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2015年12月29日火曜日

(増補版)268D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1866年5月~1866年12月)

題:(増補版)268D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1866年5月~1866年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1866年、大阪・江戸打ちこわし:
  江戸時代中期から、たびたびあったが・・、
  第二次征長のとき、征討令が出されて物価が高騰した。
  そのために起こった。
1866年6月13日、武州一揆(武州世直し一揆)
  武蔵国秩父郡上名栗村で、この日に、蜂起し、19日に
 壊滅した。
  「世直し」を掲げた貧農ら約10万人余により、豪農層
 に対する打ちこわしが行われた。
  打毀しは、450軒余に渡った。
  秩父(ちちぶ)郡・高麗(こま)郡・多摩(たま)郡の山村
 の百姓が、米値など諸物価の高騰に困窮し、在郷商人ら
 に米穀の安値売りを求めたが拒絶され、打毀(うちこわし)
 連中を結成して、同時に蜂起した。
1866年6月14日、国産初の蒸気軍艦・千代田型が就役した。
  石川島造船所で、初めて日本人が設計した蒸気軍艦・
 千代田型が建造された。
1866年6月25日、改税約書(かいぜいやくしょ、江戸協約)
  幕府は、英・米・仏・蘭と、改税約書に調印し、輸入
 関税の引き下げにより、
  以降輸入が急増した。
  列国の圧力のもとに、改訂された関税協定で、江戸協
 約ともいう。
  1865年11月4日、兵庫沖に集結した四国連合艦隊 (英、
 仏、米、蘭) の威嚇により、
  幕府は、兵庫開港延期の代償として、関税率の引下げ
 要求に応じるほかなく、
  1866年6月25日、江戸で、老中・水野忠精 (みずのただ
 きよ) が調印、6日後に発効(はっこう、法律や規則など
 の効力が発生すること)した。
1866年6月15日、信達一揆が起きた。
  江戸時代後期と末期に、陸奥国(むつのくに)信夫(しの
 ぶ)・伊達(だて)両郡(福島市周辺)にまたがり起こった
 大百姓一揆。
  1749年(寛延2)と1866年(慶応2)に起こっている。
  この時の一揆は、物価高騰、助郷(すけごう)加重負担、
 蚕種・生糸の不良品取締りを名目にした荷改め料徴収な
 どに反対し、
  信夫・伊達両郡全域の農民らが、加担した在方商人ら
 に打毀(うちこわし)をかけたもの。
  6月15日から七日八晩にわたり49か村164戸を打毀し、
 要求を実現した。
  金原田(かなはらだ)村(伊達市)の農民思想家・菅野
 八郎(かんのはちろう)が指導者と目され、
  彼は、「世直し大明神」とよばれた。
  また、長州出兵の最中に起こった世直し騒動で、関東
 の武州一揆とともに幕府に大きな打撃を与えた。
1866年6月25日、燈台条約締結
1866年7月10日、勝海舟が、軍艦奉行に復帰した。
  長州藩と幕府の緊張関係が、頂点に達する直前のこの
 日に、
  勝海舟は、軍艦奉行に復帰し、
  老中・板倉勝静の命を受けて大阪へ向かった。
  出兵を拒否した薩摩藩と、会津藩の対立解消、および、
 薩摩藩を出兵させる約束を取り付けるという命だった。
  この任務は、成功したと、後年、海舟は語っているが、
 実際は、「薩摩藩は、拒否したまま」であった。
  また、「会津藩と薩摩藩の対立も続いたまま」だった
 ため、完全に失敗していた。
  しかし、勝海舟は、氷川清話で、次のような事を言っ
 ている。
  慶応2年5月27日(1866年7月9日)に突然、(海舟の所
 に)奉書が来た。
  閣老・水野和泉守から、「明朝、礼服で登城せよ」と
 あった。
  破格に軍艦奉行に任ぜられて、すぐに大坂へ出張を命
 ぜられた。
  両三日たって、俺は大阪へ出発した。
  大坂に着いて、板倉伊賀守の言うには、長州再征の事
 について、薩州から大久保市蔵(利通)とか、岩下佐次
 右衛門とか、内田仲之助とかいう連中が来て、ひどく反
 対するから、お前、京都へ行って彼らを説き伏せてこい
 との事だ。
  そこで、俺は、かねて意見を述べて、長州征伐は決し
 て国家のために利ではない、
  大久保や岩下らの言うところが、かえって道理にかな
 っているという事を明瞭に弁じた。
  ところが、会津藩だけは、容易に俺の説に従わなかっ
 たけれど、
  色々例えなど設けて説明してやったら、後には、とう
 とう俺の意見が耳に入った。
  それで、遂に、長州とは和解するようになったのだ。
  この後も、俺は、時勢に応じて、いろいろ建白したけ
 れど、多くは役人の機嫌を損ずるばかりだった(氷川清
 話)
  勝海舟、軍艦奉行再勤を命ぜられ、且つ、急用につき
 草々上坂申渡される(氷川清話)
  勝安房守義邦、軍艦奉行、慶応2年5月28日~4年1月28
 日。(氷川清話)
1866年7月、勝海舟、京都において板倉閣老に謁して言う。
  幕府は、仏国より金幣軍艦を借入れ、内政の改革をし
 ようとの密議ありと聞く、その非道を痛論す(氷川清話)
  金幣:きんぺい、金の貨幣。
1866年7月16日、家茂が、防長大営を大阪に置く。
1866年7月17日、この日に、開陽丸が竣工し、
  1866年10月25日、榎本武揚(えのもとたけあき)ら留
 学生は、開陽丸とともに、
  オランダ・フリシンゲン港を出発、リオデジャネイロ・
 アンボイナを経由して、
  1867年(慶応3年)3月26日、横浜港に帰着した。
1866年7月18日、幕府の第二次長州征伐、戦端が開く
  幕府軍艦(富士山丸など)が、長州藩領の周防大島郡
 を砲撃して、
  第二次長州征伐の戦闘がはじまった。
  (しかし、薩摩藩は、出兵を拒否)
  1866年9月に至って、幕府・小倉藩が全面敗北し、長州
 征伐が停止する。
  1866年10月10日、慶喜の意を受けた勝海舟と、長州の
