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2016年3月25日金曜日

(増補版)319E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年3月~1874年4月)

題:(増補版)319E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年3月~1874年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年3月23日(明治7年2月6日)大久保利通・大隈重信が、
 台湾出兵を決定した。
  台湾征討を閣議で決定。  
  原因となった台湾事件(1871年):開国後最初の海外
 派兵。
  1871年に、日本の宮古島と八重山島の漁民が、嵐で漂
 流し、台湾に漂着した。
  その乗組員の多数は殺されてしまった(原住民に殺害
 された)。
  さらに、1873年には、岡山県の船員が略奪されるとい
 う事件が重なって起こった。
  国の使命。
  「北朝鮮の拉致」。
  アメリカ合衆国の某高官に、「北朝鮮にアメリカ国民
 が拉致されたらどうしますか?」と問うた・・
  即座に・・、
  「その時は、アメリカ合衆国の海兵隊が行ってますよ」
 と答えた。
  即座に、「救出にアメリカ合衆国の海兵隊が行ってい
 る」と答えたこの高官。
  国とはそういうものだ。
  この様な意味からも、他国の人は尊重しなければなら
 ない。
  国・・国家・・国家とは、そのようなものだ・・、
  「自国の国民を守る」「自国の国民の幸せを守る」
  それが第一の、また、唯一の・・国の使命・・、
  「大切な国民の生命を守る」「自国の国民の生命と財
 産を守る」・・それが第一の、また、唯一の、崇高な国
 の使命、国家の使命。
  これ無くして国家の存在意義は無い。
  『国民を守る』という『崇高な使命』が国家には存在
 する。
1874年3月26日(2月9日)江藤新平が、長崎にて土佐の林有
 造と会談した。
  林は、西郷に民撰議院設立への同意を取り付ける為に
 鹿児島に行った帰途。
  肥前が決起しても、薩摩は呼応しないとの観測を示し
 た。
1874年3月27日(2月10日)危機感は深刻・・各地の士族が、
 呼応して決起する事を恐れた新政府。
  太政大臣・三条実美は、参議兼内務卿・大久保利通に、
 佐賀鎮定、軍事・裁判、全権委任させた。
  1874年3月31日(2月14日)、三条が、参議文部卿・木
 戸孝允に内務卿を兼任させる。
  政府軍の出動が遅れれば、熊本や鹿児島の士族も呼応
 し、九州全体の騒乱となり、
  更に、高知、岡山、鳥取、鶴岡などに飛び火する可能
 性もある。
  警察機構は、十分に整備されていないうえ、軍隊にも
 征韓論政変の余燼がくすぶっていたので、政府側の危機
 感は深刻だった。
  大久保内務卿は、ただちに、軍事と裁判の権限を随時
 に委任されて九州に向かった。
  江藤らが、鹿児島など他県の士族が加勢するのを待っ
 ている間に、
  政府側は、電信線で情報を正確に把握し、蒸気船で鎮
 圧部隊を送り込んだ。
  さらに、佐賀の中立派士族を味方につけ、熊本など近
 隣への波及を抑えた。
  この日に、即座に、1874年3月27日(2月10日)、熊本・
 広島・大阪の鎮台兵が、出兵した。
1874年3月28日(2月11日)島義勇が、長崎で憂国党幹部と
 会談した。
  この後、深堀に江藤新平と会談。
  岩村高俊の暴挙(鎮台兵を率いて佐賀県庁に赴任、鎮
 圧)阻止で意見が一致した。
  翌・旧暦2月12日、江藤新平は、佐賀に戻り正式に征韓
 党党首となる。
  旧暦2月13日、征韓党幹部が、旧藩校の弘道館に集合。
  江藤の「決戦之議」を配布する。
  本部を佐賀城北方にある実相院に移す。  
  決戦之議:
  「夫れ国権行はるれば、則ち、民権随(シタガツ)て全し。
  之を以て交戦講和の事を定め、通商航海の約を立つ、
 一日も権利を失へば、国、其の国に非ず。
  今茲に人あり。
  之を唾して而して憤らず、之を撻て而して怒らずんば、
 爾後、婦人小児とと雖も、之を軽侮するや必せり。
  是れ、人にして其権利を失ふものなり。
  嚮に朝鮮、我国書を擯け、我国使を辱むる、其の暴慢
 無礼、実に言ふに忍びず。
  上は聖上を初め、下は億兆に至るまで、無前の大恥を
 受く。
  因て客歳十月、廟議尽く征韓に決す。
  天下之を聞て、奮起せざるものなし。
  已にして而して二三の大臣、偸安の説を主張し、聖明
 を壅閉し奉り、遂に其議を沮息せり。
  鳴呼国権を失ふこと、実に此極に至る。
  是れ所謂、之を唾撻して、而して憤怒せざるものと相
 等し。
  苟くも国として斯の如く失体を極めば、是れよりして、
 海外各国の軽侮を招く、其の底止する所を知らず。
  必ず、交際、裁判、通商、凡そ百事、皆な彼が限制す
 る所と為り、数年ならずして、全国の生霊、卑屈狡獪、
 遂に貧困流離の極に至る、鏡に掛けて見るが如し。
  是れ有志の士の以て切歯扼腕する所なり。
  是れを以て同志に謀り、上は聖上の為め、下は億兆の
 為め、敢て万死を顧みず、誓て此の大辱を雪(ソソ)がん
 と欲す。
  是れ蓋し人民の義務にして、国家の大義、而して人々
 自ら以て奮起する所なり。
  然るに、大臣、其の己れに便ならざるを以て、我に兵
 を加ふ。
  其の勢状、此に至る。
  依て止むを得ず、先年長州大義を挙ぐるの例に依り、
 其の処置を為すなり(幕長戦争に依拠して自衛行動に立
 ちあがる、という意)。
  古人日く、精神一到何事か成らざらん。
  我輩の一念、遂に此の雲霧を披き、以て錦旗を奉じ、
 朝鮮の無礼を問んとす。
  是れ誠に区々の微衷、死を以て国に報ゆる所以なり」
 (「江藤南白」)
1874年3月30日(2月13日)島津久光(内閣顧問、佐賀憂国
 党は盟主として担ぐ)、東京発。旧暦2月20日、鹿児島
 到着。
  元藩士に佐賀に呼応しないよう睨みをきかせる。
  また、西郷を呼出し自重を命じる。
1874年3月31日(2月14日)熊本鎮台より1個大隊650、出動。
 県権令・岩村高俊と共に有明海北上。
1874年3月31日(2月14日)大久保内務卿が、天皇陛下から
 「佐賀鎮定」を委任され、九州へ出発。
  途中、大阪で陸海軍首脳と軍議。
  旧暦2月17日、大阪より黒田清隆に宛てて台湾「要略」
 について念押し。
  旧暦3月17日付け大久保の黒田清隆宛て手紙・・、
  「台湾のこと既に決定せり・・いずくまでも御貫徹、
 実効お挙げこれなく候てほ天下の信義もあい立たず」と
 念押し。
  「この事は廟議決定の事にて懸念はこれなくと信用つ
 かまつり候えども、憂情のあまりに候」と、「要略」の
 閣議決定が引っくり返るかも知れないとの憂情(不安)
 を拭いきれない心情を語る。
  尚・・、
  政府からの鎮圧命令を受けた熊本鎮台だが、兵の中に
 も佐賀出身が多く動揺が広がっていた。
  司令官・谷干城も援軍を待っての進軍を主張していた
 が、新県令・岩村高俊の命もあり、
  1874年3月31日(2月14日)には、駐屯する1個半大隊の
 中から、第十一大隊(大隊長:中村重遠中佐は出張中で
 不在)を二分し、
  左半大隊は、参謀・山川浩少佐と隊長・和田勇馬大尉
 が率い、海路から、
  右半大隊は、参謀・佐久間左馬太少佐と隊長・山代清
 三大尉が率いて、陸路から佐賀に向かった。
  翌・1874年4月1日(2月15日)に、海路軍に護衛された
 岩村高俊らが、佐賀に入城すると、
  江藤らは、政府の真意を確かめるため山中一郎を代表
 として派遣した。
  しかし、岩村の「答える必要はない」との返答を受け、
 同日夜、県庁が置かれた佐賀城(佐賀県佐賀市)に籠も
 る鎮台部隊と交戦して、大損害(3分の1が死亡)を与え、
 敗走させた。
  佐賀の乱における政府軍の死者は、大部分がこの戦闘
 におけるもので、
  佐賀県大属・小出光照、中隊長・大池蠖二大尉(佐賀
 の乱での官軍戦死者で最高位)、沢田正武中尉が戦死、
 敗走中に包囲された津井城郷吉中尉が自刃したほか、山
 川浩少佐、奥保鞏大尉が重傷、西島助義少尉が捕虜とな
 った。
  また、この時、憂国党の副島義高は、捕虜を殺害しな
 いよう通達を出したが、
  佐賀城からの脱出時に、岩村の命で公金2,000円を携行
 していた佐賀県権中属の中島脩平に対しては、これを公
 金横領と看做して処刑を行っている。
  なお、この敗走中、後の西南戦争で薩軍に包囲された
 熊本城から脱出に成功し援軍要請を果たした谷村計介が、
  単身先行し渡船を調達して、部隊を窮地から救う功を
 あげている。
1874年4月1日(2月15日)国産石鹸の販売広告、初めて新聞
 に表れる(東京木挽町の某商店)
1874年4月1日(2月15日)佐賀ノ乱
  江藤新平、佐賀に乱す(氷川清話)(2月16日説あり)
  この日・1874年4月1日(2月15日)、佐賀県権令・岩村
 高俊と熊本鎮台兵半隊650、筑後川河口より佐賀城(県庁)
 入城した。
  佐賀県庁に征韓党、憂国党あわせて2500人が包囲(佐
 賀の乱)
  新政府の施策にあきたらず、公然と藩制復帰をとなえ
 る保守派の憂国党、首領は、元秋田県令の島義勇(しま
 よしたけ、佐賀藩士だった)。
  江藤新平は、爆発寸前の不平士族や農民の騒ぎを鎮め
 ることができず、逆に、征韓党党首にかつがれる。
  旧武士階級に与えた影響は大きく、禄を失って生活に
 苦しんだ士族たちの不平不満が政府への反抗となった結
 果のこと。
  後に・・唐津、小城、蓮池の士族たちも続々と反乱軍
 に身を投じる
  1874年4月4日(2月18日)、佐賀県庁を占領
  征討軍を迎え撃つべく兵力を強化するため反乱軍は、
 各地に同志の参加を呼びかける密使を飛ばす。
  この日・旧暦2月28日、新式装備を誇る官軍の総攻撃に
 より反乱軍はくずれる。
  多くの降伏者をだし鎮定。
  反乱軍の幹部は処刑。
  江藤新平と島義勇は姿を消す。
  後に・・長崎深堀に逃げていた後藤新平は、民船で西
 郷隆盛をたより、鹿児島へ向かうが保護を断られる。
  日向から伊予に渡り土佐に入る。
  頼(たよ)る林有造に保護を拒まれ阿波へ逃れる途中
  1874年5月14日(3月29日)、土佐の甲の浦で、江藤新
 平は逮捕される。
  1874年5月28日(4月13日)、鹿児島で捕らえられた島
 義勇とともに、江藤新平は死刑となる。
1874年4月2日(2月16日)征韓党2000、憂国党4000連合軍、
 佐賀城の熊本鎮台兵と交戦。
1874年4月2日(2月16日)小島為政の断髪の強制を批判した
 投書「断髪苦情一家言」、「横浜毎日新聞」に載る。
1874年4月4日(2月18日)江藤新平ら、佐賀県庁(佐賀城)
 を占領。
  早朝、県庁側、多数の犠牲を出して包囲を突破、岩村
 権令は県外へ避難。
  佐賀県庁(佐賀城)攻略・占拠。
1874年4月5日(2月19日)佐賀県賊徒征討仰出
  佐賀の乱の勃発により、長崎市中がハチの巣をつつい
 たような騒ぎに
  「神代の士族の男子は、ひとり残らず船を立てて、佐
 賀に出発したそうな」
  「深堀士族も賊軍に加わるそうだ」
  「佐賀兵が諫早に上陸した。諫早市民はたきだしをし
 て歓迎をしているそうだ」
  「佐賀軍が長崎に来襲すれば市街は兵火に焼かれるぞ
  流言が乱れ飛び市民は戦々恐々、仕事は手につかず、
 身のまわりのものを持ち市外に避難するものが続出。
1874年4月5日(2月19日)大久保内務卿乗船のアメリカ船、
 東京・大阪鎮台兵船団、博多上陸。
  ここに本営を置く。
  同日、政府、佐賀県下の暴徒征討の太政官布告。
1874年4月6日(2月20日)陸軍少将・野津鎮雄、政府軍率い
 佐賀城下に進撃。
1874年4月6日(2月20日)元薩摩藩主の島津久光は、1874年
 3月30日(2月13日)に東京を発って、1874年4月6日(2月
 20日)に鹿児島に戻り、佐賀に呼応することのないよう
 元藩士に睨みをきかせていた。
  憂国党の幹部は、鎮台兵が佐賀を蹂躙し、士族のブラ
 イドを傷つけられたことを訴え、島津久光に謝罪・帰順
 しようとした。
  久光は、これに理解を示し、佐賀の大久保に使者を送
 るが、大久保は一切取り合わず。
1874年4月8日(2月22日)陸軍省第6局を廃し、参謀局を置
 く。
  参謀局設置。局長は山県有朋。
1874年4月8日(2月22日)佐賀軍が、福岡県境の朝日山で迎
 撃準備。
  政府軍(野津少将)と本格的戦闘。
  政府軍が、佐賀軍の防衛線突破。
  一時的に佐賀城を失った政府軍だが、すでに東京鎮台
 などを率いて福岡入りしていた大久保利通は、
  本隊として第四大隊(厚東武直少佐)・第十大隊(茨
 木惟昭少佐)、及び、第三砲隊(山崎成高大尉)を
  福岡との県境にある要衝「朝日山」(現:鳥栖市)に
 進撃させると共に、
  佐賀軍の別働隊を「三瀬峠」、椎原口などに認めたこ
 とから、
  第十大隊第三中隊(小笠原義従大尉)を、本陣警護と
 して博多に残した。
  また、「府中」(久留米市御井町)まで退却した第十
 一大隊は、
  筑後川から「千栗」「豆津」(現・みやき町)周辺の
 佐賀軍を撃ち、朝日山で本隊と合流することにした。
  さらに、これ以外にも、長崎に上陸した外務少輔・山
 口尚芳が、
  遠武秀行海軍秘書官ほか、現地海兵隊を護衛に、大村
 から武雄に向かい、
  乱への参加に消極的だった佐賀藩・武雄領の説得を行
 わせている。
  これに対し、佐賀軍は、長崎街道沿いを征韓党が、
  筑後川沿いを憂国党が、
  それぞれ受け持つことに決め、
  征韓党は、朝日山に田尻種博(戊辰戦争時の大隊長)
 と、井上考継を先鋒に西義質らを向かわせ、
  この日・1874年4月8日(2月22日)には、この政府軍部
 隊を迎撃した。
  憂国党の指揮は、村山長栄が取り、本隊との合流を目
 指す熊本鎮台部隊を迎撃した。
  朝日山の戦い
  二日市から原田を経て、田代に入った本隊は、
  この日・旧暦2月22日、朝日山に向かい、
  第四大隊と第三砲隊は、轟木道から正面へ、
  第十大隊の半数が、山浦から側面に、
  残る半数が、宿村から背後に出て、包囲攻撃を行った。
  佐賀軍も、猛烈に反撃したが、すぐに弾薬が枯渇した
 ため支えることが出来ず、中原に敗走し、
  ここでも敗れて、隘路である切通で反撃に出た。
  この時、追撃を担当した第四大隊は、分散しており、
 1中隊のみで相対したため苦戦したが、
  最後には、これも退け、苔野まで前進したのち、中原
 まで退き、笛吹山から原古賀の佐賀兵を掃討した第十大
 隊と合流して宿営した。
  また、夜半には、佐賀兵の夜襲も撃退した。
  これに対し、第十一大隊は、朝日山の本隊に合流しよ
 うと筑後川を渡り、千栗・豆津・江見などで佐賀軍を破
 ったものの、
  六田で奇襲を受け、永山貞応中尉が戦死するなど、大
 損害を出し、筑後川を渡り、住吉(久留米市安武町)ま
 で退却した。
  その後、夜間、再度、渡河して、千栗に宿営したため、
 この日の戦力の結集には失敗した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年3月24日木曜日

(増補版)318E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年3月~1874年3月)

題:(増補版)318E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年3月~1874年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1874年3月5日(明治7年1月17日)三条実美太政大臣が、大
 隈重信参議兼大蔵卿に、
  台湾問題に関する副島種臣大使の交渉結果の検討を依
 頼した。
  1874年3月6日(1月18日)大久保が、副島種臣を訪問す
 る。
  1874年3月7日(1月19日)福島九成(ふくしまきゅうせ
 い、佐賀藩士、陸軍軍人、外交官、官僚)が、再び、台
 湾出張を命じられた。
  1874年3月14日(1月26日)三条太政大臣が、大久保・
 大隈に台湾・朝鮮問題の取調べを命じる。
  大久保と大隈は、副島、リゼンドル(アメリカの外交
 官だが、副島外務卿の要請で外務省顧問になっていた)、
 柳原前光(やなぎはらさきみつ、外交官、駐清(しん、
 中国公使)、鄭永寧(ていえいねい、外務省に入り、日
 清修好条規締結につくす)らと相談して、
  1874年3月23日(2月6日)大久保・大隈連名で「台湾蕃
 地処分要略」全9ヶ条を答申して、閣議で決定した。
  さかのぼること1872年9月23日に、駐日米国公使・デー
 ロングが副島を訪問して、台湾の件を話し合っている。
  また、その翌日・1872年9月24日と9月26日の二回に渡
 って、元駐アモイ領事・アメリカ国籍のリゼンドルが副
 島と会談を行なっている。
  リゼンドルは、「台湾島の重要性を唱え(となえ、声
 に出して言うこと)、そこに砲台を建設すべき」と建言
 した。
  デーロング米国公使とリゼンドルは、共に、日本の台
 湾占領を支持する事により、日本を米国の友邦に仕立て、
 この日本を核として、極東における市場の拡大を目指し
 た。
  また、3月13日付けで、リゼンドルは、日本政府へ覚書
 を提出していた、
  ・・その覚書には・・、
  「もし支那政府にて此地を有ずるを好まずば、西人の
 手に落さんよりは、むしろ我国より此地を領すべし」と。
1874年3月8日(1月20日)江藤新平が、伊万里に上陸。
  嬉野温泉に滞在。
  旧暦1月25日に、佐賀入り。
  旧暦2月2日に、義弟(妻の実家)のいる長崎郊外深堀
 に移り静養、舟遊びなど楽しんでいる。
1874年3月9日(1月21日)樺太境界問題を交渉
  樺太と千島列島の一部との交換を提案する。
  1874年3月に、樺太全島をロシア領とし、その代わりに
 得撫島(うるっぷとう)以北の諸島を日本が領有するこ
 となど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大
 使・榎本武揚は、サンクトペテルブルクに赴いた。
  榎本とスツレモーホフ(Stremoukhov)ロシア外務省ア
 ジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相と
 の間で交渉が進められ、
  その結果、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、
 得撫島以北の千島18島を、ロシアが日本に譲渡すること、
  および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決め
 た樺太・千島交換条約の締結に至る交渉・・、
  1875年5月7日に、樺太・千島交換条約が、日本とロシ
 アとの間で締結された。
1874年3月11日(1月23日)近衛歩兵第1連隊、および、第
 2連隊の編成が成り、天皇陛下が、軍旗を授けられた。
1874年3月16日(1月28日)東京青山御所が開かれた。
1874年3月16日(1月28日)大久保利通が、佐賀県権令・岩
 村通俊を更迭し、弟の高俊(神奈川県権参事)が就任し
 た。
  佐賀の治安回復を指令。
  通俊は、就任半年で転任申し出て、弟を推挙す。
  弟の岩村高俊は、1874年3月(明治7年2月)に、佐賀県
 権令となり、
  内務卿・大久保利通の内意を受けて、江藤新平を盟主
 とする征韓党の挙兵(佐賀の乱)の鎮圧に努めた。
  乱の後は、内務省に移り、大久保の随員として井上毅
 らとともに清国を訪れている。
1874年(明治7年1月31日)女工採用の始(大蔵省の紙幣寮
 にて初めて女工を採用)
1874年3月18日(2月1日)佐賀の乱:その開戦前の騒動
  佐賀の憂国党が、県の公金を扱う小野組支店襲撃、20
 万円余奪う。
  征韓論をめぐる「明治6年の政変」で、中央を追われた
 江藤新平は、
  板垣退助や副島種臣、後藤象二郎からの説得や警告を
 受け流し、
  太政官より発せられた、「前参議は東京に滞在すべし」
 との御用滞在の命令をも無視する形で・・佐賀に戻った。
  なお、江藤と同郷の大木喬任は、高木秀臣から江藤出
 発の報を聞くや、即座に、佐賀出身の官吏を3人派遣して
 強引に江藤を連れ戻そうとしたが、彼らが横浜に着いた
 時には、すでに江藤が乗船した船は出航した後だった。
  この頃の佐賀は、征韓論を奉じる反政府的な「征韓党」
 と、
  封建主事への回帰を目指す保守反動的な「憂国党」が
 結成されるなど、
  佐賀の政情は不安定で、政府からもマークされていた。
  その様な情勢下の1874年3月18日(明治7年2月1日)に、
 憂国党に属する武士が、官金預かり業者である小野組に
 押しかけ・・、店員らが逃亡するという事件が起こった。
  これは即、内務省に電報で通知され、1874年3月21日
 (2月4日)に、政府は、熊本鎮台司令長官・谷干城に、
 佐賀士族の鎮圧を命令した。
  その中、島義勇は、三条実美の依頼により、沸騰する
 佐賀県士族を鎮撫するため佐賀に向かったが、
  たまたま同船した岩村高俊の佐賀士族を見下した傲岸
 不遜な態度に憤慨し、
  さらに、岩村に同行していた権中判事の中島錫胤から
 岩村が兵を率いて佐賀城に入る予定と聞き、
  父祖の地を守るためには、官兵を打ち払わなければな
 らないと決意。
  それまで不仲だった江藤と会談し、共に発つ決意を固
 めた。
1874年3月18日(2月1日)慶應義塾出版社から「民間雑誌」
 (主宰:福澤諭吉)が創刊された。
1874年3月19日(2月2日)新橋~京橋間に鉄道設置
  1872年10月2日(明治5年8月30日)新橋駅構内に西洋食
 物飲茶店が開業。初の駅売店。
  1872年10月14日(9月12日)日本初の鉄道が仮営業を開
 始:新橋~横浜
  1872年11月14日(10月14日)日本初の鉄道が正式開業:
 新橋~横浜
  1872年10月14日から仮営業という形でテスト走行を繰
 り返してきた日本初の鉄道が、1872年11月14日に正式に
 開業した。
  明治天皇陛下もこの開業式典に御臨席された。
  区間は、新橋~横浜まで:片道53分で一日9往復。
  この日を記念して1922年に国鉄が10月14日を「鉄道記
 念日」を制定した。
  1874年2月21日(明治7年1月5日)東京・京橋~新橋に
 馬車・人力車専用の道路が完成。
  1874年3月19日(2月2日)新橋~京橋間に鉄道設置
  1874年11月19日(10月11日)新橋駅近くで列車が脱線、
 鉄道開業以来はじめての事故
  1879年6月3日(明治12年4月14日)新橋~横浜間の汽車
 に始めて日本人機関士が搭乗。
1874年3月20日(2月3日)福岡県庁が、参議内務卿・大久保
 利通に、佐賀県士族動静不穏と電報を打つ。
1874年3月21日(2月4日)佐賀の乱、起こる。
  江藤新平による佐賀の乱起こる(鎮圧のため鎮台兵が
 出動した)
  同日、内務卿・大久保利通内示。
   陸軍大輔・西郷従道、熊本鎮台(司令官・谷干城陸軍
 少将)に派兵命令。
  谷は、まず、佐賀県庁に使者を送る。
  また、同日、島義男(ヨシタケ)が、太政大臣・三条実美
 に面会し、三条の依頼により鎮撫のため佐賀に向う。
  佐賀に赴任する岩村高俊と同船、不法分子を一網打尽
 にするとの岩村の傍若無人な広言に不快を感じ、岩村が
 鎮台兵出動打ち合わせのため下関で下船したのを知り、
 文官が兵を率いて赴任するとは何事だと怒る(岩村は、
 意識的に島を挑発したか?)。
  1874年3月26日(2月9日)、長崎着。
  島義男(ヨシタケ):大学少監ー侍従ー秋田権令、明治5年
 6月、開化政策に反対し辞職。憂国党党首に祭り上げられ
 ている)
  1874年3月26日(明治7年2月9日)佐賀に於ける軍事・
 行政・司法の三権全権の委任を受けていた大久保利通内
 務卿は、文官でありながら兵権を握る権限を得ており、
 嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)が征討総督として現地
 に着任するまで、すべての事項を決裁した。
  大久保は、東京から引き連れた部隊に加えて、大阪の
 鎮台部隊等を直ちに動員し、博多に向かい、20日に到着
 すると現地で貫属隊の名目で兵を集める一方、本隊を指
 揮する野津鎮雄を朝日山へ向かわせ、
  博多の本陣には山田顕義を残した。
  後に、三瀬峠に、佐賀軍の別働隊を発見し、山田顕義
 麾下の部隊を派遣した。
1874年3月22日(2月5日)邏卒〔らそつ〕を巡査と改称。
  警視庁が、羅卒を巡査の呼称に改めた。
1874年3月22日(2月5日)佐賀県権令・岩村高俊(1月28日、
 兄の通俊に代って佐賀県権令に任命され、赴任前で在東
 京)、兵力による鎮圧を大久保内務卿に建白。
1874年3月23日(2月6日)最初の海外への武力行使方針決定。
  大久保・大隈連名、琉球民殺害事件に関して閣議に「
 台湾蛮地処分要略」全9ヶ条提出。
  台湾遠征軍派遣、閣議決定。
  大久保・大隈・リゼンドル・柳原前光・鄭永寧ら協議。
  リゼンドルの第3覚書をそのまま踏襲。
  「要略」:
  「無主の地」として清国領土外とみなす台湾先住民地
 域(著地)に対し、琉球民遭難への「報復」の「役」(
 軍事行動)を発動することが基本方針。
  「討蕃」と「撫民」を目的とするが、「生蕃」討伐と
 「土蕃・塾蕃」撫育とを区別して併用せよとする福島九
 成の見解が採用されている。
  「撫民」の目的は、「土人を懐柔綏撫(スイブ)せしめ、
 他日、生蕃を処分するの時の諸事に便ならしむ」(第八
 条)ためである(「討蕃」の為の手段とする)。
  何故なら、「熱蕃の地、琅嬌・社寮の港より兵を上陸
 せしむる」(第九条)計画だったから。
  台湾「蕃地」への軍事力行使に対して清国から抗議さ
 れた場合は、「ただ推託して時日遷延の間に即ち事を成
 し」(第四条)とし、「討蕃撫民」の既成事実を作ると
 した。
  また、清が、琉球の日清両属問題を提起してきた場合
 は、「さらに顧て関係せず、その議に応ぜざるをよしと
 す」(第三条)とし、交渉に応じないことにした。
  外交による解決をとらない、軍事力優先の路線を採用。
  但し、柳原外務大丞と鄭外務少丞が起草した「要略」
 原案弟一条は、「琉球人民の殺害せられしを報復し、そ
 の地を拠有すべきは・・」となっていたが、成文では「
 その地を拠有」が削除された。
  6日閣議後、岩倉は、「台湾処分御決定、先ずもって安
 心候」と大久保に書き送り、
  大久保も、同日の日記に、台湾一条が決定し「安心い
 たし候」と書く。
  また、大久保宛て書簡で、岩倉は、「吾属地」とする
 かどうかは「再び御評議のはず」と領有論再開を期待。
  岩倉は、「なにとぞ吾れに得べきの目的立てたきもの
 と存じ候」と、「蕃地」領有を望み、大久保の同意を求
 めるような書きぶりからみて、大久保も領有論傾向であ
 った。
  岩倉は、「要略」が決定したからには「問罪使命の人
 体お取り極めの義急務」(遠征軍最高指揮者の人選を急
 がねばならない)であるが、「鹿児島県の人にて誰かこ
 れなくや」と大久保に推薦を促す。
  しかし、大久保は、台湾遠征という国家的大事業を薩
 摩閥だけのものとみられるのを避けたかったらしく、土
 佐出身の熊本鎮台司令長官谷千城に白羽の矢をたてる。
  但し、木戸孝允ら長州系は「要略」決議に抵抗。
  6日付け木戸日記に、「今日岩倉(邸)にて会議あり、
 台湾-条なり、廻しの暮面に同意せり、よって今日出会
 を断れり」とある。
  木戸は、事前に見せられた書面(「要略」案)に同意
 したので閣議は欠席した。
  「同意」したとはいえ閣議には出たくなかったという
 わけで、この一件にたいする木戸の消極的態度が表れて
 いる。
  しかも、木戸が同意した案と閣議にかけられた案では
 内容が異なっていた。
  翌7日、伊藤博文が、木戸に閣議の模様を報告する手紙
 を送り、
  「台湾一条会議ござ候ところ、かねてお目にかけおき
 候書面の趣意とも少々相違」していたと云い、
  「急に一大隊の兵を発し、・・議かくのごとく火急・
 ・卒然に事を処する見込み」と、「要略」決定までが性
 急で慎重さに欠けることへの不安を伝える。
..
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2016年3月22日火曜日

(増補版)317E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年1月~1874年3月)

題:*(増補版)317E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年1月~1874年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年1月26日(明治6年12月9日)東京小網町の大火(約
 5000戸焼失)
1874年1月(12月)自動織機・ジャカード織機
  佐倉常七 ・井上伊兵衛 ・吉田忠七らが仏、リヨンよ
 り、ジャカード織機などを携えて帰国した。
  ジャカード織機は、1801年に、フランス人のジョゼフ・
 マリー・ジャカールが発明した自動織機のこと。
  1872年(明治5年)に、京都府が、西陣機業関係者3名
 をリヨンに送って学ばせ、帰国時に機械を持ち帰った。
1874年2月11日(12月25日)島津久光を、内閣顧問(ない
 かくこもん、内閣総理大臣の諮問機関)に任命した(
 1873年説あり)
  1871年11月14日に、都城県(みやこのじょうけん、
 日向国南部と大隅国東部を管轄する県、現在の宮崎県南
 部と鹿児島県東部)が設置され、
  旧藩領が、鹿児島県と都城県とに大きく分断されると、
 島津久光は、「薩隅分県」は長州の陰謀だと疑い、また、
 自身の鹿児島県令への就任を希望した。
  1872年7月27日(明治5年6月22日)~8月5日(7月2
 日)にかけて、明治天皇陛下が、西国巡幸の一環として
 鹿児島に滞在されたことを受けて、
  1872年8月2日(6月28日)に、政府の改革方針に反す
 る守旧的内容を含んだ14カ条の意見書を、久光は奉呈し
 た。
  1873年4月(明治6年3月)に、勅使・勝安芳(海舟)、
 および、西四辻公業(にしよつつじきみなり、公家、政
 治家)が鹿児島に下向、・・その要請に応じて、
 久光は上京する(4月17日鹿児島発、23日東京着)。
  そして、この日・1874年2月11日(明治6年12月25日)
 に、内閣顧問に任じられた。
  1874年2月1日~1874年3月1日の佐賀の乱の勃発を受
 けて、明治六年政変により下野した西郷を慰撫するため、
 久光は、鹿児島に帰郷する(1874年3月31日・明治7年
 2月14日東京発、1874年4月6日・明治7年2月20日鹿児
 島着)。
  1874年5月(明治7年4月)に、勅使・万里小路博房(
 までのこうじひろふさ)、および、山岡鉄太郎(鉄舟)
 が鹿児島に派遣され、
  その命に従って帰京する(1874年5月30日・明治7年
 4月15日鹿児島発、1874年6月5日・明治7年4月21日東
 京着)。
  1874年6月11日(明治7年4月27日)に、久光は左大臣
 となり、
  1874年7月6日(明治7年5月23日)には、旧習復帰の
 建白を行うが、
  政府の意思決定からは実質的に排除されていた。
1874年、屯田兵(とんでんへい)の設置許可
  屯田制を北海道に実施するという考えは、明治初年か
 ら様々な方面に生まれていた。
  政府内の提案としては、明治3年11月(1870年12月
 ~1871年1月)に開拓使が行なったのが初めて。
  ついで、西郷隆盛が、1871年(明治4年)~1873年
 (明治6年)にかけて、士族による北方警備と開拓を主唱
 した。
  西郷は、計画の実現をみることなく下野したが、彼の
 影響で開拓次官の黒田清隆が、1873年11月に太政官に屯
 田制を建議した。
  樺太と北海道の兵備の必要と、そのための費用を憂え、
 「今略屯田の制に倣い、民を移して之に充て、且耕し且
 守るときは、開拓の業封疆の守り両ながら其便を得ん」
 というものであった。
  黒田が考えたのも士族の活用であったが、彼の場合、
 旧松前藩と東北諸藩の貧窮士族を想定していた。
  太政官は、黒田の提案に賛成し、1874年(明治7年)
 に、屯田兵例則を定めた。
  1875年(明治8年)5月、札幌郊外の琴似兵村への入地
 で、屯田が開始された。
1874年2月16日(12月31日)徳川慶喜が、大臣を辞す(
 1873年説あり)
1874年2月17日(明治7年1月1日)慶應義塾内に、私立小
 学校和田塾(のちの慶應義塾幼稚舎)が開塾した。
1874年2月20日(明治7年1月4日)榎本武揚が、最初の海
 軍中将に任命された。
  (榎本武揚→海軍中将兼駐露特命全権公使 )
  (最初の海軍大将は、明治27年の西郷従道)
1874年2月25日(1月9日)西郷の考え
  旧庄内藩士・酒井玄蕃(さかいげんば、戊辰戦争で活
 躍)の西郷との談話筆記。
  ロシアとの対決は必死だが、北海道防衛だけでは不備。
  朝鮮問題を解決し、沿海州に進出し「北辺」を防備す
 る必要がある。
  イギリス・ロシア対立を利用し、イギリスと提携して
 ロシアにあたれば、「魯国恐るに足らず」との世界戦略
 を示す。
  「今日の御国情に相成り候ては、所詮無事に相済むべ
 き事もこれなく、畢竟は魯と戦争に相成り候外これなく、
 既に戦争と御決着に相成り候日には、直ちに軍略にて取
 り運び申さずば相成らず、只今北海道を保護し、夫にて
 魯国に対峙相成るべきか、左すれば弥以て朝鮮の事御取
 り運びに相成り、ホッセットの方よりニコライ迄も張り
 出し、此方より屹度一歩彼の地に踏み込んで北地は護衛
 し、
  ・・兼ねて掎角の勢いにて、英、魯の際に近く事起こ
 り申すべきと
  ・・能々英国と申し合わせ事を挙げ候日には、魯国恐
 るに足らずと存じ奉り候」
  ロシアとの対決は必至であるが、北海道防衛だけでは
 ロシアと対抗できない。
  朝鮮問題を解決して、日本が積極的に沿海州方面に進
 出し、「北地」を防衛するのが上策であり、
  さらに、英魯対立を念頭において、英と連携してロシ
 アに当たれば「魯国恐るに足らず」という。
  朝鮮と事を構えるよりは、ロシアを警戒すべしという
 のが当時の西郷の考え。
1874年2月25日(1月9日)司法省・警保寮を、内務省に移
 管した。
  1等寮となり官員4000が転属。
  14日、内務卿・大久保利通が、幹部に訓示。
  「警保寮奏任官一同」の訴えにより、前年12月23日に
 臨時裁判所が無罪とした槇村正直(まきむらまさなお、
 官僚、政治家、小野組転籍事件を起こした)を、
  同31日に、参座を解散させた上で槇村を逆転有罪にし、
 長州派・木戸らに煮え湯を飲ませた蔭に、大久保がいる
 事は知れ渡っていた。
  警保寮とは:明治5年8月、司法卿・江藤新平が、軍事
 と警察を分離することにして、約4000人の東京府邏卒を、
 司法省管轄下に入れ、政府警察として機能させたもの。
  近衛兵(約5千500人)に括坑する勢力で、これを背景
 に、司法省は、軍部の綱紀粛正、藩閥の腐敗摘発ができ
 た。
1874年2月26日(1月10日)参議司法卿・大木喬任(元佐
 賀藩士、江藤の2歳上)が、江藤新平を呼出し、佐賀への
 帰郷を止めるよう勧告した。
1874年2月26日(1月10日)閣議が、開拓中判官・榎本武
 揚を海軍中将とし、特命全権大使で、ロシア派遣を決定
 した。
1874年2月(1月)内務省に勧業寮を設置し、殖産興業を推
  進した。
  それまでの勧業課の業務は、内務省所管となり、内務
 省勧業寮(一等寮)として復活する。
  勧業寮には、農務・工務・商務・編纂の4課を置いた。
  「国家富強の根本を奨励し、不急の費を省くべき意見
 書」、
  日本は、今まで、農業に力を入れて来たので、農業に
 は地力を尽くさしめる事に務め、
  工業をして精巧を極めさせ、
  商業で財貨の流通を促進させなければならない。
  希少資源を有効に活用して無駄を省き、
  政府の誘導奨励により、物産を増殖する事の急務があ
 る。
  養蚕農業、山林畜産が重要である。
1874年3月1日(1月13日)江藤新平が、新橋発、横浜港よ
 り佐賀に戻る。後藤は横浜まで見送る。
  3月3日(1月15日)、神戸に寄港。
  前日の1月14日に、岩倉襲撃が起きたことを知る。
  同船に乗り合わせた林有造(はやしゆうぞう、武士、
 政治家、自由民権運動家)は、誤解を避けるため神戸で
 下船した。
  林有造は、元土佐藩士で、前外務省6等出仕、愛国公党
 に参加した。岩村通俊の弟・高俊の兄。
  副島の指示により、西郷から民撰議院設立建白書への
 賛意を得る為に、鹿児島に行く途上であった。
1874年3月2日(1月14日)岩倉具視が、凶漢に襲われ負傷。
  喰違門事變(右大臣:岩倉具視襲撃事件)
  岩倉具視襲撃は・・、
  東京・赤坂の仮皇居(現=迎賓館)から表霞が関の自
 宅まで、馬車で帰ろうとした右大臣・岩倉具視が、
  喰違見附で、旧土佐藩士の一党に襲われ、軽症を負っ
 たが、濠に滑り落ちたため、刺客に発見されず、危地を
 脱した。
  喰違の変(くいちがいのへん):午後8時、武市熊吉
 (高知県士族、前近衛局陸軍少佐)ら土佐征韓派士族・
 元近衛将校下士官らが、右大臣・岩倉具視を襲撃。
  1874年3月5日(1月17日)に、東京警視庁が、首謀者・
 武市熊吉を逮捕した。
  共犯者(元土佐藩士、陸軍少尉・曹長など)8人も逮捕。
   翌・3月6日(1月18日)より司法省臨時裁判所で裁判。
  1874年8月20日(7月9日)に、9名すべて斬罪。
1874年3月4日(1月16日)高島炭坑が官営(工部省所管)
 化した。
  19世紀後半以降、欧米列強のアジア進出による浸食の
 中で、
  日本は、早期に富国強兵し、独立を確保するために、
 その道を、資本主義の確立に求めた。
  明治政府が、国家主導の「上から」の資本主義化を図
 るために進めた殖産興業政策。
  それは、旧幕府や諸藩が進めた洋式工場や鉱山を接収
 し、官営事業とすることから着手された。
  1870年(明治3年)に、発足した工部省は、初期の官
 営事業を統括した。
  そして、「御雇外国人」を招聘(しょうへい)し、多
 くの日本の技術者の指導・育成に当たらせた。
  特に、幕末にフランスの支援で、創設された横須賀造
 船所は、当時、国内最大の総合工場だった。
  そして、機械製作や技術者養成の面で、他産業の発達
 にも貢献した。
  これらの官営工場において、日本人の職工・工女らに
 よる技術の習得が図られた。
  そして、技術習得をした彼らの流動によって、民間へ
 の技術移転が図られた。
  また、官営事業自体の払下げによって、日本における
 産業資本主義の発展の基礎がなされた。
1874年3月7日(1月19日)オランダ人医師・ボードウィン
 に償却金40万ドルを支払う。
  1869年2月(明治2年1月)大阪に、ボードウィンが、
 上海から着任した。
  1869年11月30日(明治2年10月27日)ボードイン執
 刀で、大村益次郎の右大腿部切断手術が行われた。
  しかし、益次郎は、1869年12月7日(11月5日)没。
  1870年3月(明治3年2月)軍事病院・陸軍軍医学校が
 正式発足 ボードインは雇用契約を延長して、診察と軍
 医教育を行う。
  1870年3月(明治3年2月)ボードインの設計による大
 阪軍事病院が大阪城内に出来た(ボードウィンが帰国延
 期)。
  1870年7月(明治3年6月)大坂軍事病院を辞し、帰国
 のため、横浜に滞在。
  その後、7月頃~10月頃まで、大学東校(現:東京大学
 医学部)で、講義を行い、帰国。 
  1870年12月7日(明治3年閏10月15日)是より先「十
 月」前大坂軍事病院附蘭医ボードウイン、大学東校に雇
 庸さる。是日、満期帰国せんとするを以て、 之に謁を賜
 ひ、勅して其功績を褒ず。尋で「二十八日」金三千両を
 賜ひ、功碑に代へ、賞典文を授く。 
1874年3月5日(1月17日)「民選議員設立建白書」を提出
 した。
  板垣・江藤・副島・後藤・由利公正(前東京府知事)・
 岡本健三郎(前大蔵大丞、海援隊士)・古沢滋・小室信
 夫らが、民撰議院設立建白書を、左院に提出した。
  1874年2月28日(明治7年1月12日)に古沢滋(27歳、
 旧土佐藩士)が起草し、副島が筆をいれて完成した。
  1874年3月6日(明治7年1月18日)付の「日新新事誌」
 に掲載され、全国的に反響を呼び、民選議院論争が起こ
 った。
  「・・政権の帰する所を察するに、上帝室に在らず、
 下人民に在らず、しかも独り有司に帰す」。
  民選議院を設立して、「天下の公議」を政治に反映さ
 せ、有司専制を制限した。
  岩倉太政大臣代理の「違法かつ専断越権な行為」によ
 って、適法かつ正当な手続きによってなされた閣議決定
 が、一方的に覆され、
  それが、既成事実となって罷り通っている現実に対す
 る、下野した参議の痛切な批判が込められていた。
  有司専制批判・租税共議権主張・微温的立憲制の要求
 を盛ったこの建白書は、
  民選議院論争で国政参加権を、さしあたり「維新の功
 臣」を出した「士族および豪家の農商」に限定し、本質
 的には政府部内反対派の要求であった。
  しかし、この行動は、愛国公党の組織的行為であり、
 「日新真事誌」への掲載により、広くアピールしたとい
 う点で従来のものとは異なり、
  当事者の主観的意図を越えて、国民に迎えられ、民主
 主義を求める国民的運動が形成される政治的契機になっ
 た。
  「臣等伏して方今政権の帰する所を察するに、上(カミ)
 帝室に在らず、下(シモ)人民に在らず、而独有司(而も
 独り官吏)に帰す。
  夫(ソレ)有司、上帝室を尊ぶと曰(イ)はざるには非ず。
  而(シカモ)帝室漸く其尊栄を失ふ。
  下人民を保つと云はざるには非ず。
  而政令百端朝出暮改、政刑情実に成り、賞罰愛憎に出
 ず、言路壅弊(ヨウヘイ)困苦告るなし。
  夫如是にして天下の治安ならん事を欲す、三尺の童子
 も猶其不可なるを知る。
  因循改めずば、恐くは国家土崩の勢を致さん。
  臣等愛国の情自ら已む能はず。
  即ち、之を賑救(シンキフ)するの道を講求するに、唯天
 下の公議を張るに在る而已(ノミ)。
  天下の公議を張るは、民撰議院を立るに在る而已。
  則有司の権限る所あって、而して上下其安全幸福を受
 くる者あらん。
  請遂に之を陳ぜん。
  夫れ人民政府に対して租税を払ふの義務ある者は、乃
 (スナワチ)其政府の事を与知可否(ヨチカヒ)するの権利を有
 す。
  是れ天下の通論にして復喋々臣等の之を贅言するを待
 たざる者なり。
  故に、臣等窃に願ふ、有司亦是大理に抵抗せざらん事
 を。
  今、民撰議院を立るの議を拒む者日く、我民不学無知
 未だ開明の域に進まず。
  故に、今日、民撰議院を立る尚応に早かる可しと。
  臣等以為らく、若し果して真に其謂ふ所の如き歟、則
 之をして学且智、而急に開明の域に進ましむるの道、即
 民撰議院を立るに在り。
  何となれば、則ち、今日我人民をして学且智に開明の
 域に進ましめんとす、先ず其通義権理を保護せしめ、之
 をして自重自重、天下と憂楽を共にするの気象を起さし
 めんとするは、之をして天下の事に与らしむるに在り」
 (「日新真事誌」18日付)
  ブラックが主宰する「日新真事誌」が、建白書全文を
 スクープ。
  ブラックは、英字新聞「ジャパン・ヘラルド」「ジャ
 パン・ガゼット」の主筆兼経営者として、客観的報道の
 意義と影響力を理解している。
  建白書は、事前に板垣から参議・木戸に渡されること
 になっていたが、木戸への使者である自由民権運動家(
 愛国公党員、小室信介の養父)小室信夫が、「日新真事
 誌」に建白書を持ち込み、全文を公表する。
  木戸は、すこぶる感情を害したと云われる。
  「日新真事誌」は、民撰議院開設賛否両論に公平に紙
 面を提供、キャンペーンを展開し、国会開設の世論が、
 全国各地に湧き起った。  
  前年12月、この草案が出来ると、板垣・後藤等は、土
 佐人の林有造を使者として、佐賀の江藤新平と鹿児島の
 西郷隆盛に、これを送り賛成の署名を求める。
  江藤は、賛成して署名するが、西郷は反対して「御建
 白の趣は、至極当然の儀と存候、然れども天下の事は独
 り議論のみにては行はるべからざるものと存候へば、
  僕等は、先づ腕力を用ゐて然る後此事成るべしと存候」
 という返書を寄こす。  
  「建白書」及び愛国公党の意義:
  ①、日本近代化に関する体系的理念、構想、ノウハウ
   を独占していた政府に対抗できる国政理念を提示。
    これまで政府の攻勢に追われ受動的抵抗をするだ
   けであった反政府派に権威と理論が付与され、運動
   の全国的結集の核が生まれる。
  ②、政治組織(「党」)の考え方を生み出す。
    のちの運動の中で定着してゆく。
  ③、「天賦人権論」を公然と主張。  
  政府(大久保の独裁)の対応:
  翌1875年5月(明治8年4月)、漸次に立憲制を施くべ
 しとの詔(ミコトノリ)を出し、木戸・板垣らを入閣させる。
  同1875年6月、民選議院に代わる地方官会議を開いて
 不平士族や豪農を宥(なだ)める。
  政府の約束は、讒謗律、新聞紙条例などの言論弾圧、
 また、江藤らの相次ぐ士族反乱で棚上げにする。
 (注)讒謗律(ざんぼうりつ、明治8年6月28太政官布告
   第110号)とは、明治初期の日本における、名誉毀
   損に対する処罰を定めた太政官布告。
   主な内容:著作物を通じての名誉毀損に対する処罰 。
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2016年3月21日月曜日

(増補版)316E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年12月~1874年1月)

題:*(増補版)316E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年12月~1874年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1873年12月8日(10月19日)公園の設置
  東京に、初めての公園を設置した。
  (浅草、増上寺、上野台地、富岡八幡、飛鳥山の五地)
1873年12月22日(11月3日)国旗の掲揚
  祭日に、国旗掲揚の制を定める。
  天長節から国旗を立てることにした。
  自国旗を掲揚するという当然の行為を、日教組は、戦
 争につながるという理由で、日本の国旗である日の丸の
 掲揚に反対している。
  子供たちに大きな影響を与えている。
  国旗であるから色々な場面に関わってくるのであるが、
 日教組はひたすら戦争を持ち出す。
  良い状況にも日の丸はいっぱい関わっているのだが、
 日教組は、そのことは言わない。
  まったく駄々っ子の様に理屈の通らない言で、拗(す)
 ねている。
  2カ国の国旗の掲揚の場合、当然、国旗を掲揚して、外
 国に敬意を表するという大事な意味合いがある。
  その場合は、外国の国旗をポール、または、壁に向か
 って左側の上位席に掲揚し、日本の「日の丸」は右側に
 掲揚するという国際的な儀礼がある。
  日教組は、この様な国際的な慣例などもまったく無視
 している(外国に対して非礼になっていることもお構い
 なしである)。
  因みに、3ヶ国の場合は、通常、日本の国旗を中央にし
 て、アルファベット順に左側、そして、右側の順に掲揚
 する。
  ちなみに、これは国連でもこの様にしている。
  日教組の筋の通らないわがままな主張は、この様な
 国連でもやっていることにお構いなしである。
1873年12月23日(11月4日)外国語学校を、東京に設立
 する。
  既設の官立外国語教育機関を統合し、この年に、設立
 された。
  翌年の1874年までに、東京を含めて、全国で計8校の
 設立をみた。
  この東京の外国語学校は、官立外国語学校のなかでは
 最初のものであった。
  略して、「語学校」とも称した。
  当初は、英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語
 科が設置された。
  後に、英語科が分離して朝鮮語科が増設された。
  高等教育の基礎としての外国語教育と、通訳養成のた
 めの教育という二重の役割を持っていた。
1873年12月29日(11月10日)内務省を設置(1873年11
 月10日説あり)。
  内務省が設置され、行政・警察権の中心となった。
  初代内務卿は大久保利通。
  地方行財政・警察・土木・衛生・国家神道などの国内
 行政を担った。
  初代内務卿の大久保利通の思想を反映して、設立当初
 から国民生活全般への監視の課題もあった。
1873年12月29日(明治6年11月10日)、下野した西郷が、
 この日に、鹿児島に帰着した。
  以来、大半を、西郷は武村の自宅で過ごした。
  猟に行き、山川の鰻温泉で休養していた。
  1874年4月16日(明治7年3月1日)に、佐賀の乱で敗
 れた江藤新平が来訪し、
  翌日の4月17日、西郷は、江藤を指宿まで見送った。
  そして、江藤は、土佐で捕まった。
  これ以前の1874年3月(明治7年2月)に、閣議で台湾
 征討が決定した。
  この征討には、1874年6月(明治7年5月)木戸が反対
 して参議を辞めたが、西郷も反対していた。
  しかし、1874年6月17日(明治7年5月4日)、台湾征
 討軍の都督となった西郷隆盛の弟の三弟・西郷従道の要
 請を入れ、やむなく鹿児島から徴募して、兵約800名を
 長崎に送った。
  西郷の下野に同調した軍人・警吏が相次いで帰県した
 明治6年末以来、
  鹿児島県下は、無職の血気多き壮年者がのさばり、そ
 れに影響された若者に溢れる状態になった。
  そこで、これを指導し、統御しなければ、壮年・若者
 の方向を誤るとの考えから、有志者が西郷にはかり、県
 令・大山綱良の協力を得て、1874年7月(明治7年6月)
 頃に、旧厩跡に私学校がつくられた。
  私学校は、篠原国幹が監督する銃隊学校、
  村田新八が監督する砲隊学校、
  村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、
 県下の各郷ごとに分校が設けられた。
  この他に、1875年5月(明治8年4月)には、西郷と大
 山県令との交渉で確保した荒蕪地に、
  桐野利秋が指導し、永山休二・平野正介らが監督する
 吉野開墾社(旧陸軍教導団生徒を収容)もつくられた。
  (街道をゆく8)には、下記の記載がある・・、
  「西郷と彼が、鹿児島士族の二才衆(にせしゅう)を
 組織して在校10000万人という私学校を起こすが、
  私学校組織は巨細に見ると、もとの郷中(ごじゅう)
 組織であるにすぎない」・・と。
  郷中(ごじゅう)は、薩摩藩の武士階級子弟の教育法。
1873年12月、星亨(23歳、ほしとおる)が、横浜税関次
 官から横浜税関長になった(長官・中島信行が、神奈川
 県令に転出したため)
  在任期間:1873年12月(明治7年1月)~1874年8月
 (明治7年7月)
  翌年・1874年3月(2月)従六位に叙任。
  イギリス公使パークスとの紛争により、半年で税関長
 を免職した。
  しかし、その後まもなく、租税本案外事課長、また、
 条約改正委員にも任命され、
  1874年10月(明治7年9月)には、イギリス留学を命
 ぜられる。
  星が、「ハー・マジェスティー」を「女王陛下」と訳
 したところ、
  イギリス公使ハリー・パークスが、日本での女王は、
 皇族の内でも最下級で、このような呼び名を用いる事は、
 大英帝国君主の尊厳の冒瀆である、と激怒し、星の処罰
 を求めた。
  星は、英語の「クイーン」は、女の王、又は、王の后
 を意味する言葉で、「女王」と訳す事に差しつかえない、
  イギリスが、「皇帝」と訳して欲しければ「エムペラ
 ー」、又は、「エムプレス」の称号を用いるべき、と回
 答した。
  事件は、外務卿・寺島宗則が、イギリス公使の威圧に
 屈し、太政官布告によって外国君主には、全て皇帝の称
 号を用いることとし、星を免職にして解決した。
1873年、宇喜多氏の大赦
  宇喜多から浮田と、途中から姓を改めた秀家・豪姫に
 始まる八丈島の一族は、
  明治の御一新で、やっと大赦となり、
  明治天皇陛下は、明治6年に、東京板橋に宅地19900坪
 を与え、
  前田家も、金1000両を贈って、苦闘の一族(当時、8家
 に分裂)の労をねぎらった。
  それは、豪姫が、八丈島の夫や子供たちに思いを馳(
 は)せ金沢で死んでから、実に239年も後の事であった。
1873年、チェンバレンが来日し、東京大学で言語学を教え
 た。
  日本における国語学を確立した。(街道をゆく1)
1873年、横浜生糸改会社の社長に原善三郎 (横浜生糸商、
 1827年~1899年) が就任した。
1873年、抄紙会社が創立された(王子製紙)
1873年(明治6年)長崎造船局と改称した。
  後に、三菱社が、自家造船所経営の必要に迫られた。
  また、後になって、ちょうど政府が、工部省所管長崎
 造船局を民間に経営を委ねる方針を出した。
  その後、三菱社は、機を逸せず長崎造船局の貸与を願
 い出た。
1873年、ナポレオン3世が没した(1808年~1873年)
1874年(明治5年~明治6年)、出来事:
 ・北海道屯田兵制度が創設された。
 ・板垣退助、後藤象二郎らが民撰議院設立建白書を政府
  に提出した。
 ・【関八州大三角測量】 工部省の測量事業を内務省地
  理寮が引き継ぎ、「関八州大三角測量」と称して本格
  的な三角測量を開始した。
 ・板垣退助が土佐に立志社を創立した。
 ・郵便脚夫、
 ・ピストル取扱規則公布
1874年、スポーツ、
 ・工学寮にソフトボール競技の初め。
1874年、科学
 ・大坂~神戸の鉄道が開通した。
 ・釜石製鉄所が設置され発展した。
1874年、文化
 ・東京銀座にガス灯が灯った。
 ・二階建四頭立の乗合馬車、東京市内を通る。
 ・東京府、大通りの人道車道の区別を定める。
 ・新橋駅構内人力車夫数を制限する。
 ・東京市内街路樹を植える。
 ・読売新聞が発刊された。
 ・東京府、新墓地設定。
 ・浅草 伊勢屋弥兵衛、浜町(芳町)の美人芸者と結婚、
  お二人洋装、ワインで乾杯。
1874年、衣
 ・巡査の制服制帽公布。
 ・マント流行始まる。
 ・陸海軍人服制改定。
 ・長襟巻の流行。
 ・外国錦の輸入盛んになる。
 ・京都府石鹸使用を奨励する。
1874年、食
 ・津校正信、大阪市内で搾乳を始める。
 ・弘前のアメリカ人教師、アメリカよりリンゴの苗を移
  植した。
 ・政府『紅茶製法書』を刊行。
 ・浅草に紙巻タバコつくるものあり。
 ・千葉の山田箕之助、野菜の缶詰をつくる。
1874年、住
 ・竹橋陣営、煉瓦造三階建の工事完了。
 ・東京ガス会社、ガス灯の点火を開始する。
 ・工部大学校生徒館(煉瓦造二階建)できる。
 ・舶来ランプだけでなく、和製も出まわり、東京市中に
  ランプ普及する。
 ・各家庭に石油ランプが普及。
 ・駿河町三井組三階煉瓦建築成る。
1874年1月7日(明治6年11月19日)初めて郵便はがきが、
 発行された。
1874年1月12日(11月24日)山田顕義少将を清国公使に
 任命した。
1874年1月12日(11月24日)日本の最初の政党・愛国公党
 が結成された。
  政府を去った西郷隆盛が、1873年12月12日に、鹿児
 島へ帰郷し、
  この日・1874年1月12日に、板垣退助、副島種臣、後
 藤象二郎、江藤新平、由利公正、小室信夫、岡本健三郎、
 古沢滋、奥宮正由の9人が、愛国公党を結成した。
  愛国公党綱領署名式。
  副島種臣屋敷にて、
  天賦人権論に立脚して、人民の基本的人権(通義権理)
 を保護主張し人民の自立を図ること。
  「天の斯民(シミン)を生ずるや、必ず之に附するに道義
 権理を以てす。
  ・・我党の目的は、唯(タダ)斯人民の道義権理を保護
 主張し、以て斯人民をして自主自由、独立不羈の人民た
 ることを得せしむるに在る而巳(ノミ)」。
  この党は、後に、自然消滅した。
  また、「自由党史」によると・・、
  板垣退助が、土佐出身の英国帰りの2人(前海軍中佐・
 片岡健吉・前外務省6等出仕・林有造)に、国会開設建
 白を勧める。
  2人は、板垣が先頭にたつべきとしたため、板垣は、後
 藤に相談。
  後藤は、同意し、英国帰りの前左院3等議官小室信夫・
 古沢滋の意見を聞くことになる。
  次に、板垣は江藤・副島を誘う。
  「政体書」の起草者・副島は、立法権独立に理解があ
 り、板垣に賛同。
  江藤は、明治元年に議会論を唱導し、佐賀藩政改革で
 も「下之議院」を構想し、明治3年の諸官制改革案におい
 て上下議院の導入を図り、左院の議会化にも工夫をめぐ
 らすなど、筋金入りの議会論者であったから、
  これも大賛成。
  さらに、五箇条誓文の原案起草者で前東京府知事の由
 利公正や大蔵大丞岡本健三郎らも仲間に加わった。
1874年1月15日、東京警視庁の創設
  鍛冶橋内旧津山藩江戸藩邸に設置され、旧薩摩藩士の
 川路利良が、初代大警視(後の警視総監)に任じられた。
  警視庁発足時から各地で士族反乱が発生し、地方の警
 察力では対処できなかった。
  政府は、全国の警察を一元化するため、1877年(明治
 10年)1月11日に警視庁を廃止し、内務省直轄の東京警
 視本署へと改編した。(庁舎はそのまま使用された)
  沿革
  1874年(明治7年)1月15日 東京警視庁を設置(太政
    官達6号)。
  1877年(明治10年)1月11日 東京警視庁が廃止され、
    内務省に警視局を設置(太政官布告4号、太政官達
    15号、内務省達)。27日 東京警視本署を設置(警
    視局布達甲3号)。
  1877年(明治10年)3月 警視隊抜刀隊を編成、西南戦
    争に従軍。
1874年1月17日、民撰議院設立建白書を提出
  愛国公党を結成した5日後、板垣らは、この日・1月17
 日に、古沢滋(迂郎)と小室信夫が起草し、
  由利公正(前東京府知事)、岡本健三郎(前大蔵大丞)
 も加えた合計8名で、民撰議院設立建白書を政府に提出
 した。
  これは、「政治権力が、上である天皇陛下(帝室)に
 もなく、また、下である人民にもない。
  ただ、一部の官僚に集中してあるという状態、
  だから、民撰議院を設立して行く事が、国民の幸福に
 なる」、、という趣旨のもので、
  故に、議会を開くべし・・というものだった。
  しかし、政府に却下されてしまう。
  だが、翌日の新聞「日新真事誌」に全文が掲載される
 と、大きな反響を呼んだ。
  ここから、次第に自由民権運動が盛んになって行った。
1874年1月18日、勝海舟、叙正四位(氷川清話)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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