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2015年5月2日土曜日

(増補版)88C2/3:気になった事柄を集めた年表(1583年5月~1585年12月)

題:(増補版)88C2/3:気になった事柄を集めた年表(1583年5月~1585年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1584年3月6日、信長の次男・織田信雄は、秀吉から年賀の
 礼に来るように命令されたことを契機に、秀吉に反発し、
 対立するようになる。
  そして、3月6日に、信雄は、秀吉に内通したとして、
 秀吉との戦いを必死に諌めていた重臣の浅井長時・岡田
 重孝・津川義冬らを謀殺した。
  秀吉への宣戦布告であった。
  この時、徳川家康が信雄に加担した。
  さらに、家康に通じて長曾我部元親や紀伊伊賀党らも
 反秀吉として決起した。
1584年3月7日、家康は8000の精兵を率いて浜松城を出発し、
  3月13日に、織田信雄と会見した。
1584年3月13日、小牧・長久手の戦い
  秀吉が味方につけた池田恒興が、尾張犬山城を守る信
 雄方の武将・中山雄忠を急襲し、攻略した。
  小牧・長久手の戦いの最初の戦い。(7日説あり))
  また、伊勢においても、峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが
 落とすなど、緒戦は、秀吉方が優勢であった。
  しかし、家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出た。
  そして、小牧に堅陣を敷いた。
1584年3月17日、秀吉方の森長可が、尾張羽黒まで出て家康
 の武将・酒井忠次・榊原康政と戦って敗れた。
1584年3月21日、秀吉は、敗報に接し、自ら30000余の軍勢
 を率いて大阪から出陣した。
  その他の軍勢を合わせて数十万となった。
  家康・信雄の連合軍は、16000~17000であった。
  数の上では秀吉が有利であったが、ここの戦闘では、
 家康が戦巧者(いくさこうしゃ)であった。
1584年3月27日、秀吉が、犬山城に入った。
  そして、秀吉軍も堅固な陣地を構築し、家康・信雄軍
 と対峙した。
  この対峙している期間は長くなっている(小牧の戦い)。
  羽柴軍は10万、織田・徳川連合軍は3万だった(軍勢は
 諸説あり)。
1584年4月6日、秀吉の甥・三好秀次(豊臣秀次)を総大将
 にした森長可や池田恒興らが、奇襲作戦を開始した(7日
 説あり)。
  目的は、三河の攪乱にあった。
1584年4月9日、しかし、この奇襲作戦の行動が遅かったた
 め、逆に、4月9日早朝に、徳川軍に追尾され、そして、
 待ち伏せられて奇襲される。
  激戦となる。
  秀吉の有力武将の池田恒興が、また、その長男の池田
 元助も共に戦死してしまった。
  また、森長可も戦死してしまった(長久手の戦い)。
  秀吉は、絶対的に兵力に勝るのに、この様な敗戦で、
 自らが攻略に乗り出さざるを得なくなった。
  秀吉は、加賀野井城など、信雄方の美濃における諸城
 を次々と攻略して行った。
  信雄・家康を、尾張に封じ込めようとの作戦だった。
  信雄・家康は、秀吉の圧倒的兵力と、財力も使った攻
 撃に圧倒されて行った。
  因みに、秀吉は、多大な貢献をした恒興の死を悼み、
 次男・輝政に池田家の家督を継がせている。
  輝政は、はじめ大垣城、のち岐阜城主となり、近世大
 名・池田家の礎を築くことになる。
1584年10月15日、戦いの最中であったが、秀吉が、初めて
 従五位下左近権少将に叙位任官した。
  この頃から、秀吉は、羽柴の苗字は使わなくなってい
 る。
1584年11月11日、信雄は、家康に無断で、秀吉と単独講和
 をした(15日説あり、また、秀吉が、犠牲が多くなるこ
 とを思って、得意の調略によって、信雄と単独講和した
 ・・ともある)。
1584年12月12日、家康も、信雄が講和したことで、秀吉と
 戦う大義名分がなくなり、三河に撤退する。
  そして、12月12日に、家康は、次男の於義丸を秀吉の
 養子(=人質)として差し出し、大阪に送った。
  「羽柴秀康(のちの結城秀康)」として講和した。
  この於義丸(おとぎまる)は、秀吉の側で遠慮して育
 ち、秀吉の養子として元服した。
  この様な事から、家康の後継者の候補からは外れた。
1585年3月10日、秀吉が、内大臣に任じられた。
1585年3月23日、秀吉の紀州根来寺と雑賀攻め。
  秀吉は、紀州へ兵を進めた。
  これは、昨年の小牧・長久手の戦いの時、根来(ねご
 ろ)と雑賀(さいか)が秀吉の出陣中の背後を伺ったた
 めだった。
  雑賀の太田城を水攻めにした。
  この時、秀吉は、「平百姓」は命を助けるから、在所
 に帰村すべしと通達した。
  農耕具や家財を与え、武器は取り上げた。
1585年3月23日、天正遣欧少年使節たちが、教皇グレゴリ
 ウス13世に引見し、九州の大名の大友宗麟・有馬晴信・
 大村純忠の書簡を渡した(?)。
  この少年の使節たちは、旅の途中で、日本人の女性た
 ちが、南蛮貿易で売られている姿をあちこちで目撃した。
  キリスト教宣教師たちが関与した南蛮貿易は、鉄砲や
 弾薬のもとの硝石の武器商人(死の商人)の役をしたり、
 この様な、人身売買をしていた。
  江戸時代末期に生まれた徳富蘇峰もこのことを記して
 いる。
  「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしい
 ばかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内
 に押し込むゆえに、女たちが泣き叫び、わめくさま地獄
 のごとし。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に
 売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ
 人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日
 本女性を奴隷船に連れ込んで海外で売りさばいたボスの
 中のボスであった」と。
  キリスト教に偏するNHKや放送大学は、キリスト教の美
 化ばかりを放送して、この件をまったく放送しない。国
 民をだます放送をしている。
1585年7月11日、秀吉は四国討伐の最中の事だった。
  この時、朝廷では関白職を巡る争いがあった。
  この様な中、秀吉は、漁夫の利を得るような形で、秀
 吉に関白の宣下があった。
1585年7月頃、五奉行の制
  小瀬甫庵の「太閤記」によれば、この年の秀吉の関白
 就任後に五奉行制が出来ている。
  (1593年の秀吉が病に際して、五大老制の設置に伴い
 置かれたとも)。
  この五奉行の制で、前田玄以は京都所司代、長束正家
 は知行財務、浅野長政・石田三成・増田長盛らが庶政を
 担当し、大事は5人で協議執行することと定められた。
1585年8月6日、秀吉が、長宗我部元親を破る。
  小牧・長久手の戦いの時に、家康・信雄に加担した四
 国の長宗我部元親を破って、四国を統一した。
  秀吉は、病気だったため、出陣は取りやめ、弟の秀長
 が総大将になり、1585年6月16日より四国への渡海を開始
 し、戦いが進められていた。
1585年8月20日、北国動座。秀吉が、佐々成政を征伐。
  この四国征伐の直後、同じく小牧・長久手の戦いの時
 に、秀吉に敵対した越中の佐々成政(さつさなりまさ)
 を、秀吉自ら、10万の軍勢を率いて京を出発し、8月20日
 には倶利伽羅峠(くりからとうげ)を越えて越中に入っ
 た。「北国動座」という。
  大軍の来攻を見て、成政は髪を剃り降伏した。
1585年9月3日、秀吉の大陸征服。
  秀吉が「唐入り」、すなわち、中国・朝鮮への大陸征
 服を口にし始めた初見は、1585年9月3日のこととされる。
  この日、秀吉は、家臣の一人・一柳末安(ひとつやな
 ぎすえやす)に印判状で、「秀吉、日本国は申すに及ば
 ず、唐国まで仰せ付けられ候」と言っている。
1585年12月10日頃、秀吉の子・於次秀勝(信長の四男、養
 子で秀吉の元に)が、亀山城で没した。
  この於次秀勝は、秀吉の実子・秀勝の死(1576年)が
 忘れられず、信長からもらった10歳の養子の於継丸に秀
 勝の名を付けていた。
  信長の葬儀の時も、この於次秀勝を喪主にして大徳寺
 で盛大に執り行い、秀吉の後が期待されていた。
  秀吉によく付いて、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦
 いなどにも従軍し、丹波亀山城を城主として任され、期
 待されたが、この年に、亀山城にて没した。享年18歳。
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2015年5月1日金曜日

(増補版)87C2/3:気になった事柄を集めた年表(1582年6月~1583年5月)

題:(増補版)87C2/3:気になった事柄を集めた年表(1582年6月~1583年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1582年6月27日、清州会議(本能寺の変から25日後)
  お市たちの生活の場である清州城で、緊張感みなぎる
 中で会議は開かれた。
  会議に集まったのは、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・
 秀吉だった。
  滝川一益は、この会議の少し前の神流川(かんながわ)
 の戦いで敗れているので外されたらしい。
  参加者で一番下の秀吉だった。
  秀吉嫌いのお市の方は、信長の跡目は、次男の信雄か、
 三男の信孝が継ぐだろうと思っていた。(長男・信忠は
 本能寺の変で戦死)
  四男の秀勝は、秀吉の養子で、15歳になっていた。
  誰もがが、秀吉が、この秀勝を推してくると予想して
 いた。
  しかし、秀吉は、養子として織田家を出た人間(秀勝)
 には織田家を相続する資格はないと言った。
  皆の予想に反した秀吉の発言に、意表を突かれた。
  更に秀吉は言った、だから故に、信雄も、信孝も、後
 継者として認められないとした。
  信雄は北畠を継ぎ、信孝は伊勢神戸(かんべ)氏を継
 いでいる。
  そして、秀吉は、信長の嫡子・信忠の子・三法師が適
 任だとした。
  信雄と信孝は、母が違っても25歳、三法師は3歳だった。
  柴田勝家は、信孝の優れた資質を買って推していた。
  だが、会議は、秀吉に押し切られる形で三法師が後継
 者となった。
  この様にして、秀吉が、柴田勝家や丹羽長秀らの宿老
 を押しのけてトップに躍り出た会議だった。
  因みに、三法師は、3歳、後の織田秀信、信長の長男・
 信忠の嫡男、最後は高野山で仏教に従事するが、下山療
 養したが亡くなる、享年26歳。
  信長の次男・信雄に伊勢と尾張を与え、父祖の地と言
 うべき尾張を貰ったという事で、信雄は満足した。
  信長の三男・信孝には、美濃が与えられ、信長の天下
 布武の根拠地となっていた岐阜城主になったことで、信
 孝も不承不承で承知した。
  信長の四男で秀吉の養子の秀勝は、明智の旧領である
 丹波国を相続した。
  勝家には、越前八郡の旧領に、秀吉の旧領・北近江3郡
 を加えて与えられた。長浜は勝家の希望だった。
  丹波長秀は、若狭の国を安堵の上で、近江国の2郡を加
 増され、
  池田恒興は、摂津の国から3郡を加増された。
  新当主である三法師には近江国坂田郡と安土城を相続
 し、
  秀吉には、光秀の領国だった丹波と山城国が新たに与
 えられ、秀吉の長浜は勝家に譲られ、それに代わる城を
 山城山崎を築く事になった。
  また、秀吉は、政治の中心の京都を得ている。
  この会議の後、お市の再婚話が、お市のところへ訪れ
 た信孝によって持ち出された。
  この時、勝家61歳、お市36歳、そして、結婚となる。
  「村井重頼覚書」には、信孝の再婚を勧める話が事前
 に同意されており、清州会議で正式に決定したとされて
 いる。
  そして、お市は信孝の居城である岐阜城に移動し、信
 孝の立会いの下で、お市と勝家の婚礼が執り行われたと
 いう。
  「細川忠興軍功記」には、1582年10月には、お市と三
 人の子供は、越前の北ノ庄へ向かったと記されている。
1582年7月3日、信孝が、本能寺の焼け跡で収集した多くの
 遺骨や信長の太刀を廟に納め、本能寺を信長の墓所と定
 めている。
1582年9月11日、お市の方を喪主として、信長の百日忌が、
 妙心寺で、勝家と共に営まれた。
  葬儀が無くて、百日忌である。
1582年9月12日、秀吉が、養子としていた信長の四男・秀勝
 を立て、大徳寺で百日忌を行ったという。
  お市たちと一緒ではない。
1582年10月8日、秀吉の要請により、信長に従一位太政大臣
 が追贈された。
1582年10月頃、勝家は、滝川一益や織田信孝と共に、秀吉
 に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。
1582年10月15日、信長の葬儀
  本能寺の変から4か月が経てなされている。
  葬儀は、大徳寺で、この月の上旬から17日まで行われ
 た法要の中の一環だった。
  信長の葬儀は、秀吉が信長からもらった養子(信長の
 四男)の於次秀勝が喪主となった。
  しかし、実際、喪主としてのふるまいは秀吉だった。
  この葬儀にお市の方とその子供たちは参加していない。
  また、信長の次男の北畠信雄や、三男・信孝、そして、
 柴田勝家も参加していない。
  清州会議からこの4か月で、この様な状況が生まれてい
 た。
1582年10月20日、堀秀政宛ての秀吉の書状の宛名に、羽柴
 の名字が使用されており、堀秀政に羽柴の名字を与えた
 ことを示している。
  この事により、秀吉が、信長の家臣に、この様な事に
 よって、自分の陣営に取り込みを行っている事が分かる。
1582年、天正遣欧使節が長崎から出発した。
  ポルトガルのリスボンに、1584年に、到着した。
  そして、この「天正少年遣欧使節」は・・、大友宗麟、
 大村純忠、有馬晴信らの九州キリシタン大名が派遣した
 と言われているが違う。
  これは、キリスト教宣教師ヴァリニャーノが、インド
 に帰るにあたり、船が長崎を出帆する直前に、立案した
 もの。
  だから、大友宗麟の使節と言われる「伊東マンショ」
 は、まったく関係してない。造り上げられた話。
  そしてまた、大友宗麟が、ローマに届けたと言われて
 いる書状は、書いてもいないし、勿論、届けられてもい
 ない。これも、作り上げられた話。
  NHKや放送大学は、キリスト教に偏していて、嘘の
 放送をしている。
1583年、大阪城の築城
  この年に、羽柴秀吉が、石山本願寺跡地に大阪城築城
 に取り掛かっている。
  大阪城は天守がそびえているが、天守が作られたのは、
 織田信長の安土城が初めてだった。
  秀吉は、信長の後継者と自認していたが、城造りも信
 長の安土城をモデルとしたが、すべての面でそれを凌駕
 する事を目指した。
  秀吉の大阪城は、本丸の築造に約1年半を費やし、その
 後も秀吉が存命した15年の全期間をかけて、徐々に難攻
 不落の巨城へと造り上げて行った。
  堀や石垣が、二重三重に、複雑かつ立体的に、防御的
 に取り囲んで城造りがなされて行った。
  また、同時に、町づくりも行われた。
1583年1月、反秀吉派の滝川一益が、秀吉方の伊勢峰城を守
 る岡本良勝や、関城や伊勢亀山城を守る関守信らを攻め
 た。そして、破っている。
1583年2月10日、秀吉が、1月の滝川一益の行動に対し、北
 伊勢に侵攻した。
  秀吉軍は、手こずったが3月に降伏させている。
1583年2月28日、勝家軍の前田年長が出陣した。
  3月9日には、勝家が自ら3万の大軍を率いて出陣した。
1583年3月11日、賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)
  秀吉軍が、北伊勢は蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3
 月11日のこの日に、柴田軍と対峙した。
1583年4月13日、秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路
 正国が勝家方へ寝返った。
  初めは勝家方が優勢であった。
1583年4月20日、早朝に、勝家の重臣・佐久間守政が、秀吉
 が、秀吉に対し挙兵した織田信孝を討伐するために美濃へ
 赴いた隙を突いて、奇襲をかけた。
  奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死した。
  砦は崩れた。
  しかし、勝家の命に背いて砦に陣を敷き続けた佐久間
 守政は、中国大返しと同じく、迅速に引き返して来た秀
 吉の反撃に会い、さらに、前田利家らの裏切りもあって、
 柴田軍は大敗を喫した。
  柴田勝家は、越前に撤退した。
1583年4月24日、柴田勝家は、正室・お市の方と共に自害し
 た。
  秀吉は、さらに加賀国と能登国も平定し、それを前田
 利家に与えた。
1583年5月2日、信長の三男・織田信孝が自害した。
  やがて、滝川一益も降伏した(異説あり)。
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2015年4月30日木曜日

(増補版)86C2/3:気になった事柄を集めた年表(1582年5月~1582年6月)

題:(増補版)86C2/3:気になった事柄を集めた年表(1582年5月~1582年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1582年6月2日、本能寺の変
  信長の家臣・明智光秀が謀反を起こし、丹波亀山城(
 京都府亀岡市)から引き替えした。
  そして、京都の本能寺に居た信長を襲撃し、信長は自
 刃した。(1534年~1582年)48歳。
  信長から光秀へ与えられていた命は、「備中高松城の
 羽柴秀吉を救援せよ」との命だった。
  信長の後継者と目されていた信忠は、信長と共に、備
 中高松城で戦う羽柴秀吉への援軍に向かうべく行動をし
 ていた。
  秀忠は、京都の妙覚寺に居て、明智の謀叛を知るや、
 本能寺へ信長救援に向かったが、信長自害の知らせを受
 けるや、光秀を討つべく態勢を整えるため、側近など手
 勢と共に二条新御所へ行く。
  信忠は、二条新御所へ着くと誠仁親王を脱出させ、臨
 戦態勢に入った。
  しかし、わずかな手勢であったため、善戦したが、そ
 の戦いもむなしく、明智軍に攻め寄せられ、自害に至っ
 た。介錯は鎌田新介だった。享年26歳。
  信忠には、京都から脱出できる可能性があった。しか
 し、信忠の心情から光秀軍と刃をまみえたのだろう。
  脱出していれば、また、日本の違う歴史が流れたと言
 える。
  信長は、生前から、家督を譲っていた嫡男・信忠で、
 これはと思っていた息子だったのだろう。
  信忠も、忠実に父の教えを受けていた様だが、時には
 抗弁もしていたという。
  流れは、秀吉に来る。
  秀吉は、主の仇である光秀を討つ。
  これをする事がポイントと認識していた。
  この事で、織田勢力の実質的な相続者になって行く。
  多く居た信長の相続者たちの息子たちから、流れが秀
 吉に流れて行く。
  そして、その事を天下に認知させるには、信長の葬儀
 を自ら主宰する事だった。
  秀吉には、信長からもらった信長の子の養子が居た。
  その信長の葬儀の会場として、大徳寺が選ばれた。
  さらに秀吉は、信長の菩提を弔うために、塔頭の総見
 院(信長の法名)をたて、追討大茶会も催した。
1582年6月2日、この時、本能寺の変の時の安土城
  本能寺の変の時には、蒲生賢秀が留守居役として在城
 していた。
  しかし、信長の横死の知らせを受け、
  蒲生賢秀・氏郷父子は、本拠地・日野城(滋賀県蒲生
 郡にある蒲生氏が築いた城)に、信長の妻子などを安土
 城から移動させ、退去した。
  安土城は、山崎の戦の後、明智秀満率いる明智軍が来
 て、退却後に、天守とその周辺建物(主に本丸)を焼失
 している。消失の日は6月15日という。
  消失の原因については
  1、明智秀満軍の敗走の際に放火したという説(「秀
 吉事記」「太閤記」)、しかし、この説を否定する有力
 な説もある。
  2、秀満の残党狩りで、伊勢から入った織田信雄軍が
 城下に火を放っているが、この火による延焼説。(ルイ
 ス・フロイスの記述、フロイスは、信雄を暗愚呼ばわり
 している、信雄の放火だと言っている)
  3、略奪などによる野盗説
  4、落雷説
  本能寺の変以降も、二の丸などが残っていたので、し
 ばらくは織田氏の居城として機能している。
  信長の嫡孫・秀信が、清州会議の後に入城している(
 主に、二の丸を中心に機能していた)。
  しかし、秀吉の養子・豊臣秀次(秀吉の姉の長男)の
 八幡山城築城のため、1585年をもって廃城とされた。
1582年6月2日、徳川家康:本能寺の変のとき、
  信長の後継者とみなされていた一人:徳川家康は、本
 能寺の変の時、堺で近習数名と情報収集中で、帰国の途
 次(とじ、途中)の飯盛山(大阪府東部)でこの報に接
 した。
   近習だけの少数でいたために、光秀討伐のチャンスを
 失し、一歩、出遅れた形となった。
  家康は、秀吉が勝家を討った時(1583年)は、祝の品
 を送っているが、
  秀吉が、信長の三男・信孝を自殺に追い込んだ辺りか
 ら警戒の念を強め、
  信孝の自殺に加担した信雄も、次第に秀吉のやり方に
 疑問を持つようになり、
  ついに、信雄と家康とが連合し、秀吉に敵対する事に
 なった。
  ここに実力と大義名分の戦い、小牧・長久手の戦い(
 1584年)が起きた。
  家康には、盟友・信長の遺児を助けるという大義名分
 があった。
1582年6月3日、安土城立ち退き
  信長の死の翌日(1583年6月3日)午後2時より、安土城
 立ち退きが始まった。
  信長の夫人たちは、金銀財宝を持ち出し、天守に火を
 かけて行くように賢秀に命じた。
  しかし彼は、信長が心を尽くして建てた後、また集め
 た財宝を、自分の勝手には出来ないと、そのままにして
 立ち退いた。
  しかし光秀の接近に、あわただしく安土を捨てて逃げ
 たため、女中衆は履物もなく、裸足の者も多く、足は血
 に染まって哀れだったという。
1582年6月3日、密書
  京都本能寺に織田信長を討った明智光秀の飛脚が、夜
 の闇にまぎれ、毛利の陣営と間違えて、備中・高松城攻
 めの秀吉の陣営に迷い込んだのは、1582年6月3日であっ
 た。
  飛脚は、毛利への密書を持っていた。秀吉は愕然とす
 る。
  この秀吉に、「天下を取る絶好の機会が来たとは思い
 なさらぬか」と黒田官兵衛は言った。
  この時から、秀吉に天下取りの野望が広がった。
  そして、この時、多くの土の俵で長堤を3.1キロメー
 トルに渡って築き、梅雨時の足守川(あしもりかわ)を
 堰き止め、高松城を水攻めにしていた秀吉は、急ぎ、和
 議を成立させた。
  翌日(6月4日)には将兵の救出を条件に、城主・清水
 宗治を自刃させる。
  そして、京都を掌握した光秀を討つべく、中国からの
 大返しを敢行した。
1582年6月4日、本能寺の変の報を入手した秀吉は、近日中
 に、高松城の守将の自刃によって開城される予定だった
 という高松城の状況の中、毛利軍と和議を結んだ。
  そして、この日・6月4日に、蜂須賀正勝・他1名を立会
 人にして高松城の守将の自刃の検分を行い、翌5日から6
 日にかけて撤兵するとした。
1582年6月5日、秀吉の中国大返し開始。
  「川角太閤記」によれば、4日夕方から、まず、宇喜多
 秀家の兵を発ち退かせ、
  翌日、この日の5日未明2時頃から、秀吉自ら、退陣の
 軍を起こした。
  途中、岡山は素通りし、
1582年6月8日、この日・8日、午前10時、姫路城に着陣した
 と記されている。
  4日もかかっていることになる。
  99.6キロメートル。2日の距離である。
  これは、6月7日の様である。
  先に立った宇喜多直家の子・八郎(幼名、秀家)が出
 迎えた。
  父・直家は既に亡く、子の八郎(11歳)が、子供なが
 ら軍勢を率いて、この秀吉の戦いの先陣を務めていた。
  秀吉は、宇喜多直家に1万の軍勢の協力を得て、備中
 (岡山県西部)高松城(讃岐・高松城ではない)攻めに
 成功していた。
1582年6月8日、秀吉接近の報を受けている明智光秀は、キ
 リシタンで有名な娘・ガラシャの夫・細川忠興と、その
 父・細川藤孝に味方になってくれと依頼するが、「信長
 の喪に服す」と剃髪して味方になることを断わられてい
 る。光秀は何度も頼んでいる。
1582年6月9日、秀吉は、姫路城に留守居役を置いただけで、
 全軍を率いて姫路城を進発した。
  この日に明石を経て、兵庫港(神戸市兵庫区)近くに
 野営した。
  また、別働隊を組織し、明智方になる可能性がある洲
 本城を攻撃している。
  洲本城は、その日の9日に落城している。
  また、秀吉は、この日に、砦(岩屋砦)を」構築して
 いる。
  この砦構築は、秀吉の10日の書状によれば、明智光秀
 が久我(京都市伏見区、合戦場の三島から北東20キロく
 らいの所)付近に着陣したと知ったため、光秀が河内へ
 の移動を防ぐため、また、明智軍急襲への防備。
  また、この日の光秀の着陣前に、光秀が上洛し入京し
 た際、公家や町衆が群がって出迎えたという。
  光秀は、朝廷などへ銀子を献上している。
  また、地子銭(地代)免除の特典を発し、新たな天下
 人として振る舞っている。
  しかし、この頃の光秀の書状を見ると、味方してくれ
 れば丹波でも若狭でも差し上げる、そして、50日・100日
 の間に近国を平定し、その後は政務を譲って引退すると
 書いている。
  もう精神的に、秀吉に敗けている。
  それに対し、秀吉の書状は、協力の謝意を表している
 記述で、戦う前から勝敗は決していた。
1582年6月10日、秀吉軍、朝、明石を出発。
  夜、兵庫に着く。
  秀吉及び明智は、色々な風評を流し合って、情報戦も
 している。
  例えば、「大阪滞在中の神戸信孝が、光秀軍に包囲さ
 れて自刃した」とか。
  秀吉の行軍も慎重になっている。
  光秀の伏兵警戒もあり、また、同盟者も募ったのだろ
 う。
  また、最初の猛スピードの中国大返しも、光秀を討つ
 という事より、毛利の追撃を封じたともいえる。
  この日、光秀は、筒井順慶に加勢を求めたが、加勢す
 るものと思われていた順慶の態度がはっきりしないので、
 宇治川を越え、洞ヶ峠(大阪府牧方市)まで出かけ圧力
 を掛けた。
  しかし、効なく、光秀はあきらめ撤収し、洞ヶ峠を降
 り、下鳥羽に陣を敷いた。
1582年6月11日、羽柴軍が兵庫を出立し、夕刻、尼崎に達し
 た。大阪は隣という地である。
  秀吉は、栖賢寺に参り、髻(もとどり)を斬ったとい
 う。決意を新たにしたのであろう。
  秀吉の軍勢がまとまって来て2万を超えた。
1582年6月12日、羽柴軍は、この日に、尼崎から北東30キロ
 の富田(大阪市高槻市)に着陣し、軍議を開いた。
  軍議の結果、山側の軍と川側の軍、そして、その中央
 の軍の三軍に分かれて進撃する事に決した。(富田は13
 日の説あり)。
  この日、池田恒興・高山右近などの諸将が、秀吉陣営
 にはせ参じた。
  高山右近は、光秀から加勢の要請を受けていた。
  秀吉軍は、4万(太閤記)、2万(兼見卿記)とある。
  秀吉軍の活気に対し、光秀軍は陣に動きが無く、心理
 的にも守勢に立った状況の中にいた。
  この場所は、合戦場となる山崎まであと10キロくらい
 の所にある。
  鉄砲の撃ち合いの前哨戦は始まっていた。
1582年6月13日、秀吉は、決戦の地・山崎へと向かった。
  光秀も陣をやっと動かした。下鳥羽から御妨塚(京都
 府大山崎町)へ。戦線を広げる目論見だった。
  秀吉が山崎に着陣したのは、13日昼頃だった。
  梅雨時で雨が降りしきっていた。
  勝敗を決する場として重要な地・天王山は、秀吉陣に
 はせ参じた中川清秀らによって占拠されていた。
1582年6月13日午後4時、山崎の合戦の戦端が開かれた。
  秀吉に加わった中川清秀・高山右近は、この近くに居
 城を構える将で、地の利に明るく、兵力差もあり、秀吉
 軍の有利の展開の内に戦いは推移した。
  有利の展開の中、秀吉が全軍総攻撃を発令した。
  秀吉軍の大軍が殺到して行った。
  兵力・士気共に勝る秀吉軍は、光秀軍を圧倒し、光秀
 軍は、たちまち総崩れした。
  キリシタン宣教師フロイスは、中国から連れて来た秀
 吉軍は疲れ切っていたという。
  それ以上に光秀の兵の士気が落ちていて、主人を討っ
 たという大義名分のなさの重石もあったのだろう。
  光秀は山崎本陣を解き、勝竜寺城に籠る。
  しかし、勝竜寺城は、秀吉軍の数万の軍勢の前には脆
 かった。
  光秀は、近臣を従えて勝竜寺城を脱出。逃亡状態とな
 る。
  光秀が来ると京都市中は混乱を極めた。
  光秀軍は、丹波へ向かう敗走軍と近江へ向かう軍とに
 分かれる。
  この力の分散が、さらに、光秀の再起不可能の分岐点
 だった。
  光秀は、近江で再起を図りたかったのか、居城・坂本
 城を目指して逃亡した。
  そして、1582年6月14日になったか?
1582年6月14日、日にちが変わった深夜頃?光秀は、小栗栖
 (京都市伏見区)で土地の住民に襲われ死亡した。
  光秀を解釈したのは溝尾茂朝であったという。
1582年6月15日、明智光秀の将・明智秀光は、山崎の戦では
 光秀の後詰めに安土城から出陣するが、
  琵琶湖打出浜(大津駅の近く)で堀秀政と戦い、大敗
 を帰す。
  この時の戦で、羽柴秀吉の将の堀秀政が、明智光秀の
 将・明智秀満(あけちひでみつ、光秀の重臣、光秀の娘
 を妻に迎えている)を坂本城(琵琶湖に面する平城)に
 攻めた。
  この光秀の娘は、信長に叛した荒木村重の嫡男へ嫁い
 でいたが、村重が謀叛を起こしたため離縁されていた。
  坂本城の包囲が完了し、攻撃した。
  激烈な戦闘であった。
  戦闘の帰趨が定まって、落城が明らかになった時、
  明智秀満は、いかんともしがたく、秀満の持つ非常に
 価値ある刀が、城と共に焼けるのがおしく、国行の刀と
 吉光の脇差を布団に包み、そして、目録も添えて、寄せ
 手に呼び掛けた・・、
  「城は炎上、まもなく我が身は果てるとも、ここに生
 涯大切にしたる名刀・・この道具は私ならぬ事、天下の
 道具なれば、是にて滅し候事は、弥平次(秀満は明智光
 秀の娘婿となる前、三宅弥平次といった)傍若無人と思
 召すべく候間、相渡申候」と述べた。
  そして、しばらく攻撃を止めれば、敵方へ刀を送り届
 け、悔いなく命をまっとうする旨を伝えた。
  堀は、これに同意した。
  そして、何と、攻撃を中止したのである。
  そして、その間に、刀は、布団にくるまれて炎上する
 城から降ろされた。
  その後、戦闘は再開となり、翌日に城は焼け落ちた。
  明智秀満は自刃して果てた。
 訂正:83C2/3で「小早川秀秋」であるべきところを、
 「宇喜多秀家」と書いてしまいました。
  訂正いたします。
  関ケ原で様子見をしていたのは「小早川秀秋」です。
  誤記したところは削除させて戴きました。
  宇喜多秀家の関ケ原での働きは、西軍の副大将として
 西軍の主力となっています。
  この関ヶ原の兵力としては、家康の本隊の次の兵力で
 1万7000、西軍最大の兵力です。
  小早川秀秋の裏切りで、西軍は総崩れになりますが、
 この宇喜多軍も壊滅的状況となります。
..
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2015年4月28日火曜日

(増補版)85C2/3:気になった事柄を集めた年表(1581年10月~1582年5月)

題:(増補版)85C2/3:気になった事柄を集めた年表(1581年10月~1582年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1582年2月3日~3月11日、甲州征伐、
  織田信長とその同盟者の徳川家康・北条氏政が、信濃・
 甲斐・駿河・上野に侵攻し、甲斐の武田氏を滅ぼした。
  武田信玄亡き後、長篠の合戦以降、武田勝頼は、勢力
 が衰えていた。
  勝頼の強気・勝気が災いしていた。
  また、鉄砲という新しい技術に疎(うと)かった。
  長篠で、重要家臣の多くを失ったのも大きかった。
  参謀なども欠いて、『作戦立案力』も大きく落ちてい
 た。
  勝頼一人が息巻いていたのだろう。
  今まで通りの父の信玄流に固執したのも悪かった。
  時も見て、また、機も見なければならないのに・・。
  これまで、織田は、畿内や北陸などが忙しく、勝頼の
 東方面を後回しにしていたから良かったが・・、
  家康だけとの小競り合いで良かったが・・、
  この様な時の流れの中で、武田家に居た織田勝長(信
 長の四男)が織田家に戻っていた。
  また、信長との和睦交渉も成立しなかった。
  この様な状況においての、信長・家康・氏政の侵攻だ
 った。
  今まで、周囲の武将へ援軍を送らなかった勝頼に、こ
 の時の援軍は無かった。
  また、逆に、織田方へ寝返る者も出てしまうという武
 田方だった。
  また、戦費が嵩(かさ)む中、勝頼は、税を重くし、
 賦役も課していた。
  人心も、勝頼を離れて行っていた。
  悪いことが重なっていた勝頼だった。
  そして、忠臣・木曽義昌が、勝頼に謀叛したとの知ら
 せに激怒する勝頼だった。
  その義昌へ、怒りのあまりか? 従兄弟の軍5000を出
 陣させた。
  また、自身の大切な軍までも、1万5000もの兵をも出陣
 させるという勝頼だった。
  そして、義昌の一族をすべて殺した勝頼だった(子供
 までも)。
  信長は、勝頼による義昌親族の殺害を知ると勝頼討伐
 を決意した。
  信長の動員令によって、織田軍は伊那から進軍し、信
 長の家臣の金森軍は飛騨から、家康は駿河から、氏政軍
 は相模・伊豆から進軍した。
  信長が、討伐決定した2月3日の当日に、早くも、森長
 可らの先鋒隊が、岐阜城から出陣した。
  出陣していく織田軍に寝返り、戦わずして信濃へと招
 き入れる国もあった。
  織田本隊は、2月12日に、岐阜城と長島城から出陣した。
  翌々日には岩村城へ進み、勝頼に討たれた木曽義昌勢
 が、織田一門らの支援を受けながら、武田勢と鳥居峠で
 戦い、そして、勝利した。
  この様な事で、戦いは進んで行くが・・、
  勝頼の勝の目は・・どこにもなかった。
  勝頼の最後は・・、わずかな手勢で、天目山を目の前
 にした地で、織田の大軍と奮闘し、撃退している・・武
 田軍の将たちは活躍している・・が・・勝頼に最後の時
 が来る。
  勝頼は、まだ元服していない跡継ぎの信勝に「小桜韋
 威鎧兜、大袖付(こざくらかわおどしよろいかぶとおお
 そでつき)」(国宝、武田家代々の家督の証)を着せ、
 父子で自刃したという。
1582年3月11日、教科書に、この日に、織田信長が、武田氏
 を滅ぼす・・と、歴史教科書に書かれているが、
  この時、信長はまだ美濃にいた。
  実際は、信長の長男の信忠が滅ぼした。
  この日、武田勝頼が、追い詰められ、天目山麓の田野
 (山梨県甲州市)で自刃した。
  信長は、長男・信忠を買っていた。
  常に、戦場に連れて行った。
  信忠は、本能寺の変の時に、信長とともに死んだ(二
 条新邸で)。
1582年5月8日、秀吉が、高松城水攻め。
  秀吉が、備中・高松城(城主:清水宗治)を攻めに取
 りに掛かり、
  1582年5月8日に、2万5000の軍勢が、昼夜兼行で築堤工
 事に取り掛かった。
  長さ・約2.8キロメートル、高さ・約7メートルの土手
 をわずか19日の突貫工事で完成した。
1582年5月、四国攻め、
  この月の上旬に、信長は、三男・織田信孝を総大将に
 して、丹羽長秀・蜂屋頼隆らを副将として、四国方面軍
 を編成した。
  そして、四国攻めの指示を下した。
  それまでの四国・長宗我部元親(ちょうそかべもとち
 か、土佐国の戦国大名)と信長の関係はうまく行ってい
 た。
  元親は、1575年に、土佐を統一していた。
  また、元親の子供に、信長の一字を貰うなどしていた。
  信長と元親の間の取次役は、明智光秀だった。
  ここに、秀吉の都合が出てくる。
  秀吉は、毛利攻略に、四国の三好氏の水軍の力を借り
 たいと思っていた。
  そこで、養子縁組的な話も出て秀吉と、阿波の三好氏
 とはうまく行っていた。
  元親には、信長から、「四国は切り取り自由」の朱印
 状を貰っていた。
  四国は自由に切り取って自分の国にしていいよ・・と、
  元親は、武力で四国を切り取っていた。
  この時、秀吉の都合と、元親の行動がバッティングす
 る。
  信長は、元親に、土佐及び阿波南半分を領有のみを許
 し、他の占領地は返還するように命じた。
  しかし、元親は、信長が認めた事だと言い、また、信
 長の力を借りたものではないとも言い・・、
  指図を受けるいわれもないと・・はねつけた。
  光秀が、説得したが、
  1581年頃に、交渉は決裂していたと判断できる。
  毛利なども関係し・・反織田同盟も結ばれた。
1582年5月15日、明智光秀が饗応役となった安土城に、徳川
 家康の接待が行われている。
1582年5月29日、四国攻めの織田信孝の軍が、摂津住吉(大
 阪市)に着陣した。
  また、丹羽・津田勢は大阪に、そして、蜂屋勢は和泉
 岸和田に集結し、総勢1万4000が、四国への渡海に備えて
 いた。
  6月2日が出航する予定だった。
  しかし、この日が、本能寺の変で立ち消えとなった。
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2015年4月27日月曜日

(増補版)84C2/3:気になった事柄を集めた年表(1580年9月~1581年10月)

題:(増補版)84C2/3:気になった事柄を集めた年表(1580年9月~1581年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1580年、スペインが、ポルトガルを併合した。
  スペインのフェリペ2世が両国を統治した。
  スペインとポルトガル、この2国は交易圏の拡大を競
 ってきた。
  16世紀後半に入ると、ポルトガルの富の西ヨーロッパ
 への流出が原因とする国力衰退が目立ってきた。
  スペインはその併合を狙うようになり、ポルトガル王系
 の断絶を契機に、この年に、スペインのフェリペ2世が
 軍隊を派遣し、ポルトガル王位を継承し、併合した。
  スペインのこの王朝は、超宗教的なキリスト教カトリ
 ックの王朝で、1492年に、『ユダヤ教徒追放令』を出し、
 卑劣なユダヤ教徒殺戮など迫害・いじめをした。
  多くのユダヤの方々が殺戮された。ユダヤの方々は逃
 げ回った。
  そしてまた、このスペインは、キリスト教プロテスタ
 ントのイギリスと多くの戦争をして来た。
1580年9月26日、織田信長が、大和に検地指出をする。
1580年11月17日、柴田勝家が、加賀一向一揆を討つ。
1580年代、この年代から始めた干拓事業で、倉敷が陸地に
 なった。
1580年、秀吉は、中国地方の征伐を命じられて、播磨(兵
 庫県)を平定すると、姫路付近を検地している。
  これらは、信長の武将としての立場の検地であるが、
 この後、1582年から、秀吉は、独自の立場で次々と各地
 の検地をを行った。
  秀吉が、実施した検地が具体的にみられるのは、信長
 の一武将であった1580年のものが初見である。
1581年4月1日、京都御馬揃え(きょうとおうまぞろえ)
  織田信長が、京都で馬揃えを挙行する。
  信長が行なった大規模な観兵式・軍事パレード。
  これは、丹羽長秀や柴田勝家をはじめ、織田軍団の各
 軍を総動員する大規模なものだった。
  正親天皇が招待された。
  『天下布武(武によって天下を治め平和にする、そし
 て、七徳の武という施政者の徳を持つ)』を標榜する信
 長は、このパレードの実施によって、京都はじめ、周辺
 大名、庶民に至るまでへ、自分の思いを示した。
  信長は、皇居修復をしたりしているが、天皇を立てた
 姿勢の中での施政を目指していた。
1581年9月、信長が、伊賀を平定する。
1581年9月、安土城が内部装飾完成。
  信長が、狩野永徳父子や「奈良の大工や諸職人」の頭
 (かしら)に、小袖(こそで、袖口の小さく縫いつまっ
 ている和服)を与えている。
  安土城の内部装飾が完成したのであろう。その祝の小
 袖だろう。庶民にまでを思を至らす心があった。
1581年10月25日、鳥取城が落城する。
  それでも吉川経家は耐え抜き、4か月も籠城を続けたが、
 10月に至って、遂に降伏した。
  城主である経家と重臣の切腹との引き替えで、兵卒の
 助命なされ、開城とした。
  しかし、開城後、あまりの空腹のところに、食料を得
 て食事したため、兵士が死亡するという事態が起きた。
  多くの兵士が亡くなったという記録が残っている。
  秀吉は、多くの切腹は避けようとした。
  城主の切腹までも避けようとした。
  しかし、経家の意思は固く、信長の許可を得て、城主・
 経家以下、臣下2名、計3名の切腹で決着している。
  吉川経家、享年35歳だった。
1581年、日本最古の海洋の法規集である「廻船式目(かい
 せんしきもく)」が成立した。
  瀬戸内海の海運業者の習慣法を成文化したものと言わ
 れる。
  鎌倉期の成立とあるが、追記が色々あり、実際の成立
 年代は、室町末期とされている。
  海難救助、船荷の損害賠償など多岐にわたる。
  国内の十大港湾などが記されている。
1581年、オランダが独立を宣言した。
  オランダは、キリスト教のカトリック国であるスペイ
 ン領で、その統治下にあった。
  そのスペイン国王・フェリペⅡ世は、キリスト教プロ
 テスタントを弾圧した。
  オランダ(ネーデルランド)はキリスト教プロテスタ
 ントだった。
  人々は、また、カトリック国スペインの重税にも苦し
 んでいた。
  スペインは、統治を一層強化した集権統治とし、弾圧
 統治を強めた。
  キリスト教の司教区制度もキリスト教に都合よく変え
 た。
  キリスト教宗教裁判も厳しく、民からの廃止の声が叫
 ばれた。
  財政的にも、民衆は窮乏していた。
  民衆の反発は、そのキリスト教へ向かった。
  キリスト教会などの聖像の破壊などが勃発した。
  スペインは、強圧的に武力による抑え込みにかかった。
  また、新しい法律を作ったりして、一層、民を苦しめ
 た。政治は恐怖政治となった。
  騒乱罪も新設された。
   ドイツに亡命していた貴族・オラニエ公は、1568年、
 軍をオランダへ侵攻させた。ここに戦争が始まった。
  オランダの北部7州は同盟して戦った。
  そして、この年に、スペインへの臣従の拒否を宣言し、
 イギリス女王やフランス王の弟を主権者として迎えよう
 としたが失敗し、独立の州主権と州議会を持つ独立を宣
 言した。
  因みに、オラニエ公は、1584年に、暗殺された。
  この様な経過の中でスペインとの戦いは続いた。
  休戦条約が、1609年に、結ばれ、12年間の休戦はあっ
 たが、1621年に、戦いは再び起こった。
  ウェストファリア条約によって、1648年に、独立が承
 認された。
  八十年戦争(1568年~1648年)とも呼ばれる粘り強い
 戦いであった。
16世紀後半~17世紀、魔女熱狂。
  ヨーロッパは、魔女熱狂の時代だった。
  キリスト教が、大権力を保持し、民衆へ大迫害を加え
 ていた。聖俗の領権力を保持した。
  弾圧の一つが魔女による弾圧。
  夜、野草を煎じる助産婦が狙われた。
  また、財産を持っている女性が狙われた。
  魔女裁判の最盛期だった。
  焚刑にされた女性を焼く煙で、ヨーロッパの空が曇っ
 たと言われるくらいだった。
  全滅した村も出た。
  キリスト教会へ告げ口することが盛んに行われた。
  助産婦が、キリスト教に狙われたのは、助産婦は、医
 者的な知識が豊富で、庶民の尊敬を集め、に頼られてい
 た。
  その社会的地位が、権威が欲しいというキリスト教に
 は目障りだった。
  キリスト教は、医学と手を結んで権威を得たいとも考
 えていた。
  その意味でも助産婦の女性の方々を無くしたかった。
  医学関係の十字マークはその名残り、何ら、美しい話
 ではない。
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(増補版)83C2/3:気になった事柄を集めた年表(1578年6月~1581年6月)

題:(増補版)83C2/3:気になった事柄を集めた年表(1578年6月~1581年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1578年10月、摂津国(大阪府北部)有岡城で荒木村重(あ
 らきむらしげ、元信長・秀吉の家臣)が叛いた。
  三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は、有岡城
 で突如、信長に対して反旗を翻した。
  謀叛の理由は諸説(信長公記、フロイス日本史)ある、
  1、村重は、義昭や本願寺とも親しかったため、その
 両者の要請を受けて反逆した。
  2、村重の家臣が、秘かに本願寺へ兵糧の援助をして
 いたため、それが信長に発覚したのではと恐れた。
  3、信長の側近との軋轢・・など。
1578年11月、織田信長が、池田恒興に摂津・有岡城(兵庫
 県伊丹市)の荒木村重の謀叛に際し、有岡城攻めを命じ
 た。
  (いけだつねおき、尾張犬山城主、摂津兵庫城主、美
 濃大垣城主、1536年~1584年)
  恒興の母は、信長の乳母(めのと)で、故に、信長と
 恒興は、乳兄弟の関係にある。
  恒興は、幼いころから信長に仕えた。
  尾張平定の戦いのほとんどを従軍している。
1578年11月、信長が、毛利水軍を破った。
1578年10月、コサック兵が、シベリアへの進出を始めた。
  シベリアに、最初に進出したのは、ロシア皇帝の軍隊
 ではなかった。
  最初に進出したのは、ストロガノフ家という特権商人
 だった。
  ストロガノフ家は、コサック軍団を雇い、シベリアへ
 進出した。
  ストロガノフ家は、世襲的に領土を持っていて、そこ
 で集めた税を中央へ納めるという封建領主的な特権商人
 であった。
  そこで、その領土を防衛するために、皇帝の了解のも
 とに、やがて、兵を雇い、武器を保持した。
  ストロガノフ家は、イェルマーク(コサックの頭領で
 シベリアの探検家)へ、東進して植民化する許可を与え
 ていた。
  このイェルマークが、この1578年10月に、コサック軍
 を率いて東進した。
  イェルマークの軍は、1581年9月には、シビル=ハン国
 (ジンギス・カンに由来する西シベリアの国)の首都を
 攻略している。
1579年5月、安土城が完成した。
  安土城の天守閣は、着工から3年後にほぼできたらしく、
 信長は、この時に、移り住んでいる。しかし・・、
  ルイス・フロイスは、自著の日本史に、この年に、安
 土城は落雷で本丸が焼失したと記している。
1579年5月2日、2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ、家
 康の3男)が生まれた(1579年~1631年)、将軍期間:
 1605年~1623年、
1579年6月、明智光秀が、信長に謀叛した別所長治に味方す
 る丹波国(京都府中部)の八上城の波多野秀治ら兄弟3人
 を降ろし、丹波国を平定した。
1579年9月、荒木村重が、有岡城を脱出した。
  信長に、1578年10月に、反旗を翻していた村重が、織
 田軍に攻められ籠城していたが、
  この時に、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城
 の尼崎城へ移った。
  毛利軍の将がここに居たため、その将へ尼崎への援軍
 要請であったという。
  村重は、その後、ここから西へ逃れることなく、この
 城で半年以上も抗戦する。
1579年10月5日、徳川家康の長男・信康(のぶやす、1559年
 ~1579年)が、家康や老臣との軋轢から切腹をさせられ
 た。
  桶狭間の戦いの後、家康が今川氏から自立する動きを
 してからも、信康は、母(家康の正室)築山殿と共に駿
 府に抑留され、今川氏の人質になっていた。
  そして、1562年、人質交換で岡崎に引き取られ、
  織田信長の娘五徳(徳姫)と、1567年に、結婚した。
  家康が浜松城に移った後に、岡崎城主となった。
  家康が徳川姓を称した後も、岡崎信康、あるいは、松
 平信康と呼ばれていた。
  信康の居る岡崎城に残った母・築山殿と、妻・徳姫と
 の折り合いが悪く、また、運悪く、家臣から武田勝頼に
 通牒する者が出るなどして、
  信長が、徳姫からの手紙で、この事を知って、家康に
 信康の処分を命じた。
  信康は、岡崎城を、1579年8月4日に出され、遠江堀川
 城、さらに二俣城へと移され、
  この二俣城で、1579年10月5日に、切腹させられた。
1579年10月、宇喜多直家が、秀吉に応じた。
  (うきたなおいえ、備前国・岡山県東南部の戦国大名、
 主君:浦上宗景→毛利輝元→織田信長、子に秀家)
  下剋上を繰り返ししながら、下剋上の人であり、その
 様な胸中に生きた人。
  この年の1979年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が、
 中国方面に進軍して来る。
  これに対抗した直家は、1579年5月に、信長に内応した
 として東美作の後藤勝基を滅ぼしている。
  しかし、この年、1579年10月に、毛利家と手を切って
 信長に臣従した。
  以後、毛利と各地で戦うが、1581年に病死した。53歳。
1580年1月17日、秀吉の兵糧攻めにあっていた別所長治が、
 兵庫県播磨の三木城で、城兵の助命と引き替えに、妻子
 兄弟と共に自害した。
1580年3月、信長は、本願寺光佐と和睦する。
1580年4月、柴田勝家が、信長の命により、北陸一揆の最大
 拠点の加賀一向一揆を討った。
1580年5月、秀吉が、第一回の鳥取城攻め。(6月説あり)
  秀吉は、三木城を陥落させたのち、因幡に入った。
  第一回の鳥取城攻めである。
  この時期、秀吉は忙しく活躍している。
  この城には、因幡国守護職(いなばのくに、鳥取県東
 部)である山名豊国が籠もっている。
1580年8月、本願寺光寿降伏、本願寺消失。佐久間信盛・林
 通勝・安藤範俊ら追放。大和諸城破却。
1580年9月、山名豊国は、秀吉の鳥取城の包囲の3か月後の
 9月に降伏する。
  山名豊国は、信長に臣従した。
1580年9月、しかし、鳥取城へ毛利輝元が攻めよせて来た。
  今度は、豊国は毛利に対して降伏した。
  鳥取城の家臣団は、毛利家への従属を主張して豊国と
 対立する。
  この時、豊国が、信長と内通していることが発覚した。
  家臣団は、城主である豊国を追放して、新たな城主を
 迎え入れる決定をした。
1581年3月18日、鳥取城の城主として、豊国の代わりとして、
 吉川経家が入城した。
1581年6月25日、秀吉が、鳥取城へ再度、派兵する事を決断
 し、この日、2万の兵を率いて出陣した。
1581年6月29日、秀吉が、因幡国(2度目の鳥取城攻め)に
 侵攻した。
  秀吉は、帝釈山に本陣を構えた。
  そして、砦を14~15をまたたく間に築き、4万の兵によ
 る鳥取城の包囲陣を完成させた(秀吉は。この包囲網を
 7月12日に完成させている)。
  そして、毛利輝元の将・吉川経家と睨み合った。
  秀吉は、また、兵糧攻めにする。
  吉川経家は、11月まで持ちこたえれば、鳥取は雪に埋
 もれるため、秀吉の大軍は包囲を続けることは出来なく
 なるだろうと読んでいた。
  この時、鳥取では米の不作による高騰に、鳥取城は、
 これに流されて兵糧米の備蓄を鉄砲や弾薬と交換してお
 り、米の備蓄が乏しかった。
  また、秀吉は、事前に、この地域の食糧を買い占めて
 いた。これもあって米価は高騰していた。
  前年の豊国の籠城の時は十分にあったが、経家の赴任
 するまでの間、前城主の追放の間の城主不在の時に、兵
 糧の多くが流出していた。
  また、秀吉は、毛利の鳥取城への兵糧送り込みを徹底
 的に阻止した。
  また、秀吉は、鳥取城を応援する支城を攻撃し、敵の
 兵站線を遮断して、城への補給の手を完全に絶つ作戦を
 講じた。
  また、村人が鳥取城へ逃げ込むように仕向けた(鳥取
 城は、尾根伝いに雁金山城、丸山城と二つの支城を持っ
 ていたが、鳥取城と丸山城を連絡する雁金山城を強硬に
 攻めて落城させたため、鳥取城には雁金山城の敗残兵や
 周囲の村人が入る形となっていた)。
  鳥取城の兵糧は、6月の進軍からわずか1ヶ月後の7月に
 は尽きて来た。
  9月頃から兵糧が底をついた。城内は、草の根や木の皮
 などで飢えをしのぐ様となったという。
  それを、食べつくすと馬を食べ、この頃から餓死する
 者が出る様になったという。
  餓死する者4000と伝えられている。
  「甫庵太平記」に、「真黒にやせ衰えた男女が多数よ
 ろめき来たりて・・」とある。
  攻め手の秀吉側には人的損害はなかった。
  秀吉の道案内した豊国は、このあまりにも悲惨な状況
 を目にした事から、俗世を絶って武人から文人となった。
  この時期の秀吉の作戦には、キリスト教に感化された
 黒田官兵衛に作戦を関わらせた。これ以後、ヨーロッパ
 によくあるキリスト教的な悲惨な酷(むご)い作戦が多
 くなっている。
  この黒田官兵衛が、NHKの大河ドラマになったが、
 キリスト教に偏するNHKは、史実無視的に、一切、放
 送しなかった。
  ただただ、キリスト教を巧妙に美化して放送する放送
 局だった。
  黒田官兵衛が、キリスト教を捨てていることも放送し
 なかった。
  そして、因みに、この山名豊国は、秀吉亡き後、徳川
 幕府に入り、家康と秀忠のお伽衆を務め、1601年には、
 家康より但馬国に6700石を貰っている。
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