 広沢真臣、井上馨が、宮島で会談し、停戦合意が成立す
 る。
  1867年2月、ようやく両藩の和約が成立する
  この戦いは、薩長同盟が成立した中での戦いだった。
  薩長同盟には「干戈を交えても」幕府に決戦を挑もう
 とうたわれていた。
  干戈:かんか、武器。また、武力。戦争。
  西郷と大久保は、反幕から討幕へと脱皮した。
  第二次征長軍は、高杉晋作が指揮する奇兵隊の奇襲攻
 撃にあって惨敗した(1866年7月)
  将軍・家茂が急死(1866年8月29日)したことでようや
 く撤兵の緒を掴む。
  家茂が急死で、慶喜は、朝廷に運動して休戦の詔勅を
 引き出し、
  会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で、休戦協定
 の締結に成功した。
  ここで一橋慶喜が、徳川の宗家を継ぎ(1866年9月28日)、
 討幕派の結集を拒んだ。
  この頃になると、幕府の権威も落ち、将軍職に就くに
 は大名会議の推戴が要った。
  大久保は、朝廷を動かして、大名会議を操作しようと
 した。
  将軍空位による幕府弱体化を企図したが、事を荒立て
 ない慶喜が一歩勝り、天性の気品から公卿にも人気があ
 った。
  結局、大名会議は、形だけのものになり、慶喜は、15
 代の将軍宣下を受け、将軍の座に就いた(1867年1月10日)。
1866年7月18日、
  幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まった。
  7月24日には、芸州口・小瀬川口、
  7月27日には、石州口、
  7月28日には、小倉口で、それぞれ戦闘が開始された。
  長州側は、山口の藩政府の合議制により作戦が指揮さ
 れた。
  この時、すでに、西郷と桂小五郎(木戸孝允)が一堂
 に会して、薩長同盟の密約を結んでいた(1866年3月7日)
  坂本龍馬の斡旋であったが、西郷の事前のムード作り
 も功を奏した。
  同盟協約は、干戈(かんか、干・タテと戈・ホコの意、
 武力)を交えても、幕府に決戦を挑むとうたっていた。
  西郷と大久保は、反幕から倒幕へと変わった、脱皮し
 た。
  第二次征長軍は、高杉晋作が指揮する奇兵隊の奇襲攻
 撃に会って惨敗した(1866年7月)。
  将軍・家茂が急死〈1866年8月29日)した事で、ようや
 く撤兵の緒を掴(つか)むという状況であった。
  ここで、一橋慶喜が、徳川の宗家を継ぎ、討幕派の結
 集を拒んだ。
  この頃になると、幕府にも民主的ムードが漂って、将
 軍職に就くには大名会議の推戴が要る。
  大久保は、朝廷を動かして大名会議を操作しようとし
 た。
  将軍空位による幕府の弱体化を意図したが、事を荒立
 てない慶喜が一歩勝り、天性の気品から公卿にも人気が
 あった。
  結局、大名会議は、形だけのものになり、慶喜は、15
 代の将軍の座に就いた。
  その後も江戸へ引き上げず、国事多難を理由に二条城
 に留まった。
  巷には、慶喜を東照神君家康公の再来と称える声も溢
 れていた。
  幕府は、立ち直る気配さえ見せ始めた。
  今や、世は、尊王一色であった(参考:プレジデント
 平成10年7月号)
  この様な時、西郷は大久保に言った・・、
  「下々からの世直しじゃ、長州を見てみやんせ」。
  長州は、士農工商の別なく藩民こぞって武器を手に立
 ち上がり、第二次征長軍を、完膚なきまでに破った。
  大久保は、有力諸侯を一つに束ねる事を考えた。
  海舟が示唆した雄藩連合の小手調べにもなる。
  彼は、薩摩の島津久光、越前の松平春嶽〈はるたけ)、
 土佐ノ山内容堂、宇和島の伊達宗城を選んだ(四侯会議)。
  慶喜は、兵庫開港を、天皇の勅許を得られないが、外
 国公使に約束した。
  大久保は、イギリス公使・パークスに、即時、兵庫開
 港を強硬に迫られる一方で、四侯会議には断固反対して
 もらう事にした。
  しかし、慶喜は、反対する公卿たちに時世を説いて勅
 許を得た。
  慶喜は、四か国公使等の喝采を浴びた。
  西郷は、前代藩主・島津斉彬が、一橋家を嗣いだ慶喜
 を14代将軍に擁立しようとしたこともあって、
  西郷は、熱烈に慶喜を敬愛していた。
  しかし、倒幕の意思を固めていた。
  佐幕から反幕、反幕から倒幕へ。
  幕府が消滅しない限り、近代国家は生まれない。
  大久保も同じ結論になっている。
  孝明天皇が崩御されると、公武合体論派は後退した。
  新帝・明治天皇は、まだ14歳(1867年1月30日.即位、
 1852年~1912年)。
  西郷・大久保・桂は、新帝の外祖父・中山忠能を通じ
 て工作し、討幕の密勅を手にした。
  同じ日に、慶喜は、大政奉還の挙に出た(1867年11月
 9日)。
  幕府が消滅したので、密勅は宙に浮いた。
  大政奉還をしても徳川家は残る。
  竜馬が発案して、土佐藩・山内容堂が演出した。
  主導権が土佐藩に奪われる事を、西郷は我慢できない
 と思った。
  禁裏の奥の小御所で、朝議が開かれ、明治天皇は、大
 政奉還に伴う王政復古を宣した(1868年1月3日)。
  西郷は、直ちに、旧幕の親藩・桑名の禁門衛兵を追っ
 て、薩摩の兵を配置に付けた。
  銃剣は、内に向け、朝議に無言の圧力をかけた。
  禁裏では、引き続き王政復古後の、初めての会議が開
 かれていた。
  西郷は、議場の外。
  大久保は、内にいるが、藩士の身分で出席し、宮中で
 は地位が低い。
  玉座近くに島津久光がいる。
  幕府は、消滅しても天皇の下に総理が徳川慶喜で、副
 総理が島津久光と山内容堂あたりが収まると予測された。
  容堂が、前将軍・慶喜を出席させないのは不都合だと
 発言したことから、会議はにわかに紛糾した。
  硬骨の岩倉具視が反駁した。
  「慶喜は、速やかに官を辞し、領地を返上して、忠誠
 の証(あかし)を示すべし」。
  大政奉還を演出した容堂は激昂した。
  「勤王の志により政権を返上した徳川殿を、さらに罰
 するとは不埒(ふらち)千万なり」。
  大久保は、岩倉に同調した。
  「辞官納地の命を拒めば、追討もやむなし」。
  激越な発言も末席からでは効果が無かった。
  休憩の間に、使者が状況を伝えると、西郷は事もなげ
 に言った。
  「短刀一本あれば片付くことでごわす」。
  岩倉の席は容堂に近い。
  岩倉は、本気で容堂を刺す気でいた。
  議場は、殺気に包まれて、倒幕派の主張が容認された。
  二条城の幕臣たちに怒りが渦巻いた。
  慶喜は、暴発寸前の幕臣を鎮めて辞官納地を承諾した。
  (プレジデント平成10年7月号)
1866年7月21日(旧6月10日)、勝海舟、出立(氷川清話)
1866年7月27日、薩摩藩士・村田新八、黒田了介、山口に来
 り、藩主・毛利敬親に謁した。
1866年7月28日、第二次長州征伐(征長幕軍の敗退)
  長州藩軍は、1866年7月23日から、高杉晋作が率いる丙
 寅丸(へいいんまる)を用い、夜陰にまぎれて、幕府艦
 隊に近づき、激しく砲撃して反撃の火蓋を切った。
  1866年7月26日未明からは、長州藩の第二奇兵隊・浩武
 隊の二隊を大島占領のために投入し、
  松山藩軍と激しい戦闘を展開した。
  沖に停泊していた幕府艦隊が、長州藩軍の動きに応戦
 し、砲撃を打ち込み、戦闘は一進一退の攻防が続いた。
  激戦の末、島内の各所で、幕府軍を打ち破った長州藩
 軍の勝利となり、大島奪還に成功した。
1866年7月28日、英国公使パークス、汽船にて、横浜より鹿
 児島港に入り、藩主と会見を請う。
1866年7月、二朱金(天保二朱判)の通用を禁ず(氷川清話)
1866年8月1日、日白修好通商条約調印(ベルギー)
1866年8月2日(旧6月22日)、勝海舟、着阪(氷川清話)
1866年8月3日(旧6月23日)、勝海舟、大阪城に出頭、会
 津・薩摩調停の内命を奉じ上京(氷川清話)
1866年8月4日、桂小五郎、杉孫七郎等、幕府・長州征伐の
 間に立てる外人の調停を固辞(こじ、かたく辞退するこ
 と)す。
1866年8月5日(旧6月25日)、勝海舟、先ず会津を説き、つ
 いで、薩摩・大久保市蔵等の諸氏に面会し、その征長出
 兵辞退の上書を抑え、円滑にその局を結ぶ(氷川清話)
1866年8月12日、長州藩兵、豊前・小倉藩兵と衝突
1866年8月22日、長州藩石見内田に諸藩兵と戦う。
1866年8月25日、幕府、イタリアと通商条約締結。
1866年8月25日、日伊修好通商条約調印
1866年8月28日、薩摩藩主・島津茂久が、幕府に対し、征長
 の非を陳じ、その罪を赦さんことを請う。
1866年8月29日(旧7月20日)、勝海舟、家茂将軍が大阪城
 で病重しときき、号泣し長嘆息す(氷川清話)
1866年8月29日、将軍家茂が、没した(1846年~1866年)
  将軍家茂、大阪城で死去する(昭徳院、21歳)(氷川
 清話)
  勝海舟の大恩ある家茂が、この日に、21歳の若さで脚
 気小心(衝心、心不全のこと)で急逝した。
  海舟はがっかりした。
  せめて、遺骸を軍艦に乗せて江戸までお供するつもり
 でいた所へ、長州征伐の後始末の談判のため、安芸の宮
 島へ出張を命じられ、9月29日(旧8月21日)広島に行っ
 た。
  その出発前、15代将軍として、一橋慶喜を迎える事を
 支持すると表明した。
  しかし、慶喜と海舟はウマが合わなかった(氷川清話)
  将軍・家茂が、幕長戦争のさなかに大阪城で病没する
 までの、計3年4か月余りの間に、将軍・家茂は、22か月
 も京都と大阪に滞在した。
  また、将軍・慶喜も、将軍後見職の時を含めて、その
 ほとんどを京都の政局の中で過ごした。
  この間、諸侯の上洛があいつぎ、志士が競って京都を
 目指した。
  こうして、公権力の所有者(将軍)も京都に移った形
 となり、日本の首都であると意識されるようになった。
1866年9月5日、徳川慶喜、将軍家相続に決定(9月28日説
 あり)
1866年9月7日、朝廷、慶喜の将軍家相続勅許
  将軍慶喜、相続を宣下(氷川清話)
1866年9月9日、豊前小倉落城す(氷川清話)
  小倉藩は、第一次長州征討も、第二次も参加し、第二
 次では、小倉口の先鋒として参戦した。
  戦闘は不利に展開し、長州軍が領内に侵攻して来た。
  九州諸藩は撤兵した。
  孤立した小倉藩は、この日、小倉城に火を放ち(小倉
 城自焼は、一説に、熊本藩の竹崎律次郎の勧めとも言わ
 れる)、田川郡香春(現・香春町)に撤退した。
1866年9月10日、徳川慶喜、仏国公使を通じ軍艦その他の
 兵器購入を依嘱す。
1866年9月(旧8月)、外国へ渡海、修学を許す(氷川清話)
1866年9月10日、小栗忠順が、フランス経済使節ウクレとの
 間に借款契約成立。
1866年9月24日(旧8月16日)、勝海舟、京都において長州
 へ密使を命ぜられる(氷川清話)
1866年9月25日(旧8月17日)、勝海舟、下阪(氷川清話)
1866年9月27日(旧8月19日)、勝海舟、出立(氷川清話)
1866年9月28日、ロッシュの仲介により、小栗忠順(おぐり
 ただまさ、幕臣)が、フランスからの600万ドルの借款契
 約に成功。
  これを元手に、幕府の近代化・軍事力強化を目指した。
1866年9月29日(旧8月21日)、海舟、長州への使者になる。
  大坂に居た時、突然、京都から早打ちがやって来て、
 直ぐ来いと言うので、京都へ上った。
  その頃、慶喜公は、後見職であったから参内中であっ
 た。
  そのうち、慶喜公もご帰還になって、御直で、長州へ
 の使者を仰せつけられた(1866年9月24日)。
  1ヶ月中には必ず始末をつけて帰りますと申し上げ、
 一人の供も召し連れず、単身、芸州(広島)まで行った
 (1866年9月29日)。
  辻将曹が、色々周旋してくれて、宮島において双方会
 談する事になった。
  宮島へ渡ってみると、長州の兵隊が、ここかしこに出
 没して殺気が満ちていた。
  もとより、こんな事だろうと覚悟はしていたから、平
 気で旅館に泊まり込んで、長州の使者が来るのを待って
 いた。
  彼らも国論をまとめた上で、船に乗って来ると言うの
 だから、ずいぶんと手間がいったが、その間、今の長州
 の兵隊や密偵は、始終、俺の旅館の周囲をうろつき、た
 まには、遠方から旅館へ向かって発砲する者などもあっ
 た。
  しかし、俺は、ちっともこんな事に頓着しないで、旅
 館の広間に平然と座り込んで、
  日夜、使者の来るのを待っておったが、
  この頃、この辺りの婦人などは、どこかへ逃げて行っ
 てしまって、俺の旅館にも、老婆がただ一人残っておっ
 たばかりだった。
  かれこれするうちに、長州から広沢兵助など、8人の
 ものが使者としてやって来た。
  こっちは、木綿羽織に小倉はかまの小男の軍艦奉行が、
 たった一人控えているばかりだ。
  いよいよ、今日、会合という日になると、俺は、まず、
 大慈院、これが会合の場所だが、この寺の大広間に端座
 して居ると、後から広沢などがやって来た。
  しかし、さすがに広沢だけあって、少しも傲慢のふう
 が無く、一同、縁側に座ってうやうやしく一礼した。
  そこで、俺は、「いや、そこではお話が出来ませんか
 ら、どうぞこちらへお通りなさい」と挨拶すると、
  広沢は頭をもたげて、「御同席は、いかにも恐れ入る」
 と辞退するので、
  俺は、全体、ひょうきん者だから、「かように隔たっ
 ていてはお話が出来ぬ、貴方がおいやとあれば、拙者が、
 そこへまいりましょう」と言って、
  いきなり向こうが座っている間へ割り込んで行った所
 が、一同、大笑いとなって、
  「それでは御免こうむります」という事で、一同、広
 間に入って、いよいよ談判を始める事になった。
  談判と言っても訳はなく、とっさの間にすんだのだ。
  まず、俺は、よくこちらの赤心(まごころ)を開いて、
 「自分の初めからの意見は、かくかくであった。貴藩に
 おいても、今日の場合、兄弟争いをしておるべきでない
 という事はご承知であろう」という趣旨を述べた。
  すると、広沢も良く合点して、「尊慮のある所はかね
 てより承知していました」などと言った。
  そこで、俺は、断然、「私が帰京したら、直ちに貴藩
 の国境にある幕兵は一人も残らず引き上げるようにする
 から、貴藩においても、その機に乗じて、請願などと唱
 えて多勢で押し上げることなどは決してしない様にせら
 れよ」と言い放ったら、
  広沢も承諾の旨を答えて、談判もこれで決着した。
  さて、帰りには、また、辻の周旋で、えり抜きの船頭
 を雇って出帆したが、
  高砂の沖で、向こうからくる船と衝突して、ほとんど
 沈没しようとしたのを、やっとのことで、明石の浜辺へ
 乗り上げて、そこから陸を通って京都へ帰った(1866年
 10月18日)が、
  これは、出発した日から数えて、ちょうど28日から9日
 目であった。
  帰って見ると、留守のうちに一体の様子はがらりと一
 変しておって、
  わざわざ宮島まで談判に行った俺の苦心も、何の役に
 も立たなかった。
  しかし、もし、この時の始末が、俺の口から世間へ洩
 れようものなら、それこそ幕府の威信は、まったくなく
 なってしまうと思って、俺は、謹んで秘密を守って、辞
 職を願い出た。
  すると、ある老中が、中へ入って周旋してくれたため
 に、軍艦操練専務の役でもって、とうとう江戸へ帰るこ
 とになった。
  しかし、これが為に、幕府の命脈も、ちょうど1年延び
 た勘定になった(氷川清話)
  勝海舟、芸州着、ついで厳島で広沢兵助、井上聞多等
 に面会、休戦及び衆議採用の大趣旨を演達す。彼承服し、
 又その国情を陳述す(氷川清話)
1866年10月(旧9月)、開成所に地理窮理兵学を置く(氷川
 清話)
  窮理(きゅうり):物事の道理・法則をあきらかにす
 ること→西洋流の学問一般、物理学、朱子学
1866年10月、イギリス公使パークスが、英・米・仏・蘭の
 4国への賠償金の代わりに、灯台を8か所に 建てることを
 要求し、幕府が承認する。
1866年10月10日、幕府、長州征伐の目的果たせず、講和成
 立。
  幕府の使節・勝海舟が、宮島の大願寺に長州藩の代表
 と会見し和協す。
  将軍逝去につき、長防出兵停止の勅諭(氷川清話)
  徳川慶喜は、長州藩と休戦した。
1866年10月11日(旧9月3日)、勝海舟、広島に帰着す(海
 舟の自著亡友帖中、広沢真臣翰の後に慶応元年8月奉命、
 長州に使す云々、指名は2年8月で元年と記したのは誤り)
 (氷川清話)
1866年10月18日(旧9月10日)、勝海舟、帰京(氷川清話)
1866年10月20日(旧9月12日)、勝海舟、謁見、復命28日、
 長州の処置は公平至当を要する事を建白す(氷川清話)
1866年10月24日、高杉晋作、姫島の獄にある野村望東尼を
 救出した。
1866年10月27日、幕府が、征長軍の撤兵を命ず。
1866年11月7日(旧10月1日)、勝海舟、用向き相済み帰府
 を命ぜられる(氷川清話)
1866年11月7日、江戸市中と五街道に、荷物輸送用馬車の使
 用が許可される。
1866年11月12日、幕府吹上奉行を新設す。
1866年11月16日(旧10月10日)、勝海舟、次男四郎死亡、
 四男七郎誕生、後に、岡田氏をつぎ義徴と改名す(生母、
 小西かね)(氷川清話)
1866年11月18日、風水害による凶作で、幕府が外国米輸入・
 販売を許可する。
1866年11月21日、薩摩藩士・小松帯刀、西郷吉之助、一挙
 以て王政復古の実を挙げんと鹿児島発。
1866年11月22日、徳川慶喜が、参内して天盃を拝受す。
1866年11月28日(旧10月22日)、遊撃隊を置く(氷川清話)
 遊撃隊(ゆうげきたい)は、14代将軍・徳川家茂死後に
 結成された幕府軍の部隊。
  講武所師範や、奥詰め幕臣らによる銃撃隊の再編成に
 よって、この日に、「遊撃隊」が結成され、
  槍術家の高橋泥舟や、剣客の榊原鍵吉などが頭取を務
 めた。
1866年12月2日、朝廷が、重ねて諸大名の上洛を促さる、
 病と称して上洛する者少なし。
1866年、薩摩藩士・小松帯刀、西郷吉之助、入京す。
1866年12月4日、在京諸大名参内して、徳川慶喜を15代将軍
 たらしめんとして奏請す。
1866年12月16日、江戸の大火、元乗物町より京橋八丁堀に
 至る延長21町、幅7町余延焼す
1866年12月17日、凶作と米価暴騰による窮民が増え、
  幕府が、施米などの救助のほか、強壮者の兵採用を布
 告する。
1866年12月21日、ロッシュが、徳川慶喜の依頼により幕政
 改革を提言した。
1866年12月26日、幕府が、三千石以上の者に英仏両国へ留
 学を許した。守兵の服制新兵式に改む。
1866年12月29日、三条実美ら、大宰府発、上洛出発。
1866年12月~、慶応の改革。
  ロッシュの意見を入れ、老中の総裁制度(職務明文化)
 を採用した。
1866年、西周(にしあまね)著、『万国公法』。
1866年、福沢諭吉著、『西洋事情』初編3冊が刊行した。
  福沢諭吉「西洋事情」なる(氷川清話)
1866年、軍艦操練所は、さらに軍艦所と改称され、この年
 には、教育だけでなく幕府海軍の行政機関としての機能
 も追加されて、最終的に海軍所となった。
  操練所を海軍所と改む(氷川清話)
1866年、樺太の境界を定める。
  使節を露国に派遣し、樺太島の境界を定めさせる、箕
 作秋坪等随行す(氷川清話)
  山川浩(会津藩家老)は、慶応二年(1866年)に、幕府
 が、樺太境界議定のため、外国奉行・小出秀実らを露国
 に派遣するにあたり、
  藩主・松平容保の推薦によって、これに参与し、仏・
 独両国を経て露国に入った。
1866年、中村正直(なかむらまさなお、敬宇)等14人、英
 国に留学させる(氷川清話)
  中村正直は、渡英して帰国後、スマイルスの『セルフ
 ーヘルプ』を翻訳した『西国立志編』を出版。
  私塾同人社を設け、「三田聖人」福沢諭吉と並び、「
 江戸川の聖人」といわれた。
1866年、根岸競馬場
  総面積、6.53ヘクタール。
  一周、1764メートルの根岸競馬場を徳川幕府は創った。
  折りから攘夷運動が燃え盛っていた時だった。
  横浜・生麦村での事件や、薩英戦争などの嵐が吹き荒
 れていた。
  根岸の競馬場の建設は、外国勢力に対する幕府の理解
 の意味があった。
  明治の競馬は、外国人と金持ちなどに限られた人々の
 娯楽だった。
  春と秋に三日間前後のレースが催された。
  その日、横浜の外国銀行や貿易会社は、新聞広告を出
 して一斉休業を宣言した。
  昭和初期の入場料は、一等馬見所5円、二等馬見所3円。
  入れない庶民は外側から見物した。
  昭和17年のレースを最後に、旧海軍に接収された。
  それは、賭け事自体が白眼視されたうえ、馬見所から、
 遠く横須賀の海軍基地までが一望できたからだった。
  そこに、双眼鏡を持った外国人が集まるなど、とんで
 もない事だった。
  その様な時代だった。
  終戦後、アメリカ軍がすべてを接収した。
  接収は1969年まで続き、それまでは、アメリカ軍関係
 者のみのゴルフ場とされていた。
1866年、香港の人口が11万5000人になった。
1866年、アルミニウム電解精錬法が発明された。
1866年、アメリカ合衆国、ネブラスカ州のオハマの西に、
 初めて、ユニオン・パシフィック鉄道が開通した。
  レールが、平原の真ん中に敷設された。
  この日から、インディアンの方々の地に、
  インディアンの方々に都合の悪いものが、大量に、
  そして、アメリカ合衆国に都合の良いものが・・運ば
 れて来た。
  アメリカ合衆国の白人は、文明を運んだと讃美した。
  鉄道会社に、線路の両側の6キロの土地が与えられた
(インディアンの方々に無断で)、
  そして、その地の開発が許可された(これも、インデ
 ィアンの方々に無断で)。
  新しい農業技術が、この頃、発達していて、
  その技術を持った白人・アメリカ人が、この鉄道に乗
 って、大量に、新たに、入って来た。
..
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2015年12月28日月曜日

(増補版)267D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1866年1月~1866年5月)

題:(増補版)267D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1866年1月~1866年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1866年(慶応2年)1月1日、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍
 工廠)の建設が開始された。
1866年1月7日、長州藩藩主・毛利敬親(もうりたかちか)
 が、京阪の視察として、桂小五郎を上洛せしむ、品川弥
 二郎これに従う 。
1866年1月7日、膳所藩尊王党の切腹(森祐信以下10名に切
 腹を命じる)
  膳所藩(ぜぜはん):近江国大津周辺(現在の滋賀県
 大津市)に存在した藩。
  尊王攘夷の派が、反対派のために罪を問われた。
  全国の各藩とも、その思想的に帰する所に迷っていた。
  幕府及びその徳川周辺でさえ内紛がひどい状況だった。
  日本中がその様な中に起きた尊王派処分の事件だった。
1866年2月28日、高島秋帆(たかしましゅうはん、砲術家)
 が没した(1798年~1866年)
  高島秋帆没す(氷川清話)
1866年3月7日、薩長同盟(3月6日説あり)
  京都で、西郷隆盛・小松帯刀と桂小五郎が会談し、
  薩摩藩と長州藩の同盟が成立した(政治的、軍事同盟)。
  坂本龍馬(31歳)が立会いのもと、長州の桂小五郎と
 薩摩の西郷隆盛との間で、京都の小松帯刀邸(上京区)
 で締結された。
  明治維新への導因となった同盟だった。
  無私の精神の一脱藩浪人の竜馬と、
  藩意識の捨てきれない西郷と桂小五郎(木戸)の、初
 めから終わりまで、張り合いする中で成立した。
  両藩は、1年半前までは、なにしろ、禁門を挟んで血を
 流しあった仇敵同士だった。
  疑心暗鬼は、根深いものがあり、やむを得ない面もあ
 った。
  その閉塞状態を、竜馬が、風穴を開けたのだった。
  「共に目指す目標は同じ」の言葉を竜馬は言った。
  長州藩は、天保の改革当時から、藩政の実権が、保守
 から急進の間を揺れていた。
  めまぐるしく、その政策が転換するという状況だった。
  公武合体だった薩摩藩の西郷(33歳)も、一転して、
 盟約を結び、倒幕体制を整えて行った。
1866年3月7日、薩長同盟成立の意義・・、
  長州藩にとって、幕府との一戦は必然の中にあり、ま
 た、その様な流れを生んだ歴史の中にあった。
  その為に、大村益次郎の指導の元に軍制改革を進め、
  軍制改革に励む長州藩だった。 
  それ故、長州軍にとって、薩摩藩から供与された西洋
 小銃、及び、弾丸などは貴重だった。
  貿易を禁じられていた長州藩にとって、喉から手が出
 るほど欲しかったものだった。
  この供給は・・長州を救った。
  これまで仇敵の間柄だった薩摩藩と、長州藩は、急接
 近する。
  そして、この関係は、西洋小銃供与の返礼として、長
 州藩から薩摩藩へ、兵糧米が輸出されたのを受け、この
 関係改善は益々高まって行った。
  そして、1866年3月7日のこの日に、薩摩藩の意向を受
 けた坂本竜馬と、
  長州藩の意向を受けた中岡慎太郎(坂本と中岡は共に
 土佐藩の脱藩浪士)を仲立ちにして、薩長同盟は結ばれ
 た。
  この薩長同盟による西洋小銃・弾丸の供給は、大村益
 次郎の軍制改革による、長州軍の小銃隊(歩兵化)は進
 んだ。
  しかし、全長州軍に、西洋小銃(特に、ミニエー銃)
 を装備させるには、先に薩摩藩の斡旋により供与された
 だけでは、まだ不足していた。
  また、近代戦を行うには、膨大な弾丸を消費すると考
 えていた大村にとっては、長州藩内で弾丸の生産工場を
 設けていた。
  しかし、まだ、その生産力は、心もとないものを感じ
 ていた。
  そんな大村にとって、この薩長同盟によりより多くの
 ミニエー銃と、その弾丸・雷管の新たな入手先が生まれ
 た事は、これから、幕府軍と戦かう作戦を立案していた
 大村にとっては、うれしい限りだった。
1866年3月9日、寺田屋騒動(坂本龍馬襲撃事件)
  この日、慶応2年1月23日(1866年3月9日)、京での薩
 長同盟の会談を斡旋した直後に・・、
  薩摩人として宿泊していた坂本龍馬を、伏見奉行の林
 肥後守忠交の捕り方が、捕縛ないしは、暗殺しようとし
 た(寺田屋遭難とも言う)、
  龍馬や、長州の三吉慎蔵らは、深夜の2時、幕府伏見奉
 行の捕り方30人ほどに囲まれた。
  いち早く気付いたお龍は、風呂から裸のまま裏階段を
 2階へ駆け上がり、投宿していた龍馬らに、危機を知らせ
 た。
  捕り方は、「肥後守(奉行)よりの上意」であるとし
 て迫り、
  踏み込まれた龍馬らは、「(奉行の権限の及ばない)
 薩摩藩士である」との嘘を主張したが、簡単に見破られ
 た。
  龍馬は、高杉晋作からもらった拳銃で、
  三吉は、手槍を用いて防戦して、
  捕り方2名を射殺、数名を殺傷させた。
  しかし、捕り方が、拳銃を持つ手を刀で払おうとして、
 龍馬は、手の親指(左右)を負傷した。
  装弾ができなくなったと言うので、三吉が必死に槍で
 応戦する間に、辛くも家屋を脱出し、路地を走り、材木
 屋に隠れた。
  三吉は切腹しようとしたが、龍馬に止められて、伏見・
 薩摩藩邸に救援を求めに行くように依頼された。
  薩摩藩邸にいた留守居役・大山彦八は、藩士3名をつれ
 て、川船を出し、救出に向かった。
  龍馬は、九死に一生を得ることができた。
  すぐに、京都の西郷隆盛のもとに報告が行き、吉井幸
 輔が早馬で伏見に来て、事情を調べ、
  西郷は、軍医を派遣し、治療に当たらせると共に、藩
 邸を警護させた。
  翌日、薩摩藩邸は、龍馬に対する伏見奉行からの引き
 渡し要求を受けたが・・、拒否した。
1866年3月16日、アーネスト・サトウが、ジャパン・タイム
 スに匿名で論文寄稿した。
  将軍を主権者と見なさないとする内容だった。
  後に、翻訳され『英国策論』と題されて出版された。
1866年4月13日、幕府が、長崎・神奈川・箱館に出稼ぎ、自
 由交易と、
  及び、商人の外国船舶の購買を許した。
1866年4月28日、松本良順(蘭学者)が、万国公法6冊を、
 14代将軍・徳川家茂へ贈った。
1866年5月5日、高杉晋作が、伊藤博文を連れて3度目の長
 崎へ行った。
  薩長同盟に加わるためだった。銅座町の薩摩屋敷へ。
  また、グラバーからオテントサン丸を買った。
  そして後に、オテントサン丸は、丙寅(へいいん)丸
 と命名され、幕府を向こうにまわして活躍した。
1866年5月17日、幕府は、長州と談判をして来たが、埒(ら
 ち)は開かず、
  幕府は、この日・5月17日、長州を代表する四家名の名
 代に対して、速やかに帰国して主人に伝え・・、
  1866年6月3日までに、請書を出すように命令を下した。
1866年5月18日、林甚六郎が、幕府の命に依り、三条実美以
 下の五卿に対し、京都へ帰還を迫った。
  薩摩の大山格之助、黒田嘉右衛門等、西郷吉之助に代
 って、頑として五卿を渡さず。
1866年5月19日、毛利敬親が、形勢切迫せるを以て、緒隊の
 軍備を急ぎ、幕府軍対抗に備えた。
1866年5月21日、海外行き許可の認証に関する布告。
  幕府が、学術および商用や留学目的の海外渡航を解禁
 した(海外渡航を許した)。
1866年5月28日、薩摩藩は、正式に、第二次長州征討軍に参
 加しないとした。
  ここに至って、幕府は、長州藩の武力討伐に意を固め、
 その準備を進めて来たが、1866年5月10日に、改めて、長
 州藩主父子、及び、重臣に広島に出頭するよう命じた。
  長州藩は、既に、幕府軍との開戦はやむを得ないとし、
 時間稼ぎの交渉を続ける。
  戦闘準備のための時間が欲しい長州だった。
  1866年5月28日に、薩摩藩が、正式に、第二次長州征伐
 の参加ができないとした事により、薩摩藩に割り当てら
 れていた萩口の攻め口は、消滅する事となった。
  第二次長州征討は、芸州口・石州口・小倉口・大島口
 の4つの戦線で戦われる作戦だった。
  また、幕府は、長州藩の本拠である萩を、海路から、
 直接、攻撃することも考えていた。
  そして、それを、薩摩藩兵を、その主力にするつもり
 だった。
  この作戦予定も立たなくなった。
  この薩摩藩の出兵拒否は、第二次長州征伐に難色を示
 す諸藩にも影響を与えた。
  薩摩藩の様に、出兵を拒否する諸藩が現れる要因とな
 った。
  また、出兵拒否まではいかなくても、参戦しても戦意
 が無い藩が多く生まれる背景となった。
  長州藩としては、萩口からの攻撃が無くなったのは大
 きかった。
  それの戦力を、他の戦線に回すことが出来た。
  強大な幕府軍を迎え撃たなければならない長州軍にと
 って、その作戦を立てる大村にとって、多大なる恩恵を
 与えた。
  でも、まだ、この時に、長州へは、西国の諸藩を中心
 とした17藩が出兵して来ていた。
  この様な状況の中で、1866年7月11日を最終期限として、
 最後通告が長州藩に来た。
  長州藩は、この最後通告も無視した。
  ここに至り、1866年7月18日に、広島を出港した幕府海
 軍の軍艦・富士山丸から、長州藩領の上関に対して艦砲
 射撃が行われた。
  この事が皮切りとして、幕府軍は、山陽道から長州へ
 侵攻した(芸州口)、
  また、山陰道からも、長州へ侵攻する(石州口)、
  そして、九州から関門海峡を渡って長州に侵攻する(
 小倉口)、
  そしてまた、四国から瀬戸内海を渡って、長州へ侵攻
 する(大島口)、
  以上、幕府軍は、計四方面から長州藩への侵攻をした。
  萩口の薩摩藩の予定の侵攻は行なえなかった。
1866年、汎日本的立場に・・薩摩藩の西郷と大久保
  この年に、西郷と大久保は、島津の一家臣の立場から、
 『汎日本的立場に立つ行動』へ向かおうとする。
  西郷と大久保の黙契(もっけい、無言のうちに合意が
 成り立つこと)
  西郷の許(もと)へ赦免(1864年)の船が向けられる
 と、西郷は、京へ駆け上った。
  大久保に迎えられた西郷は、5年に亘る空白の鬱積(
 うっせき)を吐(は)きつけた。
  国の政治の中心は京であった。
  幕府は、尊王攘夷の反幕の嵐に立ち向かうかのように、
 将軍は、自ら、大坂に出て来ていた(1863年)。
  京に天皇、大阪に将軍で、畿内は、にわかに緊迫して
 いた。
  久光の標榜(ひょうぼう)する公武合体論は、革新性
 を失っていた。
  和宮の降嫁(1862年3月11日)によって、徳川家は、天
 皇家の姻戚(いんせき)となり、参台した将軍・家茂に、
 政務委任確認の勅が下されるに至って、幕府の存続・延
 命が助長された。
  西郷と大久保は、島津の家臣である事から脱け出し、
 汎日本的立場で行動しようとした。
  土佐の坂本龍馬の様に脱藩する気はない。
  二人は、薩摩藩という強力な組織を利用した。
  この時、西郷は38歳(1866年)、大久保は35歳。
  二人は、黙契を固めた。
  それは、一切の行動を勅命・勅許によって権威づける
 こと。
  そして、常に主導権を保つであった(参考:プレジデ
 ント平成10年7月号)
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2015年12月27日日曜日

(増補版)266D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年9月~1866年1月)

題:(増補版)266D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年9月~1866年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1865年(慶応1年)9月10日、長州藩のはっきりしない態度
 に、将軍が江戸を進発するという令を、1865年5月12日
 (旧暦:4月18日)に出した。
  そして、将軍は、江戸を出発し、上洛し、参内した。
  幕府と長州の駆け引きが続く・・、
  そこまで出来る長州へと育っていた、また、幕府の権
 威が凋落していた。
  高杉も長崎に行ったり・・、長州藩は、抗幕態勢を整
 えている。
  長州藩の村田増六(後の大村益次郎)も、近代洋式軍
 隊の創設をした。
  薩摩の西郷と、長州の桂が、会談へと斡旋され・・、
  その様な時の、この日(1865年9月10日)、井上馨と伊
 藤博文が長崎へ入った。
  長州藩は、抗戦武装のため、小銃1万丁を求め、青木郡
 平を長崎に派遣していた。
  坂本竜馬は、薩摩藩の名義で、長州藩がイギリスより
 購入できるように薩摩藩へ運動した。
  薩摩が同意したため、桂は、藩政庁の承諾がないまま
 2人を長崎へ派遣したのであった。
  千屋虎之助、高松太郎、上杉宗次郎、新宮馬之助は、
 協議の上で、小松清廉に、薩摩藩で、伊藤・井上を潜匿
 (せんとく、人知れず隠れること)させるように依頼し
 た。
1865年、第二次長州征伐・長州再征が発令されて・・、
  長州藩は、朝敵の立場であったので、表立って武器は
 調達出来ず・・、
  薩摩藩が調達した武器を、長州藩に融通していた。
  ただ、薩摩藩も、まだ幕府と決定的に対立していたわ
 けではないので、
  まだ、表立って名前を出すことは出来なかった。
  その様な両藩を、仲介する形で、間に立ったのが坂本
 龍馬の率いる亀山社中だった。
  薩摩藩が調達した武器を、亀山社中が長州藩に届け、
 長州藩は、その代金として米などで亀山社中に払い、亀
 山社中が、それを薩摩藩に輸送した。
  薩摩に限らず、多くの西国大藩はこの第二次征長には
 出兵しなかった。
  この時期、洋式兵制が整った藩はほとんどなかった。
  長州藩にしても 洋式兵制で、ある程度、訓練を受けた
 のは、まだ、3000~4000人に過ぎなかった。
  小倉口の敗戦は、家茂死去以降、主力の筑前藩、肥後
 藩が引き上げた後に、小倉藩と、八王子千人隊だけにな
 ってしまったからだった。
  八王子千人隊は、洋式訓練受けている筈だが、活躍し
 たという事例がまったくないので、事実は不明?
  役に立たなかったのかもしれない?
  八王子千人隊は、八王子千人同心(はちおうじせんに
 んどうしん)とも言い、
  徳川家康の江戸入府に伴い、1600年に発足していた。
  そして、『徳川実紀』には・・、
  「(家康公は)江戸で長柄の槍を持つ中間を武州八王
 子で新規に五百人ばかり採用され、甲州の下級武士を首
 領とした。
  その理由は、八王子は、武蔵と甲斐の境界なので、有
 事の際には、小仏峠方面を守備させようとお考えになっ
 たからだった。
  同心どもは、常々、甲斐国の郡内へ往復して、絹や綿
 の類をはじめとして、甲斐の産物の行商を行い、江戸で
 売り歩くことを平常時の仕事にするようになされたのだ
 った」(現代語訳)
  すなわち、千人同心は、甲斐武田家の滅亡後に、徳川
 氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・
 豪農などで組織されていた。
  甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは、武田
 家遺臣を中心に、甲斐方面からの侵攻に備えたためだっ
 た・・、
1865年12月31日、筑前の女傑・野村望東尼が、玄海の孤島
 姫島に流された。
1865年、牛乳の販売
  この年、幕府が、雉子(きじ)橋門内の牧場で牛乳をと
 り、一部を市中にも売り出した。
1865年、津田真道(つだまみち、法律家、法学博士、開成
 所教授貴族院議員)訳『西洋各国盛衰強弱表』
1865年、アメリカの第1期プロパテント時代(特許重視)
1865年、ジオヴァニ・カセリがファクシミリを発明した。
1865年、アメリカ合衆国で、この年まで、200年以上の間
 (1640年代~1865年)、アフリカの方々と、その子孫の
 方々が、合法的に奴隷化されていた。
  その所有者は、圧倒的に白人だった。
  4家族に1軒が奴隷を所有し、
  奴隷にされた方々の労働から富を搾取するという、非
 人道的行為が行なわれていた。
  17世紀から19世紀にかけて、何と、1200万人ものアフ
 リカの方々が、
  アフリカ大陸の地から、奴隷として連れ出されて来て
 いた。
  荒れ地のプランテーションを切り開くという超重労働
 に従事させられて、亡くなるという・・アフリカからの
 奴隷の方たちだった。
  死亡率は凄まじかった。
  労働が、過酷になるほど、奴隷の方たちの反抗も増え、
 白人たちは、暴力に訴えて監督をするという状態だった。
  日の出から日没までの・・過酷な労働だった。
  ニューオーリンズの奴隷売買の市場が最大だった。
  白人の奴隷所有者の言葉が残っている・・、
  「奴隷に説得して働くように仕向ける事は、豚に真珠
 を投げる事に似ている。
   奴隷は、働くように仕向けなければならない、罰を
 受ける事を常に理解させておくべきだ」。
  腕力での管理が目に浮かぶ、
  その腕力を受けるアフリカから来た方々が悲惨だった。
  キリスト教の聖書にも、隣国に攻め入った、キリスト
 教徒の「神の許しを得て非行を行なう、奴隷狩り」のキ
 リスト教の教義が記されている。
  キリスト教の神は、叫ぶ、「○○人は全滅にせよ」「
 △△人は男だけを殺せ」「生娘は生かしておけ」
  そして、「奴隷にせよ、奴隷にせよ」・・と。
  自分たちの利ために、相手の民をしゃぶり尽くす。
  その事をキリスト教の神は叫び、そして、「奴隷にす
 る」。そのことをキリスト教聖書は説き、教える。
  聖書に書かれた事であるため、忘れられる事なく、連
 綿と歴史に、この悪行為は続けられて来た。
  市場で売買される奴隷の方々についての話・・、
  「その奴隷に売られる100人の娘たちは、印のために、
 足に石灰を塗られた。
  売りに出された奴隷だとすぐ分かる様に、その様な非
 人道的な事をされた。
  また、一家単位で取引される奴隷もあるが、その一家
 が、バラバラにされて、売りに出される、白人たちの勝
 手な都合で取引された。
  見捨てられた子供が、哀れだった。
1865年4月9日、アメリカ合衆国の南北戦争が終了した。
  この南北戦争が終了すると、アメリカ政府は、今度は、
 アメリカの先住民のアメリカ・インディアンの方々へ、
 全力投球の戦争でもって、向かって行った。
  その目的は、アメリカ・インディアンの方々を狭い区
 域に入れたい、閉じ込めたい、
  そして、アメリカ・インディアンと白人・アメリカ人
 との間を引き分ける「はっきりした境界線」が引きたい
 のだった。
  そして、それをやるために、あらゆる戦争・軍事上の
 行動をするという方針だった。
  アメリカ・インディアンのスー族が、この勝手なアメ
 リカ政府の方針に、特に、抵抗した。
  それまで虐げられてきたインディアンの方々、スー族
 の方々は、やっと住み慣れたプラット川の谷に広がるブ
 ラックヒルズの領土を守りたいと思った。
  領土防衛のために決死の覚悟で立ち上がった。
  スー族は、アラパホ族やシャイアン族の理解と支持を
 受けた。
  戦いが繰り広げられた。
  戦いは長く続いた。
  被害が大きい『消耗戦』となった。
  悲惨な戦いが続いた。
  アメリカ政府は、インディアンの方々と交渉を持つ方
 針に切り替えた。
  1868年の春に、ララミー砦で結ばれた約束・条約では、
 スー族によるブラックヒルズとプラット川渓谷の統治権
 が認められた。
  アメリカ政府が作らせたアメリカ軍の砦のいくつかも
 撤去する事となった。
  しかし、アメリカ・インディアンの方々が、当然、得
 たいだろう自由に住む権利、生活する権利は奪われたま
 まだった。
  肝心の、この当然の権利は認められなかった。
  狭い居留地に住み続けさせることが、アメリカ政府の
 根本精神だった。
  人権は全く認められていなかった。
  隔離生活が続き、虐げられた。
  ここに、自由や民主主義は全くなかった。
  人権、人道に従う道もまったくなかった。
  アメリカ・インディアンの方々の多くの命を懸け、殺
 戮され、失った命が無駄になってしまっていた。
  この戦いが起こされる前、アメリカ政府は、インディ
 アンの方々へ、インディアンの土地に止まるのではなく、
 さらに西へ行って金を探すためだと嘘を言っていた。
  「我等と同じ人々よ、よく聞け、ワシントンにいる白
 人の長の言う事は、嘘となり(だましとなり)戦争にな
 ってしまう。私は戦うつもりだ」と。
1865年4月14日、第16代アメリカ合衆国大統領のエイブラハ
 ム・リンカーンが狙撃された。
  フォード劇場で「Our American Cousin」(われらのア
 メリカのいとこ)を、
  妻メアリー・トッド、従者フォーブスとラスボーン少
 佐、少佐のフィアンセのクララと観劇中だった。
  北部軍メリーランド州出身のジョン・ウィルクス・ブ
 ースに1.2メートルの至近距離から、拳銃で、後頭部左耳
 後5センチを1発、撃たれた。
  狙撃時刻は、午後10時13分(午後11時17分?)
  4月15日、午前7時21分、向かいの民宿、ピーターセン
 ハウスにて死亡が宣告された(1809年~1865年)
1865年、北部人による南部人へのいやがらせ
  アメリカの南部人は、北部人から、嫌がらせを受けた。
  その市長の席から、町長・村長の席から、郵便局長の
 席から、あらゆる要職の席から、北部人によって追放さ
 れた。
  そして、何と、そこへ黒人の方たちを据えた。
  これは、当てつけだった。
  嫌がらせだった。
  自分たちが、しなかったことを、できなかった事を、
 南部人に対してやった。
  1872年に至って、やっと、この嫌がらせ行為を止めた。
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