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2017年3月30日木曜日

(増補版)513E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年6月~1890年7月)

題:(増補版)513E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年6月~1890年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年6月18日、利根運河が開通し、竣工式が開催された。
  利根川・江戸川間の運河開通
  利根川と江戸川がつながる。
  水害防止などを目的として、江戸時代初期に行われた
 利根川東遷事業などの河川工事により、関東地方の川筋
 が大きく変えられ、
  利根川は関宿で、銚子にいたる現利根川と、東京湾に
 いたる現江戸川とに分流された。
  この結果、東北地方の太平洋岸と、江戸を結ぶ水運の
 ルートとして、房総半島をまわるルートのほかに、
  銚子から利根川に入って遡り、関宿を経由して江戸川
 を下る、というルートが開拓された。
  このルートには、一部に浅瀬があって、大型船が通航
 できず積み替えが必要だったこと、距離が長かったこと
 などの理由から、関宿まで遡らずに、途中を陸路でショ
 ートカットする場合があった。
  明治時代になり、貨物の輸送量が増えたことから、こ
 の陸路でのショートカットの部分に、運河を開削すると
 いう計画が立てられた。
  調査にあたったのは、1873年(明治6年)に来日した
 オランダ人の土木技術者のヨハニス・デ・レーケだった。
  そして、東京府、千葉県、茨城県の陳情により、1886
 年(明治19年)に、内務大臣の山縣有朋が政府の事業と
 して認定した。
  しかし、翌年・1887年(明治20年)には、内務省が、
 財政上の理由として中止を命じ、民間企業として建設す
 べく利根運河株式会社が設立された。
  運河開削とは別に、利根川と江戸川間を結ぶ鉄道(ド
 コービル鉄道計画)を、航運会社(いろは丸を就航)関
 係者が計画した。
  この計画は、江戸川左岸の加と利根川右岸の花野井間
 約10kmを、フランス人のポール・ドコービルの発明によ
 る軽便鉄道で結ぶもので、
  1883年(明治16年)5月、航運会社社長・林千尋や、石
 川島造船所(後のIHI)の平野富二が、地元豪商等14人と
 ともに千葉県に出願した。
  しかし、航運会社が他社との競争に敗れたことと、利
 根運河が計画されたため、実現しなかった。
  工事を監督したのは、1879年(明治12年)に来日した
 オランダ人技術者のローウェンホルスト・ムルデルで、
  この計画は、単に、利根川と江戸川を結ぶだけではな
 く、茨城県沖の鹿島灘をショートカットする内陸水路の
 建設とも連携し、太平洋岸の水運を一気に改善しようす
 る壮大な計画の一環であった。
  1885年(明治18年)に、ムルデルが、江戸利根両川間
 三ヶ尾運河計画書を提出し、
  1886年(明治19年)1月12日に、改修計画に着手した。
  1889年(明治20年)5月9日に、千葉県庁へ利根運河開
 削願を提出し、同年11月10日に許可が出た。
  開削許可に先立ち、1888年(明治21年)7月14日に起工、
 約57万円の費用と延べ220万人により、1890年(明治23年)
 2月25日に通水、
  同年・1890年3月25日に通船、
  同年・1890年6月18日に、竣工式を開催した。
1890年6月20日、農商務省水産局を廃止し、農務局に属する。
  水産局が縮小されたが,、水産調査所は、その重要性
 が顧みられて、1893年4月に、その代行機関として、調査、
 および、研究業務を系統的にするため、水産調査所を独
 立させた。
  庶務規定に、「水産物製造の調査ならびに試験」と記
 され、水産製造試験・調査も行った。
1890年6月21日、軍人恩給法が公布された。
  近代恩給制度は、1875年の海軍退隠令、及び、1876年
 の陸軍恩給令に始まり・・
  1883年には、文官恩給令が制定され、同時に、太政官
 に恩給局が設置された。
  この他にも・・
  1882年には、警察官、
  1890年には、教員に関する恩給制度が制定されている
 が、当初は、部署によってバラバラに恩給制度が制定さ
 れたために複雑になってしまった。
  そのため、1923年に、恩給法が制定され、制度の一本
 化が図られた。
  なお、1890年6月20日には、「陸海軍軍人現役定限年齢
 の件」(勅令第99 号)が制定され、定年退職の年齢を既
 定していた。
1890年6月30日、佐渡の相川町で米騒動が起きた。
  6月28日から7月5日にかけて、鉱夫を中心として、2000
 名以上が蜂起した。
  鎮圧するのに軍の出動が必要だった。
1890年6月30日 行政裁判法を公布した。
  プロイセン,オーストリアの制度を範として設けられ
 た。
  また、行政裁判所が、民事事件・刑事事件を管轄する
 司法裁判所ないし通常裁判所とは別に、
  行政事件を管轄する裁判所が設けられた。
  一審制の裁判所で、判決に不服があっても、大審院に
 上訴することはできなかった。
  行政庁ノ違法処分ニ関スル行政裁判ノ件(明治23年法
 律第106号)では、以下を、規定している。
  ・租税及び手数料の賦課に関する事件(関税を除く)
  ・租税滞納処分に関する事件
  ・営業免許の拒否又は取消に関する事件
  ・水利及び土木に関する事件
  ・土地の官民有区分の査定に関する事件
  その他にも、土地収用法、市制、町村制、府県制など
 個々の法令によって、裁判権を有する事項について細か
 く規定した。
1890年6月27日、長崎でコレラが発生した(~12月)
  数年、鳴りを潜めていたコレラが、6月下旬、突然、長
 崎市内から全国へと拡大した。
  感染は、長崎港への入港船からと推定されたが、病勢
 は猛烈で、たちまちの内に、長崎県、福岡県から九州一
 円へと広がり、
  山口県から兵庫県、神奈川県へと全国に伝播した。
  中でも、流行のすさまじかったのは大阪府で、年内に
 8815人がかかり、7486人が死亡した。
  東京府では、7月23日に初めて発生し、年内の患者4027
 人で3307人死亡。
  ともに、その死亡率は、8割を超えた。
  流行の最盛期は、9月で、全国で2万1466人がかかった
 が、
  10月に入ると、病勢は衰え、
  12月は、全国の患者数114人と減少した。
  この年の全国患者数:4万6019人、死亡者:3万5227人、
  死亡率:76.5%
  明治期の大流行年における最大数値となった。
  内務省が、長崎市をコレラの流行地に指定した。
  日本に寄港していたオスマン帝国の軍艦・エルトゥー
 ルル号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われた。
  (内務省衛生局編「法定伝染病統計」などを参考にした)
1890年7月1日、第1回衆議院議員総選挙が行われた。
  第一回衆議院議員選挙が本州、四国、九州で実施され
 た。
  選挙権資格者数は、45万2,474人(人口4,007万2,020人
 の1.13%)
  選挙区は、257の「小選挙区制」
  結果は、民党(反政府系)の立憲自由党130、同じく民
 党系の立憲改進党が41で、議員定数300のうち171を占め
 た。
  このほか大成会79、国民自由党5、無所属45。
  有権者の資格は、直接国税15円以上を納める(または、
 3年以上、所得税15円以上)納め、25歳以上の男子で、府
 県内に1年以上住むものだった。
  代議士の過半数が、地主出身の地方の名望家だった。
  11月25日に、第1回帝国議会が開会された。
  大日本帝国憲法下で、天皇陛下の主権下の最高立法機
 関として、1947年まで存続した。
1890年7月1日、イギリスとドイツ両国が、ヘルゴランド=
 ザンジバル条約を締結した。
  ドイツは、北海のヘルゴラント島とカプリビ回廊(現
 在のナミビアのザンベジ州)、及び、ドイツ領東アフリ
 カの核となるダルエスサラームの海岸を獲得した(後の
 タンガニーカ、現在のタンザニアの本土部分)。
  ドイツは、条約で、ケニア海岸沿いにある小さな保護
 領ウィトゥランドの権益を、イギリスに譲与し、イギリ
 ス領東アフリカの一部とすることを認めた。
  その場所は、イギリスにとって決定的なもので、ビク
 トリア湖に至る鉄道を建設するために必要だった。
  また、イギリスが、ザンジバルに関して、侵略し掠奪
 する行動について、ドイツは干渉しないことを約束した。
  その後、1890年に、イギリスは、ザンジバル・スルタ
 ン国を掠奪し、保護国化を宣言した。
  1896年の、イギリス・ザンジバル戦争によって、以後、
 実効支配した。
  そのうえ、条約は、ドイツが関心を持っていたドイツ
 領南西アフリカ(現在のナミビア)の権益を確定させ、
 ドイツ領トーゴラントと、イギリス領ゴールドコースト
 植民地、および、ドイツ領カメルーンとイギリス領ナイ
 ジェリアの国境問題を解決した。
  尚、ザンジバルは、奴隷貿易、香辛料貿易、象牙貿易
 の拠点で、
  アフリカの方々の人身売買を含む、多様な資源を、我
 がものにしようとする白人たちの欲の拠点だった。
  ヨーロッパ列強の白人のイギリス人とドイツ人による
 アフリカ分割(山分け)の条約の話・・、
  1896年には、当時のスルターンの甥ハリド・ビン・バ
 ルガシュが、王位についた。
  しかし、イギリスが退位しろと要求したが・・拒絶し
 たため・・(当然だ)・・
  駐留していたイギリス艦隊の艦砲射撃(戦艦など持た
 ない弱いアフリカの方々への武力行使)により、
  わずか37分23秒で・・宮殿は破壊された。
  哀れなハリドは、対岸のドイツ領タンガニーカに亡命
 した。
  このイギリス・ザンジバル戦争は、「史上もっとも短
 時間の戦争」として『ギネスブックに掲載された』・・
 白人・ヨーロッパ列強の非人道的行為の記念碑である・・
  奴隷制もほしいままにやっていた・・卑劣な事である。
  日本は、当然、奴隷の「ど」の字もやってない。
.
  (今日の言葉)
.
  題:消えた・・民族・・これからも・・
.
紀元前3500年、ケルト民族の方々は・・?
  かつて、キリスト教に殺戮されてしまったケルトの人々
 は、今、どこに居るのか・・?
  永遠に、消えてしまったのだろうか・・?
  その民族は絶えてしまったのだろうか・・?
  ケルト文化・言葉を残して・・?
  インド・ヨーロッパ語族ケルト語派の方々だという。
  中央アジアの草原に居た方々が、馬と車輪のある乗り
 物で・・ヨーロッパに来て、そして、ヨーロッパの主(
 あるじ)になったという。
  おそらくだが・・ケルトの方々は、青銅器の時代に、
 石器の代わりに青銅を利用した道具を使った青銅器時代
 (メソポタミア・エジプトでは紀元前3500年ごろが青銅
 器時代の始まりという)に、この頃に・・ヨーロッパに
 広がって行ったという。
  それから・・紀元前1世紀に頃から、各地のケルトの
 方々は、他民族の支配をうけるようになり・・、そして・・
 征服されてしまう地方もあって・・
  ローマ帝国(紀元前27年~紀元後476年)の支配も受け・・
  また、紀元後100年くらいから・・キリスト教が広まっ
 て行って・・ヨーロッパから駆逐されて行った方々・・、
  ローマ帝国に滅ぼされるまではブリテン島にもいた・・、
  この頃は・・鉄製の武器を持ち、戦車にも乗るという
 部族の社会だったという・・
  ブルターニュ半島に逃げ、移住した人々もいたという・・、
  アイルランドにも、わずかな関連性があるとかと・・
  アイルランドでは、キリスト教改宗後も、教会や聖所
 の装飾に、ケルトの習慣である多くの人頭があしらわれ
 ているという・・
  ピレネー山脈のあたりに・・とかとも・・?
  だから・・この部族の歴史は・・3500年~・・?
  ケルト・キリスト教独特の制度は、12世紀までにはヨ
 ーロッパからほとんど姿を消したという・・
  今、考古学では・・このケルトの後裔(こうえい、子
 孫)の方々が居られるのかが・・関心の中にあると・・
  現代でも、ケルト語派の言語が話される地域がある・・
  その地域は・・その先は海だという・・海に落ちそう
 な半島の先っぽに・・わずかに居られる・・と・・、
  しかし、話者は年々減少し・・近年、ケルト語再生運
 動が行なわれて、言語の衰退を止める事がなされている
 という・・
  キリスト教は、砂漠の地で、生きる糧の少ない所に多
 くの民族の居る場所で・・その様な地で・・、
  その様な地で生まれたキリスト教聖書は・・初めは・・、
  その様な地での・・我が民族が・・生き残るためのマ
 ニュアルだった。
  我が民族よ・・生き残ってくれという・・そのマニュ
 アルの各事項が・・口伝えに伝えられ・・そして、口伝
 えから・・字に書かれ・・まとまって行った・・その様
 なこと・・
  だから、その教えは大切にされた。
  だから、その中にあるのは・・自民族が生き残るため
 のなすべき事々だった。
  他民族の生き残りのことなど・・当然・・まったく・・
 ない・・、
  その様な性格の宗教=キリスト教に駆逐されて行った・・
 異民族だったケルト族だった・・、
  この宗教・キリスト教の根底に流れている性格は・・
 考えは・・教義は・・今・現代でも・・当然・・変わら
 ずに・・流れている・・
  自民族さえよければ・・良い・・である・・
.
431年、多元主義・・多元論とも言い、総合的に多様性を
 容認する・・、
  また、肯定をするという・・立場。
  この概念は、多岐にわたる分野において、様々な意味
 に用いられる・・が・・、
  政治では、国民の興味や、関心や、信念の多様性を認
 める。
  これが、最も重要な近代の民主主義なのだと考えてい
 る。
  アメリカは、アメリカが良いとする「アメリカ流の民
 主主義」の押し付けであった。
  多様性など、全く認めない・・アメリカのやり方の民
 主主義である・・
  この様な性向は、キリスト教がそうである・・
  違いを・・その『異』を・・『異』なのだからと・・
 異端と捉えて・・だから・・排除するのだとして・・容
 認しない。
  「異教徒は殺せ」・・である。
  わずかな考え方の違いでも、キリスト教の最高会議で
 ある公会議(ローマ法王が出席する会議)で・・殺戮さ
 れるか、または、放逐した。
  その様に、431年のエフェソス公会議において放逐され
 て・・
  「キリスト教ではないのだ」とされた景教(ネストリ
 ウス派)が・・流れ流れて、7世紀に、唐代の中国にやっ
 て来た。
  このキリスト教ではないと言われた景教と、日本の仏
 教の接点があった・・と・・
  だから、キリスト教は、日本仏教にキリスト教が入っ
 ていると言うが・・、
  日本の仏教が・・景教に入ったのであって・・、
  また、元々、『キリスト教ではない』と言われた宗教
 であって・・キリスト教とは・・関係ないのである・・、
  因みに、ネストリウス派は、コンスタンティノポリス
 総主教ネストリオスによって説かれた異端とされた宗教。
.
522年、人間は『逃れる事の出来ない原罪』を背負っている
 というキリスト教。
  この『催眠的な』キリスト教の教義によって、人間は
 いかほど、良い社会を創ろうという意欲を、そがれたこ
 とか・・嗚呼・・
  ただただ、「神に祈れ」では、人間は幸せになれない・・
  人間は・・素晴らしいのである・・
  人間には・・可能性がある・・
  まただから・・人間は、「可能性がある」と信じる所
 からスタートしなければならない。
  見目うるわしき乙女よ・・貴方は、無限の可能性を秘
 めています・・
  もし・・キリスト教に惑わされているのなら・・離れ
 なさい・・
  良き道が探れるものを・・
  最良の・・改善の道を探れる「可能性を持つ人間」だ
 と信じる所からスタートしなければなりません・・
  そう、貴方は、その意味で、『無限の可能性を持つ人
 間として』・・この世に生を受け・・無限の可能性を秘
 めた境地に至れる方なのです・・
  「仏に至ることの出来る」、無限の可能性を持ってい
 る方なのです・・
  生きとし生けるものには、皆、仏性が宿っています・・
  『 一切衆生悉有仏性 』
  (いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)
  日本への仏教伝来については・・
  古代の・・倭には・・古くから多くの渡来人(帰化人)
 が・・連綿と渡来して来ていて・・、
  その多くは・・朝鮮半島のからの方たちであった・・
  この方たちは・・日本への定住にあたって・・氏族と
 してグループ化した・・そして・・、
  氏族内の私的な信仰として・・仏教をもたらしていた・・、
  仏教を・・信奉する人々もいた・・そして・・、
  この方がたの・・手によって・・公伝以前から・・す
 でに仏像や経典は・・もたらされていた・・、
  522年に来朝したとされる司馬達等(止利仏師の祖父)・・
  この人などは・・その好例となっている・・
  すでに・・大和国高市郡において・・本尊を安置し・・、
 「大唐の神」・・仏像を・・礼拝していたと・・『扶桑
 略記』に記されている・・、
.
1840年5月7日、偉大な作曲家・チャイコフスキーが生まれ
 た。
  ロシアのウラル地方、ヴォトキンスクで、鉱山技師の
 次男として生まれた。
  家系は、現在のポルタヴァ州に領地を持っていたウク
 ライナ・コサックのチャイカ家に出自を持つ。
  幼少のころから、音楽的才能を示した。
  しかし、両親は、息子を音楽家にする意志はなかった。
  10歳で法律学校に入学し、寄宿生となった。
  14歳で母を失う・・コレラだった・・、
  母は、40歳という若さだった。
  チャイコフスキーの衝撃は、当然、大きかった。
  19歳の時、卒業・・法務省に官吏として務める。
  21歳の時、妹が結婚し、ウクライナに嫁ぐ・・
  チャイコフスキーは、妹の嫁いだこの地が気に入り、
 毎年の様に訪れ、この地で楽曲を作曲する。
  チャイコフスキーの兄弟姉妹は、後年に至るまで仲が
 良く、チャイコフスキーを支え続けた。
  そして、この年、チャイコフスキーに転機が訪れる。
  この年の秋の頃、知人から、音楽教育を行なっている
 帝室ロシア音楽協会を知った。
  チャイコフスキーは、このクラスに入学した。
  この音楽クラスは、翌・1862年に、アントン・ルビン
 シテインによってペテルブルク音楽院に改組され、ここ
 で、チャイコフスキーは、音楽を本格的に学び始めた。
  そして、本格的に音楽の道に進むことを決意した。
  1863年4月、23歳の時、法務省の職を辞し、音楽に専念
 する事になる。
  1865年12月、25歳、ペテルブルク音楽院を卒業する。
  1866年1月、26歳、モスクワに転居し、帝室ロシア音楽
 協会モスクワ支部で教鞭をとる・・以後、12年間つづい
 た・・モスクワが活動拠点となる。
  この年に、交響曲第1番『冬の日の幻想』(作品13)の
 初演があり、また、初のオペラである『地方長官』を完
 成させた。
  以後、めざましい活躍をして戴いた・・資金援助をす
 る方も現れた・・が、しかし・・
  一度、結婚をするが、不幸にも離婚し、大きな打撃を
 受けたチャイコフスキーは自殺をするほど精神的に追い
 詰められるということも起きた・・、
  37歳で、作曲に専念するため、モスクワ音楽院の教職
 を辞した・・ヨーロッパ各地を巡り歩く・・
  40歳の時、父を失う・・
  41歳の時、色々と助けられたりもした親友のニコライ・
 ルビンシテインも失う・・
  親友の死を悼んでピアノ三重奏曲(作品50)の作曲に
 着手する・・
  翌年、完成・・ニコライの一周忌に初演した・・
  作曲原稿には、「ある偉大な芸術家の思い出のために」
 と書かれていた・・
  45歳、モスクワ郊外のマイダノヴォ村に落ち着く・・
 旅の生活に終止符を打つ・・
  以後、この地域に住み続ける・・かつての恋人、デジ
 レ・アルトーと旧交を温める機会もあった・・
  50歳の時、フォン・メック夫人の財政援助を打ち切ら
 れる・・
  チャイコフスキー、大きな打撃を受ける・・
  51歳、バレエ「くるみ割り人形」(作品71)作曲・・
 アメリカへ、カーネギー・ホールのこけら落としに出演・・
  53歳、ケンブリッジ大学音楽協会からサン・サーンス
 や、グリーグらとともに・・名誉博士号を授与される・・
  1893年10月16日、53歳、交響曲第6番「悲愴」(作品74)
 初演・・
  その9日後の・・1893年10月25日に・・惜しいかな急死
 する・・
  死因は不明であるが、コレラ及び肺水腫と言われてい
 る・・
  ロシア皇帝アレクサンドル3世は、その死を悼み国葬を
 決定し・・国葬によって葬られた・・53歳だった・・
  https://www.youtube.com/watch?v=HQjSs7oXFLU
.
  そして、下記のコメントのある大切な曲・・
.
  https://www.youtube.com/watch?v=8iuYxdXFPbc
.
  ロシアのСирена Береговаさんのコメント
  自国の国歌を歌わない国民が居ると聞いてびっくり。
  こんなにも美しくて優しい歌でもあるのに。
  誇りを棄てさせるという侵略のプロセスは完了しつつ
 あります。
  日本は、四季の美しい景色、慎ましくて親切な人々、
 剣道、柔道、アニメ、治安の良さ、技術力の高さなどた
 くさんの誇れる文化があります!
  日本人の方々、どうか目を覚ましてください!
  君が代にこめられた先人たちの意志を継ぎ、この大切
 な大切な国を護らなければなりません! 
  ・・・・
  まったく素晴らしいコメントを、ロシアの方に寄せて
 戴きましたが・・、
  この様なコメントを読むにつけても、考えされられる
 ことは、キリスト教組織の「国旗と国歌に対する反対運
 動」です。
  そして、キリスト教の偏するNHKの、同様な・・「
 国旗と国歌をないがしろにする行為」です。
  そのNHKの卑劣な行為の1例を上げれば・・
  NHKは、ある時期より、オリンピックで日本選手が、
 金メダルを取っても、NHKは、まったくその選手を表
 彰し、その健闘讃えるシーンを放送しなくなった。
  日本の国旗掲揚シーンを「まったく放送しないし」、「
 国歌演奏の音声も流さない」。
  その点をNHKに指摘すると・・びっくりすることに、
 アメリカの表彰シーンを放送した。
  それも、フルバージョンで・・、
  延々と、アメリカ国旗が掲揚されていくシーン、アメ
 リカ国歌が演奏される音声を・・完全に放送した。
  だからといって、日本のその様な放送はまったくない。
  NHKの「いじわる」な、そして、「ひねくれた」オ
 リンピック放送であった。
  また、放送開始時と終了時の「国旗と国歌の放送」も、
 しなくなったNHKとなっている。
  今の様なNHKなら、日本のためにならないNHKとな
 っているので、皆様のためにも、NHKは、「ない方が良
 い放送局」です。
.
1953年3月5日、ソ連のスターリンが死んだ。
  (1878年12月18日~1953年3月5日)
  ヨシフ・スターリン、ソビエト連邦の第2代最高指導者。
  ロシア帝国の支配下にあったグルジア(現在のジョー
 ジア国)のゴリ市で生まれる。
  キリスト教正教の神学校で教育を受ける。
  国家権力を握ると、反対派に対する厳しい弾圧を合わ
 せ・・多数の犠牲者を出す。
  また、失政の農業政策の混乱によって、深刻な食糧不
 足が発生。
  その影響から、1932年~1933年に、飢饉へと繋がった。
  また、スターリンの政治は、非情で・・グラーグ(収
 容所)に収監された者だけでも100万人以上だと、
  そして、これを免れた数百万人も、シベリアなどの
 僻地に追放処分した。
  スターリンの強権支配は、『大粛清』と呼ばれる大規
 模な反対派摘発で頂点に達した。
  また、軍内の将官を含めて数十万人が処刑され、また、
 追放された。
  スターリンの虐殺は、卑劣な事に約2000万人である。
  この当時のソ連総人口が、約1億人であるから、いか
 に酷い事をしたかが分かる。。
  その概略数は・・、
  強制収容所で、1200万人・・、
  粛清で、    100万人・・、
  農村で、       600万人・・、
  その他で、     100万人・・、
  ナチス・ドイツ以上の極悪人だった。
  また、中国の毛沢東が、このスターリンを上回るとい
 う・・7000万人という信じられない数字がある・・
  真剣に防衛を考えなければ・・消えていくしかない・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2017年3月27日月曜日

(増補版)512E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年5月~1890年6月)

題:(増補版)512E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年5月~1890年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1890年5月31日、三菱長崎造船所で日本最初の鋼製商船の筑
 後川丸が完成した。
  大阪商船が発注した貨客船の鋼船で、総トン数が610
 トンだった。
  1985年頃までは、鉄船の時代で、この頃から、設計法・
 建造法が進歩して、現代に続く鋼船の時代となった。
  因みに、1896年に公開奨励法ができ、また、1896年に
 は造船奨励法が出来た。
  また、日本の経済の発展に伴い、1911年には、日本の
 商船保有量は120万トンに達して、世界第6位に発展した。
  また、1920年には、アメリカ、そして、イギリスに次
 いで世界第3位の海運国となった。
1890年5月、喫茶店が、次第にふえた。
  江戸時代の徳川綱吉の頃に、長崎の出島でオランダ人
 がコーヒーを振る舞った。
  大田南畝(おおたなんぽ)の『瓊浦又綴(けいほゆう
 てつ)』には「焦げ臭くして味ふるに堪えず」とある。
  日本初の喫茶店と言われている店は、1735年、京都東
 山に高遊外・売茶翁が開いた茶亭・通仙亭と言われてい
 る。
  その後、黒船の来航の頃より、長崎・函館・横浜など
 の開港地に西洋料理店が開店し、そのメニューの一部と
 してコーヒーが出された。
  1866年に輸入関税が決定し、正式にコーヒーが輸入さ
 れ、そして・・、
  1877年頃には、コーヒーを商品として取り扱う地盤も
 でき、浅草境内に「油絵茶屋」ができ、
  1874年には、神戸元町に「放香堂」が開店(1878年説
 あり)、
  1886年には、東京・日本橋に「洗愁亭」などが現れた。
  そして、現代にも通じる本格的な喫茶店としての形態
 をはじめて持ったのは、
  1888年4月13日に、東京の黒門町に本格的に開店した
 「可否茶館」で、
  経営者は「コーヒーを飲みながら知識も吸収し、文化
 交流する場」を経営方針とした。
  1920年代は、日本で喫茶店がブームとなった。この頃
 のコーヒーは、一杯が10銭。
1890年5月、米価高騰により東京で餓死者。
  米価騰貴(前年の約2倍)、東京・大阪でも窮民が増加し
 た。
  そして、東京で餓死者が発生した。
  1889年は凶作で、この年・1890年は、米価が暴騰し、
 1月18日には、富山県を中心に北越地方で米騒動が起き
 ていた。
  4月~8月にかけて、鳥取市、新潟県、下関市、高岡市
 などでも暴動が相次いだ。
1890年5月、相撲の番付に初めて横綱が登場した。
  西ノ海嘉治郎。
  自らも相撲をとられることの多かった明治天皇陛下だ
 った。
  また、その意を受けた伊藤博文らが尽力し、1884年、
 天覧相撲が実現された。
  大相撲は、社会的に公認されて行った。
  この時の、天覧相撲の力士は、58連勝(史上3位)を
 記録した15代横綱の初代・梅ヶ谷藤太郎だった。
  東京相撲協会と大阪相撲協会ができ、組織としての形
 態が確立した。
  1890年に、入幕から39連勝で、大関に駆け上がった初
 代・小錦八十吉と、横綱免許を受けた大関初代・西ノ海
 嘉治郎の不都合を解決するために、初めて、番付に「横
 綱」の表記が登場した。
  そして、これをきっかけにして、横綱・大関が、実質
 的な地位として確立した。
1890年6月12日、東京農林学校が、帝国大学に合併した。
  東京農林学校(とうきょうのうりんがっこう)は、日
 本の旧制教育機関で・・、
  現在の東京大学農学部の前身にあたる農学に関する日
 本の総合教育・研究機関。
  後進の帝国大学農科大学、東京帝国大学農学部から、
 さらに筑波大学生命環境学群生物資源学類、東京農工大
 学農学部が発祥した。
  1886年に、農商務省の財政難により、所轄の駒場農学
 校と東京山林学校が合併して、東京農林学校となった。
  農林学校では、両校の設置していた学科を元に、農学
 部、林学部、獣医学部を設置した。
  1888年に校則改正を行い、また・・、
  1889年に再改正をした。
  そして、、時の農商務大臣井上馨の判断で、各学部の
 卒業生には、農学士、林学士、獣医学士の各学士号が授
 与されることになった。
  また、同年1889年に、東京農林学校の既卒業生と旧駒
 場農学校の卒業生は、
  「高等試験ヲ要セス其修メタル学科ニ関スル行政官試
 補ニ採用スルコトヲ得」とされて、実質、帝国大学卒業
 者と同等の処遇を受ける事になった。
  ここに、学士号付与の賛否の問題が起きた。
  色々、物議をかもしたが、農学校を文部省に移管する
 意味で農林教育をさせるべく、1890年6月9日に、文部大
 臣と農商務省大臣が、連名で、時の首相山県有朋に、農
 科大学設置の閣議請議文を提出した。
  ここでもまた、当時の先進国で総合大学に農学がない
 と言った意見や、農林学は専門学校程度とするなどの反
 対論が依然として起こった。
  評議官は総辞職した。
  結局、1890年(明治23年)6月12日に、東京の帝国大学
 に、従来の理学からも分離を行い、農学科を二つにわけ
 て1つを農芸化学を主として学び、その後、植物学、物理
 学、動物学、農芸化学に専攻させる方針をとった。
  また、文部大臣が説得にあたり、6月17日の評議会設置
 がで決定され、駒場の地に農科大学を設置した。
  農科大学は、帝国大学令第十八条に規定された。
  そして、農学科(第一部と第二部)林学科、および、
 獣医学科を設置し、修業年限を三年と定め、帝国大学を
 六分科大学制にした。
1890年6月15日、紡績第1次操短を開始した。
  「1890年不況」と言われる経済不況を受けて、大日本
 綿糸紡績連合会は、1ヶ月8昼夜休業の第1次操業短縮を
 始めた。
  1880年代後半までは、イギリス綿糸や、その植民地で
 あったインド綿糸との競合は無かった。
  1881年(明治14年)に、官立の愛知紡績所の設立を始
 めとして、日本はすでに政府購入の紡績機の払い下げを
 して、2000錘の民間工場が操業を開始していた。
  そして、競合問題もなく操業していた(番手の違い)。
  1890年頃から、輸入綿糸、特に、インド綿糸が、日本
 国内市場から急速に駆逐され始めた。
  そして、同時に、国内紡績業者は、海外輸出へ行動を
 起こした。
  1894年頃より、国内綿糸は、本格的に中国市場に輸出
 され、1900年代の初めは30%台にまで増加した。
  国内綿糸紡績業は、極めて短期間のうちに、輸入から
 輸出産業へと発展して行った。
  この様な経緯の中で・・
 ・1890年不況に国内市場が供給過剰に陥ったため、その
  対処として操業短縮と共に、海外輸出が試みられた。
 ・この時、輸出ダンピングと損失の共同負担という方策
  が採用されたが、国内紡績各社には、これに耐えうる
  体力がなく、結果として失敗に終わった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:チャーチル首相が、タルタル人のジンギスカンの様な
   戦いを、その何も残らない完全殺戮の戦いを、「我々=
   アメリカやイギリスが、やるようになってしまう」
   ・・と言ったのは正しかった。
    その後、日本は、原子爆弾の完全破壊をされ、じゅうた
   ん爆撃などで女性や子供たちまでもが全滅殺戮をされた・・、
.
