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2017年9月29日金曜日

(増補版)557E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年4月~1892年5月)

題:(増補版)557E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年4月~1892年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年4月、桑島蚕造が、『鉄道論』で鉄道国有の構想を発
 表した。
  政府の手厚い保護を受けていたとはいえ、日本鉄道が
 好調な決算を発表すると、各地で私設鉄道設立ブームが
 起こった。
  1884年の阪堺鉄道や、1887年の伊予鉄道を皮切りに、
 両毛鉄道、山陽鉄道、水戸鉄道(初代)、九州鉄道(初
 代)、大阪鉄道(初代)などが認可された。
  それまでの官設官営の原則が崩れて、日本の幹線鉄道
 は、官設・私設の両方により建設されることとなった。
  しかし、中には無謀な計画や投資を誘発したものもあ
 り、それは、1890年の経済恐慌となってはね返った。
  また、建設工事の停滞や株式払込みの遅滞、既設私設
 鉄道の経営の悪化を招いた。
  状況は間もなく回復したが、このような状況の中で、
 1891年、井上勝(官僚、「日本の鉄道の父」と呼ばれる)
 は、「鉄道政略に関する議」を上申した。
  この上申書で、従来からの鉄道国有論に加え、既設私
 設鉄道の買収を前面に押し出した。
  このためには私設鉄道買収法の制定が必要であると説
 いた。
  この上申書を契機として、政府は、再三、鉄道公債法
 と私設鉄道買収法を帝国議会に提出したが、いずれも可
 決されず・・、
  1892年に、買収法案に大幅な修正を加えた鉄道敷設法
 (1892年6月21日、制定)が制定された。
  しかしそれは、予定線建設のために必要がある場合の
 み、私設鉄道の買収ができ、さらに、議会の協賛を必要
 とする、将来の国有化の可能性をにおわせながら、実際
 は予定線の民間による建設を容認するなど、議会を構成
 する私設鉄道の株主でもある資本家、地主たちによって
 完全に骨抜きにされてしまった。
  これに憤慨した井上は、翌年・1893年、退官した。
  井上の鉄道国有論に対抗して、鉄道民営論を唱えたの
 が、渋沢栄一や田口卯吉、中上川彦次郎、三井や三菱な
 どの財界の有力者たちだった。
  彼らは、資本主義の発展にともなって鉄道経営が大き
 な利益をもたらすとともに、産業支配と鉄道支配との間
 に密接な関連性があると認識していた。
  渋沢らが関わる東京経済学協会が、1891年に発表した
 「鉄道調査報告書」に掲載された佐分利一嗣の論文では、
 鉄道国有化論に対する反証を一々あげて論じ、「将来の
 鉄道は、私設民営たるべし」という結論を導いた。
  続いて渋沢らは、1894年に、官設鉄道払下計画を立案
 し、一挙に理想とする鉄道民営の実現を図った。
  しかし、日清戦争の勃発で頓挫した。
  その後、鉄道国有化が政治課題となったのは、1899年
 で、衆議院に「鉄道国有に関する建議案」が提出され、
 可決された。
  首相直属の鉄道国有調査会が設置された。
  この報告に基いて、翌年・1900年、鉄道国有法案およ
 び私設鉄道買収法案が帝国議会に提出された。
  しかし、これも議決されることはなかった。
1892年4月、鉄道庁参事・官中根重一が、『鉄道問題』で鉄
 道国有の必要性を論じた。
1892年5月2日、第三回帝国特別臨時議会が召集された。
 5月6日に開会された。
  会期は40日間。
  衆議院議長は自由党の星亨、副議長は曾根荒助が就任
 した。
  貴族院の正副議長は留任した。
  5月11日、貴族院は、選挙干渉に関する決議案を可決し、
 政府に反省を求め、5月14日、衆議院は、選挙干渉(問責)
 決議案を可決した。
  5月31日、衆議院は、予算を修正し、軍艦建造費などを
 削減して可決し、6月6日、貴族院は、復活修正して衆議
 院に回付した。
  6月9日、衆議院は、「予算案に関し貴族院が衆議院の
 削除した款項を復活するのは不法である」と議決し、再
 度、予算案を貴族院に返付した。
  6月10日、貴族院は、「復活修正は合法である」と議決
 し、6月11日、予算案に関し、天皇陛下の勅裁を求める上
 奏案を可決した。
1892年5月7日、人糞その他汚穢な肥料の運送について「肥
 料運搬規約及運搬人糞取扱手続」(鉄二調甲第102号)を制
 定した。
  国民の食糧生産に欠かせない肥料・・この当時、人間
 の屎尿(しにょう)が「下肥」と称され、大切に使われ
 ていた。
  都市の発達とともにその屎尿の利用が計画され、生態
 循環が図られた。
  これは、昭和初期から徐々に化学肥料が使われ出して、
 減少して行った。
  また、処理場を経由した廃棄や、船による海洋投棄も
 始まった。
  この1892年5月7日に制定された「肥料運搬規約及人糞
 取扱手続」中で、「人糞運搬取扱心得」として特約書を
 書かせること、専用貨物扱にすること、運搬後は生石灰
 を用いて貨車内を洗浄することなどが定められている。
1892年5月9日、第3回帝国議会に、再び、鉄道公債法案およ
 び私設鉄道買収法案が提出された。
1892年5月9日、衆議院議員・佐藤里治が、鉄道拡張法案を
 提出した。
1892年5月10日、衆議院議員・植木志澄・伊藤大八・塩田奥
 造らが、鉄道敷設法案を提出した。
1892年5月10日 最初の養蚕学校が、長野県小県郡(ちいさ
 がたぐん)に設立された。
  三吉校長一棟の民家にて授業が開始された。
  三吉米熊(みよしよねくま):明治〜昭和期の教育者
 で小県蚕業学校の初代校長で、上田蚕糸専門学校の教授。
  生年は、1860年(万延1年)6月10日
  没年は、1927年(昭和2年)年8月31日(67歳)
  出生地は、長門国(山口県)
  学歴は、勧業局農学校農芸化学専攻科(現・東京農工大
 学)を1881年(明治14年、21歳)に卒業。
  経歴:長州藩士の家に生まれ、廃藩後に、父に伴われ
 て上京し、明治協庠社に入った。
  1878年(明治11年、18歳)勧業局農学校に入学し、農
 芸化学専攻科に進み、1881年(明治14年、21歳)卒業し、
 長野県勧業課農務掛となった。
  西ケ原蚕業講習所で修業後、北信の各地で蚕業技術を
 伝習し、
  1889年(明治22年、29歳)農商務省から蚕業事情調査
 のためイタリア・フランスに派遣され、2年余で帰国、
  1892年(明治25年、32歳)小県蚕業学校(現・上田東高)
 初代校長となり死去するまで生涯を同校の教育に掛けた。
  蚕体病理・生理・土壌・肥料などの学科を担当、生徒
 の実習指導に当たり、学校での事績報告を毎年発行し蚕
 業界から注目されていた。
  また、地方の蚕業家のために養蚕法の標準を示し、天
 気予報を出した。
  この間、1908年(明治41年、48歳)の上田蚕糸専門学
 校(現・信州大学繊維学部)設立に尽力し、同校教授を兼
 任。
  一方、微粒子病研究団体の設立に努めて学会と養蚕家
 に貢献した。
  著書:「伊仏産業事情」「通俗蚕業講話」
.
  (今日の言葉)
.
  題:治乱興亡は、歴史の常態・・むしろ、日本のほうが例外だった・・
    この幸せな状態を自覚し・・甘えるな・・
.
13世紀以来、アフガニスタンの荒廃
  モンゴルによる大虐殺によって、アフガニスタンのカ
 ンダハールなどの都市が、700年間も荒廃したままだった。
  『背筋が凍るような大虐殺』と形容されている。
  ユーラシア大陸を行く、東京経済大学の色川大吉教授
 らは、この地が、砂漠だと思っていたが、「自然にそう
 なったのではなく、『人間が水系を破壊し尽くして』、
 砂漠化してしまった」という。
  「そこまで破壊していた」という。
  そして、大廃墟が、あちこちにある地域だという。
  大虐殺の痕跡・記憶をとどめていると氏は書かれた。
  この・・同じモンゴルが日本を襲った。
  色川氏とその仲間たちは、その日本の元寇の時を思う・・、
  「もし、神風が吹かなかったら」という話をせざるを
 得ない凄まじさだったという。
  この時の話で、以下が、結論的な話だという・・、
  「岡山あたりまでが大虐殺を受けていたかもしれない」
 という・・また・・、
  「日本の武士団は、結局、それを切り抜けただろう」
 という・・そして・・、
  「大阪あたりまでモンゴルの大虐殺に逢い、日本人の
 精神構造も変わっていただろう」などという話が出たと
 いう。
  (参考)カンダハールは、アフガニスタンの都市。
      アルガンダブ川渓谷に位置する同国南部の主
     要都市・・カンダハール州の州都。
      人口は450,300人 (2006年の公式推計)で、カ
     ーブルに次いでアフガニスタン第2の都市。
      標高:海抜1,005 m
      アフガニスタンの最大民族パシュトゥーン人
     の居住地域にあり、パキスタンのペシャーワル
     と並ぶパシュトゥーン人の主要都市。
      アジアハイウェイの路線上にあり、
      北はウルーズガーン州のタリンコート、東は
     ガズニーを経てカーブルに通じ、西はヘラート・
     ファラーを経てイランのホラーサーン地方およ
     び中央アジアに至る。
      南に進めば国境を越えてパキスタン領バロー
     チスタンのクエッタに至り、インダス川下流域
     の大平原からインド亜大陸へと通ずる交通の要
     衝で、国際空港もある。
      日本人医師の西村哲氏は・・、
     2010年、水があれば多くの病気と帰還難民問題
     を解決できるとして、建設していたガンベリー
     砂漠まで総延長25kmを超える用水路が完成し、
     約10万人の農民が暮らしていける基盤を作った。
      また、西村氏と関係するペシャワール会は、
     アフガニスタン北西辺境州の飲料水、および、
     農業用水の問題を改善するために、地元に伝わ
     る昔ながらの工法を用いた井戸の設置や、カナ
     ート(カレーズ、地下水路)の復旧工事を進め
     ている。
.
1370年、ティムール帝国の祖・ティムールが君主となる。
 (~1405年)
  そしてまた、東京経済大学の色川大吉氏は、ヨーロッ
 パからアジアまで車で見聞した事を記している・・、
  その中に、『歴史は後方へ向かう事もある』と言う。
  『歴史の後退』があると・・、
  アフガニスタンのここ2~3世紀の歴史は、かつての「
 ティムール大帝国」の爛熟した中央アジアの文化が栄え、
 詩人、画家、音楽家、建築家、科学者、学僧などが高遠
 な理想を語りつつ遊歩した町が、かつて昔、ここにあっ
 た・・と・・、
  『それを、誰が想像できようか』・・と書く。
  (参考)ティムール朝は、中央アジアのマー・ワラー・
     アンナフル(現在のウズベキスタン中央部)に
     勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、
      中央アジアからイランにかけての地域を支配
     したイスラム王朝(1370年~1507年)
      その最盛期に、版図は、北東は東トルキスタ
     ン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南
     西はシリア・アナトリア方面にまでの広大な版
     図(はんと、一国の領域)に及び、かつてのモ
     ンゴル帝国の西南部地域を制覇した。
      創始者のティムール在位中の国家はティムー
     ル帝国と呼ばれることが多い。
  そしてまた、色川教授は、『国の独立を失った民族は、
 悲惨である』・・と書く・・、
  (日本も、国を失わないようにしなければならない)
  そして、ここユーラシアの陸続きの砂漠と草原では、
 そうした『治乱興亡は、歴史の常態』だったと書く。
  そして、日本のほうが、むしろ例外だったと書かれる。
  この文を読み、今までの日本の国としての存続を、稀
 有な例として・・しみじみ思い、有り難く感謝した。
  (参考)治乱興亡:ちらんこうぼう、世の中が平和で
     繁栄することと、乱れて滅びること。
.
