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2015年8月8日土曜日

(増補版)174D2/3:気になった事柄を集めた年表(1759年~1763年)

題:(増補版)174D2/3:気になった事柄を集めた年表(1759年~1763年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1760年3月20日~23日、江戸大火
  (宝暦の大火or明石屋火事)、連日の火事となる。
  神田旅籠町の足袋屋・明石屋から出火し、北西風で延
 焼。
  日本橋、木挽町、さらに深川から洲崎まで焼失した。
  死者数不明、460町が焼失した。
1760年9月、将軍・家治となる。
  徳川家治(とくがわいえはる、家重の長子)が、第10代
 将軍となる(在職:1760年~1786年))
  家治の父・家重は、1761年7月13日に没した(1712年
 1月28日~1761年7月13日)
  1760年5月の父・家重の隠居により、家治は、家督を相
 続し、
  同年の1760年9月に、正式に将軍の宣下を受け、第10代
 将軍職を承継した。
  家治は、江戸城の西丸で生まれ、吉宗の膝下で養育さ
 れた。
  幼い時より文武の才に恵まれ、頴敏(えいびん、才知
 が鋭くさといこと)で、周囲の期待を集め、祖父の吉宗
 の寵愛を受けた。
1760年10月31日、葛飾北斎(かつしかほくさい、浮世絵師)
 が生まれた(1760年~1849年)
  幕府の用達の鏡師の家、江戸本所に生まれる。
  90回を越える転居をした(93回とも)。
  初め、勝川章に入門する・・が、狩野派・土佐派・琳
 派(りんぱ)・洋風画(洋風銅版画の画法)など和漢洋
 の画法を摂取し、独自の画風を確立した。
  70年間にわたる旺盛な作画活動を続けた。
  画域は広い(風景画・花鳥画・美人画・戯画)、錦絵、
 版本挿絵、肉筆画・・、
  「富嶽三十六景」「北斎漫画」
  「九十歳よりは、又々画風をあらため、百歳の後に至
 りては、此道を改革せんことをのみ願ふ」(絵本彩色通)
1760年、イギリスが、インドのムガール帝国の統治権を、
 この年に、奪った。
  そして、民への重税を課した。
  イギリスは、不満の民へは戦争を仕掛け、虐(いじ)
 める行動をとった(統治をしたい、金が欲しいのイギリ 
 スだった)。
  イギリスのインド遠征軍には、法とか、誠意とかは無
 かった。
  何しろ無法に、自分の持つ腕力でもって土地と利を奪
 った。
  イギリスは、12門、また、17門の大砲を持った軍艦
 10隻で、やりたい事をやった。
  インドの西海岸では、インドの方々の艦船を捕獲し、
 また、ムガール帝国に宣戦したり、
  インドの東の海上では、法も何も無視して、一切の艦
 船を拿捕(だほ)し、
  ベンガル湾の街・チッタゴンを占領し、
  ガンジス川をさかのぼって、首都に至り、王をその戦
 力で威圧し、強制的に条約を結ばせたり・・と。
  このインド以外でも、紅海や、ペルシャ湾に、強烈な
 軍艦を出動させて、イスラム教徒の巡礼船を捕獲したり、
  世界中で、やりたい放題の、海賊的無法な事をしてい
 た。
1761年1月、大坂米商人の「空米切手(くうまいきって)」、
 および、両替商の印金売買を禁止する。
  大阪の蔵屋敷(くらやしき、幕府や諸大名が年貢など
 を収納し、換金するために設けた邸)が、
  金銀の調達手段として発行した現米(実際の米)の裏
 付けのない米切手である「空米切手」を禁止した。
  また、両替商が、金銀両替、および、金融業務を行う
 場合、
  秤量がわずらわしいために、手形による信用取引が不 
 可欠となり、それに伴い不正も行われ、
  幕府は、大阪町奉行にこれを取り締まらせていた。
1762年、日本の総人口:25,921,000人
1762年、山脇東洋(やまわきとうよう、医学者)が没した
 (1705年~1762年)
1762年、ルソー(フランス、哲学者)の、「社会契約論(
 しゃかいけいやくろん)」が出版された。
  1761年に完成していた。
  キリスト教は、神と人間との契約という形を人々に認
 識させたが、
  この契約の認識の中にあるルソーも、そして、ルソー
 の生きていた社会も、その様な社会契約によって国家が
 成立していると考えていた。
  しかし、この契約、この頃の国家の成立におけるこの
 契約が、基本原理だと考えられていた・・が、
  この事に対して、人民と国家の首長との間の統治契約
 (首長が人民を保護する代わりに、人民は、首長に服従
 するという契約)に、齟齬(そご、物事がうまくかみ合
 わないこと)があると感じた。
  ルソーは、各個人が、自分の持つすべてを、全体に譲
 渡し、そのことによって強い力を蓄えた全体が、各構成
 員を保護するという契約を構想した。
  絶対権力者が、各個人に対して支配的に行為する契約
 ではないと、過去の契約論を否定した。
  自由な人間が(罪のない人間が)全員一致の約束によ
 って形成する理想的な国家形態を主張した。
1763年、小林一茶(こばやしいっさ、俳諧師)が生まれた
 (1763年~1827年)
  信濃の本百姓(中の上)の長男としてに生まれる。
  3歳で母を失う。
  8歳の時から継母に育てられたが、折り合いが悪く(
 弟が生まれたことが原因と見られている)、離郷した。
  内向的で孤独な性質が養われた。
  この頃を追想した句が、
  「我と来て遊べや親のない雀}
  14歳で江戸に出て、奉公し、25歳(又は29歳)の頃よ
 り葛飾派の師に俳諧を学び、
  後に、行脚(西国の修行のごとき旅)、そして、葛飾
 派の関係者の多い千葉・茨木を巡回俳諧師として歩き、
  信濃方面にも門弟を多数を得て、50歳の晩年に、故郷
 に定住した。
  「是(これ)がまあつひの栖(すみか)か雪五尺」
  52歳で結婚(初婚)し、故郷の門弟を訪ね、また、と
 きには江戸に出て、江戸の親友を訪ねる。
  その後、妻子を失う。
  その後、再婚するもうまく行かず、
  大火にも遭い、土蔵暮らしとなる。
  三度目の中風を患い、これが命取りとなり、不幸の中
 に没した。
  一茶旧宅(国指定史跡)が、長野県上水内郡信濃町柏
 原48にある。
  しかし、貧しいながらも、彼の生活を支えた人々の良
 心と、社会の陰の力を感じる。
1763年、谷文晁(たにぶんちょう、画家)が生まれた。
 (1763年~1841年)
  江戸下谷根岸に生まれた。
  父は、田安家の家臣。
  10歳頃から、狩野派の師に絵を学ぶが、
  19歳の頃から、南蘋(なんぴん)派に師事し、
  1788年の25歳の時に、田安徳川家へ出仕し、この年に、
 長崎へ遊学。
  広く和漢洋の画法を学び、独自の南画で一家をなした。
  江戸文人画壇の重鎮となる。
  門下に渡辺崋山ら多数がいる。
  1792年の29歳の時に、松平定信付の近習(きんじゅ)
 となり愛顧を受けた。
  「なんでも鑑定団」のテレビによく文晁の作品が出る
 が、偽物が多い。
  それは、文晁の性格が鷹揚な性格であり、弟子などに
 求められると、自分の作品でなくとも落款を認めた。
  また、画塾での講義中、本物の文晁印を誰でもが利用
 できる状況にあり、
  自作を文晁作品だと偽って売り、糊口をしのぐ弟子が
 相当数いた。
  文晁は、購入者から苦情を受けても「自分の落款があ
 るのだから本物でしょう」と、意に介さなかったという。
  文晁の活躍していた頃より、偽物が市中に出回ってい
 るという状況だった。
  真偽は、文晁の場合、落款・印章だけでの真偽判定は
 できない。
..
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2015年8月6日木曜日

(増補版)173D2/3:気になった事柄を集めた年表(1756年~1759年)

題:(増補版)173D2/3:気になった事柄を集めた年表(1756年~1759年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1757年、大槻玄沢(おおつきげんたく、蘭方医、蘭学者)が
 生まれた(1757年~1827年)
  江戸蘭学の興隆を導いた功労者の一人。
  岩手県の一関藩の出身。
  初め一関藩医の建部清安に学び、清安と杉田玄白との
 間に交友関係が生まれた事から、1778年の22歳の時に、
 江戸に出て、
  玄白や前野良沢について蘭学(オランダ医学とオラン
 ダ語)を学び、長崎に遊学した。
  両師の名の1字をもらって玄沢と称した。
  その長崎には、日本は一筋縄ではいかない、遠い国で
 もありと、去り、濡れ手で粟のインドで楽に儲けようと
 いうイギリスは居なかった。
  インドは、イギリスに虐められる。
1757年、良寛(りょうかん、仏教の僧侶、歌人)が生まれ
 た(1757年~1831年)、
  越後の人、生涯の托鉢僧であった。
  無一物であながら、震えている乞食に着物を脱いで与
 え、そして、行脚した。
  そして、正直で無邪気な人である良寛は、手毬(てま
 り)とおはじきをつねに持ち、子供とも遊んだ。
  また、歌と詩と書に優れていて、多くの作品を残した。
  人間と自然に対して純真な愛を感じ、その心のままを
 正直に平易に詠み、個性を赤裸々に表現した。
  良寛の書は古典を尊重する正確な結果と評されている。
1757年、杉田玄白が、西洋医学の大切さを説いた。
1757年、周煌(しゅうこう、中国の人)、「琉球国志略(
 りゅうきゅうこくしりゃく)」を著す。
  周煌は、1756年に、琉球王国へ冊封のため正使の全魁
 (ぜんかい)とともに副使として訪れた。
  230日に及ぶ滞在をして、その見聞と諸書を参考にして、
 16巻におよぶ書物にまとめ、皇帝に復命(ふくめい、命
 令を受けたものが、その経過や結果を報告すること)し
 た。
  この書は、琉球の自然、人文、諸事百般を客観的に記
 述して史料的価値が高い。
1757年6月23日、プラッシーの戦い
  イギリスとインドとの戦い。
  イギリスのロバート・クライブが指揮するイギリス軍
 が、インドのベンガル地域でインド藩王の軍を撃滅した。
  プラッシーの戦いは、イギリスという国が、インドの
 一つの藩を撃滅するという弱い者いじめの戦争だった。
  そして、同時にフランスを駆逐して行った。
  イギリスは、1765年に至り、インドの「ベンガル」
 「オリッサ」「ビハール」の三国をイギリスの領土に
 した。
  この地域は、何とフランスより広大な地域だった。
  そして、イギリスのやりたい放題の状態になって行っ
 た。
  イギリスのインド統治は過酷であり、卑劣だった。
  そのため、あらゆるところで、インドの方々の反抗行
 動が沸き起こった。
  イギリスは、その都度、これを強烈な武力で鎮圧した。
  そして、その武力で鎮圧したその地域を、イギリスの
 領土だとした。
  そのようなやり方で、イギリスは、領土を拡大して行
 った。
  弱い者いじめの領土略奪者だった。
  これが、領土拡大のイギリスのやり方で、戦略だった。
 卑劣な行為は繰り返された。
  領土拡大の野心を持つイギリス帝国主義の国家の姿で、
 やる事だった。
  イギリスのインド総督は、色々と変わったが、イギリ
 スという国家は、おいしい汁を吸い続けた。
  悪漢総督となったウォレン・へスティングは、1750年
 に、イギリス東インド会社へ入社しインドへ赴任した。
  そして、イギリスの手先のインド総督となり、1774年
 のロヒラ戦争などを起こして行った。
1757年、中国の清が、
  一度だけ、滅びそうになった事がある。
  それは、中央アジアのジュンガルという国から攻めら
 れた時だった。
  ジュンガルが勝利すれば、朝鮮も攻略されただろうし、
  また、日本もまた、
  蒙古襲来の様にもなったと考えられている。
  その時、徳川幕府は、中国大陸の情勢を固唾(かたず)
 をのんで見ていた。
  鎖国状態で、「ぼけっ」としていたなんてとんでもな
 かった。
  鎖国のイメージは、近年になって、作られた間違った
 イメージ。
  ジュンガルは、この年に、清によって滅ぼされた。
1758年、この頃、各藩(熊本・松代藩など)で藩政改革が
 行われた。
  幕府の改革をはじめとして、各藩でも社会の進展状況
 を顧慮(こりょ、ある事をしっかり考えに入れて、心を
 くばること)し、適応体制を整える必要があった。
  幕藩の基本は、その経済的基盤にある貢租の増大を目
 指した。
  自営農民の増大もそうであり(本百姓経営の創出)、
  新田の開発もそうであり、そして、治水などを補強し
 て支援し、体制を維持していた・・しかし、
  経済体制の発展変革の中で、
  生産物地代原則は崩れて行った・・
  商品経済の展開と発展があった・・
  本百姓経営が崩れて行った(農民的商品経済の展開と
 なった)・・一方、
  藩財政における貨幣支出の増大があった・・
  都市商人は資本を蓄積し、経済活動に介在して来た・・
  幕藩層は、その経済的実権を握る層との繋がりが、成
 り立ち上、必要となって行く・・殖産興業や専売制など
 の改革の施策も取られたりして行った。
  経済的・社会的発展に対応して行った。
1758年、宝暦事件(ほうれきじけん)
  竹内式部(たけのうちしきぶ、国学者)を重追放に処
 す事件が起きた。
  竹内式部は、越後国の町医者の家に生まれ、
  16歳頃に、上洛し、徳大寺家に仕え、儒学を学び、後
 に、垂加神道を学んだ。
  京都に塾を開くと、門下に700~800人が集まり、
  中に堂上(どうじょう、朝廷を形作る人々)や、地下
 (じげ、清涼殿・殿上〈てんじょう〉の間に升殿するこ
 とを許されていない官人の総称)がおり、
  式部の説く講義に大きな影響を受けた。
  式部の講義の内容・主張が、近習(きんじゅ、きんじ
 ゅう、側近くに仕える役)の公卿を通じて、天皇陛下に
 進講されると、これを案じた前関白・一条道香(みちか)
 は、公家(くげ)らを処罰した(宝暦事件)。
  そして、式部を、翌年の5月に、追放処分にした。
  次いで、1767年に、明和(めいわ)事件が起きると、
 八丈島に流した(式部は関係ないとされた)。
1758年、松平定信(まつだいらさだのぶ、老中)が生まれ
 た(1758年~1829年)
  第8代将軍・徳川吉宗の孫、
  1783年に、陸奥白河藩(福島県)の家督を継ぎ、
  1782年~1787年の天明の飢饉により、領民が困窮して
 いたのを、上方から食料を緊急に輸送させ、これを救っ
 た。
  また、この緊急支出などで崩壊に瀕していた藩財政を
 立て直し、名君と称された。
  また、1787年に、老中首座となり、寛政の改革を断行
 した。
1759年、竹内式部を追放した(宝暦事件の追放)
1759年、出版:山県大弐(やまがただいに、儒学者、思想
 家)が「柳子新論(りゅうししんろん)」を著す(1725
 年~1767年)
  この著は、柳子という架空人物に託して、朱子学的大
