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2013年9月6日金曜日

経時劣化をしています。

 題:経時劣化をしています。
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は、経時劣化をしています。
 その1例が、「モーゼの十戒」で分かります。
 「モーゼの十戒」には、モーゼの言葉ではない言葉が入
っているという。
 また、モーゼの言った言葉は、ほんの一言・二言で、
 その言葉に、後の人たちが、書き加えたり、削ったりと
やってきた。
 びっくりするぐらいに長いものもある。
 最近、「魔女は生かしておいてはならない」を言わない
ことが多い。
 あまりにも、酷(ひど)こと、まずいことと感じている
からなのだろう。
 最近、キリスト教は逆に魔女観念を美しく見せる様な活
動をしている。
 過去に、実に多くの女性が殺されたが、これを「『負の
人類の遺産』として大切にしなければならない」のに、
 また、そうして差し上げねば、キリスト教に殺された、
あまたの女性が浮かばれないのに。
 魔女を安易に扱うことは慎(つつ)まなければならない。
 やはり、「モーゼの十戒」のこの部分は、宣教上、現代
では、当然、受け入れられないので削っているのだろう。
 モーゼの宣教の心と、当然、変わって対応しているとい
う現代、モーゼの精神とは違っている。
 「モーゼの十戒」が、現代の指針となっていないことを
示す1例。
 キリスト教は、この1例が示す様に、すべてで、カメレオ
ンの如くに変わっている。
 例えば、また1例をあげれば、第10項の「あなたは隣人
の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はした
め、牛、ロバ、また、すべて隣人のものをむさぼってはな
らない」。これが変わっている。
 「『隣人の妻』をむさぼる」は浮気の行為。この行為の
戒(いまし)めが恰好悪いと感じたのか、
 「隣人の妻」以下をカットして表示される場合が、ほと
んどとなっている。
 人前に出せないというところ、この削除も、経時の劣化
(時とともに劣化・劣った)その戒めを見せない様にして
いる行為。
 「しもべ・はしため」も「浮気対象のむさぼり」が含ま
れる。
 当時は、現代では想像ができないくらいに社会が乱れて
いた。
 また、宗教自体が、現代の倫理観ではびっくりするくら
いな破廉恥な状況だった。(エルサレム神殿に娼婦・娼夫
がいるとか、一生に一度は、町の普通の民の女性も、神殿
で、見ず知らずの男に、身を任せなければならないとかを、
神から強要されていたとか・・など)。
 「モーゼの十戒」は、あまりにも社会が乱れているので
神の言葉として出た。
 そうしなければ人々が守らない状況でもあったから。
 第7項の「姦淫してはならない」も、然(しか)り。
 社会のあまりにも酷(ひど)い乱れを映している。
 この様な、余りにも乱れに乱れている社会への戒を、こ
の現代に持って来ようというのは、TPO的にも「アウト」。
 まったく、ずれております。
 「モーゼの十戒」から、現代社会に、何か役に立つ話が
出て来るのか?
 「何もないでしょ」。
 宣教の理由は、何もないでしょう。
 第6項の、「殺してはならない」も最悪。
 あえて、言われるまでもないこと。
 この「モーセの十戒」も、他のキリスト教の資料と同じ
く、後世の人たちが色々といじくっているが、
 付けくわえたりしてきているが、
 第4項の「安息日の戒」も酷い状況になっている。
 あまりにも長すぎる。
 一目でモーゼではないと分かる。
 「安息日を覚えて、これを聖とせよ。6日のあいだ働い
てあなたのすべてのわざをせよ。7日目はあなたの神、主
の安息であるから、あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、
はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人も
そうである。主は6日のうちに、天と地と海と、その中の
すべてのものを造って、7日目に休まれたからである。そ
れで主は安息日を祝福して・・(あまりに長いので略す)。
 これは、500~700年後に付け加えられたことがはっき
りしている。以下、略す。経時劣化をしています。
.
 (参考)経時劣化(けいじれっか)=経年劣化。けいね
ん‐れっか〔‐レツクワ〕【経年劣化】.[名](スル)年月が
経つうちに製品の品質・性能が低下すること。
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  (詳しくは、以下のブログへ)
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URL: http://32983602.at.webry.info/

2013年9月5日木曜日

『これからの人類共通の幸せ』が、生まれるはずがない。

題:『これからの人類共通の幸せ』が、生まれるはずがない。
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の生まれた地、砂漠の地は、
 何一つない地だ。
 万物を焼き尽くす太陽と、
 何ものをも育てる事の出来ない「灰色の大地」だけが
                      ある。
 「 神が天上にあると叫び、
       人びとは大地におののき ひれ伏す 」
 「 神は嫉(そね)む神なり、
    われを憎む者にむかいては、
     父の罪を子にむくいて、3,4代に及ぼす 」。
 景色の手掛かりとなるものは、
             何もない。
 戦闘によって糧を得る事を、
             営みの中に入れている
 戦闘的な絶対唯一神を奉(ほう)じる理由は、
             この自然の環境から来る。
 また、この環境だからでもあるのだ。
 故に、この環境以外の場合には、
     『存在してはならない教え』となっている。
 この地の宗教は、
  神の似姿(にすがた)をつくる事を禁ずることも、
   手がかり一つないこの自然から来る事なのだ。
 木々は緑に、山は美しいという自然とは、
                訳が違うのだ。
 美しい自然に取り囲まれた、
   自然の一つ一つに、
     神の姿を見い出す、日本の自然は、また、
 それが当り前の、当然で 自然の事。
 砂漠の神、妬(ねた)みの神、嫉(そね)みの神は、
   全身全霊をあげて、
     自分につかえる事を人々に要求し、
 その代わり自分も、
   『反対給付』として、恵みを与える事を約束する。
 その上、キリスト教の神を信じたキリスト教の信徒は、
 「神に生殺与奪(せいさつよだつ)の権利を
                 握られている」。
 キリスト教の神は、
   信徒の信を要求し、
     信徒が約束どおり、忠誠をつくした場合に、
       恩恵を与えるという神。
 砂漠の地は、色々な民族が錯綜(さくそう)した。
 それ故、種々の同盟や契約が結ばれた。
 このことが、キリスト教の教義になった。
 新約の宗教となった。
 ただただ、環境条件から来たことなのだ。
 (「民数記略」31章)に、他民族と争って、神は言う。
 「男と寝て男しれる女を、ことごとく殺せ。ただし、今
だ男と寝て男しれる事あらざる女児は、これを汝らのため
に生かしおくべし」。
 (「レヴィ記」20章)に、
 「女もし獣畜に近づき、これと交わらば、その女と獣畜
を殺すべし・・・(この様な、記述が続く。何らためにな
らないので、以下を略す)」。
 倫理的に、こんな聖書を読んで良い訳がない。
 当時の、古代の社会環境なら、役に立ったのかもしれな
いが・・。
 娼婦、娼夫がエルサレムの神殿に巣食っていた。
 また、一生に一度は、一般の市民の女達も、神殿に行っ
て、見ず知らずの男に、身を任かせなければならないと、
神は民へ強要した。
 こんな環境から生まれた宗教。
 古代のそのままが、今・現代に持ち込まれている宗教。
 その古代のことが、そのままに記述されている宗教。
 ここから、未来の人類の幸せが、世界共通の幸せが、生
まれるはずがない。
.
 (参考)せいさつ‐よだつ【生殺与奪】 生かしたり殺した
り、与えたり奪ったりすること。他人をどのようにも思い
のままにすること。「―の権を握る」
 (参考)『民数記』(みんすうき、ヘブライ語: במדבר‎、
英語: Numbers)とは旧約聖書中の一書で、伝統的に四番
目に置かれてきた。モーセ五書のうちの一書。イスラエル
の民の人口調査に関する記述があることから、七十人訳聖
書では『アリスモイ』(数)と呼ばれ、そこから民数記と
いう名称が生まれた。ヘブライ語では冒頭の語から『ベミ
ドバル』と呼ばれるが、これは「荒れ野に」という意味で
ある。物語は出エジプトの出来事から二年二ヶ月後に始ま
り、ヨルダン川にたどりつくのが40年目であるとしている。
 (参考)『レビ記』(ヘブライ語: ויקרא‎、英: Leviticus)
とは旧約聖書中の一書で、伝統的に三番目に置かれてきた。
モーセ五書のうちの一書。ヘブライ語では冒頭の言葉から
「ワイクラー」と呼ばれるが、これは「神は呼ばれた」と
いう意味である。内容は律法の種々の細則が大部分を占め
ている。
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URL: http://32983602.at.webry.info/

2013年9月4日水曜日

キリスト教の権威付け

 題:キリスト教の権威付け
...(真を求めて、皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は、教勢を拡大したいと、
 そして、それと共に必死になって「権威を付けたい」と
した。
 その為の、あらゆる行動を節操無くした。
 そこに、『神を畏れよ』のキリスト教の教義があるが、
 その教義に災いされ、
 『民を死に至らしめる行為』をキリスト教はした。
 民を殺すことによって、民を畏れさせ、そこにキリスト
教の権威が生まれるとキリスト教は考えた。
 まったく、『非人道的』な、『大罪行為』である。
 死を畏れるだけの民を・・。
 その姿に、キリスト教の権威があると、生まれたと、キ
リスト教の聖職者たちは考え、そのキリスト教の教義の行
為をした。
 その為の死を民に強いた。見せしめの死もあった。
 それ故、聖書も権威ある形へ、意味ある形へと、なって
行くとキリスト教は考え、思っていた。
 ある1例、聖書解釈・・・、
 (「マルコによる福音書」6・45~52)に、
 文脈はまったくつながらないのだが、以下の様なあらす
じの事が書いてある。
 『イエスが、弟子たちを舟に乗せ、向こう岸へ行かせる。
その間、イエスは群衆を解散させる。そして、山へ登る。
夕方になると、(弟子たちの)舟は湖の真中にいた。イエ
スは陸にいた。風が吹いて、舟を漕ぐのが難しくなった。
それをイエスが見て、夜が開けると、イエスは水の上を歩
いて、弟子たちの所に来た。そばを通り過ぎようとした。
弟子たちは水の上を歩くイエスを幽霊だと思った。そして、
大声で叫んだ。弟子たちはおびえていた。イエスは弟子た
ちと話をし、『安心しなさい。わたしだ。恐れるな」と言
った。イエスが舟に乗ると風は止み弟子たちは驚いた。パ
ンの事が理解せず、心が鈍っていたからだ」・・・と、マ
ルコは書く、これが記述のポイントである。
 聖書研究者は、これは「民間説話からとられた」と言う。
 そして、「水の上を歩くと奇をてらった話は他の宗教に
もあること」と言う。
 それにしても、脈絡がつながらない話だ。無駄な動きも
多い。
 ここをキリスト教聖職者は、意味あるものなのだと言う。
これが仕事と言えば仕事なのだが・・。
 例えば、弟子たちを舟に乗せる時に、「強いて」という
言葉が書いてあると・・この『強いて』に意味がある・・
と言う。
 弟子たちを「励まし」、「試みさせているのだ」と言う。
 そしてまた、「山へ登った」という事に対して、すぐ思
い出される有名な話。
 「モーゼが山へ登って神に会い。神と契約をした話」を
持ち出す。
 「この時、イエスは山に登って神と契約したのだ」・・
と。
 しかし、こんな大切な話を、ただ、「山へ登った」で、
あとは何も書いてない。変だと思う。
 そして、何時、山から降りたとも書いてないし、山の上
で何があったのかも、書いてない。
 イエスが山へ登ったからには、何か、『重大な』意味合
いがなければならないはずなのだが、何も書いてない。
 そこを、聖職者の口でつながっていく。
 このくらいの事を言いイエスの行動の意味合いを言う。
 モーゼが出て来る。
 そう言われても、聖書の字面だけでは、「登った」しか
書いてない。他の、何の意味合いも記されてない。
 そしてまた、「夕方、舟が、湖の真中に出たのは、夕方
という闇の世界で、湖の真ん中という「混沌(カオス)」
を表している」のだと言う。だから、どうしたがない。
 イエスが、陸にいるというのは揺れる舟の上とは違い、
揺れない陸にイエスは居ると言いたかったのだと言う。
 イエスの権威を上げる事しか意味がない、これを読んだ
信徒の方たちのためになる話の意味合いは何もない。ただ
揺れない陸に居ただけの意味しかない。
 そして、聖書の他の部分にも多くあるが、「風を止ませ
る行為」がここでも出て来る。
 イエスが、風を止ませる事をしたと説明する。そのイエ
スの凄(すご)さを分からない弟子たち、そして、無理解
を繰り返す弟子たちに、マルコは批判を展開した・・と、
聖書研究者は言う。
 だから、イエスは、「夜明けまで待ったのだ」と。
 聖書の記述の意味合いをアッピールする。
 「通り過ぎる」も、神が出現するときは「通り過ぎる」
のだと。旧約聖書にもこの様な事が書いてある・・と。
 神出現の権威づけの行為と考えられる。
 そして、イエスが「わたしだ」と言ったのは、「私は神
なのだ」と言った意味なのだという。
 だから、そこを驚いた弟子をマルコは批判したと。驚い
てはいけないのだ。ああやっぱりと思わないと。
 だから「パンの事。済んだ事まで持ち出して、マルコは
批判したのだ」・・と。
 なんだ、かんだと意味合いを付けをする。
 聖職者が、色々意味合いを付けるが・・、
「マタイによる福音書」では、「弟子のペトロが水の上を
歩いて」、イエスの所へ行っている。
 その様に、マタイは、マルコを書き直している。
 そして、風でペトロが沈みかけると、イエスに助けて貰
っている。
 ここを、キリスト教聖職者は、イエスの方が、ペトロよ
り上だと言っているのだという。
 (注):ペトロは、聖書の別の記述の中で、イエスに叱
られた時、イエスを叱り返す様な弟子で、イエスと同列
意識があるから、ここでは、この様に書かれているのだと
感じる。
 そして、キリスト教聖職者は、イエスの神格化を示して
いると強調する。『わたしだ』とだけ言った言葉で・・。
 この様な記述は、まさしく、ブルトマンが、「古代の『
魅力に欠けた』古い神話的記述」と言った様な方法で権威
づけをしている、これでしか、イエスを神格化できない。
 また、ブルトマンが『古代の泥沼にはまる」と、半分、
軽蔑した様な方法でしかできない、
 「意味のない言い方の権威付け」をする。
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2013年9月3日火曜日

アンフェアな国・アメリカ。公正にして下さい。

題:アンフェアな国・アメリカ。公正にして下さい。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 対等な条件で戦おうと、
 善良な農民と早撃ちの男は、
 街のメインストリートで戦った。
 当然のごとく、
 善良な農民は撃たれ、
 殺された。
 これは公正と『アメリカは判断した』。
 こんな『アンフェア』なことを、
 アメリカでは『公正なのだ』と言う。
 早撃ちは、
 毎日、
 早撃ちの練習をし、
 農夫は、
 毎日、
 トラクターを運転し、
 鋤(すき、農具)を持って働いている。
 銃を持つことはほとんどない『平和に暮らしている平和
な民なのだ』。
 同じ様に銃を持ったのだから、
 同じ条件で『公正なのだ』と、
 アメリカは言う。
 同じじゃないでしょう。
 ここが分からないアメリカ。
 早撃ちは、独り者で、
 毎日、酒場を出入りし、
 自分の時間がいっぱいある。
 自分だけの時間である。
 他の人たちのための時間ではない。
 酒場を出入りしているこの独り者は、銃をいじくる時間
がいっぱいある。
 善良な農夫は働き者で、汗水を流して働き、愛する妻と
愛する息子の生活を大切にし、守っている。
 農夫の体には、『愛する家族を守る重い責任がかかって
いる』。
 早撃ちの身の軽さとは『雲泥の違いがある』。
 この様な、大切な面の違い、重大な違いを、
 『見落としているアメリカ』。
 この二人が、街のメインストリートで、
 銃で、銃で戦うことを、
 『公正だ』というアメリカ。
 『公正だから良い』と判断するアメリカ。
 巨大な国アメリカにある『公正』。
 『公正だから良い・・やれ』と判断するアメリカ。
 『公正ではないでしょう』。
 プロレスラーの大男が、
 リングの上で、
 対等に戦おうと、
 子供に言った。
 『どこが公正なのだ』
 ・・と言えないアメリカ。
 『何処を見て公正なのだよ』と、アメリカは言えない。
 逆の立場で、考えられないアメリカ。
 自分さえよければ良いが先に来るアメリカ。
 アメリカは言う『お前も何もない。もちろん、
 俺も何もない。
 お前も俺も素手だ。
 こんな公正なことはないだろう』と、
 アメリカは言う。
 『公正ではないでしょう』。
 TPPで、
 こんな事を、アメリカは言っている。
 弱小国を相手に、
 公正を振りかざして。
 結局、弱者を、大勢殺すことになった過去がある。
 自分の国の大切な若者も亡くなったが、
 それ以上の、
 それに何倍するか分からないくらいの、
 大勢の、
 他国の方々が亡くなった。
 この行為の基本に、
 考え方の所に、
 自分だけに都合よく考えるというところがある。
 キリスト教的思考に由来している。
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2013年9月1日日曜日

イエスの時代、預言者と言われる人たちがいた。

 題:イエスの時代、預言者と言われる人たちがいた。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスの時代、預言者と言われる人たちがいっぱいいた。
 或る者は、官の身分の預言者だった。
 イエスは、「私の身分」の預言者だった。
 預言者は、「予言が当たらないと、民から総スカンを食
らった」。
 その様な、預言者・予言者が謹慎・自粛する例もあった。
 予言者は、民から喝采を浴びることが生活につながった。
 民へ媚(こ)びへつらう傾向があった。
 競争の激しい預言者たちであった。
 預言者は、その様な身分で、社会からの受け入れ方で、
民から尊敬されている訳でもなかった。
 イエスも、故郷に帰っている時に、イエスを知る故郷の
人から「預言者とは、旨いことをしているな」と言われて
いる。
 また、この時代、ほとんどの予言者が、処刑された。
 イエスも自分が、その様になることを予感していた。
 しかし、実際は十字架に付けられた訳だが、イエスは、
「石打の刑」になると思っていた。
 そして、予言者たちが処刑されて行くのを嘆いている。
 『エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に
遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」(「マタイによる福
音書」23・37)(「ルカによる福音書』13・34)。
 イエスの「自己理解力の限界」が見える。
 イエスの、あまりにも人間的な面を伝えるところで、
「水の上を歩くイエス」とか、「死者を生き返らすイエス
」とかは、つくづく作り話だなと思わせ、感じさせる一説
の1つの事例である。
 また実際、タルムードには(「バビロニア・タルムード
」「サンへドリン」43a-b)の様に、「イエスが、石打ち
の刑にされた」と伝える記述もある。
 そして、キリスト教は、「非神話化」をしなければなら
ないとした人がいた。
 その人は言う、古代人ではない、もう、その手は効かな
いと。
 ブルトマンは、キリスト教福音書の中の『魅力に欠けた』
古い神話論的言語を取り除こうとした。
 「古代人たち」は、処女降誕にも、水の上を歩く様な超
自然的奇跡を行なう「神の人」にも、困難を感じなかった
が、
 いかにしたら、その様な『古代の泥沼』に、はまらない
でよいかを示す試みを、ブルトマンは、「非神話化」を通
して示そうとした。
.
(参考)よげん‐しゃ【予言者】 :未来を推しはかって言
う者。
(参考)よげん‐しゃ【預言者】 1(神の言葉を) 預言する
力を与えられた者。
(参考)タルムード【(ヘブライ)Talmud】 《教訓の意》
ユダヤ教の宗教的典範。モーゼ律法および社会百般の事項
に対する口伝的解答を集大成したもの。本文ミシュナとそ
の注釈ゲマラの2部からなる。4世紀末ごろ編集されたパレ
スチナタルムードと6世紀...
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