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2018年4月14日土曜日

(増補版)588E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月~1893年10月)

題:(増補版)588E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月~1893年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年10月、日本郵船会社が、青森~函館~室蘭間を結ぶ
 三港定期航路を開設した。
  日本郵船が、青森~函館航路を延長する形で青森~函
 館~室蘭の定期航路を開設した。
  この頃の室蘭は活発な発展のスタートを切ったところ
 だった。
  室蘭市史によると・・
  1892年、夕張鉄道が全通するとともに、北海道炭礦鉄
 道会社(以下、北炭)が石炭積み出しのため、岩見沢・室
 蘭(輪西)間に鉄道を敷設し、現在の新日鐵住金の一門付
 近に、室蘭停車場を開設して、一般旅客の取り扱いを開
 始した。
  同時に、イトツケレップ(現:御崎駅付近)に、貨物専用
 駅を設置し、
  木造桟橋では、石炭の積み出しも開始され、
  この年は、室蘭が大きく飛躍する記念すべき年となっ
 た。
  さらに、1894年、室蘭港が特別輸出港に指定され、石
 炭・米・麦粉・硫黄に限って、海外直輸出が出来るよう
 になってからは、北炭が、小樽港を国内向け石炭の供給
 地とし、
  太平洋の玄関口を占める室蘭港を外国向け石炭輸出港
 としたことにより、室蘭港は、石炭積み出し港として飛
 躍的に発展した。
1893年10月、讃岐鉄道会社が、丸亀駅~高松駅間延長の免
 許を申請した。
  (1895年10月10日免許状下付)
  1893年7月、讃岐鉄道会社は、「丸亀~高松間は経済・
 社会・政治の面からみて、密接な結び付きを有しており、
 この区間に鉄道を敷設することは急務である」という趣
 旨で、丸亀駅~高松駅間の延長を決定した。
  その後、1895年9月(10月?)、鉄道延長の免許証が
 交付され、
  その年・1895年の暮れ、工事に着手・・、
  翌年・1896年のうちには、ほとんど竣工していたが、
 土砂くずれなどの思わぬ事故があり、開通は、1897年2月
 21日となった。
  また、本州・四国の海上の連絡について・・
  高松と本州を結ぶ鉄道連絡船は、1897年頃、讃岐鉄道
 汽船会社によって始められた。
  しかし、本格的には、1903年の山陽汽船による高松航
 路の開通に始まる。
  この時、高松航路は、岡山駅から京橋まで人力車、京
 橋船着き場から三蟠までを小型汽船、三蟠から玉藻丸で
 高松へという形で、乗客にとってはたいへんだった。
  そこで、岡山~宇野間の鉄道敷設と、宇野築港を要望
 の声もあり、1910年、宇野線の開通を待って、宇野~高
 松間の鉄道連絡船が就航した。
  これによって、本州、四国を結ぶ航路の中心は、宇高
 航路となった・・
  また、高松港は、本州と四国を結ぶ四国の玄関口とし
 て確固たる地位をもった。
1893年10月、フランスが、ラオスを植民地化した。
  帝国主義時代になると、ヨーロッパの列強諸国は、ア
 ジア各地を次々と植民地にして行った。
  ラオスもその例外ではなかった。
  ラオスは、ヨーロッパ諸国・列強の侵略に巻き込まれ
 た。
  1885年、フランスは、中国の清と戦争をした。
  その清仏戦争の結果、清は、ベトナムに対する宗主権
 フランスに奪われた。
  1863年、すでに、フランスは、カンボジアを植民地化
 して、植民地化の標的をラオスへ定めた。
  1887年に、黒旗軍が、ルアンパバーン王国に侵攻し、
 壊滅的な打撃を受けたが、フランスに助けられた事件を
 きっかけに、ルアンパバーン王国は、フランスの保護を
 受け入れる道を選択した。
  (参考)黒旗軍:こっきぐん、清朝統治に反対する武
     装闘争したのが始まりだったが・・フランスが
     侵略して来るとその撃退に立ち向かった
      指揮官の劉永福は、ベトナム国王より三宣副
     提督の職に任じられていた。
  (参考)ルアンパバーン王国:メコン川中流域ルアン
     パバーンに18世紀~20世紀にかけて展開したラ
     ーオ族の王朝。
  (参考)ラーオ族:ラオスおよびタイ東北部(イーサ
     ーン)に住むタイ族の一派。
  1893年、タイ王国との間でラオスをめぐり仏泰戦争が
 起き、フランスはタイを圧倒し、
  1905年には保護国化(植民地化)を完了し、フランス
 領インドシナが完成した。
  1902年から6年間に渡ってオン・ケーオによる反乱がタ
 ーテーン(セーコーン県)で起こった。
  (参考)仏泰戦争:フランスとタイ(シャム)の戦争。
  (参考)オン・ケーオとオン・コマダムの反乱は、フ
     ランスによる植民地での地下活動で、ラオス南
     部ボーラヴェン高原で起きた愛国的反乱。
      植民地にして、利益を収奪したいフランスに    
     愛国的行為として立ち向かった。
  1940年11月、タイとフランスとの間で、仏印国境紛争
 が起こり、タイは反仏宣伝の一環として対ラオス工作を
 開始。
  ラジオ放送や宣伝ビラ、パンフレットの活用、工作員
 の潜入などを通して行われ、「ラーオ人もタイ人も結局
 は同じタイ系民族である」との民族同胞性を強調するこ
 とによって、抑圧者のフランスに対して抵抗することを
 協力することを訴えた。
  このタイの反仏抵抗に対して、フランスがとった政策
 は、ルアンパバーン王国の強化と文教政策、ラオス刷新
 運動であり、フランスのラオス植民地維持政策であった。
  学校教育を重視し、小学校が各地に新設され、「勤勉・
 家族・祖国」をスローガンに、「母なる祖国・フランス」
 への奉仕が説かれた。
  美しいなの下で、結局、フランスの利益になる様に仕
 向けた。
  この様な政策を広めるために大きな役割を果たしたの
 は、1941年1月に発刊されたラーオ語紙であった。
  しかし、ラオス人のなかに「ラオス」という祖国・国
 民を構想したく、そして、構想するものが現れてきた。
  1945年3月9日、日本軍によって、フランスの武装解除
 が達成された。
  そして、この仏印武装解除後、ラオスの方たちに、祖
 国・国民を構想する動きが活発になっていった。
  第二次世界大戦中、日本の占領下にある1946年、ラー
 オ人の民族主義者らはフランスからの独立を宣言できた。
  日本の「アジアの解放・・大東亜共栄圏の達成」の目
 的の一つが達成された。
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  (今日の言葉)
.
  題:明治維新は、『公(おおやけ)のために働くことを自己の使命と
   考えていた武士たち』によって実現した改革だった。
    そして・・奴隷国ができるだけ・・、
.
70万年前頃、概ね、この頃から、10万年周期の気候変動が
 見られるようになる。
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約50万年前、北京原人
  中国北京郊外、周口店の石灰岩洞穴から発見された化
 石人類。
  更新世中期、50万~20万年前の生息と推定されている。
  原始的な石器を用い、火を使った。
  ホモエレクトゥス‐ペキネンシス
.
約40万年前、マンモスは、北東シベリアで誕生したとされ
 ている。
  別の説は、最古のマンモスが、約500万年前~400万年
 前、北アフリカにおいて生まれたと考えられている。
  また、別の説は、マンモスゾウの化石は、これまでお
 もに、ユーラシア北部から北アメリカ北部にかけての約
 11万5000年前から1万年前にかけての地層から発見され
 ている。
  しかし、2001年に、東シベリア海東部のウランゲリ島
 で発掘されたマンモスゾウの化石は、7000年から4000年
 前のものだった・・もっとも新しい発見。
.
約23万年前、ネアンデルタール人が出現した。
  この頃、温暖期のピーク。
  この後、緩やかに寒冷化へと向かい、14万年前頃に氷
 期のピークとなった。
  別の説は、約25万〜3万年前に、欧州と西アジアに住ん
 でいた。
  また、別の説は、第三間氷期およびビュルム氷期第一
 期、年代としては15万年前~3万5000年前に生存していた
 と考えられている。
.
約20万年前~19万年前、ホモ・サピエンス(現在のヒト)
 が出現した。
  別の説は、ヒト属とチンパンジーの共通祖先が分岐し
 たのは・・およそ200万年前~1000万年前・・、
  ホモ・サピエンスとホモ・エレクトスの共通祖先が分
 岐したのは・・およそ20万年前~180万年前と見られて
 いる。
.
約15万年前、マンモスがヨーロッパに現れた。
.
約14万年前、氷期(リス氷期)のピーク。
  この後、急速に温暖化へと向かった。
.
約13万年前~12万年前、温暖期のピーク。
  現在よりも温暖であったと考えられている。
  この後、急速に寒冷化し、約11万年前頃から緩やかに
 上下を繰り返しながら徐々に氷期へと向かった。
.
約12万5千年前、初期のヒト属による火の利用
  日常的に、広範囲にわたって、火が使われるようにな
 ったことを示す証拠が、約12万5千年前の遺跡から見つか
 っている。
.
約10万年前、マンモスは、ヨーロッパから北アメリカ大陸
 にまで生息分布を広げた。
  マンモスは、寒冷な草原での生活に適応していた。
.
約10万年前、現代人(ホモ・サピエンス)が、アフリカを
 出て、世界各地に拡がった。
  (アフリカ単一起源説を裏付けるもの)
  7万年前との説(後述)もある。
  ミトコンドリアDNAの分析では、現代人の共通祖先の分
 岐年代は14万3000年前±1万8000年である。
.
8万1000年前、地球温暖化に伴う海面の急速な上昇が起こっ
 ていた。
  国際研究グループが、気候変動に伴う氷床の拡大、縮
 小は、今まで考えられていたよりも急速に起きる可能性
 があると発表した。
.
約7万3000年前、スマトラ島のトバ火山の大噴火。
  スマトラ島のトバ湖は、この時の噴火によって形成さ
 れたカルデラ湖。
  ここ10万年ほどでは、最大級の噴火とされ、地球の気
 温が数年間3度~3.5度低下した。
  ヒトのDNAの解析によれば、7万年ほど前に、人類の人
 口が1万人以下に激減し、遺伝的な多様性の多くが失われ
 現在の人類につながる種族のみが残った。
  「ボトルネック効果(遺伝子多様性減少)」があった
 と考えられるが、これが、トバ火山の大噴火に関連する
 と考えられている。→ トバ・カタストロフ理論、
.
7万年前、ヒトが、衣服を着るようになり、ヒトに寄生する
 ヒトジラミは、7万年前に2つの亜種、主に毛髪に寄宿す
 るアタマジラミと、主に衣服に寄宿するコロモジラミに
 分岐した。
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7万年前、この頃のヒトの出アフリカ説。
  7万年前±1万3000年に、ヨーロッパ人と日本人の共通
 祖先が分岐。
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約5万年前、クロマニョン人
  ヨーロッパ、北アフリカ各地で発見された。
  別の説は、3万5000年前~1万年前に生息し、頭が大き
 く現代人によく似ているが、身長はやや高い。
  文化的には、後期旧石器時代に属し、洞窟壁画などを
 残している。
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約5万年前、隕石の衝突で、バリンジャー・クレーター(ア
 メリカアリゾナ州)が形成された。
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約4万年前、オーストラリアに人類が渡島したのは4万2000
 年前~4万5000年前である。
  また、オーストラリア最古の人骨の年代は、およそ4万
 5000年前である。
.
約3万年前、ネアンデルタール人がこの頃絶滅した。
  最古の洞窟壁画
  現在知られている古いものでは、南フランスのショー
 ヴェ洞窟壁画(約3万年前?)がある。
  また、ラスコー(約1万8000年前~1万6000年前)、ア
 ルタミラ(約1万4000年前~1万3000年前)など、多くの
 洞窟壁画がある。
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約3万年前~2万年以前、モンゴロイドがアメリカ大陸に渡
 った。
  氷河期の時代にベーリング海峡は地続きになっていた。
  この頃、ユーラシア大陸から無人のアメリカ大陸に人
 類が移り住んだと考えられている。
  約1万年前頃までには、南アメリカ大陸の南端地域まで
 到達した。
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2万6500年前頃、タウポ湖が大爆発を起こす。
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2万5000年前頃、姶良(あいら)火山が大爆発を起こす。
  姶良カルデラは、鹿児島湾北部(湾奥)において直径
 約20kmの窪地を構成しているカルデラで・・、
  南九州のカルデラ群のひとつで、現在のカルデラを形
 成した姶良噴火は、約3万年前と推定されている。
  桜島火山のマグマ供給源とされる。
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約2万年前、ウルム氷期(最終氷期)のピーク。
  気温は、年平均で7℃~8℃も下がった。
  そのため、地球上で氷河が発達し、海水面が現在より
 も100mから最大で130mほど低かったと考えられている。
  その後、温暖化と寒冷化の小さな波をうちながら、長
 期では徐々に温暖化に向かった。
.
約1万8000年前、日本海に、津軽海峡を通って寒流である親
 潮が流入し、この影響で、朝鮮海峡あるいは、対馬海峡
 から表層水が流出した。
  (参考)表層水:ひょうそうすい、海や湖などの表層
     の水。
      太陽光が届く深さで、活発に光合成が行われ、
     有機物が生産される。→海洋深層水
.
約1万6500年前、青森県外ヶ浜町にある大平山元I遺跡から
 土器、石器が出土している。
  AMS法による放射性炭素年代測定法の算定による。
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約1万6000年前、東南アジアにあったとされるスンダランド
 が、海面上昇により徐々に後退した。
  海面の上昇により、他にも、アラスカとロシアの間に
 あるベーリング海峡(氷期には陸続きだった)の海没や、
 大陸と地続きだった日本も徐々に島化が進んだ。
.
約1万4000年前~約1万年前、この頃までに、ヒトがイヌを
 飼い慣らしたと考えられている。
  別の説は、シリア・ドゥアラ洞窟にあるネアンデルタ
 ール人の住居遺跡(約3万5千年前?、ムスティエ文化(
 ムスティリアン文化))から発掘されたイヌ科動物の下
 顎骨:埴原和郎らが発掘。
  オオカミの下顎骨に比べて小さく、これを世界最古の
 イエイヌとする説がある。
  (参考)埴原和郎:はにはらかずろう、1927年~2004
     年、昭和後期-平成時代の人類学者。
      1972年、東大教授となる。
      1987年、国際日本文化研究センター教授。
      諸人種の歯の形態を比較し、モンゴロイドの
     歯の特徴に注目。
      骨や歯の特徴を統計学的に処理し、性別や年
     齢を推定する方法を考案。
      また、南方系の縄文人と北方系の弥生人が混
     血したことによって日本人は形成されたとする
     「二重構造モデル」を提唱した。
.
約1万3000年前、日本列島が、大陸から完全に離れ、ほぼ今
 の形を整えたと考えられている。
  マイナス約60mの宗谷海峡が海水面下に没した。
  対馬暖流は、一進一退を繰り返しながら日本海に流入
 して行き・・、
  約1万年前~8000年前の間に、現在と同じような海洋環
 境になったと考えられている。
.
約1万3000年前~1万年前、温暖化が進行しつつあったが、
 寒冷気候に戻った時期。
  北ヨーロッパなどでは「新ドリアス期」と呼ばれてい
 る。
.
約1万2000年前、この頃は、こと座(七夕の織り姫星付近)
 が北極星だった。
  地球の歳差運動により、北極星は25,920年周期で変化
 している。
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約1万2000年前、この頃、アメリカ大陸に人類が移動したと
 されている。
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約1万2000年前、ナイアガラ滝の形成がはじまる。
  解凍した氷河の水で滝の形成がはじまった。
  初期の滝は、現在より10kmほど下流にあり、年1mほど
 のペースで後退しながら現在の姿となった。
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約1万2000年前、イスラエルのヒラゾン・タクティット洞窟
 遺跡で、農耕開始以前の人々が宴会を開いていた証拠が
 見つかっている。
.
約1万2000年前、ジェームズ・チャーチワードが、著書の
 失われたムー大陸(1926年刊)で、この時期に太平洋上
 に存在したムー大陸が沈んだと証言している。
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約1万年前、この頃、最後の氷期(最終氷期)が終わった
 とされる。
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約1万年前、この頃、ヨーロッパ中部の火山活動が終息へ。
  アイフェル高地(ドイツ、ベルギー)や中央高地(フ
 ランス)の火山活動がおおむね終息。
  ピュイ=ド=ドームは約8,000年前まで活動を続けた。
.
紀元前8800年頃、人類が最初に精錬した金属は、銅だった。
  銅製の小玉が、イラクから出土しており、最古の銅製
 品と言われている。
  農耕革命(農耕の開始)
  人類史上、重大な事件の1つとされる。
  この時期より主に磨製石器が使われたことから新石器
 革命(新石器時代)とも。
.
紀元前5300年頃、鹿児島南方の鬼界カルデラで大噴火。
  日本周辺で、ここ1万年間の火山活動の中では大規模
 なものとされている。
.
紀元前5000年~紀元前3000年頃、完新世の気候最温暖期。
  この頃、海面は現在よりも数m(4mから10mまで諸説あ
 り)程度高かったと考えられている。
  → 海面上昇、縄文海進。
.
紀元前約5000年~紀元前4000年、北海道に人類が現れたの
 は、おそらく数万年前といわれている。
  そして、室蘭地方に先住民が住み始めるのは、その生
 活跡から、約7千年から6千年前頃(紀元前約5000年~紀
 元前4000年)とみられ、縄文時代早期の土器が絵鞆遺跡
 から出土する。
  この絵鞆遺跡を含め、室蘭市内では、37カ所の埋蔵文
 化財包蔵地(ほうぞうち)が確認されている。
  (室蘭市史を参考にした)
.
紀元前約4000年、地球上で最後まで生き残っていたマンモ
 スの化石が、ロシア国内の北極海の島(ウランゲリ島)
 で見つかっている。
.
紀元前3000年頃(5000年前)初期の文明が現れる。
  古代エジプト文明、メソポタミア文明など。
  人為による環境破壊が少しずつ表面化。
  塩害、塩類集積、森林破壊、レバノン杉など参照。
      ・
      ・
      ・
紀元前552年、キュロス二世が、イラン高原のメディア王国
 に反旗を翻した。
  キュロス二世・・アケメネス朝ペルシャの始祖。
  紀元前600年頃に生まれた。
  紀元前552年に、イラン高原のメディア王国に反旗を翻
   し・・、
  紀元前539年には、メソポタミアの新バビロニア王国
   を征服し、古代オリエント世界を統一した。
   アケメネス朝を始祖した。
  キュロスが、バビロンに入城した時、その地の王が、
 人望を失っているせいか、ほとんど抵抗らしい抵抗は無
 く、無血入城できた。
  この時、バビロンには、様々な民族が住んでいた。
  キュロスは、ユダヤ人だけではなく、そのすべての民
 族に寛大な対処をした。
  (バビロン捕囚からの解放は、ユダヤ人だけではなか
 った)
  キュロスは、紀元前529年に死去する。
.
726年、東ローマ帝国のレオ3世が、聖像禁止令を発布した。
  聖像崇拝を巡った、東キリスト教会と西キリスト教会
 の対立は激化した(~643年)
  東ローマ帝国の皇帝教皇主義が確立した。
.
756年、フランク王国のピピン3世が、ローマ教皇にラベン
 ナ地方を寄進した。
  ローマ教皇領の始まり。
.
800年、ローマ教皇(レオ3世)によるフランク王国カール
 大帝の戴冠。
  ローマ教皇の東ローマ帝国からの独立。
.
869年、貞観地震(M8.6以上)日本海構造で起きた巨大地
 震と津波。
.
962年、ローマ教皇による東フランク王国(フランク王国
 が分裂して成立した)のオットー1世の戴冠。
  神聖ローマ帝国の成立。
.
1054年、東西教会が完全に分裂した。
  西:ローマ・カトリック教会。
  東:東方正教会。
.
1543年9月23日、鉄砲が種子島に伝来した。
  大隅国の種子島に一隻の船が漂着した。
  100人余りの乗客のほとんどとは言葉が通じなかった
 が、西の村の地頭であった西村織部之丞は、この船に乗
 っていた明の儒者・五峯と筆談し、ある程度が分かり理
 解した。
  そこで、この船を、領主・種子島時堯(たねがしまと
 きたか)の居城がある赤尾木まで曳航した。
  船は、1543年9月25日、赤尾木に入港し、時堯が改め
 て法華宗の僧・住乗院に命じて五峯と筆談を行わせた。
  この船には、2人の商人の代表者が居て、フランシス
 コとキリシタ・ダ・モッタという名だった。
  時堯は、2人が実演した火縄銃2丁を買い求めた。
  そして、家臣の篠川小四郎に火薬の調合を学ばせた。
  時堯が、射撃の技術に習熟したころ、紀伊国根来寺の
 杉坊某もこの銃を求めたので、津田監物(つだけんもつ)
 に1丁持たせて送り出した。
  (参考)津田監物:津田流砲術の祖。紀伊の人。名は
     算長(かずなが)。
      種子島で、ポルトガル伝来の銃を譲り受けて
     砲術とその製造法を学んだ。
      1544年、鍛冶屋の芝辻清右衛門(妙西)に鉄砲
     を作らせ、根来寺(ねごろじ)の杉之坊をはじめ
     とする根来衆に広めた。
  そして、さらに、時堯は、残った1丁を複製するべく
 金兵衛尉清定ら刀鍛冶を集め、新たに数十丁を作った。
  また、堺から、橘屋又三郎が、銃の技術を得るために
 種子島へ来て、1、2年で、殆どを学び取っている。
  日本最初の鉄砲鍛冶だと言われている人物には、鉄砲
 伝来の年の1543年に、種子島で既に鉄砲生産に成功した
 八坂清定(金兵衛)らが居る。
  螺子(ねじ)の技術など当時の日本では知られていな
 かった技術が用いられていたため、八板らは苦心をして
 鉄砲を製作した。
  しかし、要領が明らかになると比較的単純な技術で製
 作が可能となり、各地にその生産が広まった。
  種子島以外では、和泉国の堺、紀伊国の根来、近江国
 の国友及び日野などが、代表的な産地であったが、他に
 も、刀剣や農具の生産で知られていた備前国の長船や、
 城下町である鹿児島・仙台も知られた。
  この様に、日本は、どこでも高い技術力を古来から磨
 いて来ていて、それ故に、直ぐに、鉄砲生産に対応する
 ことができていた。
  鉄砲が伝わり、その道理が分かってしまえば、たちま
 ち我が手で作ってしまう日本だった、そして、すぐに、
 日本全国へ広まった。
  そして、時を経ずして「日本は世界一の鉄砲生産国」
 となってしまった。
  丁度、日本史上、唯一の戦乱の時代だったからでもあ
 った。
  そして、この時から32年後の1575年6月29日に、鉄砲戦
 で有名な長篠の戦の設楽原決戦が行なわれる。
  (鉄砲を使った新しい戦法が編み出された)
  織田信長・徳川家康連合軍3万8千と、竹田勝頼1万5千
 が設楽原(したらがはら、愛知県新城市)付近で激突し
 た。
  この戦いは、「鉄砲三千丁・三段撃ち」が通説となっ
 ている。
  この日の早朝、鳶ヶ巣山(とびがすやま)攻防戦の大
 勢が決したと思われる頃・・、
  設楽原では、敗戦を知って決戦を挑んだ武田軍が、織
 田・徳川軍を、武田軍の得意な騎馬隊を中心にして、次々
 と攻撃をかけた・・戦いは昼過ぎまで続いた(約8時間)
  しかし、騎馬隊は馬防柵に妨げられ、信長の側近部将
 が指揮する鉄炮隊の迎撃を浴びた。
  武田軍は多数の将士を失った。
  そして、織田・徳川軍から追撃され・・武田軍は1万
 名以上の犠牲(鳶ヶ巣山攻防戦も含む)を出した。
  織田・徳川軍の勝利で・・合戦は終結した。
  織田・徳川軍には主だった武将に戦死者が見られない
 のに対し、『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、
 譜代家老の内藤、山県、馬場を始めとして・・、
  原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土
 屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など・・、
  武田信玄以来の重臣や指揮官にも及び、被害は甚大と
 なっていた。
  騎馬戦法の武田軍に対し、新兵器の鉄砲を組織的に使
 った「足軽の鉄砲隊を中心にした集団戦法」の織田・徳
 川軍の圧勝だった。
  武田勝頼は、わずか数百人の旗本に守られながら、一
 時は菅沼定忠に助けられ武節城に篭ったが、信濃の高遠
 城に後退した。
.
1867年、この年、江戸時代から明治へと変わったが・・、
  モーリス・パンゲが、著書「自死の日本史」で以下の
 ような事を書いている。
  「日本の特権階級であった武士は、他の階級によって
 倒されたのではありません。
  外国の圧力の前に、自ら革命を推進し、その為、自ら
 を消滅させるという犠牲を払った。
  革命と言っても、それは、ある階級が他の階級を倒す
 という、普通の意味の革命ではありません。
  武士たちの望みは、日本という国の力を呼び覚ます事
 だった」・・と・・、
  明治維新は、『公(おおやけ)のために働くことを自
 己の使命と考えていた武士たち』によって実現した改革
 だった。
.
1886年、ノルマントン号事件
  イギリスの汽船ノルマントン号が和歌山県の紀伊半島
 沖で暴風雨のため沈没した。
  この時、船長以下26人のイギリス人船員は救出された
 が、日本人乗客25人は全員が見殺しにされて溺死した。
  審査したイギリス領事裁判所は、船長に禁固3ヶ月とい
 う軽い罰を与えただけだった。
  日本国民の不満の声が湧いた。
  政府は、治外法権の撤廃を目指したが、外国に認めさ
 せようと、政府の作った妥協案が、「治外法権とするが、
 外人裁判においては、過半数を外国人とする」とした。
  しかし、日本国民の厳しい反対の反応にあった。
  人種差別の事故だった。
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1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布された。
  この日は前夜からの雪で、東京市中は一面の銀世界だ
 った。
  祝砲が轟(とどろ)き、山車(だし)が練り歩き、仮
 装行列が繰り出し、祝賀行事一色と化した。
  憲法が発布されると、政府批判の論陣を張って来た新
 聞も、「聞きしにまさる良憲法」「実に賞賛すべき憲法」
 などと讃えた。
  また、憲法は翻訳されて、世界各国に通告された。
  イギリスの新聞は、「東洋の地で、周到な準備の末に
 議会制政権法が成立したのは何か夢の様な話だ。
  これは偉大な試みだ」と書いた。
  イギリスのある学者は、「日本の憲法が、古来の歴史
 と習慣を元とした穏健な立場で作られていることが最も
 賛成できる点である」と述べた。
  ドイツのある法律家は、「議会を両院に分け、衆議院
 の他に貴族院を設けた知恵を高く評価した。
  その理由は、何処の国でも下院(衆議院)は急進的に
 なるものだ。
  その暴走による社会不安を和(やわ)らげるには、国
 に対する責任感と良識のある人々からなる上院(貴族院)
 が欠かせない」というものだった。
.
1968年、日本が、GDPでドイツを抜いた。
  ドイツは、日本が、ドイツの後塵(こうじん)を拝し
 ていた間は、好意的だった。
  ドイツは、日本が、ドイツを越えることは決して許し
 ていなかった。
  鼻の差でも後を走る日本という姿しか、ドイツは容認
 できなかった。
  しかし、この年、日本は、ドイツを抜き去った。
  ドイツは、この時から、あからさまに日本を攻撃する。
  ドイツには、小癪(こしゃく、いかにも生意気で、癪
 に障るようすであること)な日本となった。
  近年、益々、ドイツの日本攻撃が激しくなっている。
  それでも、お人好しの日本は、ドイツを好意的に見て
 いる。
  ドイツは、自国の技術に自信を持っている、また、プ
 ライドを持っている。
  GDPが抜かれたことで、それが傷ついたようにも感
 じたのだろう。
  日本の後塵だけは被(かぶ)りたくないのだろう。
  それにしても、2015年のフォルクスワーゲンの不正ソ
 フトの裏切りは酷かった。
  検査の時は、排ガスが抑え込まれ、普通に走行すると
 きは、ガンガン排気ガスを吐き出して突っ走った。
  検査時の40倍もの排気ガスを吐き出した。
  開いた口が閉まらない大嘘の大嘘を吐くドイツという
 体たらくだった。
  嘘つきドイツは、信用できない国として世界の信用は
 がた落ちした。
  (参考)2015年、ドイツ自動車大手フォルクスワーゲ
     ン(VW)が、排出ガス検査に合格するよう設計
     された不正ソフトウエアを、1千万台以上もの自
     動車に搭載していた。
  この事件の後に、ドイツの恥の上塗り事件が起きる・・
  このフォルクスワーゲンが、さらに不祥事をするとい
 う・・地に落ちたドイツを「さらに信用失墜するという
 事件」が起きていた・・、
  (毎日新聞、2018年2月2日)
  ドイツの自動車大手フォルクスワーゲン(VW)が、
 ディーゼルエンジン車から出る排ガスを人や猿に吸わせ
 る実験をしていたと独メディアが報じ、波紋を広げてい
 る。
  責任を取りVWの幹部が辞任に追い込まれた。
  VWは、2015年に、米国での排ガス規制逃れ事件が
 発覚しており、相次ぐ不祥事に倫理観を問う声が高まっ
 ている。
  独誌シュピーゲルなどによると、実験を行ったのは
 VWやBMW、ダイムラーなどで作る研究機関で、VW
 が主導的役割を果たした。
  独国内で、2013年、ボランティアの被験者25人を対象
 に3時間にわたって排ガスを吸わせる実験を実施。
  2014年には、米国内で猿10頭に4時間にわたって排ガ
 スを吸わせる実験を行ったという。
  独政府のザイベルト報道官は、2018年1月30日、「猿
 どころか人までを対象にした実験はいかなる場合でも倫
 理的に正当化できない」と政府の見解を示し・・、
  ツィプリース経済・エネルギー相は、「越えてはなら
 ない明確な倫理的一線(を越えた)」と厳しい言葉で非
 難した。
  批判の高まりを受け、VWで実験を把握していたとさ
 れるトーマス・シュテーク氏が、2018年1月30日に辞任。
  ミュラー会長も、テレビのインタビューで「実験の事
 実に衝撃を受けた」として謝罪し、再発防止を約束した。
  シュテーク氏は、2002年から2009年まで、シュレーダ
 ー、メルケル両首相の政権で独政府副報道官を務めるな
 ど、政界と近い人物として知られる。
  排ガス規制逃れ事件発覚後も、独政界には自動車業界
 の規制に及び腰な姿勢が支配的で、今回の問題がどのよ
 うな影響を及ぼすかは不明だ。
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1989年11月9日、ベルリンの壁崩壊
  それまで、東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされ
 ていた東ドイツ政府が、その対応策として旅行、及び、
 国外移住の「大幅な規制緩和」の政令を・・「事実上の
 旅行自由化」と受け取れる表現で発表した。
  このことで、その日の夜に、ベルリンの壁にベルリン
 市民が殺到し、混乱の中で国境検問所が開放された・・、
  翌日・1989年11月10日に、ベルリンの壁が撤去され始
 まった・・、
  これによって、1961年8月13日のベルリンの壁着工から
 28年間に亘った、東西ベルリンが遮断されてきた東西分
 断の歴史は終わった。
  東欧革命を象徴する出来事だった。
  この事件を切っ掛けとして、東欧諸国で、続々と共産
 党政府が倒されて行った。
  そして、翌年・1990年10月3日、東ドイツが西ドイツに
 編入される形で『東西ドイツが統一された』。
  この統一に関わったソ連は、この翌年・1991年12月、
 ソビエト連邦共産党を解散し、各連邦を構成する共和国
 の主権国家として独立、そして、1991年12月25日に、ソ
 連大統領のゴルバチョフが辞任し、ソ連は解体された。
  しかし、この話のすべては、美しく無かった・・、
  このドイツ統一で、東ドイツの実態が分かった・・が・・、
 東ドイツの惨状は、半端なものではなかった。
  だから、この統一による西ドイツの経済負担は、半端
 なものではなく・・
  西ドイツは、この統一による経済負担に、これから喘
 (あえ)いで行った。
  西ドイツの人たちは、統一前、人口と領土が増加する
 なら、消費も増加し、景気も向上するだろうと考えてい
 た。
  しかし、西ドイツが見たものは・・旧東ドイツの完璧
 に破綻(はたん)した財政だった。
  競争力のある産業は、一つもなかった。
  環境も、空気も、地下水も、土壌も、重度に汚染され
 ていた。
  ケムニッツにあるウラン鉱山は、1991年までに、22万
 トンのウラン鉱を産出していたが、安全管理は劣悪で、
 鉱山は閉鎖され、その後、その除染に莫大な費用と年月
 を要した。
  この様な事例が、これだけではなかった。
  山ほどあり・・大きな食肉工場の横の湖には、血と汚
 物でどす黒い赤色となり、異臭を放っていた。
  化学工場の脇の湖には、水面に厚く膜が張り、ぬめぬ
 めと光り、「輝く湖」と呼ばれた。
  東ドイツへ投資しようとしていた人々は、その実態を
 知って、東ドイツへの投資の期待は、一気にしぼんだ。
  その改善経費だけが、天文学的に膨らんで行った。
  西ドイツの人々は、誠実に一つ一つ整備し、解決して
 行った。
  年金を積み立ててない人の年金を払い、医療保険を払
 っていなかった人の医療費を払い、失業保険を払ってい
 なかった失業者を養った。
  東ドイツの失業率は、20%を越えていた。
  西ドイツは、その苦難を乗り越えた。
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2012年、EUは、ユーロ導入十周年を祝った。
  ドイツは、ユーロの冥利(みょうり、知らず知らずの
 うちに受ける恩恵)を一番授かる国だった。
  そして、EUの多くの加盟国は、EUよりも自分たち
 の国の国益を優先するという事実を、最早(もはや)、
 隠そうともしない状態となっていた。
  どの国も半身に構えていた。
  EUに、全力投球する国は・・無くなった。
  しかし、EUは、動いていた。
  次々と、色々な事が・・決められた。
  その決定の陰には、力あるドイツの意思があった。
  また、それが、尊重されねばならないという空気があ
 った。
  加盟国は、ドイツの事を思って、一応の合意をすると
 いう雰囲気だった。
  何しろ・・ドイツは強すぎた。
  加盟国間に疑心暗鬼(ぎしんあんき)が、うごめいて
 いた。
  (参考)疑心暗鬼:疑心が起こると、(ありもしない
     鬼の姿が見えるように)何でもない事まで恐ろ
     しくなる。
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2013年、欧州委員会は、ドイツの稼ぎ過ぎに御咎めを出し
 た。
  EU・・、
  美しい理念で作られたEU・・本当に美しいのか?
  「グローバリズムは、良いのだ」を体現したいEUは・・
 果たして・・美しいのか?
  結論を先に言えば・・「奴隷国ができるだけだ」。
  グローバリズムは、「手放しで、美しいと言ってはい
 けない論理・考え方」なのだ。
  (NHK出身の宮崎緑氏は、NHKを退職した後もN
 HKの番組に出て、「グローバリズムはいいのだ、グロ
 ーバリズムはいいのだ」と何度も連呼する様に言ってい
 たが・・そうではないのだ・・NHKは、この様な方法
 などでグローバリズムは良いのだを洗脳する放送局)
  2013年、欧州委員会は、ドイツに対して、「輸出超過」
 をして、好きに稼いでいるドイツに・・『お咎(とが)
 め』を言い渡した。
  (参考)咎め:とがめ、犯した罪や過失を責めること。
     また、それに対する罰。そしり。非難。𠮟責 (
     しっせき) 。「お咎めを受ける」
  EUの劣等生のギリシャもギリシャで、だらしがない
 が・・、
  ドイツから、「財政引き締めをしなければ、援助はし
 ない、金は貸さないよ」と、更なる引き締めを言われる
 という体たらくな国であるが・・?
  「EUという政治形態が持つ欠陥」もあるのだ・・
  ドイツのフォルクスワーゲンの問題もあるが?? ド
 イツの高品質で優秀な商品は誰でも欲しがる。
  EUは、美しく国境の垣根を取っ払ったが・・ドイツ
 から、その優秀な商品が、どんどんEU内の他の各国へ
 流れ出して行く。
  普通なら・・EUの様な形態になっていないなら・・
 買う国は、輸入超過になるからと「為替が連動して輸入
 量が調整されたりする」・・が・・
  しかし、美しく垣根のないEU内の諸国は、『皆がユ
 ーロ』で、輸入超過して逼迫(ひっぱく、追い詰められ
 て、ゆとりがない状態)している国でも、為替で調整が
 できずに、自国のユーロが、どんどんドイツへ流れ出て
 行って・・吸い取られてしまう。
  EU内の諸国は、ドイツにとってお得意様となってい
 る。
  ドイツの輸出は、EU内でのものが6割を占めている。
  だから、欧州委員会は、ドイツへ、「いい気になって
 売り過ぎてんじゃないの?」と苦言を呈した。
  「EU内には経済破綻(はたん)国」が存在している。
  そして、ドイツは、そのグローバリズムの『美しいと
 された理念』で出来た「EUというシステム」で稼いだ
 金で潤っている。
  そして、ギリシャへ、「財政引き締めをしないと、金
 は貸せないよ」と言っている。
  しかし、そのEU内の経済破綻国で、しっかり稼いで、
 ドイツは、経済的援助をしたと、「ドイツは、胸を張っ
 て・・そして、思っている」。
  一面、高利貸しが、困った人に金を貸して、「助けて
 やった」と胸を張っている姿の様にも見え、なんか似て
 いる感じがする。
  困っている人からしっかり稼いで、金を巻き上げてお
 いて・・為替の調整手段を取り上げておいて・・ドイツ
 を儲けさせるシステム・・経済弱者の「EU内の金に困
 っている諸国」をさらに困らせるシステム。
  ドイツへ貢ぐ国々の形になっている。
  ドイツは、ドイツで、「非難されてはたまらない」と
 思っている。
  EUというシステムは、「ドイツのような強国をどん
 どん強くするシステム・・弱小国の利益が吸い上げられ
 るシステム・・ドイツよ、御目出度うとなるシステム」。
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2018年3月26日、米ソ冷戦の時は、アメリカと日本とが協
 力して、ソ連の共産主義は崩壊したが、そして、ソ連は、
 自由主義経済のもとに下ったが・・、
  「二匹目のドジョウが居ないか??」と中国を見た。
  中国が、豊かになれば・・自由な民主主義社会になる
 と思った。
  しかし、経済的なゆとりができてみれば・・「ますま
 す軍備を拡張し」「独裁政治の国家」へと邁進している。
  「かつての懐柔政策」は失敗している。
  この様な事を思っていると、図らずも2018年3月26日の
 読売新聞に春名幹男氏(国際ジャーナリスト)が記事を
 寄せられていた・・
  表題は、「中国を取り違えた西側」・・、
  中国が全国人民代表大会(全人代=国会)の決定で独
 裁政治への道を踏み出したことに、欧米のメディアは鋭
 い警戒の目を向けている・・という書き出しで始まった・・、
  以下、その概要(抜書き・要点)・・、
  今までの西側の期待が裏切られた経緯(をたどってい
 る)・・
  西側指導者は、中国を世界貿易機関(WTO)の様な
 機構に組み込めば、中国をルールに基づく戦後のシステ
 ムに縛(しば)りつけられると信じた。
  経済の統合によって中国は豊かになり、民主主義的自
 由や人権、法の支配を求めると期待した・・、
  (しかし、そうとはならず)(中国が)大規模な開放
 をせずに一貫した成長をしたことが、中国共産党と国家
 主導の経済モデルを正当化する結果となった・・、
  (共産主義体制のまま・・成功体験をしてしまった・・
 体制批判へとは働かず、その方向へ動かなかった)
  (その成功体験で、より自信を持った独裁体制の現政
 権は、その体制をより強固にする制度・機構作りへ・・)
  この度、この20年間で最大の政府機構改革を行なった・・
  (そして)巨大経済圏構想「一帯一路」などで、外交
 戦略を強化する・・、
  (そして)中国は、世界中で、中国を支持する勢力の
 拡大に躍起になっている。
  (中国の資金力を使った行動、オーストラリアの事例)
  2017年12月、南シナ海の中国領有権を尊重する様に主
 張した(オーストラリアの)野党上院議員が(問題とな
 る騒ぎが起きた)・・
  (そして)中国による内政干渉の阻止を念頭に、外国
 人からの政治献金を禁止する法案が提出された。
  (この様な事は、オーストラリアに限らず、世界各地
 に起きている)
  今、ロシアのアメリカへの工作が焦点に当てられてい
 るが・・ロシアより、むしろ中国の方がもっと陰険で複
 雑な問題だという指摘がある・・、
  アメリカ国内の中国人留学生・35万人が(工作員予備
 軍?)・・この学生組織が監視下に置かれ、管理・監理
 されている。
  また、シンクタンクの研究機関に寄付金が寄せられて、
 その結果、その研究が、その研究報告が「親中に偏向」
 する恐れが心配されている・・、
  これが、中国の「シャープパワー」と呼ばれる強制的
 な工作・・、
  中国の習金平国家主席は、自由主義の政治モデルに対
 して根本的な挑戦をしている・・、
  (参考)シャープパワー:相手国の社会制度や文化伝
    統などを鋭利な、すなわちシャープな刃物で切り
    裂くように分断し、自国に有利な状態を作る戦略
    のこと。
     2017年11月に、アメリカの研究機関「全米民主
    主義基金(NED)」という組織の2人の研究者
    が、中国とロシアという独裁(オーソリタリアン)
    国家の戦略をシャープパワーと名付けた論文を発
    表し、注目されるようになった。
     この様なパワー、新しい国力について議論が始
    まったのは1980年代中頃、ソビエト連邦が崩壊す
    る予兆が感じられる様になった時期から・・、
     第二次世界大戦終了後は、アメリカとソビエト
    という二大大国が軍拡競争を繰り広げ、国力は軍
    事力だったが、ソ連が解体してしまったので、軍
    事力に代わるパワーが研究され始めた。
     ハード、エコノミック、ソフトパワー:未来学
    者のアルビン・トフラー、カーター大統領の特別
    補佐官であったズビグニュー・ブレジンスキー、
    ハーバード大学の政治学者ジョセフ・ナイなどの
    見解が有名・・、
     その要約・・冷戦構造が崩壊するまでは、「軍
    事力(ハードパワー)」が国力であったが、1970
    年代以後の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の
    時代は「経済力(エコノミックパワー)」が重要
    だった。
     しかし、1990年代のバブル経済の崩壊とともに、
    ジョセフ・ナイが提唱した「文化力(ソフトパワ
    ー)」が重要と言われるようになった。
     ソフトパワーは、自国の文化や制度を外国に浸
    透させ、友好的な関係を構築するという戦略で、
     その本質は、魅力(アトラクティブネス)と説
    明されている。
     これは、人材、物資、資金、情報などを自国に
    有利になるように他国に提供したり、他国から受
    け入れるということ。
     その影響で登場したのがイギリスの「クール・
    ブリタニア」や日本の「クール・ジャパン」で自
    国の文化を積極的に海外に売り出すということだ
    った。
     ところが、最近になって、中国とロシアという
    独裁国家の新しい戦略が登場した・・それが「シ
    ャープパワー」。
     シャープパワーの一例:
     2010年のノーベル平和賞は中国の人権運動の活
    動家で何度も投獄された経験があり、当時も獄中
    にあった劉暁波氏に贈られ、ノルウェーのノーベ
    ル委員会は劉氏の釈放を中国に求めた。
     これは、ノーベル賞の歴史上、中国在住の中国
    人として初めての受賞で、かつ獄中にあった人物
    に授与した最初の例だった。
     しかし、中国は「内政干渉は許さない」とか、
    「ノーベル平和賞は西側の利益の政治的な道具で
    ある」などと強硬に反発した。
     それだけではなく、ノルウェーから輸入してい
    た養殖サーモンの輸入制限をするなど経済制裁を
    実施した。
     ノルウェーは、新政権のソルベルグ首相が外務
    大臣と貿易産業大臣を伴って、2017年4月に、中
    国を訪問して習近平国家主席に面会し、「今後、
    中国の核となる問題については批判しない」とい
    う声明に署名して、ようやく関係が修復された。
     エコノミックパワーを利用して、自国の制度や
    文化を押し通すとともに、相手国の制度や文化を
    切断したシャープパワーというわけだった・・、
     韓国も同様の経験をしている。
     北朝鮮の弾道ミサイルの発射を早期に探知し、
    迎撃するために、昨年・2017年、アメリカが高高
    度ミサイル防衛システム(THAAD)の機器を
    韓国のゴルフ場の敷地に搬入した。
     北朝鮮はもちろんだが、中国も反発し、韓国商
    品の輸入規制など報復措置を実施し、ゴルフ場が
    ロッテ商事の土地であったため、中国はロッテグ
    ループを非難し、ロッテの商品の不買運動も発生
    した。
     韓国の輸出の26%は中国向けなので、大変な打
    撃となった。
     さらに韓国への団体観光旅行を禁止したため、
    昨年2017年の11月末までの中国人観光客は前年比
    で42%も減少した。
     その様な背景から、昨年・2017年12月に国賓と
    して中国を訪問した韓国の文大統領に対し、中国
    高官との食事は昼食会2回のみで冷遇した一方、
    文大統領は北京大学で「中国の夢が全人類と共に
    見る夢になることを期待する」という講演を行っ
    ている。
     これも、エコノミックパワーを駆使して自国の
    主張を押し付けた結果。
     全米民主主義基金の論文が指摘した、もう一つ
    の国がロシア・・、
     そのシャープパワーは、アメリカの大統領選挙
    の時に発揮された。
     2018年2月16日に、アメリカのロバート・モラー
    特別検察官が、13人のロシア人と、3社のロシア
    企業を起訴した。
     容疑は、先の大統領選挙で、アメリカ市民を装
    って、ソーシャルメディアの何百というアカウン
    トを使って架空のオピニオンリーダーを作り出し、
    クリントン候補を落選させるための情報を発信し
    たというもの。
     何億円という予算を使い、専属の人間を雇い、
    偽情報を大量に発信し、見事に目的を達成したと
    いう・・、
     このパワーは、北風と太陽に例えると分かりや
    すく・・、冷戦中は軍事力というハードパワーの
    戦いで北風だったが、それが終了して登場したソ
    フトパワーは太陽ということ・・、
     しかし、シャープパワーは一見、太陽のようだ
    が、その光線に有害な紫外線などが含まれて、相
    手を傷つける力があるということ・・、
     この光線は目に見えないために対応が困難だが、
    「欧米の民主主義国家が、中国のシャープパワー
    を無視することは、西側の危険を意味する」とい
    う意見のように、国際的な政治活動や経済活動の
    水面下では、この様な光線が頻繁に発射されてい
    ることを知る必要がある時代となった・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2018年4月12日木曜日

(増補版)587E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月~1893年10月)

題:(増補版)587E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月~1893年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年10月26日、第13代東京府知事に三浦安(みうらやす
 し)がなった。
1893年10月26日、『二六新報』が創刊された。(社主:秋
 山定輔)
  二六新報は日刊新聞。
  記事が硬くて、売行きは不振だった。
  そのため、1895年6月に休刊し、
  1900年2月1日、復刊した。
  復刊後は、三井財閥への暴露攻撃、たばこ王・岩谷天
 狗退治、吉原の娼妓の自由廃業キャンペーンなどで世間
 の注目を集め、日露戦争直前には日本一の発行部数を誇
 った。
1893年10月28日、ラベンナ号事件(千島艦事件)の控訴審
 で、上海イギリス高等裁判所は、日本側の敗訴の判決を
 した。
  日本は、イギリス上院に上訴した。
  この事件は、1892年11月30日に起きた事件で、ラベン
 ナ号はイギリス商船。
  日本の立場が牛耳られている時代に、イギリス法廷で
 堂々と争う日本は立派だったが・・その様な日本が、相
 手の土俵で争うのは、まったくその結果は分かったもの
 だった。
  そして、その後にも、イギリス本国の枢密院へも上告
 を決め、とことん争う日本だった。
  1895年7月3日に、枢密院は、上海の判決を破棄して横
 浜領事館への差し戻しを命じるとともに、P&O(ラベンナ
 号の所有会社のピーオー汽船会社)に、日本側の訴訟費
 用約12万円の負担を命じた。
  その後、イギリス外務省の意向を受けた領事館によっ
 て和解が図られ・・、
  1895年9月19日に、日本政府とP&Oの間で和解が成立、
 P&Oは1万ポンド(日本円で90,995円25銭)の和解金と、
 日本側の訴訟費用全額を負担する代わりに日本政府は一
 切の請求権を放棄した・・で決着した。
1893年10月28日、チャイコフスキー交響曲第6番の初演。
  この交響曲は『悲愴』という副題で良く知られている。
  https://www.youtube.com/watch?v=wHAfvUFtCIY
  残されている資料によれば、1893年2月17日(第3楽章)
 に作曲に着手した。
  作業は急ピッチで進められ、それから半年後の8月25日
 にはオーケレストレーションまで完成し、
  同年・1893年10月16日(グレゴリオ暦では10月28日)
 に作曲者自身の指揮によりサンクトペテルブルクで初演
 された。
  あまりに独創的な終楽章もあってか、初演では当惑す
 る聴衆もいたものの、この曲へのチャイコフスキーの自
 信が揺らぐことはなかった。
  しかし、初演のわずか9日後、チャイコフスキーは、コ
 レラ、及び、肺水腫が原因で急死した。
  この曲は、彼の最後の大作となった。
1893年10月30日 筑豊興業鉄道会社が、飯塚駅~原田駅、ま
 たは、鳥栖駅間、および、山家駅~吉井町駅間線路の建
 設を出願した。
  (飯塚、原田または鳥栖間については、1894年7月31日
 仮免状下付された、また、
  1896年1月、飯塚駅~長尾駅間等の免許を申請し、1897
 年5月、飯塚駅~長尾駅間の仮免状が下付された)
1893年10月31日、文官任用令、文官試験規則が公布された。
  試験任用制度が確立した。
  奏任官については、原則として高等文官試験に合格し
 た者としたが、勅任官については,自由任用制をとって
 いた。
  奏任官:そうにんかん、奏任によって任命された三等
     以下九等までの高等官の称。
  奏任:奏上を経て、官職に任命すること。
  奏上:そうじょう、天皇陛下に申し上げること。
  勅任官:ちょくにんかん、もとの官吏任命法で勅任に
     よる官。
     一等・二等の高等官。広義では親任官も含む。
  勅任:勅命で官職に任命すること。
  勅命:ちょくめい、天皇陛下の御命令。
1893年10月31日、逓信省官制の公布(勅令第149号)
  鉄道庁を廃止して鉄道局を設置した(勅令第151号、11
 月10日施行)
  逓信省(ていしんしょう)は、交通・通信行政の中央官
 庁で、後、電気・航空行政をも管掌した。
  1885年、内閣制度実施とともに、工部省の電信、灯台、
   農商務省の駅逓、管船の各局管掌事務を引き継いで
   設置された。
  1890年、以降、電話事業、
  1893年、以降、官設・私設鉄道事業を管轄、陸上交通を
   含む広範な行政官庁となった。
   この間、特に、郵便・電信業務の近代化をはかり、日
   露戦争前後の時期にはほぼこれを完成した。
  1908年12月5日、鉄道監督行政は、新設の鉄道院(内閣
   直属)に移り、
  1923年、航空局を陸軍省から引き継ぎ、民間航空事業
   の監督、育成を担当した。
1893年10月31日、技術官俸給令を一部改正した(勅令第168
 号)
1893年10月31日、文官任用令(勅令第183号)・文官試験規則
 (勅令第197号)を公布した。
  文官高等試験合格者を奏仕官として採用した。
1893年10月31日、逓信省鉄道書記補郵便電信書記補及郵便
 為替貯金書記補任用令(勅令第195号)公布
1893年10月、文官任用令・文官試験規則を公布した(高等文
 官試験確立)
1893年10月、夏目漱石が、湯島聖堂内にあった東京高等師
 範学校(校長:嘉納治五郎、筑波大学の前身)の英語嘱
 託教師に就任した。
  夏目漱石(なつめそうせき、1867年2月9日~1916年12
 月9日)小説家、評論家、英文学者、
  江戸の牛込馬場下横町(東京都新宿区喜久井町)に、夏
 目小兵衛直克と千枝の末子として生まれた。
  生後すぐ里子に出され・・また、養子にも出された。
  不遇のうちに幼時を送り、作品にもその影を残す。
  1877年の10歳(9歳?)のころ、養父母の離婚のため、
 生家に戻ったが、こころ落ち付く、やすらかな帰属感を
 抱くことは出来なかった・・父母は必ずしも温かく迎え
 なかった。
  肉親の愛に恵まれなかった漱石・・この孤独な幼年期
 の記憶は・・漱石のこころの奥に秘められ残った・・
  肉親の中にさえある他者と見られる非情な人間を見た
 漱石だった・・
  少年時は、浅草界隈で送り、江戸の町人文化に親しん
 で育ち、漢詩文に親しみ、、
  漢学好きな少年は二松学舎(にしょうがくしゃ)など
 に学んだ・・
  また、成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)
 に進むころから、英文学研究を生涯の仕事として選ぶ・・
  また、この大学予備門で正岡子規を知って俳句を学ぶ。
  1893年、東大英文科卒、一時大学院に籍を置く・・後・・
  1895年~1896年、愛媛県の松山中学に赴任(この体験
 は、面白おかしく『坊ちゃん(1906年)』の活発な筆致
 作品となる)、
  そして、1896年~1900年、第五高等学校で英語教師を
 務め・・
  1900年秋、渡英・英語研究の文部省留学生として英国
 留学を命じられた・・英文学者としての道が大きく開い
 て行く・・
  1903年1月、帰国
  そして、1903年4月、東京帝大英文科初の日本人講師と
 なり、英文学を教え、また、「文学論」「十八世紀英文
 学論」「シェイクスピア」などを講じた。
  (前任者の小泉八雲を押しのける形だった・・また・・
  この頃から、正岡子規と親しくなり俳句をよくする)
  高浜虚子の勧めで写生文を手がけ、『吾輩は猫である』
 を手始めに多彩な創作活動を展開した。
  1905年1月、「吾輩は猫である」を、雑誌「ホトトギス」
 に発表して、その軽妙洒脱さが評判となる。
  以後、「倫敦塔」「幻影の盾」「草枕」など溢れんば
 かりの文才を示し・・社会や人間の不正を糾弾する作品
 も書いた・・
  また、「坊っちゃん」も書く。
  その後、1907年、職業作家の志が芽生え・・教職を辞
 し、朝日新聞に入社(専属作家として迎えられ)し・・
  自然主義に対立し、心理的手法で近代人の孤独やエゴ
 イズムを追求した・・、
  この年・1907年に「虞美人草(ぐびじんそう)」
  1908年、「夢十夜」「三四郎」で文壇にゆるぎない地
 位を確立した。
  また、朝日新聞の文芸欄を主宰した漱石は、「現代日
 本の開化」「私の個人主義」などの講演を行なった。
  欧米では漱石の心理小説が注目され、その翻訳に恵ま
 れた。
  「それから(1909年)」「門(1910年)」「彼岸過迄」・・
  1910年、修善寺にあって大患を患った・・これ以後、
 死の危機を自覚した漱石は、生への認識が一層深まり、
 「行人(こうじん、1912年~1913年)」「こころ」「明
 暗」「道草」など、晩作での対策で、さらなる孤独さの
 内面に分け入った。
  自意識の不安と苦悩を著わした。
  晩年は、「則天去私」の境地を求めた
  (参考)則天去私:そくてんきょし、『天に則(のっと)
     り私を去るの意』
      夏目漱石が、晩年に、文学・人生の理想とし
     た境地。
      自我の超克を自然の道理に従って生きること
     に求めようとしたもの(漱石自身の造語)
  正岡子規と交わり、俳句や漢詩に親しんだが・・
  俳句は、約三千句をなし、また、晩年は、気品のある
 文人画も描いた。
  作品の追求した問題は広く深く、日本の巨匠として世
 界に広く紹介されている。
  また、漢詩をよくして、「永日小品」「硝子戸の中」
 などのなつかしい随筆も残している。
  また、師弟関係に恵まれ・・小宮豊隆、森田草平、寺
 田寅彦、鈴木三重吉、安倍能成、高浜虚子などの漱石の
 人脈の山脈が聳えている。
  教師であった漱石は、鈴木三重吉や芥川龍之介、久米
 正雄らの多くの俊英も育てる教師でもあった。
  漱石が残した知友門弟に書いた手紙や葉書も貴重なも
 のとなっている。
  また、妻:夏目鏡子の『漱石の思ひ出』が味わい深い。
  またまた、江藤淳の『漱石とその時代』、同編『朝日
 小事典 夏目漱石』、三好行雄ほか編『講座夏目漱石』全
 5巻、尹相仁『世紀末と漱石』ほか、おびただしい研究書
 のある人物・・それが夏目漱石。
  1916年に歿した・・50歳だった・・少し早い幕引きだ
 った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:この地球・・人類が生存できないような状況は「何度も起きている」・・
.
2億5000万年前、爬虫類から双弓類を経て進化した恐竜が
 出現した。
  (参考)双弓類(そうきゅうるい)は、四肢動物のグ
     ループの一つで、頭蓋骨の両側に側頭窓と呼ば
     れる穴を、それぞれ2つ持っている。
      この穴が出来た事でその下部の骨が細いアー
     チ状になっているが、これを解剖学では「弓」
     と呼び、このため学名は「二つの弓 = 双弓類」
     と名付けられた。
  中生代の三畳紀、ジュラ紀、白亜紀を通して恐竜が繁
 栄した。
  恐竜は、気嚢(きのう、呼吸器官)を持ち、低酸素環
 境に対応できた。
  哺乳類の祖先の横隔膜をもつ単弓類は低酸素環境に対
 応できずに衰退した。
  (参考)単弓類(たんきゅうるい)は、脊椎動物のう
     ち、陸上に上がった四肢動物のグループの一つ。
      哺乳類、及び、古くは哺乳類型爬虫類とも呼
     ばれたその祖となる生物の総称。
      共通する特徴としては、頭蓋骨の左右、眼窩
     後方に「側頭窓」と呼ばれる穴がそれぞれ1つず
     つあって、その下側の骨が細いアーチ状となっ
     ていて、この骨のアーチの「弓」が、このグル
     ープでは片側に一つ持っているために単弓類と
     呼ばれた。
.
2億2500万年前、最古の哺乳類のアデロバシレウスが出現し
 た。
  魚類、両生類、爬虫類、鳥類には、4タイプの錐体細胞
 を持つもの(4色型色覚)が多く・・、
  一方、ほとんどの哺乳類は、錐体細胞を2タイプしか持
 たない(2色型色覚)
  哺乳類の祖先は、4タイプ全ての錐体細胞を持っていた
 が、初期の哺乳類は、主に夜行性であったため、色覚は
 生存に必須ではなかったために退化した。
.
2億2000万年前、生物が大量絶滅した(三畳紀末)
.
2億2000万年前、マニコーガン・クレーターの形成。
  カナダにある北アメリカ最大のクレーター(直径約100
 km)。
.
2億年前、酸素濃度が12%まで低下した。
  二酸化炭素濃度は、現代の数倍から10倍程度に増加し、
 この前後は、温暖な気候が続いた。
  これ以降、徐々に、酸素濃度が上昇し、二酸化炭素濃
 度が減少した。
.
2億年前、パンゲア大陸の分裂がはじまった。
.
1億8000万年前、北はローラシア大陸、南はゴンドワナ大陸
 へと分裂し・・、
  ゴンドワナ大陸は、その後、西ゴンドワナ大陸と東ゴ
 ンドワナ大陸へと分裂した。
.
1億5000万年前、始祖鳥(鳥類が出現した)
.
1億4000万年前、白亜紀に入ると、西ゴンドワナ大陸は、ア
 フリカ大陸と南アメリカ大陸に分裂し、
  その間に、大西洋が成立した。
  また、東ゴンドワナ大陸は、インド亜大陸、及び、マ
 ダガスカル島と、南極大陸、及び、オーストラリア大陸
 に分裂した。
  この分裂が、オーストラリア大陸でのその後の単孔類
 の生き残りや有袋類の独自進化につながる。
  (参考)単孔類:たんこうるい、哺乳綱単孔目に属す
     る動物の総称で、哺乳類であるにもかかわらず
     卵生で、消化管、排尿管、輸卵 (精) 管が同時
     に開口する総排泄孔を持つ。
.
1億年前、恐竜の全盛時代
.
6550万年前、生物が大量絶滅した(白亜紀末)
  この頃、恐竜が絶滅し、アンモナイトも絶滅した。
  隕石の落下による環境の激変を原因とする説が有力と
 考えられている。
  → K-T境界、チクシュルーブ・クレーター
.
6千数百万年前、インド半島の大部分を占めるデカン高原は、
 膨大なマグマが噴出して形成された。
.
約6550万年前、霊長類が出現した。
.
約5500万年前、この頃に現れたアダピス類が、初期の霊長
 類と考えられている。
  これより前の約7000万年前に、北米に出現したプレシ
 アダピス類のプルガトリウスを最古とする考え方もある。
  霊長目で、ビタミンC合成能力が失われたのは、約6300
 万年前であり、直鼻猿亜目(合成能力なし)と曲鼻猿亜
 目(合成能力あり)の分岐が起こったのと、ほぼ同時で
 ある。
  ビタミンC合成能力を失った直鼻猿亜目には、メガネザ
 ル下目や真猿下目(サル、類人猿、ヒト)を含んでいる。
  ビタミンC合成能力を有する曲鼻猿亜目には、マダガス
 カルに生息するキツネザルなどが含まれる。
.
5500万年前、暁新世・始新世境界で、突発的温暖化事件が
 発生し、新生代では、最も高温の時代になった。
  (始新世温暖化極大・始新世高温期)
  その原因として、1500Gtのメタンハイドレートの融解
 などの温暖化ガスの大量放出があり、地表5℃~7℃の気
 温上昇の温暖化が起こった。
.
4500万年前、インド亜大陸が北上を続け、ユーラシア大陸
 に衝突し、ヒマラヤ山脈を形成した。
.
約4000万年前、南極大陸で、氷河の形成がはじまり、徐々
 に寒冷化した。
  これ以前は、非常に温暖な時期だった。
  → 古第三紀、海水準変動
.
4000万年前~3000万年前、真猿下目の狭鼻下目(旧世界ザ
 ル)と広鼻下目(新世界ザル)が分岐した。
  一説では、当時のアフリカ大陸で大きな洪水が起こり、
 倒れて流された大木に乗った真猿下目のサルが、当時、
 それ程広がっていなかった大西洋を越えて、南アメリカ
 にたどり着いて、広鼻下目の祖先となった。
.
3000万年前、2色型色覚(赤緑色盲)に退化した哺乳類のう
 ち、霊長目狭鼻下目が、3色型色覚を再獲得した。
  ビタミンCを豊富に含む色鮮やかな果実等の獲得と生存
 に有利だった。
.
2800万年前~2400万年前、狭鼻下目のヒト上科(テナガザ
 ル、オランウータン、チンパンジー、ゴリラ、ヒトの共
 通祖先)が、オナガザル上科から分岐し・・、
  同時に、ヒト上科で、尿酸を分解する尿酸オキシダー
 ゼ活性が消失した。
  尿酸が、直鼻猿亜目で、合成能が失われたビタミンCの
 抗酸化物質としての部分的な代用となった。
.
2500万年前、最古の類人猿と思われる化石・・?
  アフリカのケニヤで発見された。
.
約2500万年前、アルプス・ヒマラヤ地帯などで山脈の形成
 がはじまった。
  テチス海が消滅し、造山運動により隆起。→ 新第三紀、
 Geology of the Himalaya
.
2000万年前~1600万年前、ヒト科とテナガザル科が分岐し
 た。
.
約2000万年前、現存する最古の湖が形成された。
  バイカル湖、タンガニーカ湖 → 古代湖
.
約1800万年前~1700万年前、この頃のウマの化石が、岐阜
 県可児市で、1961年と1971年に発見された。
  「アンキテリウム属」の1種で、和名「ヒラマキウマ」
 という。
  日本最古とされていたが、アジアでも最古級であるこ
 とが分かった。
.
1600万年前頃、大和三山の内の畝傍山や耳成山、また、二
 上山も、この頃、火山活動していた。
  「ステゴロフォドン」の頭骨化石の一部が、茨城県常
 陸大宮市で、2011年12月に発見された。
.
約1500万年前、ヨーロッパに隕石が落下、クレーターを形
 成する。
  現在のドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州にある
 リース隕石孔、シュタインハイム・クレーター。
.
約1400万年前、ヒト科が、ヒト亜科とオランウータン亜科
 に分岐したと推定されている。
.
1300万年前、この頃からヨーロッパ、南アジア、東アジア
 などユーラシア各地にも類人猿の化石が現れた。
.
約1000万年前、ヒト亜科が、ヒト族とゴリラ族に分岐した
 と推定されている。
.
1000万年前~500万年前、アフリカで大地溝帯(グレート・
 リフト・バレー)の形成が始まる。
  人類誕生に大きな影響を与えたとする説。
.
約700万年前、ヒト族は、ヒト亜族とチンパンジー亜族に
 分岐したと推定されている。
  猿人の出現。
  直立二足歩行が開始された。
.
700万年前~600万年前、現在最古の人類化石は、中央アフ
 リカ発見のサヘラントロプス・チャデンシスとされてい
 る。
  2002年に報告される。
.
推定約600万年前~400万年前、琵琶湖が形成された。
  琵琶湖は、世界に現存する湖の中では3番目に古い湖
 と考えられている。
.
370万年前~100万年前、アウストラロピテクス(猿人)
  最初の人類とされる。
  一定の道具を使用した。
.
約250万年前~180万年前、この頃、石器の使用がはじまっ
 た。
  エレクトス原人が出現する(250万年前)。
  丹沢山地の大爆発(約250万年前)面積1万1750km2、降
 下火山灰のみの体積は2.8km3を超え、火山爆発指数VEIは
 5。
  オルドヴァイ文化、オルドワン石器
  (参考)オルドヴァイ文化:東アフリカのタンザニア
     北部にあり、リーキーらが調査したオルドバイ
     遺跡を標式とする世界最古の旧石器文化。
      その担い手は、アウストラロピテクスで、こ
     の文化は東アフリカに始まり、中央アフリカを
     除くアフリカ全土、および、西アジアにひろが
     る。
      主体となる石器は、円礫、もしくは、角礫の
     一端を打ち欠いて刃をつけ、ものをたたき切っ
     たりつぶしたりするのに用いたチョッパーであ
     るが、その他、肉を切ったりものを削ったりす
     るスクレーパーをはじめ、数種類の石器があり、
     すでに用途によって形態が分化していた。
  (参考)円礫:えんれき、岩石の破片のうち、大きさ
     が2mm以上のものを礫といい、川原の玉石のよう
     な丸いものを円礫、砂利道の砂利のような角張
     ったものを角礫という。
.
約200万年前、フィリピン海プレートに乗って移動してきた
 伊豆半島が、北アメリカプレートに衝突し、富士山や箱
 根などの噴火の引き金になった。
.
180万年前、グルジアのクラ川下流の下カルトリ地方ドゥマ
 ニスィ(ドマニシ)で発見された化石は、ユーラシア最
 古の原人として知られる。
  180万年前~150万年前に、アフリカの地を脱してユー
 ラシア大陸の熱帯・温帯に拡散したらしい。
.
約78万年前、最新の地磁気の逆転。
  地球磁場は、10万年~100万年ぐらいの不規則な周期で
 何度も逆転している。
  この頃の逆転が直近のものである(ブリュンヌ期、約
 78万年前~現在)
  これより前の逆転は、約250万年前(松山期、約250万
 年前~78万年前)
  なお、松山期には、数回の地磁気逆転イベントが存在
 する(約100万年前のハラミヨ亜期など)
   ・
   ・
   ・
紀元30年、イエスが刑死したと言われている年
  イエスの実在性は、ほとんどないが、イエスは、キリ
 スト教を作ったパウロに祭り上げられた。
  イエス本人には、まったくキリスト教を作ろうという
 意思は無かった。
  キリスト教は、ユダヤ教を引き継いでいるが、ユダヤ
 教は、最初、神が多くいる多神教だった。
  また、イエスの母・マリアは、ユダヤ教のエルサレム
 神殿を参詣するユダヤ教徒だったが・・、
  そのマリアの子=イエスも、ユダヤ教を信仰していた。
  (因みに、イエスは、ユダヤ教を信仰する立場で死ん
 でいる。
  つまり、刑死するイエスは、ユダヤ教徒としての信仰
 の中に死んでいる)
  故に、イエスは、「ユダヤ教の神(主)」を信仰する
 ユダヤ教徒だった。
  だから、イエスには、少しもキリスト教を立宗しよう
 という意思はなかった。
  イエスの刑死後、キリスト教が立宗される動きは・・
 「まったく無かった」。
  その様な動きがまったく無い状態の中に、時は過ぎて
 行った。
  エルサレムの街や、その他の街でも、当然、普通の
 日々が流れていた。
  だから、イエスの死後、3日後の、イエスが復活した
 などという騒ぎなどは「まったく無かった」。
  ましてや、イエスが昇天したなどという騒ぎも「当然
 無かった」。
  ただただ、普通の日常が流れていた。
  キリスト教の福音書が、イエスの死後、50年も経って
 から書かれたように・・、
  西暦70年~90年頃に書かれた事からも分かる様に、イ
 エスは忘れ去られ・・何十年とキリスト教の話などは無
 く、少しも表われ出ない時が流れていた。
  最初の福音書は、マルコが書いたが・・この頃には、
 もう、イエスのことは、完全に、誰もがすっかり忘れら
 れていた。
  イエスに関係する者たちは、そのグループは、ユダヤ
 教から「破門の処分」を受けていた。
  その様な状態の中に、時は過ぎて行った、年月が流れ
 ていた。
  この様な状況の中で、キリスト教を作ったというパウ
 ロが居る。
  パウロは、サウロとも呼ばれ、紀元65年に死んでいる
 が・・、
  生前は、テント職人で、ユダヤ教ファリサイ派の人で
 あった・・、
  高名なユダヤ教のラビのガマリエル1世の下でユダヤ教
 を学んだ「熱心なユダヤ教徒だった」。
  パウロは、ユダヤ教の要職の人で、ユダヤ教以外の人々
 を、「上部組織の許可を得て捕まえる役目」をしていた。
  イエスのグループも逮捕対象だった。
  捕まえられた人が死刑になることもあるというパウロ
 の役目だった。
  ある日、逮捕の許可を得ようとして道を行くパウロに
 「ふと、嫌気がさした」のだろう。
  多分、何時(いつ)までこんなことをしているのだろ
 うかと自分の行動を顧(かえり)みて思ったのだろう。
  この時、パウロは転身(てんしん、方針を変える)す
 る。
  ここは、キリスト教の聖書には、美しく書かれている・・
 一転、空は掻(か)き曇り、天からイエスの声が聞こえ
 たと書かれている。
  大きな転換点なので、キリスト教もドラマティックに
 書きたかったのだろう。
  イエスの声で、何でお前は迫害するのかと言ったとい
 う・・パウロの行動を批判した。
  パウロは、この時、自分の行なっているユダヤ教以外
 のグループを許可を得て捕まえるという役のむなしさを
 感じていたのだろう。
  ここで、パウロは、180度の方針転換をする。
  この事が起きたのが紀元34年だという。
  パウロは、宗教の立宗を思い立つ。
  当然、パウロは、ユダヤ教に詳しく精通していた。
  そして、ユダヤ教の聖典に書いてある事と同じやり方
 で立宗の行動をした。
  パウロが考えたことは、イエスの生涯とか、行いとか
 はすべて捨て、無関係とした・・
  そして、イエスの名だけを借りた。
  エルサレム神殿の庶民の経営する屋台などを、暴れ回
 って壊したりするイエスの行動など利用したいとも思わ
 なかったのだろう。
  パウロによって、イエスの人となりは、まったく利用
 されない形でキリスト教は出来上がって行った。
  刑死し、復活し、昇天するというユダヤ教の聖典の形
 にした。
  しかし、だからと言って・・福音書が作られる紀元70
 年~90年頃までは、50年近くの空白の長い年月が流れて
 いたのだった。
  近年、アメリカの研究グループが、4つあるキリスト教
 の福音書を研究・検討したが、その中に、イエスの言葉
 はほとんどないという結果となった、その様な福音書の
 状態だという結論に達した。
  イエスの言葉が一つもないという福音書があるくらい
 だった。
.
70年代、キリスト教の最初の福音書である「マルコによる
 福音書」が書かれた。
  この「マルコによる福音書」は、キリスト教の意に沿
 わない福音書であった・・依って、この後に「マタイに
 よる福音書」が書かれた。
  だから、聖書には、年代的には「マルコによる福音書」
 が先に書かれているが、聖書への掲載は、「マタイによ
 る福音書」が先に掲載され、この「マルコの福音書」は、
 「マタイによる福音書」の後に掲載されている。
  この様な差別は、特定の一部の者にしか明らかにされ
 ていない。
.
80年代、キリスト教の福音書である「マタイによる福音書」
 と「ルカによる福音書」が書かれた。
.
90年代、キリスト教の福音書である「ヨハネによる福音書」
 が書かれた。
.
2世紀、この頃までに、キリスト教の新約聖書に盛り込まれ
 る手紙類などが出揃(でそろ)った。
  しかし、矛盾が多く含むものとなった。
  この矛盾の辻褄(つじつま)を合わせるために、この
 後、キリスト教神学が発生した。
  キリスト教神学の生まれた経緯は、キリスト教の教義
 の深化のためではなかった・・辻褄合わせが、学問の発
 生の因だった・・、
.
180年頃、ローマ帝国内に、キリスト教の五大教会が造られ
 た。
  キリスト教五大教会は、「ローマ」「エルサレム」「
 コンスタンティノーブル」「アレキサンドリア」「アン
 ティオキア」。
.
313年2月、ミラノ勅令。
  ローマ帝国の皇帝のコンスタンチヌス1世(大帝)が、
 キリスト教を公認した。
  コンスタンチヌス大帝が、ミラノで、リキニウス帝と
 会見をした際に発した勅令。
  増大しつつあるキリスト教徒の支持を得ようとして行
 った。
  そして、392年、キリスト教が国教となった。
  以上の様な史実があるとされるが・・??
  厳密に言うと、ミラノで、その様な勅令が出されたと
 いう「歴史的事実はない」。
  ただ、両皇帝のミラノでの協定に基づいて、リキニウ
 スが、313年、ニコメディアで両皇帝の名において発した
 訓令の内容の記録が伝わるに過ぎない。
  これを、キリスト教に偏する後世の史家が、これをミ
 ラノ勅令と呼んだだけの作り話。
  ローマ帝国のキリスト教迫害政策は、4世紀の初期にな
 って、行き詰まった・・そこで、政策のゆるみが出て、
 寛容への動きも出ていた(311年、ガレリウス帝の寛容
 勅令など)。
  しかし、このミラノ勅令と言われるこの頃、帝国が、
 キリスト教の取締りの域を超えて、キリスト教との融合
 の方向へと踏み出した・・歴史の転換点ともいうべき位
 置を示している。
.
381年、コンスタンティノーブル公会議で、再び、三位一体
 神を正統とした。
  そして、教義として確立した。
.
392年、キリスト教が、ローマ帝国の国教となった。
.
395年、ローマ帝国が、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂
 した。
  この後、ローマ教会とコンスタンティノーブル教会と
 は、別々の君主の元で歩んだが・・、
  コンスタンティノーブルの司教が、「ローマ教会の司
 教と対等の立場」を主張した。
  そして、この後の5世紀末に、東西のキリスト教会の反
 目が本格化した。
  ローマ司教は、「単性説」を主張していたコンスタン
 ティノーブルの司教を破門した。
  6世紀に、ローマ司教は、ローマ教皇となった。
  867年には、東西の両教会は、「互いに破門を宣言しあ
 った」。
  1054年、完全に物別れとなり、教会の東西分裂となっ
 た。
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397年、カルタゴ会議で、「旧約聖書」と「新約聖書」が、
 キリスト教の聖典となった。
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451年、キリスト教ローマ教会は、権威を強化したいと、こ
 の年のカルケトン公会議で・・異端とされた単性説のコ
 ンスタンティノーブル司教を破門にした。
  5世紀末は、ローマ教会の権威は強大となった。
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5世紀半ば、ローマ法が作られた。
  キリスト教は、ローマ法と矛盾するところを妥協し、
 習合した。
  そして、キリスト教の戒律は、聖なる部分のみに適用
 されるものとした。
  だから、当然、キリスト教の免罪符を持っていても罰
 せられた。
  だから、当然、強盗が免罪符を持っているからと言っ
 て許されるものではなかった。
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6世紀、東ローマ帝国が、コスティニアス1世の時に領土拡
 大した。
  ローマも支配下に入れた。
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6世紀、ローマ帝国内の五大教会の一つのローマ教会の指導
 者であるローマ司教が、ローマ法王(教皇)となった。
  このローマ法王が、キリスト教カトリックの最高権威
 があるとされた。
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900年、ヨーロッパ大陸は、森林に覆(おお)われていたが、
  この後、そのほとんどが失われてしまった。
  ヨーロッパは、うっそうたる原生林の中の地だった。
  「ヘンゼルとグレーテル」が迷い込んだ森の道に、迷
 い行くとお菓子の家があるという、子供たちの話のよう
 な深い森のあるヨーロッパの地だった。
  しかし、その森も、キリスト教の『地を従えよ』の教
 義・教えによって・・、
  「自然を大切にしない教義」によって、「地を従える
 という自然破壊」を『良い事だと教えるキリスト教の教
 義』によって、ヨーロッパの森は、破壊しつくされた。
  今、古来からの原生林は、ドイツのある地方の一画だ
 けという状況。
  現在のフランスの森林の割合は、23パーセントだとい
 う。
  中世初期は、最も開拓が進んでいるサン・ジェルマン・
 デ・プレ修道院の平野部でさえ、4割以上が森林だった。
  900年頃の想定地図を見ると、『殆ど森しかない』とい
 う状況だった。
  土地の9割以上は、原生の地であり、村の周囲だけが
 切り開かれているという状況だった。
  あるキリスト教修道院は、柱となる大木を手に入れれ
 たのは「神の思し召しだ!」などと喜んで伐採した。
  日本の里山の思想・仏教の思想は・・『山や森と共生
 する』という思想は、キリスト教の思想には「まったく
 無かった」。
  キリスト教の『地を従えよ』の自然破壊を奨励する教
 えに洗脳されたキリスト教徒のヨーロッパ人たちは、「
 自然破壊をすることに何ら罪悪感の無い心にされて」、
 ヨーロッパ大陸の自然を破壊し続けた。
  今、地球は、自然破壊のために、「異常気象が頻発(
 ひんぱつ)」している・・が・・
  キリスト教の罪悪は、この点でも、計り知れない事を
 起こしている。
  「もう人類は、今・現代、すぐに、キリスト教の教え
 を捨てなくてはならない」。
  「罪悪感のない自然破壊」を改めなくてはならない。
  今、地球は、地球上のあちこちで、罪悪感のない森林
 破壊の伐採が行われている。
  「キリスト教に洗脳された自然破壊」が行われている。
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1520年、ルターのキリスト教の宗教改革活動が始まった。
  まったく金にまみれたキリスト教カトリックだった。
  ローマ法王のレオ10世が、ローマのサン・ピエトロ大
 聖堂を建てたいと、金を集め出した。
  ドイツで、大量の免罪符が売り出された。
  ルターは、これに抗議した。
  ルターは言った、「免罪符なんか持ってなくても天国
 へ行ける」「免罪符を持って居たからって救われない」
 と。
  キリスト教カトリック教会は、ルターを破門にした。
  そして、弾圧を加えた。
  キリスト教教会から、なんだかんだと金を取られ苦し
 んでいた人々は、ルターに同調した。
  また、ドイツの諸侯や、各地の知識人も同調した。
  因みに、キリスト教の信者数の割合。
  カトリック  53%(10.9億人〉、
  プロテスタント17%(3.7億人)、
  東方正教会  11%(2.2億人)、
  その他    19%(3.9億人)、計20.7億人
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1642年1月8日、この年、ガリレオが失意のうちに亡くなっ
 た。
  ガリレオは、イタリアの科学者で天文学者。
  天文学の父と言われている。
  科学的探究の結果、地動説を説明するが・・キリスト
 教に「異端の考え方だ」とされ、一生、監禁状態の生活
 を強いられた。
  職も失い・・貧困の中に苦しい生活を送らされた。
  長女も付き添って看病をしてくれたが、この最愛の長
 女・ビルジニアにも、ガリレオは先立たれた。
  この長女は、ガリレオの死の8年前、病気で1634年に
 亡くなっている。
  キリスト教は、科学的に非常に遅れた宗教で、非科学
 的な記述に満ち満ちている。
  キリスト教は、「ある時、キリスト教の神が創造を始
 めた」という設定から始まったという話から始めた。
  キリスト教の聖書もその記述から始めている。
  この認識を基礎として、キリスト教の宗教の信仰が始
 まっている。
  因みに、先のガリレオに対するキリスト教の間違いは、
 400年も経って、ローマ法王はガリレオに詫(わ)びた・・
 『謝罪のミサ』を行った。
  『キリスト教の宇宙創造論』も、結論から言えば「間
 違い」で・・、
  この様な話にすると、キリスト教のストーリーの初め
 から話が崩れ去ってしまう・・このストーリーが崩れる
 と・・「キリスト教の神の存在が否定され」・・キリス
 ト教の宗教としての存在も否定されてしまう・・
  だから、この点は、死守したいところだが・・間違い
 だという事が判明して来た。
  キリスト教は、ストーリーの初めから、躓(つまづ)
 いている。
  キリスト教は、聖書の初めに書いてある「キリスト教
 の神が宇宙を創造した」という創造論が確かにあったと
 したい・・が・・
  科学が進歩して来ると、色々なことが分かって来て、
 その科学で分かったことが、キリスト教の聖書に記述し
 てある事と食い違う事が多く・・
   「一致する」と胸をなで下ろすというキリスト教と
 なっている。
  事実は、そうではないという展開となっている。
  この400年前のガリレオは、キリスト教の様になってな
 いと言うって、キリスト教を仰天させ、大騒ぎになった
 が・・キリスト教は卑劣な事にもガリレオを弾圧した・・
  あまりにもひどい・卑劣なキリスト教の弾圧にあって・・
 とうとうガリレオも、やむなく「地球の周りに太陽は回
 っている」と、キリスト教に押し付けられた言葉を言っ
 たが・・
  科学的に間違って居る事を言わされたが・・しかし、
 最後に、ガリレオは、「ガリレオが、その様に言ったっ
 て、キリスト教が言うように、太陽が地球の周りを回り
 始める訳はない」・・という事で・・ガリレオは、『そ
 れでも地球は、太陽の周りを回っている』と言った。
  キリスト教は、科学に照らして間違いだらけの宗教で、
 今・現在は、キリスト教は、『太陽が、地球の周りを回
 っている」とは言わなくなったが、キリスト教にはこの
 様に、「たくさんの訂正事項」の中に、今のキリスト教
 が存在して居る。
  キリスト教は、まったく非科学的な宗教である。
  信じるに値しない。
  このキリスト教に繰られて、洗脳されて、今まで、何
 千万人もの有色人種が、「キリスト教によって殺されて
 来た」が・・本当に悔(くや)しい思いである。
  これは、ローマ法王が、有色人種を「人では無い」と
 言った事から始まった。
  キリスト教には、有色人種への蔑視観がある。
  キリスト教は、科学が進むとともに、その非科学性が、
 ますます立証され、証明されて来ているという状態。
  これからの人類の幸福のためには、絶対、キリスト教
 は「無くさねばならない宗教」・・、
  また、未来の愛すべき「これからの世界を支える子供
 たち」の為にも、絶対、キリスト教を無くして行かねば
 ならない。
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1821年、メキシコが、スペインから独立すると、今は、ア
 メリカのテキサス州だが、この地は、メキシコのコアウ
 イラ・イ・テハス州という名の州となった。
  例えばの話、あなたの左隣の家が、あなたの右隣の家
 へ、「あなたの家を持って良い(奪ってよい)」と言っ
 たら・・、
  あなたの家は、右隣の家になるのか?
  (右隣の所有する家になるのか?)
  また、例えばの話、本当に例えばの話なのだが・・、
  「日本が、メキシコに、アメリカのテキサス州を持つ
 ことを認める」と言ったら、アメリカのテキサス州は、
 メキシコのものになるのか?
  つまり、この逆のことを、アメリカはしていた。
  アメリカの前には、イギリスがしていた。
  こんな事ばかりを言って、世界にトラブルの種を撒(
 ま)いていた。
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1876年、オーストラリアの先住民のアボリジニの方々・・
 そのタスマニア島の方々は、3万7000人が住んでいた・・
 が・・イギリスの入植によるアボリジニの方々の銃殺権
 の法律(人権のまったくの無視の卑劣な法律)により、
 この年に絶滅した。
  タスマニア原住民で最後の人となったトルガニナさん
(女性)がこの年に亡くなった。
  また、オーストラリア本土の先住民のアボリジニの方々
 も、イギリス人(オーストラリア人)が、獣狩りのごと
 く、アボリジニの方々を銃で撃っていた。
  『その様な法律があった』というのだから、その「卑
 劣さ」も極まるが・・、
  「今日は、○○匹、獲った」という日記などの記録が
 残されている。
  また、森に罠(わな)が仕掛けられたりした。
  また、ハワイの原住民の方々が、何故か?ある時、激
 減した。
  『伝染病を媒介された』という話がある。
  ハワイの原住民の方々は、予防措置がとられていなか
 った。
  約30万~50万人のハワイの原住民の方々が、何と!9割
 の方々が亡くなり、約4万人となってしまった。
  そして、現在、純血のハワイの方は、約8000人と言わ
 れている・・98%は混血。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive