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2016年12月17日土曜日

臨時ブログ:私たち日本人が、長い歴史の中で持ち続けて来た日本独特の精神文化を思い出しなさい、そして、日本に強くありなさいという励ましのメッセージが込められている。

臨時ブログ*:私たち日本人が、長い歴史の中で持ち続けて
  来た日本独特の精神文化を思い出しなさい。
   そして、日本に強くありなさい・・という励ましの
  メッセージが込められている。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 イスラエルのヘブライ大学にベン=アミー・シロ二ー教
授という方が居られる。
 この方は、日本の勲2等瑞宝章を受けている。
 この方は、杉浦千畝の本当の姿を暴露している。
 以下は、この教授の話を要約し、まとめたものである。
 杉浦千畝と言えば、キリスト教が「日本を貶(おとし)
め、そして、キリスト教徒の杉浦千畝が素晴らしいことを
したとデッチアゲタ話」である。
 キリスト教は、杉浦千畝が、キリスト教徒だったからユ
ダヤの方々を助けたのだと、嘘の話をデッチアゲタ。
 その時、日本は、ユダヤの方々にビザを発給してはいけ
ないとして、ユダヤの方々を虐(しいた)げていたという
嘘の話をデッチアゲてまでして、日本を貶(おとし)めた。
 キリスト教は、本当に嘘ばかり言う宗教である。
 しかし、嘘をついて、日本を貶(おとし)めるところま
でやる行為は、「絶対に、許せない」。
 「自分の宗教・キリスト教を美化したいからと、日本を
貶めることまでするという行為は許せない」。
  この様に、キリスト教は、嘘ばかり言う宗教である。
  また、この様な類いの日本を貶める話を、世界に発信
している宗教である・・本当に始末に負えない許せない宗
教である。
 また、キリスト教に偏するNHKは、この嘘のキリスト
教の話を、そのまま、日本全国に放送している。
 そして、日本の貶め放送を世界へ配信している。
 酷いNHKとなっている。
 そしてまた、最近は、腰ぎんちゃくの様に読売新聞まで
が、この嘘話に乗っかって、間違いの嘘話を記事を書いて
いる。
 ベン=アミー・シロ二ー教授も、ナチスドイツの迫害を
受けている方で、
 日本関係の書籍も、多数、書かれている方である。
 世界に名高い日本研究者で、名誉教授になられている。
 東アジア学科教授となって、毎年、500名を超える学生
に、日本の歴史や文化の講義を続けている。
 ヨーロッパやロシアは、宗教はキリスト教で・・そのキ
リスト教において・・「イエス・キリストを殺したのはユ
ダヤ人だ」と、ユダヤの方々を虐(しいた)げている。
 日本には、当然、昔から、その様なユダヤの方々に対す
る差別はない。
 勿論、虐げ行為もしていない。
 ヨーロッパでの1例・・キリスト教徒のシェイクスピアを
例に言うと(古代から、キリスト教は、ユダヤの方々を虐
げて来た))、
 彼の戯曲でも、ユダヤの方々を、金貸しとして悪どく描
き、金が返せなければ、「人肉で返せ」と言うなどと、
ユダヤの方々を卑劣に描いている。
 この例でも分かる様に、キリスト教は、ユダヤの方々を
卑劣に処遇した。
 スペインというキリスト教国は、どこまでもユダヤの方々
を追いかけて、宗教裁判で殺した。
 コロンプスとその船員たちも・・それから逃れた人々だ
った。
 日本は、明治の時代も、ユダヤの方々を『お雇い外国人』
として日本へ招聘し、教師として尊敬し、多くを学んだ。
 当然、差別なく遇した。
 例えば、アルベルト・モッセは、ドイツ系ユダヤ人の方
だったが、伊藤博文は、明治憲法を作る時は、多くのアド
バイスを戴いた。
 また、日本は、本当にユダヤの方々に感謝しなければな
らないのが、日露戦争の時のことである。
 『ポグロム』という卑劣な行為が、ロシアにおいて、ユ
ダヤの方々に対して行われていた。
 反ユダヤのツアー政府でも行われた・・このポグロムは、
ロシア語で『破壊』とか、『破滅』を意味する言葉である
が、
 ユダヤ人の方々に対して行われる集団的な・・あらゆる
種類の迫害で・・「殺戮」「略奪」「破壊」「差別」など
を言う「卑劣な行為のこと」である。
 その様なロシアという大国を・・小国の日本が「打ちの
めした」のが日露戦争だった・・、
 ユダヤの方々は・・たいへん大喜びし、沸き立った。
 それより、日本が・・ユダヤの方々へ感謝しなければな
らないことは、「日露戦争を戦う資金が全くなかった」の
を救って戴いたことだった。
 アメリカも、イギリスも・・貸そうとはしなかった。
 その様な時、ヤコブ・シフという有名なユダヤ人の銀行
家が、日本へお金を貸してくれたのである。
 「日本は負ける」という世界の見方をかえりみず・・お
金を貸してくれたのだった。
 日本が負けたら返って来ないお金を・・貸してくれたの
だった。
 「返金されないリスク」を背負ってくれたのだった。
 しかも、イスラエルの英雄となっているヤコブ・シフは、
友人の銀行家がたへも協力を求め・・軍資金集めをして戴
いたのだった。
 高橋是清が財務大臣として、軍資金集めに、ヨーロッパ
へ行き・・そして、ロンドンへ赴いて・・会議の場で・・
軍資金を必要とすると訴えたことに対し、
 アメリカ・イギリスは無視したのに・・その呼びかけに
応えて戴いたのだった。
 ヤコブ・シフは、それだけでなく日本赤十字社などに対
しても多額の寄付をして戴いている。
 1905年に、ヤコブ・シフは、日本に招かれ、明治天皇陛
下との謁見も果たし、
 日本は、首相をはじめ、全会議、そして、多くの人々が
感謝の意を示した。
 明治天皇陛下から、勲一等旭日大綬章を授けられた。
 また、イスラエル国歌の「ハティクバ(希望)」を作詞
したナフタリ・インベルも、大変な親日家で、日本ファン
だったが、
 日本の勝利を知って、大いに喜び、その詩を、英語・ヘ
ブライ語・イーディッシュ語で発表し、ニューヨークで出
版し・・そして、明治天皇陛下に捧げた。
 ユダヤ人の方々は、「ユダヤ人の報復を、ユダヤ人に代
わって日本が、ロシアへ行なった」と言い、思った。
 この時のユダヤ人の方々の日本への愛は、熱狂的だった。
 日本の連合艦隊司令長官の東郷平八郎(とうごうへいは
ちろう)、
 ロシアのバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎の名前を
付けるユダヤの方々も多くいた。
 その一人が、今、エジプトで有名な映画プロデューサー
となっている。
 そして、トーゴー制作所は「今でも活躍している」。
 ロシアは、ユダヤの方々を、兵士として、多くの方々を
徴兵していた。
 いや応なく、ロシア兵として戦い、ユダヤの方々は亡く
なった。
 そして、日本の捕虜になった方々もいた。
 しかし、勿論、日本は、そのユダヤ人の方々を差別する
ことなく対応した。
 ユダヤの捕虜の方々は、日本で温かいあつかいを受けた。
 収容所の中で、シオニスト・グループさえ作ることが出
来た。
 そして、兵士たちにヘブライ語を教える事も出来るよう
に扱われ、また、自由に手紙を書くことさえも許された。
 この捕虜の方々は、世界中のシオニストグループへ、こ
の収容所から手紙を書いて・・活動さえできた。
 そして、戦後、自由の身になっても、ロシアに戻ること
を拒否した。
 ロシアなんか戻りたくないと、長崎などに住みついたの
だった。
 ロシア革命の時、赤軍を、トロツキーというユダヤ人が
率いていた。
 それ故に、「彼らユダヤ人が、革命を始めた」と決め付
けられた。
 「ユダヤ人が、世界を制覇しようとしている」と嘘宣伝
された。
 反ユダヤ主義が語られた。
 「革命の張本人は、ユダヤ人だ」として、アメリカやイ