1834年、この年に、本格的に始まったアメリカの卑劣な奴
 隷制の前の段階=アメリカに供給される年季奉公人制が
 イギリスで始まる。
  キリスト教の教義があるとはいえ・・、
  つまり、『キリスト教の神』が赦(ゆる)すとはいえ・・、
  また、キリスト教の聖書に、キリスト教の神が叫ぶ
 「奴隷にせよ、奴隷にせよ」とはいえ・・、
  キリスト教徒たちへ、隣国の民を奴隷にする行為を許
 すという行為が・・記述されているとはいえ・・、
  アメリカというキリスト教国の奴隷制は、まったく卑
 劣な行為であり、卑劣な制度だった。
  アメリカの白人プランターたちは、労働力を得たいと、
 その労働力を得るために、初めは、イギリスの浮浪者た
 ちをアメリカへ連れて行った・・『拉致(らち)』であ
 る。
  そして、その需要が増し、供給が追いつかない中で、
 都市の貧民や窮民(きゅうみん、貧乏に苦しんでいる人
 たち)たち・イギリス社会の底辺の方々を連れて行った。
  誘拐をした、また、略奪をするという『非合法な方法』
 も行なわれた。
  「数千人の人々が、イギリスの諸都市の路上で殴り倒
 され、残忍な紐(ひも)に引きずられて・・」、無理や
 りアメリカへ送り込まれた・・と、記す記録もある。
  イギリスは、浮浪行為を犯罪とした・・、犯罪とされ
 た。
  「イギリス社会が悪いから」なのにである。
  自国の民を虐げて、アメリカへ送った・・アメリカも
 要求した・・一蓮托生・・悪のつながり連中・・、
  そして、政治犯や罪人もまた、アメリカへ送られた。
  そして、アメリカに着けば・・アメリカでは、「勝手
 な結婚はするな」と、人権が奪われ・・結婚もできなく
 された。
  また、酒も買ってはならないとされた。
  逃げれば鞭うたれ、焼き印も押された。
  腕(うで)や胸に焼き印を押された。
  別の主人に売られたりもした。
  奴隷とまったく同じだった。
  しかし、アメリカは、供給が追い付かない事と・・、
  永久に拘束できないイギリス出身のこのかたたちに、
 プランターの経営者たちは・・不満を持った。
  年季奉公人と言われたこの人たちに不満を持った。
  アメリカは、無期限に働く人々を求めた。
  年季奉公が明けて去り、自由な独立生産者となる年季
 奉公人・・その様にならない家畜同然に働く人々を求め
 た。
  キリスト教聖書に洗脳された・・まったく非人道的な、
 軽蔑すべき発想がキリスト教国・アメリカにあった。
  黒人の方々の奴隷制がここに生まれて来る。
.
1861年、エドワード・E・ダンパーが、この年に、アメリ
 カが、アフリカの方々を、何人、奴隷として、アメリカ
 に連れて来たか?・・の、研究した結果の数字がある。
  アメリカの「アフリカの方々を拉致(らち)した人数
 である」。
  16世紀には、 88万7500人。
  17世紀には、275万人。
  18世紀には、700万人。
  19世紀には、325万人・・という人数で、
  総計 ・・約1,400万人ものアフリカの方々を、アメリ
 カは拉致した。
  卑劣な事である。
  また、しかも、この時、一人のアフリカの方を拉致し
 て連れて来る時、
  アメリが、酷(ひど)い、非人道的な扱いをしていた
 ために、
  5人の方々が、途中で亡くなった・・死んだ。
  また、W・E・B・デュボイスの研究結果からも、
  総計7,000万にものアフリカの方々が、アメリカによっ
 て無残にも、母国からアメリカへ奪い去られた。
  ウィリアム・Z・フォスターも、この数字を「少なく
 とも6,000万人」としている。
  いずれにしても、まったく筆舌に著わすことの出来な
 い大罪悪事をアメリカはしでかした。
  キリスト教の聖書に、キリスト教の神が「奴隷にせよ、
 奴隷にせよ」と叫んでいるが、
  家族から離れさせられ・・拉致するという・・極悪事
 を平気でさせるキリスト教の洗脳に「憤りを覚える」。
  世界記憶遺産に登録せよ!!
  長崎を登録する前にこれを行なえ!!
.
1941年8月末、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベル
 トが、イギリスのチャーチル首相と会談をした。
  カナダの東海岸にある島ニューファンドランド湾の沖
 合に停泊したイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェール
 ズだった。
  この時、ルーズベルトは、この会談で言った・・、
  「戦争が終わったら、私は、日本を永久に武装させな
 い」、「武装介助する」・・と、
  この時、アメリカは参戦していない。
  アメリカ国民の方々は、「戦争なんてまっぴらイヤだ」
 の世論だった・・その様な時の発言である。
  ルーズベルトは、日本の真珠湾攻撃で、その奇襲によ
 って(奇襲でも何でもないのだが)その奇襲によって、
 日本との戦争を決断した・・と、言っているが、この言
 葉は、まったくの嘘なのだ。
  ルーズベルトは、真珠湾攻撃の3か月も前のこの時にも、
 「戦争する前から・・日本との戦争をする事を決めてい
 た」。
  そして、「日本を永久に武装解除する」と決めていた。
  ルーズベルトは、「大の日本嫌い」で・・、
  ルーズベルトは言った・・、
  「日系移民を(アメリカ人の)他の民族と結婚させる
 な」・・と、
  「ジャップ(日本の蔑称)は劣等人種だから、ジャッ
 プと他民族を交配させると、必ず欠陥児が生まれる」・・
 と・・、
  ルーズベルトは、若い頃より、日系移民を憎み、いつ
 か日本を叩き潰してやろうと思い、そして、考えていた。
  そして、この時、日本と戦争をして、その戦争に勝つ
 ことを予想していて、そして、日本には永久に武装解除
 すると、すでに、決めていた。
  この発言は、1942年の春頃にも、ルーズベルトは、ソ
 連のモロトフ外相と、ワシントンで会談したときにも言
 っている。
  ルーズベルトは、ハワイの真珠湾攻撃が有ろうと、無
 かろうと・・日本と戦争をしたい・・戦争をするのだと
 決めていた。
.
