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2015年9月12日土曜日

(増補版)203D2/3:気になった事柄を集めた年表(1811年~1812年)

題:(増補版)203D2/3:気になった事柄を集めた年表(1811年~1812年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1811年8月、入墨禁止条例(文身禁止令、彫物御停止令)
  勇みの者の間では素肌に絵などの彫りものをする流行
 が起こり、
  入れ墨は風俗を乱し、無傷の者がわざわざ総身に彫り
 物をするのは、恥ずべきものであり、心得違いであると
 した。
  「身体に疵(きず)をつける事は、恥ずべきことであるの
 に、若い者は これを伊達(だて)だと心得違いしている」
 と、幕府が「無頼の美」として禁止した。
  文身(ぶんしん)、入れ墨、彫り物の意味。
  無頼(ぶらい)、正業に就かず、無法な行いをする。
1811年11月、伊能忠敬が、幕命で、第8次の測量(九州残部
 の測量)に出た。
  翌年の1812年1月に、九州北部(筑前、筑後)、種子島、
 屋久島、五島列島など。
1811年12月、幕府が、5カ年の倹約令を発布した。
1811年12月、幕府が、諸国河川の自普請を奨励した。
1811年、三橋(さんきょう)会所が、米価引き上げのため江
 戸・大坂で大量の買米を行った。
  幕府の買米政策に加わることで、江戸市場を強化しよ
 うとして、三橋会所や十組仲間からの多額の資金を使っ
 て米市場に手を出し、米価引き上げを図った。
  だが、効果はなかった。
1811年、中国の清が、西洋人の内地の居住と、キリスト教
 の伝道を禁止した。
1812年1月、幕府が、幕領の回米諸経費の一律2割減を命じ
 た。
  これによって、川船運賃・河岸の小揚げ・倉敷料がと
 もに減額された。
  小揚げ(こあげ)、船荷を河岸に運び上げること。
  倉敷料(くらしきりょう)、倉庫に物品を預けたとき
 に支払う保管料。
1812年4月、白河藩主の松平定信が役職から隠退した。
  家督を長男の定永に譲っての隠居だったが、藩政の実
 権は掌握していた。
  桑名が良港であるため、定信の力によって、この年に、
 伊勢桑名藩への領地替えが、定信の要望によって行なわ
 れた。
  しかし、下総佐倉藩との軋轢からの懲罰的転封という
 説もある。
1812年6月、浪人取締令が、関東全域に出た。
1812年8月、高田屋嘉兵衛がロシア船に捕らえられる。
  国後島(くなしりとう)付近で、ゴローニンを日本が
 逮捕したことの報復として捕らえられ、ロシアに連行さ
 れた。
  日本人の高田嘉兵衛は、国後島において、日常の活動
 として商活動などをしていた。
1812年9月、古鉄買取締り令
  幕府が、組合仲間以外からの古鉄買いを禁止し、買入
 れの規則を守るよう命じた。
1812年11月、幕府が、真鍮吹所(真鍮製造所)大阪銅座の
 ほか京都・山城国伏見・江戸の4か所に限って定めて、真
 鍮の販売にあたらせ、以外での諸国真鍮地金・荒鉛の売
 買は禁止した。
1812年12月、若年寄の堀田正敦(ほったまさあつ)の建議で
 編纂が始められ、
  大名・旗本らの系譜の「寛政重修諸家譜(かんせいち
 ょうしゅうしょかふ)」1,530巻が、売成した。
  これは、幕府が、1799年に企画していたもので、
  幕府は、先に「寛永諸家系図伝」を編んでいたが、
  その続集を編纂する計画を改めて、全面的に改編をし
 た。
  多くの学者が動員されて、14年が費やされた。
  徳川諸家については除かれている。
  現存していて、国立公文書館の一部局である内閣文庫
 に所蔵されている。
1812年、ガス供給を目的とする世界最初のガス会社が、ロ
 ンドンに設立された。
  日本では、1872年、横浜が最初(ガス灯)。
1812年6月~1814年12月、アメリカとイギリスの戦争(米
 英戦争)。
  北米植民地戦争。
  アメリカに対して、イギリスの植民地であるカナダと、
 生き残りをかけた可哀想なインディアン諸部族がイギリ
 ス側についた。
  イギリス側に付けば、自分たちの土地が還って来るも
 のと、イギリスと同盟して戦ったインディアンの方たち
 だった。ペテンであった。
  五大湖の近くで、アメリカ軍に対峙するイギリス軍と
 同盟し、戦った。
  しかし、同盟したイギリス軍は、テイムズの戦いでイ
 ンディアンの方たちを見捨てた。
  同盟を進めたインディアンの族長はこの地で戦死した。
  族長が死んだショーニー族は、安全で平和な暮らしの
 あった地を去った。
  そして、ミシシッピー川の西へと移って行った。
  東部に残った部族も、アメリカ大統領がジャクソン大
 統領になると、移住せざるを得なくなった。
  アメリカ合衆国は、その政策を、卑劣にも「文明化政
 策だ」と言った。
  本来の居住者を他国へ追いやって何が文明化だと・・。
  また、キリスト教徒になったりして、土地の返還を希
 望し、
  かつての幸せな生活を取り戻したかったチェロキー族、
  そして、ヨーロッパ化に努力したクリーク族やチェロ
 キー族も、
  その地に金が発見されるや、アメリカ合衆国は、この
 インディアンの方々を追い出しにかかった。
  このインディアンの方々は、アメリカ合衆国の法律で
 抵抗した。
  白人の法に訴えた。
  合衆国最高裁判所に訴えた。
  卑劣な事に、評決はすぐに出た。
  結論は決まっていますと言うがごとくだった。
  「チェロキー族の国は国内の一国家である。したがっ
 て独立国家ではない。独立国家として認めない」だった。
  アメリカの憲法で「国家」だと認めた話は嘘だった。
  また、その国家は「一国家」で「独立した国家」では
 ないという屁理屈であった。
  ペテンと詭弁(きべん、道理に合わないことを強引に
 正当化しようとする弁論)だった。
  こうして、チェロキー族の方々は、1830年に、「涙の
 旅路」を言われている移動を強制された。
  ミシシッピー川の先のオクラホマへと移った。
  その地には、既に、東部を追われた10以上の部族の方
 々が居た。
  また、この地も、この後、アメリカ合衆国の白人たち
 の都合で取り上げられ、追われることになる。
19世紀、イギリスは、19世紀に、世界領域の4分の1を支配
 し、その人口は全人類の3分の1に及んだ。
  イギリスが、新興国を押さえつける手法も卑劣であっ
 た。
  まず、主敵を一カ国に絞る。
  それ以外の国については、極力味方につけるか、少な
 くとも中立を維持させる。
  その上で主敵をやっつけるのだが、徹底的にはやらな
 い。
  余力をある程度残したところで、敵国の名誉を維持し
 ながら講和をする。
  そして、かつての敵国を、今度は味方に取り込み、次
 に現れる主敵と戦う際に、現在は同盟国となった旧敵国
 を尖兵として用いる。
  イギリスが平和裏に世界の覇権を獲得したというのは
 偽り。
  イギリスは狡猾である。
  自国を戦場にしない。
  ヨーロッパ大陸や海上で戦闘を展開する。
  敵をイギリスと利権が競合する最強国に絞り、それ以
 外の諸国とは、利権の競合が生じる場合でも、できるだ
 け友好関係を維持するようにつとめる。
  戦争が起きても、敵国を徹底的にやり込める事は避け
 る。
  敵国の名誉と余力を保全し、戦後は旧敵国をイギリス
 の味方に抱き込もうとする。
..
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2015年9月11日金曜日

(増補版)202D2/3:気になった事柄を集めた年表(1809年~1811年)

題:(増補版)202D2/3:気になった事柄を集めた年表(1809年~1811年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1810年2月、松平定信が、房州海岸の警備を命じられた。
  これは最初の海防施設の設置についての指示だった。
  今の富津市の竹岡と千倉町の白子、そして、鏡ケ浦の
 波左間などに陣屋を設置し、洲崎には台場を築いた。
  今現在の研究によるとその個所は30か所以上となって
 いる。
  内房および外房に、また、犬吠埼にも数か所設置して
 いる。
  陣屋と言ってもしっかりした囲いの中に出来ていた。
  例えば、その一つである富津陣屋は24000平方メートル
 あった。
1810年3月、幕府の天文方の高橋景保(たかはしかげやす)
 が、間重富・馬場佐十郎らの協力を得て「万国全図(ば
 んこくぜんず)」を完成した。
  1816年に、銅版印刷をして官版の「新訂万国全図」が
 出るが、これは、単なる翻訳ではなく、独自性があふれ
 るものとなっている。
1810年7月、緒方洪庵(おがたこうあん、蘭学者、蘭医、
 教育者)が、備中(岡山県の西部)に生まれた(1810年
 ~1863年)
  1830年に、江戸に出て蘭学を学び、
  そして、1836年に、長崎で医学を学び、
  その後、1838年に、大坂に戻り、医業のかたわら、蘭
 学塾(適塾)を開いた。化学なども講じた。
  洪庵の名声は高く、全国から俊秀が集まり、青年を教
 育した。
  塾内寄宿門人は637名を数え、外塾生を合わせての門人
 は3000人とも言われた。
  門人には、福沢諭吉や橋本左内、大村益次郎、大鳥圭
 介らがいる。
  明治期に日本で活躍した多くの人材を輩出した。
  洪庵は、1862年に、幕府からの強い要請を受け、奥医
 師と西洋医学所頭取に就任した。
  著書、訳書は多く、種痘の普及に尽力し、大坂に除痘
 館(じょとうかん)を設け、天然痘の予防に貢献し、
  また、蘭学の発展に貢献し、日本における西洋医学の
 基礎を築いた。
1810年8月、洋画家・思想家の司馬江漢が「独笑妄言(どく
 しょうぼうげん)」を著した。
  司馬江漢の思想を説いた書で、
  序に顕微鏡が出て来る。
  顕微鏡でアリを観察したスケッチがある。
1810年10月、豊作になった。幕府は、非常時のために、諸
 大名に、1万石あたり非常用の囲籾(かこいもみ)1,000俵
 (囲米ならば500俵)を命じた。
1810年、藤林普山(ふじばやしふざん、蘭学者、医師)の蘭
 日辞書「訳鍵(やくけん)」が刊行された。
  普山は、1796年に、京都に出て、医学を学んだ。
  その時、稲村三伯(いなむらさんぱく、医師)の欄和
 辞書の「波留麻和解」を購入して帰郷し、蘭学を10年間
 独学した。
1810年、八隅蘆庵(やすみろあん)の「旅行用心集」が刊
 行された。
  初心者が、安全に旅行するための旅に出る際の心得を
 まとめたマニュアル本。
  「牛の糞を草履の裏へ塗って山道を歩けば、獣や蛇、
 まむし、毒虫などは、恐れて近づかない」
  旅の心得61ヶ条を始め、諸国の温泉、街道の里程など
 が記されている。
1810年代、ロシアが、ベーリング海峡からアラスカに支配
 権を拡大し、
  北アメリカ大陸を太平洋に沿って南下する政策を進め
 ていた。
  この頃のアメリカは、イギリス領カナダと、国境の画
 定をすでにしていたが、
  太平洋側のオレゴンと呼ばれた一帯を、イギリスと領
 土紛争を続けていた。
  アメリカは、1823年に、モンロー宣言(ヨーロッパか
 らの干渉の拒絶、意識下に南北アメリカ大陸を支配下に
 したいがあった。アメリカ大陸をアメリカの従属国的に
 勝手に言った形)をし、中南米は我が領土の様な態度で
 いたが、実際は、イギリスが守っていた。
  実際は、この頃のアメリカと言えば、インディアンの
 方々の土地を躍起になって奪っていた。
  アメリカは、中南米までの責任が取れるという体制で
 はなかった。
1810年代、各国でガス灯が実用化した。
  18世紀後半、すでに、ベルギー人やフランス人によっ
 て開発されたとする説がある。
  イギリスのマードックによって、1792年に実用化され、
 広く使われるようになった。