ギリスは、日本に、シベリアへ出兵をしてくれと頼んだ。
 アメリカ・イギリスは、他に出兵中で、シベリアには出
兵できず、日本へ「赤軍壊滅」を要請した。
 日本は、この要請に応え、出兵し、南シベリアやウラジ
オストクなどを管理下に置いた。
 『侵略』ではない。
 要請に基づく出兵によってであった。
 日本政府は、また、冷静で、偉かった。
 この時、日本は、「この反ユダヤ主義は本当か?」と、
冷静に考えた。
 そして、2つのグループを、その調査と勉強に送り出した。
 その一人が、安江仙弘という日本人で・・、
 彼は、ユダヤ人指導者たちに会い、また、本なども訳し
たりして事実を知り、
 そして、日本に戻ると・・「ユダヤ人はよくやっている」
と報告した。
 その後、この安江仙弘は、ユダヤの方々が満州へ逃れて
来た時に、満州に定住する事を助けた。
 (この地・満州の軍の最高指揮官の東条英機も、定住の
許可を与えた)
 また、内田康哉(やすや)という外務大臣は、戦後、イ
スラエル国の建国を認めるバルフォア宣言を支持した。
 そして、また、日本人は、ユダヤ人のアインシュタイン
を温かく大変な歓迎をもって迎えた、1922年の事だった。
 この年、ノーベル賞をとったアインシュタインは、妻と
ともに日本を訪れた。
 また、1920年から1930年にかけて、多くのユダヤ人音楽
家が日本へ訪れ(虐げから逃れ)、多くの音楽家が、日本
に留まった。
 この後、大戦中に、同盟関係にあるドイツは、これに憤
慨して、「追放しろ」と日本に迫った。
 (1940年9月27日、日本、ドイツ、イタリアの三国同盟)
 しかし、日本は「きっぱり」これを拒絶した。
 「日本は法治国家だ」「日本は法を重んじる国なのだ」
「彼等は日本に留まれるのだ」と言った。
 「何ら悪いことはしていないからだ」と言った。
 多くのユダヤ人の方々が、日本に留まった。
 ナチスドイツは、この様な事を、日本に要求する政府だ
った。
 (しかし、この事実が明白にあるのに、杉原千畝を、キ
リスト教は、千畝がキリスト教徒だということで嘘のデッ
チアゲをした)
 杉原千畝は領事ではなく、副領事なのだが、リトアニア
のカウナスに赴任された。
 千畝が赴任する以前の1930年代には、既に、日本は、「
ナチスのユダヤ人に対する考え方」に対する方針を明確に
決めていた。
 その結果を先に記せば、「何ら他の外国人と同じである、
同等である」という結論だった。
 「差別の『さ』の字もない当然の結論だった」。
 だから、当然、満州に受け入れ、日本に受け入れ、また、
日本の管理下にあった上海にも受け入れた。
 (当時、上海には、イギリス・オランダなどの管理地な
どがあった)。
 ユダヤ人の方々の事は、すでに、1938年に、近衛内閣で
討議され、何ら、ナチスとの同盟とは、当然、関係なく、
その同盟に左右されなく、ユダヤの方々を、他の外国人と
同様に対応すると決定している。
 日露戦争にも応援して戴いたユダヤの方々でもあった。
 公正・公平な日本の当然の帰結だった。
 恩も忘れない日本だった。
 「日本は、昔から人権を大切にする国」だった。
 女性の方々の人権も、同様に差別をする日本ではないこ
とはよく知られている。
 世界で最初の長編小説を書いた紫式部を考えれば分かる。
 紫式部は、差別なく、高い教育を受け、この様な高い芸
術性のある作品を、
 それも、遠い昔に、世界で最初に書いた女性という輝(
かがや)かしい歴史のある日本だった。
 日本が、ユダヤの方々を差別するわけがない。
 逆に、アメリカやイギリスは、ユダヤの方々を差別した。
 アメリカのニューヨークに、船で逃れて来たユダヤの方々
を、「アメリカは、追い返している」のである。
 戦争の世界を、逃げ惑う方々を、救助すべき方々を、可
哀想に、憤りが湧く・・、
 本当に軽蔑すべきアメリカの行為だった。
 この様な事を隠し、嘘のプロパガンダするアメリカや、
イギリスだった。
 現在のトランプ次期アメリカ大統領が、犯罪者の移民は
送り返すと言っている話とは違う・・、
 トランプ氏の場合は、当然であり、当時の日本にも、こ
の様な基準があった。
 しかし、このことを、キリスト教が、過大に、ひん曲げ
て、何も知らない人を誤魔化して、「日本は虐げ行為をし
ていた」というハレンチな嘘発言をしている。
 犯罪者や麻薬中毒者などの移民の排除は、どこの国でも
やっていることを、あえて、取り上げて、国民などへ嘘を
言い続けるキリスト教やNHKの言い方なのである。
 このユダヤの方々の救済と上記をすり替えている。
 そして、美しく杉浦千畝の話を作り上げるキリスト教や
NHKなのである。
 この当時、外交官だった馬淵睦夫氏も・・、
 「当時の、どこの日本の大使館でも、ユダヤの方々へビ
ザを発給していました。杉原千畝だけではありません。日
本の方針が、そうだったのですから」と言われている。
 キリスト教やNHKは嘘を言わない事・・また、特に、
キリスト教に偏するNHKは嘘放送をしない事、そして、
尻馬に乗って嘘記事を書く読売新聞なども・・反省せよ。
  ヒトラーのドイツが、「ユダヤ人が世界を制圧しよう
としている」と言った時・・、
 日本は、「そんなに頭が良い天才ならば、彼等を大切に
して、彼等の優秀さに協力してもらおう」と、半分、バカ
にして、茶化して言うくらいの日本だった。
 千畝の嘘話は、本当に、怒りが湧く嘘話である。
 アメリカやイギリスは、卑劣な事に、ユダヤの方々の通
過ビザでさえ拒否し、そして、「入国を拒否した」。
 ただの「通過ビザ」ですよ・・と、言われるアメリカ・
イギリスだった。
 そこまで拒否し、ユダヤの方々を虐めるアメリカ・イギ
リスだった。
 ユダヤの方々は、それで、已む無く、アメリカ近くのキ
ュラソー島へ行こうと決めた(また、ここは、ビザが無く
ても入国できるという事を発見したからだった、苦労する
ユダヤの方々だった)
  杉原千畝の居た近くのポーランドが、ドイツとソ連に
分けられた事で、特に、千畝のいる地に逃れて来るユダヤ
の方々が多く居た。
 また、近くの国々も、同様な状況から、ユダヤの難民の
方々が多く出た。
 アメリカとイギリスの公館が、ユダヤの方々へ、卑劣な
行為、上記の様にビザを与えることを拒否したから・・ま
た、日本の公館に集中した、
 (この事を、世界の記憶遺産に申請せよ、登録せよ)
 ユダヤの方々は、ヨーロッパには逃れる所がない事に気
付いた。
 そして、満州や日本などへ逃れて来た。
 日本は、ユダヤの方々の救助地となっていた。
 アメリカやイギリスに問題の原点があった。
 因みに、杉原千畝は、怪しまれる人物像だった。
 その怪しさゆえに、その怪しさによって、ソ連は千畝を
拒否した。
 ソ連で、自分の宗教を棄てて、ロシア正教(キリスト教)
になっているのに・・拒否された。
 行動がおかしかった・・、
 また、ソ連女性を妻にもしたが・・拒否された・・
 已む無く、日本政府は、リトアニア赴任とした。
 ソ連で、危険で信用できない人物とされ、日本へ通報さ
れたのだった。
 日本は、杉原を、ソ連から出さざるを得なかった。
 日本は、逆に、リトアニアから情報を送る役目をさせた。
 杉原は、その様な使い道の人間だった。
 杉原は、この地を探り、地下組織を探りあて突き止めた。
 その仲間たちと連絡も取れるようになった。
 そして、彼らと協力する活動をし始めた。
 彼等のイギリス本部との秘密事項の連絡役をした。
 領事館にも、彼らのメンバーを雇い入れた(杉原を監視
する監視役だったのか?)
 こんな怪しい中の、杉原の所へ、多くのポーランド人が
逃れて来た。
 使われた杉原という立場も見える。
 ここを、キリスト教が美しく仕立てたのだった、嘘も使
って・・。
 キリスト教は、千畝が、多い数のビザを出したとしてい
るが・・?
  それでも、ほかの領事館より少し多いくらいだった(
1割~2割くらい多い程度)、
 つまり、他の領事館も同様な事をしていたのだ(アメリ
カ・イギリスはやらないし・・)。
 ユダヤの方々は、ソ連が通過できるので、(ソ連は、ユ
ダヤの方々へビザを拒否していたが、通過は許していた)
そのルートで逃れた。
 ロシア領事館に1億ドルくらいの金を使ったという話も
ある。
 (アメリカなどに居たユダヤの方々のお金が使われた)
 ユダヤの方々は、ロシア領を通り、満州へ入り、また、
ウラジオストクから船で日本に入国した。
 満州に定住し、また、日本へも入国もした。
 ユダヤの方々は、日本に入国する時に、日本はドイツと
同盟を結んでいる国だから、「強制収容所に叩き込まれる」
のではと心配し、思っていた・・しかし・・しかし・・、
 日本に入国で来たユダヤの方々は、日本で優しく温かく
迎えられた。
 しかも・・日本は、ユダヤの方々の船を出迎える「日本
政府の船」まで出していて、ユダヤの方々は出迎えられた。
 日本政府は、この様に、ドイツに全く影響されていない。
 杉原千畝のキリスト教・NHKの話は、まったくのデッ
チアゲの嘘。
 杉原千畝の出身の町まで、このキリスト教・NHKの嘘
に引っ掛かって、町の方々の税金を使って「杉原記念館」
まで作っているから・・悲劇だ。
 しかも、この避難したユダヤの方々は、ユダヤ教団があ
る神戸に迎えられている。
 そして、ミール・イエシバ(ユダヤ教学校)の宗教活動
もできて、そして、活動もした。
 また、通過ビザは2週間だったが、「2週間が経たから出
て行って下さい」とも言われなかった。
 「みなさん、2週間の期限がきましたよ」なんて言われ
なかった。
 日本は、すべての事情を理解していた。
 その様な思いやりのある日本だった。
 キュラソー島への行き方も知らないユダヤの方々の事情
もあったし、理解する日本だった。
 逆に、「行く先が見つかるまで居て良い」と言われて、
ユダヤ人の方々が「驚いたくらい」だった。
 この様な日本政府の対応の裏には、小辻節三と、その友
人の外務大臣・松岡洋右(ようすけ)が居た。
 また、上海に向かった人たちは、上海で成功し、長年、
住みつき、大変、裕福になった人たちもいた。
 シロ二ー教授は、「広島・長崎に投下された原爆の一考
察」という論文で博士号を取得された。
 アインシュタインやオッペンハイマーらのユダヤ人の頭
脳を利用して、アメリカは原爆を開発したが、
 このユダヤの開発者たちは、「原爆は、ナチスドイツに
対して使うために開発した」と、明確に言っている。
 アインシュタインが、ルーズベルトに、この事を言って
(原爆が開発できる、ドイツに使用する)、この考えが受
け入れられて、開発が開始された。
 そして、開発のための巨大なシステムが、アメリカ政府
によってつくられ、多数のユダヤ人研究者が動員された。
 その一人のジュリアス・ロバート・オッペンハイマーは、
ユダヤ系の人で、ロスアラモス国立研究所の所長で、原爆
開発のマンハッタン計画を主導した。
 「原爆の父」を言われている。
 「ヒトラーの行動を止めるのだ」と、難民でもあったユ
ダヤの方々は、この開発の目標に向かって競って参加した。
 しかし、皮肉にも・・彼らの愛する日本に投下されてし
まった。
 シロ二ー教授は、「頑張って、ここは言いたい」と言っ
て言う・・、
 「原爆は、日本に投下しようとして作らされたものでは
なかったのです」・・と。
 「日本に落す理由はまったく無かった」と、シロ二ー教
授は言う。
 「日本に落とす」という情報が流れた時、ユダヤ人の方々
は、大反対して、ルーズベルト大統領に嘆願書を出した。
 その時、副大統領だったハリー・トルーマンも、この事
は知っていた訳で、
 ルーズベルトの急死で、大統領となったその副大統領だ
ったトルーマンは、当然、「この事を知っていた」。
 「投下する必要性のない日本」「すでに滅びていた日本」
 「1945年には、日本は滅びていると世界中が見ていた日
本に、投下する必要性は、誰の目にもなかった」
 そこに、キリスト教の「目には目を」の教義に洗脳され
た復讐思想があった。
 二言目には、アメリカは、「真珠湾を奇襲をした」と、
アメリカは言った。
 しかし、ここで、嘘を言うな・・と、言いたい。
 奇襲なんて作られた話だ・・、戦端は、「アメリカへ先
行していた日本の潜水艦」への、『アメリカによる攻撃』
で、既に、開かれていたのだ。また、日本の電信をすべて
解読していたアメリカは、刻々と伝わる・・ハワイへ向か
う日本の連合艦隊の電信を傍受している。またまた、中国
では、極秘で、ルーズベルトが命令を下している。日本と
戦え・・と、中国にいるアメリカ軍が、既に、真珠湾攻撃
以前に、日本へ攻撃を加えている。これこそ、日本へのア
メリカの奇襲である。日本潜水艦への攻撃を、「あれは、
クジラだ、クジラだ」と嘘を言ったって、数多い日本の潜
水艦が未帰還になっているのだ。こんな数多い日本の潜水
艦のすべてがクジラだったと、アメリカは言うのか?嘘を
言うな・・、
 さらに、アメリカは、「軽蔑すべき嘘の言葉」を連ねる。
 「早く戦争を終わらせて、兵士を母国へ返したかった」
など、原爆投下についても・・屁理屈のオンパレードを繰
り広げている・・原爆投下の「後ろめたさを披露」してい
る・・、
 そして、最後のナレーションで、次の言葉が流れる・・、
 ベン=アミー・シロニー博士は、誰よりも日本の皇室の
存在を理解しています。
 日本民族の歴史を見つめ、日本人以上に、日本の良さを
理解し、
 日本精神を心から愛しています。
 そして、ユダヤ人として、独自の視点で、日本と、日本
人に勇気を与えてくれています。
 シロニー教授の鋭く、深く、そして、愛情に満ちた言葉
に、戦後、私たち日本人が、長い歴史の中で持ち続けて来
た日本独特の精神文化を思い出しなさい、そして、日本に
強くありなさいという励ましのメッセージが込められてい
る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年12月14日水曜日

(増補版)470E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)

題:(増補版)470E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年10月13日、帝国大学文科大学哲学科に精神物理学(
 実験心理学)科目が新設された。
  この年、元良、日本人心理学者として初の博士号取得。
  元良帰国。
  帝国大学文科大学哲学科で「精神物理学」を担当した。
  東京大学文学部心理学研究室、初代教授・元良勇次郎
 先生(在任期間:1890年~1912年、在任中に没する)
  また、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部のホ
 ームページには、以下の興味を引く記述がある。
  心理学は、実に多くの領域と境を接している。
  心理学は、人間の心的、知的な機能を探求するそれ自
 体独立した基礎的な学問である。
  また、一方で「こころ」とは何かということを考える
 と哲学と関わらなければならない。
  生物学的な諸領域、医学とも密接に関連している。
  さらに、電子工学、情報工学など人間の使う機械を作
 り、また、人間の機能を代行する機械を作ろうとする領
 域とも関わっている。
  本研究室では、こうした幅広い領域に関わる心理学と
 いう学問を実験という実証的な手法で取り組む学風を持
 っており、知覚・注意・記憶・思考などの心理現象を精
 神物理学的手法・神経科学的手法・認知科学的手法によ
 って研究している。
  また、文化認識や科学方法論などについても研究を行
 っている。
  したがって本研究室出身の研究者は心理学のみならず、
 幅広い隣接分野において活躍しているものも少なくない。
1888年10月14日、自由民権運動の大同団結民権派の385人が、
 大阪で懇談会を開催した。
  1888年、後藤は、大同団結を唱えて地方遊説を行い、
 雑誌『政論』を発行し、地方名望家層の政党への組織化
 を図った。
  しかし、改進党系の多くは、この動きに加わらず、独
 自の組織化に着手したため、旧自由党系中心の運動に転
 化した。
  1889年3月、しかも、後藤自身が逓(てい)相に就任し、
 運動から退くと、直前の恩赦で多くの有力民権家が出獄
 し指導者に迎えられたこともあって、運動は分裂し、
  大同倶楽部と大同協和会が発足した。
  ここに、大同団結運動は完全に終焉した。
  民党連合の基礎をつくった意義はあった。[
  (1886年末~1889年に、民権派による反政府統一運動)
  1889年、後藤象二郎の黒田内閣入閣で挫折した。
1888年10月14日、皇城二重橋の架替が竣工した。
  二ヵ年を要し、鉄橋として架け替えられ竣工した。
  但し、二重橋と名付けられた経緯には、諸説があるの
 で注意を要す。
  因みに、鉄橋の手前に、1887年に完工した石橋(西ノ
 丸大手橋)があり、
  郵政省は切手のデザインにおいて「二重橋(石橋・鉄
 橋)」と記している。
1888年10月21日、井上毅(いのうえこわし)が、憲法にお
 ける軍隊編成権や議会予算議定権の問題をモッセとロエ
 スレルに質問する。
  1881年、明治政府がプロイセン流立憲主義に転換し(
 明治十四年の政変)、
  井上毅が、憲法の草案を作成したが、その草案は、多
 くロエスレルの討議、指導によるものだったとされる。
  彼の提出した「日本帝国憲法草案」のほとんどが受け
 入れられ、大日本帝国憲法となった。
  カール・フリードリヒ・ヘルマン・ロエスレル(1834
 年12月18日~1894年12月2日)は、ドイツの法学者・経済
 学者で、
  明治の日本でお雇い外国人の一人として活動した。
  アルベルト・モッセ(1846年10月1日~1925年5月31日)
 も、ドイツの法律家で、お雇い外国人として日本に招か
 れた一人。
  伊藤博文ら、日本から調査に訪れた代表たちに、1882
 年~1883年にかけて、師のルドルフ・フォン・グナイス
 トと共に講義を行った。
  1886年(明治19年)に訪日し、モッセ以前にヘルマン・
 レースラーが既に招聘されていたが、モッセの憲法制定
 や地方制度の創設への貢献の方がより実質的な影響を与
 え、それ故に、「明治憲法の父」と言われている。
1888年10月27日、皇城を「宮城」と改称した。
  皇城西の丸に、新宮殿全体が落成し、
  「宮城〔きゅうじょう〕」と呼ぶ告示が出された。
  (明治宮殿落成し皇城を宮城と改称)
1888年10月27日、深川骸炭所が操業を開始した。
  古河鉱業会社の深川骸炭所が竣工して、操業を開始し
 た。
  コークスの製造とその品質向上、そして、それに対応
 する優れた高炉に努力した技術者が、技師・福岡健良氏
 (深川骸炭所、コークス製造)と、野呂景義氏(釜石・
 八幡のコークス高炉に成功)だった。
  国が豊かになり、強くなる、富国強兵の元にある鉄・・
 その鉄の品質を左右するのが、還元剤だった。
  木炭に代わって、石炭を乾留したコークスが、高炉に
 おける還元剤として、英国で誕生して約300年が経過し、
  その間にも、高炉も目覚ましい発展を遂げた。
  そして、その発展を支えたのは・・スムースな炉内の
 ガス流れを可能とするコークスの品質であった。
  そして、その大切なポジションを占めていたのが・・
 官営製鉄所の「釜石」「八幡」だった。
  そこを支えたのが、望ましいコークスの生産だった。
  これが無ければ、建物も、工場も、艦船もできない。
  しかし、涙ぐましい失敗と汗があった・・、
  日本人の真面目さと優秀さと『頑張り』があった・・、
  国の基本は、すべてここからスタートした・・、
  公共放送・NHKは、『頑張らない』をキャンペーン
 放送した・・本当に、国を堕落させる放送を、長い期間
 に渡って行なった・・頑張ることを否定した・・
1888年10月28日、四国初の鉄道の伊予鉄道の松山~三津ヵ浜
 間開通 
  1887年9月14日に、民営としては日本で2番目の伊予鉄
 道会社が創立された。
  そして、この日・1888年10月28日に、松山(後の外側、
 再び松山)~三津間で、鉄道が開業された。
  因みに、2001年(平成13年) 10月12日から、松山市内
 線で「坊っちゃん列車」レプリカ運行が開始されている。
1888年10月28日、東京音楽学校(旧制)が、5線譜表記の箏
 曲集を出した。
  1887年10月4日、東京音楽学校が、東京府下谷区(現在
 の台東区の西部)に設立され、官立(唯一)の音楽専門
 学校だった。
  (参考:下谷区と浅草区が台東区になった)。
  文部省大臣官房直属の機関であった音楽取調掛の掛長
 であった伊沢修二の他、菊池大麓・外山正一・穂積陳重
 ら当時の代表的学者7名が連署した「音楽学校設立ノ儀ニ
 付建議」に基づいて、同掛を改称し設置された。
  伊沢が、事実上の初代校長に就任した。
  その後、奏楽堂を含む校舎が新築され(現在は上野公
 園内に移設)、
  1890年5月12日に、開校された。
  日本最初の音楽教員・音楽家・音楽鑑賞家の養成機関
 で、当初、西洋音楽の教育を中心とした。
  修業年限1年の予科と本科(2年制の師範科、および、
 3年制の専修科)から構成された。
  しかし、翌年・1891年には、早くも、国費節減と関連
 して帝国議会で存廃論議が起こり・・、
  1893年6月、高等師範学校に移管され、附属学校に格下
 げされたが、
  1899年には、伊沢らを中心に再び独立し、
  1900年には、学科を再編成して5科とし、以後、新制
 移行までこの体制が基本的に存続した
  1949年5月、学制改革にともない発足した新制の東京
 芸術大学音楽学部の構成母体となった。
  因みに、奏楽堂は、上記のように東京音楽学校の校舎
 として、1890年(明治23年)に建造され、
  日本における音楽教育の中心的な役割を担って来た。
  2階の音楽ホールは、かつて瀧廉太郎がピアノを弾き、
 山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペ
 ラ公演でデビューを飾った。
  創建から80年近く経過した昭和40年代(1965~)に入る
 と、建物の老朽化が目立つようになり、
  校舎を都外へ移設する構想が持ち上がったが、1983年(
 昭和58年)に、台東区が東京藝術大学から譲り受けること
 となった。
  そして、1987年(昭和62年)現在の地(上野公園内)へ
 校舎を移築・復原し、「旧東京音楽学校奏楽堂」として
 一般への公開を開始した。
  さらに、1988年(昭和63年)には、日本最古の洋式音楽
 ホールを擁する校舎として、重要文化財の指定を受けた。
ました。
  尚、現在、保存工事のため休館中、再開は平成30年度の
 予定。
1888年10月28日、清国が、日清条約改正交渉の一時中止と
 将来の再開を了承(りょうしょう、承知すること)した。
1888年10月30日、帝国大学(後の東京大学)に、臨時編年
 史編纂掛(史料編纂係)が設置された。
  1793年(寛政5年)、国学者の塙保己一は、幕府の援助
   をうけて和学講談所を開設した。
    そして、明治となり、政府の修史事業は、この事
   業を引き継ぐかたちで始められた。
  1869年(明治2年)3月、和学講談所跡(現:千代田区
   六番町)に史料編輯国史校正局が開設された。
  1869年4月、明治天皇陛下は、三条実美に宸筆の勅書を
   下し、同局の総裁に任じた。
  1872年(明治5年)、太政官正院に歴史課が設けられた。
    ついで、修史局として内務省地誌課を合併し、修
   史館となった。
    内閣制度の成立とともに臨時修史局となった。
  1888年(明治21年)10月、帝国大学に国史科を創設す
   るに際して、修史事業は帝国大学に移管された。
    当初は、臨時編年史編纂掛と呼ばれた。
  1893年(明治26年)、編年史の形の編纂事業は停止さ
   れた。
    代わって、外国人教師ルートヴィヒ・リースの意
   見をいれて、蒐集した史料自体を編纂刊行すること
   となった。
  1895年(明治28年)、帝国大学文科大学に史料編纂掛
   が設置された。
  1901年(明治34年)最初の成果である『大日本史料』
   『大日本古文書』が発刊された。
  1906 年(明治39年)外務省から『幕末外国関係文書』
   編纂の事業を引き継いだ。
  1929年(昭和4年)現在の史料編纂所という名称になっ
   た。
  1949年(昭和24年)文部省から維新史料編纂事業を引
   き継いだ。。
  (東京大学史料編纂所・ホームページを参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:2016年の話・・、
    TPPについて・・他
   『アジアの成長を取り込む』・・これは『嘘』
.
2016年2月4日、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)が
 署名された。
  この協定が論議された時、「グローバリズム」の議論
 が花盛りだった。
  これは、結局、大きな国が有利になる論理で、小さな
 国が大きな国に飲み込まれるという大国主義なのである。
  また、超巨大なアメリカの多国籍企業(ポンと大金を
 政治献金する企業)に都合の良い考え方である。
  因みに、巷(ちまた)の話的であるが・・、200億円を
 『好きに使いなさい』と選挙の時にポンと出す、つまり、
 アメリカの政治が、200億円で買える的な話も・・ある。
  国力の大きさに依拠して、その意思を対外的に押し通
 そうとする大国の行動様式なのである。
  その問題点に気付いたアメリカの方々が増えている。
  「拝金的な金の亡者」だけにはなりたくない・・と、
 また、「グローバリズム一点張り」ではないのだ・・と
 気付いたのだった。
  「アイデンティティが破壊されるではないか」・・と
 気付いたのだった。
  アメリカだって、その固有の国民性が崩壊する事に対
 し、当然、そうなって欲しくないと思っているのだと、
  家族を愛し、家族を大切にし、郷土を愛し、郷土を大
 切にし、愛国心を大切に思い、この様なアイデンティテ
 ィを大切にする、本来のナショナリズムを大切にする・
 ・その様な国でもあるのだ・・と、本来のナショナリズ
 ムを大切にする国なのだ・・と、その大切さが語られる
 国なのだ・・と・・、
  極限状態なら、特に、国を思う人たちの国なのだ・・
 と・・、
  日本の真珠湾攻撃を・・「奇襲だ」と嘘の話をでっち
 上げられて・・、
  参戦する事に、国論が急に沸き上がったアメリカのご
 とくだった・・、
  攻められたアメリカを思うアメリカ国民の方々だった。
  グローバリズムは、今までの歴史では・・、
  サイクル的に・・、
  湧きあがったり、低調になったりを・・繰り返して来
 た。
  ・・が、今、グローバリズムは、下り坂を・・下り始
 めている。
  郷土を愛し、国を愛し、家族を愛し、本来のナショナ
 リズムを大切にして行く方向へと・・流れは変わり・・
 流れている・・、
.
2016年2月4日、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)が、
 署名された。
  日本でよく言われているTPPに加盟した場合、「ア
 ジアの成長を取り込める」というのは・・嘘である。
  参加国は・・、
  (1)アメリカ合衆国(14兆2646億ドル)(58.8%)、
  (2)日本(5兆4589億ドル)(22.5%)、
  (3)カナダ(1兆5109億ドル)(6.2%)、
  (4)メキシコ(1兆881億ドル)(4.5%)、
  (5)オーストラリア(1兆106億ドル)(4.2%)、
  (6)マレーシア(2222億ドル)(0.9%)、
  (7)シンガポール(1819億ドル)(0.7%)、
  (8)チリ(1695億ドル)(0.7%)、
  (9)ニュージーランド(1284億ドル)(0.5%)、
  (10)ペルー(1275億ドル)(0.5%)、
  (11)ベトナム(898億ドル)(0.4%)、
  (12)ブルネイ(145億ドル)(0.1%)、 
    計 24兆2669億ドル(100%)
  ()はGDPで大きい順に記した、単位:億ドル、
  TPPに加盟した場合、TPPがもたらす各国の経済成長率
 への影響には『ばらつきがある』。
  10年間で、経済成長率をどれだけ底上げするかについ
 ては、ラテンアメリカ諸国や東南アジア諸国では、10年
 間で2%以上の押し上げになる。
  (それでも単年度で見れば0.2~0.3%程度の押し上げで
 しかない)
  一方、日本やアメリカでは、何と・・TPPは、経済成長
 にマイナスに作用してしまうと予測されている。
  TPPに加盟してアジアの成長を取り込むという主張があ
 るが、日本やアメリカは、取り込むどころか取り込まれ
 てしまう。
  アメリカは独裁的だ。
  「民主主義を植え付けるのだ」と、戦争を始めた。
  「まったく、民主主義的ではない論理」を掲げて、民
 主主義と見せかけ、誤解させて、戦争を始めた・・、
  民主主義ではない民主主義の陰に隠れて、戦争を始め
 た・・、
  そして、強大な軍事力で、何も罪のない人々を殺戮し
 て行った。
  やっている事は、独裁的だった。
  独裁国家の行為だった。
  「関税が無いことが、良いのだ」という自分の都合の
 良い規則を、さも正しい様に言う(トランプ氏になって
 変わったが・・)
  「関税は、誰もが自由に決められる」という国際規約
 を間違いだという。
  「関税は、自由に決めてはいけないのだ」・・と、「0
 パーセントが良いのだ」と、関税を固定しようと主張し
 ている。
  そして、それを、他国に押し付けている。
  俺が言うのが正しいのだ・・と・・、
  「関税自主権を認めないアメリカ」となっている。
  独裁国家となっている。
  さらに、この独裁国家は、国際的に公表しなければな
 らない事を公表するなと言った。
  だから、国際社会に公表されたTPP資料は、「墨を
 塗りまくった真っ黒の史料だった」。
  結局、秘密だらけで、TPPは決めてしまおうという。
  アメリカという国は、今・現在でも、言いたい放題の
 国、やりたい放題の国・・自国の論理で・・、
  そして、結局、自分の言う事を聞かない国は敵国だと
 来る。
  キリスト教の最高の会議である公会議が、ローマ法王
 の出る公会議が、
  自分の言う事を反対したら「異端だ」と決めつけ、殺
 したり、追放したりしたが・・、
  その迫害と同じことをしている。
  今・現在、アメリカ大統領の二人の候補者の方々は、
 どちらも、「TPPに反対」だという。
  このことからも、甘利さんの頑張りが見えて来る。
  甘利さんの人材を失うは・・惜しい・・、
.
2016年11月20日、オバマ外交、寂しい最後。
  「リマ発」、オバマ米大統領は20日、アジア太平洋経
 済協力会議(APEC)首脳会議の一連の日程を終え、
 任期最後の外遊を締めくくった。(中略)
  「次期大統領に最も伝えたい事は、米国は世界秩序に
 欠くことの出来ない国家であるということだ」・・
  米国が超大国として担う特別な役割を強調した。
  ・・「力の行使」ではなく、「力の抑制」に重点を置
 いたところに特徴がある。
  「世界唯一の超大国が、進んでその力を抑制し、国際
 的に合意された行動規範に従ってこそ、これは従う価値
 のある規則なのだというメッセージを発する事が出来る」
  (中略)
  前任のブッシュ政権が、国際法上の正当性を曖昧にし
 たままイラクで軍事介入に踏み切り、それが国際秩序の
 混乱をもたらしたとの万感が根底にあった。
  (中略)
  トランプ氏の下で外交が内向きになるとの懸念が広が
 る。
  記者会見でオバマ大統領は、「世界の指導者と関われ
 ば国家の厳粛な責任に気付き、考え方の修正を迫られる」
 と願望の入り混じった思いを語った。
  (読売新聞、2016・11・22を参考にした)
.
2016年12月9日、この日の新聞、2題、アメリカ次期大統領
 トランプ氏が、フィリピンのドゥテルテ大統領に理解を
 示した、・・と、イギリス「EU離脱」を下院が動議可
 決した。
  前のトランプ氏の記事は、「麻薬対策を良くやってい
 る。今後も進めるべきだ」と、トランプ氏が、ドゥテル
 テ大統領を褒めた話。
  ドゥテルテ大統領は、「聖人になった気持ちだ」と喜
 んだという。
  そして、トランプ氏は、「関係を修復しよう」とドゥ
 テルテ大統領へ言った(電話会談)。
  後の記事のイギリスの件は、448対75の賛成多数でEU
 離脱を可決した。
  グローバリズムが、アメリカやNHK、キリスト教に
 よって意味なく美化されているが、
  キリスト教国・イタリアも、ポピュリズム(大衆迎合
 主義)の広がりで、経済が破綻(はたん)状況であると
 いう。
  不良債権を処理しないで放置で、根深い悪弊がはびこ
 っている状態だという。
  甘い話ばかりしないで、正業に就いて真面目に働きな
 さい。
  人を繰(く)って、甘い汁を吸おうという行為は止め
 よ。(読売新聞、2016.12.9を参考にした)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年12月12日月曜日

(増補版)469E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)

題:(増補版)469E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年10月7日、新皇居(明治宮殿)が完成した。
  1868年(明治元年)から1869年(明治2年)に行われた
 東京奠都によって、旧江戸城西の丸御殿が皇居となった
 が、1873年に失火により西の丸御殿は焼失した。
  直ちに、新宮殿造営が政府により上奏されたものの、
 西南戦争の戦費等の財政負担も大きく、国内整備が先決
 との明治天皇陛下の御意向により、新宮殿造営は見送ら
 れた。
  このため、旧紀州藩江戸藩邸であった青山御所が仮皇
 居となった。
  しかし、青山御所では、儀式典礼に支障をきたすよう
 になったため、ようやく宮殿造営が勅許された。
  新しい宮殿(明治宮殿)は、旧江戸城西の丸に建設さ
 れることとなり、1888年(明治21年)10月7日に落成した。
  この明治宮殿(めいじきゅうでん)は、かつて宮城(
 現皇居)に存在した建物で、明治時代から第二次世界大
 戦末期まで、皇室の中心的施設であった。
1888年10月7日、中国初の海軍「北洋艦隊」が編成された。
  北洋艦隊(ほくようかんたい)は、清国の海軍の主力
 艦隊で、李鴻章によって新式海軍が編制された。
  威海衛に基地を置き、
  『定遠』『鎮遠』など甲鉄砲塔艦4隻、巡洋艦7隻、装
 甲砲艦1隻を中心とした。
  1891年に、品川、長崎、呉、神戸を親善訪問し、海軍
 の戦備が劣っていた日本は衝撃を受けた。
  日清戦争において、大日本帝国海軍連合艦隊と交戦(
 黄海海戦、威海衛海戦)し、日本の威海衛攻略の際に壊
 滅した。
1888年10月9日、登記印紙規則が公布された。
  登記印紙は、この時・1888年に、発行されたのが最初
 であったが、
  1898年に、収入印紙に統合され、廃止された。
  しかし、登記に関する手数料の歳入が、登記特別会計
 として、1985年に独立したことに伴い、復活した。
  ただし、登記特別会計が、2010年度をもって廃止され、
 一般会計に組み込まれたため、
  2011年4月1日以降は、再び、収入印紙に統合され、新
 規の発行は中止された。
  既に発行された登記印紙は当面有効で、収入印紙と組
 み合わせての使用も可能である。
  登記法:戸長役場の公証は無料であったが、管理が不
 十分な場合があったため、明治政府は、全国的機関であ
 る裁判所が、不動産の公示を担当するのが適切であると
 して、
  1886年(明治19年)に「登記法」(明治19年8月13日法
 律1号)を制定した。
  「登記法」は、ドイツの登記制度を参考にして、物的
 編成主義を採用した。
  即ち、地券台帳に基づき、あらかじめ各筆ごとに用紙
 を準備し、所有権の移転や、担保権の設定がある都度、
 登記簿に記載することとした。
  また、登記をすることによって、直接利益を受ける者
 (登記権利者)と、登記をすることによって不利益を受
 ける者(登記義務者)とが共同してすることを要するも
 のとする共同申請主義を規定した。
  印紙税は、商取引等の背後に担税力(たんぜいりょく、
 課税対象となる個人や法人などが、実際に税負担を受け
 持つことができる能力の事を言う)があると想定し、
  これに関連して作成される文書に印紙を貼らせて課税
 するものであり、流通税(取引税)の一種。
  1873年(明治6年)「受取諸証文印紙貼用心得方規則」
 (明治6年太政官布告56号)により導入された。
  当初の内容は、証書類を金銭その他諸受取の第1類と、
 田地屋敷建屋売渡証文、借用金証文等の第2類に分け、
  後者は、10円以上に対しその金額に応じた段階的な税
 率(概ね1%)を賦課した。
  その後、数次にわたる改正を経て、
  1899年(明治32年)に「印紙税法」(明治32年法律54
 号)が制定され、現行の「印紙税法」(昭和42年5月31日
 法律23号)により全部改正されるまで施行された。
  登録免許税は、登記のための手数料的性格のものでは
 なく、不動産の権利の移転等の背後に担税力があると推
 定して課税する流通税(取引税)の一種。
  1871(明治2)年の地券交付以来、1889(明治22)年に
 廃止されるまで、地券の新規交付、売買による交付、書
 換ごとに地券証印税を課していた。
  1886年、「登記法」(明治19年法律1号)が制定され、
 登記に際して登記税が課せられるようになった。
  その後、日清戦争後の国費膨張に対処するため、同法
 は1896年(明治29年)に「登録税法」(明治29年法律27
 号)に改められ、
  「民法」が、1898年(明治31年)に施行されたのを受
 けて、翌年・1899年に「不動産登記法」(明治32年2月24
 日法律24号)が制定された。
  (明海大学・周藤利一教授の論文などを参考にした)
1888年10月9日、紫溟新報を改題し、九州日日新聞が創刊
 された。
  1882年に、紫溟新報が創刊され、
  1888年に、紫溟新報が、九州日日新聞と改題し、
  1942年(昭和17年)4月1日、第二次世界大戦による政
 府と軍部の「一県一紙令」により、熊本の2大紙「九州
 日日新聞」と「九州新聞」(政友会系)の2紙が合併して
 「熊本日日新聞」が朝夕刊セットで創刊された。
  1954年(昭和29年)8月1日、「猫てんかんで死滅、ネ
 ズミの激増で悲鳴」の見出しで水俣病を初めて報道した。
1888年10月10日、国会議事堂(仮議事堂)の起工式。
  1881年(明治14年)10月12日、明治天皇陛下の勅諭に
 よる国会開設の決定以来、議事堂の建築が建議されて来
 た。
  1885年(明治18年)に、内閣制度が発足すると議事堂
 建設の取り組みが始まった。
  1886年に、議事堂本建築の計画は、内閣に臨時建築局
 が設置され、ドイツ帝国から建築家を招聘し、
  官庁集中計画と議事堂の設計が成された(議事堂、お
 よび、中央官衙(かんが)建築に関する準備調査に着手)
  当初、ドイツのエンデ・ベックマン事務所により、本格
 的なネオ・バロック様式で計画されたが、
  1887年に、建築予定敷地を、現在位置(当時の麹町(こ
 うじまち)区永田町1丁目)とすることが閣議により決定
 されたが、
  官庁集中計画には多額の経費が必要であり、帝国議会
 の開設も切迫していたため、この計画による議事堂建築
 は中止された。
  具体的計画の立案は、この財政事情などの理由から大
 幅遅延となった。
  井上馨の失脚(1887年9月)も影響し、実現に至らなか
 った。
  しかし、1890年を期して「國會」(議会)を開く事が
 表明されていて、この第1帝国議会に間に合わせるため、
  1888年10月に、起工された。
  こうして、麹町区内幸町二丁目(現・千代田区霞が関
 一丁目、現在の経済産業省敷地)に仮議事堂が建設され
 た。
  ドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラー、および、
 臨時建築局技師・吉井茂則の設計による第一次仮議事堂
 は、第1回帝国議会召集前日の1890年(明治23年)11月24
 日に竣工した。
  1891年(明治24年)年1月20日、竣工の翌年の会期中の
 未明に、漏電により出火し、仮議事堂は全焼した。
  このため、貴族院仮議場として山下町の帝国ホテル食
 堂(当初は華族会館内・旧鹿鳴館)を、
  衆議院仮議場として、虎ノ門(とらのもん)の東京女学
 館(旧工部大学校)を使用し、急場をしのいだ。
  その後、吉井とドイツ人建築家オスカール・チーツェ
 の設計による第二次仮議事堂が、昼夜兼行の作業で再建
 され、
  同年・1891年10月30日に竣工した(第2回帝国議会は
 11月21日召集)。
  しかしまた、1925年(大正14年)に、二度目の火災に
 遭う、そして、木造の仮議事堂を再建した。
  1894年8月、日清(にっしん)戦争が勃発に際し、広島
 市内に臨時の仮議事堂が突貫工事で建築され、
  同年・1894年10月14日に竣工し、
  翌年・1895年10月15日に召集された第7回(臨時)帝国
 議会が開かれた(東京以外の開会の唯一の事例)
  1897年、本建築化が浮上したが、財政事情などで頓挫
 した。
  1899年、議院建築調査会の設置をはじめ、敷地の調査、
 地盤調査、材料調査等も実施された。
  官民各界における、建築様式、設計方法などの議論も
 活発に行われながらも、
  数次にわたる計画の休止、延伸を繰り返した。
  1906年~1907年、日露戦争後には、仮議事堂の改修、
 および、本格的な議事堂の建設が浮上し、決まったが、
 財政事情と大正政変により、実施は延期された。
  1917年(大正6年)現議事堂への動きが始まった。
  当時の大蔵省に設置された議院建築調査会の発足と、
 それによる18年度からの予算計上により、ようやく設計
 着手の運びとなった。
  設計者については、朝野の多くの議論ののち、「建築
 意匠設計はこれを国内一般の懸賞競技に付する」ことが
 決定された。
  また、第一次、第二次仮議事堂の設計や、当初の本建
 築計画の際は、当時の日本の技術水準、不平等条約改正
 の政略面などから、外国人建築家の協力を受けていたが、
  技術力の充実、国威と国産の充実を図ることなどによ
 り、応募者は日本人のみとし、また、
  材料も、やむをえぬもの以外は国産品に限ることとし
 た。
  このような経過を経て・・、
  1918年(大正7年)9月になって、新議事堂の意匠が一
 般公募されることになった。
  翌年・1919年(大正8年)2月、設計競技による応募作
 品118通中、一次選考・二次選考の二段階方式の競技設計
 を通過した4図案が決定した。
  そして、その中から、宮内省技手の渡辺福三案(実際
 には、宮内省内匠寮有志による案)が1等に選ばれた。
  当選案の様式が、新旧各層の反発を呼び、
  とくに、下田菊太郎は議会に働きかけて〈帝冠併合式〉
 (欧風の壁体に和風屋根を載せる)の採用を請願し賛意を
 得た。
  結局、その設計案は参考とするにとどめ、
  大蔵省営繕(えいぜん)管財局(当初、臨時議院建築局。
 技師長・矢橋賢吉)の手により実施設計がまとめられ、
 デザインは大幅に変更された。
  1920年1月30日、着工、
  原敬内閣総理大臣などが参列して、現在地である永田
 町の高台において、地鎮祭を挙行、
  新議事堂の建設が始まった。
  1923年(大正12年)に、関東大震災に見舞われたが、
 建設中の新議事堂、および、第二次仮議事堂は無事だっ
 た。
  しかし、1925年(大正14年)9月18日、仮議事堂は、
 改修作業中の作業員の火の不始末から火災を起こし、焼
 失した。
  このため、政府は、第三次仮議事堂設置を決め、新議
 事堂の建設は、さらに遅延することになった。
  同年・1925年12月の開会の通常帝国議会に間に合うよ
 うに、仮議事堂が、9月29日に建設着手し、
  昼夜兼行の突貫工事で、わずか3か月で建設され、
  同年・1925年12月22日に完成した。
  1936年(昭和11年)、新議事堂の完成が近づいた2月26
 日には、二・二六事件が発生、
  陸軍武装青年将校の一群が永田町一帯を占拠した。
  2月29日早朝に、武力による鎮圧が決定されると、東京
 湾御台場沖に、海軍の軍艦40隻が集結、永田町に艦砲射
 撃の照準を合わせ、反乱軍を威嚇した。
  こうした苦難を経て、新議事堂が、広田弘毅内閣総理
 大臣、冨田幸次郎衆議院議長、近衛文麿貴族院議長など
 約2800人の来賓を迎えて竣工式を迎えたのは、
  着工から実に17年を経た、1936年のことだった。
  1936年(昭和11年)11月7日、帝国議会議事堂として竣
 工し、完成した。
  敷地面積:10万3000平方メートル、建物平面積:1万3358
 平方メートル。
  第二次世界大戦を経て、1955年代・昭和30年代に入り、
 周辺の国有地が衆議院、および、参議院への移管される
 とともに、パレスハイツ(現最高裁判所庁舎)・ジェフ
 ァーソンハイツ(現衆参議長公邸)・リンカーンセンタ
 ー(現国土交通省庁舎)等の米軍接収地も返還が決まっ
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:冷戦に勝利したアメリカは、その後、本当に勝利したアメリカの道を歩んでいるのか?
.
1991年12月、ソ連が崩壊した。
  この時、ソビエト連邦共産党の解散を受けた各連邦構
 成共和国の主権国家としての独立と、
  ならびに、同年・1991年12月25日のソビエト連邦(ソ
 連)大統領ミハイル・ゴルバチョフの辞任に伴い、ソビ
 エト連邦が解体した。
  冷戦が終結した。
  冷戦に勝利したアメリカ。
  アメリカと競り合ったソ連は敗北した。
  しかし、アメリカは、冷戦に勝利しても軍事費を削減
 しなかった。
  他の国々が軍事費を削減している中でも、アメリカだ
 けは軍事費を削減しなかった。
  逆に、新しい兵器の開発をどんどん続けていた。
  ミサイルも、戦闘機も、駆逐艦も、宇宙兵器も、新し
 い世代の兵器を開発していた。
  アメリカの思惑は、『他の国に絶対にアメリカにチャ
 レンジできない国際環境を作ろう』・・という思惑だっ
 た。
  アメリカは、「アメリカだけが、アメリカという一極
 だけが、覇権を握る」だった、
  そして、「アメリカだけが、一極で・・覇権を握って
 いたい」だった。
  しかし、歴史はそう甘いもんじゃなかった・・「そう
 は問屋が卸(おろ)さなかった」。
  他のグループは、その様なアメリカへ・・金をかけて
 開発している兵器が使いずらい方法によって、「アメリ
 カへのチェレンジ」をして来た。
  アメリカの開発した最新兵器も無力化した。
  アメリカへのチャレンジは、「ゲリラ」や「テロ」で
 チャレンジされた。
  そして、また、その様なアメリカの国力は・・、アメ
 リカは、逆に、愚かなことに・・「そのアメリカの高額
 な・・そして、金を食う最新兵器開発費用」によって、
 アメリカ経済は疲弊した。
  この様な歴史は、「繰り返されていた」のである。
  アメリカの「軍事的な支配権を拡(ひろ)げたい」が、
 逆に、「国力消耗」を来たしていた。
  ハプスブルク王朝が、そうだった・・また、オスマン・
 トルコ帝国が、そうだった・・ナポレオンが、そうだっ
 た・・そして、19世紀のイギリスが、そうだった・・
  そして、20世紀後半のソ連が、前記の様にそうだった・・、
  そして、21世紀の今・現在、進行中の中国共産党政権・・
  1980年代後半から、アメリカは、世界一の借金国とな
 った。
  アメリカの紙幣・ドルが、世界の基軸通貨を良い事に、
  アメリカは、ドル紙幣の「紙っぴら」を刷り続けてい
 る。輪転機を廻し続けている。
  こんな事が、いつまでも・・続く訳がない。
  アメリカの真似ばかりをしている中国共産党政権もま
 た、このアメリカと同じことをし続けている。
  アメリカのレーガン大統領の時は、平均貯蓄率は12パ
 ーセントだった、
  しかし、ブッシュ(息子)大統領の時は、マイナス2パ
 ーセントと、マイナス域に入ってしまった。
  金がないのである。
  日本は、貢(みつ)がされているのである。
  日本企業が、ペテンの様な言い掛かりで、金をむしり
 取られているのである。
  アメリカの実質経済規模は世界経済の2割なのに、アメ
 リカの軍事費は、世界全体の軍事支出の5割~6割なので
 ある。
  異常なのである。
  アメリカの次期大統領のトランプ氏は、日本へもっと
 金を出せと言い、「軍事費を負担せよ」と言っている。
  日本が最高に協力しているのにである。
  日本の防衛予算(軍事費)は、今の倍にしないとだめ
 だと言われている。
  国の安全保障は大切だから、しっかり予算化して行か
 なければならない危険な状況にある今なのである。
  甘いことは言っていられない今なのである。
  理想論はその後にしなければならない今なのである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年12月11日日曜日

(増補版)468E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年9月~1888年10月)

題:(増補版)468E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年9月~1888年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年9月12日、地方制度編纂委員会が、府県制、郡制の法
 案を提出した(9月17日説あり)
  1884年(明治17年)、区町村会法の改正などにより数町
 村を単位とする連合戸長役場制が導入された。
  村々の連合による行政単位の広域化が図られた。
  しかし、連合村は、過剰な行政負担に相当する財政基
 盤を有しなかった。
  このため、明治政府内部において、新たな地方制度が
 模索された。
  1888年(明治21年)、この市制・町村制の公布に至るこ
 ととなった。
  この法案は、内務卿・山田顕義の命を受けた内務省大
 書記官・村田保が、
  1884年(明治17年)5月、町村法草案を作成したことに
 始まる。
  村田の転出後、同年・1884年12月、内務省内に町村法
 調査委員会が設置された。
  1885年(明治18年)6月、町村法草案が立案された。
  草案段階では、連合戸長役場方式による制度改正が志
 向されていたが、1886年(明治19年)7月に提出され、
  御雇外国人・アルベルト・モッセの意見書を契機とし
 て、町村合併による改革が図られることになった。
  1887年(明治20年)2月、地方制度編纂委員会(内閣に設
 置)が、地方制度編纂綱領を策定し、
  翌・1888年3月、地方長官会議の席上において、政府は、
 府県知事に対して「町村合併標準」を提示した。
  この「町村合併標準」では、原則300戸をもって一町村
 とすることや、なるべく、連合戸長役場管轄区域内の町
 村を合併して一町村とすることなどが示された。
  同年・1888年9月17日、市制・町村制法案が、地方制度
 編纂委員会より内閣に提出され、
  最終的には、1888年(明治21年)4月25日、市制・町村
 制が公布された翌年・1889年4月1日、施行されることが
 決定した。
  公布された後の同年・1889年6月に、内務大臣訓令第352
 号により、
  300~500戸を標準として合併すること、
  合併に際しては、連合戸長役場の管轄区域をそのまま
 合併して差し支えのないものはそのまま合併することが、
 府県知事に指示されている。
  市制・町村制により、市町村は、地方自治体としての地
 位を確立したが、内務省や府県知事などの監督権が強く、
 自治権は限定されたものだった。
1888年9月12日、駐清公使・塩田三郎が、日清条約改正難航
 のため、一時中止と将来の交渉再開を清国に通告した。
  1886年3月31日に、井上馨外相が 、日清修好条規改正
 を清国政府へ提議するよう、公使・塩田三郎に指示して
 いた。
  日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)は・・、
 1871年9月13日(明治4年7月29日)に、天津で、日本と清
 の間で初めて結ばれた対等条約で・・
  内容には・・、
   ・両国は、互いの「邦土」への「侵越」を控える(第1
   条)
   ・外交使節の交換、および、双方に領事を駐在させる
   (第4条、第8条)
   ・・など、といった内容であった。
  1886年8月、北洋艦隊(最新鋭艦「定遠」と「鎮遠」な
 ど)の長崎来航時の長崎事件、清との交戦の可能性のあ
 った清国海軍兵士による乱暴。
  海軍力で優位にある大国の清が侵攻するかもしれない
 という想定も考えられた。
  清の「定遠」や「鎮遠」は、当時の世界最大級の砲を
 4門そなえ、装甲も厚い東洋一の堅艦で、日本海軍にとっ
 て化け物のような巨大戦艦だった。
  それに威圧されたのだった・・海軍力増強へ向かう。
  日本の海軍力は、軍艦総トン数、1876年:14300トン
 1893年:50861トンに増加している。
  軍事費(一般会計の歳出決算額に占める軍事費)1876
 年・17.4%(陸軍11.6%、海軍5.8%)、1893年:27.0%
 (陸軍17.4%、海軍9.6%)
1888年9月13日、伊藤博文が、西郷従道ら釜山、元山、ウラ
 ジオストクの視察のため出発した。
1888年9月15日、尋常師範学校教員に執務中に制服着用を命
 じた。
   1886年(明治19年)8月、文部大臣・森有禮の西欧的な
 教育政策から、
  東京女子師範学校の生徒が、洋服を制服として着用し
 たことから、
  各師範学校に、この影響が及んで行った。
  同年・1886年、秋田師範学校女子部が、制服を洋服化
 し、
  1888年(明治21年)には、福島の師範学校でも、洋服
 の制服を制定した。
  師範学校の女子教師についてみると・・、
  1888年(明治21年)10月1日の「官報」第1578 号に、
 「埼玉県尋常師範学校、〈中略〉女教員ハ洋服又ハ裳袴
 ヲ着シ」とあり、
  教師には洋服以外に裳袴を認めた例であり、学生より
 は服装規定がゆるやかだった。
1888年9月17日、枢密院が、議員法の審議を開始した。
1888年9月25日、宮内省に臨時全国宝物取調局を設置した。
  宮内省のこの局によって、全国の文化財調査を実施し、
  また、博物館についても、1886年に、宮内省の所管と
 した。
  日本における博物館の創設は、1867年(慶応3年)に
 フランスのパリで開催された万国博覧会を契機として、
  1871年( 明治4年)に、文部省内に博物局が設けられ、
 湯島聖堂を博物館としたことで、その第一歩が踏み出さ
 れた。
  奈良においては、1874年(明治7年)に、官民合同によ
 る奈良博覧会社が設立され、
  東大寺大仏殿廻廊を会場として、正倉院宝物をはじめ
 貴重な寺宝類が陳列された。
  この博覧会は、1890年(明治23年)まで続けられ、明
 治維新後の廃仏毀釈によって 荒廃・散逸の恐れのあった
 多くの文化財は、この博覧会によって人々に貴重な遺産
 として認識されるようになった。
  ことに奈良は、廃仏毀釈の影響を受けることが著しか
 ったが、
  こうした文化財の保存に対する関心の高まりのなかで、
 政府は、1888年(明治21年)に、宮内省の臨時全国宝物
 取調局を設けて全国の文化財調査を実施し、
  また、博物館についても、1886年(明治19年)に、宮
 内省の所管とし、
  ついで、1889年(明治22年)、帝国博物館(東京)、
 帝国京都博物館とともに帝国奈良博物館の設置を決定し
 た。
  1895年(明治28年)4月、帝国奈良博物館の開館が実現
 した。
  その後、1900年(明治33年)、宮内省は、官制改正に
 伴い 帝国博物館を帝室博物館に改名し、帝国奈良博物館
 も奈良帝室博物館となった。
 (奈良国立博物館ホームページを参考にした)
1888年9月26日、守田勘弥が、新設予定の歌舞伎座創立に対
 抗して、新富、市村、中村、千歳の4座同盟を結成して、
 興業の調整をしようと提案した。
  この後、新富座は、歌舞伎座と歩調を合わせながら明
 治の歌舞伎黄金時代を築いて行った。
  しかし、新富座は、1910年(明治43年)松竹が買収し
 て、松竹の経営下に移った。
  新富座は、日本の近代劇場化の端緒となったが・・、
 1923年の関東大震災で被災すると、そのまま再建されず
 劇場は廃座となった。
  現在、京橋税務署が建っている。
1888年10月1日、伊藤博文、西郷従道ら帰国した。
1888年10月1日、日本初の火災保険会社の東京火災保険会
 社(現=安田火災)が営業を開始した。
  日本で保険制度が始まったのは、江戸時代の末期と考
 えられている。
  江戸幕府は、1858年(安政5年)、アメリカ、オラン
 ダ、ロシア、イギリス、フランスと相次いで修好通商条
 約を締結し、外国貿易の門戸を開いたが・・、
  これに伴って、外国の保険会社がわが国に進出した。
  この商館を代理店として、主に、海上保険の営業が開
 始された。
  損害保険等の保険制度は、外国で考えられた制度であ
 るが、
  この保険の考え方を紹介したのが福沢諭吉だった。
  1866年(慶応2年)に発刊した『西洋事情』の中で「
 火災請負ひ(火災保険)」、「海上請負ひ(海上損害保
 険)」のことについて解説した。
  また、翌年の1867年(慶応3年)に刊行した『西洋旅案
 内』の中では、
  保険の仕組みを「災難請合の事(イシュアランス)」
 という表現で、次のように述べている。
  「災難請合とは、商人の組合ありて、平生無事の時に
 人より割合の金を取り、万一其人へ災難あれば、組合よ
 り大金出して其損亡を救う仕法なり。
  其趣旨は、一人の災難を大勢に分ち、僅の金を棄て大
 難を遁るる訳にて・・」・・と、
  生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上
 請合(損害保険)の三種の災難請合について説いている。
 (注・イシュアランスは、insuranceの誤読と思われる)
  その後、1869年(明治2年)山東一郎編の『新塾月志』
 の2月号には、「インシュランス」を支那語に訳すと、
 「保険、又は、担保」という文字を当てるという記述が
 ある。
  訳語には、ウケアイというふりがながついていて、他
 にも請負、受合、担保という文字も使われている。
  「保険」という文字が使われるようになったのは、1977
 年・明治10年代に入ってからだった。
  火災保険は、イギリスで、1710年に、「サンフワヤオ
 ヒス」という保険会社が、創設されたのに始まると言わ
 れている。
  日本では、この年・1888年(明治21年)10月1日、東
 京火災保険会社(現・安田火災)が業務を開始したのが
 はじまり。
  日本で火災保険が誕生するまでには、いくつかの経緯
 を経た。
  明治初期に、日本は、外国の新しい制度や技術を導入
 するため、御雇い外国人を招聘し、それぞれの基礎を築
 いた。
  火災保険制度もドイツ人のパウル・マイエット博士に
 よって生まれた。
  マイエットは、1878年(明治11年)4月、「日本家屋保
 険論」という講演を行っている。
  その中で、「火災保険は国民生活の安定、財産の保護、
 産業の発達に多大の効果があり、
  日本には、水火災の被害が、毎年、膨大な額に達する
 にもかかわらず、保険制度が存在しないことは遺憾であ
 り、国営火災保険を早急に実施すべきである」と提言し
 た。
  これは、マイエットの母国・ドイツの「公営強制火災
 保険制度」の影響を強く受けたものだった。
  当時、参議兼大蔵卿であった大隈重信は、この提言に
 共鳴し、
  1879年(明治12年)4月、マイエットを大蔵省顧問に迎
 え、
  同年・1879年5月7日、大蔵省内に火災保険取調掛を新
 設して、各種の家屋の価格や現存する家屋数等の調査を
 開始した。
  1881年7月、調査結果に基づいて作成された「家屋保険
 法案」が太政大臣に提出されたが、
  この法案に対し、当時、イギリス自由主義の旗頭であ
 った田口卯吉は、「火災保険の趣旨には賛成するが、国
 が強制するのは自由の精神に背くもの」と反対意見を述
 べた。
  また、内務卿・松方正義も、「明治10(1877)年の西
 南の役によって、政府の財政は疲弊しており、人民にも
 地方税、備荒儲蓄法等の新たな税負担が相次いでいる時
 に、家屋保険を強制することは受け入れがたい」と反対
 した。
  1882年(明治15年)このことから、参事院は、太政大
 臣に対して、財政難と市民の負担増を理由に「火災保険
 は民営とし、これを保護することが良策である」と上申
 した。
  これを受けて太政大臣は、「家屋保険法案」の廃案を
 決定し、国営保険制度は頓挫した。
  そして、数年が経て後、関連した官立保険局設立計画
 書を参考として、
  有限責任東京火災保険会社(安田火災の前身)が、わ
 が国初の民営火災保険の創設を計画し、この年、1888年
 (明治21年)10月1日、火災保険業務を開始した。
  1891年(明治24年)引き続き、明治火災、
  1892年(明治25年)日本火災が創業した。
  現在、火災保険料は、建物の所在地や建築状態、用途、
 環境などによって、料率の算定が行われているが、スプ
 リンクラーや消火栓設備などの消防用設備を備えること
 によって、保険料が割り引かれている。
  (東京消防庁、ホームページを参考にした)
1888年10月1日、小田原馬車鉄道(後の箱根登山鉄道)の国府
 津~小田原間が開通した。
  東海道本線の開通に先立って、1888年(明治21年)の
 この時、、国府津より小田原を経て、箱根湯本へと、馬
 車鉄道が開業した。
  そして、『鉄道唱歌』に・・、
  「國府津降りれば馬車ありて酒匂小田原遠からじ」と
 歌われた。
  交通の動脈を外れた小田原宿が衰退した。
  110軒もあった旅籠が次々と廃業した。
  小田原は、必死に鉄道誘致を行なった。
  そして、1920年(大正9年)國府津~熱海間に熱海線が
 開業した。
  これによって、東京~横浜~小田原へ列車が通った。
  そして、箱根観光や湯治の拠点として、小田原は回復
 した。
  鉄道開業は、町を挙げて祝った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:NHKの屁理屈論理の放送(広島・長崎に原爆を落とされたのは、
    日本が、中国の重慶の爆撃をしたからだ・・と放送した。
    まったく、根拠のない、嘘の、日本人を洗脳する卑劣な放送だった。
    そして、アメリカは、真珠湾攻撃前に、中国で、隠密裏に、日本を
   奇襲攻撃をしていた。
    アメリカよ!・・謝罪せよ!!
.
1938年12月4日~1943年8月23日、重慶爆撃
  1937年に起きた第二次上海事変の結果、日本軍は、中
 華民国の首都・南京を攻略し占領した。
  これに対して、中国・国民政府は、首都機能を南京か
 ら漢口に移転した。
  しかし、漢口も陥落したため、さらに、内陸である四
 川の重慶への首都の移転をした。
  アメリカは、この年・1937年から、この中国の国民政
 府・蒋介石へ、大量の武器などの軍事物資を「援蒋ルー
 ト」を通じて送り続けた。
  後に、正規のアメリカ軍人(例えば、クレア・リー・
 シェンノートら)を参加させ、
  また、退役軍人だと称したり、義勇軍だと称したりし
 てアメリカ軍をも、秘密裏に対日戦に参戦させた。
  れっきとした大統領のルーズベルトの命令であった。
  日本の真珠湾攻撃以前に、アメリカは、この様な事を
 していた。
  日米の戦端は、日本の真珠湾攻撃以前に開かれていた。
  日本が、「真珠湾攻撃の奇襲をした」何て言われる筋
 合いはない。
  逆に、『アメリカが、隠密裏に、中国で、日本を奇襲
 攻撃をしていた』のだ。
  アメリカよ!・・謝罪せよ!!
  日中戦争が収束しないで、拡大の一方だったのは、日
 本を叩きたいアメリカの思惑だった、方針だった。
  この様な経緯の中で、真珠湾攻撃へ至ることは、アメ
 リカが承知し、れっきとした方針だった。
  この様な、これからの経緯をたどる中で、日本は、こ
 の時、中国の重慶を爆撃した。
  (因みに、第二次上海事変も、「起こされた事変」だ
 った。
  この頃の日本の方針は、穏便に収めたいという方針だ
 った)
  この様な中、中国軍も、ここ重慶へ撤退し、逃げた。
  それ故、日本は重慶を爆撃した。
  しかし、NHKは、日本の公共放送NHKは・・、
  この爆撃が、広島・長崎の原爆投下をした原因になっ
 たのだという論理をNHKは言い出した。
  まったくの言い掛かりである。
  卑劣な、そして、真実を知らない言い掛かりである。
  朝日新聞が、慰安婦問題で、嘘記事・捏造記事を書き
 謝罪をしたが、
  NHKも、この論理・言い掛かりも、この様なもの。
  また、毎日新聞も、朝日新聞と同じ様なことをしよう
 としているから注意を要する。
  ひたすら日本だけの悪い所を言い続け、公平な言い方
 をしていない。
  NHKも同じ事をした。
  その言い方の卑劣な所は、「広島や、長崎に原爆が落
 ちたのは『自業自得だ』的な言い方」のところである。
  NHKは、たちが悪い。
  それは、「日本が先に中国の無差別爆撃をしたからだ」
 の言い方である。
  東京大空襲の無差別爆撃も、大阪の無差別爆撃も、日
 本の各地の都市の無差別爆撃も、皆、この中国のこの爆
 撃行為が原因だのような言い方である。
  そして、アメリカが原爆を投下したのは、だから、正
 しいのだの言い方である。
  正しい訳がない。
  さも、低劣な論理の『町のあんちゃん』が、「お前が、
 先に手を出した」、「俺につっかけたから、刺したんだ」
 という言い掛かりがごとくである。
  こんな言い方が、世の中に通るなら、世の中が、まっ
 たく恐ろしい世の中になってしまう。
  世の中に、常識が通らないこの様な放送を、公共放送
 であるNHKが、全国放送をするから・・恐ろしい。
  NHKは、時々、この様な国民をだまし、そして、洗
 脳する嘘放送をするから恐ろしい、始末が悪い。
  こんな簡単な論理が解らないで、マスメディアを繰り、
 そして、利用できるという立場にNHKは居る。
  常識が、まったく無いと言える。
  NHKは、巨大な放送媒体を使って、超強力な影響力
 のある放送媒体を、我が物の様に使って、まったく自制
 心なく、この様なプロパガンダ(嘘宣伝)放送をしてい
 る。
  スペインは、日本より早く空爆をしている。
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教国・スペイ
 ンには、この様な偏見放送はしない。
  スペインが、空爆で、嫌と言うほど爆弾を投下したの
 が、1936年~1939年のスペイン戦争時・・、
  日本の重慶爆撃が、1938年12月4日~1943年8月23日で、
 8年も後の事である。
  完全に、スペインの方が早い。
  空爆の行為は、1914年から始まった第一次世界大戦で、
 既に、行なわれていた。
  また、1849年には、オーストリア帝国が、ベニスを気
 球で爆撃している。
  1871年には、フランス政府が、パリコミューンに爆撃
 している。
  1911年には、イタリア軍が、飛行機からトルコに手榴
 弾手を投下している。
  1912年~1913年に、バルカン戦争で、22ポンド爆弾を
 開発して、盛んに都市爆撃をしている。
  1914年の第一次世界大戦では、ドイツが、パリ爆撃を
 し、
  1915年は、飛行船で、
  1917年に、イギリス本土爆撃を、
  そして、イギリス・フランスも、その報復爆撃を、1915
 年後半には、戦闘機・爆撃機と別れて盛んに爆撃してい
 る。
  日本は、1914年9月の青島の戦いで、海軍のモーリスフ
 ァルマン式飛行機の4機で、青島市街が最初。
  この飛行機は、ライト兄弟の飛行機の様な飛行機で、
 爆撃したと言えないくらいだった。
  そして、この戦いは、第一次世界大戦であるので、こ
 の後、ドイツ戦艦に対して実施した。
  命中しなかったという。
  心理効果を狙った。
  NHKよ! 重慶爆撃以前に、こんなに空爆の事例が
 あるのに・・、
  何故?? 重慶爆撃だけが、「原爆投下につながった
 のか?」「広島・長崎の原爆投下につながったのか??」
 ・・説明せよ!!
  説明できなければ、謝罪せよ!!
..
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