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2013年6月28日金曜日

「隠れキリシタン」と言われる人たちがいた・・

題: 「隠れキリシタン」と言われる人たちがいた・・
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 「隠れキリシタン」と言われる人たちがいました(過去形)。
 今はいません。
 その、過去に居た「隠れキリシタン」は、江戸時代に、禁止
されればされるほど、独特の宗教の形に変えてまでして宗教を
持ち続けました。
 しかし、その変え方が、本質を損なうものでした。そして、
変えた先が本物と化しました。
 元のキリスト教がだんだん霞(かすみ)とともに、それこそ
「隠れてしまったキリスト教」となって行きました。
 悲しいかな、孤立した状態の中では、宗教は本質を維持でき
ず、変質に変質を重ねて行った。
 長い年月、あらぬ方向へたどり着いた。聖書は、キリスト教
の宗教から離れてしまっていた。
 もうキリスト教と呼べない宗教の形へと変化して行った。
 聖書というものには、新旧の聖書に記紀神話や仏教説話・民
話の考え方などが入ってもいた。
 混合型佛教キリスト教である。キリスト教とは違う独特の宗
教が形成された。
 例えば、キリスト教の宗教教義の中で大切な根本教義である
『贖罪』の教義はまったく無くなっていた。
 根本教義が跡形もない状態なら宗教を形成していないし、信
仰は成立していない、もはやキリスト教とは呼べない。
 イエスの受難は、イエスが今生で犯した罪によって磔刑にあ
ったというものだった。ゴルゴダの丘の隣に居た強盗と同じ種
類と見なされた。
 宗教としてキリスト教と離れて維持されていたこのキリシタ
ンの宗教(名ばかりのキリシタンも、もはやキリシタンなどと
言えない)も、「非キリスト教の隠れキリシタン(元キリシタ
ン・かつてキリシタン)」ではあったが、禁止されれば、心理
学的にも説明できる事であるが、その心理作用によって宗教は
形として守られた。
 しかし、信教の自由が認められる状況となった明治の時代に
なると、そのキリシタンの宗教は消えて行った。名実ともに消え
去った。
 これも心理学的に説明できる事柄である。
(追記):
 「隠れキリシタン」の方達は、以下の経緯の中で、やむを得
ず誕生した。
 日本に来たキリスト教宣教師の方たちは、
 日本は最初は受け入れていた。
 信長・秀吉・家康は忌憚なく謁見したりした。
 活動も許し、教会も建てることなどを許可した。
 しかし、その後において、
 キリシタン大名へ「死の商人」的行為があったり、
 日本への攻撃の恐れがあり、秀吉はフィリピンへ使いを出し
 たり、また、違う事件で日本占領の意思を確認したり、
 日本人(女性)を奴隷として売買する行為があったり、
 だんだんとキリスト教に対する見方が変わっていった経緯が
 ある。

2013年6月27日木曜日

キリスト教・・ニ題。

 題: キリスト教・・ニ題。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスが神になる前・生前、彼は「天の父」を信奉していた。
 つまり、彼の信仰する宗教は、「天にまします『天の父』」
の一神教であった。
 生前、イエスは、ユダヤ教を信奉していた、「ユダヤ教だ」と
認識する下(もと)に居た。
 母・マリアも、供犠の鳩を持って、ユダヤ教のエルサレム神
殿のお参りをしている。
 イエスの家族すべてが、「信仰している宗教はユダヤ教だ」
と認識していたことが分かる。
 イエスの死後、彼らの拠点をユダヤ教のエルサレム神殿にし
てもいる。  
 そして、イエスの直弟子達も「我々はユダヤ教だ」と認識し
ていた。
 イエスの家族らと共に・一緒に、ユダヤ教のエルサレム神殿
を拠点にしていた。
 そして、明らかに、死にあたって、イエスは、当然、「自分
はユダヤ教徒だという認識のもとに、死途に就いた」。
 故に死の時、イエスは、ユダヤ教徒だと認識し、ユダヤ教徒
としての認識の下(もと)に死途(死にゆく道)に就(つ)い
た。
 そして、死後、数百年という長い年月が経過した後、「彼は、
キリスト教の神とされた」。
 キリスト教の公会議という「人の集まる会議」で、すったも
んだの挙句、何度かの会議の後に、やっとイエスは、キリスト
教の神とされた。この会議で、『異端だ』と決め付けられ、無
残にも放逐された者(派)もいた。
 この、人が集まり、人が決めたことは、
 「イエスを神とし、イエスが信奉していた神と違う神を神と
したこと」・・であった。
 こんな宗教に、キリスト教の年月の中で、何千万という方々
が「殺され、死途に就いた事を思うと、なんと愚かなことか」と
思う。
 死ななければならなかった方々の「無念さ」に心が痛む・・。
 愚かな教義ゆえに、
 「簡単に、自分たち以外の民を、殺戮する」。
 「その愚かな教義を削除せよ」。
 「心底からその認識から脱却せよ」。
 「毛ほどの気配も払拭せよ、払拭して行け」。
 そして次の話、
 法政大学教授・高尾利数氏の言葉:
 「キリスト教という宗教が、真の『内容的普遍性』を持つ宗
教だとは思えない。
 キリスト教は、典型的で強大な『信じ込みの宗教』である」。
 (以上の言葉から思うことは)・・・
 キリスト教は、自然・自然と、理が通っているから、頭の中
に整理されて、人生に役立つ素材が蓄積されて行くという宗教
・メカニズム・機構ではない・・と、氏は言われている。
 キリスト教という宗教は、
 『信じ込み』を必要する宗教だと言われている。
 その信じ込み作用も「強大」に、「強力」にしなければなら
ない宗教だと言われている。
 そこに、心のストレスが働くことは必然である。
 無理が心に掛かり、心の負担を強いている。
 キリスト教徒に「心に関する可哀想な方々」が出ているが、
この様な面に原因がある。
 また、教義の前提である「性悪説的に物事を考える」という
問題もある。
 科学的にも、性悪説的な思考・論理展開は、病気になるとい
うことが立証されている。

2013年6月26日水曜日

プロパガンダ(嘘宣伝)がはっきりして来ている。

 題:プロパガンダ(嘘宣伝)がはっきりして来ている。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 1945年の上エジプトで、「ナグ・ハマディ文書」という文書
が発見された。
 この中には、「トマスの福音書」と言われる文書も入ってい
た。
 また、これらの文書は、「グノーシス主義」という主義の文
書だった。
 グノーシス主義は、初期キリスト教の時代に、正統的な教会
から『異端』というレッテルを張られた、最大の運動だった。
 「トマスの福音書」は、その異端運動の中心的文書であった。
 「グノーシス」とは、ギリシャ語であって、
 意味は、「洞察を深め、字義通りの解釈を越えて到達される
高い次元での奥義的な英知」という意味だった。
 この運動は、「イエスの復活」などは『事実ではない』とし
て、信じ込む事は「愚かな事」として退(しりぞ)けていた。
 そして現代、アメリカの気鋭な学者集団の数十人からなる研
究団体は、この「トマスの福音書」を研究対象に加えないとイ
エスの原像には辿(たど)れないとした。
 そして、これらの研究によれば、「イエスの奇跡」などは、
 かなり後になってから『作り出された話(創作話)』である
という研究結果を発表している。
 また、イエスは、「遊行哲学者」ふうの人と発表した。
 また、「イエスの死を贖罪の死」と捉(とら)えるのも、かなり後
代に発展された(作り出された)事という。
 復活信仰は、かなり後代になってから(創作)という。
 また、日本の学者も「初期キリスト教の宣教を、贖罪信仰を中心に
した」と考えるのは間違っていると言う。
 伝統的なキリスト教の「奇跡信仰」は眉唾だとしている。
 キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)が、近代の研究の成果で、は
っきりして来ている。
(参考)ゆう‐こう【遊行】 [名](スル) 1 遊び歩くこと。「外国に
―して一時歓娯を極むるに似たれども」〈織田訳・花柳春話〉 2 さま
ようこと。

2013年6月25日火曜日

こっちを繕(つくろ)えば、あっちが解(ほつ)れる。

題:こっちを繕(つくろ)えば、あっちが解(ほつ)れる。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスの家族について、見てみると、
 イエスには、兄弟姉妹が大勢いる。
 イエスは、現代からみれば、多いと言える大家族の肉親を持
っている。
 イエスの弟・ヤコブが有名だが、キリスト教の宗教的な教義
から見れば、イエスは『神』だが、ヤコブは『使徒』だ。
 また、キリスト教の宗教的な教義から見ると、「イエスだけ
が、ヨセフと血縁ではない」。
 しかし、イエスが故郷のナザレに返ってくると、
 故郷の人たちは、イエスを懐かしく見て、「預言者とはうま
いことをやっているな」とイエスに声をかける。
 イエスも、「古里では、預言者も預言者ゼンとしてられない」
的な言葉を言っている。神通力が働かないというところか。
 故郷という所のイエスは、イエスの治療効果が働かないとい
うことは科学的にも立証されている。
 イエスがやっている「患者に手を置く」「手を当てる」とい
う行為は、病を癒(いや)す効果があることは、近代科学でも
立証されている。
 つまり、イエス以外の人でも効果があるという事である。
 また、精神的に病んだ人も、ステータスのある人がイエス的
な治療効果を得させることはあるとの結果を得ている。
 そして、イエスを子供の頃から見ていた故郷の人には、キリ
スト教的な見方では、当然、なかったのは当然だろう。
 普通の子供の様に、子供仲間と駆け回っていた野山があり、
古里の家並みがあり、喧嘩もしたのだろう(イエスは短気だし)、
 そして、泣きわめく男の子として近所の人・古里の人たちは
見ていたのだろう。大きくなっていく、育っていく過程を。
 そしてまた、その故郷の人たちは、近所の人として、夫婦
(ヨセフとマリア)の血のつながった子供と見ていたのだろう
(血縁の子)。
 キリスト教は、イエスを宗教的な題材として取り上げた時か
ら、神格化への道を歩み、数百年も経っての後の公会議で、
「やっとイエスを神として認めた」。
 その途中には、イエスを「主とも呼んでいなかった」。
 イエスを「主」と呼ぶ様にしたりして来たり・・・。
 イエスが神となった公会議決定のその時から、キリスト教的
には、マリアは、神の子を産んだと言う事になった。
 そして、神の子を産んだのなら、母・マリアも神だろうとい
う話になり、その問題点を補完するキリスト教の教義も新しく
作ったりした(「無原罪の御宿り」など新しく教義として決め
た)。
 がしかし、マリアは、人の子も産んだという事になっている。
 次から次へと問題点は出て来る。
 イエスが、その兄弟姉妹の長男という事は間違いない事実だ
し・・・。
 キリスト教の教義的には、説は色々あるが、マリアは、イエ
スを処女で産み、ヨセフは、マリアの処女性に悩んだという話
は聖書にあるが、イエスの後、ヨセフとの間の子(人間の子供)
を何人か産んだ。
 またはそれとも、マリアの処女性を優先するのなら、その後
の子供達も(イエスの兄弟姉妹たちも)、神の子となるのだろ
うか?・・と、話は舞う。
 いずれにしても、この様な事を「ああだ」「こうだ」と言う
キリスト教の宗教性の程度にクエスチョン・疑問が涌く。
 話のレベル的には高いという感じはしない。
 それを気にしてか、キリスト教の聖書の(「マタイによる福
音書」1・25)には、
 ヨセフが、「男の子(イエス)が生まれるまでマリアと関係
する事は無かった」とわざわざ書いている。
 そしてまた、イエスの誕生後は、性的関係を持ったという事
が明記されている。その様に、はっきり「わざわざ」書いてい
るが、キリスト教は、このブログに書くのも嫌になるほど、こ
れを問題とし「ゴチャゴチャ」言い続けている。軽蔑すべき状
態となっている。
 こっちを繕(つくろ)えば、あっちが解(ほつ)れるという
状況のキリスト教宗教となっている。
(参考)ステータス【status】 《「ステイタス」とも》 1 社
会的地位。また、それを表すもの。 ステータス‐シンボル【sta
tus symbol】 社会的地位や身分を象徴するもの。

2013年6月24日月曜日

自分の利=自利の欲しさに・・・

 題:自分の利=自利の欲しさに・・・
.(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスに「汝の敵を愛せよ」という言葉がある。
 この句が出て来る(「マタイによる福音書」5・43~44)に
は「隣人を愛せよ」という言葉がある。
 しかし、当時、「隣人」と言っても極めて限定した意味の
「隣人」であり、「隣人愛」であった。
 隣人とした、その極めて限定された「隣人」は、
 「ユダヤ教共同体に属した人」を指し、
 そしてさらに、「同じ信仰を共有している人」の事を指して
いた。
 キリスト教は、得意のプロパガンダ(嘘宣伝)で、広い愛の
如くに言って来た。まったく、嘘つき宗教である。
 キリスト教は、所詮、自分たちがよければ良いに帰結してい
く。
 それは、宗教の成立過程にあった、
 砂漠の恵みの少ない地は、飢餓の世界だった。
 奪い取りの世界であった。
 そこに生まれた宗教は、自然と民族の存続を祈り、
 飢餓の時は、隣国の富を奪いに行った。
 古代の、その様な薄氷の上での生活の中に、生まれた宗教だ
った。 
 今・現代では、世界の連携が進んだ世界には、その様な考え
・教義は受け入れられないが・・・。
 キリスト教にはその様な『背景』があった。
 その様な背景から、他人を平気で殺戮することが、キリスト
教には、実に多い。それも、弱い者いじめ。
 自分達だけの愛であるのに、その愛を広く言う嘘、厳然と
「異教徒は殺せ」の敵対の教義を、今でも持つキリスト教であ
るのに。
 イエスの言葉の「汝の敵を愛せよ」の後の言葉の「自分の迫
害する者のために祈れ」は、イエスの言葉ではない。
 キリスト教は、キリスト教だけが、特に、愛の宗教の様にプ
ロパガンダ(嘘宣伝)するが、仏教も「慈悲}や「愛」を説い
ている。
 キリスト教は、さらに、旧約聖書には、新約聖書のマタイに
よる福音書にも記されている様に、「敵を憎めと命じられてい
る」と記されている。
 「敵は憎め」がキリスト教の心底に流れている。
 キリスト教は、実際、その歴史には、愛と言うより「異端狩
り」「異教徒狩り」「ユダヤ教徒狩り」「魔女狩り」「異端裁
判」「宗教裁判」「宗教戦争」「植民地の残虐な殺戮」などな
ど、切がないほどの非人道的行為が、あまたある。
 愛の宗教と程遠い実態が、歴史に歴然と刻まれている。
 何とプロパガンダ(嘘宣伝)しようが、過去の歴史は変えら
れない。南米・中米・北米メキシコ・そして、それらの離島で
1000万人の方々が、キリスト教徒と同行した聖職者たちに殺
された。その方々の『無念な死』は、歴史に歴然と刻まれ、キ
リスト教を睨んでいる。この例ばかりではない。
 このキリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)の「隣人愛」の「
同胞・兄弟」への愛を説けば説くほど、同じ信仰の同胞・兄弟
の他の人・異教徒に対する差別・猜疑・不信・軽蔑を誘発した。
 最後には憎悪へと至った。
 キリスト教という自分たちの宗教を絶対化すればするほど、
「キリスト教唯一絶対主義」と伴に、キリスト教の卑劣な歴史
が現出した。
 「そうすればあなたがたは、天におられるあなたがたの父の
子となるでしょう」と自分だけの利益を説くというキリスト教
の教義。
 その報償を欲しいと願うばかりに、自分の利益=自利の欲し
さに、キリスト教徒による悲惨な戦争や殺戮・殺し合いが、あ
また現出した。

2013年6月23日日曜日

イエスは、「汝の敵を愛せよ」と言うが・・・

 題:イエスは、「汝の敵を愛せよ」と言うが・・・
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスに「汝の敵を愛せよ」と言う言葉があると、言われて
いるが、
 この言葉が出て来る(「マタイによる福音書)5・43~44)
は、「隣人を愛せよ」という言葉もある。
 しかし、この「隣人」という言葉は、本当に、隣人の意味で
あって、
 キリスト教が、美しくプロパガンダ(嘘宣伝)で、広い意味
の愛だというが、まったくの嘘。
 だから、キリスト教は「愛の宗教」だと言うが、まったくの
嘘である。
 この「隣人」は、「極めて限定した人たち」という意味の隣
人で、
 「ユダヤ教の共同体」を指していた。
 しかもまた、「同じ信教を共有する人」という制限も付いて
いた。
 このキリスト教の「隣人愛」がプロパガンダ(嘘宣伝)され、
一人歩きし、広い愛だと喧伝され、間違われ、キリスト教もよ
く言うよ、臆面もなくよく言うという感じで来た。
 「隣人愛」と言ったって、自分たちだけの同胞だけの愛を言
っていて、やはり、キリスト教は、自分たち以外の民には「異
教徒は殺せ」の敵対の教義なのである。
 そして、イエスの言葉の「汝の敵を愛せよ」の後の言葉の、
「自分の迫害する者のために祈れ」は、イエスの言葉ではない。
 キリスト教は、特に、キリスト教だけが愛の宗教のごとくに
説くが、佛教も「慈悲」や「愛」を説いている。
 しかし、キリスト教の旧約聖書の教義には、マタイによる福
音書にも記されているが、「敵を憎めと命じられ」ている。
 実際、キリスト教の歴史は、愛と言うより、「異端狩り」
「異教徒狩り」「ユダヤ教徒狩り」「魔女狩り」「異端裁判」
「宗教裁判」「宗教戦争」「植民地の残虐な殺戮」などなど、
 愛の宗教と程遠い姿が満ち満ちている。
 「隣人愛」ノ「同胞・兄弟」への愛を説けば説くほど、同信
の同胞・兄弟以外の者に対する差別・猜疑・不信・軽蔑を誘発
したキリスト教の姿がそこにあった。
 そして、最後には憎悪へと変わって行った。
 自分たちの宗教を絶対化すればするほど、「キリスト教唯一
絶対主義」という形が、前面に出て来て、キリスト教の卑劣な
殺戮の歴史が現出した。
 「そうすればあなたがたは、天に居られるあなたがたの父の
子らとなるでしょう」と、自分だけの御利益を説くキリスト教
の教義があった。
 その報償・御褒美をちらつかせて、キリスト教は教義を説き、
悲惨な戦争・殺し合い・殺戮が、数多(あまた)現出した。
 そして、キリスト教の最悪の教義が、今現在も厳然と存在
する。
 「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅しても良い」。
.
(参考)ちゅう・する【誅する】 [動サ変][文]ちゅう・す
[サ変]殺す。成敗する。