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2015年8月29日土曜日

(増補版)194D2/3:気になった事柄を集めた年表(1800年~1802年)

題:(増補版)194D2/3:気になった事柄を集めた年表(1800年~1802年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1801年4月2日、伊能忠敬は、幕府から、前年につづいて陸
 奥から関東の測量を命じられ、江戸を出発した、
  7月26日、銚子犬吠崎から富士山の方位測量を終えた。
1801年6月、出羽村山郡の百姓一揆。
  出羽国村山郡の幕領・山形藩の農民が、米の買占めな
 どに反対して打ち壊しをする(村山一揆)
  1781年~1801年にかけて、藩政の改革を巡って政争を
 繰り返していた。
1801年6月29日、儒者の細井平洲(ほそいへいしゅう)が、
 没した(1728年~1801年)(74歳)
  尾張国知多郡平島村の豪農の次男に生まれる。
  中西淡淵の学徳を慕って入塾し、後に、長崎に遊学す
 る。
  そして、江戸に出て、私塾の嚶鳴館(おうめいかん)
 を開いた。
  また、辻講釈を聞いた米沢藩の藩士が感銘を受け、こ
 れが機縁となって、出羽米沢藩主の上杉鷹山に招かれ、
 鷹山の師となり、藩政改革に取り組み、藩校の興譲館を
 創立し、教えた。
  そして、尾張徳川家の侍講に招聘され、藩校の明倫堂
 で藩内教化に努め、藩校の再興に尽力した。
  また、農村をまわって講話をおこない、庶民教育にも
 熱心で、巡回講和は平易で人の心を捉え、5日間で5万人
 の聴衆があったという。
1801年7月12日、小沢蘆庵(おざわろあん、歌人、尾張犬山
 藩士)が没した(79歳)
  平易なことばで心情を歌う「ただごと歌」を唱えた。
  「ただごと歌」は、思ったまま、感じたままを、比喩
 などの技巧を凝らさないで、ありのままに表現した歌。
1801年7月25日、地理学者の長久保赤水(ながくぼせきすい)
 が没した(85歳)、詳細は前述を参照ください。
1801年7月、巾着切り(きんちゃくきり=スリ)などが、徒
 党を組んで、往来人に対して喧嘩をしかけて、懐中物な
 どを盗むため、幕府は 厳重な取り締まりを命じた。
1801年8月、幕府が、本草学者の小野蘭山(おのらんざん)
 に関東から東海、和歌山から紀州領へ(熊野古道の記述
 も見られる)で薬草を採取させた。
  4年間をかけて、採薬のために諸国を巡った。
  弟子が同行し、蘭山から実地の教えを受ける研修旅行
 という性格のものだった。
1801年8月、志筑忠雄(しづきただお、蘭学者、天文学者、
 1760年~1806年)が、ドイツ人ケンペルによる「日本誌」
 の抄訳「鎖国論」を著した。
  志筑忠雄は、オランダ通詞の養子で、1776年に、稽古
 通詞となったが、翌年、病気を理由に辞職し、蘭学研究
 に没頭した。
  そして、蘭書の翻訳に尽力した。
  ニュートンやケプラーなど、西洋の天文学や物理学の
 学説を紹介した、自己の見解も加えていた。
  太陽系の起源を論じた時は、独創的な星雲説を唱えた。
1801年9月29日、本居宣長(もとおりのりなが、国学者、文
 献学者、医師)が没した(72歳)
1801年9月、幕府が、諸国孝行者などの話をまとめた「孝義
 録(こうぎろく)」を学問所から刊行することを決めた。
  「講義録」は表彰事例集で、慶長から寛政期に至る全
 国8000以上の事例を登載している。
  民衆のための教化の策として、善行表彰者の報告をさ
 せ、昌平坂学問所にて集めて編集し、この年に、出版し
 た。所載の表彰者総数は8614名。
1801年12月、幕府は、土蔵のない者が、火災時に諸道具を
 往来に置くことを禁止した。
1801年、江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん、幕臣、
 兵学家、砲術家)が生まれた(1801年~1855年)
  高島秋帆(たかしはしゅうはん)に砲術を学び、免許
 皆伝を得て、江戸で教えた。
  ここで、門下として学んだ佐久間象山や木戸孝允らが
 いる。
  「まわれ右」などの日本語の号令語を考え出したのも
 彼である。
  江川家は韮山(にらやま)の代官で、父の跡を継ぎ、
 幕府の許可を得て、韮山に反射炉を造った。
  鉄の大砲を造ろうとした。
  品川台場の築造責任者にもなった。
  また、伊豆戸田村にて、軍艦を建造したが、これは、
 日本初のヨーロッパ式艦船で、近代造船業の端緒を開い
 た。
  また、民政に努め、心をくだき、種痘の施行をし、奨
 励した。
  「世直し大明神」と呼ばれた。
  また、一方、海防(沿岸防備)にも意をくだいた。
1801年、仕組まれた、インドにおける『ロヒラ戦争』
  イギリスのずる賢いインドの地の獲得方法(ロヒルカ
 ンドの場合)。
  イギリスの悪巧みで起こされたインドの地のロヒラ戦
 争の地は、
  結局、イギリスに奪われ、イギリス領となってしまっ
 た。
  この年に、インド北部のロヒルカンドが、イギリス領
 となった。
  イギリスの卑劣な領土獲得の典型的な例である。
  本当のところは、領土を奪いたいイギリスは、ロヒル
 カンドを支援した、「イギリスの軍隊を貸すから隣接の
ロヒラ人の国ロヒカンドを占領せよ」とそそのかした。
  何の恨みもないのに、1774年に、ロヒラ戦争を起こさ
 せ、その藩王は勝って、領土を手に入れる。
  イギリスは、領土の藩王を支援した部族に奪わせる。
  そして、その後、その領土をイギリスのものとしてし
 まう。
  まったく問題ない善良な藩王から、この様にして、領
 土を奪う。
  その善良な王に、虐政をする様に押し付ける。
  イギリス人で、この戦争を目撃したマコーレーは言う、
  「ロヒラ戦争の目的は、何ら悪くもない、善良な人か
 ら、その善き政治を奪い、
  その意思に背いて、厭(いと)うべき虐政を押し付け
 るという事であった・・
  ロヒラ人は、平和を望んで、哀訴嘆願し、巨額の金を
 積んで、ただただ、戦争を避けたいとしたが、
  すべては無駄だった。
  彼らには、徹底抗戦をする以外の如何なる方法もなか
 った。
  血なまぐさい戦争はかくして起こった。
  最も善良で、最も立派であった国民は、貪欲・無知・
 残虐無類なる暴君の手に委ねられ・・
  あれほど豊かなこの国は、今や、惨めな国の中でも、
 最も貧乏な地方と成り下がった」・・と。
  たまらなくなった領民は、救済を望んで、そして、哀
 願し、そして、嘆願する。
  そんな状態でも、戦争になるのを避けたいと、領民は、
 金をひたすら積み、戦争を避けようとするが・・、
  そのすべては無効だった。
  そして、この卑劣な領土を奪ったイギリスは、訴えら
 れる。
  その訴えたインド人を、ありもしないことをでっちあ
 げて訴え、イギリスの息のかかった総督の親友のカルカ
 ッタ最高法院の裁判長は、そのインド人に死刑を判決す
 る・・、
  そして、翌日、すぐに、死刑に処してしまった。
  このインド人が絞首刑になるときには、インドの人達
 は、民衆は、叫喚をあげ、泣き叫んだ。
  この公開処刑は、まるで魔女の公開の場でのキリスト
 教の焚刑での処刑の様だった。
  この様な事を、イギリスは、インドのあちこちで、こ
 の様な事をやった。
1802年1月25日、博学の好事家で南画家でもある木村兼葭堂
 (きむらけんかどう、文人、本草学者)が没する(1736年
 ~1802年)(67歳)
1802年1月、十返舎一九(じっぺんしゃいっく、偽作者)の
 「浮世道中膝栗毛(うきよどうちゅうひざくりげ、東海
 道中膝栗毛)」初編刊行(1808完結)。
  江戸神田八丁堀の住人栃面屋(とちめんや)弥次郎兵
 衛と喜多八が東海道を西へ旅をし、伊勢参宮をしてから
 大阪から京都に行くという旅行記形式の滑稽本。
1802年2月、蝦夷奉行を設置した。
1802年2月26日、蘭方医・桂川甫周(かつらがわほしゅう、
 幕府の医官、1826年~1881年)が、将軍・家斉に顕微鏡の
 使用法を講じた。
  甫周は、日本で、最初に、顕微鏡を医学に応用した人。
  明治まで生きた人。
1802年3月16日、風邪(お七風)が流行する。
  長崎から始まって、全国に広がって行った風邪が流行
 し、
  幕府は、御家人に医薬を与え、また、
  困窮した町人には、御救米・銭を与えた。
1802年5月23日、贅沢禁止令
  幕府が、町人女が、色縮緬を髪飾りに使用することを
 禁止した。
  度重なる贅沢禁止令によって、町方の女性方は華やい
 だ色小袖などの着用も難しくなった。
  町人の妻が、黒縮緬にモールの帯を巻くのも禁止。
  少女が、青梅縞の袷(あわせ)の裏に黒繻子(しゅす)
 に金魚が縫われた小袖も禁止だった。
1802年6月27日、歌舞伎役者の4代目松本幸四郎(まつもと
 こうしろう、1737年~1802年)が没した(66歳)
1802年7月1日、江戸が洪水に
  6月25日より降り続いた雨で、江戸が洪水になった。
  箱根温泉場は流失するという被害を受けた。
1802年7月18日、狂歌作者の唐衣橘洲(からころもきっしゅ
 う、1744年~1802年)が没した(60歳)
  蜀山人(しょくさんじん)らと狂歌会を開き、これが
 江戸狂歌の発生の源となった。
  「世に立つは くるしかりけり 腰屏風(びょうぶ)
    まがりなりには 折かがめども」
1802年7月、幕府が、大雨洪水による米価高騰のため、酒
 造制限令を出し,酒造量を1788年の半分とした。
1802年10月、志筑忠雄が、ニュートン力学などを紹介した
 「暦象新書(れきしょうしんしょ)」が完結した。
  志筑が、イギリスの物理学者のジョン・キールの本「
 自然学入門」のオランダ語訳を抄訳して、自説を加えて、
 地動説や光の屈折などを紹介した。
1802年12月、幕府が、酒造制限を解除して、酒造米の10分
 の1を諸民の救済のため貯蔵させた(翌年に中止した)
1802年、令:旅人厚遇の令
  幕府が、諸街道の問屋、宿屋、人足、馬子に対し、旅
 人厚遇すべしとの御触れを出した。
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2015年8月28日金曜日

(増補版)193D2/3:気になった事柄を集めた年表(1799年~1800年)

題:(増補版)193D2/3:気になった事柄を集めた年表(1799年~1800年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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18世紀~19世紀前半、オーストラリア政府の先住民の殺戮
  オーストラリアでは、この頃、先住民のアボリジニー
 の方々が、卑劣な事に、盛んに、殺戮された。
  政策だった、オーストラリア政府は、この行為を政策
 として遂行した。
  キリスト教の有色人種蔑視に洗脳された者の安易な殺
 戮行為だった、軽蔑すべき行為だった。
  アボリジニーの方々は、絶滅させられようとしていた。
  政策は、それを目的としていた。
  まったく軽蔑すべきキリスト教の教義に洗脳された者
 たちの行為だった。
18世紀半ば~18世紀末、麻薬を売るイギリス。
  イギリスは、アヘン(麻薬)を、中国・清国の方々へ
 に売りつけた。
  この時期、イギリスは、清国との貿易額が増えて行っ
 た。
  イギリスの貿易相手国としての清国は、大きな割合を
 占めて行くようになった。
  また、清国は、何でもある国だった、その為、清国の
 輸入は少なかった。
  それに引き換え、イギリスは、中国・清国からの輸入
 品は多かった。
  一例として、イギリス本国では、中国から輸入した茶
 を飲む習慣が拡大した。
  今まで、上流社会の高貴な飲み物だった茶が、一般の
 人々も飲みだし、また、飲めるようになった。
  イギリスは、完全な輸入超過に陥(おちい)った。
  イギリスの外貨は流出した。
  この輸出入のギャップを埋めるために、外貨の銀の流
 出を止めるために、イギリスは、非紳士的な手を使った。
  やってはいけない麻薬輸出を行った(アヘン貿易)。
  18世紀半ばの頃までは、アヘン(阿片、麻薬)は、ペ
 ルシャで栽培されていた。
  イギリスは、狡いこと・悪賢いことを考えた。
  このアヘン(麻薬)を、イギリスの植民地のインドで
 栽培し、外貨流出になっている中国へ売り込もうと考え
 た。
  イギリスは、この麻薬を、植民地としているインドへ
 持って行った。
  そして、インドで栽培を奨励し、インドでの栽培を行
 った。
  インドでのアヘン栽培は、どんどん増えて行った。
  そして、イギリスは、その麻薬・アヘン(阿片)を、
 中国へ持って行った、貿易品として使った。
  イギリスは、忌むべき麻薬商人国家に成り下がった。
  イギリスが持ち込んだ麻薬のアヘン(阿片)で、清国
 では、急激に、麻薬中毒者が増えてしまった。
  当然、中国・清国の国内では、アヘン中毒患者の急増
 が問題となった。
  清国は、何度も、何度も、禁止令を出した。
  取り締まりも厳しく行った。しかし・・、
  それでも流入は止まらなかった、流行も止まらなかっ
 た、
  イギリスによるアヘン流入を、清国は、アヘンを武力
 を使ってまでしても阻止せざるを得なかった。
  そこまで追い込まれていた。
  当然の行動に出ざるを得なかった。ファイトバックし
 た。
  そして、アヘン戦争となった。
  イギリスは、当然、勝てる戦争だと思っていた事が、
 本当に卑劣だった。
  イギリスは、まだ、この謝罪をしていない。
1800年、日本の人口: 約 3,100万人
1800年、職業分布:この頃の職業分布、武士7%、農民84%、
 町民6%、その他(易者、医者など)3%
1800年1月、町火消しが出初めと称し,火消し道具を持ち出
 して、梯子の上で芸などを行うため、 幕府は禁止した。
1800年3月30日、昌平坂学問所が落成した。
  昌平坂学問所の新築工事が終わったため、幕府は、夏
 からの入学を許可した。
  そのため、4月には 寄宿・通学願い手続きなどが決め
 られた。
1800年4月22日、幕府が、逃亡など人足寄場関係の刑罰を
 1797年制定の罰より重くして町奉行へ 通達した。
  また、6月13日には、寺社奉行・勘定奉行へも通達した。
1800年6月、伊能忠敬の全国測量の開始
  地理学者の伊能忠敬が、幕命によって、陸奥・出羽・
 越後の沿岸測量に出発した。
  北海道を測量し、大日本沿海輿地図の測量と製図をした。
1800年7月2日、幕府が、江戸常是(じょうぜ)家を上納金延
 滞により処罰し、京都常是家を江戸・京都・大坂の 銀座
 御用とした。
  銀座移転先を、11月22日に、蠣殻町に決めた。
  常是家は、銀座の吹所(ふきしょ)で極印(ごくいん)
 打ちをしていた。
  この日、常是家の長左衛門常房と京家十代目作右衛門
 常明は、勘定奉行の柳生主膳正久通宅へ出頭するよう命
 じられた。
  そこで、常房の息子・常隣を連れて出頭した。
  ここで、長左衛門常房は、家職召放しの上、永蟄居を
 命ぜられた。
  一方、作右衛門常明は、お咎めなしであったが、取締
 り方に付不束であったとして急度御叱を受けた。
  この後、京橋銀座にあった長左衛門家の御用道具、家
 作共に召し上げとなり、作右衛門常明に与えられ、作右
 衛門は、京都および京橋から機能を集約された蛎殻町の
 銀座を継ぐこととなった。
1800年7月-幕府が、頻発する奉公人の欠落を防ぐため、奉
 公人周旋業の人宿(ひとやど)に、生国・下受人 などを記
 す人別帳を作成することを命じた。
1800年8月、賞品を賭けて的を射る賭的(かけまと)が農民の
 間で流行し、暮府が賭博として禁止した。
1800年9月8日、画家の伊藤若沖(いとうじゃくちゅう)が、
 没した(1716年~1800年)(85歳)
  京都錦小路の生まれ、
  絵画と禅に傾倒した。
  40歳で家業の青物問屋を弟に譲って画業に専念した。
  生涯、信仰の念の厚い人だった。
  独身を通し、晩年は、深草の石峰寺に隠棲した。
1800年11月、幕府が、1788年に停止した南鐐二朱銀の再鋳
 造を決めた。
1800年12月21日、伊能忠敬が、蝦夷南東海岸と奥州街道の
 略測図を勘定所へ提出した。
1800年、社会資本整備:新田開発が盛ん・・
  この頃から幕末までの新田開発は盛んだった(450件)
1800年、発明:ボルタ(イタリア)が、電池を発明した。
  正極に銅、負極に亜鉛を用いた。電解液は硫酸。
19世紀、李氏朝鮮:王朝の後半期には、社会変動が著しく、
  19世紀に入ると、民衆の反乱が相次ぎ、開港後には外
 圧の下で国内対立が一層激化した。
  19世紀末の日清戦争の後に、国号を大韓帝国と改め、
 独立の維持に努めたが、日露戦争後に日本の保護国にな
 った。
19世紀前半、イギリスで、自由貿易の要求が拡大し、東イ
 ンド会社の貿易特権が廃止された。
  国家と同等だった東インド会社。
  外交権力を持ち、交戦権を持ち、植民地政府を持ち、
 軍の機構を持ち、植民地で好き勝手ができる巨大な権力
 を持っていた。旨い汁を吸っていたイギリス国家そのも
 のだった。
  イギリス本国の産業革命で生まれた資本家が、その特
 権を欲しがった。
  欲による行動が変化の根本にあった。
19世紀、イギリスが、マレーシアを植民地にした。
  マレー半島の西側にあるペナンを、1786年に獲得した
 のに始まる。
  イギリスは、天然資源のスズ、そして、ゴムでうまい
 汁を吸った。大きな利益だった。
19世紀、フランスが、ベトナムに浸透し、植民地化して行
 った。
19世紀、アフリカの植民地化
  19世紀にアフリカが植民地の舞台となった。略奪的な
 奴隷貿易は、国際的に、また、人道的に卑劣極まりない
 行為であるが、19世紀は、その行為と共に、植民地化が
 盛んに行なわれた。
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2015年8月27日木曜日

(増補版)192D2/3:気になった事柄を集めた年表(1798年~1799年)

題:(増補版)192D2/3:気になった事柄を集めた年表(1798年~1799年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1798年6月、本居宣長(もとおりのりなが、国学者)が、
 「古事記」の注釈書の「古事記伝(こじきでん、ふるき
 ことふみのつたえ)」を完成した(3月説あり)。
1798年8月、本多利明(ほんだとしあき、思想家、経世家、
 和算家)が、西洋との交易を説いた「西域物語(せいい
 きものがたり)」を著した。
  西域と称する西洋諸国のありさまを述べ、中で、開国
 思想を説いている。
  また、物理学が真の学問だと強調し、天文、地理、渡
 海の学をもっと重視して利用すべきとした。
  また、人口増は天理であり、物価操作の有害を述べ、
 飢饉救済論を詳述し、
  国産開発、渡海貿易、官営貿易の実施、蝦夷地開発、
 北方王国の建設を説いた。
1798年11月、幕府が、銭相場が安値で、物価が高値で、各
 宿が困窮に陥っているため、
  東梅道・佐屋路(さやじ)へ10か年の人馬賃20%増し、
  他街道へ10か年の15%増しを許可した。
  因みに、佐屋路は、東海道の脇往還で、
  東海道宮宿(愛知県名古屋市熱田区あたり)と桑名宿
 (三重県桑名市)を結んでいた。
1798年、幕府役人の近藤重蔵(こんどうじゅうぞう、北方
 探検家、1771年~1829年)が、1798年に、蝦夷地御用を
 命じられ、国後島、択捉島などを探検した。
  江戸・駒込に生まれた。
  1795年~1797年に、長崎奉行の出役として長崎に赴き、
 海外知識を深めた、
  そして、蝦夷地の警護の重要性を知り、それを幕府に
 建言した。
  そして、この年・1798年に、目付の渡辺久蔵らの蝦夷
 地視察に加わった。
  1799年に、蝦夷地御用掛が設けられると、その配下に
 属し、数回にわたって蝦夷地・千島方面を探検した。
  この年、幕府は、東蝦夷地とともに千島を、幕府直轄
 領にしている。
  1802年に、択捉島に「大日本恵土呂府(だいにほんえと
 ろふ)」の標識(国標)を建立した。
  この時の先導が最上徳内(もがみとくない)で、千島
 列島(ウルップ島)も踏査している。
  ロシア人の動向調査もしている。
  また、北蝦夷(サハリン)の探検も重ねている。
  帰途、日高海岸の道が危険なので、私費を投じて、山
 道を開いた、これが蝦夷地の開道の初めとなっている。
  1800年には、高田屋嘉兵衛に、択捉への航路を開かせ
 たり、漁場を開いたり、アイヌの方々に物品や漁具を給
 したり、日本の風俗を勧めたりと、同化策も進め、また、
 移住者を増やして、生産高も増加させたりした。
  蝦夷地の全島の本拠地を石狩に置くべきだと建議した。
  これが、札幌市の端緒となっている。
  博学で、著述も多い。
1798年、ナポレオン:エジプトの遠征と調査
  ナポレオンは、当時の総裁政府の命令で、35000人の軍
 隊を率いて、エジプトに遠征した。
  エジプトを占領し、イギリスと、そのイギリスの宝庫
 と言われていたインドとの連絡を断ち切った。
  また、このナポレオンの調査によって、近世になって、
 再び、古代エジプトの文明が蘇(よみがえ)った。
  これは、ナポレオンの功績だった。
  エジプトに遠征したナポレオンが行なった事は、
  考古学・建築・化学・地理学・生物学・地質学・天文
 学・絵画・文学・機械技術・医学・印刷等々の各分野の
 専門家、学者の167人からなる学術調査団を同行させて
 いた。
1798年、ルイ・ロベール(フランス)が、連続式抄紙機を
 発明し、印刷術の発展とともに製紙工業も大いに発展さ
 せた。
1799年、幕府が、蝦夷地の直営を始めた。
1799年1月15日、幕府が、大名・旗本らの家譜の集大成の
 「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょけふ)」の
 編纂を開始した。
  幕府が、先祖書の提出を命じ、これを契機にして、
 1812年に完成し、系譜集の1530冊からなり、14年を費や
 した。
  国主・領主をはじめ、御目見(おめみえ)以上の士に
 ついて、1798年までの事跡(出来事)を記した。
  正確、広範で、信頼性が高く、研究資料として価値が
 高い。
  完成当時の献上本は、東京の国立公文書館に保存され
 ている。
  江戸時代の伝写本や活版本も流布している。
1799年1月、諸国の産物を集大成した「日本山海名産図会
 (にほんさんかいめいさんずえ)」が刊行された。
   「日本山海名物図会」再販(1797年)の後を受けて、
 大坂の塩谷長兵衛が板元として、この年に、刊行した。
1799年3月、幕府が、公刊暦以外の類似刊行物(暦)を禁止
 した。
1799年4月、幕府が、火事に対する防火の理由から、
  蕎麦屋の屋台など、煮売り商売の流行に対して、総人
 数を700に、
  また、上野・浅草などを除く地域の人数制限などの規
 制に乗り出した。
1799年5月、幕府が、オランダ風の煙管などの外国品を模造
 した品が流行する事に対し、その製造・売買を禁止した。
1799年、勘定奉行の中川忠英(なかがわただてる、武士、
 儒者)が、「清俗紀聞(しぞくきぶん)」を刊行した。
  清俗紀聞は、長崎の渡来した中国人から清朝乾隆帝時
 代の風俗を聞き、絵図で解説した書。
  おもに江南地方の日常生活、年中行事、冠婚葬祭、居
 家、飲食、賓客、祭礼、僧徒、冠礼、生誕などが図説し
 てある。
  当時の中国における風俗習慣を知るうえで貴重な資料
 となっている。
1799年、ナポレオンのクーデター:フランス革命が、ナポ
 レオンのクーデターで終結した。
18世紀~19世紀初め、この頃は、イギリスの産業革命の時
 代である。
  しかし、美しく讃美ばかりはしていられなかった。
  このイギリスの産業革命の成功の陰には、虐げられる
 方々が、大勢、居た。
  産業革命がうまく行ったのも、インドなど、植民地に
 された国々からの搾取した金があったからこそだった。
  そして、産業革命の成功の恩ある国・インドなどへ、
 特に、インドへは、死命を制する綿産業製品で、インド
 に壊滅的打撃を与えるイギリスだった。
  産業革命で生み出される綿産業製品が、インドの綿産
 業を破壊し、インドの極めて多くの方々が路頭に迷った。
 ..
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2015年8月26日水曜日

(増補版)191D2/3:気になった事柄を集めた年表(1794年~1798年)

題:(増補版)191D2/3:気になった事柄を集めた年表(1794年~1798年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1794年、フォールン・ティンバーズの戦い:
  アメリカ合衆国とアメリカ・インディアンの方々の戦い
  アメリカの領土の本当の持ち主であるアメリカ・インディ
 アンの方々への、アメリカ合衆国軍の掃討と名付けられた
 軍事行動・作戦は限りなく続いていた。
  この年の8月2日も、アメリカ合衆国軍のアンソニー・ウェ
 イン将軍は、合衆国軍を率いてオハイオ州を越え、進撃して
 行った。
  白人・アメリカ植民者(占領者)たちのインディアンの
 方々へ投げかける軽蔑の眼差しは、ついに、インディアン
 の方々へ民族の誇りを呼び覚ますことになった。
  アメリカ合衆国は貪欲に土地を奪って行った。
1794年1月10日、麹町から出火し、山王社や大名屋敷を類焼
 した。
  また、4月2日にも、新吉原が焼失した。
1794年5月、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく、浮世絵
 師)が、版元の蔦屋重三郎から役者似顔絵・相撲絵など
 を次々と版行し、評判となった。
  この版元の蔦屋が非常に大事なプロデューサー役を演
 じていた。
1794年6月、幕府が、ロシアより帰還した大黒屋光太夫と磯
 吉に報奨金と月々の手当てを与えた。
  そして、みだりに外国のことを話すことを禁じた。
1794年8月、桂川甫周(かつらがわほしゅう、蘭方医で幕府
 の医官)が、「北搓聞略(ほくさぶんりゃく)」を著した。
  大黒屋光太夫が、ロシアで10年間に渡って体験したこ
 とを聞き出したもの。
  桂川甫周が、将軍引見の際に列席し、尋問、聞き書き
 して、このロシア事情紹介書を著した。
1794年9月、酒造制限解除:
  幕府が、この年の酒造高を、1786年までの造り高の3分
 の2とし、制限を緩和した。
1794年9月、幕府が、土佐藩の蜂蜜などの様な薬種献上を各
 大名に命じた。
1794年10月、倹約令を10年延期した。
1794年、千葉周作(ちばしゅうさく、剣客)が生まれた
 (1794年~1855年)(生年に1793年説あり)
  陸奥(むつ)国栗原(くりはら)郡に生まれた。
  北辰一刀流の開祖、江戸神田お玉が池に開いた玄武館
 道場が江戸三大道場の一つとして繁栄した。
  門弟3600名、坂本竜馬も門下、
1794年、水野忠邦(みずのただくに、大名)が生まれた
 (1794年~1851年)、老中となる。
  将軍・徳川家慶に信任され、天保の改革を断行した。
1794年、施策:常夜灯の設置、
  幕府が、東海道逢坂に常夜灯の設置を許可した。
1794年4月、ペリーが生まれた(1794年~1860年)
  アメリカ海軍の軍人、日本へ来航し開国を求めた。
1795年1月9日、初代の横綱免許の一人である、谷風梶之助
 (たにかぜかじのすけ、力士)が没した
 (1750年~1795年)(46歳)、陸奥(むつ)の人、
  63連勝の記録を持つ大力士、309戦258勝、優勝22回、
  京坂場所を入れると98連勝、負けはわずか14回、
1795年3月、医師の橘南谿(たちばななんけい)が、諸国を
 遊覧体験を記した「西遊記」の刊行が始まった。
  8月には「東遊記」の刊行が始まる。
1795年7月17日、円山応挙(まるやまおうきょ、画家)が没
 した(1733年~1795年)(63歳)
  「雪松図屏風」(国宝)
1795年10月3日、幕府が、女髪結に商売替えを諭した。
  華美な風俗の取締りを強めていた幕府が、風俗を乱す
 とした。
  豊かな江戸の流行の中で、髪型を追及する女性たちは、
 幕府の禁令には耳を貸さなかったという。
1795年10月4日、幕府が、前年に続いて酒造高の規制上限を
 緩和し、1786年までの造り高を許可した。
1795年11月14日、大坂の定番同心の家職を継いだ高橋至時
 (たかはしよしとき、天文暦学者)が、幕府天文方に登
 用された。
  弟子に伊能忠敬がいる。最初の天文家と言われる。
1795年、鹿狩り
  家斉が、下総小金ヶ原に鹿狩りをし、一日でシカ95頭、
 イノシシ13頭などを捕らえたという。
1796年1月、幕府が、薬種として白牛酪(バター)の販売を
 公表した。
1796年2月18日、稲村三伯(いなむらさんぱく、医師)らが、
 蘭和辞典の「波留麻和解(はるまわげ)」を完成した。
  完成まで13年を要したという。
  オランダのF・ハルマの出版した蘭仏辞書を底本とし
 たもので、語数が約8万を集録している。
1796年3月8日、幕府が、諸大名へ、行列の風俗質素や、往
 来の邪魔にならない供の間隔について、触れを出した。
1796年5月28日、幕府が、肥前藩の儒者の古賀精里(こがせ
 いり)を昌平坂学問所の教授に登用した。
  朱子学の振興に努力した。
1796年10月、幕府が、医学館への薬種料を100両から200両
 へ増額した。
  医学館は金沢藩の藩校、
  教授:黒川良安(医)、スロイス(医)、
  卯辰山(うたつやま)養成所を起源とする。
1796年12月6日、琉球使節が、江戸城で将軍・家斉と会い、
 芭蕉布・久米錦・焼酎・泡盛酒などを献上した。
1796年、この年、江戸で橘(たちばな)の鉢植えが大流行
 した。
  橘は、ミカン科ミカン属の常緑小高木で柑橘類の一種。
1796年、清国が、アヘンの輸入を禁じた。
  イギリスとの貿易で、清国は、二重の深刻なる重荷を
 背負わされていた。
  一つは、イギリスが、どんどん麻薬のアヘンを、中国
 国内へ流入させ、麻薬中毒患者が急増し、国民の心身が
 劣悪になって行った。
  今・現代では、死刑判決が出るような極悪行為である。
  二つ目は、中国国内の銀の国外流出が、はなはだしく
 急増した。
  イギリスと貿易を始めた当初は、イギリスが買いたい
 ものが多く、イギリスの輸入超過だった。
  その支払いで、支払う銀がイギリスから流出し、イギ
 リスは、この銀の流出を止めたいと、禁じ手の麻薬輸出
 を始めた。
  これが中国・清に蔓延し、銀の支払いが逆転し、中国
 から銀の流出となった。
  イギリスは、卑劣な手を使った。
1796年、トレヴィシックが高圧蒸気機関の開発に成功した。
1796年、シーボルト(西ドイツ、医者、博物学者)が生ま
 れた(1796年~1866年)
  オランダ商館の医師として来日した。
1796年、カジャール朝が興る(1796年~1925年)
  イランのトルコ系王朝、首都:テヘラン
  1925年に廃されてパフラビー朝が成立した。
1797年1月、幕府が、輸入薬種の高値是正のため,14品目に
 ついて、過去の売り出し相場より安価で取引する様に令
 した。
1797年4月14日、幕府が、油の流通把握のため、少量の人力
 絞り用以外の菜種・綿実のすべてを、大坂・兵庫へ送る
 ように命じた。
  また、領主には、大坂町奉行への生産額・回送高の届
 け出をする様に命じた。
  これによって、幕府は、流通商品の口銭の実態を奉行
 所に把握させた。
1797年7月、イギリス船が、再び、蝦夷に来た。
  蝦夷地の不安定化に対し、幕府は、1793年に、既に、
 弘前藩の軍勢の281人を松前へ派遣し、
  また、この1797年のイギリス船の来航に対応して、500
 人が函館へ派遣されていた。
  幕府は、ちゃんと防備を計っていた。
  そして、幕府は、この年に、国後、択捉を調査し、東
 蝦夷地(函館から択捉まで)を直轄領とした。
  そのうえで、東蝦夷地の要所を弘前藩と盛岡藩に警備
 させることにした。
  この5年後に、函館奉行も創設し、責任者も任命してい
 る。
1797年9月11日、幕府が、金銀貸借などの金公事(訴訟)に
 つき、相対済し令を発令した。
1797年9月、幕府が、質屋の質物不法取り扱いについて、
 処罰を決めた。
1797年10月、料亭で、江戸小咄を披露する会が流行した。
  幕府は、質素倹約などの面から禁止した。
1797年11月18日、幕府が,翌年からの新暦採用を公表した。
1797年12月1日、幕府が、湯島聖堂を幕府の官学とし、学問
 所と改称した。
1797年12月18日、西洋医学を紹介した宇田川玄随(うだが
 わげんずい、蘭方医、津山藩医)が没した(1755年~
 1797年)(43歳)。
  大槻玄沢に入門し、杉田玄白、前野良沢に学ぶ。
1797年12月18日、漁船などが、外国船と遭遇することが多
 いため、幕府は、穏便に処理するように改めて命じた。
1797年、この年に、「絵本太閤記」初編が刊行された。
  庶民の圧倒的人気を得た。
  これによって、豊臣秀吉像が 形成された(1802年完結)。
1797年、安藤広重(あんどうひろしげ、浮世絵師)が生ま
 れた(1797年~1858年)、
  江戸八代河岸の幕府定火消同心の子として生まれた。
  歌川豊広に師事、本性が安藤、広重の名を与えられ、
 歌川広重ともいう。
  代表作の「東海道五十三次」など、諸国風景や江戸名
 所を多数描いた。
1798年、日本の総人口: 25,471,000人
1798年2月、幕府が、唄・浄瑠璃・三味線などの女師匠が、
 男子の弟子にとることを戒めた。
  特に、武士の 女師匠への入門を禁じた。
1798年4月、国東治兵衛(くにさきじへえ、殖産家)の「
 紙漉重宝記(かみすきちょうほうき)」が刊行された。
  国東治兵衛は、岩見(島根県)の紙問屋に生まれた。
  また、石見半紙の興隆と普及につとめた(1743年~?)
  紙漉重宝記は、石洲半紙の製法を図入りで懇切丁寧に
 解説した名著と言われていて、名高い著となっている。
1798年 5月1日、品川沖で鯨が捕れた。
  5月3日に、代官の差配で、浜御殿の海へ回して、将軍・
 家斉が見物した。
1798年5月、庶民が、慶長銀など古銀を貯蔵するため、幕府
 は、銀座での古銀引き替え促進を命じた。
  以後3カ年の各古銀交換比率を定めた。
1798年5月、塙保己一が、「群書類従」の版木の防火保管の
 ため、用地借用を、幕府へ願い出た。
  幕府は、土地の貸与と、地代などを決めた。
1798年6月、大坂から来た岡本万作(おかもとまんさく)が、
 神田で落語寄席をはじめた。
  江戸の寄席興行創始者と言われる。
  また、烏亭焉馬(うていえんば、戯作者、落語を自作
 自演し、落語中興の祖と言われる)が、小咄集「無事志
 有意(ぶじしうい)」を発刊した。
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2015年8月25日火曜日

(増補版)190D2/3:気になった事柄を集めた年表(1789年~1793年)

題:(増補版)190D2/3:気になった事柄を集めた年表(1789年~1793年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1789年7月15日、オスマン帝国のセリム3世の軍制・財政改
 革・・西欧化政策。
  この日、イスラム世界の中心都市・イスタンブールで、
 オスマン帝国の第28代君主となるセリム3世の即位を祝し、
 フランス大使をはじめ西欧各国の大使のオスマン帝国政
 府への表敬訪問が行われていた。
  セリム3世は、かつては、イスラム世界が、西欧キリス
 ト教世界を圧倒していたが、
  新しい力と取り入れて、急速に、西欧が近代化し、台
 頭して来て、イスラム世界が圧迫されて来たことを認め
 た。
  それ故、彼は、近代西欧モデルの体系的受容によって
 「西欧化」改革を大々的に着手した。
1789年、発明:ソーダ製造法が発明された(1790年説あり)
  ルブランが発明したソーダ(炭酸ナトリウム)の工業
 的製法(ルブランソーダ法)。
  食塩と硫酸から硫酸ナトリウムを作り、石灰岩・コー
 クスと共に加熱して炭酸ナトリウムを得るもの。
  石鹸その他の化学工業が発達し、ソーダ需要が拡大し
 て来ていた。
  1861年に、アンモニアソーダ法が発明され、とってか
 わられた。
1790年2月19日、幕府が更生施設をつくる、
  幕府が、軽犯罪者のための授産を行い、かつ、更生を
 する施設として、江戸の石川島に、人足寄場を設けた。
1790年4月、幕府が、女性の死刑囚があった場合、
  そして、その女性が妊娠している場合、
  その赤ん坊を助ける方針とし、赤ん坊の誕生まで刑の
 執行はしない方針とした。
1790年、高山彦九郎(たかやまひこくろう、勤王家)が、
 東北地方を巡った、「北行日記」
  諸国を歴遊し勤王の大義を唱えた(勤王思想の提唱)。
1790年5月24日、寛政改革:異学の禁
  幕府が、皇居を造営し、朱子学を正学と定めた。
  また、正学以外の異学を湯島聖堂で教授する事を禁じ
 た。
1790年8月13日、幕府が、輸入される薬種の高値を是正する 
 ため、輸入品偏重を改め、
  薬園育成用の外国産の薬種の苗を分け与えて、奨励し
 た。
  そして、10月には、輸入される薬種の価格引き下げを
 令した。
1790年9月23日、柄井川柳(からいせんりゅう)が没した
 (1718年~1790年)、川柳の始祖、
  江戸浅草新堀端の代々の名主。
  人気を得て、「排風柳多留(はいふうやなぎだる)」
 を出版した。
  辞世:「木枯らしや あとで芽をふけ 川柳」
1790年11月、旧里帰農奨励令
  幕府が、旅費などを支給して、江戸へ流入した農民の
 帰郷をはかった。
  帰郷して農業に励みなさいの令。
1790年12月24日、幕府が、朝鮮人参の栽培、および、売買
 を自由化した。
1791年1月25日、幕府が、湯屋での男女混浴を禁止した。
  この当時、庶民の家には風呂はなく、銭湯に行く生活
 だった。そして、混浴だった。
  今の様な、明るい風呂場ではなかったので、そして、
 蒸気で見えにくかったのでその様になっていた。
  しかし、松平定信は男女別々を指示した。
1791年8月6日、大風雨で、江戸・相模が、高波および山崩
 れに襲われ、大きな被害を出した。
1791年9月2日、外国船の漂着の際の処置を指令した。
  近海に異国船が出没し、幕府が、異国船を発見した時
 とか、漂着した時とかの警備や手続きについての指令を 
 出した。
1791年10月24日、武芸奨励策:将軍の御前での馬術や武芸
 の披露が行われた。
1791年12月、幕府が7分積金を始めた(1792年説あり)。
  幕府が、町入用節約分の70パーセントの積み立て(7分
 積金)を始めた。
1791年12月、町会所が設置された(1792年説あり)。
  幕府の、自治の支援・改善。
  町入用(ちょういりよう)という、金銭や物品の出納
 が行われ、その算用の過程や結果が記録された。
  町入用は、町人の地縁的共同体である町における管理・
 運営、負担・配分に関する諸項の、町としての収支会計
 のこと。
  幕府は、この年に、七分積金制度の令を出したが、町
 入用を節約させ、その節約分の七分(7割)約2万2000両
 を毎年積み立て江戸町会所を設立した。
  江戸町会所設立は、社倉と低利融資、困窮者への御救
 い米など福祉政策を兼ねていた。
  社倉は、飢饉などの際の窮民救済のために設けられた
 米や麦などの貯蔵庫のこと。
1791年、この頃、金毘羅参りが盛ん。
1791年、フランスのユダヤ人の方々が、自由・平等に基づ
 く市民権を獲得できたのは、フランス革命の勃発後の2年
 目の、この年だった。
1792年、日本人の総人口、24,891,000人
1792年4月、聖堂学問所の制度を定めた。
1792年5月16日、林子平禁錮に処す。
  先覚者の林子平は、「赤蝦夷には在来、南へ勢力を伸
 ばそうという意思がある。
  将来、日本にとって恐るべき禍根になる」と公表し、
 妖言を言いふらすと罰せられたことがある(竜馬がゆく
 ・2)
1792年7月21日、麻布から出火し、赤坂・飯田橋・番町など
 を焼失した。
  29日に、幕府は、屋敷が類焼した1000石以下の旗本に
 手当金を出した。
1792年8月、幕府が、湯島聖堂の施設拡充のため、400坪の
 庁堂・学舎を造営した。
  翌9月に、学術試験にあたる初の学問吟味を実施した。
1792年9月、ロシアのラクスマンが、幸太夫を伴い、北海
 道の根室に来て、通商を請うた。
1792年12月、尊号事件
  幕府の反対により、典仁親王の尊号宣下を停止した。
1792年12月27日、幕府が、海岸防備の重要性と、異国船取
 扱令を諸大名へ伝えた。
1792年、春ころ、司馬江漢が、アムステルダム版の世界地
 図をもとに、初の銅版世界地図「輿地(よち)全図」を
 作成した。
1792年、イギリス人のW・マードックが、自宅の照明用に
 石炭ガスを用いることに成功した。
  石炭や木の乾留ガスを用いた。
  また、1792年から、実験に取り組んだの記述もある。
  そして、1802年に、工場にガス灯を設置した。
1792年、フランス大革命のパリ市民コミューン(自治組織)。
  フランスが共和制になった。
1793年1月、司馬江漢が前年刊行した「輿地全図の解説本」
 の「地球全図略説」が刊行された。
  司馬江漢は、前野良沢の許で研修した。
  「地球全図略説」は、五大州の図として東西両半球略
 図よりはじめ、日食・月食や天動説と地動説などを図解
 入りで説明し、さらに、地球の各地の気候・産物などを
 略記した上、南北両回帰線・極圏などにもふれている。
  日本版世界地図中、最も優れたものの一つと言われて
 いる。
1793年3月7日、典仁親王に太上天皇の尊号を贈る問題が紛
 糾した件に関し、幕府が公家2人を処罰した。
1793年3月17日、幕府が、海岸防備・沿岸警備を厳戒にする
 よう諸大名に命じた。
1793年6月21日、林子平が没した。
1793年7月23日、松平定信が、老中・将軍補佐役を罷免され
 た。
1793年9月、塙保己一が、和学講談所を麹町につくった(7
 月23日説あり)。
1793年9月18日、ロシアから送還された漂流民の大黒屋光太
 夫と磯吉が、江戸城内吹上苑で、将軍・家斉と会った。
1793年、雉橋の野馬方で、安房嶺岡牧産の牛乳から白牛酷
 (バター)が試作された。
1793年、安芸の整骨医・星野良悦が、木製人骨を杉田玄白
 らの蘭学者に見せた。
1793年、大塩平八郎が生まれた(1793年~1837年)
1793年、渡辺崋山が生まれた(1793年~1841年)
1793年、アメリカ合衆国で、「奴隷取締法」が成立した。
  この法律には、奴隷制度を容認している上、さらに、
  条文の中には、「逃亡した奴隷は、殺しても良い」と
 いう条項もあった。
  奴隷解放なんて全くなされていないアメリカだった。
  リンカーンの奴隷解放なんて、「完全なインチキ」だ
 った。
  1850年には、アメリカは、この法律よりさらに厳しい
 奴隷制の法律を作っている。
  「逃亡奴隷取締法」という卑劣な法律だった。
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2015年8月24日月曜日

(増補版)189D2/3:気になった事柄を集めた年表(1789年~1789年)

題:(増補版)189D2/3:気になった事柄を集めた年表(1789年~1789年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1789年5月、フランス革命が始まる、国民議会結集
  フランス革命の始まりである第3身分代表の国民議会
 結集が始まった。
  三部会から国民議会への動きである。
  全国三部会は、1789年5月5日に、ベルサイユ宮殿で開
 催された。
  第三身分は約600人だった、その他、キリスト教聖職者
 や貴族議員が各々300人だった。
  第三身分議員は合同討議を主張し、6月17日の国民議会
 を宣し、他の派も合流して、この案は承認された。
  国民議会は、7月初めから、憲法作成の作業に取り掛か
 った。
  しかし、宮廷の保守派が、国王に圧力を掛け、軍隊を
 終結させた。そのため、パリ市民に極度の不安を与えた。
  1789年7月11日、国王ルイ16世は、この事態を引き起こ
 した責任者を罷免した。
  この知らせがパリに届くと、市民は激高した。
  1789年7月14日に、パリ民衆の約1万人が、政治犯を収
 容していたバスチーユ牢獄を襲撃した。
  王室親衛隊もこれに加担し、バスチーユを占拠した。
  監獄に居る囚人は、偽造犯4人、精神病者2人、浪費癖
 の若者1人の計7人であった。
  このパリ・バスチーユの監獄の襲撃で、フランス革命
 の火蓋は切られた。
  この日の朝10時、市民代表10人が、監獄で司令官から
 昼食のもてなしを受けていると、外の群集は「人質にさ
 れた」と興奮して行った。
  「司令官は騙し討ちをした」というデマが、口コミで
 パリじゅうに広がった。
  「兄弟が虐殺されている」というアジ演説で、バスチ
 ーユ襲撃は始まった。
  司令官は、身の安全を保障されて降伏した。
  しかし、失業中のコックがその首を切り、くまで(熊
 手)に刺して、市中パレードをやった。
  この後、憶測や風聞が流れ、「スパイだ」
 「陰謀だ」と言われた17000人もの命が、この時、断頭台
 で消えた。
  何と、多くの人々が卑劣なリンチ(私刑)にあったも
 のか? 低劣な行動をするものだ。
  「おお自由よ、汝の名の下に何と多くの罪が犯された
 ことか」という言葉を残して殺された人(女性)もいた。
  翌日、旧体制最後のパリ市長と守備隊長が殺され、宮
 廷の企図は阻まれた。
  パリは、自治制の確立に向かった。
  選挙人会から市長と国民衛兵隊司令官が任命された。
  地方でも、パリの運動に呼応するかの様に騒動が起こ
 った。
  1789年8月26日に、立憲議会は、人権宣言を可決した。
  この人権宣言には、『政治的平等』がうたわれてない
 と言われている。
  国王は、人間宣言への同意と、封建的特権の廃止にた
 めらった。
  (後に、しぶしぶ同意し、絶対王政への道は閉ざされ
 た)。
  1791年10月1日に召集された立法議会は、種々の対立で
 もめたが、戦争政策の流れの中にあった。
  1792年4月20日、国王は、オーストリアに宣戦した。
  国王の本当の内心は、外国軍によって、パリに起きた
 革命が抑えられる事を願っていた。
  1792年、共和制となった。
  1792年8月10日、八月十日事件が起きた。
  国民衛兵を先頭に市民の武装隊も加わって、数万が進
 撃し、多数のスイス人傭兵を殺害した。
  国王は、難を逃れたが、身柄は、新パリ市当局に引き
 渡された。
  王権は停止された。
  王党派の武装解除が断行された。
  1792年9月2日、民衆が、アベイ監獄などを襲い、宣誓
 を拒否したキリスト教聖職者を主とする囚人を虐殺した。
  1793年1月21日、ルイ16世が、公敵だとして処刑された。
  1794年、ロべスピエール(八月十日事件後に蜂起委員
 となっていた)の処刑で反動期に入った。
  1799年11月9日、ナポレオン・ポナパルトがイタリア方
 面軍総司令官としてオーストリア軍を連破し、フランス
 での名声を高めつつあった。
  そして、この日、シエイエスらと組んでクーデターを
 起こした。
  総裁政府を廃して、統領政府を樹立した。
  これで、フランス革命の流れが終わり、時代が収束し
 た。
1789年、英国の詩人・ウィリアム・ワーズワースは、
  フランス革命の報を聞くと、フランスへ渡った。
  忌(い)まわしい絶対王制が一掃されたと思った。
  ワーズワースが考えていた事は、反対者を投獄し、公
 正な裁判も無く、議会の投票制度も無い王制が一掃され
 たのだ・・と思っていた。
  これは素晴らしい出来事と思っていた。
  そして、ワーズワースは、それが見たかったのだった。
  しかし、実際、フランスに起きていた実態は・・、
  暴徒が、王の様に振る舞い、
  和平と和解の姿は、まったく無く、
  低劣な復讐の世界だけだった。
  見せしめの裁判、
  そして、旧官僚や貴族、そして、王族の「公開処刑」
 が行なわれていた。
  各地で、ギロチンが使われ、
  死刑執行人が、恐怖政治さながらに、犠牲者の首を高
 々と掲(かか)げた。
  民主主義の欠片(かけら)も無かった。
  狂気と憎悪、政敵の無差別処刑だけだった。
  期待を裏切られ、恐怖におののいたワーズワースは、
 フランスから逃げ出した。
  (以上ポール・ケネディ氏筆・英歴史家、読売新聞)。
  これと似た事で、第二次世界大戦後、アメリカは、日
 本の政治指導者を、裁くべき法律が無いのに、裁判らし
 い擬似裁判を、世界注視のお膳立てを作って行った。
  そして、日本の指導者を死刑にした。
  これは、明らかに、分類上は私刑(リンチ)となる。
  また、歴史をたどるとキリスト教は、これ以上の卑劣 
 な公開処刑をした。
  魔女にした多くの女性を、広場に連れ出して、薪を、
 うず高く積み上げて、
  それも、すぐには燃え上がらない、燃えにくい生木(
 なまき)で、じわじわと陰湿に焼いた。
  そしてまた、キリスト教聖職者を先頭にして、ラッパ
 を鳴らして市中を練り歩き、騒ぎ立て、この様な卑劣な
 盛り上げの中で、公開処刑をした。
1789年8月2日、フォールン・ティンバーズの戦い:
  白人・アメリカ人とインディアンの方々の戦い
  白人・アメリカ人は、狡猾に先住民のアメリカ・イン
 ディアンの方々の土地を奪って行った。
  白人・アメリカ人に言わせれば、何らおかしい所はな
 いと言うが、歴史はごまかせない。
  当時のアメリカ・インディアンの方々をうまく籠絡(
 ろうらく、巧みに自分の思い通りに繰ること)したとし
 ても・・、
  そして、アメリカ合衆国の行うインディアンへの方々
 への軽蔑を伴う行為は、遂に、インディアンの方々の
 「誇り」を呼び覚ました。
  アメリカ合衆国は、貪欲に土地を奪って行った。
  インディアンの共有地であろうと、何であろうとお構
 いなしに奪った。
  インディアンの方々の共有の森は、白人たちのものと
 なった。
  もはや森の中で木を切ることも出来なくなった。
  木ぎれを拾い集める事も出来なくなった。
  今までの生活、伝統の、幸せな平和な生活が出来なく
 なった。
  インディアンの方々は、その幸せな生活を取り戻した
 いと願った。
  そして、伝統の、長い間、育まれて来た生活へ回帰し
 たいと、民族の団結を目ざして抵抗運動を組織した。
  この日も、アメリカ合衆国の将軍は、強烈な軍隊を引
 き連れて、オハイオ州を越え、進撃して行った。
  戦いは、当然、起きた。
  当然、インディアンの方々のファイトバックが起きた。
  しかし、果敢なその抵抗も、強烈なアメリカ軍の前に
 屈してしまった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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または
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2015年8月23日日曜日

(増補版)188D2/3:気になった事柄を集めた年表(1787年~1789年)

題:(増補版)188D2/3:気になった事柄を集めた年表(1787年~1789年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1787年、アメリカ合衆国:『北西部領地条例』ができ、
  この法律で、アメリカ・インディアンの方々の立場は
 認められていた・・ようだが・・・???
  この年は、アメリカ合衆国憲法が出来たが、
  同じ年に、「北西部領地条例」という法律もできた。
  アメリカの地の本当の所有者である先住民のアメリカ・
 インディアンの方々は、この法律に期待した、希望を抱
 いた。
  より公正な土地問題について取り扱いがなされるのだ
 ろう・・と、思った。
  というのは、この法律には、明確に「アメリカ・イン
 ディアンの方々の領土に対する権利と、統治に関する権
 利」が認められていた。
  そして、更に、憲法には、
  アメリカ・インディアンの方々を条約を取り交わすこ
 とのできる『国家』として認めていた。
  しかし、抜け道も書かれていた。汚い話だ。
  「東部から移住してきた移住民が・・6万人を超えた場
 合、直ちに、その地を、合衆国の1州として認める」と
 ある。
  まったく、ペテン条項である。
  例えば、A国に、日本人が移住をして、日本人が6万人
 を越えた場合、直ちに、その地を日本州として認める・・
 としたら、日本州は、A国に、どんどん出来て行くだろう。
  実際、アメリカ西部は、植民者(占領者)たちが、勝
 手、気ままにどんどん開拓する結果になってしまった。
  ペテンによって、嘘行為によって、アン・フェアなや
 り方で、領土を奪って行ったアメリカだった。
  イギリスもそうだが、法律を作って行動すれば正義だ
 ・・というペテン行為を、歴史のあちこちでやっている、
 世界のあちこちでやっている。
  「法律に従ったまでだ」・・が、ペテン師たちの言い
 分だった。
  (自分たちだけに都合のよい法律を作っていて、そう
 言う)。
1788年、イギリス人のオーストラリア占有(入植)以来、
 先住民族のアボリジニーの方々に対してとられた100以上
 の政策は・・、
  まったく、非人道的な、怒りの湧く、卑劣な法律だっ
 た。
  あたかも、「やっかい者のアボリジニー」という政策
 だった。
  一番簡単な処理方法だと言って、採用された、取られ
 た処理方法は、「皆殺し」という政策だった。
  そして、アボリジニーの方々が、絶滅寸前まで殺され
 た。
  多く見積もっても、25パーセントの方々しか生き残る
 ことができなかった。
  (ほとんどの方々、75パーセントの方々が殺されてし
 まった)。
  (もし、あなたの家族が5人だとすると、あなた以外の
 家族の皆様がイギリス人に殺されてしまったという政策
 だった)。
  基本に、アボリジニーの方々を「異教徒だ」「有色人
 種だ」という見方があった。
  そして、「異教徒は殺せ」のキリスト教の考え方・教
 義に洗脳された頭があった。
  また、有色人種蔑視感があった。
1789年3月15日、2月に、奢移禁止令を出した幕府が、あら
 ためて奢移とみなす品目を定め、その製造・販売を禁止
 した。
1789年3月、三浦梅園が没した。
1789年9月16日、幕府が、旗本御家人借金帳消しなど命じた。
1789年、司馬江漢が、油絵及び銅版をはじめた。
1789年、教育:行政官僚養成:
  行政技術の練達者としての官僚は、近世中期以降たえ
 ず幕藩政治展開の中核にあった。
  そうして、その技術は、次第に高度なものとなって行
 った。
  享保改革の頃には、主として個人的才能や経験の活用
 が図られるという程度であったが、
  それが、やがて勉学による技術者の養成を必要とする
 段階に進んでいった。
  たとえば、寛政改革において、松平定信が、「異学の
 禁」を発した目的が、思想統制とか、風俗匡正(きょう
 せい、正しい状態にすること)など消極的体制維持策に
 止まらず、
  行政官僚養成のための「正学」学習にあったことに注
 目すべきと言われている。
  従来、私塾に比べて不振であった官学を振興し、
  後世、国家有為の人材養成の場として発展してゆく契
 機がここにあった。
  昌平学は、やがて、単に、幕吏養成機関の役割を果た
 すだけではなくなって行った。
1789年4月30日、アメリカの初代・大統領のワシントンが
 就任した。
  1788年12月15日~1789年1月10日にかけて行われた大統
 領選挙。
  1789年2月4日に選挙人団の投票がなされた。
  1789年4月30日に、大統領の就任宣誓式が開催された。
  アメリカ合衆国憲法は、1787年9月17日に作成され、
 1788年に発効した。
  1787年12月7日に、デラウエア邦が憲法の批准をし、順
 次批准がなされて行った。
  13週のすべてがなされるのは、最後の1790年5月29日に
 ロードアイランド邦が批准をした時だった。
  この憲法にある「3/5条項」や奴隷貿易の存続などが書
 かれていて、それを承認したという事は、憲法が黒人奴
 隷制度を容認したという事だった。
  まったく非人道的憲法だった。
  そして、この様な卑劣な条項のある憲法を、アメリカ
 のすべての13の邦がその奴隷制度を容認したという事に
 なった。
  この初代大統領ワシントン(在任期間1789年~1797年)
 は、インディアンの方々を『猛獣』と言い、『狼と同じ
 だが、形が違う』と言った。
  この様な、インディアンの方々に対する「悪人間観」
 を持った大統領だった。
1789年、初代大統領に選出された:ワシントンの行動
   ワシントンは、就任すると、まず、先住民・インディ
 アンの方々との関係調整を行なわざるを得なかった。
   それは、ワシントンの就任の年の1年前に制定された
 「北西部条例」に関する事だった。
   この1787年の北西部条例の制定(ペテン的な条項)に
 よって、(アメリカ・インデアンの方々を恫喝と騙しと
 ペテンで)手に入れた新領土が、アメリカ人に開放され
 たからだ。
   そして、その事実を知った、領土を取られただけの先
 住民・インディアンの方々は反発した。
  紛争が多発した。
  そして、当然、この後、より進んだ兵器で、
  そして、より進んだ戦術を持った軍隊で、
  自分たちにだけ都合のよい様に、事を運んで行く展開
 をしようとしていた。
  ワシントンは、議会に軍事支出を承認させた。
  そして、『新民兵法』を制定させた。
  相手は弱者、力で抑え付けよう・・というやり方だけ
 が見え見えの政策展開だった。
  法律によって、民兵の兵力動員をした。
  そして、予想通り「武力だけの頭」で抑え込んで行っ
 た。
   そして、遠方の地にまで、遠征隊を結成して、インデ
 ィアンの方々の掃討を始めた。
  当然、白人だけにとって良く、拍手喝采だった。
  当然、殺戮術の卓越した進んだ兵器を装備した派遣軍
 は、先住民・インディアンの方々を破った。
  また、この軍は、人間的に卑劣な行為をした。
  何も、誇らしい、栄誉のある行為はしていない。
  非戦闘員の方々まで卑劣な殺し方をした。
  そして、先住民の方々の村落や田畑を徹底的に破壊し
 た。
  そこまでする必要性があるのかと憤りが湧く、この国
 のやり方は何時もそうだ。
   そしてまた、卑劣な有色人種蔑視の作戦である「焦土
 作戦」を強行した(ベトナム戦争でもやった)。
   完全な弱い者いじめだった。非戦闘員殺しだった。
   先住民・インディアンの方たちは降伏した。
  キリスト教の聖書には、「(キリスト教の)神の義が
 あれば、人を誅してもよい」という教義があるが、これ
 である。
  先に、アメリカ・インディアンの方々が手を出したか
 らが、こちらに正義があるの理由だった。
  ファイトバックせざるを得ない様な卑劣な事をした側
 に責任があるのに、先にやったのだからと、必要以上に、
 徹底的に、待ってましたと、卑劣な行為をこれでもかと
 する。
  相手が、やってはいけない弱者であろうと、こちらに
 神の義があると・・やる。
  そして、結局、アメリカ・インディアンの方々は、遠
 い狭い居住区域へ、オハイオ川流域より西の方に押し込
 められた。
  アメリカ・インディアンの方々が居ない地域が、入植
 の白人(占領者)のための広い土地がそこに現れた。
  インディアン居住区域だと称するが、自由に住む権利
 をはく奪された、不平等な状況の中に、ここに退去せざ
 るを得ない状況に置いた。
   この時の終戦処理に、またまた、条約締結という手法
 がとられた。
  条約という紙があるから正義だと言いたいのだろう。
  不正義な下で、何枚も、そんな紙を作っても本当の正
 義、真の正義はない。
   この様な、条約の締結は、対象となる先住民の方々を、
 形式的には「独立した国家」と認めたというものであっ
 た、だから正義だと言いたいのだろう。ごまかしだ。
   しかし、この様な不平等の下に作られ、一方的に白人
 のアメリカ人に有利なこの条約が、多くの場合、その条
 約は、何と、アメリカ人側によって無視されることが多
 かった。
  白人・アメリカ人の欲が深いからだ。
  その移住させたインディアンの方々の居留地の土地が
 欲しくなったからである。また、移動させるのである。
  さらに、遠くの居留地に行ってくれ・・である。
   悲しいことに、この事が、また、新たな紛争を生み出
 して行った。
..
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