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2015年12月19日土曜日

(増補版)261D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年9月~1864年10月)

題:(増補版)261D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年9月~1864年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1864年9月、この頃の・・西郷隆盛は・・、変化が?
  西郷隆盛は、幕府との協調路線を歩んでいた。
  禁門の変の責任を問う征長軍の編成がなされると、
  蜜月であった会津藩と薩摩藩は主力となり、西郷は、
 その参謀長となった。
  この時も、いち早く勅許を仰いで、長州を劣位に落と
 し、主導権を握った。
  折りから、9隻の外国軍艦が、大阪湾に来ていて、兵庫
 の開港を迫っていた。
  幕府の本音は、征長どころではなかった。
  征長軍が動き出し、西郷も加わった幕府側の軍勢が、
 圧倒的な兵力を誇って、国境線まで進出した。
  長州藩も・・これまでか・・と思われた・・が・・
  この時に、西郷の行動に・・変化が表れた。
  征長総督の徳川慶勝が到着する前に・・、
  西郷は、和平交渉を進め、長州が自ら事の決着をつけ
 るという事にしてしまった。
  そして、征長軍の解体を行なってしまった。
  ???・・・西郷に・何があったのか?
  この時、西郷の中に、反幕へ、反対への方向の心があ
 った。
  西郷は下関を訪れた。
  この西郷の奇策によって、長州藩は難を逃れ、活力を
 取り戻した。
  しかし、第二次長州征討が起きる。
  幕府は、約2年後に又、第二次長州軍を起こす。
  そして、1866年5月17日に長州に命令が下され、
  1866年7月18日に、幕府軍艦が砲撃する事により始ま
 った。
  この時、薩摩は出兵を拒否した。
  この第一次長州征討経緯については、歴史教科書には、
 「西郷隆盛(36歳)が許されて、第一次長州征伐の総参
 謀となり、
  総参謀として長州藩を降伏させた」とある。
1864年9月14日、勝海舟、姫島に到着す。既に砲撃あり(氷
 川清話)
1864年9月15日、勝海舟、姫島を去り帰阪(氷川清話)
1864年9月18日、長州藩と和議成立(9/14?)。
1864年9月18日、結局、馬関戦争(下関戦争)は、圧倒的
 な近代兵器(艦砲)の火力を持つ四国連合艦隊の勝利に
 終わった。
  1864年9月8日に、馬関戦争の講和は、高杉晋作が使者
 として赴き、アーネスト・サトウの通訳で、総司令官・
 クーパーと交渉を行った。
  1864年9月18日に、講和条約はまとまった。
  長州藩は、
  ・下関海峡の外国船の通行の自由、
  ・石炭(燃料)・食物・水など外国船の必要品の売買
   の認可、
  ・悪天候時・遭難時の船員の下関上陸、
  ・下関砲台の撤去、
  ・賠償金300万ドルの支払い
    ・・の、5条件を受け入れた。
  賠償金300万ドルは、長州藩が、幕府の命令(幕府が朝
 廷に約束した攘夷)を受けて、不本意に攘夷を実行した
 という事情があったので、
  幕府に対して請求されることになった。
  この賠償金は、幕府が、大政奉還をして崩壊すると、
 新政府へと引き継がれた。
  1874年(明治7年)まで、支払いは続いた。
  フランス軍は、馬関戦争の戦利品として青銅製の砲門
 をパリに持ち帰っており、アンバリッドという軍事博物
 館に陳列している。
  そして、明治新政府は、この江戸幕府の借金は関係な
 いと言うべきだった・・ロシアの様に・・、正直な日本、
 誠実な日本である。
  ロシアは、この様な時に、前政権の借金は関係ありま
 せんと言ったという。
1864年9月18日、英・米・仏・露四国公使と下関海峡砲撃
 事件の償金300万ドルを約したが、
  長州藩との講和談判によって、約された300万ドルもの
 巨額の賠償金は、幕府に請求されて行く。
  イギリスは、逆に、これを自分の有利に使う。
  これを交渉材料にして、フランス・オランダと共に、
 将軍・徳川家茂の滞在する大坂に艦隊を派遣し(群れを
 なして脅しにかかる)、
  幕府に、安政五カ国条約(1858年の条約)の勅許と、
 賠償金の減額と引換に、兵庫の早期開港を迫る(1865年
 11月の兵庫開港要求事件)。
  しかし、兵庫は、京都の至近であり、
  朝廷を刺激することを嫌った幕府首脳部は、やむを得
 ず300万ドルの賠償金の支払いを受け入れた。
  幕府は、150万ドルを支払い、
  明治維新後は、新政府が残額を明治7年(1874年)まで
 に分割で支払った。
  明治16年(1883年)2月23日、チェスター・アーサー米
 国大統領は、不当に受領した下関賠償金(78万5000ドル
 87セント)の日本への返還を決裁した(当然だ、イギリ
 スは懐・フトコロへ入れた)。
  300万ドルの賠償金の分配は、アメリカ、フランス、オ
 ランダの3ヶ国の船艦が、42万ドルを分け、残額258万ド
 ルは連合艦隊の4ヶ国に分けたため、米国は合計で78万
 5000ドルを得ていた。
  実際の米国の損失は、
  1.米国船ペングローブ号の日時を要した費用5日分1500
   ドル
  2.長崎に寄港出来なかった為の損害6500ドル
  3.水夫への危険手当2000ドルだった。
   なお、ワイオミング号の損害は、日本への威圧の為
 に起った事で、日本ではそれ以上の損害が発生しており、
 連合艦隊への参加は、商船タキアン号1艘のみの参加で
 64万5千ドルを得た事になっていた。
  結果、米国の損害は、合計1万ドルに過ぎなかった。
  この賠償金は、弱小日本に対する威圧によって得た、
 いわば不当なものだった。
  しかし、何と、アメリカ合衆国の国務省は、日本から
 分割金を受領するたびに国庫に納めず、国債として保管
 していた。
  その実情を明治5年(1872年)、フィッシュ国務長官が
 森有礼公使に伝えた事から、日本側では機会をとらえて
 は返還の要請をしていた。
  日本では、明治22年(1889年)、返還金の元利金約
 140万円を横浜港の築港整備費用(総額234万円)に充当
 する事を決定し、明治29年(1896年)5月に完成した。
1864年10月1日、幕府、参勤交代を復活。
  第一次長州征伐の戦果において、不満が残る幕府だっ
 たが、まあ、諸藩が・・、
  幕府の命令に従い・・征長軍に参加した事と、
  とにかく・・政敵である長州藩を屈服させた事によっ
 て、幕府の上層部は・・
  『今こそ幕府の権威が回復させる機会だ』・・と、判
 断した。
  その行動の始めが、参勤交代の緩和があったのを、こ
 の時に、元に戻した。
  1862年の当時、将軍後見職だった一橋慶喜と、政治総
 裁・松平春嶽の主導で行なわれた参勤交代の緩和(参勤
 の間隔を三年に1回にする、藩主の妻子の帰国を自由に
 する、幕府上層部への賄賂の廃止)をしたが・・、
  その撤回を発表した。
  参勤交代の制度を昔に戻し、幕府の権威の回復を目論
 んだ。
  しかし、予想に反し、征長軍の参加には賛成した諸大
 名だったが、この参勤交代制度の強化については、態度
 を保留した。
1864年10月11日、幕府が、将軍上洛の無事終了を祝い、市中
 の13万3,541世帯に金6万3,000両を分配する。
1864年10月11日、西郷吉之助と勝海舟、初の会見
  二人は、大阪で会見した、そして、一大共有を悟る。
  海軍操練所の解散の直前の、この日、西郷隆盛と勝海
 舟が・・、初めての会談だった。
  これは、4年後の江戸城の無血開城の伏線となる。
  『歴史の巡り合わせの妙』というべき出来事だった。
  この会見について、西郷が、大久保利通に知らせた手
 紙が、明治30年に近くになってから発見され、残ってい
 る。
  「勝氏へ初めて面会仕り候ところ、実に驚き入り候ふ
 人物にて、
  最初うち明け話にて、差し越し候ところ、トンと頭を
 下げ申し候。
  どれだけ知略これあるやら知らぬ塩梅に見受け申し候。
  まづ、英雄肌合いの人にて、佐久間(象山)より事の
 出来候ふ儀は、一層も越え候はん。
  学問と見識においては、佐久間抜群のことに御座候へ
 ども、現事に候ふては、この勝先生とひどく惚れ申し候
 ・・」。
  西郷が勝のどこに惚れたかというと・・、
  この時、海舟は三つの事を打ち明けた。
  一つは、幕府には人材が居ないから、もう駄目だ、
 幕府など相手にするな、という事である。
  第二は、それより「賢明の諸侯4、5人、会盟して」
 外艦を破るべき兵力を備え、
  横浜・長崎の港を開き、堂々筋道をたてて談判すれば、
 屈辱的条約でない外交交渉もできるであろう事。
  第三は、以上の方針を実行するため、雄藩諸侯が出京
 するなら、それまで自分の力で、外国人は引留めておい
 てみせるという事、であった。
  西郷は、これで目を開かれ、長州を敵として叩くこと
 は不利である事、
  むしろ、長州と手を握り、倒幕の方向に進むべき事を
 悟った。
  「一大共有」の路線に気が付けば、海舟の言う挙国一
 致策が、問題解決の鍵だと分かるわけである。
  そして、海舟の思想・政略を一番よく受け継いでいた
 のは、海軍塾の塾頭の坂本龍馬である。
  免職されて江戸へ帰る前、海舟はこの坂本の事と、海
 軍塾の事を、西郷及び薩摩藩に面倒を見てくれるよう依
 頼した。
  (海軍塾を止めるという切っ掛けであったこの会談が、
 幕府の命運の分かれる切っ掛けともなった・・)
  海軍塾は、長崎へ移って亀山社中となり、薩摩藩・そ
 の他をスポンサーとして活動する。
  この竜馬の亀山社中が、長州へ銃を運び、長州はこの
 銃で第二次長州征伐を戦い、そして、薩摩へ米を運んだ
 (参考:氷川清話)
1864年10月11日、勝海舟が書く「西郷/海舟、初会談」
  俺が初めて西郷に会ったのは、元治1年9月11日、兵庫
 開港延期の談判委員を仰せつけられるために、おれが召
 されて京都に入る途中に、大阪の旅館であった。
  西郷は、兵庫開港延期の事を、よほど重大の問題だと
 思って、ずいぶん心配していたようだったが、・・。
  彼が言うには、「とかく幕府は薩摩を憎んで、みだり
 に疑いの目をもって、禍心を包蔵するように思うには困
 る」というから、俺は「幕府のつまらない小役人どもの
 事だ。
  幕府にも人物があろうから、そんなことは打っちゃっ
 ておきたまえ。
  かようの事に懸念したり、憤激したりするのは、貴藩
 の為には決して良くない」と言ったら、彼も承知したと
 言ったっけ(氷川清話)
1864年10月11日、幕府は、長州を滅ぼさないのか?・・と、
  また、西郷が、勝海舟に「どうして幕府は、本気で長
 州を滅ぼさないのか」と迫った時にも、
  もう幕府は、空洞化しているのだから、長州一藩を云
 々(うんぬん)するのでなく、諸藩連合で、新しい日本
 を考えて行かねばならないと説いた。
  またに、倒幕の勧めで、その結果、薩長同盟も成立し
 ている。
  勝が、最後の幕臣として主張した事は・・、
  「徳川家を守る」、
  「徳川家臣団に俸禄を保証してやる」、
  「江戸は、徳川の官僚が守る」・・という3点だった。
  勝海舟、薩摩の大島吉之助(西郷隆盛)、吉井幸助(
 友実)等来り国事を談す(氷川清話)
  この時、坂本龍馬も西郷と初対面した様だ。
  西郷は、大阪湾に来航し、神戸の開港を迫る外国軍艦
 に、うろたえる幕府に、渇を入れてやろうぐらいに思っ
 て、勝と会談した様だが、
  逆に、渇を入れられたのは西郷の方だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2015年12月17日木曜日

(増補版)260D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年8月~1864年9月)

題:(増補版)260D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年8月~1864年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1864年(元治1年)8月19日、長州藩、御所に迫る(氷川清
 話)
1864年8月19日、長州屋敷を没収
  9月19日に至り、家屋をこわす
1864年8月20日、禁門の変(蛤御門の変・はまぐりごもんの
 へんが起きる)
  長州藩の行動と・・攘夷勢力・・、
  長州藩をはじめとする、攘夷派の京都での勢力は後退
 した。
  志士たちは潜伏を余儀なくされた。
  1864年7月8日の池田屋事件で、攘夷派の志士たちが、
 多数の志士が・・殺害され、捕縛された。
  8月に、孤立を深め、追い詰められた長州藩は、「藩主
 の冤罪(えんざい、無実の罪、濡れ衣)を帝に訴える」
 と称して、兵を京都へ進軍させ、局面を一挙に打開しよ
 うとした。
  長州軍は、京都に会津藩と桑名藩が居るのを承知で、
 強引に入京した。
  当然の結果、その行為が原因となって、会津、桑名を
 主力とする幕府側と交戦状態となった。
  長州藩は、御所にまで侵入したが、御所の守りについ
 ていた薩摩藩兵が援軍として駆けつけ、撃退された。
  長州藩は惨敗した。
  (禁門の変:メモ)
  薩摩藩・会津藩が、長州藩を京都から駆逐。
  御所に発砲した長州藩が朝敵とされた。
  長州兵が京都で幕府軍に敗れる。
  禁門の変、蛤御門の変、元治の変、元治甲子の変とも
 言われる。
1864年8月20日、勝海舟が、蛤御門の変を語る・・、
  長州の兵隊が、京都御所を犯したのは、元治元年7月18
 日であった。
  俺(勝海舟)は、神戸の海軍仮局に居た。
  夜になると、京都の方の空が、真っ赤に見えた。
  これは、何か変わったことがあるに違いないと思い、
 観光艦に出帆の準備をさせておいたら、
  果たして、翌日、大坂から飛脚が来て、長州藩が、順
 逆を過ったったために、
  昨夜、蛤御門や、竹田街道や、伏見表で戦争があった
 という事を知らせてきた。
  そこで、俺は、すぐに船に乗って、大坂へ行ったが、
 ちょうどこの時、毛利家の嫡子・長門守が上京のため、
 13日に国元をたち、今夜か明日か、兵庫に着くという事
 であったから、
  かねて、俺の家へ隠れていた長州の竹田庸二郎と、他
 にもう一人を、神戸に残しておいて「もし長門守が着か
 れたら、昨夜の事は、ただ無謀の徒が、一時の快をとる
 ために起こしたので、決して、深い考えなどあるのでは
 ない。
  長州侯のご意見はもとより、彼らと共に、事をなさる
 というのではあるまいと、勝が申したと伝えてくれよ」
 と頼んでおいた。
  さて、21日には、大阪城で議論が沸騰し、少しも決し
 なかった。
  そこで、俺が発議して、斥候(せっこう、敵の状況や
 地形などを探ること、また、その兵士)を放って、京都
 の形勢を伺わせようとしたが、
  皆、恐れて誰も深入りしないから、
  仕方なく、俺が、自ら斥候になって、淀川に沿うて進
 んで行くと、
  上の方から、一そうの舟が三人の壮士(そうし)を乗
 せて下って来て、俺の立っている前まで来ると、三人と
 も舟を捨てて上陸した。
  俺は、どうしようかと少し狼狽したけれど、ともかく
 も、彼らのなすところを見ようと、じっと立って居たら、
 そのうちの二人は、突然刺し違えて死ぬるし、
  もう一人も、のどを突いて死んでしまった。
  俺も一時は驚いたが、「ははあ、これで長州は、既に、
 敗れたのだな」と悟った。
  さてその夜、長州の敗兵が50人ばかり、大坂へ逃げて
 来て、藩の蔵屋敷へ隠れたので、
  また城内では評議があって、諸藩の武士に命じて、焼
 き討ちさせると言う事であったのを、
  これが為に、大阪の町が灰になってはならないと思っ
 て、俺が、堅く反対したので、とうとう、屋敷を明け渡
 させるだけですんだ(氷川清話)
1864年8月20日(禁門の変:メモⅡ)
  1863年の「八月十八日の政変」によって、京都を追放
 された長州藩が、
  会津藩主・京都守護職・松平容保らの排除を目指して
 挙兵した。
 (日本の主導権を武力行使によって握りたいとの行動)
  京都市中において、市街戦が繰り広げられた。
  大坂夏の陣(1615年)以来の戦いだった。
  京都市中は、戦火によって約3万戸が焼失した。
  大砲も投入された。
  激しい戦闘が行われたが、長州藩は敗北した。
  この戦いによって、尊王攘夷派の真木保臣ら、急進的
 指導者の大半を失った。
  勢力を大きく後退させた。
  反対に、長州掃討の主力を担った一橋慶喜や、会津藩・
 桑名藩の勢力は、協調し、その後の京都政局を主導した。
  この禁門の変後、長州藩は「朝敵」となった。
  第一次長州征討が計画され、行われて行く。
  そして、その後・・、長州藩は、政治的復権をねらっ
 て薩長同盟(1866年)が結び、
  四侯会議(1867年)においても、長州藩処分問題が主
 要な議題とされるなど、
  長州藩は、幕末の政争の中心的な位置にいた、そして、
 問題ともなった。
1864年8月のち、蛤御門の変の後の事について、勝は・・、
  物騒なことといったら・・、
  ちょっと途中で会っても、壮士が、すぐに、刀の柄(
 つか)に手をかけるという風で・・、
  斬り合いなどは、日に幾たびとなくあった(氷川清話)
1864年8月23日、☆幕府第2回の遣欧使節が帰朝した。
1864年8月24日、☆朝廷は、幕府に対し、長州追討の勅命を
 発した。
  朝廷は、禁門の変で、京都御所へ向かっての発砲を理
 由として、長州藩を朝敵とした。
  そして、幕府に対して、長州征討の勅命を下した(第
 1次長州征伐へ)
  そして、この長州征伐の流れは、1866年6月7日に、幕
 府軍艦が、長州藩領の周防大島郡を砲撃し、第2次長州
 征伐の戦闘が始まる。
  そしてまた、1866年8月に、幕府・小倉藩が、全面敗北
 し、長州征伐が停止する。
  そして、1866年9月2日に、慶喜の意を受けた勝海舟と
 長州の広沢真臣、井上馨が宮島で会談し、停戦合意が成
 立した。
  そして、1867年1月に、ようやく長州藩と小倉藩の和約
 が成立する。
1864年8月25日、☆幕府が、長州追討の勅命を受けて西国
 21藩に出兵を命じた(第1次長州征伐)。
1864年8月25日、☆幕府が、英・仏・米・蘭に、パリ約定の
 破棄を宣告した。
  この破棄が、下関戦争の契機を与えたと言われている。
1864年8月、横須賀に造船所創設(氷川清話)
1864年8月末、勝海舟、大阪の淀川岸上で狙撃にあう、一丸
 は笠を貫く(氷川清話)
1864年9月1日、☆将軍・徳川家茂、長州親征を布告。
  多事多難な幕府は、戦費もないし、したくなかっただ
 ろう。
1864年9月4日、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ
 の四国艦隊17隻が、戦闘隊形を整えて関門海峡に入って
 来た。
  (日本のただ一つの藩を・・報復するため・・やろう
 と呼び掛け・・群れを作って・・目には目をだ・・)
  生物学的に、弱い、草食動物が、群れを作るとある。
  列強諸国は、強がりを言っているが、心根は草食動物
 なのだ。
  だから、インドの方々や、中国の方々へ、また、アジ
 アの方々へ、弱いと見れば、ハイエナの様に群れて、む
 しゃぶりつく・・一面・・卑怯・・武士が一番、嫌う事、
  『日本の様な武士道精神』が無い国なのだ・・、
1864年9月5日、☆奥村五百子(おくむらいおこ)男装し、
 危険を賭して、馬関の奇兵隊本陣へ使者として到着。
  奥村五百子:(1845年~1907年)社会事業家、愛国婦
 人会の設立者。
  肥前唐津の仏教僧の娘(東本願寺)。
  北清事変の戦場の悲惨さを見て、傷病兵の看護を志し、
 そして、行う。
  また、遺族の方々へも保護をし、心を配る。
  高杉晋作との交友もある。
1864年9月5日、下関戦争(馬関戦争)(~7日)
  長州藩とアメリカ・イギリス・フランス・オランダの
 間に起きた攘夷による大砲を使った戦争。
  これは、1863年と1864年の二度ある。
  その呼び方は色々あるが
  1863年:原因となった事件、下関事件、
  1864年:馬関戦争、四国艦隊下関砲撃事件、、下関戦
 争と言われている。
  この、2回目の後段の戦い(米英仏蘭と長州藩との戦い)
 は、前年からの海峡封鎖を受けていたイギリスが、
  長州藩に対して、報復しようと決定した事から始まっ
 た。
  イギリスは、アメリカ・フランス・オランダの三国へ
 一緒にやろうと、参加を呼びかけた。
  そして、都合、艦船が17隻で、連合艦隊を編成してや
 って来た。
  同艦隊は、1864年9月5日から8月7日にかけ、馬関(現
 下関市中心部)と、彦島の砲台を砲撃した。
  そして、各国の陸戦隊が、これらを占拠し、破壊した。
  戦力:連合軍・軍艦17隻、5000人、死傷者62人?
     長州藩・軍艦4隻、2000人、死傷者47人?
  このイギリス海軍中将・クーパーを総司令官とする四
 国連合艦隊の目的は、
  『長州藩に報復(目には目を)』すること。
  そして、『開国』させること・・であった。
  長州藩を、見せしめ的に攻撃するという大きな目的が
 あった。
  この時の長州藩は、この「四国連合艦隊の攻撃」と、
 「幕府による長州征伐」という二つの戦いの、内憂外患
 状態だった。
  長州藩としては、何とかして外国との戦争は回避した
 かった。
  豊後水道の姫島に集まっている四国連合艦隊(旗艦は
 ユーリアラス号)に、伊藤俊輔(伊藤博文)と松島剛蔵
 を送って、和平交渉を行おうと努力した。
  しかし、既に、艦隊は出航し、交渉はならなかった。
  そして、その後にも、前田孫右衛門、井上聞多(井上
 馨)を送ったりしたが、事すでに遅しの状況だった。
  1864年9月4日に、四国連合艦隊の来襲が近いことを知
 った藩は、海峡通航を保障する止戦方針を決め、
  再度、伊藤を漁船に乗せ、交渉のため艦隊に向かわせ
 た。
  しかし、この時も、艦隊は、既に戦闘態勢に入ってお
 り手遅れとなった。
  この戦いにおいて、陸上戦では、長州藩の諸隊(特に
 奇兵隊・膺懲隊)が奮戦し、
  西欧諸国の軍隊と対等に戦った。
  1864年9月5日午後に至り・・、
  四国連合艦隊は、長府城山から前田・壇ノ浦にかけて
 の長州砲台群へ、猛砲撃を開始した。
  長州藩兵も必死に応戦した。
  前田砲台・州岬砲台・壇ノ浦砲台などが善戦した。
  だが、火力の差は圧倒的であった。
  砲台は、次々に粉砕され、沈黙させられて行った。
  艦隊は、前田浜で、砲撃支援の下で、陸戦隊を降ろし、
 砲台を占拠した。そして、砲を破壊した。
  1864年9月6日になって、
  壇ノ浦砲台を守備していた奇兵隊軍監・山縣狂介は、
 至近に投錨していた敵艦に、砲撃し、一時、混乱に陥れ
 た。
  だが、艦隊は、すぐに態勢を立て直し、砲撃をしかけ、
 そして、陸戦隊を降ろし、砲台を占拠し、砲を破壊する
 とともに、
  一部は、下関市街を目指して、内陸部へと進軍して行
 った。
  長州藩兵と交戦状態となった。
  1864年9月7日になり、
  艦隊は、彦島の砲台群を集中攻撃し、
  陸戦隊を上陸させ、砲60門を鹵獲(ろかく、敵の軍用
 品・兵器などを奪い取ること)した。
  1864年9月8日までに、
  下関の長州藩の砲台は、ことごとく破壊された。
  陸戦でも、長州藩兵は、旧式銃や槍弓矢しか持たず、
 新式のライフル銃を持つ連合軍を相手に敗退した。
  長州藩死者:18人・負傷者29人、計47人
  連合軍は、死者12人・負傷者50人、計62人だった。
  下関事件(下関戦争、馬関戦争、4国艦隊下関砲撃事
 件)
  連合軍兵士約2千人、軍艦17隻対して、
  長州藩士約1500人、軍艦6隻。
  損害(別資料)は、死傷者:連合軍62人に対して、長
 州藩47人
  1864年9月14日、長州藩が、4国艦隊と講和5条件を結
 んだ(9/18?)
  1、下関海峡の外国船の通航の自由
  2、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し
  3、悪天候時の船員の下関上陸の許可
  4、下関砲台の撤去
  5、賠償金300万ドルの支払い
1864年9月8日、☆長州藩・高杉晋作、杉孫七郎、井上聞多、
 伊藤俊輔等、英国水師提督と講和会議。
1864年9月12日、勝海舟、英・仏・蘭の軍艦が数隻、豊後姫
 島に滞泊し長州と事を起こしそうないなるので行って止
 めよとの命を受ける(氷川清話)
1864年9月13日、長州征伐
  長州征伐の諸藩の攻め口が定められた。
  幕府は、長州藩主・毛利敬親と養嗣子の定広(後の元
 徳)に、
  禁門の変を起こした責任を問い、
  そして、伏罪をさせるため、
  尾張藩・越前藩および西国諸藩より征長軍を編成した。
  動員された藩の数は、最終的に35藩、総勢15万人。
  1864年9月13日、諸藩の攻め口が定められ五道(芸州口、
 石州口、大島口、小倉口、萩口)より、萩城のある萩で
 はなく、藩主父子のいる山口へ向かうと決定した。
  征長総督は、尾張藩の前々藩主である徳川慶勝(7日に
 紀州藩主徳川茂承より変更)。
  副総督は、越前藩主・松平茂昭が任命された。
  総督は、征長について将軍より全権委任をうけ、征長
 軍に対する軍事指揮権を掌握した。
..
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臨時ブログ:杉原千畝の映画の話・・嘘つき行為をするキリスト教と読売新聞

臨時ブログ:杉原千畝の映画の話・・嘘つき行為をするキリスト教と読売新聞
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 第二次世界大戦のとき、杉原千畝という外交官が居た。
 その当時、この杉原千畝が、ユダヤ人の方々に、日本に
行くビザを発給したという。
 この当時、日本は、ユダヤ人のビザの発給をしてはいけ
ないとしていたという(これが、真っ赤な嘘、悪意ある嘘
話のデッチアゲなのです)
 だから、杉原千畝は、この日本政府に背いて、ユダヤ人
を救うためにビザを発給したのだという話をデッチアゲた。
 何故、この様な、嘘の話がでっち上げられたのか?
 それは、杉原千畝が、キリスト教徒だったから、
 そのキリスト教徒が、人命救助の精神でユダヤの方々を
救ったのだという美談が、キリスト教は欲しかった。
 それ故に、だいぶ以前から、この話をデッチアゲて、
テレビでも、この筋書きで、何度も放送した。
 キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)です。
 色々と歴史的資料を調べても、日本は「ユダヤの方々を
人種差別していません」し・・、また、
 それ故に「日本への入国も、拒否していません」。
 何ら、他の外国人と同じような状況でした。
 逆に、満州に逃れて来たユダヤ人の方々(白系ロシア人
の方々)を、差別なく、「どうぞ」と入国してもらってい
ました。
 日本は、その様な国だったのです、その様なの方針だっ
たのです。
 それを、日本はユダヤの方々を差別していたと、キリス
ト教はでっち上げ、杉原千畝の話をでっち上げました。
 そして、その話を、この度、映画にしました。
 杉原千畝がキリスト教徒なので、最適な広告塔だと、だ
いぶ以前から、杉原千畝の嘘を交えた「美談」をでっち上
げて来ました、ひどい話です。
 何度も、何度も、キリスト教は嘘を言った。
 「日本が、ユダヤ人にビザを発給してはいけないとして
いた」と真っ赤な嘘を言った。
 これは、はっきりしたキリスト教のまったくひどい「デ
ッチアゲの嘘話」です。
 しかし、臆面もなく、キリスト教は言い続けた。
 朝日新聞の慰安婦の嘘と同じで、日本の国や、日本の国
民の方々を貶(おとし)める大罪を行ない続けました。
 この度、この杉原千畝の映画を作ることになって、読売
新聞が、後押しする事になった。
 この映画の宣伝も、今まで通りのキリスト教がデッチア
ゲた嘘の話で、その宣伝をした。
 「杉浦千畝は日本に背いて、ユダヤ人にビザを発給した」
と。
 当時、日本は、ユダヤ人の方々にビザを発給してはいけ
ないという方針は、まったくなかった。
 そのことは、当時、千畝と同じ大使をされていた馬淵睦
夫氏も言われている(ユーチューブを御覧ください)。
 「杉原千畝の様な事は、当時の大使は、皆、行なってい
ました」と言われている。
 「杉原千畝が、特別という事ではない」と言われている。
 また、馬淵睦夫氏は言う、「ビザ発給は、一個人の行為
では成立しない」・・と。
 キリスト教が筋書きした嘘話は、まったく素人話だとい
う。
 「そんなことでは、ビザの発給業務は成立しない」と、
笑って言われている。
 それを、まったく杉原千畝の個人の行為によって、ユダ
ヤ人が救われたと、でっち上げた。
 この嘘の事を、私も指摘しましたが、皆様も指摘された
のでしょう。
 この映画の(読売新聞、2015・12・6)の新聞広告の書き
方(記述)が変わった。
 一言も「日本に背いた」の記述が無い、無くなっている。
 そして、宣伝の記述は、「杉原千畝の居た領事館の閉鎖
が決まり、日本政府の了承の取れないまま、杉浦千畝は、
難民(押し寄せたユダヤの方々など)にビザを発給する決
断をする」と記述した。
 日本の「ユダヤの方々にビザを発給してはいけない」と
いう指示があったという嘘を書くことは止めている。
 日本は、当時、「ユダヤの方々にビザを発給して良い」
としていたので、当然です。
 それも、書くべきだが、その事は、この読売新聞の広告
欄には書いてない。
 そして、「杉原千畝が、領事館の閉鎖が決まり、日本政
府の了承の取れないまま千畝はビザを発給した」と書き変
えて、宣伝している。
 が、しかし、これは、「杉原千畝の落ち度だ」。
 つまり、「日本はビザの発給をしてよい」としているの
で、杉原千畝に落ち度が無ければ、馬淵睦夫氏も言ってい
る様に、当然、「日本のどこの大使館も、ビザの発給をし
ていました」と言われるように、「杉原千畝も、ビザ発給
ができた」はずなのだ。
 何も問題なく、杉原千畝も、ビザ発給が出来たのだ。
 つまり、美談でも何でもないのだ。
 日本は、人種差別のない国なので、当時、ユダヤの方々
も差別なくビザの発給を受けていた。
 ただ、杉原千畝は、何か自分のやるべきことをするのが、
遅くなったのか?
 または、やり忘れていたことがあったのか?
 杉原千畝が、「確認し、了承を取るべきことがあった」
のに、それを、杉原千畝は、やらないで、ビザの発給をや
ってしまった・・という話なのだ。
 何しろ、当時、日本の大使館のどこでも、ユダヤの方々
に、ビザ発給はしていました。
 この日本の差別のない行為を、キリスト教が横取りした
ということだ。
 その為に、日本はしてなかったという日本を貶(おとし)
める話をキリスト教はデッチアゲタのだ。
 当然、人種差別のない日本に来たユダヤの方々は、全員、
日本は受け入れ、そして、日本に上陸できた。
 逆に、キリスト教国のアメリカは、大勢のユダヤの方々
が乗った船が、やっと、アメリカに到着したのに、アメリ
カは、上陸することを許さず、拒否をし、そして、元の場
所の追い返してしまった。
 酷いことをするアメリカなのだ。
 キリスト教と読売新聞は、それこそ、これを映画にする
べきだったのだ。
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2015年12月16日水曜日

(増補版)259D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1863年12月~1864年8月)

題:(増補版)259D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1863年12月~1864年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1864年(文久3年)1月5日、☆横須賀製鉄所
  小栗忠順、横須賀製鉄所建設案を幕府に提出し、承認
 され、実地検分が始まった。
  小栗忠順(おぐりただまさ、幕臣、勘定奉行、江戸町
 奉行、外国奉行)、
  優秀な幕臣との評判が高い。
  横須賀造船所設立をはじめ、幕府の政治、財政、軍事
 の各分野で改革を推進しようとした。
  薩長(さっちょう)に対しては、主戦論を唱えたが、
  幕軍が鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに敗れるや、
 上州(群馬県)へ隠退した。
  新政府軍に捕らえられて、慶応(けいおう)4年閏(うる
 う)4月5日斬(ざん)に処せられた。
  小栗は、1863年に、製鉄所建設案を幕府に提出した。
  国を強くするためには、何しろ、鉄を得なければなら
 ないと考えからだった。
  幕閣などから反発を受けたが、14代将軍・徳川家茂は、
 これを承認し、
  1864年1月5日に、実地検分が始まり、建設予定地は、
 横須賀に決定された。
  なお、建設に際し、多くの鉄を必要とすることから、
 上野国甘楽郡中小坂村(現在の群馬県甘楽郡下仁田町中
 小坂)で、
  中小坂鉄山採掘施設の建設を計画し、武田斐三郎など
 を現地の見分に派遣した。
  見分の結果、鉄鉱石の埋蔵量は莫大であり、
  ついで、成分分析の結果、鉄鉱石の鉄分は、極めて良
 好であることが判明した。
  ただし、近隣での石炭供給が不十分であるので、しば
 らくの間、木炭を使った高炉を建設すべしとの報告を受
 けている。
  また、1865年には、高炉で使用する木炭を確保するた
 め、御用林の立木の使用について陸軍奉行と協議をして
 いる。
  1866年1月1日、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)
 の建設を開始した。
  費用は、4年継続で、総額240万ドルで、これが後の小
 栗逮捕における徳川埋蔵金説に繋がったとも言われるが、
  実際には、万延二分金などの貨幣の増鋳による貨幣発
 行益により建設費用を賄っていた(濡れ衣)。
  横須賀製鉄所の建設を巡っては、相当な費用の負担を
 強いることから、幕府内部の反対論は強く、
  建設地を横須賀にすることへの反対論もあったが、
  工作機械類がフランスに発注済であり、最終的に製鉄
 所は建設された。
  多くの反対を押しきれたのは、計画の進捗が迅速であ
 り、
  外部がこれを知った時には取りやめることが不可能で
 あったからである。
  小栗は、横須賀製鉄所の首長としてフランスのレオン
 ス・ヴェルニーを任命した。
  これは、幕府公認の事業では初の事例だったが、
  この人事により、職務分掌・雇用規則・残業手当・社
 内教育・洋式簿記・月給制など、経営学や人事労務管理
 の基礎が日本に導入された。
  また、製鉄所の建設をきっかけに、日本初のフランス
 語学校・横浜仏蘭西語伝習所を設立された。
  ロッシュの助力もあり、フランス人講師を招いて本格
 的な授業を行った。
  この学校の卒業生には、明治政府に貢献した人物が多
 い。
  小栗は、陸軍の力も増強するため、小銃・大砲・弾薬
 等の兵器・装備品の国産化を推進した。
1864年1月、六卿建白(氷川清話)
1864年1月、勅使て家茂の上洛を賞せられる(氷川清話)
1864年1月、京都に見回り役を置く(氷川清話)
  京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)は、幕臣によっ
 て結成された京都の治安維持組織。
  幕府は、京都守護職で、会津藩主の松平容保の配下と
 して、蒔田廣孝と松平康正を京都見廻役に任命した。
  詰所は、二条城の側に置かれたとされる。
  見廻組は、新選組と同じく、反幕府勢力を取り締まる
 警察活動に従事したが、
  見廻組は、主に、御所や二条城周辺の官庁街を管轄と
 し、
  新選組は、祇園や三条などの町人街・歓楽街を管轄と
 した。
  坂本龍馬の暗殺について、相模組与頭の佐々木只三郎、
 組士・渡辺吉太郎、高橋安二郎、桂早之助、土肥仲蔵、
 桜井大三郎、今井信郎、渡辺篤らが、
  坂本龍馬、中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件)に関与し
 たとされている。
1864年1月、幕府、攘夷の職を尽くすべき旨、勅答書を上る
 (氷川清話)
1864年1月、将軍、暇を賜り、京都を発す(氷川清話)
1864年1月、水戸浪士の暴行について、命を関八州に下し、
 鎮撫させる(氷川清話)
1864年1月、操練所を摂津神戸村に建つ(氷川清話)
1864年2月6日~8月23日、☆横浜鎖港談判使節団、
  フランスへ向けて出発。
  第2回遣欧使節ともいう。
  使節団の目的は、開港場だった横浜を、再度、閉鎖す
 る交渉を行うことであった。
  孝明天皇は、1863年6月25日をもっての攘夷勅命を発し
 ており、これに従って幕府は、1863年6月24日に各国公使
 に対して開港場の閉鎖を通達するが、
  諸外国は、当然、これを拒否し、幕府も9日後にはこれ
 を撤回していた。
  更に、下関事件や薩英戦争、フランス士官・カミュ殺
 害事件等が起きて、諸外国との軋轢も高まっていた。
  この様な状況で、幕府は、攘夷派を懐柔する為、江戸
 に近い横浜の閉鎖を交渉するために、使節団を派遣する
 が、もとより達成不可能な任務であった。
  なお、使節団の目的には、フランス士官殺害事件の賠
 償交渉も含まれていた。
  一行は、1864年2月6日に、フランス軍艦ル・モンジュ
 号で日本を出た。
  上海やインド等を経由し、スエズからは陸路でカイロ
 へ向かい、途中ギザの三大ピラミッドとスフィンクスを
 見学し、
  その後、地中海を通って、マルセイユに入港した。
  パリに着いた一行は、皇帝ナポレオン3世に謁見した。
  しかし、横浜の鎖港に関する交渉は、横浜を対日貿易・
 交渉の拠点と考えるフランスの抵抗にあい、失敗に終わ
 った。
  また、正使の池田長発(筑後守)自身も、西欧の文明
 の強大さを認識し、開国の重要性を感じ、交渉を途中で
 打ち切り、5月17日(6月20日)、フランス政府とパリ約
 定を結んだ。
  一行は、他の国には寄らず、そのまま帰路につき、同
 年8月23日に帰国した。
  この時に約定したパリ協定の内容は・・、
  (1)、長州藩によるフランス船砲撃に対する賠償支払
    い(幕府は10万ドル、長州藩は4万ドル)。
  (2)、フランス船の下関海峡自由航行の保証。
  (3)、輸入品の関税率低減(一部の品目は無税)。
  しかし、幕府は、批准を拒否し、7月24日に、約定の破
 棄をイギリス・アメリカ・フランス・オランダに宣言し
 た。
1864年2月6日、☆日本瑞西国修好通商条約調印(スイス)
1864年2月7日、☆参預会議(さんよかいぎ)
  一橋慶喜・雄藩諸侯(松平慶永、山内豊信、伊達宗城、
 松平容保、島津久光)ら朝議参預に任じられる(参預会
 議)
  また、別資料では・・、
  1863年の末から翌年1864年4月まで京都に存在した、朝
 廷の任命による数人の有力な大名経験者から構成された
 合議制会議、および、その制度。
  当時流行した公武合体論、および、公議政体論の一つ
 の帰結ではあったが、参預諸侯間の意見の不一致から、
 わずか数ヶ月で崩壊。
1864年2月1日、☆薩摩藩の船を、長州藩が砲撃する。
  関門海峡を航行中の薩摩藩使用の洋式船「長崎丸」(
 幕府より貸与)を、長州藩の陸上砲台が砲撃し、撃沈し
 てしまった。
  薩摩藩士24人が死亡した。
  薩摩藩が方針転換したことへの不満や、八月十八日の
 政変への報復目的から、長州の過激派が攻撃を行ったと
 言われる。
  長州藩の謝罪で一応は解決したものの、翌年にも、長
 州藩兵が薩摩藩の御用商船「加徳丸」を焼き討ちし、乗
 員を殺害する事件が起きている。
1864年(文久3年)2月20日、☆島津久光廟議参与を許され
 る。
1864年2月21日、☆徳川家茂、再度上洛(2月5日説あり)
  将軍・徳川家茂は、2月5日に、軍艦翔鶴丸で品川を出
 航し、海路上京の途に着いた。
  1864年2月15日(旧暦:1月8日)、勝海舟、大阪着船
 (氷川清話)
  1864年2月16日(旧暦:1月9日)、勝海舟、大阪城で垢
 付の小袖を賜う(氷川清話)
1864年3月2日、☆ 高杉晋作、長州を脱す
  高杉晋作顕彰碑文には・・、
  文久元年、藩公は、朝廷と幕府の間でしきりに周旋を
 行なった。
  その頃、君(晋作)は、世子(世継ぎ)の側近だった
 が、周旋を「藩に利あらず」とし、なすべきことは他に
 あると主張した。
  文久ニ年、藩公は、君を上海に派遣し海外事情を探ら
 せようとした。
  滞在すること数カ月。
  帰国してみると、世子は、勅命を奉じて江戸にあり、
 周旋に尽力していた。
  君は、当局にそれを不可として説いたが聞き入れられ
 ず、憂憤のあまり、一日、切に世子を諌め、藩邸を飛び
 出した。
1864年3月13日、☆ 長門藩、武器の他国流失を厳禁す
  長州藩は、周防国と長門国を領国とした。
  長州藩は、赤字の藩であったが、軍事力増強に努めな
 ければならず、
  天保期だけではなく、1853(嘉永6)年のアメリカ使
 節ペリー来航以後は、これまで以上に、新しい軍備の充
 実などに、巨額の財政投資をせねばならず(この様な事
 は西南雄藩はどこでも同じで、軍事力の増強に務める日
 本の雄藩だった、しかし、比較すれば、長州藩と薩摩藩
 は一歩遅れていた)、
  別会計の撫育局の財政は、黒字であってもこれを全て
 武器購入や幕末政局での活動費用に当てねばならず、
  藩財政の巨額の借金はそのまま残されてしまった。
  長州藩の財政資料によると、1871(明治7)年の廃藩置
 県時における長州藩の負債は、天保15(1844)年から慶
 応3(1867)年の分が、3万1390貫(約50万2240両、
  およそ、602億6880万円)、
  以後の新規の負債が、1万1381貫(約18万2096両、お
 よそ218億5152万円)、
  合計で、総額4万2771貫(約68万4336両、およそ821億
 2032万円)と、巨額なものであった。
  この借金は、このまま明治政府に引き継がれた。
1864年3月17日、☆ 松平容保、京都守護職の精勤に対し5万
 石加増、翌日陸軍総裁となす
1864年3月25日、☆島津久光、砲12門を朝廷に献ず
1864年(元治1年)3月27日、☆「元治」に改元された。
   讖緯説に基づく甲子革令の年に当たるため、元治に改
 元された。
1864年3月16日、☆勝海舟が四国連合艦隊と折衝
  幕府が、軍艦奉行の勝海舟を、外国軍艦による下関攻
 撃の延期交渉を命じ、長崎に派遣した。
  勝は、坂本龍馬を伴って神戸を出帆後、佐賀関に着。
  陸路九州を横断。
  氷川清話:勝海舟、二条城で、長崎表へ急用のため、
 差し遣わすにつき、賜暇金10枚、時服2及び羽織を賜い、
 即日出立。
  これは、英・仏・蘭の軍艦が、下関攻撃のきざしがあ
 るので抑留談判の為である。
  長崎に行き、英・蘭の船将・コンシェル等と数回対談、
 終に、攻撃の猶予を約束する(氷川清話)
  1864年3月30日、勝海舟が長崎入る。
 勝は、各国の領事や艦長と交渉し、延期に成功。
  1864年5月9日、勝海舟が長崎を発った。
1864年、四国連合艦隊、長州攻撃を予告
  長崎へ出張を命ぜられ、大阪城にて将軍より時服2、お
 羽織、黄金10枚、拝借金500両を戴いて出発する。
  これは、四国連合艦隊が、長州攻撃のため、下関を襲
 うという予告があり、
  それを、延期させるための談判に出掛けたのであるが、
  英・蘭の領事や、武官らは、海舟のかねてより顔見知
 りであり、談判はすらすらとまとまった。
  それらの功績に報いてであろう、5月14日、将軍より
 「軍艦奉行、作事奉行格、諸太夫として、安房守に任命」
 された。
  ついに「3000石、役金250両」の高級官僚になった。
 (氷川清話)
1864年3月29日、☆熊本藩主・細川慶順、長岡護久等連署し
 て、長州処分の寛大ならん事を請う
1864年4月、☆ヨーロッパに派遣留学した、長州五傑のうち
 井上聞多と伊藤俊輔が、日本からの下関事件の報道に帰
 国した。
  この後、薩摩藩からの密航留学生たちの存在を知って、
 交遊した、
  1866年に、遠藤謹助が帰国した、
  氷川清話:横浜鎖港の御請使節3名、外国より帰朝し、
 鎖港談判不調の旨復命して咎を蒙る(氷川清話)
1864年4月6日、☆松平慶永が、幕府へ公武合体を勧告した。
1864年4月8日、☆島津久光が、西郷吉之助に対して、上京
 を命じた。
1864年4月14日、☆参与会議が瓦解した
1864年4月14日、勝海舟、帰京(氷川清話)
1864年4月18日、勝海舟、謁見、詳述す(氷川清話)
1864年4月21日、☆薩摩藩主・島津忠義のイギリスに注文せ
 る軍艦2隻、大砲60門が、横浜に着す 。
1864年4月24日、☆西郷隆盛、薩摩藩の軍賦役(軍司令官)
 に任命された。
1864年4月27日、☆フランス公使のレオン・ロッシュ着任
  フランスの第二代の日本駐在公使として、レオン・ロ
 ツシュが着任した。
1864年5月2日、 ☆天狗党の乱
  筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)
 によって起こされた一連の争乱。
  水戸藩執政・武田耕雲斎を中心とし、横浜即時鎖港を
 求め挙兵した。
  1865年1月14日、投降した。
  安政5年8月8日(1858年9月14日)水戸藩は、幕府によ
 る日米修好通商条約調印を不服とする孝明天皇より直接
 に勅書を下賜されたと称した(戊午の密勅)。
  折しも、将軍継嗣問題を巡って、前藩主徳川斉昭らは、
 一橋徳川家当主で斉昭の実子でもある一橋慶喜を擁立し
 (一橋派)、大老・井伊直弼と対立していた。
  直弼は、一橋派の中心人物は斉昭であり、密勅の降下
 にも彼が関与していたとの疑いを強めた。
  やがて直弼によって、一橋派や尊攘派への大弾圧が開
 始され(安政の大獄)、
  水戸藩に対しては、斉昭に永蟄居を命じて、再び失脚
 させ、京都での工作に関わったとみられる藩士に厳しい
 処分を行った。
  先に、朝廷より水戸藩に下賜された「勅書」について
 は、朝廷から幕府へこれを返納するよう命じられたが、
  この命令への対応を巡り、天狗党は、会沢正志斎ら「
 勅書」を速やかに返納すべしとする鎮派と、
  あくまでも、これを拒む、金子教孝(孫二郎)・高橋
 愛諸(多一郎)らの激派に分裂した。
  翌万延元年(1860年)になって、正志斎の強諌に、斉
 昭も、ついに観念して、「勅書」の返納に同意したが、
 激派は、これに反発して、実力行使を企て、
  高橋ら水戸浪士は、水戸街道の長岡宿(茨城県東茨城
 郡茨城町)に集結し、農民など数百人がこれに合流した。
  彼らは、長岡宿において、検問を実施し、江戸への「
 勅書」搬入を、実力で阻止しようとした(長岡屯集)。
  この激派の動きに対し、正志斎は、2月28日に、長岡宿
 に屯する輩は、朝廷からの「勅書」返納の命に背く逆賊
 であるから、これを討つとして、
  激派追討のため、鎮圧軍を編成した。
  これを見た高橋ら長岡宿に屯していた集団は、脱藩し
 て、江戸へと逃れ、
  水戸城下から逃れて来た激派の一団や、薩摩浪士の有
 村兼武・兼清兄弟らと合流し、
  3月3日、江戸城桜田門外で直弼を襲撃して殺害した(
 桜田門外の変)。
  8月15日の斉昭病没後も、激派の行動はやまず、さらに
 第一次東禅寺事件・坂下門外の変などを起こすに至った。
1864年5月4日、☆高杉晋作が、萩の野山獄に投ぜらる。
  野山獄跡の説明文
  場所:山口県萩市大字今古萩町
  正保2年(1645年)東隣に住む藩士岩倉孫兵衛が、
 酒に酔い、この地にあった藩士野山六右衛門の屋敷に斬
 り込み、家族を殺傷。
  両家共、取りつぶしとなり、跡地に置かれたのが「野
 山獄」(上牢)で、士分のものが入れられた。
  安政元年(1854年)10月、海外渡航に失敗して投じら
 れた吉田松陰が、
  獄舎内で高須久子、富永有隣らと知り合い、「孟子」
 の講義を行った場所として知られる。
  元治元年(1864年)3月には、来島又兵衛らの説得を
 放棄し、
  京阪に脱走した罪で、高杉晋作が投じられ、
  「先生(松蔭)を遠く慕うて漸く野山獄」と記した。
  同年5月には、酒に酔った周布政之助が、馬上抜刀し
 た状態で、晋作のいる獄舎に乗り付ける事件を起こして
 いる。
  正義派、俗論派による抗争の絶えなかった萩藩では、
 多くの人材が投獄され、刑死させられた。
  野山獄は、正義派の殉難十一烈士(松島剛蔵、佐久間
 佐兵衛、中村九郎、楢崎弥八郎、竹内正兵衛、山田亦介、
 渡辺内蔵太、毛利登人、大和国之助、宍戸左馬之介、前
 田孫右衛門)、
  俗論派の、坪井九右衛門や椋梨藤太などが処刑された
 場所でもある。
   来島又兵衛(きじままたべえ、長州藩士):1863年に、
 高杉晋作が奇兵隊を創設したのに触発されて、
  又兵衛も遊撃隊を組織して自ら総督となり、互いに連
 携して国事にあたった。
1864年5月11日、勝海舟、将軍、鯉魚門(軍艦)に乗り兵庫
 湊川、泉堺等に到る、それに供する(氷川清話)
1864年5月16日、勝海舟、将軍海路帰府、これに従い、翔鶴
 丸に乗り大坂を出発、
  浦賀に滞泊(たいはく、船が停留すること)
  船中で反物白銀及び紋付野羽織を賜う(氷川清話)
1864年5月20日、将軍帰城(氷川清話)
1864年5月23日、☆薩摩の島津久光、後事を西郷吉之助に託
 し、京都発帰藩の途に就く
1864年6月5日、☆将軍・徳川家茂が、参内して、江戸帰任
 の賜暇を奏上す(同月7日京都を出発)
1864年6月10日、勝海舟、急用で、大阪及び京都へ派遣を命
 ぜられる(氷川清話)
1864年6月12日、勝海舟、汽船長崎丸で出帆(氷川清話)
1864年6月13日、勝海舟の船のシリンドル摧破(さいは、く
 だけやぶれること)(氷川清話)
1864年6月14日、勝海舟、下田に入る(氷川清話)
1864年6月17日、☆勝海舟が、軍艦奉行となる
  勝海舟が、この日に、軍艦奉行となり、幕府海軍の創
 設に功があった。
  江戸末期、15代将軍・徳川慶喜を助け、国内紛争を回
 避するため尽力し、
  特に、倒幕官軍が東下して来るにあたって、官軍の西
 郷隆盛と会見して、江戸無血開城を成立させた。
  勝麟太郎義邦(安房守)、軍艦奉行、元治1年5月14日
 ~1年11月10日(氷川清話)
1864年6月17日、勝安房守と称する
  勝海舟、大阪城で軍艦奉行、作事奉行格、かつ諸太夫
 を命ぜられ、安房守と称す(氷川清話)
  勝海舟、神戸操練所取立海軍興起摂海警備等の事を委
 任される(氷川清話)
1864年6月19日、勝海舟、翔鶴丸に乗り換える(氷川清話)
1864年6月20日、勝海舟、大阪着(これは鎖港談判の内命)
 (氷川清話)
  鎖港(さこう、港を封鎖すること、特に、外国船の入
 港・交易を禁じること。
1864年6月、竜馬、江戸着。
  しばらく滞在した後、勝とともに下田へ
  活躍する場へ出て行く竜馬であったが、竜馬の出身母
 体である土佐藩は・・
  土佐藩は、頑固な佐幕派だった。
  土佐藩は、薩長土を並び称されるように勤王倒幕主義
 とされているが、内実は違う。
  藩主、家老、上使などの藩の上層部は、佐幕論者で、
 倒幕派は、すべて軽格連中であった。
  軽格連中は、天下に志を述べるには、まず、藩の上層
 部と闘わねばならなかった。
  そこに、幕末土佐藩の数多い悲劇が生まれた。(竜馬
 がゆく・2)
1864年7月2日、☆幕府が、海軍操練所を兵庫に設置した。
  勝海舟の建議した海軍操練所、そして、この海舟を助
 ける坂本龍馬(29歳)
  海舟の建議した海軍操練所が設置された。
  海舟は、幕府に出仕させるが、運営は自分の理念に基
 づいてやるつもりであった。
  竜馬は、小龍の薫陶を受けた土佐の同志を呼び寄せた。
  海舟は、幕府から3000両、竜馬に使いをさせて越前藩
 の松平春嶽から5000両を出させている。
1864年、勝海舟が、坂本龍馬に言うこと
  神戸の海軍操練兵所で、勝海舟は、坂本龍馬に「攘夷
 などは不可能、国防こそが大事、そのためには国を統一
 しなければならない」・・と、教え諭している。
1864年7月8日、☆池田屋騒動
  新撰組が、京都三条木屋町の旅館・池田屋を襲った。
  この池田屋に潜伏していた長州藩や土佐藩などの尊皇
 攘夷派を襲撃した。
  長州藩、土佐藩などの攘夷派の多数が、新選組に斬殺・
 逮捕された。
  新撰組は、京都守護職配下の治安維持組織。
1864年7月13日、☆井上聞多、伊藤俊輔の両人が、馬関戦争
 の報に驚き、遊学中のロンドンから帰朝した。
  緊急帰国した、オールコックの同意を得て、長州藩の
 攘夷中止の説得を試みるが、失敗した。
1864年7月、イギリスが、長州藩への攻撃を決定
  前年から行なわれていた長州藩の海峡封鎖に対し、イ
 ギリスは、攻撃と決定した。
   仏 蘭 米の3国に参加を呼びかけ、艦船17隻で連合艦
 隊を編成し、
  1864年8月5日~7日、英、米、仏、蘭4国連合艦隊が、
 長州藩の馬関と彦島の砲台を砲撃した。
  また、各国の陸戦隊が占領し、破壊した。
1864年7月、箕作秋坪、福沢諭吉が幕臣となる(氷川清話)
1864年7月、一橋慶喜、禁裏守衛総督となる(氷川清話)
1864年7月、諸侯参勤交代復旧(氷川清話)
1864年7月19日、☆徳川家茂、米15万俵を朝廷に献上。
1864年7月27日、☆久坂玄瑞、眞木保臣等、男山八幡に本陣
 を設けて勤王討幕の義旗を翻す
1864年7月29日、☆長州藩の家老・国司信濃、桂小五郎等を
 従えて山口を発途、京都へ向う
1864年8月2日、幕府が、長州藩征討令を下す。(第一次長州
 征伐)
1864年8月12日、☆佐久間象山、暗殺される。
 京都で、佐久間象山が浪士に斬られる(氷川清話)
 佐久間象山、開国論を唱え暗殺される。
  外国船が来て、それまでは、文化が花咲く日本であっ
 たが・・、
  攘夷だと言っているうちに、国中が戦乱の世となった
 ・・修羅の巷と化している・・
..
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