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2016年3月4日金曜日

(増補版)306E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年5月~1872年7月)

題:(増補版)306E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年5月~1872年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1872年5月15日(4月9日)庄屋・名主・年寄等の制を廃し、
 新たに戸長、副戸長を置いてこれに代わらしむ。
  戸長(こちょう)とは、「明治前期、地方行政区画の
 区や町村の行政事務をつかさどった役人。
  明治5年(1872)の大区・小区制下では、小区の長とし
 て置かれ、従来の庄屋・名主などから選ばれた。
  1889年(明治22年)の町村制施行により廃止。
  今の町長・村長にあたる。
1872年5月17日(4月11日)東京に、初めて女学校が開校。
  (俗に、女紅場、あるいは、英学校と称せられる)
  女紅場(にょこうば)は、1870年代に、女子に対して
 読み書き算盤(よみかきそろばん)や、裁縫・手芸を授
 けた教育機関のこと。
  裁縫所(さいほうじょ)、縫製所(ほうせいじょ)と
 も称する。
  「女紅」とは、「女工」とも表記する。
  特に、細民と呼ばれた下層社会の子女や芸妓・娼妓に、
 必要最低限の教育を与えることを目的としていた。
  学費の払えない生徒の為に、習得した技術で作られた
 製品をもって学費の代替とする事もあった。
1872年5月30日(4月24日)日曜休暇制が決められた。
  日本は、官吏であるが、律令制の時代から、定休日な
 どの休暇(假)があった。
  また、休み時間が、1日に3回取られていて(10時、昼、
 2時)、特に夏場など、暑くなる時期は昼休みだけでも2時
 間あった。
  また、1873年(明治6年)、太政官布告第344号「年中
 祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」によって、それまでの祝日は
 すべて廃止され、祝祭日(祝日大祭日)が定められた。
1872年5月31日(4月25日)江藤新平、初代司法卿に就任。
  江藤新平が、司法卿となり、フランスの刑法や民法を
 移植するのに功績をたてた。
1872年6月(明治5年5月)日本国明治政府が、台湾での一
 連の事件を知る。
  1872年1月10日(明治4年11月30日)宮古島から首里へ
 年貢を輸送した宮古島船が、帰途中、台風の暴風で難破
 漂流し、琉球の役人と、船頭ら69人のうち3人が溺死した。
  そして、後に、台湾南部に漂着。
  66人が、台湾先住民の牡丹社に救助を求めたが、逆に、
 集落に連れて行かれた。
  1872年1月26日(12月17日)船の乗組員66人は、集落か
 ら逃走した。
  先住民は、逃げた琉球人を敵とみなし、次々に、54名
 を殺害し、12人の生存者は、漢人により救助された。
  そして、台湾府の保護を受け、福建省の福州経由で、
 宮古島へ送還された。
  後になって、樺山資紀や鹿児島県参事の大山綱良らの
 薩摩閥から、台湾への軍艦派遣が建言された。
  琉球は、自国の領土という立場から、清国に対して事
 件の責任を問うた。
  そして、1874年6月3日(明治7年4月19日)に至り、征
 伐出兵の準備に入るが、英・米の駐日公使が、出兵反対
 の意向を示した。
  政府は、派兵の延期を決定した。
1872年6月10日(5月5日)食用氷が、初めて市場に現わた。
1872年6月12日(5月7日)東京~横浜間の鉄道が仮開通した。
  日本で初めての鉄道が、品川~横浜間で仮営業を開始
 し、2往復の列車が運行された。
  6月12日(5月7日)6往復となる(6月13日説あり)
  7月10日(6月5日)途中に、川崎と神奈川の駅が設けら
 れ営業を開始した。
  10月14日(9月12日)新橋~横浜間が正式開業した。
  開業の式典が催され、明治天皇陛下のお召列車が、横
 浜まで往復した。
  10月15日(9月13日)鶴見駅が開業し、旅客営業が開始
 された。
  列車本数は、日9往復、全線所要時間は53分、表定速
 度は32.8キロメートル/時
  町は活気にあふれ、町中には牛鍋屋があり、コウモリ
 傘を抱えて懐中時計を持って、背広を着た男がいる。
  尚、史料に3月15日を開通とするものがある。
1872年6月15日(5月10日)勝海舟が、海軍大輔に任ぜられ
 た。
  勝海舟、任海軍大輔(氷川清話)
  勝海舟、叙従四位(氷川清話)
1872年6月22日(5月17日)特命全権副使・大久保利通、伊
 藤博文が、再び、アメリカへ赴いた(寺島宗則はイギリ
 スへ)
1872年6月23日(5月18日)取締組を邏卒(らそつ、見回り
 の兵卒)と改称した。
1872年6月25日(5月20日)司法卿・江藤新平が、「司法省
 仮規程」制定。
  司法省は、裁判所・裁判官の総括をする。
1872年6月28日(5月23日)明治天皇陛下が、西国へ巡幸の
 ため品川湾より軍艦「龍驤」に召され発途された。
  西郷隆盛随行。
  天皇陛下西巡(氷川清話)
1872年6月29日(5月24日)兵庫楠木神社を湊川神社と改称
 し、最初唯一の別格官弊社に列格する。
1872年6月(5月)天皇陛下が、京都に戻る際、「還幸」で
 はなく「行幸」とされた。
1872年7月4日(5月29日)初めて、師範学校(しはんがっこ
 う)が東京に開設された(東京師範学校の前身)
  教員を養成する学校である。
  別史料に・・下記の記述もある。
  1872年(明治5年)9月からの約1年間、「師範学校」は
 東京に設置された日本初の教員養成機関(後の東京高等
 師範学校。東京教育大学を経た現在の筑波大学の前身)
1872年7月9日(6月4日)マリア・ルース号事件
  奴隷を解放した日本だった。
  日本が奴隷を解放したマリア・ルース号事件。
  日本の横浜港に停泊中のマリア・ルス号の船内にいた
 人たちが奴隷であると分かり、日本政府が解放した。
  国際裁判となり、日本が当事者となった初めての事例。
  マリア・ルス号は、船の修理のために入港していた。
  奴隷が船外に逃れたために、奴隷にされていると判明
 した。
  当時の外務卿(外務大臣)副島種臣は、神奈川県権令
 (県副知事)大江卓に、奴隷にされている人たちの救助
 を命じた。
  国際問題を恐れた意見が政府内にあったが、副島外務
 卿は、人道的な見地から救助をすることを命じた。
  マリア・ルス号は、横浜港からの出航停止命令が出さ
 れ、奴隷を全員下船させた。
  船長が、神奈川県庁に設置された特設裁判所の裁判に
 かけられ、判決で、奴隷を解放の後、出航の許可を与え
 た。
  船長は、反訴したが、日本は、再度、人道に反するこ
 とを理由に、契約も効力無しとし、却下の判決をした。
  この時、奴隷にされていた中国人は、中国(清)へ帰
 国できた。
  中国(清)政府は、日本へ謝意を表明した。
  しかし、帰国した船長により、日本は、損害賠償と謝
 罪が要求された。
  国際裁判となった本件は、ロシアのサンクトペテルブ
 ルグにおいて争われる事になった。
  日本の全権公使として榎本武揚が赴(おもむ)き、
  1875年6月、日本の勝訴で決着した。
  判決文は、「日本側の措置は、一般国際法にも条約に
 も違反となっていない妥当なものである」・・だった。
  堂々たる、誇るべき日本だった。
1872年7月10日(6月5日)群馬県の富岡製糸工場の主要部分
 の建設工事が終わった。
  農商務省経営、官営最初の製糸場として絹糸国産発展
 の端となった。
  国の稼ぎ頭(かせぎがしら)となって行く・・、
1872年7月15日(6月10日)『郵便報知新聞』が創刊された。
  前嶋密らによって「郵便報知新聞」が創刊された。
  草創期には、旧幕臣の栗本鋤雲が主筆を務めた。
  1873年(明治6年)に、会社・報知社が設立された。
  1877年(明治10年)に、西南戦争が勃発すると、当時、
 記者だった犬養毅が、従軍ルポ「戦地直報」を掲載した。
  1881年(明治14年)に、矢野龍渓は、大隈重信と共に
 報知社を買収した。
  犬養毅・尾崎行雄らが入社し、立憲改進党の機関紙に
 なった。
  当時、記者だった原敬は、反発して退社した。
  後に、政論新聞(大新聞)が、自由民権運動の退潮と
 ともに人気が低下した。
  1886年(明治19年)に、報知社に迎えられた三木善八
 は、漢字の制限や、小説の連載などを行ない、新聞の大
 衆化を図った。
  1894年(明治27年)三木善八が、社主に就任した。
  12月26日に、「報知新聞」と改題した。
  1898年(明治31年)案内広告のはじまりとなる「職業
 案内」欄が創設された。
  1901年(明治34年1月2日~3日))「二十世紀の豫言」
 を掲載し、20世紀中に実現すると思われる23項目の事柄
 が書かれた。
  科学技術に関する部分は、ほとんど実現したが、自然
 や生物学関係は外れているものが多い。
  1903年(明治36年)新聞直営店制を開始した。
  1904年(明治37年)川上貞奴の写真を掲載。日本初の
 新聞写真となった。
  1906年(明治39年)夕刊の発行を開始した。
  1913年(大正2年)第一次護憲運動で、政府系と見られ
 て群衆の襲撃を受けた。
  1920年(大正9年)東京~箱根間・往復大学駅伝競走を
 創設した。
  1930年(昭和5年)講談社の野間清治に買収され、販売
 方針を見直すなど経営努力を重ねた。
  1941年(昭和16年)販売方針を見直すなど、経営努力
 を重ねるが、結局ふるわず、講談社は撤退した。
  後に、政界引退を余儀なくされていた三木武吉に譲渡
 した。
  1942年(昭和17年8月5日)戦時下に行なわれた新聞統
 合によって讀賣新聞に合併した。
  「報知」の名前は讀賣に引き継がれ、「讀賣新聞」は
 「讀賣報知」に改題された。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

(増補版)305E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年3月~1872年5月)

題:(増補版)305E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年3月~1872年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1872年、勝海舟が、春頃、静岡より今の邸宅・赤坂氷川町
 4番地へ移転(氷川清話)
1872年3月10日(明治5年2月2日)北京に、初めて公使館を
 設けた(初代公使に柳原前光)
1872年3月23日(2月15日)土地永代売買の禁を解く。
  土地の売買が解禁された。
  江戸時代の寛永20年(1643年)3月に出された田畑永代
 売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)が
 あった。
  これは、この前年に大飢饉があって、幕府は本格的に
 農業政策を行ないはじめ、飢饉による百姓の没落を防ご
 として行った。
  その政策遂行の一環として、この法令を発布した。
  主に、天領に向けて発布されたと考えられているが、
 この年・明治5年(1872年)に廃止されるまで効力を持っ
 た。
  しかし、質流れなどで、実態としては、土地の売買は
 行われていて、江戸中期以後には、法令違反の訴えが無
 い限り取締りは行われなかった。
  ここに、明確に、土地の売買の自由が確認された。
1872年3月26日(2月18日)海陸軍の刑律を領布した(8月説
 あり)。
1872年3月29日(2月21日)「東京日日新聞」が創刊された。
  東京で、最初の日刊紙「東京日日新聞」が東京浅草の
 日報社から創刊された(後の、『毎日新聞』1943・1・1)
  創立は、戯作者・山々亭有人の名をもつ条野伝平、貸
 本屋・辻伝右衛門方の番頭西田伝助、浮世絵師・歌川芳
 幾こと落合幾次郎の3人
  1874年(明治7年)に、社長に旧幕臣の福地源一郎(桜
 痴)を招いた。
  また、1876年(明治9年2月20日)に、「大阪日報」が
 創刊された。
  1888年(明治21年11月20日に、「大阪毎日新聞」と改
 題された。
  1911年(明治44年)に、「大阪毎日新聞」と「東京日
 日新聞」が合併し、全国紙として第一歩を踏み出した。
  1943年(昭和18年1月1日)に、東西で異なっていた「
 大阪毎日新聞」「東京日日新聞」の題号を「毎日新聞」
 に統一した。
  因みに、
  1874年に、読売新聞が創刊し、
  1876年に、中外物価新報(今の日本経済新聞)が創刊、
  1933年に、日本工業新聞(今の産経新聞)が創刊。
1872年3月30日(2月22日)兵制の確立により「振遠隊(し
 んえんたい)」が解散し、「邏卒制度」を新設した(明
 治政府の指揮下に入った)
  振遠隊:長崎裁判所に所属した官軍の部隊で、長崎港
 の警備も行っていた。
  主に、佐賀藩と福岡藩に所属し、出島の外国人や、そ
 れらとの接触をする勤王や佐幕の志士たちを警備した。
1872年4月3日(2月26日)東京築地・銀座の大火
  和田倉門内旧会津藩邸から出火、折からの強風にあお
 られ、東京の中心地の丸の内、銀座、築地一帯が焼失し
 た。
  銀座の御堀端から築地までの950,400平方メートル(41
 町、4,879戸)を焼失した。
  焼死8人、負傷者60人、焼失戸数4874戸という記録があ
 る。
  これをきっかけに、明治新政府は、銀座を耐火構造の
 西洋風の街路へと改造することとなった。
  「銀座煉瓦街」の都市計画が始まった。
  別史料に・・、
  午後3時頃(未半刻)、和田倉門内兵部省添屋敷(旧会
 津藩中屋敷、現皇居外苑3)より出火、西北の風に煽られ
 て馬場先濠を越えて八代洲河岸大蔵省紙幣寮へ飛火、
  織田信敏邸(旧天童藩織田家上屋敷、現丸の内2-5)、
 司法省(旧西尾藩大給松平家上屋敷、旧東京中央郵便局、
 同2-7)、山内豊誠邸(旧高知藩山内家上屋敷、現東京国
 際フォーラム、同3-5)など、一部省庁として使用されて
 いた丸の内の旧武家地を縦断した。
  火勢は、外濠(現外堀通り)を越えて現在の銀座西北
 端に当たる京橋南紺屋町に飛火、西紺屋町、南紺屋町、
 弓町、新肴町、鎗屋町、弥左衛門町、南鍋町一・二丁目、
 滝山町、元数寄屋町一~四丁目、銀座一~四丁目、尾張
 町新地・一・二丁目、三十間堀一~三丁目、三十間堀川
 を越えて大富町、新富町五~七丁目、松村町・木挽町一
 ~五丁目、釆女町、松村町を焼き、現在の銀座一~六丁
 目大部分が焼失した。
  京橋の町人地を一通り焼いた後は、再び、東隣の旧武
 家地に侵入、伊達宗徳邸(旧宇和島藩伊達家上屋敷)、
 亀井茲監邸(旧備中松山藩板倉家中屋敷)、西尾忠篤邸
 (旧横須賀藩西尾家中屋敷)などを焼いて築地川(現首
 都高速都心環状線)を越え、開墾会社・牛馬会社など新
 興会社が拠点としていた現築地一~三丁目を横断、築地
 本願寺に到達した。
  再度、築地川(現築地川公園等)を越えて、町人地に
 侵入、南飯田町、柳原町、南本郷町、南小田原町一~三
 丁目、築地ホテル館(現築地市場勝どき門駐車場、築地
 6-20)と現在の築地六・七丁目を焼失させ、
  夜、亥の刻(午後10時頃)鎮火した。
  その後、明治政府は、東京府知事由利公正の主導での
 都市改造に着手、お雇い外国人トーマス・ウォートルス
 の設計で西欧風近代都市の建設を目指した。
1872年4月3日(明治5年2月26日)、築地ホテル館、焼失す
  イギリス公使のハリー・パークスが、幕府に、ホテル
 の建設を要請し、外国人のための築地ホテル館が建設さ
 れたが、
  完成したホテルの規模は、2階建ての本館と平屋から
 なる5354平方メートルという。
  102室あり、この時代にして水洗トイレ、シャワー室、
 バー、ビリヤード室が、完備するという立派なホテルだ
 った。
  しかし、築地の居留地はあまり発展せず、ホテル経営
 が厳しくなった。
  そして、この日、銀座で発生した大火により類焼し、
 灰燼に帰してしまった。
  4年にも及ばない歴史だった。
1872年4月5日(2月28日)兵部省を廃し、陸軍省・海軍省を
 設置した。
1872年4月12日(3月5日)日本初の万国博覧会開催。
  主催:文部省
  場所:御茶ノ水の聖堂(旧昌平黌)
  入場料:2銭
  開催日:3月5日が各官吏の招待日で、3月10日が一般の
 入場できる日、
  会期は10日間であったが、大変な評判で、50日間の期
 間延長がなされた。
  出品物:名古屋城天守閣の金の鯱、骨董品、動植物の
 標本、昌平黌の展示品(当時、博物館になっていた)
  新聞の評判:天地の万物、世界の珍物総てここに集め
 られ人々驚嘆せり。
1872年4月12日(3月5日)最初の陸軍中将に山県有朋(やま
 がたありとも)が任命された。
  1838年~1922年、長州萩藩(山口県)の蔵元付仲間と
 いう軽輩の家に生まれる(閏4月22日)。
  1843年(5歳)、母が病死する(有朋は、自分の家庭も
 恵まれず、子供7人のうち、有朋の死後も生きたのは次女
 のみ)
  吉田松陰の松下村塾に門下生となり、尊王攘夷思想を
 学ぶ、長門(ながと)萩(はぎ)藩士。
  1859年(21歳)、藩命で伊藤博文らと京都へ派遣、以
 後、尊王攘夷運動家となる。
  1863年(25歳)、奇兵隊軍監に抜擢され、壇ノ浦支営
 司令となる。
  1864年(26歳)、壇ノ浦支営司令として、英・米・仏・
 蘭の4国連合艦隊と交戦、負傷する(4国艦隊下関砲撃事
 件)
  戊辰戦争に参加、
  明治維新後、ヨーロッパ諸国の軍制を視察し、
  1869年(明治2年、31歳)、西郷従道と共に渡欧、3年
 8ヶ月の見聞を広めて、帰国、兵部少輔となる。
  数日後、兵部大輔の前原一誠が辞任したため、実質上、
 明治新政府の軍部の兵部大輔就任が重なった。
  直ちに、国軍の創設に着手し、薩摩・長州・土佐の3
 藩の兵10000で親兵を組織した。
  続けて、東京、大阪、鎮西(小倉)、東北(仙台)の
 4鎮台を設置した。
  ヨーロッパで数百年かかった仕事を、兵権統一の大事
 業を一気に成し遂げた。
  そして、徴兵令施行・軍人勅諭の発布(1882年、明治
 15年)など軍制の整備に努めた。
  1872年(明治5年、34歳)、陸軍・海軍両省が設置され
 ると、陸軍大輔に任じられた。
  1873年(明治6年、35歳)、陸軍卿
  大村益次郎の後を継いで兵制を整え、
  1877年(明治10年、39歳)西南戦争の征討軍参謀とな
 る。
  1878年(明治11年、40歳)、初代・参謀本部長、
  1885年(明治18年、47歳)、初代・内相となり地方制
 度を整備。
  伊藤博文と共に明治政府の最高指導者となる。
  1889年(明治22年、51歳)、内閣の組閣をする。
  1898年(明治31年、60歳)、内閣を組閣、
  法相・内相・内務卿・枢密院議長・総理大臣などを歴
 任。
  元老としても活躍し、軍や警察・官政界に存在感を示
 した。
  1922年(大正11年)没する、85歳、
  言葉:私は一介の武弁(ぶべん、武士、武官)にすぎ
 ない
1872年4月14日(3月7日)特旨にて罪を赦す
  特旨(とくし、特別の考え)にて、榎本武揚の罪を赦
 す。
  1872年2月14日、黒田清隆(くろだきよたか)の助命
 運動により、この時、出獄した榎本武揚だった。
  この頃の黒田清隆は、北海道開拓使のトップであり、
 兼務して新政府の首脳だった(この後、総理大臣にもな
 る)。
  因みに、榎本武揚の助命嘆願のため、黒田は、剃髪(
 ていはつ、髪をそること)した。
  厳罰を求める者と、長い間、対立してまでもして助命
 を求めた。
1872年4月16日(3月9日)御親兵を廃して、近衛兵をおく
 (薩摩・長州・土佐の三藩の兵約1万)
  この時、「近衛条例」を制定して、御親兵掛を廃止し、
 「近衛局」を置いた。
  そして、4月24日(旧暦、3月17日)御親兵を改称した
 壮兵からなる「近衛兵」を創設した。
1872年4月19日(3月12日)東京・大阪・鎮西・東北の鎮台
 条例(ちんだいじょうれい)を定めた。
  1872年4月(3月)、東京鎮台条例、および、大阪・鎮
 西・東北鎮台条例が定められ、
  翌年・1873年9月(7月)2条例を統合して新しい鎮台条
 例に改正された。
  条例は、各鎮台を軍管(ぐんかん、軍隊における管轄
 区域)とし、外敵の防御に当たり,草賊(そうぞく、山
 野にひそむ盗賊)に備えることを任とした。
1872年5月4日(3月27日)高野山(金剛峯寺)の「女人禁制」
 が初めて解かれた。
1872年5月5日(3月28日)国旗(日章旗)の掲揚を令す
  太政官布達により、自今開港場県庁に国旗(日章旗)
 を掲揚すべしと令す。
1872年5月6日(3月29日)身体に入れ墨禁止の布告。
  太政官令により、入墨を禁ずる。
  また、裸体、混浴、春画を禁じた。
1872年5月8日(4月2日)日本初の近代的図書館「書籍館」
 が開館。
  文部省博物局が、東京・湯島の旧昌平坂学問所大成殿
 に「書籍館(しょじゃくかん)」を開館する。
  すべての人々が利用でき、あらゆる分野の蔵書をもつ
 近代的図書館の始まりとなった。
  国立国会図書館支部上野図書館の前身。
1872年5月11日(4月5日)女子の断髪を禁ず。
  女性の断髪が流行、なぜか禁止される・・
  断髪(だんぱつ)は、髪を切ること。長髪を短く刈っ
 たり、髷(まげ)を切り落としたりすること・・で、
  1871年9月23日(明治4年8月9日)に、散髪脱刀令(さ
 んぱつだっとうれい)が、太政官令によって出されたが
 ・・?
  「散髪制服略服脱刀随意ニ任セ礼服ノ節ハ帯刀セシム」
 ・・という令だった・・、
  そして、この散髪脱刀令は、髪型を自由にして構わな
 いという布告であったのだが・・、
  髷(まげ)を禁止して、散髪を強制する布告ではない
 のだが・・?
  しかし、この時・1872年5月11日(明治5年4月5日)に、
 東京府は、「女子断髪禁止令」を出した。
  これは、散髪脱刀令の趣旨を・・、
  「女子も散髪すべきである」と誤解した女性が、男性
 同様の短髪にすることが多かったためだった。
  非常に奇妙な事件であるが・・?、
  1873年4月(明治6年3月)に、敦賀県(現在の福井県嶺
 南)で、断髪令に反対する3万人が・・、
  『散髪・洋装の撤廃を要求した一揆』が発生した。
  この時、6人が騒乱罪で死刑となった、
  死人が出た。
  意外と・・この断髪令で、日本各地が・・揺れた。
  新潟では、捕亡吏(ほぼうり、警察官)が、いまだ髷
 を結っている者が居ると取締った。
  庶民は逃げて、捕亡吏に追いかけられた。
  また、庶民は、この頃、流行って来た帽子を被って、
 髷を、まだ、結っているのを隠したりした。
  捕亡吏も、令を間違えて解釈していて、『髷を結って
 いてはいけない』という令だと捉えていた。
  見つけ次第、連行するとかした。
  自治体によっては、県への訴願を認めないとか、髷を
 結ってる人を圧迫した、
  茶屋で髷を切られ、男が愚痴っている間に、女性は、
 どこかへ行ってしまった・・という話とか・・、
  鳥取県では、髷を切ってために、妻が離縁を申し出た
 とか、
  散髪奨励政策をする自治体とか、
  床屋を無税にするとか、
  日本中は、大騒ぎだったようだ・・、
  まあ、岩倉具視は、外遊先で笑われ、断髪したという。
 そして、断髪し、洋装したという・・、その様な、明治
 だった。
  すべて、西洋が良いのだ、笑われない様にしよう・と、
..
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2016年3月3日木曜日

(増補版)304E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年12月~1872年3月)

題:(増補版)304E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年12月~1872年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年12月14日(明治4年11月3日)高輪に屠牛場が許可
  本ブログに、1871年11月3日(明治4年9月21日)高輪に
 屠牛場を設置。
  「順立帳 明治4年ノ20,官途必携 巻之3」に、1871年
 11月3日(明治4年9月21日)に、高輪屠牛場設置とある・・
 と記したが、標記の日時の記事も見つけた。
  また、下記の記事も補強の意味で記す・・、
 (1)1867年(慶応3年)外国人に牛肉を供給していた中
  川嘉兵衛が、江戸荏原郡今里村(後の芝白金今里町、
  現在の白金台二丁目)に屠牛場(後の「東京共有屠牛
  場」)を設立。
  これが、江戸・東京における、最初の近代的屠場であ
 った。
 (2)1867年(慶応3年)高輪東禅寺にあったイギリス公
  使館出入業者・横浜元町の中川屋嘉兵衛が、武蔵国荏
  原郡今里村の名主・堀越藤吉の地所に屠場を開設した。
  当時の屠牛は穢れを祓うため、青竹を四角に立て御幣、
  注連縄(しめなわ)を渡した中に牛をつなぎ掛矢(大
  型の木槌)で頭部を一撃し、昏倒したところを、頚動
  脈を切って、失血死させたという。
  やがて、堀越藤吉自身も、今里にて施設の経営を始め
  た。
 (3)1868年(明治2年)築地の官営施設に統合されるが、
  ほどなく、同所は、廃止され、元の今里村に戻る(新
  修港区史には、官営施設は、1871年(明治4年)に、麻
  布本村町に移転とある)。
1871年12月25日(11月14日)九州の28県を11県と改める。
1871年、華族・士族に農・工・商の営業を許した。
  ここの基本に、「四民平等(しみんびょうどう)」の
 基本思想があった。
1871年3月8日、ドイツ新帝国誕生(初代帝位にヴィルヘル
 ム一世)
  1870年には、普仏戦争で、ナポレオン3世率いるフラン
 ス帝国を破ってパリへ入城し、そして、
  1871年1月18日に、ヴェルサイユ宮殿で、ドイツ諸侯に
 推戴される形でプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ
 皇帝となり、ここにドイツ帝国が成立した。
  1871年に、普仏(ふふつ)戦争の勝利の結果、成立した
 統一ドイツ国家。
  22の君主国と、3つの自由市からなる連邦制をとったが、
 プロイセンが名実ともに帝国を支配し、
  プロイセン国王が皇帝、プロイセン首相が宰相を兼ね
 た。
  この際に、長年、フランスとの間で帰属が変遷してい
 たエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)を
 獲得した。
  1918年、第一次世界大戦の敗北と、これと前後して起
 こったドイツ革命により崩壊。
1871年3月18日(1月28日)普仏戦争でパリ陥落し、フラン
 ス側より和を乞い休戦条約締結(これより日本はドイツ
 に注目する)
1871年、パリ=コンミューン。ドイツ統一が完成した。
  パリ=コンミューンは、1871年3月18日~5月28日まで
 の72日間存在した(パリ市の自治政権)
  普仏戦争敗北後、国防政府が社会主義者や民衆の武装
 を妨げ、また、対独屈辱外交を進めたので、これに不満
 をいだく労働者・社会主義者・小市民層が結集した。
  大革命の1792年のパリ市民のコミューン(自治組織)
 にちなんだ名称である。
  雑多な勢力からなり、一貫した方針に欠け、ドイツ軍
 の包囲下、政府軍の過激な弾圧で崩壊した。
  マルクスによって、最初の社会主義政権とされた。
1872年(明治4年~明治5年)物価:
  ・氷1貫目:4銭、
1872年、データ:
  ・日本の総人口:34,806,000人
  ・華族・士族:6%、平民:93%、その他:1%
  ・米のとれ高:3,162万石
  ・この年の新政府の役人の出身地、
  ・山口県:61人、東京府:55人、鹿児島県:53人、長崎
   県:51人、静岡県:47人、高知県:32人、その他:
   187人、計:486人
1872年、出来事
  ・戸籍簿が作成された
  ・紙幣発行(氷川清話)
  ・農民の商業の営業を許可した。田畑永代売買の禁を
   解いた。
  ・官営の富岡誓紙工場(群馬県)が出来、操業を開始
   した。
  ・第一国立銀行(清水喜助)
  ・東京~大阪間に電信が開通した。
  ・東京日日新聞が発刊された。
  ・東京で築地・銀座大火、銀座煉瓦街が計画される。
  ・東京銀座に赤煉瓦街が成った。
  ・庄屋と名主を廃した。
  ・全国の郵便。
1872年1月2日(明治4年11月22日)全国を3府72県と改める
1872年1月5日(11月25日)、府県学校が文部省管轄となる。
1872年1月9日(11月29日)、裸体の通行禁止に。
1872年1月(11月)、横浜に共同便所を設置。
1872年1月13日(明治4年12月4日)、河上彦齋(かわかみげ
 んさい)刑死(氷川清話)
  河上彦斉は、尊王攘夷派の熊本藩士、幕末の四大人斬
 りの一人とされる。
  明治維新の後も、攘夷を強固に主張しつづけたため、
 藩と新政府に危険視され、斬首された。
  佐久間象山を斬った人、理由は、象山が公武合体派で
 開国論者の重鎮だったから。
  高田(こうだ)源兵衛(のちに源兵)に改名し、その
 名前を用いるようになった。
  これは当時より、佐久間象山の息子で新選組隊士の佐
 久間恪二郎(三浦啓之助)が、彦斎の命を狙っていると
 噂されていたためだった。
  維新後、開国政策をとる新政府は、あくまでも攘夷を
 掲げる彦齋のような攘夷論者を疎ましく思った。
  大村益次郎暗殺事件に関与した大楽源太郎が、逃げて
 来たので匿った。
  そのために翌年・1870年(明治3年)、熊本に戻った際
 に二卿事件への関与が疑われた。
  続いて参議・広沢真臣暗殺事件の疑いもかけられて、
 藩獄に繋がれ、次いで江戸送りとなった。
  そして、1872年1月13日(明治4年12月4日)、日本橋
 小伝馬町にて斬首された。
1872年1月14日(12月日5)新聞紙の定額郵送始まる。
1872年1月26日(12月17日)官吏、靴履のまま上庁を許され
 る。
1872年1月27日(12月18日)華士族も農工商業を営むを許さ
 れる。
  華士族・卒の職業選択自由の許可。
1872年1月(明治4年12月)、新貨幣発行(氷川清話)
  1871年1月2日(明治3年11月12日)、太政官裁定におい
 て、一圓銀貨を本位貨幣、金貨その他を補助貨幣とする
 案がまとめられ、
  貨幣の品位、および、量目が定められた。
  1871年1月17日(明治3年11月27日)には、大阪に設置
 された造幣寮が新貨幣の鋳造を開始し、稼働を始めた。
  1871年4月4日(明治4年2月15日)には、創業式を挙行
 され、
  最新式の鋳造機を香港から購入し、贋造が難しい近代
 的な貨幣鋳造が開始された。
  本位貨幣として金貨5種(20円、10円、5円、2円、1円)、
 銀貨1種(1円)、補助貨幣として、銀貨4種(50銭、20銭、
 10銭、5銭)、銅貨4種(2銭、1銭、半銭、1厘)が発行さ
 れた。
  1871年6月27日(明治4年5月10日)新貨条令が、太政官
 より布告された。
  1872年1月(明治4年12月)より、旧貨幣(万延二分判・
 一分銀・寛永通寳・天保通寳など)と、新銭貨との交換
 が行われた。
  紙幣は、明治通宝が額面9種(100円、50円、10円、5円、
 2円、1円、半円、20銭、10銭)で発行された(後に、旧
 藩札や太政官札と交換されることになった)。
  この時、海外に大量の金が流出していたため、日本は、
 金不足に陥(おちい)っていた。
  1872年5月7日(明治5年4月1日)より、旧藩札・太政官
 札・民部省札と、新紙幣(明治通宝)の交換が開始され、
  1879年(明治12年)までに、ほぼ回収が終了した。
1872年1月(明治4年12月)長崎~東京で郵便業務が開始さ
 れる。
  190時間の長崎~東京を、95時間にすることが、ひとつ
 の目標とした。
1872年2月4日(12月26日)東京裁判所設置(裁判の始まり)
  司法機関として最初の東京裁判所が設置された。
1872年2月5日(12月27日)ドイツにて印刷された新紙幣が、
 発行された。
1872年2月10日(明治5年1月2日)外国公使(英・米・独・
 仏・伊・西・蘭)参内し、新年の賀詞を述べる(外国大
 使参内拝賀の恒例となる)
1872年2月12日(1月4日)軍人勅諭が下賜された。
1872年2月14日(1月6日)榎本武揚が、函館戦争の罪により
 入獄中、黒田清隆の助命運動により出獄した。
1872年2月16日(1月8日)明治天皇陛下が、日比谷門外の操
 練場での行軍式を御閲兵された。
1872年2月28日(1月20日)官制改革により、勅任官・判任
 官・奏任官に新制度定める。
1872年2月、福沢諭吉の「学問のすすめ」の初編が出版され
 た。
  明治の出版文化は、福沢諭吉から始まったといわれる。
  福沢は、著者兼出版者であり、しかも、印刷・製本・
 販売までの出版活動をした。
  福沢本があまりに売れるので、書林組合(書物問屋、
 本屋仲間)からクレームがついた。
  そのため、仲間に入っていなかった福沢は、 東京書物
 問屋仲間に加入した。
1872年2月(明治5年1月)火消し、いろは組が廃止された。
1872年3月4日(1月25日)岩倉大使が、グラント米大統領に
 会見した。
  翌日の1872年3月5日(1月26日)全権の岩倉具視は、
 アメリカに国書を手交した。
1872年3月8日(1月29日)卒身分の廃止。
1872年3月8日(1月29日)初の全国戸籍調査が行われた。
  総人口は3311万825人 (3311万796人説あり)
  明治政府が人口調査を行ない、総人口3311万796人と
 判明。
  長崎の場合、戸籍法に基づき長崎総町を17区に分割し、
 各区に町年寄1人を置いて戸長を兼任した。
.
  そして、今日の言葉・・、
.
  「武士は、食わねど高楊枝」
  腹が減った武士、
  だがしかし、物を食った様な顔をして、高楊枝を口に
 くわえ、ひょーひょーと、懐手(ふところで)をして、
 歩き去って行った、
  その様な・・腹の減った武士が居た、
  そこには・・餓鬼界を脱却した武士の姿があった。
  刀を二本、腰に差し、その刀の存在を・・その武士は
 超越していた。
  当然のごとくに・・。
  それは・・仏教の教えるところだった。
  決して、そこには・・、
  キリスト教の説く「(キリスト教の)神の義があれば、
 人を誅してよい」という様な考えはない。
  キリスト教の神の義があれば・・と、
  キリスト教の神は許す・・だから・・、
  腹が減った時の発想として・・
  隣国の富を奪いに行っても・・神の義が良いと教える・・、
  もしかすると・・目の前の人間の富をも・・、奪いに
 行っても良い・・とも・・
  (キリスト教の)神の義があれば・・、
  戦いに当然なるだろう・・、
  その場合・・、その人間を誅しても良いと説き、教え
 マインド・コントロールされている。
  「我々は選民なのだ」という教えもあり・・その行動
 を肯定的に判断するのに・・加わる・・、
  卑劣な戦いを促した・・キリスト教の考え方・教え・
 教義だ。
  異教徒だから良いのだ・・、「異教徒は殺せ」のキリ
 スト教教義もある。・・ひどい話だ。
..
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2016年2月29日月曜日

臨時ブログ:鉄塔の話・・鉄塔が危ない。 (震度8の地震は起きていた)

臨時ブログ:鉄塔の話・・鉄塔が危ない。 (震度8の地震は起きていた)
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  鉄塔の話・・鉄塔が危ない。
  国や地方自治体の公的機関が作ったグランドの鉄塔。
  子供たちが、そして、若者たちが、スポーツに励(は
 げ)むグランドに立つ鉄塔。
  鉄塔は、暗くなると、綺麗(きれい)なカクテル光線
 を、その若者たちへ、子供たちへ投げかけた。
  グランドの芝が美しく映(は)える中を、子供たちは、
 カクテル光線の中を、楽しそうに走り回り、
  そして、若者たち・青年たちは、汗まみれになり体を
 鍛えていた。
  どこの鉄塔だったか? 失念したが・・、
  その鉄塔の根元が、錆び、そして、穴が開いていた。
  断面欠損である。
  構造部の断面が、『欠損している』のである。
  当然、構造耐力は失われている、減退している。
  あの忌(い)まわしい東日本大震災は、悲しくも、多
 くの亡くなられた方々が生まれてしまいました。
  悲しみの日々を、生んでしまいました。
  その大震災は、「千年に一度だった」と言われた。
  千年に一度に起きる規模だと言われた。
  「千年に一度」起きる自然エネルギーの規模だと、大
 きさだと言われた。
  その様な、自然の『破壊エネルギー』が、日本人が、
 営々と築いてきた諸施設へ与えられることとなった。
  気象に関する放送で、「19○○年以来の雨でした」・・
 とか、風でした・・とかという説明を、時々、聞きます
 が・・、
  自然は、その自然の現象の規模は、そして、そこから
 起こる破壊エネルギーは・・、
  そして、その破壊エネルギーで起こされてしまう災害
 は、10年とか、30年とか、50年とか、100年とか、1000年
 とかと、
  年数が長くなれば、当然、そのエネルギーが「より大
 きな自然現象」が起きていることになる。
  その災害規模は、災害を起こす自然の猛威は、だんだ
 ん大きなクラス・猛威の程度となる。
  これ以上の強い猛威はないと言えない気持ちになる。
  いくらでも大きな破壊エネルギーが与えられてしまう
 という気持ちになる。
  阪神・淡路大震災も、大変、忌まわしい出来事でした
 が、
  あの時、建築界に、土木界に、建設に携わる人々を、
 大変、驚かす出来事が起きていた。
  それは、これ以上の大きな大きさの地震は起きないだ
 ろうと言われた以上の地震が、
  「起きていたらしかった?」からだった。
  「らしかった」といった理由は、その大きさを計る地
 震計が無かったからだった。
  これ以上の大きな大きさの地震は起きないと思ってい
 たので、
  誰も、その超巨大な地震規模を計測する計器を設置し
 ていなかった。
  果たして・・?
