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2019年12月26日木曜日

(増補版)672E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年5月)

題:(増補版)672E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
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1897年5月10日、日本郵船の艀船水夫六百名が同盟罷工した。
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1897年5月11日、島村駐ハワイ公使が、日本人移民の受け入
 れ拒否問題を抗議した。
  日本人移民の上陸を拒否しながら・・1897年6月16日、
 アメリカはハワイ併合の新条約に調印し、ハワイを併合
 した・・日本はこれにも抗議をした。
  1897年にアメリカ大統領に就任した共和党のウィリア
 ム・マッキンレーは、ハワイ併合を推進し・・
  1897年6月に併合の新条約に調印した。
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1897年5月13日、北越鉄道の春日新田駅~鉢崎駅(現:米山
 駅)間が開通した。
  北越鉄道は、新潟県内で鉄道を建設し営業した鉄道事
 業者・・
  北越鉄道は、現在の信越本線で・・
  1886年に、日本海岸の直江津から内陸の長野に向けて
   路線を伸ばしはじめたものの・・
   直江津以北の官設による建設は見通しが立たないと
   判明・・
   そのため、地元新潟県有志は、渋沢栄一に東京の資
   本家を呼び込むことを依頼した・・そして・・
  1895年、渋沢を発起人代表として、北越鉄道株式会社
   (本社:新潟市)を設立した。
  1897年、直江津側の春日新田駅~鉢崎駅を皮切りに、
   順次延伸し開業して行った。
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1897年5月17日、名古屋に、御園座(みそのざ)が開場した。
  1895年、御園座の初代社長、長谷川太兵衛(たひょう
   え)は「東西に負けない一流の劇場を名古屋につく
   りたい」と、劇場設立に乗り出した。
  1896年、名古屋劇場株式会社が創立され、劇場名は御
   園座と定められた。
  1897年、劇場本館が完成した。
   左右に大きなドームがあるルネッサンス式洋風建築
   で、場内には大きなシャンデリアがつるされていた。
   当時の名古屋の芝居小屋で、ひときわモダンで新し
   い劇場の出現だった。
   客席はすべて桟敷で、玄関左には芝居茶屋五軒が並
   び、上等の客は芝居茶屋で食事をとる仕組みになっ
   ていた。
  1897年5月、開場し、柿葺落(こけらおとし)興行(
   1896年6月19日)は、初世市川左團次の一座・・
   当時「團・菊・左」(九世市川團十郎、五世尾上菊
   五郎、初世市川左團次)と称された人気役者の一座
   だった・・大盛況・・
   劇場内はつま先立ちで・・入場できなかった人は帰
   りかねて劇場の前にたむろしていた。
   続く6月の公演も左團次一座が勤めた。
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1897年5月27日、東京鉱山監督署長が、足尾銅山に対して
 鉱毒除防工事命令を出した。
  足尾銅山の鉱毒予防工事命令は、1897年5月27日付で、
 古河市兵衛に伝達された。
  その工事内容は、第1回(1896年12月)、第2回(1897
 年5月13日)の予防工事命令とは、比較にならない規模の
 ものだった。
  東京鉱山監督署長によるこの命令書は、37項から成り、
 その主とするところは、「亜砒酸及煙媒を凝結降沈せし
 め、且、硫酸製造又其他脱硫の方法を以て亜砒酸瓦斯を
 除却」する脱硫塔、「沈澱池濾過池」、「泥渣堆積所」、
 「畑道及大烟突」等々の建設であった。
  そして、これらの建設を、期限をきって義務づけ、37
 項に、「此命令書の事項に違背するときは直に鉱業を停
 止すべし」としていた。
  明らかに、この命令書は、藩閥政府の意図に沿った鉱
 業継続を前提にしたものであった。
  とくに、この37項は、政府部内と農商務省内部の鉱業
 停止派、そして、被害農民への申しわけと、さらに、世
 論の鎮静化を狙いとしていた。
  この命令書がはらむ欺瞞と空洞性は、この予防工事の
 完成後、その命令責任者であった東京鉱山監督署長が、
 足尾鉱業所長に就任したことに、みごとに象徴されてい
 た。
  その内容について、類例のないこの予防工事は果して
 実効を収め得るものだろうか・・と、古河側すら危ぶむ
 ありさまだった。
  とくに、脱琉塔は、いかなる装置によるべきかは全く
 成案を欠き、確信のもてない古河の設計、そのまま承認・
 施工させるという、馴れあい工事だった。
  はじめ、古河側が危惧したようにその効果は薄く、脱
 硫装置に至っては全く機能せず、煙害は一層激化した。
  そのため製錬所の上流にある松木村民は、1901年1月に
 「煙害救助請願書」を政府に提出することになるが、結
 局、解決されずに、この年の暮に廃村となった。
  そして、古河は、最初の危惧をも忘れ去り、予防工事
 後は「足尾銅山に在る、脱硫塔は世界稀有の、殆ど、絶
 一の事業」と自慢し、以後は、完全に開き直ってしまっ
 た。
  この工事に要した費用は、賃金47万円、材料費42万円、
 食料雑費15万円、総計104万円で、その一部の資金は、
 第一銀行の渋沢栄一の融資でまかなった。
  この鉱毒予防工事命令の発動を、被害農民たちは、ど
 のように受けとったか・・
  多くの被害農民たちが、みずからの闘いの成果として
 受けとめた。
  被害農民の一人、永島与八は、「我々の願うところは
 防禦ではなく停止にあるとしながらも、
 長年の間、田中代議士が東奔西走身を挺して運動を続け、
 議会において幾度か血涙を揮って政府に質問を為したこ
 とが刺激となり、一方、「我々被害民が生命がけで運動
 したことが動機となって、ともかくこれだけの命令を下
 した)」としていることに、それが伺えた。
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1897年5月、井上哲次郎らが、大日本協会を設立して、雑誌
 「日本主義」を創刊した。
  政府の欧化政策に対する反動として起こった国家主義
 思想で・・日本古来の伝統的精神を重視しようとした。
  欧化主義・民主主義・社会主義に反対しながら、日本
 古来の伝統や国粋を擁護しようとした思想、運動・・
  思想的には一定の体系を成しておらず、その内容は、
 論者によって相違するが、政治的には欧米協調主義への
 反対と国権・対外強硬策の強調を主張した。
  井上哲次郎のぼか、三宅雪嶺や高山樗牛らによって提
 唱された。
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1897年5月、緒方正規が、ペスト菌がネズミのノミによって
 媒介していることを発見した。
  緒方正規(おがたまさのり、1853年12月5日~1919年
 7月30日(65歳没)
  肥後国八代郡河俣村小字鶴(現・熊本県八代市)
  衛生学者、細菌学者
  東京帝国大学医科大学学長、東京帝大教授。
  日本における衛生学、細菌学の基礎を確立した。
  長男の緒方規雄は細菌学者、次男の緒方益雄は衛生学
 者。
  1880年、東京帝大医学部を卒業。
  1881年、ドイツのマックス・フォン・ペッテンコーフ
   ァーのもとへ留学、
   ミュンヘン大学で衛生学を学んだ。
  1882年、ベルリン大学で、ロベルト・コッホの弟子で
   あるフリードリヒ・レフラーに細菌学を学ぶ。
  1884年、帰国。
  1885年、東大医学部の衛生学教室と内務省衛生試験所
   に着任し、衛生試験所に細菌室を創設。
  1885年、北里柴三郎にドイツ留学を勧めて、レフラー
   宛に紹介状を書く。
  1885年、脚気病原菌説を発表。
   ドイツ留学中の北里は、この学説を批判した。
   現在、北里の批判が正しかったことが分かっている。
   この事件によって、北里は、東大の医学部と対立し
   続けることになる。
   赤痢やペスト菌の研究でも二人は対立しあう。
   研究面で何かと対決することが多かったが、私生活
   では晩年まで交流が続く。
  1886年、帝国大学医科大学の衛生学初代教授となる。
  1896年、台湾でペストが流行した時、現地調査を行い、
   ペスト菌に対する北里の研究(1894年)の誤りを指
   摘した。
   北里が単体分離したと思っていた病原菌には、実は
   ペスト菌を含む2種類の菌が含まれており、この誤り
   を北里は認め、自説を撤回した。
   また、ペストは、ネズミのノミを媒介として流行す
   ることを証明し、ドイツの専門誌に発表した。
  1898年、医科大学学長を勤める。
   東京学士会院会員、第5回日本医学会総会会頭などを
   歴任。
  1919年、食道癌になり、静養していたが、気管支・肺
   に転移し、肺壊疽も併発し、1919年7月30日、死去。
  因みに、日本のペスト流行の初めは、1899年に、流行
 地の中国から侵入したのが初のペスト。
  この翌年、東京市は、予防のため一匹あたり5銭でネズ
 ミを買い上げた。
  ペストが、日本に侵入してから大小の流行が起こった。
  しかし、死亡が2420人に抑えられ、日本がペストの根
 絶に成功したのは、ペスト菌の発見者である北里柴三郎
 や、日本政府のペスト防御対策(特に、ペスト保菌ネズ
 ミの撲滅対策)にある。
  1926年以降、今日まで、ペスト患者は出ていない。
   北里は、研究者としてのみでなく、医療行政家とし
   ても極めて優秀だった。  
  1899年、北里の建議によって開港検疫法にペストが病
   原体として追加された。
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  (今日の言葉)
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  題:韓国の謝罪がないのなら、韓国と妥協をするな!
    今回、韓国から謝罪もないのに、日本は妥協をした・・
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1879年、琉球処分。
  琉球の島民66人が台湾に漂着した時、その54人が殺さ
 れるという事件が起きた。
  この解決に際して、中国・清は、台湾の民を「化外の
 民(けがいのたみ、中国の国家統治の及ばない者たち)」
 と日本へ回答した。
  この琉球処分の時も、中国・清は、琉球島民を日本国
 民と認めた。
  日本は、そこで、1879年(明治12年)琉球を日本領土
 とし、沖縄県を設置した。
  NHKの高校講座では、この様な事はまったく放送し
 ない・・中国の事ばかりを放送するという偏った講座と
 なっている。
  中国に偏するNHKとなっていて、高校生を洗脳して
 いる。
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1882年7月23日:壬午(じんご)事変
  興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の首府漢城(現:
 ソウル)で反乱が起こった。
  閔氏政権が進める開化政策に不満をつのらせ・・
  また、朝鮮政府が日本人教官を採用して訓練した新式
 の軍隊を優先することへの不満から朝鮮の『旧軍隊』の
 起こした反乱だった。
  閔氏政権の要人が殺され、また、日本人も殺され、日
 本公使館も焼き打ちにあった。
  大院君は、再び政権を握り、閔氏政権のした改革を元
 に戻してしまった。
  この時、中国・清は軍隊を出した。
  日本も出したが、清は介入して事変を鎮圧し、そして、
 この事態に乗じて朝鮮政権にあった大院君を自国・中国
 へ連れ去り清の保定に幽閉した・・大介入だった。
  これによって清の指導権が一段と強化された。
  中国・清は、内政干渉以上の介入を強烈に行なった。
  日本は、この様な事態を憂慮し看過できなかった。
  日本より優れた軍事力を持つ中国・清国・・この時、
 緊急的な日本の軍事力整備の必要性が痛感された。
  この年・1882年8月15日、山県有朋は「財政の議」を
 太政官に建議した。
  日本の望ましい軍備は、日本と直接関係ある列国(中国・
 清を指している)との比較からいった場合、軍艦48隻、さ
 らに運輸船若干であり、そして、これを東西の二鎮守府
 に分けて配備する必要があるとした。
.
1883年8月と1885年4月、清仏戦争
  中国・清国が、フランスに対して武力に訴えてまでし
 て安南(ベトナム)との宗属関係(冊封体制)を守ろうと
 した。
  当時、この清国のこの行為が、日本にとって衝撃的だ
 った。
  日本のマスコミもこれに大きく関心を示し・・この詳
 細が、当時、日本で報道され続けた。
  日本は、軍拡する清国が、この様な行動をとることに
 より「切実な問題」として捉えていた。
  この当時、一触即発の状況下にあった。
  1885年4月、イギリスは、この様な一触即発の事態に備
 える目的で、「巨文島を占領する」という挙に出た。
  巨文島(こむんとう)は、半島の南、朝鮮海峡上の要
 衝を占め、全羅南道と済州島を結ぶ水路の中間にある島
 で・・
  英露両国の対立が、当時、イギリスの保護領化されて
 いたアフガニスタン地域をめぐって顕在化していた。
  ロシアも、朝鮮半島北部の日本海側に位置する元山(ウ
 ォンサン、ポート・レザノフ)を奪い取ろうとしていた。
  この様な危機が、日本の周りに、現実的に目に見えて
 いた。
  また、英露は、これに伴ってこの地域に有利な制海権
 を築こうとしていた。
  (状況)領土的野心を持つ欧米列強諸国の中のフラン
     スは、1840年頃より、ベトナム(阮朝)に対し
     て、その行動が始まっていた。
      1858年~1862年のコーチシナ戦争で、フラン
     スはベトナム(阮朝)が南部に設置していたい
     くつかの行政区を武力併合した。
      そして、それらを統合して仏領コーチシナを
     形成し、東南アジアの進出の拠点とした。
      侵略し、領土を奪おうとする欧米列強諸国だ
     った。
.
1884年12月、甲申政変(こうしんせいへん)が起きた。
  これはクーデターで、朝鮮・韓国の開化党らが、中国・
 清の影響下にある閔氏打倒のために起こした。
  この後、朝鮮国王のアドバイザーとして、中国・清は、
 袁世凱を駐剳(ちゅうさつ)朝鮮総理交渉通商事宜として
 派遣した。
  この様にして伝統的な宗属関係(冊封)を越えて、権
 力的な関係に再編強化した。
  この様に中国・清も直接的に加わって、朝鮮の周りに
 不穏な情勢が渦巻いていた。
  中国・清は、朝鮮・韓国へ駐剳朝鮮総理交渉通商事宜
 を送って、朝鮮・韓国の中国人商人たちの商業活動がう
 まくいくようにし、関税を壟断(ろうだん、利益や権利
 を独り占めに独占する)した。
.
1885年4月15日、イギリス東洋艦隊が、朝鮮の巨文(くもん)
 島を占拠した。
  イギリスが、巨文島を占領した時、イギリスは、中国・
 清の許可をとった上で実行した。
  この事は、当時の日本に「大きな衝撃を与えた」。
  朝鮮、韓国の独立性は、「第三国もその独立性を認め、
 認め合うことが大事で必要」と日本は見ていた。
  当時の様な、中国・清の冊封体制によっての韓国・朝
 鮮の属国化による占有化は異常事態と見ていた。
  その様な立脚点が、巨文島占領におけるイギリスの中
 国・清への許可を求めたことによって否定された。
  この様な事態の推移から、ロシアの「朝鮮・韓国の港
 湾などの占領」の可能性も高まったからだった。
  イギリスは、自らの帝国主義的行為の実施に、中国・
 清の冊封の従来の宗属関係を利用したのだった。
  また、中国の従来の宗属関係は、ロシアの朝鮮占領の
 可能性を作り出す恐れを作っていた。
  朝鮮・韓国に、この様な事態が起きることを山県や西
 周は憂慮していた。
  そして、英露の対決の事態、懸念、危険性が生じて来
 た・・英露の対決が深まって行く。
  朝鮮における、中国・清の宗主権の主張は、イギリス
 やロシアに朝鮮侵入の契機を与えることになった。
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1910年8月29日、日韓併合
  日韓併合の時点、韓国・朝鮮には公立学校は、たった
 100校しかなかった。
  日韓併合後、日本は、日本並みに韓国・朝鮮にしたい
 と誠実に、一生懸命に学校を作った・・その結果、1930
 年、の段階で、公立学校1500校も日本は創った。
  そして、1942年には、4271校の公立学校を作り・・
  しかも、鉄筋コンクリートの立派な学校を日本は作っ
 た。
  そして、立派なレンガ造もある。
  その点、日本は?と言えば、1950年になっても、日本
 の小学校は木造で、そんなに良い校舎ではなかった。
  日本は、誠実に、台湾と共に朝鮮・韓国も、日本の地・
 内地と同じような学校、または、それ以上の学校をを建
 てた。
  日本の内地と同じ(差別などない)統治をした。
  この事を韓国は感謝の意思を表明すべきである。
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1937年8月13日、第二次上海事変
  表面上は、日本と中国の戦争のようではあるが・・背
 後からアメリカの大きな介入があった・・最近の資料開
 示で、そのことが明らかになった・・
  これが、第二次世界大戦の遠因となっている・・
  「日本が、中国で戦争を拡大させた」という批判は、
 安易な、また、物事をよく見ていない言い方である。
  一例を言えば、中国の上海という場所は、イギリス人
 などのヨーロッパ人や日本人が居た(租界と言った)。
  その租界に、各国は、その居留民を守るため、兵士を
 駐留させて居た。
  日本も、日本兵を駐留させて居た。
  戦争のための駐留ではない・・故に、僅かな兵力だっ
 た。
  しかし、この日本をターゲット(攻撃目標)に、中国
 は攻撃を仕掛けて来た。
  日本も鎮圧したが、深追いせずにいた。
  国際連盟から賞賛されたくらいだった。
  しかし、アメリカに支援された中国・国民党軍は、巨
 大な兵力で、また、攻めて来た。
  この攻撃する戦力のさらに外にも、アメリカに支援さ
 れた「巨大な戦力」を持った軍で、日本を二重に包囲す
 ることがなされるという状況で・・、
  戦争が、収まるという状況ではなかった。
  中国・国民党軍(蒋介石)を、アメリカなどが支援す
 る「何本もの援蒋ルート」の存在が、すべての問題の根
 幹で・・これが、戦争を止めさせないシステムだった。
  アメリカは、日本を徹底的に叩(たた)きたいのでこ
 の様な事をやった。
  中途半端におさめたくないアメリカだった。
.
1937年8月13日、第二次上海事変・・日本租界に、中国軍が
 攻めて来たが・・
  NHKは日本を貶(おとし)めようと、内容は、日本が
 攻撃するというまったく逆の番組を作って放送する放送
 局だった・・
  NHKは「日中戦争は日本が始めた」と、まったく史
 実に反する番組を作って放送した。
  そのNHKの放送行為を批判して書いた本が「日中戦
 争、戦争を望んだ中国、望まなかった日本」(2008年、P
 HP研究所)だ。
  この本は、中国人歴史学者の林思雲氏も加わっている。
  NHKのプロパガンダの間違い番組が槍玉に挙げられ
 て、こてんこてんに批判がされている。
  NHKは、何しろ「何でも日本がやったとした」。
  中国は、まったく関係ないという番組だった。
  日本が好きに何でも日本の意向ですべて決まって行っ
 たとした。
  中国人歴史学者の林思雲氏は、こんな木偶の坊(でく
 のぼう)の様な中国人ではないと批判し指摘する。
  日本にされるがままの中国ではないという。
  中国を擁護するNHKは、逆に、「中国を無能な人形
 の様に扱っている」・・その様なところに気がつかない
 NHK。
  だから無能な中国に、「悪漢の日本」がしたい放題に
 できたという「低劣・劣悪な番組の筋となる」。
  NHKは、日本さえ貶めれば良いと思っていた。
  ただそれだけだった。
  真実を探ろうという本筋は消えている。
  林思雲氏は書く・・
  「中国人から見ると、この様に片方だけに戦争責任を
 求める論法には傲慢さが含まれている。
  即ち、日本を日中戦争の主導者と見なし、日本が戦争
 を拡大しようと思えば拡大でき、拡大させまいと思えば
 拡大させぬことが出来たのであり、戦争の方向は日本の
 意思でコントロールできたと言うものであるが、自発的
 に進んで戦おうとした中国人の意思が軽視されている。
  この様な見方は、当時の実情に符合しない。
  実際には、当時の日本は、決して戦争の方向をコント
 ロールしていなかった。
  中国側において自発的に日本と戦おうとする意思が高
 まっている状況では、たとえ日本が戦争を拡大したくな
 くても、中国側は日本と全面戦争を開始したであろう」
 と書く・・
  林思雲氏は、日中戦争は、日本の意思で起こったもの
 ではなく、中国人が日本との全面戦争を決意し、自発的
 に戦う意思を持っていたことで起こった・・と説明して
 いる。
  NHKは、日本を貶(おとし)めたい一心でこの様な
 まったく逆のプロパガンダの筋の番組を作ったが、史実
 を捻じ曲げてまでこの様な行為をする「とんでもない放
 送局となっている」。
  大量の資金と武器を、中国は、アメリカから支援され・・
 ドイツからは、軍事的な指導者を招き入れ、トーチカの
 防御陣地群を作ってまでして、まったく寝耳の日本租界
 を襲って来た・・この第二次上海事変から日中戦争の泥
 沼戦争が始まった。
  アメリカに支援されているから延々と戦いは続いた。
  第二次世界大戦の遠因になって行った・・
     ・
     ・
1947年、戦後の日本に、新しい憲法が発布した。
  戦争の後、日本を占領したアメリカは、戦争前からの
 日本の政府を「存続したままにした」。
  また、憲法も変えずに「そのままにした」。
  戦後も、大日本帝国憲法の国が存続していた。
  その体制がしっかりしていたので、アメリカはそのま
 まにする方が有利りだとした。
  アメリカは、この日本政府へ指示を出して色々なこと
 をさせた。
  日本国民は、この様にして、アメリカの支配を受けて
 いた。
  戦争が終わった後の1945年、1946年、1947年に渡って
 大日本帝国の日本が存続し、その日本に、海外に居た元
 日本兵や一般人の400万人〜500万人の人たちが一斉に帰
 国した。
  それまでは、乏しいながらも流通していた食糧の流通
 がこの時に至って途絶えた。
  それまでは、食糧はある程度は回っていて、食糧はあ
 った。
  流通も動いていて、犯罪もほとんどない社会だった。
  しかし、交通網は麻痺する社会となった。
  流通は途絶えた。
  食糧難が起きた。
  そして、アメリカ進駐軍の性的犯罪が氾濫した。
  1946年が最悪だった。
  その翌年もまだ大変だった。
  1948年に、少しずつ回復の兆(きざ)しが見え、日本国
 民は耐えた。
  この様にして復興した日本に『韓国は金をせびる』。
  まったく関係のない事柄に、言いがかりを付けて来る・・
     ・
     ・
1989年9月、日米構造協議が始まった。
  そして、この協議開始と時を同じにするように、何故
 か?『日本のプラス成長』も止まった。
  1989年9月、第1回の日米構造協議が開催された・・悪
 夢の始まりだった。
  これは、日米両国の次官級の経済協議であるが・・
  1989年7月の日米首脳会談において、ブッシュ大統領と
 宇野宗佑首相によって合意され、そして、始められた。
  この頃、日本経済が好調で・・
  1985年9月に、プラザ合意がなされて・・
  これ以降、日本は努力し、「円高・ドル安の為替調整」
 の方向へ動かし・・
  また、日本は、内需拡大の努力も行った・・
  しかし、アメリカ側の努力が足りずに、アメリカの対
 日貿易赤字が縮小しなかった。
  そのため、アメリカは、日米構造協議という名目で、
 この事態を改善したいと日本へ言って来た・・
  年間500億ドルのアメリカの対日貿易赤字は減らないの
 だった。
  1989年の日米首脳会談で、ブッシュ大統領は、このこ
 とを言った「日米間の貿易不均衡に端を発した日米貿易
 摩擦で、この解消を目指した協議」をしたいと、そして・・
  1989年9月、第1回協議は・・開催された。
  そして、それ以後・・2か月に1回、会議は開催された・・
  1990年6月に至って「最終報告」がまとめられた。
  この報告は・・
  日本は、1991年から10年間で公共投資を430兆円へ拡大
 せよ・・
  また、大規模小売店舗法の規制緩和を行なえ・・
  系列取り引きの排除・・などを行なえ・・となった・・
  1991年5月に至って、第1回の追補年次報告書が作成さ
 れ、アメリカは「日本市場は開かれてない」と言った・・
 日本は「閉鎖的だ」と言い、「商法などの改正も行なえ」
 と要求した・・そして・・
  1991年以降も、フォローアップ(事後点検)会合が開
 かれた・・
  1992年7月、第2回の追補年次報告書が作成され、最終
 報告に盛込まれた措置の進展状況に関する再評価が行わ
 れた。
  これに加え、第2回年次報告書には、1992年1月の日米
 首脳会談での日米構造協議の再活性化に関する合意をふ
 まえた両国のビジネス環境に対処するための新たな取決
 めが含まれた・・そして・・
  1993年1月にビル・クリントン政権になって、G・H・W・
 ブッシュ政権時代の日米構造協議のかわりに「日米包括
 経済協議」としたいと言って来た・・
  より厳しい要求を日本へ掲げて来た・・
  これは、「構造問題と個別の産業交渉」を組み合わせ
 て日本を変ようという要求で・・アメリカに良好な状況
 を作ろうというものだった・・そして・・
  1993年夏以降、その日米包括経済協議は始まった。
  1995年に、自動車が・・そして・・
  1996年に、フィルムが・・、
   世界貿易機関(WTO)への提訴という動きも起り、
   摩擦が起こりながら、難航した。
   その後・・日米間の経済協議は・・、
  1997年から、日米規制緩和対話となり・・
  2001年、「成長のための日米経済パートナーシップ」
   となり・・、
  2002年から、「規制改革イニシアティブ」・・などと
   なり・・話は続いている・・
  建前は、「お互いに構造問題を指摘し合う」というも
 のだったが・・アメリカの要求ばかりが強すぎる会議と
 なっている・・
  表題:日米両国の対外収支の不均衡是正に向けてマク
 ロ経済の政策協調努力を補完するものとして、日米双方
 が相手国の構造問題を指摘し合い、みずからが必要と考
 える構造改革に取組むことを目的とする協議・・と美し
 いが・・
  1990年7月の最終報告で・・「日本側措置として、公共
   投資の拡充、大店法および独禁法の改正策」などと
   なり・・
   「米側措置として、財政赤字削減、競争力の強化」
   などが最終報告書に盛込まれ、発表された。
  (このアメリカの財政赤字削減は達成されていない)
  この協議は、まったく不公平な協議であった。
  完全に日本に対して、見下す的な、要求の多い協議だ
 った。
  日本は、アメリカの強硬な要求に応ずるしかなかった。
  アメリカは、基礎的な経済学の原則すら完全に無視し、
 屁理屈理論を一方的に強弁した。
  言い掛かりばかりの発言で、協議の体のなさない協議
 だった。
  「日米間の貿易赤字が存在する理由の大部分は、日本
 のアン・フェア・トレード(不公正な通商政策)にある・・
 とされた。
  これを直ちに是正しないと、日本企業に厳しい制裁を
 加える・・とされた・・
  制裁が嫌なら、アメリカの財とサービスを日本が強制
 的に購入せよ」・・とされ・・この様な一方的な要求と
 恫喝が行なわれた・・
  経済学のロジックを完全に無視するアメリカだった。
  「日米構造協議」は命令だった・・
  または、命令に近い指導(強要だった)・・?
