ページビューの合計

2015年4月4日土曜日

(増補版)59C1/3:気になった事柄を集めた年表(1499年~1512年)

 題:(増補版)59C1/3:気になった事柄を集めた年表(1499年~1512年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
16世紀、フィリピン:1500年頃まで、小部族が数千の島
 々に居住しているのみで、国家は無かった。
  因みに、フィリピンの名前のある島は約4600、その内、
 人の住む島は2000ほど。約5000の島が無人島。
  ルソン島では、16世紀に、部族を越える組織が出来つ
 つあったが、スペイン人の来襲で挫折する。
  同じく、マゼラン(ポルトガル人)が、この地へ来て、
 フィリピン・マクタン島で戦い、1521年(16世紀)に、
 戦死している。
  スペイン・ポルトガルが、進んだ兵器を持って、世界
 中を荒らしまわり、黄金・宝石などを奪っていた。
  また、インド洋の覇権をイスラムから奪おうと争って
 いた。
16世紀、インカ帝国がスペインによって滅ぼされた。
  インカ帝国:16世紀初頭に、コロンビア・エクアドル
 国境からチリ中部までを領域とする大国家に発展、全国
 を貫通する公道が作られていた進んだ国家だった。首都
 はクスコ。
  経済基盤は、トウモロコシやジャガイモの栽培とラマ、
 アルパカの飼育で、支配地からの徴税品は都や各地の倉
 庫に貯えられた。
  国家宗教の太陽崇拝の他、祖先崇拝も盛んで、代々の
 皇帝のミイラを祀る神殿が建てられた。
  第13代アタワルパが、スペイン人ピサロに殺され、帝
 国は事実上滅んだ。
16世紀、マヤ文明:メキシコ南東部の栄えた文明。
  紀元前3000年からの歴史がある。
  16世紀に、マヤ族は、スペイン人の侵入を受け、
  1697年に、独立を保っていた最後の国・タヤサルが
 陥落した。マヤ圏全域がスぺインの支配下に置かれた。
16世紀初め、マレーシア:16世紀初めに、ポルトガルが
 侵攻した。
16世紀、この頃、朝廷が衰え、公家・帰属が地方へ下った。
1501年、アメリゴ・ヴェスプッチ(イタリア)が、ポルト
 ガルの要請の第三回航海(第四回とも言われる)で、南
 米大陸の東海岸を、ブラジルから南下し、
  それが、大陸であることを、初めて認めた。
  彼は、「4回の航海」というパンフレットを発表して、
 新大陸だと言った。
  そして、1507年に、ドイツの地理学者・ヴァルトゼー
 ミューラーが、彼の名を冠して、新大陸を「アメリカ大
 陸」と呼んでから、その名が新大陸名として用いられる
 ようになった。
1502年、中国の明から、和泉堺に金魚がもたらされた。
1504年、京都の公家が多く諸国に赴いた。
1505年、ルターが、アウグスティノ修道院に入った。しか
 し、彼は罪悪感に苛(さいな)まれる。
1506年、教皇ユリウス2世は、最盛期のルネッサンスの天
 才たちを集めて、サン・ピエトロ大聖堂の再建を始めた。
  建築家ブラマンテ、画家ラファエロ、彫刻家・画家ミ
 ケランジェロ。
  ラファエロは、彫刻家として入ったミケラ ンジェロの
 足を引っ張るために、彼に絵を描かせるよう教会に進言
 した。
  芸術家の仕事の奪い合いの世界だった(仕事場は資金
 を持つ教会ぐらいしかなかった)。
1506年4月7日、フランシスコ・ザビエルが生まれた。
 ~1552年、46歳。
1506年、雪舟が没した(1420年~1506年)
1507年、ルターが、キリスト教の聖職者の司祭になった。
  彼は、鬱(うつ)傾向にあった・・で、彼は、キリス
 ト教内にある序列(ヒエラルキー)や習慣や富の蓄積に
 ついて批判した。
  例えば、サン・ピエトロ大聖堂の膨大な建設資金を得
 るために、ローマ教皇は、免罪符を盛んに売り出した。
  また、地方のキリスト教会も乱れに乱れ、堕落してい
 た。
  居るべき司祭が居ず、名前だけとなっているのに、集
 められた金を取り上げた。
  また、キリスト教聖職者が、無気力で無能な身内の者
 を、自分さえよければ良いと、キリスト教会内の役職に
 つかせることが横行した(今・現在でも、この様な事は、
 キリスト教内で行なわれている)。
  また、裕福で暇なキリスト教聖職者の肉欲に耽(ふけ)
 る姿が、目にあまる状態だった。
  そしてまた、この様な聖職者の美食に耽る姿も多い状
 態だった。
1507年、新大陸が初めて現わされたヴァルトゼーミュー
 ラー(ドイツの地理学者)の「世界誌入門」が作られた。
  「アメリカ」という名を初めて用いた。
1510年頃、松永久秀(まつながひさひで、武将)が生まれ
 た(1510年頃~1577年)
  後世に(特に、江戸時代に)、人物像が悪く作られて
 いる、例えば、「謀叛癖のある人物」とかと、
  彼は、謀叛を起こしたことはない。
  そういう意味で可哀想な人物。茶人である。
1510年、この頃、小田原など城下町が栄える。
1510年4月、三浦の乱(サンポのらん)。
  朝鮮国慶尚道三浦で起きた。
  対馬守護宗氏と朝鮮に居留している日本人が、反乱を
 起こした。交戦相手は李氏朝鮮。
  日本人居留地の三浦の邦人が、通交していた。
  この通交に対して、次第に制限が加えられていった。
  そして、強硬な姿勢で臨まれ、乱となった。
  対馬の宗盛弘の応援を得て釜山を攻めたが、鎮圧され
 た。
  その結果、三浦の居留地は廃止となり、通交の大幅な
 制限を受けるようになった。
  これは、倭寇に対する、朝鮮側の防備の状況が漏れる
 のを恐れたことと、
  通交が、朝鮮側の利益を産み出していなかったことが
 あった(通交者の滞在費や、交易品の輸送が、朝鮮側の
 負担となっていた。そして、日本の経済発展に伴い交易
 量が増大し、その負担が増となっていた)。
1512年、教皇ユリウス2世は、ミケランジェロに命じて、
 システィーナ礼拝堂の天井画『天地創造』を描かせ、こ
 の年に完成した(1508年~1512年)。
  ミケランジェロは、天井画制作を命じられたものの、
 自分の本職は画家ではなく、彫刻家であると自認してい
 たので、この仕事には気乗りがしなかった。
  それに加え、当時のミケランジェロは、教皇の墓碑制
 作の仕事に忙しく、数多くの彫像で飾られた彫像制作の
 仕事に追われていた。
  教皇も譲らず、ミケランジェロは、仕事を引き受ける
 以外の選択肢しかなかった。
  この頃、ローマ教皇は、教会の事だけでなく、軍事面
 にも関わっていたので、フランスとの紛争が発生すると、
 天井画よりも戦争の方に向かったので、その隙に、ミケ
 ランジェロはシスティーナのローマから逃亡した。
  その後、戻って来たローマ教皇に、再び、呼び出され
 天井画を命じられ、ミケランジェロは制作を始めた。
1512年~1524年、スペインとフランスが戦争をした。
  この頃、ヨーロッパは、節操なく、同盟したり、手を
 切ったり、ぐちゃぐちゃした戦争を、色々な国を巻き込
 み、戦争ばかりしていた。
  例えば、1508年から1510年に戦った戦争は、教皇領・
 フランス王国・神聖ローマ帝国・スペイン・フェーラ公
 国。相手はヴェネツィア共和国。
  1510年から1511年の戦争は、教皇領・ヴェネツィア
 共和国。相手はフランス王国・フェラーラ公国。
  1511年から1513年の戦争は、教皇領・ヴェネツィア
 共和国・スペイン・神聖ローマ帝国・イングランド王国。
 相手はフランス王国・フェラーラ公国。
  1513年から1516年の戦争は、教皇領・スペイン・神
 聖ローマ帝国・イングランド王国・ミラノ公国。相手は
 ヴェネツィア共和国・フランス王国・フェラーラ公国・
 スコットランド王国。
  軽蔑するような戦争が、入り乱れて、続いていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2015年4月3日金曜日

(増補版)58C1/3:気になった事柄を集めた年表(1494年~1499年)

 題:(増補版)58C1/3:気になった事柄を集めた年表(1494年~1499年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1494年、イタリア戦争が起きた。
  ハプスブルグ家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロ
 ワ家(フランス)がイタリアを巡って行った戦争。
  戦争の期間は、1494年から1559年としているが諸説が
 ある。
  イタリアの領土の取り合いが、愚かにも、65年も続いた。
1494年、斎藤道三(さいとうどうさん、美濃の戦国大名)
 が生まれた(1494年~1556年)、
  北条早雲と並ぶ下剋上大名の典型。
  正室は、明智光秀の叔母・小見の方。
  「美濃の蝮」の異名を持つ。
  新資料の発見により、従来の道三の一代の「国盗り物語」
 ではなくて、新左衛門尉と道三の二代に渡る可能性が高い
 とされている。
1495年2月、北条早雲(ほうじょうそううん)が小田原城
 を落とした。
  前領主(茶々丸)の悪政に苦しんでいた小領主や領民が、
 早雲に従ったのも味方した。
  重かった税を四公六民にしたら、民は歓喜して喜んだと
 いう。
  優れた民政で領民たちの英雄となって行くと解説する記
 事もある。
  この小田原城攻めの時に、早雲は、千頭の牛の角に松明
 を灯して大軍に見せたという。
1496年、日野富子(ひのとみこ)が没した(1440年~
 1496年)
1497年、毛利元就(もうりもとなり、安芸・現在の広島県
 の戦国大名)が生まれた(1497年~1571年)
  中国地方の覇者、子孫は長州藩の藩主となる。
  安倍晋三首相が言われる三本の矢の話は、この元就の話
 ・・死ぬ間際の元就が、3人の息子を枕元に呼び寄せて教
 訓を教えたという逸話・・
  元就は最初に、1本の矢を息子たちに渡して折らせ、次
 は、さらに3本の矢束を折るよう命じた。息子たちは誰も
 3本の矢束を折ることが出来なかったことから、1本では
 脆い矢も束になれば頑丈になることから、3兄弟の結束を
 強く訴えかけたという。
1497年7月8日、ポルトガルとスペインが、トルデシリャス
 条約で決めた事で、地球の東回りと西回りで奪い合いを始
 めた。
  その一つの行動であるのがこれで、この年に、ヴァス
 コ・ダ・ガマが、ポルトガルのリスボンから出港した。
1497年11月22日、ヴァスコ・ダ・ガマが、この日に、喜望
 峰を通過した。
  そして、新しい航路を発見した、そして、インド洋を
 渡り、インドへ向かった。
1498年5月21日、ヴァスコ・ダ・ガマがインドに達し、イ
 ンドの地のカレクト王国へ使者を派遣した。
  ヴァスコ・ダ・ガマは、5月28日に、13人の部下を連れ
 て上陸した。
  出迎えと共に、一行は宮殿に向かった。
  そして、途中ヒンズー寺院に立ち寄っている。
  そして、宮殿で謁見したヴァスコ・ダ・ガマは、カレク
 ト国王に親書を渡し、目的の一つを達成した。
  この様にして、インド西南のカリカット(現コージコー
 ド)に到達した。
  カリカットの豊かさに驚嘆し、豊かな商業活動をしてい
 るのがイスラム教徒という事に強い印象を受けた。
  キリスト教徒である彼らは、ローマ法王の認可だと称し
 て、異国に住む人々の文化も富も領土も海域も、全部が
 自分のものだと勝手に決めていた。(ローマ教皇がその
 様に言っているから悪いのだが)、キリスト教の教義・
 教えからくる迷妄を信じていた。
  これがトラブルの元となった。
  そして、この拠点から東海域の諸国を我がものだと、
 手に入れて行った。
  この様な中、キリスト教の宣教師・ザビエルが、先兵
 の役も帯びて、1549年に日本に来た。
1499年、イタリアのアメリゴ・ヴェスプッチが、南米海岸
 ベネズエラを探検した、ブラジル北岸までの探検を行なっ
 た(第二回航海)。
1499年7月10日、ヴァスコ・ダ・ガマが、インドへの航路
 を発見して、この日、ポルトガルのリスボンへ帰着した。
  このインドへの航路発見以来、莫大に利益ある東方貿
 易は、100年の間、ポルトガルの独占であった。
  また、ポルトガルは、キリスト教カトリックの精神的
 君主のローマ法王から、東洋に対する政治的・経済的・
 宗教的な絶対優位権を与えられていた。
  また、ポルトガルは、他国がこの独占権を脅かす場合は、
 武力を以ってこれを排除し、倒すだけの海軍力を持ってい
 た。
  ここに立ちふさがったのが・・イギリスだった。
  イギリスは、エリザベス女王の時代にカトリック教を
 捨てた。
  新教(プロテスタント、イギリス国教会)となっていた。
  ローマ法王の頸木(くびき、自由を束縛するもの)から
 自由になっていた。
  ローマ法王に遠慮する必要がなくなった上に、海軍力も
 強大になっていた。
  ポルトガルに対抗する力がついていたのである。
16世紀、イギリスの海賊行為が盛んに行われた。
  イギリスのエリザベス女王が誇らしげに、「イギリスは
 ヴァイキング(海賊)の国だ」と言った。
  イギリスのヴァイキング(海賊)は、15世紀頃から、
 その悪行為の話は音に聞こえ、16世紀には、ますます盛
 んになった。
  その略奪の相手は、ポルトガルやスペインの船であった。
  その為、「海賊行為は愛国行為だ」と言われた。
  イギリスの海賊船は、数門の大砲を持ち、東洋貿易の
 貨物を満載したポルトガル船や、アメリカ大陸からインデ
 ィオを騙(だま)し、殺戮して手に入れた金銀を満載した
 スペイン船を略奪する事を公然と商売とした。
  イギリスはほくほくだった。
  実際、ジョン・ホーキンスと言うイギリスのプリマス
 生まれの航海士は、アメリカへの第一回の航海だけで、
 一躍、プリマス一の第一の大富豪となった。
  二回目の航海で、イギリス第一の大富豪と言われるくら
 いだった。
  フランシス・ドレークも、1577年に、イギリスを出港
 したが、世界を一周して、1580年に、イギリスに帰った
 時に、約2億フランの価の貨物を手に入れていたという。
  エリザベス女王も、ドレークから分け前をもらって、
 大いに喜んでいたという。
  この話が、スペインに伝わると、スペイン王は非常に
 憤慨して、ロンドンの駐在スペイン公使に厳重なる抗議
 をさせた。
  すると、エリザベス女王は、スペイン公使をドレークの
 船の甲板に連れて行って、厳然としてドレークに向かい、
 「スペイン人は汝を海賊だと申すぞ」と叱りつけ、それ
 から甲板の上に彼をひざまずかせ、悠然とナイトの爵位
 を賜るときの接吻を彼に与えて、「いざ立て、サー・フ
 ランシスコよ」と言った。
  エリザベス女王は、海賊である平民フランシスをサー・
 フランシスコに取り立てた。
16世紀、奴隷貿易:大航海時代以降、アフリカの黒人の方々
 を、アメリカ新大陸の植民地経営用に奴隷として売却した
 貿易。
  16世紀から19世紀まで続いた。
  16世紀より本格化し、ヨーロッパから銃器や織物など
 をアフリカ西岸に運び、交換して黒人奴隷を奴隷船で新
 大陸へ送り込み、砂糖や綿花を持ち帰るという三角貿易
 の一辺をなした。
  これにより、蓄積された富は、ヨーロッパの産業革命
 を推し進める原動力となった。
  また、街を潤した。
  他方、アフリカは、航海途上の死者も含め、青年層や
 壮年層の約6000万人の損失により、正常な社会経済発展
 が阻害された。
  この略奪的な奴隷貿易は、国際世論の反発があったが、
 経済的要因などもからみ、非人道的な遅れた意識の本行
 為を、19世紀まで延々と行った。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2015年4月2日木曜日

(増補版)57C1/3:気になった事柄を集めた年表(1486年~1494年)

 題:(増補版)57C1/3:気になった事柄を集めた年表(1486年~1494年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1488年、一向一揆が加賀・能登・越中に起こり、守護の富
 樫政親(とがしまさちか)を滅ぼした。
  富樫正親は、加賀を追われ、越前国へ逃れ、そして、
 北陸で布教をされていた蓮如の下に身を隠している(
 1472年)。
  朝倉敏景も、富樫正親を擁護するようになった(1471
 年頃)、この頃、朝倉俊景は浄土宗本願寺派との結びつ
 きがあった。
  蓮如は、戦いが起きないように動いていた(蓮如の吉
 崎退却など)。
  加賀は、「百姓の持ちたる国」と呼ばれた。
  1580年に、織田信長が支配するまでの、90年間続いた。
1488年5月、バーソロミュー・ディアス(ポルトガル、航
 海者)が喜望峰を発見した。
  ポルトガル国王は、1486年に、アジアへの交易路を確
 立するため、アフリカ周回航路の遠征隊長に、ディアス
 を任命し、リスボンを、1487年に、出航していた。
  「喜望峰」と名付けたのは、ディアスが帰国した時、
 喜んだ国王が名付けた。
  ディアスは、苦難の航程から「嵐の岬」と報告してい
 たが・・。
  ヴァスコ・ダ・ガマの、1497年の航海の時は、彼は
 水先案内人として同乗している。
  海難事故で、1500年に、死す。
1489年、近江今堀地下掟(おうみいまぼりじげおきて、
 20ヶ条の村掟)に、犬を飼う事の禁止条項がある。
  その他に、森林伐採の禁止、家を他領に売ることの禁
 止、身請け人の居ない他村人の滞留の禁止などがある。
1489年、足利義政が銀閣寺を建てた(下層は書院造り、上
 層は唐様)、1483年か?この頃、東山文化が栄えた。
1490年、足利義政が没した(1436年~1490年)
1490年、レオナルド・ダ・ヴィンチ(イタリア)が湿度計・
 風力計を発明し、空の色について論じた。
1490年頃(15世紀末)、魔女によって殺される女性が多く、
 この頃、最盛期の様子となる。
  この状態は、18世紀の末まで(300年以上)、長く続
 くことになる。陰湿なキリスト教。
  主に、キリスト教のカトリックが行ったが、プロテス
 タントも行い、キリスト教のすべてが行った大悪行の一つ。
1491年、キリスト教徒のイグナデウス・デ・ロヨラが、
 生まれた(1491年~1556年)、スペイン、バスク地方。
  初めは軍人だった。後に、イエズス会を作った。
  イエズス会は、非常に戦闘的な会で、国王の尖兵とし
 て世界のあちこちで、原住民の方々の殺戮を繰り返した。
  インカ帝国を全滅し、滅亡させたのもこの会。
  日本に来たキリスト教宣教師・ザビエルらもこの会。
  本部へ、日本の領土を奪う事は困難だと報告している。
  秀吉は、領土的野心は持たない様にと書状を送ってい
 る。
  ロヨラは、キリスト教枢機卿より「ヒツジの皮を着て
 いる狼だ」と迫害された。
1491年、伊勢長氏(北条早雲)が伊豆を占領した。
  早雲が、小田原城を攻略して、関東進出の第一歩を印
 したのは1495年9月だった。
1492年、最古の地球儀、マルティン・べハイム(ポルトガ
 ル王に仕えたドイツ人の天地学者、地理学者)の地球儀
 が作られた。
  この地球儀での日本は、地形があやふやで、位置も、
 現在のメキシコあたりの置かれていた。
  しかし、アメリカ大陸発見前に作られたというところ
 に意義がある。
  ポルトガル王は、これによって地球は丸いことを教え
 られている。
1492年、キリスト教徒が、イスラム教徒と戦い、イベリア
 半島(スペインの地)を再び奪った。
1492年、コロンブスがアメリカを発見した(西インド諸島・
 サンサルバドル・キューバ)
  やはり、インディオスの黄金のありかを血眼(ちまな
 こ)になって捜した。
  後の大殺戮時と同じく強欲な人だった。
  また、このコロンブスの航海は、初めて大西洋を渡っ
 たように言われているが、間違いである。
  すでに、10世紀の頃、ヴァイキングが、大西洋を横切
 って北米大陸に到達していた。
  因みに、コロンブスは、奴隷の売り買いをする奴隷商
 人だった。
  また、彼は、ユダヤ人であるが、当時、キリスト教が
 ユダヤ人を弾圧し、ユダヤ人を探し回っては捕まえ、キ
 リスト教裁判所・異端審問所で有罪判決をして、盛んに
 ユダヤ人の方々を焚刑で殺していた。
  その為に、ユダヤ人の方々は、世界中を逃げ回った。
  このコロンブスの船にも、そのキリスト教からの追手
 を逃れるために乗り込んだユダヤ人の方々が多く居た。
  因みに、コロンブスもユダヤの血の流れている人。
1493年、この年に、コロンブス一行も本性を現わす。
  コロンブスは、この年に、ジャマイカ・オリノコ河口・
 ホンジュラス・トリニダッドなどを発見している、~
 1504年、第二・第三・第四航海。
  最初は、上陸した島で、現地のインディアスの方々か
 ら歓待を受けていたコロンブスたちだったが、
  コロンブスたちも、水や食料を贈って貰ったりしたが、
  コロンブスの興味は、やはり、黄金にしかなかった。
  また、コロンブスは、インディアスの方々を見て、「
 素晴らしい身体だ、彼らは素晴らしい奴隷になるだろう」
 とも書き残している。
  そしてまた、「50人の男たちと共に、私は彼らすべて
 を征服し、思うままに何でもさせる事が出来た」とも書
 いている。
  コロンブスは、この島で略奪し、
  翌年にも、コロンブスは、インディアスから強奪を働
 き、金銀宝石、真珠などを手に入れ、
  陸地を見つけたと王に言っては賞金をせしめている。
  そして、2回目の航海をし、前回、作った植民地に行
 くと、インディアスが破壊しており、インディアスへの
 怒りが湧く、
  そして、インディアスの方々に対して徹底的な虐殺を
 行った。
  やはり、インカを全滅させたスペインのキリスト教徒
 とキリスト教聖職者たちと、同じことをやった。
  これから、コロンブスたちは、行く先々で無差別の殺
 戮を繰り返した。
  そして、さらに狂暴性が増し、窃盗、殺人、強姦、放
 火、拷問とやりたい放題をした。
  そして、やはり黄金の在処(ありか)を白状させよう
 とした。
  コロンブスは軍隊と共に、やりたい放題の大虐殺を続
 けた。
  コロンブスは、最少でも、5万人のインディアスの方々
 を殺していると報告されている。
  コロンブスの仕事は、彼の軍隊と組織的に略奪する事
 だった・・と。
  コロンブスは、1495年3月、数百人の装甲兵と騎兵隊、
 そして、訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。
  再び、殺戮の船旅に出たコロンブスは、インディアス
 の方々の村々を徹底的に、またまた、攻撃し、虐殺した。
  コロンブスの襲撃は、以後、10年間続いた。
  これは、1000万人ものインディアスの方々を虐殺した
 スペイン・キリスト教徒とキリスト教聖職者たちの殺戮
 のモデルとなった。
  コロンブスのやり方が、以下の様に記述されている・・、
  「見つけたら追いまくり、柵囲いの中のヒツジの様に
 情け容赦なく彼らを虐殺した」・・と、
  そして、キリスト教聖職者は書く、「インディアスに
 対しては、自分たちを人間だとか、その一部だなどと金
 輪際思わせないよう、それを防ぐ方法になるでしょう」
 ・・と。
  まったく、血も涙もないキリスト教聖職者だった。
  まだまだ、悲惨な記述は続くが・・略す。
  子供たちの本に「コロンブスは偉人だ」として、偉人
 伝として出版されているが、偉人でも全くない。
  また、特に、キリスト教系出版社の美しく嘘記述した
 本があるが、まったく嘘のデッチアゲだ。
  コロンブスは、捕らえたインディアスの方々を、奴隷
 として本国へ送った。
  (キリスト教の聖書に、「奴隷にせよ」「奴隷にせよ」
 とキリスト教の神が叫ぶが、その通りの行動だった)。
  大西洋上で、スペイン人殺戮者が、インディアスから
 奪った、獲った黄金を横取りしたのがイギリス人。
  この黄金で、ヨーロッパは潤って、宮殿や、キリスト
 教会などが絢爛豪華になった。
  コロンブスを葬ったキリスト教会は、墓碑に「輝く、
 有名な紳士」と刻んだ。
  馬鹿めと言いたい。
  発見者がコロンブスではなく、「アメリゴ・ヴェスプ
 ッチ」の名が地図に書かれたのもここに理由があった。
  また、キリスト教聖書が『地球は平らだ』と思わせた
 罪は大きくここに存在している。
  地球は丸いと思ったという功績より、キリスト教にあ
 る「悪いマインドコントロール」に大罪がある。
  すべてが、このキリスト教の遅れた認識にあり、始ま
 っている。
  アメリカに、800万人いたインディアンの方たちも、
 今、200万人強に激減している。
  アメリカ人もインディアンの方々を殺しまくったが、
 アメリカはコロンブス・デーとして祝っている。卑劣な
 事である。
1494年6月7日、ポルトガルとスペインとの間で、キリス
 ト教ローマ法王が介在して『トルデシリャス条約」が結
 ばれた。
  大西洋を東西に分け、領有するという条約。
  キリスト教が絡む、まことに勝手な条約。
  何でもかんでも見つけたら俺のものという記述がある。
  実は、この南北の勝手に決められたラインは、グリー
 ンランドを越えて、地球の裏側まで伸び、日本の北海道
 の東あたりを越えて伸びている、当時の地図は、不正確
 であるが・・。
  そして、目指したインドが我々の領有するインドだと
 「東インド」と称した。
  「西インド」ならスペインのものという事。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2015年4月1日水曜日

(増補版)56B:気になった事柄を集めた年表(1456年~1486年)

 題:(増補版)56B:気になった事柄を集めた年表(1456年~1486年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1460年代~1499年、一向宗(浄土真宗)の蓮如(れんにょ
 )が活躍する。蓮如は1499年に没した。
1467年、応仁の乱が起こった。~1477年まで続いた。
  足利義政の時、細川勝元と山名宗全らの守護大名が、
 東西に分かれて京都で戦ったが、後に、全国へ広まった。
  西軍:山名宗全、畠山義就、斯波義兼、足利義尚、総
 勢12万人。
  東軍:細川勝元、畠山政長、斯波義敏、足利義視、総
 勢16万人。
  足利義視は、伊勢へ逃れ、翌年、叡山に走った。また、
 公家や僧侶が戦乱を逃れて地方へ下って行った。
  室町時代には、農民は、荘園の枠を超えて、地縁的に
 結合していった。
  有力名主は、作人・下人を使役して力を蓄え、作人・
 下人も、名主へ成長する者が現れるなど、階層分化が進
 んだ。
  百姓請も行われるようになり、惣的結合が進んだ。
  地頭・荘官は、守護の被官となって、領地の安堵を受
 け、守護との間に主従関係が生じ、地頭請に代わって守
 護請が盛んとなった。
  この様にして、公領も荘園も守護に併呑され、守護は、
 その領国のすべての土地・人民に領主権を及ぼすように
 なった。
  やがて、守護は、大名化し、守護大名となって行った。
  この様にして、荘園は弱まり、その後の太閤検地によ
 り、大名知行制の基礎が確立するにともない、荘園は名
 実ともに消滅した。
1469年頃、ヴァスコ・ダ・ガマが生まれた(1469年頃~
 1524年)
  ポルトガルの航海者。インドのゴアにて没する。
  インドへの航路をヨーロッパ人として初めて発見した。
1470年頃、この頃、日明貿易により、明より銅銭が多く輸
 入された。
  倭寇と区別するため、正式な遣明使船であることが確
 認できるよう勘合(勘合符)を使用した。
  博多や堺などの有力商人も同乗し、明政府によっての
 買い上げや、明政府が許可した商人との間で私貿易が行
 われた。
  室町幕府の将軍が、明の皇帝から日本国王として冊封
 を受ける形であったため、
  足利義満は、名分を捨て実利と取ったが、
  後に、この点が問題となり、義満の死後、4代将軍・足
 利義持の時は、貿易を一時停止した。
  義教の時に復活する。
  その後に、倭寇による密貿易が中心となった。
1473年、細川勝元が没した(1430年~1473年)
1474年、特許制度が始まった(世界最古の成文特許法が公
 布された)。
  東西貿易の拠点にあったヴェネチアの特許制度が始ま
 った。
  技術・工芸の創作者に、10年間の独占権を与え厚く保
 護した。
  10年間は、当時の徒弟制度における技術取得の為の年
 限と一致する。
  ヴェネチアは、オリエント諸国に伝わる技術の粋が特
 許制度によって吸い寄せられ、驚異的な発展を成し遂げた。
1477年、応仁の乱が終わった。
  数十万の武士が都に集結し、11年間、戦いを続けたが、
 勝敗がつかない和睦で決着した。
  悲惨な戦闘が繰り返されたという訳でもなかった。
  戦いが広がったのも、し烈な戦いという意味ではなく、
 後方攪乱的な広がりだった。
  将軍の権威は失墜し、公家が没落した。
  荘園制度の崩壊が加速した。京都を去る公家も現れた。
  京都の町の大半が消失したが、疎開先は、京都周辺及
 び周辺都市の山科、宇治、大津、奈良、堺であった。
  この乱の後、疫病が発生した。
  諸将の多くが国に帰った。
  戦国時代が始まった。
1478年に、教皇のシクストゥス4世が、サンティアゴ・デ・
 コンポステラの巡礼は、エルサレムへの巡礼と同等の価
 値があると言ってから、この地への巡礼が増えた。
1479年、スペインとポルトガルの間で、アルカソヴァス条
 約が結ばれた。
  ポルトガルに遅れたスペインは、アフリカ西岸の島々
 の奪取を画策し、ポルトガルと戦争となった。
  そして、この年、条約を結んだ。
  カナリア諸島だけが、スペインのものとなった。
  そして、それ以外の広大なアフリカの地域・海域の特
 権は、ポルトガルのものだという改めての確認(境界画
 定・デマルカシオン)がなされた。
  愚かな事に、今・現代でも、この状態となっている。
  また、このコロンブス登場以前のポルトガルの関心は、
 アフリカ西海岸に向けられていた。
1480年、タタールのダヤン・ハーン(~1524年)、モン
 ゴルの再統一。
  トゴン・テムルが、1368年に、中国・大都(今の北京)
 から、モンゴル高原に撤退して、後のモンゴル帝国(北
 元・ほくげん)となったが、この国について、漢文資料
 では韃靼(だったん)と呼び、日本ではタタールという
 名称も用いられている。
  そして、この撤退後、クビライの血を受け継ぐ皇帝が
 殺害され、皇統は断絶したが・・、
  そして、皇帝の後継を名乗る大ハーンが立った。
  チンギス・カンの末裔として、ハーンなる資格を唯一
 有する家系とみなされるボルジギン氏にバト・モンケは
 生まれた。
  チンギス・カンの子孫の生き残りとして、1480年に、
 バト・モンケは結婚し、
  1487年に、バト・モンケは、ダヤン・ハーンと称し、
 これは元朝再興を目指す意思を表すとされ、
  1488年に、大軍を率いて中国北辺を侵した。
  1510年に、オイラトを屈服させ、モンゴル繁栄となっ
 た(モンゴル再統一)。
  1524年に、ダヤン・ハーンは死去する。
1481年、一休宗純(いっきゅうそうじゅん、僧)が没した
 (1394年~1481年)
  天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われた。
  墓は、宮内庁が、御廟所として管理している陵墓とな
 っている。一般の立ち入りは出来ない。
1483年、東山山荘(銀閣、慈照寺)が、第8代将軍・足利
 義政によって、京都郊外に建てられた。
  能、茶道、華道、庭園、建築、連歌など多様な芸術が
 花開いた東山文化。
  この文化は、次第に庶民にも浸透し、日本的な文化と
 心を生み出した。
  地方へ帰る、また、地方へ逃れる人たちによって、地
 方へ伝播した。
  幽玄、わび・さびの美意識の世界。
1483年11月10日、ルター(マルティン・ルター)が生ま
 れた。
  キリスト教のカトリックの堕落に抗議し、目を覚まさ
 せた人。
  「異議を申し立てる事」や、「抗議」の語意のあるプ
 ロテストの言葉から、プロテスタント(反抗する者、抗
 議者)の意味を持つ組織が生まれた。
  この宗教改革を行った人。
  それまでのキリスト教の悪どい財政的収奪や聖職売買
 に抗議した。
1484年、ローマ法皇のインノケンティウス8世が、回勅(
 指令)で、魔女の逮捕と裁判をキリスト教裁判所の異端
 審問として行うことを正当だとした。
1485年12月、山城の国一揆が起こり、自治を行った(~
 1492年)
  映画の「7人の侍」の様に、地侍(じざむらい)・名
 主(みょうしゅ)を中心に、農民や国衆(15歳から60歳
 の人々)が、一致団結して起こした一揆。
  土地を荒らす戦争をする武士たちへ、抗議し、交渉す
 る事を集会で決議し、毅然たる態度で交渉を行い、軍を
 退陣させ、結果は成功した。
  8年間に渡り、守護による支配を排除し、自治を打ち立
 てた。
  まったく民主的な、民の声を聞く耳を持った誇るべき
 歴史的事実。
1485年、この頃の室町幕府の規定、声聞師・河原者に棟別
 銭(家屋の棟数別に課された税)を免除した。
1485年、ポルトガル人が西アフリカのギニア湾にあるガボ
 ン共和国のガボン川を発見した(ポルトガルの版図拡大
 行動)。
1486年冬、江戸城の乱、江戸城は上杉氏の所有となる。
  太田道灌が死んだ。詳細は不明の事件。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2015年3月30日月曜日

(増補版)55B:気になった事柄を集めた年表(1431年~1456年)

 題:(増補版)55B:気になった事柄を集めた年表(1431年~1456年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1432年、太田道灌(おおたどうかん、武将、武蔵守護代の
 家老的重職の人)が生まれた(1432年~1486年)、
  主君のために武蔵国入間郡に河越城(埼玉県川越市)、
 埼玉郡の岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区、新資料発見
 で?になる)を築き、
  また、有名な江戸城も築城した(1456年頃)
1432年、北条早雲(ほうじょうそううん、武将、戦国大名
 の後北条の祖)が生まれた(1432年または1456年~
 1519年)、生まれ育ちに不明な部分が多い人。
  名前も多く持っている。
  主君は、足利義政→義尚→義澄→今川氏親。
  日本の氏族で桓武平氏の平惟衡(らいらのこれひら)
 の氏族である伊勢氏(政所執事を世襲した家柄)から、
 後北条の祖となった。
  小説には、「伊勢の素浪人が、妹が守護の妾となって
 いたのを頼りに駿河へ下って身を興した」と記されてい
 るが、出自に関する論は多くある。
  「氏素性のない素浪人ではなく、将軍に直接仕える名
 門の出であった」という論もある。
1435年2月、悲田院で処刑が行われた。
  衆徒を統制する役目を持つ山門使節(さんもんしせつ)
 が、将軍の命によって3名が処刑された。
  日本は、ヨーロッパと違って処刑はほとんどなかった。
  空が曇るほどの焚刑をしたヨーロッパ。
  全滅する村もあったほどというヨーロッパ。
  キリスト教の扇動で、好きに人を殺していた国々と違
 い、日本は3名の処刑が記録に残る国、
  昔から、人の命を大切に思って来た国。
1436年1月2日、足利義政(あしかがよしまさ、第8代将軍)
 が生まれた(1436年~1490年)、
  正室が日野富子。
  東山文化を築いた。
  将軍在位(1449年~1473年)、
  将軍になった当初、義政は、3代将軍の祖父の義満の政
 治を理想として、その復活を積極的に試みた。
  国内の紛争に対しても、追討令を発し、積極介入し、
 事を収めようとしたり、
  将軍の持つ組織の充実を計ったり、
  守護大名の勢力にも対抗して、政治をしっかり確立し
 ようとした。
  だが・・?
  正室を含む義政の周りの人たちが・・関わりを持って
 来る。
  その様な事件も、何度も起きる。
  1例で・・、配下であるべき守護大名の家督相続の紛糾
 も、義政の意が通らなくなって来た、
  また、威が通らなくなって来た。
  守護大名の力がついて来たとも言える。
  足利の時代から戦国の時代への過渡期の中に、義政は
 居た。・・(中略)・・、
  そして、義政は・・、
  東山文化の中に住む、数寄の人となって行った。
  政治は、正室・富子と側近が行なった。
1440年、義政の正室となる、日野富子が生まれた(1440年
 ~1496年)
1441年、嘉吉(かきつ)の乱が起きた。
  室町幕府の第6代将軍・足利義教が、播磨・備前・美作
 の守護大名である赤松満祐に暗殺された事件。
  そして、幕府の討伐軍は領国の播磨で討ち果たした。
 ついで満祐らは自殺した。
  将軍と守護大名の軋轢があり、その中で、満祐は、四
 職家の一つとして幕府政治の重きをなしていた・・が、
  将軍の地位の強化を企画し、強化したい義教は、その
 成行きの中で、一色義貫・世保持頼の重臣を殺した。
  そして、満祐をも圧迫した。
  また、彼の一族である赤松貞村を重く見て、満祐の所
 領を、貞村に与えたりした。
  この様な事から、満祐は、他の守護大名の様に、守護
 大名の勢力を割くために、自分もまた殺されると疑った。
  そして、この年・1441年に、「結城合戦・戦勝祝賀」
 のためと称して、義教を京都の自邸に招いた。そして、
 暗殺を実行した。
  満祐は、本領の播磨に逃れたが、彼と対立していた山
 名持豊以下の幕軍に攻められて、敗死した。
  赤松氏は一旦滅亡となった。
  また、この事件は、永享の乱と共に、室町幕府の没落
 を早める契機となった。
1442年5月、朝鮮において、雨量計による雨量観測が開始
 された。
  都・ソウルと各道の郡県に配置し観測した。
  朝鮮第4代王の世宗王が、1441年に雨量計を開発して
 いた。
1443年、世阿弥(ぜあみ、大和猿楽結崎座の猿楽師)が没
 した(1363年?~1443年?)、
  父も大和猿楽の有力な役者だった。
  当時、寺が猿楽を保護していた。
  京都へも進出して行った。
  父の観阿弥が、1374年頃、今熊野で、12歳の世阿弥と
 共に、猿楽能を演じていた時、
  将軍の義満の目にとまった。
  以後、義満は、保護するようになった。
  義満の催す祇園会などに出る事にもなる。
  当時の貴族・武家社会には、この様な気風を貴ぶ気心
 があった。
  世阿弥は、能力を発揮し、観客の機微を悟り、処々を
 改善し、大成させて行った。
  教養のある品格も付け、厚みも増して行った。
  人脈も広がり、摂政の二条良基には連歌を習い、世阿
 弥の能や能芸論にも反映されて行った。
  深みも増して行った。
  しかし、一転して、弾圧が加えられる。
  世阿弥は、1434年に、佐渡へ流刑にされている。
  そして、どこで没したかは、本当は不明。
1449年、足利義政が第8代将軍となった。
1450年、ハングル:朝鮮文字。
  15世紀中葉、李朝第4代の国王・世宗の時代に創案さ
 れ、「訓民正音」の名で交付された。
  アルファベットと同じ音素文字で、子音字と母音字を
 組み合わせて音節文字をつくり、これを並べて単語を表
 記する。
  当時の音声学の知識を総動員して作った極めて合理的
 な文字と言われている。
  正字である漢字に対し、諺文と卑称して、一般の民衆
 や女性の間でしか用いられていなかった。
  19世紀末に国字として公文書に使われるようになり、
 日本の日韓併合期に、文盲率を改善する目的で教育改革
 策に採用し、埋もれていたハングルを奨励して、「大い
 なる文字」を意味するハングルという呼称も生まれた。
1450年、キリスト教のローマ法王の思い上がり行為。
  世界がさも自分のもののような「思い上がりの悪の行
 為」をした。
  この年、キリスト教ローマ法王は、ポルトガル(国王)
 に、アフリカ西海岸の国・ギニアを越えて、アフリカの
 南端に至る陸地の『征服する権利』を与えた。
  そして、それは「永久だ」とまで言った。
  また、後に、「インドに至るまでを与える」とまで言
 った。
  「ローマ教皇の大勅書」というもので権威を付けて与
 えた。
  これを『デマルカシオン(境界画定)』と言った。
  『他人の土地を征服してよい』と、宗教をかさに着て
 言う極悪行為だった。
1452年4月15日、レオナルド・ダ・ヴィンチが、フローレ
 ンス共和国の小さな村(ヴィンチ)に生まれた(1452・
 4・15~1519・5・2)、
  多能の人:絵画、彫刻、建築、音楽、科学、数学、工
 学、発明、解剖学、地学、地誌学、植物学など、
  はじめ、幼少の時、画家の所へ弟子入りしている、モ
 ナ・リザは有名、
  しかし、現存する彼の絵画は15点という。
  完全主義の彼は、気に入らない自分の作品を破棄した
 という事と、
  長い間に渡って作品を完成させる、その間に、何度も
 手を加えるという手法であったから・・。
  また、彼の絵画以外の能力の発露の、科学的創造性は、
 重要な発見などがあったが、公表されなかったため、後
 世の科学技術の発展に、直接の影響は与えなかった・・
 と言われている。
  フランス王に保護され、晩年は、下賜されたフランス
 の邸宅で過ごした。
1452年、バチカン宮殿が、教皇ニコラウス5世の時、造営
 された。
  植民地収奪で潤った金が入った。
1453年、ビザンチン帝国の滅亡。
  東ローマ帝国の首都のコンスタンティノーブルが、オ
 スマン=トルコの攻撃で陥落した。
  ビザンティン帝国の滅亡である。
  これによって、多くの学者やキリスト教聖職者が、ロ
 ーマに逃れてきて、ローマの学問や芸術や宗教の勃興に
 大きな力になった。
1456年、東京が開都した。
  太田道灌が、この年に、江戸築城を開始し、1457年に
 完成したとされている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

(増補版)54B:気になった事柄を集めた年表(1416年~1431年)

 題:(増補版)54B:気になった事柄を集めた年表(1416年~1431年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1418年、世阿弥が「花伝書」を著し、能を大成した。
1419年、クリスマスツリーは、キリスト教とはまったく関
 係ない。
  ゲルマン民族の「御神木信仰」に由来している。
  何でも他宗教の事を持ってくるキリスト教が取り入れ
 ただけ。
  また、クリスマス自体が、他宗教の祭りだ(冬至の祭
 り)。
  他宗教のそのお祭りが、あまりにも盛大に行われてい
 るので、キリスト教も、その日に乗っかった。
  イエスの誕生日は全く不明なのであり、イエスの「存
 在自体」も立証できない状況。
  キリスト教での、クリスマスツリーの初めは、記録に
 残っているのは、この年に、ドイツのフライブルクでパ
 ン職人がキリスト教施設にツリーを飾ったというのが最
 初とされている。
1420年、雪舟(せっしゅう、禅僧、水墨画家)が生まれた
 (1420年~1506年)、
  現存する作品のうち6点が国宝に指定されている。
  周防に、1454年に移り、守護大名の大内氏の庇護を受
 けている。
  遣明船で1468年に明へ渡航し、政府の建物の壁画を描
 いている。評判になったという。
  また、雪舟の描いた風景の写生画が中国各地に残って
 いるという。
1428年8月~9月、正長の土一揆(しょうちょうのどいっ
 き)が起こった。
  農民が起こした初めての一揆。
  天候不順からの凶作や流行病、そして、政治の不安な
 どから社会不安が高まり、徳政を求めた。
  その一揆が、畿内一帯に波及し、各地で借金に苦しん
 でいた農民たちが、酒屋・土倉などを襲い、私徳政が行
 われた。
  京都から奈良へ波及した。
  土倉が持っていた借金の証文が破棄された(私徳政)。
  興福寺が徳政令を認めたので、公式な拘束力を持った
 ものとして施行された。
  この碑があり、その碑には、「正長元年より以前の、
 神戸(かんべ)四箇郷における負債は一切消滅した」の
 意が刻まれている。
  この碑は、国指定史跡になっている。
1430年、細川勝元が生まれた(1430年~1473年)。
  3度、管領になる。
  細川勝元と山名宗全とで争い、ついに応仁の乱になる。
  細川勝元は、畠山持国の養子と実子の問題が発生点。
  持国に子が無かったので甥の政長を養子とした、後に、
 実子・義就が生まれたので政長を退け、義就をたてた。
1430年、アステカ王国:1430年頃にメキシコ盆地の覇者
 となった。
  王国の経済は、徴税によって成り立ち、都・テイチテ
 ィランの市場は、納税品と公益品とで活況を呈し、人口
 も10万人を越えた。
  アステカ族は征服を、度々、行い、捕虜を大量に生贄
 (いけにえ)とした。
  王を頂点とする成層複合社会を造り上げたが、スペイ
 ン人コルテスの滅ぼされた。
1430年5月23日、ジャンヌ・ダルクが捕縛された。
  イギリスとイギリスに味方するフランス軍の一部の策
 略があった。
  また、このジャンヌ・ダルクが活躍したイギリスとフ
 ランスが戦った百年戦争には「戦地を連れ歩く娼婦(従
 軍慰安婦)」が居た。
  ジャンヌ・ダルクを告発したのはキリスト教の異端審
 問所にいるキリスト教司祭(ピエール・コーション)だ
 った。
  このキリスト教司教は、非人道的方法でジャンヌ・ダ
 ルクを責めた。
  また、罠(わな)を仕掛けた卑劣な糾弾の仕方をした。
  また、ジャンヌ・ダルクを罵(ののし)りもした。
1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクが、火刑(焚刑)に処
 せられた。19歳の若さだった。
  キリスト教会の異端審問所が彼女に下した罪状は「悪
 魔の喚起(かんき)、様々な異端行為、様々な過(あや
 ま)ち、偶像崇拝、その他」という、多くの罪状を付け
 た。卑劣そのものだった。
  彼女は、北フランスのルーアンという所の広場で公開
 処刑された。
  処刑される時、彼女は泣いていたという。
  キリスト教の聖職者の司祭が取り囲んでいたという。
  また、観衆が大勢の見物人の中だったという。
  焼かれる前に、彼女は、「異教徒で、異端で、偶像崇
 拝者である」と書かれた帽子をかぶせられ、また、杭に
 縛(しば)られていた。
  1412年生まれの彼女のはかない一生だった。
  悪の宗教=キリスト教には救いがなかった。
  城に立て籠るフランス軍は、積極的に攻めるという姿
 勢も無く、また、取り囲むイギリス軍も、積極的に攻め
 るというわけでなく、
  兵糧攻めの状態だった。
  そこに、ジャンヌ・ダルクの援軍で、フランス軍は活
 気づき、積極的に攻めて勝ち戦となった。
  この北フランス生まれの彼女の功績は何だったのか?
  ジャンヌ・ダルクは、男装をしたのを「異端」とされ
 た。
  キリスト教の聖書に「女は男の服装をしてはならない」
 とあるからである。
  今、キリスト教は隠しているが・・、
15世紀、キリスト教に、悪魔と結託してキリスト教社会の
 破壊をもくろむ背教者という新種の魔女概念が生まれた。
  そして、キリスト教裁判所で行われる大規模な魔女裁
 判が興った。
  キリスト教は、キリスト教会内に、キリスト教裁判所
 を作り、キリスト教聖職者が異端審問をした。
  魔女裁判も行った。
  下記は、その裁判の様子を詳細に書いた記録が残って
 いる、その資料。
  (資料) : 女性の悲劇:ヨーロッパのキリスト教国の
 女性には、拷問を伴う魔女裁判という悲しい歴史がある。
  今、日本では「美魔女」など安易に魔女という言葉を
 使っているが・・、
  キリスト教による魔女裁判記録の1例・・、
  16世紀のなかばのトレドのキリスト教の異端審問で、
 エルヴィラ という人妻に対して行われた「尋問」の経過
 を、忍耐強い書記が被告の悲鳴や絶叫にいたるまで、細
 大洩らさず書きとめた長文記録。
  裁判には、拷問が、必ず行われた。
  ・・(エルヴィラの両腕を縛った綱がさらに締め付け
 られ、捻じられる。悲鳴。)
  「裁判官さま。何を申し上げたらいいか、言ってくだ
 さい。私がどんなことをしたのか私にはわからないので
 す。綱をゆるめてください、本当のことを申しますから。
 何を言えとお望みなのか、私には分かりません。おっし
 ゃってください。その通りに申します。」
 (さらに綱が締められる。「真実を言え」と迫られる。
 「どう言ったらいいか教えてください。何でも申し上げ
 ますから」と彼女は繰り返す。)
  (「おまえは豚肉を食べただろう」と誘導される。)
  「いいえ、食べた事はありません。豚肉を食べると私
 は気持ちが悪くなるのです。豚肉は好きじゃないんです。
 私は何も悪い事はしていないんです。どうぞ放して下さ
 い。何でも申しますから。何を申し上げれば宜しいので
 すか。何を言ったらいいのか分からないんです。言って
 下さい。何でも申します。放して下さい。何でも申しま
 す。・・・言って下さい、言って下さい。」
 (綱はゆるめられず、「カトリック教会にそむく事を
 しただろう」と尋ねられる。)
 「放して下さい。・・(うめき声)・・ここからおろし
 て下さい。何を言ったらいいか、言ってください。ああ
 ・・苦しい。お望み通りのことをみんな申し上げますか
 ら・・。裁判官さま、もう腕が砕けます・・。ゆるめて
 ください・・」
  (「お前がした事を詳しく言え」と迫られる。)
  「何を申し上げたらいいのか・・・。そうです、いた
 しました。なんでもいたしました。・・ああ、ゆるめて
 下さい。申し上げねばならない事が、私には思い出せな
 いんです。弱い女の身です。腕が砕けそうです。弱い女
 に、憐れみをお持ちではないのでしょうか。・・」
  (裁判官は、「本当の事を言えば憐れみを持つであろ
 う」という。)
  「裁判官さま、言って下さい。本当の事というのを教
 えて下さい・・。(泣きむせぶ)・・分からい・・何を
 言ったらいいのか・・。」
  (同じ言葉の繰り返しと拷問が続いたのち、「おまえ
 は土曜日に麻の着物を着替えただろう」と尋ねられる)
  「はい、着替えました。着替える時が来ていたからで
 す。悪意があっての事ではありません。何をお考えにな
 っているのでしょう。・・」
  (裸にして拷問台に寝かされる。四肢は四方に、綱で
 引っ張られる。口に水管が差し込まれ、水差しから水が
 注がれる。その合間合間に彼女は前と同じことを繰り返
 えす。ここで、拷問は一時「中断」。)
  それから4日後、拷問は再開された。              
    岩波新書「魔女狩り」より
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2015年3月29日日曜日

(増補版)53B:気になった事柄を集めた年表(1378年~1416年)

 題:(増補版)53B:気になった事柄を集めた年表(1378年~1416年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1392年、南北朝が一つになった。
  南朝は、亀山天皇、後宇多天皇、そして、後醍醐天皇
 へと、吉野へ移られても続いて行く、
  そして、後村上天皇、長慶天皇と続くことになる。
  だが、新田義貞、楠木正成、北畠親房(きたばたけち
 かふさ、北畠顕家の父)などの有力な武将を失って、衰
 えて行った。
  一方、北朝は、足利氏の援助のもと勢力を強め、5代の
 天皇が継いでいく。
  そして、足利義満が、1392年に、北朝の勢力を背景に
 して、南朝の後亀山天皇に吉野から京都に戻ることを勧
 めた。
  そして、京都に戻った後亀山天皇は、北朝の後小松天
 皇に天皇の位を譲った。
  ここに、60年余り続いた南北朝が1つにまとまった。
1392年、三島外記入道が、主人・細川頼之(管領)に殉死
 した。この事以来、平時に病死した主君に対して殉死す
 る風習が始まった。
  世人が「前代未聞の振舞」と驚嘆した(明月記)。
1392年、李氏朝鮮が建国され、高麗が滅びた。
  李成桂が、1392年に創建し、1910年まで続いた王朝。
  首都はソウル。法典を整備し、科挙を実施して、官僚
 支配の基礎を整えた。
  朱子学を正統の学問とし、儒教中心の独自文化が興隆
 した。
  民と君臣関係を結び、室町時代の日本とは対等な外交
 を展開した。
1399年11月、応永の乱が起きた。
  大内義弘が挙兵し、敗死した。
  室町幕府に対する大守護・大内氏の叛乱。
  周防の豪族・大内義弘は、父・弘世以来の戦功によっ
 て周防・長門・石見・富前・和泉・紀伊6国の大守護隣、
  南北朝合体の交渉の功に加えて、朝鮮・明貿易による
 富強を致し、当時の守護中最大の勢力となり、自然、将
 軍・義満の忌むところとなった。
  よって義弘は、関東管領その他の諸豪族と結んで幕府
 に抗せんとし、ついに1399年、境に叛し、幕府軍と戦っ
 て敗死した。
  この乱は、明徳の乱と共に将軍義満の大守護強圧策の
 結果であって、これによって室町幕府の全盛が招来され
 た。
1400年、この頃、世阿弥「風姿花伝(花伝書)」。
1400年頃、工芸:15世紀。春日山蒔絵硯箱蓋表(東京根津
 美術館)。
1400年、中国の製紙法は15世紀にイギリスに伝わり、ヨ
 ーロッパ中に広まった。
15世紀、イギリスで、この頃、ゴルフ狂が増え、武芸修業
 がおろそかになるという事で、『ゴルフ禁止令』が出さ
 れた。
1400年、マレーシア:15世紀初めにイスラム系のマラッ
 カ王国が成立し、香料貿易で脚光を浴びた。
1400年、神聖ローマ帝国:表記の国名は15世紀から用い
 られた。
  ローマ教皇との『叙任権争議』に敗れて帝権は次第に
 衰弱し、大空位時代、金印勅書発布、30年戦争により領
 邦分裂の状態になった。
  また、15世紀のハンガリーの侵入、16~17世紀のオ
 スマン・トルコによるウィーン包囲など、東方からの圧
 力が強かった。
1401年、足利義満が明と勘合貿易を始めた。
1402年7月、アンカラ(アンゴラ)の戦いが起きた。
  ティムール朝(モンゴル帝国の継承政権の一つ)の征
 服戦争。
  トルコのアンカラ近郊において戦われた。
  戦力:ティムール朝・20万(ティムール軍には象軍も
 あったという)、オスマン帝国・12万。
  結果:ティムールの勝利、ティムールがオスマン・ト
 ルコを破った。
  モンゴル帝国の支配が弱まった中央アジアでは、ティ
 ムール朝が、1370年に、大国家を建設していた。
  この戦いで負けたオスマン帝国が、一時壊滅的な状況
 となり、滅亡の寸前まで行った。
  皇帝が捕虜になって、翌年(1403年)病死し、帝位は
 空位のままになった。
  その後、再建され、1453年には東ローマ帝国を滅ぼし
 た。
  一方、ティムールは、この戦いの余勢をかって、明の
 永楽帝の朝貢の要求に対して、逆に、遠征を決意した。
  しかし、ティムールの皇帝は、1405年に遠征中、病死
 した。
  ティムールは、その後1世紀ほど存続したが、1500年
 に征服され、1507年に滅亡した。
1404年、勘合符を使って明と盛んに貿易をした。
1405年、金春禅竹が生まれた(1405年~1468年頃)、
  猿楽の金春座を禅竹は確立し、現在まで続いている。
  禅竹は、能楽の大成者・世阿弥の女婿で、世阿弥や義
 兄の十郎元雅から芸道を授けられた。
1408年、足利義満(あしかがよしみつ、第3代将軍)が没
 した(1358年~1408年)、室場地幕府の体制を確立し
 た。
  将軍職を子の義持に、1394年に、ゆずり、太政大臣に
 なるが、翌年の1395年には出家し、その後は、京都に
 金閣を建て、北山文化を開花させた。
1410年7月15日、タンネンベルグの戦いが起きた。
  ドイツ騎士団(キリスト教系、バルト海を異教徒から
 防衛する、ローマ法王から武力によるキリスト教化を正
 当化する教勅を受けている)と、
  ポーランド王国とリトアニア大公国の連合軍の戦い。
  連合軍が勝利した。
  戦力:ドイツ27000、連合軍39000、
  損害:ドイツ8400(捕虜14000)、連合軍5000、
  領土紛争に関わった戦争。
  ドイツ騎士団は敗け、帰国できたのは27000のうち
 5000以下。
  ドイツ騎士団は、この44年後の1454年に、壊滅的敗
 北をし、その後、世俗化した。
1412年、ジャンヌ・ダルクが生まれた。
  キリスト教に関わった女性。
  負け戦を勝ち戦に導いた(100年戦争)とか、
  神の啓示があったとか・・キリスト教は色々と美化す
 るが、
  実際は、可哀想な女性、
  それも、魔女にされ、
  酷い仕打ちをキリスト教から受けて、焚刑とされた。
  キリスト教の聖職者の司教が、異端の疑いを掛け、キ
 リスト教会の異端審問所で「有罪の判決」を出されてし
 まう。
  そして、19歳の若さで、公衆の面前で焼かれる。
  勝手なもので、その後、ローマ法王は、ジャンヌは無
 実だったとした。
  そして、殉教だと言った。「キリスト教が殺した殉教
 もあり」という姿。
  そして、聖人だとした。
  魔女旋風を噴き荒らしたキリスト教の大罪である。
  何人の女性の方々が殺されたというのか。
  ヨーロッパの空は、魔女にされた女性を焼く煙でけぶ
 ったという、曇り空のごとく。
  また、人々が頼っていた助産婦(知識があって医師の
 代わりにもなっていた女性方)を、夜、薬草を煎じる姿
 から魔女だとし、殺した。
  ヨーロッパの薬草学が絶えるほどだった。
  今・現代、この西洋薬草学があれば、どれほど人類に
 貢献しているか、計り知れない知識があったと考えられ
 る(東洋の薬草学と同様に)。
  これも、卑劣な宗教=キリスト教の大罪。
  キリスト教には、この他にも数限りなく色々な大きな
 罪がある宗教、ユダヤの方々など、南米の方々・・特に、
 ユダヤの方々を追い回して、長い年月、殺し続けた話は
 許せません。
  ジャンヌが、魔女とされるところは省くが、まったく
 卑劣なキリスト教である。
1415年、ポルトガルが、アフリカ大陸の北端のセウタ(町)
 を攻略した。
  これが、これから大西洋を渡って、植民地攻略をする
 ポルトガルの端緒の攻略戦だった。
  ポルトガルは、スペインもそうだが、東方はイスラム
 の世界が広がっており、これを打ち破って領土拡張をす
 る力はなかった。
  また、ユーラシア大陸には、勢力絶大な遊牧民族が居
 た。
  イスラム教徒は、ユーラシアの民族を包容した。
  ポルトガルとしては、西の海上へ向かう他はなかった。
  こうして、ポルトガルのエンリケ航海王子が、セウタ
 を手に入れた。
  そして、この様な行為をさせたのがキリスト教ローマ
 法王のキリスト教の教義・考え方だった。
  キリスト教に『異教徒は殺せ』の教義があるが、
  ローマ法王の指示は、『異教徒・他民族の征服」の指
 示、そして、『異教徒・他民族を占有する」事を正当化
 した。
  法王(教皇)は、「教皇大勅書」で指示した。
  それによって、『異教徒の征伐(殺戮)』が正当化し
 た。
  そして、教皇は、独占を認め、「原住民の奴隷化」を
 も許した。
  キリスト教聖書にある通りである。
  まったく卑劣な事を指示したものである。
  ポルトガルは、スペインより、約1世紀、早かった。
1416年、ポルトガルが、西アフリカを席巻し、奴隷貿易を
 する。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009