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2016年4月16日土曜日

(増補版)333E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年1月~1876年1月)

題:(増補版)333E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年1月~1876年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1876年(明治5年~明治6年)出来事:
・経済および景気が順調。
   製糸業が盛況、生糸の大当たりと洋銀の相場下落に
 よる。
・東京・本所柳原(現=江東区江東橋1丁目)で「新燧社」
 が設立され、マッチの製造が始まる。
・ベルツ来日、ドイツ人の医師ベルツ博士がて来日して東
 京医学学校(東大医学部の前身)の教授として着任した。
  生理学、病理学、産婦人科学、精神医学などを講義し、
 みずらかも診療にあたった。
  また、温泉の効用を調べ転地療養に活用し、近代温泉
 医学の祖といわれた。  秘湯・名湯「草津温泉」
・東京~塩釜間の水準測量を開始。1877年に終了した。
・ 「大阪日報」(のちの大阪毎日新聞) が創刊された。
・「郵便報知」に記載された記事によると・・
  条例のため、新聞記事も○○論など、伏字がふえた。
 それに便乗し「○○亭」という寄席ができた。
1876年、流行:
・貸し自転車が登場した。
  東京下谷広小路の水茶屋で、1巡=1銭5厘で三輪自転車
 を貸し出した。
・ラムネ(飲み物)が流行した。
  ラムネは、炭酸水にレモン香料と砂糖で風味をつけた
 日本独特の清涼飲料で、ガラス玉の入った特殊な瓶に詰
 め、ガラス玉がガス圧により持ち上げられて密栓をする
 ようになっている。
・東京で藤八拳、玉突が流行。
  藤八拳は、二人が相対し、両手を開いて耳のあたりに
 上げるのを狐、ひざの上に置くのを庄屋、左手を前に突
 き出すのを鉄砲(または狩人)と定め、狐は庄屋に、庄
 屋は鉄砲に、鉄砲は狐にそれぞれ勝つ。狐拳 (きつねけ
 ん) 。
  玉突は、ビリヤードのこと。
1876年、データ:
・この年の兵役免役者率=全国平均82%、兵役を免除される
 率が82%だった。
  政府にとって、常備兵の人員を確保する事は重要な事
 なのであるが、
  兵役不適格者・徴集不能者は、徴兵検査をやってみな
 ければ分からない事で、検査会場で初めて明らかになる
 事だった。
  1875年は、77.3%の徴収不能者(検査落ち)となった。
  因みに、常備兵の人員徴集率は、1875年(88.0%)、
 1876年(48.2%)、1877年(59.1%)、1878年(77.7%)、
 1879年(79.7%)で、
  徴集候補者中の約5割弱(1876年)から8割弱(1879年)
 の人員確保となった。
  上記の様に、計画人員を満たす事は出来ていなかった。
1876年、本:
・ 「写真新文」 創刊。
  東京で初の写真雑誌の創刊だった。
・ 修史局の編纂による 「明治史要」
  修史局(しゅうじきょく)は、官立の国史編纂所。
  明治史要(めいじしよう)は、1867年10月14日の大政
 奉還から、1882年12月30日までの史実の綱文(こうぶん)
 と典拠史料名を、編年体で日を追って記した史書
・ライマン 「日本蝦夷地質要略之図」
  B.S.ライマンは、日本地質学の偉大な恩人と言わ
 れている。
  門弟たちと言語に絶する艱難辛苦を重ね、3年に及ぶ北
 海度の全島調査をした。
  この調査は、地質調査だったが、地形測量の地図作成
 という難行(道なき道を進む苛烈なもの)だった。
  石狩炭田の発見もしている。
  そして、この年、1876年5月10日に、この本を刊行し、
 日本地質学史に金字塔を打ち立てたと讃えられている。
  この5月10日は「地質の日」に制定し、ライマンの業績
 を偲ぶ日となっている。
1876年、衣:
・士族の廃刀令を発布した。
1876年、食:
・内務省が、甜菜種子を輸入し、東北・北陸諸県に配った。
  甜菜は「てんさい」のこと。
  別名:サトウダイコンで、根から作った砂糖を甜菜糖(
 てんさいとう)という。
  今でも北海道では製糖原料用の甜菜を作っているが、
 その種子の7割がヨーロッパ産で、国内産は3割となって
 いる。
・工部省が、品川にガラス製造所を設け、食器その他の製
 造をはじめた。
  この工部省品川硝子製造所(登録有形文化財)は、今、
 明治村にある。
  1873年(明治6年)、イギリス人技術者を雇い入れて、
 品川興業社硝子製造所が開設された。
  1876年(明治9年)、工部省は、この製造所を買い上げ
 て官営とし、その後この建物等が建てられた。
  壁体は、レンガ造イギリス積、屋根は瓦を葺き。
  開口部はアーチ式のものが主体。
  工部省は、日本に近代工業を根付かせ、その発展を図
 るために1870年(明治3年)設置され、目的は極めて広く、
 鉄道、土木、燈台、造船、電信、製鉄などの実技面から、
 工学技術教育に至るまで網羅された。
  早急な育成のため、設備、技術者など必要なもの一切
 を導入する方針がとられ、各地に多業種の工場が建設さ
 れ、多数のお雇い外人が来日し、指導に当たった。
  この硝子製造所でも、イギリスのガラス工ウォルトン、
 スピートなどが指導に当たり、フリントガラスの製造設
 備をもって、食器など日用ガラス器の製作をした。
・札幌ビール製造所創立
  政府の開拓使が、北海道札幌市に札幌麦酒醸造所を設
 立し、「冷製札幌ビール」を製造した。
  この商品に由来して、現:サッポロビールがある。
・熱海で湯治客に牛乳を売り出した。
1876年、住:
・東京府にガス局が新設された。
  日本で、ガス事業の立ち上げに関わってくる人物は、
 高島嘉右衛門、フランス人のアンリ・プレグラン、渋沢
 栄一の3人。
  イギリスから遅れること60年、1872年(明治5年)に、
 横浜に工場を作り、ガス灯を立て、照明として始まった。
  高島嘉右衛門は学校を作ったり、鉄道建設に力を尽く
 したりしている実業家。
  また、新橋や横浜の駅舎を作ったり、横浜の町に洋風
 建物を作ったりした。
  この時に協力したのが清水建設の創業者の清水喜助。
  アンリ・プレグランは日本に来る前、上海でガス事業
 を興す事もしていた。
  その実績から日本に招かれ、横浜と東京にガス事業を
 興した。
  ガス灯を灯す時も、日本に資材がないので、プレグラ
 ンはイギリスやフランスへ資材の買い付けに行ったりし
 て苦労した。
  この時に、高島が東京府に話を持ち掛け、共にやる事
 になり、東京の資材も一緒に買って来た。
  この時に東京府に江戸時代から江戸の町民が積み立て
 ていた七分積金という資金が残っており、その資金が使
 われたという。
  この様ないきさつから、東京に1874年(明治7年)に、
 ガス事業を興して始まった。
  1876年(明治9年)に七分積金を出した東京会議所がな
 くなり、この事業が東京府に引き渡され、東京府ガス局
 という公営事業となった。
  ガス事業は、その後発展し、民間会社でもやって行け
 る状況となり、1885年(明治18年)に、民間会社に払い
 下げられた。
・和製の手押し水汲ポンプ販売の新聞広告が出る。
1876年、その他:
・野口英世が生まれた。
・日曜日を休み、土曜日午後を休暇とする
・大阪で火葬場を新設開場する
・京都~大阪間鉄道開通
  明治期のアジアは、日本やタイ王国などの一部を除い
 て欧米列強諸国による植民地化が進んでいた。
  明治政府は、植民地化の回避のために富国強兵策を推
 し進め、近代国家の建設を掲げた。
  西洋を範とした近代化を目に見える形とするため、
  大隈重信・伊藤博文らは、鉄道の建設を主眼とした。
  ( 明治政府による、鉄道建設の決定は、1870年(明
 治3年)だった)
  これまで日本は、海上交通(海運)が栄えていたもの
 の、貨物・人員の輸送量が増えて、陸上交通においても
 効率化を図る必要があった。
  初め、東京~京都・大阪・神戸の間の、日本を支える
 三府を結ぶ路線と、
  日本海側の貿易都市である敦賀へ、米原から分岐して
 至る路線を敷設しようとした。
  しかし、この頃、版籍奉還から廃藩置県に至る政治に
 伴い、政府は、約2400万両(現在の価値でおよそ5600億
 円)もの各藩負債を肩代わりしていた。
  そのため、建設予算が下りなかった。
  民間からの資本を入れてでも、建設をおこなうべきと
 いう声もあった。
  そこで、モデル的に鉄道を見せる必要もあって、首都
 である東京と横浜間の29kmの敷設が、1869年(明治2年)
 に決定し、
  品川駅~横浜駅(現・桜木町駅)までの仮開業を1872
 年6月12日にした。
  そして、追って10月15日に新橋駅(後の汐留駅)~横
 浜駅(現・桜木町駅)が正式開業した。
  開業式は、9月12日に、新橋と横浜の両駅で行われた。
  すでに、仮営業中のこの鉄道を利用されていた明治天
 皇陛下は、式にあたって「我国ノ富盛ヲ期シ百官万民ノ
 為メニ之ヲ祝ス」と、富国への鉄道への大きな期待を述
 べられた。
  当時、人々は、この鉄道を「陸蒸気(おかじょうき)」
 と呼んだ。
  当時の運賃は、かなり高かったが、新橋~横浜間で、
 下等が当時の汽船、中等が人力車運賃を少し上回る金額
 だった。
  しかし、新橋~横浜間の片道所要時間が53分と、
 それまでの、徒歩で約10時間、人力車で6~7時間、汽船
 で3-4時間に比べ、画期的な速さであった。
  このことから乗車率は非常に高かった。
  また、この時間の短縮だけでなく、翌年から貨物の輸
 送もされて物流を大きく改善し、良さが見直された。
  しかし、財政資金難から次の鉄道建設ができなかった。
  東京~京都間を結ぶ幹線鉄道の建設は、統一国家の象
 徴として、早い時期から、当初から構想されていた。
  その経路検討に於いて、水陸交通に恵まれた東海道よ
 りも、開発の遅れている中仙道をという意見があった。
  また、外敵に対する防衛上の理由から、軍の意向もあ
 って、中山道ルートが先行した。
  しかし、中部山岳地帯への敷設は、予想以上のが難工
 事が予測できたため、東海道ルートに変更された。
  1874年(明治7年)5月11日、日本で2番目の鉄道として、
 大阪駅~神戸駅間が開業した。
  開業当初の途中駅は、西ノ宮駅と三ノ宮駅だけだった。
  当時の三ノ宮駅は、居留地が近かったため設けられた。
  この翌月に、住吉と神埼(現尼崎)が開業した。
  神戸~旧三ノ宮間は、当初から複線(日本初の複線)
 であり、他の区間は単線で、すべて地上に敷設された。
  天井川の石屋川、住吉川、芦屋川は、川底トンネルを
 掘った。
  石屋川の川底トンネルは、日本で最初の鉄道トンネル
 である。
  この時の神戸駅舎は、英国風レンガ造り平屋建て。
  この建設には、イギリスで募集した外債の一部をあて
 たが足りず、政府資金で補った。
  そして、大阪から京都への線路延伸に3年を要した。
  資金部族の中、1874年(明治7年)6月1日に、神崎駅
 (現在の尼崎駅)、住吉駅が開業した。
・東京府立病院内に、産婆教授所設立事業が開始された。
・国道・県道・里道の制が施行された。
  太政官布告第60号により、道路は、国道・県道・里道
 の3種類に分けられ、
  江戸時代以来の主要な街道は、国道に指定されて番号
 が付けられた。
・秀英舎・三井物産・三井銀行などが設立された。
・[独]オットーが内燃機関を発明した。
1876年1月9日(12月13日)日本陸戦隊が、朝鮮軍民と釜山
 で衝突した。
1876年1月12日、医術開業試験法(いじゅつかいぎょうしけ
 んほう)が制定された。
  医師の開業試験で、1916年まで行われた。
  医術開業試験は、西洋医学の知識を問う問題が出題さ
 れた。
  それまでは、医師といえば、医師は漢方医が主流であ
 った。
  しかし、この医術開業試験の導入により、新規に開業
 する医師は、西洋医学の知識が必須となった。
  これは、近代日本での医師の西洋化において画期的な
 ことだった。
1876年1月13日、この日に記録されたマイナス9.2度が東京
 の最低気温。
..
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2016年4月14日木曜日

(増補版)332E1/3:気になった事柄を集めた年表(1875年10月~1875年12月)

題:(増補版)332E1/3:気になった事柄を集めた年表(1875年10月~1875年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1875年10月31日(明治8年10月3日)明治天皇陛下、朝鮮処
 分意見を奏聞(そうもん、天子に申し上げること)。
1875年11月1日(10月4日)明治政府が、国税として煙草税
 を創設した。 
  この年に雑税整理を行なった。
  雑税整理は、幕府の時代から続く各地の約1500種類の
 雑税を全国的に整理し、国税と地方税の区別に先鞭をつ
 けた税制改革だった。
  この雑税整理に伴って煙草税則が公布され、翌年に施
 行された。
  これまでは、煙草は各地で独自に課税されていた。
  これまで税が地租に偏り過ぎていたために煙草税が創
 設された(租税収入の8割が地租だった)
1875年11月1日、仮名垣魯文(編集)の『仮名読新聞(かな
 よみしんぶん)』が横浜で創刊された。
  明治時代初期の代表的小新聞で横浜毎日新聞会社(現
 :毎日新聞社)の創刊。
  魯文の「猫々(みょうみょう)奇聞」など、軽妙洒脱(し
 ゃだつ)な筆で人気を集めた。
  1877年3月から東京に進出した。
1875年11月14日、明六雑誌が停刊した。全43号。
  福沢諭吉らが、出版への圧力に抗議して、『明六雑誌』
 を自主廃刊した。
  定価:3銭~5銭(頁数により異なる)
  月に平均2回ないし3回刊行、
  使用紙:和紙(雁皮紙)
  発行部数:毎号平均3205冊余発行(2840冊説あり)
  サイズ:17センチ×12センチ(B6版相当)または、21
 センチ×14.5センチ(A5版相当)、12頁~24頁。
  因みに、「演説」は福沢の作った言葉、
  変な和製英語のカタカナ語の多い現在であるが、福沢
 のこれらの功績は大きい。
  「個人」という訳語の定着もこの頃。
  明六雑誌は、「人々」「各個」「奴隷根情」などの訳
 語を多く、世に送り出した。
  この様な英傑が、今は居ないことを憂える。
  特に、ラジオの株の放送は、意味不明の和製英語のカ
 タカナ語の連続で、株主への説明だと称して、説明にな
 っていない状況となっている。
1875年11月22日(10月25日)征韓論で、板垣退助・後藤象
 二郎らが参議を辞職 した。
  板垣退助は、1875年に参議に復帰し大阪会議に参加し
 たが、間もなく辞職して自由民権運動を推進した。
  後藤象二郎は、1873年に、征韓論争に敗れて板垣退助、
 西郷隆盛らと共に下野した(明治六年政変)。
  その後、板垣や江藤新平・副島種臣らと共に愛国公党
 を結成し、
  1874年、民撰議院設立建白書署名の1人となった。
  そして、1874年に、実業界に転身して商社「蓬莱社」
 を設立した。
  約55万円で、政府から高島炭鉱の払い下げを受けて経
 営に乗り出したが、
  1881年に、放漫経営のため破綻し、福澤諭吉の要請で
 三菱の岩崎弥太郎に売却したりした。
1875年11月24日、阿部信行(あべのぶゆき、陸軍大将、内閣
 総理大臣)が金沢で生まれた。
  第二次世界大戦の終戦間際の最後の朝鮮総督であり、
 日本統治終了以後の朝鮮半島が、無政府状態に陥るのを
 恐れ、民衆保護のために第17方面軍司令官・上月良夫と
 ともに朝鮮へ自治権を与え、朝鮮人民共和国を成立させ
 た。
1875年11月28日、勝海舟、願いにより本官免ず。
  勝海舟が、元老院議官になったが、ほどなく止め、著
 述に専念した。
  氷川清話には・・
  この頃より、氷川の小室に起臥(きが、起きる事と寝
 ること。また、生活すること)し、
  内は、旧主家の家政に注意し、
  外は、窮生(きゅう、貧しい、困窮した)を救い過激
 を鎮撫し、余暇著述に心を寄せ20余年を送る。
  その間、流行の転地旅行もせず、又、官民貴賤を分か
 たず来客と会い、中外(ちゅうがい、うちとそと)の事
 情を詳にし、貢献(こうけん、ある事や人のために、自
 分の持っている力をできる限り出して、力になること)
 する所少なからず(氷川清話)
1875年11月29日、最初の女子師範学校、東京で1874年に開
 校し、1885年に、東京師範学校への統合された。
  東京女子師範学校 :1874年に設立された官立師範学校。
  1885年の東京師範学校への統合を経て、
  1890年に「女子高等師範学校」として分離・改組、
  1908年、東京女子高等師範学校に改称された。
  現在のお茶の水女子大学の旧制前身校。
  お茶の水女子大学のホームページには、1875年11月29
 日に、「東京女子師範学校」として設立と記されている。
1875年11月29日、新島襄が、京都に同志社を開校した。
  新島襄が、京都寺町に官許同志社英学校を開校する。
  京都府知事槇村正直、府顧問 山本覚馬の賛同を得た。
  上京第22区寺町通丸太町上ル松蔭町18番地高松保実邸
 の半分を借りた校舎。
   教員は新島襄とJ.D.デイヴィスの2名。生徒8人であっ
 た。
  新島襄初代社長に就任。
1875年12月2日(11月5日)イギリス公使が、小笠原諸島を
 日本領と認めた。
  1861年12月17日(文久元年11月16日)、幕府は、列国
 公使に小笠原の開拓を通告した。
  1862年1月(文久元年12月)、外国奉行・水野忠徳の
 一行が咸臨丸で小笠原に派遣された。
  1862年1月18日、咸臨丸は二見湾に投錨した。
  1875年12月21日(明治8年)明治丸が父島へ行く。
  1876年の明治政府による領有宣言。
  内務省所轄とし、日本の統治を各国に通告した。
  1882年(明治15年)居住していた20戸72人全員が、帰
 化し日本人となる。
1875年12月7日(11月10日)千島樺太交換条約が成立し、公
 布された。
1875年12月14日(11月17日)東京米倉の浅草文庫が公開さ
 れた。
1875年12月24日(11月27日)最初の鉄道用鉄橋を六郷川に
 架設竣工、この日、開通式(工費34万円、英国セルヴィ
 ントル監督)
1875年2月、フランス 「第三共和国憲法」 が制定された。
  第三共和政下で、議会の多数派が多くの政党・政派の
 離合集散によって不安定であった。
  そのため、内閣の変動は著しく、この共和政の存続70
 年間に合計108回もの内閣の改造・更迭があった。
  政治の実権は、官僚が握り、さらに、政治を基本的に
 動かすものは政治家・官僚と結び付く大金融資本であっ
 た。
  第三共和政は、ブルジョアジーの優位性をまず保障し
 た。
  そして、社会的不平等を存在するままにした。
  しかし、下級市民層の青年にも昇進の可能性を与え、
  1882年の非宗教的無料初等義務教育法の制定以来、広
 くフランス民衆の中に共和主義的意識を定着させた。
1875年3月3日、歌劇「カルメン」が、パリで初演された。
  カルメンは、フランスか激の代表作として世界的に人
 気があるが・・、
  この時、パリのオペラ=コミック座で初演された時は、
 不評であった。
  作曲家のジョルジュ・ビゼーは、初演から間もなくに
 死去した。
  初演後、エルネスト・ギローにより台詞をレチタティ
 ーヴォに改作されて上演され、人気を博すようになった。
1875年5月1日(3月26日)李承晩が生誕(黄海道・京城北
 方の農村)。
  家は両班(りょうはん・やんばん・りゃんばん) だっ
 た。
  両班は、民衆搾取の身分と言われている。
1875年8月25日ドーバー海峡初横断。
  記録に残っている中で最初にドーバー海峡を泳いで渡
 ったのは1875年8月25日、イギリスのドーバーを出発し21
 時間45分掛かって8月25日フランスのカレーに到着した
 イギリス人男性マシュー・ウェッブである。
1875年12月(11月)イギリスが、スエズ運河の実権を握る。
  イギリスは、スエズ運河を奪ったも同然な価格でエジ
 プトから手に入れた。
  スエズ運河の株は4000万円にした。
  フランス人が作っているときには、イギリスは、悪辣
 な方法で妨害し、出来ると自分のものにした。
..
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2016年4月13日水曜日

(増補版)331E1/3:気になった事柄を集めた年表(1875年6月~1875年10月)

題:(増補版)331E1/3:気になった事柄を集めた年表(1875年6月~1875年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1875年6月15日(5月12日)最初の大審院長(代理)に、玉
 乃世覆(たまのよふみ、裁判官)が任命された(院長は
 欠員)。
  玉乃世覆は、清廉潔白な精神の持ち主で、その公正な
 裁きにより、「明治の大岡」と賞讃された。
  1878年9月13日に、正式に初代大審院長となった。
1875年6月23日(5月20日)メートル条約が締結された。
  度量衡の国際的な統一を目的としてメートル法に関す
 るメートル条約が成立した。
  14か条の条約本文と附録規定からなり17か国の代表に
 よりフランス・パリで締結された。
  後に、フランス政府は、各国に条約加盟を勧誘した。
  日本も在ドイツ公使を通じて勧誘を受けるが加盟は見
 送られた。
  日本政府が定めた度量衡取締条例(明治8年太政官達135
 号)では引き続き尺貫法が用いられた。
  1886年(明治19年)4月16日、日本でメートル条約が公
 布される。前年の加盟によった。
  そして、その後に、条約に加盟するも、尺・貫が一般
 に広く用いられた。
  1891年(明治24年)3月24日、度量衡法(明治24年法律
 第3号)が制定された。
  尺・貫をそれぞれ定義し、メートル法の計量も認める
 間接的なメートル法採用体系になった。
  尺貫法という言葉ができた。
  1921年(大正10年)4月11日、メートル法を基本とする
 度量衡法の改正「メートル法度量衡法」がなされた。
  尺貫法からメートル法へ国内単位の統一をはかった。
  1951年(昭和26年)6月7日、度量衡法が廃止された。
  日本国憲法の地方自治の精神を取り込んだ計量法が制
 定された。
  1959年(昭和34年)1月1日、土地・建物の表記を除き
 メートル法が完全実施された。
1875年6月26日(5月23日)火葬の禁止が廃止された。
  火葬禁止令が解除された。
  1873年(明治6年)7月18日に、太政官布告による火葬
 禁止令がだされた。
  明治政府が、仏教での葬法としての火葬に反対した神
 道派の主張を受け入れたためだった。
  しかし、火葬を禁止したことで仏教徒の反発が強く、
 また、衛生面から好ましいとの意見があり、
  都市部での土葬スペース不足という現実には逆らえな
 かった。
1875年6月27日(5月24日)大審院(だいしんいん)が設置
 された(4月14日説あり)。
  太政官布告 59号によって太政官の右院を廃し設置され
 た旧司法制度における最高の裁判所。
  裁判所構成法 (1890年・明治23年法律6号) でも最高の
 裁判所として認められた。
1875年7月1日(5月28日)市ヶ谷刑務所
  東京に市ヶ谷刑務所ができた。
  これにより、伝馬町牢屋が廃止された。  
  伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)は、江戸時
 代、全国最大の牢屋だった。
  天正年間(1573年~1591年)常盤橋門外に置かれたのが
 最初。
  延宝5年(1677年)に、この地に移され、江戸町奉行の
 支配だった。
1875年7月3日(6月1日)東京気象台が設立された。
  東京赤坂に初めて気象台が設立された(中央気象台の
 前身)
  東京・赤坂葵町に、東京気象台(気象庁の前身)を設
 立し、定時観測を開始した。
  東京府第2大区(赤坂区)溜池葵町内務省地理寮構内
 にて東京気象台が気象業務を開始。
  1887年(明治20年)1月1日、中央気象台として発足。
 管轄は内務省。
1875年7月20日(6月18日)皇后陛下が、赤坂御所に田植を
 観給う。
1875年7月22日(6月20日)明治天皇陛下、車駕親臨して、
 初めて地方長官会議を東京浅草本願寺に開き給う(議長
 は木戸孝允)
  地方官会議(氷川清話)
1875年7月30日(6月28日)新聞紙條例
  新聞紙条例定める。
  1875年(明治8年)新聞紙条目ヲ廃シ新聞紙条例ヲ定ム
   (明治8年太政官布告第111号)により、従前の新聞
   紙発行条目(明治6年10月19日太政官第352号(布))
   を「廃更」するかたちで成立。
  1883年(明治16年)新聞紙条例改正(明治16年太政官
   布告第12号)により全部改正。
  1887年(明治20年)新聞紙条例改正ノ件(明治20年勅
   令第75号)により全部改正。
  1909年(明治42年)新聞紙法(明治42年5月6日法律第
   41号)により廃止。
1875年7月30日(6月28日)言論圧迫の讒謗(ざんぼう)律
 が定められる。
  讒謗律:(太政官布告第110号)で、明治初期の日本に
 おける、名誉毀損に対する処罰を定めた太政官布告。
  政府は、この日、讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条
 例を公布した。
  官吏が、公私について批判することを一切禁止し、反
 政府的な論議をする新聞の発行を停止した。
  責任者には体刑を科した。
  この頃、自由民権運動が活発な時期であり、8日前に
 公布された新聞紙条例とあわせて、新聞、風刺画等によ
 り官吏等当時の為政者を批判することを防ぐ為に公布さ
 れたという見方が多数。
  讒謗律に反対した東京曙新聞の末広鉄腸は、布告非難
 の投書を掲載し、
  また、自ら、この布告への反論の弁を載せたが、同布
 告によって裁判にかけられ、2ヵ月の禁錮刑に処された。
  この布告に基づく逮捕者は1875年末までで7人、
  1876年には40人に。
1875年7月(明治8年6月)「朝野新聞」が、新聞紙条例の讒
 謗律が公布された時、たびたび発行停止を受けた。
  11月(10月)「東京曙新聞」の末広鉄腸を編集長に迎
 えた。
  1876年11月、社屋を銀座4丁目に移転(現:和光の地)
  イギリス人ブラックが、「日新真事誌」を創刊した地
 を買い取った。
  新聞紙条例と讒謗律〈ざんぼうりつ〉の発布は、発行
 許可制、持主・編集人・印刷人等の法的責任、騒乱煽起・
 成法誹毀(ひき、悪口を言うこと)の論説取締りなど。
  高揚してきた自由民権運動に対し、明治政府が反撃、
 弾圧を加えるためだった。
1875年7月、島津久光、不平帰国(氷川清話)
  明治8年には島津久光が政府に不満で帰国する(氷川清
 話)
  欧化政策や、三条実美、岩倉具視らを批判する上奏を
 行って辞職し、帰国した。
  以後、修史の業に従事し、
  2年後の西南戦争には、久光は、まったく加担していな
 い。
1875年8月1日(6月30日)元老院の議案条令が定められた。
  1875年4月14日の「立憲政体を立つるの詔」に基づき、
 それまでの太政官左院に代って設立された元老院(立法
 機関)。
  同時に右院に代って大審院(司法機関)がおかれ、
  残置された正院とともに三権分立の形式がとられた。
1875年8月5日(7月5日)元老院会議が、初めて開かれた。
1875年8月11日(7月11日)東京・新橋駅前に、田中久重が、
 電信機製作の田中製造(東京芝浦製作所の前身)を設立
 した。
1875年8月12日(7月12日)(明治6年創業の)抄紙会社(後
 の王子製紙)が、西洋紙の製造を始めた。
  1876年1月12日(明治8年12月16日)王子抄紙会社(現
 =王子製紙)が開業した。
1875年9月6日(8月7日)末広鉄腸が、筆禍で禁獄処分。
  末広鉄腸が、新聞紙条例批判の記事(投書)を『曙新
 聞』に掲載して処罰された。
1875年9月11日(8月12日)東京芝浜に離宮を設けた(浜離
 宮)
1875年9月16日(8月17日)清国天津に日本領事館を設置し
 た。
1875年9月20日、江華島事件(~22日)
  朝鮮江華島で衝突事件が起きた。
  この事件の結果、翌年、江華条約(日朝修好条規)が
 結ばれた。
  朝鮮の西南海岸を航海中の日本軍の軍艦が、江華島の
 砲台から日本の威圧だと砲撃された。
  (日本は、沿岸の民家の火事を発見して消火をしたり
 していたが、また、求められた乗船も許可したりしてい
 たが・・)。
  日本艦が投錨して、端艇を出している所をいきなり砲
 撃された形で、
  朝鮮と日本との砲撃戦となり、日本は砲台を破壊した。
  朝鮮は、清国の冊封体制で、清国の属国的立場となっ
 ていて、鎖国中であった。
  日本は、中国と同等の立場で交易したいと、開国につ
 いて交渉を持って来ていた。
  しかし、話し合いは、なんだかんだと延期されたり、
 国書を何度も送ったが拒否されたり、無視されたり、対
 馬の宗氏を窓口にしてなどの条件が出されたり、服装の
 事をとやかく言われたり、順調に進んでいなかった。
  1876年(明治9年)2月26日に至り、日朝修好条規が締
 結された。
  この条約によって、朝鮮は開国したが、この事によっ
 て、朝鮮への宗主権(そうしゅけん、他国の内政・外交
 などを支配・管理する権利)を主張する清国との対立を
 引き起こすこととなった。
  1882年(明治15年)7月23日の壬午事変(じんごじへん)、
 1884年(明治17年)12月4日の甲申政変(こうしんせいへ
 ん)を経て、日本は清国との間に、天津条約を結ぶに至
 っている。
  しかし、天津条約による小康状態は長く続かず、つい
 に1894年(明治27年)、日本軍と清軍は衝突し、日清戦
 争になる。
1875年9月21日、江華嶋事件で、日本軍が、朝鮮永宗島第一、
 第二砲台を攻略した。
1875年9月21日(8月22日)日露樺太千島交換条約を批准し
 た。
  樺太千島交換条約が批准され、樺太がロシア領、千島
 全島が日本領となった。
  樺太千島交換(氷川清話)
1875年9月(明治8年8月)身体を質とする借金を禁止した。
1875年9月、青森のリンゴの栽培が始まった。
  1871年(明治4年)、開拓次官・黒田清隆が、アメリカ
   から苗木を購入し、東京の青山官園に75種のりんご
   を植えたのが、りんご栽培の始まりとされている。
  1874年(明治7年)この年から、内務省勧業寮が、りん
   ごの苗木の全国配布を行い、各地で試作された。
  1875年(明治8年)内務省勧業寮から青森県庁に苗木が
   3本配布され、県庁構内に植えられた。
   明治13年に結実。
   青森りんごの始まり。
  1877年(明治10年)弘前市の養蚕家、山野茂樹が試植
   したりんごが初結実。
   後の山野早生(紅魁・べにさきがけ)という品種。
   紅魁は、明治時代における「青森県のりんご7大品種」
   の一つでしたが、現在では栽培されていない。
  1891年(明治24年)鉄道による東京へのりんごの出荷
   が始まった。
  1894年(明治27年)北海道から清国へ、りんご113斤(
   約68kg)を輸出した。
   明治30年~38年頃、病害虫による第一次生産危機。
  1899年(明治32年)青森の果実商、堀内喜代治がロシ
   ア領ウラジオストック港へりんごを直輸出。
  1900年(明治33年)モニリア病が大発生。皆無作園も
   出た。
  1901年(明治34年)りんご酒醸造、販売が開始された。
  1902年(明治35年)綿虫、シンクイ虫、腐乱病などの
   病害虫が発生。伐採する園地が続出した。
  1905年(明治38年)りんごの袋かけが始まった。
   現在は、高品質りんご作りのための袋かけだが、
   元々は、病害虫防除のための作業。
  1906年(明治39年)津軽林檎輸出組合が設立され、上
   海にりんごが直輸出される。
  1910年(明治43年)生産量130万箱に。りんご大豊作(
   前年の3倍)で価格が暴落した。
   明治43年~大正6年頃、病害虫による第二次生産危機。
   2000ヘクタール(2000万㎡、東京ドームが1540分の
   広さ、渋谷区の1.3倍)が廃園になった。
1875年10月1日(9月3日)出版条例が改正布告された。
  太政官布告135号によって旧条例は廃され、新たな出版
 条例が制定された。
  版権保護規定をより詳密にして、内務省に届出をして
 出版する事にし、版権を免許で得ることにした。
  そして、世に害をなすと認めるときは出版販売を禁じ
 る規定もでき、
  罰則規定も厳しくなった。
1875年10月23日(9月25日)国の基本、日本政府の海運政策
  三菱汽船會社から郵便汽船三菱會社へ、そして、日本
 郵船会社へ。
  1872年は、三川商会だった、
  そして、1873年に、三菱商会となり、
  1875年に、三菱汽船会社と改称した。
  ここまでは、岩崎彌太郎のまったくの個人事業だった。
  しかし、政府の海運振興策によって三菱に助成が与え
 られると同時に、種々の制限も受けることとなった。
  1875年10月23日(明治8年9月25日)、三菱は、政府の
 海運助成に関する命令書を受け、それにより、内務省等
 に会計の月報を提出、検査を受けることになった。
  また、1875年、民営保護を海運政策の基本と定めた政
 府は、三菱汽船会社に大量の政府所有船を払い下げ、巨
 額の補助金を支給した。
  三菱もまた、台湾出兵、西南戦争における軍事輸送に
 活躍した。
  さらに、1875年に、政府より海運を一任されて私企業
 的性格は一変し、郵便汽船三菱会社と改め、新発足した。
  そしてまた、1875年(明治8)、三菱商会は、政府の命
 を受けて、日本発の外国航路となる横浜~上海定期航路
 を開設した。
  従来この航路を独占していたアメリカのパシフィック
 メール社は、9ヶ月におよぶ運賃切り下げ競争に音をあげ、
 日本沿岸より撤退した。
  次いで、航路を開設したイギリスのP&O社も、政府の
 支援を受けた郵便汽船三菱会社の抵抗により、半年後に
 航路を閉じた。
  そして、この二社との競争を退けて日本の大型汽船の
 約2/3を手中に収めた。
  そして、1885年(明治18年)に至り、郵便汽船三菱会
 社と共同運輸会社は合併し、
  新会社「日本郵船会社」を誕生させた。
  新会社の社旗は「二引の旗」と呼ばれた。
  白地に引かれた赤二本には、郵便汽船三菱会社と共同
 運輸を象徴し、地球横断と社運の発展を願う思いが込め
 られていた。
1875年10月(9月)森有礼(もりありのり)が、ホイットニ
 ー(言語学者、アメリカ人)を招いて商法講習所を設立
 した。
  森有礼は、1873年の著作「日本の教育」で、「日本語
 廃止・英語採用論」を唱えていた。
  今・現在も、英語化が言われている・・が・・、
  しかし、2000年にノーベル賞を化学部門で受賞された
 白川英樹氏が、(読売新聞、2016・2・18)で反対の論理
 を言われている。
  題は、「日本語で学び、考える科学」
  「科学技術振興機構がアジアの高校生を招く「さくら
 サイエンスハイスクール」という事業で毎年、有機ポリ
 マーEL素子を作製する実験教室を行なっている。
  2000年のノーベル化学賞受賞業績となった導電性プラ
 スチックを使った応用実験である。
  各国から選び抜かれた高校生だけに、内容を理解して
 楽しそうに実験に取り組んでいる。
  実験の指導は英語で行う。
  生徒たちと互いに母国語以外の言語でコミュニケーシ
 ョンしながら、母国語と学習に使う言語との関係につい
 て思いを巡らせた。
  というのも、ノーベル賞受章発表直後のメディアの取
 材攻勢の中で、外国の経済記者から意表をつく質問があ
 ったからだ。
  「アジアで日本人のノーベル賞受賞者が多いのは何故
 か?」。
  一瞬考え、「日本では日本語で書かれた教科書を使い、
 日本語で学んでいるからではないか」と答えた。
  アジアでは英語の教科書を使い、英語で授業をする大
 学が少なくないと聞く。
  もちろん、日本の大学でも英語の教科書を使う場合は
 あるが、英語による授業は極めて限られている。
  この時の記者の質問に正しく答えられたかどうかにつ
 いて自信がなく、私の中で科学と言語の関係はずっと課
 題になっていた。
  この課題に一つのヒントを与えてくれたのが、作家の
 丸谷才一氏である。
  丸谷氏は「考えるための道具としての日本語」と題す
 る論評で、「言語には伝達の道具という局面のほかに、
 思考の道具という性格がある。
  人間は言葉を使うことが出来るから、物が考えられる」
 と書いた。
  私はこの主張に意を強くし2002年、「月刊国語教育研
 究」の巻頭言で、日本語で科学を学べることの重要性を
 論じた。
  これまで日本の科学者たちは日本語を思考の道具とし
 て使ってきた。
  江戸時代から明治維新を経て、海外から日本に伝わっ
 てきた科学や文化は、先人たちが外国語の文献と取り組
 み、思考を巡らせて翻訳してきた言葉と概念によって、
 今の時代へとつながって来ている。
  その恩恵を私たちは受けて来たのだ。
  日本人の母国語である日本語で表現できなければ、英
 語などの外国語できちんと科学を理解したり表現できた
 りするはずがない。
  日本語で論理的に考えられない人は、英語でも論理的
 に考えられないだろう。
  京都大学の山極寿一学長は、グローバル人材の育成に
 ついて、英語は習熟する必要はあるが道具の一つでしか
 なく、大学生活で重要なのは考える力を身につけること
 で、それには日本語つまりは母国語で考えるのが一番だ
 と述べている。
  英語はコミュニケーション言語として大事であり、学
 ばなくてよいという事ではない。
  だが私自身、必要に迫られて学んだ外国語によるより
 も、長年使いこなしてきた母国語の方が、より核心に迫
 った理解ができるし、より発想の自由度が大きいと感じ
 てきた。
  アジアの高校生との実験教室は、科学を母国語で学ぶ
 意義を確信する機会となった」。
..
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2016年4月12日火曜日

臨時ブログ:キリスト教よ! 日本を貶(おとし)めるのはいい加減にしなさい。

臨時ブログ:キリスト教よ! 日本を貶(おとし)めるのはいい加減にしなさい。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1805年、熊本県天草市の崎津集落。
  近くの集落の・・田平(たびら)、江上(えがみ)は、
 キリシタン集落ではなかった・・が、
  この崎津集落は、キリシタン集落だった。
  禁教令下の1805年に、
  住民の7割にあたる1710人がキリシタンだった。
  ここが「天草崩れ(あまくさくずれ)」の舞台となっ
 た。
  この「天草崩れ」と言ったって日本の宗教に対する温
 厚さが分かる。
  日本が宗教に対して、キリスト教に対して・・温厚だ
 ったことが分かる。
  キリスト教は、ひたすら過激に、日本を貶める様に言
 うが・・、
  1805年に、肥後国天草でキリシタンが発覚した事件が
 起きた。
  天草の村々で5000人のキリシタンが発見された。
  しかし、幕府は穏便に事を処理した。
  当時、幕府は、本人でなくても、親や知人でも誰でも、
 「キリシタンではない」と言えば許した。
  この時も、奉行は、強硬な事は行わなかった。
  穏便に、事は落着している。
  この崎津集落だって、民がペトロとか、ジュアンとい
 う洗礼名を持ったりしていて、また、「あんめんりうす
 (アーメン・デウス)」と唱えたりして・・キリスト教
 らしくしていたかもしれないが、穏便に事は済まされた。
  また、この崎津の民は、寺とのつながりも、また持っ
 ていて、檀家となっていたりもした。
  そしてまた、神社とのつながりなども持っていて、氏子
 にもなっていたりした。
  江戸幕府は、厳しい取り締まりもしていないのは、キ
 リスト教だけではなかった。
  それなりの、キリスト教も信仰していただけ・・とい
 う、・・これは、キリシタンではない。
  キリシタン風仏教徒だったり、キリシタン風氏子だっ
 た・・それだけ。
  だからと言って、キリシタン的と分かっても、先祖か
 ら伝わる受け継がれた風習を行なわない「心得違(ここ
 ろえちがい)」と言われるくらいで許され、せいぜい信
 心具を没収されただけだった。
  キリスト教が、嘘のプロパガンダ(嘘宣伝)で、厳し
 い弾圧があったと言うのは、まったくの嘘。
  結局、この地も、それ以上のものはなく、幕府は黙認
 していた。
  結果、キリシタン風の信心は維持された(維持された
 と言っても、まったくキリスト教ではない)。
  世界遺産へ登録申請では、この辺のデッチアゲが指摘
 された。
  日本が、ひたすらキリスト教を弾圧したところを隠れ
 キリシタンで宗教を守った・・と、キリスト教的に美し
 くデッチアゲタ・・しかし、そのデッチアゲが見破られ
 て指摘された。
  しかし、そのデッチアゲの陰に、貶(おとし)められた
 日本の姿があった。
  キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)によって、嘘の姿
 が作り上げられていた。
  キリスト教がデッチアゲタ杉浦千畝の話もそうだった。
  また、駄目だの返事があったこの世界遺産申請は、城
 跡、集落、教会堂など14資産で申請していたが、「幕末
 ~大正」の近年の教会堂については、アジア各地に類例
 があって、まったく、「特別のものではない」と指摘さ
 れた。
  崎津集落のキリシタン集落の教会堂だって、1934年と、
 最近、建てられたという申請するものとしては、まった
 く新しいというお粗末さで、世界遺産登録の主旨に沿わ
 ない建物。
  建設場所が、踏絵が行われた庄屋屋敷の跡だと言った
 って、当時、一時期、あちこちで踏絵はした。
  特別なものではない。
  崎津諏訪神社は、天草崩れの取り調べがされた場所だ
 と言ったって、一時期、あちこちにあり、これとて特別
 ではない。
  信仰組織の指導者の屋敷跡があると言ったって、特別
 性はない(ただ、宗教指導者の家というだけ)。
  また、伝承的なこと、言い伝え的で、デッチアゲ的(
 噂話)であり、記録などの裏付けのない、作り話的にな
 っている。
  何でも寄せ集めて、伝承レベルで無理にデッチアゲて
 いる。
  実際、厳しい禁教なんて、一時期を除いて、日本には
 ないのだ。
  それを、ヨーロッパの様な弾圧があったと嘘の話をデ
 ッチアゲるから、日本が、また、慰安婦問題の様に、な
 い話をでっちあげられるのだ。
  宣教師だって、幕府の指示に従って行動をした者には、
 日本は何ら危害を加えていない。
  ただ、幕府の指示に従わず、日本に潜伏して、法令を
 犯していた宣教師が、取り締まられただけなのだ(犯罪
 行為をすれば、取り締まられるのは当たり前です)。
  キリスト教を止めた宣教師も多かったが、日本の方が、
 筋が通っているから、棄教した宣教師が多かったのだ。
  この事も、世界遺産に登録申請に記入するべきだ(一方
 的な、キリスト教に都合の良い作り話は駄目です)。
  幕府の基本姿勢は、『事を荒立てない』だったのです。
  ヨーロッパとまったく違うのです。
  この事も登録申請書に記入すべきです。
  キリスト教の都合の良い書き方をしていると、日本が
 間違った捉えられ方をする。
  キリシタン大名は、キリスト教宣教師から武器・弾薬
 が欲しいから、キリスト教宣教師の言う通り、仏教の弾
 圧をしただけなのです。
  また、神社も壊したりもして、キリスト教側が弾圧側
 になっているのです。
  壊したお寺の資材が復旧できない様に別なところに使
 ったりしている。
  このキリスト教側の弾圧行為も登録申請書に記入しな
 さい。
  禁教にしたのは、キリスト教が、日本に対して領土的
 野心を持っていたからで、キリスト教側に原因の要因が
 あるのです。
  そもそも、キリスト教が悪いのです。
  キリスト教宣教師は、その片棒を担いでいる事が、は
 っきりわかったからなのだ。
  信長は、知らなかったからキリスト教を許したが、
  秀吉は、途中で分かったから、途中からキリスト教の
 禁教へと変わった。
  何しろ、キリスト教が悪い。
  秀吉は、キリスト教のルソンの本部に『領土的野心は
 持たない様に』という書簡を送っている。
  日本女性を奴隷として売る行為も行っていた。
  これも世界遺産の登録申請書に記すべきだ。
  日本は、宗教に非寛容という事をキリスト教は言いた
 いのだろうが、これは事実と違い、日本を貶(おとし)
 める行為だ。
  残虐な行為は、日本はしていない。
  ひたすら、キリスト教は、日本を貶めようとしている。
  ヨーロッパの様な残虐行為をしている様にしている。
  その様な日本だと思わせようと、卑劣な行為をキリス
 ト教はしている。
  このヨーロッパと真逆な違いも登録申請書に記入せよ。
  日本を貶めないでください。
  慰安婦の問題で朝日新聞が日本を貶めたが、
  キリスト教にもこのような傾向があり、
  この様な行為を、また、しようとしている。
  自分の宗教=キリスト教が有利ならば、日本を貶める
 行為を、無節操にやる宗教となっている。
  キリスト教は、自分に利があれば何でもやる宗教とな
 っている。
 (参照して下さい:読売新聞、2016・4・6)
..
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2016年4月11日月曜日

(増補版)330E1/3:気になった事柄を集めた年表(1875年3月~1875年6月)

題:(増補版)330E1/3:気になった事柄を集めた年表(1875年3月~1875年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1875年3月13日(明治8年2月6日)森有礼が、初の契約結婚
 を行った。
 (西洋風のハイカラな結婚式)・・というが??
  森有礼は、論文「妻妾論」に・・、
 「男女が同等であること、夫には妻を扶養する義務と妻
 から扶助される権利があり、妻は夫から扶養される権利
 と夫を扶助する義務があり、夫婦が互いにそれを守るこ
 とが国の基ともなる」と記した。
  夫が妻を扶養し、妻から扶助されるのが基本としてい
 る。
  つまり、働きに出る夫と、家で扶助する妻の形しか森
 有礼の頭にはない。
  「働きに出る妻」は完全にない森の頭の中身だった。
1875年3月18日(2月11日)大阪會議が開催された(旧暦1月
 ~2月説あり)。
  征韓論きっかけにして、政治は混乱し、また、農民一
 揆や自由民権運動などで、世も混乱し、政府に対する不
 満は、全国で顕在化していた。
  この様な事態を憂慮し、対立していた面々が会談した。
  参議・伊藤博文と、在野の前大蔵大輔・井上馨の仲介
 によって、
  参議・大久保利通と在野の木戸孝允、板垣退助らが、
 大阪において秘密政治会談を行なった。
  会談に臨む大久保・木戸・板垣の思惑は・・、
 ☆大久保は、木戸を政府へ復帰させることにより、自ら
  の権力集中に対する批判を和らげる良い機会と考え、
  この会談に応じたが、板垣に対しては政権に復帰させ
  る必要性を感じていなかったため、当初、大久保・板
  垣両者は、面会にいたらなかった。
 ☆木戸は、三者協議において板垣と連合することにより
  大久保の専権を抑制し、自らの発言権を回復する意図
  があったことから、板垣とともに政府に復帰すること
  を強く望んでいた。
 ☆板垣は、この会議で木戸を利用して議会政治導入を大
  久保に約束させることを企図しており、議会制導入に
  積極的であった木戸に、議会早期開設の必要性を説き、
  木戸を通じて、大久保が立憲体制を政府方針とするこ
  とを画策した。
  この結果、将来国会を開く準備として元老院を設ける
 こと、裁判の基礎を強固にするため大審院を設けること、
 民意を疎通するため地方官会議を興すこと、および、内
 閣と各省、すなわち、参議と卿を分離することで、
  段階的に、立憲政体(三権分立体制)を構築して行く
 ことの合意をみた。
  そして、木戸と板垣は、再び、参議として政府に復帰
 することが決まった。
1875年3月20日(2月13日)苗字義務化(平民苗字必称義務
 令)
  平民も苗字が必要だと布告する。
  太政官布告「平民苗字必称義務令」公布。
  苗字を名乗ることが、義務付けられ、すべての国民が
 苗字を名乗るようになった。  
  太政官布告、平民苗字必称義務令が布告される。
  国民は、みな公的に苗字を持つことが義務づけられた。
1875年3月22日(2月15日)東京・羽根田灯台が点火した。
1875年3月27日(2月20日)明治新政府の新税法が制定され
 た。
1875年3月29日(2月22日)愛國社が結成された。
  高知県の立志社を母体に全国各地の民権政社を結集し
 て組織された政治結社。
  自由民権運動の中核となった。
  「各其自主の権利を伸張し、人間本分の義務を尽し、
 小にしては一身一家を保全し、大にしては天下国家を維
 持するの道より、終に以て天皇陛下の尊栄福祉を増し、
 我帝国をして欧米諸国と対峙屹立せしめんと欲す」とい
 う合議書を発表した。
1875年4月1日(2月25日)英仏横浜駐屯軍が徹す
  イギリス・フランス両国が、駐屯兵の撤退を伝えた。
  横浜の外兵を撤す(氷川清話)
  英仏横浜駐屯軍(えいふつよこはまちゅうとんぐん)
 とは、幕末から明治維新にかけて、攘夷派から横浜の居
 留地を防衛することを名目として横浜の山手に駐屯した
 イギリス・フランスの軍隊。
  1863年4月8日に、江戸幕府は、この駐留させることの
 通告を受けた。
  前年の1862年に、生麦事件が起きたりしていて、幕府
 は、日本の主権を侵されるが、これを受け入れざるを得
 なかった(現在も似たような状態だが・・?)。
  この時も、今現在と同様に「思いやり予算的に」江戸
 幕府も、また、明治政府になっても、日本が費用負担し
 た。
  金儲けに日本に来ているイギリス人やフランス人を守
 る費用を日本が出費した。
  それ故、その兵舎などの設営・補修は、江戸幕府、お
 よび、明治政府の負担とされた。
  一時イギリス軍は1200名、フランス軍は300名に達した。
  駐留兵力は、東洋情勢の変化にともなって増減を繰り
 返し、
  駐留軍のプレゼンス(存在感)が、日本政府に圧力を
 加える他、
  アヘン戦争だけでなく、日本国内で行われた下関事件
 や薩英戦争等に派兵を行ったり、
  不足の兵力を補うために、停泊艦船から陸戦隊が上陸
 するなとの対応が行われた。
  明治政府成立後に、日本政府は法整備を進め、さらに
 イギリスやフランス、ドイツなどの協力を受けて近代軍
 隊や警察の整備を進め、攘夷派もその存在自体が無くな
 ったため、
  外国軍隊の駐屯は、日本の国家主権を侵すものとして
 撤退を要求し、
  明治4年(1871年)に、イギリス軍が駐屯軍の大幅削減
 に応じ、
  やがて、明治8年(1875年)3月2日に、両軍の全面撤退
 が完了した。
  そして、「日本の国は、日本が守る」の本路線を進ん
 だ。
1875年4月10日(3月5日)日本最初の国産軍艦「清輝(せい
 き)」が進水した。
  横須賀造船所で建造された。
  排水量:87トン。
  1873年(明治6年)11月20日、横須賀造船所にて起工
1875年4月15日(3月10日)奈良の東大寺をはじめ各寺院の
 実器は内務省管理下に永久保存法を設けた。
1875年4月25日(3月20日)津軽海峡に海底電信敷設
  津軽海峡に海底電信ケーブルを敷設した(東京~青森
 間、北海道間の電信開通する)
1875年5月(旧暦3月)行政規則公布される(警察)
1875年5月(旧暦3月)屯田憲兵が新設される。
  この年、屯田憲兵例規制定
  翌年・1876年、第1回屯田兵198戸965人琴似村に移住
 する。
  北海道の歩み・・、
  1205年、津軽の豪族・安東氏、蝦夷地代官となる。
  1514年、蠣崎氏(かきざき、後の松前氏)、安東氏か
    らえぞ島預かる。
  1854年、日露通商条約を締結し、両国の国境を択捉島・
    ウルップ島間と決定した。
    旧ソ連による不法占拠状態が続く。
  1869年7月、開拓使が設置
  1869年8月、蝦夷地が、北海道に改称
  1874年3月、樺太・千島交換条約を締結。
    スツレモーホフ・ロシア外務省アジア局長、アレ
    クサンドル・ゴルチャコフ、ロシア外相との交渉
    が進められ、樺太での日本の権益を放棄する代わ
    りに、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲
    渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承
    認などを取り決めた。
  1875年、屯田兵の入植が開始される。
    当初は、失業した士族の救済から、士族に限定さ
   れて、世襲制であった。
  1882年、開拓使が廃止、
  1883年、北海道が、札幌・函館・根室の3県に分割し、
    農商務省北海道事業管理局が設置された。
  1885年、効率向上のため、伊藤参議が、金子大書記官
    に、北海道の実状調査させた。
  1886年、前年の調査に基づき、3県1局が廃止され、北
    海道庁が新設された。
  1890年、兵制改革によって資格制限がはずされた。
    兵役義務年限20年と期間が限られた「平民屯田」
   へと変わった。
  現在:14支庁制となっている。
1875年5月(旧暦3月)ガス灯が、東京の京橋から北へ万世
 橋、浅草橋まで点火した。
1875年5月9日(4月4日)明治天皇陛下が、小梅村の徳川昭
 武邸へ行幸(徳川光國、斉昭らの遺業を嘉う)
1875年5月9日(4月4日)あんぱんを天皇陛下に献上
  東京・向島の水戸徳川屋敷で、花見に訪れた明治天皇
 陛下に、木村家の酒種あんぱんを献上。
  「あんぱん」に、奈良の吉野山から取り寄せた八重桜
 の塩漬けを真中に埋め込んだ「桜あんぱん」であった。
  天皇・皇后両陛下は気にいり、木村家は宮中御用商に
 加わった。  木村家創業(1869年)
  木村屋の「あんぱん」が、創業者・木村安兵衛の知り
 合いで、明治天皇陛下の侍従の山岡鉄舟の心をつかむ
  鉄舟が、安平衛に「陛下に召し上がっていただこう」
 と申しでる。
  後に、木村安兵衛・英三郎親子は、陛下のため、特別
 な「あんぱん」を召し上がってもらおうと試行錯誤をか
 さねる。
  4月4日に、明治天皇陛下が、東京・向島の水戸藩下屋
 敷をご訪問、
  お茶菓子として「あんぱん」が献上される段取りに、
  「あんぱん」を口にした明治天皇陛下は、お気に召し、
 ことのほか皇后陛下の口にあう。
  「引き続き納めるように」という両陛下のお言葉
  あんぱんの中心には、桜の塩漬けがのった。
1875年5月11日(4月6日)大鳥圭介が、シャムより帰朝す
 (4月7日説あり)。
1875年5月15日(4月10日)左院・右院を廃止して、元老院
 を設置した。
  元老院及び大審院を置く(氷川清話)
  元老院・地方官会議を設け、両院を模す。
  大審院が設立された(三権分位を計る)
1875年5月15日(4月10日)勲章及び従軍記章の制
  初めて定められ、勲等を分け八級となす。
  勲一等から八等までの賞牌(翌年、勲章と改称)を制
 定した。
1875年5月19日(4月14日)漸次立憲政體樹立之詔勅
  漸次立憲政体樹立の詔書
 (左右両院を廃し元老院、大審院を置き、地方官会議を興
 し漸次に立憲政体を立つ)
1875年5月28日(4月23日)岩倉具視が、参内して辞意を奏
 上した(明治天皇陛下、認めず)
1875年5月28日(4月23日)上村津禰(つね、松園・しょうえ
 ん) が京都で生まれる。日本画家。
  初めての女性の文化勲章を受章。
  「序の舞」:重要文化財
1875年5月29日(4月24日)飛騨の高山の大火(約1300戸焼
 失)
1875年5月30日(4月25日)勝海舟(52歳)が、任議官即日
 辞表を捧ぐ(氷川清話)
1875年5月(明治8年4月)『平仮名絵入新聞』が創刊
  平仮名の絵入新聞が創刊された。
1875年5月(4月)過去の出版も届出なければ保護なし(出
 版条例)
1875年5月(4月)入獄中の者の写真をとり、人相書を廃止。
1875年5月(4月)国産マッチの製造が始まる。
1875年6月2日、東京曙新聞(とうきょうあけぼのしんぶん)
 が刊行した。
  自由民権派の新聞で、1871年創刊の『新聞雑誌』が、
  1875年1月に『あけぼの』と改題し、
  同年・1875年6月、さらに「東京曙新聞」と改題した。
  政府攻撃の論陣が有名だった。
1875年6月5日(5月2日)郵便貯金創業
  郵便貯金業務開始 
  前島密が、東京府下17カ所と、横浜1カ所の郵便局で、
 郵便貯金をスタートさせた。
1875年6月10日(5月7日)千嶋・樺太交換條約
  ペテルスブルクで、ロシアと樺太・千島交換条約に調
 印した。
  ロシアと樺太・千島交換条約を調印 。
  ロシアが、樺太の領有を認めるように日本に求めたが、
 日本はこれを拒否した。
  この様に、樺太において、ロシアが、日本の根拠地に
 迫ってきた。
  このため、樺太を北上して漁場を拡張しつつあった日
 本人との間に紛争が絶えなかった。
  ロシアは、確実に要所を狙って植民地を建設していく
 のに対して、
  日本は、漁場の拡張に主眼を置いていたため、次第に
 圧迫されるようになった。
  この様な現状を打破するため、明治政府は、1874年(
 明治7年)に、榎本武揚を特命全権大使としてロシアに派
 遣し、
  翌1875年(明治8年)5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ
 外相との間で「樺太千島交換条約」を締結した。
  この条約によって、「日魯通好条約」で、両国民混住
 の地とされた樺太全島はロシア領となり、
  その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島か
 ら占守島までの18島)が日本の領土となった。
1875年6月14日、初めて国際裁判に勝利(マリア・ルス号
 事件)
  ペルー船の支那奴隷解放事件。
  副島は、帝国の正義と国権を以て一歩も譲らず、人道
 上決して黙許すべきでないと主張。
  1875年(明治8年)ロシア皇帝の仲裁裁判判決。
  日本の主張が認めらた。
..
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2016年4月10日日曜日

(増補版)329E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年12月~1875年3月)

題:(増補版)329E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年12月~1875年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年、イギリスの陸軍将校サム・ブラウンは中国の利益
 収奪にも関わった。
  ブラウンは、インドの大反乱の時も戦っていた(イギ
 リスのインドの方々からの収奪が酷く、その結果、大反
 乱が起き、ブラウンは、その時も、軍人として関わって
 いた。今度は、中国の方々へ対してだった)
  イギリスは、中国からの利益収奪に邁進(まいしん)
 した。
  あらゆる面から利益の収奪を試みた。
  その為、ビルマからの中国ルートを調べた。
  中国・雲南地域からの利益収奪のための調査を計画し
 た。
  指示された陸軍将校ブラウンの調査において・・、
  その案内役の領事館のマーガリーが、視察をし、その
 折、現地住民とトラブルが発生した。
  マーガリーらの5名が殺害された。
  イギリスはまた、何時ものように、これを口実に中国
 (清国)を威嚇し始めた。
  そして、1876年9月、イギリスは、高姿勢でもって、不
 平等のまるだしの、税金の免除などがある芝罘(ちーふ)
 条約を結ばせ、イギリスは侵略的な特権をいっそう拡大
 した。
  このイギリスはじめ、アメリカ、そして、ヨーロッパ
 各国は、アフリカ支配権をも争奪し、そして、酷いこと
 に、アフリカを好き勝手に分割した。
  そして、我が物とした。
  また、この中国へ殺到している欧米列強は、この中国
 も、アフリカ同様な分割に切り刻み、我が物とすること
 が、明らかに見える。
  西蔵(チベット)は、イギリスの勢力下にあった(イ
 ギリスは、1700年代後半から、チベットに手を出してい
 た)。
  イギリスは、中国の広大な領土が、中国だけの手にあ
 るのはおかしいと言った。
  「(キリスト教の)神の御心に背く」と公言していた。
1874年2月20日、イギリスの保守党ディズレーリが、景気対
 策に失敗した自由党グラッドストンを破って首相に就任
 した。
  言葉としての「帝国主義」の始まり:
  ディズレーリ(任1868、1874~80)は、この頃、高ま
 りつつある「小英国主義」(植民地は、財政負担を増す
 重荷に過ぎないとし、植民地放棄を唱える立場)を攻撃、
 植民地支配強化、帝国拡張・団結を主張した。
  ディズレーリは、1875年スエズ運河株式買収、1877年、
 インド帝国の成立、1878年露土戦争に干渉してベルリン
 会議でロシアの南下を阻止し、一方でキプロス島獲得、
 帝国主義政策を推進した。
1874年3月7日、清の同治帝(どうちてい)が、第2次アヘ
 ン戦争で破壊されたままの円明園の修復工事を正式に着
 工させた。
  国家財政困難なため群臣は中止を求めた。
1874年3月15日、フランスが、ヴェトナム(阮朝)と第2次
 サイゴン条約締結した。
  ベトナムは、紅河(ソンコイ川)沿いの通商権を奪わ
 れ、
  フランスは、ヴェトナムの清からの「独立」を認め、
 事実上これを保護国化し、自分のものとした。
  清朝は、これを認めずヴェトナムを藩属国と主張する
 が、政権中枢の李鴻章らの妥協・譲歩政策により実効あ
 る抵抗はできなかった。
1874年6月27日、アメリカ・インディアンの方々が、連合軍
 を結成して、決起し、戦ったが、
  アメリカ合衆国から、徹底的に報復されて敗北し、強
 制収容所的な居留地へ閉じ込められた。
  クワハディーコマンチ族の若者クワナ・パーカーが、
 コマンチ族・カイオワ族・南部シャイアン族連合軍を率
 いて、テキサスの白人交易所アドービ・ウォールズを攻
 撃した。
  しかし、アメリカ合衆国軍の徹底した報復戦に降伏し
 た。
  「1875年6月2日」条約で、インディアン専用地とされた
 バッファローの住む地域に白人猟師が侵入した事から始
 まったにもかかわらず、
  アメリカ・インディアンの戦士の多くは、フロリダ刑
 務所に収監された。
  残った部族の者は、オクラホマの居留地へ閉じ込めら
 れた。。
  アメリカ合衆国政府は、ジョージ・カスターら各将軍
 に命じて、
  北部平原のインディアンを狩り集めて、同じ様にイン
 ディアン準州(オクラホマ)へ送るように命令した。
  シッティング・ブルとクレージー・ホースは、残って
 いたインディアンを集めて連合軍を組織した。
  アメリカ合衆国は、大切なインディアンの食糧である
 バッファローを無意味に殺戮した。
  これによってバッファローは激減し、アメリカ・イン
 ディアンの方々も食糧不足になり、絶滅への道をたどる
 事になる。
  アメリカの平原で無意味に殺戮され、山となった死体
 の山のバッファローの写真がある。
  そして、その山のてっぺんにアメリカ人の白人が誇ら
 しげに立っている。
  この様な目的でバッファローが殺されたことを、証拠
 となる写真もはっきり存在し、このあきらかなる事実を、
 放送大学のアメリカの歴史の講座は隠して放送した。
  そして、嘘の講義を放送大学は放送した。
1874年7月24日、イギリスが、ガーナのゴールド・コースト
 南部を植民地とした。
1874年7月末、親善大使としてスー族領域のブラックヒルズ
 へ赴くジョージ・カスターと第7騎兵隊及び民間人5人(
 内2人は地質学者とベテラン金鉱堀)、金鉱を発見した。
1874年7月末、カスターは報告書に纏めるが、新聞社にスッ
 パ抜かれた。
  スー族の「聖なる山」に金鉱堀が殺到した。
  ララミー砦条約は一方的に無効にされた。
1875年、マルクスとエンゲルスが、ドイツ社会民主党にお
 ける「デューリング主義」の危険性を、リープクネヒト、
 ブロスおよびヘプネルへの手紙で繰返し指摘した。
1875年(明治7年~明治8年)、出来事:
・立憲政体漸立の詔が出された。
・徴兵令が改正された(国民皆兵)
・錦絵新聞が人気で流行
・流行した唄 「官員唄」 → 「髭をはやして官員ならば…」
・新聞紙条例に悩む各社、共同して内務省へ質問書
・東京曙新聞・末廣鉄腸ら → 投獄者が続出
•平仮名絵入新聞(4月)新聞創刊
•浪花新聞(12月)新聞創刊
・論  加藤弘之 「國體新論」
・著作権についての法令が発布された。
  ただし、所管は文部省より内務省に移った。
1875年、科学・産業:
・東京気象台が創立され、赤阪葵町で気象観測が開始され
 た。
・東京王子に紙漉き(かみすき)工場(後の王子製紙)が
 できた。
1875年、教育・本:
・幼稚園の初め(京都)
・ 「文明論之概略」(福澤諭吉)
・ 「亜細亜諸國トノ和戦ハ我榮辱ニ関スルカキノ説」(福澤
 諭吉)
・訳  「弥児経済論」(著:J. S. ミル,林董/訳:鈴木重孝)
・訳  「開巻驚奇 暴夜物語(アラビアンナイト)」(訳:永峰秀
 樹)
1875年、データ:
・財政  国税に占める地租の割合:88.2%
・統計  医師数:27,650名(うち女医2名)
・統計  官によるお雇い外国人527名(学術144、技師205、
 事務69、職工36、雑73)
1875年、衣:
・司法官の制服が制定された。
・四谷の朝倉松五郎が、洋式メガネを作った。
1875年、食:
・勧業寮が、リンゴの苗1300本を輸入し、全国に配った。
・東京風月堂が、ビスケットを作った。
・東京の茶商・上林熊次郎が、紅茶製造の伝習所を募集し
 た。
・アメリカよりサケ・マスの人口孵化法を習った。
・ 海外で醤油が珍重された。
・ビールが初めて売り出された。
  国産ビールの広告が「東京日々新聞」に初めて掲載され
 た。
  ビールは、明治時代になって、日本でも醸造される様
 になり、初めは外国人住宅地などで作られていた。
  コープランドというアメリカ人もそのひとりで、コー
 プランドは、日本におけるビール産業の"祖"とも呼ばれ
 る。
  コープランドに学んだ日本人によって、後々いくつか
 のビール工場が造られるようになり、野口正章(まさあ
 きら)は、1874年(明治7年)山梨県の甲府に、私財を投
 げ打って「三ツ鱗(みつうろこ)」印ビールを完成させ
 た。
  甲府での売れ行きは"イマイチ"だったことから野口氏
 は、東京での"販路拡大"のために"新聞広告"を出した。
  日本人が、最初にビールを飲んだとされるのは、1860
 年(安政7年)に、日米修好通商条約の批准書交換使節団
 の一員として渡米した仙台藩士。
  また、福沢諭吉も、遣米使節団の随員として渡米して
 いるが、帰国後の1867年(慶応3年)に「西洋衣食住」で、
 ビールを紹介している。
1875年、住:
・潜水誠、マッチの製造を開始した。
・また、吉井友実(よしいともざね)が、東京・三田四国
 町に新燧社(しんすいしゃ)を創業し、マッチの製造を
 始めた。
・東京市内の新築は石造・煉瓦造と規定されていたが、土
 蔵造・塗屋造も許された(防火性の高いものをの主旨)
・銀座に下水が竣工した。
・甲府で開放水路の上水道通水。
・東京市内主要道路にガス・ランプの街燈ついた。
1875年、その他:
・日本橋の料理屋で、新物好きの主人が呼び鈴をつけた。
・小幡英之助、歯科医を開業した。
・金港堂書店・有田香蘭社・深川セメント・芝浦製作所な
 どが創立した。
1875年1月3日(11月26日)新島襄が、渡米後10年振りに帰
 朝、横須賀着(これより同志社の建設に努める)
1875年1月4日(11月27日)台湾征討に関する日清談判に成
 功せる大久保利通が帰朝し、参内し復命する。
1875年1月8日(12月1日)大阪~神戸間に鉄道貨車運輸が開
 業した。
1875年1月10日(12月3日)西郷従道の率いる台湾征討軍が、
 台湾を発して、凱旋の途についた。
1875年1月17日(12月10日)外国の天文学者が、初めて来日
 し、神戸諏訪山上にて金星の太陽通過を観測した。
1875年1月18日(12月11日)東京市街に、初めて石油ランプ
 の街燈が点火された。
1875年1月20日(12月13日)伶人(れいじん、音楽を奏する
 人、特に、雅楽を奏する人)に命じ、西洋音楽を学ばせ
 た。
1875年1月25日(12月18日)東京市街に、煉瓦街完成と、初
 めてガス燈が点火した 。
  東京・京橋~銀座~芝金杉橋の街路の両側に、85基の
 ガス燈が点火した。  
  芝浜崎町のガス工場から銀座までガス管を敷設した。
1875年1月25日(12月18日)東京、名古屋、大阪に歩兵連隊
 を編制した。
1875年2月3日(12月27日)西郷従道、谷干城らが、台湾征
 討より東京に凱旋した(参内して征台の状を奏す)
1875年2月6日(明治8年1月1日)外国郵便の取扱を実施した。
1875年2月7日(1月2日)郵便為替が施行される。
  最初は、尋常為替(小為替30円以下)を取り扱った。 
1875年2月9日(1月4日)最初の消防出初式が、日比谷にて
 挙行された(これより毎年の恒例となる)
1875年2月10日(1月5日)最初の郵便局が、横浜に落成した。
  外国郵便業務を横浜・神戸・長崎で開始した。
1875年2月13日(1月8日)小学児童の学齢を定めた。
  小学校年齢、満6歳から14歳までとなった。
1875年2月17日(1月12日)招魂社に合祀した。
  1853年(嘉永6年)以来、国に殉せし忠霊、九段上招魂
 社(後の靖国神社)に合祀された。
1875年2月17日(1月12日)イタリア人のキヨソネが来日し、
 わが国の印刷術の発展に貢献した(印刷界の恩人)
1875年2月23日(1月18日)明治政府が、三菱蒸汽船会社に
 上海航路の開始を命じた。
1875年3月2日(1月25日)紙幣印刷のための銅版印刷機が輸
 入された。
1875年3月2日(1月25日)金原医籍店(のちの金原出版)が
 創業した(医学書輸入)、丸善に次ぐ古い出版社。
1875年3月3日(1月26日)国産マッチ製造が始まった。
1875年2月(旧暦1月)山県陸軍卿が、砲台築城地として、
 長崎・鹿児島・下関・豊予海峡・紀淡海峡・石巻・函館
 を挙げた。
  殊に、まず帝都に近い東京湾口の観音崎と富津岬等の
 数箇所に砲台を築くことが必要であると奏上した。
1875年3月10日(2月3日)横浜~上海航路定期運行を開始。
  日本最初の外国航路・上海~横浜航路(三菱商会)が
 開始された。
  悲願であった上海航路を、三菱蒸汽船会社が開設した。
  東京丸、新潟丸、高砂丸、金川丸の4隻で、1週1回の
 定期航路が開始。
  横浜~上海は神戸、下関、長崎経由で、わが国初の海
 外定期航路となった。
  東京日日新聞の広告には・・、
  「…乗組人は練熟せる西洋人にして航海の安心、荷物
 の取扱の厳重なるは申すに及ばず賄方(まかないかた、
 食事の用意をする人)等も至って清潔丁寧なり…」
..
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