へと動いて行く。
1808年9月2日、歌人・国学者の加藤千蔭(かとうちかげ、
 国学者、歌人)が没した(74歳)
  幕府・与力で歌人の子に生まれ、幼時より才能を発揮
 した。
  賀茂真淵に入門し、また、町奉行組与力から公務にも
 つき、田沼意次の側用人まで務めた。
  江戸歌壇の名声は高まり、門下は「江戸派」と言われ
 た。
  また、国学者として「万葉集略解」なども著した。
  歌人として、京阪の人達とも広い付き合いをした。
1808年10月2日、幕府が、米価騰貴により、幕府の米穀を
 払い下げた(窮民救済)。
  藩でも、この様な事が行われていた日本だった(例え
 ば、冷害の影響があった仙台藩などとか・・)
1808年、司馬江漢(しばこうかん、画家)が、「刻白爾天文
 図解(こっぺるてんもんずかい)」を刊行し、地動説を
 紹介した。
  江漢は、油絵や洋人図や美人画や日本風景図などを描
 いているが、平賀源内に出会ってから変わったのだった。
  西洋の自然科学も紹介したりした。
  この書などで、世界の地理・風俗など、また、地動説
 の知識を説いた。
  随筆にも優れたものがある。
1808年、農政学者の佐藤信淵(さとうのぶひろ、1769年~
 1850年)が「西洋列国史略(せいようれっこくしりゃく)」
 を著した。
  西洋知識が書かれ、注記などでは海防策が書かれてい
 る。
  伊達宗城(だてむねなり、伊予宇和島藩主)は、この
 書などから蝋(ろう)の専売や石炭の採掘や、蘭学の研
 究などをして、殖産興業や富国強兵に取り組んだという。
1808年、上田秋成(うえだあきなり、国学者、読本作家)
 が、評伝的随筆「胆大小心録(たんだいしょうしんろ
 く)」を著した。
   この書は、作者の晩年につづられた随筆で、一生の
 回想録というもので、秋成の世界観や思想などが総決算
 的に書かれている。
  その取り扱っている範囲は広い。
1808年、魔女裁判を行なったキリスト教裁判所
  キリスト教裁判所の拷問室には、十字架と拷問台が並
 んでいた。
  キリスト教は、拷問は『神の名において』行なわれる
 正義だと、ぬけぬけと言った。
  「正義を行なうのに、躊躇する事はない」と言った。
  それまでの、どの時代にも例を見ないほどに、拷問が
 用いられたのは、中世キリスト教国のキリスト教裁判所
 においてであった。
  この年に、1808年に、ナポレオンの軍隊が、スペイン
 に侵入したときのこと、
  トレドのキリスト教裁判所の異端審問所の牢獄の中で、
 一つの拷問用具が発見された。
  それは、両腕を広げて立っている女像であった。
  その胸と腹の部分には、尖った釘と鋭いナイフの刃が
 一面に植え付けられていた。
  レバーを引くと、その女像は、キリスト教に決めつけ
 られた異端者に向かって来て、異端者を両腕の中に抱き
 込み、かたく、かたく抱きしめた・・、
  その女像は、「聖母マリア」に似せられていたという。
            (参考:魔女狩り、岩波新書)
..
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2015年9月4日金曜日

(増補版)199D2/3:気になった事柄を集めた年表(1807年~1808年)

題:(増補版)199D2/3:気になった事柄を集めた年表(1807年~1808年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1807年5月16日、皆川淇園(みながわきえん、儒学者)が没
 した(74歳)
  私塾の弘道館をおこした。
1807年9月18日、幕府が、絵入読本改掛(えいりよみほんあ
 らためかかり)名主(なぬし、江戸時代の地方・じかた
 三役の一つ)を設置した。
  改掛名主:あらため担当の名主が、自主的な改めを行
 ない、また、出版に際して、この名主に出版伺いをたて
 なさいというもの。
1807年10月、松前奉行(まつまえぶぎょう)を置く。
  この奉行は、遠国奉行の一つ。
  蝦夷地支配の蝦夷奉行、次いで箱館奉行となり、この
 年に、松前に移されて松前奉行となった。
  この奉行は、1821年に、蝦夷地が、松前藩に返還され
 て、廃止となった。
1807年12月1日、寛政の三博士の一人・柴野栗山(しばのり
 つざん、儒者)が没した(72歳)
  讃岐(香川県)の農家に生まれ、後藤芝山に学び、18
 歳で江戸に出て、林大学頭信充に入門した。
  1788年に、老中・松平定信による昌平坂学問所の改革
 が始まり、教官となり幕臣となった。
  幕府に任官してから、朱子学を唱え、官学とした。
  そして、松平定信に寛政異学の禁を建議し、実施した。
1807年12月4日、幕府が、天文方・高橋景保(たかはしかげ
 やす、1784年~1829年)に洋書による新訂万国地図(し
 んていばんこくぜんず)の作成を命じた。
  景保は、伊能忠敬の測量事業を監督し、援助し、
  その実測に基づく「日本輿地全図」「日本辺海略図」
 を編纂した。
  新訂万国全図は、幕府の作成した世界地図で、
  ヨーロッパ諸国の東洋進出によって、日本近海に異国
 船の出没があるため、
  幕府は、国策上の必要から、景保に、作成を命じたの
 だった。
1807年、蘭方医の杉田玄白が「野叟独語(やそうどくご)」
 を著した。
  問答形式で書かれ、幕政批判の書、外政に対する積極
 的手段を論じている。江戸防備についても論じている。
  本書は公開されなかった。
1807年、山東京伝作・歌川豊国画「於六櫛木曽仇討(おろ
 くぐきそのあだうちし)」が刊行された。
  この書によって、当時、木曽の名産だった「於六櫛」
 が江戸に紹介された。
  木曽路の宿屋で知り合った於六と蚤屋「善吉」夫婦が
 中心人物。
1807年、蒸気船が発明された。
  ロバート・フルトン(アメリカ)が、外輪式蒸気船を
