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2015年4月11日土曜日

(増補版)69C2/3:気になった事柄を集めた年表(1555年~1560年)

 題:(増補版)69C2/3:気になった事柄を集めた年表(1555年~1560年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1555年、アウグスブルグ宗教会議。
  この会議に至るまでに、1546年のシュマルカルデン戦
 争とかの悲惨な戦争を経ている。
  キリスト教カトリックのハプスブルグ家の関与するヨ
 ーロッパ支配の卑劣な妄想が挫折する。
  武力で事を決着するという「地獄界」「畜生界」の人
 間たちであった。
  そして、これは、卑劣にも30年間も続くキリスト教の
 カトリックとプロテスタントの争い・三十年戦争の契機
 となっている。
  この戦争は、ヨーロッパの方々の3人に1人は死んだと
 いう卑劣・悲惨な戦争だった。
1556年4月、斎藤道三が没した(1494年~1556年)
  身を起こした一人の武将、そして、大名となった男が
 散った、62歳だった。父・不明、母・不明の男だった。
1556年8月、信長の弟・信行が反抗(稲生の戦い)。
  父・信秀の急死で信長が相続したからか、家督争いが
 起きた。
  信長は、家中から相続人となった事が相応(ふさわ)
 しいと思われていなかった節がある。
  また、信長は、平手政秀を自殺させているし・・、
  また、義父・道三も嫡子(ちゃくし、家を継ぐ者)の
 義龍との戦いで敗死しているし・・、
  信長周辺は穏やかではない状況であった。
  信長では家内はまとめられないという家臣の思いも漂
 っていた。
  信行もまた林道勝・柴田勝家らに担がれて立ち上がっ
 た・・が、
  失敗。一旦、降伏した。
  信長は何か期するところがあったのであろう、母の願
 いを入れて信行を許した。
1556年、アクバル大帝(インド)が即位した、14歳
 (1542年~1605年)
  中央アジアから流入し、祖父・バーブルの立てたムガ
 ル朝を、帝国と呼ばれるにふさわしい国家にした。
  アショーカ王と共に、インドの最も偉大な王と言われ、
 インドで最も人気が高い。
1557年4月、毛利元就が、大内氏を滅ぼす。
  元就が、この時、大内義長(おおうちよしなが、周防
 大内氏の第32代当主、最後の当主)を自刃させ周防・長
 門を制圧した。
  厳島の戦いで晴賢(陶隆房)が敗死すると、継いだ義
 長が血縁とはいえ養子だったこの義長への求心力は低く、
  晴賢の謀叛で弱体化していた家臣団は完全に崩壊し、
  大内氏は急速に衰退していた。
1557年11月、信長の弟の信行が、再度、反抗した。
  信行は前に許されたのに、また、岩倉城主・織田信安
 と通じて謀反をたくらんだ。
  信行から次第に疎(うと)んじられるようになった柴
 田勝家が、それを信長に告げた。
  信長は、信行を誘殺(ゆうさつ、おびき寄せて殺す)
 した。
  信長には、親族として殺すことをためらっていたとこ
 ろもあるが、(色々、信行が謀叛的な事をしても許して
 いた、家臣の信望もあったからか)、しかし・・、
  信長は、病気になったと偽ると、織田信行は母の土田
 御前と共に様子を見るべく「見舞い」として清州城に来
 た。清州城北櫓天守次の間で、信長の命を受けた河尻秀
 隆らが・・、
1557年、マカオ(キリスト教カトリックの布教拠点)略奪。
  ポルトガルが、中国の香港の少し西にある『マカオ』
 を奪い、居住権(永久居留権)を得た(ポルトガル領マ
 カオ植民地の成立)。
  ここから北京などへ、ポルトガルの支援を受けたキリ
 スト教宣教師を送り込んでいた。
 この様に、少しづつ中国を侵食して行く、領土略奪癖の
 あるキリスト教国だった。
1558年、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ、書家、陶芸家、
 芸術家)が生まれた(1558年~1637年)
  楽焼白片身変茶碗(国宝)、舟橋蒔絵硯箱(国宝)
1558年、イギリス女王のエリザベス1世の即位(1533年
 ~1603年)
  父の政策を踏襲して「国王至上法」を発令した。
  これは、キリスト教カトリックへの離縁状である。
  何しろイギリスは、キリスト教カトリックに悩まされ
 て来たのだった。
1559年、近江半国(北部)守護・京極高吉(きょうごく
 たかよし、高佳、武将)が、実権を握る被官(下級官吏)
 浅井久政・長政討伐に失敗した。没落し支配権をすべて
 失う。
  後に、キリスト教の洗礼を受けたが、その数日後に死
 去した。罰だと噂(うわさ)されたという。
1559年、上杉謙信が、再度、上洛した。
  再度、上洛し、天皇に謁して盃・剣を与えられ、また、
  将軍・義輝に絶対の忠節を誓って、必要あれば本国越
 後がどうであろうと在京して命に従うと誓った。
1559年、秀吉が、日輪受胎伝説を口にする。
  この年の時点で、日輪受胎伝説を口にしていたことが
 伺える。
1559年春、信長が、ほぼ同族を制す。
  信安の長子・信賢(のぶかた)も斎藤義竜と計って信
 長を討とうとした。
  信長は、1558年に、丹波郡浮野に破り、さらに岩倉城
 を囲み、1559年春、ついにこれを陥れた。
  この1559年の信長の岩倉城をとることで、ほぼ同族を
 制した。
1559年2月、信長が、100名ほどの軍勢とともに上洛し、
 将軍・義輝に謁した。
1560年5月19日、桶狭間(おけはざま)の戦い。
  今川義元が、2万5000の大軍とともに上洛を計ったの
 も、三好・松永らと同じく幕府内部の権力を狙ったのに
 過ぎない。
  この年の5月、織田信長は、駿河・遠江守護・今川義元
 を尾張桶狭間に捨て身の切込み奇襲戦で倒した。
  信長の軍は3000~5000で、奇襲をしたのは、その内
 の2000。今川義元、41歳だった(1519年~1560年)
  この戦いは、信長の起死回生の戦いだった。
  国境地域の今川との戦いでも負けが込んでいた、また、
 今川方に寝返る者もあり、また、同族の争いなどもあっ
 て、この頃の信長は、最悪状態だった。
  5月12日、今川義元は大軍を率いて駿府を発った。東
 海道を西へ進んだ。
  この戦いに今川軍として松平元康(徳川家康)も参戦
 し先行していた。
  織田陣では清州城に籠城するか、出撃するかで軍議は
 紛糾していた。
  19日、朝3時、先行していた松平元康は織田軍の砦を
 攻撃開始する。
  信長は、前日、今川軍が接近している事を聞いていた。
 しかし、動かなかった。
   しかし、この早朝の攻撃の報を聞いた信長は飛び起
 き、出陣の身支度を整え、朝4時頃、居城の清州城を出た。
  信長に続いたのは、小姓衆の5騎のみだった。
  8時、熱田神宮に軍勢を終結させた信長は、神宮に戦勝
 を祈願し、10時、鳴海城を囲む砦の一つ善照寺砦に入っ
 た。
  ここで、2000から3000の軍勢を整えた。
  その頃、今川軍の先鋒の松平軍の猛攻を受けていた丸
 根砦の織田軍500は、城外に討って出て、白兵戦を展開
 していた。
  織田側の大将の佐久間守重は討死した。
  織田軍の鷲津砦でも討死多数。
  今川軍は、織田側の大高城周辺の制圧は完了していた。
  義元率いる本隊は、沓掛城を出発し、制圧した大高城
 へ向かって進んだ。
  11時から12時頃、織田軍は、善照寺砦に500の兵を置
 き、2000の兵で出撃した。
  正午頃、信長出陣の報に中嶋砦の織田軍は意気が上が
 った。意気が上がったこの織田軍は、単独で今川軍と交
 戦した。
  これは、勇み足となり重臣が討取られてしまった。
  義元は、この報に気を良くした。
  13時頃、視界が妨げられるほどの豪雨となった。
  しかし、織田軍は兵は進め続けた。
  そして、雨た止んだ直後の14時頃、織田軍は、義元の
 本隊に向かって奇襲をかけた。
  今川軍2万の兵は、その時、義元を守る兵力は5000か
 ら6000だった。
  義元周辺の状態は、戦力が拮抗した状態に近く、乱戦
 となった。
  義元は輿を捨てて、300騎の親衛隊に守らせながら騎馬
 で退却しようとした。
  波状的な織田軍の攻撃で、義元を守る兵の数も減って
 行く。
  逃げる義元は、信長側近の馬廻(うままわり、騎馬の
 武士)に追い着かれる。
  義元は、織田の服部一忠は討つが、毛利新介良勝に組
 み伏せられた。
  そして、ついに討取られた。
  毛利は、左指を義元に食い千切られていた。
..
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2015年4月10日金曜日

(増補版)68C2/3:気になった事柄を集めた年表(1553年~1555年)

 題:(増補版)68C2/3:気になった事柄を集めた年表(1553年~1555年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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16世紀後半、ポルトガルから鉄砲が1543年に伝えられた
 日本だったが、たちまち、16世紀後半には、世界最大の
 鉄砲生産国になっていた。
  この凄さをよく考えてみて下さい。
  日本の知識、および、知識だけではなく、それを理解
 し、嚥下咀嚼(えんげそしゃく)し、技術をも伴ってな
 す、この優れた結果は誇るべき日本である。
  そして、さらに・・
  アメリカのダートマス大学教授の本・「鉄砲を捨てた
 日本人」という本に、以下のように書かれている・・、
  「16世紀後半の日本は、非西欧圏で唯一、鉄砲の大量
 生産に成功し、西欧のいかなる国にもまさる鉄砲使用国
 となった。
  にもかかわらず、江戸時代を通じて日本人は、鉄砲を
 捨てて刀剣の世界に舞い戻った。
  武器の歴史において起こるべからざることが起こった
 のである。
  同時代の西欧では、鉄砲の使用・拡大によって戦争に
 明け暮れていたことから考えると、この日本の奇蹟が示
 唆するところは大きい」・・と。
  この本の副題が、「日本史に学ぶ軍縮」
16世紀後半~17世紀、『魔女熱狂』と言われた時代、また、
 『大迫害時代』とも呼ばれる『魔女裁判の最盛期』。
  岩波新書「魔女狩り」をお読みください。
1554年、角倉了以(すみのくらりょうい、京都の商人)が
 生まれた(1554年~1614年)
  京都では、商人と言うより琵琶湖疎水を世に贈った「
 水運の父」と言われている。
1554年、秀吉、松下屋敷を出奔(しゅっぽん、逃げ出して
 行方をくらます事)。
  18歳の秀吉は、松下屋敷を出奔して尾張に帰った。
  天文23年のこの年、信長は21歳、尾張統一へと着実に
 一歩を踏み出したとはいえ、まだ、海のものとも、山の
 ものともつかない段階であった。
  とにかく、父・信秀の家督を継いでまだ4年目、尾張国
 内は動揺を続けており、しかも、大大名の今川義元が尾
 張に勢力を伸ばしつつある時であった。
1554年、柴田勝家が、信長の命で清州に坂井大膳を攻めた
 時、長い槍で、短い槍の相手を打ち負かした。やっぱり。
1555年頃、この頃、ヨーロッパより毛織物が輸入された。
  来航したポルトガル船がラシャ(羅沙、毛織物の一種、
 羅も沙も絹織物に関連するがウール製品のこと)を伝え
 た。
  その後、最高級品の猩々緋(しょうじょうひ)が渡来
 し、陣羽織に用いられた。
1555年、また、この頃、堺・平戸などが隆盛になった。
1555年、倭寇が明を侵し、南京安定門を焼いた。
1555年10月、厳島の戦い(いつくしまのたたかい)。
  陶隆房(晴賢、周防の戦国大名)は、1551年に、主君・
 大内義隆を討ち、大友晴英(後の大内義長)を当主に据
 え、実権を握っていた。
  対立する毛利元就(もうりもとなり、安芸・広島県の
 戦国大名、知将)は、1554年に厳島を占領し、宮尾城を
 接収した。
  そこへ、1555年10月6日に、陶軍が、2万から3万の大
 軍を率いて、宮尾城に襲来して来た。
  しかし、知将の毛利軍は、陶軍の本陣を奇襲し、これ
 を撃退し、また毛利に味方する村上水軍によって退路を
 断たれ、陶隆房は、逃走の途中で自害した。
  この様に、日本の戦国時代、争いが多いと言ってもバ
 トルレベル。ヨーロッパの悲惨な殺戮戦争レベルではな
 い。
1555年3月~、川中島の戦い(第二次)。
  武田信玄が上杉謙信と信濃川の川中島で戦った。
  「犀川の戦い」というこの戦いは、長期戦・200日と
 なった。
  信玄は、関係改善が図られていた後北条と今川氏との
 間で、この前の年、甲相駿三国同盟を結んでいた。
  また、あちこちでは、寝返りもあったりという状況で、
 味方する者が現れたりという状況であった。
  この戦いも地域争奪戦で、前進拠点を築いたり、奪わ
 れたり。
  大決戦は、民百姓が困らない場所・川中島へ出陣。
  決着が付かなければ、部下の死を少なくする意味もあ
 って、大将同士の一騎打ち。
  これが、日本の戦いだった。
  この戦いは、10月に、今川義元の仲介で和睦が成立し、
 撤兵した。
  今現在、この戦いの感状(部下の働きを褒め称える状)
 が武田側、上杉側の双方に複数現存している。
  そして、その状にも、両者は、戦いの場所は「川中島」
 と認識している事が記されている。
1555年4月、信長の叔父・守山城の織田信光(信秀の弟)
 が、主人の織田信友(織田大和守家、実父不明)を陥(
 おとしい)れた(織田一族は乱戦状態の中にあった)。
  「信長公記」によると、
  織田信光は、信長と敵対する織田大和守家当主・織田
 信友の重臣・坂井大膳の誘いに応じるふりをし、
  清州城に、1555年4月に、入城した。
  翌日、信友を誅殺して清州城を奪い、大膳は今川義元
 の下に逃れた。
  信光は信長に清州城を渡すと、自身は信長より譲られ
 た那古屋城に入ったが、1556年1月不慮の死を遂げた(
 殺害?)
..
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(増補版)67C2/3:気になった事柄を集めた年表(1551年~1553年)

 題:(増補版)67C2/3:気になった事柄を集めた年表(1551年~1553年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1551年、秀吉が、信長の前の主人・松下之綱に武家奉公す
 る。
  秀吉は、15歳から18歳まで、遠江(とおとうみ)国の
 頭蛇寺(ずだいじ)城主の松下之綱のもとに武家奉公し
 ていた。
  之綱は、富士川の合戦に、秀吉がきわたっだ働きをし
 たので、いよいよ重く用いた。
  之綱は、草履取りにとりたて、納戸役までに出世させ
 てくれた。
  武家奉公の恩人であった。
  かつての主人を、秀吉は、遠江国の久能城に迎えて3万
 1千石の大名に取り立て、その恩を返した。
1552年1月、六角義賢(承禎、ろっかくよしたか、しょう
 てい、南近江の守護大名)が家を継いだ。
  この大名は、1568年に、信長が、足利義昭を奉じて上
 洛を開始すると、三好三人衆を通じて信長の従軍要請を
 拒絶し、織田軍と戦った。また、1570年には、朝倉義景
 や浅井長政と同盟して織田軍を圧迫した。
1552年4月、鳴海城主の山口教継が信長に背いた(赤塚の
 戦い、信長が当主となっての最初の戦いで、山口教継は
 今川に寝返った)。
  鳴海城主・山口教継・教吉父子が、今川に通じて、信
 長に背いた。
  信長は、800の兵で那古野城を出陣している。
  寝返ったので、元は味方という戦いで、顔見知りの間
 柄の戦いで、敵陣に逃げ込んだ馬はお互いに返しあった
 という、また、生け捕りになった者も交換して帰陣した
 という。勝敗は付かず。信長軍の損害は30騎。
1552年8月、清州の坂井大膳(さかいだいぜん、清州城主
 であった尾張守護代・織田大和守家織田信友の重臣)が、
 信長に背き、挙兵した。
  信長は、叔父の織田信光の支援を得て清州へ進軍し、
 信長は撃破した(萱津の戦い)。
1552年12月3日、ザビエルが死んだ。場所:中国・広東
 の上川(さんちゃん)島、享年46歳。
1553年、武田信玄は、信濃の小笠原長時(信濃守護)・村
 上義清らを越後に追った。
  越後の上杉謙信を頼って逃げる。
1553年、上杉謙信が上洛した。
  謙信は上洛参内し、越後や隣国の敵を討てとの勅命を
 受け、1559年に、再度、上洛し、天皇に謁し、盃・剣を
 与えられ、また、将軍・義輝に絶対の忠節を誓って、必
 要あれば本国・越後がどうであろうと在京して命に従う
 と誓った。
  この年、信長も、やはり上洛し、義輝に会った。
  室町幕府の権威は、まだ一応、健在だった。信長は「
 会いに来い」と言われたらしい。その様な関係だった。
  しきりに、この頃、室町幕府の将軍は、各地の守護大
 名を呼び寄せた様だ。
  上杉謙信なんかは、年に2回も上洛して律儀な性格を
 表している。
  信長は上洛した時に、将軍に金を送っているから、経
 済的援助を請う状況だったのだと思われる。
  将軍は、信長に尾張支配のお墨付きを与えている。
1553年1月、信長の教育係りの平手政秀が、自殺した。
  「信長公記」によると、「信長公を守り立ててきた甲
 斐がないので、生きていても仕方がない」と理由が記し
 てある。
  19歳の信長は、まだ、いっこうに改まらない「うつけ
 振り」に落胆し、自分の役としての力不足を感じ、死を
 もって諌めようとしたと言われている。
  信長にとって父の様な大切な人を失ったのだった。
  しかし・・この後、斎藤道三と会った信長は・・
1553年4月、信長が、斎藤道三と尾張の聖徳寺で会見した。
  道三の娘と結婚して5年が経っていた。
  信長は、「気違いじみた」と表現していい風体で、伴
 のもの70~800、3間半の長柄の朱槍500本、弓・鉄砲
 500挺という行列であった。
  信長は、半袴をはき、火打袋などをぶら下げ、髪は茶
 せんに紅(くれない)・萌黄の糸でまきたて、朱さやの
 太刀を腰に、町を歩きながら栗・柿・瓜をかぶり、餅を
 ほおばり、
  世間では、彼を、「大うつけ」としか呼びようのない
 状態だった。
  ところが・・、
  聖徳寺に着くと、信長は、屏風を引き回し、その中で
 髪かたち・服装をととのえ、威儀を正して道三と対面し
 た。
  見送る時に、道三は、信長に美濃衆の槍は短く、織田
 方のは長く、見劣りがしたので不快になり、黙って引き
 返した、というが・・、
  これはただ、見栄えの悪いのを恥じただけの事ではな
 く、
  長柄の朱槍500本と、弓・鉄砲500挺に、道三は、織
 田方の武力のほどを見て取ったのだった。
  三間半の長槍に『新しい戦法』を感じ取ったのだった。
  さらに道三は、信長が突然威儀を正して屏風の陰から
 現れたとき、どう感じたのだろうか。
  父・信秀の葬儀の時でさえ、相変わらず袴もはかず、
 長束(つか)の太刀・脇差をしめなわでまき、抹香を手
 づかみにして仏前に投げかけた信長だったのだ。
  舅(しゅうと)の斎藤道三と、尾張中島郡富田(今の
 尾西市)の聖徳寺で面会した時の異様さは、一層ひどか
 ったようだ・・が、
  その変わり身が・・、「信長公記」に、
  「寄宿の寺へ御着き候て、屏風引き廻らし、髪を折曲
 にいっせのせに結わせられ、いつ染め置かれ候を知る人
 無き褐色の長袴を召し・・云々」・・とある。
..
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2015年4月9日木曜日

(増補版)66C2/3:気になった事柄を集めた年表(1546年~1551年)

 題:(増補版)66C2/3:気になった事柄を集めた年表(1546年~1551年)
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1547年、お市の方が生まれた(1547年~1583年)
  あまりにも政略的に結婚をさせられた可哀想な女性。
  最後は、子供だけを助け、そして、自分は、夫・柴田
 勝家と城と共に散った美しい女性だった。
  二度と城が焼け落ちる光景を、城の外から見る事に・・、
  その焼ける光景の中にいる夫を・・思う辛さに耐えられ
 ないと・・、
  そしてその後の・・夫の居ない自分だけが・・生き延び
 た辛さを味わいたくないと・・思ったのだろう。
  そして、未来ある子供だけは・・助けたのだろう・・、
1547年、武田信玄が「信玄家法」55ヶ条を制定した。
  武田晴信(信玄)が、「甲州法度之次第」を制定し、
 喧嘩両成敗とした。そして、キリスト教は「目には目を」
1547年、オスマン=トルコのコンスタンティノーブル占領
 後、ロシア教会は、独立した総大主教座をモスクワに置
 き、この年、ロシア正教とした。(1448年、ロシア正教
 会が独立を宣言の説があり)
1548年、本田忠勝(ほんだただかつ、徳川家康の家臣)が
 生まれた(1548年~1610年)
  処々の戦いで武者振りを示す。
  戦いぶりが、敵味方を問わず賞賛されるという様な人。
  家康が、「まことに我が家の良将なり」と激賞した。
  蜻蛉切(とんぼきり)という槍を愛用して戦場に出た
 ので川柳に、
  「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり」。
  「手に蜻蛉、頭の角のすさまじき」。
  「鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」・・と詠まれた。
1548年、秀吉の妻・おねが生まれる。おねが、尾張国愛知
 郡朝日村に生まれた。
1548年、信長が、斎藤道三の娘と結婚した。
  平手政秀(ひらてまさひで、織田信秀、信長の二代に
 仕える)の才覚で隣国・美濃の大名・斎藤道三の娘と結
 婚した。
  信長が、一時、戦いを講和し、娘を迎えた。
  だから、信長は寝首をかかれるかと心配したという話は
 講談だけなのか? 気の荒い道三の娘だし・・、
1548年12月、上杉謙信が、家を継ぐ。
  越後の長尾景虎(上杉謙信)が、19歳で、兄・晴景に
 かわって家を継いだ。
1549年、徳川家康・8歳が、今川の人質になった。
1549年8月15日、ザビエルが、鹿児島の海岸に上陸した。
  キリスト教を伝えた。
  同行者は、トルレス神父、フェルナンデス修道士、日
 本人3人、船員として中国人3人、計9人だった。
  この日本人の一人が、アンジローだった。
  アンジローは、人を殺したので日本にいられなくなり、
 海外へ逃れたのだった。
1549年、ザビエルは、初めて日本に来て、当然、キリスト
 教宣教師であるので宣教をした。
  彼は、聴衆の日本人の善男善女に「今、ここで、お前
 たちは、初めて救われたのだ」と言った。
  民衆は、「それなら、私の亡くなったおじいさんやお
 父さんは、もはや救われないのか」と聞いた。
  彼は、「その通りだ、救われないのだ」と言った。
  キリスト教には、この様な矛盾点がある。
  キリスト教の神でも、今、聞いている民の以前の人た
 ちには救いを及ぼすことで出来ないと。
  しかし、これはおかしいと、キリスト教の最高の会議
 であるヴァチカン公会議で「救える」という事にした、
 そう決めた。
1549年、キリスト教に絵画が多いのは、ヨーロッパに文盲
 が多かったから、絵画でキリスト教を理解させなければ
 ならなかったから。
  ザビエルが、日本来て驚いたことは、日本の民衆の多
 くが文字を読み、そして、書くことができるという事実
 を見たからだった。
  ザビエル達・キリスト教宣教師たちは、自分たち・自
 国の教育レベルと比較して、大変に驚いたのだった。
1550年4月、北条氏康が「公事赦免令」と発令した。
  これは、全領土規模で行った初めての徳政であった。
  直轄領・給人領の別なく、それまで雑多な徴収をして
 いた税を、手順や対象や課税率などを単純化し、軽減化
 して税制改革するとともに、
  特定の賦役の廃止や免除、そして、過去に設定されて
 いた諸税を撤廃したり、債務を破棄するものだった。
1550年頃、この頃、堺・平戸が栄えている。
1550年7月に、ザビエルが京都へ行った。
  ザビエルと一緒に付いて来たアンジローは、鹿児島に
 残って伝道をしていたが、うまくいかず、反感を買った。
  そして、鹿児島に居られない状態になったため中国へ
 逃れた。
  キリスト教系出版社で、子供の偉人伝の本にもされて
 いるこのアンジローは、人を殺して海外に逃れ、ザビエ
 ルが京都へ行った後、鹿児島に残っていたが、いさかい
 からか、鹿児島に居られなくなり、中国に逃れたのだった。
  しかしまた、このアンジローは、この中国でもトラブ
 ルをおこし、この中国でも、トラブルから殺害されると
 いう事態となっている。
  アンジローの荒れたこの様な経歴から、アンジローと
 いう男の性格や素性の良からぬ姿が見えて来る。
1551年1月、ザビエルは、京都に入れたが、天皇の謁見(
 えっけん)も許可されず、また、ザビエルが希望した仏
 教の中心地の延暦寺の訪問もなされなかった。
  ザビエルは、延暦寺の学問所を訪問したかった。
  この様に、ザビエルの京都訪問は散々だった。
  ザビエルは、あきらめて京都を去った。
  ザビエルは、いったん、平戸に帰り、その後、山口の
 大内義隆に、2度目の謁見をし、布教の許可を得た。
  1度目は、義隆を怒らせ、追い払われ、布教の許可は
 得られなかった。
  因みに、ザビエルは日本語ができず、説教をする人の
 そばに、ただ立っているだけだったという。
1551年3月、信長の父・信秀が亡くなる。
  信秀の死で、信長は18歳で家を継いだ。
  この尾張の信長は、「大うつけ」とか「たわけ」など
 という噂のある信長だった。
  以後、同族との戦いしきりmp信長だった。
1551年8月末、ザビエルは、ポルトガル船が豊後に入港し
 たと聞いた。
  また、豊後の領主の大友宗麟からこのポルトガル船入
 港についての助力を請う書状が来たので・・
1551年9月15日、ザビエルが、山口をたち、豊後へ向かっ
 た。
  このポルトガル船の船長は、ザビエルと知己だった。
  この様子を見ていた大内義孝は、ザビエルを歓待し、
 布教の許可も与えた。この直後の・・
1551年9月28日に、山口で反乱がおこり、ザビエルが数日
 前に布教の許可を貰った大内義隆と嫡子の義尊がともに
 自刃(じじん)して果てた。
  家臣の陶(すえ)隆房に襲われての自殺だった。
  心労と失望に苦しむザビエルだった。
  ポルトガル船の運んで来た本国からの書信の内容も、
 不穏さを増した。
1551年11月15日、ザビエルが日本を去った。
  翌年(1552年)に、ザビエルは、中国で死ぬ。
1551年、マカオで日本人の奴隷が増えていると、キリスト
 教宣教師カルネイロが記録している。この人たちは、日
 本人に対して、こんな事をしていたのだ。
..
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2015年4月8日水曜日

(増補版)65C1/3:気になった事柄を集めた年表(1543年~1546年)

 題:(増補版)65C1/3:気になった事柄を集めた年表(1543年~1546年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1543年、コペルニクス(ポーランド)が地動説を提唱した。
  コペルニクスが、25年以上も発表する事をためらって
 いたこの説・・
  世の中を好き勝手に牛耳っているキリスト教の迫害を
 恐れたためだった、その様な時代のコペルニクスだった。
  それ故、発表は、彼の最晩年になってしまった。
  彼の行為の後の、1600年に、地動説の擁護行為をした
 ブルーノは、卑劣にも、キリスト教裁判に掛けられ、異
 端審問で「異端だ」と言われ、火あぶりの刑にされてし
 まった。
  そしてまた、ローマ法王は、1616年に地動説を禁じた。
  発表するコペルニクスにも、その様な事が予測でき、
 分かっていたから、発表には勇気が要った。
  それまで、キリスト教によって形づけられて来た「地
 球の周りに太陽が回っている」という「大間違いの天動
 説」。
  彼がくつがえしたこの説=地動説を唱えたことで、
  キリスト教は、天地が引っくり返る様な大騒ぎとなっ
 た。
  キリスト教の教義の中心にある「聖書の解釈」に大き
 くかかわるからだった。
  その聖書解釈から、地球が動いてはまずいのである。
  特に、「ガリレオ裁判」は有名で、卑劣な歴史を刻ん
 だ。
  キリスト教裁判所で、正しい事・正論を説明する科学
 者は断罪された。科学の進歩の足を引っ張るキリスト教
 だった。
  科学者の正しい論理を、撤回しろと迫った、そして、
 命令した。さもなくば命を取るという論理展開だった。
  ローマ法王も感情的になり、怒りをあらわに激怒した。
  科学者の命を懸けた説明も通らなかった。
  キリスト教から異端だと断定され、強圧的に説を曲げ
 させられたガリレオが、最後に言った言葉が有名、
  「それでも、地球は回っている」・・。ガリレオは悔
 しかったと思う。
  そして、迫害されたガリレオの晩年が、寂しかったと
 いうところにも心が痛む。
  ローマ法王によって、この正しい科学の書は禁書にさ
 れた。
  キリスト教が好きに世の中を牛耳っていた世の中、正
 論が通らなかった時代だった。
  今・現代でも卑劣な屁理屈を言っているキリスト教だ
 が、さすがに、この事態に耐えられず、ローマ法王はこ
 の間違ったキリスト教の概念によったことを謝罪した、
 ガリレオの死から400年も経た後だった。
  しかし、キリスト教の聖書には、相変わらずキリスト
 教の神のお蔭で大地は動かなくなったと記述されている、
 その他いろいろと、聖書は改訂しなくてはならない。聖
 書を使わないキリスト教の派があるくらい・・、
  また、聖書にこんな記述で、キリスト教の神の偉大さ
 を示そうとすること自体がおかしい。浅薄な話だ。
1544年、この頃から木綿の衣服が一般に普及し始まった。
1544年、織田信秀(おだのぶひで、信長の父)の稲葉山城
 攻め(いなばやまじょう、岐阜県にある斎藤氏の居城)。
  信秀は撃退されたが、斎藤の本拠地稲葉山城まで攻め
 込み、ついで大垣城をとって織田播磨守(信秀の家臣)
 を入れた。
  その後、信長が三河へ初陣の1437年頃、斎藤の重臣、
 いわゆる美濃3人衆(稲葉通朝・安藤範俊・氏家卜全)が
 相次いで信秀に通じ、寝返って、斎藤方が、ようやく不
 利になって、一時和議成立、信長と道三の娘が結婚した
 のはそのためであったのだろう。
1544年、秀吉が光明寺の門弟となる(寺預けとなる)。
  秀吉が8歳の頃、尾張国の光明寺の門弟となった。
  秀吉を寺に入れたのは母の大政所と考えられる。
  結局、秀吉は光明寺を追い出され、家に戻される事に
 なる、勉強もせず、やんちゃだったという。
1544年1月15日、キリスト教の日本に宣教師として来たザ
 ビエルのこの日の日記:
  「(キリスト教聖職者になろうと)大学で勉強してい
 る多くの若者達は、教会の高い地位や顕職(けんしょく・
 地位の高い要職)に相応(ふさわ)しい学問を身につけた
 いと思うよりも、高位、聖職禄(ろく)、司教の地位を
 得たいと願って学問をしている」・・と。
1545年、浅井長政(あさいながまさ、北近江の戦国大名)
 が生まれた(1545年~1573年)
  継室が織田信長の妹のお市の方(後に、柴田勝家の妻
 にもなる)
  そして、織田信長と同盟を結んだ時が全盛期、だが、
 後に、この同盟も決裂し、織田軍と戦い、そして破れ、
 自害、浅井氏滅亡(1573年、小谷城の戦い)。
  この時、浅井長政は、朝倉義景に援軍を要請した、
  約束を違(たが)わず、朝倉義景は、2万の軍と共に
 駆け付けるが、織田の軍勢が北近江の城を即座に落とし
 ていて、やむなく朝倉義景は越前に撤退を始める。
  信長は、逃げる朝倉軍を追撃し、滅亡させる(一乗谷
 城の戦い、1573年8月15日~20日)、
  そして、軍を浅井氏へ向ける。
  信長の大軍で城の陥落は確実な状態となる。
  お市の方(信長の妹)が居たため降伏を勧めたが、浅
 井長政は断り続け、最終勧告も決裂した。
  お市の方が信長の陣営に帰還するとき、浅井・織田の
 両軍ともに一切の攻撃はしなかったという。
  8月27日に父の浅井久政が自害、
  翌28日にお市の方の夫・浅井長政が自害(29歳)。
1546年、武田勝頼(たけだかつより、甲斐国の甲斐武田家
 第20代当主、父は武田信玄)が生まれた(1546年~
 1582年)
  信玄の死により家督を相続、27歳のとき。
  相続して2年後(1575年)に、長篠の戦において織田
 軍に大敗し、虎の子の武田の騎馬隊を消滅させる。
  勝頼の強硬策が裏目となった、その様な性分だった。
  そののち信長との和睦の交渉をするが、完全な和睦に
 至らず、結局、織田・徳川連合軍の甲斐への本格侵攻の
 開始となり、武田氏は滅亡した(1582年、天目山で自害、
 勝頼36歳)。
1546年、元服し、信長を名のる。
1546年7月、シュマルカルデン戦争。
  キリスト教のカトリックと、プロテスタントとの間で
 争われた。年がら年中こ、の両派は戦争している。
  キリスト教両派の溝はますます深まっていた。
  乱れたカトリックの宗教改革をしようとしたプロテス
 タント、そして、その教皇権を否定したプロテスタント、
 そして、その低下した教皇権を復興しよとするカトリッ
 ク。
  教皇の意をくんだドイツ皇帝は、プロテスタントの弾
 圧を始めた。
  戦いとなった(~1547年)。
  皇帝も自分の権力を強化したいと考えていた。
  しかし、この後、1552年に、ドイツ諸侯の反撃にあっ
 ていて、皇帝の望みは潰(つい)えた。
  このドロドロ宗教戦争に、皇帝権力が絡み、さらにド
 ロドロのヨーロッパ中世だった。民は嘆いていた。
1546年、ルターが死んだ。63歳だった。
  あまりにも乱れていたそれまでのキリスト教を見かね
 て改革を始めた人。
  堪忍袋の緒が切れたという感じ、
  キリスト教修道院に入るもしっくり行かなかった。
  修道生活で心の平安は与えられなかったとつくづくと
 思う。
  大学への転身を勧められて行ったが、ここにも真実は
 無かった。
  善業も空虚だった。「嘘だからだ」に行き着く。
  そして、カトリックを否定した、抗議した(プロテス
 タント)。
  95ヶ条もの問題点を最初に指摘し、教会の門に打ち付
 けた。
..
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2015年4月7日火曜日

(増補版)64C1/3:気になった事柄を集めた年表(1541年~1543年)

 題:(増補版)64C1/3:気になった事柄を集めた年表(1541年~1543年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1542年、南米で、50年間も、インディオの方たちを殺し
 まくったキリスト教徒とキリスト教聖職者たち。
  そのキリスト教聖職者のラス・カサスが、「このまま
 では天に召されない」という気持ちに、50年も経って、
 やっとなって、本国・スペイン王や関係者の前で、南米
 などの卑劣きわまりない、悲惨な自分たちの行為を報告
 する。
  王は、すべてを聞くことが出来ず、簡潔に報告書にし
 なさいと言えるだけだった。
  それが、岩波文庫から出版されている本、「インディ
 アスの破壊についての簡潔な報告」である。是非、お読
 みを・・。
  欲に絡んだキリスト教聖職者が、黄金を探そうと、探
 しやすいようにインディオスの家を焼き、その焼跡に行
 ったりしている。
  赤ん坊を岩にたたきつけて殺したり、インディオスの
 方たちを何人も立たせておいて、槍で何人を突き通せる
 かなどという遊びで人を殺し、色々蔑んだ行為で人殺し
 をしている。宗教で洗脳され、殺人鬼と化している。
  卑劣な筆舌に尽くせぬ悪行為をしている。
1542年5月、ザビエルがインドに赴任し、ゴアに着いた。
 36歳。ゴアは華やかで活気に満ちた町だった。
  しかし、キリスト教司祭たちの生活は乱れ、道徳的に
 も荒廃し、人々の救済をするどころか、自分たちの懐(
 ふところ)を肥やすことばかり考え、行動していた。
  商売をし、金もうけにうつつを抜かすという状態だっ
 た。また、生活も怠惰そのものだった。
1542年8月、美濃で斎藤道三が、守護の土岐頼芸(よりな
 り)を追放した。頼芸は信秀に頼った。
  これ以後、織田と斎藤は戦うことしきり。
1542年12月、徳川家康が生まれた(1542年~1616年)。
  江戸幕府の初代将軍。
  家康は、幼少期に、今川氏へ人質として差し出された
 が、これは、逆から見ると、命を狙われる状況から逃れ
 て、ある意味、『安全領域に行った』とも言える。
  それは、家康の祖父の松平清康は、松平家を中興し、
 松平家もしっかりして来たが、この清康が作った松平家
 を狙った家臣に暗殺されている。
  また、この他にも、松平家の跡目を奪おうとした一門
 衆により、この清康の嫡男・広忠(家康の父)も、命を
 狙われている。広忠は伊勢に逃れている。
  そして、その家康の父の広忠が、伊勢から帰って来て
 家康を今川へ人質に出すとした。
  この時の父の気持ちは、家康の安全を考えたのだろう。
  しかし、この家康も、すっきりと、今川氏へ行けた訳
 ではなかった。
  家康が、人質として今川氏へ送られる途中で、祖父の
 清康に従属していた部下の戸田康光が、家康を奪い、家
 康を織田氏へ送ってしまっている。
  家康は、そのまま、織田の元で数年を過ごしている。
  後に、織田氏と今川氏の交渉による『人質交換』で、
 家康は、今川氏へ送られるが、織田氏より今川氏の方が
 大きな大名だし、人質としては安全度が増している。
  この今川氏での、家康の人質期間は長かった。
1542年~1543年、北条氏康が、相模で大仕掛けな検地を
 始めた。
1542年、武田信玄が釜無川の「霞堤」を築いた。江戸時代
 以前の主な社会資本整備。信玄堤(しんげんづつみ)と
 も言う。
  川の流れの自然をよく知った、知恵のある洪水防止策
 である。今現代でも役に立っている。
1543年、狩野永徳(かのうえいとく、絵師)が生まれた
  (1543年~1590年)
  洛中洛外図屏風(国宝)、聚光院障壁画(国宝)
1543年1月、秀吉の父・木下弥右衛門が亡くなった。
  弥右衛門は、戦場で受けた傷がもとで亡くなった。
  秀吉が7歳のとき。
1543年2月、信長の父・信秀が皇居修理費を献じた。
1543年8月25日、種子島の西村の浦に、明船(中国船)が
 漂着し、鉄砲を伝えた。
  この中国船にポルトガル人のフランシスコ・ゼイモト
 が便乗していた。
  彼の持っていた鉄砲に着目した島主の種子島時尭(た
 ねがしまときたか)は、2000両で、この鉄砲2挺を譲り
 受け、使用法も教わった。
  明船であったため、漢字の筆談で意思の疎通ができた
 という。火薬も伝来した?(一説・1542年)
  32年後の長篠の戦(1575年)では、既に、織田信長
 は、3000挺の鉄砲を使用して、強敵・武田軍の騎馬隊を
 倒している。
  しかし、その5年前の1570年に、石山本願寺の軍が、
 8000挺の銃を用いて、織田信長と戦っている。信長は、
 この時、鉄砲の威力を、嫌と言うほど知ったのだろう。
  種子島に伝来した時、種子島時尭は、家臣に命じて、
 外国人に火薬調合の方法も学ばせてもいる。
  また、時尭は、銃筒を模造させたが、銃尾が塞がれて
 いて作り方が分からなかったという。
  翌年、来航した外国人から、矢板金兵衛が、その製法
 を学び、伝来から一年後には、数十挺の鉄砲を製造する
 事が出来たという。
  その後、種子島を訪れた紀州根来(ねごろ)の杉坊(
 すぎのぼう)や、堺の商人・橘屋又三郎が、鉄砲製造法
 を習得して持ち帰り、近畿を中心に鉄砲の製造が始まっ
 たという。
  米国のダートマス大学教授(ノエル・ペリン)の本・
 「鉄砲を捨てた日本人」には・・、
  「アラビア人・インド人・中国人、いずれも、鉄砲の
 使用では、日本人よりずっと先んじたのであるが、
  日本人だけが、鉄砲の大量生産に成功した。
  そればかりか、思うままに使える武器とした」・・と
 ある。
  そして、また、
  「今日でもそうだが、日本は、当時も優れた工業国で
 あった。・・日本で、最も大量に製造されていた物が何
 かというと、それは武器であって、二百年間ぐらいは、
 世界有数の武器輸出国であった。
  日本製の武器は、東アジア一帯で使われていた」・と。
  また、「少なくとも鉄砲の絶対数では、十六世紀末の
 日本は、間違いなく世界のどの国よりも大量に持ってい
 た」・・と。
  そして、イギリス軍の全体の鉄砲所有数は、日本の大
 名の6名分より少ないとも言っている。
  また、フランスは、1569年に、6000挺の銃を所持し
 ていたが、
  日本の戦国大名の龍造寺隆信が、1584年に、島原方面
 で有馬晴信・島津家久と戦ったが、率いていた軍勢に、
 9000挺の鉄砲を持つの鉄砲隊が居た・・と。
  全フランスより、日本の1大名の鉄砲数の方が多いと
 記述している。
  「1大名が持つ鉄砲の数が5割も多い」とびっくりして
 いる。
  しかも、日本は、独自の工夫によって、銃の性能を高
 めているという、
  「螺旋状の主動バネと、引き金調整装置を発達させて
 いる」・・とか、
  「雨中でも、火縄銃を撃てる、雨よけ付属装置を考案
 している」・・とか、
  日本の方が先行していた・・と言っている。昔から、
 日本人は優秀だったのだ。
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(増補版)63C1/3:気になった事柄を集めた年表(1536年~1541年)

 題:(増補版)63C1/3:気になった事柄を集めた年表(1536年~1541年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1536年、伊達稙宗(だてたねむね)が家法の「塵芥集」を
 定めた。
  稙宗が書かせたという事ではなく、代々伝えられてき
 た家法をまとめ、制定させたという事である。
  条文は171条におよび、戦国家法で最大の法典。
  分国統治の裁判規範としての性格が濃い。
  この「塵芥集」には、馬・牛が他人の耕地を荒らした
 時の規定や、鷹の餌に犬を捕ることなどの条項もある。
  塵芥(じんかい)は「ちり・あくた」の意味であるが、
 家法を定める時、色々と「ちり・あくた」の様に色々と
 いやになるほど条項にすべき事があったというのだ。人
 間とはその様なもの。
1536年4月、今川義元(いまがわよしもと、駿河国・遠江
 国の巨大な守護大名)が、家を継ぐ。
  武田信玄や北条氏康とは義兄弟と、血が濃い関係。甲
 駿同盟、駿相同盟がある。
  桶狭間の戦いで、その巨大な大名を弱小の織田信長が、
 地の利を考えて、奇想天外な作戦で討ち取る話は有名。
  弱小大名から人質を取るほどの力があった(幼少の家
 康は、長い間、今川の人質だった。この桶狭間の戦いで、
 義元が討たれ、その混乱に乗じて、家康は岡崎城へ戻っ
 ている。信長のお蔭)
1537年、足利義昭(あしかがよしあき、室町幕府第15代
 将軍)が生まれた(1537年~1597年)
  織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する(
 第13代将軍の足利義輝は松永久秀らに暗殺されていた)。
  しかし、この恩ある信長と対立する。
  武田信玄や朝倉義景らに呼ぶ掛けて、信長包囲網を築
 き上げた。そして、信長を追い詰めもしたが・・、
  義昭自身が京都から追われ、備後国(広島県の東半分)
 へと下向した。これを以って室町幕府滅亡という説があ
 る。
  将軍職は続けたが、秀吉の代になった時、将軍職を辞
 し、秀吉から山城填島(京都府南部)1万石を貰い、大名
 として認められた。
  貴人と遇される時を送った。
1538年、本田正信(ほんだまさのぶ、武将、徳川家康の重
 臣)が生まれた(1538年~1616年)
  主君:徳川家康→松永久秀→徳川家康、
  はじめ鷹匠として家康に仕える。三河一向一揆が起き
 ると一揆方を応援し家康に敵対する。
  そして、家康のもとを出奔。大和の松永久秀に仕える。
  久秀に重く用いられたが去る。諸国を流浪する。
  苦労をして後、家康へ帰参を大久保忠世を通じて嘆願
 する。
1538年、北条氏政(ほうじょううじまさ、武将、後北条の
 第4代当主)が生まれた(1538年~1590年)
  父・氏康から、1559年に、家督を譲られても、父と共
 に、父存命中はずーっと氏康と氏政の両頭体制を続ける
 親孝行な息子だった。民意を重視し、徳政も行った。
  最後は、豊臣秀吉の小田原征伐により、数か月の籠城
 に耐えたが、降伏して、切腹した。後北条氏は滅亡した。
1538年、大久保忠佐(おおくぼただすけ、駿河沼津藩主、
 徳川氏の家臣)が生まれた(1537年説あり)(1538年
 ~1614年)
  父(忠世)や兄(松平広忠)とともに、家康に仕えた。
 武勇に優れ、戦い功あって2万石の大名になったが、嫡
 男は早世していた。
  その為、幕府の旗本でもあった弟の忠教を養子にして
 家を継がせようとした。しかし、忠教は「自分の勲功で
 はない」と固辞した。
  そして、当然の結果が、世継ぎが無いので沼津藩は改
 易(かいえき、所領没収)となり、御家は断絶した。
1538年、前田利家(まえだとしいえ、戦国大名、加賀藩主
 前田氏の祖)が生まれた(1538年~1599年)
  主君:織田信長→秀信→豊臣秀吉→秀頼
  小姓として、はじめ織田信長に仕えた。
  槍の名手で「槍の又左」と言われた。柴田勝家の与力
 (よりき、大名や有力武将に従う下級武士)として各地
 で活躍。能登の23万石を拝領する大名となった。
  本能寺の変後に勝家に付くが、秀吉に臣従した。豊臣
 家の家老となる。秀吉の日本平定へ従軍、そして、加賀
 国と越中国を与えられて加賀藩百万石となる。
  後、五大老の一人となり秀頼の後見人に任じられた。
  秀吉の死後、仲裁役として働くが、秀吉の死の8ヶ月後
 に病死。
1539年、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか、土佐国・
 高知県の戦国大名)が生まれた(1539年~1599年)
  主君:彫塑影国親(父)→豊臣秀吉→秀頼
  土佐の国人(くにうど、その土地に住む人)から戦国
 大名となり、阿波・讃岐(三好氏)・伊予(西園寺氏・
 河野氏)らと戦い四国を手に入れる、そして、四国の覇
 者となる。
  しかし、織田信長の手がおよび、秀吉に敗れて土佐一
 国の減地となった。
  その後の戦いで最愛の息子を戦死させると、気が荒く
 なり、家中を混乱させたまま世を去った。
  国盗りの野望が成ったと思ったら、元の木阿弥となり、
 愛する子も失った元親だった。
1540年、諸国に疫病が流行した。
1540年、天皇真筆心経を諸国一宮に奉納した。
  優しい天皇陛下の心づかいだった。
  疫病流行を憂(うれ)え、般若心経を写経されて奉納
 された。
1540年、カリブ海のインディオが絶滅した。キリスト教徒
 のスペインの蛮行。
  欲の皮が突っ張ったこの輩の黄金や銀の積み出しルー
 トとして非常に重要な役割を持った地だった。
  ここから、本国スペインへの黄金が積み出されて行っ
 た。
1540年6月、織田信秀が、伊勢外宮の造営費を寄進した。
1540年9月27日、教皇パウルス3世が、イグナチオ・デ・
 ロヨラにイエズス会を正式に認可した。
1541年、北条早雲の子・氏綱が死んで孫・氏康が後を継い
 だ。
1541年6月、甲斐の武田信晴(信玄)が、父・信虎を追い、
 自立する。
  父・信虎もびっくりしただろう、信虎が信濃の国から
 戦いに勝って凱旋し、娘婿の今川義元を会おうと、駿州
 往還(すんしゅうおうかん、甲斐と駿河を結ぶ街道)を
 駿河に赴いたところ、
  晴信は、甲駿国境を閉鎖して、信虎を強制的に駿河で
 隠居させてしまった。
  信虎は、今川義元の元に身を置がざるを得なくなって
 しまった。
1541年、カルビン(カルヴァン)が宗教改革を唱えた。
  パリで、1534年に、事件が起きるとプロテスタントへ
 の弾圧が烈しくなり、一時、彼はスイスのバーゼルへ亡
 命した。
  キリスト教聖職者が、世俗にあるべき政治権力を奪う
 神権政治を行った。
  市民の日常生活においても、キリスト教会の規律を厳
 格に求めた。
  また、カルヴァンは、異端者だと言って告発した旅行
 者や神学者らを、生きながら火刑に処した。
  それが、キリスト教の改革だと称した。
  当然、カトリック陣営とも熾烈に争った。
  「神中心主義」などとも言った。
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2015年4月6日月曜日

(増補版)62C1/3:気になった事柄を集めた年表(1530年~1536年)

 題:(増補版)62C1/3:気になった事柄を集めた年表(1530年~1536年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1530年、上杉謙信(うえすぎけんしん、越後国の戦国大名)
 が生まれた(1530年~1578年)
  幼名:虎千代、家督は兄の晴景が継いだ。
  春日山城下の林泉寺に入り青年期を過ごす。
  深い学識と厚い仏心は、この時代に培われた。
  元服して長尾景虎と名乗る。
  病弱の兄に代わって家督を継いだ。
  武田信玄との戦いが有名だが、その戦いは欲ではなく
 義による出兵と言われる。
  領地を奪われたものを助ける出陣であったという。
  敵の武田晴信が、今川氏真によって塩を断たれた際、
 今川の行為を批判し、武田に塩を送った。
  「敵に塩を送る」という話で有名。そのような人。
  「毘」の旗印は、厚く信仰していた毘沙門天からとっ
 たもの。
  内政や外交にもその才を発揮し、青芋(衣類の原料と
 なる植物)の栽培を奨励し、日本海を通じて全国へ広め、
 それによって経済的な安定を得ることなどもした。
  生涯、妻を持たなかった。
1530年、大友宗麟(おおともそうりん、豊後国・現在の大
 分県のキリシタン大名)が生まれた(1530年~1587年)
  結局、南蛮人が運んでくる硝石(弾薬の原料)に関心
 があってキリシタンになっている。
  「私はキリスト教を保護する者であり、敵の毛利は、
 キリスト教を弾圧する者であるから、硝石を渡さない様
 に」という意味の書状をキリスト教宣教師に出している。
  家臣団に宗教で争いが起きているが、その様な「火中
 の栗を拾う」にはそれなりの理由があった。
  それは、他のキリシタン大名と同じく、武器・弾薬が
 欲しかった、また、食料の援助まで受けている。
  キリシタン大名の子や孫の代では、キリシタンではな
 くなっている。
1531年、越前の朝倉教景(のりかげ、越前国の戦国大名)
 が一向一揆に敗れた(享禄・天文の乱、大小一揆)。
1532年、この頃の天文年間に(1541年頃の説あり)、カ
 ボチャが渡来し、全国に広まった。
  カボチャの原産地は中央アメリカ。
  ポルトガル船が豊後に漂着して伝えたという。
  シャム(タイ)の東のカンボチャ国で産したものだっ
 たのが名の由来という。
1533年、インカ帝国滅亡。
  インディオの方たちが、スペイン人のキリスト教徒、
 および、キリスト教聖職者たちに滅ぼされた。
  スペインは、このインカの南米各国のみでなく、中米
 各国や北米・メキシコや、それら各国の離島などに居た
 インディオの方々を、50年に渡って殺しまくった。
  殺されたインディオの方々は、1000万人という、とて
 つもない多数の方々の命が奪われた。
  それと同時に、このキリスト教の人非人たちは、これ
 等の国々から黄金を奪った。
  そして、当然、その黄金は本国へ持って帰った。この
 黄金はヨーロッパを潤した。
  きれいなヨーロッパはこの黄金で綺麗になっている。
  また、卑劣な事に、奪い取った黄金のすべてを本国に
 渡さず、自分のものとして私腹を肥やしていた。
  キリスト教徒のスペイン兵は、インディオの家を焼き、
 黄金を奪った。
  黄金は焼けずに残るので探しやすかった。無慈悲に命
 を奪い、また、家も焼いた。
  また、卑劣な事にキリスト教聖職者たちが一緒になっ
 て、兵と一緒に焼け跡の黄金漁り(あさり)をした。
  また、海賊国・イギリスは、この黄金を大西洋上でス
 ペインから奪い取った。
1533年、この年にペルーのインカが滅ぼされたが、スペ
 イン人キリスト教徒とキリスト教聖職者たちは、長い年
 月、南米・中米・北米メキシコ・及びそれらの離島で、
 筆舌に尽くせぬ卑劣な殺戮をしたが、この極悪の地の一
 つ・ペルーにおいて、ペルーのスペイン人によるインカ
 の末裔のインディオの方々への虐(しいた)げは続いた。
  インディオの方たちは、打ちのめされてしまっていて、
 怖くて声も出せない状態だった。
  強烈なスペイン支配が続いた。
  スペインによる植民地支配は徹底して行われた。
  インディオの方たちの間には寂(せき)として声がな
 く、残酷さと手厳しい習慣的な抑圧のスタイルへの恐怖
 だけがあった。
  徹底的な侮辱と弾圧に、インディオの現地人の方たち
 は肝(きも)を冷やして手足が出せなかった。
  ただただ、すくんでいた。
  過酷な恐怖政治は、インディオの方たちから生きる勇
 気を奪った。
  そうする事が統治に便利なのだという事で、スペイン
 人はやった。
  キリスト教の教義の「有色人種への蔑視」に始まった
 非人道的な現地の方々への殺戮は、その後の、この統治
 の時代になっても変わらず続いた。
  このスペイン人に限らず、欧米列強のアジア統治も、
 異民族に対して残酷無比な扱いを堂々としてやってのけ
 た、その、したたかさを持ってやった。
  彼らは異民族を犬や猫を扱う様にしか扱わなかった。
  現地人との間に子供が生まれても、その子供は家の上
 に上がることは出来るが、産まされた母親は家の中に入
 れない。
  外の小屋に寝かされた。
  こういう差別が、公然と行われていた。
1534年5月、織田信長が生まれた(1534年~1582年)
  信長は、尾張郡古野城で生まれた。
  父は織田信秀。父の居城・古渡城で元服、三郎信長と
 名のる。
  信長の生まれたのは、尾張守護代織田の家老の家であ
 るともいう。
  主君は、幕府管領家の斯波。
  斯波は、応仁の乱をきっかけに急激に衰え、尾張の実
 権は守護代の織田のものになった。
  その織田もやがて分裂して勢力を争う。
  天文初年の頃、尾張上4郡(丹羽・羽栗・中島・春日井
 郡)は、丹羽郡岩倉の織田伊勢守が支配し、
  下4郡(海東・海西・愛知・知多郡)は、守護・斯波
 義統(よしむね)をかついで西春日井郡清洲城による織
 田大和守が支配していた。
  この清州織田家の3奉行のひとり織田弾正忠が、信長の
 父・信秀である。 
1534年、イギリスが首長令を発布した。
  これは、ローマ教会への明確な離縁状。
  イギリス国教会が唯一で、そのイギリス国王が最高の
 首長と定めた法律。
  イギリス国王のみが異端・悪弊を改革し、矯正する権
 限を持つというもの。
  この意味するところは、ローマ教皇権の破棄を示すと
 ともに、国教教会における国王の至上権を確立を示すも
 のだった。
1534年、ロヨラがイエズス会設立した(1540年に公認)、
  日本の地を踏んだフランシスコ・ザビエルらのイエズ
 ス会のキリスト教宣教師たちは、長崎を軍事要塞化する
 計画をした。
  そして、貿易で資金を稼ぎ、その実現へ向け行動した。
  国王の領土的野心の尖兵としての役目をも持っていた。
  そして、「異教の地をことごとく征服する」が目的に
 あった。
  日本人の奴隷がマカオに急に増えたと報告した宣教師
 もいた。
  この様な貿易によっても利益を得ていた。
1535年~1541年、教皇パウルス3世が、正面祭壇の『最後
 の審判』を描かせた。
1536年、豊臣秀吉が生まれた(1537年説もある)。
  父・木下弥衛門は足軽、あるいは農民と言われる。
  秀吉自身が書かせた自伝である「惟任退治記」にでさ
 え「秀吉の出生、元これ貴にあらず」と書かれているく
 らい。
  しかし、当然、「関白任官記」の様に、恐れ多くも、
 秀吉が天皇の御落胤だと匂わすものもある。
  秀吉の出生を色々に語るものが色々ある。
..
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2015年4月5日日曜日

(増補版)61C1/3:気になった事柄を集めた年表(1521年~1530年)

 題:(増補版)61C1/3:気になった事柄を集めた年表(1521年~1530年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1522年、柴田勝家(しばたかついえ、武将、大名)が生ま
 れた(1522年~1583年)
  主君:織田信秀→信勝→信長→秀信
  本能寺の変後の清州会議で、勝家と秀吉の立場は逆転
 した。そして、秀吉と勝家などの他の重臣との権力争い
 が始まる。
  後に、秀吉は勝家の不満の抑えもあって、「主筋の者
 との結婚」という事で、信長の妹の「お市の方」と勝家
 は結婚している。
  しかし、その後、勝家は、滝川一益や織田信孝と手を
 結んで秀吉に対抗する。
  秀吉は、勝家の養子の柴田勝豊を圧迫し懐柔、そし
 て、織田信孝を攻めて屈服させ、1583年正月に、滝川一
 益を7万の大軍で攻め、1583年3月に、勝家も北近江に
 出兵し、秀吉と対峙。
  4月に賤ヶ岳の戦いとなり、4月24日に、勝家は、北の
 庄城において、お市とともに自害した。
  辞世の句:
  「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ
  山ほととぎす」
1524年、江戸城主の上杉朝興が、北条氏綱に敗れた。
  江戸城は後北条氏のものとなった。
1524年、ヴァスコ・ダ・ガマが没した(1469年頃~
 1524年)
1525年、ルターが結婚した。
  キリスト教の聖職者の司祭であり、キリスト教の戒律
 を守らなくてはならない立場だったが無視した。
  子供も6人つくった。
1526年、今川氏親が、「今川仮名目録」(家法33条)を
 制定し、喧嘩両成敗とした。
1526年、インドにムガール帝国が出来た(1526年~
 1858年)。
  建国者・バーバムは、トルコ人の血を引く。
  最初、アフガニスタンに侵入し、征服し、次に、イン
 ドに入って来た。
  そして、北インドを統一して、ムガール帝国を創った。
  インド史上最大のイスラム政権で、マウリヤ王朝以来
 の大帝国。
  創始者は、中央アジア出身で、モンゴル帝室の血を引
 くと称するバーバムで、ムガル(モンゴル)の名はこれ
 に由来する。
  帝国は、第3代アクバル帝から第6代アウラングゼーブ
 帝にかけて栄え、アグラ、デリーを中心として中央集権
 体制を維持したが、以後は解体の道をたどった。
  外来少数勢力であったムガル政権は、ペルシア系の官
 僚・知識人・技術者を盛んに登用して、ヒンドゥー世界
 における自らの優位を示し、また、言語・宗教・習慣・
 芸術各方面にペルシア文化の刻印を残した。
1526年4月、パーニーパットの戦い(インド)。
  三次にわたって行われたインドの運命を決めた重要な
 戦い。
  第一次パーニーパットの戦い、1,526年4月21日、ム
 ガル帝国の創始者のバーブルとローディー朝との間に行
 われた戦い。ムガル帝国の建国の戦い。
  第二次パーニーパットの戦い、1556年11月5日、ム
 ガル帝国の皇帝アクバル、及び、スール朝の残党との間
 に行われた戦い。
  苦戦だったが、また、軍勢も圧倒的に劣勢であったが
 ムガル帝国が勝利し、黄金期を迎える端緒となった。
  第三次パーニーパットの戦い、1761年1月14日、ム
 ガル帝国に代わって強大となったマラーター同盟と、ア
 フガニスタンとの戦い。
  ムガル帝国の衰退期に台頭したマラーター同盟と、北
 インドに度々進行していたアフガン勢力との戦い。
  結果は、アフガン勢力側の勝利となった。
  追撃戦も徹底して行われた。
  しかし、本国・アフガニスタンで反乱が起きたため、
 引き返さなくてはならなくなった。講和を成立させた。
  しかし、敗戦はマラーター同盟の結束を崩し、5つの
 勢力に分裂された。
  この戦いで、一番利益を得たのは、本当の侵略者のイ
 ギリスだった。
  イギリスのインドの植民化の最大の敵のマラーター同
 盟が無くなったのである。
  この後、イギリスのインドの植民地化は、加速度的に
 進んだ。陰でイギリスが仕組んだ可能性も否定できない。
1528年、明智光秀(あけちみつひで、武将)が生まれた
 (1528年~1582年)
  主君:斎藤道三→朝倉義景→足利義昭→織田信長
  氏族:源姓土岐氏流明智氏
  履歴に不明が多い、美濃国の守護土岐氏の一族だが、
 土岐氏に代わって美濃の国主になった斎藤道三に、青年
 期に仕えた。
  しかし、この道三も父子の争いなどあり、明智一族は
 離散、朝倉義景を頼り、10年間を仕えた。
  戦乱に巻き込まれた室町幕府の将軍の弟・義昭が、逃
 げまどい、信長など各地武将に、上洛と将軍擁立を促し、
 義昭は、織田・斎藤家の間に和睦を結ばせたが、後に、
 信長が破る。
  義昭は、朝倉義景を頼る、光秀は、ここで義昭と接触
 を持つ。
  義昭は、義景に上洛を頼むが動かず、そこで、斎藤氏
 から美濃を奪取した織田信長に、上洛して征夷大将軍に
 つける様に、光秀を通じて要請した。
  光秀の叔母が道三の夫人で、信長の正室も道三の娘で、
 光秀の従兄妹という関係があるので、義昭は、光秀のこ
 の縁を頼ったのだろう。
  ここで信長との縁が出来る。
  最初、義昭と信長の両属の家臣であった。
  そのうち、信長と義昭の意見の食い違いがあって、信
 長が怒ったりしているうち、光秀は、信長の武将として
 戦いに参加するようになる。
1529年、スペインとポルトガルが「サラゴサ条約」を結ん
 だ。
  世界をこの二国で分けようという勝手な条約。
  そして、この2国の勝手な欲がぶつかり合う条約でも
 あった。
  東南アジアのボルネオ近くのモルッカ諸島が、どちら
 の国に所属するかの条約だが、
  スペインの半分ペテンの様な条約で、時が経つととも
 に、スペインのものになるという条約だった。
  その結果、引かれたサラゴサ条約の境界線によれば、
 日本は『スペインのもの』となっている。
  そして、因みに、このモルッカ諸島は胡椒の産地だっ
 た。
  胡椒は、恐るべき疫病のペストの唯一の薬とされてい
 た。
  また、肉食のヨーロッパ人にとって、食肉保存剤(防
 腐剤)であり、また、脱臭剤だった。
  いくら高くても売れる、高価な貴重品だった。
  話は、やはり、欲得の話に行きついたが、高瀬弘一郎
 氏の『キリシタン時代の研究』という学問的名著がある。
  この本は、従来のキリスト教会版のキリシタン史を排
 した学問的名著である。
  この名著の研究結果にも、明らかにスペインやポルト
 ガルの宣教師は、日本の武力征服の企てに加担していた。
  そして、キリスト教宣教師たちは、中国征服が日本よ
 り容易だと、しきりに本国政府に中国征服を先にやった
 方が容易と説いた。
1530年、白人優越。有色人種蔑視論理。
  この頃までのローマ教皇の勅書に流れる思想を支える
 論拠。
  キリスト教の白人優越、有色人種蔑視の論理、ローマ
 教皇の勅書などには、
  「キリスト教の神の名において、別の地域の人類を支
 配することは許されている事である」
  「キリスト教の神の名において、別の地域の人(異教
 徒)を奴隷にすることは許されている」
  「そこには、キリスト教の神の審判があり、正当であ
 る」
  「異教の彼らは自然法に反する。そして、重大な罪を
 犯している。また、野蛮な悪習を守り、止めようともし
 ない、この様な者の土地を占拠しても、神は許したもう、
 また、武力で彼らを服従させる戦争も正当である」
  「正しい宗教を宣教する者は、布教地で、当然、優遇
 されるべきであり、優遇を受ける権利がある。それ故、
 キリスト教宣教師の言に耳を傾けない彼らを服従させる
 戦争は正当である」
  この考え方は、このキリスト教教皇のみならず、米欧
 キリスト教徒に根付いており、歴史の経過の中で、色々
 な面で、陰惨な陰を、落として行く。卑劣な宗教。
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(増補版)60C1/3:気になった事柄を集めた年表(1512年~1521年)

 題:(増補版)60C1/3:気になった事柄を集めた年表(1512年~1521年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1515年、北条氏康(ほうじょううじやす、後北条氏の第3
 代当主)が生まれた(1515年~1571年)
  武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで、上
 杉謙信を退けた。
  また、公事赦免令という全領国規模で行った初めての
 徳政を行うなど、民生を充実させ、政治的手腕も発揮し
 ていた。
1517年10月31日、ルターが宗教改革を唱え、宗教改革が
 始まった。
  キリスト教カトリック教会の教義や制度を否定した改
 革運動だった。
  ルターのこの年の免罪符批判がきっかけに、大規模な
 展開がして行った。
  プロテスタンティズムを生んだ。
  ルターは、ウィッテンベルク城内の聖堂に、金を出し
 た者だけが救われるという「免罪符」のおかしさ、疑問
 などを述べた95の疑問を掲(かか)げた、「95カ条の論
 題」。
  これは、キリスト教ローマ教会の免罪符販売への抗議
 もあった。
  これへの同感の意思表示が2週間で全ドイツに起きた。
  当時の免罪符の売り方は、キリスト教聖職者が、ロー
 マ法王の免罪符販売奨励を意味した『法王の紋章』の付
 いた十字架を先頭にして、免罪符についての法王の勅書
 (書状)を金のビロードの上に載(の)せて行列を作っ
 て町中を練り歩き回り、説教をした。
  ローマ法王は偉大なのだ。
  地獄での刑罰はどんなに恐ろしいかなど・・。
  「お金が箱の中でチャリンと音を立てさえすれば、た
 ましいは地獄の焔(ほのお)の中から救われ、飛び出し
 てくる」と大声で叫んだ。
  人々は繰(く)られ、争って買い求めた。
  大司教というキリスト教の高い地位の聖職者が、「懺
 悔(ざんげ)をしなくても、免罪符さえ買えば、死者も
 救われた事になる、有効なのだ」と言った。
1518年6月、ルターに対するキリスト教カトリックの裁判
 が始まった(欠席裁判)。罪状は、「異端の流布」だっ
 た。
1519年、マゼラン(ポルトガル人)の世界一周航海(~
 1522年)
  そのマゼランが、世界一周の航海に出た。
  この年に、ポルトガルのセビリアを出港した。
  翌1520年11月28日に、南米のマゼラン海峡を通過し、
 彼自ら命名した「太平洋」に出た。
  太平洋横断・マリアナ諸島発見。
  グァム・サイパンまで来た。
  1521年に、フィリピンで原住民との戦いで戦死した。
  マゼラン隊は乗組員265人であったが、スペインに戻
 れたのは5隻の内1隻のみで、18人にすぎなかった。
 ~1521年(1522年説あり?)。
1519年、北条早雲が没した(1432年~1519年)
1519年、今川義元が生まれた(1519年~1560年)
1520年、この頃、山口・小田原などの城下町が繁栄した。
  大内氏は、銀鉱山を開発したり、貿易によって富み、
 そして、強くなった。
  また、京都より公家や職人などが来て繁盛した。
1520年、徳政令が出た。
1521年、千利休(せんのりきゅう、商人、茶人)が、堺で
 生まれた(1521年~1591年)、1522年説あり?
  号の由来は、「利心、休せよ」:才能に溺れずに「老
 古錐(使い古した先の丸くなった錐)」の境地を目指せ。
  若年より茶の湯に親しみ、堺の南宋寺に参禅した。
  織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ
 た。豊臣秀吉にも仕えた。
  宮中参内するため居士号「利休」が勅賜された。
  晩年、秀吉から切腹を命じられたとき、前田利家や古
 田織部、細川忠興らの大名の弟子たちが奔走したがかな
 わなかった。
1521年、武田信玄(たけだしんげん、甲斐の守護大名)が
 生まれた(1521年~1573年)
  越後の上杉謙信と五次にわたる川中島の戦いをした。
  政略上、信長の養女(遠山夫人、母が織田信長の妹)
 を勝頼の正室に迎えている。
  しかし、後に、織田信長の本格的侵攻(甲州征伐)に
 より、1582年3月、勝頼は天目山で自害し、平安時代か
 ら続く由緒ある甲斐武田氏は、滅亡した。
1521年、フィリピン:マゼランが来航したのが1521年、
 当時のスペイン王子・フェリペにちなんで、フィリピン
 と名付けられた。
1521年、ルターが、ローマ法王のウォルムス勅令によって
 異端者とされた(異端者は、キリスト教会内の異端審問
 所で焚刑になる運命にあった)。
  そして、追放の処分となった。そして
  また、ルターの本は、焚本にして処分せよとされた。
1521年1月3日、キリスト教のローマ教会(バチカン)は、
 ルターに正式な破門状を発布した。
  絶対権力を持つキリスト教ローマ教会のこの処置によ
 って、ルターの法による保護はないという状態へと追放
 された事となった。
1521年4月初旬、マルティン・ルター(1483~1546)は、
 「屋根の瓦ほどたくさんの悪魔がいる」と言った。
  そして、この頃、権力絶大なローマ教会は、ルターに
 『異端宣告』をした。
  その宣告文は、「ルターは自由意志を否定する異教徒
 であり、彼の考えは、騒乱(そうらん)・戦争・殺人・
 キリスト教界の崩壊につながる。
  誰もルターを匿(かくま)うな。いな、またルターに
 従う者も罪に定める。ルターの本も、庶民の記憶から根
 こそぎ葬(ほうむ)り去らねばならない」とキリスト教
 カトリックは怒りまくった。
1521年6月、アステカ帝国滅亡。
  スペインキリスト教徒とキリスト教聖職者たちの蛮行。
  詳細は何も分からない。
1521年12月、ルターが、聖書翻訳を始めた。
  聖書の原典とされたギリシャ語からドイツ語への翻訳
 だった(翻訳でニュアンスが変わる問題がある)。
  イエスは、アラム語で話したので、ラテン語を勉強す
 るよりアラム語を勉強しなければならない。
  ラテン語を重視するキリスト教の語学勉強は間違って
 いる。侵入民族のゲルマン民族のラテン語採用の慣例に
 ならっているだけ。
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