  アメリカの冷酷で利己的な金融業者の発言権があり・・
  また、投票権が与えられ・・
  彼らに、日本企業の経営や人事まで介入させるという
 状況で・・
  この様な状況ならば、日本の雇用関係と人間関係は破
 壊されて行く・・という結果となった・・
.
2004年7月、NHKのチーフプロデューサーの磯野克己が、
  制作費を着服した。
  (1996年~2001年で約4888万円)
  その後の報道で、1億円以上という多額となった。
.
2007年、『性奴隷などというものは存在しなかった』とい
 う調査結果が出ていた・・
  2007年に、すでに、「性奴隷」は存在しなかったとい
 う調査結果を受け取っているにもかかわらず、それを無
 視して、在米中国人団体が慰安婦像を立て始めた。
  アメリカの中国人団体の「この像を建てる目的」は、
 『日米韓を離反させる』ためだった。
  慰安婦のオモニ(おばさん)と自称する人が叫んでい
 た「2度と再び日本を立ち上がれなくする」・・そのた
 めの情報戦略の一環だった。
  これは、「伊藤博文を殺害した安重根記念館を作る」
 と韓国に持ちかけた工作と・・絡んでいた。
  はっきりと「20万人強制連行」という行為が、報告書
 によって、慰安婦像をつくる前から『否定されていて』・・
  一方、諸外国に『韓国は、ただの売春婦と、外国要人
 を殺害したテロリストの銅像を建てる国』という印象を
 与えてしまう事を恐れた(事実がその通りなのだが・・)
  韓国の信用を毀損してしまうという事が起きている・・
  騒いで世界の注目を集めて、一方、その事実を世界が
 知ると・・その韓国の嘘・韓国のデッチアゲが分かって
 しまい、信用失墜となる心配があった。
  日本は、『根拠の無い主張』がなされている像によっ
 て、「在米住民同士が対立するという懸念がある」と表
 明した・・像を建立するアメリカの各自治体へ建立中止
 行動をすべき・・
.
2017年07月15日、日本を裏切り続けるNHK
  貴方のNHK受信料が、日本を貶(おとし)めるために
 使われています。
  日本を貶めるために作られている「外国で発行される
 冊子」に使われています。
  NHKは、「その様な団体へ金を渡し、支援していま
 す」。
  外国で発行している「日本を貶(おとし)めるフリー
 ペーパー」に、NHKは、貴方のNHK受信料の金を出
 して支援している・・スポンサーになっている。
  日本を裏切る行為をしているNHKとなっている。
  日本を貶める番組を外国へ送る行為もしているNHK
 だ。
  海外に居る日本人が、その様なNHKの提供した番組
 を見て、びっくりして連絡をして来た。
  こんなNHKの受信料を支払うのは「止めましょう」。
  (資料)
  日本を貶めるフリーペーパーのスポンサーに『NHK
 も名を連ねる』 
  欧州の『反日』フリーペーパーはこんなにヒドい…
  2017年07月15日 03:00
  前衆議院議員 杉田水脈 月刊正論8月号
  4月と5月に大統領選挙の取材で出かけたフランスで、
 私のツイッターを見たパリ在住の女性から相談が寄せら
 れた。
  早速お会いして話を伺うことになりました。
  彼女は30代。
  現地でフランス人と結婚し、仕事をしています。
  住み始めて15年になるそうです。
  社会保障の話なども詳しく伺ったのですが、私が最も
 びっくりしたのは彼女が持ってきてくれた一冊のフリー
 ペーパーでした。
 この「ZOOM JAPON」という名のフリーペーパ
 ーは、2010年6月創刊。
  フランス語圏において、日本の文化的情報を総合的に
 発信する唯一の無料月刊誌とのことです。
  現在、フランス国内約850ヶ所に配布拠点があり、
 フランスを中心に毎月7万部、多い時には15万部も発行
 されています。
  英語、イタリア語、スペイン語にも翻訳され、ヨーロ
 ッパ中で配布され、JAPAN EXPOや国際旅行博
 覧会の会場をはじめ、多種多様な日本関連イベント会場
 でも積極的に配布をされています。
.
2017年、理化学研究所の改革の必要性・・
  国の最高の研究機関と言われる理化学研究所の研究発
 表会へ行った。
  そこで得たパンフレットのデーターを見て驚いた。
  今回、初めて見た理研のデーター(一部)だったが・・
  (理研のパンフレットでその様なデーターを見るは初
 めて・・)
  それまで、理研のイメージは、国の最高研究機関で「
 すごいのではないか」と思っていた・・が・・
  しかし、その先入観は打ち砕かれた・・
  それまで思っていたイメージのものとは「真逆だった」。
  そのパンフレットに書かれていたその数値は、イメー
 ジしていた数値とあまりにもかけ離れた「低水準さだっ
 た」。
  理研の予算は約1000億円である・・しかし、その研究
 成果である特許料収入は3億円である・・少なすぎる・・
 0.3%の特許料収入である・・驚くべき低水準のパーセン
 テージである・・一桁・二桁違う・・自分の研究費ぐら
 い自分で稼げ!
  これでは、一緒に共同研究をしている企業は儲かって
 いないで困っているなと思えた・・理研との共同研究は、
 逆に、「お荷物だ」くらいに思われているのではないか
 と思えた。
  また、特許の出願件数が、国内出願・海外出願を合わ
 せて年間400件である・・これも非常に少ない・・研究員
 数は3014名、その他職員を含めて3531名である・・
  つまり、研究職の約10名が、「たった1件の特許を、1
 年間かけて出願している」という数字である・・
  ほとんどの研究職員が、肝心かなめの「特許出願をし
 ない研究員」ということになる。
  『10人中9名が特許も出さない研究員』・・
  「国を富ます知的財産権・工業所有権を得る大切さを
 理解しているのか?」・・と言いたい・・
  『ほとんどの研究員が遊んでいるのではないか?』
  また、『特許のひらめかない欠陥研究員ではないか』
  1年間あれば、1名が4~5件の特許の出願くらいは普通
 は出来るはずである・・
  10名居れば「40件~50件の特許が出願できる」はずで
 ある・・この低率さに非常に驚く・・
  今は、多項制の特許出願ができるので、その特許出願
 の価値はこの数倍となる・・
  (この多項制の特許にも気付かねばならない・・ひら
 めかなければならない)
  そして、『研究論文数も少ない』・・
  年平均2510論文である・・
  研究員数が3500名以上であるので・・
  これは、1年間、研究を行なって来た研究員が、その研
 究成果の論文を、『まったく何も出さない』という者も
 多く居るという数字となる・・
  研究成果をまとめて論文にすることもしない・・特許
 も出さない・・という姿が見えて来る・・
  ただただ、研究費の消費だけとなる。
  『まったく呆れる』状況に見える・・
  最低、論文は、1年間に1件は出さなければ、自分の研
 究成果をまとめる事をしなければ、資格剥奪ぐらいにす
 べきである・・
  『何もまとめるべき研究成果が無い』という事となる。
  論文が出せないというのであるのならば『失格である』。
  1000億円の予算を消費する理化学研究所・・それへの
 研究投資は、改革すべきところが多々ある課題である。
.
2018年、中国には、農村に戸籍を持つ者(農民工)がいる。
  2018年には、2億8836万人と中国国家統計局が発表して
 いる・・全人口の約2割・・
  平均月収が、3721元(約6万2000円)
  1980年以降に生まれた新世代農民工は、農民工全体の
 約51.5%を占めた。
  しかし、農民工の平均年齢が40.2歳と高齢化が進んで
 いる。
  都市と農村という二元的な管理構造を持つ中国で・・
 格差が生じている・・
  1980年代の半ばまで、都市労働者について一律いわゆ
 る「固定工」システムがとられ、学校を卒業すれば、国
 から職が行政的に分配された・・
  そして、基本的に定年まで、その職場で勤務が出来た。
  都市労働者の就業は、基本的に国によって保障されて
 いた。
  これが出来るのは、農村からの人口移動を戸籍制度に
 よって厳しく制限し、都市を閉じられた空間に出来たか
 らだった。
  中国の発展のカラクリは、農民工という差別した人々
 を存在させていることだった・・
  安い労働力の供給源となっている。
  その安い労働力を使いたいと、外国企業が中国進出し
 た・・これが「世界の工場となった中国のカラクリ」・・
  中国へ進出した外国企業などの資本・金は、中国の外
 へ持ち出せないとされた。
  だから、いくら中国で儲けても、その中国で儲けた金
 が、中国外へ持ち出せないようにされていた。
  結局、中国へ進出した企業は、名前だけは進出した企
 業名ではあるが、中国の中だけでの再投資しかできない
 ので、『中国の発展に尽くすだけの企業』となり、さも、
 中国企業と同じような立場となる・・
  中国発展だけに尽くすだけの企業となる。
  中国進出の企業は、必ず、中国企業との合弁の形をと
 らされる。
  これは、進出企業の「総べてのノウハウを奪う」とい
 う目的だった。
  それまでに培(つちか)ったその企業のすべての美味
 しい技術などのノウハウが盗られてしまった。
  中国の発展を、さらに補強するため、中国は、あらゆ
 る手段を使って「外国の知的財産を盗む」。
  その為には、国際法も無視し、ネットを通じて盗んだ
 り、中国人学者を学生として外国の大学や研究所へ送り
 込んだりしている(産業スパイ)
  大学や最先端研究所へ、日本の最高の研究機関である
 理化学研究所にも大勢来ている。
  外国への拠点づくり、中国は、自国の土地は外国人は
 所有できないが、外国は、その逆で、「中国人は、外国
 の土地を買って、所有する」・・そのことを許している。
  そこで、中国は、国家として(表は、個人として)外
 国の土地を世界中で買っている。
  そこで、中国へ進出した企業にした逆のことをする。
  それは、その外国で、『中国企業だけの商サイクル』
 をつくり、利益を中国本国へ送っている。
  中国が進出した国(日本など)の利益は無く、その国
 に経済的に貢献していない。
  今まで華僑として個人がしていたことを、中国という
 国家が、『国家規模でやり出した』。
  そして、国家がやるから規模も壮大だし、必ず、利益
 は、『すべてが中国へ還元される』。
  「世界のトップの頭脳」を中国の国家が、目の飛び出
 る金で招聘する。
  また、優秀な学生を、目の飛び出る様な給料で募集す
 る。
  これは、今までアメリカがやっていたこと。
  今までのアメリカの発展を、中国は、これで奪おうと
 考えている。
  民間の力でやるのではなく、人民元がいくらでも刷れ
 る中国という国家が、これをやる。
  人民元を「固定相場制もどき」にしたところに問題の
 根本がある。
  中国は、この為替の利点を享受して来た。
  アン・フェアな形で世界に入って来た。
  それを中国に許してしまった。
  中国を、公正なシステムの中へ戻せ。
  この国の事だから為替操作をするだろうが、形は公正
 にしなければならない。
  ここで「ある情報」・・
  中国側の厳しい規制にもかかわらず、香港やベトナム、
 ラオス、ロシア国境など、中国と陸続きの税関において、
 毎日のように何回も入出国を繰り返す運輸業者、旅行業
 者、行商人、国境を越えて通勤する一般人などの中には、
 多額の現金を数回に分けて合法的に中国国外へ持ち出し・
 持ち込みを請け負っている例もあるという。
.
2019年12月8日、中国びいきのNHK・・
  デジタル人民元のNHKの解説は、完全に中国の側に
 立った解説だった。
  中国を『正当だ』とし、中国がやっている方向は『未
 来的だ』と美化ばかりするNHKとなっていた。
  この様なNHK・・「NHKが良い放送局か」の調査
 をした結果、5ポイント低下して5割を割ったという報告
 がある。
  イギリスのジョンソン首相が、公共放送のBBCの「
 受信料を廃止する」と示唆した。
  日本の公共放送と言われるNHKも「受信料を廃止に
 すべきだ!」。
  2019年12月12日、ジョンソン首相は、世論調査でも不
 満が多数を占めていると認識していた。
  そして、この日に投開票されるイギリス総選挙を前に、
 ジョンソン首相は、受信料を撤廃することについて「必
 ず検討する」と発言した。
  イギリスでも、日本のように「若者のテレビ離れ」が
 起きているという・・その若者の批判が強いという・・
  NHKは、とり過ぎの受信料が余剰することによって
 「金があるから拡大する」というおかしな拡大が、不合
 理な拡大が続いて来た。
  余剰のNHKの受信料は、優良民放番組の支援へその
 余剰資金を与えるべきである。
  (民放には、NHKをはるかに超える優良番組が数多
 くある・・それを「より育てよ!」)
  この民放の有料番組へ、NHKの余剰金で応援せよ!
  NHKは、甘い体制の中で拡大だけを続けている・・
  大改革をしなければならない課題が多いNHKである・・
  イギリスは、公共放送の受信を「拒否できる権利」を
 検討している・・
  選択権を個人に持たせようとしている・・
  NHKは、公共放送は名ばかりで・・
  日本を貶めたり、キリスト教に偏した放送をしたり、
 中国が喜ぶ番組にしたり・・と・・
  どぶに捨てたいような放送局となっている・・
.
2019年、日本の技術立国の構築は『国是』である・・
   しかし、この事を裏切る日本の研究者ばかり・・
  日本の『技術立国は国是』である。
  これは知的財産権を確立することで成立する。
  日本の財産である知的財産権の特許などを構築して行
 くことが大切・・
  だからこそ、日本政府は、研究開発費を助成している。
  しかし、この行為を行なわない日本の研究者ばかりな
 のである。
  本来のやるべきことをしていない日本の研究者。
  技術研究会・技術発表会を聞きに行って、どこでも思
 う事は「技術立国の日本にしよう」と思っていない研究
 者たちの姿をそこに見る。
  結論を先に言えば・・知的財産権の特許などに関わり
 たくない・・「知的財産権の構築は大変だから」と逃げ
 ている・・研究時間が無くなる・・特許を出すのは大変
 だ・・など・・
  「知的財産権の一つである特許」なんてものは出さな
 いという研究者ばかりの姿を見るということになる。
  「質問をすると」言い訳ばかり言って逃げる研究者ば
 かりである。
  『研究開発者』という言葉があるが、この様な「研究
 開発者」にお目にかかる技術発表会に「ぶち当たること
 はない」。
  すべてが「研究者」である・・肝心の「開発」はやら
 ない。
  開発行為から逃げているから、開発が抜け落ちた研究
 者ばかりである。
  自分の研究行為から得た新規な知見から「さらにアイ
 デアを閃(ひらめ)かせて特許を得ようという段階を上が
 る者が皆無の研究発表会ばかりである」。
  これでは、我々・納税者の税金を食べているだけであ
 る。
  いつまで経っても税金を納税し続けるだけで、「いつ
 まで経っても日本の技術立国の実現が達成できる訳がな
 い」。
  この点の改善をしないと研究開発費を投入しても、そ
 の効果は上がらない。
  「特許が出せない研究者」は居る・・アイデアを閃(
 ひらめ)かせられない研究者は居る・・しかし、これは
 不適格者である。
  アイデアを豊かに「閃かせさせることができる開発者」
 も居る。
  しかし、アイデアを豊かに閃かせられる研究開発者な
 のに、面倒だからと、特許を出さないで「逃げている研
 究開発者も居る」。
  今・現在の日本の研究所や技術センターと称する所は
 この様な研究者ばかりである。
  研究開発費を配分する評価システムが悪いのだ・・
  その様に指導する組織が、日本には組織されていない・・
 日本には皆無である。
  研究さえしていればOKという組織ばかりである。
  「肝心の技術立国への成果」を求めない組織ばかりで
 ある。
  日本の最高の研究所である理化学研究所をはじめ○○
 (名を伏す)や△△(名を伏す)などまったく甘い。
  理化学研究所に至っては、10人の研究者が1年に1つの
 特許を出願だけである。
  10人の研究者たちが、1年間に、よってたかってアイデ
 アを絞ったら1つしか、「アイデアが閃(ひらめ)なかった」
 という体たらくである(こんなんで技術立国が構築でき
 るわけがない)
  『肝心のアイデアを閃かせる業務=辛(つら)い業務』
 から逃げているからである。
  貴重な研究開発費を貰っている研究所は、日本では、
 こんな研究所ばかりである。
  「特許をもっと出せ」と言う憎まれ役が、各研究所に
 居ないのである・・
  各研究所に「この様なことを言う憎まれ役や部署を作
 れ!」。
  肝心な特許庁にも作ることである。
  現状は、皆んなが「仲良しグループになっている」。
  甘い研究体制で満足しているのである・・
  この点を「アメリカに学べ!!」。
  「知財権獲得の苦労話」がまったく出ない研究発表会・
 技術発表会ばかりである。
  質問すれば、「知りません・・業者に任せています」
 と、肝心の特許出願の行為を「他人事の様に言う研究者」
 の返事が来たこともあった・・
  いつまで経っても日本の技術立国は達成できない。
  中国に抜かれっ放しとなっている。
  この様な心の持ちようなら、魂胆なら、次の目標の「
 世界特許を目指そう」というより高い、向上心のある状
 況・気にもならないだろう。
.
2019年、アメリカで、日本を貶(おとし)める慰安婦像を
 建てているのは「中国人団体」であって、韓国系団体で
 はない。
  在米の中国人団体の影響・・
  「世界抗日戦争史実維護連合会」を参照のこと。
  古森義久氏によると、慰安婦の碑に関わった在米韓国
 人の団体は、慰安婦に関することを活動目標としていな
 い。
  この在米韓国人の団体は、規模が非常に小さく、設立
 して間もない団体でしかないという。
  米国における慰安婦像の建立の中心的動き・・
  従軍慰安婦碑の建立を、広範に、また且つ、積極的に、
 組織的に推進しているのは、在米韓国人の団体ではなく、
 「中国政府系」の在米中国人団体である・・
  その名は・・『世界抗日戦争史実維護連合会』である。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E3%81%AE%E7%A2%91#.E5.9C.A8.E7.B1.B3.E4.B8.AD.E5.9B.BD.E4.BA.BA.E5.9B.A3.E4.BD.93.E3.81.AE.E5.BD.B1.E9.9F.BF
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

2019年12月22日日曜日

(増補版)671E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年5月)

題:(増補版)671E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年5月~1897年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年5月1日、京都帝国博物館(後の京都国立博物館)が
 開館した。
  当館は、主に、平安時代から江戸時代にかけての京都
 の文化を中心とした文化財を、収集・保管・展示すると
 ともに、文化財に関する研究、普及活動を行っている。
  1888年、宮内省に臨時全国宝物取調局(局長:九鬼隆
   一)が設置され・・
   日本各地の社寺等の文化財(当時の用語では「宝物」)
   の調査が行われた。
   その結果、京都・奈良には特に文化財が集中してお
   り、それらを収蔵保管する施設の整備が「急務」と
   された。
  こうして、当時の日本政府は、京都と奈良に国立の博
 物館を設置することにした。
  1890年、帝国京都博物館の建設地を東山七条の現在地
   に定めた。
   この土地は、方広寺(大仏)旧境内にあたる。
   東半が民有地、西半は七条御料地(旧恭明宮)で・・
   恭明宮は、明治初年の神仏分離後、それまで御所の
   御黒戸に安置されていた仏像や歴代天皇の位牌を安
   置していた施設。
  1891年、本館は、当初3階建てで計画された・・が・・
   この年に発生した濃尾地震で、レンガ造2階建ての建
   物が多く倒壊した。
   ことを踏まえて、平屋建てに変更された。
  1892年6月、博物館・本館は、片山東熊の設計になる煉
   瓦造平屋建てのフレンチ・ルネサンス様式で・・
   そして、この時、建築工事が着工された。1
   設計者の片山は、赤坂離宮のほか、奈良国立博物館
   本館や東京国立博物館表慶館の設計も行なっている。
  1895年10月、竣工。
  1897年5月、諸準備が整って、博物館が開館した。
.
1897年5月1日、総武鉄道の佐倉駅~成東駅間が開通した。
  1894年7月、市川駅~佐倉駅間が総武鉄道会社によって
   まず、開通した。
  1904年4月、両国駅~銚子駅間が全通した。
.
1897年5月4日、道府県に地方視学が設置された。
  視学(しがく)とは、旧制度の国家および地方教育の
 行政官で・・
  市視学・郡視学・府県視学がある。
  学事の視察、および、教育指導監督を行なった。
  地方の視学は、教員人事の実権を持っていた。
  1872年の学制によって始まり、後に、文部省、道府県、
   郡、市に置かれた。
   戦時中に教学官と改称され・・
  1948年、指導主事に移行した。
.
1897年5月4日、中越鉄道の黒田仮停車場~福野駅間が開通
 した(17.2km)
  中越鉄道は、富山県で最初に開業した私設鉄道。
  富山県西部の砺波(となみ)地方から産出される米な
 どの農産物を、伏木港へ輸送することを目的として地元
 の地主などを中心に設立された。
  当初、経営不振に陥ったが、明治末頃からの経済情勢
 の好転と、伏木港の改修による増強などを追い風として
 輸送量が増加し、経営も順調となった。
.
1897年5月9日、カナダで、日本人・中国人排斥法案が可決
 した。
  鉄道工事に両国人の労働者を使うことが禁じられた。
  1858年、ゴールド・ラッシュを伴って、サンフランシ
   スコや中国本土から金鉱を目指して移民が押し寄せ
   た・・この移民の波の後、カナダへの移住の波が続
   いた。
  1881年~1885年、10000人の中国人が、カナダ太平洋鉄
   道を築くために契約がなされた。
  1882年、アメリカが、カナディアン・パシフィック鉄
   道の中国人労働者に関する特別法を可決したため、
   アメリカに居た多くの中国人達はバンクーバーへや
   ってきた。
  1885年、人頭税が課されて、その流入を止める動き・
   カナダ入国が制限され始めたが、中国人の入国は衰
   えなかった。
  1886年、また、一方、鉄道がバンクーバーまで通じる
   と、森を切り開いて、街を造成するため多くの労働
   力が必要とされた。
   州政府は、自ら開拓することを条件に、中国人に10
   年間無償で現メイン・ストリートの160エーカーの土
   地を貸与した。
   これが、バンクーバーのチャイナタウンの発展する 
   きっかけになった。
  1890年代、チャイナタウンは拡大して行く・・
   白人の雇用を奪うものとみなされて来た・・激しい
   差別が始まった。
   バンクーバーのチャイナタウンは、トロントの次に
   カナダでは2番目に大きい規模へ・・
   この頃の中国人は、中国の習慣・風習をそのまま持
   ち込んでいた・・
   男性は辮髪、女性は纏足(てんそく)、広東語を話
   し、広東食を食べ、冠婚葬祭・宗教儀礼もすべて中
   国の風習・習慣のままだった。
  1897年、中国人の商人が、次第に新しい事業に投資し、
   チャイナタウンは大きく発展して行く・・
   バンクーバーの町づくりに大きく貢献していた・・
   しかし、すべての労働市場へは進出が出来なかった。
   主流社会からも外された・・差別がより広く見られ
   た。
   中国人には、投票権が許されていなかった・・しか
   し、差別に抵抗し、法廷闘争もした。
  1907年、バンクーバー暴動へ
   この年の始めに、アメリカ合衆国での転航禁止令に
   よって、日本人移民が、渡航先をアメリカからカナ
   ダに変更した・・そのため、カナダ入国移民が急増
   した・・これが背景となった。
   また、カリフォルニア州での、排日運動に刺激され
   た。
   1907年8月、「アジア人排斥同盟」が結成された。
   1907年9月7日、バンクーバー暴動が起きる・・
   排日活動家と中国人排斥活動家、政治家、白人労働
   組合は、「ホワイト・カナダ」をスローガンとして、
   仕事を奪われたとストライキなども組織し、集会が
   市公会堂で開かれた。
   東洋人移民の全面停止を訴えた・・
   人種差別的な演説会となった・・
   夕刻に開催されたこの集会に、数千人が詰めかけ、
   公会堂に入りきらず、建物前の道路で、州総督を模
   した人形に火をつけて燃やした。
   これは、総督みずからが所有する炭坑に、中国人や
   日本人労働者を多数雇用していたことに加え・・
   この総督は、この年の東洋人移民の制限する法律に
   拒否権を発動した・・このことへの反発だった。
   公会堂の中では、イギリス帝国を築いたのは「アン
   グロ・サクソンの血属だ」、東洋人の移民停止は「
   必要だ」と言う演説が次々行なわれていた。
   そして、公会堂の外の群衆が、9000人に膨れ上がっ
   て、チャイナタウンへ向かってデモ行進(押し寄せ
   る)し、差別的スローガンを叫び、投石し、暴徒と
   化して行き・・
   資産を壊し、中国人街に隣接する日本人街へも押し
   寄せ、投石し、店から略奪もした。
   夜半まで3回ないし4回・・行われた。
   日本人街は抵抗をした・・これを、新聞が「排日暴
   動」と報道し、全カナダが注目した。
   また、新聞は、暴動を誘発した要因としてアメリカ
   の排日運動の影響だと報じた・・
   暴動は、アメリカ人が扇動した排日運動によって引
   き起こされたと一貫して報じた。
   イギリス政府は、それまでのアメリカの排日運動に
   批判的だったが、これで面目を失った。
   「カナダの政府および国民を非難することなく、同
   時に、同盟国である日本を傷つけることなく、自己
   の立場を擁護するために」選んだ責任転嫁だったこ
   とを認めた。
   カナダ政府は、日本へ特使を派遣した。
   日本政府は、毅然と遺憾の意を表明し、賠償を求め
   た・・
   また、それに、早急な対応をしたカナダ政府は、損
   害賠償として、日本人被害者に9000ドル、中国人被
   害者に26000ドルが支払われた。
   中国人の大多数は社会の下層にいた。
   職業選択においても差別された・・選択できる仕事
   は、給料の低いサーモン加工工場、家具製造場、農
   場、クリーニング業、飲食業など・・
   法律や医療関係は従事しては駄目とされていた。
  1923年、中国人労働者とその家族のカナダ入国を禁止
   する「中国人排斥法」が制定された。
  1947年、「中国人排斥法」が廃止されるのはこの年・・
   中国から家族を呼び寄せられるようになった。
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  (今日の言葉)
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  題:キリスト教は、ビックバン説ができるとその説に乗っかって・・キリスト教の神・創造主が宇宙・地球を創った時だとしたが・・
    宇宙に始まりがあるという考えに、アインシュタインは否定的だった。
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紀元前180億年、ビッグバンが起きた。
  ビックバン宇宙論によって導き出された一説の宇宙の
 爆発的膨張が始まった。
  観測で遠くの銀河が遠ざかっていることが観測された。
  それから、それを過去に戻ったところが「宇宙の始ま
 りだ」とした。
  ビックバンは、そうであるならその時は高温・高密度
 であっただろうとして出された説(物理学者の間で合意
 されたものではない)・・
  因みに、宇宙に始まりがあったという考えに、アイン
 シュタインは否定的・・
  キリスト教は、これがキリスト教の神・創造主の「宇
 宙創造だ」とこの説に乗っかった。
  しかし、そのキリスト教の神・創造主が創った宇宙・
 地球は、ダーウィンが証明した通り・・進化して来た。
  キリスト教の神・創造主の「創造が不完全であった」
  そのため、その修正がなされ、より適合したものへの
 進化がなされた・・と・・
  そして、今、人間は、今、ゲノムの技術を手に入れた。
  6日間でキリスト教の神・創造主が創ったその後を、
 人間の手によって、「より良いものがそのゲノム技術で
 創られている」。
     ・
     ・
     ・
紀元前35万年、ナウマン象が、日本列島に現れた。
  日本列島の旧石器時代は、日本列島へ人類が移住して
 来た時に始まり、その終りは1万6000年前である。
  最終氷期の時に、大陸と繋がった北海道だけはマンモ
 ス動物群が宗谷陸峡を渡って来ることが出来た。
  ナウマン象は、約35万年前に日本列島に現れ、約1万
 7000年前に絶滅した。
  長野県野尻湖遺跡の約4万年前の地層からナウマン象の
 骨製品がまとまって発見された。
  12万年前の島根県出雲市多岐町砂原にある砂原遺跡は、
 中期旧石器時代の遺跡である。
  岩手県遠野市の金取遺跡(9〜8万年前)から中期旧石
 器が発見されている。
  そして、約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の
 採掘が続けられた栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では
 知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。
  日本の旧石器時代の調査・研究が始まるきっかけを作
 った相沢忠洋氏の岩宿での旧石器が発見され・・それ以
 降、日本列島の全域で4000ヶ所を超える遺跡が確認され
 ている・・そして・・
  これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1.2万年前の
 後期旧石器時代となる。
  日本列島の後期旧石器時代は、3.5万年前に始まり、縄
 文時代へ移行する1.5万年前までの「2万年間続いた」。
  遺跡は、樺太から沖縄まで約1万ヶ所以上が確認された。
  また、青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着
 した炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代
 法で、1万6500年前と出た。
  北海道の何万年も続く旧石器時代・・
  そして、それに続く1万年以上の縄文時代と弥生時代に
 生きた本当の日本の先住民・・
  日本の本当の祖先たちは、この様な長い年月を北海道
 の地にも居た。
  その北海道の生活の痕跡は、本州奥羽地方などより、
 逆に濃いのだと古代史研究家の歴史学者(東大教授)は
 言う。
  わずかな年数・・最近の七百年前に、北海道に来たア
 イヌが日本の先住民であるはずがない。
  日本の政治家は、圧力に屈して「アイヌが先住民」と
 いう法律を作ってしまったが、これは間違い。
  この科学的に間違った法律は改正すべきである。
  また、圧力をかけた者は、「間違いを認めて、謝罪を
 表明すべきである」。
  また、この者たちへ数々の名目で渡した金は「その返
 済を求めるべきである」。
  その返還訴訟もすべきである。
     ・
     ・
紀元前12万年、日本の旧石器時代の始まり・・
  日本に人類が移住して来た時が始まり、旧石器時代は
 無土器時代、先土器時代、先縄文時代ともいう。
  日本列島での人類の足跡は、12年前(島根県出雲市多
 伎町砂原、砂原遺跡)がある。
  因みに、日本人の祖先たちは、舟に乗って海上をかな
 り自由に往来した・・それは、伊豆諸島や神津島産の黒
 曜石が、関東地方の後期旧石器時代の遺跡から発見され
 ている事からも分かる。
  また、特筆できることは、磨製石器の世界最古のもの
 が日本列島で製作されていて、かなり独自の文化が形成
 されていたと言える・・その年代は4万年前~3万年前。
     ・
     ・
紀元前16000年、縄文時代が始まった。
  日本の縄文時代の始期と終期については多くの議論が
 あるが、まず始期に関しては一般的に16000±100年前と
 考えられている。
  終期は概ね約3000年前とされている(諸説ある)
  縄文の人口は26万人、戦争が無い・・長期無変動文化。
  世界最古の縄文土器文明。
  森林と石清水の文明・・砂漠の文明とは違う。
  人々の暮らしの知恵、祭祀のあり方、建物の技術、社
 会構成、埋葬の形式などに一つの型が生じて、文化的同
 一性が形成された。
  海により大陸から切断された古地理的条件は、必ずし
 も人種の同一性を可能にはしないけれども生活文化の共
 通性と連続性を引き起こす可能性は高かった。
  稲作は縄文時代に始まっていた。
  森に覆われた湿潤な風土は体質と深く関係して(砂漠
 の文明とまったく違うものだった)
  日本は稲作が中心、他の地域は放牧と牧畜(牧畜と遊
 牧民)。
  東日本にはブナの森が広がり、他に楢・栗・胡桃(く
 るみ)、落葉広葉樹林に覆われ、縄文後期に杉林が拡大
 した。
  西日本には早くから杉林があり、ブナ・楢が退いて、
 代わりに樫・椎・楠などの常緑広葉樹林となった。
  「栗の栽培」はかなり早くから行われていた。
  また、「カキの養殖」も行なわれていた。
  日本の地と違い、ユーラシア大陸は民族が入り交じり
 戦争の世の中にあった。
     ・  
     ・
紀元前10000年、日本の稲の痕跡がある・・起源とされる
 中国の長江より古い。
  鹿児島県の遺跡では、12000年前の薩摩火山灰の下層か
 らイネのプラント・オパールが検出されており、これは、
 稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年
 代となる。
     ・
     ・
紀元前8000年、稲作の起源
  稲作の起源は2017年現在、考古学的な調査と野生稲の
 約350系統のDNA解析の結果、約1万年前の中国・長江
 流域の湖南省周辺地域と考えられている。
  (かつては、雲南省の遺跡から発掘された4400年前の
 試料や、遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺
 からインドアッサム州周辺にかけての地域が発祥地とさ
 れていた)
     ・
     ・
紀元前6000年、日本へ伝播するジャポニカ米の稲作が始ま
 る。
  長江流域にある草鞋山遺跡のプラント・オパール分析
 によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培
 されており、インディカ米の出現はずっと下るという。
  野生稲集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後に、
 その集団に対して異なる野生系統が複数回交配した結果、
 インディカ米の系統が生じたと考えられている。
.
紀元前6000年~紀元前3000年、中国国内の稲作の伝播
  中国では、紀元前6000年~紀元前3000年までの栽培痕
 跡は、黄河流域を北限とした地域に限られている。
  紀元前3000年以降、山東半島先端部にまで分布した。
.
紀元前6000年、日本列島の稲作の起源となる地域=中国・
 長江流域で稲作が始まる。
  現在の南京や武漢の長江流域の下流域から中流域にか
 けて稲作が始まった。
  今・現在、遺跡や遺物の発掘や研究が進み、その日本
 までの稲作伝搬ルートが解明されつつある。
  その研究成果によると従来の各説のルートがほぼ一本
 のルートに絞られた。
  長江から遼東半島から山東半島の暖流にそって伝搬し、
 紀元前1000年頃、朝鮮半島へ伝搬する。
  そして、紀元前900年〜紀元前800年頃、日本の九州へ
 伝搬して来た。
  また、紀元前6000年頃、雑穀栽培が、中国の長春や瀋
 陽や北京辺りで始まり、
  紀元前3000年頃、朝鮮半島へ伝搬し、
  紀元前900年〜紀元前800年頃、稲作と同じ頃、雑穀栽
 培も日本へ伝搬する。
  今・現代、レプリカ法という方法で、土器についた穀
 物類の痕跡の解明・研究が進んでいる。
  日本列島の穀物の出現が、縄文時代晩期終末の紀元前
 8世紀〜紀元前4世紀に、イネと雑穀(アワ・キビ)がほぼ
 同時に出現したと知ることができた。
  今まで稲作の発生地と思われていた中国・雲南省から
 インド・アッサム州という説は消えた。
  朝鮮への稲作伝搬に時間がかかったのは、この地域に
 獲物が多く、狩が楽なため食糧に困っていなかったと考
 えられている。
  (参考)レプリカ法:最近の古代の研究に貢献したの
     がレプリカ法である。
      これは、土器についた圧痕から穀物の種類な
     ど、当時の食べ物が割り出せる様になった。
      また、プラント・オパールという目では見え
     ないガラス質の粒(土中にある)を分析して、そ
     のプラント・オパールの中に封じ込められてい
     る花粉などを分析する。
      この様な分析から木の実や猪や鹿を主食とし
     ていたことが確かめられた。
      日本の縄文時代早期にはすでに「ヒョウタン
     やアサを栽培していた」。
      また、縄文中期には「ダイズやエゴマを栽培
     していた」。
      また、「シソやゴボウなど、嗜好品を栽培し
     ていた」。
      そのプラント・オパールの分析で縄文時代前
     期に稲作をしたという痕跡があるという(目下、
     研究中)。
      レプリカ法の良いところは、土器の圧痕を調
     べるというところから、混入とかのデータが乱
     れることもなく、また、土器の年代が確かなら
     その存在も確かとできる。
      長野県飯田市の石行遺跡からイネの表面の果
     粒状組織が鮮明な圧痕が確認された。
      この土器は縄文時代晩期終末である。
     縄文時代に稲作がなされていた。
     ・
     ・
紀元前6000年、日本の稲作栽培の証拠が発見された。
  日本では、陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の
 朝寝鼻貝塚から約6000年前のプラント・オパールが見つ
 かった。
  (参考)プラント・オパール:植物は土壌中の珪酸(
     水に溶けたケイ酸塩)を根から吸収し、特定の
     細胞の細胞壁に蓄積しガラス質の細胞体を形成
     する。
      植物珪酸はイネ科、カヤツリグサ科、シダ植
     物、コケ植物において含有量の高いことが知ら
     れ、特に表皮細胞、樹木類の維管細胞と表皮細
     胞など蓄積されやすい箇所がある。
      ガラス質に変化した植物珪酸体は、植物体が
     枯死した後にも腐敗せず残存し土壌に保存され
     る。
      更に、植物体毎の特徴があることから種を特
     定することが可能であり、花粉と共に古植生環
     境を推定する手段として利用される。
      花粉は広域に拡散し局所環境の推定には向か
     ないが、プラント・オパールは飛散しにくく乾
     燥地や酸性土壌など花粉が遺存しにくい環境で
     も遺存するため、局所的な環境と植生の分析が
     可能である。
      特に、イネ科植物はプラント・オパールが残
     りやすく、稲作の起源を探る研究が精力的に行
     われたため多くの知見が蓄積されている。
     ・
     ・
紀元前3500年、日本への稲作伝播の証拠として岡山県の南
 溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器がみつ
 かった。
  縄文稲作の証拠として、有力な考古学的証拠は、縄文
 時代後期(約3500年前)に属する岡山県南溝手遺跡や同
 県津島岡大遺跡の土器胎土内から出たプラント・オパー
 ル。
  砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の
 土層から入り込んだものではなく、原料の土に制作時か
 ら混じっていたと考えられている。
     ・
     ・
紀元前3000年、中国・遼東半島で炭化した稲が見つかった。
  遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているが、
 朝鮮半島では稲作の痕跡は見つかっていない。
     ・
     ・
紀元前2600年、日本の稲作を行なった水田稲作の遺跡が見
 つかった。
  水田稲作に関する約2600年前の菜畑遺跡の水田跡があ
 る。
  水田稲作の伝来経路としては、従来、「朝鮮半島経由
 説」「江南説(直接ルート)」「南方経由説」の3説がある
 が、現在も議論が続いている。
.
紀元前2500年、韓国の水田跡・・
  水田稲作に関して、約2500年前の水田跡が松菊里遺跡
 (韓国の西南部、忠清南道松菊里にある遺跡)でみつか
 る。
.
紀元前2000年、もともとは「黄河の中流域にしか居なかっ
 た少数民族の漢民族」が、今は、世界を制覇する民族に
 までなっている(黄河流域の農耕民)
  それは、武力を磨き、策謀を巡らして来た長い歴史が
 ある。
  漢民族の長い歴史は、他民族攻略の歴史だった。
  中国大陸は、多民族が蠢(うごめ)く地で、中央の政権
 を取った政権は入れ替わり立ち代わりめざましく代わっ
 た。
  「洗国(せんこく)」という相手の国を奪う方法は中国
 では古い昔から行われて来た。
  今、共産政権の中華人民共和国も盛んにこの方法を使
 っている。
  女真族(満州族) の多く居た地域に、日本は「満州国を
 建国する援助をした」。
  しかし、今、その地は洗国されて、満州族の方々は居
 なくなってしまった。
  その地の名称も「中国東北部」と呼ばされている。
  本当は「中国東北侵略部」と呼ぶべき地域なのだ。
  そして、中国は、今、長い国境線を接するロシア(旧:
 ソ連)国境を超える浸透を諮(はか)っている。
  その「中国東北侵略部」からさらに北の地域を領土に
 しようとの行動をいている。
  今、ウイグルの方々が、大量に大勢の方々が拘束され
 洗脳教育をされているのも「洗国」である。
  ウイグルの国を無くそうとしている。
  今、共産中国は、一帯一路という形で世界の覇権を盗
 ろうとしている。
  日本は、この様な共産・中国の動きで滅亡されない様、
 「反工作員」を大量に組織せよ!!
  共産・中国の消滅までの間の臨時行政措置で、即刻実
 施せよ!!
  今、緊急事態にある。
  日本は、この様な形で自由と民主主義を守る世界に貢
 献せよ!!
  中国が、世界に大量に出動させている工作員に日本が
 メインとなって対抗せよ!!
     ・
     ・
紀元前206年、前漢が成立した。
  漢(かん)は、中国の王朝で、通例、前漢(紀元前206
 年~紀元後8年)と後漢(紀元後25年~紀元後220年)の
 二つの王朝がある。
  漢の成立前にあった国=秦・・
  多くの王国に分かれていた中国を、初めて統一した秦
 だった。
  漢の前の秦は、漢民族ではない民族である・・
  現代の新疆ウイグル自治区、チベット、満州、内モン
 ゴル自治区、南東部の地域は、この頃の中国・秦にとっ
 て外国だった。
  秦の始皇帝の実の父は、荘襄王ではなく「呂不韋(ロ
 フィー)」と言われている。
  この名前は、中国人ではなく外国人の名前を中国語で
 表記したと言える。
  秦の始皇帝に不老不死の仙薬を求められて、日本に探
 しに来た「徐福」は数千人の集団とともに、その後、日
 本に永住した。
  秦の滅亡を機に、秦の渡来人は、迫害を避けて最終的
 に朝鮮半島へ移住した。
  そして、日本へ渡来する直前まで朝鮮半島に寄留し、
 韓流文化の影響を受けた。
  「魏志和人伝」において「辰韓人(秦韓人)」と記載
 されている。
  その秦の渡来人が、日本に渡ってきて、「秦氏」と名
 乗った(韓民族ではない)。
  『日本書紀』 巻第10「応神紀」の記載では・・
  「十四年二月春、百済王が衣縫工女(きぬぬいおみな)
 を奉った。・・・・・
  その年、弓月君(=泰氏)が百済から来る。
  奏上し、「私は、私の国の百二十県の人民を率いて来
 ました・・
  しかし、新羅人が邪魔をし、みな加羅国に留まってい
 ます」・・と・・
  それで速やかに新羅に行って、「弓月の民を救出した」
 と記されている。
  この秦氏(はたし)が、大陸から携えてきた文化は、
 極めて高度で・・
  泰氏は、その財力と土木技術を活かして灌漑や大規模
 な土木工事、古墳の造営に着手した・・
  湿地で洪水の多かった山背国(現:京都)の治水事業
 や地域の開発と発展に大きく貢献する。
  嵐山にある渡月橋の葛野大堰(かどのおおい)と呼ば
 れている堰(せき)はこの泰氏が築いている。
  この秦の滅亡によって前漢が出来た。
  林惠祥は著書『中国民族史』で・・
  漢民族は、華夏族を中心として東夷系、荊呉系、百越
 系及び東胡系、匈奴系などの民族を吸収し形成した民族
 と論じている。
  黄河の上・中流を中心に居住していた華夏系は、黄河
 の下流の東夷系、長江の中流の荊呉系、及び、珠江を中
 心とした百越系と融合、及び、統合のプロセスを通して
 漢民族に生まれ変わった・・この時、漢民族が出来た・・。
  漢族は、黄河文明を生み出した華夏族と周辺の多民族
 との混淆で形成された民族である。
  中国には、純粋血統の「漢族」は存在しない。
     ・
     ・
     ・
19世紀後半、まだ不完全な明治の日本だった・・
  実力を備え切れていない日本だった・・
  その様な状況の中に、不平等な条約が存在した。
  また、不正常な国際関係が存在した。
  この様な中で、列強諸国と対峙する為の軍拡について、
 為政者と民権派の活動家を含めた国民のあいだに、「基
 本的な対立はなかった」。
  両者が共に敏感に感じる「早急に解決すべき関心事」
 であった。
  自由民権論者の対外認識は極めて正常だった。
  この時代の中国も、今・現代の様に、中国独特の論理
 「華夷秩序」であった。
  それは、「文明の中心である中国が周辺地域に対して、
 世界の中心である中国の『徳』を及ぼすものであり、そ
 の感化によって求める世界を実現する」だった。
  19世紀後半、この中国の華夷秩序が、「欧米列強の形
 成する秩序」に置き換わって行った。
  しかし、この「欧米列強の秩序」と言ったって理想的
 なものではなかった。
  キリスト教にマインド・コントロールされた有色人種
 蔑視観を持って、何ら遠慮なく「その領土を奪取する行
 為を是認するものだった」。
  東アジア諸国は、その強権によって植民地化されて行
 った。
  また、その中国の基本理念にある「冊封」も、いつの
 時代においても中国が罹患している病気だった。
  中国は、その行為をすることによって「民族的、かつ、
 文化的な優越意識を確保していたい」とした。
  朝鮮は、今・現代と同様に、安易に、この中国の冊封
 体制下に入った。
  日本は、この様な中国を含めた国際情勢をよく見てい
 た。
  中国は、果たして欧米列強の秩序の前に屈するのか?
  イギリスはイギリスで、ロシアの南下が気になってい
 た。
  イギリスは、ロシアへの対抗を第一とする帝国主義的
 行動を取っていた。
  この様な意味から、イギリスが中国の古い秩序感覚=
 冊封体制を認める動きもあり得た。
  その辺がどうなって行くのかが日本の関心事の一つだ
 った。
.
1880年3月24日、日本が「独立の維持」を真剣に考えた時代・・
  約140年前の東京横浜毎日新聞の論説に・・
  「列強諸国が迫って来ている今日、東アジアで、独立
 を保てる国は日本と中国くらいしかないだろう」と論説
 されている。
  それほどの欧米露などの「列強諸国が迫(せま)る危機」
 の中に東アジア諸国があった。
  韓国が、時代が変わった今・現代、立派に独立の形態
 を保っている今・現代、「過去にも同様に、誰にも頼ら
 ずに独立を保てた」かの様な顔をして、日本にあること
 ないことの、言いたいことを言っているが、当時の自国
 の状況をよく知ってから発言して戴きたい。
  韓国・朝鮮は、独立が保てず「日本に頼って来た」と
 いう事実を「韓国はなかったかの様な感じで、今・現代、
 好き勝手を発言している」。
  日本の保護を受けて「時代の波を乗り越えて来られた」
 ことを、韓国は「日本に感謝しなければならない」。
  朝鮮の独立も風前の灯(ともしび)のように・・ロシ
 アの南進の脅威の中にあった。
  そして、この1880年代と言えば、イギリスとフランス
 による「アフリカ再分割」が本格化した時代だった。
  強国の「切り取り自由の野蛮な時代」だった。
  欧米列強の、植民地を獲得して経済的利益を得たいと
 いう野蛮な野獣の様な行動がなされる時代だった。
  そして、遠慮会釈なく植民地の政治にも直接に関わり、
 直接統治をするという卑劣さだった。
  それも「世界的規模で、それをやりだした」。
  その様な状況を見る日本は、危機を最大に感じていた。
  当時の日本の新聞は、今がまさに帝国主義の時代だと
 報じていた。
  そして、欧米露の帝国主義の列強諸国によって、アジ
 ア諸地域が蚕食されつつあるとリアルな認識・現実を報
 じた。
  この様な世界および極東情勢、リアルな認識を持って
 民権派の活動家が活動していた。
  当然、日本の独立の維持についても考え及んでいた。
.
1880年11月30日、冷静な日本の重鎮・山県有朋が、天皇陛
 下へ「隣邦兵備略表」を上奏した。
  (参考)上奏:じょうそう、大臣・議院・官庁等が天
     皇陛下に意見を申し上げること。
  隣邦兵備略表は、隣国・中国の調査書である。
  山県有朋は、参謀本部長の任にあり、国防計画や作戦
 計画などに関わる軍令機関の長だった。
  山県は、1879年〜1880年にかけて、桂太郎らの将校10
 余名を、駐在武官や語学研究生の名目で中国・清へ派遣
 した。
  中国の兵制改革の進展ぶりを探らせた。
  そして、その報告を受け、深刻な状況にあることを知
 った。
  近代的兵制への改革をしている清の実態に最大限注意
 を払うべきだとした。
  その清国の望ましい状況に引き換えて、日本はといえ
 ば、第一線の海岸防御でさえ準備が不十分であることが
 如実であった・・日本は、この時、この後の対応策を
 着々と取って行く・・
  令和となった今・現在、この時と同じ状況となってい
 る、いや、それ以上の最悪の状況となっている。
  しかし、その様な状況を「見て見ぬふりをする」とい
 う実態がある。
  何ら対応策を取ろうとしない現実の中に居る日本とな
 っている。
  日本国民を守ることについて諦(あきら)めているの
 か?
  愛する人々を守ろうという事について諦めの状況にあ
 るのか?
  北朝鮮は、あの貧困な財政状況の中、必死に国防策を
 進めている。
  「攻撃が最大の防御」という策を進めている。
.
1909年、権益を狙って美しく立ち回るアメリカ・・
  「六ヵ国の提議」(1909年)。
  これはアメリカの偽善である。
  1899年、後から来たアメリカが、中国に対する「門戸
 開放」を宣言した。
  しかし、これは、後から来たアメリカに中国の美味し
 いものが残ってないので、「機会均等」や「領土保全」
 という「きれいごと」を提唱して「各国平等で公平に」
 と美しい言葉でアメリカは語ったのだった。
  ヨーロッパ各国は、アメリカが言っていることが正論
 の様に見えたため、従わざるを得なかった。
  ドイツもロシアも表立って反論ができなかった。
  まんまと、アメリカは後から来たけれど、中国の美味
 しいものを手に入れた。
  この「六ヵ国借款」も同じだった・・アメリカの論理
 だった。
  満州に(中国の地ではない、それを国際的に認められて
 いた)、その地に、日本とロシアとイギリスが、共同で
 管理する鉄道があった。
  しかし、後から来たアメリカは、これに難癖(イチャ
 モン)をつけた。
  「これは中国のものだ。中国へ返せ」と・・
  そして、さらにアメリカは言う・・
  「支那は資金難だ」。
  「だから各国が分担金を出し合って借款団を作って、
 支那に金を貸して、名目だけ支那のものにしよう」と・・
  そして・・
  「その鉄道は、日・露・英・米・独・仏の六ヵ国で平
 等のものにしよう・・そして、管理しよう」と・・
  アメリカはきれいごとを言って難癖(イチャモン)を
 付けて「利権に割り込もうとした」。
  こんな論理なら何でも言える。
  例えば、「マンハッタン島はアメリカ・インディアン
 のものである」、だから、各国が分担金を出し合い借款
 団を作り、インディアンに貸し、名目はインディアンの
 ものにしよう」、そして、「そのマンハッタン島を米英
 独仏日露の六ヵ国で平等に管理しよう」と。
  どうですか・・おかしくはないですか?
  アメリカは、こんな猿知恵・悪知恵ばかりを使って、
 こんなことばかりをしていた。
.
1909年9月4日、日清協約・・「満州及び間島に関する日清
 協約」
  (参考)間島:かんとう、豆満江以北の満州にある朝
     鮮民族居住地を指す。
      主に、現在の中華人民共和国(中国)吉林省
     東部の延辺朝鮮族自治州一帯。
      朝鮮王朝実録によれば、太祖・李成桂の時代
     に北部女真族(満州族)を帰順させ鴨緑江と豆
     満江(中国名、図們江)を国界とした。
      李氏朝鮮において、「野人」居住地域である
     満州に関する地理的知識は乏しかった。、
      満洲族の清朝は、白頭山一帯を祖先の地とし
     て封禁地としていた・・そこへ徐々に朝鮮農民
     が入植し、住民の8割を占める様になった。
      清朝は、引き上げさせようとしたがどうしよ
     うもなかった・・そのため領民と認めた。
      日清戦争で清が敗北し、大韓帝国が樹立され
     たが、1899年、韓清通商条約でも国境の確定を
     することができなかった。
      1900年に清に義和団の乱が起きると、朝鮮は、
     この地の管理使を任命して現地に派遣した。
      ますますこじれた国境問題となった。
  この地に勢力拡大していたロシアが、日露戦争で敗け
 ると、この地から手を引いた。
  大韓帝国は、お陰でこの地を支配した・・日本は大韓
 帝国の主張を継承した。
  清国の統治が弱まった・・清の裁判権や課税権も否定
 された。
  清は、反発して一個連隊の軍を間島に移駐させ強硬な
 態度を見せた。
  ここで、日本と清の外交交渉の必要性が高まった。
  そして、1909年9月4日に条約が成立した。
  間島協約
  第一条:図們江(豆満江)を韓国と清朝の国境とする。
  第二条:清国は、間島の竜井村など4地域を外国人の居
   留・経済活動のために開放し、日本が、領事館また
   は分館を設置できる。
  第三条:韓国人が、豆満江以北の開墾地に居住するこ
   とができる。
  第四条:間島の韓国人は、清国の法律に従う。
   ただし、訴訟事件では日本側の領事館員の立会や覆
   審請求権が認められる。
  第五条:清国は、間島の韓国人の土地・家屋の保護の
   義務を負う。
   また、往来の自由を認める。
  第六条:吉長鉄道を延長して韓国鉄道と接続すること
   を認める。
  日本は、上記のように、一生懸命、韓国人の立場を尊
 重させる様に清国と交渉した。
  韓国人が開墾できるようにしたし、居住もでき、韓国
 人の土地・家屋の保護を約束させ、往来の自由も約束さ
 せたりした。
  因みに、ウィキペディアのこの項は、中国の工作員に
 より間違いの記述となっている、日本を貶(おとし)め
 て、まったく間違った記述であるので注意のこと・・
.
2019年、ウイグルの破壊をしている中国の「悪の実態」が
 浮き彫りに・・
  ウイグルで、300万人以上を中国は強制収容している。
  中国は、「再教育センター」だと表向き美しい言い方
 をしているが、この名称の「再教育」という事から思想
 改造をする目的という事を認めているようなもの・・
  捕まえ始めた時、中国は、最初に宗教指導者を捕まえ
 始めた・・
  ウイグルの方々の心の支柱になっているイスラム教の
 聖典・コーランをウイグル語に訳した宗教者や学者たち
 を捕まえた。
  習近平中国国家主席は明言した「宗教より(中国の共
 産)国家が優先する」と・・
  習近平の狙いは、東トルキスタンが独立した時に「国
 の柱になりそうな人たち」から拘束して、排除した。
  この事を話すムカイダイス女史の両親も捕まっている。
  3年間、母親と連絡が取れていないという・・知人か
 ら「お母さんは亡くなったようだ」と言われている・・
  お母さんは、新疆大学の哲学の教授をしていた・・今、
 63歳になる・・
  大学教授のお母さんが、どのようなやり方で中国は
 再教育をしたのか??
  そして、お父さんに関しても、最近、「貴方の父も亡
 くなったのではないか」と言われた・・もうすぐ70歳に
 なる・・石油管理局のエンジニア・・お父さんともここ
 3年間、連絡が取れていない。
  中国の再教育センターという名称であるが、この様に
 連れ去った後の保障がまったくあやふやな、生死の与奪
 がある様な状況の事をしている。
  このムカイダイス女史の例は、1例で、すべてのウイグ
 ル人の中国の拘束がこの様な状況の中にある・・今・現
 代の時代に行われているとは思えない様な前近代的な行
 為がなされている・・ドイツの強制収容所を彷彿とさせ
 られる・・
  最後の連絡だったのが2015年で、「今、大変危ない状
 況にある」と言われた・・「その為、連絡は取らない様
 に」と言われた・・
  また、弟さんも、38歳であるが、やはり拘束されて、
 連絡が取れない状態になっている・・
  大学の法学部を出て裁判官をしていた・・ホータンの
 強制収容所に中国に連れて行かれた・・まったく不明の
 状態になっている・・好き勝手に国民を連れ去る中国の
 状態となっている・・連絡も何もしないという状況・・
 中国にどのような正義があるのかが「全く説明が無い状
 態」となっている・・
  そして、この収容所に強制収容された方々がウイグル
 人の学者や理論家で、ウイグルの正当性を語れる人々だ
 った。
  ウイグル人のウイグル文学研究家のムカイダイス女史
 が話す。
  https://www.youtube.com/watch?v=NMwwXRHxadI
  ウイグルにとって、この大切な人々は「何処がテロな
 のだ」と言いたいほどの『テロと無関係な人たち』。
  中国の目論見は「まずウイグルをリードしている人々
 を捕まえてしまえ」にある。
  明らかに、「リーダー不在」にして「ウイグル社会を
 破壊したい」にある。
  大学教授・インテリ・医者などを狙った。
  台湾でも同じことが行われ、2万人以上が殺された。
  ウイグルは、規模が極大で台湾の比ではない。
  ウイグル会議は「500万人に達する」という恐ろしい
 規模を算出している。
  2019年12月9日、ニューヨーク・タイムズの報道による
 と・・ニューヨーク在住のウイグル人の息子は、ウイグ
 ル在住の母親が強制収容所に入れられてというニュース
 と連絡を受け・・アメリカで「母親を助ける運動を始め
 た」・・
  それを知った中国が、その母親を監獄送りにした・・
  厳しい管理下に置いた・・体が弱く病気を持っている
 彼女は、常時、薬を飲んでいたが、その薬をまったく与
 えられず・・彼女は病気を発症した・・
  彼女はニューヨーク・タイムズの記者と連絡が取れた・・
 記者は、東トルキスタンに入って、そして、その詳細を
 記事として新聞に載せた・・
  この様な状況の彼女が、労働も強いられていたことも
 判明した・・この強制労働で背骨を折るという重大事態
 になる・・歩行困難になる・・
  この様になってやっと家に帰れた・・というより、ど
 こも行けない彼女を放置した・・
  だが、中国は病院の通院を禁止した・・
  この様な彼女であるが、息子へ伝えたいことがあるか
 との質問に、記者を通じて次のような事を息子へ言った・・
  「貴方の行なったことは、民族として、また、人間と
 して、やるべきことをやった・・正義の行動です。
  このままその行動を続けて下さい。誇りに思います」
 と・・
  中国は、事前に、この母親を脅していた「語るのでは
 ない」と・・しかし、母親は語った・・
  そして、記者に「是非とも公(おおやけ)にして下さ
 い、世界に知らせて下さい」と言った・・
  記者は、母親は命の危険を顧みず、この言葉を言った
 ので、記事に出来ました・・と言った。
  同時に取材したウイグル人の方々のイリの町は廃墟と
 なっていた・・ウイグルの方々の生活も日常もまったく
 無い状態だった・・
  イリは、ウイグルの文化が栄えた町だった・・ウイグ
 ルの昔の面影の残る美しい町だった・・日本で言えば「
 京都の町が破壊され、無人の町になったようなもの」・・
 とことん文化まで破壊する中国・・これが中国の再教育
 センターの政策か??
  中国によってずたずたに破壊されたウイグルの世界が
 あった・・
  日本に国賓として習近平が来た時に、この事について
 明確な説明をしてもらうようにしよう・・
  民主国家・日本も、アメリカのように、この事につい
 て中国の説明をはっきりと追求しよう・・
  中国に忠誠を誓っても「死刑とされた」ウイグル人の
 ウイグルの大学の学長がいる・・日本で博士号を取った
 この方は、「心の中は親中ではない」と言われて判決が
 下された・・この様な判決があって良いのか??
  ウイグル文化を担(にな)って来たリーダーが、特に、
 この様な状況で「破壊している中国」・・
  日本の北海道が、沖縄が、また、あなたの国に、中国
 が来て、強制収容所を作られ、この様な事をされたら・・
 「それを思って下さい」・・
  貴方が、是非、声をあげなければ、この中国の動きは
 止められません・・
  一民族の戦いではありません・・
  皆が結束しなければ、止めることはできません・・
.
2019年、人間は、ゲノムを操作できる様になった。
  それも、益々、その技術は進歩し、ゲノム技術によっ
 て好き勝手に操作できる様になって来ている。
  キリスト教の神・創造主が6日間で創ったものが人間の
 手で変えられている。
  キリスト教の神・創造主のやったことが過去の仕事と
 なりつつある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

2019年12月14日土曜日

(増補版)670E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年4月~1897年4月)

題:(増補版)670E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年4月~1897年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年4月27日、高等商業学校付属外国語学校が設立された。
  これは再興だった(現:東京外国語大学)  
  1857年、日本には、外国語学校の起源として江戸幕府
   によって蕃書調所がこの年に設立されていた。
  1869年、英語と仏語の2学科の「開成学校」(現:東京
   大学)が出来る。
  1873年、東京外国語学校が出来る(英、独、仏、ロシ
   ア、中国語の5語学科)・・1887年、他の学校と合
   併して東京商業学校(のちの高等商業学校、現:一
   橋大学)となる・・語学校として姿を消す・・
  1897年、故に、再興となる。
.
1897年4月27日、帝国図書館が開館する。
  東京図書館を帝国図書館と改め、整備を行う。
  1872年設立の書籍館(図書館の古称)を起源として、
 この年に設置された。
  1949年、国立国会図書館に統合され、消滅した。
  この歴史ある建物は、国立国会図書館支部上野図書館
 を経て・・
  2000年、国立の児童書専門図書館である国立国会図書
 館国際子ども図書館として再生された。
  現在も、国立の図書館として存続している。
  この図書館は、上野公園にあることから「上野図書館」
 と呼ばれ、親しまれた・・
  多くの文豪や学者もこの図書館に通った・・
  日本の近代を作った図書館である。
   尚、1872年設置の書籍館は、旧幕府の昌平坂学問所、
 和学講談所、蕃書調所などの所蔵していた貴重な古典籍
 を蔵書の基礎とした。
.
1897年4月27日、京都鉄道の二条駅~大宮駅間が開通した。
  1893年、京都鉄道が、民営鉄道として設立された。
   日本海側の主要都市である舞鶴までの鉄道敷設が課
   題となっていて設立された。
  1895年、京都駅から綾部を経て、舞鶴に至る鉄道免許
   を受けた。
  1897年2月15日、二条駅~嵯峨駅(現:嵯峨嵐山駅)間
   が開業した・・また、この時、二条駅も開業した。
  1900年、京都駅~園部駅間が開業する。
   断崖絶壁に線路を通す難工事だった・・
   また、トンネル8ヶ所、橋梁は50ヶ所を越え、保
   津峡もまた難工事だった。
   しかし、これ以北は、資金難のため工事は進まなか
   った。
.
1897年4月28日、九州鉄道が、筑豊鉄道線を自社の延長線と
 することを出願した(8月26日免許)
  筑豊鉄道は、1891年に設立された福岡県に存在した民
 営鉄道創世記における代表的は企業だった・・が・・
  この後、1897年10月1日、筑豊鉄道は、九州鉄道と合併
  し・・
  1907年に、鉄道国有法により国有化された。
.
1897年4月、ハワイ移民の549人が、またも上陸拒否にあっ
 た。
  前記のブログに詳しく記したが、ハワイを手に入れよ
 うとするアメリカに影響される傀儡的なハワイ政府が、
 日本人労働者の人口増加と、それに伴う日本の影響力増
 大を警戒した。
  ゆくゆくアメリカはハワイを合併しようとしていた。
  1898年8月、落ち度を認めたハワイ政府は、日本へ賠償
 金を支払うことで決着した。
  1900年、これから3年後のこの年、ハワイはアメリカの
 準州にされてしまった。
  この様なアメリカの行為の延長線上にアメリカの中国
 の利権獲得と日本との確執が第二次世界大戦の遠因とな
 る。
  アメリカは盛んに中国・蒋介石に肩入れした。
  アメリカ本土では、排日土地法などが成立して日本人
 排斥が盛んに行われた。
  1924年に至ると「1924年移民法」が成立し、事実上、
 日本人のハワイ準州を含むアメリカ入国が禁止された。
  この1924年、日本の移民に終止符が打たされた。
  そして、ハワイに在住している日本人は永住するのか?
 帰国するのか?の選択を迫られた。
  これが、日本のブラジル移民の切っ掛けとなった・・
  1925年よりブラジル移民が開始された。
.
1897年4月、政府が、函樽鉄道株式会社の発起人・平田文右
 衛門ほかに対し、仮免許状を下付した。
  1886年、函館駅~小樽駅を結ぶ鉄道の敷設について岩
   村道庁長官が開拓事業の一環として取り上げて以来、
   歴代長官によって計画が取り上げられてきた重要事
   項であった。
    しかし、容易に実現する兆しはなかった。
  1895年の日清戦争後に全国的な私鉄に対する投資過熱
   が起き・・
  1895年2月、北海道鉄道や
  1896年1月、函樽鉄道などの各社から相次いで鉄道敷設
   の申請がなされた。
   しかし、いずれも認可されるには至らなかった。
  1896年5月、鉄道敷設の重要性について認識が高まり、
   「北海道鉄道敷設法」が制定された。
   予定6線のうちに「後志国小樽ヨリ渡島国函館二至
   ル鉄道」が明記された・・しかし、計画としては第
   二期に編入された。
   実現は早くとも10年後という状況だった。
  1896年6月、この様な情勢から、有志によって再度なさ
   れた函樽鉄道株式会社の設立認可申請に対して・・
  1897年4月、仮免状が下付された。
   しかし、折からの経済不況のため、株式の募集も予
   定どおりにはかどらず、会社の設立準備も進められ
   ないという状況だった。
   仮免状有効期限延期を二度も出願し、許可を受ける
   という状況であった・・設立が危ぶまれた。
  1899年10月、苦難の中、ようやく会社創立総会が開か
   れた。
  1900年2月、函樽鉄道株式会社が社名を北海道鉄道株式
   会社に変更し、設立されるに至った。
   その後、まだ紆余曲折したが・・
  1902年4月、政府が会社の申請を認め、1マイル(約1.61
   キロメートル)当たり8000円の国庫補助が指令され
   た。
   また、3年半をもって全線を完成するよう命じられた。
  1902年6月、工事は、これ以前の1901年6月から一部が
   直営をもって着手されていたが・・
   1902年6月から本格的な建設に入った。
  1902年11月、工事は、極めて順調に進められ、亀田駅
   ~本郷駅(渡島大野)間は1902年11月に完成した。
  1903年5月、八雲地方を含む森駅~熱郛駅間が完成し・・
  1904年10月15日、箱館駅~小樽中央駅(高島)間の全
   長159マイル余(約255.9キロメートル)がめでたく
   開通した。
.
1897年4月、アメリカの第26代大統領になるセオドア・ル
 ーズベルトが、この年、海軍次官に起用された。
  セオドア・ルーズベルトは、アメリカ合衆国の発展は、
 「対外膨張しかない」と考えていた。
  そのため、彼は、ウィリアム・マッキンリー大統領へ、
 「アメリカ合衆国のアジア艦隊は、マニラを封鎖し、出
 来ればフィリピンを占領すべきである」と・・
  そして、「フィリピンの占領をすべき」と口にして進
 言した。
  また、セオドア・ルーズベルトは、上院議員のヘンリ
 ー・カボット・ロッジとアメリカの海外発展を計画して
 いた。
  このロッジ上院議員は、1895年3月発行の「フォーラム」
 誌で、「太平洋におけるアメリカ合衆国の商業的優位を
 保つため、ハワイ諸島を支配しなければならない(占領
 政策)」と・・
  また、「サモアにも影響力を持たねばならない」と主
 張した。
  アメリカの帝国主義的占領政策を促(うなが)してい
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:1897年、この年、アメリカの第26代大統領になるセオドア・ルーズベルトが海軍次官に起用された・・
    彼は、マッキンリー大統領へ、「フィリピンを占領すべきだ」との占領政策を進言した。
.
8世紀、「ギリシャはヨーロッパだ」とヨーロッパ人は言い、
 そのギリシャ文明を引き継いでいると言ったって・・
  その古代のギリシャの文明を引き継いで発展させて来
 たのはイスラムの世界であり、ビザンチンの世界だった。
  (ビザンチンは、8世紀以降、バルカン半島、アナトリ
 ア半島を中心とした国家となり、縮小した。
  そして、民族的・文化的にギリシャ化が進んで行く・・
  この様な事から「ギリシャ帝国」と呼ばれた・・
  13世紀以降には、住民自らも「ギリシャ人」と呼んだ)
  キリスト教世界のヨーロッパは、古代ギリシャの文明
 を引き継いだとは言えても、奪って来たものだった・・
  「古代ギリシャ文明を引き継ぎ発展させたイスラム世
 界やビザンチンから奪って来た不名誉な文明だった」。
  これが事実であって、文明的にはヨーロッパはイスラ
 ム世界の世話になっている。
  また、ヨーロッパ人は誇りにしていた自国の文明と、
 そして、蔑視していたアジアの文明の比較においても、
 中国の存在を知るや、その鼻はへし折られた。
  キリスト教に洗脳されたヨーロッパは、野蛮に征服行
 為を行なって、奪って来るだけだった。
  ヨーロッパは、この様な歴史的事実を曲げて、自らの
 中に発展の契機を求め、ヨーロッパ自身をゆがめ・・そ
 して、安住した。
  しかし、悲しいかな・・事実は変えられない。
     ・
     ・
     ・
1687年、ヨーロッパ人の意識を変えた事件・・その発端は、
 1687年に起きた。
  ルイ14世が病気快癒し、それを祝うアカデミーの席上
 で、文学者のシャルル・ペローが読みあげた詩だった。
  彼は、ルイ14世を讃美した詩「ルイ大王の世紀」を発
 表した。
  その中に「ルイ14世の時代は素晴らしい、優れている」
 と讃美した。
  これが問題となった。
  「今の時代の方が譲れていて素晴らしいか?」である。
  当時は、キリスト教の教父と言われるアウグスティヌ
 スが生きた「古代の方が優れていた」とされていた。
  古代を高く評価して、今を、その古代より高めようと
 する考え方の時代だった。
  だから「古典主義文学」の全盛時代だった。
  ラテン文学の黄金時代だった。
  古典主義文学者たちは怒った。
  アカデミーでの論争が始まった・・
  議論は、サロンを通じて広く伝えられて、フランスの
 世論が二分される論争となった。
  論戦で最も活躍したのが「サロンの哲人」と呼ばれた
 フォントネルだった。
  彼は、17世紀の科学革命の成果を広く伝えながら、そ
 れを根拠に、「近代を高く評価した」。
  18世紀に入り、「近代派が圧倒的勝利」となって終わ
 った。
  ギリシャ、ローマを古典として手本とする歴史意識の
 退歩主義は駆逐された。
  近代を、古代より高度な文明を有する時代と捉える進
 歩の過程を捉らえることが通念化して行った。
  「科学革命」が人々の中にしっかり意識されて行った。
  古代よ、サヨナラの時代だった。
.
1799年、幕府は、北海道の東蝦夷地を直轄とした。
  幕府は、道路の開削に力を入れ、箱館からエトロフ島
 に至る道路を開いた。
  これによって人馬の通交の支障は無くなった。
  陸上輸送もより便利にできる様になり、また、海上輸
 送も整備された。
  1809年の「蝦夷渡海記」にも・・
  「ヤマサキ河上道に橋有道良、海岸汐時に寄深ヌカシ
 テ(ママ)馬蹄難進ことあり用心いたす所なり」とある。
  また、幕府は、道路の開削と並行して交通の便を図る
 ため、各種の施設を設けた。
  浦河以東の東蝦夷地10か所に会所を設置したりした。
  以後、増設して行った。
  そして、東蝦夷地一帯にわたって宿泊の不便を無くす
 ようにした。
  旅舎は初め会所と同じであったが、後に、宿泊専用の
 別棟が設けられた・・これを旅宿所または通行屋と呼ん
 だ。
  会所および通行屋は、人馬継ぎ立てのことも取り扱い、
 急を要する場合には、早馬・早走・早船などの用意があ
 った。
  また、宿泊地の中間には昼休所が設けられて、幕吏や
 藩吏の便が図られていた。
  また、東蝦夷地の各場所には官馬を備え、請負人に委
 託して飼育し、運搬や人馬継ぎ立て様に供した。
  1861年6月には、山越内の関門が廃止され、通行が自由
 になった。
  この事もあって、交通はますます盛んとなった
.
19世紀、西洋人は、満州を「満州人の土地」とした・・今
 は、中国に侵略されているが・・
  満州は、満州語で「マンジュ」の発音を漢字表記した
 ものである・・
  元来は、民族名や国名であって「地名ではない」。
  しかし、19世紀以降、西洋人が、この地を「満州人の
 土地」という意味で使い始めた。
  このことに起因して、日本でも、今のこの中国東北地
 方を満州と称する様になった。
  現在、漢民族の中華人民共和国(20世紀中頃に建国さ
 れた)が自国領とし、あえて「中国東北部」と称する様
 にさせられているが・・間違いである。
  日本は、かつて、この地を満州民族の方々の地として
 「満州国の建国を助けたが・・これが正しい」。
  今、「中国東北部」と呼ばされているこの地は、正し
 くは「中国東北侵略部」であり、「満州国」なのである。
  侵略性を持つ中国は、今、この地からロシア領への浸
 透を謀(はか)っている。
     ・
     ・
2015年、人類の終末が訪れると・・
  ニュートンは、キリスト教を信じていた。
  そのニュートンが信じたキリスト教は「人類史は6000
 年と説いていた」。
  ニュートンは計算した、すると「人類の終末が2015年
 と算出された」。
  愚かしいキリスト教の観念を持っていたニュートンだ
 ったが、彼の自然を見る目から導き出されたニュートン
 物理学、そして、その他の真実が・・、
  結局、キリスト教の架空の教理や論理を崩壊させた。
  キリスト教の間違ったベールが剥がされて行った。
  今、キリスト教は、最早、過去の醜態を曝(さら)す宗
 教の存在でしかない。
  残された歴史には「インディオの方々の絶滅」などの
 弱小の民族の殺戮や、魔女裁判に見る「弱者の殺戮」・・
  「異端審判に見る殺戮」「ユダヤ民族の方々の殺戮」
 など・・殺戮の歴史しかない。
  イギリスの大新聞の世論調査によると・・
  「キリスト教は21世紀中に消滅する」という意見が多
 数の見方になっている。
  大殺戮者のキリスト教が、急に、手のひらを返した様
 に「救済」を叫んでも・・自己の生き残りをかけた偽善
 としか見えない。
.
2019年12月3日、中国の習近平氏の国賓訪日・・自民党内か
 ら異論が出る。
  中国の習近平国家主席の来春の訪日について、国賓待
 遇で迎える事に自民党内で異論が相次いでいる。
  香港で激化する警察隊とデモ隊の衝突や、尖閣諸島周
 辺の日本領海に中国公船による侵入が相次ぐなどの課題
 が山積みするなか、「国民が納得できるのか」と再考を
 求める声が出ている。
  「なぜ天皇陛下が前面に出る『国賓』なのかという説
 明が足りない」。
  3日、参議院外交防衛委員会で佐藤正久前外務副大臣が
 こう質問した。
  国賓は日本政府が外国から客を招く「公式訪問」の5段
 階のうち最高ランクで、滞在中は宮中晩餐(ばんさん)
 会も開かれる。
  さらに、佐藤氏は香港情勢について「根本的責任は中
 国政府とその政権党にあることは明らか」とする日本共
 産党の声明を読み上げ、「党派を超えて共有する部分も
 多い」と言及した。
  自民党議員らが問題視する背景には、相次ぐ日本人拘
 束事案もある。
  3日の党外交部会などの合同会議でも、複数の議員から
 「(国賓で)国民が納得できるのか」といった声が出た。
  また、11月13日には党議員の有志が「諸懸案に改善が
 無い場合、国賓としての来日に反対する」という声明も
 発表した。
  一方、党執行部は国賓待遇を支持する考えを示してい
 る。
  岸田文雄政調会長は2日、「要人が往来する事で中国と
 の関係をコントロールして行くことは大事な事」と強調
 した。
  二階俊博幹事長も11月の会見で「国賓待遇でお招きす
 るのは当たり前のこと」と述べた。(朝日新聞2019年12
 月4日)
.
2019年12月7日、NHKの小会社の余剰金は、「受信料値下
 げに使われるべきだ」と立教大学教授が見解を述べた。
  読売新聞に、服部孝章・立教大学名誉教授(メディア
 法)の話があった。
  「NHKの事業原資は受信料であり、その経営は収支
 均衡が原則だ。
  NHKは当然だが、小会社の利益余剰金も本来、視聴
 者に還元すへきものだ」。
  「株式配当を増やしてNHKに戻し、NHKはこれを
 受信料を下げる原資に充てるべきだ」。
  「必要以上に事業を拡大させて来た背景の一環には巨
 額の余剰金の問題がある」・・と・・
.
2019年12月7日、中国政府のウイグル弾圧
  中国政府が、新疆ウイグル自治区のイスラム教を信仰
 する少数民族のウイグル族らを弾圧している。
  米国などが批判を強めている。
  区都ウルムチの街角には、中国語の宣伝標語や音楽が
 あふれている・・
  中国政府は盛んに中国化への洗脳をしている。
  また、ウイグル人の方々を拘束する行為もしている。
  国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)が公表
 した文書には、収容施設で弾圧している実態も記されて
 いる。
  ウイグルの方々の脳へ刻み込むという行為だった・・
  ウルムチの街頭や飲食店に設置されたスピーカーから
 は大音量で童謡調の歌が流されている。
  その中国語の歌詞では・・
  「法治、愛国、誠信・・これらは中国人の宣言だ・・
 私たちの価値観を脳の中に刻み込もう」と歌っている。
  漢民族と55の少数民族の団結の呼びかけである・・
  また民族の「緊密な団結」を訴える横断幕が目に付く。
  その裏は、大きな民族の漢民族が支配する社会の実現
 で・・それに強制的に同調させられる少数民族がある。
  町の声は・・
  「私はウイグル人だ。中国人にはなれない」と、果物
 店の男性店主は本当の気持ちを話した・・
  だが、中国政府は、名目的にテロ対策を掲げて・・町
 中のあちこちに張り巡らされている「監視の目」は、す
 でに住民の思想にまで踏み込んで来ていた。
  ICIJが今年11月、中国当局関係者から入手したと
 して公表した複数の内部文書には、最新技術によって厳
 格に監視を実施する実態が示されている。
  この文書は、自治区共産党委員会が作成したとされる。
  これらによると、自治区で運用されている最新システ
 ムは、監視映像や携帯電話のデータなどを解析し(盗聴)、
 1週間のうちに、思想などが「疑わしい人物」として約2
 万4000人が特定された。
  そのうちの約1万6000人が「職業教育訓練センター」と
 称する強制収容施設に送られた。
  (これでは、まるで第二次世界大戦の時、ドイツが、
 ユダヤの方々をアウシュビッツへ送ったことと同じ行動
 である)
  文書の一つ、訓練センターの運営指針には「思想教育」
 の項目がある。
  (これは、前回、このブログに記した例の中国・共産
 社会が行なう激烈な思想洗脳教育である)
  死角が生まれないように監視カメラが設置された施設
 で個々の収容者が見張られている・・
  そして、その収容者の認識が変わるまで指導するよう
 その文書は求めている。
  収容者に、収容者同士が内部通報させる制度もある。
  『心理矯正が重要なのだ』と位置づけている。
  そして、思想が変わらなかったら自由の身にしてはな
 らない・・施設を出してはならないとしている。
  (日本がされた事と同じである)
  言葉もウイグル語から中国語に変える様に指示してい
 る・・
  頭の中から言葉まで「中国人の漢民族にしてしまえ」
 という指示である・・人権はまったく認められていない
 し、人権無視である。
  中国政府は、自分勝手な中国政府の解釈の主張を言っ
 ているだけ・・
  ウイグルはイスラムの過激思想を持っている・・など
 と言っている・・
  アメリカのメディアは、収容中に宗教を強制的に変え
 させられていると指摘している・・
  また、尊重すべき各人の風習まで変えさせられている
 と指摘している・・
  個人のその宗教や風習の強烈な否定が行われている・・
  習近平は、「信仰より党の指導が上だ・・優先される」
 としている。
  国連がしているSDGsなどまったく関係ない・・無
 視している。
  2019年12月3日、アメリカ議会の下院は、アメリカ政府
 に中国に対する制裁を含めた対応を求める「ウイグル人
 権法案」を可決した。
  「香港人権・民主主義法」に続きウイグル人権法案も
 成立すれば、アメリカの中国へ対峙する姿勢もより鮮明
 となる。
  『正義のアメリカ』が腰を上げた。
  日本は、こんな中国の習近平を日本の「国賓」として
 呼ぼうとしている??
.
2019年、習近平が訪日する時にしてもらいたい事・・
  マルクス主義者が、暴力革命を実現しようとしたこと
 は、遠い昔のこと・・
  今・現代は・・
  既存の体制を外から暴力で破壊するのではなく、「体
 制内に入り込んで」内部から秩序の転覆を図る・・とい
 う行為を行っている。
  こんなことは、今や常識、誰もが知っていること・・
  そして、今、かなりの者が日本の国政の中枢へと入り
 込んでいる。
  誰が秩序破壊者なのか?
  それだと意識しないうちに、社会の秩序が乱されて行
 く。
  あらゆる工作がなされている。
  レーガン大統領が偉いところは、ベトナム戦争でアメ
 リカが二分され、分裂されるという危機の時・・、アメ
 リカ社会が分裂するという危機にあった時・・
  首都ワシントン郊外のメモリアル・パークにベトナム
 戦死者慰霊碑を建立して、「国家に殉じた英雄」として
 戦死者の氏名を刻印して・・慰霊した。
  国家として戦死者の氏名を刻印して・・慰霊した。
  国家の行為として行ない、戦死者の遺族の方々は、当
 然、慰霊碑に詣(もう)でて、憚(はばか)ることなく故人
 の霊を慰(なくさ)めることができた。
  一般のアメリカ国民の方々も、ベトナム戦死者の功績
 を感じ、そして、自らの魂を重ねた。
  アメリカ国民の方々の精神的支柱として「大切な絆と
 なった」。
  アメリカ国民の方々の中に「一体感が醸成され、再生
 された」。
  しかし、日本における、この様な行為に共産国家・中
 国が反対する。
  色々と中国なりの理屈をつけて「反対」の「内政干渉」
 をする。
  もともと中国の共産主義は宗教を否定している、霊な
 どという概念も疎かで・・その様なものはない。
  この様な自分の主義で、この様な行為である靖国神社
 への参拝行為を反対している。
  勝手な主張であり、行為である。
  この度、習金平・中国国家主席が日本に来るが、是非、
 靖国神社へ参拝して戴きたい。
  自国の好き嫌いを、日本に来てまでして押し付けるな・・
  その様な行為は「内政干渉である」。
  日本に来たら、日本のやり方に従って戴きたい。
  そして、アメリカのレーガン大統領が重視して大切に
 した如く、「この様な行為が大切なのだ」ということを
 実感して戴きたい。
  中国は、日本がこの様な行為をすることによって結束
 が強くなることを、中国は不味(まず)いと感じている。
  また、この様な深い意味を知ってか知らぬか、アメリ
 カの日本大使だったケネディ女史が、軽薄にも日本の靖
 国神社参拝を批判した。
  中国と同じような言葉を吐いた。
  自国のレーガン大統領の例などを知っていたのか?
  日本の行動がこれによって抑制された。
  アメリカ政府は、日本の靖国神社参拝を支援せよ!!
  国に殉じた英雄を敬う行為は大切なのだ。
.
2019年、中国のこれからとる戦略は、世界に中国銀行をど
 んどん増やして、また、華僑を増やして行く。
  目的は中国・人民元の流通である。
  中国・人民元の信用創造である。
  目的は、世界の基軸通貨のアメリカ・ドルの駆逐であ
 る。
  この流れは・・止められることはない。
  アメリカ・ドルの基軸通貨の立場を縮小させて行く。
  世界は・・二つの基軸通貨を持つ世界となる。
  その次に来る世界は、多基軸通貨世界である。
  世界に構築されたアメリカ金融システムは縮小して行
 き・・他の流通通貨がその代替をする。
  金融の多流通世界で、ある意味、グローバル化である。
  中国の勢いは止めることはできない。
  アメリカがした基軸通貨の立場を利用した行為を、中
 国もまた行なう。
  中国は、「世界の覇権を握りたい」と今・現在の行動
 をより一層鮮明にして行く。
  政治システムを中国は変えることなく「進めて行く」。
  アメリカと中国の二大超国家による対決の世界となる。
  経済から始まる対決は必然である。
  中国の政治体制を許して、「そのままの体制のままで」
 民主主義世界に参入させたところからこの道は始まった。
  いい意味も悪い意味もそのまま持って世界に参入した。
  民意の常識による変革ということがない中国、また、
 それが出来ない体制の中国社会が参入して、大きくなっ
 てしまった。
  民主主義社会の中で、発達した美味しいところだけを
 食べる異質の社会が、ブロパガンダも駆使して、人民も
 参加させて、増殖をし始めて、大きくなってしまった。
  その抗生物質は生まれるのか?
  その抗生物質のーつが、長い歴史に育(はぐく)まれて
 そして幅広く、また高いモラルの「日本の考え方」であ
 る。
  これを「世界が知ること」である。
  将棋という子供たちもする遊びでも王というトップが
 取られたことにより終わる。
  その途中において、王以外の臣下たちは命を取られる
 ことはない。
  捕まり、相手の駒となって生き続けることができる。
  チェスの様に殺されることはない。
  また、日本の「もったいない」という言葉でノーベル
 賞を取った方が居たが、もっとこの言葉は世界に普及し
 定着させねばならなかった・・など・・世界は日本に学
 ばねばならない。
  中国が、新たなる国連を作ったなら日本は参加しなけ
 ればならない。
  敵国条項のある今の国連は「過去の用済みの形態だ」・・
  そして、既存の国連は脱退すべき・・
  中国は、自国に合う新たな国際秩序を作るための行動
 をするだろう・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

2019年12月8日日曜日

(増補版)669E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年4月~1897年4月)

題:(増補版)669E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年4月~1897年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年4月17日、房総鉄道の大網駅~一ノ宮駅(現:上総一ノ
 宮駅)間が開通した。
  千葉県の動脈の発展は・・
  1893年9月7日、房総鉄道馬車会社に鉄道免許状が下付
   された(千葉郡蘇我町~山辺郡大網町間)
  1896年1月20日、房総鉄道会社によって、蘇我駅~大網
   間が開業した。
  1896年2月25日、千葉駅~蘇我駅間が延伸されて開業。
   総武鉄道と接続された。
  1896年11月1日、土気駅が開業。
  1897年4月17日、大網駅~一ノ宮駅が延伸されて開業。
  1898年3月25日、岩沼駅(現:八積駅)が開業。
  1899年12月13日、一ノ宮駅~大原駅間が延伸して開業
   した。
.
1897年4月20日、九州鉄道の門司駅~小倉駅間が複線で開通
 した。
  1888年、九州鉄道は創立され(1887年説あり)
   北九州を中心に路線を延長し、私鉄併合を進めて(17
   社の私設鉄道)、九州の鉄道網をほぼ独占した。
  1888年6月27日、営業が認可された。
  1889年12月11日、九州で初めての鉄道として博多駅~千
   歳川仮停車場(筑後川北岸)間を開業した。
   博多から南へ向かって開業した・・
  1891年4月1日、門司駅(現:門司港駅)まで東へ向かっ
   た。
  1891年7月1日、熊本駅まで南へ向かう
  1891年8月20日、鳥栖駅~佐賀駅間を開業(現在の長崎
   本線の一部)
  1896年11月21日、八代駅まで延伸(現在の鹿児島本線)
  1897年10月1日、筑豊鉄道を合併した・・この後、この
   他、伊万里鉄道、豊州鉄道、唐津鉄道などを統合する。
  1907年7月1日、鉄道国有法によって国有化され解散した。
   この時の路線の総延長は716.6km。
.
1897年4月21日、房総鉄道の一ノ宮駅~勝浦駅間の延長免許
 状が下付された。
.
1897年4月22日、八王子で大火。
  データーでは死者42人、負傷者223人、被災者1万人、全
 焼家屋3341戸、午後3時40分に出火し、北西の強風にあお
 られ、わずか4時間で約6割を焼失・・とある。
  大火の年に発行された「風俗画報」第140号には・・
  「全焼三千百〇四戸、半焼三十戸、土蔵二百〇二化して
 烏有と為り」「火元は大横町七十五番地齋藤平吉方より十
 間(18m)ばかり隔たりし北裏、機織業荻島市太郎方の煙突
 の油煙が、右齋藤方の家(屋)根へ飛び来たりて発火したり
 とも云い、又齋藤方の二階より発火したりとも云いて未だ
 判然とせず」。
  「出火は、廿二日午後三時四十分頃なるが、当日は朝の
 程より風激しくて雨雲低く舞下がり(中略)午後よりは晴模
 様となりて風は益々荒れ増される折しも、同町大横町より
 出火して瞬く隙(ひま)に隣家に燃え移り、之と同時に火元
 を距(さ)ること凡そ六町(約650m)余りなる妙薬寺に飛び
 火し、次いで同町第一の劇場関谷座にも飛び火して、一時
 に黒煙を逆巻き上げ、復(また)風に吹き倒されては追々に
 燃え進み、大横町の火は元横山町大通り八日市を、妙薬寺
 の火は元横山町本町を、又関谷座の火は元横山町並びに本
 町の下手を焼き廻り、都合三手に別れて猛烈なる火先を揃
 え、正東の方向即ち新町に向かって突き掛け来たりしは、
 出火より僅かに十五分の後なり」こうして八王子の中心部
 は焼けた。
  その後、炎は浅川沿岸に達したので「流石(さすが)の火
 勢も此に防ぎ止めらるべしと思いきや、何時の程にか二町
 (約220m)余の川幅を飛び越して小宮村大和田に延焼した
 る折こそあれ、西北より吹きたる風は一変して西南となり
 たるにぞ、火は再び川を吹き戻され風下なる横山町、八日
 市、馬乗町三丁目、小門町、上野町、寺町、馬乗町一丁目
 をあれあれという間に焼き払い、火元よりは遙か西方に当
 たれる八幡町を焼き、右側は同町の七十八銀行、左側は小
 林屋方に於いて、又東の方面は八王子停車場(駅)傍らの旅
 人宿角喜に於いて、辛うじて消し止めたるは同七時半頃な
 りし」
  40人死亡、焼失家屋約3500余戸、主な焼失建物は、東京
 地方裁判支所、八王子区裁判所、郵便電信局、郡役所、町
 役所、収税所、警察署など行政機関。
  また小学校3校、銀行2行、劇場2館、寺院1か所、神社2
 社、また繁華街が焼けたので貸座敷(遊女屋)多数が焼失し
 ている。
  なお大火となった原因として、当時の風の勢いが強かっ
 たことのほか、8組480人の消防組員(現・消防団員)は奮闘
 したが、火先が多数だったことで進退の自由を失いやむを
 得ず消防器具を焼き尽くしてしまったこと、消火の指揮に
 あたる警察署員も一時に数か所から燃え上がったため人命
 救助を優先し、消防の指揮までは行き届かなかったと指摘
 している。
 (出典:八王子市郷土資料館編「明治時代の八王子>七 明
 治三〇年の八王子大火>災異門 112頁~120頁:画報子著・
 八王子町の火災」)
.
1897年4月23日、東京朝日新聞が、八王子大火の内容原稿を
 伝書鳩を使って輸送した。
  前日の八王子大火に関する報道で、業界で初めて記事伝
 送に伝書鳩を使用。
  状況としては、この当時は、八王子と言っても遠い町だ
 った。
  通信手段も焼かれ、焼け残った鉄道電信でやっと第1報
 が届いたのが翌日の4月23日の午前2時34分だった。
  しかし、電信(電報)では詳しい記事ではなく全体が
 つかめない・・ここで鳩を使う事を思いついた記者が居た。
  3羽の鳩を風呂敷に包んで上野駅から汽車で八王子へ向
 かった記者は、夕方、八王子へ着いた。
  八王子ではローソクを灯して焼死人を番をする人たちが
 居た。 
  状況が分かる明け方を待つ・・半分焼けた憲兵駐屯所に
 警察官も居て取材・・
  概要を管に収めて鳩の足に結び最初の一羽を放す・・鳩
 は社へ向かう様子が無い・・
  二羽目を放す・・ぐるぐると高く回って東京の方面へ矢
 のように飛び去る。
  三羽目は、逆に、西へ行ってしまった。
  あれれと見ていたら、方向転換して、恐ろしく早い速度
 で東京をめざした。
  この頃になって、やっと最初の一羽目の鳩も舞い上がっ
 た。
  そして、取材をして、翌朝、社へ向かい、新宿で新聞を
 買って確かめると鳩に託した記事が書かれていた・・目頭
 が熱くなった・・
.
1897年4月27日、生糸直輸出奨励法が公布された。
  この年、はじめて綿糸が輸出超過となった。
  労働運動も高まっていて、4月6日には、高野房太郎らが
 「職工義勇会」を結成していた。
  横浜の居留地に居た外国人たちが行なう居留地貿易は、
 輸出入ともに圧倒的であった。
  日本の貿易を牛耳っていた。
  この様な貿易の状況下、外国人商館は、強い条約上の権
 利と豊かな資本力を背景にして貿易を独占して来ていた。
  日本人の経営する商社が、1877年頃から成長してきたが、
 圧倒的影響力を外国人に行使されていた。
  この様な外国人勢力に対抗したのが、国内生産者から集
 荷し、そして、その商品を納入した邦人の売込問屋だった。
  因みに、この逆に、外国人商館から輸入商品を仕入れて、
 国内の商人に還流させたのは邦人の取引問屋・・
  不平等条約の体制下、日本の貿易の担い手たちは、この
 様な体制で行われていた。
  今・現代では普通のことである「直輸入」「直輸出」な
 どという概念は夢の様な概念だった。
  明治の中頃まで売込問屋→外国人商館→輸出だった。
  そして、生糸は、100パーセントが横浜から輸出されて
 いた。
  日本の生糸は安くされており、取引価格は欧米市場の3
 分の2から2分の1だった。
  零細で小資本の製造者(養蚕農家)、そして、問屋から、
 大資本の外国人商館へ、安値に買い叩かれた・・恒常的に
 この形で来ていた。
  また、卑劣にも、この外国商館が、何が何やらの不明瞭
 な商習慣をちらつかせていて、見本品生糸を出させて没収
 したり、○○料だと意味不明の金を取ったりした。
  この様な状況を把握していた日本政府は、1873年に、居
 留地外商を経由しない輸出を考えていた・・
  直輸出に注目していた・・
  大久保利通の配下の人たちだった・・
  理論的な提唱者は、旧薩摩藩の前田正名(大蔵、内務、
 農商務の各省をの高官を歴任している)だった。
  日本が生糸を貿易の目玉にして大きく貿易上の利益を確
 保し、成長したのは、この人の功績としても良い。
  1880年には、直輸出商社の起業や、直輸出参入者が拡大
 した。
  そして、明治20年代(1887年代)に入って行くと、生糸
 直輸出に関与した製糸業の人たちが多くなって行く。
  そして、全国的に拡大して行く。
  外国人に制せられた商権と商習慣を打破して行く・・
  その行動の中に士族系の製糸業者も居た・・
  豪農も共に行動した・・
  そして、政府の直輸出奨励政策に士族・豪農層が敏感に
 積極的に反応し、協力した。
  しかし、直輸出への道は順調だったとは言えない・・
 不況にあって政策が転換されたりの紆余曲折があった。
  また、直輸出は、すぐに代金が手に入らないという欠点
 もあった。
  アメリカへの直輸出の場合、代金を手にできるのは半年
 後だった。
  横浜の外国人商館に売れば現金決算であった・・
  ここに関係するのが邦人商社の資金的な力の有無だった
 (資金余力は弱体だった)
  政府・横浜正金銀行の保護政策も後退する時もあった。
  1889年、前田正名が高官として復帰した・・そして・・
  1890年、次官として昇任し、大蔵省に対して強い保護継
   続の養成があった。
   大蔵大臣の松方正義も、生糸直輸出業関係者と強い
   つながりも持っていた。
  時の知識人・福沢諭吉も、生糸直輸出が解体されたら、
 横浜居留地外商などが競争相手が消滅したことにより、
 一層低価格で国産生糸を買い叩くであろうとの危惧を提言
 していた。
  1889年の生糸直輸出業の廃絶という愚かな行動を回避
   することが出来た。
  1890年11月、生糸直輸出業者による立法制定運動が始ま
   った。
   しかし、この運動もうまくいかなかった。
  1897年5月、生糸直輸出奨励法の廃止となる。
  1899年7月、第一次条約改正が施行される。
   邦人の貿易活動も活性化をし、日本の産業革命もなさ
   れ、蚕糸業が拡大し、生糸輸出も増加し、そして、邦
   人の資本力も強化された・・
   ここに出て来たのが、横浜生糸合名会社と、財閥系の
   三井物産合名会社の「直貿易」形式による大量に米・
   仏両国市場に輸出する体制が確立された。
  1909年、日本が生糸輸出量の世界一となった。
   外国人商館に牛耳られていた生糸も邦人によって自由
   に取り扱える様になって行った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:共産政権の洗脳の恐ろしさ・・
    民主的ではない政権のため・・
    民意を聞かずにその政権を維持するため、意見を異にするものに敏感になり、その意見を必死に洗脳する・・
    そして、その洗脳は凄まじくなる・・
.
1950年7月:共産政権の洗脳の恐ろしさ
  日本も、この共産国家・中国から卑劣で激烈な洗脳工
 作を受けていた。
  共産主義政権の独特の考え方による洗脳教育の事例・・
  共産主義の恐ろしさはここにある。
  日本の敗戦以降、終戦によって武器を置いていた満州
 や朝鮮に駐留していた元日本軍を中心に、また、兵士以
 外の一般人である官吏を含めた日本人の約60万人が、
 日ソ中立条約を一方的に破って、侵入して来たソ連軍に
 よって殺戮・虐殺され、そして、捕らえられた。
  武器を置いていた元兵士や一般人を、そのほとんどの
 人たちをシベリアへ送った・・送られてしまった。
  そして、量も少なく、また、質の悪い最悪の食物しか
 与えられず、酷寒の地で重労働を強いられ、させられ・・
 それによって、その多数の日本人たちが死んだ・・死亡
 した。
  その死亡者数は、捕まって輸送される途中での死者も
 含めて、何と約6万人もの命を失った・・失なわされた。
  この死亡者数は、もっと多数だとする調査数字もある。
  そして、最悪なのは、これらの「捕虜と称せられた拉
 致被害者」の中から969人が、中国に引き渡された・・
  何の権利も理由もないのに、この様な事が行われた・・
  そして、共産・中国の「撫順戦犯管理所」 と称する
 監獄へ送られた。
  終戦となった後、5年も経ている1950年7月のことだっ
 た・・正当な理由なき国家犯罪であった・・
  その内訳は・・、
  第59師団 の元将兵260余名、
  第39師団 の200余名の順に多く、そのほか63師
 団、117師団、それに元・満州国高官らが含まれてい
 た。
  一方、中国山西省では、日本の降伏後も・・
  国民党系の閻錫山 (えんしゃくざん)軍と共産八路軍
 (はちろぐん)が戦争状態にあった・・
  閻錫山は、「日本人居留民を帰国させる」などの条件
 を付けて、元・日本軍(第1軍、司令部・太原=たいげ
 ん)に残留を希望し、要請した。
  元・日本軍は、これを受け入れて、閻錫山軍とともに
 共産八路軍と戦った。
  結果は、共産八路軍の勝利に終わった。
  元・日本軍は投降した。
  第1軍関係者と、それに他の理由で捕まった若干名を
 合わせた140名 が、「太原戦犯管理所」 に送られた。
  撫順(ぶじゅん)、太原(たいげん)の両管理所(監
 獄)に収容された 「1109人」 が 「中国戦犯」と称
 された。
  しかし、実際は中国に拘束された人々、「中国抑留者
 (または、拉致被害者)」である。
  この抑留されてしまった方々(抑留者)が釈放されて、
 帰国するのは・・1956年以降・・
  故に、そのほとんどの人が、6年間、残りの人はそれ
 以上の抑留をさせられてしまった。
  ソ連の分と合わせると、実に、10年以上も捕らえら
 れていたこととなる。
  中国に抑留されていた6年の間・・この時に、非人道
 的な、卑劣な最悪の洗脳行為がなされた。
  共産政権・中国は、美しく「学習」などと称していた。
  これは、人権をまったく考慮に入れない激烈・卑劣な
 洗脳教育で、大いに問題があった。
  そして、抑留者の方々は、帰国後、「中帰連」(中国
 帰還者連絡会)を組織し、さまざまな活動を行って来た。
  「何としてでも帰国したい」と彼らが、どう行動した
 か、そして、その様な彼らに、中国はどの様な事をした
 かが明らかとなった・・
  当然、「帰りたい一心」と「殺されたくない」という
 切羽詰まった状況から、その経過は、当然、事実ではな
 い展開となっている・・
  共産中国に都合の良いことが『ねつ造』されていた・・
  しかし、日本の報道機関や、言論人らは、彼らの「証
 言」を確かな事実かのように受けとめて報道した。
  「証言」と称するのがおかしい状況であるのに、あえ
 て見過ごした・・
  助かりたい一心の「妄言」であり、「虚言」であり、
 殺される恐怖から逃れたいの「妄言・虚言」であった・・
  (参考)妄言:もうげん、でまかせで根拠のない言葉。
      虚言:(助かりたいの)あざむく言葉。
  中国は、この様な非人道的な方法で妄言・虚言を多く
 引き出し・・中国以外では無かったことを、何故か?中
 国に限ってある様に、真実の如くに言い張った。
  「脅迫で得た証言」が「真実ではないこと」は誰でも
 が知っている。
  彼らが、抑留中に書いた「手記」「供述書」あるいは
 帰国後証言が、中帰連の主張通りに「すべて事実」なの
 かどうか・・まったく事実ではないことが明らかとなっ
 た。
  「罪を認めれば寛大な処置が受けられる」と誘われる。、
  「罪を認めなければ厳しい処置を受けなければならな
 い」と脅迫される。
  中国語で「坦白従寛」自白するか?「抗拒従厳」抵抗
 するか?・・と迫られる・・
  「抵抗すれば恥辱にまみれた死への道」、「自白すれ
 ば明るい生への道」である。 
  事実でないことであっても、あるいは、まったく身に
 覚えがないことであっても、中国の取調べ側が「事実」
 だという心証を持つなり、あるいは、ある意図をもって
 その様にすれば、「厳しい処置」をちらつかせることだ
 けで、「自白」を自由自在に引き出すことができた・・
 それが可能だった。
  「日本人の戦犯と呼ばれた人々」の洗脳問題について
 考えると、死刑になるかもしれないという恐怖、何とし
 ても故国へ帰りたいという熱望、当然、これを知ってい
 る中国側・・これらを背景に、中国側の取調側もうまく
 立ち回った。
  中国は、自白中心の取調べをした。
  自白と言っても、恐怖が背中にある、死刑をちらつか
 せられた自白である。
  中国の検察側が、具体的な犯罪事実を提示することは
 まずなかったが、誘導という問題は大いにあった。
  当然、黙秘権などあるはずもない・・これでは、死刑
 判決が待っていた。
  「お調べがついているでしょうから、それをお示しく
 ださい」
  「そうすれば私も思い出せることもあるでしょう」 と
 言ったって聞き入れてはくれない・・
  「中国は、お前が自らの記憶に基づいて述べることを
 要求する」。
  「誠実な態度であれば思い出せるはずである」・・
  または、居丈高に「今日は監房に帰れ」と、繰り返し
 繰り返し何度も何度もなんべん言われたことか・・
  同室の佐古さんも検察員に同じようなことを言われて
 いるとみえ、「援助者」に批判されていた。
  佐古さんは、一度、「わしゃ死んだ方が楽じゃ」・・
  「深石さん、お願いだから殺してくれんか」 と言った
 ことがあった・・
  私にも、「あんたはいつか監獄の中で自殺した者の話
 をしたことがありますね。どんな方法かね」 と・・
  泣きそうな顔で真剣になって尋ねるので、私はゾッと
 して恐ろしくなったこともあった。
  佐古さんは、牡丹江鉄道警備旅団長(少将)
  階級の下の者を落としてから上へ・・
  低い階級を先にして、上位者は後に、というのが取調
 べの方法だった・・
  下位者に対して、「上官の命令によってやったのだか
 ら、お前の罪は軽い(お前には罪はない)」などと水を
 向けられれば、「自白」がしやすくなることも見越して
 いた・・
  「グループ認罪」・・
  学習先行組
  何時の間にか2年余の月日が経っていた・・ある日の
 朝、係員が、「所長の話があるから全員外にでる様に」
 と伝えてきた。
  屋上で並んで待つこと約10分・・
  やがて、所長が、中央に用意された一段高い壇上に上
 り、「やあ、諸君待たせてしまって申訳ない・・
  皆元気かね・・
  諸君の両親や兄弟は諸君の帰りを待っていることでし
 ようね・・
  ところで労働しながら、過去中国でどんな事を、つま
 り何人中国人民を殺し、どんな風に被害を与えたか、
  即ち「焼く」「殺す」「犯す」 等々を、何処でどうし
 て行ったかを、良心的にありのままを書いて出しなさい」
 と、通訳が訓示を説明した。
  「認罪運動」
  中国に来て以来3年後の1953年、確か9月の中旬だっ
 たと思うが、全員が、屋外に整列させられて所長の来場
 を待った。
  いやな予感がした。
  皆も何やら心配そうな顔をしていた。
  所長が壇上に立った。
  「諸君は中国人民を何だと思っている。
  中国人民は、君達の様な帝国主義思想の持ち主は絶対
 に許さない。
  中国人民は、日本帝国主義軍隊に一貫して斗ってきた。
  そして、勝利したのだ。
  君達は負けた。
  即ち、日本帝国主義軍隊は破滅したのだ。
  にも拘らず、君達は何等思想的には変化を見せず、帝
 国主義その儘である。
  環境を考えろ、環境を! 」と叫ぶように拳を握って、
 更に言葉を続けた。
  「中国人民は、君達を招待したのではない。
  勝手に日本帝国主義者が、武装して海を渡りわが中国
 に乱入したのだ。
  そして、我々の同胞を殺し極悪非道の犯行を平気でや
 って来た。
  それは誰だ! 
  お前達ではないか!
  その重大な犯罪を中国人民は許すと思うか! 
  絶対に許さない。
  お前達を殺すも生かすも、中国人民の権利であり、自
 由意志である。
  ・・・ 」
  こうして数ヵ月が過ぎた日、再度、「供述書」の提出
 を命ぜられた。
  紙切れ一枚たりとも残さず提出し、全員が屋外に並ぶ。
  「どす黒い日焼けした顔、骨太の体格、血走った目つき、
  これに金棒を持たせたら閻魔大王にそっくり」の所長
 が口を開く・・
  この所長は、孫 明斉 と思われる。
  孫は、撫順監獄の開所当時から所長だった人物・・
  「今日の私が閻魔様に見えるか、それとも仏様に見え
 るか・・どちらに見えるかは、君達自身が決めることで
 ある。
  真面目に学習し、真面目に思想改造に努力している者
 には仏様に見えるだろうし、学習をサボり、まあまあ人
 並みに机に座り、なんとか人にくっついて行けさえすり
 ゃあ思想改造はどうであろうと、皆と一緒に帰れるンだ
 と考えている者には、閻魔様に見えるだろう」。 
  認罪とは、素直な気持で自分の罪行を認め、素直に書
 き出す事であて、決してむづかしい事ではない。
  誤魔化そうとする者に限って、むづかしく考える。
  これは悪質である。
  即ち、『焼く』『殺す』『犯す』の重大犯行を、何時、
 何処で、何を、誰が、何をしたか、を具体的に供述する
 事である。
  最初は野菜を取りましたとか、豚をとりましたとか、
 又ちょっと時間が経つと、戦争で弾丸を射ちましたので、
 若し当っていれば人を殺したことになりますとか、或は
 1人殺しましただの、いや2人位だったと思いますだの・・
  君達は中国人民の生命をどう考えているのだ。
  鉛筆の走り具合で1人が2人になったり、3人が4人
 になったり、
  そうかと思えば忘れましたとか好き勝ってな事を言っ
 ている。
  嘘を言うな嘘を!
  残虐非道の人殺しをしていて、忘れましたで済むと思
 うか?
  大虐殺の実行者が、その虐殺を覆いかくし、「葱」だ
 「豚」だと書き出して、「 私は認罪が終わりました」
 と知らん顔をしている者もいる。
  図々しいのも甚だしい。
  ・・・ 〉
  命との引き換え、帰国との引き換えに「言わざるを得
 なかった」、
  「書かざるを得なかった犯罪行為」である・・がゆえ
 に、特段の信ずべき根拠がないかぎり、信じるのは無理
 と考えるのが常識というものである・・
  朝日新聞や、NHKなどのメディア、学者らは、抑留
 者の証言を正しいものとして、それを根拠に、日本軍叩
 きに力を注いだ。
  ねつ造された事実をどう理解するのだ・・
  その様なもので、日本国民を、メディアは洗脳した。
  罪行は厳重だが、認罪態度の比較的よい元日本軍中隊
 長大尉の宮崎 弘に、全所の戦犯の前で、認罪・告白・摘
 発の模範的発表をさせた。
  この様に身をもって説く典型的な発言は、強烈な影響
 力があり、その他の戦犯の認罪にしっかりした推進作用
 を引き起こした。
  みんなは真似て、ある事ないことで話を作った。
  宮崎中隊長らの演説は、「思想改造」が成功を収め、
 それゆえに、管理所側が計画した演出だった。
  「一体、国に帰れるのか」、「それとも殺されるのか」
 と不安な空気が部屋中に充満していた・・
  そのうち、手洗水の原液を飲んで自殺する者や、便所
 で自殺する者も出はじめた・・
  このため、屋外の便所のドアは取り外され、便器の口
 を木で狭めたりして自殺者の出ないよう措置がこうじら
 れた。
  こうした中で多くが末梢神経症にかかり、重症者は小
 便の出るのもわからない始末であった。
  また、記憶にも錯覚が起こって来た・・
  「俗にいう監獄病だよ」と誰かが言った・・
  2ヵ月余りにわたる徹底した、綿密な工作によって、
 尉官級以下の日本戦犯は、基本的に自己の犯した重大な
 罪行を明白に捏造(ねつぞう)を交えて告白し、
  また4000余件の摘発資料を書き上げ、上司、あるいは、
 他の者の罪行1万4000余項目を摘発した。
  主要でない日本戦争犯罪者、あるいは改悛の情がわり
 に著しい日本戦争犯罪者に対しては寛大に処理し、起訴
 を免除することができるとの放送が終わると、各監房は
 沸き立った。
  拘留者たちは涙ながらに声高く 「中華人民共和国万歳」
 「中国共産党万歳」 と叫んだ。
  こうして、「罪を認めれば寛大な処置が受けられ、罪
 を認めなければ厳しい処置を受けなければならない」 と
 した「二つの態度と二つの道」 が効果を発揮した。
  日本の罪は作られた・・そして、「思想改造工作」は
 成功裏に終了した。
  討論を通した誘導
  散々、吹き込まれて来たのですから、罪を認めないか
 ぎり帰国の望みが絶たれると抑留者は考えざるを得ませ
 んでした。
  大部分の抑留者は、真面目に認罪、反省の道を進んで
 こそ、中国人民の寛大な処遇を勝ち取ることができるの
 だ、ということを認識するようになり、次から次へと多
 くの罪行をねつ造を交えて告白するに至った」(金所長)
 というのも不思議ではない。
  撫順戦犯管理所に拘禁中の700余名の尉官級以下の
  日本人拘留者(戦犯と呼ばれた人々)が、次々に自己
 の罪を認めて、悔悟(かいご、悔いること)し始めた。
  彼らは、自分が進んで犯した重大な罪行だけでなく、
 同僚や上司の罪行についても想像し大胆に暴露し、摘発
 した。
  キリスト教の魔女裁判の時もこの事があり、尋問され、
 口を割ることを強いられた子供が、想像して母親を魔女
 だとキリスト教会へ訴え、キリスト教会はその母親を焚
 刑にした焼き殺した例さえあった。
  2年から3年の学習と認罪教育を経て、80パーセント
 以上の尉官級以下の日本人拘留者(戦犯と呼ばれた人々)
 は、2980項の罪行を告白し、637件の摘発資料を書き出し
 た。 
  こうして、1955年から1956年にかけて、個人差はあれ、
 ほぼ全員が、これではどのような刑罰を受けても止むを
 得ない、むしろ当然である、といった心境になった。
  「グループ認罪」によって導かれた「集団虚偽事件」
 は虚偽であったことが証明された。
  あるひどい者は、吸血鬼のように、中国人を惨殺した
 後、その肝と脳味噌を食べたとさえ嘘の供述をした。
  この様な人間性の一かけらもないような野獣のごとき
 実例は枚挙にいとまがない。
  日本人が肝臓やら心臓を煮て食ったのという類の「証
 言」が非常に多いのは、書類上、紛れもない事実・・
  もちろん、日本には、この様な風習はない・・逆に、
 中国にはある・・
  誘導されたのだ・・このことは『食人宴席』(鄭義、
 光文社)に記載されている。
  飢餓が襲った毛沢東のした文化大革命中に、広西省全
 域に広がった食人事件が記されている。
  日本人が知らない「人体から肝臓を取り出すさいのそ
 のさばき方」、とても、日本人が、想像で書けるもので
 はない。
  この「証言」は作り話・・その事が「労工狩り」に記
 されている。
  不安でたまらなくなる。
  帝国主義思想だと言われた。
  もう帰れない、いつ絞首刑になるのだろう、いつ銃殺
 されるのだろう。
  「すぐにもやられるような気もしますし、もう夜が眠
 られないのです。
  2日、3日と眠られない。
  軍隊のなかでどんなに苦しいときでも、殴られても生
 き抜いたのも、帰りたい一心です。
  ソ連で5年間耐えられたのも、日本へ帰る望みがあっ
 たから。
  よく坦白(中国語で罪行の告白)する者は日本に帰す、
 頑強に抵抗する者は処罰する・・と言っている。
  これはもうなんとか帰させてもらわなくちゃと気を取
 り直して、また書くわけです・・
  報告書を出すとすぐ呼ばれる。
  「お前は帝国主義思想だ」
  呉 浩然指導員の答えはそれだけ・・
  何が帝国主義思想なのか、いかなる説明もなかった。
  小島さんはますます滅入ってしまう・・
  坦白(タンパイ)した「堤防決壊事件」が事実無根で、
 事実は連日の大雨による運河の自然決壊であり、さらに
 加えて小島が731部隊が加わったと虚偽の証言をつけ
 加えた・・
  どのカードを切れば「許される戦犯」になれるか、慮
 (おもんばか)った・・
  この告白の後、例によって呉浩然指導員からすぐ呼び
 出された。
  今度は、「小島 お前は進歩した」といい、彼は嬉し
 そうに握手を求めた。
  小島さんは「しめた、褒められた」。
  「これで俺は日本へ帰れるかもしれない」とほくそ笑
 んだ。
  ひとつ書いて褒められたのだから、もう少し書いてや
 ろう。
  そこで、今度は、拷問や刺殺を四つほど書いて出した。
  期待に反して、呉指導員の評価は変わらず、「帝国主
 義思想にすぎない」と批判される・・
  だが、思い出し切れない。
  それでも100項目を越えた。
  そのなかで、告白に値すると思うものを総て清書し、
 呉浩然指導員に提出した。
  小島中尉だけではなく、抑留者全員がたどった道だっ
 た・・
  「何度も提出しては書き直し、提出しては書き直させ
 られた」と・・
  この延長線上の様に、小島中尉は、NHKのテレビに
 出演し(1989年8月)自らの悪党ぶりを強調した・・
  しかし、小島中尉直属の部下の見方は、これとは大き
 な隔たりがある・・
  機関銃中隊に所属し、小島の在任期間のすべてを直属
 の部下として小島を見てきた内田元軍曹は、「いるのか
 いないのかわからないような中隊長でした。
  率先してなにかやる中隊長ではなかった」と戦友会に
 出席した時に説明していた・・
  内田軍曹は、「どうしてウソをいうのか」と小島に電
 話をかけ、理由を問いただした・・
  その時の小島の答えは、「人にはいろいろあるから」
 といった要領を得ない発言しかもどって来なかった・・
  内田軍曹は「何を言っているのかよくわからなかった」
 とも話した。
  また、内田軍曹と同様、小島中尉の直属部下だった T
 は、「小心な人でした。兵隊に対しては温和に接した人
 です。
  残虐なことはありません。
  何の都合か法螺(ホラ)を吹いているようです」と
 書いた。
  小島の自称する「鬼の典型」とは、およそ縁のうすい
 人柄が浮かび上がる・・小島を知る将兵たちの一致した
 話だった・・
  小島は自らしゃべりはじめ、メディアなどに聞かれる
 たびに、話が量、質ともエスカレートし、饒舌になって
 行った・・
  自然決壊であった運河に「コレラ菌を撒いた」と言い、
 あげくに、「731部隊と協力した」とまで証言を膨ら
 ませて行った・・
  永富博道・元曹長の場合、NHKテレビや朝日新聞で
 大きく報じられた・・『レイプ オブ 南京』という本に
 も、残虐行為の証言者として登場する。
  同一人物の「実体験」にしては、「記憶違い」とは性
 質の異なる、言いかえれば間違うはずもないことに間違
 いが出ている・・
  例えば、前者では、榎本は中国人の娘を慰みものとし
 て2日前から連れ歩いていたはず・・
  しかし、後者では副食がないからといって、中隊長が
 1人で部落から連れてきた娘だというのです。
  また、前者では、伊藤中隊長の姿はどこにも見当たら
 ず、榎本曹長1人で強姦のうえ庖丁で殺害、肉を切りと
 って配給している。
  それに油で料理したのは兵隊たち・・
  後者になると、殺害は中隊長と2人、しかも凶器は短
 剣となる・・
  そして肉をスライスし、油でいためるのも2人・・
  記憶違いという次元のものでないことは誰でもが判断
 できる。
  中隊長が兵隊の副食を作る、こんな事はある訳はない、
 この1点を知っただけでもこの「証言」を、誰もが信じ
 ない。
  榎本(新井)と同じ部隊にいた他の将兵とずいぶん連
 絡をとったが、この様な話を真面目に受け取る人は誰一
 人いなかった・・でっち上げの嘘・・
  そのうちの1人は、「娘を食ったなどとんでもない」・・
 「自分たちが一番よく知っていることだ」と青森県の
 弘前から電話をして来てくれた・・
  なぜこんな話がまかり通るのか・・
  しかも、書店で堂々と売られているばかりか、学校教
 育の場に持ち込まれてさえしている・・
  ノンフィクション賞をとった精神科医まで信じている。
  そのうち、日本を貶(おとし)めるのが得意なNHK
 や、朝日新聞をはじめとする報道機関が抑留者を取材源
 にして日本の貶め報道が増えた・・
  元をたどれば、中国抑留者の「証言」だけによる「59
 師団史」だということを1人のヨタ話がこの様に広がっ
 た・・
  (評)
  今、中国は、新疆ウイグル自治区のウイグル人の方々
 を80万人~200万人も強制収容所に拘束している。
  そして、上に記した様な、強烈な共産主義の洗脳教育
 がなされている。
  一党独裁であるが故に、民主的でないが故に、他の意
 見や思想に対して敏感となり・・強烈となる・・
  それは国家体制を維持するためで・・体制維持の洗脳
 が強烈に行われる。
  民主的に政治が行なっていないという政治体制の裏返
 しである。
  民意を聞いてないからこそ、その民意を一つの方向(
 共産主義独裁国家是認の方向)に向けておきたいために
 必死に民の洗脳が行われる。
  これをしっかりやらないと自らの存在が危うくなる。
  上記の様に、日本もこの卑劣な洗脳の思想操作をされ
 た。
  この補償も日本は中国に求めなければならない。
     ・
     ・
2019年、韓国は不正輸出の常習犯・・
  文在寅政権で急激に増加した大量破壊兵器関連物質の
 横流しが明白になった。
  韓国の不正輸出は、今まで常に行われていた・・
  文在寅大統領の就任前は18件/年間だったのが・・
  この文在寅大統領が就任した後、60件/年間の急増ペー
 スになった。
  そして、韓国は、不正輸出で年がら年中摘発されてい
 て・・
  2015年~2019年3月まで、156件もの不正輸出の摘発が
 なされている。
  まったく反省の兆(きざ)しの無い韓国となっている・・
 確信犯である。
  ◆ジイソプロピルアミンをパキスタンなどに不正輸出
   していた。これは化学兵器の原料となる。
  ◆フッ化ナトリウムをイランへ不正輸出していた。
   これはサリンの原料である。
  ◆生物安全キャビネットをシリアへ不正輸出していた。
   これは、生物兵器製造の資機材である。
  ◆フッ化水素酸をアラブ首長国連邦(UAE)へ不正
   輸出していた。
   これは核兵器製造に使われ、また、サリンの原料で
   ある・・これらは一端に過ぎない・・
.
2019年11月22日、韓国が、GSOMIA破棄を撤回した・・
 止めた・・
  今まで、北朝鮮が、韓国に「GSOMIAを破棄して
 くれ」と言っていた。
  しかし、韓国は、今回の騒ぎを起こして、逆に「GS
 OMIAは止めません・・切れません」という韓国の状
 況を北朝鮮に「ばらしてしまった」。
  今回、韓国は、非常に下手な、不味(まず)い演技を
 してしまった・・「墓穴を掘ってしまった」。
  北朝鮮と韓国は、拙(まず)い関係に陥(おちい)っ
 た。
  今、韓国は、文在寅政権に反対するデモが盛んに行わ
 れている。
  しかし、ここでおかしいのが・・日本のマスコミがま
 ったくこの事を報道しない。
  規模も最大級となっている。
  (資料ー1)
  2019年10月3日、ソウルで文在寅(ムン・ジェイン)大
 統領の退陣要求デモ・・韓国・・AFP(国際ニュース)
  文大統領の支持率は、疑惑の渦中にある曺国(チョ・
 グク、Cho Kuk)新法相の任命を受けて過去最低に落ち込
 んでいる。(c)AFP
  世界の三大通信社の一つであるAFP通信が伝えてい
 る。
  (資料ー2)
  2019年11月2日、韓国・反文在寅デモ、光化門「青瓦台
 包囲作戦」ソウル都心麻痺 !!
  https://www.youtube.com/watch?v=va0IJwYd-H0
  韓国のメディアの偏向報道に、韓国の方々も気づき、
 若い人が中心に騒がれ始めたのがきっかけで、今は連日、
 数10万人のデモが行われている。
  想像できないくらいの規模で行われているのに、日本
 のメディアはまったく報じないのも疑問???
  (資料ー3)
  2019年9月30日、韓国“デモ事情”激変!「反日」から
 「反文」へ 
  韓国でデモの様相が激変している。「タマネギ男」こ
 と、チョ国(チョ・グク)法相周辺のスキャンダルや、
 韓国経済の危機的現状、北朝鮮主導の「赤化統一」への
 警戒感から、「反日」デモがなりを潜め、文在寅(ムン・
 ジェイン)政権への批判が高まっている。
  「1年前に取材で訪韓したときに比べて、街の雰囲気
 が様変わりした。
  韓国は『自由主義陣営に残るか』『北朝鮮、中国圏に
 傾くか』という、大きな意味で分水嶺(ぶんすいれい)
 に来ている」
  「反文」デモが過激化し始めたのは、文大統領が今月・
 9月9日、娘の不正入学疑惑や、息子の兵役逃れ疑惑、
 私募ファンド投資疑惑などが連続炸裂(さくれつ)して
 いたチョ氏を法相に強行任命して以降・・
  「反文」「反チョ」デモについて、「中国の科挙制度
 の流れをくむ超学歴中心社会や、兵役制度に苦しんでい
 る学生や若者たちの神経を逆なでし、激怒させた。
  中には、日本大使館前のデモでは「文在寅政権は日本
 政府に謝れ!」と書かれた横断幕を掲げたデモの一団も
 いた。
  参加者が持つ紙には「韓国のホワイトリスト排除、文
 在寅は責任をとれ!!」「韓米日三角同盟解体するな」
 「亡国的反日扇動はもうやめろ」と言葉も踊っていた。
  「文在寅OUT」という赤い張り紙とともに、文氏の
 飛び出た顔写真を車のフロントガラスに貼り付け、手の
 ひらの写真をつけたワイパーが動くたびに往復ビンタを
 する仕掛けもあった。
.
2019年11月25日、中国が「ウイグル人の弾圧をしていた」
 と、この日、その証拠の公文書が流出した。
  中国政府が、ウイグル人を収容所で「洗脳」していた。
  2019年11月25日、この公文書が流出した。
  国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)が入手
 した公文書には、中国・新疆ウイグル自治区の強制収容
 所で行われている残忍な「思想教育」の実態が記されて
 いた。
  拷問と殺戮も行われていると言われている。
  だが、その様な「中国の人権問題」に沈黙する日本の
 政治家たち・・
  今、日本人が、意味不明で「10人も中国につかまって
 いる」。
  この様な状況の中で、日本は、習近平国家主席を国賓
 として日本へ呼ぼうとしている・・
  おかしいのではないか??
  また、このような時、中国政府が主導する組織的なス
 パイ活動が明らかになった。
  香港・台湾・オーストラリアでスパイ活動をしていた
 中国人スパイが、オーストラリアに亡命申請をした。
  そして、言った・・
  「中国政府による、組織的なスパイ活動と政治体制の
 乗っ取り」を警告した。
  国際社会は、中国へ強制収容所を見せろと迫らなけれ
 ばならない。
  また、ルーズベルト大統領の時、共産圏の工作員がう
 ようよ大統領の周辺に居て、国家体制が乗っ取られてい
 たが、この様な事に最大の警戒をしなければならない。
  しかし、今・現代、日本の政治家の多くが親中である
 と言われている。
  そして、また、「ウイグル人を弾圧している中国の証
 拠」を米紙ニューヨーク・タイムズも指摘した。
  以下はその記事・・
  (資料ー1)
  ウイグル族弾圧・・内部文書・・米報道・・習氏演説
 や指示書など・・
  米紙ニューヨーク・タイムズは16日(2019年11月16日)
 中国政府が中国新疆ウイグル自治区で行なっている少数
 民族ウイグル族らへの弾圧を裏付ける内部文書を入手し
 たとし、内容を報じた。
  中国外務省は18日の定例記者会見で、「中国が新疆で
 行っている反テロの努力を貶めるものだ」として報道を
 強く非難した。
  ニューヨーク・タイムズが入手した文書は、習氏や共
 産党幹部の非公開の演説資料のほか、自治区当局者への
 指示書など24種類、計403頁に上るという。
  中国の政府関係者から提供されたとし、「中国共産党
 内部にも、弾圧を疑問視する声がある」と指摘した。
  文書には、習近平国家主席が2014年に行なった内部会
 議での演説内容も含まれており、ウイグル族の取締りを
 「テロや分裂主義との戦い」と表現し、「一切容赦はす
 るな」と指示していたとしている。
  また、文書の中には、米国などがウイグル族らの強制
 収容所だと指摘している施設に関し、収容者の家族から
 の問い合わせに対応する想定問答もあった。
  例えば、「家族はどこに居るか」といった質問に対し、
 「政府が設立した訓練学校で学習している。
  生活環境はとても良い」などと答えるよう書かれてい
 た。
  中国政府は施設について、イスラム過激主義の影響を
 受けた人を教化するための「職業技能教育訓練センター」
 だと主張している。
  習政権は、信仰より党の指導を優先させようとする「
 宗教の中国化」を打ち出し、治安維持を名目にウイグル
 族らへの抑圧を強めているとされる。
  (資料ー2)
  ウイグルに思想教育1年超・・ICIJ、中国の文書入
 手・・
  国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)は24日(
 2019年11月24日)、中国当局がウイグル族ら少数民族を
 収容している新疆ウイグル自治区の施設に関する内部文
 書を入手し、内容を公開した。
  このうち新疆ウイグル自治区の共産党委員会が2017年
 11月に作成したとされる文書は、「職業技能教育訓練セ
 ンター」の管理や運用について定める内容だった。
  脱走防止策として、見張り台や鍵付きのドアを整備し、
 「死角がないよう」監視カメラを設置するよう求めてい
 た。
  職業訓練の前に、中国語教育や思想教育などを「少な
 くとも1年以上」行なうことを指示する一方、「週1回は
 家族と電話で話すことを保証する」ことも盛り込まれて
 いた。
  センターについて中国政府は、イスラム過激主義の影
 響を受けた人を教化するための施設と主張している。
  また、別の文書には、自治区のある地域で2017年6月の
 1週間に約1万6000人が施設に送られたとの記述があった。
  米国務省は、自治区内の拘束者が80万人~200万人に上
 る可能性を指摘しているが、中国政府は収容人数を明ら
 かにしていない。
.
2019年11月27日、「香港人権・民主主義法」がアメリカで
 成立した。
  この法律は、中国が「一国二制度」を守っているかな
 どを、米国務省が毎年の検証することを義務付けた法律
 だった。
  この日、米国トランプ大統領が署名し、法案が成立し
 た。
  米中対立の新たな火種となる。
  中国は「内政干渉だ」と言ったが、中国が言う内政干
 渉に当らない・・
  それは、中国は、香港が返還された時、アメリカに約
 束をした・・
  「香港は、一国二制度があるから」と中国は、アメリ
 カと約束をして、アメリカ企業の香港への誘致をアメリ
 カに誘いをかける行動をしていた・・だから、アメリカ
 はそれをチェックする義務がある。
  台湾の蔡英文総統は、ツイッターで呼びかけて「自由
 と民主主義を信じる皆さん、ともに立ち上がり、混乱す
 る香港の情勢に関心を寄せましょう」と言った。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  元徴用工のこと・・
  日本で儲けたいと給料の良い日本に来て韓国・朝鮮の
 人が、日本で働いて帰った。
  日本の給料が良いから、韓国・朝鮮から密航的に来て、
 捕まった人が、また密航して来るほど日本の給料は良か
 った。
  元徴用工の話は、この様な状況の中に始まる・・
  今ごろになって、韓国が、日本に御礼を言うどころか
 文句を付けている。
  韓国の裁判所は、日本のどこが悪くて判決を出したの
 か? 
  事実認定を間違っている。
  賠償をする様な事を日本がしたと言う。
  これは、慰安婦問題と同じような韓国のでっち上げだ。
  そもそも問題となる様な事は無いのだ。
  また、例え、韓国の裁判所の判決の様な事はないが、
 あるとしたって、日本と韓国の間には、「この類いの問
 題が生じた場合は、韓国政府が責任をもって解決すると
 なっている」。
  「日本には問題が及ばない」と、国と国の約束で、条
 約として取り決められている。
  だから、今、無理を承知で韓国は、色々とその無理を
 押し通して、日本に言っているが、詳しい事を知らない
 世界の人たちを騙(だま)している。
  そして、韓国は、世界の人たちを繰っている。
  世界の人たちへ、「日本がおかしいのではないか」と
 世界に思わせ様としている。
  まったく日本に問題のない話を、何か問題のありそう
 な話にしようとしている。
  日本は、また、変な妥協をすると、その妥協が、例え
 小さな妥協であっても、「やっぱり日本がおかしかった
 のか」となる。
  日本は、この様な筋の通らない話しは「突っぱねよ!!」。
  「正論だけ言っていなさい」。
  慰安婦の時の二の舞はするな!
  また、世界へ理解して貰(もら)う努力をせよ!!
  韓国へ正論を言っても通じない。
  日本に譲歩を求める韓国大統領はおかしい?
  何も悪くない日本に、その説明もしない韓国に、譲歩
 を求める韓国はおかしい?
  韓国は、「得意な引っ掛け」を、日本に対して行って
 いる事になる。
  この様な卑劣なところが、韓国には、昔からある。
  また、「平行線」と表現すること自体もおかしいこと
 なのだ。
  何も問題ない日本に、その問題も説明できない韓国に、
 平行線となる線は無いのだ・・その様な状態の韓国なの
 だ。
  平行線もなにも問題自体が日本に無いのだ。
  また、韓国大統領が「未来志向の話し合いをしたい」
 と言ったって、「日本の問題点の説明もしない韓国に、
 未来を語る資格はない」。
  日本に問題があるというのなら、誠実に日本の問題点
 を説明しなさい。
  「そもそも問題が無いものに、問題があるとした韓国
 の問題を解消しないで、話し合いをしようという論理は
 成立しない」。
  未来志向であろうがなかろうが「その未来の発展の芽
 を摘み取っている韓国の論理を撤回して、その様なデッ
 チアゲを謝罪がなければ、話し合いも何もできる訳はな
 い」。
  この様な韓国の態度を例えるならば・・
  「日本の顔を殴っておいて、日本に謝罪もしないで、
 握手したいと言っている様なもの」。
  「謝罪しないで、未来志向の話し合いをしよう」と言
 っている様なもの。
  韓国は、日本と未来志向の話し合いがしたいならば、
 まず、元徴用工での非礼の謝罪をしなさい。
  韓国に非があるのに、謝罪も、また、反省も示さずに、
 「両国間の懸案が早期に解決するよう、互いに努力しよ
 う」なんて言えるものだ。
  この様な、韓国の世界を誤魔化す態度が、そもそもの
 問題なのだ。
  韓国よ!、誠実になりなさい。
  そして、日本は、あくまで筋を通しなさい。
  変な妥協をしては、世界を誤らせる。
  また、変な誤解を日本は受けてしまう。
  いつもの様にしつこい韓国だが、正論だけをこの件に
 ついては言っていなさい。
  韓国のこの様なおかしさはアメリカには分かって貰っ
 たので、これからは世界に理解してもらう様にしよう。
  この様な不誠実な韓国大統領の「退陣せよの声」が、
 韓国国内に満ちている。
  この様な韓国大統領には、正論だけで応じて下さい。

2019年12月3日火曜日

(増補版)668E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年3月~1897年4月)

題:(増補版)668E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年3月~1897年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年3月29日、私設鉄道条例中改正法が公布された(法律
 第23・24号) (3月26日説あり)
  1987年5月18日に私設鐵道條例が公布されていた。
  第一條 旅客及貨物運輸營業ノ目的ヲ以テ鐵道ヲ布設
     セントスル者ハ發起人五人以上結合シ鐵道會社
     創立願書ニ起業目論見書ヲ添ヘ本社ヲ設置セン
     トスル地ノ地方廳ヲ經由シテ政府ニ差出スヘシ
     馬車鐵道ハ本條例定ムル所ノ限ニアラス
  上記の法律が改正された。
  第六條 會社ハ其登記ノ日ヨリ六箇月以内ニ鐵道布設
     工事ニ著手シ免許状ニ記載シタル豫定期限内ニ
     竣功スヘシ若シ其期限内ニ竣功シ難キ事由アル
     トキハ少クトモ二箇月以前本社所在ノ地方廳ヲ
     經由シテ政府ニ具申シ延期ヲ請フヘシ但其延期
     ハ豫定期限ノ半ヲ超ユルコトヲ得ス・・など
.
1897年3月31日、北海道鉄道敷設法予定鉄道線路中小樽より
 函館に至る鉄道は、私設鉄道会社に敷設を許可すること
 を得る旨の法律が公布された(法律第35号)
.
1897年3月31日、赤帽(あかぼう)の設置
  山陽鉄道の主要駅に、乗降客の便をはかるため、明治
 29年度において、荷運夫(にはこびふ)を配置し、駅構
 内の旅客手回荷物の運搬を開始した。(1896年12月説あ
 り)また(1897年11月説あり)
  明治31年8月現在姫路・岡山・尾道・広島・宮島・徳山・
 三田尻の7駅に数人ずつ置かれ、運搬料金は2銭(重さ、
 個数に関わらず1回2銭)
  1897年に新橋駅に置かれたのが皮切りで主要駅に広が
 る。
  第一次大戦期には、チップを上乗せするのが一般的に
 なった。
  荷物は車内携行制限があったがそれ以上でも赤帽が運
 び込めば黙認された。
  1928年には、京都駅と大阪駅で女性による「白帽」の
 営業が始まったが普及しなかった。
.
1897年3月、貴族院が、「統計事務拡充ニ関スル建議」を行
 った。
.
1897年3月、日本銀行が、東京卸売物価指数(明治20年1月
 基準)の公表を開始した。
  1887年(明治20年)1月に卸売物価指数が始まり、
  1895年に貨幣制度調査会が、我が国最初の物価指数を
   作成した・・また、同年・・
  1895年、農商務省が重要商品指数を公表した。
   続いて、他の機関でも物価指数の作成が行なわれた。
   こうした中で・・
  1897年で、日本銀行が、東京卸売物価指数の公表を開
   始した(明治20年を基準にした指数)
   採用品目は30品目で、明治31年以降は40品目。
.
1897年4月1日、伝染病予防法が公布された(法律第36号)
  伝染病予防法は、伝染病の予防、及び、伝染病患者に
 対する適正な医療の普及を図ることによつて、伝染病が
 個人的にも社会的にも害を及ぼすことを防止し、もつて
 公共の福祉を増進することを目的として制定された法律。
  コレラ、赤痢(疫痢を含む)、腸チフス、パラチフス、
 痘瘡、発疹チフス、猩紅熱、ジフテリア、流行性脳脊髄
 膜炎、および、ペストの10種の急性伝染病の予防に関し
 て規定されている(いわゆる十種伝染病)
  各都道府県市町村に、清潔方法、消毒方法、予防処置
 の施行、伝染病院、予防委員、検疫委員、防疫監吏など
 の設置を義務づけるほか、家宅などへの立入り、交通遮
 断、隔離、強制収容、物件の使用禁止、死体および家屋
 などの処分、届け出義務、費用の支弁、国庫の負担など
 について規定した。
  しかし、伝染病の拡大阻止を優先するあまり、患者の
 人権に対する配慮に欠けた部分があった。
  1897年の施行以来、国内に非常在性の伝染病の国内侵
 入後、および、常在性の主要な伝染病の伝播予防を目的
 とする種々の法律の中核となる。
  しかし、予防対策や治療法、および、衛生思想の普及
 が不十分な時代に制定された法律で、感染者の隔離や感
 染地域の交通遮断、集会の禁止、強制消毒など、時代に
 あわない内容となった。
  そのため、1999年に廃止された。
  かわって、感染症予防・医療法(感染症法、平成10年
 法律114号)が施行された。
.
1897年4月1日、台湾銀行法が公布された。
  台湾の資源を開発することを目的に制定された。
  そして、1899年には半官半民の台湾銀行が設立された。
  普通の銀行業務を行う一方、台湾の中央銀行として台
 湾銀行券を発行した。
.
1897年4月1日、住友家が、日本製銅(株)を買収し、住友
 伸銅場を開業した・・場所は大阪市福島区。
  1913年6月11日、住友伸銅所と改称した。
  業務は、銅・真鍮類を板や棒・線に加工する。
  1909年7月20日、製管工場
  1912年5月1日、鋼管工場を新設し、日本で初めて銅や
   真鍮の引き抜き管、継目無し鋼管の製造を行なう。
  現在の住友金属工業鋼管製造所
  因みに・・
  1681年、住友家の別子銅山の前に、岡山県高梁市の吉
   岡銅山の経営に着手していた。
   この地では今でも住友電工焼結合金(株)が世界最
   大級の焼結部品工場を展開している。
  1691年、吉岡銅山の支配人が、対岸の愛媛県新居浜市
   に鉱脈があるとの情報を入手した。
    それが、世界有数の鉱山・別子銅山の発見だった。
   そして、開坑につながった。
.
1897年4月6日、高野房太郎が、職工義友会で労働組合結成
 を促(うなが)す演説を行う。
  職工義友会(しょっこうぎゆうかい)は、この年、城
 常太郎、高野房太郎、沢田半之助らがつくった労働組合
 結成の研究・準備機関で、研究、宣伝機関だった。
.
1897年4月10日、臨時北海道鉄道敷設部官制の一部改正官設
 鉄道の予算決算、出納、物品の購買、保管、出納に関す
 る事項を追加した(勅令第81号)
  1886年に開拓使が廃止されて、北海道庁が置かれ・・
  北海道庁は、開拓のために鉄道がどうしても必要と判
 断し、北海道庁が自ら鉄道建設・運営を行うという方針
 が打ち出された。
  国においても、北海道における鉄道網の建設が必要と
 判断して建設計画は策定していた。
  1896年、北海道鉄道敷設法が公布され、そして、施行
 されて、北海道庁がその建設に当たることになった。
  故に、北海道官設鉄道は、北海道庁鉄道部が建設し、
 運営した鉄道。
  北海道庁鉄道部が設置されるのは、1897年11月5日。
.
1897年4月11日、山陽鉄道官鉄線を介して関西鉄道と連絡運
 輸を開始した。
  1888年1月に山陽鉄道は設立され・・
  1888年11月1日、兵庫駅~明石駅間が開通した。
  1888年12月23日には延伸されて明石駅~姫路駅が開通。
  1889年9月1日、神戸駅~兵庫駅間が開通。
  山陽鉄道は積極的な経営方針を採った。
  すでに、1894年には長距離急行列車を運行していた。
  1898年には車内灯を電化し、ボーイを添乗させた。
  1899年、食堂車の連結
  1900年、一等寝台車の投入・・など
.
1897年4月15日、バデーニ言語令
  オーストリア=ハンガリー帝国のボヘミア地方におい
 て、ドイツ語と並んでチェコ語も公用語と定めた政令(
 バデーニ言語令)がバデーニ首相によって発布された。
  この地域は、二重帝国と言われ、極めて多くの民族が
 関係する国家だった。
  オーストリアだけでも、ドイツ人、チェコ人、ポーラ
 ンド人、ウクライナ人、イタリア人、スロベニア人が居
 住し、混在し、複雑な民族が織りなすモザイク的状況だ
 った。
  この様な状況の中で政治・社会問題化していた課題が
 多かった。
  特に、言語や教育などの文化的領域が大きな問題だっ
 た。
  1867年、ハンガリー人に広範な自治権を認めざるを得
 ない状態になると、オーストリア内のスラブ系民族の不
 満が高まった・・
  そして、この年、ポーランド人もハンガリー人の様な
 独立的な地位が要求された。
  1868年、政府は、ポーランド人が多く居住する地域に 
 公用語をポーランド語に限定する言語令を発して、妥協
 した。
  1868年以降、3次に渡ってスラブ系の諸民族に自国語の
 使用を公に承認した「言語令」を発した。
  特に、第3次のバデーニ言語令は、チェコ人のチェコ
 語の公的な使用を認め、大きく拡げたものであったため、
 ドイツ系住民が大反発をし、国は大混乱した。
  こんな混乱が延々と続いて・・バデーニ言語令に至っ
 た。
  日本も、今、移民法的な法律ができて、中国人が一番
 多く日本に流入し(70万人)、そして、工作員まがいの
 中国人がますます増えているが・・
  その内、日本の公用語に、中国語も公用語に入れろの
 要求が出るという騒ぎになるだろう。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本も、今、移民法的な法律ができて、中国人が一番多く流入し(70万人)、そして、工作員まがいの中国人がますます増えているが・・
   その内、日本の公用語に、中国語も公用語に入れろの要求が出るという騒ぎになるだろう。
.
紀元前1万4000年、縄文時代が日本に形成される(~紀元
 前1000年)
  この人たちが日本の先住民・・アイヌの人たちではな
 い・・政府に圧力をかけて、法律に「アイヌは先住民」
 と書かせたが間違い・・
  アフリカを出発したホモ・サピエンス・・
  そのホモ・サピエンスが、紀元前3万年に日本に来た
 (当然、アイヌではない)
  そして、無土器時代を経験し、約1万6000年前から約
 3000年前まで、北海道から沖縄本島にかけて縄文人が住
 み、縄文文化を形成していた・・この系列が日本人の祖
 先であり、先住民である。
  だから、北海道にも、当然、「縄文人の遺跡」はある
 (アイヌの遺跡ではない)
  日本人の祖先である縄文人が、当然、北海道に住んで
 居た。
  北海道のこの縄文人の遺跡群をユネスコの世界遺産(
 文化遺産)に掲載される活動を進めている。
  紀元前の遠い昔から日本人の祖先が、北海道で生活し
 て来た遺跡群は、キウス周堤墓群(千歳市)、北黄金貝
 塚(伊達市)、入江・高砂貝塚(洞爺湖町)、大船遺跡
 (函館市)、垣ノ島遺跡(函館市)などである。
  アフリカからのホモ・サピエンスの人類の大移動は、
 日本列島でも行われ、北海道にも住み、縄文遺跡として
 残していた。
  しかし、この日本の先住民を差しおいて「アイヌが先
 住民だと法律に書かれた」。
  政府が陳情の圧力に屈したというが、紀元前3万年に
 来た日本人の祖先が先住民ではなく、紀元後の13世紀
 に日本に来たアイヌが先住民だと法律に書く大間違いを
 している。
  この『間違った法律』を改正して行かなければならな
 い!!
     ・
     ・
     ・
紀元前2400年~紀元前1000年、日本人が、この頃、漁労民
 となり、園耕民となった(約4400年前~3000年前)
  縄文時代の後期になって、第二の渡来民がやって来た。
  日本には、この後にも、第三期の渡来民が来る。
  この第二の渡来の民の集団は、黄海沿岸に住む「海の
 民」と推定された。
  漁労を主とする狩猟採集民か、もしくは、狩猟採集と
 農耕をともに生業とする園耕民であった考えられた。
  この人々は、日本列島中心部において、縄文人と混血
 した。
  以上の様に・・この頃は、アイヌの「ア」の字もない
 「アイヌの痕跡もない時代」。
  アイヌが先住民である訳がない。
  アイヌの人々が、圧力を日本政府にかけて「先住民」
 と日本の法律に書き込ませたが、まったくの嘘で間違い。
  この様な酷(ひど)い行為は反省し、取り消して戴き
 たい。
     ・
     ・
     ・
825年、この頃、日本に、小野小町という女性歌人が生まれ
 た。
  世は、平安時代という戦争がまったく無い「平和な時
 代」だった。
  日本は、仏教の男女平等思想が古くから根付き、この
 時代の女性方も教養が高く、文化的な活動を活発にして
 いた。
  小野小町は、六歌仙という有名な女性歌人だった。
  美人で美しい女性であることでも有名だった・・絶世
 の美女と言われ七小町など数々の逸話がある。
  系図的には小野一族である小野篁の息子である出羽郡
 司・小野良真の娘だという。
  生没年は種々の資料から825年~900年頃と想定されて
 いる。
  日本は、この様に、古い時代より女性への差別のない
 国だったため、この様な伝説が、西洋と違って豊富に残
 っている。
  日本独自に発展して来た「能(のう)」・・
  その能の演者の方が書かれたものを読むと、「もっと
 何かが物語るのではと・・」とか、「声を出すのではな
 く・・して・・した結果、洩れて・・したものと心掛け
 ている」とか、「・・は・・というけれど、・・の・・
 は何か?」とか、「・・は・・だ、・・して何が悪いの
 だ?」とか、「・・も・・、また、・・も・・、・・も・・
 だ、なら・・は・・では?」とか・・と、現状について
 の探求、求めに求め、続けている。
  例えば、奥深い能の作品の一つである「卒塔婆小町」。
  美貌の小野小町が、「私のところに百夜通ったら付き
 合ってあげるわ」と揶揄半分で深草の少将へ言う。
  その言葉に、雨の日も風の日も雪深い日も、通い続け
 る深草の少将。
  そして、九十九日・・あと一日というところで力尽き
 て死んでしまった深草の少将。
  この無念は計り知れない。
  そして、時を経て・・美貌を誇った小町も老境に入る。
  ここが、能「卒塔婆小町」の話となる。
  どの様な能なのかは是非、御覧戴きたい。
  日本の宝の作品を味わって戴きたい。
  能は、教えてもらってできるというものではなく、自
 分で勉強し、自分で創るものだ、また、単に習うもので
 はない・・と、能の演技を探求する演者は語る・・
  習ってできるというものでもない、これまで培(つちか)
 って来たことを信じ、自分で感じるままに気負いなくや
 りたいと・・語る・・
     ・
     ・
     ・
18世紀、数々の科学的知識を得て、キリスト教の妄想から
 解き放たれた人類・・
  この人類は、「キリスト教聖書は、『人間が書き記し
 た書物』」などの真実を知り、キリスト教の批判的研究
 も進展させた。
  キリスト教は、それまで、キリスト教聖書は「その一
 字一句のすべてが、キリスト教の神がもたらした言葉」
 とし、無謬(むびゅう、絶対間違いない)としていた。
  その「無謬(むびゅう、間違いは一切ない)だ」とされ
 ていた看板が剥がれ落ちた・・
  大前提が崩れ去った世紀だった。
  この考えは、急速にヨーロッパへ広がった。
  根拠の崩れ去ったキリスト教年代学は「年代学論争が
 終焉を迎え」・・
  キリスト教普遍史は土台も支柱も崩壊した。
.
19世紀、西欧列強諸国は、その置かれた優利な立場を利用
 して、世界を、植民地または半植民地にして行った・・
  その非人道的行為の被害を受けたのがアジア・アフリ
 カの諸国だった。
  しかし、ヨーロッパ列強諸国は、この様な歴史を強引
 に理論的に支えて合理化した。
  この考え方が世界に広く伝えられた。
  何ごともヨーロッパは進んだと見た日本も西洋礼讚の
 中に居た。
  ヨーロッパは、「アジアは古代」・「暗黒大陸」・・
 アフリカは「未開」・「野蛮」(原始時代)に停滞してい
 るとした。
.
1854年3月31日、日米和親条約
  日本側全権:林復斎(大学頭)、アメリカ側全権:東
 インド艦隊司令長官のマシュー・ペリー。
  下田と箱館(函館)を開港し、食料、石炭などの供給
 も約束した。
  第二ヶ条
  一 伊豆下田、松前地箱館の両港は、日本政府に於て、
 亜墨利加船薪水、食料、石炭、欠乏の品を日本人に而調
 候丈は給候為め、渡来の儀差免し候。
  尤下田港は約条書面調印之上即時相開き、箱館は来年
 三月より相始候事。
  燃料の供給は、茅沼(かやぬま)炭山を開発し・・
  1867年、海岸までの3kmの運炭鉄道の工事も始めた。
  この茅沼炭鉱軌道は、日本で最初の鉄道と言われる。
  場所は積丹半島の北海道後志支庁管内古宇郡泊村で、
 茅沼炭鉱での軽便鉄道。
  また、この茅沼炭鉱は、1856年、茅沼にて偶然石炭が
 発見され・・開港まもない箱館にとって、欧米の蒸気船
 用の石炭の確保もあり・・直ちに、箱館奉行所は茅沼に
 て石炭の調査を開始した。
  1864年、箱館奉行所はアメリカ人技師を招き、茅沼炭
 鉱の採掘を開始した。
  そのような中、鶴嘴(つるはし)とモッコといった人
 力による採掘運搬を見て、イギリス人技師エラスムス・
 ガウワーが、効率化のために鉄道(トロッコ)の建設を
 提案した。
  1866年、測量が開始され、建設が始まった。
     ・
     ・
     ・
1939年、日本の渋谷に地下鉄が開通した。
  しかし、その翌年の1940年には、日本は、朝鮮の京城
 に、地下鉄を作ってあげた。
  日本は、誠実に韓国・朝鮮の国づくりをしていた。
  韓国・朝鮮の近代化を熱心に行った。
  この様な事に関して、韓国から感謝の言葉はまったく
 無い・・
  逆に、無いことを有る様にしてまでして日本に貶(お
 とし)め発言を言う・・お金が欲しいなら欲しいと素直
 に誠実に言いなさい。
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1945年8月23日、第二次世界大戦の終わった後のこの日から
 ソ連は日本に対して卑劣な行為を続けた・・日本人を殺
 戮し、虐殺し、そして、拉致した。
  日本が、ポツダム宣言受諾を通告し、第二次世界大戦
 は終わっていた。
  日本からの通達で、日本軍も武器を置いていた。
  ソ連のスターリンは、1945年8月16日、「日本軍の捕虜
 は用いるな」と命令を出していた。
  当然、戦いの終結で武器を置いたのだから捕虜ではな
 い、日本国民である・・一般人である・・しかし・・
  1945年8月23日、日本のシベリア抑留の原因となる命令
 をスターリンは前言を翻(ひるがえ)し、「日本人をシベ
 リアへ連れ去った」・・拉致行為である。
  ソ連は、60万人の元兵士と一般人の日本人を拉致した。
  この行為の謝罪がロシア大統領のエリツィンからあっ
 た・・しかし、この行為の補償についての話は、まだ決
 着してない。
  韓国は、日本に何の落ち度の無い 徴用工について1人
 当たり1000万円の要求をして来た。
  日本も、ソ連(現:ロシア)へ60万人×1000万円の要求を
 するべきだ・・することができる、韓国の様に・・6兆円
 になる訳だ・・
  ロシアは日本へ6兆円を支払うべきだ。
  日本も韓国の様にしつこく要求をして行こう。
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1966年、アメリカがソ連に総額300億ドルを融資した。
  このアメリカの行為はまったくおかしかった。
  この時はベトナム戦争の真っ最中だった。
  アメリカのジョンソン大統領は、戦争の相手の北ベト
 ナムの後ろ楯となっていることを承知しているソ連へ、
 多額の金を渡した。
  経済協力という名目だった。
  また、ジョンソン大統領は、東欧諸国に対しても金を
 出した。
  ソ連は、この金でアメリカから非戦略物資を買った。
  しかし、実際は石油、航空機部品、レーダー、コンピ
 ューター、トラック車両など明らかな戦略物資だった。
  ソ連はそれを北ベトナムへ渡した・・北ベトナムへ送
 った。
.
1996年3月、中国福建省の永安にある中国ミサイル部隊は、
 台湾で初の総統を、直接、選ぶ選挙が行なわれる直前の
 この時、台湾の南西沖の海上に短距離弾道ミサイル「東
 風(DF)15」を2発を撃ち込んだ。
  当選しそうな台湾独立派の李登輝氏を牽制するつもり
 だった。
  中国は脅(おど)しのつもりだった。
  しかし、台湾の方々は、この中国のやり方に反発した。
  また、アメリカもすぐに原子力空母を派遣した。
  そして、結局、この中国の脅しは、台湾独立派の李登
 輝総統を生んだ、圧勝だった。
  今、中国は、台湾が独立をするのなら武力行使をする
 と脅している。
  民意を尊重する気はない。
  選挙のない中国、自国民の民意さえ聞かない中国。
  一部の者だけの判断で政治がなされている。
  それに中国という国は「三戦」と言って「世論戦」「
 心理戦」「法律戦」を古来から行なうとされて来た。
  宣伝を駆使して世論を揺さぶることをお家芸とした。
  自国のみならず世界を揺さぶっている。
  中国の国営の中央テレビに軍事専門チャンネルさえあ
 る。
  台湾の軍事情報関係筋の分析では、大きく力を付けた
 中国航空戦力は、台湾を大幅に上回り、「在日米軍や日
 本の航空自衛隊」と対抗することを想定している。
  日本の領空侵犯も大幅に増加した。
  中国で、最近、開発された国産ステルス戦闘機が日本
 の周辺を飛行する日も近いとされている。
  知らぬ間に中国機が、日本の奥深くの空域に居たとい
 うことも起きかねない。
  また、中国はステルス無人機や超音速滑空兵器という
 最新兵器も持ってちいる。
  中国軍幹部は、「アメリカ軍などの相手がかなり損害
 を受けると認識するように、最新兵器の情報も開示する」
 と公言している。
  習金平国家主席は「強軍」を掲げて目指している。
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2018年10月30日、韓国の最高裁にあたる大法院は、新日本
 製鉄(現:日本製鉄)に対し、韓国人4人へ1人あたり1億
 ウォン(約1000万円)の損害賠償を命じるという不当な
 根拠の全く無い判決をした。
  韓国国内の司法の判決である。
  しかし、これは、韓国政府は、1965年の日韓請求権協
 定で「解決済み」としていたことだった。
  しかし、韓国の大法院は個人の請求権は消滅していな
 いとした。
  日本政府と韓国政府が合意して決定した事項に対して
 韓国司法がその政府間の合意事項を無視した。
  豊かな日本で働きたいと応募して来た韓国・朝鮮人の
 原告らが、募集要項に応じた事実はどうなっているのか?
  韓国の大法院は、この様な事実をどの様に解釈して判
 決を出したのか?
  奴隷のように扱われたとした原告の訴える権利は発生
 しているのか?
  その補償を求めた。
  特に、差別されたわけでもなく、豊かな日本で働きた
 いと応募して来た・・
  そして、当時は、誰もが一生懸命働いていた時代だっ
 た・・現在の労働環境とは違う。
  それが、当時、誰でもが当たり前だった。
  その様なことが立証されないで、「判決ありき」の判
 決だった。
  例え、原告が言う事が正しいとしても(その様なこと
 はないが・・)その様な時には、韓国政府の責任におい
 て対応するとして日韓間で条約として取り決められてい
 る。
  この様な条文も無視されて日本企業が賠償するとした
 無謀な判決をした。
  それにしても・・韓国が、今まで、あることないこと
 を色々と日本に言って来たが・・そして、日本を蔑(さ
 げす)む行為を韓国はして来たが、日本はこの韓国の行
 為に対して真剣に抗議をして来なかった。
  穏便に収めようとする日本の行為も良くなかった。
  この様なことから「卑劣な徴用工の判決を生んだ」。
  日本はしっかり抗議すべきことは抗議し、そして、世
 界へ説明するべきであった。
  それにしても、韓国政府も、しっかり大法院へ説明し、
 本問題は「韓国の国内問題だ」という認識も持っていな
 いおかしなところが問題である。
  韓国政府は、都合よく問題を捏造(ねつぞう)してい
 る。
  (参考)捏造:ねつぞう、本当は無いことをあるかの
     ように偽(いつわ)って作り上げること。
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2018年以降、中国企業のアメリカでの新規上場が、ほとん
 ど行われないという状態になっている。
  「アメリカから追い出される中国」という状態になっ
 ている。
  世界の経済の流れは、「人・物・金の移動の自由化」
 である・・が・・
  それを、「維持するルールを破る社会」が現れた。
  1992年、中国の鄧小平は、改革開放路線をとって、中
   国の現状のルールを棚上げし・・
   「世界の市場原理に基づく社会主義経済を確立する」
   という命題にした。
    豊かになるためには、中国の現状のルールは棚上
   げにすると決めたという世界へ約束した宣言であっ
   た・・そして、さらに・・
  2001年に、中国は、WTOに加盟する時、「資本の自
   由化を約束」し、また、「外資規制の撤廃を約束」
   した・・そして、国有企業なども無くすと約束した・
  そして、次の5つの約束もした。
  (1)、知的財産の保護
  (2)、公平かつ公正な裁判システム
  (3)、透明性
  (4)、補助金の廃止
  (5)、価格統制の廃止
  2016年に、さらに、中国・人民元の世界の通貨として
   参入するための約束として、SDR(特別引出権)
   入りを約束し、「為替・資本の自由化も条件として
   約束した」。
   しかし、今・現在、この約束は守られていない。
  (参考)RDR:特別引出権、国際通貨基金(IMF)
     が加盟国の準備資産を補完する手段として、
     1969年に創設した国際準備資産、及びその単位。
     ISO 4217における通貨コードはXDR。
  (参考)SDR配分を受けた国は、いつでもIMFの
     仲介を受けて、自身の保有SDRと引き換えに
     他の加盟国の保有する自由利用可能通貨(IM
     Fが定める。現在はドル・ユーロ・円・ポンド・
     人民元)を引き出すことができる。
  逆に、習近平は、社会主義の「偉大なる中華民族の復
 興」を掲げた。
  これは、世界ルールに沿うというより「新時代の中国
 の特色ある社会主義へ進む」とするもの・・
  そして、「世界との協調」というより、「世界の覇権
 を狙う」と宣言した。
  その世界の約束を守らせようとするアメリカと、対立
 関係に入った中国という経済・貿易面の対立関係が発生
 した。
  約束を守らない中国に対して、「人・物・金」の処置
 の行動をアメリカはとりだした。
 ☆物において、物への制裁
  ①輸出関税:中国からの輸入品3805品目、総額3000億
   ドル分に最大25パーセントの関税を上乗せした。
   これからも拡大して行く・・
  ②新ココム:中国に最先端技術が渡らない仕組みを作
   る・・ファーウェイに対する技術輸出の禁止。
 ☆人において、人への制裁、
  ①ビザ(査証)の厳格化:2018年6月、ハイテク分野
   での中国人の留学生、研究者ビザを5年から1年にし
   た・・
  ②入国審査の厳格化
   来年(2020年)から、中国軍と関係する人物は、ア
   メリカへの入国は出来ない方向へ・・
   また、ウイグルや香港の弾圧に加わった人物も規制
   を強める方向へ・・
 ☆金において、金への制裁
  中国経済への一番大きなインパクトのある分野・・
  これまで中国経済を発展させ、そして、支えて来たア
 メリカ・ドルの力・・
  中国は、自国通貨の人民元では海外投資が出来なかっ
 た・・
  中国が、海外で事業を行なうためにはアメリカ・ドル
 が必要だった・・
  その米ドルを調達方法には二つある。
  ①中国が、海外に輸出し、輸出した代金を米ドルでも
   らう・・
  ②中国企業が、海外で上場したり債券を発行したりす
   ることによって海外から資金を調達する。
  上記の①は・・
  「アメリカの貿易関税で一気に縮小した」・・
  もう一つの②は・・
  「上場廃止や中国市場への投資制限を検討している」・・
  2019年6月5日、マルコ・ルビオ米国上院議員は、「外
   資上場企業の監査強化法案」を提出した。
  内容は、「アメリカに上場する中国企業が、金融上の
 透明性、および、責任に関する規制遵守を拒否すること
 はもう許されるべきではない」とした。
  また、トランプ政権のピーター・ナバロ米国大統領補
 佐官は、「アメリカ市場から中国企業を追い出すべきだ
 」と語った。
  中国企業は、中国の国内法によって、「会計監査の資
 料」や「会計監査の情報」を海外へ持ち出すことが出来
 なくされている・・
  結果だけの開示では、第三者が良否の判断ができない
 という状態である。
  故に、中国の上場企業の透明性が無い状態となってい
 る。
  2018年以降、アメリカで中国企業のIPO(新規上場)
   はほとんど行われていない・・さらに・・
  2019年9月27日、ロイター通信によると、トランプ政権
   は、アメリカで上場されている中国株の廃止を検討
   し始めた。
  上場廃止の決定によって、当然、中国株価は大暴落と
 なる。
  また、当然、中国の上場企業の資金調達もできなくな
 る。
  株式だけでなく債権においても、起債、ドル建ての債
 権発行がほとんど出来ない状況となっている。
  そこで、中国企業が頼ったのが香港・・
  香港ドルの裏付けが米ドルであるからだった・・
  香港で上場し、米ドルを手に入れたいとした・・
  しかし、その香港は、マスコミが報じる様な状態でマ
 ーケット機能がおかしくなっている。
  海外での新規上場を成功させようとしたアリババも、
 アメリカでの上場をあきらめた状態・・
  そこで、香港での新規上場を求めたが、これも失敗に
 終わっている・・香港の政治的混乱が高まる中で株式上
 場を延期せざるを得ない状況となっている。
  上場できない、そして、米ドルが手に入らないという
 状態となっている・・
  「中国企業が世界から締め出される」という可能性が
 高まっている・・
  ロールオーバーでの「外貨で借りたものは外貨で返す」
 ということが出来なくなっている・・
  やむなく外国に持つ中国資産を売却して、外貨を得て
 返却するという行動に陥(おちい)って来ている・・
 アメリカと中国の「乖離の世界」が始まった・・
  参考:https://www.youtube.com/watch?v=hoWcVOQNqc0
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2019年11月15日、中国の投資が、最低の伸びとなった。
  鉱工業生産も鈍化した。
  この日の読売新聞から・・
  中国国家統計局は14日、10月の主要経済統計を発表し
 た。
  公共事業や企業の設備投資などの固定資産投資は1月~
 10月の累計で前年同期比5.2%増となり、データを確認で
 きる1996年以降で最低となった。
  生産や消費関連の指標の伸び率も軒並み鈍化し、中国
 経済が一段と減速している状況が浮き彫りになった。
  国家統計局の劉愛華(リウアイファ)報道官は14日の
 記者会見で、「経済の下押し圧力は引き続き増大してい
 る」との認識を示した。
  固定資産投資の伸び率は1月~9月より0.2ポイント縮小。
  景気対策の柱であるインフラ(社会基盤〉投資は1月~
 9月より0.3ポイント低い4.2%増。
  民間投資も0.3ポイント低い4.4%増にとどまった。
  生産の動向を示す鉱工業生産は前年同月より1.1ポイン
 ト低い4.7%増と、伸びが大幅に鈍化した。
  小売売上高(社会消費品小売総額)は前年より0.6ポイ
 ント低い7.2%増だった。
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2019年11月15日、中国で、肺ペストが流行している。
  中国紙・光明日報などは14日、内モンゴル自治区の住
 民2人が12日に肺ペストと診断され、北京の医療機関で治
 療を受けていると伝えた。
  このうち1人が重体という。
  当局は2人との接触者を隔離する措置を取った。
  日本の国立感染症研究所によると、肺ペストは「最も
 危険なタイプ」のペストとされ、発病後12時間~24時間
 で死亡する可能性がある。
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2019年11月28日、日本の国の機関で「中国の宣伝工作」を
 働く・・
  「組踊と能」という国立能楽堂の講演を聞いた(開催日:
 2019年11月28日)。
  まったく日本を貶(おとし)め、日本を隠すという講演
 だった。
  国立のこの場でこの様な講演が行なわれるのか?とい
 う驚きの講演だった。
  「組踊」は沖縄の伝統芸能である。
  その始まりは、その創始者が「能(のう)」に感激し
 て作ったという芸能である。
  しかし、この講演者(岐阜女子大学教授・MО氏)は、
 この『肝心な話』はせずに避けて講演した。
  (参考)組踊の解説においても・・
      1718年に、沖縄の琉球王・尚敬王に踊奉行の
     職に任じられた玉城朝薫(たまぐすくちょうく
     ん)が、かねてから造詣の深かった日本本土の
     能楽などから組踊を作り、また、琉球の芸能も
     加えて作った・・とある・・そして・・
      1719年、中国からの冊封使の前で、「鶴亀二
     児復父仇事、二童敵討」と「鐘魔事、執心鐘入」
     の二題を演じた・・これが組踊の始まりとある。
  この様な良い面およびこの後の「日本と沖縄の文化・
 芸能面での良い関係にはまったく触れず・・
  逆に、中国との良い関係があると強調して講演した・・
  日本に触れるとしても、日本の沖縄に対する悪い行為
 (侵攻したなどと)強調した。
  (講演の例)1312年の明の古い時代から沖縄は中国と
    関係があったとか・・
     王国が作られると、中国と冊封の儀が行われ、
    妃殿服を持って来たとか、
     4か月~8ヶ月も滞在したとかと中国のことばか
    り美しく表現し、良い状況を話した。
     それも、組踊と関係ない話ばかりを話し・・
     日本の事を話したかと思うと、1609年に琉球は
    薩摩の侵攻を受けたなどという悪い話だけ・・と
    いう講演の状態・・
  中国から来た使節に歓待して組踊が演じたとか
  沖縄は日本の侵攻を受けたとかと・・それを言うなら
 沖縄は中国に圧迫され強権を使われて沖縄は中国へ冊封
 するに至るなどの「沖縄への脅し行為」を説明しなけれ
 ばならない。
  配布したブリントには書かなかったと、「昨夜、書い
 てないと気が付いた」などと言って、上記の様な事を話
 した・・その内容をプリントに記すとまずいと思っただ
 けなのだ。
  中国と沖縄との良い関係がある様な話を次々と言い、
 逆に、日本には侵攻を受けたという、明らかに日本が悪
 いことをして、中国とは良い関係にあったと思わせる洗
 脳的な話し方だった。
  完全に冒頭から「悪者の日本」の洗脳だった、そして、
 それに対し「善の中国」の洗脳だった。
  中国と組踊はまったく関係が無いのに、この様な形で
 中国を出し続けるという講演だった。
  題名にある『能と組踊』という関係の話はまったく触
 れないという状態(触れると日本と沖縄が良い関係にな
 る・・それで触れられないという状態)講演題名そっち
 のけの話だった。
  日本の能と沖縄の組踊に関係があるということが都合
 悪いという講演だった。
  その後も、能との関係の組踊の話ではなく、「組踊だ
 けの話」に終始した。
  中国は、冊封使がただ観覧するだけという立場の話な
 のに『中国の宣伝講演』となっていた。
  創作した人が能の鑑賞に日本に行って交歓したなどと
 いう歴史的な良好な史実も話されなかった。
  また、都合が悪いのか、質問の機会もなくカットされ
 た。
  国立能楽堂の担当者に、肝心の「能と組踊の関係につ
 いて、まったく説明が無かったです」と言うと、「忘れ
 たのでしょう」とあっけらかんと言った。
  肝心の「能に感激して組踊を作った」という肝心のこ
 とを忘れて話さなかったのだという返事が来た。
  学芸員らしき人は、この問題点を理解しているらしか
 ったが、館長もしくは事務局長らしき人間は上記の様に
 「とぼけた」。
  完全にある種の「イデオロギーの下」に講演がなされ
 たと感じた。
  そして、逃げた返事のこの講演に対する国の機関の責
 任者らしき人間の対応があった。
  今、中国が、世界で盛んに行っているプロパガンダ行
 為に国立能楽堂もはまっていると感じた。
  今、リトアニアなどのバルト三国が、この様な中国の
 工作で、すべて三国が「中国色になっている」という。
  国立能楽堂でもその様な一端を見た。
  話をしていて、国立能楽堂は「この様な行為がなされ
 ている」と承知している様だった(驚きの様子もなく、
 意外だの様子もなく・・「言われたか」という感じの対
 応だった)
  例え、この講演者が言う様に「能と組踊がまったく関
 係がない」というのなら、国立能楽堂で、能に関する講
 演として講演議題に上げるのがおかしい。
  そんな無関係のものを議題として聴衆を呼び集める行
 為がおかしい。
  いずれにしても「ある作為の働いている国の機関の国
 立能楽堂」となっている。
  この問題の徹底的な糾明を行なって戴きたい・・
  そして、その徹底的な改革・改善を行なって戴きたい。
  中国親派の工作者を存在させているという雰囲気であ
 る。
  また、傍(かたわ)らで、我々の話をしつこく追い、
 終始、聞き耳を立てている風情で、立ち聞きしていた輩
 が居たことも申し添えたい。
  そして、その輩が、一言、「イデオロギーとは何だ」
 と言った・・が無視した。
  私は、この輩に「この館の者か?」と反問した・・
 「違う」という返事だったので無視した。
  今、中国は、外国からの声が一般民衆に届かない様に
 しているが、その様にしているという事は、それをされ
 ると困るということ・・だから、それを逆に中国は外国
 へ行なっている・・その行為者・関係者を派遣している。
  この講師は、中国工作員にこの様な講演をする様にと 
 されている可能性も感じた。
  また、この国立能楽堂は、国立能楽堂の解説板に(立派
 な大きな板に解説文を記している)に、根拠の薄い、あや
 ふやな根拠であるのに、能楽は中国由来であるとわざわ
 ざ最初に記述している・・違和感がある。
  こんな言い方をするならインドのサンスクリット劇に
 似て根拠があるという類いの話がなんでも沢山出来る。
  まったく中国美化のプロパガンダに類する話である。
  また、横浜能楽堂においても、この様なおかしな行動
 を見た。
  急に、能が始まる前に、館長が解説したいと出て来て
 話を始めて、言うことは日本を貶(おとし)める話で、良
 いことは言わず、日本は人権侵害の国だ言う・・少数民
 族を抑圧していると・・
  日本の能楽の世界に「日本を貶め、中国を美化する力」
 が働いている。
  また、追記すると・・
  急に話をしたいと横浜能楽堂の館長の様に、講演会に
 突然出て来た事例に(主催者は困ったという風情だったが)
 明治大学の学長が居る。
  やはり、この学長も「日本をとことん蔑(さげ)んだ」。
  高校生が来ているからと強引に「話したい」と参加し
 たという。
  この様に、日本のトップに工作がなされている。
  北朝鮮の「美女軍団」ではないがあらゆる懐柔と工作
 がなされていると感じる。
  日本のトップたちに、その様な事例が多いことを知ら
 せ認識させよ!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  自衛隊幹部ノ嫁サンハ中国人が多いという。
  中国ノ美化ヲシ日本を蔑(さげす)む輩は組織のトップ
 だ。
  横浜能楽堂も館長だった。
  また、相模原の公務員研修所も館長だった。
  中国工作員が働めくのをあからさまに感じる様になっ
 た今、日本は「逆工作員を作るべきだ」。
  また、だいぶ前から、NHKは「中国美化をし、日本
 を蔑(さげす)んで来た」。
  このNHKの組織を徹底的に洗え!!
  朝日新聞などの日本解体を目論む(もくろむ)組織にも
 「逆工作員を潜入させよ!!」。
  移民の自由化を進める日本に、日本に対して良からぬ
 工作をする輩が大勢入って来テイルカラ、ソレノ対抗組
 織ト要員ノ充実ヲ計ラナケレバナラナイ。
  国会や国の組織ニモ私服を配置セヨ!!
  マタ、日本ノ研究組織ニモ潜入サセヨ!!
  マタ逆工作員養成組織ヲ作レ。