1943年1月14日、カサブランカ会談(無条件降伏要求)
  カサブランカ会談が行われた(1月14日~1月24日)
  不幸を生んだアメリカ大統領ルーズベルトの、『日本
 に対する知識不足と思い込み』。
  ルーズベルトは、日本に対する知識が無く、ある意味
 では「日本に、未開民族的な理解」を持っていた。
  そして、その様なレベルの日本が武力を持っていると
 思っていた・・理解していた。
  キリスト教に強く影響されているルーズベルトは、そ
 の様な見方で見ていた。
  また、キリスト教の「有色人種蔑視観観」の考え方・
 見方・教義から偏頗(へんぱ)な見方で見ていた。
  千数百年間も有色人種は、キリスト教に、これで虐げ
 られて来ていたが、
  スペインによる南米などの大虐殺の如く、卑劣な虐げ
 の歴史の中にあったが、
  このルーズベルトも、その延長線上にある人だった。
  日本は、1300年以上も前に、すでに、男女同権があり、
 知的な教育システムを持ち、兵役もない、非武装の社会
 が出来上がっていたのだが・・
  その様な日本・・日本文化のことを知る由もなかった。
  平安時代という、アメリカが、影も形もない、遠い遠
 い昔から、その様な社会を日本は経験して来ている国だ
 ったのだが・・、
  アメリカが、戦後、領土支配的に、上から目線で、日
 本へ色々としたが、日本を本源的に理解していない行為
 だった。
  日本人が、「本当に、あんなに多くの漢字を知ってい
 るのか?」と、(知っている訳はないという思いで・・)
 テストを実施したくらいのアメリカだった。
  また、そのテストの出来の良さに「びっくりするアメ
 リカ」だった。
  アメリカは、自分の理解不足を反省した方が良い。
  この様に知識不足・理解不足を反省すべきだったルー
 ズベルトは・・、
  キリスト教の「シャロームの完全破壊」の教義に影響
 されて、このカサブランカの会談に於いて、日本に「無
 条件降伏を要求した」。
  イギリスのチャーチル首相は、大変、驚き、「それで
 は戦争が、タルタル人の時代に戻ってしまう」と反対し、
 反論した。
  しかし、ルーズベルトは、キリスト教に洗脳された理
 解の仕方によって、今後の方向性を決めるという、一種
 の信仰的決定行為で・・決定がなされた。
  そこには、すでに、思考の無い判断があった。
  そして、無条件降伏に固執し、反対論を突っぱねた。
  チャーチル首相は、タルタル人のジンギスカンの様な
 戦いを、その何も残らない完全殺戮の戦いを、「我々=
 アメリカやイギリスが、やるようになる」と言ったのは
 正しかった。
  そして、ルーズベルトのタルタル人の如くの行為は「
 原子爆弾による完全蒸発の卑劣行為となり」、
  また、「蟻一匹も生かしてはおかないという卑劣なじ
 ゅうたん爆撃を、一般市民の女性や子供たちの頭上に、
 爆弾を雨の様に降らし・・投下した」。
  タルタル人以下の事をするアメリカの戦い方だった。
  そこに名誉も誉(ほまれ)も有るわけはなかった。
  そこには、キリスト教の神の正義である「完全殺戮の
 シャローム」があった。
  国際社会は、すでに、ウェストファリア条約で、この
 様なアメリカの様な非人道的な行為はしないと取り決め
 ているのに、国際法を完全無視のアメリカだった。
  イギリスのチャーチル首相は、あまりにひどいルーズ
 ベルトの考え方に、数日間、抗議し、抵抗した。
  しかし、ルーズベルトは頑(かたく)なだった。
  そして、カサブランカの卑劣な宣言となって行った。
  ドイツも、当然、この宣言に関係していたが、これを
 聞いたドイツは『絶望した』という。
  そして、第二次世界大戦の戦いは、より卑劣な野獣的
 戦いとなって行った。
  名誉を守りたいというドイツの人々は、逆に、ヒトラ
 ーの戦いに加担する人たちも出た。
  ヒトラーの暗殺計画も未遂に終わった。
  カサブランカ宣言以降、ドイツは、見違えるように強
 くなったと言われている。
  この宣言以降、戦いが1年半も続いた原因は、この宣言
 にあったと言われている。
  この間に亡くなった方々も多かったが、ルーズベルト
 が、その原因者だと言える。
  あの悪行為をしたソ連のスターリンでさえ、アメリカ
 のルーズベルトに言った・・、
  「ヒトラーへ膝まずけと要求するような戦争をするも
 のではない」・・と・・、
  また、「ヒトラーはいずれ去っていく・・
  そのヒトラーが居なくなっても、ドイツ民族は残る・・
  我々・スラブ民族も残る・・
  そして、その後も、ドイツ民族とスラブ民族の付き合
 いは長く続くのであるから」・・と・・
  スターリンが言いたいことは・・
  「アメリカの君たちも残り、そして、付き合いを続け
 て行くのに、そこまで要求するのか?」・・と・・、
  そんなひどい、そして、酷(むご)いことはするな・・
 と・・、
.
1946年、アメリカ軍は、白人優位の軍隊であり、黒人の方々
 や黄色人種の『非白人は差別された』・・
  そして、弾除け(たまよけ)に激戦地に送り出されて
 いた。 
  (差別された日系アメリカ人が、その差別を克服する
 ために激戦地で凄まじい戦いをしたことは、有名な話と
 なっている・・また・・、
  アメリカ海軍には、差別から、黒人の方々は、入隊で
 きなかった。
  食事を作る役目ぐらいだった・・)
  戦争が終結すると・・、国外で戦っていたアメリカ軍
 (陸軍)のアフリカ系アメリカ人兵士(黒人兵)は、英
 雄として故郷に帰還した。
  だが、卑劣な事に、そこ(アメリカ本土)には、依然
 として『人種差別』と『貧富の格差』が存在するという
 階層社会・差別社会であった。
  (白人に都合の良い法律をつくったり、選挙の投票を
 黒人の方々にさせないという、アメリカだった。
  経済活動においてもしかり・・当然の差別状態だった。
  遅れているアメリカだった)
  南部を中心として、北部においても、アフリカ系の帰
 還兵に対するリンチ殺人事件が多発した・・英雄扱いの
 真逆だった。
  白人の「キリスト教徒の人種差別主義者(クー・クラ
 ックス・クラン・・など)」は、56名の、アメリカのた
 めに戦ったアフリカ系帰還兵を殺害し、それ以上のアフ
 リカ系帰還兵に重軽傷の怪我を負わせ・・卑劣この上な
 い行動をした。
  2月25日、テネシー州コロンビアの黒人居住区ミンクス
 ライド襲撃事件などがある。
.
2014年4月、この月の号の月刊誌『文藝春秋』に・・、
  「欧州で教会離れが進んでいる」・・と・・
  教会が売り出され、いつしかモスクに!?
  金権体質とスキャンダルで、脱会者が急増中
  欧州経済で、「ひとり勝ちといわれるドイツ」で、教
 会離れが進んでいる。
  現在、ドイツのキリスト教信徒の数は・・、
  カトリックが・・・・2,400万人
  プロテスタントが・・2,300万人
  全人口の・・60%・・
  しかし、その数が、毎年、50万人ずつ減少している。
  このままで行くと、20年後には、人口の50パーセント
 以下になり、キリスト教徒は、近い将来、少数派になる
 ・・と・・、
  日本のキリスト教信徒は、全人口の約1~2%で、約200
 万人しかいない・・が・・
  因みに、仏教徒の数は約8,500万人で、全人口の約70%。
  また、因みに・・、
  ドイツのこの25年間のキリスト教徒の減少は・・、
  プロテスタント600万人、カトリック200万人となって
 いて、無宗教も珍しくないという。
  この様な現象は、欧州全体にもあって、ドイツが特別
 な状態という訳ではない・・と・・、
  2013年1月に、有名なリサーチ機関が、カトリック信者
 を対象に行なった「面白い聞き取り調査結果」が発表さ
 れた。
  ・信者の多くが、自分には信仰はないと思ってはいな
   いが・・、信心深いとも思っていない・・と・・、
  ・神や宗教について、定義は極めてあいまいと思って
   いて、神と自分との関係には関心がない・・積極的
   に問うてみる必要性は感じていない・・と・・、
  ・死んだ人が復活するというキリスト教の教義を信じ
   ている人はいない、
    また、当然、マリアの処女懐胎をそのまま信じて
   いる人もいない。
  ・2005年の前回の調査と比べると、一層、キリスト教
   離れになっていて、カトリック教会は多くの信頼を
   失っている。
  ・特に、熱心なキリスト教信者が、『幼児虐待』のス
   キャンダルなどに深いショックを受けていて、
    また、教会の持つ『女性蔑視の体質』や、『離婚
   者』や『同性愛者への差別的態度』、また、避妊の
   禁止などを非難するようになっている。
  ・キリスト教会に生き方まで支持されたくないと思っ
   ている人が増えている。
    価値観が多様化して、教会離れになっている。
  ・日曜日のミサに定期的に参加する人は、わずかで、
   人口の2%程度(50人に1人)。
  ・毎週、教会に通う人も、田舎に住んでいる人でさえ
   かなり少ない。
  ・宗教に対する態度は、地方と都会で、そして、年齢
   によって、大きな違いと開きがある。
  ・キリスト教会が、いつしかモスクになるのではと思
   えるほどだ・・、
  ・キリスト教を標榜する政党は、今でもある・・、
   与党のCDU(キリスト教民主同盟)と、CSU(
   キリスト教社会同盟)で、
    宗教は、学校で必修科目となっている。
    そして、ドイツの教育は、州の管轄事項なので、
   州ごとに決められ、若干の違いはあるが・・、
    必修科目であることは憲法で定められている。
    しかし、最近では、最終学年が近くなると、宗教
   の代わりに、『倫理』を選択できるところも多くな
   ってきている。
    しかし、基本的には、宗教の授業は、大学に入る
   まで延々と続く。
    これは、「時代に即しているとは言い難い」と思
   っている人は多い。
  ・だんだん減少して、先細りのキリスト教だが・・
   そのキリスト教と違い、イスラム教は、どんどん伸
   びている。
  ・売り出された教会が、モスクになってしまったとこ
   ろもある。
  ・移民の多い州の学校では、宗教の時間に、カトリッ
   クや、プロテスタントと並行して、イスラム教の授
   業も始まっている。
  ・移民が、これからも増えるので、公立学校でのイス
   ラム教の授業は、早晩、常態化して行くと予想され
   る。
  ・それに備えて、イスラム教の教師を養成する科を新
   しく作った教育大学もある。
  ・イスラム教の授業の主導権を、ドイツが握りたいと、
   イスラム教師を正式に育成するためのもの。
  ・イスラムの授業を、イスラムの聖職者に任せると、
   反ドイツ的な教育が為されるかもしれないと、危惧
   しているからである・・、
  ・今、ドイツでは、すでに、キリスト教のカトリック
   も、プロテスタントも、肝心な『教え』が信じられ
   ていなくて、人々の心を掴んでいない、共感をもた
   らしていない。
  ・多くのドイツ人にとって、キリスト教や宗教は、反
   動的で、反民主主義と捉(とら)えられている。
  ・この様な、キリスト教が作った空洞に、入り込んで
   来たのが、さらに厳格な一神教であるイスラム教で
   あって・・何とも皮肉な状態になっている。
  ・今、ドイツは、弱まるキリスト教に、強まるイスラ
   ム教となっていて・・、キリスト教教会の地盤沈下
   は深刻になっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive