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2015年2月24日火曜日

(増補版)28B:気になった事柄を集めた年表(1096年~1159年)

 題:(増補版)28B:気になった事柄を集めた年表(1096年~1159年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1098年、源義家が昇殿を許された。
  白河上皇が、院の昇殿を武士として初めて許した。
  義家は、新興の武士勢力の象徴とみなされていた。
  摂関時代が終わり、移り変わって行く時代。
1100年、クメール帝国(カンボジア):12世紀前半、ア
 ンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によってアンコ
 ール・ワットが建設された。
  建設に30年の歳月が費やされたという。
  孫のソター王が、ヒンドゥー寺院から仏教寺院へと改
 修し、仏像を安置した。
  14世紀には、アンコール王朝は衰退した。
  以後、19世紀半ばまで、密林の中で、誰にみられるこ
 ともなくひっそりと眠りについてしまった。
1100年、中国の製紙法がフランスに12世紀に伝わった。
1100年、アイスランド:12世紀~13世紀に、アイスラン
 ド語による薫り高い民族伝承文学「エッダ」や「サガ」
 が残された。
  エッダ詩は、古代ゲルマン民族の神話や、英雄伝説を
 題材にしているのに対し、
  サガは、ノルウェーやアイスランドで起きた出来事を
 題材にしている。
1100年代(12世紀)、進み、優れていたイスラム世界と、
 遅れていたヨーロッパ社会。
  ヨーロッパ社会に、イスラム世界から最先端の科学が、
 そして、ギリシャからは、古代ギリシャの哲学などがも
 たらされた。(12世紀ルネサンスがあったという研究者
 もいる)。
  ヨーロッパ社会は、それらの恩恵に浴して、この時代
 以後(14世紀)に、ルネサンスと呼ばれる知的高揚が
 あった。キリスト教による暗黒世界からの脱出。人間賛
 歌と復興。
1103年、鳥羽上皇が生まれた(1103年~1156年)
1104年、源頼政が生まれた(1104年~1180年)
1106年、源義家が没した(1039年~1106年)
1106年、京都に田楽が流行した。
1107年、鳥羽天皇(在位、1107年~1123年)
1108年、平忠盛が源義親を殺した。
1108年、延暦寺の僧徒が日吉神輿を奉じて入京しようと
 する。源平両氏はこれを防いだ。
1108年、新立荘園の停止を命令した。
1110年、12世紀前半、江戸四郎重継が、武蔵国に進出し、
  「江戸館」を築いた(江戸城の歴史)。
  現在の江戸城本丸の場所に築いたという。
  『吾妻鏡』には1180年8月26日と記されている。
1118年、西行が生まれた(1118年~1190年)
1118年、平清盛が生まれた(1118年~1181年)。
  忠盛の子。幼少の安徳天皇を擁立して権勢を強めたが、
 1180年の源氏の挙兵により、福原遷都を企て失敗した。
  最盛期には一門の公卿16人、殿上人30余人と言われた。
  武士でありながら、貴族化したため反発が強かった。
  それが、反平氏気運の起こる原因と言われている。
1120年、藤原頼長が生まれた(1120年~1156年)
1123年、崇徳天皇(在位、1123年~1141年)
1123年、源義朝が生まれた(1123年~1160年)
1124年、中尊寺金色堂が出来た。地方に文化が広がった。
1126年11月、金(女真族、後の満州族)によって宋(北
 宋)が滅亡した。靖康の変(せいこうのへん)。
  宋は建国した金に、一緒に「遼」を挟撃し、滅亡させ
 ようと持ち掛けたりした。
  金はこれに応じ、大軍を送ったが、宋は誠実な戦い方
 をしなかった。
  宋は、金と遼が弱体化すればよいと考えての消極策だ
 った。
  金は約束違反を責め、宋は歳幣(銀や絹)を上積みし
 てこの場をしのいだ。
  しかし、約束の歳幣を支払わなかった。
  逆に、金の内紛を助長して金の弱体化をしようとした。
  金(北方異民族)は、軍を南下させ、宋へ侵入させた。
  金は、宋の皇帝・皇族・官僚を捕らえ満州へ連行した
 (北宋の滅亡)。
  また、金は、宋室の皇女たちも連行し、金の皇帝・皇
 族たちの妾とした。また、官設妓楼の「洗衣院」に入れ、
 娼婦とした。
  北宋では疲弊した農民の反乱も相次いでいた。
  一方、北宋の皇帝の弟たち・宋の一族は、南に逃げ、
 臨安(杭州)に都を移した。以後を南宋という。
  南宋によって江南地方の開発が進んだ。
  朱子学:宋王朝が文治主義をとったため、知識人の意
 識が高まった。
  南宋の朱子は、それまでの儒学の字句解釈中心の訓詁
 学(くんこがく)を批判し、太極という宇宙の原理を考
 え、そこから生じる気が集まって物質ができ、物質には
 理(ものの本質)が宿るとした。
  その理を探求する事によって、自然や人間の本質に迫
 り、個人、家、国家、天下を治めようとする。
  総合的な思想に発展させたが、そこには仏教や道教の
 影響があった。
  朱子学は、日本や朝鮮にも大きな影響を与えた。
1127年、後白河上皇が生まれた(1127年~1192年)
1128年、藤原清衡(きよひら)が没した(1056年~
 1128年)
1129年、白河上皇が没した(1053年1129年)
1129年、鳥羽上皇(在位、1129年~1156年)
1129年、この頃、院司と朝臣との争いが起きた。
1130年、朱子が生まれた(1130年~1200年)
1132年、平忠盛が内昇殿を許された。
  この当時としては破格の待遇だった。
  「平家物語」には、武士である忠盛が殿上人になった
 ことを憎んだ公卿たちによる闇討ちが企てられるが、忠
 盛は、銀箔の木刀によって公卿たちを脅す機転によって
 防いでいる。
1133年、法然が生まれた(1133年~1212年)、43歳の時、
 浄土宗を開いた。
1137年、平重盛が生まれた(1137年~1179年)
1138年、北条時政が生まれた(1138年~1215年)
1140年、鳥羽僧正が没した(1053年~1140年)
1141年、近衛天皇(在位、1141年~1155年)
1141年、栄西が生まれた(1141年~1215年)、51歳の時、
 臨済宗を開く。
1147年、源頼朝が生まれた(1147年~1199年)
1149年、京都醍醐寺の散所者(大道芸人など)、正月に門
 前に訪れ、千秋万歳(初春の祝福芸で、宮中をはじめ諸
 寺・諸家を回ってことぼぎをして舞い、祝儀をもらう、
 平安期に起こった)を行う。
1150年、この頃、アンコール=ワットが建設された。
1150年、欧州における最初の紙の製造。
  スペインに侵入していたムーア人(アフリカ北西部に
 住み、イスラム教徒でアラビア語を話す人々)が、トレ
 ド、バレンシア地方に製紙工場を建てた。
1151年、運慶が生まれた(1151年頃~1223年)
1153年、平忠盛が没した(1096年~1153年)
1154年、源義仲が生まれた(1154年~1184年)
1154年、日本が初めて表されたイドリースィー(アラブ人
 の地図学者・地理学者でもあり、史上初めて正確な世界
 地図を作製した、1099年?~1165年?)の世界図が作
 られた。
  彼は、「イドリースィー」というクンヤ(出身名)が
 示す事から、マグリブの地方政権であったイドリース朝
 の末裔の一人で、預言者・ムハンマドの子孫という。
1155年、藤原泰衡(やすひら、1155年~1189年)が生まれた。
1155年、後白河天皇(在位、1155年~1158年)
1156年、藤原頼長が没した(1120年~1156年)
1156年、伊賀黒田荘での争論に、シカ・サルなどの獣害
 対策を名目とした人の居住が見える。
1156年、保元の乱が起こった。
  天皇方:平清盛・源義朝(1123年~1160年)、
  院方:源為義(1096年~1156年)・源為朝(1139年
 ~1177年)・平忠正、
  院方が敗れ、源為義・平忠正は斬られ、源為朝は伊豆
 大島に流罪になった。
1156年、新制七条を諸国に下した。
  新制(しんせい)とは、天皇・上皇の勅旨に基づいて
 制定された成文法典のこと。
  保元の乱の処分の結果を諸国へ知らしている。
1157年、北条政子が生まれた(1157年~1225年)
1158年、後白河上皇(院政、1158年~1185年)
1158年、二条天皇(在位、1158年~1165年)
1158年、源頼朝が初めて官職を得る。
  この当時、父・為朝は後白河院の寵臣で、野心家であ
 った藤原信頼の門に出入りが多くなっていた。
1159年、源義経(牛若丸)が生まれた(1159年~1189年)
1159年、平治の乱が起こった。
  藤原信頼・源良義朝が、清盛の熊野詣の挙をついて挙
 兵した。
  院を幽閉し、信西を追って権力を握ろうとした。
  藤原信頼は、信西を倒すと、勝手に除目(じもく、平
 安時代以降の大臣以外の諸官職を任命する朝廷の儀式)
 を行い、自らは近衛大将となり、義朝を播磨守とし、頼
 朝を右兵衛佐(うひょうのすけ)とした。
  信頼は、信西打倒の時の挙兵に同調させた大炊御門経
 宗(おおいみかどつねむね)・藤原惟方(これかた)な
 どには、この臨時除目の恩恵にあずからせなかったから、
 直ぐに寝返って、清盛側に内通した。
  清盛方の勢力は、義朝方に比べて遙かに強大であった。
  事件を知って熊野路から取って返した清盛は、天皇・
 院を救い出し、重盛・頼盛などに内裏(だいり)を攻め
 させ、信頼を六条河原に破って、これを斬った。
  平氏の拠点・六波羅を攻めた義朝も、敗れて、関東に
 走る途中、尾張の国で長田忠致(おさだただむね)に殺
 された。
  13歳の頼朝も初陣をつとめ、敗れて父・義朝とともに
 東走した。
  しかし、途中、関ケ原の雪深い山中で、父達の一行に
 遅れたところを、平清盛の家人・弥平兵衛宗清(やへい
 ひょうえむねきよ)に捕らえられて、京都に護送された。
  当然、殺される運命にあった頼朝は、頼盛の母で継母
 に当たる池禅尼(いけのぜんい)や頼盛の懇請によって
 助命された。
  頼朝の兄・義平は、この戦いに加わったが、東国に脱
 出する事に失敗し、京都に戻って清盛を狙ったが、捕ら
 えられて斬られた。
  また、頼朝の兄・朝長は、父・為朝とともに東走の途
 中、戦傷のため行を共にしえなくなって自決した。
  武士の世が始まった。
..
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2015年2月23日月曜日

(増補版)27B:気になった事柄を集めた年表(1054年~1096年)

 題:(増補版)27B:気になった事柄を集めた年表(1054年~1096年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1055年、セルジュク軍がバクダッドに入城した。
1056年、藤原清衡(きよひら)が生まれた(1056年~
 1128年)
1062年、源頼義(988年~1075年、1051年から安倍氏と
 戦う)・清原武則(不詳~不詳、出羽の豪族)等が、厨
 川柵(くりやがわのさく、盛岡市付近にあった安倍氏が
 築いた柵)に安倍貞任(安倍頼時の第2子、厨川柵主)を
 殺し、弟の安倍宗任(あべむねとう、安倍頼時の子)を
 降ろした(これより源氏の基盤固まる)。
1066年、イングランドが、ノルマン人(ゲルマン人の一種)
 に征服された。
  ノルマンディー公ウィリアム(キヨーム2世、1027年
 ~1087年)が、イングランドに侵入し、(イギリスを)
 征服し(ヘースチングスの戦い)、ノルマン朝を成立さ
 せた。現在のイギリス王室の開祖となった。
  イギリスは、国を開いてから950年弱、1000年にも満
 たない。
  キヨーム2世は、1066年12月、ウェストミンスター寺
 院でイングランド王ウィリアム1世として戴冠した。
1068年、後三条天皇(在位、1068年~1072年)
1068年、藤原教通(関白在位、1068年~1075年)
1069年、再び、寛徳2年以後、新立荘園を停止させた。
1069年、初めて、記録荘園券契所(荘園調査機関)をおい
 た。業務は、不正荘園の調査・摘発、書類不備の荘園の
 没収など。
  この頃になると、摂政関白への寄進地系荘園集中が進
 んだ。1069年の後三条天皇による「記録荘園契約所」の
 設置と荘園整理(延久の荘園整理令)は、藤原頼道の反
 対で目的を十分には達しなかった。
1070年頃、この頃、「大鏡」や「今昔物語集」が書かれた。
1072年、白河天皇(在位、1072年~1086年)
1072年、ノルマン人による南イタリアの征服。
  南イタリアとシチリアが、ノルマン人に征服された。
  ノルマン人(ゲルマン人の一種)が、傭兵として南イ
 タリアで働き始めた11世紀前半から12世紀前半に至る
 100年近い期間に及び、そこには、多くの戦いと、独立し
 た複数のノルマン人勢力による幾多の『領地獲得行為
 (征服)』が含まれていた。
  そして、それらの行き着いた過程の中に、数年の戦い
 の後に達成された1066年のイングランド征服、
  そして、数十年となったが南イタリア征服など。
  ゲルマン人の大移動に始まるこのヨーロッパの大変化
 は、戦いの後の各地の征服となった。
  この姿が、ヨーロッパの基礎である。
  「壁の向こうには異教徒の敵がいる」という世界であ
 る、そして、信仰は、キリスト教の「異教徒は殺せ」の
 教義で、異教徒に決して馴染(なじ)むなと説く教えで
 ある。
1073年、院の蔵人所(くろうどどころ)を置いた。
  蔵人所は、天皇と天皇家に関する私的な要件の処理や、
 宮中の物資の調達や、警備などをつかさどった。
1074年、藤原頼道が没した(990年~1074年)
1075年、藤原師実(関白在位、1075年~1086年)
1077年、疱瘡が流行した。
1077年、ハインリッヒ4世がキリスト教教皇に敗北する。
  キリスト教が強大な力を誇示する世となった。
  世俗の王(ドイツ王で神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世)
 が、宗教のキリスト教の教皇(グレゴリウス7世)に敗北
 し、謝罪せざるを得ないという事件が起きた。
  キリスト教会が破門を行うという行為が絶大な権力誇
 示の行為となっていた。
  叙任権(任命権)を世俗王がキリスト教に奪われた(
 カノッサの屈辱)。
  現在でも、「カノッサの屈辱」の語は、「強制されて
 屈服、謝罪すること」の慣用句として用いられている。
1079年、堀河天皇が生まれた(1079年~1107年)
1083年~1087年、後三年の役が起こった。
  奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦い。
  前9年の役で、陸奥国の安倍氏が滅んだが、この時に、
 参戦し、国司側に付き、国司側勝利の原動力になったの
 が出羽国の清原氏だった。
  こうして奥羽に力を伸ばした清原氏に内紛が勃発。
  そこへ陸奥守として赴任した源義家が介入。
  藤原清衡を助けて反乱者の清原家衡・武衡を滅ぼした。
  源氏は東国に基盤を築いた。
1083年、富士山が噴火した。
  延暦寺の僧が記した「扶桑略記(ふそうりゃっき)」
 に記録されている。
1086年、堀川天皇(在位、1086年~1107年)
1086年、藤原師実(摂政・関白在位、1086年~1094年)
1086年、白河上皇(1086年~1129年)が院政を始めた。
  幼帝の補佐のために院政が出現した。
  引き続いて、摂政関白が置かれていたが、次第に、名
 目上の存在となって行った。
1091年、源義家への荘園寄進を禁止した。
1092年、源義家の荘園設立を禁止した。
1094年、初めて、院の北面の武士を置いた。
  院の親衛隊と言える。
  摂関家が、源氏と結んで武士的な力を高めて来たのに
 対抗した形。
  伊勢平氏を取立て、平正盛を任命した。
  平正盛は、源義親を出雲に追討して武名を高めていた。
  また、源義家は、後三年の役ののち、名声が高まり、
 諸国の百姓らの寄進が義家に集中するようになっていた。
  そして、貴族の様な荘園領主化する動きが出て来るこ
 とが恐れられた。
1095年、堀河天皇による嵯峨野の虫取りが伝えられる。
  鳴く虫の愛玩が宮廷にみられる。
1096年、平忠盛が生まれた(1096年~1153年)
1096年12月、第1回十字軍が各地から出発した。
  十字軍に参加すると、完全に免罪がなされるという「
 完全免罪」が与えられるとされた。
  キリスト教は生まれた時から原罪があるとされるが、
 その原罪どころか、人間は日々の生活で罪を犯している、
 その罪をも完全に免罪されるとされた。
  そして、死後の天国行きが確実だとされた。
  自分の利益だけにとらわれたキリスト教だった。
  当然、これまでの悪行は、すべて帳消しとなると、キ
 リスト教聖職者は説いた。
  また、十字軍に出立するとき、財産のすべてを、キリ
 スト教会に預けさせた。
  出立した兵士が戦死とか、色々な理由で帰って来ない
 とき、その財産をキリスト教会は、自分のものとした。
  そして、ただの烏合の衆にならない様にとの規則があ
 ったが機能しなかった。
  また、出立したら、絶対、帰るなとされたが、途中か
 ら帰る者が居て、キリスト教会は、その者を破門にした。
  また、十字軍は、当時、不満がたまっていた相続権の
 ない次男・三男対策のために計画されたという経緯があ
 る(ガス抜き)。
  1096年から1270年までに7回行われ、結果は失敗であ
 った。
  教皇権が失墜し、イスラム文化の流入などをもたら
 したが、中世社会の崩壊を導く一大契機となった。
  十字軍の異端撲滅のキリスト教世界の教義・考え方は、
 世界の戦争体質を拡大した。
..
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(増補版)26B:気になった事柄を集めた年表(935年~1054年)

 題:(増補版)26B:気になった事柄を集めた年表(935年~1054年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
935年、811年から新羅が滅亡する935年までの間、度々、
 新羅の賊が日本各地を侵した。
990年5月、藤原道隆(関白在位、990年5月、関白次いで
  摂政となった。993年4月22日再び関白となる。995年
  4月3日、関白を辞し、藤原伊周の関白就任を再度騒擾
 (そうじょう、さわいだ)したがかなわなかった。4月6
 日、出家し、4月10日、没した。
992年、藤原頼道が生まれた(992年?~1074年)
995年、藤原道隆が没した(953年~995年)。
  疫病が流行して藤原道隆・藤原通兼が没し、藤原道長
 が内覧右大臣になり政治の実権を握った。
  内覧(ないらん)とは、天皇陛下に奏上する文書を、
 摂政・関白、または、宣旨を受けた大臣が前もって読ん
 で処置する事、または、その令外官の役職。
10世紀末頃、この頃、清少納言「枕草子」、紫式部「源氏
 物語」が書かれた。
996年、藤原道長(内覧在位、996年~1016年)
996年、藤原教通(のりみち、藤原頼道の弟)が生まれた
 (996年~1075年)
996年、藤原氏の権力争奪。摂関の就任についての藤原氏
 どうしの争いで、道長・伊周(これちか、973年~1010
 年)の叔父甥間で展開された争いは有名で、この結果、
 兼家・道長の家系が、以後、摂関就任の家系として定着
 していった。
997年、長徳の入寇。
  長徳3年(997年)高麗人の賊が、対馬、肥前、壱岐、
 肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。
  民家が焼かれ、財産を奪われ、男女300人がさらわれ
 た。これは、南蛮の入寇とも言われている。
998年、赤疱瘡(あかもがさ)が流行した。
  症状から「はしか」とされている。
  江戸時代にも、はしかは、度々、大流行を繰り返し、
 天然痘より死亡率が高かった。
  「はしかは命定め」と言われた。
11世紀頃、11世紀頃から(聖徳)太子信仰が大きく広がっ
 た。
11世紀、ヴェネティアが独立国になった。
  東ローマ帝国の初代皇帝のアレクシオス1世コムネノ
 スから金印勅書を獲得して、独立を果たした。
  金印勅書とは、皇帝の命令が記されていて、黄金製の
 印象が付された公文書の事。
  1096年から始まったキリスト教の十字軍がもたらす収
 奪品などの売買で莫大な利益を得て発展した。
1000年代(11世紀)、使徒ヤコブの墓の上に、サンティ
 アゴ・デ・コンポステラが建てられて、巡礼が始まった。
  エルサレムがトルコに占領され、聖地巡礼が危険にな
 ったため。
11世紀頃、バイキング:11世紀頃には北米大陸に達したと
 される。コロンブスより早い。
  最初のアメリカ大陸発見はコロンブスではない。
11世紀頃、ビルマ(ミャンマー):9世紀頃から、中国南部
 より南下した民族か、11世紀に最初のビルマ王朝である
 バガン朝を樹立した。
  その壮大な仏教遺跡は今日もなお残存している。
11世紀頃、イースター島に、約1000体のモアイ像という
 巨大石像がある。
  大きい物は20メートルにもなる。
  これらが作られたのは、紀元1000年頃から数百年間と
 考えられ、
  ポリネシア人は紀元400年~500年頃に渡って来た事が
 ほぼ認められている。
11世紀頃、キリスト教の世界終末思想。ローマの巡礼。
11世紀頃、ローマ法:11世紀(1070年頃、フレンツェ写
 本が再発見された)以後、ボローニャ大学の法学研究で
 復活し、ヨーロッパ諸国の近代法の基礎となった。
11世紀頃、スルタン:11世紀以後、主としてスンナ派イス
 ラム王朝の君主が用いた称号。
  セルジューク朝、マムルーク朝、オスマン朝などが有
 名である。
  多くの場合、スンナ派イスラム世界の精神的な首長で
 あるアッパース朝カリフから、特定地域における世俗的
 な政治権力を委任されるという形式を踏んで、この称号
 が授けられた。
  東南アジアやアフリカでも用いられたが、現代では、
 アラビア半島オマーンの君主が用いている。
11世紀頃、トルコ民族:11世紀のセルジューク朝、次いで、
 オスマン朝など、トルコ民族がイスラム教の主要な担い
 手となった。
  現在、トルコ共和国、トルクメニスタン共和国、ウズ
 ベキスタン共和国、中国の新疆ウイグル自治区などの政
 治体がある。
11世紀頃、北欧の叙事文学「サガ」をひもとくと、11世紀
 に、北欧のバイキングがアメリカ大陸に足を踏み入れて
 いたと記されている。
  バイキング説は19世紀に立証された。
  サガとは、中世の散文物語群の総称で、アイスランド
 で成立し、ノルマン人の植民前後からの史実や英雄伝説
 を年代記風に記している。
1008年、後一条天皇が生まれた(1008年~1036年、68代)
1008年~1009年、エルサレムの聖墳墓教会が、エジプト
 のイスラム教徒に破壊された。
1009年、後朱雀天皇が生まれた(1009年~1045年)
1011年、三条天皇(在位、1011年~1016年)
1011年、冷泉天皇が崩御した(950年~1011年)
1011年、一条天皇が崩御した(980年~1011年)
1014年頃、この頃、紫式部が死んだ(45歳?)。
  源氏物語を書き始め、才能と学識を認められた紫式部
 は、権力者の藤原道長の懇望に応じて愛娘の家庭教師に
 なった。
  それが、どんな意味を持つか、彼女は察知していたが、
 案の定、道長が、ある夜、部屋の戸を叩いた。
  紫式部日記には「恐ろしさに戸を開けなかった」とあ
 る。「女性が厭わしさではなく、恐ろしさにというとき
 は、後日、自室に招じ入れたはずだ」と、研究者は言う。
  いずれにせよ、この夜の出来事は、道長が、長和5年
 (1116年)1月29日、摂政になる以前の事という。
1016年、後一条天皇(在位、1016年~1036年)
1016年、鴨の河原に住みついていた河原人が死牛の処理に
 したがっていた。
1016年1月、藤原道長が摂政になった(摂政在位、1016年
 ~1017年)
1017年、三条天皇が崩御した(976年~1017年)
1017年、藤原頼道(摂政在位、1017年~1019年)
1017年、藤原道長が太政大臣となった(1017年~1018年)
1019年、藤原頼道が関白となった(関白在位、1019年~
 1067年)、藤原氏の全盛時代。
1022年、藤原道長が法成寺金堂五大堂を建てた。
1022年、平安時代後期に活躍した仏師の定朝(じょうちょ
 う)が、法成寺金堂の造仏の功績により、仏師として初
 めて、法橋に叙せられた。
1025年、後冷泉天皇が生まれた(1025年~1068年)
1027年、藤原道長が没した(966年~1027年)
1028年、平忠常(たいらのただつね)の乱が起こった。
  房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた。
  忠常は、広大な所領を持っていて、傍若無人に振る舞
 い、国司の命令にも服さなかった。
  また、納税の義務も果たさなかった。
  中央の国と、地方の有力豪族のいざこざは、これ以外
 にもあるという世になって来ていた。
  在地豪族と、国衙(こくが、律令制で、国司が政務を
 執った役所)との対立。
1032年、富士山が噴火した。
1034年、後三条天皇が生まれた(1034年~1073年)
1036年、後朱雀天皇(在位、1036年~1045年)
1036年、後一条天皇が崩御した(1008年~1036年)
1036年、セルジュク=トルコが起こった。(~1308年)
  セルジューク朝は、11世紀から12世紀にかけて、現在
 のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在した
 イスラム王朝。
  現在のイスラエル(カナンの地)も含まれる。
1038年、西夏が起こった。(~1227年)
  李元昊が皇帝だと主張した。
  モンゴルとチベットの中間に建国された騎馬民族の国
 家。
  寧夏に首都をおき、東西交易の実権を掌握して栄えた。
  宋や周辺の国々を侵略し、独自の官制を整え、西夏文
 字を作った。
  モンゴル帝国のジンギス・カンによって滅ぼされた。
1039年、源義家が生まれた(1039年~1106年)
1041年、大江匡房(まさふさ)が生まれた(1041年~
 1111年)
1045年、後冷泉天皇(在位、1045年~1068年)
1045年、寛徳の荘園整理(停止)令(前任の国司の以後の
 新立荘園を禁止した)。
  しかし、実効性が乏しかったので、令は何度も発布さ
 れる。
1050年頃、この頃、旅行に握り飯の利用が始まった。
1051年、前九年の役が起こった。
  奥州(東北地方)を舞台とした戦い。
  陸奥の国の有力豪族の安倍氏は、柵(城砦)を築き、
 半独立的な勢力を形成していた。
  11世紀半ば、朝廷への貢租を怠る状態になったため、
 討伐軍が組織され、戦いとなった。
  安倍氏は圧勝した。
  朝廷は、新たな陸奥守を選任し事態収拾を図った。
  しかし、ある事件をきっかけに再び朝廷と阿部氏は、
 戦闘状態に入った。
  一進一退の状況が続く、色々変遷があったが、1062年、
 阿部氏は滅亡した。
1052年、仏陀滅後2000年の年。末法の初年という(末法
 思想)。
1052年、藤原頼道が平等院を建てた。
1053年、白河天皇が生まれた(1053年~1129年)
1053年、鳥羽僧正が生まれた(1053年~1140年)
1053年、藤原頼道が宇治に平等院鳳凰堂を建てた。
1054年、キリスト教の東西教会の分裂。
  ギリシャ正教会(ビザンチン帝国)と、ローマカトリ
 ック教会とが分裂した。
  分裂の遠因として、東西両教会の交流が薄くなり、数
 百年に及ぶと教義の解釈が違ってきた。
  教皇権に対する考え方の違いや、司祭の妻帯が良いの
 かどうかの違い、典礼(奉神礼)の形式の違い、キリス
 ト教としては基本で重要なニカイヤ信条の解釈の違い、
 聖像破壊運動・悪習打破運動の軋轢などなど、色々な問
 題の存在がそこにあった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2015年2月22日日曜日

(増補版)25A:気になった事柄を集めた年表(938年~990年)

 題:(増補版)25A:気になった事柄を集めた年表(938年~990年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
939年、最初の武士の反乱が、平将門の天慶の乱である。
  この後、武士が、公的な制度として、国家に組み込ま
 れていく。
  源平の両氏の繁栄の起源となった。
939年、この頃、班田は全く行われず、荘園がますます増
 大した。
  口分田の収公(しゅうこう、領地などを官府がとりあ
 げること)が無くなった。
940年、衣服の日本化が進行した。
945年、藤原忠平(関白在位、945年~950年)
945年頃、紀貫之が没した(866年頃~945年頃)
945年頃、天慶の乱以降、武士が公に認められた。
946年、村上天皇(在位 946年~967年)
946年、藤原氏の権力争奪。村上天皇には、多数の女御や
 更衣が侍していた。
  その中で第一皇子・広平親王を産んだのは、藤原南家
 の出身で民部卿・元方(もとかた)の娘の祐姫(すけひ
 め)であった。
  当時は、藤原北家の有力者が祖父でないと天皇になれ
 る事は困難であった。
  この時、南家方は、広平親王が皇太子になることを期
 待し、熱望もしていた。
  しかし950年、北家に皇子が産まれ、誕生の3か月後に
 皇太子になってしまった。
950年、冷泉天皇が生まれた(れいぜいてんのう、950年~
 1011年)
950年、藤原氏の権力争奪。右大臣・藤原師輔(もろすけ、
 908年~960年、北家)の娘・安子(あんし、927年~
 964年)が、村上天皇の第二皇子・憲平親王(のりひら
 しんのう)を産んだ。
  誕生の3か月後に皇太子と定められ、後の冷泉天皇と
 なった。藤原元方(南家)は失意のあまり没した。
950年、この頃(10世紀)、アル・ハゼン(アラビア)が
 薄明の観測からの大気の上限を推測した。
950年、アッパース朝:10世紀半ばには、軍人が政治的・
 経済的・社会的に他の階層を圧倒するに至り、西アジア
 に軍事的支配体制が確立していった。
951年、初めて、和歌所をおいた。
  和歌所とは、勅撰和歌集の撰述(せんじゅつ、書物を
 あらわす事)などを行うために、宮中に設置された役所。
  村上天皇が、梨壺に設置し、藤原伊尹(これただ)を
 別当(長官)に、源順(したごう)など5人を寄人(よ
 りうど)として、万葉集の訓読や後撰和歌集の撰進(せ
 んしん、詩歌・書物を編集して天皇などに奉ること)を
 行った。
953年、藤原道隆が生まれた(953年~995年)
959年、紫宸殿の前庭に橘を植えた(右近橘)
960年、藤原師輔が没した(もろすけ、908年~960年)
960年、この頃、国司の遙任(ようにん、国司が任地へ赴
 任しなかったこと)が盛んになり地方荘園化が進行した。
  荘園の権門への集中が起きた。
960年、中国・宋が建国された。
  趙匡胤が、五代時代最後の後周から禅譲を受けて建国
 し、中国が統一された。960年~1297年。
  唐朝は、黄巣の乱(こうそうのらん)をきっかけにし
 て滅び(907年)、五代十国という混乱期に入っていた。
  この時期は、地方文化が活性化し、次の宋朝統一の準
 備となった。
  宋は、開封に都し、文治主義を進め、文化的中央集権
 的な国を作った。
960年、中国の4大発明;北宋時代、世界に先駆け中国で
 は火薬、羅針盤、活版印刷という3つの画期的発明があ
 った。
  これ等は、イスラム文明経由で、ヨーロッパに伝えら
 れ、以後のヨーロッパの世界的発展に大きな影響を与え
 た。
  後漢時代の蔡倫による紙の発明を含めて、中国の4大
 発明と呼んでいる。
962年2月、神聖ローマ帝国:東フランク王・オットー1世
 (オットー大帝)の戴冠で成立した。
  ドイツ人による西ローマ帝国である。再興である。
  神聖ローマ帝国の基をひらく。
  キリスト教国を異教徒マジャルの禍から救った聖なる
 戦士だとして称(たた)えられている。
  この帝は、キリスト教の布教を口実にして他国を侵略
 するような帝だった。その帝に、962年2月に皇帝の冠
 が授けられた。
10世紀末以降、平安時代の中期以降、「古代都市」が形成
 され、都市としての独自の自立性を見せて行った。
966年、藤原道長が生まれた(966年~1027年)
967年、冷泉天皇(在位 967年~969年)
967年、藤原実頼(さねより、関白在位、967年~969年)
967年、村上天皇に次いで冷泉天皇が即位すると、藤原実
 頼が関白に就任するが、以後、歴代摂政または関白が、
 常に設けられるようになり、摂関政治の時代に入る。
  摂政や関白に就任したものは、藤原氏の氏長者(氏神
 春日神社の祭紀など)も兼ねたから、権勢と富とを一手
 に握ることになり、一族兄弟間に激しい競争が行われた。
968年、ベトナム:968年に丁朝(ていちょう)が、中国
 から独立し、以後、多くのベトナム人の政権が続く。
 968年~980年、
969年、円融天皇(在位、969年~984年)
969年、藤原実頼(摂政在位、969年~970年)
969年、この頃、紫式部が生まれている(1014年に45歳
 で没したらしいという史料から推定)
969年、安和の変が起きた。
  醍醐天皇の皇子である源氏姓を賜った左大臣・源高明
 (たかあきら、914年~982年)が、その娘婿・為平親
 王の擁立の陰謀があるとして、太宰員外師に左遷された
 (~971年まで)。
  左遷させたのは藤原実頼と源満仲である。
  藤原氏における摂政と関白の常置の体制ができ、藤原
 氏の地位が確立した。
  この変の後、円融天皇が即位した。
  摂関政治で藤原北家が政権を独占した。
970年、藤原伊尹(摂政在位、970年~972年)
972年、藤原兼通(関白在位、972年~977年)
972年、藤原氏の権力争奪。摂関就任の家系が、北家の基
 経・忠平の家系の独占に落ち着いてくると、同じ家系の
 中で兄弟あるいは叔父甥間で激烈な争奪が繰り返される
 ようになった。
  中でも兼道(かねみち、925年~977年)・兼家(929
 年~990年)兄弟の間で展開された争いが有名である。
974年、尾張の百姓の訴えにより国司を交替した。
976年、三条天皇が生まれた(976年~1017年)
977年、藤原頼忠(関白在位、977年~986年)
978年、藤原兼家の東三条殿が成った(寝殿造り)。
979年、宋が中国を統一した(集権的君主独裁)。禅譲を
 受けたのが960年。ほぼ統一したのが979年。
980年、一条天皇が生まれた(980年~1011年)
980年、浄土教が広まった(空也、源信)
980年、この頃、枕草子が出来た。
984年、花山天皇(在位、984年~986年)
984年、「一切世俗銭を用いず」の記述あり、世間、銭を
 嫌うこと甚だしい・・とある。
984年、再び荘園整理令を下した。
  荘園整理は、平安時代の政府の眼目で、
  整理令は、902年(延喜の主演整理令)、984年、
 1045年、1055年と、「延久の整理令」までに4回出さ
 れた。
  この令は、不正手段に基づく非合法な荘園を禁止する
 もの。
986年、一条天皇が即位した(在位、986年~1011年)
986年、藤原兼家(摂政在位、986年~990年)
987年、諸寺に銭貨の流通を祈った。
  検非違使をして銭貨通用の強制させた。
  検非違使は、初め、京都の犯罪・風俗の取り締まりな
 ど警察業務を担当し、後に訴訟・裁判も扱い、強大な権
 力を持った。
  平安時代の後期には諸国にも置かれた。
988年、尾張の郡司・百姓らが、国守・藤原元命の非政を
 訴えた。
990年、藤原頼道が生まれた(990年~1074年)
990年、藤原道隆(ふじわらのみちたか、摂政・関白在位、
 990年~995年)
10世紀末(914年~1492年)、イスラムのイベリア半島
 の後退。キリスト教徒が、イベリア半島のスペイン北部
 を占領した。
  レコンキスタという国土回復運動の戦いを、イスラム
 教徒に対し行った。
10世紀頃までに、律令制度は崩れ、崩壊の過程をたどった。
  問題は、格差の拡大だった。
  格差の拡大過程が進んだのである。
  家族構成が小さい農民の場合、労働力が小さく、労働
 力不足の農民には、制度が活用できなかった。
  税負担に耐えられない階層が生まれた。
  この様な階層の人たちは、縁者を頼ったり、大家族に
 身を寄せたりした。
  大規模家族は、その労働力を使った墾田開発で、より
 大きくなって行くという過程をたどった。
  その結果、大土地経営者が出現し、家長の権力も強く
 なって行った。
  領主の成長である。
  墾田永世私財法によって、自らの持つ労働力と、権力
 を使って、土地を開墾した。
  ますます、大きな私営田領主となって行った。
  こうして、地方には、広大な所領を拡大する地主が、
 10世紀頃までに数多く出現した。
  だが、11世紀以来、急速に、これらの大土地所有者が、
 没落するという新しい現象が生まれた。
  それは、税負担の軽重だった。
  貴族などの有力権門家は、その社会的地位を利用して、
 自分の所領の「税金免除」を受けていた。
  その様な事の出来ない者は、大土地所有者といえども、
 税負担に耐えていた。
  中央に連なる権門家の荘園では、税や労働の免除が広
 く行われた。
  農民は、大土地所有者に寄生していても、国司への税
 と、領主への税との二重の収奪を受けた。
  当然、税の免れる事が出来る権門家の荘園の方へ逃げ
 出した。
  農民が逃げ出された大土地所有者も、農民を呼び戻さ
 なければやって行けない。
  その為には、二重の税負担を取り除かねばならない。
  そこで、中央から派遣されてきた国司と政治折衝をし
 なければならない。
  この政治折衝が合法的にできるのが、中央の権門家だ
 けだった。
  こうして、11世紀以来、私営田領主が、権利の一部を
 保留して、所領の名義を権門家に寄進する行為が起きた。
  権門家を本所(ほんじょ)と仰(あお)ぐ荘園が数多
 く現れた。これを、寄進地系荘園と言う。
  また、もう一種類の所領を寄進するケースがある。
  中央から地方へ派遣される国司に、任地に赴(おもむ)
 かない者が多かった。
  位の高い者は、自ら出向くことはしない。
  実際に任地に赴く国司は、中央では高い地位に登る見
 込みのない者だった。
  彼らは、受領(ずりょう)と呼ばれた。
  受領たちは、任地で富を蓄え、私腹を肥やすのを常と
 した。
  この受領という官職は、金のなる木のため、売り買い
 がされた。
  受領の役目を買って、売り手の摂関家などの権門へ利
 益をもたらした。
  受領も、任地で利益を自分の家領として所有していた。
  しかし、任期が終われば、手放さなければならない。
  任期を離れれば、地方所領の管理は可能ではない。
  その利益は保持したい。
  中級貴族の立場から、解決方法として、自分のかかわ
 りを持つ摂関家の上層貴族に、土地を寄進し、所有権は
 上級貴族の名義に切り替え、一定年貢を献上するのを条
 件に、荘園の執行権と、そこから得られる利益は、寄進
 した無力な小貴族の手にも残り、これを子々孫々に伝え
 る事が出来た。
  1025年頃、「天下の地、ことごとく一の家(摂関家の
 こと)の領となり、公領は立錐の余地なきか。悲しむべ
 きの世なり」と(小右記・しょうゆうき)にある。
..
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