 開発し、1807年8月17日に、ハドソン川で試運転に成功し
 た。
  このアイデアは、ローマ時代からあった事が確認され
 ている。
1807年、アーク放電灯が発明された。
  ハンフリー・デービー(イギリス)が、ボルタの電池
 を電源としたアーク放電灯を完成した。

1807年、間宮林蔵が、択捉島を測量した。
  そして、開発した。
  村上島乃丈が林蔵の師匠だった。
  間宮は、守備隊にロシアと戦う様に言い、そして、ロ
 シアと戦い、守った。
  また、幕府から樺太の調査を命じられた。
  ロシアが、どこまで迫っているかを調べよとの命だっ
 た。
  1808年に、間宮林蔵は、再度、樺太へ向かった。
  10月4日に、樺太中部に到着した。
  凍傷になった。
  樺太にいたアイヌの人々に助けられた。
  翌年に、間宮海峡を発見した。
  樺太アイヌの人々が大陸へ行くと言うので、一緒に共
 に行きたいを言う。
  1809年8月に、樺太から大陸へ渡り、デレンと言う地へ
 向かった。
  アムール川を100キロさかのぼった。
  間宮たちは襲われたりした。
  そして、苦難の末に、目的の地に着くことが出来た。
  ロシアは、まだ、来ていない事を確認した。
  林蔵の著作として知られているものは、「カラフト島
 見分仕候趣申上候書付」「東韃地方紀行」「北蝦夷図説」
 「窮髪紀譚」など、
  幕府は、樺太を直轄地とした。
  ロシアのクーゼンシュテインという探検家は、間宮の
 行跡・功績を知らされた時、「これは日本人の勝だ」と
 言った。
  林蔵は、伊能忠敬を尊敬していた。
  「忠敬が居なければ自分はなかった」と言った。
19世紀前半、北海道余市町に「旧下ヨイチ運上家(きゅう
 しもよいちうんじょうや)」という、大きな木造の家が
 ある。
  間口約40メートル、奥行き約16メートルと広い。
  この場所は、北海道南端の渡島(おしま)半島にあっ
 た松前藩の所。
  藩は、農業に向かない土地柄から、藩士にアイヌと交
 易の場を与え、その利益を給与に充てていた。
  藩士は、和人の商人に交易を請け負わせ、そして、設
 置したのが運上屋だった。
  和人商人たちは、アイヌとの交易から漁業に軸足を移
 した。
  アイヌの方々を雇い、近くの海でサケやニシンを取っ
 た。
  加工もした。
  運上屋の真ん中に、板張りの管理の場所があった。
  ここで酒を酌み交わしたようだ。
  ここで請け負った商人は、3年間の運上金などを556両
 払った。
  米で換算すると、今の2200万円以上になる。
  利益は大きかったようだ。
  幕府は、江戸時代の後期、幕府は、ロシアの南下を警
 戒して整備を進める。
  そして、整備した道路建設も、請け負い商人に負担さ
 せている。
  商人は、明治に制度が終わるまで、4代続けてこの権利
 を堅持した。
  商売に絶大なうまみがあったのだろう。
1808年1月4日、江戸とその近隣諸国に、50年来の大雪が降
 った、二尺余り(約60センチメートル)とある。
  この頃、小氷期と言われている。冷夏や厳冬大雪の年
 頻繁に現れる。
  この年の11月にも、飛騨は豪雪で、シカ、イノシシが
 千匹以上も里に迷い出て死んだのを、村人が哀れに思っ
 て作った碑がある。
  碑には、半日で、180センチメートルも積もる大雪とな
 った。
  本来、飛騨南部は積雪が少ないのにと書かれている。
1808年1月、伊能忠敬が、幕命で、畿内・四国沿岸の側量に
 出発した。
1808年2月6日、幕府は、本木正栄(もときまさひで)らの長
 崎通詞6人に、オランダ商館長ズーフのもとで、フランス
 語を学ぱせた。
  翌年には、英語学習を行なう。
  オランダ語を基礎外国語として、フランス語や英語の
 研究を進め、蘭学から洋学への橋渡し役を務めた人たち
 だった。
1808年3月29日、幕府が、朝鮮使節の応接費用を調達するた
 め、以後5年間、臨時賦役の上納を諸大名に命じた。
  朝鮮使節は親善使節であったが、その応接に多くの費
 用が必要とされた。
  その様な応接がなされた(宴席、献立、贈答品など)。
  日本の行く先々で大変な接待をした。
  また、その様な接待の下で行われた。
  通過する藩がその費用を負担したが、幕府の出費も夥
 しかった(新井白石は、待遇の簡素化と、経費節減を図
 った)。
  国情探索もあったようだが、将軍の代替わりの祝賀が
 主な目的。
  江戸時代に、12回の使節が来ている。
  1607年には、家康と秀忠とに会見して国交が回復して
 いる。
1808年3月、幕府が、オランダ通詞の馬場佐十郎(ばばさじ
 ゅうろう、蘭学者でもある)を天文方に任命し、「万国
 全図(ばんこくぜんず)」の補訂作業を命じた。
  万国全図は、1602年に、中国で出版された漢文の「坤
 輿万国全図(こんよばんこくぜんず)」を参考にしてい
 る。
1808年3月、銅版画家の亜欧堂田善(あおうどうでんぜん、
 松平定信に見いだされる)が、「医範提綱(いはんていこ
 う)」(宇田川玄真訳撰)の付図として 銅版解剖図を刊
 行する。
  医範提綱は、津山藩医の宇田川玄真が刊行した江戸時
 代のベストセラーの医学書だったという。
  玄真は、師から引き継いだ西洋の内科や薬学の研究を
 した。
  玄真は、「内科治療をするにも、薬の処方をするにも、
 まずは体内の構造を知らなければならない」と考えたと
 いう。
  人体の器官と働きを明らかにすることによって、病気
 の原因や治療法が分かると探ったという。
  西洋の名医の本を数冊翻訳もしたという。
  そして、その要点を簡単にまとめて刊行したのが、こ
 の「医範提綱」だという。
  考え方は、まったく正統で驚く。
  この本は、何度も藩を重ねて、明治になっても、医学
 校の教科書に使われたという。
  現在も使われている身体器官の名前には、この書で定
 着したものがいくつもあるという。
  例えば、玄真の優れたところの一端は、リンパ腺の「
 腺」や膵臓の「膵」の字は、中国で作られた漢字ではな
 く、この玄真が、器官の働きを考えて作った文字(国字)
 なのだ。
  「腺」の字は、逆に、今・現在、中国で使われている。
  杉田玄白と同等、または、それ以上の偉人と言える人。
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2015年9月3日木曜日

(増補版)198D2/3:気になった事柄を集めた年表(1806年~1807年)

題:(増補版)198D2/3:気になった事柄を集めた年表(1806年~1807年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1806年7月8日、天文学者・オランダ通詞の志筑(しづきただ
 お)忠雄が没した(47歳)
1806年9月22日、米価下落のため,酒造量の制限を解除した。
1806年10月11日、幕府が、臨時支出が増大したので、3年間
 の倹約を出した。
  その間、幕府や諸大名からの貸付金を許可しないこと
 とした。
1806年10月、若年寄の松平乗保(まつだいらのりやす)が大
 坂城代になった。
  また、水野忠成(みずのただあきら)が若年寄となった。
1806年10月14日、米価の下落に対して、米を買い上げたり、
 江戸町人(豪商)に買持米を命じ、下落を買い支えた。
1806年10月、幕府が、江戸町人、およぴ、幕府領の農民に
 御用金(ごようきん)を課した。
  御用金は、幕府や諸藩が、公用遂行の資金を得るため、
 利息を付けて返済する約束で、町人や百姓に課した借用
 金。
1806年10月31日、喜多川歌麿(きたがわうたまろ、浮世絵師、
 狂歌師、1753年~1806年)が没した。
1806年11月23日、将軍・家斉が、琉球使節を引見した。
1806年11月、江戸と大坂で、裕福な商人に、米の買い上げ
 を命じた。
1806年12月16日、「藩翰譜(はんかんぷ、歴史書)」につづ
 く、各大名の年譜「続藩翰譜」の編集が終わった。
1806年冬、「五海道其外分間延絵図」が、道中奉行所によ
 り完成した。
1806年、式亭三馬(しきていさんば、戯作者)の「雷太郎
 強悪物語(いかずちたろうごうあくものがたり)」が刊
 行された(合巻の初め)。
  殺人や強盗などの悪事を重ねる雷太郎を、被害者の家
 族らが浅草観音の導きで討ち取る仇討ち物語。
1806年、山東京伝作・歌川豊国画「昔語稲妻表紙(むかし
 かたりいなずまびょうし、読本)」が刊行された。
1806年、ロシア人フォストフとダビドフの船が、千島と樺
 太を侵寇した。
  樺太南部にある運上屋を襲撃した。
1806年、ナポレオン1世が、大陸封鎖令(たいりくふうされ
 い)を発した(イギリス封じ込めが目的)。
  フランス皇帝のナポレオン1世が、トラファルガー沖の
 海戦に敗れた報復として、ヨーロッパ大陸諸国とイギリ
 スとの通商断絶を図って、勅令を出した。
  ロシアの密貿易などを招いて失敗に終わった。
  イギリスは打撃を受けたが、フランスの私掠船(しり
 ゃくせん、ある政府から、敵対関係にある船を攻撃し、
 その船や積み荷を奪う許可を得た船)が暗躍し、
  商船は略奪され、国内では国民の暴動が発生した。
  イギリスとフランスは、お互いを果てしなく叩き合っ
 た。
1806年、神聖ローマ帝国が終焉した
  中世の西ヨーロッパのキリスト教世界は、教皇と皇帝
 という二つの中心を持つ世界であった。
  当初は、ローマ帝国の伝統とキリスト教会の権威を結
 びつけたが、次第に形骸化した。
  15世紀以降は、ハプスブルク家が、帝位を独占し、世
 襲して来た帝国だったが、この年に、
  ナポレオン勢力下のフランツ二世が、帝冠を辞退し、
 崩壊させられた。
1807年1月、曲亭馬琴(きょくていばきん)作・葛飾北斎
 (かつしかほくさい)画の「椿説弓張月(ちんせつゆみは
 りづき)」前編が刊行された。
  椿説弓張月の内容は、保元の乱に敗れた源為朝が、苦
 労を重ね、漂泊を重ね、伊豆の大島を逃れて、琉球に渡
 り、危機に立つ王女を助けて、内乱を鎮定し、その子が、
 琉球王に推挙されるという、為朝の一代記。
1807年4月、2隻のロシア船が、択捉島のナイホを襲い、番
 人を含めて5名の日本人を拉致して、部落を全滅させた。
  そして、さらに、数日後にも、他の湾の箱館奉行所役
 人と、盛岡・弘前藩兵が詰めていたシャナに、ロシア船
 が来襲した。
  そして、陸戦隊を上陸させて、日本側と交戦し、
  日本側の大砲5門を捕獲して、日本側の守備兵を敗走
 させ、部落を焼き払った 。
  (この大砲のうち、2門はポルトガル製の古いもの、
 1門は日本製、他の2門は不明である)。
  その後、5月に、ロシア船は、再度、樺太のアニワ湾
 のルウタカにも来襲し、
  居合わせた日本船4隻を焼き払い、
  積荷米や、塩・魚を奪い取り、魚を入れた倉庫3棟を
 焼き払って、立ち去った。
  そして、さらに続いて、6月には、礼文島沖で松前の
 商船を、
  また、利尻島に停泊中の幕府船と、松前の商船を襲っ
 た。
  また、この4月の択捉島シャナの襲撃に際して、ロシア
 側は、拉致してあった番人に、
  今回の敵対行動をとった理由を明記した手紙を持たせ
 て釈放した上、
  利尻島を襲撃後、立ち去る前には、拉致した日本人の
 うち4名を釈放し、番所のあった宗谷に送還した。
  この時のロシア側書簡には、
  「一昨年に、長崎に、日本人漂流民4人を送り届け、
 ならびに、交易を願出る使者を派遣したが、
  交易の願いは実現しなかった。
  その上、今後は、日本人漂流民があっても送還するに
 は及ばず、ロシアが日本に船を寄せた場合には、船を焼
 き払うとの布告が出され、
  この事についてロシア皇帝は立腹した。
  この際に、力の及ぶ限り、日本を焼き払うとの意見も
 出た。
  今回、酒や米などの品物を奪ったので、海賊かと思わ
 れたかもしれないが、これは通商の願いが叶わず、やむ
 を得ず出た行動であって、
  けっして盗賊の営みではない。
  今後、通商の願いが実現した暁には、奪った品物は返
 還し、代金も支払う所存である」・・と、
  今回の行動を弁明しているが、
  これに続くところでは、
  日本が、今後も通商を認めないのであれば、
  多数の軍艦を派遣して、さらに、攻撃するとの脅しの
 文句も入っていた。
  この暴挙を行ったロシア船は、ロシアの露米会社所有の
 商船であったが、
  これを指揮していたのは、ロシア軍人のフヴォストフ
 中尉とダヴィドフ少尉であり、
  1804年の、長崎での通商交渉に失敗した、ロシア使節・
 レザノフが、
  ロシア皇帝・アレクサンドル1世に送った、日本の北
 辺に武力攻撃を仕掛けることで、通商を実現しようとい
 う意見書に基づいたもので、
  皇帝の裁可が下りないままに、レザノフが独断で、当
 時、軍籍に属したまま、露米会社商船に乗り組んでいた
 二人の軍人に襲撃を指示したものであった。
   ロシア船の、1806年のカラフト襲撃の報は、翌1807年
 4月に松前に届き、
  ただちに、松前奉行からの報告書が、幕府に届けられ
 た。
  そして、これと相前後して、松前藩・ 盛岡藩の江戸藩
 邸からも報告書が届けられた。
  続いて5月には、ロシア船が、択捉島を襲撃した情報
 も届き、幕府を震撼させた。
  幕府は、1807年5月に、盛岡藩・弘前藩、さらに、秋田
 藩や、庄内藩へ、蝦夷地への出兵を促し、
  盛岡藩972名・弘前藩800余名・秋田藩591名・庄内藩
 319名の計3000名近い兵力が、蝦夷地に派遣された。
  そして、箱館・ウラカワ・アッケシ・ネムロ・クナシ
 リ・福山・江刺・ソウヤ・シャリの各地に配置された。
  また、この厳重な警備は、翌年1808年以後も継続され、
 盛岡・弘前両藩・各250名と、仙台藩2000名・会津藩
 1600名の体勢で警備が行われた。
  さらに、幕府は、若年寄堀田正敦・大目付中川忠英・
 目付遠山景晋など、対露関係の有力者を蝦夷地に派遣し
 て、諸藩の兵を指揮させるとともに、
  小普請方の近藤重蔵を西蝦夷利尻あたりまで、
  徒目付神谷勘衛門を東蝦夷 クナシリあたりまで派遣し
 て、要害を置くべき地を巡察させ形勢を視察させた。
  この様な急激な動きを、幕府は、決して公表しなかった
 のだが、
  ロシアによる襲撃の報や、幕府の動きは、諸藩の江戸
 留守居役による情報収集によって、ただちに、全国の諸
 藩に伝わり、
  箱館奉行所の幕府要員や、蝦夷地に派遣された下役、
 さらには、蝦夷地警備に当たっている松前・弘前・盛岡
 諸藩の目撃・体験情報も流布し、
  これに襲撃された会所や商船に居た商人からの情報も
 加わって、
  ロシア船が、蝦夷地を襲撃し、幕府が、大規模な軍隊
 を派遣したことは、ただちに人々に、尾ひれをつけて伝
 わった。
  江戸では、6月ともなると、ロシア船来寇のうわさが、
 駆け巡り、
  すでに、ロシアと盛岡・弘前藩兵が、戦闘におよび、
 ロシアの軍艦は、数百艘で、津軽海峡が封鎖されて、松
 前は孤立し、
  箱館奉行は、捕虜となり、
  松前藩の家老の一人は、ロシア側に寝返ったなどの風
 説が飛び交った。
  そして、この風説は、鎌倉時代のモンゴルの来寇と比
 べられ、
  あの時は、伊勢や石清水の神威によって、元軍10万は
 海底に沈み事なきを得たが、
  今は、神威もあまり頼りにもならず、
  ロシアの船は、海城ともいうべき巨大のもので、江戸
 は海に面しているので、油断はできないなどと、
  今すぐにでも、ロシアとの戦争が、江戸にまで拡大し
 て来るかのような風説となって拡大し、
  鍛冶を生業とするものたちは、武具を鍛え、
  古着のある家々は、軒に陣羽織を掛けて、戦に備える
 などの騒動が起こった。
  このような風説は、江戸だけではなく、全国に及び、長
 崎のオランダ商館員の耳にも入り、
  あわせて、択捉島襲撃の際には、番所につめていた箱
 館奉行所役人や、弘前・盛岡藩兵が、総崩れとなって退
 却したことは、日本開闢以来の敗北と受け止められ、
  日本の威信を守れなかった幕府に対する批判を生み出
 し、
  さらに、ロシアの通商要求を強硬に拒否した幕府の外
 交政策に対する批判まで噴出し、
  幕府は、各地で、雑説禁止令を出さねばならいないほ
 どの騒動となった。
  幕府は、1807年6月に、あいついで3通の触書を出し、
 ロシアの襲撃の情報と、その背景などを詳しく諸藩に対
 して報じた。
  この触書には、ナイホとシャナでの、会戦の折には番士
 が、ロシア人5・6人を撃ち殺したが、防ぎきれずに撤退
 したと、
  手をこまねいてロシア人の襲撃を許した訳ではないと
 釈明し、
  さらに、襲撃したロシア船は、2隻で、人数も60人程
 度であることなど、幕府に入った情報を簡潔ではあるが
 公表した。
  そして、幕府は、同じ情報を、朝廷に対しても、武家
 伝送を通じて伝えた。
  当時の光格天皇を中心とし た朝廷が、
 天明の大飢饉や、打ち続く外国船の来航などに、国家の
 危機を感じ取り、
  古代において戦乱収束のお礼として始まった石清水八
 幡宮の臨時祭や、賀茂社の臨時祭などを復興し、
  日本国の安寧を祈ることが朝廷の責務であると、行動
 されていたからだった。
  そして、同時に、各地で、雑説禁止令を布告し、悪質
 な噂を流したものを捕らえて罰するなどの処置を取った。
  この幕府の動きは、情報を秘匿した中で、風聞だけが、
 一人歩きして、噂が拡大し、噂に基づいた幕政批判など
 が横行することは、幕府の威信にも関り、世の乱れの元 
 になると、幕府が判断したからだった。
..
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2015年9月2日水曜日

(増補版)197D2/3:気になった事柄を集めた年表(1804年~1806年)

題:(増補版)197D2/3:気になった事柄を集めた年表(1804年~1806年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1805年1月26日、ロシア船来航に備えて、幕府が、沿岸の諸
 大名へ警戒を命じた。
1805年2月、幕府が、唐物(からもの、中国、および、その
 他の外国から輸入された品物)の抜荷(ぬきに、運送中
 または保管中の荷物の一部をこっそり抜き取ること)を
 固く禁止し、不審荷物や船舶の検査を強化した。
1805年2月、伊能忠敬が、幕命によって、伊勢・紀伊・山
 陽・山陰の各地の沿岸の測量へ向かった。
1805年3月7日、幕府が、目付の遠山景晋(とおやまかげくに、
 幕臣、1764年~1837年)を長崎に派遣し、
  前年に来航したレザノフの通商要求を、拒絶させた(
 3月19日に、レザノフは長崎を退去した)。
1805年5月9日、幕府が、銀座以外で灰吹銀や潰銀を売買す
 ること、そして、京都以外の職人が 銀箔を製造すること
 を禁止した。
  灰吹銀(はいふきぎん):銀山から山出しされ、灰吹
 法により製錬された銀地金。
1805年5月、農民に対し、武芸の稽古の禁止や、江戸町方
 火消人足の風体のまねを禁止した。
1805年6月、関東取締出役(かんとうとりしまりでやく、俗
 称:八州廻り)の職を設置する。
  関東地方(関八州)を幕領・私領(水戸藩を除く)の
 区別なく巡回し、無宿者や博徒などの横行を取締って、
 治安維持の強化する事を目的とした。
1805年、江戸が、旱魃(かんばつ)となった。
1805年9月、幕府が、女浄瑠璃(おんなじょうるり)を禁止
 した。
  女が語る浄瑠璃で、江戸中期以降は女義太夫と言った。
1805年10月、加藤千蔭(かとうちかげ、歌人、国学者)が、
 「万葉集略解(まんようしゅうりゃくげ、万葉集の注釈
 書)」を幕府に献上した。
  先人の説を修正したもので、入門書として広く読まれ
 た。
  稿が成るごとに本居宣長の閲を請うて、その説を取り
 入れることが少なくなかった。
  父の跡を継いで町奉行の与力も勤めていた。
1805年11月3日、米価が低落したため、幕府が町人に官金を
 貸与して米穀を買い上げさせた。
1805年、長久保赤水(ながくぼせきすい)が、「長崎紀行」
 を著した。
1805年12月2日、アウステルリッツの戦いが起きた。
  ナポレオン1世の率いるフランス軍が、ロシア軍とオー
 ストリア軍の連合軍を、アウステルリッツ(現チェコ)
 で撃破した。
  この結果、第三回対仏大同盟は崩壊した。
  この日は、ナポレオン1世の皇帝戴冠1周年記念日だっ
 た。
  ロシアは自国に退き、オーストリアは、ベネチアなど
 領土割譲し(人口の7分の1)、賠償金(国庫収入の6分
 の1)を支払い、ドイツとイタリアの失った。
  この後、ロシアはフランスと和約を結ぶ(大同盟崩壊)。
1805年、ビューフォート(イギリス)が、風力階級を考案
 した。
1805年~1811年、アメリカ合衆国に、狡猾に土地を奪われ
 て行ったアメリカ・インディアンの方々。
  この年のあいだに、ショーニー族の族長は、いくつも
 の部族を周って、土地を奪われた者たちが、誇りを再び
 取戻し、一致団結して戦おうと、説得して回った。
  また、各部族を励まして回った。
  「われわれが今、共通の敵に対して、共通の目的・我
 々の土地を取り戻すために団結しなければ、われわれの
 民族は滅亡する日は近い」・・と。
1806年1月26日、幕府が、来航するロシア船を、穏便に帰す
 すために、
  沿岸に領地を持つ諸大名・旗本に対し、事を荒立てず
 に対処するため、来着のさいの取扱令を出した。
  「文化の撫恤(ぶじゅつ)令」とか、「薪炭給与令」と
 かと称する。
  また、「薪水給与令(しんすいきょうよれい)」とも
 言う。
  撫恤(ぶじゅつ)は、「憐み、慈しむこと」の意。
  しかし、ロシアのレザノフが、1806年と、1807年に、
 日本の北方の拠点を攻撃した事件が起きたため(文化露
 寇)、
  1807年に「ロシア船打払令」が出され、わずか1年で、
 この令は撤回された。
1806年1月30日、関東郡代(かんとうぐんだい)を廃止し、
 馬喰町御用屋敷詰代官役所をおいた。
  関東郡代は徳川家康の関東入封に始まり、関東地方の
 幕府領を支配するものだった(訴訟・民政・年貢徴収)。
  この年に郡代制を廃止し、馬喰町御用屋敷詰代官役所
 を置いたが、1864年に復活している。
1806年1月、山東京伝(さんとうきょうでん、偽作者、浮世
 絵師)作で、歌川豊国(うたがわとよくに、浮世絵師)
 画の、「桜姫全伝曙草紙(さくらひめぜんでんあけぼの
 ぞうし)」が刊行された。
  これは、歌舞伎などで流布していた清玄・桜姫の怪談
 的伝説をもとに、悪と美とグロテスクと怪奇を織りなし、
 中国小説の趣向などもからませた伝奇小説。
1806年2月、幕府が、米価下落対策のため、関八州・陸奥の
 江戸への廻米を禁止した。
1806年3月4日、江戸三大大火の一つ(丙寅の大火)
  江戸芝の車町(くるまちょう)からの出火し、西南の
 強風にあおられ、郭内の大名小路の一部、京橋、日本橋
 のほぼ全域、
  そして、神田・浅草の大半を類焼した、
  翌日昼前、早朝からの大雨でようやく鎮火した大火。
  530余町が焼け、焼失面積は、幅800メートル、長さ8
 キロメートル。死者1200人余が出た。
1806年3月、先の大火で白米が払底したため,幕府は、地方
 からの白米の買い上げを命じた。
1806年3月、幕府が、大火の被災者のために、市中の8か所
 に御救小屋を建て、設置し、炊き出しを行い、食事を給
 し、窮民に施米した。また、仮の宿も給した。
  また、11万人以上の被災者に御救米銭(支援金)を与
 えた。
  救小屋(すくいごや)は、罹災窮民の飢えを補ったり
 するため、たびたび設置された。
  また、別に、炊き出し小屋も作って助けた。
1806年5月25日、松平信明(まつだいらのぶあきら)が老中に
 再任され、首座となった。
  信明は三河吉田藩主、
  松平定信の信厚く、側用人から老中となり、寛政の改
 革に協力した。
  蝦夷地開拓を推進し、蝦夷地直轄、開発策をとった。
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2015年9月1日火曜日

(増補版)196D2/3:気になった事柄を集めた年表(1804年~1804年)

題:(増補版)196D2/3:気になった事柄を集めた年表(1804年~1804年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1804年9月6日、ロシアのレザノフが来航
  ロシアのレザノフが、長崎に来て通商を要求した。
  レザノフたちを長崎に留め置いて、半年ののちに、幕
 府は、これを拒否した(通商要求の拒否)。
  日本の対ロシア政策は、1792年の12年前に、ロシアの
 ラスクマンが来た時には、国の法を説明し、通商を拒否
 した。
  しかし、長崎への入港の許可を示す『信牌』は与えた。
  ロシアはこれで帰った(老中・松平定信の時代)
  この時の幕府の主旨は、江戸に来させず、長崎に行か
 せるという事だった。
  今回のロシアの来航は、「信牌を得た」ので交易開始
 の糸口になるのでは・・という解釈だった。
  この時の、幕府責任者は、松平定信ではなかった。
  この時の幕府の責任者・土井利厚らの幕閣の考えは、
 「通商は断固拒否」であった。
  老中の土井利厚は、「腹の立つような乱暴な対応をす
 れば、ロシアは怒って二度と来ないだろう。
  もしロシアが、これに対して武力を行使しても、日本
 の武士は、いささかも、おくれはとらない」と言った。
  それ故、この時の幕府は、上陸も許さなかった。
  後に、乗組員の病気治療と、船の修理を許した。ただ
 し、上陸は昼のみとした。
  そして、2か月後、一同を仮家に収容した。
  そして、冷たい態度で接し(こうすれば二度と来ない
 だろうと)、
  半年、待たせて後、通商を拒否した。
  レザノフは、ロシアに帰る途中、この時の怒りがあっ
 たのか? 日本人の居た千島や樺太を攻撃したり、略奪
 をしたりという事件を起こした。
1804年9月、町人や百姓の武芸稽古が禁止された。
1804年9月、この頃、豊作が続く
  幕府は、豊作のため、1万石につき1,000俵の備荒貯蓄
 用の囲い米をする様に指示した。
  また、江戸や大坂への廻米の2割減を命じた。
  これは、米価の維持のためだった(豊作貧乏にならな
 いように)困窮する武士を救うという配慮もあった。
  また、酒造の制限をなくし、酒を勝手に造っても構わ
 ないとし、酒造高の増量も指示した。
1804年11月21日、当年が期限だった「倹約令」を、さらに、
 7年間、延長した。
1804年、幕府の刑事判例集「御仕置例類集(おしおきれい
 るいしゅう)」古類集が編纂されている。
  先例を5回に渡って編纂した(1771年~1852年)。
  第1集(1771年~1802年)30冊、
  第2集(1803年~1814年)31冊、
  第3集(1815年~1826年)37冊、
  第4集(1827年~1839年)65冊、
  第5集(1840年~1852年)79冊、
1804年、最上徳内の「度量衡説統」が刊行された。
1804年、谷文晁(たにぶんちょう、画家)の画の「名山図
 譜(のち日本名山図会)」が刊行された。
1804年、高野長英(たかのちょうえい、蘭学者、蘭医、兵
 学者)が生まれた(1804年~1850年)
  才ある人だったが、
  その人生は、大きな波の中にあった。
  奥州水沢(岩手県奥州市)に生まれる。
  水戸藩士の子で、9歳の時に父を亡くした。
  母方の伯父・高野玄斎の養嗣子(ようしし、家督を相
 続する養子)となる。
  玄斎は、杉田玄白の門人である。
  17歳のとき、兄について、江戸に遊学し、蘭方医術を
 学んだ。
  1825年(21歳)で、長崎に行き、シーボルトの鳴滝塾
 に入る。
  平戸藩主・松浦(まつら)侯の援助を受け、「シケイ
 キュッデ」(化学書)20巻の翻訳に着手する。
  また、シーボルトの依頼により、和文蘭訳の業にも従
 った。
  1828年(24歳)の時に、シーボルト事件が起きると、
 長崎を脱出した。
  各地を、広島・尾道・大坂を転々とし、京都で開業し
 た。
  1830年(26歳)で、江戸に戻り、麹町で開業する。
  生理学の研究も進める。
  「西説医原枢要」も脱稿。
  そして、渡辺崋山の依頼の蘭書の訳述も行い、崋山ら
 と交際を深めた。
  1838年(34歳)に、「戊戌(ぼじゅつ)夢物語」を草
 し、幕府の異国船打払い策を批判した。
  この冬、結婚する。
  1839年(35歳)に、蛮社の獄で、崋山が「慎機(しん
 き)論」、および、「西洋事情書」による、幕政批判の
 罪で召還されるや、長英は、姿を隠す。
  しかし、北町奉行所に自首する。
  収監され、獄中から「わすれがたみ」を著し、罪のな
 いことを表明する・・が・・、
  著作などの幕政批判で有罪となり、入牢の判決となる。
  赦免出獄を画策する・・しかし、効はなかった。
  1844年(40歳)に、外部の者と連絡を取り、江戸放火
 を画策し、小伝馬町の牢舎から脱獄した。
  江戸市中に潜む。
  この間、兵学書の翻訳をする。
  長男も生まれる。
  1847年(43歳)に、「知彼一助」を宇和島藩主の伊達
 宗城に献上する。
  また、書を訳出する。
  1848年(44歳)に、宇和島藩主に招かれ宇和島へ行く。
  名を変えて、蘭書を、ここで教授する。
  また、ここで、兵書の翻訳もする。
  そして、この年、宇和島を去り、広島を経由して、江
 戸に、再度、潜入をした。
  また、名を替えて、医業を営んだ。
  しかし、1850年10月に、捕吏(捕り方)に襲われ、こ
 こで自刃した。47歳だった。
1804年、令:出版統制、この年に、幕府の出版統制はさら
 に厳しくなった。
  江戸時代、各種の「太閤記」が発禁処分を受けている。
  それは、開祖の徳川家康についても触れざるを得ず、
 秀吉の下に立ち、諸大名と肩を並べる家康という設定に
 なるからで、
  しかし、庶民は、動物を擬人化したりして発行する。
  この年に、十辺舎一九が「化物太平記」を出版した。
  「太閤記」でなく「太平記」とし、人名ももじって戯
 画化した。
  しかし、この「化物太平記」も出版後、絶版の憂き目
 に遭い、作者の十辺舎一九は、手鎖50日の刑に処せられ
 た。
1804年、ナポレオン戦争が起きた。
  フランス国民は、度重なる危機にある世情に、強力な
 リーダーシップを持ったナポレオンを推した。
  1804年に、ナポレオンは、国民投票の結果、圧倒的な
 票数を獲得し、皇后のジョセフィーヌとともに戴冠式を
 行った。
  ナポレオンは、皇帝に即位し、ナポレオン1世となった。
  ナポレオンが皇帝になったことで、第一共和制は終わ
 った。そして、新たに第一帝政が始まった(1804年~
 1815年)
  皇帝となったナポレオンは、対外戦争を再開させた。
1804年、メフメット=アリー(ムハンマド・アリー)が、
 エジプト総督となり、エジプトの近代化につとめた(
 1805年説あり)。
  オスマン帝国のエジプト太守で、ムハンマド・アリー
 朝の始祖。
  1801年、ナポレオンのエジプト占領時に、アルバニア
 傭兵隊将校として、オスマン・トルコ帝国よりエジプト
 に派遣された。
  ナポレオン1世のエジプト侵入に抗戦し、ナポレオン軍
 の撤退後のエジプトで、マムルーク勢力を追い落として、
 次第に頭角を現し、この年に、太守となった。
  事実上の独立の獲得。
  近代国家エジプトの基礎を築き、その国力を背景とし
 て、中部アラビア、スーダン、シリア方面などの領土拡
 張政策をとった。
1804年、ワッハーブ王国(ワッハーブ派イスラム教徒)が、
 メディナを占領(1805年説あり)。
  1765年に、ムハンマド・ブン・サウードが没したとき、
 アラビア半島の中部および東部の大部分はサウード家の
 支配になっており、サウード王国またはワッハーブ王国
 と呼ばれた。
  19世紀の初め、ワッハーブ王国は、イラクのシーア派
 のカルバラーを襲って、メッカとメディナを占領した。
1804年、リチャード・トレビシック(イギリス)が、乗車
 可能な蒸気機関車を発明した。
  世界初の機関車で鉄道車両を牽引した。
  これによって鉄道が急速に発展した。
1804年、アメリカ合衆国、13州成立以後・・
  初めは、北米大陸の東岸沿岸の13州に成立したが、そ
 れ以後も、領土的に野心を持つ国家だった。
  独立戦争の結果、ミシシッピ川より東の広大な領土を
 得た・・が・・、
  そして、そこに住んでいた人々、本当の領土の持ち主
 であるアメリカ・インディアンの方々を、ミシシッピ川
 の西へ行ってくれと追い出した・・が・・、
  インディアンの方々の居ない領土をつくり、そして、
 奪った・・が・・、
  しかし、まだまだ、領土的野心は止まらなかった。
  インディアンの方々を追い出したその先のところを、
  追い出した先の地の領土までもが・・欲しくなったの
 だった。
  そして、さらに、インディアンの方々を、更にさらに、
 西へ行ってくれと追い出した。
  そしてまた、そこを俺の土地だとして居た外国勢力・
 イギリスやフランスやメキシコと戦争をして、武力で、
 領土を奪って行った。
  そして、この年、1804年、この極限に達した。
  この年に、ジェファーソン大統領は、北米大陸の「極
 西部地方・ファー・ウエスト」の地の領土的野心を表明
 した。
  政府役人に開拓を目的とする調査の任務を命じた。
  ロッキー山脈を越え、太平洋に至る所までの領土的野
 心を表明したのだった。
  これまで、白人が来た事のない所まで得ようと命令を
 出したのだった。
  そして、欲の塊のアメリカ合衆国は、この太平洋をさ
 らに西へ領土を得たい、領土を奪いたいと行動をし続け
 て行く。
  「フィリッピンが騙されて領土を奪われる」などのア
 メリカの悪行為が、歴史に書き込まれている。
  この悪行為の侵略について、アメリカは謝罪を表明し
 ていない。
19世紀初め、アメリカ合衆国の政府は、この世紀に入ると、
 新たにアメリカに来た入植者(占領者)たちに、
 西部の奥に追いやったインディアンの方々の地へ入植す
 る事を奨励した。
  アメリカ合衆国政府は、西部の奥深く分け入り、そこ
 に住み着くことを奨励した。
  そして、1840年~1860年に至ると、アメリカの地は、
 ヨーロッパからの人間で溢れかえった。
  アメリカ合衆国に到着するヨーロッパからの人達は、
 400万人を超えた。
  これは、カリフォルニアやコロラドに、1848年に、金
 が発見され、この金が欲しいという事も関係していた。
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2015年8月30日日曜日

(増補版)195D2/3:気になった事柄を集めた年表(1802年~1804年)

題:(増補版)195D2/3:気になった事柄を集めた年表(1802年~1804年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1802年、農学者の大蔵永常(おおくらながつね)が、「農
 家益(のうかえき)」前編を刊行した(1768年~没年不
 明)
  「農家益」は、農学書で、
  「はぜ」の栽培や「製ろう」の技術など、特用作物(
 とくようさくもつ、食用以外の特別の用途にあてるため
 栽培・加工する農作物のことで、
  綿・桑・茶・麻・タバコ・藍など)の栽培と、その加
 工法が詳しく述べられている。
  因みに、「はぜ」は、ウルシ科ウルシ属の落葉小高木
 で、
  果実を蒸して、圧搾して、採取される高融点の脂肪(
 木臘)は、和蝋燭、坐薬や軟膏の基剤、ポマード、石鹸、
 クレヨンなどの原料として利用される。
1802年、「絵本太閣記」(岡田玉山挿絵)7編が完結した。
 (1804年絶版)。
  岡田玉山(おかだぎょくざん)は、画家で下絵を得意
 とした。
  絵本太閤記は読本(よみほん、伝奇小説)で、伝奇的
 な、現実には起こりそうにない生涯を描いている。
1802年、令:出版統制、
  この年に完結したばかりの「絵本太閤記」は、この令
 が出された1ヶ月後に、幕府から絶版を命じられた。
  「絵本太閤記」の挿絵を担当した岡田玉山は、手鎖の
 刑を受け、版元の勝尾屋は銭十貫文の過料に処せられた。
1803年閏1月、幕府が、長崎で落札した輸入品を、大坂の
 ほか、京都・堺へ販売することを、京都・堺・長崎・大
 坂・江戸の5か所の商人に許した。
1803年2月5日、幕府が、勘定方役人・山田大吉に、東梅道
 筋分間絵図面の作成を命じた。
1803年2月、本草学者・小野蘭山(おのらんざん)が、「
 本草綱目啓蒙(ほんぞうこうもくけいもう、日本の本草
 学の集大成と言われる)」の刊行を開始した(1806年完
 結)。
  小野蘭山は、京都の人で、独学で学識を深めた人。
  幕命により、江戸の医学館で講義するかたわら、諸国
 で薬草を採取したりした。
  また、日本各地を歩いて、植物のほか動物、鉱物を採
 集した。
  幕命で、医学館で講じたのは、71歳で幕府の医官にな
 ってからだった。
1803年2月、伊能忠敬が、幕命によって、東海・北陸・佐渡
 の沿岸の測量に出発した。
1803年5月、「はしか」が大流行した。
  この時代の流行は、規模が大きかった。
  前年に、朝鮮半島に流行し、日本の対馬を経由して、
 長門に上陸し、西日本に拡大し、大流行となった。
  「はしか」は、一生に1度かかる「命定め」の伝染病と
 して恐れられていた。
  死亡率が高かった。
  流行のたびに多くの命が失われた。
  この年の流行は、歴史に残る大流行だった。
  幕府が、窮民を救済することを町会所に命じた。
  庶民は、「御役三病」と言って、天然痘・ハシカ・水
 痘の3つの病を無事に終えることが最大の願いだった。
  因みに、日本のハシカの最初の流行は、998年の、平
 安時代の歴史物語の「栄華物語」に出て来る。
1803年5月、江戸~大坂を運行する菱垣廻船が衰退したた
 め、十組(とくみ)問屋が組外商人の 取り締まりを願い
 出た。
1803年6月11日、心学者の中沢道二(なかざわどうに)が
 没した(79歳)
  織物師でもあった。
  松平定信が作った佃島人足寄場の教諭方にも就任した。
  言葉:「堪忍の 成る堪忍は 誰もする 
           成らぬ堪忍 するが堪忍」
1803年7月、アメリカ船が、長崎に来て、通商を求めた。
  黒船来航と大騒ぎするころ(1853年)の約半世紀前で
 あるが、
  アメリカは、まだ新興国家だった。
  ロシアやイギリスに比べ、遅れて東アジアに進出して
 来た。
  アメリカが、東アジアに進出する大きなきっかけは、
 日本近海のマッコウクジラの発見だった。
  その当時の、マッコウクジラの脳油は、石鹸やロウソ
 ク、そして、灯油、そして、
  機械の潤滑油として使われる極めて貴重なものだった
 (油だけを使用して、その99%は捨てた。この様な、可
 哀想な捕獲・殺戮の利用率だった。
  オーストラリアのキリスト教に支援された日本の今の
 クジラ捕獲への虐め行為は、お門違いである。
  日本の利用率は100%で、日本は長い歴史があり、伝統
 の文化の中にあるクジラ捕獲である)。
  西洋各国は、この様な可哀想な利用率使い方で、大西
 洋のクジラを乱獲し、
  大西洋のクジラが居なくなったため、太平洋に出て来
 ていた。
  その捕鯨船団の寄港地として、日本の港を必要として
 いた。
  1848年に、カルフォルニアに金鉱が発見されて、
  アメリカの本当の所有者のアメリカ・インディアンの
 方々が、また、不埒な扱いを受ける45年前のことであっ
 た。
1803年10月17日、杉田玄白とともに「解休新書」を訳出し
 た蘭方医の前野良沢(まえのりょうたく)(1723年~
 1803年)が没した(81歳)
1803年、山谷に、料理茶屋・八百善が開店した。
  江戸第一の料理として評判となった。
1803年、瀬戸焼:加藤民吉の父子が瀬戸焼を始めた。
  肥前有田から染め付け磁器の製法を伝えたのに始まる。
1803年、アメリカが、ルイジアナをフランスから購入した。
  購入したと言ったって、そのフランスも、本当の所有
 者であるアメリカ・インディアンの方々から無断で奪っ
 たものである。盗品購入である。
1804年、日本の総人口: 25,622,000人
1804年1月1日、寛政暦を完成させた天文学者の高橋至時(た
 かはしよしとき)が没し(41歳)、4月3日に、子供の景保
 (かげやす)が天文方となった。
1804年3月、鍬形恵斎(くわがたけいさい)の画の「近世職
 人尽絵詞(きんせいしょくにんづくしえことば)」上巻
 ができた。(翌年の3月15日に中巻が完成した)。
  肉筆画の傑作と言われている。
  江戸の町の日常風景を、独特の洒脱さと軽妙な筆づか
 いで活写している。
1804年5月17日、幕府が、一枚絵・絵草子刊行に関する取り
 締まりを強化した。
  喜多川歌麿(きたがわうたまろ、浮世絵師、狂歌師)
 が、「絵本太閤記」の挿絵で処罰されている。
  歌麿は、美人大首絵(おおくびえ、美人や役者の上半
 身を大きく描写した絵)を発表して注目を集めていた。
1804年7月3日、4代目・鶴屋南北(つるやなんぼく、狂言役
 者、1755年~1829年)の「天竺徳兵衛韓噺(てんじくと
 くべえいこくばなし)」が、河原崎座で初演された。
  この話は、天竺(インド)へ渡った船頭の見聞の手記
 を題材とする天竺徳兵衛物の一つ。
  徳兵衛を、日本国転覆をねらう謀叛人としている。
  また、3代目までは江戸歌舞伎の道外方(どうけかた)
 であったが、4代目から歌舞伎役者となった。
1804年7月23日、植崎九八郎上書(うえざきくはちろうじょ
 うしょ)
  幕府が、いたずらに国政を論じたとして幕府小普請組
 の旗本・植崎九八郎政由(まさより)を処罰した。
  1787年の松平定信の老中就任に際し、前代の田沼政治
 をきびしく批判した。
  そして、幕政の刷新を訴えた。
  10項目余の内容からなり、人材登用、銭相場の引上げ、
 百姓離村の防止(農業人口減少の防止)、年貢負担の軽
 減、綱紀の粛正、物価の引き下げ、消費の抑制、風儀取
 り締まりなど多岐に渡っている。
  そして、1801年に、将軍・家斉に改革政治批判をまと
 めた書を上呈した。
  この頃は、上書ブームでもあった。
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