 義名分論の立場から幕府を批判し、勤王思想を主張した。
  宝暦事件を契機にして、幕府の存在そのものへの批判
 を込めていて、この年に成立したとされている。
  この著は、先人が記したとされている。
  大弐の父が、20余年前に、旧宅跡から掘り出した古書
 で、織田時代を摸して書かれたとしている。
  明和(めいわ)事件の原因という。
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2015年8月5日水曜日

(増補版)172D2/3:気になった事柄を集めた年表(1753年~1756年)

題:(増補版)172D2/3:気になった事柄を集めた年表(1753年~1756年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1754年2月、山脇東洋(やまわきとうよう、医学者)らが
 京都で屍体を解剖する。
  山脇東洋(1706年~1762年)は、日本で初めて官許を
 得て人体解剖を行った・・が、(京都の刑場で解剖に立
 ち会い、執刀したのは、牛馬の屠者によった)。
  そして、日本最初の解剖記録「蔵志」を刊行した。
  「蔵志」には、「右肺は壁二つ、左肺は壁一つ。管を
 以て気道を吹けば、則ち両肺は皆怒張し、鮮沢なること
 蝉翼に似たり」・・とある。
  実父は、山脇玄修の門で医学を修め、東洋はその才を
 買われ、1726年に、玄修の養子となっていた。
  また、太宰春台らと交わり、徂徠学の感化を受けた。
  東洋は、それまで中国古典にいう五臓六腑説に疑問を
 もち、動物解剖を試みたが満足できなかった。
  そして、年月が経過するばかりだった。
  徂徠学の感化から実証精神を深めたのだった。
1754年11月、この頃の、南米において・・、
  スペインとポルトガルの連合軍は、インディオの村々
 を攻撃した。
  反撃されて、初めは撤退していた。
  そして、不利になった途端、連合軍は、休戦協定を結
 んだ。
  そして、時を稼いだ。
  そして、自分たちに都合が良くなると、翌年の1755年
 に、3万人の重装備のスペイン・ポルトガル連合軍を結成
 し、また、インディオの方々に襲い掛かった。
  強力な兵器を持たないインディオの方々は、敗走した。
  キリスト教徒の殺戮者の白人たちは、奪った土地を占
 領した。
  そして、広大な占領地が手に入って来ると、この様な
 段階になると、この白人たちは・・、
  スペインとポルトガルの連合状態が崩れて行った。
  そして、占領した土地の問題が元で、いざこざが発生
 した。
  インディオの方々も、それに乗じて、追われた土地に
 戻れた。
  しかし、その戻れた人数は、初めの半数以下だった(
 半分の人々は殺されてしまっていた)。
  初期は、この様な状況だったが、後の時代になると・・、
  その悪行為は、だんだん熾烈(しれつ)で悪どくなっ
 た。
  迫害で、攻撃で、殺戮で、減ってしまった可哀想なイ
 ンディオの方々は、この時は、戻れた。
  そしてまだ、
  この時は、森が深かったため、
  そして、この時は、奴隷狩りからも免れられたが・・、
  これから、次の様な、更なる非人道的な形で、インディ
 オの方々の数は減って行く。
  そして、奴隷狩りに伴う虐殺も起きて来る。
  近年になって、このインディオの方々を題材にした映
 画が作られたが、
  この様な悲劇をまったく伝えなかった。
  ただただ、美しくキリスト教の行為と共につくられた
 映画だった。
  嘘のプロパガンダ映画だった。
  繰られている人がそこに居た。
18世紀、この18世紀という世紀に、インディオのグアラニ
 ー族の中で、ブラジル最南部にいたトゥピナンバ族が、
 絶滅させられた。
  他の種族も、急速に追い詰められて行った。
  スペイン人は、攻めて、奴隷にするという非人道的な
 好き勝手な悪行為をした。
  その中で、カディベウ族は、戦闘の中で、スペイン軍
 の乗馬を真っ先にマスターして、スペインと戦った。
  スペイン軍を悩ませた。
  これは、日本に鉄砲が伝えられて、いち早く鉄砲の技
 術をマスターし、
  かつ、国内での生産を難なく行って、
  領土的野心を持つキリスト教宣教師や、南蛮諸国に、
 手出しをさせなかった日本に似ている。
1755年、宝暦の大飢饉:奥羽地方が大飢饉になった。
   この飢饉は、被害が大きいが、実態があまり知られて
 いない。
  冷害による凶作に起因。
  5月中旬から異常な低温に襲われ、8月末まで雨が降り
 続いた。
  例年なら最も暑い頃も、木綿の綿入れを重ね着するほ
 どで、こごえるほどの冷たさだったから、稲は、田植え
 をした時のままで生育せず、
  ようやく穂が出たものの実らずに、枯れた・・と一関
 藩の記録がある。
  この一関藩よりさらに被害のひどい南部藩から、骨と
 皮だけにやせた流民が押し寄せ、
  路上のいたるところに倒れ伏し、
  その惨状を目にした医師(藩医)の清安は、
  「今、医者としての私にできることは何か」と考えて、
 「民間備考録」と「備荒草木図」の二書を著した。
  飢饉に備える民間のための書という意味である。
  また、、飢饉のときに山野で食べられる草木について、
 民間の一般の人が解り易い様に絵で描いている。
1756年、日本の総人口:26,071,000人
1756年1月、初代・沢村宗十郎(さわむらそうじゅうろう、
 歌舞伎役者)が没した(1685年~1756年)。
  人気抜群であった2世・市川団十郎と並んで「両輪の
 名花」とたたえられた。
1756年、米価騰貴により、米穀の貯積を禁じる。
1756年~1763年、英仏植民地七年戦争が起きた。
  インド・カナダの海外植民地で、イギリスがフランス
 を破り、イギリスの世界的優位が確立した。
  これから、世界中で、イギリスの悪さが始まる。
  この戦争は、第二次百年戦争ともいわれ、卑劣な、そ
 して、軽蔑すべき戦争ばかりをしている状況だった。
   そして、アメリカでは、先住民であるアメリカ・イン
 ディアンの方々の駆逐による土地の奪取、そして、労働
 力を補おうと黒人の方々の奴隷としての輸入行為が行わ
 れていく。
  18世紀後半の七年戦争(北アメリカにおけるフランス
 のインディアンに対する戦争、フレンチ・インディアン
 戦争)の結果、イギリスが、北アメリカに広大な旧フラ
 ンス領土を獲得する。
  イギリスは、帝国主義的に植民地統治を強化していく。
  フランスの居なくなったイギリスは、好き勝手に領土
 を奪い、また、利益を奪取し、1775年のアメリカ独立戦
 争に至る。
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2015年8月4日火曜日

(増補版)171D2/3:気になった事柄を集めた年表(1750年~1753年)

題:(増補版)171D2/3:気になった事柄を集めた年表(1750年~1753年)
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1751年2月3日、大岡忠相(おおおかただすけ、江戸町奉行
 など)が没する(1677年~1752年)、74歳
  吉宗に認められ、抜擢され、功績を残した。
  有名な江戸町奉行以外にも、小石川養生所など、温か
 い数々の功績を残し、活躍した。
  新田開発・育成や治水事業など、庶民の生活の安定化
 に努め、幸せづくりに尽力した。
  必ずしも地方御用掛としての勘定所や代官らに、必ず
 しも組せず、
  だから、庶民は、様々な思いを、忠相に託した。
  武蔵野新田開発を中心に、関東各地の農政展開は著名。
  これで、享保の改革末期の体制はかなり強化された。
1751年7月12日、徳川吉宗(とくがわよしむね、第8代将軍)
 が没した(1684年~1751年)67歳、
  幕府中興の英主(えいしゅ、優れた君主)と称えられ、
 武芸・学問、特に実学を奨励した。
  和歌山藩の5代藩主の時にも、藩財政の立て直しに実績
 をあげ、藩主としても声望(せいぼう、世間の名声と人
 望)が高かった。
  法制の整備と相まった行政官僚制の充実と発展は、吉
 宗の功績は大きい。
  また、視点が、国富、国益という大きなものに、大き
 な関心において行われていた。
  産業の開発に役立つ科学技術的な知識を得ようと、漢
 訳洋書に止まらず、さらに、ヨーロッパ原書の知識を直
 接吸収すべく、その外国語とともに、学ばせ、取り組ま
 せた先見性など、先駆者としての推進・行動は、また、
 その一連の政策は、我が国の近代化にとって重要な役割
 を果たしている。
1751年12月20日、清船が、わが漂流民を送還する。この日
 に、長崎港に入港した。
  和船によって、日本沿岸は、活発に物流が行われてい
 たが、その一方、海難事故も決して少なくなかった。
  その海難船の多くが、中国大陸に漂着していた。
  中国大陸に漂着した多くの日本人たちは、漂着地に近
 い中国の港から、日本の長崎港に来航する貿易船で帰国
 していた。
  江戸時代中後期以降になると、日本に来航する貿易船
 は、乍浦(さほ、じゃほ)に限定されたため、
  中国へ漂着した日本人の多くは、漂着地から沿海の帆
 船に乗せられて、乍浦に送られ、
  乍浦で、日本への貿易船の出航まで安置されて、帰国
 した。
  1751年12月20日に、長崎に入港した11番寧波船で帰国
 した奥州南部の人々。
  この人たちは、福建の北部沿海に漂着した。
  そして、中国各地を経由して寧波に送られて、ここか
 ら帰国した。
  この様な例は、1754年にもあり(奥州仙台の30人)、
 また、1756年2月には、筑前の人・4名など、
  舟の構造からか、比較的難破して、中国から帰国する
 人が多かった。
1751年、信濃松代の農民一揆(田村騒動)
  一揆の原因は、そのほとんどが増税であった。
  信濃松代藩の第5代藩主・真田信安(さなだのぶやす)
 が、藩を継いだ1735年頃は、
  家老や家臣たちが、不正を働いていて、財政は極度に
 悪化していた。
  信安は、田村半右衛門を登用し、藩財政の改革に取り
 掛かった。
  田村は、まず、それまで不正を行なっていた家老や役
 人に対して、その行為の代償として、御用金を何年かけ
 ても支払わせるようにした。
  次に、百姓に対し増税策を行なった。
  不正を行った者に対して、御用金のみが課せられ、そ
 して、それ以上の罰はなく、
  罪のない百姓に、重い負担が課せられた。
  松代藩に、4700両の貯えもできたが・・、
  ここで、百姓たちは一揆を起こした。
  信安は、田村を罷免して対応した。
  そして、1752年に、長男・幸弘に家督を譲った。信安
 は、この年に、没している(39歳)
1752年、出版:『江戸切絵図・番町』が初刊された。
  吉文字屋が「番町之絵図」を刊行、江戸切り絵図の始
 まりをされている。
  切絵図は切図とも言い、江戸時代から明治にかけて作
 られた区分地図。
  土地利用を示す切絵図が、村役人によって作成された
 例が少なくない。
  地域別または地目(田畑・山林など)別に区切って作
 った。
1752年、フランクリン(アメリカ)が、「凧(たこ)」の
 実験によって稲妻が電気放電であることを明らかにした。
  また、フランクリンは、1776年のアメリカの「独立宣
 言」の起草委員でもある。
1752年、ビルマ(ミャンマー):アラウンパヤー朝が成立
 した。
  アラウンパヤーが開いたビルマ最後の王朝(1752年~
 1885年)
  三度にわたるイギリスとの戦争に敗れ、イギリス領イ
 ンドに、朝鮮併合の様に、併合された。
18世紀、タイ:18世紀に、チャクリー朝が成立し、
  19世紀以後、西欧列強のアジア侵略の中で、巧妙な政
 策を取り、植民地化を免れた。
1753年、喜多川歌麿(きたがわうたまろ、浮世絵師)が生
 まれた(1753年?~1806年)
  錦絵「鷹島おひさ」大英博物館所蔵
  錦絵「歌撰恋之部 稀二逢恋」大英博物館所蔵
1753年、災害対策:貯穀
  囲米・囲籾(かこいまい・かこいもみ)
  諸大名に、1万石につき籾(もみ)千俵の貯穀を命じた。
  幕府は当初、おもに軍事上の目的で、幕府直轄地はも
 ちろん譜代大名に対しても貯米(城詰米)を奨励した。
  しかし、泰平が続くうちに、これら囲米は、軍事用よ
 りはむしろ備荒用としての性格が濃厚になった。
  幕府は、一般の諸大名に対しても、1683年の令を初見
 として、しばしば備荒のための囲米令を発した。
  この年・1753年にも、1万石につき籾1000俵の割合で
 貯蔵する様に諸大名に命じた。
  後に、旗本まで奨励したり、貯穀の率が高くなってい
 る。
1753年、出版:安藤昌益(あんどうしょうえき、医師、思
 想家、哲学家)が、「自然真営道(しぜんしんえいどう)」
 を著し、刊行して、封建社会を批判した。
  安東昌益(1703年~1762年)は、伝記はあまり明らか
 ではないが、
  秋田藩の上層農民の家に生まれ、八戸に移住し、町医
 者として生活、
  晩年は、長崎に行き、海外事情を研究した。
  自然真営道は、「人は自然の全体也(なり)。故(ゆえ)
 に自然を知らざる則(とき)は吾(わ)が身神の生死を知ら
 ず」とある。
  この立場から、気一元論や陰陽五行説によって、天文、
 地理、人体を論じた。
  天照大神や天皇制の尊重も説いている。
  また、平等社会への変革を説き、封建的身分制を否定
 している。
  原本が関東大震災で多くが焼失した。
1753年、J・P・プラッシーが生まれた。
  キリスト教の宗教性を、学問的に究めるための聖書学
 という事を始めたJ・P・プラッシーが、この年に生まれ
 た(1753年~1826年)。
  そして、この学問は、時代が進むほど、研究が進めば
 進むほど、
  キリスト教の悲劇が極まって行ったという経過をたど
 った。
  そのキリスト教の悲劇は、新約聖書学という近代の学
 問で、厳密に、精緻に、研究をすればするほど、万人を
 説得できるような、確実不動のイエス像の再構成の見通
 しが、暗くなって来ることであった。
  研究によって再建されたイエス像は、たかだか蓋然性・
 妥当性の域を出なかった。
  例えまた、再建されたとしても、イエスの思想は、新
 約思想の部分にしかならず、全体になり得ないというも
 のだという事が判明した。
  また、この部分的なイエスの思想を使って、新約思想
 の本質を探ろうとしたら、原始キリスト教団の多くは、
 切り捨てられてしまうという結果となった。
  また、そのイエスの思想は、その肝心な神学的根拠が
 明白ではない。
  つまり、
  『キリスト教は、基礎からしっかり積み上げられるよ
 うな宗教ではない』と、分析された結果となった。
  砂上の楼閣的な宗教だとの研究結果になって行った。
  キリスト教は、研究が進めば進むほど、宗教として成
 り立ちえない事が明白になって行った・・その様な、研
 究の歴史となった。
..
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2015年8月3日月曜日

(増補版)170D1/3:気になった事柄を集めた年表(1745年~1750年)

題:(増補版)170D1/3:気になった事柄を集めた年表(1745年~1750年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1746年、塙保己一(はなわほきいち、国学者)が生まれた
 (1746年~1821年)、
  7歳で失明し、15歳で江戸に出て、
  国学を賀茂真淵(かものまぶち)・山岡明阿弥(やま
 おかみょうあみ)に学んだ。
  抜群の記憶力により、和漢の学に通暁(つうぎょう、
 精通、物事に通じていること)し、
  幕府の保護もとに、和学講談所を建て、「群書類従(
 ぐんしょるいじゅう、古書を集大成した)」などの編纂
 事業に携わった(40年を費やして完成したとのこと、続
 編にも着手した)。
1746年、吾妻三八(あづまさんぱち、歌舞伎役者、作者)
 が「扇矢数47本」を大阪で上演した。
1746年、経済:荷物の保険と金銀為替を開く
  嶋屋佐右衛門が、陸奥福島と京都間を往復、荷物の保
 険と金銀為替を開く。
  大友大江丸(おおともおおえまる、晩年の号)の江戸
 店での屋号が嶋屋佐右衛門。
  俳人でも有名。飛脚問屋を営む。
  三度飛脚と称して、毎月3度、江戸、京都、大阪間を
 往復するようになった。
1746年、人事:小姓番組頭格の大岡忠光(おおおかただみ
 つ)が、将軍・家重の側用人となる。
  御側御用取次側衆に異動し、石高1200石加増。
1746年、処罰:大盗の浜嶋庄兵衛(日本左衛門、にほんざ
 えもん)が指名手配され、翌年に捕まり、斬首となる。
  東海道筋で手下をひきいて強盗をかさね、お尋ね者と
 なる。
  1747年に、京都町奉行に自首し、1747年3月21日に、江
 戸で処刑された。
  歌舞伎の「白浪(しらなみ)五人男」の日本駄右衛門
 (にっぽんだえもん)のモデル。
1747年5月、太宰春台(だざいしゅんだい、儒学者)が没す
 る(1680年~1747年)、
  荻生徂徠に師事した。
  仕官したが自分の居場所ではないと悟ったか、退官し
 て以後、官途につかず、私塾を経営し、弟子を育てた。
  春台は、徂徠の農業を中心とした自給自足的な自然経
 済機構に立脚した経世論を認めながら、富国強兵を積極
 的に図るべきとし、その理論的裏付けをした。
  言葉:
  「位(くらい)高き人に、ものの上手はなきものにて、
  上手はいつも 賤しき者に出来(いでく)るなり」
1747年、三角測量によるカッシニのフランス地形図が作ら
 れた(開始された)(1747年~1818年)
  カッシニ家は、何代にもわたって、三角測量によって
 カッシニ図を作り、
  これは、フランス全土の8万6400分の1という縮尺図で、
 全てで182葉あり、1793年に、完成させた。
1747年、ナーディル・シャー暗殺され、イラン混乱する。
1748年10月、大岡忠相(おおおかただすけ)が大名に列す
 る。
  これまでの功績により、4000石の加増を受け、三河1万
 石の大名となった。
  公正な判断を下す名奉行と言われた。
1748年、演芸:竹田出雲(たけだいずも、浄瑠璃作者)・
 並木千柳(なみきせんりゅう、並木宗輔のこと、浄瑠璃
 作者)らの合作の「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅう
 しんぐら」が、大坂・竹本座で上演(初演)され、好評
 を博した。
  人々が喜んで話題とした赤穂義士の討入りを材料とし
 て、時代を「太平記」の南北朝時代の世界にし、吉良
 上野(きらこうずけ)を高師直(こうのもろなお)、
 浅野長矩(ながのり)を塩谷判官(えんやはんがん)、
 大石良雄を大星由良之介とした。
1748年10月18日、アーヘンの和約(オーストリア継承戦争
 の終結条約)
  オーストリアは、列国からマリア・テレジアの帝位相
 続権の承認を取り付けた代償として、プロイセンその他
 に領土を割譲した。
  1668年に、ルイ14世のフランスが侵略を始め、スペイ
 ンのネーデルランド(オランダ・ベルギー・ルクセンブ
 ルグ辺りの国)の相続を要求した。
  イギリス・オランダは反撃した。
  相続問題は解決せず、
  イギリスは、スペインから、西インド諸島や北アメリ
 カの領土要求権を得た。
  17世紀以来、戦争を繰り返すイギリスとフランスが介
 入して、いざこざが拡大し、展開した戦争だったが、
  1748年に、オーストリア承継戦争の和約をした。
  あちこちで領土だ、相続だの戦争に明け暮れた。
1748年、モンテスキュー(フランス、思想家)が、「法の
 精神(ほうのせいしん、法律論)」を刊行した。
   20年を要した。
  立法・行政・司法の三権分立を主張した。
1749年10月、幕府が、足利学校(日本最古の学校)に修理
 費を下す。
  足利学校の創建には、奈良時代創建説、
  平安時代初期の小野篁(おののたかむら)創建説、
  鎌倉時代初期の足利義兼の創建説、
  室町時代中期の関東管領・上杉憲実(のりざね)創建
 説がある。
  存続の窮地を、家康が救ったという話もある。
  江戸期に入ると、所領も寄進され、また、足利の領主
 たちによっても保護を受け、
  足利近郷の人々が学ぶ郷学(ごうがく、村里の学校)
 として大切にされた。
  江戸期の学者たちは、貴重な古典籍を所蔵する図書館
 として注目していた。
  足利藩は藩校とした。
  明治になって多くの建物が壊された(変な西洋讃美の
 思想のため、日本古来からのものの軽視があった。
  明治期は、古来からの善きものが安易に壊された時代
 であった)。
1749年、年貢:定免制を全面施行した。
  定免制の、「免」は、年貢の賦課率のことで、
  過去の5年間や、10年間や、20年間などの田租額を平均
 して租額を定め、
  一定の期間内は、その年の豊凶に関係なく、一定額を
 徴収した。
  風水害などで損害が著しい時は、破免という処置をと
 って減税した。
1749年8月28日、ゲーテが生まれた(1749年~1832年)
  ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、政治家、
 法律家。
  キリスト教が原因の卑劣な長い戦いであった30年戦争
 で、ヨーロッパの方々の3分の1が亡くなるという荒廃か
 らようやく立ち直り、市民階級が台頭して来る人間中心
 主義の時代の中に生きた。
1750年、上杉鷹山(うえすぎようざん、上杉治憲、出羽国
 米沢藩の第9代藩主)が生まれた(1750年~1822年)
  江戸時代屈指の名君。
  上杉鷹山公と、「公」を付けて呼ぶべき人。
  アメリカのJ・F・ケネディ元大統領や、ビル・クリン
 トン元大統領が、
  「もっとも尊敬する日本人」と言った人。
  キャロライン・ケネディ駐日大使(ケネディ元大統領
 の御令嬢)も、この事を明らかにされている。
  鷹山は、九州の日向(宮崎県)高鍋藩の藩主の子であ
 ったが、10歳の時、米沢藩の養子となる。
  17歳で家督を継いだが、
  この頃、米沢藩には多くの借財があった。
  深刻な財政難は、江戸の町人にも知られるくらいだっ
 た。
  町人は言った
  「新品の金物の金気(かなけ)を抜くには『上杉』と
 書いた紙を貼ったらいい」・・と、
  金のない上杉が、その金気を吸い取ってくれる・・と。
  鷹山は、苦労して、藩内を励まし、農民を励まし、
 治水を一生懸命し、商品作物を奨励し、
  特産物を作って、私工業を興し、
 社会システムを改善し、意識改革をし、
  倹約もてし、旧弊(きゅうへい、古い習慣・制度など
 の弊害、古い考えに捉われるなど)と戦い、
  飢饉とも戦い、非常食の普及に努め、
  学問所も再興して、身分の差なく学ばせ、
  騒動の辛い時期を乗り越え、
  破産寸前の藩財政を、立ち直りさせて行った。
  そして、借債を返して行った。
  紅花(べにばな)もこの頃からのもの、
  垣根の生垣も、役に立つ樹木に替えさせたりした。
  池に鯉を飼い、細かい改善にも意を配り、積み重ねた。
  「なせば成る、なさねばならぬ、何事も」は、鷹山の
 言葉。
  人間性のある、深さもある人だった。
  そして、「成らぬのは人の なさぬなりけり」・・と。
1750年1月、幕府、「強訴・徒党・逃散仕置」を再び禁止
  厳しい時代だった。
  この中、百姓の強訴の禁令をしく。
1750年、世界人口が:7億5000万人に。
1750年、日本の総人口、25,913,000人
1750年頃以降、日本のこの江戸時代を、欧米の書籍では「
 early modern age(アーリイ・モダーン・エイジ)」と
 呼び、そして、書く。
  「初期近代」だと見られている。
  この時代の日本には、近代資本主義社会を準備する要
 素が数多くあった、内包されていた。
  進んだ社会だったと・・知られている。
  世界に誇る日本であった・・と。
  この江戸時代の成熟があったればこそ、奇跡の明治維
 新へバトンタッチされて行った・・と言えるものがあっ
 たと言える。
  明治の革新は、何ら奇跡でも何でもなかった。
  その発展の布石は、江戸時代に築かれていた。
  これらの事は、いまでは自明な歴史常識となっている。
..
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