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2015年3月20日金曜日

(増補版)46B:気になった事柄を集めた年表(1299年~1304年)

 題:(増補版)46B:気になった事柄を集めた年表(1299年~1304年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1299年、オスマン帝国(オスマン・トルコ、イスラム国家)
 が建国された。
  15世紀には、東ローマ帝国を滅ぼして、その首都であ
 ったコンスタンティノーブルを征服した。
  最大領土に、1683年になったが、カナンの地(イスラ
 エル)も完全にこの帝国に殲滅されている。
  この国の出現は、西欧キリスト教国にとって「オスマン
 の衝撃」であった。
  また、西欧の統一とカトリック的世界帝国構築の夢を
 挫折させた。
  この国の歴史は、1922年のトルコ革命による滅亡まで
 の620年以上の長期間、続いた。
13世紀~15世紀、インカ帝国:1200年頃に興り、13世紀
 ~15世紀に繁栄を極めたインカ帝国は、大量の黄金を使
 った工芸品を所有していた。
  これらは、1533年に、スペインによって滅ぼされた時
 (最後の王アタワルパは莫大な身代金を積んだにもかかわ
 らず殺された)、王族がチチカカ湖に投じたという。
  この伝説は、1988年の日本とボリビアの共同調査で証
 明された。
  エクアドルからチリに及ぶ大帝国だった。
  巨大な石造建築・土木灌漑(かんがい)・織物などの
 高度な文明を有していた。
13世紀、タイ(スコータイ朝とアユタヤ朝):13世紀中頃
 に、中国の雲南地方から南下したタイ族が、スコータイ朝
 を建設したが、短命に終わる。
  タイ人による最初のタイ王朝(1257年~1350年、年代
 は諸説ある)。
  14世紀中葉に勃興したアユタヤ朝(1351年~1767年)
 が417年間続いた。
  ビルマのアラウンパヤ朝の攻撃により、1767年に滅亡。
  山田長政はこの王朝のもとで活躍。
  中国や琉球と盛んに貿易を行った。
13世紀、外国では、13世紀に既に特許(慣習法)が付与さ
 れていたと言われている。
  日本は明治4年になってから。
13世紀、マレーシア:13世紀にジャワ島にあった王朝の勢
 力下にはいって、振るわなかった。
13世紀、彫刻:明月院上杉重房像(神奈川)
13世紀、絵画:禅林寺山越来迎図(京都)
13世紀、絵画:西本願寺親鸞上人像(京都、専阿弥筆)
1300年頃、中世の頃、鎌倉街道筋が発展した。
  「いざ、鎌倉」、幕府は、有力御家人や豪族を諸国の
 守護や郷の地頭に任命し、一旦鎌倉に異変が起こると、
 これら諸国の部者たちは手勢と共に武装して駆け付けた。
  京・駿河・遠江戸~鎌倉、下総・常陸~鎌倉、武蔵東
 部・下野~鎌倉、奥州~鎌倉、武蔵西部・上州~鎌倉、
 信濃・越後~鎌倉などのルートがある。
1300年、最古のポルトラノ型海図ピサ図が作られた。
  羅針盤の発明が、航海図を画期的に変え、実用的にした。
  ポルトラノは、イタリア語で沿岸航海図?の意味からと
 言われている。
14世紀初、絵画:14世紀初。愛染明王像(東京根津美術館)
13世紀~14世紀、絵画:13~14世紀。聖衆来迎寺六道絵
 入道(滋賀)
14世紀、工芸:14世紀。大鎧・兜・大袖、櫛引八幡宮赤糸
 威(青森)
14世紀、チベット:14世紀には、ツォンカバが出て宗教改
 革を唱え、黄帽派が成立し、次第に勢力を伸ばし、ダラ
 イ・ラマの政権が樹立する。
  清朝以後は、清、英、露の勢力争いの目標になった。
  現在は、中華人民共和国西蔵自治区になっている。
14世紀、アステカ王国:アステカ族が、メキシコ中央高原
 に築いた王国(14世紀~1521年)。
  アステカ族は、伝承によると、1300年頃にメキシコ盆
 地に到達し、先住民から農耕技術や文化を学び、勇猛さと
 団結力、また、婚姻に基づく同盟関係で勢力を伸ばした。
  首都のテノチティトランを、14世紀中頃に建設し、15
 世紀にアステカ王国を建設した。
  スペイン人キリスト教徒とキリスト教聖職者たちによっ
 て、1521年に滅ぼされた。
1300年、ルネッサンス/文芸復興:14世紀、イタリアに始
 まり、17世紀まで各国に波及した。
  古代ギリシャ・ローマ文化の復興運動。
  中世のキリスト教に抑え付けられた人間性や、戦争が
 多発する社会の暗黒時代から、人間本来の姿を取り戻し
 たいの「再生・復活」の動き。
  19世紀の中葉ころに、歴史家のミシュレンやブルクハ
 ルトの用いた考え方で、原意は「再生」である。
  市民階級の繁栄を背景に、古典文化を模範とし、ヒュー
 マニズム(人文主義・人間中心主義)によって、あるが
 ままに人間や自然を見ようとしたものであり、近代文化
 の形成に貢献した。
  しかし、なお多くの中世的要素が存在したので、ルネッ
 サンスを近代の始まりとする考えには疑問が呈されている。
  また、ルネッサンスが、ビザンチン文化・イスラム文化
 の影響を受けたことも知られている。
  なお、古典文化の継承をカロリング=ルネッサンス、
 12世紀ルネッサンスなどによってとらえる事もできる。
1301年、新田義貞が生まれた(1301年~1338年)
1301年8月22日、第10代執権・北条師政(1301・8・22~
 1311・9・22)
1303年、北条高時が生まれた(1303年~1333年)
1304年、元と日本の関係に、逆の現象が現れた。
  日本の武装商船が、元(中国)の江南に度重なって襲
 来するようになった。
  元は、海防を強化させた。
  また、元の商人に海外へ出る事を禁じる『禁海令』を
 発布した。
  元が、倭寇と日本人の復讐を恐れたため、閉鎖主義へと
 態度を変化させ、日本との通交を回避するようになった。
  また、高麗においても、二度に及ぶ日本への侵攻で、
 および、第三次日本侵攻計画による造船で国内の木材が
 殆ど尽き、海軍力が弱体した。
  この事が、相次ぐ倭寇の襲来に苦戦を強いられる原因
 となった。
  日本への2度の侵攻の敗戦と、その後の日本武装商船の
 活動によって、中国における対日本観は大きく変化し、
 狂暴で勇猛な日本人像、および、日本脅威論が形成された。
  例えば、南宋遺臣の鄭思肖は・・、
  「倭人は狼、死をおそれない。たとえ十人が百人に遇
 っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで
 戦う。戦士しなければ、帰ってもまた倭王の手によって
 殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべか
 らず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして
 入りがたく、戦守の計を為すべし」・・と述べている。
  この様な、日本恐るべしの資料は複数ある。
  なにしろ、クビライの日本侵攻が成功しなかったとい
 う事が国内で議論されて日本征討を思い止まったという。
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2015年3月19日木曜日

(増補版)45B:気になった事柄を集めた年表(1281年~1299年)

 題:(増補版)45B:気になった事柄を集めた年表(1281年~1299年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1283年5月3日、幕府(北条時宗)が、北条兼時(かねとき、
 時宗の異母弟)を播磨国に派遣し防備を固める。
1283年、この年、元では三度目の日本侵略計画を立案する
 が、地方官から人民疲弊を理由に計画の停止が要請された。
1283年頃、吉田兼好(よしだけんこう、兼好法師、官人、
 歌人)が生まれた(1283年頃~1353年頃)、徒然草を
 書いた。
1284年4月4日、第9代執権・北条貞時(1284・4・4~
 1301・8・22)、前執権の北条時宗は若いがよくやった。
  この日に、北条時宗は没している、32歳だった。
  墓所:神奈川県鎌倉円覚寺。
  元寇の心労が重なったのだと感じる。心臓病と言われ
 ている。
  特に、2か月以上の弘安の役の戦いの大作戦が要した時
 は、時宗の名義で作戦指示が出されている。また、時宗
 の作戦を受けた御内人が戦場へ派遣されて部隊の指揮に
 あたっている。
  何度も、元朝からの国書などの威圧に屈せず、また、
 一貫して返牒案を採用せず、ひたすら防備を固めた。
  また、防備陣の配備など、一致して西国御家人に戦争
 の備えをさせた。
  また、三度目の襲来に備えての防備にも色々と国防強
 化に配慮した。今、日本の国難を救った英雄とも評され
 ている。
1284年7月、元の使いが、対馬に来る。
1284年7月18日、一条実経が没した。
1284年10月3日、幕府が北条時国を常陸に誅す。
1285年、鎌倉の円覚寺が建てられた。建築:円覚寺舎利殿
 (神奈川、唐様)
1285年、霜月の乱(霜月騒動、しもつき)。
  安達泰盛(やすもり、1231年~1285年、幕政上、重要
 な地位を占めた。娘は北条時宗に嫁し貞時を産む。外様代
 表)と平頼綱(内管領)が権勢上で対立し、この年、一族
 とともに滅ぼされる(秋田城介の乱ともいう)→平頼綱の
 勝利→のち長崎氏へ主導権移動(平禅門の変)。
  北条氏と有力御家人との間の最後の戦い。
  蒙古襲来以来の内外の諸問題の多い中で、幕政運営を
 巡っての対立が激化した。
1289年8月23日、一遍が没する(1239年~1289年)
1289年10月9日、第8代将軍・久明親王(1289・10・9~
 1308・8・4)
1290年4月25日、院旨をもって異国降伏の祈祷を命じた。
1291年9月、元が、6000人の軍で、瑠求(りゅうきゅう)
 に侵攻する計画をたて、翌年の1292年3月に、元が、瑠
 求に武力侵攻した。
  クビライの後を継いだテムルは、即位後の1297年9月
 に、再度、瑠求へ侵攻し、島民の130人を拉致した。
  この「瑠求」が琉球か台湾かについては諸説がある。
1292年、高麗使が来朝する。これに返書を出さない。
1293年、鎮西探題が設置された。
  第9代執権・北条貞時の頃、北条兼時・名越時家が派遣
 されたのが創始で、それまで設置されていた鎮西談議所
 は廃止された。
1294年2月18日、フビライ(モンゴル帝国の第5代皇帝)
 が没した(1215年~1294年)、大都宮城の紫壇殿で病
 没した。
1294年5月10日、クビライの後継者となっていた皇太孫テ
 ムルが、モンゴル高原南部の上都(じょうと)で即位した。
1295年11月、イギリスのエドワード1世(イングランド王)
 が、スコットランド遠征の戦費捻出のため招集した議会
 (模範議会、もはんぎかい)。
  キリスト教の高位聖職者や貴族、各教区からのキリスト
 教司祭、各州の騎士などから議員を集めて議した。
1297年、御家人の窮乏:原因:
  (1)生活の向上と大番役・鎌倉番役の負担。
  (2)分割相続(惣領制)による領地細分化。
  (3)貨幣経済の進展→出費の増大→所領の質入れ・
 売却→恩賞の打切りに対する不信・不満。
  (4)元寇の影響:戦費負担、幕府の恩賞対策の失敗
 (と言っても、戦いに勝利したって、与えるようなもの、
 新たに得たものはなかった)。
  永仁の徳政令:御家人の土地売買・質入れの禁止。
 売却後20年以内の土地の無償返還、御家人関係の金銭貸
 借訴訟の不受理(1298年廃止)。
  徳政令の結果:窮乏の激化→御家人の離反。
  御家人:鎌倉時代には、幕府直属の家臣を言った。
 御家人の中、源氏の祖先以来のものを塁代(るいだい)
 御家人、
  頼朝の時に御家人になったものを新加(しんか)御家
 人とも言う。
  御家人の義務は、御家人役(大番役、鎌倉番役、兵役
 など)の奉公である。
  鎌倉末期には守護に従属するものが多くなり、鎌倉幕
 府体制は崩壊に向かった。
  幕府の衰退:有力守護の出現:分割相続→有力御家人と
 北条氏の対立、得宗家(北条氏の嫡統の家督)の専権。
  霜月の乱:1285年、安達泰盛(外様代表)と平頼綱
 (内管領)の対立→平頼綱の勝利、のち長崎氏へ主導権
 移動(平禅門の変)。
  徳政令を出し、越訴・質権・売買地・利銭出挙のこと
 を定めた。鎌倉幕府への不満が高まった。
  徳政令:本来は国全体に仁政を施す事であるが、1297
 年に永仁の徳政令は、御家人の所領の喪失を防ぐために設
 定したものであった。
  御家人は、非御家人・凡した(ぼんげ)に売り渡した
 所領は、20か年を過ぎても取り戻すことができた。
1299年、元の最後の正使。
  クビライの後を継いだ第2代皇帝・テムルは、補陀禅寺
 の僧の一寧を正使として国書を託して日本へ派遣した。
  これが、元が日本へ派遣した最後の使節団となった。
  鎌倉幕府の第9代執権・北条貞時の命によって、使節団
 は伊豆の修禅寺に留め置かれた。
  後に、僧の一寧は高僧であったため、日本側は厚遇を
 持って迎えた。
  鎌倉の住持を務めたり、後宇多上皇の招きで京都の南
 禅寺で務めるなどしている。
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2015年3月18日水曜日

(増補版)44B:気になった事柄を集めた年表(1280年~1281年)

 題:(増補版)44B:気になった事柄を集めた年表(1280年~1281年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1281年6月16日~8月29日、蒙古の二度目の来襲があった。
 (弘安の役)74日間(前回の15日間の5倍近い戦闘期間)
  モンゴル帝国と高麗王国の連合軍、4400隻の艦隊は、
 元寇以前では世界史上最大規模の艦船数だった。
  前回の文永の役では、暴風雨を受けて敗退し、高麗の
 疲弊は酷く、その様子を、日本征討に加わった兵士たち
 は、戦闘による負傷と、帰還中の暴風雨により多くの負
 傷者・溺死者を出すなどしたために、今では田畑を耕作
 する者はわずかに老人と子供のみである・・と記録され
 ている。
  また、「民の疲弊はこの時よりはなはだしい時はなか
 った」との記録もある。
  そして、再び、日本征討軍を挙げるならば、高麗は、
 戦艦・兵糧の支給には耐えられない・・と、クビライに
 訴えている。
  しかし、またもや大軍団を編成して、再度、元と高麗
 の連合軍はやって来た。
  そして、今回の弘安の役で、また、暴風雨の神風が吹
 いた。それが、日本勝利の結果だと教科書には書かれて
 いるが、
  元側の資料の「高麗史」によれば、74日間の戦闘にお
 いて、日本軍が強く、(元側が)苦戦を強いられたこと
 が書かれている。
  そして、強い日本軍との戦いをどうするかの軍議にお
 いて撤退が決定したという。
  そして、その日本からの撤退の途上で、暴風雨に遭遇
 したという。
  暴風雨は、勝敗とは、直接の関係はないとなっている。
  また、気象学的に、過去の記録には、この6月から8月
 の戦闘が行われた時期の台風の記録がないため、台風以
 外の気象現象ではないかという見解もある。
  元軍が、日本軍との戦いに苦戦して撤退した様子は、
 元側の資料にあり、
  また、日本側の資料にも、同様の記載で確認ができる。
  元軍と戦って撤退させたという記述や、合戦し賊船一
 艘をを取ったとか、蒙古軍を追い返したとかの報告の飛
 脚による中央政権へ対しての軍事的報告や、
  「五壇法日記』や「関東評定衆伝」などにも記されて
 いる。
  日本軍の強さが分かり、またしても、暴風に会って、
 損害が甚大であったということで、第3回目の来寇は無
 かったのだと言える。
  74日間にわたる戦闘において、7月30日夜半に、台風
 が襲来したという記録への記述もある。
  元軍は、大損害を被り、約4000隻の軍船の内、残存艦
 船は200隻であったという。
  また、台風を逃れ、損害は軽微だった戦艦群もあった
 という記述もある。
  また、元史には、軍船が沈没し、壊れた船体の破片に
 掴まりながらも、岸に辿り着いた。
  江南軍の1000余人の兵を率いた管軍総管の船も壊れ、
 三昼夜漂流した末に合流している。また、将校の中には
 実際の溺死する者もいた。
  大元朝に人質に出されてい高麗国王の子息は、台風を
 受けて溺死している・・などの記述もある。
  また、停泊態勢をとっていた船もあったようだ、その
 艦隊は風浪対策をしていたのだろう。その差があったの
 だろう。
  元軍が、撤退を決議した軍議(総司令官や都元帥らの
 軍議)の記録に、
  張禧「士卒の溺死する者は半ばに及んでいる。死を免
 れた者は、皆壮士ばかりです。もはや、士卒たちは帰還
 できるという心境にはないでしょう。それに乗じて、食
 糧は敵から奪いながら、もって進んで戦いましょう」。
 范文虎「帰朝した際に罪に問われた時は、私がこれに当
 たる。公(張禧)は私と共に罪に問われることはあるま
 い」・・などと、議論した末、結局、撤退することにな
 ったという。
  頑丈な船より兵卒を無理やり降ろして乗り込んだり、
 鷹島の西の浦より10万余の兵卒を見捨てて逃亡したとの
 記録もある。
  また、軍馬70頭を軍船から降ろして捨てて帰還したと
 かとか・・と。
  日本軍の士気も上がっていたようで、元軍の軍船に攻
 撃を仕掛け、追い掛け、乗り移って元兵の首を挙げ・・
 などの記述も見られる。
  日本軍は奮戦している。
  「千人塚」という元軍の死者を弔うために建てられた
 塚がある。
  また、「逃げの浦石塁」というのもある、ここから上
 陸した元軍が逃げて行ったという。
  また、置き去りにされた元軍の殲滅戦も日本軍は行っ
 ている。
  そして、逃亡して隠れていた元軍の兵士が、木を伐採
 して船を建造して逃げたともいう。
  置き去りにされた元軍の捜索もやっている。
  また、残された元の軍船を焼き払ったりもしている。
  福田兼重の父子らの日本軍による鷹島総攻撃によって
 10万余の元軍は壊滅し、日本軍は20000~30000人の元
 の兵士を捕虜にした・・という記録もある。
  この掃討戦の激しさを物語る地名も多く残っていると
 いう・・首除(くびのき)、血崎、死浦、地獄谷、供養
 の元・・など。
  高麗王の密偵が残した文に、
 「(鷹島掃討戦で死んだ)怨念の骸骨は山ほど高く、夜
 を徹して天に向かって死んだ魂が泣く」・・と漢詩で詠
 んでいる。
  日本軍総司令官:鎮西(異国征伐)大将軍・北条実政、
  諸将・鎮西西方奉行、鎮西東方奉行、西方奉行一門、
 関東御使・軍奉行、肥後守護、薩摩守護、筑後御家人、
 豊後御家人、肥後御家人、薩摩御家人、伊予御家人、六
 波羅派遣軍など、60000余騎、
  元軍:140000~156989人、
  元戦艦:4400隻、
  損害:日本・不明、元軍(不帰還者)・84000~
 141290人、
  元軍捕虜:20000~30000人、
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2015年3月17日火曜日

(増補版)43B:気になった事柄を集めた年表(1268年~1280年)

 題:(増補版)43B:気になった事柄を集めた年表(1268年~1280年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
  蒙古(モンゴル帝国)の要求は、服属しろ(ふくぞく、
 服従して下につけ)、挨拶に来い、貢物を持って来いだ
 った。
  世界中を荒らしまわっているモンゴル帝国の猛威の情
 報は、当然、鎌倉幕府の耳にも入っていただろう。
  隣国の高麗だって、何度も侵攻を受けているし・・、
  今・現代でも、グローバルスタンダードは正義なのだ、
 TPPは正義なのだ、その結果の日本の市場が欲しいと主
 張され、特に、農業市場が貰えれば美味しいよと言われ
 ている。これだけしつこくアメリカは、日本に言うのだ
 から、アメリカにとって、余程、美味しいのだろう。
  自民党が、公約してまでして守りますと言っているが
 ・・?
  元寇・・朝廷と鎌倉幕府を先頭に、日本中は大揺れだ
 った・・、こんな窮地の時に、急に、執権になった18歳
 の若者執権・北条時宗の心はどうだったのか?
.
1268年7月17日、朝廷が、異国が降伏しますようにと祈願
 する。日本はこの一点で纏まっていた。
1269年3月7日、蒙古の使い・黒的らの国使と、案内役の
 高麗の国使らが、対馬に来て、返牒する様にと要求した。
  対馬島民が拒んで、押し問答をしたため、対馬島民が
 蒙古に捕まり、蒙古に連れ去られてしまった。
1269年4月26日、頭を痛めている朝廷、この日、後嵯峨法
 皇が、御所で評定を開いた、そして、蒙古への返牒につ
 いて議した。
1269年7月下旬、蒙古の使者が、7月下旬になって、先の
 対馬島民の二人を連れ、高麗に来た。
  そして、高麗では、二人の使者に日本人の島民二人を
 伴わせ、蒙古からの国書に、高麗の国書を添えて、日本
 に向かわせた。
1269年9月17日、蒙古の使者と高麗の使者が、対馬に着き、
 ついで九州の大宰府に到着、日本に対し返答を迫った。
  朝廷では、今度は返事を送ろうという事になり、菅原
 長成が、その草案を作った。しかし、幕府は先方の牒状
 は無礼であるとの理由から、使者たちを追い返した。
  朝廷からの返書の草案は握り潰した。
  蒙古から来た奉書の例(意訳)最初に送られて来たも
 のなので無礼な感じはない:
  天の慈しみを受ける大蒙古国皇帝は、書を日本国王に
 奉ず。
  朕(フビライ・カン)が思うに、いにしえより小国の
 君主は、国境が相接していれば、通信して親睦に努める
 ものである。
  まして我が祖宗(チンギズ・カン)は、明らかな天命
 を受け、天下を領有し、遠方の異国にして我が威を畏れ、
 徳に懐く者はその数を知らぬ程である。・・中略・・
  高麗の君臣は、感謝し敬い来朝した。
  義は君臣なりと言うが、その喜びは父子の様である。
  この事は王(日本国王)の君臣も知っている事だろう。
  高麗は、朕の東藩である。
  日本は、高麗にごく近い。
  また、開国以来、時には中国と通交している。
  だが、朕の代に至って、いまだ一度も誼(よし)みを
 通じようという使者がない。
  思うに、王国(日本)は、この事をいまだよく知らな
 いのではないか。
  ゆえに、特使を遣わして国書を持参させ、朕の志を布
 告させる。
  願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結び、もっ
 て互いの親睦を深めたい。
  聖人(皇帝)は四海(天下)をもって、家となすもの
 である。
  互いに誼みを通じないというのは一家の理と言えるだ
 ろうか。
  兵を用いることは誰が好もうか。
  王は、其の点を考慮されよ。
  不宣(ふせん、手紙の終わりに添える語)。
1269年9月17日、この同じ日、高麗の使者の金有成と高柔
 らが、対馬に来て、先の対馬島民の二名を返し、国書・
 蒙古中書省牒を送った。
  蒙古中書省牒は、蒙古国の中書省から日本国王に宛て
 た牒書形式の文書という意味。
1270年1月、朝廷が、蒙古への返牒を鎌倉へ下した。
  幕府は、これを押さえ、送らなかった。
1270年1月11日、蒙古船が対馬に来る。
1270年、第7回十字軍。
1271年、蒙古の使いが国書を呈した(ていする、差し出す)。
  幕府はこれを朝廷に進上した(しんじょう、目上の人
 に送る書状の敬意を表す語)。
  天皇は、勅使を伊勢に派遣し、異国の降伏を祈願した。
1271年5月、この頃より全国的に旱魃(かんばつ)が続く。
  幕府は民心の動揺を抑(おさ)え、その救済と幕政の
 維持を計った。
1971年9月2日、幕府が、高麗からの牒状を朝廷へ奏した。
1271年9月12日、蒙古の使者・趙長粥が筑前国に来航した
 (来襲の予行演習か?)
1271年10月23日、後嵯峨法皇が、公家をして、蒙古の牒
 状を議した。
1271年12月16日、朝廷が、勅使を伊勢に遣わして異国の
 降伏を祈願した。
1271年、イタリアのマルコポーロが中央アジア・支那・
 インドに旅行した。後の東方見聞録で、日本が一躍脚光
 を浴びるようになった。
1271年、蒙古のフビライ・ハンが、首都を大都(北京)に
 おき、国号を元と改めた。
1272年2月11日、北条時輔(ときすけ)の乱。第5代執権・
 北条時頼の長男。謀反の疑いで襲撃を受けた。
  蒙古襲来の近い時に団結を強めたいとして行われた気
 配がある。北条氏惣領家系に集中したい、させたい。
1272年5月、高麗の使いが、元の牒状を携えて来る。
1273年3月、元の使い・趙長粥が大宰府に来て、京に入る
 を得ずして去る(もう、日本の決心を悟ったのだろう。
 戦うという気配を感じて去ったのだろう)。
1273年5月27日、北条政村が没する。
  青年執権・時宗を支えていた前執権の政村が没する。
  いよいよ蒙古の来襲が迫る。
1273年、一遍が時宗を開いた。
1274年2月14日、幕府が、日蓮の赦免をする。
1274年、日蓮上人が佐渡の流刑を終え、信徒の招きで、
 身延山に入山した。
1274年11月11日~26日、蒙古が来襲した。文永の役。
  蒙古軍が対馬・壱岐を侵し、ついで、肥前・筑前に上
 陸した。15日間。
  一夜、大風雨が起こり、蒙古船は沈没した。
  元および高麗の連合軍の戦力:
  兵力:元・27000~約40000人、日本・数千?
  損害:元(不帰還者)13500人、日本・数百人?
  船の数:元・約900隻、日本・約300隻、
  武器・元・火薬兵器、
  鎮西奉行の少弐景資(しょうにかげすけ)の指揮で御
 家人は奮戦する。
  暴風もあって元・高麗軍は敗退した。
  異国警固番役:幕府が元の来襲防衛のため、御家人に
 課した沿岸警備の軍役のこと。文永の役後に制度化され
 た。
  九州の御家人は、博多・今津・筥崎(はこざき)など
 受持ち場所を3ヶ月交代で警備した。
  この制度は、幕府が滅びるまで続けられ、御家人にと
 って重い負担となった。
  また、中国・四国の御家人には、長門・播磨を警固さ
 せた。
  蒙古軍は、実際は、ほとんどが沈没し、不帰還(全滅)
 だったのだろう。
1275年、夢窓疎石が生まれた(1275年~1351年)
1275年9月7日、幕府が、蒙古の使者・杜世忠(とせいちゅ
 う)らを、鎌倉の竜の口で斬った。
  朝廷は、幕府の公事を減じ民力を休養して兵備を厳に
 す。
  九州の御家人に異国警固番役を課し、博多に石塁を構
 築した。
1275年11月、幕府が、元寇によって、北条実政を鎮西に
 遣わした。
1276年10月23日、北条実時が没した。
1278年12月23日、北条時宗が、宋に書を送り、硯徳の僧
 を招聘する。
1279年7月29日、幕府が、元の使いを博多で斬った。
  蒙古のフビライは、使者の周福(しゅうふく)と欒忠
 (らんちゅう)を日本に遣わしたが、幕府は、この両名
 を斬首した。
1279年、元朝(蒙古)が、南宋を滅ぼして、中国を統一し
 た。
  元朝は、中国の政治制度を採用したものの、モンゴル
 至上主義をとり、ラマ教崇拝、モンゴル語を公用とし、
 漢民族を低い位置に置いた。政治的には不安定であった。
1280年6月5日、幕府が、北条兼時を長門国守護に任命した。
1280年12月8日、幕府が、鎮西守護・御家人らを戒め、同
 心協力して外寇に備えさせる。
1280年、インドネシア:13世紀末、マジャパ人朝が興り、
 16世紀まで続く。この頃からイスラム化が進んだ。
..
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2015年3月16日月曜日

(増補版)42B:気になった事柄を集めた年表(1247年~1268年)

 題:(増補版)42B:気になった事柄を集めた年表(1247年~1268年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1247年、モンゴル帝国が4度目の高麗への侵攻をした。
1248年12月23日、幕府が、百姓と地頭との訴訟法を制定
 した(吾妻鏡)
1249年9月、幕府が、引付衆を設置した。
  引付衆:時頼が設置。評定衆の下にある。裁判の要件
 は、最初に引付会議で評議し成案を得て、評定会議の判
 決に委ねる。裁判の能率化をはかって設置した。
  この引付衆は、評定衆が頭人として入り、北条氏一門
 がその頭人となった。引付とは、後の手引となる記録・
 文書のこと。
1250年4月、幕府による庶民への帯刀禁止令、また、政所
 への直訴を禁止した(地頭や地主の推挙を必要とした)。
1250年11月、幕府が、博打(ばくち、金品を賭けて勝負を
 争う事)の禁制の命令を出した。
  双六(すごろく)も、さいころの偶然性に頼るところ
 から、賭博(とばく、金品を賭けて勝負を争う事)とし
 て行われた(禁止)
1250年頃、宋との密貿易が盛んに行われた。幕府、密貿易
 を禁じた。
13世紀半ば、アイスランドが、13世紀半ば以降、ノルウェ
 ー、続いてデンマークの支配を受けて、長い時代を過ごす。
1251年5月15日、北条時宗が生まれた(1251年~1284年)、
 18歳の時、第8代執権となる。
1252年9月30日、沽酒(こしゅ、酒の売買)の禁、鎌倉期
 には京都では酒屋が大変多い状態だったという。
  幕府が調査すると酒壺が3万7274個あったという。
1253年8月28日、道元が没した(1200年~1253年)
1254年1月10日、鎌倉、大火。西風烈しく、人家数百戸を
 焼失。
1254年、マルコポーロが生まれた(1254年~1324年)
  イタリア人の商人であり、旅行家。叔父に商取引を学
 んでおり、叔父と共に、1271年に、陸路で中国に向かい、
 元の上都に到着した。
  フビライに厚遇されて17年間滞在し、各地を旅行した。
  1295年に、海路でベネチアに帰国した。
  帰国後、戦争に志願し捕虜となり、その監獄で旅の話
 をし、それが後に「東方見聞録」となった。
  この書は、コロンブスやフラ・マウロの世界図作成な
 ど、多くの人物やヨーロッパ地理学などへの刺激や影響
 を与えた。
1256年、第6代執権・北条長時(1256年11月22日~1264
 年8月11日)
1258年1月29日~1258年2月10日、モンゴル軍が、バクダ
 ットを占領した(バグダードの戦い、バグダッド包囲戦)。
  この当時、イスラム帝国アッバース朝は、世界で最も
 栄華を誇っていた。学問や文化的にも優れていた。
  ヨーロッパのキリスト教諸国は、医学をはじめ、種々
 の学術のことや知識など、多岐に渡り多くを学んでいた
  (この恩あるイスラムの国を、キリスト教国は未開の
 文明国と卑下していた)。
  そのバクダッドが、モンゴル軍によって徹底的に破壊
 され、市内の「知恵の館」や図書館が破壊され、収蔵さ
 れていた何十万冊もの大量の学術書はモンゴル軍によっ
 て燃やされたり、川に捨てられた。
  メソポタミア文明やイスラム文明の築いた貴重な遺産
 が消失した。
  また、薬学から天文学などの学術書、歴史的に貴重な
 書も逸してしまった。モスク、宮殿、病院も略奪、破壊
 し尽された。
  市民も皆殺しにされ(市民の死者、20万人~80万人、
 200万人説もある)、バクダッドは、数年間、無人とな
 った。モンゴル軍は、灌漑運河を徹底的に破壊したため、
 人が住めなくなり、衰退してしまった。
  東西交易の中心地として繁栄を極めていた地が・・。
  世界最大の都市であり、精強な軍隊もいた(5万、全
 滅)。この頃から始まったモンゴル帝国の大規模な西征
 に攻略されてしまった。
  1257年11月にバクダッドを攻囲したモンゴル軍は、史
 上最大規模だったという(12万)。大規模なキリスト教
 徒の派遣団もモンゴル軍にいたという。また、中国人の
 銃の専門家も1000名いたという。
  2月10日に、アッバース朝が降伏すると、モンゴル軍は
  2月13日にバクダッドに流れ込み、
  それから1週間にわたって、虐殺、破壊を行った。
  チグリス川は血で赤くなったという。
  大量の死体から発する腐敗臭が凄まじかったという。
  モンゴル軍は逆らず降伏すれば破壊はしないとした(
 モンゴル軍の戦術)。
1258年、モンゴル軍が、高麗を征服した(第6次侵攻)。
  1253年から1258年にかけて、断続的に破壊・略奪が
 行われた。
  1254年の第一波には、高麗人の20万人が捕虜になり、
 殺されたものは数え切れずと言われた。
  「蒙古軍が経る所の州郡みな灰燼となる」「骸骨野を
 蔽う(おおう、遮ってかくす)」という惨状だった。
  モンゴル宛ての国書で、高宗は「今まで我が国が貴国
 に事大の誠を尽くせなかったのは権臣が政治を奪い貴国
 へ属するのを嫌がったためであり、崔竩が死んだ今、た
 だちに都を戻し、貴国の命を聞きます」と、全面的な従
 属を宣言した。
1259年、モンゴル軍が、南宋に侵入した(第2次)。
  第1次が1235年~1241年、第2次が1253年~1259年、
 第3次が1268年~1279年、
  1276年に南宋は完全に滅びた。
  クビライは、1251年に南宋の侵攻を計画したという。
  クビライにとって南宋攻略は難しかったという。
  今までの、騎兵主体の作戦を止め、歩兵の大兵団とし
 た。
  長期戦の構えでいた。
  また、敵将をなるべく無傷で捕らえ、大いに優遇して、
 味方に引き入れようと努めた。
  寝返ってクビライに忠誠を誓う将も現れた。
  人民の衝撃も大きく、また、クビライは、その将の人
 脈を使って調略(ちょうりゃく、はかりごとをめぐらす
 こと)した。これは効果があった。
  南宋は、急速に基盤を弱めた。
  それを見て、クビライは南宋へ大侵攻を決定し、空前
 の大軍を投入した。
  そして、略奪を禁ずるなど丁重に攻めて行った。
  その効があり敵兵の投降が多かった。
  そして、崖山の戦いで南宋軍は撃滅され、滅びた。
1260年9月3日、モンゴル軍とキリスト教徒諸侯軍の連合軍
 とが、マムルーク朝軍へ仕掛けた戦い(アイン・ジャー
 ルートの戦い)。
  マムルーク朝は、エジプトを中心に、シリア、ヒジャ
 ーズなどのイスラム王朝の国。
  マムルーク朝が勝利した。モンゴル軍の西進は阻止さ
 れた。残るは東進・・日本が、まだ、ある。
  このモンゴル軍には、キリスト教の十字軍が攻めて作
 ったシリア・パレスチナの地にある十字軍国家の諸国軍
 もモンゴル軍に攻略され服属し(ふくぞく、服従して下
 につくこと)、加わっていた。
  モンゴル軍は敗れて、西進は止まった。
1260年頃、金沢文庫が、この頃、創立された(北条実時)
1262年11月28日、親鸞が没した(1173年~1262年)
1263年11月22日、最高権力者・北条時頼が没した(1227
 年~1263年)
1265年、イギリスに下院の基が出来た。
1266年3月6日、幕府が引付衆を廃止した。
1266年7月4日、北条時宗、将軍宗尊親王を廃した。
1266年7月24日、第7代将軍・惟康親王(1266・7・24~
 1289・9・14)
1266年11月25日、蒙古(モンゴル国)の使者二人が高麗
 に到着した。
  使者は、高麗に宛てた国書と共に、日本に宛てた国書
 を携(たずさ)え、高麗に日本への道案内を命じた。
  しかし、高麗の裏工作により、使者は日本に至らなか
 った。
  蒙古は、高麗の誠意のなさに激怒し、次の年の再度の
 使者派遣となる。
1267年8月、蒙古(モンゴル国)は、再び、使者を高麗へ
 派遣した。
  高麗王は、仕方なく使者を日本へ派遣した。
  使者は、前回の蒙古の国書と、高麗からの国書を携(
 たずさ)え、次の年(1268年)の正月に九州に到着した。
1267年、大都(だいと、モンゴル語でカンバリク)は、モ
 ンゴル帝国(元朝)のクビライ・カンが、1267年から
 26年を費やして、現在の北京の地に造営した、モンゴル
 人が築いた都市で、現在の北京の前身。
  中国で、国都を新しく作るのは、常に、非漢族政権で
 ある。
  国号を「大元」としたのは、「おおいなるもと」、す
 なわち「天」(てんぐり)のことであった。
  てんぐりは、古来、トルコ=モンゴル系の北方騎馬民
 族が、共通して崇(あが)めて来た神概念である。
  偶像を作らない抽象的超越神である。
  フビライ・ハーンは、「大元」という国号を名乗り、
 その天の下の「地」の中心である帝都に「大都」という
 名を与えた。
  これが、引き継がれて、後に北京となった。
  モンゴルなど北方民族が、中国に理念を与え、君臨し
 ていた。
1267年、後宇多天皇が生まれた(1267年~1324年 91代)
1268年1月16日、蒙古の使者が、大宰府(だざいふ)に来
 た。
  蒙古と高麗の国書は、大宰府の最高指揮者・武藤資能
 (すけよし)に手渡された。
1268年1月18日、蒙古国牒状が、鎌倉に到着。
  牒状(ちょうじょう):1順番へ回して用件を伝える
 書状。回し文、国から国への書状、国書)。
  蒙古の国書は、表面的には両国の通交関係の樹立の要
 求であったが、その内容は、日本の服属(ふくぞく)を
 求め、来貢(らいこう)せねば武力で討つという脅迫で
 あった。
  幕府は、この重大事件に対し、連日衆議をこらした。
  しかし、この当時は、外交権は形式的にせよ朝廷にあ
 ったので、国書は幕府より朝廷に2月7日に回された。
1268年2月7日、幕府より、蒙古と高麗の国書が、朝廷に
 奏せられた。
  朝廷では、この国書の威嚇的な文辞に無礼を憤り、返
 牒あるべからずと、2月19日に決定した。
1268年2月19日、蒙古の国書に対し、返牒あるべからずと、
 朝廷で決定し、蒙古の使者はむなしく帰った。
  この国書到来の噂(うわさ)は、日本中に広まり、全
 国的に緊張が高まって行った。
  蒙古来襲を覚悟し、朝廷は、直ちに蒙古調伏の祈祷を
 命じ、また、幕府に、西国の御家人に夷狄(いてき)の
 来襲に備えるように命じた。
1268年3月5日、北条時宗が執権となった。
  幕府は、高齢の北条政村に替わって、18歳の時宗を執
 権にした。
  政村は、連署として時宗を助ける事となった。
  第8代執権・北条時宗(1268・3・5~1284・4・4)
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2015年3月15日日曜日

(増補版)41B:気になった事柄を集めた年表(1232年~1247年)

 題:(増補版)41B:気になった事柄を集めた年表(1232年~1247年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1234年8月31日、後堀川天皇が崩御した(1212年~1234
 年、86代)
1235年10月、京都に疱瘡が流行した。
1236年4月8日、京都に大風雷雨あり、大雹(ひょう)が
 降る。
1237年3月、鎌倉、大雨洪水。
1239年、一遍が生まれた(1239年~1289年)、鎌倉時代
 中期に時宗を開いた。四国の道後温泉本館近くの宝厳寺
 が生誕地。
1239年2月14日、北条泰時(第3代執権)が、佐々木泰綱
 に武蔵国小机などの荒れ地の開発を命じた。
1239年2月22日、後鳥羽上皇が隠岐で崩御した(1180年~
 1239年)
1241年、藤原定家(ふじわらのさだいえ、公家・歌人、小
 倉百人一首の撰者)が没した(1162年~1241年)。
  18歳から74歳までの克明な日記「明月記」(国宝)を
 残した。ドナルド・キーン氏が積極的に評価されている。
  人となりとして、どんなに後鳥羽院が褒められても、
 自詠の歌(左近の桜の述懐の歌)が自分では気に入らな
 いからと、新古今和歌集に入選する事に固く固辞(反対)
 した。
1241年、建築:厳島神社摂社客人神社社殿(広島)
1241年、幕府が武蔵野に水田を開いた。
  多摩川から水を引いた武蔵野開拓の大事業が、この年
 から始まった。
  2年前の佐々木泰綱の開発が成功したので、次の開発の
 段階へ進んだと考えられる。
1241年、ハンザ同盟が成立した。
  外来の商人は排他し、ドイツの北西部に位置する都市
 であるハンブルグとリューベックとの間で商業的な同盟
 をしようというもの。
  後に、経済だけでなく、政治分野でも勢力をなし、ま
 た、軍事連合も機能し、バルト海の覇権を握って行こう
 という行動へ進む。
  大連合組織へと行く(バルト海や北海やドイツなどの
 商人たちとその都市の集まりとなる)。
  ヴァイキングやスラブ系の人たちが煙たかった。
  この頃の14世紀の頃、デンマーク王国は巨大化しよう
 と邁進していた。領土拡大もしたいと行動していた。
  1300年代に入るとハンザ同盟の都市を占領したりして
 いる。ハンザ同盟都市との戦いとなる。
  ハンザ同盟にノルウェー王国やスウェーデン王国も味
 方する。こんな形で展開していく。
1241年4月、ワールシュタットの戦い。
  モンゴル帝国が、ヨーロッパを遠征する。
  その時のポーランドとドイツの連合軍と激突した戦い
 である。結果は、モンゴル帝国軍の圧勝。
  ワールシュタットは、ドイツ語で「死体の山」を意味
 する。
  モンゴル軍は、5万の戦闘経験豊かなモンゴル兵と、2
 万の徴用兵、そして、中国兵とペルシャ兵だった。
  相手の連合軍は2万5000、少数のテンプル騎士団も加
 わっていた。
  死者数は、モンゴル兵はごく少数で、連合軍は大多数
 とある。
  連合軍が普通に兵を配置したのに対し、
  モンゴル軍は、前列中央に陽動作戦用の訓練を積んだ
 軽装騎兵を配置し、その両側面に、馬の上から弓で矢を
 射る騎射の兵を置き、また、槍で接近戦の出来る兵も置
 いた。
  また、後方には、騎馬攻撃をする重装の騎兵が控えて
 いた。
1242年、四条天皇が崩御した(1231年~1242年)
1242年5月2日、京都が大風雨となり、6月3日には、洪水
 となる。
1242年6月15日、北条泰時が没した(1183年~1242年)。
  頼朝は、泰時を高邁(こうまい、志などが高く、衆に
 抜きん出ていること)な人柄と褒めている。
1242年9月12日、順徳上皇が佐渡で崩御する。
1243年、後深草天皇が生まれた(1243年~1304年、89代)
1244年4月28日、第5代将軍・九条頼嗣(1244年4月28日
 ~1252年2月20日 1256年没)
1245年3月2日、幕府が、殺生を禁じた。
1245年、ローマ法皇が、公会議で神聖ローマ皇帝を廃位だ
 と決定し、対立王を選出している。
  また、ポルトガル王を廃位に追い込み、弟を王位に付
 かせている。
  この様な結果、ローマ法王(教皇派)と皇帝派とが争
 う事になった。こんなことをあちこちでやっている。
  この様ないざこざから、南イタリアの王が、フランス
 のアンジュー家によって追い出され、教皇の力が南イタ
 リアに及ぶようになった(フランス勢力を取り込んだ)。
  また、この年、モンゴル帝国の来襲の恐怖があったた
 め、ローマ法皇は、偵察の意味と、来襲の防止工作をし
 たい意味もあって、修道士をモンゴル帝国へ送っている。
  そして、モンゴル皇帝の返書を持って帰国している。
  その返書には、モンゴル皇帝は、ローマ法皇に帰順(
 きじゅん、反逆や抵抗を止めて服従すること)をするよ
 うにと書いている。
  帰国後のこの修道士はローマ法王の怒りを買った。
  この修道士の偵察は、モンゴルの戦い方を見たりして
 いる。また、戦いの跡へも行って状況を偵察している。
  モンゴル皇帝にも会って話もしたが、モンゴル皇帝か
 ら従属せよと言われ話は進展しなかった。
  モンゴル皇帝側も紳士的に対応した。
1946年3月23日、第5代執権・北条時頼(1246年3月23日
 ~1256年11月22日 1263年没)
1247年、三浦泰村(みうらやすむら、御家人)などの一族
 が滅んだ(宝治合戦)。
  頼朝以来の御家人で、一緒に戦い、大功をあげる有力
 御家人だった。
  頼朝時代は、頼朝・北条氏に匹敵するほどでもあった
 (相模国や河内国に広大な所領を持った)。
  また、北条泰時の娘を娶って、北条氏と姻戚関係をも
 持った。評定衆の一人にまでなった。
  そして、将軍とも親密になり、その権勢は、北条氏を
 しのぐようになった。
  新しく執権になった時頼は、この三浦氏を危険視した。
  時頼は、政権中枢から穏便な引退を望んだ。
  この話を、評定の場で、三浦泰村は、頑なに拒んだ。
  北条時頼の提案も、穏便な北条重時との交代の話だっ
 た。
  ここに、三浦泰村のアンチ派の安達景盛が関わって来
 る。この年に、三浦泰村は挙兵した。
  そして、大敗した。
  北条氏の独裁色が強まった。
  合戦の直前には、和睦の会議も開かれていたという、
  その時、泰村は、緊張のあまり食べていた湯漬けを吐
 き出した事があったという。
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