  阪神・淡路大震災の地震の大きさは?
  その規模は「いくら」だったのか?
  「どのくらい」だったのか?・・という話となった。
  設置されて無いほど大きいスケールの、大きさの規模
 の地震は、
  設置した計器の、計測範囲以上の地震エネルギーだっ
 たので、地震計の針は、みな、振り切っていた。
  だから、地震の規模を・・計測できないでいた。
  その為、その地震は、超巨大な事だとは、その様な規
 模だとは分かるが、
  その地震エネルギーは「測れないくらいに大きかった」
 という事だけは分かったが・・、
  「このような大きさでした」という確定した規模の数
 値はつかめない、不明の状態だった。
  ここで、これを、「不明だった」「不明でした」と済
 ます訳には行きません。
  それは、大切な国民の方々を守るために、是非とも、
 その数値を知る必要があるからです。
  つまり、従来の地震エネルギーは、この数値で設計す
 れば「オーケー」になります・・だった。
  その数値ならば、地震エネルギーの破壊エネルギーに
 対し「クリアーします」というその数値が、否定されて
 いるのです。
  新しい数値を、是非、知る必要が、必要性が、絶対、
 あるのです。
  ならば、「新しい設定し直すべき数値は?」となりま
 す。
  それで、安全な設計をしなければならない・・という
 事になります。
  だから、知りたい「その数値は、いくつなのか?」で
 す。地震計は振り切っているし・・、
  探しました。その数値を知るために・・。
  しかし、驚くなかれ、日本には、その様な方が居られ
 ました。
  まったく、素晴らしい事です。
  皆が言う事に、疑問を持った方が、居られました。
  とてつもなく「ごつい」地震計を作り、設置していた
 方が居られたのです。
  その計器は、その他の計器が、みな振り切って分から
 なかった数値を、しっかり計測していました。
  その事によって、今までの「常識を破る数値」を知る
 事になったのです。
  皆、びっくりしました。
  「あったのかー」という気持ちでした。
  「起きていたのかー」という気持ちです。
  今までの常識が、打ち破られた時でした。
  「今までの数値ではだめ」と確認した一瞬でした。
  (震度8の地震は起きていた)
  この様に、自然界は、この自然エネルギーも含め、そ
 の数値は、その現象は、観測期間を越えて来ます、襲っ
 て来ます。
  ここで、標記の子供たちを照らす、青年たちを照らす
 鉄塔に話を戻しますと・・、
  その様な、自然界の中に住む私たちだからこそ・・、
  その様なこともあって、だから、なおさら・・、
  その様な備えをしてなければならない・・と・・教え
 られて居ります。
  つまり、「断面欠損した鉄塔を、そのまま放置すると
 いう話は・・論外なのです」。
  「放置の話」は論外です。
  申し上げたいことは、この様な類いの鉄塔が多いとい
 う『日本の現状・状態だ』という事です。
  日本の公的機関の社会資本、この鉄塔の様に、建物・
 橋・高速道路・トンネル・・などなどのメンテナンスが、
 まったく不十分です。
  「フォロー」がなっていません、成立していません。
  「社会資本メンテナンス庁」を作って戴きたいのです。
  腰を据えて、しなければなりません。
  今、しなければなりません。
  「社会資本メンテナンス庁」を作らねばなりません。
  国民の皆様のリスクを少なくすることに、邁進しなけ
 ればなりません。
  鉄塔は倒れます。
  倒れてから、そして、気づくという・・日本となって
 います。
  トンネルの壁は剥がれ落ち、そして、天井版も落ちま
 した。
  橋は、アメリカで起きたように、橋の崩壊が起きます。
  などなど・・が、起きます。
  この鉄塔の場合、何故、この部位に穴が開いたか?と
 いうと・・、
  雨の日に、木を見ればわかります。
  雨の水は、枝を伝い流れ落ちます、そして、幹を伝わ
 って下へ落ちて来ます。
  鉄塔も同じです。
  雨の日に、鉄塔に当たった雨粒は、鉄塔の表面を流れ
 落ち、最下部の基礎の所に来ます。
  この基礎の所に、水は溜まります。
  鉄塔の他の部分は、雨が止んで、すぐ乾いても、鉄塔
 の表面を伝い、流れ落ちる水は、少なくなりながらも流
 れ落ち続けて、最下部に供給され、その最下部にその水
 は溜まり、何時までも、水のある状態中に、その鉄塔の
 鉄部は、浸される状態にある・・劣化環境にあるとなり
 ます。
  つまり、この鉄塔の最下部が、この水により、「より
 劣化が進むのです」。
  この鉄塔最下部の塗膜は、早く劣化し、剥がれ、水は
 鉄部に達し、鉄部に錆が発生し、錆による浸食によって、
 鉄塔に穴が開いて行くのです。
  常に、この最下部だけでも、メンテナンスの塗装の補
 強塗りをすれば、永久に鉄は、錆びを発生しない状態に
 保てるのです。
  いつまでも、この鉄塔は使って行けるのです。
  この穴の開いた鉄塔も、壊して、撤去して、新しい鉄
 塔に作り直すことをしてはいけません。
  こんなことをしていたら、税金がいくらあっても足り
 ません。
  丁寧に、溶接で修理しなさい。
  補強の鉄板も溶接しなさい。
  そして、丁寧な塗装をし直しなさい。
  そして、しっかりメンテナンスをして行けば、永久に
 何でも使用して行けます。
  ほっておいたら、何でも壊れます。
  国民の皆様のリスクは増大するし、税金はいくらあっ
 ても足りません。
  この鉄塔の最下部の基礎を、平(たいら)に仕上げる
 のではなく、斜めに、水勾配を付けて、水を溜まりにく
 くするなど、改善すべき方法は、いくらでもあります。
  庇状のものを事前につけて、最弱点部に水が行かない
 様に、溜まらない様にするなど・・など・・、
  工夫はいくらでもあります。 
  税金を大切に。
 (追伸):
  阪神・淡路大震災で、地震規模の大きさが、従来より
 大きいと判明し、知った日本の技術者の方々は、高速道
 路の補強などを行なっていった。
  しかし、設立が望まれている『社会資本メンテナンス
 庁』は、社会資本のメンテナンスだけでなく、
  この阪神・淡路大震災で対応した如くの行為の対応の
 範囲だけでなく、
  他の社会資本にも、そして、その他の事項についても
 必要な箇所はないかの「十分なる点検」をして行って戴
 きたい。
  また、この庁が、イニシアチブを取って、大学研究室
 などの参画を依頼し、しっかり点検・研究なども行って
 行って戴きたい。
  また、この庁は、民間施設の十分なる指導をも、行っ
 ていって戴きたい。
..
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2016年2月28日日曜日

(増補版)303E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年11月~1871年12月)

題:(増補版)303E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年11月~1871年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1871年11月3日(明治4年9月21日)高輪に屠牛場を設置。
  「順立帳 明治4年ノ20,官途必携 巻之3」に、
  1871年11月3日(明治4年9月21日)に、高輪屠牛場設置
 とある。
  仮名垣魯文は、この年に出版した『安愚楽鍋』で・・、
 肉食を賛辞し、以下のように書いている・・、
  「士農工商老若男女、腎愚貧福おしなべて、牛鍋食は
 ねば開化不進奴」・・と、
  文明開化にあこがれる人々は、牛肉食をあたかもその
 象徴のように信じて食べている・・と、
  牛肉は旨かったのだろうが・・、
 こんなところにも、西洋崇拝の、当時の、盲目的追従の
 姿が記されている。
  そして、魯迅は書く・・、
  「一度箸を入るれば、鳴呼、美なる哉、牛肉の味はひ
 と、叫ばざるもの殆ど希なり候」・・と、
  味噌を入れ、葱(ねぎ)を入れ食べたが・・、
 異臭だと感じたらしく・・
 (現代人は涎・よだれが出るのだろうが?)、
  山椒を投ずれば、臭気を消す・・と、記している。
1871年11月13日(10月1日)東京湯島の大成殿にて、最初の
 博覧会開かれた。
  別の説では・・下記の記述がある、
  京都では、日本最初の博覧会が、明治4(1871)年、西本
 願寺で行われた。
  また、別史料では・・、
  近代日本では、新しい文明の成果や他国の文化を人々
 に伝える啓蒙的な役割を果たすことで、
  1871年(明治4年)5月の九段下の西洋医学所薬草園に
 て行われた大学南校主催の物産会(当初、博覧会の名で
 企画されたが、直前に物産会に名称変更)や、
  10月の京都の西本願寺で開催された京都博覧会(京都
 博覧会社主催)が、国内の博覧会、最初期のものである
 ・・と。
1871年11月14日、第1次府県統合が実施される。
  全国で、それまでの3府302県が、3府72県に統合さ
 れた。(75府県になったという説もある)
  因みに、第2次府県統合は、1876年4月18日と8月21日の
 2度に渡って行われ、府県が38までになっている。
  そして、1888年に、8つの県が復活し45府県となった。
  因みに、この時、復活した県は、宮崎県、佐賀県、香
 川県、徳島県、鳥取県、奈良県、福井県、富山県。
  これで、ほぼ現在と同じ姿となった。
  そして、1890年に、府県制の法律が制定・公布され、
  1899年に、法律改正され、
  1900年までに、全府県で府県制が施行された。
1871年11月20日(10月8日)欧米派遣の特命全権大使、決定
  岩倉具視(いわくらともみ、公家、政治家)を右大臣
 に任じ、
  そして、特命全権大使として欧米各国派遣が命じられ
 た。
  また、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚文を、
 副使に任命した。
1871年11月30日(10月18日)伊予国佐田岬に、燈台竣工す。
1871年11月、鍋島閑叟(なべしまかんそう、直正、佐賀藩
 主)逝去(氷川清話)
  藩政を改革し、殖産興業政策を推進した名君。
  佐賀藩は、前代藩主の放漫財政によって、藩財政は、
 破綻寸前で、
  藩財政は窮乏、郷村の疲弊は著しかった。
  閑叟は、改革派の側近を置き、藩政改革に着手、
  郷村の復興と、農商分離の政策を行なった。
  特に、目覚ましいのは、均田制度と称された土地分給
 政策で、
  本百姓の維持政策をとり、農商分離の徹底を目指した。
  また、陶器、櫨蝋(はぜろう)、紙の開発や石炭の増
 産を行ない、財政を潤した。
  また、商人の郷村での、土地保有を徹底的に排除し、
 改革を推進した。
  長崎警備の任についていて、西洋技術の優秀性を良く
 知って、早くから洋式兵備を採用し、大砲などの近代的
 兵器を備え、強力な軍備を整えた。
  そして、西洋文明を積極的に採用し、軍備近代化(大
 量の銃砲を購入し、西洋艦船の製造・購入に努めた)、
  そして、1852年に、我が国、初めての反射炉建設を成
 功させ、
  蘭学奨励・種痘などを行った。
  幕末には、薩長土肥と言われる実力を持つ雄藩となっ
 た。
  戊辰戦争の時は、その強力な軍事力によって官軍の重
 き位置を示した。
  大隈重信、江藤新平らの藩の実力者を、新政府に送り
 込み、そして、
  明治維新後、議定・軍防事務局輔・上局議長・開拓使
 長官などを歴任した。
1871年12月2日(10月20日)伊万里の深川長右衛門、同地
 より佐賀まで、私設電話架設を出願許可される。
  幕末の1867年に、国際博覧会のパリ万博に、幕府の出
 品参加の要請に応じたのは、薩摩藩と佐賀藩だけだった。
  この時、深川長右衛門は、佐賀藩からフランスへ行っ
 ている人間の一人となっている。
1871年12月5日(10月23日)東京で邏卒(らそつ、巡査の旧
 称)3,000人を新採用し、置いた(⇒1874・1・15東京警
 視庁)
  明治という時代になって、東京府の治安維持にあたっ
 た府兵は、諸藩から選抜された藩兵であった。
  しかし、いちじるしく統制に欠け、
  そして、その上、1871年8月の廃藩置県で廃止せざるを
 得なくなった。
  そこで、欧米のポリスを模範に、邏卒をおくこととし
 た。
  取締組を編成し、邏卒総長には、川路利良(かわじと
 しよし)が任じられた。
  この3分の2にあたる2000名が、鹿児島県士族であった。
  そして、帯刀を禁じて、3尺棒を持たせた。
1871年12月8日(10月28日)大阪日報(浪華要報)の創刊、
  この頃、府県庁支援の新聞が、次々と刊行された。
  1872年1月(明治4年12月)に、廃刊となった。
  その後、『大阪新聞』が、1872年4月(明治5年3月)創
 刊され、
  1875年5月(明治8年4月)に廃刊した。
  この新聞は、大阪府の援助で出した半官半民の新聞で、
 官衙町村役場等で購読された。
  そして、その後、『浪花新聞』が、1876年1月(明治8
 年12月)に創刊され、
  1877年12月(明治10年11月)に廃刊した。
  この新聞は、大衆層を対象とする、ふり仮名付き口語
 文の称新聞だった。
  街頭で呼び売りを行なって、人気を博した。
  そして、『大坂日報』が、1876年3月(明治9年2月)に
 創刊され、
  1882年3月(明治15年1月)に休刊した。
  この新聞は、大阪裁判所の判事グループが発起、推進
 した政論中心の大新聞で、社説入りでふり仮名はなし。
  この新聞が、紆余曲折を経て、後に、大阪毎日新聞と
 なった。
1871年12月15日(11月4日)最初の停車場の新橋駅が、落成
 した。
  明治5年4月(1872年5月)新橋停車場本屋が落成し、明
 治5年6月(1872年7月)、乗降場落成の説もある。
  開業は、1872年10月14日(明治5年9月12日)、
  初代の新橋駅は、今の汐留駅(しおどめえき)。
  横浜停車場と同型で、
  米国建築技師のリチャード・ブリジンスの設計、
  煉瓦造二層の洋館(木造石張り2階建ての説がある)
1871年12月18日(11月7日)漂流していた琉球漁民のうち、
 54名が、台湾原住民に殺害された。
1871年12月20日(11月9日)大臣・参議が、岩倉邸で、朝鮮
 問題の着手順序について協議した。
1871年、こじれる朝鮮への外交権(日本の国書の受取拒否)
  昔も今も、難しい国・朝鮮・・、
  1867年に、釜山倭館へ行って、対馬藩の家老は、明治
 新政府が、成立したことを、大院君政権へ伝えた。
  しかし、朝鮮側は、日本の新しい主権者が「皇上」と
 名乗っていることを理由に、国書の受け取りを拒否した。
  そして、この年・1871年、江戸時代以来、対馬藩にゆ
 だねていた対朝鮮の外交権を、日本外務省へ移管した。
  この時も、朝鮮は、日本の国書の受け取りを拒否した。
  かたくなな朝鮮だった。
  1872年に、外務丞・花房義質が、釜山へ行き、草梁倭
 館を接収して、大日本公館と改称した。
  これに対して、大院君政権は、強硬に退去を要求した。
  そのため、日朝間の外交問題に発展し、日本で征韓論
 が台頭する一因となった。
  その後、1875年の江華島事件を経て、翌年・1876年、
 日朝修好条規が締結され、
  日本外交使節は、ソウルに駐在となった。
  ここにおいて、釜山の倭館は、200年の歴史を閉じるこ
 とになった。
  因みに、江華島事件(こうかとうじけん、カンファド
 じけん)は、日本と朝鮮の間で起こった武力衝突で、
  朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦・雲揚号が、江華
 島、永宗島砲台と交戦状態となった。
  明治新政府が成立した日本は・・、
  1868年(明治元年)12月19日に、新政権の樹立の通告
 と、条約に基礎づけられた近代的な国際関係の樹立を求
 める国書を持つ使者を、かねてから日本と国交のあった
 李氏朝鮮政府に送った。
  しかし、大院君のもとで、攘夷を掲げる朝鮮政府は、
 西洋化を進める明治政府を訝(いぶか、不審の目で)し
 み、
  冊封体制下では、中華王朝の皇帝にのみ許される称号
 である「皇」を、
  また、中華皇帝の詔勅を意味する「勅」の文字が入っ
 ている・・などと、理由にして、
  日本からの国書の受け取りを拒否した。
  日本は、その後、何度も国書を送ったが、
  朝鮮側は、その都度、何らかの理由を付けて、受取り
 を拒否した(書契問題)。
  早期の問題解決を望んだ明治政府は、
  対馬藩が間に入らないで、直接、話し合った方が問題
 解決するとして、外交権を政府の元に置いた。
  そして、明治政府の外交官が派遣されたが、まったく
 なすすべがなく、
  この時の外交官の佐田白茅は、帰国ののち、1870年に、
 「30大隊をもって朝鮮を攻撃すべきだ」という征韓の建
 白書を提出したくらいだった。
  この時点で、局面打開をしようとする外務省は、朝鮮、
 および、清国への担当者派遣など、複数の手立てを講じ
 た。
  そして、日清修好条規が、1871年9月13日に、締結され
 るに及んだ(この時は、朝鮮との条約締結に至らなかっ
 た)
  ここに、状況をさらに複雑にする話がある。
  アメリカと朝鮮との関係である。
  1871年4月に、アメリカ艦隊が、江華島を占領した。
  これを、朝鮮は奪還しようとした(辛未洋擾・しんみ
 ようじょう)。
  この発端のところに・・、
  1866年に、アメリカの武装商船のジェネラル・シャー
 マン号が、朝鮮住民を殺害し、略奪行為をした事件があ
 った。
  この時、朝鮮は、報復として焼き討ちをして撃退した
 事件だった。
  アメリカは、通商を求めに行ったのだと言い、朝鮮は、
 難破船なので処理しようとしたと言った。
  また、朝鮮は、慣例によって、薪・水を支給した上で
 退去を命じる方針であったと言った。
  そして、朝鮮は、問題解決のための朝鮮側の使者の乗
 った船を転覆させられたと言い、
  使者を捕縛されたと言った。
  そして、朝鮮領の住民が、砲撃を加えられ、死者が出
 たと言った。
  それ故、これに激怒した住民が、シャーマン号へ攻撃
 を開始したのだと言った。
  数日間の戦闘の後、アメリカのシャーマン号は座礁し
 た。
  ここで、朝鮮は、シャーマン号を襲い、焼き討ちにし、
 乗組員を殺害した。
  アメリカは、1871年に、この事件の謝罪と、通商を求
 めた、そして、
  アメリカのアジア艦隊に命じ、朝鮮を攻撃した。
  こんな辛未洋擾(しんみようじょう)がある中、日本
 は、朝鮮と問題解決の努力をしていた。
  朝鮮が、攘夷の意思を強めていたこともあって、交渉
 は進展しなかった。
  こんな経緯の中、1871年、岩倉使節団が、西欧に派遣
 されることとなり、国政・外交に関する重要な案件は、
 1873年まで、事実上の棚上げとなった。
  しかし、留守の政府は、事態を打開しようと動いた。
  日本は、会見を求めた、
  朝鮮の地方外交官は、倭館を大日本公館と改名したこ
 とに激怒した(書類上の問題)。
  貿易などすべてがストップした。
  この様な事、そして、国書などの拒絶による交渉の行
 き詰まり、その交渉の中にある日本への侮辱行為などな
 ど、
  ものごとはスムース(滑らかに、順調に)に進まなか
 った。
  この国は、昔から難しかった。
  この国は、必ずしも、アメリカとも、うまくは行って
 なかった。
  中国とは、冊封(さくほう)体制の関係から、中国を
 「天子」とし、朝鮮の長と取り結ぶ君臣関係(宗主国と
 朝貢国の関係)で、波風は立ってない様にして経過して
 いた。
1871年12月23日(11月12日)岩倉使節団が、欧米へ。
  近代日本を作るための視察と、実情調査とも言える。
  この行動、直に西洋文明に触れるという体験は、非常
 に貴重な体験を与え、影響は大きかった。
  また、この時に同行した留学生たちも、帰国後、日本
 の構築に大きく貢献した。
  使節団は、この日、アメリカ船「アメリカ号」で横浜
 港を出航し、
  一路、サンフランシスコへ向かった。(~1873年まで)
  その後、アメリカ大陸を横断し、ワシントンD.Cを訪問
 し、
  アメリカに約8ヶ月という長期滞在となった。
  その後、大西洋を渡り、イギリス → フランス →
 ベルギー、オランダ、ドイツ → ロシア → デンマ
 ーク、スエーデン、イタリア、オーストリア(ウィーン
 万国博覧会視察)、スイス・・の12カ国。
  帰途、ヨーロッパ諸国の植民地であるセイロン、シン
 ガポール、サイゴン、香港、上海などの実状も見た。
  そして、出発後の約1年10ヶ月後、1973年11月2日に、
 横浜港に帰着した。
  留守政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論が争われていて、
 使節団の帰国後の明治六年政変へとなった。
  使節団の構成は、使節46名、随員18名、留学生43名の
 計107名だった。
  使節は薩長が中心で、
  書記官などは、旧幕臣から選ばれていた。
  特命全権大使:岩倉具視、副使:木戸孝允(桂小五郎)、
 大久保利通、伊藤博文、山口尚芳をはじめ、明治政府の
 中心人物たちで構成され、
  目的は・・
  1.条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出
   する。
  2.江戸時代後期に、諸外国と結ばれた不平等条約を改
   正する(条約改正)ための予備交渉
  3.西洋文明の調査
  使節団の主目的は友好親善、および、欧米先進国の文
 物視察と調査であったが、
  各国を訪れた際に、条約改正を打診する副次的使命を
 担っていた。
  明治政府は、旧幕府と締約された各種条約を、新政府
 のものとに置き換えるべく、明治初年度から順次交渉を
 続けていたが、
  1872年7月1日(明治5年6月26日)をもって、欧米十五
 カ国との修好条約が改訂の時期をむかえ、以降、1ヵ年
 の通告をもって、条約を改正しうる取り決めであったの
 で、
  明治政府は、この好機を捕えて、不平等条約の改正を
 図ったのだった。
  岩倉大使、欧米に出発(氷川清話)
  対外関係の実務は、幕府の方が経験豊富なため、登用
 されていた。
  江戸から東京になったからといって、過去の価値(幕
 府の経験)が、弊覆(へいり、惜しげもなく棄てる)の
 如く捨て去られた訳ではなかった。その様な日本だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive