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2016年8月5日金曜日

(増補版)394E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年3月)

題:(増補版)394E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年1月26日、哲学会
  井上哲次郎、三宅雪嶺、西周(にしあまね)らが、東
 京大学哲学科の卒業生を中心に、哲学会を結成した。
  哲学会は、日本の学術研究団体のひとつで、
  ドイツ哲学中心の官学アカデミズムの濃い団体だった。
  哲学のみならず、歴史学、文学など幅広い領域を対象
 にしていたが、しだいに、東京大学哲学研究室を基盤と
 した哲学専門誌となった。
1884年1月、江戸町に石油会社が開業した。
  石油ランプの普及が始まった。
  当時の家庭用の石油ランプは、灯油価格が、菜種油に
 比べて半値であった事と、
  明るさも、はるかに明るかったので、急速に普及した。
  1872年には、初めて、横浜の神奈川県庁付近の街灯に
 ガス灯がともった。
  因みに、石油と石油ランプが、商品として輸入されて、
 日本に入って来たのは諸説があるが、1860年頃と言われ
 ている。
  1866年に結ばれた条約で、灯台航路標識の設置がある
 が、
  このため、イギリスより洋式灯台ランプが購入されて
 いる。
  また、石油については、日本書紀にも「燃える土」と
 「燃える水」が、
  天智天皇に献上されたと記されている。
  日本初の石油会社としては、1871年にできた長野石炭
 油会社がある。
  1867年(明治元年)の石油の輸入量は121キロリットル
 で、
  1875年(明治8年)は、10,000キロリットルを越え、
  1894年(明治27年)には、20万キロリットルに達して
 いる。
  因みに、日本石油(株)は、1888年(明治21年)に、
 設立されている。
1884年2月2日、黒田清輝(くろだせいき)が、渡欧して法
 学を学ぶために、横浜を出発した(~1893年)
  のちに、画家に転向した。
  パリで、画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に
 出会い、
  1886年に、画家に転向することを決意し、ラファエル・
 コランに師事した。
1884年2月5日、農商務省が、塩業諮詢会を神戸で開催した。
  因みに、この年に、「興業意見(こうぎょういけん)」
 という意見書が出された。
  農商務省大書記官・前田正名(まさな)編纂(へんさん)
 の農工商業の実情調査報告と、停滞の原因、将来の振興
 策を述べた意見書(殖産興業に関する論策)で・・、
  府県に、地方勧業要務に関する実情データを収集させ、
 本省の資料と合わせて編纂したもので、
  外国の制度文物の輸入よりも、在来産業の保護・整備
 が富国策だと主張した。
  この意見書は、松方財政に批判的だった。
  また、この意見書は、非常に労作で、
  当時の産業計画の根幹となった歴史的文献となってお
 り、
  本書は、農談会、勧業諮問会の開催や農区視察員の派
 遣などを通じて準備が進められたもので、
  秩禄、金禄公債の所有の移動、士族の商法、および、
 帰農開墾の失敗事業、土地売買解禁後の農地移動状況、
 明治前期の物価変動状況、地租改正後の農家の経済状態
 などが、
  松方財政下の不況のなかで、各地の農工商業の実情を
 調べて、貴重なことが述べられている。
1884年2月8日、海軍省軍務局を、軍事部として改組した。
  軍務局(ぐんむきょく)は、日本の陸軍省・海軍省に
 設置されていた軍政担当部局で、
  軍務局は、軍政を管轄するとともに、
  省の政策形成、及び、兵員・予算を獲得することが最
 も重要な役目。
  軍務局長は、大臣・次官に次いで政治折衝の中心的な
 地位にあった。
  ただし、軍の公式な見解としては、軍務局、及び、同
 局長の政治への関与は、国務大臣の一員である軍部大臣
 の補佐を目的とした限定的なものであり、
  局長自身の権限によって行うものではないとされてい
 る。
1884年2月15日、学齢未満の幼児の小学校入学を禁じ、幼稚
 園設立を奨励した。
  小学校に、学齢未満の幼児が多数在籍していたため、
 1884(明治17)年に、学齢未満児の小学校への就学を禁止
 する通達が出された。
  1872年(明治5年)9月4日に、学制(日本の最初の近代
 的学校制度を定めた教育法令)が公布されたが・・、
  それ以後、経済的困窮から就学出来ない子供や、小学
 校に学齢未満の幼児が多数在籍していた。
  1882年に、文部省は、貧困層や労働者子弟を対象とす
 る簡易幼稚園(貧民の方たちのための幼稚園)を奨励し
 た。
  「貧民力役者等ノ児童ニシテ父母養育ヲ顧ミルニ暇ア
 ラサルモノ皆之ニ入ルコトヲ(奨励)」
  しかし、この普及は、あまり進展しなかった。
  学齢未満幼児の就学者対策としての幼稚園の設置が促
 されて行った。
  そして、この年・1884年に、学齢未満児の小学校への
 就学を禁止する通達が出された。
  この通達を契機として、幼稚園数も徐々に増加して行
 った。
1884年2月15日、朝鮮で、初めて電信取扱が開始された。
  日本によって設置され、運営された(日本~釜山間)。
  世界へつながる電信経路の一つとなった。
  1871年には、ロシアのウラジオストク~長崎(海底ケ
 ーブルの敷設)
  シベリア経由でヨーロッパ、さらに、大西洋横断電信
 ケーブルを経てアメリカとも通信可能となった。
  1873年、東京~長崎に回線がひかれ、東京から海外と
 の通信が可能となった。
  1880年には、日本国内の大都市間がつながり、
  1890年頃には、全国の県庁所在地がつながった。
  因みに、1879年には、165万通の電報が打たれている。
1884年2月16日、陸軍卿・大山巌が、川上操六・桂太郎両大
 佐を従え、欧州兵制視察のため横浜を出発した。
  川上操六は、この時、欧州各国の兵制を視察し、
  1887年には、乃木希典と共に、1月から1年半、ドイツ
 に留学し、
  モルトケ、ワルデーゼーから、直接、軍事思想を学ぶ
 機会を得て兵学を学び、
  日本陸軍の兵制を、フランス式からドイツ式に転換す
 る重要な役割を果たした。
1884年2月17日、梅ケ谷藤太郎(初代)が横綱となった。
  1879年1月場所の新大関昇進を挟んで、
  1880年5月場所でも全勝を挙げた。
  この間、1876年~1881年にかけて58連勝を記録し、若
 嶌久三郎に敗れて記録が一度止まるも、
  1884年5月場所まで、35連勝を記録した。
  同年・1884年2月に、横綱免許を授与された。
  1884年3月に行われた明治天皇陛下の天覧相撲では、伊
 藤博文が用意したまわし(自前のまわしが間に合わなか
 ったという)で土俵入りを披露した。
1884年2月24日、第一国立銀行と朝鮮政府の間で、朝鮮開港
 場における海関税取扱に関する条約に調印した。
  第一銀行釜山支店主任の大橋半七郎は、朝鮮総税務司
 パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフと、海関税取
 扱条約を締結した。
  因みに、第一銀行の前身は第一国立銀行で、1884年に
 は、李氏朝鮮(後の大韓帝国)と契約して、関税取扱業
 務を代行した。
  そして、後に、民間銀行でありながら、同国の中央銀
 行の業務を代行した。
1884年2月、フェノロサが、古美術絵画を鑑定する鑑画会を
 興した。
  フェノロサは、この年、政府から宝物調査団に任命さ
 れている。
  そして、文部省職員になっていた岡倉天心と、再び、
 奈良や京都の古社寺の調査をした。
  そして、重大な発見を数々した(国宝:救世観音の発
 見など)
1884年3月2日、旧岡山藩主庭園「後楽園」が公開された。
  この年、池田家から岡山県へ移管されて、一般公開と
 なった。
  総面積:133,000平方メートル
  残念なことに、1945年(昭和20年)6月29日の岡山空襲
 によって、延養亭など、江戸期から残されていた園内の
 建造物の多くが焼失した。
1884年3月3日、茶業組合準則が制定された。
  因みに、茶業組合規則は、1890年に制定されている。
  現:公益法人・日本茶業中央会
  目的:
  お茶の振興に関する基本的方策を樹立し、
  安全で良質な茶の需給関係の総合的改良発達を推進す
 るとともに、
  茶文化の振興を図ることにより、
  茶業の健全な発展、及び、国民生活の豊かさの向上実
 現に寄与することを目的とする。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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または
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2016年8月4日木曜日

(増補版)393E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年1月)

題:(増補版)393E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1884年、その他:
・上野~熊谷間の鉄道が開通した。
  そして、この7年後の1891年9月1日に、現在の東北本線
 全線(上野~青森間)が開業した。
  素晴らしい日本の技術力、明治の方々の功績だった。
・佐久間貞一が、活版工組合を設立した。
  この時は、草分け的な、組織化の労働運動の試みであ
 った。
  この様な試みは、1889年、1890年と行われたが、
  この活版工組合(かっぱんこうくみあい)などの職種
 別組合が組織化できたのは・・、
  1899年11月に、約2000名の印刷工を組織したときだっ
 た。
  この時、関東地方から近畿地方にかけて支部が存在し
 た。
  しかし、翌年・1900年(明治33年)に、治安警察法の
 公布の前後から、経営者側の態度が硬化して、組合を離
 脱するものが増え、急速に衰えて行った。
  そして、1900年5月に、活動停止となった。
  鉄工組合、日本鉄道矯正会と並んで、日本における黎
 明(れいめい)期の労働組合組織を代表する事例。
・換券発行(氷川清話)
  この年に、兌換銀行券条例が公布された。
  この条例によって、日本銀行は、銀本位制の下で、銀
 と交換ができる「日本銀行兌換銀券」を発行した。
  1897年(明治30年)に、金本位制を採用し、金兌換券
 (日本銀行兌換券)となった。
  そして、1931年(昭和6年)に、日本銀行券の金兌換は
 停止された。
  そして、1942年(昭和17年)に、日本銀行法が制定さ
 れ、兌換制度が廃止された(管理通貨制度への移行)
・勝海舟、皇居炎上の時、金・300両を献納したため、銀盃
 一個下賜(氷川清話)
・勝海舟が伯爵になる。
  華族に対し、公・侯・伯・子・男の爵位にわけた。
  また、旧公家や旧大名だけでなく、維新やその後の功
 労者にも爵位が与えられた。
  赤坂の氷川神社の近くに住む勝海舟が、伯爵を賜った。
1884年1月4日、官吏の恩給令が公布された。
  恩給局が設置された。
  恩給制度は、1875年(明治8年)の太政官(だじょうか
 ん)や、「陸軍武官傷痍(しょうい)扶助及死亡ノ者祭粢(
 さいし)並其(その)家族扶助概則」、および、「海軍退隠
 令」によって陸海軍人を対象として発足した。
  そして、この1884年に、「官吏恩給令」によって、文
 官にも支給されるようになった。
  この他に、学校教職員、警察官などに対する恩給制度
 も制定された。
1884年1月4日、官吏非職条例が制定された(太政官達3号)
  第一条、官吏判任官以上並ビニ出仕御用係モ之ニ準ズ
   奉職中 各官庁ノ事務張弛其他疾病等ノ事故ニ因リ
   本属長官ハ其僚属ノ官吏ニ非職ヲ命スルコトヲ得但
   勅任官ノ非職ハ上裁ニ依リ奏任官ハ太政大臣ノ認可
   ヲ経テ之ヲ命ス・・
  第五条、(制定当初、非職中ノ俸給ハ現俸三分ノ一ヲ
   支給スと規定したが、明治24年)年勅令23号で削除
   した。
    政費削減の観点から、職務に従事しないにもかか
   わらず俸給を支給するのはおかしいということが問
   題とされた。
    但し、経過措置によって、同年4月1日現在の非
   職者については、俸給の4分の1に限り支給するこ
   ととされた)
1884年1月4日、賭博犯処分規則が制定された(太政官第1号
 布告)
  旧刑法の賭博罪の規定を停止し、博徒に対する徹底取
 締を図った。
  特に、幕末に、諸藩の統制力が弱まって、各地で公然・
 非公然に賭博が行われていて、それを一掃しようとした。
  1880年に制定された刑法(旧刑法)・治罪法(現在の
 刑事訴訟法)は、
  フランスの法制の影響を受けて、最高でも重禁錮1年
 以下・罰金100円と軽微だった。
  また、現行犯のみに適用された(第260条-262条)。
  そして、治罪法は、夜間の家宅捜索を禁止していた。
  賭博は、夜間に行われる事が多かったので、政府の意
 思とは反対に、賭博は事実上の野放し状態だった。
  博徒達は、旧来から武装しているものも少なくなく、
 1882年に、安場保和から太政大臣・三条実美に提出され
 た意見書でも、
  博徒の中には、警察官を殺傷したり、法を巧みに利用
 して、警察官を不法侵入の罪に陥れる者がいると指摘さ
 れている。
  また、当時、高揚していた自由民権運動に反権力感情
 から参加する博徒も少なくは無かった。
  この法令によって、全国で、一斉に博徒の取締りが行
 われ、
  この年だけで、全国で、前年比25%増の約3万3千人が
 逮捕された。
  博徒達は、これを「大刈込」と呼んで恐れた。
  ところが、布告直前の太政官や内務省などの調査では、
 非常に多くの博徒がいる。
  例えば、群馬県は10万人と報告している。
1884年1月9日、大阪市東区の大火(1440戸焼失)
  (詳細説明済、前記を参照ください)
1884年1月23日、近衛兵に軍旗を授与した(1874年説あり)。
  因みに、近衛歩兵第1連隊(東京)は、1874年(明治7
 年1月20日)に編成され、
  同年・1874年1月23日に、軍旗を親授された。
  編成に際して明治天皇陛下より・・、
  「近衛歩兵第一聯隊編制成ルヲ告ク依テ今軍旗一旒ヲ
 授ク汝軍人等協力同心シテ益威武ヲ宣揚シ以テ国家ヲ保
 護セヨ」との勅語を賜った。
  それに対し、連隊長が・・、
  「敬テ明勅ヲ奉ス臣等死力ヲ渇シ誓テ国家ヲ保護セン」
 と奉答した。
  また、1871年(明治4年)に、東北鎮台第20番大隊(弘
 前町)が置かれ、
  1878年(明治11年5月1日)に、連隊が編成され、
  1879年(明治12年1月16日)に、軍旗が授与された。
1884年1月24日、太政官文庫が設置された。
  のちの、国立公文書館。
  内閣文庫の組織的な起源は、1873年に、太政官に図書
 掛が置かれ、
  太政官所管の図書を管理させたのに始まり・・、
  その後、1884年に、太政官は、太政官文庫の設立を政
 府の各官庁に通達し、
  政府が所有する和書や洋書などの図書一切を、太政官
 直轄で収集・管理させることとし、文書局記録課に所管
 させた。
  太政官文庫は、官庁の執務参考用図書を、一元的に管
 理する政府の専門図書館を設立の目的としていたが、
  政府の所有する図書を集中して移管させたために、
  旧幕府引継ぎの紅葉山文庫本をはじめ、和漢洋の貴重
 な図書の一大コレクションとしての性格も帯びた。
  1885年に、内閣制度の発足により、太政官は、内閣に
 移行し、文庫の名称も「内閣文庫」と改称された。
  書庫は、狭隘や、天災による損傷のため転々とした。
.
  (今日の言葉)
.
  『パクス・アメリカーナ』・・、
.
  『パクス・アメリカーナ』の旗を掲げてやって来たと
 いうが・・、
  パクス・アメリカーナという『超大国・アメリカ合衆
 国の覇権が形成する「平和」だというが・・?・・、
  その世界は・・どうなっているのだ・・??
  ローマ帝国の・・パクス・ロマーナ(ローマの平和)
 に由来すると言ったって、
  結局、腕力のある国が・・奴が・・「非情なる暴力」
 をふるってやる形になっている・・
  平和と言ったって、キリスト教の「シャローム」。
  違う考え方をする人たちを・・「異端」として、
  異端という捉え方をして・・異端と軽く捉えて・・
  安易に・・強烈な進んだ兵器で殺戮している・・、
  まさしく・・、
  キリスト教の歴史がこの様であったが、
  キリスト教の最高の会議だという「公会議」が・・
  この公会議というキリスト教の最高の会議でさえ、ロ
 ーマ法王の出席した会議でさえ、
  この会議が率先して・・、すぐに「異端だ」と判決し
 ・・「異端の殺戮をして来た」・・し続けて来た・・
  パクス・アメリカーナも、結局は、この様になった。
  数々の戦争があった・・、悲惨な戦争だった・・
  ベトナム戦争なんて悲惨の極みだった・・、
  パクス・アメリカーナは、このキリスト教の考え方の
 もとにあった。
  世界は、混乱が治まるどころか・・混乱は続き・・、
  何ら平穏な世界は来なかった・・、
  異端を殺戮し尽くして平和が来るというのは『妄想』
 なのだ。
  キリスト教のシャロームの平和は『ないのだ』。
  「平和」を求めたって・・この様な考えの下では平和
 はやって来ない・・、
  「世界の警察官」なんて言ったって、やっている事は
 警察官とはまったく違う行為だった・・、
  弱者を、自分の考えが正しいという基準で判定し、対
 象とした。
  結果は、殺しまくったと言える状態だけが現出した。
  「蛮行だけの結果」と言える結果が残る行為だった。
  イラク戦争の例を考えて見たって・・、
  「現代の十字軍だ」と言って・・近代兵器を使って・・
  戦いと、何ら関係ないイラクの方々が殺されて・・、
  警察行動だなんておくびにも言えない状況の中で・・、
  また、アメリカの若者たちが死んだ。
  言う事も、自分たちを「主人とした発言」で・・
  だから、自分たちの都合の良い事ばかりで・・、
  「大量破壊兵器があるから・・」と侵略し・・、
  その国の長を捕らえ・・、形ばかりの裁判の後の死刑
 (私刑)。
  まったく大東亜戦争(第二次世界大戦)の東京裁判の
 私刑・茶番劇と同じことをしている。
  お粗末な事に・・学者の間では・・東京裁判なんて、
 国際裁判の参考事例にもされない「お粗末さ」なのだ・・
  結局、イラクには大量破壊兵器はなく・・、
  アメリカの蛮行だけの罪が残った。
  そして、さらに、アメリカの罪は、この時に解体され
 たイラク軍隊が・・そして、将校たちが・・ISIL・イス
 ラム過激派組織(自称:イスラム国)となって・・、
  今・現在も、世界を大きく不安に陥れ、
  そして、多くの人々が殺されている・・死んでいる。
  この遠因を作ったのが、この時のアメリカの自分勝手
 な暴力・戦争にあった(警察権行使ではない)
..
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2016年8月3日水曜日

(増補版)392E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年1月)

題:(増補版)392E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1884年、流行:
・海水浴場の開設(1885年説など、各説あり)
  海水浴場の発祥地は、大磯という通説がある。
  大磯海水浴場の開設は、陸軍軍医総監の松本順が、か
 ねてから海水浴に注目していた。
  海水浴の適切な海岸を探していた。
  1884年(明治17年)に、大磯の海浜が海水浴に適する
 ことを発見した。
  地元の有力者に、海水浴の効能と、海水浴場の開設が
 大磯の発展に力を添えると説いた。
  翌年・1885年に、開設に至った。
  一方、富岡(横浜市金沢区)、保田(千葉県安房郡鋸
 南町)、二見が浦(三重県度会郡)、鎌倉など、「海水
 浴発祥の地」を標榜している地域は少なくなくない。
  片瀬海岸では、明治初期に、早くも外国人の海水浴が
 行なわれていたことが知られている。
  富岡は、1877年(明治10年)に、慶珊寺にアメリカ人医
 師のヘボンが逗留し、宮の前海岸で海水浴をしたと言わ
 れている。
  ヘボンは、リュウマチの治療に富岡の海水浴に来たと
 されている。
  このヘボンに影響されて、居留地の外国人が富岡に多く
 訪れたという。
  富岡が、外国人の海水浴場や、保養地として利用され、
 横浜の居留地で暮らす外国人の夏を過ごす恰好の地とな
 った。
  そして、1885年~1887年(明治18年~明治20年)頃に、
 湘南海岸の各地に、相次いで海水浴場が開設された。
  海水浴場ではないが、海水浴をしたという記述は、も
 っと時を遡(さかのぼ)る例がある。
  1872年(明治5年)、フランスの法律家ブスケは、カタ
 シエ(片瀬)で、夕食前に海水浴をしたとある。
  1876年(明治9年)には、フランスの東洋学者エミール・
 ギメも、片瀬の海で海水浴をしている。
  また、1877年(明治10年)に、アメリカ人エドワード・
 モースが、江の島で海水浴を行なったとされる。
  また、ドイツ人医師ベルツは、1879年(明治12年)、
 内務省の役人から、海水浴場に適する地について諮問を
 受けたとき、片瀬を適地として推薦している。
  日本最初の海水浴の公式記録は、1880年(明治13年)、
 大阪鎮台の兵士が、脚気治療のため、明石海岸で行った
 とある。
  また、「横浜もののはじめ」という資料には、1882年
 (明治15年)頃、外国人をみならって、日本人も海水浴
 を始めたとある。
  この地は、現在の「新山下町地先」という。
・蝙蝠傘:伊勢参りに不可欠の菅笠(すげがさ、すげの葉
 で編んだ笠)を被る者が少なくなる。
  今・現在、傘を「洋傘」とか「コウモリ傘」という人
 もほとんどいないが・・、
  「和傘」という日本の傘と、イギリスやイタリアから
 輸入された「西洋傘}があった。
  そして、日本には、古く、仏教伝来とともに傘蓋(さ
 んがい)が伝わってきた記録がある。
  欽明天皇13年(552年)に、百済の聖明王の寄進によ
 って、金の仏像、仏教書などとともに蓋(きぬがさ、法
 会のとき、高僧の歩行に際し、その上にかざす笠状のも
 の)が伝えられ、
  以来、布を張った長柄の傘が、きぬがさの名で、貴族
 や僧侶などの上流階級の間に広まった。
  そして、西洋傘が、日本に渡来したのは1804年(文化
 1年)に、長崎に入港した唐船が運んで来たとある。
  唐船の船載品目に「黄とんす傘1本」とある。
  形態は不明だが、記録としては最も古い。
  長崎の歴史のある洋傘店には、「唐傘」「南京傘」と
 いう言葉がある。
・和紙製ハンカチーフ:外科医が傷口を拭うのに衛生的で
 あるとして外国で重宝された。
  「日本人の清潔」というのは外国でも有名だった。
  鼻をかむチリ紙が関心を集めた。
  西洋人は、布製のハンカチで何度も使って不衛生であ
 った。
  不潔なハンカチをポケットに入れて持ち歩く西洋人は、
 日本人から不快のかたまりだった。
  日本は、紙文化が発達した清潔好きな民族だった。
  『シュリーマン旅行記 清国・日本』で、 ハインリッ
 ヒ・シュリーマンは言う・・、
  「日本人は、男性や女性も、服の袖の中にポケットが
 ついていて、
  そこには、はなをかむための和紙[懐紙]を入れている。
  彼らは、この動作をたいそう優雅に行なう。
  彼らは、われわれが、同じハンカチーフを何日も持ち
 歩いていることに、ぞっとしている。
  また、『江戸幕末滞在記』フランス海軍士官スエンソ
 ン(慶応2年、 1866年来日)には・・、
  日本人の清潔好きは、オランダ人よりはるかに発達し
 ていて、
  これは家屋だけでなく、人物一般についてもいえるの
 である。
  仕事が終わってから、公衆浴場に行かないと一日が終
 わらない。
  公衆浴場で何時間も湯を浴び、下着を洗っておしゃべ
 りの要求も満足させる。・・・
  西洋人は、一日中不潔なハンカチをポケットに入れて
 持ち歩く。
  それが(日本人は)どうしてもわからぬというのであ
 る。
・ネクタイが作られる。
  帽子商の小山梅吉の手により、国産の「蝶ネクタイ」
 の第一号が誕生した。
  1884年10月1日の製造開始を記念している。
  小山梅吉は、中古市場で見つけた細長い布に目が引か
 れ、一本買求め、これを見本にして帯地を裁断し、ネク
 タイを作ったという。これが、最初のネクタイ。
・万年筆が売り出された。
  横浜のバンスタイン商会が、初めてアメリカ製の『カ
 ウス・スタイログラフィックペン』を輸入した。
  そして、丸善で販売された。
  そして、翌年・1885年に、丸善の「引き札」ちらしに、
 初めて「万年筆」の文字が出た。
  当時は、カウス・スタイログラフィックペン(針先万
 年筆)とダッシュアウェイ・フォウンテンペン(金ペン
 付き万年筆)の双方を「万年筆」と呼んでいた。
  因みに、この年に、アメリカのウォーターマンが万年
 筆の製品化に成功とある。
・男子に和服用の外套「二重回し」、
 そして、上流婦人に、洋服や西洋風の髪型「夜会巻」が
 流行した。
  二重回しとは、男性用の和装防寒コートで、ケープ風
 の袖がついている。
  また、夜会巻は、着物や浴衣などの和服の時も活用で
 き、上品さと華やかさを演出でき、うなじが見えるので
 色香のある大人っぽい雰囲気にもなると説明されている。
1884年、演劇:
・文樂座:大阪御霊神社境内に移転した。
  文楽座は、御霊神社の境内に移り、「御霊文楽座」と
 して全盛を誇り、
  他の人形浄瑠璃の劇場は次々と潰れていき、唯一の人
 形浄瑠璃の劇場となった。
  ここから、人形浄瑠璃を、以後、「文楽」と呼ぶよう
 になった。
・東京猿若座:浅草鳥越町に移転した。
  新劇場を、浅草西鳥越町(にしとりごえちょう、現在
 の鳥越)に新築し、これを猿若座(さるわかざ)と改称
 した。
1884年、スポーツ:
・1884年3月10日:東京の芝の延遼館の裏庭で、初めての
 天覧相撲が開催され、
  明治天皇陛下が、相撲を熱心に観戦された。
  延遼館(えんりょうかん)は、日本初の西洋風石造建
 築物で、
  幕末に幕府の海軍所施設として建造された建物が基礎
 となっている。
  1869年(明治2年)に、浜離宮内の迎賓館として整備さ
 れ、多くの国賓を迎えた。
  1892年(明治25年)に、解体された。
  そして、2020年の東京オリンピックに合わせて、延遼
 館を、浜離宮内に復元される事が決定した。
・1884年10月:不忍池に競馬場:東京・上野公園の不忍池
 に競馬場ができた。
  1884年11月1日より、農商務省から7年間の借地を認め
 られた共同競馬会社の主催により、
  第一回不忍池競馬(秋季競馬)が開催された
  1884年から1892年まで開催された。
  不忍池を周回するコースで行われてたが、
  馬券は、発売されずギャンブルとしての開催ではなく、
 屋外の鹿鳴館ともいうべき祭典であった。
  明治天皇陛下をはじめ、華族、政府高官や財界人を含
 む多くの観衆を集め、華やかに開催された。
  不忍池の周囲を、11万7000円の整備費をかけ、
  天皇陛下の玉座、外国公使や政府高官、および、夫人
 たちの観覧席、華族の観覧席、上等客の席、コースの整
 備、馬見場(メインスタンド)、厩舎などを作り、国家
 事業的規模として行われた。
  馬主には、日本人だけでなく、外国人も多くいた。
  騎手は、招魂社競馬や、吹上競馬で活躍していた騎手
 がいたが、旧大名や士族、軍将校などもいた。
  屋外の鹿鳴館ともいうべき祭典で、天皇陛下をはじめ
 華族、政府高官や財界人を含む多くの観衆をあつめ、華
 やかに開催し、ひとえに、不平等条約の改正を目指す明
 治の涙ぐましい行動だった。
1884年、災害:
・1884年1月9日~10日:大阪本町で大火、焼失1500戸。
  「大阪明治17年の大火『本町曲がり焼』
  大阪の東横掘川は、本町橋と農人橋との間で、東西に
 少しずれているが、ここを本町の曲がりと言っていた。
  夜11時ごろ、ここの路地裏から出火した。
  延焼か所は、北は内本町通、南は両替町まで、東は善
 庵筋に及び、翌・10日午前6時に鎮火した。
  3人死亡、家屋焼失935戸、土蔵90棟、神社、寺院各2か
 所が焼失した。
・1884年11月7日~8日:盛岡で大火、焼失1800戸。
  盛岡明治17年の大火、豪商家の自衛消火活動生きる。
  午後2時半、下の橋ぎわの盛岡監獄署(刑務所)内の物置
 より出火した。
  折から西風が烈しく吹きまくり、塀を越えて飛び火し
 馬場小路の二、三の茅葺き屋根に移り、
  さらに、県令(県知事)邸(新渡戸稲造生家)と盛岡学校
 へと飛び火した。
  両建物とも茅葺きだったので、火勢を一気につのらせ、
 炎を市街地へと引き込んだ。
  まず、周辺の阿南地区を総なめにし、
  炎の勢いは、六日町、穀町、馬町、十三日町と次々と
 延焼、寺の下から餌差小路へと延び、
  呉服町の一部、肴町、葦手町の一部、生姜町と灰にし
 ていった。
  その後も、炎の勢いはとどまることを知らず、
  八幡町、同片原、志家の一部、小人町、川原小路など、
 江戸時代からの盛岡の中心部・河南地区のほとんどを、
 焦土として、
  翌・8日午前4時ようやく鎮火した。
  焼失したのは、家屋1432戸、土蔵46棟、学校3校、神社
 6か所、寺院10か所、その他の建物300余棟。
  江戸時代からの豪商、糸治(中村家)と木津屋(池野家)、
 両家の自衛消火活動によって、
  新穀町から惣門通にかけての東側の町並みが火災から
 逃れることができた。
  火災から逃れた建物などは、現在、国指定重要文化財
 や岩手県指定有形文化財に指定されている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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2016年8月2日火曜日

(増補版)391E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年1月)

題:(増補版)391E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年、論・新聞・本・文学・出版:
・ 「國教論」(元田永孚・もとだながざね)
  元田永孚は、明治天皇陛下の御侍講となった。
  そして、教育勅語の草案作成に尽力し、
  1890年に、井上毅と協力して起草した。
・ 「社會學之原理」(著:スペンサー/訳:乗竹孝太郎)
  イギリスの非英国国教会(非国教徒)の家に生まれた
 スペンサーの書いた著。
  生物学において取り入れられつつあった『進化論』を、
  取り込んで作られた社会理論の『社会進化論』の概念
 にある。
  「適者生存」という言葉はダーウィンでなく、スペン
 サーの造語。
  社会だって生物とおんなじだ・・、
  他者と競い合いながら、適者が淘汰を経て、上昇して
 いくのだ・・とした。
  そして、完全社会へ至るのだとした・・
  具体的には、軍事型社会から産業型社会へと進化して
 行くとした。
  「そんな単純な社会ではないですよ」と言いたい。
・ 「富國論」(著:アダム=スミス/訳:石川暎作)
  自由放任主義の経済を説く。
  「見えざる手」や「安価な政府」の観点が展開される。
  「見えざる手」なんて言って、放任していたら、市場
 が大混乱したときがあったなー。
・ 「春窓綺話」(原・湖上の美人)(著:スコット/訳:服部誠一
 (実際は坪内逍遥ら)
  坪内逍遥・高田早苗・天野為之が、服部誠一先生の名
 前を借りて、訳した痛快歴史ロマン。
・「日本人種改良論」(著:高橋義雄)
  西洋への過度の憧れをいだき、英語の習得につとめる
 などという論。
  体格的にも日本人より大きく、だから、日本人は劣っ
 ているなどという論。
  日本と西洋との格差は文明・科学だけでなく、人間個
 々の人の知力にも差があるという論。
  こんな・・何でも西欧讃美から・・キリスト教はいい
 のだと盲目的に追従して行った・・真の実態を知らずに
 追従して行った・・なんでも西欧は素晴らしいの単純論。
・「歌學論」(末松謙澄、すえまつけんちょう)
  末松謙澄は、明治・大正時代のジャーナリスト・政治
 家・歴史家。子爵。帝国学士院会員。
  伊藤博文の意向を受けて、歌舞伎の近代化のため福地
 源一郎・外山正一と共に、演劇改良運動を興し、
  明治天皇陛下の歌舞伎見物(天覧歌舞伎)を実現させ
 た。
  日露戦争が勃発すると、伊藤博文を含めた政府・元老
 達から、ヨーロッパに対する日本の立場を説明し、好意
 的な世論形成、および、日本への悪感情を和らげるため
 黄禍論の拡大防止を含めた広報活動につとめた。
  イギリスとフランスを主として、戦争に対する日本の
 弁護論と、偏見に対する反論演説を展開した。
  この効があって、1905年までに黄禍論は沈静化した。
  そして、このことを政府に打電しつつ、なおも、ヨー
 ロッパに留まり、新聞取材や演説・論文寄稿などを続け、
  1906年2月に帰国、
  海外での功績が認められ、3月に枢密顧問官、
  翌・1907年に子爵に昇叙、帝国学士院会員にも選ばれ
 た。
  スペイン風邪に罹患し、1920年に死去。享年65歳。
・ 「文明東漸史(ぶんめいとうぜんし)」(著:藤田茂吉)
  記述内容に・・
  長英すでに獄を脱してまた帰らず、幕府骨相を写し、
 人を各地に派して探索すれども、その所在を知ることあ
 たわず、あるいは言う故郷なる水沢を経て蝦夷・・云々
  そして、東京大学の論文「明治維新の史学史」に、以
 下の記述がある・・、
  民間での維新史論は、維新に関する議論という広い意
 味にとると、福澤諭吉の『文明論之概略』(1875年)や、
 田口卯吉『日本開化小史』(1877―82年)に始まる。
  前者に見えるように、「文明」を近代西洋文明と等置
 した上で、人類史を「未開」から「半開」をへて「文明」
 に至る「開化」・「進歩」の歴史と解し、その中に日本
 を置いて、未来のあるべき姿を考えようとした著作であ
 る。
  これらと同じ発想に立ちながら、具体的な歴史上の事
 件や問題を、史料を収集・解読した上で描いた最初の書
 物は、おそらく藤田茂吉『文明東漸史』(1884年)であ
 ろう。
・ 「自由燈」(今日新聞・こんにちしんぶん) 創刊
  9月25日創刊、 東京新聞の起源の夕刊紙。
  1884年9月に、小西義敬により夕刊紙《今日新聞》とし
 て東京で創刊された。
  初代主筆は、仮名垣魯文(かながきろぶん)
  都新聞に改題。国民新聞と合併し「東京新聞」となる。
・坪内逍遥訳『自由太刀余波鋭鋒』(じゆうのたちなごり
 のきれあじ)刊(5月)
  シェークスピアの原題「ジュリアス=シーザー」を坪
 内逍遥が翻訳したもの。
・井上勤訳『狐の裁判』刊(7月)
  『ライネケ・フックス』は、ゲーテによるフランスの
 「狐物語」の翻案作品。
  ゲーテの作品の中で、日本で一番最初に翻訳された。
  『禽獣世界 狐乃裁判』というタイトルで出版された。
  井上は、これを訳す動機として以下を言う・・、
  「狐の裁判を翻訳する動機は、独逸領事が、小生に、
 独逸の有名なる絵入原本狐の裁判を与へられ、
  しきりに、此の狐の裁判は、最も面白き小説にして、
 之を日本語に訳して出版せば、多数の読者を得ること疑
 ひなしと申され、
  領事親友の所持されし絵入小説を与へられしものに有
 之」・・と。
・三遊亭円朝作『怪談牡丹灯籠』刊(速記本の出版)
  牡丹灯籠(ぼたんどうろう)は、中国明代の小説集『
 剪灯新話』に収録された小説『牡丹燈記』に着想を得て、
  三遊亭圓朝によって、落語の演目として創作された怪
 談噺。
・ハックルベリー・フィンの冒険(マーク・トゥエン)
  舞台は、アメリカのミシシッピー河。
  ミズリー州のハンニバルという小さな田舎町。
  泥棒の隠した金塊を探しに出るという、河の自然と冒
 険をテーマとした小説。
  逃亡奴隷のジムを自由州に逃がしてやるというテーマ
 もある。
  ヘミングウェイは、「すべてのアメリカ現代文学は、
 『ハックの冒険』の1冊をもって始まった」と言った。
  ハックの父は飲んだくれで、ハックに暴力を振るい、
 ある意味、ハックは奴隷(白人)だった。
  一方、ともに冒険をするジムも、自由のない奴隷(黒
 人)、
  この肌の色の違う、境遇の同じ二人が・・、
  ハックはジムの逃亡を手助けし・・そして、二人は
 自由の自然の世界へと飛び出して行った・・、
.
  (今日の言葉)
.
1941年4月、本当の日米開戦
  (日本へ奇襲をするアメリカ)
  アメリカ軍が、中国軍の振りをして日本軍を奇襲攻撃
 していた。
  これが、日本とアメリカの戦端が開かれた事実となっ
 ている。
  アメリカに擦(なす)り付けられた日本の奇襲は、こ
 の史実からも『ない』と言える。
  既に、日米は交戦状態にあったからである。
  アメリカ軍は、卑怯にも中国軍を装って、実際はアメ
 リカ軍の航空師団フライング・タイガーで・・、
  軍籍を外したりして偽装した。
  このアメリカ軍が、中国戦線に投入され、日本軍と交
 戦した。
  れっきとした日米の戦争状態で、
  アメリカは、卑怯にも、正式の宣戦布告などしていな
 い。
  卑怯な事をするアメリカであるが、
  フライング・タイガーを、アメリカは、民間ボランテ
 ィアだと言い訳するが・・、
  真珠湾では・・、日本が攻撃する前に、アメリカ軍が、
 先行していた日本の潜水艦を攻撃した。
  日本の真珠湾攻撃前に、アメリカが日本を攻撃して、
 戦端を開いていたのだ。
  このとき、『あれはクジラだった』と、またまた、ア
 メリカは言い訳したが・・、
  しかし、しかし、この中国のアメリカの日本攻撃を、
  最近、アメリカ大統領が、直接、『許可を与える』と
 いう命令をしている事が判明した。
  この様な、明確な行為を、アメリカ大統領がしている
 事が判明した。
  攻撃許可は、開戦である。
  アメリカの宣戦布告なしの開戦である。
  奇襲状態の開戦である。
  米国立公文書館に動かぬ証拠がある。
  逆に、アメリカが、日本に奇襲攻撃を既にしていたと
 いうこと・・、
.
  そして、続きの(今日の言葉)
.
1942年、韓国人の日本軍隊への志願倍率が、この年に、56.5
 倍となった。
  朝鮮出身者で将校になる人も少なくなかった。
  日本人と、まったく同一であった。
  差別など一切なし。
  朝鮮出身の将校の下で日本兵が実際に戦ったのだ・・、
  陸軍大学校を出て、日本人と同じように戦犯の責任を
 問われた朝鮮出身の将校もいたぐらいだ・・、
  山本七平氏の著書『洪思翊(こうしよく)中将の処刑』
 のとおりである。
  イギリス植民地で・・、
  本隊が退却した後の陣地にグルカ兵が、可哀想に、イ
 ギリス兵に鎖で足を縛られ、銃を撃ち続けていた・・と
 いうことがあるが、
  イギリスは、植民地の兵を虐げていた。
  日本には、朝鮮半島出身だからと言って、その様な非
 人道的なことは、一切、無い。
  因みに、この韓国人の日本の軍隊への志願者は、年々、
 倍率が上昇した。
  韓国は嘘を言うが・・?
.
  そして、続きの続きの(今日の言葉)
.
1945年3月26日、沖縄戦が始まる(~6月23日)
  キリスト教の「完全抹殺の後に平和が来る」という
 『シャロームの教義・考え方』に影響されて、
  沖縄戦も始まった。
  これにマインド・コントロールされ、洗脳されたアメ
 リカの大統領・ルーズベルトは、
  大東亜戦争(第二次世界大戦)の1943年1月24日の「カ
 サブランカ演説」の時、
  「ドイツと日本の戦争する力を完全に破壊する」。
  「それまで決して平和はやって来ない」という演説は、
  イギリス首相のチャーチルはじめ、多くの批判を浴び
 た。
  このルーズベルトの非情発言の非情さ故に、反論は相
 次いだ。
  しかし、この考え方に、アメリカは、この後の方向性
 を大きく影響され、この方向性をとって行ったが、
  この『ルーズベルトとの宣言』ともなったこの方針発
 言は、各所から様々な批判を受けた。
  当時の、アメリカ国務長官のコーデル・ハルは、この
 言葉を聞いたときに言葉を失った。
  それはルーズベルトとの気付かぬ点に思いをはせたか
 らだった。
  そして、言った・・、
  「敵は、冷静な判断を無くし、絶望的な戦いを繰り広
 げ、結果として破壊されつくした敵国は、
  自ら復興できなくなり、
  最終的に、アメリカが、その責任を負わなくてはなら
 ない」・・と。
  無条件の降伏までの・・破壊を目ざしたルーズベルト。
  結果的に、その無条件降伏を、日本は、アメリカにさ
 せられた。
  このルーズベルトの考え方・方針は、イギリスやソ連
 から問題点を指摘された。
  しかし、ルーズベルトは、「原則を曲げる訳には行か
 ない」と・・頑固に訂正を拒んだ。
  しかし、このルーズベルトの『とことん、やっつける
 のだ』は、ルーズベルトの周囲を、アメリカを、最後ま
 で悩ませた。
  結局、ルーズベルトを継いだトルーマンも、ルーズベ
 ルトの方針を受け次いだ。
  そして、行きつく所まで行く、
  キリスト教の「シャローム」の考え方にマインド・コ
 ントロールされて、
  日米戦争は続いた。
  しかし、1945年3月26日~6月23日の沖縄戦で・・、
  手ひどい反撃を受けたアメリカは、その方針がぐらつ
 いた。
  アメリカ軍指導部は、無条件降伏にこだわらないとし
 た。
  そして、この方針にこだわらないで、条件の受け入れ
 を「了解する」とした。
  しかし、バーンズ国務長官は、『無条件降伏が原則』
 と激しく反発した。
  この頃、アメリカは、次世代の兵器の「核兵器の実現
 性」を手に入れていた。
  この時も、有色人種としての日本の命が、軽く見られ
 ていた。
  この観念も、キリスト教の教義・考え方にマインド・
 コントロールされていた。
  そしてまた、アメリカは、ドイツに対しても・・、
  傲慢にも、アメリカは、『ドイツは、牧畜農業国家に
 するのだ」と豪語した。
  日本の無条件降伏の『完全破壊よりはましだ』という
 のはおかしいか?
  何しろ、勝てば官軍の傲慢なアメリカだった。
..
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2016年8月1日月曜日

(増補版)390E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年1月)

題:(増補版)390E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月~1884年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年、衣:
・官吏の服制が定まった。
  侍従職、及び、式部職の勅奏任官大礼服が定められた。
  5爵に区分するなどの「華族令の奉勅(ほうちょく、
 勅命を奉じること)」 、明治17年(1884年)7月7日、宮
 内省達が公布されたのに伴い、
  明治17年(1884年)10月25日の宮内省乙第8号達を以っ
 て有爵者大礼服が制定された。
  続いて、1884年10月29日に、太政官達第91号では、ガ
 ウン型の宮内官大礼服(侍従職・式部職の勅任官・奏任
 官)が定められた。
・鹿鳴館時代がはじまり、上流婦人の洋装がはやった。
  この明治の外交問題解決を目的に作られた鹿鳴館で、
 上層階級の方々は、欧米のバスルスタイルを取り入れた
 洋装化をし、
  これは、一部の市民へ、洋装化の浸透が起こった。
  バスル(バッスル)は、ヒップラインを美しく見せる
 ための腰当で・・、
  このバスルスタイルのドレスは、海外からの輸入に頼
 るだけでなく、
  洋装技術を日本人が習得し、着用された。
  柄においても、日本人に親しみ深い植物がらが多く、
 蔦を図案化した唐草模様を描いたりして、日本独自の、
 日本のものにしていた。
  また、和服の技術、和服地も利用された。
  また、この洋装化の取入れは、軍服などの制服が制定
 されたこともきっかけとなっている。
  また、政府にも、条約改正など、欧米を取り入れる姿
 勢から、和服を廃し、洋服を礼服にする動向があった。
  これ等が市民へも浸透した。
  また、これ等の世の風潮が、浮世絵に多く残されてい
 る。
  必死に伸びようとする健気な明治であった。
・織物不況の時であるが、綿ネル生産のみは高まる。
  松方デフレの関係で大不況・・、
  その影響で、綿ネル業界も大きな打撃を受け、粗製品
 が増加するなど業界は混乱した。
・都市で首巻すたれ、肩掛はやる。
・バリカンが輸入され始める(1883年説あり)
  頭髪早刈り機(バリカン)だという。
  19世紀中期に、セルビア人のニコラ・ビズミックが原
 理を考案。
  理容用バリカンは、米国の自動車会社のリンカーン社
 やキャデラック社を創業したヘンリー・リーランドが発
 明したとされている。
  1873年(明治6年)の徴兵令の公布で、入営した兵士の
 頭髪を、衛生上の理由から丸刈りとしたことが、日本で
 バリカンが広く普及する背景となったという。
  1883年(明治16年)に、フランス駐在の日本公使館書
 記官・長田桂太郎が持ち帰り、
  理髪師の鳥海定吉が、最初に使用して普及したと言わ
 れている。
  1884年(明治17年)12月4日の読売新聞に、バリカンの
 広告が掲載されるほど、日本で広く普及するようになり、
 男子に丸刈りが一般化するようになった。
・経木真田帽子の製作はじまる。
  経木真田(きょうぎさなだ)は、経木を細く切って真
 田ひものように編んだもので・・、
  夏帽子などの材料に用いる。
  経木(きょうぎ)は、薄い木の板のこと。
  材質は、主にスギ、ヒノキが使われる。
・足利・桐生に染色講習所をおく。
  紙製品において、大蔵省印刷局は、明治8年(1875年)
 イタリア、ドイツからの彫刻師・印刷師を招いて伝習生
 に印刷術を伝習させた。
  この伝習生らが、各地に移ってから銅版彫刻術、印刷
 術が急速に広がりをみせ、
  文字や精巧な模様・色彩が大量に印刷されるようにな
 った。
  石版印刷が一般に普及流行するようになるのは明治17
 年(1884年)ごろからであり、
  商品に貼付する商標ラベルにも用いられるようになっ
 た。
  そして、織物において・・、
  桐生・足利は、絹と洋綿の交織技術を確立し、
  明治10年(1877年)に、市川安左衛門、須永由兵衛ら
 による染色研究所が・・、
  明治12年(1879年)に、木村勇三らによる弘業会など
 の設立が相次ぎ・・、
  明治17年(1884年)には、染色講習所を設けて、農商
 務省技師・山岡次郎を招いて、
  機業家子弟に、新しい染色法を授け、
  新規な織物意匠を織り出すことに力を注いだ。
  意匠登録第1号は、織物縞の意匠であったが、意匠登録
 第100号までのうち、43件がこの織物に関するものであり、
  また、明治22年~31年の登録では、物品類別中、「織
 物及他類ニ属セサル織物製品」の意匠が最も多い(年平
 均14件)。
  このことは、我が国の意匠の保護(意匠登録出願)利
 用が、織物産業に端を発したことを物語っている。
1884年、食:
・三ツ矢サイダーの販売開始
  三ツ矢サイダーは、アサヒ飲料の炭酸飲料〈サイダー)
 であるが、
  摂津能勢で、天然炭酸水を利用し平野水の製造を始め
 た。
  三ツ矢サイダーは、明治時代に、宮内省が、兵庫県多
 田村平野(現在の川西市平野3-23-1)の平野鉱泉を用い
 て炭酸水の御料工場を建てたことから始まった。
  その後、工場は、三菱に払い下げられ、明治屋が権利
 を得て、
  1884年に、「三ツ矢平野水(みつやひらのすい)」と
 して販売した。
  平野水は、夏目漱石の『行人』、『思い出す事など』
 にも登場する。
  因みに、「三ツ矢」は、源満仲の故事から。
  1907には、「平野シャンペンサイダー」が、
・大阪師団で、白米病といわれる脚気患者多く、麦飯にあ
 らためた。
  明治期、日本で、脚気の流行が国家的問題となった。
  1950年代の後半になって、やっと、脚気死亡者数が、
 1千人を下回った。
  日本国民の脚気死亡者は、1950年(昭和25年)3,968人、
 1955年(昭和30年)1,126人、1960年(昭和35年)350人、
 1965年(昭和40年)92人と減少した。
  脚気は、ビタミンB1の欠乏により起こる病気で、
  倦怠感 (けんたいかん) ・手足のしびれ・むくみなど
 から始まり、末梢神経の麻痺 (まひ) や心臓衰弱を呈す
 る。
  かつて、日本で国民病とされた。
  因みに、脚気衝心(かっけしょうしん)は、脚気に伴
 う心臓機能の不全で、
  呼吸困難となり、苦悶(くもん)して死に至ることが多
 い。
  1975年(昭和50年)に至り、脚気が再燃し、原因には
 砂糖の多い飲食品や、副食の少ないインスタント食品と
 いったビタミンの少ないジャンクフードがあることが分
 かった。
1884年、住:
・宮城県古川町で、土管により小規模の上水道が竣工した。
  日本の近代的水道としては、1887年(明治20年)10月
 17日に、横浜の外国人居留地で給水されたのが始まりと
 されている。
  しかし、日本では、16世紀半ば、北条氏康の小田原支
 配時に、早川から水を引き、小田原城下に飲用として供
 した小田原早川上水が、最古の水道と考えられている。
  また、1600年頃の江戸の都市建設のために、
  井之頭池から引いた神田上水をはじめ、その後、玉川
 上水、千川上水などが江戸の町に引かれていった(後に
 青山・亀有(本所)・三田の3つを加えて「六上水」と称
 した)。
  現代から見れば、浄水施設や各戸給水がないという問
 題点があったものの、
  当時、世界でもっとも進んだ設備を有していた。
  そして、日本で、最初に、本格的都市型、埋設式上水
 道を敷設したのは、讃岐高松藩と言われている。
  藩主松平頼重は、玉川上水より9年早い寛永21年(1644
 年)、
  矢延平六に命じて、高松城下に、配水枡・配水管を、
 地中に埋設した本格的な上水道を敷設した。
  また、日本で現在も使われている最古の水道は・・、
  熊本県宇土市に在る轟水源を水源とする轟泉水道で、
 宇土藩初代藩主・細川行孝が造り、寛文3年(1663年)に
 完成したもの。
  初めは、丸い土管の水道管で造られていたが・・、
  完成後100年ほどして、6代目藩主・細川興文のときに、
 丈夫で長持ちする石の水道管に改修されて、今日に至っ
 ている。
.
  (今日の言葉)
.
1943年1月24日、ルーズベルトのカサブランカ演説。
  ルーズベルトは、キリスト教の「シャローム」の観念
 に洗脳されていた。
  キリスト教の「シャローム」は、「平和」と説明され
 ているが、
  ただの「平和」を説明しているのではない。
  キリスト教の、その「誤解されている平和」を意味す
 るという「シャローム」には・・、
  完全に異端を抹殺し、駆逐して後に訪れる「シャロー
 ム」だという意味の教義である。
  異端の『完全抹殺』の後の「平和」を求めたのである。
  南米などで、キリスト教徒とキリスト教聖職者たちが、
 50年にもおよぶ長い長い期間に渡って、
  とことん先住民のインディオの方々を殺戮し、
  1000万人以上の方々を殺戮し尽くした蛮行は・・、
  このキリスト教の教義・考え方から来ている。
  このルーズベルトも、このキリスト教に洗脳され、マ
 インド・コントロールされていた。
  大東亜戦争(第二次世界大戦)を、途中で休戦しよう
 などという考えは、彼には毛頭なかった。
  ルーズベルトは言う・・、
  「ドイツと日本の戦争の力を完全に破壊する。
   それまで決して平和はやって来ない』・・。
  ルーズベルトのこの考え方は、完全にキリスト教の考
 え方で、キリスト教の教義である。
  このルーズベルトの言葉に影響され・・、
  アメリカは、戦争を、とことん突き進める。
  そして、アメリカは、国際条約違反の非人道的な原爆
 を、広島と長崎に投下する。
  卑劣な事に、人体実験の目的もあったと、後日に判明
 する。
  ルーズベルトのこの卑劣な言葉は・・、
  1943年1月24日に、アフリカのカサブランカ(モロッコ
 の最大の都市)での演説の中に出た。
  米英首脳会議の最終日だった。
  アメリカ・イギリスの軍の首脳陣が並び、
  イギリス首相チャーチルも居た。
  しかし、チャーチルは、この演説の異常さに驚き、怒
 りで顔が青ざめたという。
  また、同席したアメリカ軍の幹部諸士も、同意するど
 ころか、その予想しない違和感の中に居た。
  チャーチルは・・
  「敵(ドイツ軍)の決意を強めるだけだ」と、そのル
 ーズベルトの考え方と違う違和感を吐露し、批判した。
  ルーズベルトも、その周囲の反応に気づいた。
  そして、南北戦争の当時のことが思い出されて無意識
 に、この言葉が出てしまった・・と、そばにいた側近に
 言った。
  しかし、誰も、ルーズベルトのそんな説明を信じなか
 った。
  カサブランカの前線兵士慰問もした中での会談後の演
 説だった。
..
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2016年7月31日日曜日

(増補版)389E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年12月~1884年1月)

題:(増補版)389E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年12月~1884年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年、出来事:
・天皇陛下、山陽道行幸(氷川清話)
・明治17年は、城山で死んだ西郷隆盛の7周忌だった。
  11月に、吉井友実、元田永孚(ながさね)、伊地知正
 治、税所篤(ざいしょあつし)らが心配して、逆族とさ
 れた西郷の名誉回復が何とかならぬものかと、海舟の所
 に相談に来た。
  海舟も、実はそれを考えていたという。
  「今度は見送ろうか・・云々」の話の後、「とにかく
 任せなさい」と別れ、海舟は侍従だった山岡鉄舟に話し、
  山岡から有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひ
 としんのう)へ頼んで明治天皇陛下へ奏上してもらった。
  それで、天皇陛下も、西郷のことは気になっておられ
 たらしく、西郷の子供にお手許金で洋行させてやったら、
 という思召しであった。
  それで、西郷寅太郎(長男)を召して、ドイツに留学
 させ、陸軍軍人の修行をさせることにした。
  このことが公表されると、西郷隆盛の名誉回復のみな
 らず、
  その一族も、また、西南の役に賊軍扱いをうけた人々
 や、その遺族も、
  みな、晴天を仰ぐの思いをし、十年の戦争での怨恨は
 消え、和らげられる事になった。(氷川清話)
  勝海舟、西郷南州7回忌につき、遺族のため名誉回復の
 運動をなす(氷川清話)
・官吏恩給令制定
  この年、文官の恩給制度が正式に定められ、太政官に
 恩給局がおかれて、発足した。
  給付財源は全額公費。
  この時はまだ、官吏、軍人、教職員などについて個別
 的に定められていた。
1884年、殖産興業(生産を増やし、産業を盛んにする):
  国の基本の「富国強兵策」の力を入れた要のところ・・、
・小坂・十和田鉱山・赤城炭鉱開掘
  小坂鉱山は、秋田県にある金・銀の鉱山で、この年の
 9月に、藤田財閥(現:DOWAホールディングス)の中核企
 業の藤田組に払下げられた。
  十和田鉱山は、秋田県十和田湖西岸に位置し、金・銀・
 銅・鉛・亜鉛・硫化鉄の鉱脈がある。
・大阪商船会社が開業した。
  商船三井の歴史に、この年の5月に「大阪商船」が開業
 (資本金:120万円)とある。
  ますます活況を呈する瀬戸内海の海上交通の用に給す
 るため・・、
  瀬戸内の船主55名が93隻の船を現物出資して、設立さ
 れた。
  設立までの困難を、強い人間の意思と、情熱で克服し
 たと記されている。
・長崎・静岡・宮城県に紡績所が創立された。
  1872年に、群馬県に富岡製糸場が創業したが、紡績は、
 日本の基幹産業として、日本を支えた。
  生糸は輸出の花形だった。
  殖産興業のため、輸出をさらに盛んにしたかった。
  そこで、紡績工場をはじめ、毛織物工場・製糖工場を
 造り、輸入品とも対抗していった。
  (外国製品に打ち勝って行かねばならない、大きな壁
 を乗り越えて行った)
  生糸生産の輸出拡大で、貿易収支が逆転でき、日本経
 済の自立的発展の基礎がつくられて行った。
  当然、生産性向上も目標の一つだった。
  明治の方々は、紡績工場で深夜操業をスタートさせた
 様に、国づくりを、日本人の勤勉さと供に、国を支えて
 築いて行った。
1884年、交通・運輸:
  運輸・交通関係の整備も、国の発展のかなめだった。
・1月29日:東京の浅草橋が鉄橋になり、渡り初め式が行わ
 れた。
  1874年に、浅草見附の石材を利用して、浅草橋が石橋
 に改架されたが、さらに、鉄橋に替えられた。
・5月1日:(上野~高崎間開通)日本鉄道が路線を延ばし
 て高崎に達した。
  6月25日:明治天皇陛下が高崎まで往復され、上野駅に
 戻って開業式が行われた。開業は(1883年)
  日本初の私鉄である日本鉄道の第1期線として、1883年
 に、上野~熊谷間で仮営業を開始したのが始まりで、
  立案当初は、上野~高崎間の路線には、王子~赤羽~
 大宮~鴻巣~熊谷~高崎という英国人技師ボイルの案と、
  千住~岩槻~忍~熊谷~高崎という米国人技師クロフ
 ォードの案の二案があった。
  当時の鉄道局長官・井上勝が、ボイル案を採用し、現
 在の路線が建設された。
  そして、1884年に、高崎、前橋まで延長され、全通し
 た。
  高崎まで開通した1884年6月25日に、明治天皇陛下の御
 臨席のもとに、上野駅で開通式が行われた。
  この時、明治天皇陛下は、上野~高崎間を往復乗車さ
 れた。
1884年、特許・発明:
・我が国初の商標の制度が設けられた。
  そして、この年、出願されたその商標出願件数は883件。
  ちなみに、昭和63年は17万3000件。
  商標以前に制度が出来た特許は、この年まで0件だった。
  そして、明治18年に、425出されたが、これが最初。
  昭和63年は、33万9000件となっている。
・ヨーロッパ諸国が、フランスを中心に、特許に関する国
 際条約を締結した(パリ条約の発端)。
・カール・ベンツが、ガソリン・エンジン自動車を発明し
 た。
  世界初の実用的なガソリン動力の自動車だった。
  「メルセデス・ベンツ」の基盤を築いた。
  因みに、1879年に、エンジンについての最初の特許を
 取得している。
  1883年に知り合いになった実業家のM.K.ローゼ、技術
 者のF.W.エスリンガーとともに、マンハイムの地に内燃
 機関を製造する「ベンツ・ライン・マンハイム・ガス・
 エンジン製作所」を設立した。
  これが、後のダイムラー・ベンツ社の母体となった。
  ベンツには、かつて夢想した自力走行する車両を設計
 する機会が訪れた。
  自転車好きのベンツは、その知識を応用して自動車を
 作った。
  三輪車であった。
  ガソリンエンジンが備え付けられていた。
  ラジエターは無かった。
  水タンクへの自然対流式冷却の水冷だった。
  1885年に完成した。
  ベンツは、1884年に、オットーの4ストロークエンジ
 ン特許No.532を無効とする告訴が出され、1886年1月30日
 に、オットー特許がオープンとなり・・、
  そして、この前日の1月29日、ベンツの3輪自動車の特
 許が権利化され、世界初の自動車の発明の名誉を手に入
 れたのだった。
  因みに、1884年に、フランスで、ドラマール・ドブッ
 トビュが、ガソリン自動車の特許を得ている。
・マキシムが、マキシム式機関銃を発明した。
  イギリス人発明家マキシムが、大量殺人兵器の機関銃
 を発明した(アメリカ生まれ)。
  第二次ボーア戦争、マフディー戦争、 ダラーウィーシ
 ュ蜂起、義和団の乱、日露戦争、フィンランド内戦 第一
 次世界大戦、第二次世界大戦、インドシナ戦争、ベトナ
 ム戦争などで惨禍をもたらした。
  1886年に、槍と盾が主要装備のアフリカ諸民族の方々
 に対して、その使用は、まったくの悲劇そのものだった。
  その破壊的な効果は、殺人鬼には与えてはならない兵
 器だった。
  これを良い事に、19世紀後半における、アフリカのヨ
 ーロッパ植民地化戦争において、卑劣な役割が演じられ
 た。
  1893年に、イギリス植民地部隊によって、ローデシア
 の第一次マタベレ戦争で使用された。
  ヤリと盾を武器にしたアフリカの方々・マタベレ族の
 戦士たちは、開けた地形での正面戦闘におびき出され、
  100分の1のイギリス兵に殲滅させられた。
  5000人のアフリカの方々が、一瞬に殺戮された。
  マタベレ族の方々の被害は悲惨で、「どれほどの涙を
 流しても、殺された戦士たちを悼むに足りない」と記述
 される大被害となった。
  イギリスは、大戦果に大喜びしたのだろう・・、
1884年、教育:
・私立縫製女学校が設立された。
・3月31日:東京商業学校(現=一橋大学)が開校した。
  沿革
  1875年8月に、森有礼が、東京銀座尾張町に商法講習所
 を私設した。
  そして、9月24日に、同講習所の開業を東京会議所から
 東京府知事に届け出た(この日が、一橋大学の創立記念
 日とされている)
  1875年11月に、商法講習所は東京会議所の管理に委任
 された。
  1876年5月に、木挽町に移転し東京府立となり、矢野二
 郎が所長に任ぜられた。
  1884年3月に、農商務省の直轄となり、東京商業学校と
 改称された。
  1885年5月に、文部省の直轄となった。
・5月17日、海軍の要望により、東京大学理学部に造船学科
 が付設された。
・万年筆:丸善が、万年筆を輸入し、発売した。
  少し前、ニューヨークのウォーターマンという保険業
 の人が発明していた。
・東大前の文房具店が、洋行帰りの教授のすすめで、大学
 ノートを製造し、販売した。
..
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