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2017年4月29日土曜日

(増補版)522E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年11月)

題:(増補版)522E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年10月、長瀬商店が花王石鹸を発売した。
  花王(株)創業者の長瀬富郎は、舶来のブランド石鹸
 に負けない国産ブランド石鹸の創製を決意し、て、石鹸
 職人の村田亀太郎や、薬剤師の瀬戸末吉らの協力を得て、
 この時、桐箱入3個で35銭の花王石鹸を発売した。
  この名前は、顔も洗える高品質を訴求して「顔」に通
 じる「花王」とした。
  また、発売当初から、中国大陸等への輸出も考慮に入
 れて、東洋第一の石鹸にしようと、桜ではなく牡丹をあ
 しらった包装紙とした。
  また、花王石鹸発売当時の原料調合ノートには、石鹸
 だけではなく、
  その後に発売された歯磨・香水・クリームなどの原料
 調合も記載されているて・・、
  長瀬富郎は、花王石鹸製造にあたって、自身で、薬剤
 師・瀬戸末吉から必要な化学知識を習得し、香料・色素
 など薬剤の調合技術を吸収していた。
  また、翌年の1891年に発売された粉歯磨「寿考散」は、
 長瀬商店の第2弾の発売商品だった。
  袋入り3銭で、外袋は、赤で輪郭をとった落ち着いた
 デザインとなっていて、背景には「まがたま」が二つ、
 組み合わせてある。
  寿は長寿を祝い、考は老でもあり古来歯の保全が人間
 の寿命に重大な関係があるものとして名づけられた。
  因みに、散は粉のこと・・、
  (産業技術史史料情報センターのホームページを参考
 にした)
1890年11月1日、日本鉄道の秋葉原~上野間が開通した。
  旅客や貨物が増加していて、貨物線を延長し、秋葉原
 貨物取扱所として、上野駅のひっ迫解消のため、開業に
 至った。
  また、上野駅周辺道路が狭隘で、同駅へ向かう旅客や
 貨物を乗せた馬車が、渋滞を起こす状態になっていた。
  このため、旅客と貨物の分離が計画された。
  当初は、上野駅からのこの貨物線を「秋葉原線」と呼
 び、秋葉原は「秋葉原貨物取扱所」と呼ばれていた。
1890年11月1日、盛岡まで延長した。
  この日、一の関~盛岡間が完成して、仙台~盛岡間が
 全通した。
  そしてまた、この日、盛岡駅が開業した。
  また、この盛岡駅前と盛岡の中心部を結ぶ開運橋が、
 この盛岡駅の開業に伴い完成した。
  この橋が尊いところは、当時の岩手県知事の石井省一
 が私費で完成させたところだった。
  温かい心の盛岡の方たちの人柄・土地柄と共に、誇れ
 る歴史的事項となっている。
  この橋は、翌年、市が買収し、その後、県に編入され
 た。
1890年11月1日、盲人教育に点字が採用された。
  点字について、日本での最初の記述は、1865年(慶応
 1年)幕府の外国奉行・柴田日向守剛中に随行した岡田摂
 倉が、パリの訓盲院を尋ねた時の日記にある。
  そして、1879年(明治12年)2月、文部省発行の教育雑
 誌第89号に掲載された在アメリカ留学生監督の目賀田種
 太郎の「パーキンス盲学校視察報告書」にある。
  現:筑波大学付属盲学校の前進である「楽善会訓盲院」
 の教師であった小西信八と石川倉次は、共に仮名文字論
 者だった。
  小西は、仮名文字、及び、漢字を凸書した教科書での
 教育の困難を見るにつけ、読むにも書くにも自由になる
 文字を工夫しなければならないと感じた。
  そして、教育博物館にあった、イギリス制点字板と、
 盲人教育に関する資料を借りて研究した。
  1887年(明治20年)に、生徒の小林新吉に教えた。
  小林は、2週間で、自由に読み書きができるようにな
 った。
  他の生徒に及ぼす影響も大きかった。
  しかし、これが、ローマ字形式での表記であったので
 小西は、同年・1887年の末、わが国の仮名に合うような
 点字の改良を、教員や生徒に依頼した。
  石川倉次は、初め6点では全文字を表すのは不可能だ
 と考え、8点点字を考えた。
  これは1・4の点の間と、3・6の点の間に1点ずつ
 加えたもので、3点四方の8点点字で濁音も含まれてい
 る。
  この8点用の点字板を製造し、生徒に使わせてみたと
 ころ「ローマ字よりも使いやすい」ということで、大変、
 喜ばれた。
  石川は、この8点に満足せずブライユの6点でよい工
 夫ができないものかと考えた。
  小西もまた、ブライユの6点で仮名を表出したいとい
 う意見であった。
  そして、再び、教員や生徒全員あげての点字翻案の業
 に努力した。
  7点・8点・9点など、多くの案が出たが、やがて、
 その中から三つに絞られ・・なおかつ・・
  1890年(明治23年)9月27日から、点字制定会が開かれ、
 この3案について、種々の角度から審議した。
  また、実験を重ねた。
  1890年の同年11月1日、の第4回制定委員会において、
 石川案の採用が決議された。
1890年11月3日、帝国ホテルが落成し、7日に開業(創業)
 した。
  東京の鹿鳴館のとなりに、帝国ホテルが、総建坪1300
 余坪、ドイツ・ネオ・ルネッサンス式木骨煉瓦造3層、
  設計:渡辺譲、総工費:26万円、客室数:約60。
  ビリヤード台、ダンスホールを備え・・、
  室料:最下等50銭、2食付き2円50銭・・、
  1912年(明治45年)に、総支配人の林愛作が、旧知の
 アメリカ人建築家、フランク・ロイド・ライトに新館の
 設計を依頼した。
  フランク・ロイド・ライトは、アメリカの建築家で、
 20世紀建築界の大巨匠。
  1919年(大正8年)失火から全焼した。
  新館の早期完成は経営上の急務になった。
  この後、設計変更を繰り返すライトと、経営陣との衝
 突は避けられなくはなった。
  そして、当初の建設予算の150万円が・・6倍の900万円
 に膨れ上がった。
  林は、総支配人を引責辞任した。
  ライト精魂注いだホテルの完成を見ることなく離日し
 た。
  1923年(大正12年)8月末、ホテルの隣接地に新館(
 ライト館)が全館落成した。
  鉄筋コンクリート、および、煉瓦コンクリート構造、
 地上5階・地下1階、延床面積1万535坪、客室数270室
  皇居を正面にして建てられた帝国ホテルは、総面積3万
 4千平方米余の大建築となった。
  中心軸上に、玄関、大食堂、劇場などの公共部分が
 列ねられ、左右に客室棟が配された。
  全体計画から個々の客室に到るまで、ライトのセンス
 で、最高傑作のきわめて多様な秀れた空間で構成された。
  鷲が翼を広げたような、巨大なホテルは、小部分がい
 くつも繋ぎ合わされた連結構造で・・、
  建物全体に柔軟性を持たせるとともに、一部に倒壊が
 あっても全体には累を及ぼさない仕組みも設計された。
  また、大規模ホテルとしては、世界で初めて、全館に
 スチーム暖房が採用され、
  耐震防火に配慮した画期的な設計となっている。
  1923年9月1日、新館落成記念披露宴の準備中に、何と、
 関東大震災発生した。
  しかし、ホテルは、小規模な損傷はあったものの、ほ
 とんど無傷であった。
  変わらぬ勇姿を見せた。
  しかし、残念なことに・・その後、この名建築は取り
 壊され、
  その一部が、明治村に保存され、名建築を偲ばせてい
 る・・人類の偉大な資産で、惜しい状況となっている。
1890年11月4日、アレクサンドル・ボロディンの歌劇「イー
 ゴリ公」が初演された(マリインスキー劇場)
  アレクサンドル・ボロディンは、帝政ロシアの作曲家、
 化学者、医師。
  マリインスキー劇場  は、ロシアのサンクトペテルブ
 ルクにあるオペラとバレエ専用の劇場。
  歌劇「イーゴリ公」は、オペラで、中世ロシアの叙事
 詩『イーゴリ軍記』を題材に、1185年、キエフ大公国の
 公、イーゴリ・スヴャトスラヴィチによる、遊牧民族ポ
 ロヴェツ人(韃靼人)に対する遠征を描いた。
  序幕付き4幕からなる。
  あらすじは・・序幕:プチーヴリ市内。
  イーゴリ公は、自分の土地であるルーシの町へのポロ
 ヴェツ人のコンチャークからの侵攻を防ぐため、妻ヤロ
 スラーヴナの懇願と日食という悪い前兆を心配する人々
 の反対を押し切って遠征を始める。
  第1幕・第1場:プチーヴリ市内のガーリチ公の館の中
 庭。
  イーゴリのいなくなったプチーヴリでは、ガーリチ公
 の思うがままになっていた。
  ある時、若い女性の集団が公がさらった娘を返すよう
 に請願してきたのに対し、彼と彼の取り巻きは請願にき
 た彼女たちを怯えさせ、追い返す。・・以下略・・
1890年11月7日、帝国ホテルが開業した。
1890年•11月10日、浅草十二階が竣工した。
  東京・千束町(現=台東区浅草2丁目14)に遊覧所「凌
 雲閣(りょううんかく)」が竣工し、落成式が行われた。
  八角形レンガ造りの10階の上に木造建築の2階があり、
 「浅草十二階」と呼ばれた。
  最高高さ65mで、関東大震災で消滅した(1923年)
1890年11月11日、凌雲閣(浅草十二階)が開業した。
  東京・浅草に、12階建ての塔「凌雲閣」が開業した。
  名称は、「雲を凌ぐほど高い」ことを意味し、浅草十
 二階、浅草凌雲閣とも・・
  発案は、写真家で東京市議会議員の江崎礼二、設計者:
 ウィリアム・K・バルトン
  東京の高層建築物の先駆けとして建築された。
  展望室からは、東京界隈はもとより、関八州の山々ま
 で見渡せた。
  高さ173尺(約52米) 、建坪37坪(122.31平方米)。
  構造10階まで煉瓦造り、11、12階は木造。
  入場料:大人8銭、子供4銭
  1階は入口階、2~7階は、諸外国の物品販売店(計
 46店舗)、8階は休憩室、10~12階は展望室。
  1階~8階にかけて、日本初のエレベータが設置され
 た。
  12階の展望室には、望遠鏡が設置され、見料は1銭。
  1891年(明治24年)5月、開業当日よりエレベータの故
 障が頻発し、使用中止になった。
  1923年(大正12年)9月1日、関東大震災により、建物
 の8階部分より上が崩壊した。
  地震発生時、頂上展望台付近に、12~3人の見物者が居
 た。
  福助足袋の看板に引っかかり助かった1人を除き、全員
 が崩壊に巻き込まれ即死した。
  1923年9月23日、経営難から復旧が困難であったため陸
 軍赤羽工兵隊の手で爆破解体された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:グローバリズム推進派は、一部の私腹を肥やす勢力に加担している・・
    その「おこぼれ」にあずかりたいと・・
.
1872年、海洋生物学が起きた。
  1872年~1876年の『チャレンジャー (6世) 号』の世界
 周航により・・、
  海岸から外洋、そして、表層から深層にわたって、
  動物の水平的分布と垂直的分布の調査が行われ、
  これが、海洋生物学の基礎となった。
  最古の海洋生物研究機関であるイタリア・ナポリ海洋
 生物学研究所は、1872年に設立され、そして、1874年に
 オープンした。
  1888年には、イギリス海洋生物学会が創立され、そし
 て、プリマス海洋研究所もできた。
  1888年には、アメリカでも、ウッズホール海洋生物研
 究所が創立された・・など・・、
  これ等の研究所は、今でも、世界で活躍している海洋
 生物研究センターで・・、
  特に、ウッズホール海洋生物学研究所の研究は、海洋
 生物学の発展に、重要な役割を果たした。
.
1906年4月18日、アメリカのサンフランシスコで、地震と火
 災が同時に発生するという、アメリカ史上、最悪の大参
 事が起きた。
  この参事がきっかけに、日本人やアジア人系移民の多
 くが、略奪にあい、また、暴力を受けた。
  日本人移民は、明治以来、移民が行われていて、カリ
 フォルニアに集中していた。
  また、この時、アメリカ白人に、人種差別の「黄禍論」
 が始まっていた。
  暴力事件は、この様な人種差別から生まれていた。
  1906年、サンフランシスコ市(学務局)は、日本人の
 児童の「隔離教育」を決めた。
  この様な「酷(ひど)い人種偏見」に対し、当然、日
 本政府は、強い抗議をした。
  これは、深刻な外交問題へと発展して行った。
  この2年後の1908年、この問題に、アメリカ連邦政府
 も介入して来て、日本は、移民が出来ない状態にされた。
  そして、この日本の当然の人種上の抗議を・・、
  アメリカは、日本が圧力をかけて来たとして・・、
  そして、『日本を脅威する』というセンセーショナル
 な「異常な反応」をした。
  そこには、すでに、日本に、「悪意を持って対応する
 というアメリカ」があった。
.
1941年、ランドフル・フィリップ(アメリカの黒人運動家)
 が、この年、黒人の公正雇用を要求するワシントン大行
 進を組織し、成果を収めた。
  因みに、ランドルフは、1963年の戦後でも、アメリカ
 史上最大規模のワシントン大行進を指揮するなど公民権
 運動の重要な人だった。
.
1944年、アメリカのヘンリー・モーゲンソーが、ドイツの
 非軍事化、非工業化を図り、原始的な牧畜農業国家にす
 るという戦後処理計画「モーゲンソー案」を立案した。
.
1947年3月31日、GHQの戦後の占領政策に於いて、憲法の
 施行に先駆けて、教育の基本であり、且つ、「教育の憲
 法」と呼ばれた「教育基本法」と、「学校教育法」が、
 同時に成立した。
  形式的には日本の国会で可決されたが、中身は、憲法
 と同じくGHQの指導によって作られたものだった。
  この教育基本法のなかで、戦後、常に問題となり続け
 たのが「教育権」とは、一体、誰のものなのかという点
 だった。
  旧文部省(現文科省)など国や政治家は、「教育権は
 国」が持つと主張した。
  一方、日教組は、「教育権は教育現場(日教組)が持
 っている」とした。
  民法820条で、両親が「子の監護および教育をする権利
 を有し、義務を負う」と書かれている。
  「教師」と「国」と「地方公共団体」、そして、「親」
 が、「教育権とは一体誰のものか」という論点で、対立
 さざるを得ない構図が作られていた。
  このことで、「国(文部省)」と日教組は、戦後、こ
 とごとく対立した。
  この決着は、昭和50年代に至って、文部省と日教組と
 で「歴史的和解」がなされた。
  何も生み出さない、日本人同士の不毛の戦いだった。
  その最大の原因は、GHQが、「教育権」という権利
 について「誰が持っているのか」という内容を明示せず、
 あいまいにした点にあった。
.
1969年、日米繊維交渉(~1971年)
  日米繊維交渉で、日本の繊維産業が潰された。
  この様に、潰された日本の産業は多いが、この逆はな
 い。
  日本の産業のために、アメリカの業界を潰したことは
 ない。
  そして、この日米繊維交渉は、日本の毛・化合繊製品
 の対米輸出規制をめぐる交渉で、1969年~1971年に渡る
 交渉だった。
  この毛・化合繊製品をめぐる交渉は、政治問題化し、
 紛糾した。
  第2次世界大戦以後の日米関係において「最悪の危機的
 状態をもたらした」と言われている。
  この問題は、1968年のアメリカ共和党大統領候補ニク
 ソンの選挙公約に端を発し、
  1969年春、ニクソン新政権下に出された日本に対する
 厳しい自主規制要求に始まった。
.
2003年11月、中国の胡錦濤国家主席が、「特定の大国が、
 中国に不利益をもたらそうとして、海峡をコントロール
 しようとしている」と・・暗にアメリカを非難した。
  「中国を、外国の支配から守るための新戦略を策定す
 るように」・・と、人民解放軍に要請した。
  中国は、『マラッカ海峡を封鎖されること』を恐れて
 いる。
  石油を初め、中国の死命を制する物品が、この海峡を
 通過しなければならないからで・・、
  また、中国には、過去、アメリカが、日本に対して行
 った石油禁輸措置のトラウマがある。
  (シーレーンの大切さ、重要さは、日本も十分認識し
 ているが・・)
  第二次世界大戦の開戦の重大原因となった当時、アメ
 リカは、日本を悪者に仕立てて・・、
  日本と戦争に至ること必然だという事を承知して・・
  (戦争をしたいとしたルーズベルト・アメリカ大統領
 が)石油、ガソリン、および、その他の重要な資源の対
 日禁輸措置を・・、
  それも・・石油需要の80パーセントを、アメリカに依
 存していた日本に対して実施し・・大打撃を与えた。
  その上、まだ、これでもかという悪意で、日本の船舶
 に対する『パナマ運河の通過の禁止』(パナマ運河閉鎖)、
  及び、アメリカにおける日本資産の凍結など行なった。
  世界史上、最悪の「悪名高い先制攻撃」を日本にした。
  世界は、「アメリカの先制攻撃と認識している」と言
 われている。
  中国は、これを、「歴史的教訓」として、恐れている。
.
2017年3月2日、アメリカのトランプ大統領が言った・・、
  「移民が、安全に家に帰れるよう努力したい」・・と、
  グローバル競争とは、コスト競争であり・・、
  労働力コストをどれだけ下げるかが『基本』で、
  国内から海外の発展途上国へ工場を移せば、『非常に
 安い賃金で労働力が得られる』・・、
  これがしたいと考えた『グローバリスト』たち・・、
  また、アメリカ国内であっても、メキシコなどから流
 入する不法移民を雇えば、低賃金な労働力が得られ・・、
 また、劣悪な環境下でも、好きなだけ働かせる事ができ
 る。
  不法移民を使えば、国内で超安価な生産が実現できる。
  不法な流入は・・だから、ある面・・意図的に・・こ
 の様な理由から・・意図的に行われる面もあった・・不
 法なのだが・・不正なのだが・・。
  超富裕層の利益享受の実現の為の・・やり方だった。
  しかし、この様な点には・・まったく触れずに、グロ
 ーバリズムが美しく謳(うた)われ、讃美されている。
  このグローバリズムを讃美するグループに入っている
 NHKは・・、
  グローバリズム推進派のNHKイデオロギーは、
  また、キリスト教に偏するNHKは・・巧妙に・・こ
 の点を放送した・・そして、言った・・
  「(不法移民だって)税金を払って、アメリカを支え
 ている」・・と・・、
  「その(不法)移民のどこが悪い」・・と・・、
  よくも・・国民を感情的な、センセーショナルな、薄
 っぺらい論理で、言葉だけで・・騙(だま)すものだ。
  この様な国民の洗脳を目論(もくろ)んだNHKは、
 「トランプおろしのグループに入っている」・・、
  「トランプ政治の批判をした」・・、
  NHKの巧妙なる言い方・・錯覚を起こさせる言い方
 で・・また、ごまかしの放送だった。
  アメリカで・・労働コストが破壊され、低所得者層が
 さらに拡大しているアメリカ。
  儲かるのは1%の・・ほんのわずかな超富裕層。
  その格差は拡大する一方の・・アメリカ。
  この様な事にはまったく触れないNHK。
  1%の超富裕層にゴマをすり・・1%のお金持ちが喜ぶ
 グローバリズムを讃美しているNHK。
  NHKは、「グローバリズム讃美の放送ばかりをやっ
 ている」・・、
  NHK出身の千葉商科大学教授の宮崎緑氏を出演させ
 て、何度も何度も発言させている・・「グローバリズム
 は素晴らしい」と・・何ら『脈絡なく』発言している。
  ただただ意味ないグローバリズム讃美のオンパレード
 の話だった。
  マス・メディアと一緒になって、情報を、正しく伝え
 ないで・・ただただ、トランプおろしに躍起になってや
 っている。
  トランプ大統領だって、正規な移民の就労を否定して
 いる訳ではない。
  正規の移民が、正規にアメリカで就労し、税金を払っ
 て「アメリカを支えていること」は、当然、勿論、否定
 なんかしていない。
  ここの錯覚を訂正しないで、わざと「誇大に」「悪印
 象だけを持たせている」・・印象放送で、国民を繰って
 いるNHK。
  不法に・・大量に・・アメリカへ流入し、アメリカの
 労働市場を破壊し・・混乱させている・・不法移民が問
 題なのだ・・
  そして、その利益は・・わずか1%の超富裕層のふとこ
 ろへ流入し、格差がどんどん拡大する事に対して・・ト
 ランプ大統領は、何とかしたいと言っているのだ・・
  こんなことは・・ちょっぴりとも放送しない。
  トランプ大統領は、「正論なのである」。
  移民の方々、正規の方々を・・虐げている訳ではない。
  ここを、NHKは誤魔化すから、はっきり説明しない
 で逃げているから「不公正なNHK」なのだ。
  キリスト教が、教義を誤魔化す言い方とまったく同じ
 で、ごまかし、誤認混同させるNHKとなっている。
  しかも、それを、センセーショナルな言い方で放送す
 るから始末が悪い・・まったく公正でない、公共放送と
 して失格のNHKである。
  NHKはこんな事ばかりしている。
  アメリカを本当に支えた中流層は・・1%の超富裕者層
 に食われて・・居なくなった。
  日本も・・中流層が崩れている。
  他山の石ではない。
  高い給料を貰って居るNHK職員は安泰(あんたい)
 なのだろうが・・?
  アメリカは、この様なことを、南北戦争の後でもやっ
 た。
  悪いのは「アメリカ南部だ」と言いながら・・アメリ
 カ北部の工場経営者たちは、南部のプランテーションの
 経営者と一緒になって・・組んで・・奴隷解放前の状態
 に戻したいと・・戻そうと、黒人の方々を虐げた。
  安い労働力をアメリカ北部の工場で使いたいというハ
 レンチな行動をした。
  何が、北部だけが、奴隷解放したと言うのか?
  南部の方々だけを悪者にして・・?
  トランプ大統領は、メキシコからの不法移民が麻薬を
 持って来ることにも苦慮している・・このことに、NH
 Kは触れない・・。
  トランプ大統領が言った、「アメリカが法を維持し、
 国境を守らなかったために、雇用や収入(を失った)、
 そして、愛する人を失ったアメリカの家族に対して、
  あなたはどう言うのですか?」・・と・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年4月25日火曜日

(増補版)521E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年10月)

題:(増補版)521E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1890年10月24日、貴族院初代議長に伊藤博文が就任した。
  貴族院の議長は、内閣の輔弼(ほひつ、天皇陛下への
 御進言をすること)により天皇陛下から勅任されること
 となっていた。
  任期は7年。
  1947年(昭和22年)5月2日まで続いた。
  因みに、
  2代:蜂須賀茂韶  (1891年 7月~1896年10月)
  3代:近衛篤麿   (1896年10月~1903年12月)
  4代~8代:徳川家達(1903年12月~1933年 6月)
  9代:近衛文麿   (1933年 6月~1937年 6月)
  10代~11代:松平頼寿(1937年6月~1944年9月)
  12代:徳川圀順  (1944年10月~1946年 6月)
  13代:徳川家正  (1946年 6月~1947年 5月)
1890年10月27日、日本初のエレベータが、浅草に登場した。
  幕末の水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)が建てた好文
 亭という図書館のような建物内に、本を運ぶためのリフ
 トのようなエレベーターがあったという・・、
  日本初の電動式エレベーターは、写真家で、また、東
 京市議会議員であった江崎礼二氏の発案で、
  文明開化で、外国に追いつき追い越せと努力する日本
 の東京での高層建築物(浅草の凌雲閣・りょううんかく)
 12階建ての建物に設置された。
1890年10月30日、教育勅語を発布
  『教育ニ関スル勅語』(教育勅語)が発布された。
  (氷川清話)教育勅語が出来る。
  「忠」と「孝」が基本思想。
  この日、議会の招集に先立ち、「教育に関する勅語(
 教育勅語)」が発布された。
  抜粋・・、
  「国民は、父母に孝行し、兄弟は親しみ合い、
  夫婦は仲むつまじく、友人は信じ合い、
  つつしみ深く、高ぶらず、
  民衆に広く愛をおよぼし、
  学問を修(おさ)め、技術を学び、
  かくして知能を向上させ、人格を完成し、
  進んで国家・社会の利益を拡大し、(中略)
  国家や社会に危急のことが起こった時は、進んで公共
 のために尽(つく)くさなければならない」。
  教育ニ関スル勅語は、明治天皇陛下が、山縣有朋内閣
 総理大臣と芳川顕正文部大臣に対し、教育に関して与え
 た勅語。
  この教育勅語は、アジアの国で取り入れられている。
  この教育勅語は、戦後のGHQの思想の変革方針によ
 って廃止された。
  (1948年・昭和23年6月19日、国会決議により廃止、
  形は民主的な形で、そして、日本が自主的な判断をし
 た形にしている)
  メディア・ネット情報などは、当然、アメリカを美し
 くたてている。
  そして、戦前のものはすべて悪いという言い方になっ
 ている。
  アメリカは良くて、日本については悪い事しか言わな
 いメディアの状況となっている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:シベリア抑留は不適切である・・拉致である・・
.
紀元前8000年頃、縄文早期
紀元前3500年頃、縄文後期
  日本の縄文時代が見直されている。
  日本の縄文時代は、思ったよりも進んだ社会だった。
  思った以上に凄かった。
  縄文時代は、農耕以前の時代で・・、
  「貧しいながらも、平等な社会だ」という以前のイメ
 ージが、変わって来ている。
  1996年~2003年に、東京都東村山市の下宅部(しもや
 けべ)遺跡を発掘・調査すると・・、
  大量の漆製品や木製品、そして、未完成の丸木舟など
 工業的に進んだ製品が出土した。
  この良質な保存状態は・・この地の豊かな地下水のた
 めに・・良好な保存状態が保たれていた。
  また、この遺跡では、縄文後期(紀元前3500年頃)の
 「編みかご」が50点以上も出土した。
  この「かご」は、カシ類などの木の実を水につけるた
 めに使ったと見られている。
  ここ数年で、縄文のかご類の研究は、飛躍的に進んで
 来ていて、かごの素材の特定や、編み方の解明が進んだ。
  そして、潰れたかごの状態から、元の形状が復元でき
 る様にまでなった。
  この遺跡のかごの素材は、「アズマネザサ」と推定さ
 れ、上部がくびれ、土器に似た姿と解明された。
  また、佐賀市の東名(ひがしみょう)遺跡では、縄文
 早期(紀元前8000年)のかごが、700点以上も出土した。
  編み方に、様々な装飾技法が用いられていて・・、
  縄文人が、早い段階から知的な完成度の高いかごを作
 っていたことが分かった。
  また、縄文中期は、華やかな装飾の土器が作られ、三
 内丸山遺跡(青森市)のような大集落が営まれて、縄文
 文化は、高度に華やかに繁栄していた。
  縄文時代の後期や晩期は、遺跡が小規模化した。
  数も減り、土偶や祭祀具(さいしぐ)が発達した。
  そして、動植物や古人骨の研究も相まって研究された。
  その結果・・、
  集落は、小規模化しながら、食料や土器、貝製装飾品
 などの生産が集落ごとに分業化され、『集落間でのやり
 とりが活発に行われていた』。
  土器や石器などの生活道具、食料の『生産』や『流通』
 が活発に行われていた。
  この事を見ても、後期や晩期に、文化が衰退した根拠
 はない。
  寒冷化にはあったが、危機を分散することで、資源が
 絶えないようにして、『高い回復力を持つ社会を築いて
 いた』と考えられる。
  日本の縄文時代は、地域で文化の違いのある各々が特
 徴を持った時代だった。
  (読売新聞、2017年4月5日を参考にした)
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1552年1月29日、キリスト教宣教師のザビエルは、日本人の
 優秀さにびっくりし、
  また、その日本人の優秀さの故に、キリスト教の宣教
 に、大分、苦労した。
  日本の各地を、ザビエルが布教するとき、日本人の多
 くが、ザビエルに質問したことは・・、
  「そんなにありがたい教えが、なぜ、今まで、日本に
 来なかったのか?」だった・・そして・・
  「そのありがたい教えを聞かなかった私たちの祖先が、
 今、どこで、どうしているのか?」・・だった。
  つまり、「自分たちは救われると言うが・・そして、
 救われたとしても、ご先祖様の方たちはどうなるのか?」
 ・・と・・、
  この思いやりのある優しい日本人の質問、そして、疑問・・、
  それは、キリスト教への最大の「理屈に合わない弱点」
 への疑問だった。
  キリスト教は、キリスト教徒になれば天国へ行けると
 説いているので、ザビエルは、その様に答えた。
  つまり・・結局、ザビエルの答えは、ご先祖の方たち
 は救われない・・故に、天国で会えない・・となった。
  そして、また、キリスト教の説く・・ご先祖の方たち
 は地獄となる・・と知った日本人は、さらに・・
  「すると、あなたの信じている(キリスト教の)神様
 というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないか」・・
 と、
  「全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救
 ってくれてもいいではないか」・・と、
  ザビエルは・・答えに窮した・・
  ザビエルは困り、そして、本国への手紙で・・
  「日本人は、文化水準が高く、よほど、立派な宣教師
 でないと、日本の布教は苦労します」・・と・・、
  この当時、ザビエルは、中国でも、韓国でも、インド
 シナでも、こうしたキリスト教の急所を突く質問を受け
 たことはなかった。
  1552年1月29日のザビエルの手紙(インドのコーチンか
 らローマのイグナチオ・デ・ロヨラ神父へ宛てた手紙)
  「(日本人の)質問に答えるために、学識のある宣教
 師が必要です。
  特に、哲学がよくでき、弁証法に優れた人で・・、
  (僧侶との討論で)明らかになる矛盾をすぐにとらえ
 ることができる人が必要です。
  ボンズ(宣教師)は、矛盾を指摘され、答えに窮する
 ので、いたく恥じ入ります。
  (日本では)さまざまな苦労に(耐えてゆかねばなら
 ない)ので、年老いた人に適した土地ではありません。
  また、(実社会で)大いに経験を積んだ者でない限り、
 若い人にも不向きです。
  なぜなら、他の人びとの霊的な助けとなる代わりに、
 自分自身が滅びてしまうからです。
  日本の地には、さまざまな乗り越えるべき事柄があり、
 それに陥る危険があります。
  (日本人の行為を)とがめる(宣教師を)日本人は、
 よく観察しています。
  それ故、(宣教師の)ごくわずかな(欠点)がつまず
 きとなります。
  私は、これらのことについてシモン神父、もしも彼が
 不在の時には、コインブラの院長にあてて詳しく書きま
 す・・中略・・
  日本の地は、(宣教のために)どんなに苦労をしても
 報いられます。
  それで、あなたが聖なる徳を備えた人物を、日本へ派
 遣してくださるよう、心から望んでおります。
 ・・(後略)・・
  因みに、ザビエルは、日本語が話せなくて、インドに
 来ていた日本人を、日本へ連れ戻して行って、日本での
 話の時は、その日本人に話させていた。
  その時、ザビエルはは、脇に、ただ立っているだけで、
 無言だったという(ぼーっと立っていただけだという)。
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1863年11月19日、リンカーンが演説で、「government of
 the people, by the people, for the people 」・・
 「人民が、人民のために、人民を統治すること」と演説
 した。
  リンカーン・アメリカ大統領が、「人民による、人民
 への政治」と言った。
  しかし、この・・「リンカーンの『人民』の中」には、
 黒人の方々は、入って無かった。
  黒人の方々を、まったく入れる気の無いリンカーンだ
 った。
  『人種差別主義者のリンカーン』は、卑劣にも、黒人
 の方々をアフリカへ棄てたいとしていた・・そして、ア
 フリカのリベリアへ棄てた・・棄民した。
  また、リンカーンは、幼い時に、目の前でお爺さんが
 インディアンに殺されたことから、インディアンの方々
 に対して「非常に強い復讐心を持っていた」。
  大きくなって・・その行為が現れる・・
  リンカーンは、青年期に、弁護士になって、この復讐
 を果たそうと、インディアンの方々の土地を取り上げる
 事に奔走した。
  今、その書類の多くが残っている。
  法律に疎遠なインディアンの方々に対し、赤子の手を
 ねじるが如くに、インディアンの方々のものである土地
 を取り上げて行った。
  また、大統領になってからも、インディアンの方々の
 掃討を命じ、虐殺行為がなされている。
  また、厳寒期の厳しい寒さの時期に、わざわざ、イン
 ディアンの方々の「居留地を移動をする」ことを命じた。
  「遠くの道のりを歩かせる移動を命じた」。
  体の弱い方々、インディアンの御老人や赤ん坊の多く
 が亡くなった。
  こんな人物を、北部アメリカは、記念堂を造って、奉
 っている。
  北部アメリカ政治が・・プロパガンダしている。
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1883年、工業所有権の保護に関するパリ条約が締結された。
  特許などの工業所有権に関する国際的な基本原則が定
 められた。
  (参考)工業所有権は、特許権、実用新案権、意匠権、
     商標権・・などをいう・・
  人間の富の形態の一つである知的行動の産物・・
  この人間の富、ここにも・・他人の富を奪ってまでし
 もて、自分さえよければ良いと説くキリスト教の影響が
 働いた・・、
  キリスト教国・アメリカが、日本の「光ファイバーの
 大発明」などを奪った。
  世界のどこの国もが、おかしいと言っているのにもか
 かわらず・・
  『先発明主義』という珍奇な考え方を持ち出して奪っ
 た。
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1944年9月20日、アメリカで、戦後のドイツの取り扱いを決
 める会議が開かれた。
  アメリカの・・卑劣な「国レベル」での復讐案だった。
  懲罰的色彩の強い「眼には目を」の復讐案がアメリカ
 で練られた。
  ドイツの国は、「北ドイツ」と、「南ドイツ」と、「
 国際監視域」の三分割とされた。
  「ドイツは、二度と工業力を与えてはならない」だっ
 た。
  ドイツには、牧草だけが生える「原始的な牧畜・農業
 国家」だけが許される・・という案だった。
  アメリでも、その過激さに、言葉を失う者も居たとい
 う・・その様な案の異常さだった。
  アメリカの・・戦後のドイツの扱いを検討する特別閣
 僚委員会だった。
  アメリカの国務長官・ハルは、怒りで顔を真っ赤にし
 ていた。
  1944年9月20日の事だった。
  案の提案者・主導者は、ルーズベルトの親しい友人だ
 という財務長官のヘンリー・モーゲンソーだった。
  内容は、あまりにも過激だった。
  しかし、モーゲンソー案は、ルーズベルトとチャーチ
 ルが承認を与えていた。
  カナダ・ケベックの米英首脳会談で、承認されていた。
  モーゲンソーは、「OK、ルーズベルト、チャーチル」
 の承認サインを見せた。
  誰も、反論は・・出来なかった。
  「二度とドイツに工業力を与えない」という嫌悪感を
 感じさせる強い懲罰案だった。
  ドイツの工業地帯を徹底的に破壊するというキリスト
 教の『完全破壊のシャローム』の案だった。
  「すべてを破壊して、そして、平和に至らす」という
 全アメリカ大陸のインディオ絶滅の前例の如くの迷信教
 義に影響されていた。
  ドイツ人のすべてが、農業・牧畜に従事するという案。
  またこれで、第三次世界大戦が起きるという案だった。
  国務長官・ハルは、ずばり・・
  「復讐と言うほかない」・・と言った。
  復讐の鬼と化したアメリカの意識が反映した『モーゲ
 ンソー案』だった。
  モーゲンソーは書いた・・、
  「ドイツ人は、総べて敗者であると認識するべきだ。
  餓死させないぐらいの軍のキャンプのスープを、日に
 三度、与えるだけで十分」・・とまで表現した。
  アメリカ国民の方々は、びっくりした・・この過激な
 案を知って・・そして、承認したルーズベルトに、非難
 を集中させた。
  当時、ルーズベルトは、4期目を目指す大統領選挙キャ
 ンペーン中だった。
  ルーズベルトは、モーゲンソー案を承認してから2週間
 後に、記者会見をして・・『申し開き』をした。
  そして、正式に、「ドイツの戦後案を白紙に戻す」と
 言明した。
  ルーズベルトは、撤回後、卑劣な言い訳をした・・
  「モーゲンソー案の内容を知らないまま承認してしま
 った」。
  モーゲンソーの『へま』にやられた・・と言い訳を
 言った。
  卑劣な嘘で・・モーゲンソーに失敗を擦(なす)り付
 ける言い訳だった。
  また、アメリカ国民の方々を『誤魔化す言い訳』だっ
 た。
  日本の真珠湾攻撃という偽りの「卑劣な汚名」を作り
 出した嘘つきのルーズベルトの人間性を表わす、これも
 その一例となった。
  実際、モーゲンソー案は、ルーズベルトの強い支持を
 受けていたのは「動かしがたい事実」だった。
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1945年7月14日、釜石の艦砲射撃で773人が死亡した。
  アメリカなど連合国軍が、3隻の戦艦を主力とした9隻
 の艦隊が、日本製鉄釜石製鉄所を主目標として、艦砲射
 撃を行った。
  一般市民の423人の方々が死亡した。
  日本側は、釜石湾で、第221号海防艦と第48号駆潜艇が
 応戦した。
  第48号駆潜艇は、アメリカ艦載機の攻撃を受け、湾内
 の千鳥島付近で沈没した。
  また、1945年8月9日に、二度目の攻撃があった。
  攻撃したのは1回目と同じ艦隊で、一般市民の271人の
 方々が亡くなった。
  この時は、最初、山側に射撃し、平地へ逃げて来た一
 般市民の人たちが、今度は、艦載機の機銃掃射で殺され
 た。
  これは、完全に、一般市民を目標とした攻撃だった。
  翌日の8月10日も、また、艦載機の攻撃を受けた。
  一般市民の犠牲:694人、軍人軍属:30人、捕虜:32人、
 合計756人の記録がある。
  攻撃艦隊は、アメリカ14隻、イギリス5隻、合計19隻の
 記録がある。
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1945年8月2日、戦後ベルリンの学校改革(~1948年)
  連合国によるドイツ占領軍政は、軍事的保障占領を基
 礎としつつも、一定の政治目的を実現するための軍政と
 して行なわれた。
  その逮合国の占領ドイツにおいて達成しようとする政
 治目的は、1945年8月2日に、連合国間で合意に達したポ
 ツダム協定に明らかである。
  アメリカは、ドイツが、二度と復讐を思いつかない様
 にという名目で、教育改革をした。
  「ドイツの復讐を思いつかないようにする新教育制度
 をつくる」などと傲慢なことをするアメリカだった。
  これこそアメリカの復讐だった。
  ドイツの一部の組織(軍など)の責任を、ドイツの人々
 の全員に転嫁したアメリカの「間違った受け取り方」だ
 った。
  その様な解釈をするのなら、その様なドイツにしたヨ
 ーロッパ、そして、アメリカにも責任がある。
  1946年8月下旬~9月上旬にかけて、ドイツの「アメリ
 カ占領地区」の教育事情を視察した対独アメリカ教育使
 節団の報告書には、次のような報告がみられる・・、
  「すべての教員の半数以上が非ナチ化によって解雇さ
 れた。
  解雇される状態が、現在より軽減されたとしても、教
 員の補充は準備がととのっていない。(中略)
  初等教育機関の教員の補充の必要性が非常に大きい。
  従って、現在、緊急の養成計画が最も重要である。
  占領地区各州は、それぞれこれらの緊急の養成計画を
 立案している。
  1年次は大学、2年次は教育実習、3年次は再び大学での
 学習を要求している。
  一つの計画は、緊急の必要に充分まにあうように思わ
 れる」。
  これらは、問題点をすべて相手(ドイツ側)へ転嫁し、
 ナチスというレッテルを貼って、だからすべて悪いとし、
 自分のお好みに作り代えるという「立ち入った強行策」
 が行われた。
  強いアメリカは、腕力で相手をやっつけ、腕力で従わ
 せたら、戦争原因でないことまで、なんだかんだと言っ
 て、相手を自分のお好みに変えた。
  国レベルの『ガキ大将』行為という状況だった。
.
1993年10月、ロシアのエリツィン大統領が、シベリア抑留
 について、謝罪の意を表明した。
  この不法行為が、シベリア抑留と記され、そして、言
 われているが『適切な言葉ではない』。
  抑留とは、「強制的にその場所に抑え留める事」とあ
 るが・・、
  しかし、この日本人を連れて行ったソ連の行為は、『
 日本人の拉致行為』である。
  拉致:らち、無理に引き連れてゆくこと・・とあるが、
 これである。
  犯罪行為である。
  ソ連の正当性は、まったくない。
  「日本軍捕虜だ」とソ連は言ったって、戦争が終わっ
 た後、戦後になって、攻めて来たのだから・・、
  戦争は終わっている状況の中で、攻めて来た・・故に、
 ソ連の言い訳は『成立しない』。
  捕虜ではない。
  また、戦闘行為をしていない民間人も連れて行ってい
 るのだから『拉致』であり、犯罪行為である。
  『隷属的な強制労働の目的』のために連れて行った犯
 罪である。
  ソ連は、日本へ『戦後補償する必要がある』。
  この問題が未解決である。
  この件についての・・話を付けよ!
  シベリア開発をさせようという魂胆で、日本人を強制
 的に拘禁して、
  (拘禁、こうきん:捕らえて、その者の身体を継続的
 に拘束すること)・・この拘禁なのである。
  57万5000人もの方々を、シベリアへ連れて行った。
  この非人道的な行為を、筋の通らない行為をソ連は行
 なった。
  劣悪な環境下で、5万5000人もの日本人の方々が亡くな
 った。
  この様な悪行為を、アメリカも、イギリスも、正そう
 とはしなかった。
  見過ごして・・見て見ぬふりをした。
  逆に、アメリカは、ソ連へ武器を渡した・・供給した。
  中立状態のソ連へ、武器を渡して『そそのかした』。
  そのアメリカの卑劣な行為によって、日本人は攻めら
 れ・・日本人たちは拘束されて行った。
  杉原千畝の嘘話どころではない、55万人以上の話なの
 である。
  卑劣な、そしてまた、攻める武器を渡す行為などをす
 る同罪のアメリカ・イギリスなどだった。
  卑劣な連合国の諸国だった。
  この悪行為で5万5000人もの日本人が殺され、また、亡
 くなった・・
  この行為に対して、はっきりしたソ連の謝罪はない。
  ソ連の手を逃れた日本人は、無事に、日本へ帰って来
 れているのだ。
  ソ連は、戦争が終わったので、逆に、『保護をすべき
 立場だった』のだ・・ソ連の保護行為はまったく無い。
  また、ソ連は、連れて行った、拉致して行った日本の
 方々を、中々、解放しなかった・・
  長期に使役した。
  釈放せず、捕まえたままで、連れて行ったシベリアで、
 長々、不法に捕まえた日本人を、劣悪な環境下で、重労
 働をさせた
  鉄道建設などの重労働で死んで行った日本人たちは、
 どれほど痛ましかったか・・、
  この不法な拉致期間は、最長で11年にも及んだ・・11
 年間も重労働をさせた。
  日本人の一般人に対して、ソ連の犯罪性は、はっきり
 している。
  また、この行為は・・武装解除した日本兵について、
 ソ連がしたこの様な行為は、「ポツダム宣言に反してい
 る」。
  ポツダム宣言は、「復帰を保証している」ではないか・・、
  1993年10月、訪日したエリツィン・ロシア大統領は、
 「非人間的な行為」と謝罪の意を表明したが、
  『はっきりとした謝罪と、その補償を要求する』。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive