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2015年7月30日木曜日

(増補版)169D1/3:気になった事柄を集めた年表(1744年~1745年)

題:(増補版)169D1/3:気になった事柄を集めた年表(1744年~1745年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1745年、伊能忠敬(いのうただたか、測量家、商人)が生
 まれた(1745年~1818年)
  蝦夷(えぞ)、後に、日本全国の実地測量を行い、日
 本最初の実測地図を作製した。
  1795年の隠居(50歳)の翌年に、江戸へ出て、幕府天
 文方の高橋至時(たかはしよしとき)に師事した。
  1800年に、至時の推挙で幕府から奥州道中と蝦夷地の
 東南沿岸の測量を任される。
  その後、1816年まで、日本全国の測量を行なった。
  そして、この17年間の実測をもとに「大日本沿海輿地
 (よち)全図」(伊能図)を作成中、1818年4月18日に、
 没した。
  高橋至時は、天文暦学者で、大阪の定番同心(じょう
 ばん、城番ともいい、大阪城に在勤して警備した人の下
 の同心)の家職を継ぎ、1781年~1788年頃に、麻田剛立
 に天文暦学を学んだ。
  1795年に、幕府天文方に登用された。
1745年9月、徳川吉宗が引退し、子(長男)の徳川家重(い
 えしげ)が、9代将軍になった(1712年~1761年、将軍
 期間:1745年~1760年)
  生来虚弱なため吉宗が後見したが、後に、大岡忠光が
 側用人として活躍した。
  幕政は、表面的には安定した時期であった。
  父・吉宗が、紀州家から将軍家を継ぐのに伴い江戸城
 に移り、世嗣(せいし、よつぎ、跡目を相続すること)
 となり、室鳩巣らの教育を受けた。
  大岡忠光(おおおかただみつ)は、1724年に、12歳の
 家重の小姓となり、病弱で言語不明瞭な家重の意思を理
 解する唯一の側近だった。
  性格が恭謙(きょうけん、慎み深く、へりくだること)
 だったので、驕る(おごる、思い上がる)ことはなかっ
 たという。
1745年、江戸大火(六道火事)
  千駄ヶ谷出火、青山・麻布・白金・高輪・品川へ延焼。
  死者数:1323人、焼失:28678軒
1745年、世論:年貢増徴政策への反省
  農民からの年貢の増徴政策への反対が強まった。
  享保の改革は、目安箱を設置したりして、下層民の言
 葉を聞いたりして、貧民・病人の救済策を行なったり(
 小石川養生所)していたが、また、それを諸藩も行うよ
 うに指導したりしていたが、
  そして、私娼や賭け事、心中などの風紀の健全化にも
 努めていたが、また、さつまいもなど飢饉対策にも努め
 てもいたが、また、朝鮮人参などの薬草栽培の奨励、菜
 種油・桃・サクラの商品作物も奨励し、植林もして、収
 入の多面化をしたり、環境整備をしたり、新田も一生懸
 命に開発していたが、そして、治水も一生懸命したりし
 ていたが、また、孝行者や善行者を褒章したり、日本の
 測量をして絵図を作成したり、人口調査して国の実態把
 握に努めたりして、外国からの書の輸入に努め、国民教
 育に努めたりしていたが、そして、倹約をするように指
 導したり、また、農政の安定化をしたいと年貢の強化を
 した。
  この最後の政策に、庶民は不満を持った。
1745年、人事:松平乗邑(のりむら、のりさと)が、家重
 が将軍に就任すると、直後に老中を罷免され、加増され
 た1万石を没収され、蟄居(ちっきょ、家の中に閉じこ
 もって外出しないこと)を命ぜられた。
  将軍に家重以外を推挙したため。
1745年、施策:江戸市中の寺社門前地を町奉行支配下へ組
 み込まれた。
  江戸の市中の治安を、一括して町奉行が統轄するため
 だった。
1745年、事件:加賀騒動
  加賀騒動は、悪役の代表となっている大槻伝蔵が、藩
 主・前田吉徳(六代藩主)の寵を得て、
  1716年に、10俵3人扶持の下っ端(したっぱ)から近習
 に取り立てられた。
  そして、1743年には、3800石の重臣にまで栄達した。
  そこで、前田家譜代の重臣たちの反感を買って、
  藩内は、2派に分かれて対立した
  大槻一派は、家老・前田直躬と対立した。
  吉徳の側室が、大槻一派と結んで、我が子を世継にし
 ようとした・・が、
  やがて1745年に、藩主・吉徳が死しんで・・後に、権
 勢を失って没落した。
  吉徳の前代、前田綱紀(加賀藩五代藩主)の改革でか
 なり豊かであった加賀藩財政も、この騒動ですっかり崩
 れた。その後の回復はなかった。
1745年、イギリスで、ジャコバイトの反乱が起きた。
  翌年の1746年頃まで、乱れた社会は続いた。
  ジャコバイトとは、名誉革命で亡命した国王・ジェー
 ムズ2世と、その子孫を、「正統のイギリス君主だ」とし
 て支持した人々の事を言い、キリスト教カトリックであ
 った(また、保守的性向の強い層のイギリス国教会)。
  そして、アイルランドや、スコットランド地方に根強
 かった。
  ジェームス2世は、悪事も極まっていたので、名誉革命
 の時は、君主側に立つ人もなく、退位を強制されたくら
 いで、味方する者なく、やむなくフランスに亡命した。
  そのくらいの状態で、だから血も流れずに、ジェーム
 ズ2世はイギリスを逃げ出した。
  その無血をもって、無血だから名誉革命だと言うのは
 おかしい(まったく逆の不名誉な話なのに・・)。
  そしてまた、この君主の不名誉なところは、何度も、
 なんだかんだとフランスの応援を得て、恨みを張らす的
 な行動をする。
  この後に、この元君主・ジェームズ2世は、フランスの
 後押しで、イギリスの地の、北の遠い地に、借りた軍を
 上陸させて、汚名を晴らそうとする。
  この様なふがいない君主だった。
  そして、この時もまた、フランス国王のルイ14世の助
 けを、またまた借りて、イギリス国王・ウィリアム3世
 の暗殺計画を立てたり、そして、1745年まで、しばしば
 反乱も起こした。
18世紀~19世紀、オーストラリアの占有(せんゆう、自分
 の所有にすること)
  イギリス人が、オーストラリアを占有(入植)し、
  この地で、原住民のアボリジニの方々へ酷(ひど)い
 ことをする。
  何と、『絶滅するに、何ら躊躇はいらない』という方
 針だった。
  そんな方針のため、アボリジニの方々を、あたかも動
 物の狩りをする様に殺戮した。
  今、アボリジニの方々は、可哀想な事に、絶滅に瀕(
 ひん)している。
  この有色人種を軽んじ、そして、蔑視することは、キ
 リスト教の教義・教えから来ている。
  18世紀末、オーストラリアは、この頃まで、イギリス
 の囚人の捨て場となっていた。
  そして、本国のイギリスの経済的束縛を強いられてい
 た。
  オーストラリア人は、現在でも、テーブルスピーチの
 時に、「自分は1800年以降の移民の子孫だ」と、一々
 断るという。
  「囚人の子孫ではない」という事を言いたいのだ。
  本人たちも、不名誉な、非人道的な、やってはいけな
 い事だと思っている。
..
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2015年7月29日水曜日

(増補版)168D1/3:気になった事柄を集めた年表(1742年~1744年)

題:(増補版)168D1/3:気になった事柄を集めた年表(1742年~1744年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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18世紀、卑劣な、細菌などによる殲滅
  この頃の、18世紀のカナダでは、イギリスやフランス
 が、先住民のインディアンの方々を、
  先にカナダに来て、既に、住んでいた方々を、
  安上がりに殲滅する方法だとして、細菌などによる殲
 滅行為を行った。
  はしかの患者の衣服を買い集めたり、その他の病気の
 菌が付着したものなどを(毛布など)、
  インディアンの方々へ配った。
  この様な悪行為を行った記録が、残されている。
  その複数の部族の方々は、現在では、完全に絶滅させ
 られて、
  まったく『痕跡すら留めていない状態』となっている。
  エール大学のディビット・オブライエン教授は、
  「人類史上、最大のもっとも忌(い)まわしい大量殺
 戮だ」と言って居られる。
  キリスト教の『有色人種蔑視』に洗脳された者たちの
 行為である。
  キリスト教聖職者が『人間ではない』と言った記録も
 あるが・・、
  この宗教にマインド・コントロールされた者たちが、
 この言葉にならない程の極悪な行為を為させた。
1743年、農政:サツマイモの栽培を、徳川吉宗がすすめた。
1743年、清の貿易船数を減じた。
1743年、貿易:海外貿易による致富を説いた(本多利明)
  本多利明(ほんだとしあき、数学者、経済思想家)(
 1743年~1821年)は、
  「西域物語」「経世秘策」を著して、
  積極的な海外貿易による致富を説いた。
  越後の人。
  江戸に出て、数学・天文学・蘭学を学び、
  23歳の時に算学、天文の私塾を開いた。
  重商主義的立場から、貿易振興による富国策を説いた。
  「経世秘策(けいせいひさく)」は:
  1801年に成り、
  開国交易・属島開発による富国政策を論じた。
  国を経営し、
  そして、富ますのが良いのだ、
  その秘策となる政策は・・を、論じた。
  この書は、著者の思想、政策が体系的に示されていて、
 著者の代表作の一つ。
  富国策の基本には、
  爆薬、国土開発の手段や、金銀銅鉄鉛山の開発や、
  船舶(海外貿易用の大きなもので、官営のものを)や、
  属島(北海道や樺太を主にして、科学的な開発)が急
 務だと説いた。
  「西域物語(せいいきものがたり)」は:
  当時、良く知られていなかった西洋を説き、
  激動していた当時の内外情勢をよく把握して説明して
 おり、
  それを反映した現在起きている事象の記述は、具体的
 であった。
  開国の思想を説いた。
  また、物理学の大切さを説き、
  学問の基本だと強調した。
  そして、天文、地理、渡海の学をもっと極めよとした。
  飢饉救済論にも触れ、
  物価の操作の有害も述べ、
  官営貿易の実施を説いた。
  北方王国の建設なども説いた。
  また、アルファベットの導入なども説き、カムチャッ 
 カ半島への遷都も説いた。
  因みに、ドナルド・キーンの修士論文は、本多利明に
 ついてのもの。
1743年、トルコ・イラン戦争が起きた(~1746年)
  対オスマン・トルコとの戦いを再開するが、目立った
 戦果はあがらなかった。
  ナーディル・シャー(イランのシャー)は、ナジャフ
 (イラク中南部の都市)を割譲させたのみであった。
1744年、日本の総人口、26,153,000人
1744年10月、甘藷の栽培を奨励する。
1744年、科学:天文学
  徳川吉宗が、神田佐久間町に天文台を造った。
  数年後、西川如見の息子・正休が天体観測をする。
  因みに、如見は、1724年に没している。
  正休は、如見の次男で、長崎に生まれ、父に従って家
 学を受け、その学に精通した。
  才長けていて、吉宗に天学の才を認められ、幕府御家
 人に取り立てられ、暦術測量御用を勤めた。
  1747年に、天文方に任ぜられた。
1744年、出版:御触書寛保集成(おふれがきかんぽうしゅ
 うせい)が成った。
  吉宗が、評定所に命じて集成させた法令集。
  1615年~1743年までの御触書を集めたもの。
1744年、ジョージ王戦争(英仏植民地戦争、~1748年)
  オーストリア継承戦争に対する、北アメリカ東部の新
 大陸における植民地争奪戦争。
  ヨーロッパで、マリア・テレジアが、君主の座を継承
 したために起きた戦争が、北米大陸に波及して戦った。
  イギリス側のニューイングランド知事が組織したカナ
 ダ遠征軍が、
  セントローレンス湾の岬にあったフランス側の要塞を
 包囲し、6週間後に陥落させた。
  インディアンの方々も戦争に巻き込まれ、犠牲者の出
 る迷惑な戦争の波及事態だった。
1744年、「続大典」成る。
  「経国大典」を基本として、増補などを行なったもの。
  統治の骨格を形成するものとして、重要な位置を占め
 ている。
  「経国大典」は、朝鮮の李朝の基本法典、1484年に完
 成し、翌年、施行されていた。
1744年、第一次カルナータカ戦争(~1748年)
  カルナータ戦争は、1744年~1763年の間に、イギリス
 とフランスの間で、三次に渡って戦われた戦争。
  戦地は、インドのカルナータカ地方で、迷惑な話だっ
 た。
  イギリスは、フランスから南インドの派遣を奪った。
  フランスは、インドからインドシナへ重点を移した。
  いずれにしても、他人の土地で、好き勝手をやってい
 たイギリスとフランスだった。
  植民地貿易で、えげつない利益を上げて、それをさら
 に増やしたいと、
  今度は武力を行使して、他人の土地で戦争をするとい
 う暴力的な両国だった。
  また、イギリスとフランスのヨーロッパの戦争が、イ
 ンドに飛び火するという形だった。
  スペインの王位継承を端緒にして、イギリスとフラン
 スが戦争をするが、
  1744年以来、インドへ飛び火して、それが、インドの
 欲の争奪戦争へとなって行った。
  貿易の目的で始まった東インド会社から、国と国の欲
 の塊(かたまり)の奪い合い戦争になった。卑劣な事だ。
  1744年、インドにおける、フランスのえげつない植民
 地収奪活動は、
  同じくえげつない収奪活動をしているイギリスとぶつ
 かるようになっていたのだった。
  イギリスとフランスの両国は、スペイン王位相続問題
 でヨーロッパで戦争を始め、
  それが、インドへもおよび、植民地覇権争奪も加わっ
 て、インドも戦争の舞台となってしまった。
  金が欲しい、旨いものが欲しいの餓鬼の争いであった。
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(増補版)167D1/3:気になった事柄を集めた年表(1740年~1742年)

題:(増補版)167D1/3:気になった事柄を集めた年表(1740年~1742年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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18世紀、長年、キリスト教と戦ってきたフランスだった。
  そのフランスの知識人・ギイ・シボン氏の言葉:
  「18世紀の市民たちの革命は、『王権神授説』を支え
 たキリスト教会の権威を倒すための行動だった」・・
 ・・と言った。
  キリスト教は、権威が得たいと、あらゆる手を使った。
  俗の世界のものにまで、手を出した。
  そこで、俗の世界の最高位にある王権が、(キリスト
 教の)神から国王に授けられたものだという破廉恥な考
 えを押し付けた。
  その様な行為でもって、キリスト教は、権威を得て行
 った。また、権力を得て行った。
  智のある人たちは、その不本意な行為と戦った。キリ
 スト教と戦った。
  しかし、キリスト教は、その俗の王を凌(しの)ぐ力
 (ちから)を持った。
  俗の王が、キリスト教権力に、破門の解除を願い、許
 しを乞うた話が、過去にもある、「カノッサの屈辱」と
 いう歴史的事実だ。
  この話は、キリスト教が、強権を使って、俗の王を謝
 らせてしまったという話である・・が、
  この歴史的事実は、キリスト教のプロパガンダ(嘘宣
 伝)で、キリスト教が美しく話を仕立てて話されている、
  が、しかし、話は、まったく逆である、
  キリスト教が、キリスト教の権威で、腕力で、俗の王
 を謝らせた・・という権力闘争に打ち勝ったという話で
 ある。
  王権神授説(おうけんしんじゅせつ):王の統治権は
 人民の委託によらず、(キリスト教の)神の特別な恩寵
 おんちょう)に基づく・・とする。
  人民の総意ではない、人民の意思ではないというから
 恐れ入ってしまう。
  恩寵(おんちょう):(キリスト教の)神から受ける
   恵み。
  この話を、キリスト教に偏するNHKは、学校放送の
 番組として、キリスト教と同じ言い方で高校生たちに説
 明した。
  まったくキリスト教会の手先の様な放送をした。
1741年、ロシアのヴィトゥス・ベーリングが、第二次探検
 でアラスカ沿岸に達した。
  この第2回カムチャッカ探検は、1733年~1743年にかけ
 て行われた。
  ロシアは、1733年に、探検隊を編成した。
  そして、1741年7月4日に、第二次調査隊が、ペトロバ
 ブロフスを、アメリカ大陸を目ざして出発した。
  そして、1741年7月16日に、アラスカの陸影を視認した。
  そして、数日後、アラスカのカヤック島に上陸した(
 7月17日説あり)
  その後、カムチャッカに向かい、発見した陸地を海図
 に記入しながら航海を続けた。
  そして、1741年8月末に、アリューシャン列島の島々を
 発見し、シュマージン諸島の島の一つに上陸した。
  そこで一週間をすごし、土地の住民のアレウト人と初
 めて遭遇した
  (だから、ロシア人が最初の発見者ではない。アレウ
 ト人が最初である)
  その後、病気で死んだ乗組員を葬ったり、大嵐に見舞
 われたりして、1741年11月4日に、コマンドルスキー諸島
 の無人島の海岸線を視認後に漂着した。
  壊れた乗船と、多くの病人を抱え、ベーリング船長自
 身も重い病のなか、その島に上陸した。
  そして、その島に居た巨大なジュゴンを獲って、飢え
 をしのぎながら、越冬した。
  しかし、1741年12月8日に、ベーリング船長は、60歳で
 没した。そして、この島に葬られた。
  ベーリング隊の生き延びた乗組員は、船医で博物学者
 であるステラー博士と、ワクセル中尉に率いられて、カ
 ムチャッカに戻った。
  この途中で、ステラー博士も亡くなった。
  この後、この乗組員たちを救ったジュゴンは、乱獲さ
 れ絶滅したという。
1742年11月、銅の輸出額を制限した。
  幕府は、長崎を天領とし、奉行をおいて、貿易を監督
 した。
  おもな輸入品は、生糸・薬品・書籍だった。
  そして、輸出品は、銀・銅・海産物だった。
  日本の銅は品質が良かった。
  遠い日本の地であっても国際的な競争力があり、大量
 に流出していた。
  また、生糸などの輸入価格が引き上げられ、大量流出
 の原因にもなっていた。
   幕府も貿易統制を行なったり(市法売買)努力した。
  日本の貨幣改鋳による金銀の質の低下が起きると、銅
 の輸出額(量)が急激に増加して行った。
  銅の集荷などを幕府はさせたが、
  また、海産物の輸出の増加をはかって、銅などの流出
 量を減らそうとした・・が、
  銅の需要の急激な増加は、各地の銅山をたちまち枯渇
 させた。
  その様な中、金銀の流出も防止せざるを得なく防止し
 たため、銅へ集中する状況においてコントロールが行わ
 れた。
1742年、経済:幕領年貢
  この頃の幕領年貢は、近世後期最大の180万石となる。
1742年、令:公事方御定書(くじがたおさだめがき)
  御定書百箇条(刑法関係成文法規)を作った。
  この「公事方御定書」は、吉宗の命によって、老中の
 松平乗邑、および、三奉行が中心になって作成した(幕
 府の内規集という形)。
  法律に関心の深かった吉宗自身の意見も、随所に反映
 されているという。
  そして、この作成者ら以外には秘密にされた。
  判例・取り決めなど103条が収めてある。
  1742年に、一応、出来上がったが、奥書(おくがき、
 著作や写本などの巻末の、著者名・書写年月日・来歴な
 どについての書き入れ)も書かれたので、一般に、この
 年を成立時期としているが、
  編集は、続行されていて、実質的に完成したのは、翌
 年の1743年だった。
  そして、その後も1754年まで書き加えが行われている。
1742年、フランソワ・デュプレクス(フランス人)が、ポ
 ンディシェリ(インド南東部の港湾都市、フランス領イ
 ンドの首府)の総督となる。
  この都市は、イギリス領インドの中でフランス領とし
 て存続し続けた。
  この2年後の1744年に始まったオーストリア継承戦争
 では、対抗関係にあるイギリス東インド会社に対して優
 勢の内に戦いを進めた(実質的にはイギリスとフランス
 の植民地における戦争、会社が絡んでいるだけ)。
  インドでは、卑劣な事に、このイギリスとフランスは、
 何度も戦争をしている。
  南インドの東海岸の貿易拠点を巡る戦争や、荷物の集
 散地をめぐる争いや・・
  インドの方たちが迷惑なだけだった・・
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2015年7月28日火曜日

(増補版)166D1/3:気になった事柄を集めた年表(1738年~1740年)

題:(増補版)166D1/3:気になった事柄を集めた年表(1738年~1740年)
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1739年1月、但馬(たじま、兵庫県の北部)の百姓一揆。
  また、1738年の長雨によって鳥取藩内も凶作となり、
 飢饉も発生した。
  しかし、藩は、救済策を施すどころか増税を課し、年
 貢を厳しく取り立てた。
  この事から、1739年2月には、因幡(いんば、鳥取県東
 部)から始まり、
  後に、伯耆(ほうき、鳥取県の中西部)まで広がると
 いう、鳥取藩政史上最大の惣百姓一揆(元文一揆、勘右
 衛門騒動)が起こった。
  一揆の参加者は、5万人に上ったと言われ、当時の鳥取
 藩の人口は約30万人なので、実に、総人口の6分の1が
 参加した。
1739年6月、ロシア船出没
  陸奥(牡鹿半島)・安房(房総半島)・伊豆下田など
 の沿海に、ロシア船が出没した。
  アメリカの黒船の来航(1853年)に先立つこと114年で
 あった。
  幕府は、ロシア船の去った後、現地住民が船員から入
 手した銀貨・紙札(トランプのカード)を、長崎の出島
 のオランダ商館長に照会し、
  ロシアのものであることを確認した。
  これが、幕府のロシア確認の初の事例となった。
  尚、住民は、銀貨と野菜や魚、煙草などと交換したの
 だった。
  ロシアの日本への艦隊の日誌によると、
  シュパンベルグ船隊の航海日誌
 「1739年7月24日、日本の陸地を発見、
  松前島で多くの日本人に出会うも、乗組員は疲労し、
 病人20人余発生で帰途に着く」とある。
  ワルトン中尉の航海日誌
 「1739年6月19日、18人乗り小舟が接近、カジミロフ航海
 士と、チェルカシェニン給食員と、兵6人で上陸、飲料
 水1樽半分を持ち帰り、酒食で歓待されたと報告、
  150艘以上もの小舟が取巻いたので、出帆して帰路に着
 く」とある。また、
 「1739年6月22日、37度30分で、海岸の沖合に投錨、
  岸から日本人が、小船で来船、物々交換で交流
  10~12人乗りの小船79艘が、船を取巻いたので、上陸
 は中止して帰路に着く」とある。また、
 「1739年6月23日、北緯33度28分付近で、小島に上陸、薬
 学生が薬草を採取」とある。
  ロシア艦隊は、この後、紀伊半島の潮岬付近まで行っ
 ている。
  日本側の資料として、「元文世説雑録」がある。
1739年、人事:青木昆陽を、幕府が登用。
  野呂元丈とともに蘭学研究などにあたる。
1739年、イギリスとスペインとの間で「ジェンキンスの耳
 の戦争」が始まる。
  海上権争覇(そうは、覇権を争うこと)の戦争。
  イギリスの船長のジェンキンスが、耳を切り落とされ
 たのが名の由来。
  オーストリア継承戦争へも拡大して行く、
 そして、卑劣な事に、ヨーロッパ中が関わって、大戦争
 へと発展して行く。
  戦争が複数へと拡大したこれ等の戦争は、1748年のア
 ーヘンの和約まで続く(9年間)、
  そして、それでもおさまらず、1756年からは、七年戦
 争へと続いて行く。
  日本は江戸時代、本当に平和な時代が続いている。戦
 争一つ無し。天候の関係で一揆はあったが・・、
  戦争のデパートと言ってもよいヨーロッパには、「第
 2次百年戦争」という戦争もやっている。
  1689年~1815年の間、ヨーロッパ内の国境紛争や、王
 位継承がからみ、
  主に、北アメリカ大陸を舞台として、アフリカや南ア
 ジアも含む、海外植民地の争奪戦。
  イギリスとフランスの間て繰り広げられた戦争もある。
1739年、ナーディル・シャーが、デリー略奪(ムガル帝国
 衰退へ)
  ナーディル・シャーは、イラン(ペルシャ)のアフシ
 ャール朝の初代シャー(王の称号)。
  在位:1736年~1747年と、きわめて短い期間だが、ア
 ジア大陸最西部のアナトリアから、イラン、中央アジア、
 インドにおよぶ広大な領域を支配下に入れた。
1740年11月、天文学者・西川正休(にしかわまさよし)が
 幕府に召し抱えられた。
  幕府に出仕して寺社奉行配下に属し、後に、江戸城吹
 上御苑において、暦術測量御用をつとめる。
  長崎の文化人として著名な西川如見の子で、西洋天文
 学を、我が国に広めるのに、大いに貢献した。
1740年、一橋家(ひとつばしけ)の創始(1741年説あり)
  政宗の子・宗尹(むねただ、家斉の祖父)、一橋(御
 三卿の一つ)を創始した。
  1735年に、宗尹は徳川の家号を許され、
  そして、1740年に、江戸城一橋門内に、屋敷を与えら
 れた。
  御三家に次いで、田安、清水両家と共に、高い家柄と
 なった。
1740年、科学:クリスタン(フランス)が、氷点0の温度
 目盛りを用いた(現在の℃と同じ)
1740年10月、オーストリア継承戦争始まる(~1748年)
  これも、イギリスが絡(から)んだ戦争。
  1740年に、神聖ローマ帝国の皇帝が死に、イギリスや
 オランダやドイツ諸侯などの承認を得た勅書に従い、皇
 帝の長女マリア・テレジアがハプスブルグ領を継承した。
  そのオーストリア王女マリア・テレジアの即位に反対
 するフランス、スペイン、ザクセンなどが対抗した。
  古い恨みや怨念も噴出するドロドロした戦争ばかりの
 地であった。
  欲と怨念の地獄界の世界。植民地の色々の事も絡んだ。
  苦戦のマリア・テレジアは、イギリスの助けで戦いに
 優位に立つ。
  和平しても、その後に、また、各地で戦争が続くという
 世界だった。
1740年、シレジア戦争が起きた。
  シュレージエン戦争ともいう。
  第一次シュレージエン戦争、第二次とつづき、七年戦
 争(第三次ともいう)と続く・・、
  オーストリア継承戦争と七年戦争の内、オーストリア
 と、プロイセンがシュレージエン地方の帰属を巡って戦
 った戦争をいう。
  講和をしたり、戦ったりというのを繰り返した。
  オーストリアはシュレージエンを取られて、敗北を認
 めたにもかかわらず、また、奪還を目指して戦うという
 領有を巡ってのあくなき戦いが続いているヨーロッパだ
 った。
1740年、清朝の法典の「大清律令」が成る。
1740年、湖南で苗族(ミャオ族)の反乱(1735年~1738年
 の説あり)
  苗族は、三次に渡って反乱を起こしている。
  三度目の反乱(1854年~1873年)は、最後で、大規模
 な反乱で、苗族の人口の3分の2の方々は亡くなったとい
 う。
  生き残ったのは、3分の1だったという。
  漢族の商人が現地に入って、林業などを中心にして商
 業網を確立して、苗族の方々を抑圧したという。
  焼畑を営んで陸稲や畑作物を作って移動を繰り返す人
 々や、棚田を巧妙に作って水稲稲作を行なって定着した
 人々が平和に暮らして居たが・・反乱を起こすに至った。、
  苗族(ミャオ族)は、中国国内に多く居住する民族集
 団で、同系統の言語を話す人々は、タイ、ミャンマー、
 ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住んでいる。今現在
 の総人口は1100万人となっている。
..
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2015年7月27日月曜日

(増補版)165D1/3:気になった事柄を集めた年表(1736年~1738年)

題:(増補版)165D1/3:気になった事柄を集めた年表(1736年~1738年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1737年、人事:松平乗邑(まつだいらのりむら)が、勝手
 掛老中に就任した。
  農財政の最高責任者である(詳細は既述)。
1737年8月、オスマン・トルコが、オーストリアと戦う(
 ~1739年にベオグラード条約が結ばれた)。
  オスマン帝国は、パッサロヴィッツの和約(1718年)
 でオーストリアに割譲されたセルビア地方を回復し、失
 地回復した。
1738年、林子平(はやししへい、経世家)が生まれた
 (1738年~1793年)
  幕臣の子として生まれ、陸奥(むつ)仙台藩士となる。
  藩に富国策の大切さを説き、提出した。
  1767年に、江戸に遊学し、大槻玄沢らの蘭学者と交わ
 り、
  また、1778年に、長崎遊学し、オランダ商館長アーレ
 ント・フェイトと交わり、海外事情の収集に努めた。
  その詳しい海外事情から、著作「三国通覧図説」を、
 1785年に書き、
  その著に、ロシアへの防備策、および、その為の蝦夷
 地開発の必要性などを説いた。
  その他・著書に、「海国兵談」がある(1786年)。
  この著では、江戸湾の防備が、特に大切と説いた。
  ただ、これらの著は、幕府の痛いところに触れたため、
 板木は没収され(1792年)、蟄居(ちっきょ、自宅謹慎)
 となった。
  その時の句:「親も無し 妻無し子無し 板木無し、
 金も無ければ死にたくも無し」
  この子平の蟄居の時に、ロシアのラクスマンが根室に
 来航した。
  そして、幕府に通商を求めた。
1738年4月、経済:幕府が、長崎への廻銅が減少したため、
 大坂に銅座を再置して、
  諸国の産銅を管理させた(銅の統制機関とした)。
  翌年の1739年に、銅輸出の制限をした。
1738年10月、生野銀山元文一揆(いくのぎんざんげんぶん
 いっき)(12月説あり)
  但馬(たじま)国(兵庫県)の生野銀山の鉱夫が、扶
 持米増加などを要求して、町役人の赤井治左衛門宅を打
 毀し、
  代官所へ強訴(ごうそ、強硬な態度で相手に訴える行
 動)した。
  参加人員は700~800人。
  一揆の直接の原因は、銅仲買いでもある赤井の安値買
 上げ計画にあるが、
  遠因(えんいん、遠い原因)には、幕府の政策がある。
  この年の4月の、幕府の長崎への廻銅確保のための、大
 阪の銅座設置は、
  全国の銅の廻送を命じたので、銅値段が急激に下落し
 た、そのためだった。
  この一揆は、銀や米の救済のための支給を行なうこと
 を約束をし、鎮まった。
  また、周辺の幕領農民も一揆を起こした。
  これは、生野銀山の鉱夫たちの一揆の成功に刺激され、
 12月に起きた。
  村々からの1万人が、年貢減免などを求めて強訴する
 という行動を起こした。
1738年、産業:絹織物生産技術を導入
  桐生が、京都西陣の高級絹織物生産技術を導入した。
  養蚕地帯を背景として発展した。
  職工(西陣の織物師・弥兵衛と吉兵衛)を招き、雇い
 入れ、また、西陣の技術である「高機(たかはた)」を
 導入し、
  本格的な大量生産による高級絹織物の生産が始めた。
  生産量は、それまでの何倍にも膨れ上がり、
  技術面も向上し、
  流通面も西陣の機構から脱し、独自の市場を開拓した。
  また、流行も先取りする新しい織物(桐生織)を作っ
 た。
  市(いち)も賑わい、莫大な利益向上となり潤った。
1738年、産業:新たな機業地発達
  丹後・近江などにも新たな機業地発達し、西陣の地位
 が低下した。
  丹後は、丹後縮緬(ちりめん)として有名であるが、
 18世紀前半に、西陣から技法を導入した。
  そして、盛んにちりめん生産がなされた。
  (1説では、丹後地方では、1719年と1722年に、西陣
 の縮緬製織の技術を習得した者たちが、丹後縮緬を作り
 始めたとある。
  そして、この技術が、1752年に、近江長浜へ伝えられ
 長浜縮緬の生産が開始された・・とある)。
  ちりめんは、株仲間を組織する京問屋へ飛脚によって
 送られ、染色・加工のうえ委託販売された。
  18世紀に入ると、西陣技術は各地へ伝えられ、地方の
 機業が発展した。
1738年、産業・経済圏の形成、(関東を中心とした市場圏
 の形成)
  関東各地に、手工業地が現れ、江戸地廻り経済圏(え
 どじまわりけいざいけん)の形成が始まった。
  江戸に入荷する商品は、京都・大坂方面からの下り荷
 と、江戸に近い近国から送られてくる地廻り荷に2大別
 でき、
  江戸地廻り経済圏は、この地廻り荷のもの。
  幕府は、初め、比較的高い技術を持つ京・大阪圏の生
 産品に対する市場政策を取り、
  また、依存する度合いが強かった・・が、
  江戸の中期になると、大阪と結合して、江戸の市場を
 統制することが試みられて来た。
  江戸中期になると、関東やその周辺地域の、江戸を市
 場とし、目あてとする生産も高まった。
  幕府も、商品生産を奨(すす)め、江戸市場への流入
 を図る政策をとった。
  江戸後期になると、ますます、江戸地廻り経済圏は発
 展して行く。
1738年、伊勢(三重県)万古焼(ばんこやき)が始まる。
  三重郡朝日村小向(おぶけ)に開窯して、
  オランダ風の赤絵付けを施した陶器を焼いたことに始
 まった。
  元文年間(げんぶん、1736年~1741年)に開窯との記
 述もある。
1738年、出版:林子平(1738年~1793年)は、「海国兵談」
 「三国通覧図説」を著して、外国の脅威を説いた。
1738年、ダニエル・ベルヌーイ(スイス)が、ベルヌーイ
 の定理を発見した。
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2015年7月26日日曜日

(増補版)164D1/3:気になった事柄を集めた年表(1735年~1736年)

題:(増補版)164D1/3:気になった事柄を集めた年表(1735年~1736年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1736年5月、貨幣の改鋳:元文(げんぶん)の改鋳
  吉宗は、米価の引き上げ策を講じて、財政に困窮する
 武士、および、農民を救済したいとした。
  しかし、種々の策を講じるが、思うような効果を挙げ
 ることはできなかった。
  そこで、取られたのが、この貨幣改鋳策だった。
  1736年5月12日に、金銀改鋳の町触(惣触)が発せら
 れた。
 (1)世情金銀不足の為通用不自由と聞こえるので改鋳を
 行う。
 (2)吹改金銀の交換比率は、慶長金、正徳享保の新金は
 100両に付き100両、乾字金200両に付き100両、慶長銀・
 正徳銀新銀10貫目につき10貫目とし、この比率で差別無
 く通用させる事。
 (3)但し、引替金100両に付き65両、銀10貫目に付き5貫
 目の「増歩」を附けて従来の金銀と交換する。
 (4)引き替えは町人に委任して行うから、武家を始めと
 し、各人相対にて交換する事。
 (5)従来の金銀の数量は判明しているから、貯蔵せずに
 引替える事、退蔵者は処罰され、退蔵銀は従来通り潰銀
 として扱う事。
  これまで、経済が発展している状況下において、貨幣
 の増鋳(貨幣を多く流通させる)が必要とされていた。
  そして、そのために、ある程度の貨幣の質の低下は不
 可避なのであった。
  しかし、とられた政策は、あえての貨幣良鋳の経済収
 縮政策が取られていた。
  そして、良貨による貨幣流通量の減少となり、景気は
 停滞する傾向となった。
  この吉宗のとった貨幣の悪鋳策、より質を落とした元
 文金銀の発行によって、インフレにし、米価を引き上げ
 ようと図ったのだった。
  結果的に、物価調整は行なわれ、景気は持ち直した。
  米価は、1736年~1818年の間、横ばいないし若干の低
 落気味におさまった。
  ある程度の効果があったため、この後、元文金銀は80
 年以上に渡って通用した。
  また、3年後の1739年には、鉄銭の寛永通宝も発行され
 た(銅貨の交換レート跳ね上がり防止策)。
  今までの社会は、正徳金銀や享保金銀などの良質貨幣
 の流通によって通用金銀が不足し、米価および諸物価が
 暴落していた。
  通用金銀の不足改善のため、改鋳して質を落し、その
 流通量を増やし、経済の安定をしたいとした。
  この改鋳金銀には、裏面に「文」の字の極印があり、
 文字(ぶんじ)金銀ともいう。
  また、真文字(しんもじ)金銀とも、古文字金銀とも
 いう。
  また、元文小判、同一分金、同丁銀、同豆板銀をいう。
1736年5月、経済:米価最低価格制を廃止(6月説あり)。
  米価下落防止のため、1735年に、最低価格を公定(こ
 うてい、政府や公共団体などが公式に定めること、この
 場合、幕府)とした(米価の統制価格とした)・・が、
 この制度を吉宗は、改鋳による効果があったとして(米
 価は倍に跳ね上がった)、制度廃止とした。
  武家は大いに潤ったという記録がある。
  しかし、改鋳によって、新旧の金銀がオーバーラップ
 して流通したり、相場の変動などで、町民の生活に混乱
 が生じた。
1736年7月、荷田春満(かだのあずままろ、国学者、歌人)
 が没した(1669年~1736年)(没年に8月説あり)
  国学の四大人と言われる。
  吉宗から書物奉行の命を受け、幕府所蔵の和書の鑑定
 に従事し、吉宗の下問に答えた。
  弟子に賀茂真淵(かものまぶち)らがいる。
  赤穂浪士の大高源吾と交友があり、春満は、吉良邸に
 出入りする便宜があったため、邸の図を大高に与えたと
 いう。
1736年7月、伊藤東涯(いとうとうがい、儒学者)が没した
 (1670年~1736年)(没年に8月説あり)
  父の家塾・古義堂をまもり、青木昆陽らの多数の人材・
 門人らを教え、輩出した。
  紀伊候の招きを辞して幼弟の養育にあたり、父同様、
 生涯、町(まち)学者として、父・仁斎の学問を忠実に
 守った。
  湯浅常山は、「東涯の学問は仁斎に倍せり」と評した。
1736年、令:江戸城中での落書・浮説などの政治批判の禁
 止。
1736年、人事:大岡忠相(おおおかただすけ)が、町奉行
 から寺社奉行に転じた。
  大岡一族は、徳川氏三河以来の譜代。
  忠相は、旗本・大岡忠高の4男で、1700年に1920石を継
 ぎ、1712年に伊勢国に置かれた幕府の遠国奉行のひとつ
 の山田奉行になった。
  1716年に普請奉行。
  1717年に吉宗により町奉行に登用され越前守となり、
 様々な施策を行なった。
  1722年に関東地方御用掛を兼務し、治水事業までした。
 また、武蔵野新田の農政も展開した。
  そして、1736年に寺社奉行となった。
  たびたびの加増で1万石の大名にもなった。
1736年、イランのナーディル・シャー(在位:1736年~
 1747年)がアフシャール朝(1736年~1796年)を創建
 した。
  アフガン人を、イラン全土から駆逐し支配した。
  また、アフガニスタンを支配した。
  インドに侵攻して、ムガル帝国の首都のデリーを占領
 した。
  また、中央アジア、メソポタミア、トルコなどに侵入
 した。
  1747年に、部下に暗殺された。
1736年、オスマン・トルコが、ロシアと戦う(1739年、ア
 ゾフを喪失)
  ロシア・トルコ戦争は、16世紀後半から19世紀にかけ
 て、ロシア、オスマン・トルコ帝国間で、黒海およびそ
 の沿岸地方の支配をめぐって、11回争われた・・が、
   ロシアのアンナ・イワーノブナ女帝が、オーストリア
 の支援を受けて、オスマン・トルコと戦端を開いた。
  そして、アゾフを領有してようなく黒海への進出の橋
 頭保(きょうとうほ)を得た。
  この後、まだ、この両国は、6回、戦争をする、1878年
 まで。
  1878年に、サン・ステファノ条約で講和する。
..
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