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2013年12月12日木曜日

NHKの、日曜大河ドラマは、結局、キリスト教の「巧妙なる伝道放送」です。

題:NHKの、日曜大河ドラマは、結局、キリスト教の
「巧妙なる伝道放送」です。
.
 19世紀、宗教学という新しい学問分野も開けました。
 その結果、新しい知見・知識・発見も盛んに得られまし
た。
 そして、20世紀になると、それらの新しい知見の元から
発生するキリスト教の色々な問題が出て来ました。
 そしてまた、その知見から考察された『色々な学説』が
続々と生まれました。
 今、キリスト教に偏するNHKが、日曜大河ドラマ「八
重の桜」で、美しく新島襄について放送していますが、
 この新島襄が知らなかった知見が、種々色々とあったと
いう事なのです。その様な知見が大いに得られたというこ
となのです。
 キリスト教を、学究的に、また、学問として世界の他宗
教との比較研究も盛んとなり、また、考古学上の発見も相
次いだりして・・・、
 そしてまた、言語学的に、そしてまた、考古学的に、比
較神話的に、そしてまた、比較宗教学的方法がとられまし
た。
 それらは、『それまでの方法』に拘束されない、まった
く新しい研究がなされたのでした。
 当然、旧来の解釈との間とで『激しい論争』がなされま
した。
 NHKは、明治の曙光・・あけぼのの頃の新島襄を、
何もキリスト教のことを知らない新島襄を、美しく放送し
ていますが、
 そして、現代の頭のNHKが、美しく脚色して、
 そしてまた、美しく整えて、放送していますが、
 ある意味、『間違った情報』を視聴者の方々・皆様に、
国民の皆様に、放送している事となります。
 新島襄は、何も新しい情報を知らないキリスト教徒とい
う事で、NHKは、これを隠して放送行為をしました。
 例えば、キリスト教の基本中の基本の「神の国」思想は、
まったく変わった見解となったのです。 
 時代考証などや、その他、裏付け的な事をしっかり調査
し、調べて放送しているのでしょうか?
 ただただ、面白おかしく、また、キリスト教に偏するN
HKが、結果、『キリスト教の巧妙なる伝道放送行為』と
なる放送をしたという事なのです。
 「神の国」というキリスト教の思想・教義は、「発展的
な道徳的な秩序のもとの国」と理想的にキリスト教は言っ
ていっていますが、これは違うのです。 
 実際はその様な事を指すのではありません。
 その様な美しいことを指すのではないという事が分かっ
たのです。
 それは、当然、新島襄が知らないことです。
 新島襄は、『古い知識』の中に居る人なのです。
 当然、キリスト教に偏するNHKは、この様な事は放送
しません。
 何だかんだと、美しく、「巧妙なるキリスト教の伝道行
為の放送をしてしまえばよいの態度」なのです。
 「神の国思想」は、何ら進んだ発展的な道徳的秩序を指
すのではなく、ただ単に「超越的な神」を信じる所から生
まれただけの話だったのです。
 また、ただ単に、「奇跡的な神の意志的働きを信じる所
から生まれただけ」だったのです。
 何も、後からプロパガンダされたものではかったのです。
 突発的な神の意志を憧れ、そして、信じただけだったと
いう事です。
 後から美しく作られた「進んだ道徳的秩序の思想」は、
皆無だったのです。
 この基本中の基本の「神の国思想」が崩れますと、
 この思想・教義と関連している「人の子」や「メシヤ(
救世主)」の解釈も大変更をして説かねばならないという
事になったのです。
 また、今では常識となっている「キリスト教の創設者は、
イエスではなくてパウロだ」という事も、このNHKの新
島襄は知らなかったのです。
 その様な事にもNHKは『ホッカムリ』したまま、
 ただただ、美しく、キリスト教の伝道的放送をしていた
のです。
 パウロが、イエスの言葉や行動の実質的な面を無視した
という事にも、NHKは「ホッカムリ」したのです。
 この様な大問題が、新島襄以後に、キリスト教には起き
ているのです。
 イエスが、語ったと言われる言葉だって、イエスの言葉
 なんて、ほとんどと言ってもよいくらい『無』、無いの
です。
 そのほとんどが、原始キリスト教会の信者達の言葉だと
判明したのです。初代教会の「宣教(ケリュグマ)」なの
です。
 ホッカムリや嘘や思い込ませのNHKの「巧妙なる伝送
放送」なのです。
..
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2013年12月10日火曜日

不沈空母・・・、

 題:不沈空母・・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 あなたは、
 アメリカの準州になる日本を受け入れますか?
 それとも、
 このまま、独立した日本のままで居たいですか?
 アメリカへ、
 ピューリタンが大西洋を渡って、
 そして、母国・イギリスと独立戦争を戦って、
 そして、その独立後に始まった、西への拡大。
 西部への膨張。
 その時、その地、今で言うアメリカ中部及び西部地域を
占領していたイギリス・フランス・スペインと・・戦い、
 フロリダにはスペインの砦が早くからあったが、
 そして、本当の持ち主、元々の持ち主の
 先住民のインディアンの方々と・・戦い、
 ・・・というよりも、せん滅戦。
 前者の白人諸国との戦争は、『限定戦争』と言って
 戦いを繰り広げるにしても、
 むやみやたらと将校は「狙い撃ちをしない」とかの
 差別のある戦い。
 しかし、本当の持ち主の原住民のインディアンの方々に、
 制限事項の無い、『無制限の戦争』の状態。
 卑劣な 絶滅状況も 現出する。
 これは、キリスト教の教義・考え方・哲学から来ている。
 そういえば、日本では、原爆で民間人しか居ない所へ、
 そして、焼夷弾のじゅうたん爆撃、火の海で逃げ惑(ま
ど)って、9割が焼夷弾だと、
 おじいさんが目の前で殺されたリンカーンは、
 インディアンに憎悪を持って対抗した。
 無差別殺戮を許した作戦を命令したり、
 極寒の中を、険しい山道を行く、居留地へ歩く、
 何キロも徒歩で行く、死の行進を命令するリンカーン
 などなど。
 足の弱いおじいさんやおばあさんが居ただろう、
 足の弱い幼い子も居ただろう、
 病気で歩けない方々も居ただろう。
 何キロもの道を、寒い道を、
 歩かせたリンカーン。
 そして、獣(けもの)のように殺戮した、連隊組織の規
模で殺しまくった、近代兵器を装備した『戦い専門集団』
が殺しまくった。一斉射撃の戦法も進んでいた・・、
 キリスト教に洗脳された有色人種蔑視。
 駆逐し尽くし、
 太平洋岸に達したアメリカは、
 それでも満足はしなかった。
 西進を止めなかった。
 パナマ、フィリピン、ハワイと太平洋を渡り、奪って行
く。
 フィリピンは中国を得るための橋頭堡にしたいとの目的
があった。
 この西進の行進は止まっていない。
 西進の意思は続いている。
 日本を経済で、まず、取り込みたいとのTPP。
 属国度は上がっていく。
 このまま行けば、日本は、アメリカの準州になるだろう。
 そして、ゆくゆくは核配備もして、集団的自衛権も必然
となるだろう。
 日本の安全保障のためにはその道を行くことになるだろ
う。中曽根さんが『不沈空母』と言った言葉が思い出され
る。そして、また、東京大空襲の話、民間人を焼き殺すの
が最初からの目的。日本の防空能力がないのを知っている
から爆弾や機関銃をおろして焼夷弾を目いっぱい乗せて、
世界史上最大の犠牲者数、指揮官の米軍ヘイウッド・ハン
セル准将は無差別爆撃は一般市民を巻き込み非人道的と思
っていたが、その後を継いだ・・、、戦争犯罪だが・・、
その指揮官に勲章をあげた日本、そしてその後に、あげた
首相はノーベル平和賞をもらった、勲章をもらったアメリ
カの将軍は、日本のメディアの東京空襲の質問に勲章を見
せたという。
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2013年12月9日月曜日

未来の人類のためにも、残してはならない。

 題:未来の人類のためにも、残してはならない。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 
 キリスト教聖職者の書く本の中の一説に、
 「ユダヤ人の長い歴史のどの一こまをとってみても、彼
等(ユダヤ人)が苦難に会わなかったときは無かった。
 聖書全体が、ユダヤ人の苦難の歴史そのものだと言って
もよい。
 苦しみを経験して初めて、人間らしい人間が生まれる」
・・・とある。
 ユダヤの方々が苦難の環境に居たということは同情され
るが、
 このキリスト教聖職者の「苦しみを経験して初めて、人
間らしい人間が生まれる」という論理には賛成しかねる。
 どちらかというと、これは、我田引水的な言い方だ。
 苦難の環境に居たという事と、「買ってでも苦労しろ」
との教えは同じではない。
 ものごとは挑戦することが大切。難しいことに努力して
立ち向かうことは大切。
 しかし、ユダヤの方々の死ぬような戦乱の環境を『人間
のためには良いのだ』と言うキリスト教聖職者の言い方は
我田引水の論理だ。
 本当は、本論は、ポジティブに良いことを言い、そして、
教え、育てなければならない。
 科学的にも、『ポジティブに言う方』に軍配が上がって
いる。
 褒め、育て、見守っていて、そして、いつも寄り添い、
 その時その時に、その子や人々に役に立つことを、
 知ってもらって、理解してもらって、そして、行かなく
てはならない。
 だから、本当は、会わないでも済む苦難は、「会わない
方がよい」・・が、正論である。特に、死ぬような苦難は
起きてはならないのである。特に、戦争は悲惨そのものだ。
ユダヤも戦乱が引き続く地だった。
 苦難と『立ち向かうべき壁』とは違うのである。
 そして、この聖職者は、「苦難の中に生き抜く生命力を
この身に体得することでなくてはならない」・・と言って
いる。
 ものは言いようである。死ぬような体験が役に立つとい
うのである。しかし、リスクの大きいことをして、死んで
はおしまいである。例えば1例、みんながみんな、エべレ
ストに登るのが良いという論理は成り立たない。
 キリスト教はネガで出発するから怖い。
 全体がネガなので出発は必ずネガからの出発である。
 話は少し外れるが、ネガからの発想の出発は、認知症に
もなる確率が高いという結果もある。
 南米のインディオ・・・、
 南米のインディオは殺されてしまっている。
 殺すところまでやっている。
 全滅させられてしまっている。
 死んでしまっては何にもならない。
 パレスチナ・カナン・イスラエルの地も、血を血で洗う
地であったが・・・、
 何をか言わんやである。
 愛する我が子が、死に直面し、死ぬようなことでも「厭
(いと)わず」とでもいうのでしょうか?
 その一方、キリスト教は矛盾したことをしている宗教だ。
 今、キリスト教組織は、「頑張るな」のキャンペーン運
動をしている。
 NHKの討論番組でも、このキリスト教の運動に則(の
っと)って、この類いの討論番組をやっている。
 国際基督教大学の教授が、名前は匿名にするが、この番
組に参加している。
 教授は、この論点のみによって「討論に参加し」、討論
番組であるのに、この論点だけを以って、何の論点の広が
りもないまま、宗教的に、教示的に、この事のみを言い続
けた。
 何の論理の広がりもないNHKの討論番組を、延々と、
長時間、放送し続けた。
 受信料が払いたくなくなってしまう番組であった。
 それにしても、NHKは、キリスト教に偏する。
 何で、こんな人選をするのか?
 論点の深まりもないまま、
 キリスト教の演者も、論点の広がりも、何ら披露する事
が出来ずに、番組は進んだ。
 討論番組としては成立しない大失敗。
 この討論に出席されていた文部科学大臣から「頑張り、
そして、その頑張った結果が、正しく評価される社会でな
ければならない」という正論を言われ、
 キリスト教は、何ら反論もできない状態であったが、
 この事例の様なピントのずれたことを良くする宗教であ
る。
 キリスト教は、3つの共観福音書というものを持ってい
る。
 そして、その共観福音書以外に「ヨハネによる福音書」
という福音書を持っている。
 合計4つの福音書を持っているが、
 この毛色の変わった「ヨハネによる福音書」を、「捨て
よう」との話し、論理の展開があった。その様な動きがあ
った。
 逆に、共観福音書より深い「ヨハネによる福音書」こそ
大切にしなければならないのに、
 『異端抹殺』の性癖のあるキリスト教は、この様に、聖
書の領域までも、この様に考える。
 「異教徒は殺せ」のキリスト教の教義のように、違う意
見を、直ぐ、抹殺する性癖のキリスト教は、すぐこの様な
思考を展開する。
 底の浅い宗教の原因となっている。また、愛など全く存
在などしない。
 この「ヨハネによる福音書」にも、キリスト教の限界が
見える。
 その1例は、(「ヨハネによる福音書」14・6)に、
 「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでも
わたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」
とある。
 結局、キリスト教は、『排他』の宗教性から抜け切れて
いない。
 信じない者を、信じられない者を、信じていない者を、
異端とし、異教徒とし、その様な目で見て、その決定事項
のみによって、判断し、膨らみもない視点で、固定的な判
断基準で、狭い『自己中』の中で、排除し、殺して来た。
その様な、考え方・教義・哲学である。
 キリスト教徒同士でさえ、異論を異端とし、「異端審問
所」を存在させて、なんと多くの方々を殺したと言うのか。
 馬鹿め!
 「一神だから」という言葉で、『だからこの様なことぐ
らいはあるのよ』と言う。
 洗脳されたキリスト教のこの言葉が印象的に残って、記
憶にあるが・・・、
 何が愛の宗教と言うのか。
 キリスト教は異端を殺す事を容認し、
 キリスト教のこの壁・限界を乗り越えられずにいる。
 恐ろしいことに、これを正しいものと誤認混同している。
 わずかに居るオカシイと思う信徒の人たちも、『それで
いいのだ』という気持ちにさせている。
 増上慢である。
 常に、寄り添い、導(みちび)き、喩(さとす)、佛教
の姿に学びなさい。違っても受け入れるのだ。
 「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅してもよい」
とまで言う。
 他民族を、異教徒の方々を、どのぐらい殺したら気が済
むというのか?
 卑劣な宗教が、悪行を、いつの時代も、好きなだけやっ
て来た。
 背景に陰湿な「終末思想」の怨が見え隠れしている。
 イエスもこの思想にまみれていたが・・。
 長い歴史の中で、無念の内で殺され、亡くなって行く方々の
無念の姿を思いやり、見ることができない宗教。
 未来の人類のためにも残してはならない。
.
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