  ロンドンで1812年に、また、フランスで1819年に、ガ
 ス事業が開始され、世界の大都市にガス灯が普及した。
  日本では、1871年に、横浜の外人居住地に初めて点灯
 された(1872年に、横浜の馬車道本通りに初めて使用さ
 れたともある)。
19世紀の初め、ヨーロッパで生まれたチョーク。
  日本には、1873年に、フランスから輸入されたのが最
 初で、
  1875年に、杉本卯之助が、初めて国産品を作ったとい
 う。
1811年2月、蕃書和解御用掛(ばんしょわげごようかかり、
 翻訳局〉が設置された(5月説あり)
  幕府によって設置された蘭書を中心とした翻訳機関。
  幕府の編暦・測量を司る天文方内に置かれた。
  中心に居たのが高橋景保、大槻玄沢らであった。
  初め「世界地図翻訳事業」のため、1808年から、長崎
 の通詞の馬場貞由(佐十郎)が呼ばれていたが、1810年
 に「新訂万国全図」の刊行で一段落した。
  しかし、1811年になって、馬場貞由の引き留めをして、
 「家庭百科辞書」の蘭訳本の翻訳を高橋景保の下で行う
 こととし、馬場佐十郎(貞由)が中心となって、大槻玄
 沢も参加して行われた。
  故に、事業は、フランスの家庭百科事典のオランダ語
 からの重訳となり、訳した書は「厚生新編(こうせいし
 んぺん)」とも呼ばれた。
  この事業は、安政のころまで続き、有能な人材を輩出
 した。
  オランダ語訳本から、実用的な項目を選択して翻訳し、
 蘭学の発達・普及に貢献した。
  因みに、重訳(じゅうやく)とは、原語から直接に翻
 訳するのでなく、一度ほかの外国語に翻訳されたものを
 通して翻訳すること。
1811年2月13日、村田春侮(むらたはるみ、国学者、歌人)
 が没した(1746年~1811年、66歳)
1811年2月、オランダ通詞の本木正栄(もときまさひで、本
 木庄左衛門)が、「諳厄利亜興学小荃」を著した。
  日本で作られた最初の英単語集で、英会話集と言われ
 ている。
1811年3月5日~6日、江戸市ヶ谷文化8年谷町の大火
  江戸の町に西北西の風が激しく吹いた午後3時頃、市ヶ
 谷谷町からの出火した。
  この火事で、四谷御門外の堀端の家々が一面全焼した。
  青山から赤坂溜池、麻布谷町、同市兵衛町、芝から赤
 羽橋あたりまで焼け、
  増上寺境内の宿坊を焼いて鎮火した。
  500人が死亡し、負傷者は数知れず、
  2万軒が焼失した。
1811年3月、間宮林蔵の北方地理誌の「東韃(とうたつ)地方
 紀行」が刊行された。
  幕府の命によって、樺太西岸を北上し、樺太が島であ
 る事を発見し(間宮海峡の発見)、
  また、黒竜江下流地域の東韃地方まで探検・調査した
 事について、間宮林蔵が口述したものを、村上貞助が編
 集・筆録した。
  1810年の成立で、1811年に幕府へ献上した。
1811年3月、烏亭(立川)焉馬(うていえんば、戯作者)
 の「花江都歌舞妓年代記」が刊行された。
  江戸歌舞伎の根本資料として貴重と言われている。
1811年5月、式亭三馬の滑稽本の「浮世床(うきよどこ)」
 初編が刊行された。
  江戸庶民の社交の場であった髪結い床に集まる様々な
 江戸庶民の人物像と、陽気な会話・世間話を通して、当
 時の生活を克明に活写し、市民生活の側面があざやかに
 描き出されている。
  江戸庶民の生態が明らかにされ笑いの趣向も加わわっ
 ている。
1811年6月、ロシア艦長のゴローニンが捕らえられたゴロー
 ニン事件
  千島列島を測量していたロシア船ディアナ号の艦長・
 ゴローニンを、
  幕府は、偽計(ぎけい、人をあざむく計略)により逮
 捕し 、監禁した。
  [事件内容]:
  日本の領土の国後島に、ロシア軍艦の乗組員が上陸し
 た。
  船長をゴローニンと言った。
  ゴローニンらは、日本の松前奉行に捕えられた。
  牢に入れられ抑留(よくりゅう、おさえ留める事)さ
 れた。
  ゴローニン事件という。
  ゴローニンらは、水や薪が欲しかった。
  また、ゴローニンらは、北太平洋の測量をしていた。
  その後、ロシアは、幕府の御用商人の高田屋嘉兵衛を
 捕まえ、2年後の1813年に、日露間で人質交換をして解決
 した。
  ナポレオンの生情報まで知っていた。
  また、幕府は、直接的な貿易をしているオランダに、
 外国情勢について報告させており、外国情報を知ってい
 た。
  徳川慶喜も、大政奉還後、自らをナポレオンになぞら
 えたくらいだった。
  日本は、清国と違い、外国の諸情勢を知っていた。
  黒船来航時は驚いたが、
  外国の諸情勢は知っていたので、条約交渉に後れを取
 る様な立場ではなかった。
  また、黒船は来るだろうとは思っていた。
  また、幕府は、したたかな事をしようとまでしていた。
  ゴローニンの部下に、ムール少尉という男が居た。
  この男は、親日的で、日本に帰化して通訳になりたい
 と思っていた。
  そのムールが書いた「ムール上申書」を、欧州で出版
 しようとまで試みていた。
  外国世論を動かしたいと思っていた。
  鎖国の中に、ただじーっとしている幕府ではなかった、
 日本ではなかった。
  日本の先人の勇気と英知の一端がうかがい知れる。
             (参考:読売新聞)
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2015年9月9日水曜日

(増補版)201D2/3:気になった事柄を集めた年表(1808年~1809年)

題:(増補版)201D2/3:気になった事柄を集めた年表(1808年~1809年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1808年4月20日、ナポレオン3世が生まれた
  フランス第二帝政の皇帝(在位、1852年~1870年、生
 涯1808年~1873年)
1808年5月2日、スペインで、イベリア半島戦争が起きた(
 スペイン独立戦争ともいう)。
  1808年に、フランスのナポレオン軍のスペイン侵入が
 始まった。
  その侵入に対して、1808年~1814年、スペイン民衆が、
 ナポレオンの支配に抵抗して行った戦争。
  1808年5月2日に、マドリードで蜂起した民衆の行動に
 端を発して、全国的にゲリラ戦が展開されて行った。
  イギリス軍も加わって、フランス・ナポレオン軍を一
 掃した。
  スペイン王の無能な政治に対する不満が大衆にはあっ
 た。
  3月17日にはアランフェスで暴動も起きていた。
  1808年7月のバイレンの戦でスペイン側が勝利し、
  フランスのナポレオンが、国王の地位に付けていたナ
 ポレオンの兄のスペイン王であるホセ1世が、マドリー
 ド撤退した。
  この時、スペインは、卑劣な事に、協定違反して、フ
 ランス軍の捕虜を、カブレラ島に連れて行って殺ろして
 いる。
  その後の1810年に、フランス軍が攻勢に出たが、1811
 年には敗勢に向かい、1813年10月には、フランス軍は、
 ほぼ一掃された。
  これによってナポレオンの大陸支配が崩壊して行く端
 緒となった
1809年1月、式亭三馬(しきていさんば)の「浮世風呂(う
 きよぶろ、滑稽本)」前編が刊行された(4年後に完結)
  江戸・庶民の社交場であった銭湯を舞台にして、
  様々な人々が、多様なやり取りの中を通じて、生活や
 風俗の諸様相を写し出している。
1809年2月、菱垣廻船積仲間の十組問屋が、大川筋の3橋の
 普請を引き受けて、三橋会所(さんきょうかいしょ)の
 設立許可を幕府から得た。
  三橋会所は、江戸の十組問屋を中心とする菱垣廻船積
 問屋仲間の会所のことで、
  大坂と江戸を結ぶ菱垣廻船は、畿内産をはじめとする
 諸国の物産を輸送したが、海難による被害が著しく、ま
 た、樽廻船との競合もあって、18世紀後半以降、衰退し
 つつあった。
  菱垣廻船を支配していた江戸十組仲間は、大坂からの
 下り商品を独占的に扱っていたが、仲間外の商人の台頭
 によって、その地位が揺るぎはじめていた。
  そのため、問屋としての特権が、権力によって保障さ
 れたいと望むようになった。
  1809年に、十組仲間は、永代橋・新大橋・大川橋の三橋
 の架替えの修復を引き受けることを申し出て、幕府から
 会所を設立することを許された。
  頭取として杉本茂十郎(元、飛脚問屋大坂屋茂兵衛)が
 任命された。
1809年8月27日、伊能忠敬が、幕命によって、九州沿岸の測
 量のために江戸を出発した。
  忠敬は、旧暦の8月27日に江戸を出て、岩槻、高崎、上
 諏訪、馬篭、岐阜、 関ヶ原を経て、
  11月5日に、淀城下に着いた。
  その後、山陽道を明石、姫路、竜野、岡山、広島と通
 り、
  12月も押し迫った頃の27日に、小倉城下に着いた。
   年が明けて、12日には、小倉を出立し、中津、杵築
 を経て、江戸を出てから約半年後の2月に、当地の測量を
 した。
1809年 秋、与謝蕪村の俳諧選集「蕪村七部集(ぶそんしち
 ぶしゅう)」が刊行された。
  これは、蕪村関係の句録である「其雪影(そのゆきかげ)」
 「明烏(あけがらす)」「一夜四歌仙」「花鳥篇」「続一
 夜四歌仙」「桃李(ももすもも)」「続明烏」の7部に、
  「五車反古(ごしゃほうぐ)」を収めている。
1809年12月、徳川家康から10代家治までを扱った徳川家の
  歴史書である「徳川実紀(とくがわじっき)」の編集
 が開始された。
  516巻、1849年に完成した。
1809年、十返舎一九の「東海道中膝栗毛(とうかいどうち
 ゅうひざくりげ、滑稽本)」の8編が完結した。1802年~
 1809年(1814年を刊とするものもある)。
  好評を博して、続編を20年に渡り書き続けた。
  書名が、初編が「浮世道中膝栗毛」、
  二偏が「道中膝栗毛」、
  三編より「東海道中膝栗毛」となる。
  また、十返舎一九は、『続膝栗毛』として、
  金毘羅参詣(こんぴらさんけい)、
  宮嶋(みやじま)参詣、
  岐蘇(きそ)街道、善光寺道中、草津温泉道中などに、
 弥次さんと喜多さんの滑稽を描いている。
  完結したのは、1822年とある。
1809年、島津斉彬(しまづなりあきら、鹿児島藩主)が生
 まれた(1809年~1858年)
  藩政改革を富国強兵策を推進した。
  また、反射炉や機械制工業などを、他の藩に先駆けて
 行い、
  西郷隆盛や大久保利通などの英才を抜擢し、明治維新
 の先駆的役割をなした。
  この卓越した識見を、松平春嶽は、「英明近世の第一
 人者」と称した。
1809年、アメリカ合衆国のエイブラハム・リンカーンが生
 まれた(1809年~1865年)
  奴隷の解放をしたと言われているが、作られた名声、
  また、子供の時に目の前で祖父がアメリカ・インディ
 アンに殺され、アメリカ・インディアンに対する厳しい
 気持ちを持っていた。
  彼のアメリカ・インディアンの寄留地への移動の命令
 によって、多くのインディアンの方々が亡くなった(死
 の移動命令をした)。
  また、弁護士時代に、法律的な面から、インディアン
 の方々土地の没収に関して、盛んに、厳しく行動した。
1809年、シューティング・スター(テクムセ)は、アメリ
 カ・インディアンのショーニー族の族長である。
  アメリカ西部のウェイン砦で取り交わされた条約の条
 項に従って、インディアンの方たちは、知らないうちに
 広大な土地をアメリカ合衆国政府に譲る羽目となった。
  相手がすべてを了解していない条約。
  テクムセは、この翌年の1810年に、アメリカ合衆国の
 インディアナ州総督と出会ったとき、
  『土地購入は無効だ』という事を言い、
  条約の無効の宣言をした。
  このインディアナ総督は、1809年の条約取り決めの時
 に、アメリカ合衆国の代表として出席していた男だった。
  インディアンには、インディアンにとって、土地は、
 共通のもので、平等であるものなのだ。
  我々の土地は、過去を振り返って見ても、誰かが持つ
 という事は一度もなかった。
  バラバラに分割されて持つことも一度もなかった。
  それは、いつでも、すべてのインディアンのもので、
 誰が使っても良いものだった。
  誰一人として、それをほんのひとかけらでも売ること
 は出来ない。
  我々の誰に対してもできないし、すべてを欲しがり、
 しかも、譲歩する事を知らないよそ者に対しても、もち
 ろんできない。
  白人は、インディアンの土地に対していかなる権利も
 持っていない。
  そこに最初に住みついたのは、インディアンだからだ。
  そこは、インディアンの土地である。
  1つの地に、2人の所有者が住むことは出来ない・・
 と、説明した。
  アメリカ合衆国は、正当な契約相手ではない者と契約
 した。それなのに・・、
  それを、契約したと称して、土地を、領土を奪った。
  当然、今・現代、発展し、進んでいる現代社会におい
 て、土地を購入する場合、
  「正当な土地所有者を、そして、その正当な土地所有
 者が居ないのであれば、探してまでして、契約しなけれ
 ば、その契約は成立したとされないし、その契約は無効
 とされる」。
  当然である。
  アメリカ合衆国の、土地契約は、この無効の契約であ
 る。
  アメリカ合衆国の土地契約のそのすべてが、契約相手
 が正当ではない者との間で結ばれている。
  18世紀の地図を見ると、アメリカ合衆国全土で、アメ
 リカ・インディアンの方々が、そのすべてで、どこでで
 も、静かな生活を営んでいる、生活をしている姿が、幸
 せな生活が営まれている事が分かる。
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