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2016年7月7日木曜日

(増補版)376E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年8月~1882年10月)

題:(増補版)376E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年8月~1882年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年8月9日、清国が、属邦保護のためとして朝鮮派兵を
 日本へ通告して来た。
  壬午事変(1882年7月23日に勃発)の発生を察知した清
 国は、「両国間を調停したい」「日本公使館は我が属邦
 に在るので派兵したい(兵を派して護衛したい)」と言
 って来た。
1882年8月11日、日本の清国への通告
  吉田清成外務卿代理は、朝鮮(李氏朝鮮)は清国の属
 国ではない、「日本は、朝鮮を自主独立国と認める」と
 通告した。
1882年8月11日、伊藤博文が、憲法草案の形が見えたことを
 日本へ連絡した。
  伊藤博文は、日本の憲法を作ろうと、ヨーロッパに来
 ていたが、
  その憲法を、如何に形づけるかと、その姿が見えずに、
 苦しみ悩んでいた。
  その当時、日本は、一部の選ばれた者が、政治を行う
 体制で、
  自由民権運動が起こり、国民の間で、最高潮に達して
 いた。
  そこに、「憲法を定めて、国会を開く」という国民の
 要望があった。
  政府は、国民の要望を聞き入れ、1890年に、国会を開
 くことを約束した。
  伊藤は、この様な切羽詰まった状態の中で、憲法につ
 いての調査に、ドイツに来ていた。
  この日、伊藤博文は、岩倉具視へ、ドイツから書簡を
 書いた。
  その憲法の姿が見えたと感動的に記述した。
  「私は、グナイスト、スタインの両師について、国家
 組織の大体を了解することができ、皇室の基礎を固め、、
 大権の大眼目を充分に組み立てました。・・
  いま、我が国の現情は、自由論者が、英米仏流の思想
 を誤信し、国家を傾けようとの勢いで御座いますが、こ
 れを凌駕する論理と手段とを私がつかみましたことは、
 報国(ほうこく、国恩にむくいること)の赤心(せきし
 ん、嘘いつわりのない、ありのままの心、まごころ)を
 貫徹する時機において、その効果をあらわす大切な要具
 になると存じます。
  私は心ひそかに死場所を得た心地です」・・と。
1882年8月15日、煙草税の増税を建議
  朝鮮で起きた壬午事変、そして、その後に、清が、朝
 鮮に軍隊を駐留させて干渉するようになった。
  朝鮮内では、この清の方針に沿おうとする穏健的開化
 派(事大党)と、
  これを不当とする急進的開化派(独立党)との二派が
 相争う姿が鮮明になった。
  党派の観点からは前者の清の方針に沿おうとする派が
 優勢だった。
  後者の独立党は劣勢であった。
  また、アメリカ・イギリス・ドイツなどは前者を支援
 し、日本は後者を支援した。
  この様な情勢の中で、日本は、参事院議長・山県有朋
 が、煙草増税をもって軍備充実にあたりたいと建議した。
1882年8月30日、「済物浦條約」 締結
  日本と朝鮮の両国代表の間に、善後処置のための済物
 浦条約が成った。
  日本と李氏朝鮮の間で締結された条約・・済物浦は、
 朝鮮語読みで「サイモッポ」、仁川の旧称。
   壬午事変(壬午軍乱)での日本公使館焼き討ち事件等
 の事後処理のために結ばれた。
  この朝鮮の不満兵士の反乱・事変において、
  日本の公使館が襲われ、日本人の死傷者十数名を出し
 た事変について、首謀者の処罰、賠償、公使館の修理費
 と護衛の為の駐留、開市・開港などが締結された。
  朝鮮駐在公使・花房義質(はなぶさよしただ)は、朝鮮
 政府代表・李裕元(りゆうげん)、金宏集(きんこうしゅ
 う)と、済物浦(現:仁川(じんせん))で、善後約定を結
 んだ。
  加害者処罰、損害賠償、および、公使館護衛のための
 兵員駐在、国書による謝罪が決められた。
  これは、若干名とはいえ、日本が海外に駐兵権を得た
 最初の条約だった。
  この日本の駐兵に対抗して、清(しん)側は軍駐在、お
 よび、宗主権の一層の強化を図った。
  そして、親日派の独立党と、親清派の事大党との相克
 が激化した。
  甲申(こうしん)政変の遠因が醸成された。
  しかし、この済物浦条約がすんなり締結されたわけで
 はなかった。
  そこには、清国の影響から、交渉の進展を渋った朝鮮
 があり、
  この日本・朝鮮間の交渉の停滞に、いち早く反応した
 のが、仁川に軍隊を展開していた馬建忠が率いる清国軍
 だった。
  清国軍は、日本の交渉団が漢城を去るのと入れ違いに
 入京した。
  そして、日本側へ、「李氏朝鮮の大院君を排斥し、交
 渉を調停する用意がある」と言った。
  日本はその話を拒否した。
  しかし、清国軍の陣営に誘(おび)き出された大院君(
 日本と朝鮮の条約締結の要(かなめ)に居た)は、身柄
 を拘束され、清国へと連れ去られた。
  そして、漢城市内に、「大院君が清国皇帝の怒りに触
 れて処罰された」とする掲示文が貼り出された。
  大院君が、清国に拉致された期間は3年間という長期に
 渡った。
  この様なアクシデントの中、朝鮮政府から謝罪文が日
 本側へ送られて来た。
  これを契機に、交渉再開が約され、そして、交渉は続
 けられた。
  条約内容は、日本公使館の襲撃において、多くの職員
 が被害を受け、
  また、朝鮮国から招聘を受けて、日本側が送り出した
 軍事教官までもが惨殺された経緯において・・、
  しかし、和好を重んじ、両国関係を修復しようと表明
 され、話し合いによって条約は約された。
  軍乱に巻き込まれて死亡した日本官吏は、礼を尽くし
 て埋葬し、厚く弔うとされた。
  また、日本公使館は、兵員若干名を置いて警護するこ
 とも約された。
  そして、国書をもって日本へ謝罪する事も約され、
  また、同時に、日朝修好条規続約(追加条項)が決め
 られ、
  居留地の拡大、市場の追加、公使館員の朝鮮内地遊歴
 が認められた。
1882年8月、会津自由党員の宇田成一らが、福島県新道路建
 設反対の抵抗運動を開始した。
1882年8月 高木兼寛が、有志共立東京病院を開院した。
  日本初の私立医科大学で、東京慈恵会医科大学附属病
 院の前身。
  尚、高木兼寛(たかきかねひろ)は、「ビタミン研究
 の開拓者」として、日本、および、欧米においても高い
 評価を受けていて、
  1959年(昭和34年)には、イギリスの南極地名委員会
 によって、南極大陸に「高木岬」という地名がつけられ
 た。
  その説明には、「日本帝国海軍の軍医総監・高木兼寛
 男爵は、1882年、食事の改善によって脚気の予防に初め
 て成功した」と述べられている。
1882年9月9日、板垣退助の外遊資金疑惑
  立憲改進党系の東京横浜毎日新聞が・・、
  板垣退助の外遊資金の出所疑惑について非難した。
  この攻撃を受けた自由党は、大混乱に陥(おちい)っ
 たが、立憲改進党と三菱との関係を攻撃した。
  しかし、この年・1882年、欧州の憲政事情研究の名目
 で、板垣は、後藤象二郎とふたりで外遊した。
  因みに、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は、土佐
 藩政の最高責任者だった、そして、参政を務め、
  1867(慶応3)年1月、脱藩者の坂本龍馬と長崎の清風亭
 で会談し、
  土佐藩が大政奉還に向けて動き出す契機となった。
  龍馬は、姉の乙女らへの手紙で後藤について・・、
  「実ニ同志ニて人のたましいも志も、土佐国中で外ニ
 ハあるまいと存候(ぞんじそうろう)」と評した。
1882年9月22日、陸軍裁判所の廃止
  陸軍裁判所が廃止され、東京鎮台に軍法会議を設置し
 た。
1882年10月1日、 第1回 内國絵画共進會 開催
  東京の上野公園で、農商務省主催の第1回・内国絵画
 共進会が開催された。
  洋風画の出品は拒否された。
  内國絵画共進會(ないこくかいがきょうしんかい)は、
 1882年と1884年に開催された官営の展覧会で、
  維新と、それに続く文明開化の風潮(アメリカ・ヨー
 ロッパ讃美にマインド・コントロールされた風潮)は、
 日本固有の美術を衰微させたが・・、
  やがて反省が起こり・・伝統保存の機運が高まった。
  (フェノロサのお蔭・功績、
  しかし、廃仏毀釈の愚行で、多くの国宝級の伝統の美
 術・工芸の品々が逸失した。まったく惜しい限り)。
  端緒になったのは、1877年に開催された内国勧業博覧
 会の成功と、1879年に創立した竜池会(古美術の鑑賞と
 調査のため、佐野常民らによって組織された)の運動で
 あった。
  東京大学に招聘(しようへい)されたフェノロサが竜
 池会で講演し、洋画を排して日本画を尊重すべきことを
 説いたことが、この機運をいちじるしく助長した。
1882年10月2日、浅草~上野~日本橋間の全線が開業した。
1882年10月4日、馬車鉄道が出現したことにより、失業対策
 として人力車夫懇親会が結成された。
1882年10月10日、日本銀行条例により成立した日本銀行が
 開業した(10月6日説あり)
  東京の永代橋のたもと(現在の日本橋箱崎町)にあっ
 た旧北海道開拓使出張所の建物を本店とし、中央銀行と
 して開業し、業務を開始した。
  政府が発行した札を回収し、また、札の発行を1ヶ所で
 行なうことを目的として設立された。
  預金取引し、貸出等を開始。
  明治維新以来、明治政府は、混乱した貨幣制度を建て
 直すため、新貨条例や国立銀行条例を 制定するなど貨幣
 制度の近代化に努めて来ていた。
  沿革:
  1872年、国立銀行条例が制定され、
  1876年、国立銀行条例全面改正された。
    不換紙幣の発行を認めたことが一因となって、イ
   ンフレーションが進行した。
  1881年、三井銀行の為替方を廃止し、大蔵卿・松方正
   義により日本銀行の創設へ。
  1882年6月、日本銀行条例が公布され、
  1882年10月10日、日本銀行が開業した。
  日本銀行券発行は(1885年)、本館完成(1896年)
1882年10月10日、曹洞宗、大学林専門学本校を開校した。
 後の駒沢大学。
1882年10月19日、朝鮮全権大臣兼修信使・朴泳孝らが、天
 皇陛下と会見し、国書を提出した。
  朴泳孝(ぼくえいこう)は、朝鮮における貴族で、ま
 た、実業家でもあり、福沢諭吉と交遊があり、支援を受
 けていた。
  そして、この時、壬午政変(壬午軍乱)の謝罪のため
 に派遣された。
  朴泳孝は、この時、8月9日に仁川を出航して、この日
 本に向かう船上で、現在の大韓民国国旗である太極旗の
 デザインを考案した。
  この時、イギリス領事が立ち会っている。
  このいきさつが、彼の記述の『使和記略』に詳しく書
 かれている。
  そして、神戸に到着した8月14日には、すでに宿泊先に
 このデザインした太極旗を掲げた。
  そして、8月22日に、国旗制定を本国に報告した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年7月4日月曜日

(増補版)375E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年6月~1882年8月)

題:(増補版)375E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年6月~1882年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年6月26日、植木枝盛らが、元老院に酒税減額を建白す
 る。
1882年6月27日、「日本銀行条例」が公布された。
  日本銀行条例が制定され、公布された。
  そして、1882年10月10日に、永代橋のたもと(現:日
 本橋箱崎町)に、日本銀行の本店が開業した。
  1885年、日本銀行券(兌換銀券)の発行開始→銀本位
 制度確立へ
  これまで、日本は、兌換貨幣(金との交換が保証され
 た通貨)を使用していたが、
  まだ、経済基盤が弱かった日本からは、金貨の海外流
 出などで金準備不足が深刻化した。
  そのため、兌換制度を止める必要があった。
  1871年に、新貨条例が制定し、
  「円」を貨幣とする最初の近代貨幣制度を導入した。
  しかし、同時に採用された金本位制は、金準備不足の
 ために実際には銀貨が主に使われた。
  1876年に事実上、1878年に正式に、金銀複本位制が確
 立した。
  そして、1885年に、銀本位制に移行し、
  1897年に、ようやく金本位制に復帰した。
1882年6月27日、検疫
  神戸・横浜などの7港に、悪疫防止のため、船舶検疫制
 度が実施された。
1882年7月7日、東洋社会党の結社が禁止された(6月20日説
 あり)
  東洋社会党は、 1882年5月25日に、長崎県の樽井藤吉、
 赤松泰助らが結成した。
  「道徳を以て言行の基準とす」
  「平等を主義となす」
  「社会公衆の最大福利を以て目的とす」
 ・・という綱領を立てた。
  この綱領にある様に、日本で初めて「社会党」と名づ
 けられた政党だったが、
  旧佐賀藩主・鍋島閑叟(なべしまかんそう)の徳政的土
 地改革制度継続を要求した流れにあり、
  社会主義政党でもなく、また、無政府主義政党でもな
 かった。
  組織面においても、平等主義のために指導、被指導と
 いった上下関係をもたず、
  党名の「東洋」が示すように、党の趣旨を「支那や朝
 鮮」にも拡充することを目指し、
  東洋の独自性を主張する意識があった。
  そして、米欧に牛耳られている日本のみでなく、朝鮮、
 清(中国)にも広め、東洋の衰運を挽回したいとの意図
 もあった。
  しかし、当局により虚無党とみなされ、
  同年・1882年6月、山田顕義(あきよし)内務卿(きょう)
 により治安に有害とされ、
  1ヵ月後の6月20日に、集合禁止を命じられ、
  翌年・1883年1月、樽井は軽禁錮に処せられ、解散した。
1882年7月10日、お茶の水女子大学附属の前身
  東京女子師範学校で、予科を改組し、
  修業年限5年の附属高等女学校を設置した(お茶の水女
 子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校の前
 身)
  1873年11月、文部省学監の御雇外国人・ダビッド・モ
 ルレーは、
  申報(しんぽう、中国最初の日刊紙)のなかで、日本
 も欧米諸国に倣って女性を「児童ヲ教育スル最良ノ教師」
 として育成することを建言し、文部少輔である田中不二
 麿もこれに同調し、
  翌年・1874年1月、三条実美太政大臣に対し「東京府下
 ニ一箇ノ女子師範学校ヲ設ケ」る「伺」を提出した。
  これが承認され、
  同年・1874年3月13日に、木戸孝允文部卿により、お茶
 ノ水橋たもとに、女子師範学校を設置する旨布達が発令、
  日本最初の(官立)女子師範学校である東京女子師範
 学校の設立となった(11月に開校)
1882年7月14日、共同運輸会社
  渋沢栄一・益田孝らが、共同運輸会社を設立した。
  共同運輸会社は、海運会社で、日本郵船会社の前身。
  この年に、三菱(みつびし)会社の海運界独占に対抗す
 るためにつくられた。
1882年7月23日、壬午軍乱(じんごぐんらん)
  朝鮮王国の漢城(ハンソン、現=ソウル)で、兵士が
 待遇に不満をいだいて反乱を起こした。
  この暴動に貧民も混じって、大臣の屋敷を襲撃した。
  支援と称して出動した清国軍は、暴動に加担した軍人
 や民衆を弾圧した。
  軍・兵士らは、また、朝鮮王国の重臣や、日本人軍事
 顧問らを殺害した。
  日本公使館も襲撃され、公使の花房義質らは、一旦脱
 出した。
  日本政府は、軍艦4隻を派遣し、清朝政府も、北洋艦
 隊を派遣した。
  翌月・1882年8月に、済物浦条約を締結した。
  (朝鮮・京城に内乱起り、暴徒、王宮に乱入、日本公
 使館も襲撃さる。壬午事変ともいう)
  この壬午事変の後の、翌々年・1884年の甲申事変を経
 て、日本は清国との間に、天津条約を結ぶに至る。
1882年7月30日、朝鮮の変報に、日本軍艦、急きょ派遣。
1882年7月31日、工部美術学校(日本最初の美術教育機関)
 の彫刻科の廃止に伴い、ラグーザの解任。
  1887年の西南戦争後の、財政事情の悪化のため、十分
 な教育ができないと考えた御雇外国人・フォンタネージ
 は、1878年に、帰国してしまった。
  代わりにフェレッチが招かれたが、
  フォンタネージに心服していた画学科の学生たちは、
 不満をもち、多数が退学した(退学者たちは十一会を設
 立した)。
  後に、フェレッチに代わり、サン・ジョヴァンニが就
 任した。
  さらに、アーネスト・フェノロサの提言などもあって
 日本美術の再評価が行われた。
  こうした背景の中、1882年6月に彫刻科が廃止され、翌
 年・1883年1月に、画学科も廃止されて、工部美術学校は
 廃校に至った。
  因みに、フェノロサは、日本美術を愛した日本美術研
 究家で、
  ハーバード大学で哲学をまなんだ秀才(首席で卒業)
  父が自殺し、
  自殺者を差別するキリスト教の差別を受けるころ、
  東京大学の求人情報を知り、新天地として渡日を決意
 する。
  フェノロサは、来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々
 な日本美術の美しさに心を奪われた。
  「日本では、全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置
 き物、日常用品、枝に止まる小鳥にも美を見出し、最下
 層の労働者さえ山水を愛で花を摘む」と彼は記した。
  彼は、日本の美を求めて、全国の古寺を旅した。
  このような時、仏教寺院は寺領を没収され、経済的危
 機にあった。
  日常の費用に困る状況、財政難にあった(廃仏稀釈の
 関係、西欧は何でも良いという時代だった)。
  フェノロサは、日本美術の素晴らしさを訴え、保護に
 立ち上がった。
  1880年に、長男が誕生し「カノー」と名付けた。
  日本画家の「狩野」に由来していた。
  また、彼は、1881年(28歳)に、滅亡寸前であった日
 本画を憂え、日本画の復興も決意した。
  その頃の日本は、日本の良さを見失い、何でも欧米讃
 美にあった日本へ、覚醒を求め、講演もした。
  日本政府も、フェノロサの言葉に目覚め、フェノロサ
 の演説を印刷し、全国に配布した。
  1882年(29歳)の時、彼は、日本画の第1回コンクール
 (内国絵画共進会)の審査委員として招かれた。
  ここで狩野芳崖(かのうほうがい)を発見する(この
 時、芳崖54歳)。
  フェノロサは、この翌年から、芳崖に生活費を支給し
 始めた。
  1884年(31歳)の時、彼は、政府の宝物調査団に任命
 され、文部省職員となっていた岡倉天心と奈良・京都の
 古社寺を歴訪した。
  この調査で、法隆寺の救世観音像(国宝)を見い出す。
  これらの行動などのうち、仏教の奥深さを知ったフェ
 ノロサは、翌年・1885年(32歳)の時、キリスト教を捨
 て、仏教徒となった。
  そして、滋賀の三井寺(園城寺)にて受戒した。
  『諦信』の法名を授かった。
  彼の故郷、生地のセラームの魔女事件の記憶も彼には、
 フェノロサにはあった。
  歴史上の汚点として残る、1692年の悪名高い魔女裁判
 で、200名もの女性が、拷問され、火あぶりの刑に処せら
 れている。
  1888年、フェノロサ35歳の時、岡倉天心は欧州の視察
 体験から、国立美術学校の必要性を痛感した。
  そして、東京美術学校(現:東京芸術大学)を設立し、
 初代校長となった。
  フェノロサは、副校長に就任し、美術史を講義した。
  東京芸術大学には、この開校の由来を刻んだ石碑があ
 り、フェノロサが描かれている。
  1890年(37歳)、ボストン美術館に日本美術部が新設
 され、フェノロサへ就任以来が届き、
  また、この時、日本政府との契約も満期終了となり、
 彼は、帰国の途に就いた。
  日本政府は、フェノロサに勲三等を授与した。
  この年、フェノロサは、ボストン美術館の東洋美術部
 長に就任した。
  そして、日本美術の紹介に尽力した。
  1896年(43歳)の時、彼は、2度目の来日をする、そし
 て、東京高等師範学校の教授となった。
  そして、この年、彼は、夫人と共に、三井寺・法明院
 を訪ねた。
  法明院は、彼を仏門に導いた僧が、住職を務めていた。
  フェノロサは、法明院の茶室「時雨亭」で寝起きした。
  今でも、フェノロサの愛用の蓄音機・望遠鏡・地球儀
 が同院に保存されている。
  1898年(45歳)、3度目の来日。
  この時、上野で「浮世絵展覧会」を開催し、彼・自ら
 英文付きの目録を作成し、解説を書いている。
  1901年(48歳)、来日。これが最後の来日だった。
  「北斎展」の開催のための来日だった。
  そして、1908年(55歳)の時、ロンドン開催の国際美
 術会議にアメリカ代表委員として出席し、
  その滞在中に、心臓発作で急逝した。
  戒名は、「玄智院明徹諦信居士」。
  フェノロサは、生前、「墓は法明院に」と願っていた。
  翌・1909年、三井寺・法明院に分骨され、埋葬された。
  彼が集めた2万点の美術品は、ボストン美術館でしっか
 り管理・所蔵され、展示されている。
  当時、来日した医師・ビゲローは次の様に記した・・、
  「維新後に名品が大量に(日本の)市場に出たのは、
 二つの原因による。
  ひとつは、経済的に困窮した貴族層が値段の見境なく
 売り出したこと。
  もう一つは、日本人の間に、極端な外国崇拝があるこ
 と」・・と。
  フェノロサも天心に言った、
  「本当にもったいないことです」・・と。
1882年8月5日、「戒厳令」 制定
  軍隊に非常事態統治権の戒厳令が定められた。
  (参考)戒厳(かいげん)とは、
  戦時において、兵力をもって一地域、あるいは、全国
 を警備する場合に、
  国民の権利を保障した憲法・法律の一部の効力を停止
 し、
  行政権・司法権の一部、ないし全部を、軍部の権力下
 に移行することをいう。
  軍事法規のひとつであり、戒厳について規定した法令
 を戒厳令(martial law)という。
1882年8月5日、徴発令を定めた(8月12日説あり)
  戦時調達を定めた徴発例が定められた。
  1882年8月5日のこの日に、戒厳に関する法令が、元老
 院の審議を経て、太政官布告第36号を以て公布された。
  徴発は、戦時または事変、時によっては、平時の演習
 に際し、地方の人民に賦課して軍需を満たすことで、
  この徴発令は、朝鮮の壬午軍乱にあたり、日本陸軍最
 初の動員を行うに際して急ぎ制定された。
  「戦時若クハ事変ニ際シ、兵備ヲ以テ、全国若クハ一
 地方ヲ警備スル」
  警戒される地域は、戒厳地域と称し、
  その地域内において、司令官は、次の諸件を執行する
 権利を有する。
  (1)集会、若しくは、新聞・雑誌・広告等の時勢に妨
    害ありと認めるものを停止する。
  (2)軍需に供すべき民有の緒物品を調査し、又は、時
    機に依りその輸出を禁止する。
  (3)郵信・電報を開封し、出入の船舶及び緒物件を検
    査し、並に、陸海通路を停止する。
  (4)戦状に依り、已むを得ざる場合、人民の動産・不
    動産を破壊たん焼する。
  ・・などで、有事の際に、国民の気持ちを一つにまと
 めるとともに、軍事機密が洩れるのを防ぐことを意図し
 ている。
  そして、戒厳の執行によりて蒙りたる損害は要償する
 ことができないとなっている。
1882年8月8日、憲法の成案の確信を得る。
  伊藤博文が、ウィーンのロレンツ・フォン・スタイン
 邸を初めて訪問し、そこで最も有益な教示を受け、憲法
 の成案に確信を持ったという。
  それから、11月まで4ヶ月間(2ヶ月?)、ウィーンに
 滞在し、憲法の講義を受けた。
  河島醇や柳原公使や、たくさんの日本人が集まって随
 分にぎやかだったという。
  明治憲法(大日本帝国憲法)の逸話。
  (参考)ロレンツ・フォン・スタインは:
  ドイツの法学者・思想家。1815年11月18日~1890年9月
 23日。
  彼は、伊藤にプロイセン(ドイツ)式の憲法を薦めた。
  そして、伊藤は、この時、日本政府の法律顧問として
 招聘したいと懇願した。
  しかし、高齢を理由に実現しなかった(代わりの候補
 者が推薦された)。
  ただ、シュタイン自身は、ドイツの体制には批判的で
 あり、日本の国情・歴史を分析した上で、あえて、ドイ
 ツ憲法を薦めた。
  しかし、伊藤とともに憲法草案を執筆した井上毅が、
 シュタインに批判的であったため、
  実際に制定された大日本帝国憲法の内容には、シュタ
 イン学説の影響は少ない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年7月3日日曜日

(増補版)374E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年4月~1882年6月)

題:(増補版)374E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年4月~1882年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年4月12日、日本鉄道の川口~前橋間の建設が始まった。
  日本鉄道(にっぽんてつどう)は、日本初の私鉄であ
 り、
  現在の東北本線や高崎線、常磐線など、東日本の東日
 本旅客鉄道(JR東日本)の路線の多くを建設・運営して
 いた会社で、
  沿線の産業開発をはかることを目的に、岩倉具視らが
 中心となって、1881年11月5日に創立された。
  政府の鉄道建設資金の不足を補うため、華士族の出資
 によって鉄道建設が推進された。
  1882年(明治15年)、川口~熊谷間から建設を開始し、
 当初は、貿易港がある品川、横浜と直結する計画であっ
 た。
  しかし、山手の起伏が大きく、建設費が、より高額と
 なることが見込まれたため、
  東京下町の山下町を起点として、建設が進み、
  1883年7月28日に、第一区線の上野~熊谷間を開業した。
 (1884年に、上野~高崎間が全通した)、
  1906年11月1日に、鉄道国有法により国有化した。
1882年4月16日、立憲改進党が結成された。
  立憲改進党が結成されて、大隈重信が、総理に選出さ
 れた。
  東洋議政会が合併する。
1882年4月20日、工部大学校に、造船学科が設置された。
  工部大学校(こうぶだいがっこう)は、工部省が管轄
 した教育機関で、現在の東京大学工学部の前身の一つ。
  この頃の理工系高等教育機関は、東京大学工芸学部が
 あって、
  こちらは、学術理論に重きを置いた。
  一方、この工部大学校は、実地教育を重点視し、
  そのため、工部大は実務応用に秀で、東大と争うよう
 にした。
  工部大には、工部省から在学中の経費を支給される官
 費生と、
  学資を納める必要のある私費生の別があった。
  官費生には、奉職義務があり、卒業後7年間は官庁で働
 くことになっていた。
  各分野や業界の先覚者らを輩出した。
  沿革:
  1871年、工部省に工学寮が設置された。
  1873年に、大学が置かれ、
  1877年1月に、工部大学校に改称した。
  1886年の帝国大学令により、東京大学工芸学部と合併
 し、帝国大学工科大学となった。
  教授に、ジョサイア・コンドルが居り、
  卒業生に、辰野金吾(日本の建築のパイオニア)、曽
 禰達蔵、片山東熊(迎賓館設計者)、渡辺譲(初代帝国
 ホテル設計者)、高峰譲吉(タカヂアスターゼ)らがい
 る。、
1882年4月26日、産業教育の開始
  駒場農学校と商船学校以外の実業学校を、文部省所管
 と決定した。
  我が国の産業教育の開始は・・、
  「学制」では、中学や専門学校の条章の中で、産業技
 術に関する学校について規定はしていたものの、それは
 実施されなかった。
  工部大学校、札幌農学校、商法講習所など、近代技術
 導入を任務とした官省や民間において、産業教育の初歩
 が築かれた。
  1874年(明治7年)に、開成学校内に設置された製作学
 教場は、文部省による産業教育の嚆矢(こうし、物事の
 始まり)と言える。
  しかし、第二次教育令に農学校・商業学校・職工学校
 の規定が盛り込まれ、
  それ以来、文部省は、産業教育学校の制度化に着手し
 た。
  ところが、1881年(明治14年)、農商務省の発足に伴
 い「農工商ノ諸学校」を農商務・文部のいずれの省の管
 轄とするかが問題となった。
  当初、いったんは、農商務省の管轄に組み入れられた
 が、「全国ノ教育事務」を管轄する文部省の主張が入れ
 られて、
  1882年4月、農商務省職制が改正され、農商務省は、
 官立農学校と商船学校とだけを所管することになり、
  その他の農工商諸学校一般は、文部省の管轄に属する
 こととされた。
  この経緯と併行して、1881年8月、文部省は、東京職工
 学校(後の東京工業大学)を最初の独立した文部省直轄
 の産業教育学校として設置した。
  そして、1883年に、農学校通則が制定され、
  1884年に、商業学校通則が、それぞれ制定された。
1882年4月26日、酒屋会議
  この日に、大阪府知事は、開催予定日が近づいている
 酒屋会議の開催の禁止を告示した(4月27日説あり)。
  酒屋会議(さかやかいぎ)は、造酒税の引上げに対す
 る抗議として、酒造業者が起こした日本全国的な運動で、
  自由民権運動とも深く結びついていた。
  財政難の明治政府は、当時、生産額の最も多い、また、
 そのほとんどが国内消費されて、関税の問題もない日本
 酒に対する増税を、たびたび行っていた。
  1881年5月には、高知県の酒造業者300名が、政府に対
 し、造酒税の引下げを嘆願していた。
  そして、地元出身の自由民権運動の指導者の植木枝盛
 に助力を求めた。
  種々かかわりをお互いが持つ中で、1882年5月1日に、
 大阪で全国規模の酒屋会議を招集して、減税と営業の自
 由を求める運動を起こすための檄文を作成した。
  政府は、自由党をあまり刺激したくなかったため、植
 木枝盛に対しては不問としたが、
  酒造業者の5名に対して、不応為罪を適用し、禁錮刑と
 した。
  植木は、その後も会議の準備を続けた。
  4月27日に至り、大阪府知事と大阪府警は、会議の禁止
 を通達した。
  また、全国各地で、酒造業者による集会の禁止命令や、
 大阪に向かう会議代表団が逮捕される事態となった。
  しかし、植木は、「会議は禁止されても、代表に会う
 事までは禁じられていない」として、
  1882年5月4日に、淀川上の船上で、大阪入りができた
 代表と会合を持ち、
  また、1882年5月10日に、京都・祇園で、改めて2府15
 県の代表44名と会議を開催した。
  そして、先に、禁錮刑を受けた小原鉄臣を代表者とし
 て、「酒税軽減嘆願書」を起草し、政府に提出した。
  大阪酒屋会議事件(おおさかさかやかいぎじけん)と
 いう。
  財源のない政府も苦しい立場だった(だから、不平等
 条約の改正を早くしたい政府だった)。
  (参考)不応為条(ふおういじょう):法令に該当す
    る条文が無い場合、裁判官がその情理に基づいて
    処罰を認めた条文。
1882年4月28日、東京・上野の帝室博物館が落成
  コンドル設計の東京帝室博物館(現在の東京国立博物
 館・煉瓦造り)が竣工した。
1882年4月30日、神宮皇学館が伊勢神宮に設置された。
  伊勢神宮が、神官の研究・教育機関として、神宮皇学
 館を設立した。
1882年4月、奈良正倉院を、内務省から農商務省へ移管した。
1882年5月1日、太湖汽船が、大津~長浜間に鉄道連絡航路
 を開港した。
1882年5月3日、東京気象学会が設立された。
  後の、日本気象学会。
1882年5月3日、大阪紡績会社が設立された。
1882年5月4日、植木枝盛ら、前年予告していた酒屋会議に
 ついて協議した。
1882年5月10日、植木枝盛ら、酒屋会議を京都で開催した。
1882年5月12日、福島県会は、三島通庸県令の県内新道路
 (通称三方道路)の建設に反対し、地方税議案を否決
 (詳細は前記参照)。
1882年5月15日、富山県の氷見で大火。
1882年5月24日、富くじあ、再度、禁止となる。
  富くじの売買、再度禁止に、
1882年5月25日、東洋社会党の結成
  長崎県島原で、樽井藤吉らが集会し、東洋社会党党則
 を設定した。
1882年5月27日、医学校通則が制定された。
1882年5月29日、明治のコレラ・パンデミック
  東京市にコレラ患者が発生し、秋にかけて全国に伝染
 し、大流行した。
  5月29日に、東京芝・神田でコレラが発生し、流行が始
 まった。
  この東京のコレラ発生で、全国の死者数108,405人。
 1890年35,277人、1895年40,154人。
  日本中がパニック状態に陥った。
  この頃は、「虎列刺(コレラ)」等と言われ恐れられ
 た。
  また、この頃、恐れられた伝染病を「六大伝染病」と
 言い、コレラ、腸チフス、赤痢、ジフテリア、発疹チフ
 ス、痘瘡だった。
  1884年には、ドイツ人の細菌学者であるR. コッホによ
 ってコレラの病原菌が発見され、
  1897年に、コッホに師事した北里柴三郎によって、コ
 レラの血清療法が発見された。
  この功績により、死者数は大幅に減った。
1882年5月30日、東京大学文学部が、古典講習科を設置した。
1882年5月、人物写真、その人の許可なく販売することを
 禁止した。
1882年5月、大阪紡績会社が設立された。
1882年6月1日、 博笑戯墨(たわれごと)という漫画欄が、
 『読売新聞』に登場した。
1882年6月3日、「集会条例」の追加改正
  政治運動の取締りがさらに強化され、政治結社などに
 大打撃 。
  主な内容:政治演説会や政治結社は事前に警察署に届
 出て認可を受ける。
  また、会場立会の警察官には、集会の解散権を与える
 事など。
1882年6月3日、林子平、佐藤信淵の両氏に正五位を追贈
1882年6月3日、官営・広島紡績所を広島県に移管し、すぐ
 に広島綿糸紡績会社に払い下げられる。
1882年6月5日、嘉納治五郎が、東京下谷北稲荷町の永昌寺
 の書院を借りて、柔道場開設した(後の講道館のおこり)
  わずか12畳の道場と、初年の入門者9人から始まった。
1882年6月7日、警視庁に保安課が新設された。
1882年6月10日、集会条例改正で、学生・生徒の学術演説の
 禁止布告が、各県に通達された。
1882年6月15日、空知集治監が設置された。
1882年6月16日、統計局が、日本帝国統計年鑑の刊行を開始
 した。
1882年6月25日、東京馬車鉄道会社が、新橋~日本橋間で営
 業を開始した(車両総数:6両)
  後に、東京電車鉄道となる。
  人口125万の東京市唯一の市街鉄道、
  車は縦12呎、横9呎の大きさで、両端に乗降口があり、
 2頭のラバ(馬?)が引く馬車(定員は24~27人)。
  前方の乗降口には、洋風の制服を着用し、片手に手綱
 を、もう片方の手に鞭を持った御者が立った。
  そして、御者は、鈴を鳴らして接近を知らせた。
  うしろの乗降口には、肩からつり下げ腰につけた皮鞄
 をもつ車掌が立った。
  1882年7月21日、日本橋~本町角間が開通した。
  1882年10月1日に、日本橋~上野~浅草~本石町~日本
 橋の循環線が開通した(10月25日説あり)
  また、後に、線路は延長された。
  1899年6月19日、品川~新橋間の品川馬車鉄道会社を合
 併した。
  1900年10月、東京馬車鉄道会社が東京電車鉄道会社に
 改組した(1903年説あり)
  1903年8月22日、品川八ツ山~新橋間の5.6キロメート
 ルが電化した(40人乗り木造4輪単車の市内電車)
  1904年3月、総延長17.0キロメートルの旧馬車鉄道の路
 線が電化された。
  1906年9月11日、東京市街鉄道会社と東京電気鉄道会社
 とあわせて3社が合併し、東京鉄道会社に改称した。
1882年6月25日、東京・上野~高崎間の鉄道が開通した。
1882年6月25日、 「自由新聞」が、東京で創刊された。
  定価:1部3銭、発行部数:3000部、
  日刊の自由党機関紙で、
  国会開設に備え、自由党や改進党が、あいついで結成
 されると、それまでの多くの政論新聞は、政党の機関紙
 となった。
  板垣退助を総理とし、馬場辰猪、中江兆民、末広鉄腸、
 田口卯吉らを社説担当者にして、改進党系の『東京横浜
 毎日新聞』『郵便報知新聞』などと抗争した。
  社説担当が、間もなく古沢滋、植木枝盛らに代わった。
  格調の高い自由民権論で政府を批判すると同時に、改
 進党を偽党と攻撃、その撲滅を唱えた。
  しかし、板垣の洋行費の出所をめぐる党内紛議で、同
 年・1882年秋、田口、末広、馬場、ついで、中江が退社、
 古沢滋(しげる)が主幹となったが、政府の民党系紙弾圧
 などもあって紙勢は伸びず、
  1884年10月、自由党も解体したため、機関紙としての
 存在意義を失い、
  1885年3月15日、廃刊届を出した。
  1890年に、立憲自由党(1891年自由党に復称)の機関
 紙として再刊した。
..
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