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2015年10月9日金曜日

(増補版)221D2/3:気になった事柄を集めた年表(1829年~1830年)

題:(増補版)221D2/3:気になった事柄を集めた年表(1829年~1830年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1829年、ギリシャが、オスマン・トルコ帝国から独立した。
  15世紀以来、ギリシャは、オスマン・トルコ帝国の支
 配下にあった。
  1821年2月、秘密結社「フィリキ・エテリア」が決起し、
 3月になると、ギリシャ本土で、「スパルタ・メッセニア
 軍団」がカラマタを占領した。
  反乱の火の手は拡大して行った。
  1821年~1829年まで9年間にわたるギリシャの独立戦争
 の結果、ロシアやフランスなどの支援もあり、1829年に、
 オスマン・トルコ帝国は、アドリアノーブル条約で、ギ
 リシャの独立を認めた。
1829年、写真機が発明された(1826年説あり)
  1826年に、ジョセフ・ニエプスが撮った「グラの家の
 窓から撮った景色」という風景写真がある。
  この写真が、現存する最古の風景写真とも言われてい
 る。
  ・・が、しかし、後年、このニエプスが、1825年に撮
 影した「馬を引く男」という題名の写真が見つかった。
  写真の定着に、世界で初めて成功したのがフランスの
 ニエプスだった。
  彼は、色々と実験を試みて来ていて、1822年~1824年
 の頃、アスファルトを感光剤に用いて、初めて、像の定
 着に成功した。
  そして、時を経て、日中の屋外でも8~12時間の露光
 時間であるが、また、ほとんどシルエットの様な画像で
 あるが、写真の様な画像が得られた。
  実用なものでは、まだまだ、なかった。
  1829年に、ニエプスは、1820年代半ばから独自に写真
 の研究を行なっていたフランスのルイ・ジャック・マン
 デ・ダゲールと、共同研究を進めた。
  そして、銀メッキした銅板に、ヨウ素を反応させた感
 光板を使う方法を考え出した。
  ダゲールは、1839年に、ダゲレオタイプという銀板写
 真を完成させている。
  ダゲールは、これを発売している。
  この写真機は、撮影時間が30分に短縮された。
  また、鮮明な写真を撮ることができる様にもなってい
 た。
1830年(天保元年)3月、おかげ参りが大流行
  この年の3月の下旬頃より始まった「お蔭参り」の流行。
  伊勢神宮への参詣は、14世紀末ころより、畿内を中心
 にして行われるようになっていたが、
  江戸時代になると、「お蔭参り」と称せられるように
 なり、全国に広がった。
  そして、1650年、1705年、1771年、そして、この年の
 1830年の4回が、特に、記録に残された大規模な参宮と
 なっている。
  正式な旅行手形が不要とされ、集団での参宮の発端は
 女性、子供から始まり、
  次第に数を増して行って、
  遂には、多数の老若男女の大きな集団の参宮となった。
  白い装束を付け、鏡、笛、鼓、太鼓などの囃子に合わ
 せて、念じる言葉をとなえて、伊勢神宮を目ざした。
1830年、薩摩藩が、三島の砂糖の惣買い入れ(砂糖の専売)
 を開始した(1829年説あり)
  三島は、大島・喜界島・徳之島で、
  薩摩藩は、500万両の借金返済に必死だった。
  荷抜きは死罪で、
  荷抜きとは、運送する荷物から一部をこっそり抜き取
 ることだが、
  この前年の1829年に、喜界島で荷抜きがあったため、
 この規定ができたのだった。
1830年、葛飾北斎(かつしかほくさい、浮世絵師)の「富
 嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」合巻が刊行
 された。
  富嶽三十六景は、錦絵で全46枚。
  富士山を題材にして、庶民の生活や風俗を活写した。
  1830年頃からの制作・出版だと推定されている。
  46図の中で、輪郭線が藍色で刷られているものが36図
 あるが、
  残りの10図は墨で、追加の出版とみられている。
  実際に、北斎は、関西への旅行をしており、この経験
 から、北斎らしい奇知(知恵)で、構図などがまとめら
 れた。
  追記:富嶽三十六景の初版は、1823年頃より作成が始
 まり、
  1831年頃から1835年頃にかけて、刊行されたと考えら
 れている。
1830年、三都講ができる。
  浪花講(なにわこう)の類似の講と言われている。
  浪花講は、街道の宿駅の風紀紊乱(びんらん)の悪い
 習慣(弊風・へいふう)の打破のために結成された旅宿
 組合の一つで・・、
  これは、大阪より諸国に下る商人を、浪花組に加入さ
 せて、旅行鑑札を渡し、
  諸街道で、誠実な宿屋を選んで、店頭には浪花組の招
 牌(しょうはい、看板のこと)を掲げさせた。
1830年、この頃、江戸で獣肉食店が流行した。
  一方、獣肉食の流行を、蘭学者の悪風として、肉食の
 反対論者も居た。
  肉食の禁忌もあり、また、薬喰いとも言われた。
  戦国時代末期のキリスト教宣教師は、よく食肉したが、
  そしてまた、フランス人が馬肉を嫌悪するごとく、日
 本人は牛肉、豚肉、羊肉を嫌悪したと記したが、
  日本人は、牛は農業に用いるから・・とした。
  1830年のこの頃に記された書によると、江戸初期に四
 谷で野獣肉が販売されていたとある。
  また、1818年~1845年の種々の書から抜き書きをした
 小山田与清(国学者)の書によると、
  小山田は、大の肉食反対論者であり、獣肉食の悪習が
 流行し、江戸が穢(けが)れていると記している。
  また、1832年~1836年に記された書によると、
  「山鯨」に、種々の獣肉鍋を供する店で、大いに飲食
 も行われていて、
  その「もんじ屋」は、盛況だと活写されている。
1830年、会席料理は、天保年間(1830年~1840年代)の頃
 に始まった。
  「なだ万」の創業は、1830年の日本料理の店。
1830年、吉田松陰が生まれた(1830年~1859年)、
  長州藩(宗家は萩藩)は、1763年に撫育方(ぶいくか
 た)という新組織(人材養成の組織。下級武士の登用の
 場でもあった)を創設した。
  そして、財政困窮の改善に取り組んだ。
  この組織は、下級武士の新しい生きがいともなって、
 貧困に意気消沈していた藩は、がぜん、活性化した。
  50石取りの軍学師範だった吉田松陰も、この様な組織
 から登用された。
  1851年に脱藩し、その罪で士籍を失った吉田松陰へも、
 藩主・毛利敬親(もうりたかちか)は、陰から温かい知
 遇(ちぐう、人格・能力などを認め、厚く待遇すること)
 を与え続けた。
  門閥や縁故のない松下村塾生たちは、松蔭の推薦によ
 って藩の役を与えられ、
  あるいは江戸遊学の機会を得た。
  登用された門下生の多くは、松蔭の死(1859年)後、
 志士として活躍したが、
  脱藩して、浪人となった他藩人とは違って、
  微禄であっても、長州藩に籍が置けた。
  それは、自由な行動を許す長州藩の体質で、信頼して
 いたからだった。
  また、藩主・敬親は寛大であった。
  この1830年の生まれの吉田松陰と、坂本竜馬(1835年
 生まれ)の二人・・、
  坂本家は、町人郷士で・・、
  高知城下でも指折りの裕福な商家であった。
  竜馬は、長兄と父子ほども年の違う次男坊で、恵まれ
 た環境の中で、ゆったりと屈託なく育った。
  これに対し吉田松陰は、長州の家禄26石の下士の7人
 兄弟の次男坊に生まれた。
  まさに赤貧洗うがごとき貧苦にさらされ、
  しかも、5歳で養子に出された。
  その養子の先は、藩の兵学師範だったから、古今の兵
 学を竹刀(しない)でうちすえられながら、厳しく叩き
 込まれた。
  一刻の猶予も許さぬスパルタ教育で、エスケープ(逃
 避)する自由なども無かった。
  幕末の革命家の二人の出発点は、この様に違った。
  故に、竜馬は、直線的・ラジカルに目標に向かった松
 蔭と違って、放物線的・しばし軌道から逸脱し・ゆった
 りと目標に近づいた。
  そこで、吉田松蔭のおおよそを記せば・・、
  松蔭は、叔父の吉田家を継いでいる。通称:寅次郎。
 松陰は号。
  1849年の19歳で、家職の山鹿流軍学師範となった
  1850年に、九州遊学。
  1851年、江戸遊学(佐久間象山に師事)を通じて国事
 への志が深まり、脱藩して罪を受けた(21歳)。
  1853年、江戸で再び佐久間象山に洋学を学び、海外渡
 航を決意した。
  1854年(24歳)、下田沖の米国軍艦に投じたが、自首
 して藩に幽閉された。
  1857年、荻の自宅に松下村塾を開く(27歳)、
  多くの門下生があり、久坂玄瑞、高杉晋作、前原一誠、
 山形有朋、伊藤博文など。
  1858年、幕府の安政の条約調印を怒り、攘夷討幕を企
 てて再び下獄(げごく、牢に入って刑に服すること)し、
  江戸に送られ、安政の大獄で死刑に処せられた。
  この日本の大偉人は、29歳の生涯だった。
1830年、大久保利通が生まれた(1830年~1878年)
  また、この年に、日本を作った大物の一人・大久保利
 通(おおくぼとしみち)が生まれた。
  政治家、薩摩藩出身、
  討幕派の中心人物、
  薩長同盟の推進者、
  版籍奉還や廃藩置県を敢行した。
  西郷隆盛らの征韓論に反対して対立した。
  参議・大蔵卿(おおくらきょう)・内務卿を歴任、
  明治政府の指導的役割を果たした人、
  そして、不平士族により暗殺された、
  「維新の三傑の一人」と言われる人。
1830年代、この年代から、オーストラリアは、イギリスの
 囚人の移送先から、
  原材料の供給地、あるいは、資本の投資場所へと変わ
 った。
  そして、政府が補助する移民も急増した。
1830年5月23日、この日に、インディアン強制移住法が、ア
 メリカ合衆国の下院で成立した。
  翌年の暮れから、移住は始まった。
  厳しい冬の集団移住は悲惨だった。
  アメリカの先住民のインディアンの方たちを、体よく
 片付ける方法となっている・・居留地へ物を片付けるご
 とくに扱った。
  アメリカ合衆国は、インディアンの方たちを、この方
 法で集め、片付けて行った。
  そして、その居留地が必要となれば、またまた、イン
 ディアンの方たちを、
  またまた、別の居留地に移動するなどという、
  インディアンの方たちの社会とか、コミュニティなど
 など、一切合切を知らぬ存ぜぬと、無視して、インディ
 アンの方たちを、まるで物を片付ける様に、非人道的に
 移動した。
  家庭なんてあったの? 
 家族なんてあったの?・・である。
  また、その移動の仕方が酷いため、移動中に多くのイ
 ンディアンの方たちは亡くなった。
  特に、体の弱い方、弱者の方々が、幼児が、ご老人が、
  そして、何と、1830年に、アメリカ合衆国のジャクソ
 ン大統領は、「インディアン強制移住法」を制定した。
  ミシシッピの東側に居たインディアンの方々が邪魔に
 なったのだった、
  この方たちを、ミシシッピの西のアメリカ中西部の辺
 境地に強制的に移住させる法律だった。
  そして、法律なのだから・・正義なのだ・・とした。
  このアメリカ合衆国・白人にとっての正義のこの法律
 によって、アメリカ・インディアンの方たちは、オクラ
 ホマ州への移住が、強制的に、合法という形で行われた。
  インディアンの方たちがいるミシシッピ東岸の地(現
 在のジョージア州北西部、テネシー州、アラバマ州北部)
 は肥沃で、白人のアメリカ人は欲しがった。
  アメリカ合衆国政府は、度々、インディアンと条約を
 結び、インディアンの居住権を保証したが、現実には、
 守る事はなかった。
  インディアンの方たちに「つけ」で生活物資を買わせ、
 費用を払えないとその代わりに土地を取り上げるという
 形で・・、
  実質的には、インディアンの方たちを追い立てた。
  また、宝くじを使ってインディアンの方々を追い立て
 た。
  それは、ジョージア州政府がやったことで、
  「チェロキー・ランド宝くじ」を作って売った、
  まだ、インディアンの方たちが生活をしているのに、
 出て行く予定だと、チェロキー・インディアンの方たち
 の土地を宝くじの景品にした。
  当選した白人は、まだ出て行かないインディアンの方
 たちを追い立てた。
  チェロキー・インディアンの方たちの移住は、1838年
 9月から1839年3月にかけて、
  アメリカ東南部のジョージアから、ミシシッピを越え、
 はるか西部のオクラホマまでの1300キロの距離を、長い
 長い距離を、遠い遠い所へ1万3000人を1000にんずつの
 13グループに分けて実施された。
  幌馬車が1グループに50台、一人に毛布1枚が支給され、
 食糧調達のために66ドルが支払われた。
  しかし、その食料を与える白人は、値段を不当に吊り
 上げた。
  そのわずかなお金は、たちまち、底をついた。
  インディアンの方たちは、寒さと飢えで、次々に病に
 罹った。
  それも、非情な事に、「80日間で移動せよ」とされて
 いたので、病気の人が居ても、留まることが出来なかっ
 た。
  病気の人を置いて移動しなければならない状況も生ま
 れた。
  やむを得ず、家族であっても、体の弱い方々を置いて
 行くという事がなされた。
  これで4分の1のインディアンの方々が・・悲惨な事に、
 命を落とした。
  肺炎で死んだ人も多かった。
  この道を『涙の旅路(The Trail of Tears)」と・・
 インディアンの方たちは言った。
  1839年3月になって、やっと、インディアンの方たちは、
 オクラホマに着いた。
  テネシー州を越え、ミシシッピー州を越え、アーカン
 ソー州を越える・・家族が亡くなる、死の旅路だった。
  長い長い死の旅路だった。
  ユネスコの世界記憶遺産に登録すべきだ。
 ..
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2015年10月8日木曜日

(増補版)220D2/3:気になった事柄を集めた年表(1828年~1829年)

題:(増補版)220D2/3:気になった事柄を集めた年表(1828年~1829年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1829年(文政12年)1月、大奥の生活を風刺した柳亭種彦作・
 歌川国貞画の「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげん
 じ)」初編が刊行された。
  国貞の絵と共に非常な人気だった。38編152冊、
  源氏物語の世界を室町時代に移して翻案したとしたが、
 将軍・家斉の大奥を書いたとされて、絶版を命じられた、
 ~1842年まで。故に、39編と40編は未刊となった。
1829年3月21日、文政の大火
  神田佐久間町河岸(現在の千代田区)の材木小屋より
 出火し、西北の強風にあおられ、日本橋・京橋・芝の中
 心部を焼失した。翌朝に鎮火した。
  焼失面積は、幅2.2キロ、長さ4キロ、大名屋敷73、旗
 本屋敷130、町屋3万軒、舟や橋も多数焼失した。焼死者
 2800余名。
  佐久間町火事とか、己丑大火とかと言う。
  佐久間町一帯は材木商とか、薪商が多かった。
1829年5月、松平定信(まつだいらさだのぶ)が没した(72
 歳)、寛政の改革の推進者。
  8代将軍の徳川吉宗の孫。
  陸奥(むつ)白河藩の藩主の時、天明の飢饉で領民が
 困窮していた状況を救うため、上方(京阪地方)から食
 糧を緊急に運び入れて救った。
  また、飢饉によって崩壊に瀕していた藩の財政も立て
 直したりして、名君と言われた。
1829年6月、近藤守重(こんどうもりしげ、重蔵、北地探検
 家)が没した(59歳)
  国後島・択捉島を探検した。
  択捉島に、日本領土だと明示する「大日本恵土呂府」
 の木標を建てた。
1829年6月、幕府が、南鐐一朱銀(文政一朱銀)を鋳造した
 (7月から通用開始)
1829年7月、幕府が、真文(しんぶん)二分判を、草文二分判
 (そうぶんにぶばん)に引き替えるよう命じた。
1829年10月、伊藤圭介(いとうけいすけ、植物学者、医師)
 が訳述した「泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)」
 が刊行された。
  伊藤圭介は、日本最初の理学博士で、
  1887年に、名古屋藩医となっている。
  生没年は1803年~1901年で、明治14年に、東京大学教
 授になっている。
  泰西本草名疏は、4卷3冊で、シーボルトからもらっ
 たC.P.ツンペリーの「日本植物誌」に和名を付した。
  日本に初めて近代的な植物分類法を紹介した意義ある
 著と言われている。
1829年11月、4代目鶴屋南北(つるやなんぼく、歌舞伎作者)
 が没した(75歳)
  「東海道四谷怪談」の著作者。
1829年11月、水野忠暁(みずのただあき、園芸家、幕臣)
 が、「草木錦葉集」を刊行した。
  草木錦葉集は、斑(ふ)入りの植物を挿図で説明・集
 成し、この他にも草木の奇品図集を紹介して有名。
  園芸技術と変異研究が進歩していた。
  また、世は、草木の珍種鑑賞が盛んだった。
1829年、勝海舟が城に上り、初之丞君の学友となる(第12
 代将軍家慶公5男)(氷川清話)
  勝海舟の自伝の氷川清話には、以下の様な事が書かれ
 ている。
  文政12年(1829年)のこと、大奥へ奉公していた父方
 の親類の阿茶の局の紹介で、江戸城の見学の機会を得た
 勝海舟だった。
  この時、偶然、11代さま(11代将軍・家斉)の目に留
 まる。
  そして、孫の初之丞の学友に良いと思われたのか?抜
 擢された。
  それから2年間、大奥で初之丞様と寝食を共にし、将来
 の夢が開けて来ていた。
  その間、一旦、修行や学問、剣術修行などで、江戸城
 を辞したが、
  剣術修行の帰りに、犬に噛まれて大けがをし、九死に
 一生という状況に、
  この時は、遊び癖のあった父も、寝ずの看病をしてく
 れたという。
  70日間くらいで治り、九死に一生を得たと海舟は言う。
  そして、病も治ったので、初之丞様の元に出仕しよう
 としている矢先の、天保9年(1838年)、初之丞様は病で
 亡くなってしまった。
  海舟の栄達の道は消えた。
  この時の父親の落胆・嘆きは、大きかったという。
  海舟の父親は悲観して隠居したくらいだった。
  そして、海舟が家督を相続して、小普精組40俵をも
 らうことになったという。
1829年、西周(にしあまね、啓蒙思想家、哲学者)が生ま
 れた(1829年~1897年)
  石見(いわみ)国(島根県)津和野藩医の子として生
 まれる。
  若くして朱子学を学び啓発され、ペリー来航に際して
 蘭学や洋学の必要性を悟る。
  脱藩して、1853年に、江戸に出て、
  1857年に、幕府の蕃書調所に出仕し、蕃書調所教授手
 伝並となり、蘭学を学び、英学を杉田成卿らに学び、
  幕府留学生として、1862年に、オランダに留学し、哲
 学・法学・経済学などを学んだ。
  幕末、徳川慶喜の政治顧問となった。
  維新後は、明治政府に招かれ、兵部省(のち陸軍省)
 や文部省に勤務し、山形有朋のもとで軍制の整備にあた
 り軍人勅諭の原案を起草したりした。
  新しい時代の青年を教育するために学問全体の統一的
 理解をする事の必要を感じ、著書「百一新論」も書いた
 りした。
  学問全体の統一科学の試みを「哲学」と称し、この用
 語を作ったのはこの人、この他にも、帰納とか、定義と
 か、属性、実体、命題、演繹、感性、悟性、理性、観念
 などの用語も作った。
  貴族院議員にもなった。
  日本最初の西洋哲学者と言われ、また、日本近代哲学
 の父とも言われる。
  西周で特異な点は、徳川慶喜と密接な状況になってい
 る折り、
  この時点において、大政奉還について、幕府内部では、
 新たな政権構想が検討されていた。
  西周は、その立場から関係し、
  構想は、ヨーロッパの三権分立の政治形態の形をとり、
  諸大名領はそのままとして、各藩それぞれの領国内の
 政治や立法を認め、
  軍事権は、当面は諸大名が持つが、数年後は〈大君〉
 の中央政府へ統轄されるものとしていた。
  そして、この〈大君〉には慶喜がなり、
  各事務府の人事権は〈大君〉が握って、行政府の長と
 しての〈大君〉は、上院の議長でもあって、下院の解散
 権を持つ。
  両院で食い違いが起きた時の裁定権も、一手に掌握す
 ると規定していた。
..
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2015年10月7日水曜日

(増補版)219D2/3:気になった事柄を集めた年表(1828年~1828年)

題:(増補版)219D2/3:気になった事柄を集めた年表(1828年~1828年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1828年(文政11年)、日本の総人口 27,201,000人(公家・
 武家・陪臣を除く)
1828年2月、幕府が、諸国に人別帳(人口調査帳)の提出を
 命じた。
1828年2月、小西篤好(こにしあつよし、農事改良家)が、「
 農業余話(のうぎょうよわ)」を刊行した。
  篤好は、庄屋の家に生まれ、
  15歳の時から10年間、京へ遊学し、儒学・国学を学ぶ、
  帰郷して農業と村政に励むかたわら、農書を独学し、
 各地の老農をたずねて、農業の知識を蓄積した。
  そして、農作物の品種改良に努めた。
  各藩に招かれ、農法を講義した。
  農業余話は、60歳後の著作であるが、作物栽培、肥料、
 除草などの原理を論じ、それまでの体験などを基礎とし
 た。
  米、麦、綿、菜種、蔬菜、果樹などの栽培法、家畜飼
 育法などを論じ、農書として初めて、米のイモチ病も論
 じている。
  出版は好評で、篤農家として名声も高まり、各地で農
 事を講じ、書は広く読まれた。
1828年4月、幕府が、関東諸村の組合仲間を取り締まるよう
 命じた。
1828年6月、子年の大風(ねのとしのおおかぜ)
  この台風によって、シーボルト事件が発覚した。
  大風雨(台風)により、東海・北国・西国の諸河川で
 洪水がおこり、被害が563万石余に及んだ。
  九州地方や中国地方が大被害となる台風だった。
  有明海・博多湾などが高潮となり、佐賀藩だけで死者
 1万人となり、九州北部の全域で死者が約1万9000人とな
 った。
  この台風によって、当時、日本に滞在中だったドイツ
 人学者・シーボルトの乗った船が座礁し、
  この船の修理の際に、積荷の内容物が調べられたこと
 で、日本地図の国外持ち出しが発覚して、シーボルト事
 件に至った。
1828年10月、天文方兼書物奉行の高橋景保らが、秘かに地
 図などをシーボルトに与えた罪で捕らえられた。
1828年11月、幕府が、京都所司代の水野忠邦(みずのただ
 くに)を、西の丸老中に任命した。
  水野忠邦は、唐津藩主から浜松藩主へ転封となり、大
 阪城代・京都所司代などを経て老中となった。
  将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)に信任されて、
 天保の改革を行なう。
1828年11月、酒井抱一(さかいほういつ、画家、俳人)が没
 した(68歳)
1828年11月、幕府が、二分判金を増鋳した(草文二分判・
 そうぶんにぶばん)
  量目は真文二分判と同等であるが、品位はさらに下げ
 た。
1828年11月、幕府が、翌年からの5年間の倹約を命じた。
1828年12月、幕府が、肥前藩へ秋の大雨(シーボルト台風)
 による損害と、長崎警備のために1万両を貸与した。
1828年12月、岩崎灌園(いわさきかんえん、本草学者)が、
 江戸で、日本最初の植物図鑑である「本草図譜(ほんぞ
 うずふ)」を完成した。96巻、(1830年説あり)
  約2000種の植物を写生し、彩色し、山草・湿草・毒草
 に分類したもの。
1828年、曲亭馬琴(きょくていばきん、戯作者)が、読本
 「近世説美少年録(きんせせつびしょうねんろく)」の
 第1集を刊行した(未完結)(1829年説あり)
  大内義隆を滅ぼした陶晴賢と、毛利元就に擬せられた
 悪と善の二人の美少年の物語。
1828年、香川景樹(かがわかげき、桂園派の歌人)の歌集
 「桂園一枝(けいえんいっし)」が刊行した。
  983首が収められている。
1828年、松平慶永(まつだいらよしなが)が生まれた。
 (1828年~1890年)
  福井藩主で、日米修好通商条約の無断調印に抵抗し、
  また、第13代将軍・徳川家定の将軍の継嗣(けいし、
 跡継ぎ)問題では、一橋慶喜を推した。
  島津斉彬(薩摩藩)や、伊達宗城(宇和島藩)や、山
 内容堂(土佐藩)らとともに幕府主流派と対立した。
  1858年に、大老・井伊直弼の日米修好通商条約調印と、
 将軍継嗣決定に強く抗議し、対立し、安政の大獄で、共
 に動いた大名たちとともに処分を受け、隠居・謹慎が命
 じられた。
1828年、江戸「町方書上(まちかたかきあげ)」が作られ
 た。
  文政年間に作られたので「文政町方書上」とも言われ、
  幕府の「御府内風土記」の編纂事業にあたり、江戸の
 各町の由来や現況について、
  町名主に提出させた書類を合冊した。
1828年、東京・六本木の名の由来
  地元の名主が、幕府に差し出した公式文書「文政町方
 書上」には、
  「昔、古木の松が6本あった」と記されている。
  その前に出された書物「十方庵遊歴雑記」では、上杉、
 朽木、高木、青木、片桐、一柳の6大名の屋敷が集まった
 ためと説明されている。
  また、この辺りに住んでいた侠客(きょうきゃく)を
 「江戸六方」と呼び、意気地を通す意味で「六方気」と
 呼んでいたのが、「六本木」に変わったとする説がある。
1828年、鈴木牧之(すずきぼくし、文人)が、信越国境を
 探訪して、翌年に「秋山記行(あきやまきこう)」を完
 成した。
  現代の民俗学の調査の様なもの。
  方言、衣食住、生産、信仰、村人の社会経済関係など、
  また、人々の動作や態度に及ぶ、きめ細かな観察が記
 されている。
  川漁、狩猟、焼畑、着衣など地方の特徴的な生活をも
 書かれている。
  民俗誌の先駆的な業績として評価されている。
1828年、ナポレオンのエジプト調査の「エジプト史」が成
 った。
  1798年のナポレオンが同行させた調査団の学者集団は
 167人で、
  3年に渡たるエジプト滞在の間、エジプトの遺跡や遺物
 の調査、地理、地質、歴史、風俗習慣に至るまで、細か
 い調査を行った。
  各専門家による調査報告書、絵画の模写で、絵画は、
 膨大な量となり、
  ナポレオンは、これ等の資料を集めて、書物にするこ
 とを学者たちに命じた。
  本文9巻、図版12巻からなる「エジプト史」が完成した
 のは1828年の、ナポレオンの死後7年目だった。
..
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2015年10月6日火曜日

臨時ブログ:石破派の自民党議員の皆様へ

石破派の自民党議員の皆様へ
 拝 啓
  御活躍、ありがとうございます。
  岐阜県の八百津町が、日本を貶める行為をしようとし
 ています。
  八百津町は、ユネスコ記憶遺産の登録申請をいたしま
 した。
  この申請の主旨は、戦時中に、日本がユダヤ人を迫害
 していたが、その日本の方針に従わず、その戦時中に、
 杉浦千畝という大使が、ユダヤ人を助けたという話を作
 り上げて申請をしています。
  日本は、ユダヤ人の方々を迫害などしていません。
  逆に、手を差し伸べて、助ける行為をしていました。
  杉浦千畝大使はキリスト教徒で、最初、キリスト教が
 この話をでっち上げました。
  石破茂議員は地方創生大臣ということで、この八百津
 町を盛り上げようと、この話を盛り上げたのでしょうが、
 この話は嘘の話です。
  また、日本を貶める事によって、杉浦千畝大使を素晴
 らしい立場に持ち上げるという論理・筋立てとなってい
 ます。
  日本を貶めてまでして、嘘の話をでっち上げてまでし
 て、八百津町を盛り上げる話は『正しい行為(正義の行
 為)』ではありません。
  また、石破議員はキリスト教徒という事で、この申請
 の後押しをしたと考えられますが、韓国の慰安婦問題と
 同様な「日本のユダヤ迫害」が世界に申請され、そして、
 認識され、この嘘を確定しようとする行為は、断じて阻
 止して戴きたくお願い申し上げます。
  下記は、小生のブログに記載した文です。
  是非、御一読賜わりますようお願い申し上げます。
                   敬具
.
ーーー小生のブログ記載文ーーー
.
臨時ブログ:岐阜県の八百津町が日本を貶(おとし)める行為をしようとしています。
  日本は、ユダヤの方々を迫害などしていません。
  逆に、手を差し伸べ、助ける行為をしていました。
  (真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑記)
拝 啓、
  岐阜県八百津町が、世界に誤解を与える行為をしようと
しております。
  日本が、ユダヤの方々を迫害していたという論調です。
  それ故、杉浦千畝大使がユダヤの方々を救ったという
論調です。
  その論調でユネスコの記憶遺産に登録しようとしており
ます。
  これは日本を貶める行為です。
  嘘の申請行為です。
  日本を貶めるこの嘘の行為で、また、日本がバッシング
に遭う危惧を持っております。
  是非、本行為を止まらせるためにお力をお貸しください。
  下記は、八百津町へ送信した文です。
  是非、御一読賜わり、お力をお貸し戴きたく、お願い申
し上げます。
                                     敬 具
 追伸:キリスト教は、杉浦千畝が、キリスト教徒という
  事でこの事をでっち上げました。
   この話は、キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)
  です。

ーーー(岐阜県八百津町への送信文)ーーーー

岐阜県八百津町 町長殿
  拝 啓
  貴方は、第2次大戦中に、ビザを独自の判断で発給し、
 多くのユダヤ系避難民を救った外交官・杉原千畝関係の
記録である「杉原リスト」で、ユネスコ記憶遺産の登録
 を得ようとの申請をなされました。
  しかし、これは、間違った申請です。
  また、嘘の申請です。
  デッチ上げと言われる申請となっています。
  公的機関としての貴市の行為として、正しくありません。
  是非、すぐに、申請を取り下げて戴きたくお願い申し上
げます。
  真実だという裏付けを持っていらっしゃるのでしょう
か?
  公的機関として、この申請行為で被害を受けた方の
万一の訴訟の提起でも、正しいのだとの証拠と論理をお
持ちなのでしょうか?
  小生の得ている情報からの判断では、当時は、アメリカ
もこの様なユダヤの方々へのビザの発給はしていましたし、
イギリスも行っていましたし、また、日本も行っていまし
た。
  明らかに貴市の申請は間違っております。
  明らかに貴市の申請の前提は崩れて居ります。
  貴市の行為は、少なくとも一般大衆の方々への誤認混同
を起こす不誠実な行為となっています。
  不誠実な行為を行なっています。
  ユーチューブでも、大使をなされていた方・馬淵睦夫
さんが、当時は、日本はユダヤの方々にビザを発給する
事を止めていた訳ではなく、
  また、杉浦千畝大使以外の大使の誰でもが、ユダヤの
方々へのビザの発給はしていましたと言われています。
  杉浦千畝大使だけがしたという特別な行為ではありま
せん。
  また、ナチスの迫害を受けていたユダヤの方々が、満州
へ逃げて来た時に、日本はその逃避して来たユダヤの
方々を、受け入れている史実があります。
  (当然、日本は、日本本土にユダヤの方々を受け入れて
おります)
  また、日本がユダヤの方々の迫害をしていたという史実
はありませんし、
  逆に、ユダヤの方々への迫害をしていなかったという
史実は沢山あります。
  韓国などででっち上げられている戦時中の慰安婦の問題
などと同じく、貴市の行為は、「日本がユダヤの方々を迫
害していた」という事実と反する事になり、杉原千畝のこ
とを美しく言う面とは逆の面が、その嘘の面が、世界に晒
されることになります。
  日本を貶める行為はしないで戴きたくお願い申し上げ
ます。
  公的な立場である貴市は、特に、この様な、嘘行為は
止めて下さい。
  すぐに、申請は取り下げて下さい。
  貴市の行為は読売新聞(2015・9・25)で知りました。
              敬 具
..
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2015年10月5日月曜日

臨時ブログ:アメリカは、まったく同じことをしている。イギリスと同じ悪を、TPPでやっている。

臨時ブログ:アメリカは、まったく同じことをしている。イギリスと同じ悪を、TPPでやっている。
  (真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑記)
.
  アメリカ人の作家の言葉:
  「おそらくは、世界が始まってこのから、いかなる投
 資と言えども、
  イギリスのインドの掠奪から得た様な利潤を生みだし
 た試しはない」・・と。
  何と、イギリスは、インドで、インドの市場から、イ
 ンド製品を締め出した。
  何と、インドの方々は、自分の国・インドから、自分
 たちのインドの方々の製品が、他国のイギリスの手によ
 って締め出されてしまった。
  イギリスは、無税にさせた自分の国のイギリス製品を
 市場に、氾濫させた。
  あらゆる手を使い、様々な手段で、インドの方たちの
 産業を妨害し、潰した。
  イギリスは、インドの方々の政治を、自分のもののよ
 うな状況にして、
  インドの地で、「インド製の絹製品の着用を禁止する
 法律」を出させた(インド製のものをですよ)。
  違反した場合には、目の飛び出る様な大金の罰金(200
 ポンド)を支払わさせた。
  そして、キャラコも、同じ様に、着用する事を禁止に
 した。
  その根には、自国の製品だけを、インドの方々へ売り
 付けて儲けたいというイギリスが居た。
  それでなくても、イギリスの機械生産に対抗する事が
 大変になったインド産業は潰された。
  アメリカが、今、TPPで、関税がゼロ(0)が正義なの
 だと、
  「自分に都合の良いことは正義なのだ」と主張する。
  まったく勝手な論理で、世界を自分の(アメリカの)
 好き勝手に操っている。
  まったく不正義な行為をやっている。
  インドは、この面でも、イギリスに駆逐された(武力
 でも駆逐されたが・・)。
  イギリスは、この面でも、美味しい利潤の汁を、イン
 ドの方々から吸った。
  18世紀までは、インドは、綿の大産出国だった。
  また、綿製品の大輸出国だった。
  ・・が、完全につぶされてしまった。
  19世紀半ばには、インドは、完全な綿製品の輸入国に
 転落してしまった。
  1780年の、イギリスの、インドへの輸出額は、40万ポ
 ンド強であったが・・、
  そのイギリスが、1850年の、その70年後には、なんと
 その20倍以上の、802万ポンドの輸出をインドへ行った。
  イギリス製品が、インドへ押し寄せた。
  そのほとんどが、インドから奪った綿製品であった。
  イギリスが、法を繰って、自分に都合の良い仕組みを、
 インドに作ったからだった。
  今、アメリカが、やっているTPPの様な事を、イギリス
 は、既に、2世紀も昔にやって、美味しい利潤の汁を吸っ
 ていた。
  国力の強さを誇示して、弱いインドの方々を虐(しい
 た)げて・・、
  強いイギリスの国力を誇示して、美味しい汁を吸って
 いた。
  今のアメリカのTPPだって、同じ事をしている。
  アメリカは、強い国を誇示してやっている。
  インドでは、こうして、職を失い、路頭に迷い出た幾
 千万の職工や職人は、餓死するという状態となった。
  1834年、ベンティンクは、「商業上、このインドの惨
 状にくらべ、この様な惨状なものは、すべてものは、ほ
 とんど見いだせない。
  綿職工たちの骨が、インドの平原を白色にしている」
 と言った。
  機織りの町として栄えたダッカなどの町々や、多くの
 都市から、機織り機の音が消え、人々も消えた。
  人口は激減した。
  その荒廃は悲惨だった。
  イギリス人パームダットは、「最も破壊的な戦争、あ
 るいは外国の征服者がもたらす、破壊の猛威でさえも、
 到底および難いほど(イギリスの破壊は)徹底したもの
 であった」と言った。
  イギリスのの悪辣行為で、悲惨なインドの状態を見て
 パームダットは言った。
  すべてが、インドのすべてが、イギリスの好きなよう
 にやられていた。
..
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