1823年、第5代アメリカ大統領ジェームズ・モンローが・・、
 この年に、議会で、年次教書演説で発表した・・通称「
 モンロー宣言(モンロー教書)」・・
  この教書において・・、
  アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の『相互不干渉』とい
 う外交の基本方針を示した。
  この宣言の実態は・・、
  その後、アメリカがしたことは・・、
  まず、ヨーロッパ列強に対する、中南米を含めたアメ
 リカ大陸の『アメリカの縄張り宣言』だった。
  アメリカの縄張りに対して如何なる介入も許さない(
 敵対行為とみなす)という強いもので・・、
  今・2017年の北朝鮮の如く、大国・アメリカに歯向か
 う姿と同様だった・・
  「イギリス艦隊の撤退」をアメリカは要求した。
  ベネズエラ危機 (1896年)、1895年から1896年にかけ
 て、イギリス領ギアナとベネズエラとの間の国境紛争に
 関して、当時のアメリカ大統領グロバー・クリーブラン
 ドは、「武力を使ってでも」イギリスに対抗すべきとい
 う断固たる態度をとった。
  1898年は、アメリカ・スペイン間の「米西戦争」で、
 これに勝利したアメリカは、スペインのカリブ海から太
 平洋における植民地を獲得した(領土狩りをする腕力を
 付けて来たアメリカ)
  そして、フィリピン、グアム、プエルトリコ、独立支
 援の名目のもとキューバを保護国化し、
  ハワイを併合し・・、
  そして、さらに、西太平洋地域(フィリピン独立革命
 への介入し、米比戦争)と勢力圏を拡張して行った・・
 そして、中国が欲しいと行ったところに日本が居た・・
.
1845年、イギリスの軍艦が、この年、朝鮮・済州島付近の
 海域に侵入した・・
  (列強の強さを誇示する「うぬぼれ上がった行為」)、
  また、1846年には、フランス海軍によるキリスト教カ
 トリック弾圧に対する抗議などと理屈を付けて、これも
 また列強の干渉が始まった。
  この朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は・・、
  長い間、清朝中国を中心とした冊封体制に平伏し、そ
 の体制を堅持せざるを得ない状況下にあり、鎖国状態に
 あった。
  そして、長い間、中華支配の下に置かされて来ていた。
  そして、この中国以外にも、朝鮮には、関係する欧米
 列強やロシアの存在があった・・、
  危(あや)うい状態・・独立とは言えないような状況
 だった。
  日本は、列強各国と同様の条約を朝鮮と結びたいとし
 た。
  また、日本は、中国清朝の冊封体制から離脱のできな
 い朝鮮を手助けして離脱させ、「朝鮮は自主の邦」とい
 う理想状態にしたいとした。
  中国による冊封体制下の朝鮮が、すなわち「朝貢国」
 が・・、
  単なる「朝貢をするだけの国」を意味するのか、
  または、即「従属国・保護国」を意味するかについて、
 日本と中国の間に、認識の差があった。
  単に、挨拶に行くだけの外交上の関係国を、中国は、
 過大に、都合良く解釈していた。
.
1858年5月28日、アイグン条約
  南下政策を進めたロシア皇帝のニコライ1世の言葉・・、
  「一度、ロシアの旗が揚がりたる所、そこで、それを
 下ろすべからず」
  この言葉で代表される通り、ロシア帝国も、強引な拡
 張侵略政策を続けていた。
  ロシアの拡張侵略政策は、極東に達した。
  そして、結論を先に書けば・・清国とアイグン条約(
 1858年5月28日)、及び、北京条約(1860年10月24日、10
 月25日、11月24日)によって、ロシアへの外満州の割譲
 (現:ウラジオストックなどの地)が行われた 。
  日本とは、樺太問題やロシア軍艦対馬占領事件によっ
 て、ロシアとの問題が発生していた。
  (参考)アイグン条約:ロシア帝国と中国の清帝国の
     間で結ばれた条約で・・、
      1689年のネルチンスク条約以来、中国の清国
     領とされてきたアムール川左岸をロシアが奪い、
     そして、ウスリー川以東の外満州(現:沿海州)
     は、両国の共同管理地とされた。
      列強各国から締結することを強要された清国
     の不平等条約の一つだった。
      ロシアは、ロシア軍艦の発砲や、黒竜江左岸
     の満州人を追い払いなどの脅迫をしていた。
      後の、中国とロシアの国境紛争につながる。
  (参考)北京条約:中国とイギリス(10月24日)、フ
     ランス(10月25日)、ロシア(11月14日)と締
     結された条約で・・、
      アロー戦争(第二次アヘン戦争)での天津条
     約では、まだ、イギリス・フランスは満足して
     いなかった。
      英仏の欲が深い状態と、清の朝廷内の不平等
     条約に対する不満が原因で、条約の批准が進ま
     なかった。
      イギリス・フランスは、強制的に批准をさせ
     ようと、実力行使をして天津に軍隊を上陸させ
     るという侵略行為をした・・、
      北京までも侵略され、占領されるという事態
     に至った。
      また、美しい事で有名は円明園まで略奪され、
     そして、焼き払われた(世界遺産)
      散々、卑劣な侵略戦争で中国の方々を殺戮し
     た挙句、ロシアの仲介で条約がイギリス・フラ
     ンスと中国は結ばざるを得なかった。
      また、強欲なロシアは、仲介したことを口実
     として、この不平等条約の仲間入りをし、利益
     を享受した・・酷い話である。
.
1910年8月29日、日韓併合・・条約の発効
  日本と大韓帝国が「韓国併合に関する条約」によって
 併合した。
  1910年8月22日、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特
 別市)で、日本の寺内正毅総監と李完用首相の間で調印
 された。
  この条約は、1910年8月29日に、条約の効力が発効した。
  この頃、韓国の文盲率は90パーセント以上だった。
  日本は、韓国の方々への教育に力を入れた。
  日本は、韓国の方々が、かつて持っていて、使われて
 いない表音文字である「ハングル文字」を教育に使うよ
 うにした。
  今・現在、韓国では、この時のハングル文字が大切な
 文字となって使われている。
  この文字のお蔭で、韓国の学術をはじめ、新聞など、
 すべての情報や文化などが、韓国を育んでいる。
  また、近年の研究で、伊藤博文が、日韓併合に反対す
 る立場をとっていたことについて、その裏付けのある史
 料が見つかった。
  京都大学教授の伊藤之雄氏は・・、
  「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力が
 つくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持ってい
 たことを裏付けるものだ」としている(近年発見された
 伊藤博文のメモによる)
  朝鮮半島の安重根のテロにあって殺された伊藤博文は、
 韓国は安重根を英雄としているが、実は、伊藤博文は併
 合反対派であったことが研究の結果わかって来た(テロ
 行為は間違いであった)。
  なにしろ、ロシアの南下が厳しく、日本に併合されな
 くても、韓国は、ロシアの権力下に置かれただろう。
  中国とロシアと国境を接する地続きの小国の悲しさで
 あった。
  また、日本との併合期間中に『人口が3倍になっている』・・
  これが何よりの証拠・・日本の統治で、見違えるほど
 良くなった朝鮮がそこにあった・・人口も増えるし・・
  これは、台湾の方々が、日本に感謝しているように、
 韓国・朝鮮においても、生活などの改善が功を奏した結
 果であることを、この数字は何よりも証明している。
.
1910年8月、日韓併合
  この決定された年に、年間予算が1700万円だった朝鮮
 半島に、日本は、『3000万円の大金』を投じた。
  予算は「職業伝習(でんしゅう)」「盲唖者や精神病
 者の救療(きゅうりょう)基金」「一般貧民救済基金」
 「行路(こうろ)病者救療基金」など、多方面の福祉へ
 の資金として用いられ・・
  また、これらの福祉のほか、日本は、近代化をしたい
 と、人口調査や土地調査をしながら、治山、治水、灌漑
 (かんがい)、農業改良、小作制度の改善、教育の普及、
 公平な司法の導入などを行っていった。
  それまでの朝鮮半島は、小作人が虐(しいた)げられ
 たり、貴族階級が司法を欲しいままにして、乱用してい
 た・・などなど・・、
  今、韓国でハングルが採用されて使われているが、当
 時、貴族階級は漢字を正書とし、ハングルを軽蔑し相手
 にしていなかった。
  まったく実用化していなかった。
  日本は、この15世紀に作られ、当時、使われていたハ
 ングルを、初めて小学校教育に導入したりして、教育改
 善に取り組んで行った。
  また、貴族階級がほしいままにした司法は、「無法な
 逮捕」「笞打ち」「賄賂(わいろ)の横行、量刑判断が
 変わる」などがあった。
  また、日本は、「医療の改善」「鉄道施設」「港湾の
 建設」「各種工場の設営や整備」「工業化社会への前進」
 などの、あらゆる手を打って行った。
  当時、この様な植民地は、世界のどこにも無かった。
  台湾人の黄文雄(こうぶんゆう)氏の言葉・・、
  「今日の台湾、朝鮮の高い教育レベルは、もし日本の
 総督府時代がなかったならば、あと百年経ったとしても
 今日の中国とたいして変わりがないと言い切ることがで
 きる。
  そして、日帝の36年は、悪夢ばかりでないという『正
 しい歴史認識』がなければ、韓国人朝鮮人のアジア史の
 認識は、せいぜい朝鮮半島でしか通用しない、恨みつら
 み史観でしかない。
  いくら『国際化時代』を叫んでみても、韓国人の『国
 際化』は到来しないだろう」・・と。
  (本『歪められた朝鮮総督府』より)
.
1910年、日韓併合
  色々と悪くプロパガンダ(嘘宣伝)される日韓併合だ
 が・・、
  下記のブログが真実を伝える史料・・、
  http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/rekishi02.htm
  言いにくいことですが・・、当時の朝鮮の方々は、ひ
 どい貧困にあえいで居られました。
  当時を語る朝鮮のご老人が・・
  「日本人はとても親切な人たちだった」と言われる。
  『生活者の日本統治時代』(三交社)という本にも、
 写真と共に朝鮮の庶民の方々の言葉が残されている。
  プロパガンダされていない真実の言葉が残されている。
  今、アメリカや、韓国・中国が、盛んにプロパガンダ
 しているが・・、
  結局、結びの言葉には・・
  「朝鮮人と日本人は仲良く生きていた」だった。
  そして・・、
  韓国の加耶大学(かやだいがく)客員教授・崔基鎬(
 チェケイホ)氏の本「日韓併合」によれば・・、
  教授が、1910年の日韓併合に至るまでの経緯を研究し
 て来て、
  色々、おかしな洗脳(プロパガンダ)が韓国で行われ
 ているという・・、
  現在の韓国の教科書が教えている事と、日本の統治時
 代の実態とは、『あまりにもかけ離れている』と言う。
  そして、韓国の歴史観は、歪曲が甚だしいと言う。
  独りよがりで、被害者意識に凝り固まり、事実をとら
 えようとはしていないと言う。
  そして、教授は、また言う、
  「この様な発言をすると・・韓国で、日本の統治時代
 の日本の統治について、肯定的にとらえようとするのは
 相当の覚悟がいる」と言う。
  そしてまた、「極端な話、身の危険も覚悟しなければ
 ならない」と言う。
  そして、教授は、また言う、
  「作家の李光洙氏が言うように・・、
  韓国の民族の最大の欠点は『嘘つきで、人をだますこ
 とだ』と言う。
  そして、この様なことが、「歴史の歪曲、身勝手な解
 釈は、韓民族の宿痾(しゅくあ、長い間治らない病気)
 であり、
  これがもとで、幾度、実態を見誤り、国を滅ぼして来
 たかしれない。
  感情に流される事なく、歴史に何があったかを正しく
 見つめ、
  そこから教訓をすくい取るという事が、この国(韓国)
 にはあまりにも欠けている。
  簡潔に言えば、李氏朝鮮に、500年にわたって支配され
 て来た「併合前の朝鮮半島の実態」を、(韓国を含む朝
 鮮半島の人々は)、余りにも知らなすぎる。
  最も分かりやすい例で言えば、21世紀のこの時代にあ
 って、当時の大多数の国民が飢餓に苦しむ、専制独裁国
 家を思い起こすと良い。
  今の北朝鮮は、李氏朝鮮のまさにクローンである。
  戦後、日本時代の遺産をすべて壊し、元の姿に戻った
 に過ぎない。
  仮に今、日本が、北朝鮮を併合して統治するとなれば、
 金一族を除く北朝鮮国民は、随喜の涙(ずいきのなみだ、
 うれしさのあまり、あふれ出る涙)を流すに違いない。
  その北朝鮮に同情を示し、呼応して、「反日・反米」
 を叫んでいるのが韓国であり、
  近年、その傾向は強まる一方だ。
  何が本当で、何が嘘か、誰が味方で、誰が敵か、
  嘘で固めた歴史観では、正当な判断力が養われる訳が
 ない。
  これは、歴史で何度も繰り返された亡国のパターンで
 あり、
  私は早くから『このままでは韓国はつぶれる』と唱え
 て来たが、
  その危機がいよいよ近づいてきたことを感じずにはお
 られない。
  いかにして、真実を究明するかの理由がここにある・・
 と、崔基鎬教授は言う。
  因みに、加耶大学は、慶尚南道金海市に本部を置く大
 韓民国の私立大学。
.
1946年5月3日 極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷。
  東京裁判が開かれた(~1948年11月12日)
  東京裁判(極東国際軍事裁判)では、戦犯として裁か
 れた戦争中の指導者たち全員に有罪が宣告され、
  東条英機首相以下7人が絞首刑になった。
  この裁判で被告は、「平和に対する罪」を犯したとさ
 れた。
  これは、「自衛戦争ではない戦争を開始する事を罪と
 するもの」だったが・・、
  こうした罪で国家の指導者を罰する事は、それまでの
 国際法の歴史には『無かった』。
  また、日本を貶(おとし)めるため、わざわざ後から
 法律まで新しく作って「日本を罪に落とした」。
  東京裁判で、ただ一人の国際法の専門家だったインド
 のパール判事は、『この裁判は、国際法上の根拠を欠い
 ている』として、『被告全員の無罪』を主張した。
  しかし、アメリカを中心とするGHQは、卑劣にも、
 このパール判事の意見書の「公表を禁じ」、その他、一
 切(いっさい)の裁判への「批判を許さなかった」・・
 公正な言論を封じた。
  東京裁判について、『国際法上の正当性を疑う意見』
 が、今でも多い。
  マッカサーも、後に、アメリカ議会で、「この戦争は、
 『日本の自衛の戦争』だった」と証言している。
  つまり、「平和に対する罪は、発生しない」のである。
  つまり、被告の全員が『無罪である』・・と、
  つまり、パール判事の下した『全員無罪の判決』と同
 じとなる。
.
1963年1月22日、アメリカのホワイトハウスで、国家安全保
 障会議が開かれた。
  この時の議題は、「フランスの核武装」だった。
  (この時、まさに、フランスは、フランス独自の核保
 持の方向に動いていた)
  「如何に、フランスが核兵器を持てないようにするか」
 の議題であった。
  この時、J・F・ケネディ大統領(任期:1961年~1963
 年)は次のように言った・・、
  「フランスやその他のヨーロッパの同盟諸国に核を持
 たせると、彼らが『本当の独立国になってしまう』。
  もし、彼らが独立したら、アメリカは『外からヨーロ
 ッパを眺めているだけの国』になってしまう。
  だから、絶対に、フランスに核を持たせてはならない」
 ・・と。
  これは・・この真意は・・、日本もそうなのだ・・、
  一旦、日本が核武装したら、同盟国としてのアメリカ
 を必要としなくなってしまう。
  今、日本は、「アメリカのキャッシュディスペンサー
 になっている」。
  (参考)キャッシュディスペンサー:現金自動預け払
     い機(げんきんじどうあずけばらいき)、ATM
     (エーティーエム)のことで・・、
      通常、紙幣(及び硬貨)、通帳、磁気カード・
     ICカードの受入口、支払口を備え、金融機関
     や貸金業者、現金出納を行う業者の提供するサ
     ービスが、顧客自身の操作によって取引できる
     機械を指す。
      元々は都市銀行の店舗に設置され、普通預貯
     金の預け払いに用いられ出したが、今日、金融
     機関はもとより、小売店や公共施設などに幅広
     く設置されている。
  これから、経済・金融面で逼迫(ひっぱく)して行く
 アメリカにとって、非常な打撃になる。
  フランスのド・ゴール大統領は、アメリカへ問う・・、
  「ソ連が、フランスに核攻撃を仕掛けて来た時・・、
 アメリカは、いったいどのようにしてソ連と核戦争をす
 るつもりか?
  こういう時、アメリカが、フランス防衛のために、ソ
 連を核攻撃するという、軍事シナリオを『具体的に示し
 て欲しい』」・・と。
  この様に聞かれたアメリカは『絶句した』。
  フランスのド・ゴール大統領は・・、
  「アメリカが、同盟国の為に核戦争を実行しない」と
 いう事を、百も承知していた。
  ド・ゴール大統領は、『同じ質問』をケネディ大統領
 へもしている・・、
  この時、ケネディは、『顔面が蒼白になり、何も答え
 られなかった』・・、
  明らかに、「同盟国のために、ソ連と核ミサイルの撃
 ち合いなどしない」という・・アメリカの態度が、はっ
 きりと読み取れたという。
  『電磁パルス弾』で「日本が蒸発する」かもしれない
 という今・2017年・・いつまでも、「もり・かけ問題」
 で国会を空転させ続けるという事は「ダメな事は明白」
 ・・
.
2011年6月17日、ピサの斜塔の傾きが増大しているので、
  ピサの斜塔がそのうち倒れてしまうと大騒ぎになった。
  この傾きの増大を止めた工事をしたのが日本だった。
  どうしても傾き増大を止められなかったイタリア当局
 は、日本の技術に頼って来た。
  これからもズーット大切に維持し、使って行きたいと
 いう方針だという。
  (2011年6月17日、修復工事が完了し、完了記念イベ
 ントが行われた・・
  最後は、これからも長く使い続けるための大理石の汚
 れも取り除く工事が行なわれたという)
  建造物は、適切にメンテナンスをすれば「半永久的に
 使えるのだ」。
  法隆寺は1000年以上だ。
  鉄骨造は、「錆びさせさえしなければ」、(防錆塗料
 塗布のメンテナンスをしっかり行なえば)永久に構造躯
 体としてあり続ける。
  日本は、壊して作り替えるという考え方・風潮がある。
  これは、間違っている。
  人間の細胞の様に、老いるとか、劣化するとかの捉え
 方をする・・ここが、間違いのスタート・・、
  構造躯体は、無機質で、生きている細胞とは違うのだ。
  適切なメンテナンスさえすれば、永久に使用可能なの
 だ。
  昭和から平成に変わる頃の、「バブル景気の時代」、
  日本人の作り替える思考が盛んに行われた。
  極端な言い方をすれば、「今日、竣工したマンション」
 でも、経済的に成り立てば(儲かれば)、明日から、「
 より大きく儲かるワンルーム・ホテル」に建て替えるた
 めに、その竣工したばかりのマンションの解体工事をす
 るというような・・「異常さのある時代」だった。
  有限な自然の資源や、社会正義のことなど「お構いな
 し」の時代だった。
  NHKが、渋谷の放送センターの建て替えを目論んで
 いる。
  この事を実現しようと、渋谷の近くの建物が、解体さ
 れ建て替えるというニュースを盛んに放送した。
  自前の放送媒体を使って、自分たちに都合の良いニュ
 ースを、自分たちに都合良く脚色して放送した。
  実際は、こんな話題は放送する意味はないのだが・・
 本当に、反社会的行為をした。
  自分本位の行動をするNHKが、また、最近、この様
 な放送をし始めている。
  金が無いと言って、受信料値下げ目標が実行できずに
 いたが・・、収支決算が良くなっても、視聴者・国民へ
 お返ししますと約束した、視聴者への受信料値下げの実
 行をする約束なのだが、値下げをせず、「建て替えだ」
 の内部留保だと、視聴者の金・受信料を返還しないでい
 る。
  受信料値下げをしないでいる。
.
2013年10月26日、脱南者:韓国を逃れてアメリカへ行く人
 が多くなっている。
  脱北者ではなく脱南者。
  韓国の人も理性のある人は、事を正確に理解している。
  また、「もう、慰安婦問題の嘘は言わないこと」とい
 う世界の人たちが増えているという。
  2013年10月26日、韓国は「生き地獄」か『脱南』する
 脱北者たちと、「産経ニュース」が報じている。
  韓国に定住していた脱北者が、再び、第三国や北朝鮮
 に向かう『脱南者』が多発している。
  最近では、北に逆戻りした住民が、韓国での生活を「
 生き地獄」だったと非難した。
  以前ならば、こうした言動は「北朝鮮体制の政治宣伝」
 と切り捨てられてきた。
  だが、一方で、韓国社会の差別や就職・生活難に苦し
 む脱北者が増加し、社会問題化しているのも事実。
  「同胞」であるはずの脱北者すら逃げ出していく現状
 に、韓国政府は頭を抱えている。
  今月・10月15日付の東亜日報社説はこの問題に言及。
  これまで韓国に亡命し、定住を決めた累計2万5560人の
 脱北者のうち、「689人は第三国に滞在している」と把握
 されていると指摘した。
  経済的困難や、韓国生活への不適応で、自殺した脱北
 者も26人に上るという。
  さらに、過去5年間に韓国籍者の難民申請を受け付け
 た国から韓国政府への指紋照会155件のうち、81.3%の
 126件は、韓国に定住していた脱北者だったとも指摘して
 いる。
  韓国政府は、現在、定着準備金や住宅支援金、職業訓
 練費用といった社会福祉から教育支援まで、脱北者に対
 して、1人当たり2000万(約185万円)~4800万ウォン
 (約443万円)を支給している。
  同じ言語圏で言葉の問題は基本的に無く、手厚い支援
 制度も用意している韓国から、こんなにも多くの人々が
 逃げ出している事実に、韓国政府や脱北者の支援活動に
 当たる関係者らはショックを受けている。
  韓国政府にとって、さらに頭の痛い問題が「北へ帰還
 する脱北者の続出」だ。
  北朝鮮は、金正恩(キム・ジョンウン)体制以降、12
 人が戻ったと宣伝している。
  北朝鮮の官製メディア、朝鮮中央通信によると、9月30
 日には平壌で、韓国から北に戻った元脱北者たちの「座
 談会」が開かれたという。
  参加したチャン・グァンチョルという男性(33歳)は
 「韓国では仕事探しが大変だ。
  就職できたとしても、給料は、韓国人の半分以下で、
 悪夢の日々だった」と話した-と同通信は伝えた。
  韓国政府関係者は、「金正恩体制を称賛させて、南へ
 逃れようとする北朝鮮住民の夢を壊すことを狙った宣伝
 工作だ」と指摘する。
  約12年前から韓国に住む50代の男性脱北者は「韓国で
 生活して初めて、韓国人にとっても暮らしにくい社会な
 のだと分かった」と。
  また、「就職、進学や結婚など人生すべてがカネとコ
 ネで決まる」と。
  また、「当の韓国人が、常に、不満を抱えながら暮ら
 しているというのに、われわれのような完全なよそ者の
 脱北者が生きていく余地はない」と打ち明けた。
  この男性によると、韓国での厳しい生活実態は、北朝
 鮮住民の間にも広まっていて、「韓国で支援を受けてカ
 ネをためたら、第三国に再脱出しようと最初から計画す
 る人もいる」という。
  「韓国に不満を持つ人は、アメリカ、カナダ、中国、
 欧州、それに、日本にも移住している」と。
  「韓国で差別などを受け苦労しても、自ら進んで独裁
 の北に戻るということはあり得ず、北への帰還には工作
 員が介在している」と。
  「実生活に入る前に韓国社会への理解を十分に深める
 時間が必要だ」と。
  「特に、北の地方などで抑圧された住民は、資本主義
 が発達した韓国なら奴隷的労働から解放され、楽に高収
 入の生活ができると過剰な夢を抱いている」と。
  「たとえば、職業斡旋で溶接技術を学びながら職を得
 たとしても、初任給が安く想像していた生活などできな
 いと失望し、だまされたと感じてしまう」と。
  「実績を積み、信頼を得て、初めて昇給の機会がある
 という認識がない」。
  「現在は、3ヶ月で定着支援施設を出るが、それでは韓
 国社会になじめない」。
  「60年も分断しているのに10年程度では適応できない。
 40年、50年の長い目で見ることが重要だ」と。
.
2017年、北朝鮮のGDPは、日本のGDPの0.3%・・、
  北朝鮮の核開発や、大陸間弾道弾(ICBM)の開発
 は、中国の応援なくしてできない状況。
.
2017年、日本の自主核の保持について、ある日本の識者が、
 徹底的にアメリカの政策立案局の高官に問うた・・、
  話の中で・・「日本は、自主核を持って、独立国にな
 らなければいけない」と言うと・・
  アメリカの政策立案局の高官は・・「日本が、自主核
 を持って独立国になろうとするならば・・、
  我々・アメリカは、経済制裁をする・・また、軍事制
 裁もする・・それでも、いいか?」・・と、いつもの様
 に恫喝して来たという・・
  しかし・・さらに・・議論をすると・・彼は・・、
 「対日制裁をしない方が、いいかもしれないなぁ・・」
 と言ったという・・。
  日本は、日本の要望を、とことんアメリカに伝えるべ
 きである・・!!
  中国が必死に止めるだろうが・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2017年9月25日月曜日

(増補版)556E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年4月~1892年4月)

題:(増補版)556E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年4月~1892年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年4月16日、新橋駅~神戸駅間の直通旅客列車が3往復
 運転となった。
1892年4月17日 大日本蚕糸会社が創立された。
  産業振興の中心にある蚕糸業の改良進歩をはかること
 を目的として、
  農商務省蚕業試験場出身技術者らが提唱して、この年、
 大日本蚕糸会が設立された。
  業務は、蚕糸業の調査、および、技術指導に貢献する
 だった。
  1905年、社団法人に改組され、不況対策や政策提言に
 も重要な役割を果たした。
  1935年~1936年、全5巻の『日本蚕糸業史』を刊行した。
  1942年、蚕糸科学研究所と合併し、財団法人となった。
  戦前の主な蚕糸業団体としては、他に、蚕糸業同業組
 合中央会、帝国蚕糸組合、日本中央蚕糸会等がある。
1892年4月、児島惟謙らの大審院裁判官の花札賭博が問題化
 した。
  向島の待合「初音屋」などで、花札賭博を行い、司法
 界を揺るがす問題となった。
  児島惟謙は、1891年5月、大津事件で大津に出張した時
 にも花札賭博をしていた。
  大審院の検事の磯部四郎も、色町で同僚や芸者と花合
 わせ(花札賭博)をすることが大変好きで・・、
  院長の児島惟謙は、この磯部四郎に誘われたことが切
 っ掛けだった。
  そして、1892年3月、磯部四郎は、この事を同僚検事に、
 児島惟謙らと花合わせをしていることを話してしまった。
  児島惟謙は・・「賭博と花札遊戯は別問題である。
  私は花札を引いたと明言するが、金銭を賭したとは言
 っていない」と言った・・が、
  金銭を掛けていなくても、この当時の法律では、飲食
 物以外のものを賭ければ、すべて賭博罪となった。
1892年4月、シベリア横断の大旅行を計画(福島安正)
  日本の陸軍軍人・福島安正は、日露戦争前のこの年に、
 ロシアが、シベリア鉄道の工事に着手するという情報を
 得て、単独で冬のシベリアの横断を行なった(~1893年)
  世界初の快挙で、世界が驚嘆した。
  厳寒期のシベリア横断は世界初だった。
  シベリア鉄道が完成すれば、ロシアは、兵を極東へ送
 り込み、必ず、太平洋側で南下政策をとることが火を見
 るより明らかだった。
  我が国の安全を守るためには、詳細な調査が必要と考
 えた。
  福島安正は、大勢だと「スパイ行為だ」と指摘されや
 すいと、一頭の馬で行くというやり方で決行した。
  福島安正は、1852年(嘉永)、長野・松本藩士の家に
 生まれ、大学南校(現:東大)を経て、
  1874年、英語力を買われ、陸軍省に採用されていた。
1892年4月、鉄道郵便物取扱手続を施行した。
  鉄道事業者に郵便車を運行させて、これに職員が乗務
 し、
  鉄道沿線の郵便局から継送される郵便物を輸送すると
 ともに、郵便車内で郵便物をあて先地域別に区分する業
 務を行った。
  鉄道は、近代的な交通・通信インフラの基盤として重
 要な位置付けがなされていて、
  1872年に開通した日本最初の鉄道においても、郵便輸
 送が行われていた。
  また、当初は、郵便物を、単に、輸送するのみであっ
 たが、
  郵便物数の増加に伴い、送達速度の向上のため、1892
 年4月からは、輸送中の鉄道郵便車内での郵便物のあて先
 地域別区分を開始した。
  その後、鉄道郵便取扱業務の増大から、専門組織の確
 立が図られた。
  郵便法令としては、1871年12月に、郵便規則が公布(
 1872年、施行)され、
  年ごとに、改定を加えて公布が続けられた。
  1882年12月、新たに郵便条例が公布され、事業の基本
 法となった(1883年、施行)。
  1892年6月には、小包郵便法を公布し、
  1892年10月から、小包郵便の取扱いを開始した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本人は、今、『美しい村』をどんどん失っている・・
  ・・そして、『核武装したデタント』
.
1947年6月8日、日本教職員組合(日教組)結成
  日本の教師が連帯しようとできた組織が・・日教組(
 日本教職員組合)
  その組織ができると、この組織は、「ある固定したイ
 デオロギーを持つ組織」に乗っ取られた。
  無色透明で、公正な教育は、無くなった。
  日教組を乗っ取った者たちは、「次のように考えた」・・、
  「今、子供たちを洗脳すれば、20年後に、また、30年
 後に、確実に自分たちが洗脳したイデオロギーが社会を
 制覇する」・・と・・、
  この様に・・公言している。
  組合員数:約24万1000人(平成28年6月30日現在)
  支持政党:民進党、社会民主党
  かつては、共産党支持のグループも、日教組に属し、
 社会党右派、同左派、共産党系にほぼ3等分されていたが、
 1989年の労組再編で、共産党支持グループが日教組を離
 脱し、全教を結成した。
.
1967年8月8日、新宿駅構内で、米軍ジェット燃料輸送タン
 ク列車と貨物列車が、接触事故を起こして炎上した。
  これをきっかけに、全学連各派のデモが活発化し、
  1968年10月、新宿駅騒乱事件へと発展した。
.
1971年、東京経済大学・名誉教授の色川大吉氏は・・、
 1台のフォルクスワーゲンのキャンピングカー「どさ号」
 に「リスボン~東京5万キロ」と標語を貼り付け、
 友人ら数人でユーラシア大陸を走破した。
  その色川氏・・「日本人は、今、『美しい村』をどん
 どん失っている」・・と言われる。
  このフォルクスワーゲンの旅・・インドを目ざして車
 で走って、フランスの田園で、その美しさに感動し、そ
 の時の感じた事を記す・・
  日本人は、今、「美しい村」をどんどん失っている。
  東京など、どうなったってかまわないが、国民自身が
 「美しい村」を自分の手で破壊している事には、『日本
 文化の滅亡を感ずるのだ』・・と。
.
1980年代、この頃から続く『アメリカの双子の赤字』
☆1968年3月には、空前の「ゴールド・ラッシュ」が起こり、
 ロンドン自由金市場の金価格の抑制をめざした金プール
 協定が崩れ・・
  金が二重価格制へと移行した。
  これによって・・、
  実質上・・IMF体制は崩壊したといえる・・が・・
  最終的には、1971年8月のニクソン・ショックで、金と
 ドルの交換が停止されたことにより・・、
  名実ともに終焉(しゅうえん)を迎えた。
  一時、金との兌換(だかん)がないままのドルを中心と
 したスミソニアン体制が成立したが・・、
  1973年には、崩壊し、
  以後、主要先進国は、変動為替相場制の時代へ移行す
 ることとなった。
☆1980年代前半に、経済学者のポール・クルーグマンが・・、
  『アメリカの双子の赤字』が、深刻な経済危機をもた
 らす恐れがあると警告し・・、
  当時のアメリカの双子の赤字が、維持可能であるか否
 かという問題提起を行い(サステナビリティ問題、持続可
 能かの問題)・・全世界に衝撃を与えた。
☆1980年代のアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン
 の政権下・・、
  アメリカ合衆国において、莫大な貿易赤字(経常赤字)
 と財政赤字が「並存していた」。
  1998年には、財政収支が黒字となり解消されたが・・、
  2001年に、大統領に就任したジョージ・ウォーカー・
 ブッシュ(子)政権下において、双子の赤字が『再発』
 し(イラク戦争の戦費や、景気刺激策をとるため大幅減
 税をした)・・
  そして、その後、拡大し、アメリカの貿易赤字は史上
 空前の規模に達し・・重大問題化している。
☆巨大な赤字国家、そして、借金だらけ国家・アメリカ。
  巨大な『財政赤字』と『経常赤字』を垂れ流し続ける
 締まりのない国となった。
  困っているからと日本に金をせびり・・、
  短期間に数兆ドルものペーパー・マネーを印刷し、増
 刷し続け、国際通貨市場にぶち込んでいる。
  国際基軸通貨の発行特権を乱用しているアメリカ。
  アメリカの命令に服従してアメリカドルを大量に買わ
 されて来ている日本。
  日本人が額に汗して働いて貯めた資産を、当てにする
 アメリカ。
  SDR(IMFが発行する合成通貨)を世界の共通通
 貨にせよとの声がある・・、
  アメリカ・ドルは、世界通貨の資格はない・・世界通
 貨の座から降りよ・・の声がある。
  アメリカドルには資格が無い・・その座に居るのは正
 義ではない。
  無節操なペーパー・マネーのアメリカドルの増刷は許
 されない。
  「アメリカのペーパー・マネーの夢は終わった」と言
 われている。
.
1996年、日教組がからむ「学校教育の酷い事例」
  鎌倉市のN小学校、小学1年生に、具体的に性器を描い
 た図(絵)を見せ、性行為を教え、ビデオで出産場面を
 見せ教えた。
  そのショックで、ある児童は、家に帰り、母親とトラ
 ブルとなり、児童は、「母親に嫌悪感を持った事を口に
 した」。
  この事例から見ても、行き過ぎた事がなされた事は明
 らかだった。
  年齢に不相応な事を、「教育の名のもとに行った」。
  この教師は、この授業以降、児童たちへ、「父母へ話
 す事を禁じた」。
  児童が秘密にすることを要求した教師は・・、
  「教室空間を、秘密の密室空間としたい」という意図
 を持っていた。
  従来は、中学生や、高校生の妊娠中絶が問題になって
 いたが、近年は、それが低年齢化し、小学5年生、6年生
 の妊娠中絶の増大として大問題となっている。
  日教組は、男女差別を無くす方針を取っている。
  こんなことは日教組が言わなくても、当たり前なのだ
 が・・、
  日教組の教師への指導で「行き過ぎ」が起きている。
  男女の名前を混ぜる名簿「男女混合名簿」から始まっ
 て、身体検査も男女一緒にやっている。
  「ジェンダーフリー」と横文字を使って「正しい事の
 ようにマインド・コントロール」している。
  中学生の身体検査も男女一緒。修学旅行の際も、男女
 一緒に同じ部屋に寝かせている。
  体育も一緒、騎馬戦も男女一緒が良いと洗脳し、マイ
 ンド・コントロールしている。
  そして、生殖器の事を微に入り細に入り教える事が良
 いのだとしている。。
  人間の臓器は、ほかにも大切な臓器が一杯あるのに?
.
1999年8月13日、国旗及び国家に関する法律が公布され、即
 日、施行された。
  国旗・国歌法(こっきこっかほう)と略される。
  鎌倉市教育委員会は、市内の小・中学校25校に、国旗
 と校旗を三脚と共に配布し、卒業式・入学式に国旗掲揚
 を行なうよう指導した。
  君が代についてはテープを配布した。
  しかし、ほとんどの学校が、国歌を歌わなかった。
  教師を指導すべき校長が国歌を歌わない学校すら存在
 した。
  また、学校によっては、「君が代について思想の自由
 があるから歌っても歌わなくても自由です」と呼びかけ
 る学校もあった。
  また、入学式の記念写真撮影の際、三脚にある国旗を
 取り除いて撮影している学校もあった。
  卒業式の「君が代斉唱」の際には、歌わないどころか
 起立もしない教師が多数居るという状況だった。
  また、子供たちのほとんどが、音楽の授業で「君が代」
 を習わない。
  そして、この事を指摘している方は、この様な行為を
 する教師は「日教組の組合員の教師」と言う。
  キリスト教の活動方針もこれと同じである。
  日教組とキリスト教がこの運動を行なっている。
  自分の「依(よ)って立つ基盤」をしっかり体感し認
 識する事は大切なのだ。
  国の恩恵に欲する身でありながら、感謝もしない、感
 じないでは駄目なのだ。
  日教組に反する行為をすると皆から「総スカンを食う
 ことをされる」・・と・・、
  ある音楽教師が、子供に「君が代」を教え、卒業式で
 の「国歌斉唱」をすると、ある日教組の組合員の教師に
 よって、国歌斉唱が取り止めになるという具合。
  そして、「君が代」のテープを流して「国歌斉唱だ」
 としている学校もある。
  受益者が応分の負担の義務行為をしないで、益だけを
 享受することは許されるのか?・・許されない。
  思想・信条に反すると、あくまで拒否し続ける事は出
 来るのか?・・出来ない。
  「個人の思想・信条には無限の許容が与えられている
 のではない」。
  「大局の利益が、個人の利益に優先する」。
  共同して国を守る行為は、個人の利益を守る行為に優
 先する。
  日教組の研修に出た報告には・・、
  日教組の研修の実態は、「組合活動だ」と言われない
 様に、指摘を受けないように『研修が混ぜられている』・・
 実質的に「組合活動となっている」。
  日教組の組合員教師は、研修だと届け出る。
  研修だから公的資金が支払われ、給料も支払われ、公
 的資金で日教組の活動ができるという実態が現出してい
 る。
  「研修という名に隠れた組合活動」が行なわれ、子供
 たちは勉強なしの自習となる。
  堂々と二日間の研修に出て、隠れた組織活動がなされ
 ている。
  子供たちの二日間は・・勉強無し。
  驚いたことに・・「教師が怖い教育委員会」と日教組
 は契約を結んでいる。
  「教員の研修に出席には文句を言わない」という契約
 を手回しよく貰っている。
  (研修なら文句は言わないけど・・組合活動なのだ)
  そしてまた、この契約には、管理者の管理を骨抜きに
 することが契約されている。
  それは、基本的に、管理者の指示は「独善だ」という
 立場から契約されている。
  それは、当然のように書かれていた。
  管理者が決める事より「我々・教師が決める事の方が
 良いのだ」。
  だから、管理者の決定には従わない・・となっている。
  (教師たちの集団での討議決定が優れているという言
 い分)
  管理の存在を無しにして・・、
  その様なことを「もっともの様に」主張している。
  また、教育委員会まで、この論理を認めてしまって契
 約までしている。
  もう、統制が取れない状態となっている。
  何も言っても・・「全教員の意思で決めた事ですから」
 と拒否された。
  そして、「全教員の意思を尊重する」と契約したでし
 ょう・・と言われる。
  「決定権まで勝ち取った」と勘違いした。
  個人であろうが、全教員であろうが・・「他の意思を
 尊重するのは当たり前である」。
  だから故に、「全教員の意思を尊重します」とは契約
 した・・が・・
  だから、すべてが、その通りに・・教師の言う通りに
 行くかと言えば、必ずしも「そうではないですよ」とい
 うことが分からない・・理解できない教師たち・・
  尊重はしますが・・最終判断・・決定権まで渡してな
 いのですよ・・ということ・・、
  こんな当たり前の事で揉めている。
  そして、好き勝手をしている・・社会を見下している。
  すべての人々の意見が一致することは完全にはない。
  もしあったとすれば・・と仮定の話として語られるの
 は、その全員一致の意思は、「非常に危険」という話で
 ある。
  故に、ここには・・絶対に決裁者が必要なのだ。
  会社に例えれば、「社長」。
  こんな当たり前、簡単容易な論理が通らずに、小学校
 は、また、中学校は揉めて、日教組の言いなりになって
 いる。
  シッチャカメッチャカになっている。
  つまり、組合が理知的であれば会社の事を思い、また、
 会社も組合員の事を思う、この様な会社が、大いに発展
 し、結局、組合員も良くなっている。
  しかし、あまりにも組合が強く、会社まで潰すという
 事がある。
  今、日教組は、この後者の状態となっている。
  「自分たちだけ」の目先の利益を追い求める状態にな
 っている。
  また、管理の立場を忘れて教育委員会は、完全に降伏
 し、日教組に、おべっかを使っている。
  完全な崩壊状態となっている。
  だからまた、完全な癒着体制から、腐敗が起きている。
  法律無視、法律違反という状況となっている。
  なんの行動基準も無いことになっている。
  遵法の気も薄い。
  そして、処分もされないで・・常態化し・・大手を振
 ってまかり通っている。
  ピンハネも常態化し、当たり前と化している。
  そして、これが拡大し、もはや、文部省の指導を県が
 無視し、言う事を聞かないという所まで来ている。
  何と30%の教員が、日教組活動で、授業は休みにした
 という。
  1999年(平成11年)10月14日にも起きている。
  教育委員会も、そして、校長も、あきらめか? おべ
 っかか? 違法行為を認めた形ににしている。
  日教組に肩を持つ様な言い訳ばかりをする。
  組合活動だけでは無いと、研修を隠れ蓑にしているが、
 ほとんどが組合活動に時間が割かれ、しかも、研修と言
 ったって、「いじめ・学級崩壊」という本当の議題の部
 分は、ほんの言い訳程度の一部なのだ。
  子供たちとは無縁な話がなされている。
  そして、会場の高校の授業も阻害してまでして、平日
 開催をしている。
.
2017年9月6日、北朝鮮問題、アメリカに勝ち目はない・・
 と、ニューズウィークが報じた。
  筆者:ベンジャミン・ハビブ氏(オーストラリアのラ・
 トローブ大学講師、専門は国際政治。
  北朝鮮は、核兵器保有国の一歩手前まで来ており、ト
 ランプ米政権は何をやっても勝ち目はない。
  北東アジアの盟主は、アメリカから中国へ、われわれ
 は覇権の移行期を目の当たりにしている。
  北朝鮮が、9月3日に実施した6回目の核実験は、米本土
 に届くICBM(大陸間弾道ミサイル)に搭載可能な核
 弾頭が完成間近だということを証明した。
  核実験にともなう地震の規模を示すマグニチュード(M)
 は6.3で、前回・2016年9月の核実験と比べて約10倍以上
 のエネルギーがあった。
  今回の核実験で、アメリカの力は、相対的に弱まりこ
 そすれ強まることはないだろう。
  だからこそ、ドナルド・トランプ米政権の対応がます
 ます重要になる。
  考えられる今後のシナリオを見てみる。
 ■戦争
  もし、アメリカが、北朝鮮との戦争に踏み切れば、周
 辺地域で数百万人の死者が出る恐れがある。
  ジェームズ・マティス米国防長官は3日、アメリカは、
 「大規模な軍事行動で対処する」と語り、北朝鮮を牽制
 した。
  このようなトランプ政権の勇まし過ぎる発言は、北東
 アジア地域でのアメリカの地位を逆に低下させている。
 【参考記事】マティスの「大規模軍事攻撃」発言で信憑
      性増した対北軍事作戦
  ソウルで1000万人が犠牲に
  当然ながら、北朝鮮に対するあらゆる軍事行動は高い
 リスクを伴う。
  北朝鮮を軍事力で抑え込むための良い選択肢など1つも
 ない。
  8月に、ホワイトハウスを去る前に、スティーブ・バノ
 ン元大統領首席戦略官は、北朝鮮問題についてこう言っ
 ていた。
 ・・「(北朝鮮の核開発による威嚇について)軍事的な
 解決はない、忘れるべきだ。
  (軍事作戦開始後)最初の30分間で、韓国の首都ソウ
 ルの市民1000万人が、通常兵器による攻撃で犠牲になら
 ない方法がない限り、軍事的解決策はない。
  してやられたのだ」 ・・
  米軍と韓国軍の兵力を合わせれば、戦争では北朝鮮に
 勝つだろうが、いかなるシナリオでも失うものが大きい
 のはアメリカだ。
 ■目算違い
  トランプ政権が、北朝鮮に対して軍事行動を取るぞと
 威嚇を繰り返すだけで、それらを実行する気がなければ、
 アメリカの同盟国を危険にさらし、中国に北東アジアの
 秩序を作る中心的な役割を渡すことになる。
 【参考記事】中国が切った「中朝軍事同盟カード」を読
      み切れなかった日米の失敗
  北東アジアにおけるアメリカの同盟諸国、とくに韓国
 との関係は、トランプが次にどんな手を打とうとも、緊
 張を強いられることになるだろう。
  北朝鮮が、核弾頭搭載可能なICBMを完成させれば、
 万一戦争が起きた時に、韓国や日本を防衛するアメリカ
 のリスクが増える。
  アメリカの安全保障に依存してきた日韓両政府からア
 メリカに対する信頼も揺らぐ。
  アメリカの軍事行動が戦争にエスカレートすれば、ソ
 ウルは、北朝鮮の迫撃砲による集中攻撃を受け、韓国の
 他の場所や日本、さらに遠く離れた地域もミサイル攻撃
 の標的になりうる。
 【参考記事】日本、北朝鮮に打つ手なし?
  もし、北朝鮮が窮地に追い込まれ、金正恩体制の存続
 が直接的な脅威にさらされれば、北朝鮮は核兵器を使用
 する可能性が高い。
  もし、日本や韓国が核攻撃を受ければ、アメリカとの
 同盟は本来の役割が果たせなかったことになり、日韓と
 アメリカの関係はさらに大きな圧力にさらされる。
 ■制裁
  もし、今後も制裁の効果が上がらなければ、北朝鮮は
 核兵器保有という目標を遂に達成するだろう。
  そうなれば、NTP(核拡散防止条約)体制は崩壊の
 危機に瀕する。
  北朝鮮が、核兵器の開発に成功すれば、核開発を目指
 す他の国々にとって、効果のない経済制裁を科せられる
 以外に何ら罰を受けることなく核開発が行えるという悪
 しき前例になり、結果的にNPT体制は形骸化する。
  また、アメリカの核抑止力も著しく衰える。
  北朝鮮のように、核兵器保有に執念を燃やす国を止め
 られないことがはっきりするからだ。
 「核独占」の終わり
  核兵器を保有できる国を米ロ英仏中の5カ国に限定する
 NPTの「核独占」という考え方は、アメリカの覇権を
 支える柱の1つだ。
  だが、NPTに加盟していない核兵器保有国は、「核
 の影」をちらつかせることで、アメリカと取引でき、力
 の行使の選択肢も狭めることができる。
 ■米中貿易戦争
  もし、アメリカが、北朝鮮の核・ミサイル開発の資金
 源を断つために、中国に圧力をかければ、アメリカには
 勝ち目のない米中貿易戦争に発展する恐れがある。
  トランプは3日にツイッターで、アメリカは「北朝鮮と
 ビジネスをするすべての国と貿易を停止することも検討
 中だ」と述べた。
  これが、北朝鮮の最大の貿易相手国である中国に対す
 る圧力であることは明らかだ。
  トランプの主張よりもさらに踏み込んだのは、スティ
 ーブン・ムニューシン米財務長官だ。
  彼は、財務省は北朝鮮との「すべての貿易やビジネス」
 を停止させる新たな経済制裁を策定中だと明らかにした。
  北朝鮮が、中国に頼っている石油の禁輸を求める声も
 上がっている。
  だが、2016年に、アメリカの中国からの輸入は4630億
 ドル。
  バラク・オバマ前米政権下で、国務長官を務めていた
 ときのヒラリー・クリントンが指摘したように、アメリ
 カ最大の輸入相手国である中国は、アメリカに多大な影
 響力を持っている。
  愚かな保護主義から米中貿易戦争に発展し、怒った中
 国が、保有する莫大なドル建て債権を売り払う「ドル爆
 弾」を投下させれば、ドルは暴落し、世界は大不況にな
 る。
  北朝鮮問題で中国の助けを求めたいなら、あり得ない
 戦略だ。
 ■核開発の凍結
  可能性は低いが、もし、アメリカが北朝鮮に核開発の
 凍結を求めるなら、問題を先延ばしにするだけだ。
  北朝鮮が、挑発行為に出るたびに、関係国がお決まり
 の声明を出し、「融和」外交を繰り返すぐらいなら、北
 朝鮮との対話は、問題解決に向けた悪い選択肢の中では
 最もまし、という程度に過ぎない。
  金政権は、核兵器の開発と製造の凍結に合意するかも
 しれないし、核開発に費やす時間稼ぎのために、ミサイ
 ル発射実験の一時停止を受け入れるかもしれない。
 和平でアメリカは用済みに
  だが、金が国家戦略に掲げる「並進路線」(核開発と
 経済開発を同時に進める)では、核兵器が重要な位置を
 占めている。
  しかも、北朝鮮は、長年にわたり巧みに危機を作り出
 し、核開発を、一時、縮小する見返りにアメリカなどの
 交渉相手から譲歩を引き出す駆け引きを行ってきた。
  そう考えれば、核開発の凍結は、北朝鮮が核保有国に
 なる日を先延ばしにできても、止めることは不可能だ。
  北朝鮮との対話の問題点は、そもそも対話をする双方
 に同じ出発点がないことだ。
  金政権が、核開発に巨額の資金を注ぎ込むのは、国家
 安全保障や経済開発、国内の政治的正当性を保つ基盤と
 核開発を位置付けているからだ。
  そんな金政権が、進んで核開発を止めるはずはない。
 ■和平協定
  もし、アメリカが、和平協定を結ぶために北朝鮮と同
 じテーブルに着けば、北東アジア地域におけるアメリカ
 の威信は地に落ち、永遠に回復できないだろう。
  韓国の米軍基地の存在意義も消失する。
  今一度、交渉の可能性が出てくるのは、北朝鮮が、核
 弾頭の小型化とミサイルへの装着技術を完成させたとき
 だ。
  この時点で、北朝鮮は、アメリカに体制保障と朝鮮戦
 争の正式な終わりについて交渉を呼びかけるかもしれな
 い(朝鮮戦争は、1953年以降停戦状態で、両国はまだ戦
 争状態にある)
  北朝鮮が、なぜそんな交渉をしたがるか? 
  それは、核兵器の裏付けがあれば、強気で交渉を進め
 られるからだ。
  和平協定は、トランプ政権がもつ選択肢のなかで最も
 憂いの少ないものだ。
  他の選択肢はもっと受け入れがたい。
  最後は、北東アジア地域の各国が自ら核武装した北朝
 鮮を抑止する方法を見つけることになるだろう。
 ■ヘゲモニー(主導的地位。指導権)が移行する
  トランプ政権にとって、最終的にその限界をさらして
 しまわずに強さと決意を表す手段はない。
  現在の朝鮮半島情勢は、アメリカにとっての「スエズ
 危機」なのだろうか。
  エジプトが、スエズ運河を国有化したのに対抗し、イ
 ギリスなどが軍事侵攻したが失敗。
  大英帝国の衰えと第二次大戦後の国家間の力関係の変
 化をさらしてしまった。
  北朝鮮危機は、まさに、覇権移行期の顔をしている。
  トランプのアメリカは、「ウィン=ウィン」ならぬ「
 ルーズ=ルーズ」の危機に直面している。
  それらは、アメリカ衰退の現実と北東アジアで戦略を
 形作る上での限界を見せつけている。
.
2017年、中国の軍拡を止めるために・・
  アメリカは、世界をアメリカのコントロール下に置き
 たいとして来た。
  安全保障の重要な要素「武器体系」も、世界がアメリ
 カの武器システムの中に入る事を「良(よし)」として
 来た。
  勿論、アメリカの友好国との関係のみにおいて(当然、
 敵対国とはそのようにはしない)・・、
  そうすれば・・アメリカの意思が働く下で、同じ武器
 体系を持った国々が動くからである。
  ある面・・アメリカに都合よく動くからである・・、
  しかし、ヨーロッパ諸国は、『これを嫌った』。
  何でもかんでも、アメリカの意思が働くことは「御免
 だ」の意思表示だった。
  ヨーロッパは、アメリカとは別の武器体系を持った。
  アメリカは、ヨーロッパの「軍事産業の兵器開発」や
 「輸出」に、傲慢な態度で一方的に干渉した、そして、
 妨害した。
  日本は、一時的に、過去、ヨーロッパの兵器を購入し
 た事があるが、今・現在は、アメリカ一辺倒である・・
 完全なアメリカのコントロール下である。
  この様な状態なのは、アメリカだけに頼るのは、リス
 クがあり、そのリスクは高い。
  また、不確実性も高すぎる。
  それに加え、アメリカの大統領制は、非常に幅広く、
 違いの大きい人物が選出され、大統領となる。
  これが、また、大きなリスクとして存在している。
  F・ルーズベルトの様に、「完全な破綻へ至った過去
 の大統領」の様な人物が、「大統領に選出された場合、
 アメリカだけの兵器体系に守られた日本の武器体系は、
 どうなるのか?」・・という問題である。
  日本は、アメリカからの武器購入に一方的に頼るのは、
 日本にとって賢い国策だとは言えない。
  日本は、その意味から、もっと、ヨーロッパ諸国と連
 携を取るべきである。
  ヨーロッパの軍事産業も、優秀な技術を持つ日本と提
 携したがっている。
  最近(2017年)も、オーストラリアは、アメリカの兵
 器体系ではない「フランスの潜水艦技術の導入を決定し
 た」。
  また、フランスのド・ゴール大統領は、また、ポンピ
 ドー大統領は、知恵のある大統領だった。
  ド・ゴールは、フランスを核武装した、そして、ソ連
 とデタントを進めた。
  これを、「核武装したデタント」と呼んだ。
  ド・ゴールは言った・・、
  「私(ド・ゴール)は、ソ連とデタントがしたかった
 のだ。
  しかし、フランスが核を持っていなかったら、ソ連は、
 フランスの事を『アメリカの保護領』と見なして、フラ
 ンスを相手にしなかっただろう。
  ソ連とまともに交渉したいのなら、独立した核戦力が
 必要だ」・・と。
  日本も、このフランスにならい、核武装して、「中国
 とデタントをする」べきである。
  それで、中国の軍拡を止めるべきである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2017年9月24日日曜日

(増補版)555E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年3月~1892年4月)

題:(増補版)555E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年3月~1892年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年4月1日、改正小学校令の実施
  因みに、1900年(明治33年)の小学校令改正と施行規
 則で、小学校は「年度の初め」を、「4月」に入学する
 と規程した。
  また、「(4月始まりを)文部省が省令によって明確
 に定めたのは、小学校についてはこれが最初」との文言
 がある。
1892年4月1日、鉄道庁が第二部雇員以下採用内規を制定
 (鉄二第161号)
  鉄道の建設に従事する人に、鉄道が開通する府県の出
 身者が多数をしめた・・その理由は・・、
  文明の利器・・その進んだ鉄道の開通が、都市地域や
 街道筋の前近代的交通業者の営業を阻害し、その分解を
 促進した。
  そのため、優しい日本は、その救済策を作った・・、
 その人たちのために、働く場・労働力基盤を創出した。
  官営鉄道の例ではないが・・、
  1880年に、設立され営業開始した東京馬車鉄道会社は、
 東京府知事にあてた『建築願』で次の様に記した・・、
  「今ヤ我同胞ノ人衆二於テ牛馬二代リ車業ヲナス者殆
 ント幾千百ナルヲ知ラス、実二我良民ヲ塗炭二陥ラシム
 ルノ醜体視ルニ忍ヒザルノミナラズ又其健康ヲ害スルヤ
 最モ甚シ、而シテ今此車業ヲ為ス者游手無頼ノ徒ノミニ
 非ス士農工商ノ徒或ハ……不測ノ災害ヲ蒙リ已ムヲ得ス
 此業ヲナスモノ亦多シ……今之ヲ救フノ道他ナシ又馬車
 鉄路ヲ設クルニアルノミ、若シ此鉄路ノ各所二開クルニ
 至ラハ随テ人車ノ業衰滅二帰シ此賎業ヲナス者或ハ本業
 二復スルヲ得ン、此此レ馬車鉄路ヲ設ケ以テ人車ノ賎業
 ヲ漸次消滅救済スルノ便益ナリ」・・、
  「賎業」(人車ノ業)を駆逐することによって、「本
 業」(士農工商)への復帰をはかるという「民衆救済」
 観念がある。
  願状には、鉄道敷設による「賎業」=人力車夫の分解
 が客観的に表現され、救済されている。
  官営鉄道の敷設も、ほぼこれと同様の社会的分解を引
 き起こした。
  日本人の優しさから、圧迫される人車の業の者の救済
 が配慮されていた。
  (日本近代化と労使関係・官営鉄道労資関係の史的構
 造、西成田豊氏の論文を参考にした)
1892年4月1日、日本鉄道会社が、営業・運転・線路の保守
 等業務の自営を開始した。
  岩倉具視らが中心になって作った、1881年の我が国初
 の鉄道会社の日本鉄道会社が、最初は、全国的な規模で
 の鉄道建設を計画したが、実際は、高崎線、東北本線、
 常磐線などだった。
  営業方針には・・、公用軍人・警官の乗車賃は半額と
 されていて、
  また、囚人は無料とし、政府で特別の車両を準備する
 となっている(第21~23条)
  また、凶作の場合、穀物の運賃は半額とした(第24~
 25条)
  また、1885年6月、運転・保線は自社で、
  そして、建設・工作業務だけを鉄道局に委託すること
 にした・・と記述がある。
1892年4月1日、筑豊興業鉄道会社が、旅客運賃を値上げ。
1892年4月1日、日本鉄道会社線の上野駅~大宮駅間の複線
 工事に着手した。
  路盤は、すでに完成していたので、荒川橋梁の複線化
 が大工事であった。
  結局、複線形ワーレン構桁(トラス構造の橋の一種)
 に取替えて、従来のものは、久慈川に転用されることに
 なった。
  小川勝五郎(明治期の鉄道建設に於いて「鉄橋小川」
 と称された橋梁技術者にして功労者の請負業者)に見積
 らせると、予算の2倍もかかるので、直営にした。
  また、この頃、小川も賭博で財産を失い、昔の繁栄は
 なく、やがて引退した。
  1895年4月1日から、複線の使用を開始した。
  1904年1月、山手線と上野駅~田端駅間の複線建設に
 着手した。
  国有までに、上野駅~日暮里駅間の常磐線複線、日暮
 里駅~田端駅間1線を完成したが、
  山手線は大崎駅~池袋駅間を複線とし、水戸駅~友部
 駅間も複線となった。
1892年4月4日、北海道炭砿鉄道会社の社長に高島嘉右衛門
 を任命した。
  高島嘉右衛門(たかしまかえもん)は、横浜の実業家
 で、
  横浜港の埋め立て事業を手掛け、横浜の発展に寄与し、
 「横浜の父」を言われた。
  その業績を讃え、「高島町」という地名が残っている。
1892年4月10日、関西鉄道会社が、旅客運賃を値上げ。
  関西鉄道会社は、大阪府中東部・三重県・奈良県・和
 歌山県を中心に路線を展開した私鉄であるが、
  鉄道の建設には、巨額の資金が必要で、経済が未発達
 であった明治初年(1870年代) には、外国からの資金導
 入が図られた。
  イギリスで発行された9分利付き100万ポンドの公債の
 収入から30 万ポンドが、1870年~1872年までに、東京駅
 ~横浜駅間、大阪駅~神戸駅間の鉄道建設費の一部に当
 てられた。
  そして、不足する分については,政府資金が投入され
 た。
  鉄道建設に必要な資材も、イギリスから輸入された。
  利子は、1871年から12年間、元金は1873年から10年間、
 政府によって返済された。
  その後、1878年に、起業公債が国内で発行されて、鉄
 道建設・その他の投資に当てられた。
  公債の発行価格は、額面100円につき80円で、総額
 1,250万円に対し、実収入は1,000万円、利子は年6分で、
 元金2年間据え置き、以後、23年間で償還するという条件
 だった。
  政府は、この公債収入から248万310円を鉄道建設に投
 入した。
  その後も、鉄道建設のための公債は発行された。
  1892年のこの年に、鉄道敷設法が公布され、日本の幹
 線鉄道建設計画が定まったが・・、
  これに基づく鉄道建設においても、資金調達の公債依
 存の方針がとられた。
  鉄道当局者(井上勝鉄道頭、のち鉄道局長)からは、
 鉄道益金を鉄道建設費に充当することが提議されたが、
 政府は、益金の国庫納付と建設費の政府支給(公債依存)
 の方針を変えなかった。
  このことと旺盛な鉄道建設のために、公債発行は増加
 した。
  さらに、巨額の公債が、民営鉄道17社の買収に際して、
 交付公債として発行された。
  その総額は、4億5619万5000円にのぼった。
  19世紀~20世紀の1930年代前半において、鉄道は、独
 占的輸送機関であり、また、日本の産業発展とともに旅
 客、貨物の輸送も増加したため、国鉄は、営業利益を確
 保することができた。
  しかし、営業益金の多くが、利子支払に充当されざる
 をえなかった。
  (日本における鉄道投資と資金調達、廣岡治哉氏の論
 文を参考にした)
1892年4月10日 東京神田の大火(東京神田明治25年猿楽町
 の大火、約4620戸焼失、死者24名
  大火が起きた前日の午後9時頃より、東京では激しい北
 西の風が吹き始めていた。
  夜中の10日午前0時半頃、神田区(現:千代田区)猿楽町
 一番地の飲食店・宮本周蔵方の物置から出火・・、
  母屋をひとなめにした炎は、一つは小川町通りを、一
 つは表神保町通りを、一つは錦町通りをと、たちまち三
 方に分かれて、急速に東南へ向けて燃え広がった。
  火元の猿楽町をはじめ、同一丁目、裏神保町、小川町、
 表神保町、錦町一、二、三丁目は、あっという間もなく
 全焼。
  炎は、さらに錦町一丁目から美土代町一、二、三丁目
 へ、また、三河町一、二、三丁目へと進んだ。
  神田を灰にした炎は、鎌倉河岸を飛んで堀割沿いに本
 石町通りを東へ進み、鎌倉町、松下町を灰とし、
  朝の午前8時には、今川橋先の堀割も超えて、ついに
 日本橋区(現:中央区)本銀町へ飛び、本石町二丁目の大
 半を焼失した。
  午前9時半になり、残り火が烈風にあおられてふたたび
 襲いかかる。
  皆川町、旭町、ろうそく町、関口町も猛火の中で灰と
 なった。
  その後も、炎は、東へ進み永富町、新石町、竪大工町、
 上白壁町と次々と進んだが、
  一つは、今川町の堀割で止まり、一つは鍛冶町の大通
 りで止まった。
  神田区と日本橋区の一部、約33か町4620戸焼失。
 小川町警察署、神田区役所をはじめ万世橋直間税分署、
 東京法学院(現:中央大学)、東京英語学校(現:日本学園
 中、高等学校)、錦城学校(現:錦城学園高等学校)、松茂
 小学校、三省堂、熊田活版所、東京電灯会社第四電灯局、
 パノラマ館など主要な建物が全焼した。
  中でも、死亡者24人の内その大半を出した小川町勧工
 場(ショッピングセンター)洽集館(こうしゅうかん)では、
 出火と聞いて店の商品を持ち出そうとしたが、出口が表
 と裏の2か所しかなく18人が逃げ遅れて死亡している。
  (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の
 消防百年の歩み」)
1892年4月15日、ゼネラル・エレクトリック社が設立された。
 (エジソン総合電気とトムソン・ヒューストンが合併)
  ゼネラル・エレクトリック(略称:GE)は、アメリカ
 合衆国コネチカット州に本社を置く、多国籍コングロマ
 リット企業で・・、
  ダウ平均株価の構成銘柄のうち、1896年5月26日の算出
 開始以来唯一残存している企業。
  欧米と中国での特許取得数では世界一。
  沿革・・、
  1878年、トーマス・エジソンがアメリカで新しい実験
   室を開く。
  1878年、トーマス・エジソンがエジソン電気照明会社
   を設立。
  1889年、電流戦争。上記会社を吸収し、エジソン・ゼ
   ネラル・エレクトリック・カンパニーを設立。
  1892年、ドレクセル・モルガン&カンパニーの助けで、
   トムソン・ヒューストン・カンパニーと合併し、エ
   ジソンの名前を外した「ゼネラル・エレクトリック」
   が誕生した。
1892年4月16日、日本火災保険会社が設立された。
  沿革・・、
  1889年、大阪に日本生命が設立され、大阪財界人は損
   害保険事業にも着目。
  1892年、田中市兵衛らの発起人は日本火災保険(株)を
   設立。
  1896年、日本酒造火災保険を合併。
  1912年、根津嘉一郎らにより東京に設立された帝国火
   災保険(株)と1944年合併。
   一方海上保険業界では1896年大阪に浅野総一郎らを
   創立委員に日本海上保険(株)が設立。
  1944年、経済統制下の業界整理統合により日本火災保
   険と合併し、日本火災海上保険(株)が誕生。
  2001年4月1日に、日本火災海上保険株式会社と興亜火
   災海上保険株式会社が合併して日本興亜損害保険が
   発足。さらに・・
  2002年4月1日に、太陽火災海上保険株式会社と合併。
  特定の金融グループに属さない独立系の保険会社であ
 ったが、UFJグループ(旧三和銀行 現・三菱UFJフィナン
 シャルグループ(MUFG))と親密であったことに加え、
 フィナンシャルワンに発足当初から参加していることな
 どから、現在はMUFG系とみなされることが多い(ただし、
 日本興亜損保では現在でも自らを独立系としている)。
  近年、明治安田生命保険とも親密となっている。
  (太陽生命とも以前から親密)
  筆頭株主のサウスイースタン・アセット・マネジメン
 トは損害保険ジャパンとの経営統合を要求しているとさ
 れ、統合によって草刈場とされることを懸念した兵頭誠
 社長の留任に反対を表明した。
  このため自主独立路線を貫けるか、業界再々編の中で
 行方が注目されていた。
  世界的な金融危機による自動車保険の急激な契約減少
 と、三井住友海上火災保険などが経営統合し、大手同業
 他社と経営規模が離されることを受けて、
  2009年3月13日、株式会社損害保険ジャパンとの間で経
 営統合について合意し、
  2010年4月1日に、共同株式移転で共同持株会社NKSJホ
 ールディングス(現・SOMPOホールディングス)が設立さ
 れた。
  経営統合後も、暫くは独自ブランドで展開していた。
 しかし、
  2012年3月23日に、株式会社損害保険ジャパンと2014年
 上半期を目途に合併し「損害保険ジャパン日本興亜株式
 会社」となることを取締役会で決議し、正式発表した。
  これは・・
  2014年8月27日に、金融庁から認可され、9月1日に実施
 される。
  合併により当社は解散し、持株会社は「損保ジャパン
 日本興亜ホールディングス株式会社」に、グループは「
 損保ジャパン日本興亜グループ」に、それぞれ改称され
 る。
.
  (今日の言葉)
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  題:糾弾されるNHK・・また、糾弾されるべきNHK・・
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紀元前2700年~紀元前1600年、エジプトでピラミッドが作
 られた。
  ピラミッドは、現在も、約80基ある。
  エジプト文明の成立に大きくかかわる『ナイル川』
  ナイル川は、豊かな実りをもたらした。
  エジプトはその96%が砂漠で、ナイル川は、その砂漠
 の地の4%を緑の地に変えた。
  しかし、その緑の地の、わずか2.6%の土地にしか畑は
 ない。
  しかし、豊かな実りを、この地に、国にもたらした。
  ナイル川は、定期的に、この畑地に肥えた土をもたら
 した。
  ナイル川の定期的な氾濫は、肥えた土を運んで来た。
  エジプト人は、このナイル川の氾濫の時期を正確に知
 る必要があった。
  ナイル川上流のエチオピア高原に、6月中旬~10月下旬
 に雨が降り、1ヶ月かけて地中海へ流れて行った。
  エジプトの人たちは、正確な暦を持った。
  それによって、ナイル川を知り、うまく利用した。
  周囲の畑を潤す『壮大な規模の灌漑』が施された。
  この知恵が、『大文明を築いた』。
  万事が上手く行った。
  ナイル川流域の幅8キロ~16キロの地が緑の畑地となっ
 た。
  エジプト人は、この豊かな地に42の「ノモス(部族の
 始まりから発展した社会単位)」を作り、紀元前3000年
 頃に、それが統一された。
  王は、神と見なされた。
  そして、「大きな家」に住む人の意味で「ファラオ」
 と呼ばれた。
  エジプトでは、ファラオによる統治が約2900年間も続
 いた。
  26の王朝が生まれた。
  豊かな、穏やかなナイル川の流れは、帆船による物流
 を可能にした。
  緑の幸は、帆船で、ナイル川の三角州の頂点に位置す
 る「メンフィス」に運ばれた。
  この地に、世界中の富も集まり、栄えた。
  大量の物質の管理や分配のために、必要な記録のため
 にパピルスの紙が発明され、文化は、また、豊かに更な
 る発展をして行った。
  『象形文字』も発明された。
  紀元前2700年~紀元前1600年には、ピラミッドが作ら
 れた。
  エジプト人の作った「太陽暦」は、紀元前45年に、将
 軍・カエサルが、ローマに伝えた。
  そして、「ユリウス暦」となり、現在の「太陽暦」と
 なった。
  このエジプト人の冷静な知恵の発展が、豊かな文明を
 作り、幸福をもたらした。
  しかし、この隣地のイスラエルの民は、砂漠の地で、
 自然の恵みに恵まれず、また、他民族がひしめく地だっ
 た。
  そのため、わずかな恵まれた地の『奪い取り』が現出
 した。
  「隣国の富を奪い取ることを是とする宗教=キリスト
 教」が生まれた。
  恵まれない環境から、可哀想に、「奪い取りの殺戮の
 行為に明け暮れる地と、それを是認する宗教となった」。
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紀元前1830年、アルム人が、ユーフラテス川中流の都市「
 バビロン(バクダード南方90キロ)」を中心に覇を唱え
 た(古代バビロニア)
  バビロンでは、ハンムラビ法典が制定された。
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紀元前1530年、古バビロニア滅亡
  紀元前2000年~紀元前1000年頃、馬にひかせる戦車を
 武器とするインド・ヨーロッパ系遊牧民の侵入を受けた
 メソポタミアは、大変動期に入った。
  そうした中で、アナトリア高原のハットゥサを拠点と
 するヒッタイト人が、人類初の鉄製武器を使い、紀元前
 1530年頃に、古バビロニアを滅ぼした。
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紀元前9世紀、北メソポタミアの商業の民・アッシリア人は、
 容赦のない戦争を繰り返し、
  紀元前7世紀には、メソポタミアからエジプトに至る広
 大な領土を持つ国を作った。
  「軽戦車」という馬が引く戦車を用いた。
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紀元前612年、ペルシャ人が、アッシリア人を滅亡させて、
 アケメネスを始祖とするアケメネス帝国を樹立した。
  約200年間、続いた。
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紀元前522年、アケメネス帝国の樹立
  アケメネス帝国は、エジプトからインダス川流域に至
 る地域を征服し、大帝国を樹立した。
  最盛期のダレイオス1世は、バビロン、エクバタナ、ス
 サの三大都市を季節ごとに移動し、王の居住地を循環し
 て、複雑な地域を支配した。
  首都・スサから延びる「王の道」は2400キロあった。
  この道は、商人は3ヶ月かけて行き来したが、王の使者
 は1週間で走破した。
  因みに、「ペルシャ人」という名は、「イラン人」に
 対するヨーロッパ人の蔑視を含む習慣的な呼び名である。
  故に、現在の『イラン』という国号は、ヨーロッパの
 蔑視を含んだ、圧迫的な言い方から脱却したいという民
 族の誇りから、1935年に採用した「イラン」の国号だっ
 た。
  ほとんどが砂漠と荒れ地が半分以上、畑は1割に過ぎな
 い。
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紀元前6世紀、アケメネス朝ペルシャのダリウス大王が、西
 エジプト、トルコから、東はインド国境におよぶ史上最
 初の大帝国を建設した。
  そのダリウスが、自分の宮殿として作らせたのがペル
 セポリス。
  ダリウスは、「他民族の征服者」「掠奪者」「自己の
 民衆を臣従させた絶対君主」と言われた。
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紀元前6世紀、バビロンが、周囲13キロの城壁で囲まれる都
 市に成長し、「バベルの塔」という巨塔をはじめ、大小
 1000以上の神殿、「空中庭園」を作った。
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紀元前5世紀、ペルシャ戦役
  ペルシャのダリウスとその子・クセルクセス王は、三
 度に渡ってギリシャの奥深く侵入し、自由なギリシャ連
 合軍と戦って、敗退した。
  ペルシャ戦役である。
  もし、この時、ギリシャが敗れていたら、人類は、ア
 テネを中心とした民主制の伝統と、全盛期ギリシャの偉
 大な文化遺産を受け取ることが出来なかったであろう。
  勿論、アテネのアクロポリスは作られなかっただろう。
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200年頃、キリスト教を嫌悪するローマ人
  ローマ人は、キリスト教を根っから嫌っていた。
  ローマ皇帝は、弱体化した帝国に対して、民をしっか
 り服従させたいと四苦八苦していた・・
  また、民への政治権力を強めたいと思っていた。
  ここで、ローマ皇帝は、キリスト教を利用しようと思
 い立った。
  ローマ皇帝は、キリスト教へ特権を与えた。
  しかし、ローマ人は、キリスト教に対する気持ちは変
 わらず・・、今までと同じで、急に変わるわけではなく、
 キリスト教に対する悪感情はそのままだった。
  当時の文書には・・、
  「・・彼ら(キリスト教徒)は、『堕落しきった連中』
 であり、『無知な男とだまされやすい女』の集団である。「
  『夜に集会を開いたり、断食の儀式を行なったり、人
 間らしからぬものを食べたり』するのだ。
  彼らは、『陰でこそこそするのを好み』『人前では無
 口だが陰で良くしゃべり』『神々に唾を吐き、聖なるも
 のをあざけり・・』・・と。
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239年、三角縁神獣鏡に、卑弥呼が中国・魏に使者を送った
 「景初三年(239年)」の記号を持つものがある。
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1945年9月14日、GHQが、占領軍の動静を海外に発信して
 いたとして、同盟通信社へ、業務停止命令を出した(事
 前検閲に移行する)
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1945年9月15日、GHQの民間検閲支隊のフーバー大佐が、
 「連合国に対する批判を禁止させた」、
  また、「100%の検閲の実施」をすることを表明した。
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1945年9月19日、GHQが、ニッポンタイムズに、発行停
 止命令をだした。
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2016年8月5日~8月21日、リオデジャネイロ・オリンピック
 の時、NHKは、まったく、日本無視の姿勢であった。
  日本の国歌が演奏される、日本の国旗が掲揚されると
 いう「表彰場面」は、すべて、カットした、放送はしな
 かった。
  この基本の放送ポイントを、NHKは、その勝手なN
 HKイデオロギーで踏みにじった。
  卑劣なNHKだけの考え方であり、NHKイデオロギ
 ーの考え方で、NHKは日本の国歌と国旗を否定した。
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教の行動方針
 にここでも同調した。
  理屈にならない理屈で、NHKイデオロギーで、NH
 Kは動いている。
  また、キリスト教に偏するNHKは、日本を貶(おと
 し)めてばかりいる。
  キリスト教に同調するNHKは、日本の国歌・君が代
 を放送しない・・オリンピックの表彰場面の、日本の国
 歌が演奏される場面をカットした。
  NHKへ抗議をしたら、アメリカが表彰される場面を
 NHKは放送した。
  それも、完全・完璧な放送で、他の場面に、一切、切
 り替えず、長時間・長い時間、最初から最後まで、完全
 な形で・・「フルのシーン」で、完全に中継し、放送し
 た。
  NHKに、「君は、どこの放送局なのだ」と聞きたい
 状況だった。
  どこの国の国民も、自国の選手の努力の結晶である表
 彰される場面を、共に喜びたいと思っているものだ。
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2016年、糾弾される腐りきったNHK
  雑誌「選択」2016、no491で、NHKの事を・・、
  「上は、会長が『不正な土地取引』で大損する実態を
 演じ・・、
  下は、職員が『億単位の横領』三昧のNHK、
  局全体で、受信料を私物化してはばからぬ腐ったNH
 K体質、
  これが治らない。
  官邸も、ついに現会長を見限ったようで、「後任は用
 意できた」・・と・・、
  NHKは、まったく甘い環境の中で、1800万円の平均
 給与という『超高給』であるのに、まだまだ腐る行為を
 している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive