ページビューの合計

2011年12月31日土曜日

木銃で下から敵を撃滅せよ・・弾も出ない木の銃で子供に何をさせようとしたのだろうか・・・

題 : 木銃で下から敵を撃滅せよ・・弾もでない木の銃で
      子供に何をさせようとしたのだろうか・・・》:

 私の履歴書:
        商船三井最高顧問・生田正治氏(抜き書き)
・・1944年7月にはサイパン島守備隊が玉砕し、
 本土への空襲激化は時間の問題となったため、
 主要13都市で学童疎開が開始された。
 毎朝10時以降に警戒・空襲警報が出れば、
 昼の給食用の芋や代用食のドングリでこしらえたコッペパンなど
を受け取り、
 地域ごとに走って帰宅することになった。
 10時以前だともらえないので、
 毎日10時になってすぐに警報が鳴らないかと、
 不届きなことを願う日々だった。
 家に帰っても遊び道具はボール一つなく、
 もっぱら道路で仲間と軍艦ゴッコなどの戦争遊びや、
 高射砲弾の破片集めに興じた。

 父に2度目の召集令状が来たのは1944年の夏頃だったろう。
 近くの東横線都立高校駅まで見送り、
 せみ時雨の中で敬礼をして乗車していく父の後ろ姿に手を振った
のが別れになった。

 1945年2月になると縁故疎開先もなく、
 まだ東京にいる全学童に強制集団疎開命令が出た。

 5年生以上約100人は、
 数人の先生に引率されて4月早々、
 山梨県・小渕沢に向かった。
 当時の小渕沢は文字通りの寒村だった。
 私たち男子約50人は駅前の「寿旅館」に、
 女子は近くのお寺にお世話になることになった。
 朝早く起きて近くのお宮の庭掃除と、
 荒削りの木銃での厳しい軍事教練。
 何でも米軍は九十九里浜上陸に合わせて甲府盆地に落下傘部
隊を降下させるので、
 その時はこの木銃で下から敵を撃滅せよとの命令だった。

 弾も出ない木の銃で子供に何をさせようとしたのだろうか。
 毎日午前中は自習だった。
 本を読んだり手紙を書いたりしてなんとなく過ごし、
 午後は勤労奉仕で山に枝払いや薪取りに行かされた。
 いつも腹をすかせていた。

 主食は大豆が8割で、
 残りの2割が米、麦と雑穀。
 炊くと大豆は膨らむので、
 見た目には大豆だけのようだった。
 下痢をする者が多かったが、
 申告しても薬はない。
 決まって絶食療法を言い渡されるのがわかっているから、
 食べ盛りの私たちは誰もがギリギリまで我慢した。
                    (日経2011・1・4)

2011年12月30日金曜日

(キリスト教の)神の義によれば、人を誅してもよい・・・について

題 : (キリスト教の)神の義によれば、人を誅してもよい
                       ・・・について

 こんにちは
 キリスト教は「(キリスト教の)神の義によれば、人を誅しても
良い」との教義があります。
 どこにこの教義はあるのでしょうか。
 勉強したいです。
 よろしくお願いいたします。

 ビオラさんへ 
 はじめまして、ご質問を戴きました事に関しまして下記に書かせ
ていただきます。

 (キリスト教の聖書の1例)
  ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を
勧告しなさい。
 もし、その町がそれを受託し城門を開くならば、
 その全住民を強制労働に服させ、
 あなたに仕えさせねばならない。
 しかし、
 もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。
 あなたの神、主は、その町をあなたの手に渡されるから、
 あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。
 ただし、
 女、子供、家畜、および町にあるものすべてあなたのぶんどり品
として奪い取ることができる。
 あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり品を自由に
用いることができる。
 このようになしうるのは、遠くはなれた町々に対してであって、
次に挙げる国々に属する町々に対してではない。
 あなたの神、主が 嗣業として与えられる諸国民の民に属する
町々の息のある者は、
 一人も生かしておいてはならない。
 ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、
あなたの神、主が命じられたように
 必ず滅ぼし尽くさねばならない。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 ☆自分の利のために他人を殺せと教えるキリスト教の神の教義。
  そして、
  この殺戮の悲惨な時点においても 
 「奪い取れ、奴隷にせよ」 と
 色々と指図するキリスト教の神の教義。
  この類の記述は 聖書の中に 種々多い状況。
  また、
  聖書において下記の示唆もある。
  ラテン語:talio:タリオ:被害者が受けたのと同じ害を加害者
側に加える制裁。 local limit : local一定の空間を占める、
limit限界点 : 現代のキリスト教徒の困惑となる一例。
 モーゼの時代には戦争をして相手を殺し、場合によっては奴隷に
せねばイスラエル人(選民思想の民族)が殺される時代であった。
 この状況から生まれた教義が、「 当時の状況と当地の状況 」と
全く変わっている現代の「 他の地域や多くの時を経た今 」に
おいてでも 同じ教義・同じ考え方で 存在している。
 TPOというものの見方がありますが、TPO的にも全くアウト。
 このキリスト教の教義から多くの悲惨な戦争が起きています。

 ☆与謝野晶子
     嗚呼、弟よ、君を泣く。   君、死に給うこと無かれ。 
     末に生まれし君なれば。  親の情けはまさりしも。
     親は刃を握らせて。     人を殺せと教えしや。
     人を殺して死ねよとて。   二十四までを育てしや。

     堺の街のあきびとの。    旧家を誇る主にて。
     親の名を継ぐ君なれば。  君、死に給うこと無かれ。
     旅順の城は滅ぶとも。    滅びずとても何事ぞ。
     君は知らじな、商人の。   家の掟に無かりけり。

      (後略)

☆『 相手のかたにも正義があるのに 』 との女性の小さな声が
耳に印象的に残った。 そうですね。その通りと思います。私は答
えた。
 神という衣を着せて「正義なのだから」と、「こちらは間違って
いないのです」と。 争いは、どの様な場合もそのようになって居
ります。
 宗教で、その形を是と教義すれば争いの多い状況になるのは必然
です。 
 このキリスト教の教義は変えなければならないのです。
 これから未来を受け継ぐ若い方たちのために、人類の未来のため
にも。
 NHKは、昨年、義によって争う大河ドラマを日本中に放送し、洗脳
した。 『 正義だ、やってしまえ 』 的ドラマを。 
 この大切なことが分かって戴いているのか? 
 影響力の強い放送媒体だけに心が痛む。 
 実に、この様な事例が多い放送局です。

☆非が全くないという事ではないのに、すべて相手が悪いと相手側へ
すべて問題を転嫁し、
 なお且つ、
 良否判断の理性が全く入る事の出来ない宗教教義に規定する。
 キリスト教教義
 「(キリスト教の)神の義があるのだ、やってしまえ」をつくる。
 紛争の地が展開され、その歴史が連綿と続く。
 民は泣く。 キリスト者はその罪を知っているか? 
 自分の勝手な・独り善がりな「正義」に真っ向から対立するからと、
 そして、独り善がりな・勝手な宗教教義で「邪悪」だと「 決め
つける 」。
          「 そんな宗教 」は否。