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2016年2月18日木曜日

(増補版)298E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年12月~1871年2月)

題:(増補版)298E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年12月~1871年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年1月3日(明治3年11月13日)徴兵規則領布
  領布:りょうふ、有料で提供するの意、
  因みに、配布は無料で配るという意味で使われること
 が多いのに対してこの言葉がある。
  また、頒布(はんぷ)は、品物や資料などを広く配る
 という意。
  府藩県一万石毎に士族平民を問わず5名宛徴募の制。
  山縣有朋の構想のもと、徴兵規則(ちょうへいきそく)
 が制定され、
  各府藩県より士族・卒族・庶人にかかわらず1万石に
 つき5人を徴兵することを定めた。
  続いて、1871年4月2日(明治4年2月13日)には、
 西郷の構想の一部をも取り込む形で、三藩(薩摩・長州・
 土佐)の軍が親兵として編成され、
  この兵力を背景に、1871年8月29日(明治4年7月14日)
 に、廃藩置県(各藩の武装解除)が断行された。
1871年1月15日(明治3年11月25日)松代藩の一揆:松代騒
 動 (午札騒動)
  松代藩(まつしろはん、信濃国、現在の長野県)で、
 7万人の農民蜂起(~明治3年11月27日)、
  各地で「世直し」の騒乱が続いた。
  碑文から分かることは・・、
  幕末から明治維新にかけて、松代藩は、約100万両とい
 う多額の藩債(借金)があった。
  そして、財政難に陥っており、また、当時、「チャラ金」
 という贋金が大量に流通するようになっていて、財政難
 をさらに窮地に追い込んでいた、そして、流通の混乱を
 招いていた。
  困った松代藩は、1869年(明治2年)、贋金引き換え(と
 いう口実)で、許可をもらい、信濃全域で使用できる済急
 手形(藩札または午札、藩計政局発行の藩札)という商法
 社手形を大量に印刷し、流通させた。
  ところが、新政府は、贋金回収のために藩札の発行を
 許可したのに、まったく成果があがらない状況であるた
 め、政府発行の新紙幣に変わったのを機会として藩札の
 発行を禁止した。
  そして、藩札と新紙幣を交換する方針をとった。
  しかし、その交換率が、新紙幣の2割5分から3割5分と
 いう藩札にとって大変不利な交換率であったため、藩札
 を大量に抱えていた松代藩は、大きな打撃を受けること
 となった。
  打撃を受けたのは藩だけでなく、年貢の相場の高騰に
 よる農民への打撃も大きかった。
  流通貨幣改定による相場の高騰に農民が騒ぎ出し、暴
 動化して行った。
  その中心となったのが小平甚右衛門の動きで、藩の改
 定布告後、悪租法反対の一揆を起こした。
  これが、午札騒動の引き金となった。
  上山田村で起こった一揆は、周辺の村人を巻き込みな
 がら、約3万人もの村人が、松代城下を襲撃し、甚大な被
 害が出た。
  松代大英寺で、藩知事・真田幸民(ゆきもと)と、一
 揆代表者が会見し、結局、藩が折れ、相場を元どおりに
 し、紙幣藩札交換に割引をしないことで折り合いがつき、
 一揆は終息した。
  小平甚右衛門が一揆の首謀者ということで、一人だけ
 斬首の刑に処された。
  その碑である「小平甚右衛門之碑」がある。
1871年1月17日(明治3年11月27日)大蔵省造幣寮
  大坂本局が、銀貨製造を開始し、
  4月4日(明治4年2月15日)に、大蔵省造幣寮として創
 業式を挙行した。
  そして、最新式の鋳造機を、香港から購入し、贋造が
 難しい近代的な貨幣鋳造が開始された。
  本位貨幣として、金貨5種(20円、10円、5円、2円、1
 円)、
  銀貨1種(1円)、
  補助貨幣として、銀貨4種(50銭、20銭、10銭、5銭)、
 銅貨4種(2銭、1銭、半銭、1厘)が発行された。
  また、6月27日(明治4年5月10日)に、新貨条例、およ
 び、造幣規則布告がされて、近代的貨幣制度が開始され
 た。
1871年1月24日(12月4日)群馬県の富岡製糸場の設立が布
 告された。
  2014年6月21日に、世界遺産として正式登録されたが、
 本建物群の初期のものは、国宝、および、重要文化財と
 なっている。
  開国した日本は、有力な輸出品を求めていた。
  そこへ、生糸という輸出品としてのチャンスが恵まれ
 た。
  明治政府の賢人たちは、「外国資本を入れず」という
 方針をとった。
  そして、国策として進められた。
  最先端機器が導入され、さらに、日本人の知恵が加え
 られた。
  そして、お雇い外国人(外国のノウハウ)も導入した。
  そして、政府は、ここの成果を、日本中に奨励した。
  お雇い外国人と共に、日本という大きな視点で、各地
 を視察し、各地の産業の導入・育成・改善を図って行っ
 た。
  そして、働く方々・女性(工女)には、重要な立場で
 働くのだという意義と名誉を説き、与えた。
1871年1月28日、横浜毎日新聞が創刊された(1870年説あり))。
  横浜で、子安峻ら、日本最初の日刊新聞の『横浜毎日
 新聞』を創刊された。
  子安峻(こやすたかし)、新聞・出版経営者。大村益
 次郎に蘭学を,佐久間象山に砲術を学んだ。
  明治維新後は新政府に仕え,神奈川裁判所に通訳翻訳
 方として勤めるかたわら、
  明治3 (1870) 年の『横浜毎日新聞』の創刊にも一役買
 った。
  明治7年11月日就社より『読売新聞』を創刊。
  明治22年『読売新聞』から離れ,
  明治26年に『いさみ新聞』を創刊した。
1871年1月29日(12月9日)近代日本の官制:三職制
  新たに総裁、議定、参与を置いた。
1871年2月1日(12月12日)最初の日刊紙「横浜毎日新聞」
 発刊。
  本木昌造が、横浜に移り、1枚摺りの日本最初の日刊
 新聞「横浜毎日新聞」を創刊した(旧暦12月8日説あり)
  神奈川県の今井関盛良が、長崎の本木昌造に依頼して
 活字と印刷機とを取り寄せ、
  昌造が派遣した長崎製鉄所付属活版伝習所の社員の陽
 其二を編集長に、横浜本町6丁目に本社を構えた。
  1873年に、東京に長崎の出張活版製造所(のち東京築
 地活版製作所)を開設した。
1871年2月8日(明治3年12月19日)中野騒動→長野県成立
  中野騒動は、旧信濃国北部の幕府領・旗本領を管轄す
 る中野県で発生した世直し一揆。
  主張は、年貢削減、特権的豪商の告発、新税廃止など。
  そして、中野騒動は、この前年から発生していた。
  1870年10月11日(明治3年9月17日)に、伊那県から分
 立して中野県が成立した。
  高石和道大参事は、民部省の意向を受け、増税策を次
 々と打ち出したが、
  兼ねてより贋金の流入による経済の混乱や、米価の上
 昇によって困窮する農民の不満は増大していた。
  近隣の松代藩や、須坂藩で発生した一揆勢の要求項目
 の一部が藩当局に聞き入れられると、中野県にも波及す
 ることとなった。
  そして、この日・1871年2月8日(明治3年12月19日)、
 高井郡高井野村(現上高井郡高山村)から発生した一揆
 勢・約2000人が、
  羽場村(現同郡小布施町)に集結して、中野町(現中
 野市)に向かい、
  特権的豪農や、商家を打ち壊して、また、中野県庁を
 焼き討ちし、県吏を殺害した。
  高石大参事は逃亡し、松代藩に匿(かくま)われ謹慎
 となった。
  これを受けて、松代藩ほか各藩兵が、鎮圧に向かい、
 旧暦12月21日になって一揆勢は退散した。
  1871年2月24日(明治4年1月6日)から、明治政府軍(
 佐賀藩兵を主力とする)によって、一揆の参加者の探索
 が進められ、約600名が逮捕された。
  1871年4月16日(明治4年2月27日)には、斬首刑6名、
 絞首刑22名、徒刑十年124名、その他・処罰数百名などが
 刑に処された。
  後任の立木兼善権知事は、中野での県庁再建を断念し、
 長野への移庁を政府に上申し、太政官布告によって、
  1871年9月9日(明治4年7月25日)に、長野県が成立し
 た。
1871年2月9日(明治3年12月20日)新律綱領(しんりつこう
 りょう)を領布した。
  新律綱領頒布(氷川清話)
  新律綱領は、仮刑律にかわり、明治政府により1871年
 2月9日(明治3年12月20日)に制定頒布された刑法典。
  全6巻8図 14律 192ヵ条項から成るが、逐条主義はとっ
 ていない。
1871年2月11日(12月22日)陸海軍の洋式服制定められた。
1871年2月13日(12月24日)士族といえども特定以外の帯刀
 を禁ず。
1871年2月17日(明治3年12月28日)、米沢藩の雲井龍雄(
 くもいたつお)が処刑された。
  米沢藩雲井龍雄処刑(氷川清話)
  龍雄は正義の人と言える人で、幕末の争乱期に正しい
 行動をした。
  頭の切れる人で、王政復古の大号令が発せられると貢
 士(こうし、藩から推挙された議政官)に挙げられたり
 した。
  これは、龍雄が、藩を越えてその才幹(さいかん、物
 事を成し遂げる知恵や能力)が広く知られていたことを
 示している。
  明治になって、興譲館(こうじょうかん、米沢藩の藩
 校)の助教になったりした。
  また、新政府は、集議院議員に任じた。
  しかし、新政府は、薩長出身の政府要人と、またその
 繋がりがある議員が多くある中で、
  龍雄は、龍雄の経験した幕末期でのことで「薩摩批判」
 をした。
  そして、その一たび議論に及べば、徹底的に議論を闘
 わせた振る舞いが災いして、周囲の忌避に遭った。
  そして、わずかひと月足らずで、議員を追われた。
  この様な龍雄の元に、没落したり、削封された主家か
 ら見離された敗残の人々が、龍雄の許に集まるようにな
 り、
  龍雄は、明治3年(1870年)2月、東京・芝の上行、円
 真両寺門前に「帰順部曲点検所」なる看板を掲げ、
  特に、「脱藩者や、旧幕臣に、帰順の道を与えよ」と
 4回にもわたり嘆願書を政府に提出した。
  これは、参議・佐々木高行や広沢真臣らの許可を得た
 ものであった・・が、
  しかし、龍雄の元に集まった人たちは、実は、新政府
 に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士が集まっていた。
  これが、政府転覆の陰謀とみなされた。
  翌年4月、謹慎を命ぜられる。
  米沢藩に幽閉ののち、東京に送られ、深く取り調べも
 行われず、罪名の根拠は政府部内の準則にすぎない「仮
 刑律」が適用され、
  同年12月26日(1871年2月15日)に判決が下り、龍雄は、
 判決2日後に、小伝馬町の獄にて斬首された。
1871年2月22日(明治4年1月4日)御親兵(ごしんぺい)
  明治の時代になる前から・・、
  明治の政府を動かす人たちは・・、
  欧米列強の各国が・・、
  中国やインドの方々をはじめ、アジアの各国の方々から・・、
  好き勝手に、そして、悪辣に、自国へ利益をもたらす
 行為・行動をする姿を憤りながらも見て来ていた。
  その様な卑劣な行為を、日本が受けないため、そして、
 日本の国民を守るためには、日本の国を富ませ、
  そして、その強い経済力・産業力で、強い兵力を持た
 なければならないと、つくづく思い、肝に銘じていた(
 富国強兵策)
  1870年2月13日(明治3年12月24日)、山縣有朋は、当
 時、鹿児島藩(薩摩藩)の政務にあたっていた西郷隆盛
 に対して、天皇陛下と中央政府を守るために、薩摩藩・
 長州藩・土佐藩の献兵からなる親兵を組織することを提
 案した。
  これは、当時、中央政府に属していなかった西郷を、
 薩摩藩の親兵入京を口実に、政府内に入れることで、政
 府の強化を図る側面もあった。
  木戸孝允は、この御親兵の力を背景に、廃藩置県や、
 それを支える官僚・租税制度の整備などの中央集権化政
 策を一気に実施しようとした。
  だが、大久保利通は、木戸や大隈重信が進める急進的
 な政策には批判的で、
  自己の出身基盤である薩摩藩の親兵入京と、西郷の入
 閣は、この流れを変える足がかりになると考えた。
  これを受けて、西郷は、この日・1871年2月22日(明治
 4年1月4日)に、鹿児島を出発し、東京に向かった。
  しかし、その際に出された「西郷吉之助意見書」には、
 冗官(じょうかん、むだな官職)の整理や、府藩県三治
 制の維持、鉄道建設などへの批判など、
  木戸・大隈路線への批判、大久保路線の支持とも受け
 取れる言辞もあった。
  だが、途中で、大久保・木戸と合流して、両者の意見
 を聞き、
  更に、東京では、大隈らが、西郷が中央集権化に反対
 して薩摩藩の独立や、クーデターを起こすのを危惧して
 いる(『世外侯事歴 維新財政談』)ことを知った西郷は、
 政争の深刻化を危惧し、
  政治的な問題については、新政府官僚への薩摩藩など
 の倒幕功労者の起用の提言に留め、
  自らは、専ら、新制軍隊の編成に力を注ぐこととして
 一旦鹿児島に戻って準備を開始した。
  2月13日、入京した西郷を中心として正式に「御親兵」
 として発足した。
  そして、政府は、諸藩兵を廃し、天皇陛下の統率する
 国軍の創設のため、(2/22)親兵を設置し、
  引き続き鎮台を設置、団隊を統括した。
  鎮台は、東京、大阪、鎮西(熊本)、東北(仙台)に
 置かれ、元藩兵を召集、常備兵とした。
  御親兵は、1872年に、近衛兵と改称され、
  明治24年(1891年)には、陸軍の近衛師団となった。
  また、別史料では・・
  幕府により行われた西洋式軍隊創設は、明治新政府に
 引き継がれ、
  新政府は、富国強兵を国策に掲げ、
  明治4年(1871年)2月には、長州藩出身の大村益次郎
 の指揮で、天皇陛下の親衛を名目に薩摩、長州、土佐藩
 の兵からなるフランス式兵制の御親兵10,000人を創設し、
 常備軍として、廃藩置県を行うための軍事的実力を確保
 した。
  明治4年(1871年)4月の設立当初は、鎮台制と呼ばれ
 る組織体系の下、士族反乱である佐賀の乱や西南戦争な
 ど内乱鎮圧を主たる任務とした。
  そして、徴兵制度の施行に伴い、国民軍としての体裁
 を整えていった。
  その後、陸軍は、鎮台を廃止し、師団制に移行した。
  設立の基礎が、明治維新時の薩長軍であったために、
 永らく藩閥支配が払拭できず、
  陸軍では長州藩、海軍では薩摩藩の出身者が要職を固
 めた。
  明治5年(1872年)に、陸軍省が兵部省から分離し、
  明治11年(1878年)には、参謀本部が独立する。
  新政府は、廃藩置県や廃刀令で、武士階級を事実上消
 滅させた後、明治6年(1873年)に徴兵令を施行する。
  陸軍卿には、奇兵隊出身の山縣有朋、海軍卿には勝海
 舟が就任した。
  山県は、普仏戦争(1870年)でプロイセンが勝利した
 事をうけ、フランス式の軍制からドイツ式への転換を行
 った。
  海軍は、当初からイギリス式の軍制に倣って編成され
 た。
1871年、海外(オーストラリア)へ向かった日本人
  オーストラリアの西海岸のブルームの地は、良質な真
 珠貝が採れる。
  その事が、この頃に分かる。
  日本人の真珠貝採取潜水夫が、1871年のこの頃に、こ
 こに来た。
  初めは、日本に灯台建設に招聘されていたイギリス人
 技師に付いて来た日本人漁民が、試みに潜水をしてみた。
  そうしたら、その働きぶりが素晴らしく、注目され、
 人手不足のオーストラリアの採取業者が、日本へ契約移
 民として誘致をしたく、そして、誘致した。
  やがて、伊藤内閣の外務大臣・陸奥宗光が、移民奨励
 策を打ち出し、横浜にオーストラリア採貝移民取扱いの
 出先会社まで設立された。
  ボタン材料や装飾品としての真珠貝の景気がピークを
 迎えるのは1925年で、
  ブルームの町の人口は5000人、その8割が日本人で、
 4000人に達した。
  町には、採貝業者のみならず、様々な職種の人々が流
 れ込み、
  また、日本からの日本人を迎える下宿屋ができ、
  食堂ができ、雑貨屋、うどん屋、風呂屋、
  そして、映画館、赤ちょうちん、
  はては、売春宿に至るまで軒を並べ、
  乗り合いの蒸気機関車が走り、オーストラリア南部の
 都市繁華街以上の人混みとなり、まさにリトル・ジャパ
 ンが出現した。
  この頃の採貝船の数は、400隻を越えた。
  輸出先は、イギリスだった。
  しかし、プラスチック装飾品の発達普及で、高価な真
 珠貝の需要は、次第に減り、
  そして、第二次世界大戦による日本人の収監(卑劣な
 事に、アメリカと同じように日本人の自由を拘束した)、
  そして、終戦後の日本への送還で、主役を失った真珠
 貝採取産業は、ほとんど消滅した。
  また、この非人道的なオーストラリア政府による日本
 人収監行為は、今だに、オーストラリア政府の謝罪はな
 い。
  今、ブルームの町には、古びた雑貨屋はあるが、廃屋
 のある町となって往時の反映の面影はない。
  しかし、この日本人と交流したアボリジニーの方々に、
 有形無形の日本の文化が残って居た。
  日本人から教えてもらったのであろう『日本食』、『
 冷えたなます』『みそ漬け』『うどん』。
  そして、歌、『炭坑節』。
  そして、『祭り』、お盆〈盆踊り〉が『真珠祭り・フ
 ェスティバル』となっている、
  オーストラリアのウェスタン・オーストラリア州の最
 大の祭りとして人気の祭りとなっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年2月16日火曜日

(増補版)297E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年11月~1870年12月)

題:(増補版)297E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年11月~1870年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1870年11月15日(明治3年10月22日)東京濱殿の海軍所を、
 築地に移した(明治2年10月説あり)
  海軍所のあった東京濱殿は、浴恩園(よくおんえん)
 のことで、
  浴恩園をまた調べると、現在の東京築地の東京卸売市
 場の場所で、松平定信の下屋敷だったと分かった。
  白川の城主でもあった定信は、隠居後、ここに住所を
 移し、文人として随筆・詩歌・絵画などの創作活動の日
 々だったという。
  無類の庭好きで、この約2万坪の風光明媚な地を散歩
 し、自ら庭の手入れも行ったという。
  定信は、この浴恩園を、1792年に造園したという。
  そして、明治となり、この地の一帯は海軍の中心地と
 なった。
  故に、海軍発祥の地が、築地5丁目となっている。
  そして、海軍所は、1866年(慶応2年)に、幕府軍艦操
 練所であったここを、海軍所と改めた。
  1869年11月(明治2年10月)、兵部省は、この一帯を
 海軍用地に買収し、艦船建造とともに、士官養成の地と
 した。
1870年11月17日(10月24日)最初の鉄道トンネル工事。
  日本で最初の「鉄道トンネル」としての碑がある。
  名称は、旧石屋川隧道。
  場所は、大阪~神戸間。
  その碑には、着工が明治3年10月22日と書かれている。
  完成は、明治4年7月(1871年9月)とある。
  碑文には・・、
  旧石屋川隧道は,、日本で最初の鉄道トンネルとして
  建設されました。
  その当時から石屋川が、天井川を形成 いていたため、
 困難な川底トンネルを掘らなければ なりませんでしたが,、
 イギリス人技術者の設計・監督により、明治4年7月に完成
 しました。
  この隧道は、石屋川の下を横断し、延長が200フィート
 (64m)ありました。
  工事方法は、川の流れを木製の仮水路に変え、川底を掘
 り下げ、レンガを積み重ねてトンネルを作りながら 川を
 元に戻す方法が採られました・・とある。
  因みに、隧道幅は、14フィート(4.1メートル)
1870年11月20日(10月27日)初めて医学校(後の東京大学
 医学部)にて人体を解剖し実習を行う。
1870年12月10日(明治3年閏10月18日)岩崎弥太郎が、九十
 九商会を設立し、そして、土佐開成商社を創始した (日
 本郵船、三菱商事の前身)。
  九十九商会(つくもしょうかい)は、三菱(みつびし)
 創業期の名称で、
  1870年12月(明治3年閏10月)、上京した岩崎弥太郎(
 やたろう)は、土佐藩の財政難を救うため、私商社・土佐
 開成商社を創始した。
  この商社は、名前のみで、同年の1870年12月10日(閏
 10月18日)改めて九十九商会として、通商司から廻漕(か
 いそう)業の仮免許を受け、
  藩船の夕顔、鶴、紅葉賀の三隻を用い、
  東京―大阪、神戸―高知間の海運を開始した。
  翌年の1871年7月、廃藩置県で高知県が誕生すると、弥
 太郎は、旧藩船の夕顔、鶴二隻を4万両で払下げを受け、
 私企業とした。
  経営の第一線にいた川田小一郎(かわたこいちろう)、
 石川七財(しちざい)、中川亀之助(かめのすけ)に共通し
 た「川」にちなんで、1872年1月、三川(みつかわ)商会に、
 翌年・1873年3月に、三菱商会と改称した。
1870年12月12日(閏10月20日)工部省(こうぶしょう)が、
 設立された(民部省より分離)
  明治維新政府が、工学の知識をひろめ、各種の工業を
 勧奨し、発展させることを目的に、1870年12月(明治3年)
 設置した官庁。
  富国殖産のために設置された省で、文明開化省とでも
 いうべき性格をもっていた。
  また、伊藤博文が、最も熱心で、みずから工部大輔、
 工部卿に就任した。
  1871年8月の官制で、省中に工学、勧工、鉱山、鉄道、
 土木、灯台、造船、電信、製鉄、製作の10寮と測量司が
 おかれた。
  その後、ひんぱんに寮の改廃や統合が行なわれたが、
  1877年1月に、それらが全廃され、新たに、書記、会計、
 倉庫、検査、鉱山、鉄道、灯台、電信、工作、営繕の10
 局が設置された。
1870年12月25日(11月4日)東京海軍所を海軍兵学寮、大坂
 兵学寮を陸軍兵学寮と改称した。
1870年12月25日、勝海舟、東京滞在を免ぜられる旨御達し
 あり。(氷川清話)
1870年12月28日、仮名垣魯文の著「萬國航海 西洋道中膝
 栗毛・初編」刊行開始。
  十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にならって、弥次郎
 兵衛、北八の3代目の孫ふたりを、イギリスのロンドン
 万国博覧会見物に出立させ、その道中の滑稽を記した。
  この頃、評判だった福澤諭吉の『西洋旅案内』にあて
 こんでいる。
  魯文は洋行体験がないが、英文の読書は出来たので、
 知識はそこから得ている。
1870年、農民一揆頻発(高松、浜田、仙台、松代、宇和島、
 新潟、柏崎、名護屋、若松、伊那など各藩)(氷川清話)
  物価高騰から年貢減免を求めた。
1870年、半蔵門など5門の渡り櫓を撤去した。
  以降、明治6年ころまでに、城郭外周の諸門が撤去さ
 れた。
1870年、本陣、脇本陣を廃止した。
  参勤交代が行われなくなり本陣は有名無実となり、明
 治政府の通達によって廃止された。
1870年、この年、コウモリ傘が流行し、また、手編みのメ
 リヤス下着も流行った。
  因みに、1868年の『新聞街談』には、洋傘(コウモリ
 傘)をさしていた武士が、「異国傘をさした異人がとお
 る」とはやされて喧嘩になり、結果、首をはねられてさ
 らし首になった事件が掲載されている。
  また、福沢諭吉も『福翁自伝』に、「蝙蝠傘などさし
 て江戸の街を歩いたら、いくつ命があっても攘夷論者に
 狙われる」と、仲間内で話したエピソードを載せている。
 (「洋傘タイムズ」)
1870年、この年に、背広着用・靴の製造・こうもり傘の使
 用をし始める。 英、ジェントルマンスタイル。
1870年7月18日、不可謬説の宣言
  パストル・エテルヌス(教皇勅書):
  教皇が、全司教の第1位にあること、至上の権威を持つ
 とされ、最高権をもつという教皇の首位権・・、
  この時に、ローマ法王(教皇)ピウス9世が、ローマ法
 王(教皇)不可謬説を宣言した(あるのなら、別にこん
 な時に、宣言なんかしなくてもいいのだが・・?)。
  これは、ローマ法王の言う事や決定は、誤りは決して
 ありませんという説(ガリレオの天動説など、あちこち
 で、誤りでしたと謝罪しているけれども・・?)。
  キリスト教は、この様な説によって、間違いを正しい
 として、有色人種の殺戮の歴史、戦争の歴史を作って来
 た。
  キリスト教のこの様な思考形態がいけないのだ、そし
 て、その思考形態をキリスト教徒たちへ与え、悪い連鎖
 が続く人類の歴史を作って来た。
  これは、他からの批判は、まったく受け付けないとい
 う、自己洗浄力のまったく欠落した説であり、
  ただただ、信じるだけ、そして、信じろという盲信の
 民を強要(きょうよう、無理に要求すること)した。
  私の言う事は正しいのだ・・だけの説、また、幅も、
 深みもまったくない説・・結局、酷(ひど)いことを起
 こす結果となっている。
1870年7月19日、普仏戦争:フランスがプロイセン王国に宣
 戦布告(プロイセン・フランス戦争)
1870年9月1日、普仏戦争: セダンの戦い
1870年9月4日、ナポレオン3世を廃位して、フランス第三
 共和政が成立した。
1870年9月19日、普仏戦争: パリの包囲が始まる(~1871年)
1870年9月20日、イタリア王国軍が、ローマに進軍し、教皇
 国家滅亡、教皇領が完全に消滅した。(イタリアの領土
 が現在とほぼ同様に)
1870年、イタリアの統一が完成した。
1870年10月6日、ローマがイタリア王国の首都となった。
1870年10月20日、第1バチカン公会議が無期限延期となる。
1870年11月16日、アマデオ1世がスペイン王となる。
1870年11月29日、英国で義務教育導入。
1870年12月26日、フレジュス鉄道トンネル開通(最初のア
 ルプス貫通トンネル)
1870年12月28日、元スペイン首相フアン・プリム暗殺(12
 月30日死亡)
1870年、レーニンが生まれた(1870年~1924年)
  イギリスのディズレーリの政策にはじまり、フランス・
 ドイツが追随して、第一次大戦が起こった。
  レーニンは、帝国主義を「資本主義の最高段階」とし
 た。
1870年代、アメリカ合衆国、先住民の方々の殺戮が盛ん。
  この年代の北米大陸は、先住民の方々が殺戮される年
 代となっている。
  進んだ兵器を持った、銃による殺戮を行なうアメリカ
 軍、
  殺戮されるアメリカの大平原の諸部族・アメリカ・イ
 ンディアンの方々・・、
  インディアンの方々は忍従を重ねてきた・・、
  しかし、体制が整った、最新鋭武器を持ったアメリカ
 軍は、インディアン方々を、特に、この年代から、殺戮
 行為を激しくして行った。
  本当に恩になっていた、恩あるアメリカ・インディア
 ンの方々を・・、
  ヴァージニアでは、1607年に、約260年前に、アメリカ
 に渡って来たイギリスス人とアメリカ・インディアンの
 方々とが、初めて、ジェームスタウンで出会い、
  アメリカの新天地で、極寒の越冬を越えられず、餓死
 する人々が次々と出る中を、
  自民族の若い女性を食べるほどひどい中を・・、
  生きる術(すべ)を教えてもらった恩も、何も感じな
 い様に、アメリカ・インディアンの方々を、アメリカは、
 自分たちの土地が欲しいと、領土が欲しいと、欲しいと
 いう欲と、「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅
 しても良い」という自分たちの行為は正義だとの教えに
 洗脳され・・
  その洗脳と、マインド・コントロールされたアメリカ
 人は、恩あるインディアンの方々を、自分たちだけに都
 合のよい教義・考え方で、自分たちさえが、自分たちだ
 けが良ければ良いと、殺戮し始めた・・最新式兵器でも
 って・・、。
  1870年代は、殺戮の年代となっていた。
  進んだ兵器を持った、銃による殺戮を行なうアメリカ
 軍、殺戮されるアメリカの大平原の諸部族・アメリカ・
 インディアンの方々・・、
  そしてまた、さらに卑劣な事をした・・
  この頃から、アメリカは卑劣な事に、アメリカ・イン
 ディアンの方々の食糧であるバッファローを殺した。
  バッファローは、絶滅するところまで激減した。
  アメリカ人は、何ら自分たちでバッファローを食べた
 りするわけではなく、
  殺したバッファローは、ただ、平原に野積みにした。
  高い高いバッファローの山が築かれた。
  バッファローの群れが平原から消滅する事は、インデ
 ィアンの方々の消滅が、全滅が・・あった。
  インディアンの方々を絶滅する目的だった。
  この様な事から、アメリカ・インディアンの方々は、
 白人・アメリカ人を憎むようになって行った、当然であ
 る。
..
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