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2017年5月13日土曜日

(増補版)525E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年12月~1890年12月)

題:(増補版)525E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年12月~1890年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年12月、博文館が「当用日記」を刊行した(1895年説
 あり)
  博文館は、1887年(明治20年)に、東京・本郷で創業
 した。
  そして、会社沿革には、1895年(明治28年)に、「日
 本で、初めて、広く一般大衆向けに日記を刊行」と記さ
 れている。
1890年12月、帝国大学文科大学に、仏蘭西文学科が設置さ
 れた。
  東京大学の文学部の歴史は・・、
  1856年2月(安政3年)幕府が、洋学所を蕃書調所とし
   て、九段坂下竹本図書頭屋敷に設立した事から始ま
   った。
  1862年5月(文久2年)蕃書調所を、神田一ツ橋門外護
   持院原(一橋通町一番地)へ新築移転し、
   (これ以前、九段坂上表六番地和学講談所、安政6年
   7月には、小川町に移転)、
   洋書調所と改称した。
  1863年(文久3年)洋書調所を、開成所と改称した。
  1868年6月(明治元年)新政府が、旧幕府時代の医学校
   を復興し、昌平坂学問所を復興して、医学校、昌平
   学校設置した。
  1868年9月、新政府が、開成所を復興して開成学校(
   その後、大学南校、第一大学区第一番中学、開成学
   校、東京開成学校と改称)を設置。
  1869年6月、昌平学校を大学校(本校)とし、開成、医
   学両校を大学分局(分校)とした。
  1870年2月、大学規則の制定した。
  1870年7月、大学内部における国漢学派と洋学派の対立
   によって大学本校が閉鎖された。
  1873年6月、開成学校が、神田錦町に新校舎落成。
  1874年4月、東京大学が創設され、文学部に2学科が置
   かれた。
  1878年12月、文部省が、東京大学に学位授与の権限を
   付与する旨を達す。
  1879年4月、東京大学の授与する学士称号を法学士・理
   学士・文学士・医学士・製薬士とした。
  1879年7月、法理文の三学部、初めての学位授与式を
   挙行した。
  1879年9月、文学部2学科のうち「第一史学、哲学及政
   治学科」のうち史学を削り「第一哲学、政治学、理
   財学科(経済学)」とする。
    漢文の作文を重視し、また、卒業論文を課するよ
   うになった。
  1881年9月、文学部に、以下の3学科が置かれた
   第一哲学科、第二政治学及理財学科、第三和漢文学
   科。
    新設課目として、印度及支那哲学、世態学(社会学)、
   審美学(美学)、生理学、日本財政論、行政学、日本
   古今法制等の講義がなされる
  1884年9月、法文校舎が竣工した。
  1885年12月、法学部を法政学部と改称
   (文学部の政治学及理財学科を法政学部に移す)
    それとともに、文学部は以下の3学科となった。
   第一哲学科、第二和文学科、第三漢文学科
  1887年3月、最初の入学宣誓式が行われる(1919年に廃
   止)
  1887年9月、文科大学に、史学科、英文学科、独逸文学
   科を増設し、以下の7学科を置いた
   第一哲学、第二和文学科、第三漢文学科、第四史学
   科、第五博言学科、第六英文学科、第七独逸文学科
  1897年10月、内閣修史局で行われていた修史事業が文
   科大学に移管された。
  1889年6月、文科大学に国史科を増設し、8学科とする
   とともに、和文学科を国文学科とし、漢文学科を漢
   学科とする。
  1890年10月、帝国大学に、地誌編纂掛設置
   (この年9月、内務省地理局の地誌編纂事業を帝国大
   学に移管。史料編纂所の一源流)
  1890年12月、文科大学に、仏蘭西文学科を増設し9学科
   とする。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今が・・ラストの・・チャンスなのだろう・・人類に
 とって・・
.
紀元前20万年~10万年前、人類がアフリカに誕生した。
.
紀元前4万9000年、人類がアフリカから出て移動していく。
.
紀元前4万7000年~紀元前4万2000年、人類が、ヨーロッパ
 に到達した。
.
紀元前4万7000年、人類が、オーストラリアに到達した。
.
紀元前3万8000年、人類が、日本列島に到達した。
.
紀元前3万3000年、人類が、ベーリング海峡のアメリカ大陸
 を望むところへ到達した。
.
紀元前1万5000年、人類が、ベーリング海峡を渡り、アメリ
 カ大陸へ至る。
  白人たちより、大分、早い到達者たちだった・・が・・
 南アメリカ大陸などは、スペインやポルトガルのキリス
 ト教徒とキリスト教聖職者たちによって虐殺され、
  そして、北アメリカ大陸では、イギリスからのピルグ
 リム・ファーザーズなどのキリスト教徒たちによって、
 可哀想な事に虐殺行為を受ける・・先住民たちの権利は、
 キリスト教の有色人種蔑視の洗脳によってまったく顧(
 かえり)みられなかった。
.
1878年12月18日に、ソ連のスターリンが生まれた。
  スターリンの父は、靴職人で評判だったが、アルコー
 ル依存症で、妻や子に、しばしば暴力を振るった。
  家計は次第に傾いて行き、幼少期だけでも9回の転居を
 繰り返す状況だった。
  スターリンは、1888年の10歳の感受性の強い幼少期に、
 キリスト教神学校に通った。
  父は、スターリンを靴職人にしたかったので学業に反
 対した・・そして、父は、スターリンが靴職人になるこ
 とをしきりに口にした。
  このキリスト教で、「異教徒は殺せ」の様な、「考え
 を異とする異教徒たちを、簡単に殺しても良い」という、
 キリスト教の考え方・精神に感化された。
  この幼少期の感化は、人知れず大きな悪行へとつなが
 って行った。
  この毎日のキリスト教聖書による「異教徒の人間の命、
 考えを異にする人間の命を軽く見る・・軽んずる見方に・・
 洗脳されて行った」、
  そして、このソ連のスターリンという男は、自国民を
 2000万人も殺した。
  ロシア革命と共産主義体制下で、スターリンに殺され
 た国民・虐殺者は、あまりにも多かった・・多過ぎた。
  途方もない多数の自国民を、スターリンは虐殺した。
  しかし、アメリカのルーズベルトは、この様なスター
 リンを自粛させるどころか、応援した。
  卑劣な事だった・・卑劣な行為だった。
  やはり、キリスト教に染まったルーズベルトの間違っ
 た歴史感から、この間違いは生まれた。
  (ルーズベルトの広島・長崎の原爆投下は、キリスト
 教のシャロームの完全抹殺の後の平和の達成の教義の洗
 脳から実行された)
  このルーズベルトに、日本と戦争をする大義名分なん
 て、まったく無かった。
  ルーズベルトが、掲(かか)げた日本と戦争をする大
 義名分としたのが、『自由と民主主義を守る』だった。
  やっと、この名目を掲げたルーズベルトの大義名分だ
 が、これだって、まったく的外れだった。
  日本より、スターリンこそが、非民主主義的に、殺戮
 ばかりしている輩だったのにである・・、
  まったく的外れのルーズベルトの大義名分だった。
  アメリカ国民の方々自身も、まったく日本と戦争しな
 ければならないなんて微塵も思っていなかった。
  アメリカ国民の方々は、「戦争をしない」「戦争をし
 たくない」「戦争に介入しない」だった。
  だから、イギリスのチャーチル首相が、すでに戦われ
 ていたヨーロッパ戦線に、アメリカが参戦してくれるこ
 とを要望して来た時に、
  アメリカ大統領のルーズベルトが言ったことは・・、
  「アメリカ国民世論が、まったく、戦争を回避したい
 としている」という事が説明された。
  この世論のままでは、無理に戦争を開始する事は出来
 ない・・だった。
  だから、ルーズベルトの娘婿カーチス・ドールは、本
 「繰られたルーズベルト」で言う・・、
  「彼(ルーズベルト)は、チャーチル首相に、何とか
 して我々の国(アメリカ)を戦争に持ち込もうと約束し
 た」・・と・・、
  つまり、アメリカ国民世論が、戦争回避にあるから、
 何とかして戦争に持ち込もうと約束した・・という(ア
 メリカ国民の方々への裏切り行為)
  そして、さらに・・、
  「彼(ルーズベルト)は、首相〈チャーチル)に『私
 (ルーズベルト)は戦争を作るのだ』と語っている・・、
  ルーズベルトは、戦争をする正当な理由が何もないの
 で、日本に先制攻撃をさせるように誘導した・・、
  そして、「自由と民主主義を守る戦いだ」という漠然
 とした理念を掲げざるを得なかった。
  厭戦(えんせん)気分のアメリカ国民を不意打ちに対
 する怒りで喚起(かんき、呼び起こすこと)させた。
  そして、参戦へ持ち込んだ。
  日本にも、アメリカと戦わなければならない理由なん
 て何も無かった。
  アメリカの強烈な・・強行の・・そして、一方的な石
 油禁輸などの痛烈な経済制裁に・・、
  立ち行かなくなる方策を取ったルーズベルト・・、
  日本に押し付けた強力な圧迫・・日本の生存を脅かす
 制裁に、やむなく、自衛の為に、戦争をせざるを得ない
 窮地に追い込まれた。
  また、アメリカは、率先して、ABCD包囲網を構築
 し、日本を窮地に追い込んで行った。
  「明日、日本が攻めて来る」と、つい、口を滑らせて
 言ったルーズベルトの様に・・、
  アメリカは、日本の暗号を完全に解読していて、日本
 の行動のすべてを、一部始終を、知っていた。
  日本のハワイの真珠湾攻撃は、この様な中で行われた。
  ルーズベルトの間違った歴史認識から、この悲惨な、
 卑劣な戦争は始まった。
.
1930年代末、ユダヤ人の追放、処刑、殺害といったニュー
 スがナチス占領下のポーランドから伝わってきた時・・、
  アメリカは、それでも難民受け入れの意志を見せなか
 った。
  アメリカへ、逃れて来たユダヤ人の方々を、追い返す
 というアメリカだった。
  また、スペインは、40万人のユダヤ人に対して、行先
 国のビザを所有する者に限って通過を許可したが、
  その様なこともせず、アメリカは知らぬ顔をし続けた。
  日本は、ユダヤ人の方々を、最初から、『完全に受け
 入れていた』。
  卑劣な事に、アメリカは、ユダヤ人の入国を拒(こば)
 むことを目的に、1939年6月の「スミス法」で、外国人受
 け入れの取締り強化した・・そして、さらに・・、
  さらに続いて、1941年11月には、「ラッセル法」を制
 定してビザ発行を制限した。
  そして、アメリカは、スイスのアメリカ大使館から、
 ナチスがユダヤ人の方々を大量殺戮していると報告を受
 けても・・
  その残虐行為を知っても・・
  「ユダヤ人の被害妄想的プロパガンダだ」と言って、
 受け入れなかった。
  何しろ、ルーズベルト大統領に、ユダヤ人の方々を受
 け入れる気は、まったく、無かった・・卑劣な大統領で
 ある。
  ランドール女史が、ユダヤ人を救うべきであると訴え
 ても・・『完全無視のアメリカ』=ルーズベルトだった。
  だから、卑劣にも、アメリカへ逃れて来たユダヤ人の
 方々を、アメリカは、ヨーロッパへ追い返した。
  ニューヨークへ入港したユダヤ人の方々を乗せた船を
 追い返したりした。
  そのユダヤ人の大半がナチスに捕まり、その半数が殺
 され・・死んだ。
  日本は、ユダヤ人の方々を、はじめから受け入れる方
 針で、神戸に来たユダヤ人の方々の乗った船を歓迎して
 いる。
  「日本政府の船」が出迎えに出ているくらいだった。
  恩を忘れない日本は、日露戦争で助けて戴いたユダヤ
 人の方々に、恩義も感じていた。
  それを、キリスト教は、杉原千畝をデッチ上げ・・、
  日本が、ユダヤ人の方々の入国を拒否していたと嘘を
 言い、
  また、ビザ発給の「資格のない杉原千畝」が、ビザ発
 給をするという違法行為をする杉原千畝を、キリスト教
 は、美談に仕立てた・・、
  そして、杉原千畝が、キリスト教徒だったからだと嘘
 話で美談に仕立て、プロパガンダ(嘘宣伝)し続ける。
  このキリスト教の嘘話に乗っかって池上彰は、「外務
 省が、君(杉原千畝)の立場ではビザの発給は出来ない」
 と言ったと、誤解するような言い方で、誤認するような
 言い方で、日本を貶(おとし)めた。
  日本が、さも、ユダヤの方々へビザ発給してはいけな
 いと言っているように池上彰は言った。
  杉原へ、『ビザ発給の資格がないから出来ない』と言
 っただけで、日本のどこの大使館でも、ユダヤ人の方々
 へはビザを発給していた。
  杉原千畝だけが、ユダヤ人の方々へビザを発給してい
 たのではない。
  大使資格でない杉原千畝のことを・・まったく、池上
 彰は、キリスト教に偏するNHKの元職員は、嘘つきな
 言い方をする。
  解説をすると言いながら、NHKと同じように、キリ
 スト教に偏する行動をする・・『信用ならない男』。
  この様な事は、当時、大使をされていた馬淵睦夫氏も、
 はっきりと言われている。
.
2014年、隠されている真実:アメリカが、秘かに行なって
 いるiSに対する資金や武器援助。
  アメリカが、これを止めれば、直ちにiSは崩壊する。
  (参考)iS:アイエス、ISIL(アイシル、英:
    Islamic State in Iraq and the Levant:イラク・
    レバントのイスラム国)、ISアイエス、イスラム
    国 、ISISアイシス、ダーイシュはイスラーム過激
    派組織で、イラクとシリアにまたがる地域で活動
    する。
  一般的な解説では・・以下の記述がある・・が・・、
  2014年8月8日、アメリカ軍が、ISILの武装勢力に対し
 て、限定的な空爆、及び、ヤズィーディーなどに対して
 支援物資の供給を開始。
  初日は、クルディスタン地域のアルビル近郊に展開し
 ていた野砲や車列が攻撃対象となった。
  アメリカは、空爆の期限を設けず、今後も空爆を実施
 することを示唆している。
  同年・2014年10月に入って、空爆の作戦名は「生来の
 決意」(Operation Inherent Resolve) と名付けられてい
 ることが明らかになっている。
  ただし、アメリカ軍の空爆は、ISILのイラク支配地域
 に限定されており、ISILの本拠地であるシリアでは実施
 されていないため、空爆の効果を疑問視する人もいた。
  シリア国内のISIL拠点を攻撃しないのは、ISILと対立
 するアサド政権を支援する形になるためと指摘されてい
 る。
  8月22日、アメリカはシリア国内の拠点に対する空爆の
 検討を開始したと発表した。
  この時点で、ISILの支配領域の合計面積は、イギリス
 より広くなっている。
  2014年11月24日、アメリカ政府は、チャック・ヘーゲ
 ル国防長官の辞任を発表した。
  辞任発表の場には、ヘーゲル国防長官も立ち会い、円
 満な辞任であるという形での発表であったが・・、
  ヘーゲルは、オバマ大統領と対ISIL政策が対立したた
 め、辞任に追い込まれた面が強く、事実上の更迭と見ら
 れている。
  ヘーゲル国防長官は、泥沼の中東から、アメリカが足
 抜けするための出口戦略を後押しすることが期待されて
 国防長官に就任した人物であり、
  ISILとの戦争には、消極的で、そのために、再び中東
 への介入を強めるように転換しつつあるオバマ政権と対
 立していたとウォールストリートジャーナルは推測して
 いる。
  一方で、国防総省は、ISILの危険性を早期に認識し地
 上部隊の派遣を具申したものの、あくまで、軍事予算の
 削減により、財政再建を目指し、軍事介入は限定的な空
 爆に留めたいホワイトハウスと対立していたとの見方も
 ある。
  しかし・・上記は、綺麗に繕った言い方で、事実は、
 まったく違うと・・、インターネット上で言われている
 ・・以下のその記述の一例・・、
  (国際金融資本を牛耳る者たち・・ウォールストリー
 トの者たち・・グローバリズムが都合の良い者たち・・
 それとつながりが強い民主党・・ヒラリーやオバマ・・
 ネオコン・・このラインの者たち・・)
  ISISは、アメリカが作り、イスラエルが支援している。
  みんなバレバレで、アメリカは、戦争でドル防衛って
 ことですか?
  プーチン側近が、「ISISはアメリカが作り、イスラエ
 ルが支援している」・・と・・、
  プーチンの側近が、「イスラエルがISISの訓練を行っ
 ている」・・と・・、
  モサドが、ISISのリーダーに「諜報員の経験」を伝授
 し、イスラエル軍部顧問がテロリスト集団を支援してい
 ると、プーチンの側近が話している。
  イスラエルの諜報機関のモサドが、イラクやシリアで
 活動を行っているイスラム国(ISIS)のテロリストの訓
 練を行っている、とロシア大統領ウラジミール・プーチ
 ンの上級側近が非難していることを、プレスTVが伝えて
 いる。
  Alexander Prokhanov氏が、イラン国営放送局に対し、
 モサドは、ISISのリーダーに「スパイ活動」に関する情
 報を伝授し、さらに、イスラエル軍の顧問は、同テロリ
 スト集団を他の方法で支援していると話している。
  プーチンの側近であるProkhanov氏は、ISISは、中東
 における米国の政策による副産物であるとし、「ISISは、
 アメリカ合衆国が作り上げたツール。
  彼らは、ヨーロッパに対し、もしアメリカが介入しな
 ければ、ISISがヨーロッパに被害を出すぞと伝えようと
 しているのです」と話し、
  しかし、本当のところは、イランとロシアこそがISIS
 テロの主なターゲットであると付け加えている。
  「ISISは、ほんの数日前、チェチェンで、ロシアに対
 する最初のテロ攻撃を開始しています」と話し、
  ISISのイデオロジーは、中東のイランや、他の一部の
 イスラム系国家のイスラム教とはまったくの無関係であ
 ることを強調した。
  Prokhanov氏は、また、アメリカおよびイスラエルは、
 ISISのようなテロリスト組織の支援に関しては、一つで
 あり、同類であるとも述べている。
  9月、シリア北部にあるシリアの最後の軍事基地を征服
 したばかりのISISテロリスト集団は、シリアの独裁者バ
 シャール・アサド氏、および、彼と主要同盟関係にある
 プーチン氏に対し、「特別なメッセージ」を送りつけた。
  ・・その他・・多数あるが省略・・
.
2017年4月30日、北朝鮮のミサイル発射(実験)が失敗した
 と(読売新聞、2017年4月30日)が報じた。
  北朝鮮は、今年に入り6回のミサイル発射を行なってい
 るが、その4回が失敗となっている。
  67%の失敗率と・・非常に高い失敗率となっている。
  巷の噂では『サイバー攻撃』によるこの失敗の事態と
 いう話がある。
  同じく読売新聞の翌日・2017年5月1日の記事に、アメ
 リカの国防次官補、ハーバード大ケネディスクールの学
 長を歴任された有名な国際政治学者ジョセフ・ナイ氏の
 記事がある。
  この記事で、サイバー攻撃によって『イラン核施設の
 ウラン濃縮用遠心分離器を稼働不能に陥れた』とある。
  また、2015年には、「ウクライナの電力システムを錯
 乱された」とある。
  サイバー攻撃は、この他にもいろいろなされている。
  北朝鮮のミサイル発射失敗のサイバー攻撃によって飛
 翔せずに、北朝鮮領内に落下したという事もありうる。
  この様な状況にあるミサイルを、実戦時に多数発射し
 たとしても、その多くが、今年の確率は67%であるが、
 失敗する。
  今回の様に、自国の北朝鮮領内にその多くが落下する。
  そのいくつかが、北朝鮮領内で爆発する。
  攻撃用兵器が制御不能となり、逆に、自国・北朝鮮へ
 の攻撃兵器となる(中国へ向かうかもしれない)
  自国兵器が、近距離で、自国への攻撃兵器となるので、
 その防御は不能となる。
  結果は、悲惨な事となる。
  この様な事が、起き得るのである。
  北朝鮮の方々が、この様な結果になることを喜ぶわけ
 では、勿論ないが、
  他国を攻撃しようとした北朝鮮の核兵器が、自国領土
 内の人々へ悲惨な結果を起こす。
  その様なことが、起き得る技術の時代なのだ。
  これと関連したことが、「LoT機器」へのサイバー
 攻撃である。
  同じく(読売新聞、2017年5月1日)に、サイバー攻撃
 が盛んに行われる時代になったことに関連して、消費者
 が被害を受けないかが問題とされている。
  これが、家電レベルでなく、核攻撃兵器となると、事
 態は深刻だ。
  国の頂点に居る者が『ボタンを押したら、自分の頭の
 上に降って来る確率が零〈0パーセント)では無いのであ
 る』。
  攻撃する意志が100%であるからと、安心して『核攻撃
 命令のボタンを押しても』、確実にそのことが、なされ
 得ない時代になったのである。
  つまり、北朝鮮の必死の核開発とミサイル開発は、そ
 の威力が増せば増すほど、戦争抑止へ働く。
  核戦争の出来ない時代になったのである。
.
2017年、しかし、核兵器は、近代的な政治体制を持って判
 断がなされる国家において、到底、使うに至る決断を出
 来かねる兵器となっている・・そのあまりにも絶大なる
 破壊力は、かつての核爆弾とは違うレベルのもの、強大
 なものとなっている・・
  だから故に、正常な政治体制のある下での使用の判断
 は下せないという・・使えない兵器となった・・が・・
  しかし・・ここに・・テロ集団や・・この類の国らし
 き集団や・・独裁的な個人の権力が絶大なる集団におい
 ては・・前記の考え方は出来ないのである・・逆に、イ
 チかバチかで使ってしまえという判断が、ちらっとひら
 めくような独裁者には持たせてはならない兵器となって
 いる・・
  そして・・今・現在・・
  北朝鮮は、アメリカが攻めて来たら、日本を攻撃する、
 日本を沈没させると言った・・が・・
  以前は、ソウルが火の海になると言った・・が・・
  今、韓国で、新たに大統領となった人物は、北朝鮮の
 息のかかった、繋がりの強い関係にある人と、情報は伝
 えているが・・
  そして、先の北朝鮮の発言の「日本を攻撃する」が、
 アメリカの攻撃の抑止力になると考えたのだろう北朝鮮
 は・・、また、それが、違う情報も示唆した事にもなっ
 ている・・、
  つまり、「今の段階では、アメリカを攻撃する手段は、
 北朝鮮は、持っていません」という情報となっている。
  だから、「届く日本を攻撃する事にした」という情報
 となっている。
  つまり、アメリカは、アメリカへ届く前の『今が』攻
 撃するチャンスとなっている・・という情報を与えたこ
 とになっている。
  アメリカに届く前に、攻撃しておかなくてはならない
 という・・決断を促した情報となっている。
  中国が技術支援し、そして、資金提供して、ここまで
 来たと言われる北朝鮮の核攻撃力・・それが・・両刃の
 剣とならないか・・??
  だから、今は、「中国さん、ありがとう」と言ってい
 るだろうが・・後々、永久に・・破壊力のある攻撃兵器
 を持った暁の北朝鮮は、どこまでも射程の届く兵器を持
 った北朝鮮は、中国と北朝鮮の関係が、今までの様な関
 係のままで・・永続するとは限らない・・
  その様にある・・永続にあると・・完全に言えないこ
 とは・・完全に予想ができる・・、
  中国が・・読みが・・甘かったと、その時に分かると
 いう事になるとも限らない・・
  また、今は、ヨーロッパには届きませんが・・
  ただただ日本だけの問題なのではない・・そのレベル
 の集団なのだ・・
  国家と言えない極小の集団が、この様な兵器を持つと
 いう事は・・テロの一部集団が、核兵器という絶大な兵
 器を持つのと同じ状態で・・何らそこには、集団コント
 ロールの効かない組織に、大量殺戮システムを、核を持
 たせる状況となる・・これは、あってはならない状況・・
  ある30代の一人の人間が・・独裁の一人の人間が、世
 界の人々へ、世界の方々の命を云々する手段を持つ・・
 左右するシステムを持つ・・
  この様な状況に至ることは・・止めねばならない・・
  遅ければ遅くなるほど、その兵器の殺傷力は増すばか
 りとなる・・
  今が・・ラストの・・チャンスなのだろう・・人類に
 とって・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2017年5月7日日曜日

(増補版)524E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年12月~1890年12月)

題:(増補版)524E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年12月~1890年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1890年11月1日、東京盲唖学校の石川倉次らが50音点字表を
 完成し、採用された。
  フランス人のルイ・ブライユが考案した6点点字を基礎
 にして、研究と工夫を重ねて完成した。
  そして、これが、正式に採用されたのが、1890年11月
 1日で、以来、この日が「点字の日」と定められた。
  また、石川は「懐中点字器」、「点字タイプライター」
 も開発し、「日本点字の父」と言われている。
1890年12月29日、ウンデット・ニーの虐殺(アメリカ)
  アメリカは、完全に卑劣な行為を『正義の行動だ』と
 している・・『民族の浄化だ(ethnic cleansing)』と
 言っている。
  酷い民族差別の言い方である。
  民族浄化とは・・その意味は・・、
  複数の民族集団が共存する地域において、ある民族集
 団を、強制的にその地域から排除しようとする行為・政
 策で・・、
  直接的な大量虐殺(ジェノサイド)や、強制移住のほ
 か、
  各種の嫌がらせや、見せしめ的な暴力、殺人、組織的
 強姦、強制妊娠などによって・・地域内からの自発的な
 退去を促す行為も含まれている。
  そして、このウンデッド・二ーの虐殺は、アメリカ軍
 の第7騎兵隊が行った民族浄化だと言い・・
  (これは、まったくの嘘で・・アメリカの多数の部隊
 が『集団で虐殺した』行為である)・・、、
  また、卑劣にも、虐殺を隠して、ただ、「ウーンデッ
 ド・ニーの戦い」と呼んでいる・・、
  そして、この戦い(実際は、虐殺)を実行したとする
 第7騎兵隊には、名誉勲章まで授与している。
  インディアンの方々は、この戦いを「ビッグ・フット
 一行に対する虐殺」と呼んでいる。
  19世紀末、アメリカ・インディアンの方たちは、全住
 民の権利を蹂躙(じゅうりん、暴力的に侵すこと)され、
 白人によって、生活環境を破壊され、絶望のどん底にあ
 った。
  食料であるバッファローは、インディアンの方々への
 餓死目的で、白人たちによって、無用に殺戮され、バッ
 ハローは絶滅寸前の状況となっていた。
  これだけでも、インディアンの方々が、生き延びられ
 るわけがない訳で・・
  インディアンの方たちは、この頃、このバッファロー
 が、再び、草原に戻って来ることを願って、ゴースト・
 ダンス(幽霊踊り)が流行った。
  また、その踊りで、再びのインディアンの方々へ自由
 な世界が戻ることも祈った・・これは、可哀想なことに、
 民族の終末的な状況における踊りだった。
  また、さらに可哀想な事に・・白人の虐殺の銃弾が突
 き抜けないという「ゴースト・シャツ」も流行った。
  逆に、アメリカは、この様な状況が「反抗的である」
 とした・・卑劣である・・また、反乱の予兆であると勝
 手に解釈した・・弾圧の口実にした・・そして、アメリ
 カは弾圧を徹底的に行った。
  1890年11月中旬、アメリカ政府に、「インディアンが、
 雪の中で踊り狂い、狂暴になっている。今すぐ我々を保
 護してくれ」・・との連絡が入った。
  アメリカ政府は、軍の出動を命じた。
  数千人のアメリカ軍が、スー族保留地に、次々とやっ
 て来た。
  その白人のアメリカ軍の行動は、すでに虐殺の行為を
 しようとしていた、また、する様に見えたため、多くの
 スー族の民が虐殺を恐れ、西方の岩山地帯・マコシカ(
 バッドランズ)へ逃れた・・逃げた。
  さらに、白人の保留地監督官は、スー族の統率者であ
 るシッティング・ブルが、「ゴーストダンスを踊ること
 を煽っている」と濡れ衣を着せた。
  そして、1890年12月14日、民族の精神的支柱であった
 シッティング・ブルを暗殺した。
  シッティング・ブルは大酋長ともいうべき統率者で、
 尊敬も集めていたので、アメリカ西部は騒然となった。
  食料の少ない中、また、極寒の時期、飢えと寒さであ
 ったが、シッティング・ブルを慕うスー族の方々は、別
 のスー族の元へ、極寒の川をさかのぼり、160キロも、や
 むなく逃げた。
  そして、その別の酋長のビッグ・フット・人望厚い老
 酋長のもとへと逃れた。
  ほとんどが年寄りや女性だった、そして、子供たちだ
 った。
  頼りになる男の若者は、ほんのわずかだった。
  この時、ビッグフット酋長は肺炎を患っており、「そ
 り」で移動をしてもらうという余命いくばくもない状況
 だった。
  しかし、この地の白人・保留地監督官は、このビッグ・
 フット一行の動きも警戒し、ビッグ・フットを逮捕すべ
 く、第8奇兵隊を出動させた。
  そして、ポーキュパイン崖の近くで、アメリカ軍は、
 インディアンの方々の集団へ襲いかかった。
  インディアンの方々は、戦闘をするという状況ではな
 かったのにかかわらず、攻撃を受けた・・当然、直ちに
 降伏を示した。
  後に、ビッグ・フットは、「交戦の意思は、初めから
 なかった」とはっきりと言っている。
  夜に、東方から更なる騎兵隊が来ると聞いたインディ
 アンの方々はおびえて、浮き足たった。
  マコ・シカ(バッドランズ)へ逃げる者も出た。
  案の定、12月28日、アメリカは、このインディアンの
 方々にまで追跡し、逮捕せよとの命令を出した。
  戦いができるような状況にないインディアンの方々へ、
 執拗に仕掛けられる無慈悲な戦いだった。
  インディアンの方々は、すぐに白旗をあげ、降伏を告
 げた。
  この様な繰り返しの中で、あらゆるアメリカ軍によっ
 て、インディアンの方々は、なぶり殺される様に死者が
 増えて行った。
  因みに、この時のアメリカ大統領は、第23代アメリカ
 大統領で、ベンジャミン・ハリソンだった・・不名誉な
 アメリカ大統領である。
  そして、インディアンの方々は、ウーンデッド・ニー
 河畔まで連行された。
  『野営を張れ』とアメリカ軍から命令された。
  この命令には「悪計が、すでに、仕組まれていた」。
  肺炎のビッグ・フットのために、インディアンの方々
 は、ストーブを準備した。
  この様な状況にある、インディアンの方々を、アメリ
 カの騎兵隊は取り囲んだ。
  そして、何と、この様な弱体のインディアンの方々を
 取り囲むアメリカ軍は、その数を、どんどん増して行っ
 た。
  復讐をするのである・・キリスト教の『目には目を』
 である。
  第7騎兵隊の「汚名を晴らす意味」もあるのである。
  ほかの軍も、町から進軍して来た。
  過去に、インディアンに全滅させられ・・汚名を来た
 第7騎兵隊の残党も、当然、居た。
  この様な・・不必要なほどの超大軍にインディアンの
 方々は不安をつのらせた。
  1890年12月29日、無残な虐殺が行なわれる日が来た。
  必要もないのに、速射砲の大砲4門が、インデアンの
 方々のキャンプが見下ろせる丘に据えられた。
  この時点で、当然、インディアンの方々は武装解除さ
 れ、銃のない状態だった。
  しかし、言い掛かりを付けるアメリカの行動が開始さ
 れた。
  自らを正当としたい言い掛かりをつける行動が起こさ
 れた。
  アメリカは、何時も、この様な行動をする卑怯な国な
 のだ。
  やはり、当然、起きるべきトラブルが発生した。
  アメリカ軍が、この様な完全制圧しているインディア
 ンの方々が、まだ、武器を持っている、銃を持っている
 として、捜索を始めたからだった・・、
  それに・・まったく乱暴な捜索だった。
  寝ているインディアンの女性の毛布を剥がすという様
 な行為まで行われた。
  大勢のインディアンの人の中にはあるだろう銃が見つ
 かった・・揉み合いになった・・これが悲しい行為の引
 き金となった。
  銃の1丁や2丁、こんな状態で、見つかったと言ったっ
 て、どうなるわけでもなく、何のトラブルになる訳はな
 いのだが・・
  言い掛かりを付けたいアメリカは、事を穏便に済ます
 訳はなかった・・最初からの予定の行動だった・・、
  これをきっかけに、アメリカ軍は、無差別攻撃を開始
 した・・その必要がないのにである・・二人がもみ合っ
 たからって・・しかし、無差別虐殺を開始した。
  怯(おび)えて、すぐに降伏する人々を、揉み合いを
 合図にアメリカの全軍が、殺戮目的の攻撃を始めた・・、
  攻撃する必要のない女性たちや子供たちに対しても、
 攻撃を始めた・・殺戮・虐殺目的の攻撃を始めた・・卑
 劣なアメリカだった・・
  しかし、冷静に状況を判断しても、どうしても、この
 行為は、虐殺行為であって、
  アメリカは、最初から「ある」とした・・その様なア
 メリカ軍が「そこに集まって来て居た」。
  無抵抗の病人のビッグ・フットも、銃で頭を撃ち抜か
 れ・・そして・・死んだ。
  何故か、前もって据えられた丘の大砲も、無差別虐殺
 の轟音を打ち鳴らした・・卑劣である・・
  これが・・予定の行動だったのだった・・、
  速射砲の大砲の威力は、卑劣の言葉を通り越す・・無
 残で・・絶大だった・・、
  子供も馬も犬も関係なく、無差別に飛び散らかされて、
 殺され、狙い撃ちされた。
  戦えるインディアン戦士たちは、やむなく素手で戦っ
 た・・武器はないので・・この様な・・丸腰の人々を、
 アメリカは、まさしく・・殺人行為としか言えない行為
 をした・・
  また、銃を取ろうと戦ったが・・銃のない状態にされ
 て殺された・・悲惨な虐殺をアメリカはした・・
  銃弾と砲弾が降り注ぐ中を、それでも逃げたインディ
 アンの方々は居た・・
  しかし、負傷のために、3キロばかり逃げたが、力尽
 き、倒れて行った。
  武器のないインディアンは、四方から完全に囲まれた
 中で、狙い撃ちされ、銃弾と砲弾で殺戮された。
  味方の銃弾で死んだアメリカ兵も居るぐらい凄まじい
 無抵抗のインディアンの方々への殺戮行為だった。
  速射砲の大砲は1分間で50発の弾丸を、雨の様に降らせ
 た。
  過剰な、卑劣な攻撃の殺戮だった。
  無抵抗の者を、殺し続けるという状況の言い訳は、ま
 ったく存在する訳はない。
  アメリカ軍の卑劣な戦いの汚名が、また、一つ付け加
 わった。
  多くの乳飲み子まで、アメリカ軍は無慈悲に殺した・・
 その記録が、後世に、長く記録として残る事となった。
  「幼い子供たちが、身体中に弾を受けてばらならにな
 って、穴の中に裸で投げ込まれている」という記録もあ
 る。
  子供を、その様に撃つ必要があったのだろうか?
  死体は、そのまま放置し、アメリカ軍は引き上げた。
  この報は、インディアンのシャイアン族の方々へも、
 もたらされた。
  インディアンの方々が駆け付けると、その方々へも、
 アメリカ軍は発砲した・・が・・すぐ退却した。
  駆け付けたインディアンの方々は、こと切れた母親の
 ショールに包まって生きていた赤ん坊を発見した・・3
 人みつけ・・連れ帰った。
  白人に連れ去られた赤ん坊も居た(ロスト・バード)
  峡谷で、アメリカ兵と戦ったインディアンの二人の男
 児がいた・・勇敢なこの二人の少年はアメリカ兵を射殺
 していた・・少年は、まったく傷を負っていなかった。
  インディアンの方々の尊敬を集めている精神的支柱の
 ブラック・エルクは、「自分も死ねばよかった」と思った
 と言った。
  そして、「いっそ、白人の支配するつらいこの世に別
 れを告げて、あの世で幸せに暮らすほうがいいかもしれ
 ない」と思ったと言った。
  アメリカは、この後も、執拗に、追跡した・・スー族
 の方々は、物を置いて逃げた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:従軍慰安婦問題は、完全なデッチアゲ・・
.
17世紀、ロシアにおけるユヤダ人の方々への迫害が、最大
 となった。
  『ポグロム』は、ロシア語で「破滅・破壊」を意味す
 る言葉である・・、
  加害者の如何を問わず、ユダヤ人の方々に対し行なわ
 れる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を意味
 した。
  キリスト教が、ユヤダ人の方々を「主(イエス)殺し」
 として迫害したことにいきさつを持ち、また、発端を持
 つ・・、
  この迫害の歴史の中には、キリスト教プロテスタント
 運動の創始者であるマルティン・ルターが、著書『ユダ
 ヤ人と彼らの嘘について』において、ユダヤ人への激し
 い迫害、及び、暴力を、理論化して、1543年に、熱心に
 提唱したことにも影響された。
  ユダヤ人迫害を、長く、酷(ひど)くして来たのは、
 キリスト教カトリックであって・・この迫害には、ひど
 い限りを尽くした長い歴史がある。
  まず、その第一は、「異端審問所」の悪行で、筆舌に
 尽くせぬ最悪行為をし続けた。
  キリスト教カトリックの異端審問としての歴史は・・、
 1022年のオルレアンで起きた異端者の処刑事件に遡(さ
 かのぼ)る・・
  これ以来、人類史上、何百年に渡って、虐殺をし続け
 たキリスト教(人類史上、最悪の悪行為)
  そして、17世紀、ウクライナ・コサックのフメリニツ
 キーの乱で起こったポグロムは、その犠牲者の数で最悪
 のものとなった。
.
1905年9月5日、この日に、日露戦争が、日本の勝利で終わ
 ったが・・、
  この勝利の最大の要因が「日本海海戦において、日本
 が目覚ましい快勝をした」ことを第一の要因とする人は
 多いが・・、
  その他において、日本への勝利を導いた大きな要因が
 あった。
  日本への資金的支援・応援が、ユダヤ人の方々からあ
 ったことも、その勝利の大きな要因である。
  帝政ロシアは、ユダヤ人の排斥主義を取っていて、「
 ポグロム」と呼ばれる卑劣なユダヤ人の方々への迫害の
 嵐が吹き荒れていた。
  ヤコブ・シフらのユダヤ人の金融資本家の方たちは、
 ロシア皇帝ニコライ2世を打倒しようと対抗し・・敵対し
 ていた。
  ロシアから資本を引き上げ、内外のユダヤ人から資金
 を集めて、日本の戦時国債を買い、日本の日露戦争の戦
 費への支援をした。
  日露戦争は、ユダヤの方々の「民族としての生き残る」
 ための重大な戦いでもあった。
.
1917年2月23日、ロシア革命(二月革命)が起きた。
  ユヤダ人の方々の「民族の生き残りの戦い」・・帝政
 ロシアは、ユダヤ人排斥主義をとり、ユダヤ人の方々へ
 の迫害は酷かった。
  第一次世界大戦中(1914年7月28日~1918年11月11日)
 に、「ロシア革命」が起きるが、この革命は、ユダヤ人
 の方々が仕掛けたものだった、ユダヤ人により起こされ
 たものだった。
  ウラジミール・レーニンも、レフ・トロツキーもユダ
 ヤ人で・・、
  ユダヤ人の金融資本家は、このレーニンやトロツキー
 らを支援した。
  トロツキーは、赤軍の創設者で、革命の内戦において、
 大きな功績を上げた。
  そして、ソビエト連邦政権が樹立された後は、共産党
 政治局員として重要な地位に就いた。
  また、第4インターナショナルの活動組織を結成して、
 世界に社会主義革命を行ない、国際運動を展開した。
  そして、今・現在、世界で活動している「ネオコン」
 は、この考え方を引き継いでいる。
  因みに、ロシア革命は、1917年に、ロシア帝国で起き
 た2度の革命のことを指す名称で・・、
  特に、史上初の社会主義国家樹立につながったことに
 重点を置く場合には、「十月革命」のことを意味する。
  また、逆に、広義には、1905年の「ロシア第一革命」
 も含めた長期の諸革命運動を意味している。
  そして、この「二月革命」「十月革命」は、当時、ロ
 シアで用いられていたユリウス暦における革命勃発日を
 基にしていて、現在、用いられるグレゴリオ暦では、そ
 れぞれ「三月革命」「十一月革命」となる。
  (参考)ネオコン:アメリカ合衆国における新保守主
    義(ネオコンサバティズム、 略称:ネオコン)は、
    保守派の政治イデオロギーの1つで、米国において
    1970年代から独自の発展をして、主に、
     共和党政権時のタカ派外交政策姿勢に非常に大
    きな影響を与えている。
.
1991年12月、慰安婦問題のデッチアゲが起きた。
  結論を先に言うと・・これは、「完全な作り話」で、
 日本が貶(おとし)められる事になった。
  (読売新聞、2017年4月24日)と(4月25日)の連載の
 記事に、歴史学者・秦郁彦氏の記述があるが・・はっき
 りと、日本がでっち上げられて、『無実の罪を着せられ
 ている』と記載している・・それを以下に記す・・、
  1991年12月から1992年1月にかけて、私(秦郁彦氏)が
 「ビックバン(大爆発)」と呼ぶ、慰安婦問題の騒動が
 発生します。
  12月、旧日本軍に徴用された韓国人と遺族が、日本に
 謝罪と補償を求め東京地裁に提訴。
  この中に元慰安婦3人も加わりました。
  1月11日には朝日新聞が、朝刊1面トップで、慰安婦の
 募集に日本軍が関与していたと報じます。
  (記事は、旧日本軍が慰安所の設置や従軍慰安婦の募
 集に関与していたことを示す文書が明らかになったとい
 う内容だった。
  従軍慰安婦について「主として朝鮮人女性を挺身(て
 いしん)隊の名で強制連行した。
  その人数は8万とも20万とも言われる」との記述もあ
 った)
  記事の根拠となった文書は、吉見義明中央大教授が防
 衛庁の防衛研究所図書館で発見した、とのこと。
  私(秦氏)は12月下旬、吉見氏と防衛研究所で偶然会
 い、近く朝日新聞に出ると聞き、なぜニュースになるの
 か疑問に思いました。
  1938年に陸軍省が流したこの通達文書は、すでに20年
 前から公開されていたもので、慰安婦を募集する際、誘
 拐まがいのことをやっている悪質な業者がいるから、取
 り締まれという内容です。
  日本軍の関与には違いないが、良い関与だったから。
  それを、宮沢首相の訪韓(1月16日)という絶妙のタ
 イミングに合わせて掲載したのでしょう。
  ほかのマスコミも追随し、強制連行の証拠が見つかっ
 たかのような大騒ぎになりました。
  宮沢首相はソウルでデモ隊に迎えられ、何度も陳謝し
 ます。
  強制連行説の根拠になったのが、吉田清治著『私の戦
 争犯罪』(1983年)です。
  戦時中、労務報告会(労報)下関支部の動員部長だっ
 たと称する吉田氏は、済州島で慰安婦を調達せよとの西
 部軍命令を受け、女性を狩り出したと書いています。
  私(秦氏)は、一読して怪しいと感じました。
  済州島は朝鮮総督府と朝鮮軍の管轄。
  本に載っている命令書も、正規の体裁から外れている。
  私(秦氏)は吉田氏に電話しましたが、話に矛盾が多
 く、作り話と確信しました。
  出版社にも電話すると、担当者は「あれは小説ですよ」
 と言うのです。
  私(秦氏)は彼を典型的な詐話師(さわし)だと直感
 し、1992年3月、証拠を見つけるため済州島を訪れまし
 た。
  最初に城山浦の貝ボタン工場を訪ねました。
  本には女子工員を木剣で打ちすえ、かり集めたと書か
 れています。
  近くの老人たちに話を聞くと、「そんな話はない。小
 さな村落だから、何十人も連れて行かれたら大事件だよ」
 と一様に否定しました。
  さらに公立図書館で、地元の済州新聞が吉田本の韓国
 語版の紹介記事(1989年8月14日)を掲載していたこと
 を知りました。
  慰安婦狩りを裏付ける証言はなく、島民は「デタラメ
 だ」と否定しているとの内容です。
  書いた女性記者を訪ねると、「日本人はなぜこんな作
 り話を書くのでしょうか」と責められました。
  帰国後、私(秦氏)の済州島での調査を取材した4月30
 日の産経新聞は、吉田証言を虚偽と断定しました。
  ・・以下、4月25日の記事・・
  図らずも慰安婦問題に私(秦氏)が巻き込まれてから、
 二十数年の歳月が流れました。
  (1993年8月4日、政府は、慰安婦問題についての河野
 洋平官房長官談話を発表した(宮澤喜一内閣総理大臣の
 とき)
  この中で、朝鮮人の慰安婦の「募集、移送、管理等も、
 甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行
 われた」と認定した)
  河野談話は、韓国と事前調整で譲歩した産物なんです
 ね。
  日本軍が強制連行したとは書いてないが、そう読めな
 くもない玉虫色の表現です。
  実際に河野氏は記者会見で、強制連行を認めるのかと
 聞かれ、そうですと答えている。
  談話発表の前夜、慰安婦問題を担当していた内閣外政
 審議室の谷野作太郎室長から、私(秦氏)の自宅にファ
 ックスが届きました。
  談話の文案について感想を、との事でした。
  一読した後、実害が少しでも減るように、「総じて」
 を「時として」などに修正されたい、と要望しましたが、
 採用されませんでした。
  1995年7月、元慰安婦たちに「償い金」を給付する半官
 半民の「アジア女性基金」が設立され、私(秦氏)は事
 実の究明に当たる資料委員会の委員を引き受けます。
  ところが、慰安婦の総数は約2万人、最多は日本人で、
 朝鮮人は2割という私(秦氏)の結論は、和田春樹委員
 (東大教授)ら左派のお気きに召さず、「東大には研究
 の自由はあるが、基金にはない」と宣告され、私(秦氏)
 の論文はボツにされてしまいます。
  その頃、国連人権委員会の委託を受けたクマラスワミ
 女子が来日します。
  私(秦氏)は彼女に会い、戦時中にソウル(京城)の
 新聞に載った慰安婦募集の広告と、北ビルマで捕らえら
 れた20人の朝鮮人慰安婦に対する米軍の尋問調書を渡し
 ました。
  前者は強制連行を必要としない証拠で、後者は、慰安
 婦に外出、廃業、社交の自由があり、軍司令官級の高収
 入を故郷に送金するなど「性奴隷」とはほど遠い境遇だ
 った事を示しています。
  しかし、人権委員会へのクマラスワミ報告(1996年2
 月)には反映されませんでした。
  吉田清治氏の強制連行体験、「慰安婦をセックス・ス
 レイブ(性奴隷)と呼びかえよう」と説いていた戸塚悦
 郎弁護士の言い分の方が採用されたからです。
  日本政府の事なかれ主義もあって、強制連行と性奴隷
 のイメージは、国際社会に広く定着した感があります。
  韓国ばかりか、世界各地に乱立した慰安婦像は60体を
 超えるありさまです。
  無力感を味わっていた私(秦氏)は、せめて慰安婦と
 周辺事情の史的経過を実証的にまとめておきたいと考え、
 1999年に『慰安婦と戦場の性』(新潮社)を刊行します。
  2013年には、内閣官房で対外発信を強化する一環とし
 て、拙著の英訳プロジェクトが内定しました。
  ところが、新任の内閣広報官から、もし、日本政府の
 後押しが露見したらまずいとの理由で、ドイツ、英連邦、
 米国、韓国など諸外国の例を記述した第5章などを訳出の
 対象から外したいと言われます。
  私(秦氏)は削除を拒否し、英訳プロジェクトは流れ
 ました。
  何度目かの筆禍体験でした。・・以上・・
  (参考事項)
 (1)吉田清治氏の本は虚偽と判明して決定し、朝日新
   聞は謝罪している。
 (2)戸塚悦郎弁護士は、中国のロビイストと判明した。
    国連に日本の性奴隷を定着させた人である。
    国連のNGOに所属する立場を利用して、慰安婦
   問題について人権委員会が勧告を出すよう執拗に働
   きかけ、20回近い会合に出席して吉田清治の話を英
   訳して配布し、慰安婦をセックス・スレイブと英訳
   して世界に公言した。
    公正性はなく、日本を有罪にしたいという姿勢だ
   った。
 (3)前事務総長が韓国人であり、国連要職に韓国人を
   多数任用して、その様な環境の中で日本を貶める行
   為がなされて行った。
 (4)韓国人の業者が、卑劣な事に、自国の韓国の女性
   を中国などに連れて来て、中国の町で商売をしてい
   た。
    日本軍に付いて来て、商売をしていた者も居た。
    この頃は、中国の街中には、女性を商売にする悪
   い奴が大勢いた。
    その中で、朝鮮の人が多かったという。
    次が中国人が多くその商売をしていた。
    それが、日本軍が指示したという話に作り上げら
   れて行った。
    日本軍は、何もその様な指示などはしていない。
    吉田清治の言うところの小さな村から、8万人とも
   20万人とも言われる女性が、従軍慰安婦にされるこ
   とが出来るのか?
    出来る訳はない。
 (5)1993年8月4日、河野洋平官房長官が、従軍慰安婦
   強制連行を認め、謝罪の意を表明したが、どんな資
   料を見てその様に断定したのか?
    その事は、まったく説明せず、ただただ、日本を
   貶める発言となっている。
    証人喚問するべきである。
    何をどう判断してその様な行為をしたかを説明せ
   よ!
 (7)日本の「アジア解放の理念」のアジア諸国へ、ま
   た、世界へ与えるイメージを破壊しようと、この嘘
   の慰安婦問題を、アメリカの一部組織が、韓国・中
   国へ働き掛けて、嘘の行動を、南京虐殺問題と共に
   起こさせている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive