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2014年6月20日金曜日

「予言」:「心理療法」:「遊行」・・、

 題:「予言」:「心理療法」:「遊行」・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教のイエスの弟子たち・・、
 大(おお)らかな人たちだったとも言えるが・・、
 悪いけれど、程度は良くない・・悪かったようだ・・、
 この人たちが演ずる・・キリスト教の聖書・・、
 いくら綺麗(きれい)に話そうとしても、そこには限界
でる・・そこで、嘘や、オーバーな表現が入る事になる。
 キリスト教に嘘が多いのは、このところに、原因の1つが
ある。
 ひたすら、オーバーな美化や表現になるのも、ここに原
因がある。キリスト教の嘘やオーバーな美化表現の原因と
なっている。
 釈迦の弟子たちより・・『はっきり劣る』、
 理知的だった釈迦の弟子たち、『自ずと』そのやり取り
には深みが出て来る。
 キリスト教の様に無理に作り上げなくても、そのやり取
りに、自然と深さが醸(かも)し出されてくる。
 後世の頭の良い人たちが、ああだこうだと、美しくしよ
うとしないでも済む。嘘をつかなくても済む。
 この差が、これがイエスの死後に、また、大きな差とな
って表れる。
 キリスト教が、一生懸命、あの弟子たちは、後(あと)
になって良くなった、良くなった・・と、誉(ほ)めるが
(これは、さすがにキリスト教も、最初はダメだったと認
めているという事になるのだが)が、
 『栴檀は双葉より芳し』
 (せんだんはふたばよりかんばし)ともいうが・・無理
なのだ。
 イエス及びイエスの弟子たちの生まれ育ちは、その様な
ものだった。民の店を壊すのが相応という姿の様だ。
 イエスから、何度も何度も叱られた、馬鹿みたいに何度
も叱られた弟子たち、
 聖書を読んでいても、お前たち馬鹿かとしか言えない気
持ちになる。悪いけれど・・、本当に、何度も叱られ
るという、忘れっぽい御仁(ごじん)の「イエスの弟子た
ち」。所詮、それに関して書く側の品も落ちて来る。もち
ろん、それを読んでいる方たちの品も落ちて来る。その様
な中に・・すべてが存在することに・・、
 チャーチル・英国の元首相の息子が、イエスの弟子たち
の事を教えられた時、「この豚野郎」と怒ったというが、
 イエスが刑場の露と消える直前、イエス捕縛(ほばく)
の人たちが迫(せま)っているという大切な重大な時、
 この時は最低だった・・、
 イエスが祈っているという時に、この様な時に、眠って
いたというイエスの馬鹿弟子たち。
 大らかさもあったのかもしれないが、その馬鹿な程度は、
この様な時になんだと・・二の句が継げない気持ちだ。
 その弟子たちの中でも、少しは頭が良いという、会計を
イエスから頼まれ、やらされていた「ユダ」。
 多分、他の弟子たちは、計算が不得手と言うより、出来
なかったのだろう。数の「たし引き」ができない、そのレ
ベルの御仁だったのだろう。
 その中の男・ユダが、銀30枚でイエスを裏切る。金銭的
にも『心貧しき行為をした人』である。このレベルである。
 少しの金にも目が光った人たちだったのであろう。
 キリスト教は、どこを見ても裏切ったり、殺したり、騙
(だま)したり、本当に程度の低い、精神的に、倫理的に
最低。『最低な書』だと思う。ためになる話は『本当にな
い』。
 『性悪説に染まった思考』で『暗展開思考』をするから、
そこから出て来る思考も良い訳がない。こんなことが分か
らない。
 それにしても、銀30枚ぐらいで、売られるイエスも安く
見積もられたものである。
 何故、銀30枚くらいで裏切るのであろうか?不思議な領
域だ。その領域で悪行為をする人たちの領域の話のレベル
の『キリスト教聖書』。
 裏切った「ユダ」も悪いが、ユダ側だけに責任のすべて
があると断定し、判断していいのか? そうではない。
 そこに、イエス側の責任も皆無とは言い切れない、
 イエスに全くない、皆無とはできないという所が・・厳
然として存在しているということを知らねばならないし、
分からねばならない。
 キリスト教の聖書は、その様には説かない、避けている。
 説けないからだ。そこが、宗教の立場の弱点となってい
る。『その面が学べない』キリスト教徒となっている。
 分かる事が、知る事が出来ない人たちを作っているキリ
スト教となっている。
 偏頗(へんぱ)な人を作っているキリスト教となってい
る。
 しかし、キリスト教はこの点を、いつもの通り、『無視
をしている』、分からない事にしている。
 キリスト教は、この点に気付いているのであろう、さす
がに・・、だが、目をつむって、キリスト教信徒を『マイ
ンド・コントロールしている』。
 繰(く)られた信徒も、純真に・純真にと、事前に十分
に洗脳され、マインド・コントロールされているから、そ
のまま通り過ぎて行くのだろう。こんなもんだと・・。怖
いものだ。
 何しろ、キリスト教は、信徒の方々に『考えるな』『考
えるな』と洗脳している。ただただ導かれるが良い・・『
さまよえる羊たちよ』・・と、
 この様なマインド・コントロールは、本当に『怖いので
ある』。この怖さに・・気付いて居(お)られない。
 キリスト教側は、当然、都合がいいので、その点の是正
をするわけが・・ない。
 よくテレビで、社長が頭を下げている姿が『あれはあれ』
と見ているのであろう。
 ユダの件は『もう少しうまく』聖書に記すべきだった。
 本来は、イエスもユダのことで頭を下げるべくところが
あるのだ。気付かないだろうが・・、
 イエスも責任は逃れ得ないという面に気付くべきなのだ。
 キリスト教は、この不祥事のこの責任を不問にして、綺
麗にしている。当然、信徒のかたたちへは説明しない。
 キリスト教は、自分たちの都合が悪いことは遠慮なく変
える。事実も曲げる。そして、表面をきれいに繕(つくろ)
う、そのやり方を過度(かど)に行って来た。
 プロパガンダ(嘘宣伝)が酷過(ひどす)い。
 社会的公正さも、まったくといってない。
 そして、このところの怖さを認識していない。
 この様な近代的なセンスはない。古い体質の宗教となっ
ている。古い体質のキリスト教のセンスを守っているだけ。
 この様にしてできているイエスの姿は偶像である。
 この偶像を崇拝している宗教と言えるキリスト教。
 キリスト教の聖堂には、武力で他国を攻め滅ぼし・・、
 その地の偶像を奪い、持ち帰り、自国のキリスト教聖堂
の外壁に張って、飾っている姿があるが・・、
 この様な目に見える偶像崇拝の姿以外にも、
 先に記した様な目に見る事が出来ない、作られた偶像も
・・・キリスト教には・・・一杯ある。
 キリスト教は、偶像を崇拝する宗教である。
 その偶像も、その作られ方も含めて質がよくない。
  銀貨30枚で、ユダが、イエスを裏切ったが、また、こ
のイエスだけでなく、仲間たちも裏切った「ユダ」だが、
 この金銭に関わる事、イエスたちの活動資金は・・、
 ある時は働き、ある時は会合で資金を募(つの)り、そ
の生活していた。当然、今・現代の言い方では、定職を持
った人たちではない。
 職業欄には、「遊行」とは書けなかったから、事実上の
状態の「無職」に○を付けるのだろう。
 故郷の、イエスの幼少の頃を、イエスの生い立ちを知っ
ている人たちが、イエスに・・、
 「予言者とはうまい事をやっているな』と言ったが、
 当時、エルサレムにはこの予言者という職業の人たちは
多かった。公的な予言者も居たが、イエスは個人的な、私
的な予言者だった。
 故郷の人たちは、それを「うまいことをしている」と見
ていた。結構収入はあったのだろう、大勢の人もやってい
る様なので。
 また、イエスは、イエスを故郷の人たちから「ぺしゃん
こにされた」ということを吐露(とろ)している。
 神通力が、故郷では効かないとも、イエスは言っている。
 イエスは、何しろ決まった事を職業的にするのではなく、
父・ヨセフの職業・大工をイエスもしていたようだが、そ
のヨセフは、早くに亡くなった様なので、イエスは長男だ
から、また、兄弟姉妹も多いようだったから、イエスは、
父の変わりに「家計を支える」という大切な責任があった
が、その責任は「放棄した状態」となっている。
 予言者として、故郷の人が言う様に「うまく、飯が食え
る立場には居たこと』は、確かだ。
 しっかりしたイエスの収入が、確保されていたのだろう、
その様子が、故郷の人たちが、うらやましがる『言葉ひと
つでも」分かる。
 弟子たちは、イエスを「ユダヤ教の聖職者の『ラビ』の
名で呼んでいる」ので、その遊行の職が根に付いている事
が分かる。遊行的に大工もやり、エルサレムでは、ラビ風
な予言者として収入を得て、金を得ていたと考えられる。
 イエスは、たびたび、エルサレムと故郷・ガリラヤを往
き来している。
 イエスを偶像的にし、想像し、美化して、キリスト教が
忌み嫌らう様な偶像化をしてはいけない。偶像を作っては
いけない。偶像崇拝宗教になってはいけない。それこそ、
他ではなく、キリスト教は自らの真実を見よ。
 また、イエスは、街中では、商売柄、顔見知りも多かっ
たのか、その顔の広さから、ときどき、会堂での人を集め
るイベントも開けたと考えられる。
 そこでは、今現代でも医学的に、診療的に、効果がある
と認められている手を触れるだけで直すという行為をして
いた。
 この現象は、イエスだから出来たという現象ではなく、
 誰にでも起きるものと、現代でも、医学的に証明されて
いる。何ら奇蹟的な現象ではない。キリスト教は奇蹟・奇
跡と言うが・・。
 イエスも霞み(かすみ)を食べて生きていた訳ではない、
 金銭を必要とする生活をしていた訳なので、今で言う治
療費と言う金銭は徴収(ちょうしゅう)していたと考えら
れる。これも、故郷の人たちが「うまいことをしているな」
と羨(うらや)ましがっていた。
 イエスは、宗教家としての托鉢(たくはつ)行為は、し
ていないので、その面から宗教家に属するジャンルの人で
はない。その様な・・人、
 「予言者」兼「心理療法をする人」兼「遊行者」。
.
 (参考)栴檀は双葉より芳し:白檀(びゃくだん)は発芽
   のころから香気を放つ。大成する人は幼少のときか
   らすぐれているというたとえ。
..
   (詳しくは、以下のブログへ)
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2014年6月19日木曜日

神話とする良さ・史実とする問題の発生点・・実は神話なのに

 題:神話とする良さ・史実とする問題の発生点・・実は神話なのに
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の根幹の「キリスト教の聖書」・・、
 ここに記されている事は、キリスト教は「史実だ」と言
います。ここに問題が発生しています。
 日本神道は神の実在を漂(ただよ)わせながら、それを
記す古代の文書は神話だという態度を明示しています。
 この態度の違いが大きいのです。
 キリスト教は、おとぎ話の様な話の連なりでできていま
す。実は・・。
 「神話」ですよねと言えば、神話ではない、実話ですと
キリスト教は言う。
 そう言いたいのでしょうが、どう見ても神話ですから、
神話として、信徒の方々への「話の基本姿勢とされたら」
と言っても、そうはできないという。
 実話だとして話を進め、説くところに、『キリスト教に
罪がある』ということを、キリスト教は認めません、認識
もしていません。目をつむる・・。
 その罪を、「犯し続けている」というキリスト教です。
 古事記・日本書紀は神話とされ、それに連なる宗教も、
キリスト教の様な『かたくなな嘘』は言っていません。
 ここは大切な立脚点の基本です、根本です。
 だから、キリスト教は、説かれた内容の受け取り方から、
殺戮行為へ繋(つな)がって行く道が濃いのです。
 武力を是認する教義の実力行使事例が多いのです。
 これが、キリスト教の問題の1つです。
 キリスト教関係者が、「パウロはイエスの弟子だ」とい
う嘘を言う。この様な嘘が、また、実に多いキリスト教で
ある。キリスト教は簡単に嘘を言う宗教という態を示して
いる。
 パウロはイエスの弟子ではない。イエスたちを捕まえて
殺していた人である。
 ペトロはイエスの弟子である。
 ペトロは、イエスが生まれ育ったガリラヤの地の、イエ
スと初期からの知り合いである。ペトロはガリラヤ湖で漁
師をしていた。
 だから、狭い村のガリラヤの地の、イエスと同年代の幼
なじみという関係。遊び仲間でもあったと言える。
 イエスは救世主だと言いたい人たちによって、ユダヤ教
正典(キリスト教旧約聖書)にある言い伝えなどを守りた
いと、その様に事は進んだのだと言いたいと、イエスを
「ベツレヘム生まれだ」と言いたがっている・・が。
 救世主はベツレヘム生まれでなければならないという決
めがあるからだ。その様なキリスト教の決め・約束事・律
法にもなっている。キリスト教の立派な『律法』。律法を
棄てたというが、律法を捨てきれないキリスト教。嘘の態。
 ペトロはイエスの弟子だと言われている。一番最初の一
番の親友なんだろう。何でも子供の頃から言い合ってきた
仲間なんだろう。
 だから、キリスト教の聖書にも、ペトロはイエスを馬鹿
にしている言い方をしている。そんな仲なんだろう。イエ
スを批難をしている。
 ペトロは、イエスの死後、エルサレムを中心に宣教した。
 一方、パウロはサウロと称した。パウロ(サウロ)は、
宣教者・ステファノの刑の執行に賛成した。
 パウロ(サウロ)は、離散したユダヤ人で、トルコで生
まれた。
 そして、ローマの市民権を持つテント職人だった。
 ヘブライ語とギリシャ語に堪能で、ユダヤ教正典(キリ
スト教旧約聖書)に精通していた。
 熱烈なユダヤ教徒で、ファリサイ派に所属した。
 キリスト教徒の迫害を率先してやっていた。
 パウロは、イエスの弟子たちを脅迫した。殺そうとした。
 ある時、その事についての「大司祭の許可」を得るため
にダマスコへ向かった。
 その途中、突然、天から彼に光が射し(言い伝え、これ
は眉唾話)、パウロ(サウロ)は地に倒れた。
 声がした、
 「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と。
 「誰ですか?」
 「わたしは、あなたが迫害しているイエスです」と。
 その時から、パウロ(サウロ)は、3日間、目が見えなか
ったという。
 盲目状態のパウロ(サウロ)が、ダマスコに来れたのも、
その『イエスだという声に導いて貰(もら)った』からと
言うことだった。
 「そこを右」「もう10m行ったら左に」
 「石があるからつまずくなよ」
 「ロバを連れた人が来たよ、ぶつかるなよ」・・などと
の道案内の声が聞こえたということだ。
 「おい、行き過ぎてしまったではないか、少し戻って、
そして、右だ」・・とかとか・・なんて・・。
 イエスも盲目の人への道案内、大変だったと思う。
 そして、行き違った人たちも、誰も、パウロ(サウロ)
を助けなかったのだろうか? 平気かな? 何してんのか
な?・・などと思ったりもしても、見ているだけだったの
か??
 急に盲目になったら、慣(な)れのある人と違い、一歩
も歩けないわけだから、声だけで導くとしても、頻繁(ひ
んぱん)に、常に、声をかけていなくてはならなかっただ
ろうから・・、
 イエスをねぎらいたい。
 そして、3日間、パウロ(サウロ)は飲食もできなかった
ということも紹介されている。
 何しろ、パウロ(サウロ)は嘘付きなのだ。前科がある
のだ。イエスに会ったこともないのに、会ったことがある
と言ったり、これは研究者の功績だ。パウロが嘘をついて
いると指摘した。
 パウロ(サウロ)は、声がしたとき、「誰ですか?」と
聞いている。イエスの声を忘れたのか?
 会ったこともないので知らなかったのか?
 多分、後者であろう。研究者の言う通り、イエスに会っ
てもいないし、イエスの声も知らなかったのだろう。
 パウロ(サウロ)は、ダマスコに居たアナニアと言う人
が、イエスの命令でパウロ(サウロ)に会いに来て・・、
 (アナニアが、イエスからどのように命令されたのか?
の具体的記述は、まったくない。イエスもいろいろと大変
だ)、
 その人が、パウロ(サウロ)に会うと、パウロ(サウロ)
の目から鱗(うろこ)が落ちて、目が見える様になったと
いう。
 そして、洗礼を受け、食事もし、元気を取り戻したとい
う、そして、それから、パウロ(サウロ)はキリスト教徒
になったというパウロ(サウロ)の話だ。
 パウロ(サウロ)が、予測も予想もしない、突然、不意
打ちでイエスの光が射し、そのイエスの光の衝撃で(そん
な強い光を出すなよとパウロ(サウロ)は怒りたかっただ
ろうが・・)被害を受けたパウロ(サウロ)が、イエスの
命令で来た人に目が見えるようにされたという話。そして、
キリスト教徒になりましたという話。
 キリスト教は神話にしたくないという話。
 真実との感覚との落差に心を痛める人も多いだろう・・、
 また、
 この事例の様な類いの話で、戦争につながる話も実話だ
とキリスト教は言う。
 この様なキリスト教から離れなさい。
..
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2014年6月18日水曜日

時代を超越すると存在に耐え得ない・・、

 題:時代を超越すると存在に耐え得ない・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は言う、「信じなさい」・・と。
 そして、「信じれば、そこに神の救いがある」と言う。
 そしてさらに言う、「1+1=2の様な理屈ではない」・
・と。「だから、信じて見なさい」・・と。
 だがしかし、キリスト教にそう言われてみても・・、
 今までのキリスト教を見て来て、まったく信用できると
いうころが、無いという、キリスト教が・・そこにある。
 誰が見ても、キリスト教には、誤謬(ごびゅう)・卑劣
さ・悲惨さ・脆(もろ)さ・劣悪さなどがある。
 その様なことは、冷静に考えれば、誰でもすぐ分かる事、
キリスト教は、すべてが駄目なのだ。
 キリスト教の歴史だけを見ても、人を殺してばかりいる。
 それも、半端(はんぱ)ではない大勢の人を・・、世界
中のあちこちで・・、長い歴史中・・ずーっと・・、
 大罪人を、とうに通り越している、キリスト教の罪状は、
大きく大きく存在している。それも、本当に、長い期間、
殺しまくっている。
 この様な状況からでも、キリスト教のこの悪の行いが、
 これだけとっても・・絶対に駄目・・と、言える。
 そして、聖書が基本と言うが・・この基本だが、「めち
ゃ、くちゃ」で、間違いだらけ、矛盾だらけで、オーバー
に美化しているだけ。
 大げさに、過剰に「キリスト教だけ」が、美化されてい
るだけ。
 だから、教義も最悪になっている。矛盾も多いが・・、
質(たち)も悪い・・殺人指令は、あちこちにあるし・・、
 善良な人でも、これでは『殺人鬼』になってしまう。
 そして、怖(こわ)いところは、その事を悪い事だと思
わなくなる様に仕掛けてあるということ、
 神の義(正義)だから良いのだ・・とかと、
 だから必然、キリスト教に殺人行為が多くなる訳なのだ。
 「異教徒は殺せ」「魔女は生かしておいてはならない」
など、記述内容も、具体的詳細に、悪行為のやり方などを
神が勧(すす)めているなど一杯ある。悪のマニュアル本。
 キリスト教に熱心なキリスト教徒の作家が言う・・、
 (ユダヤ教の)ファリサイ派の人が、イエスに言う、
 「あなたが預言者なら、自分に触れている女が誰である
か分かるはずだ。罪深い女なのに」と言う。
 するとイエスは、罪深い人であるからこそ、多くの罪を
許されるのだと反論し、マクダラのマリアに、「あなたの
信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言った。
 しかし、ここのところを良く考えてみると、このイエス
はユダヤ教徒だ。マクダラのマリアもユダヤ教徒だ。
 これは、ユダヤ教の話なのだ。
 イエスは、「宗教を立てる」「宗教を立宗する」という
意思は、まったく無いので・・、
 ユダヤ教徒のイエスが、そのまま、ユダヤ教徒のイエス
として、この事を言っているという、ユダヤ教のことなの
だ。
 このイエスの頭の中には、「ユダヤ教の事しか」ないし、
 イエスはユダヤ教を信じていたし・・、そして、イエス
の立ち位置は、「ユダヤ教を捨てなくてもよい」、だが、
「ユダヤ教は、直さなければならない」という、立ち位置
だし・・、
 そして、イエスは言う、「わたしは、そのために来た」
・・と。ユダヤ教改革者、その意義を感じていたイエス。
 故に、ここでイエスが、マクダラのマリアに言った事は、
「ユダヤ教を信仰しているあなたは救われる」なのだ・・、
 そしてだから、イエスは言った・・、
 「ユダヤ教を信仰するあなたは、安心して行きなさい」
・・と。キリスト教ではないのだ、イエスが言っているこ
とは・・。
 キリスト教徒の作家は、ここに信仰の核心があるという。
 確かに、このキリスト教徒の作家が言う様に、これは、
すべての宗教に通じる、困っている人にこそ、宗教が必要
なのだ・・という所。
 当り前なのだ。深い話などでも何でもない。
 宗教の目的が、すべて救いなのだから。多く困っている
人はさらに必要なのだ。
 当り前なのだ。
 キリスト教だけの事を言っているのではない。少なくと
もユダヤ教だ。イエスが言っていることは・・。
 困っている人、助けを求めている人、罪深い人などの方
へ、どの宗教も手を差し伸べるのが目的で、立宗されてい
るのだ。
 因みに、先にも書いた様に、イエスには立宗しようとの
意識は完全に無かった。
 ユダヤ教の改革主義者だった。
 キリスト教の作家はここに神の愛を感じるというが・・。
 イエスが生存していたころは「ヤハウェ神」である。
 三位一体神のキリスト教の神ではない。これは誰も口を
はさめないこと。
 今・現代、キリスト教は三位一体神を信仰しているが・
・、その神ではない。
 今・現代にキリスト教徒が信じている神と、イエスの神
は、別なものなのだ。宗教も別なのだ。
 そして、イエスには、「娼婦」は、「娼婦という行為を
している女」は、「罪深い女だ」という意識があった。
 その様なレベルにあるイエスの意識が分かる。差別の意
識があったと言える。
 今・現代、姦淫罪が無くなって・・、
 姦淫罪というと、遠い昔の『封建的な罪だ』という感覚
があるが・・、
 その封建的感覚と同じレベルの感覚・意識が、古い意識
が、イエスにはあったと言える。
 女を見たら、それだけで姦淫だと言ったイエスの感覚だ。
女を見ると色眼で見ているというイエス。『品(ひん)の
いい女性だな』などと・・見てはいけないという話。『知
性の満ち溢れた女性だな』などと見てはいけないという話。
教養がありそうだな・・とか、清楚な方の様だな・・など
など・・など・・など・・。
 女性を見ればすぐ、そちらの方を、すぐ、頭に浮かべる
という話。女性イコール姦淫・・という。イエスの頭の中
はこれだったのだろうが・・現代感覚とは違う、そして色
々な面で、『ずれ』が生じているキリスト教とイエスだが、
『ずれの1つ』がこれ。
 『ずれのある宗教』=キリスト教という一つの例だ。
 キリスト教には、『時代を超越する示唆はない』。その
様な宗教。
 だから、経時劣化をしている。
 『今の時代の中の存在』に『耐えることができない』宗
教。人類は救済できない。皆様も幸せにできない。
..
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2014年6月17日火曜日

キリスト教の『イエスの復活』・・、

 題:キリスト教の『イエスの復活』・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の『イエスの復活』・・、
 これは、イエスが生きている時から・・、
 『イエスが復活する』と言いふらされていた。だから・・、
 イエスが、復活するのが、イエスが復活したから、復活
が知れた・・というのでは・・『ない』。
 イエスの関係者は、もちろん、『復活の事前洗脳』は、
なされていた、されていた。
 それは、(マタイによる福音書)にも記されているが、
 すでに・・イエスが復活する・・と、
 イエスの弟子たちが、『言いふらす行為をする』・・と
いうことが・・知れ渡っていた。
 早く言えば、「イエスは復活する予定です」となる・・、
 イエスが十字架刑になった翌日に・・、
 ・・という事は、
 3日後に復活すると言っていたので、その復活予定の2日
前に・・、
 すでに、「イエスが復活した」と、言いふらす事が、予
測できていた「祭司長のカイファたち」は、
 「総督のピラト」のところに集まって、その件について
話し合っていた。
 ピラトへ、『イエスの墓の、番兵をさせて下さい』・・
と、頼み込んでいた。
 イエスの弟子たちが、イエスの死体を盗み出して・・、
「イエスが死者の中から復活した」・・などと、人々に言
いふらさないように・・、「墓を見張る事を命令してくれ」
と願っていた。
 ピラト総督は、『最高法院の番兵で見張れ』と命令した。
 そこで・・祭司長たちは、墓を石で封印し、番兵を置い
た。
 しかし、二人の女たちが墓に着いたときに、すでに、石
は転がしてあり、墓の中に入っても、イエスの遺体は見当
たらなかった。
 女たちは、遺体紛失とは思わなかった。
 イエスや弟子たちから『3日後に復活する』と、何度も
聞いていたから、復活したと思った。
 事実は、復活があったから、イエスが復活したという話
ではなかった。事実は、洗脳から予断が入り込んでいた。
 復活があったから、イエスが復活したという話ではなか
った。
 つまり、ここで、逆の思考も成立するということ、逆が
出来てしまうということ・・、
 つまり、イエスが復活した、「嘘だ」と言う人に、積極
的な肯定の話ができないということ・・、
 それは、すべてが、状況から推断(推定からの断定)さ
れているということだからだ。自分の希望の結論へ持って
行ってしまうという思考と行為。理性欠如状況。判断力欠
如状況。
 その様に思い、考える人に、せいぜい、「そう思うだろ、
嘘ではないのだ」・・と、せいぜい、言えるぐらいのレベ
ルの話なのだ。根拠薄弱。
 かねてから、ユダヤ教の正典(キリスト教の旧約聖書)
にある『復活の話』を・・、ユダヤ教徒であるイエスや
イエスの弟子たちが、既知のもの(すでに知っているもの)
として知っていて、自分たちも口にしている。頭に充満し
ている希望的状況。
 「3日後に、復活する」と言いふらす、ユダヤ教の祭司
長側も、イエスの弟子たちが、そう言いふらすだろう事は、
十分、予知・予測がなされていた。
 イエス側の資料しかないので、「イエスは復活した」と、
言いふらしたい側の資料しかないので、当然、「イエスは
3日後に復活した」になるのは当り前で当然。
 故に、つまり、ここには公平・公正な状態で、祭司長側
の資料があったならば、「あはは、あれはイエス側の都合
で、ああ言いたかったのでしょう」となる。祭司長側の資
料には、その様な資料があるだろう。そして、結論欄には
嘘ですという事が記してあるだろう。
 当然、イエス側の資料しか見られない状況で、その片方
側の資料で判断できる訳がない。公正さも失われているこ
とは、だれの目にも確か。
 それも、状況が、予断からの推定で復活があったとした
だけという状況。希望結果の発言。
 少なくとも、はっきりと、これだけの事は言えるのだ。
 キリスト教徒の作家も、どうなのですか?と尋ねられた
ら、「説得できる自信はありませんね」と答えている。
 イギリスの聖職者へのアンケートでも、『復活アリ』と
信じるキリスト教聖職者が、「少数側」となっている。
 キリスト教徒の作家も、「そうだと信じるしかありませ
ん」と、匙を投げている。
 キリスト教は、この様な、『話のパーツ』が連なってで
きている宗教。あちこちが、山崩れを起こしている。
 これを含めて『信じろ』としか言えない宗教=キリスト
教。次の話が続かない宗教、すぐに話が途切れる宗教。深
みがまったくない宗教。
 それは、嘘を多く含んでいるからです。嘘が含まれてい
る。
 結局、キリスト教側も、本音は、「信じてくれ」と言っ
ている。それだけ・・。
 本音は、「本人も信じていない」という・・イギリスの
アンケートの結果もある。
 『神は偉大なり』を信じることに、信じらせる事に、精
力を使って来た歴史を持つ宗教、それに、そこに、多くの
命を無駄に、無意味に、殺戮した。本当に憤りがわく。
 あちこちが、崩れる山の、頂(いただき)にいる神。
 多くの嘘を言い、信じることは言わずに、信じることだ
けを要求する。この復活の様に、空威張り的な論理を展開
し、結局は、信じてもらえない。聖職者でさえ・・、当の
聖職者にさえ信じて貰えない、いないという状況。
 ありがたいと自分でねじを巻き、ねじを巻いて、マイン
ド・コントロールされて、ありがたいのかなとなって、軌
道に入って行くのだが、理性は失われていることに気がつ
かない。性悪説の論理の展開の中にも入る。科学的にも駄
目と言われている論理の展開を巡らす。つじつま合わせの
世界に入る。完全に繰られて、暴力沙汰も行う。この事で
も無意味に青年たちが、また、攻め込まれた地の愛する家
族たちが死に、そして、追われ、温かい家庭も無くなる。
 未来の人類を救うことができないDNAを持つ宗教=キリ
スト教。人々も幸せになれない。
..
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2014年6月16日月曜日

適当だなー・・、

 題:適当だなー・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は『適当だなあー』とまた、改(あらた)め
て強く思った。
 だから、言わせて戴きたい、キリスト教の方は『早く、
離れてください、良いことはありません。離れて冷静にな
って下さい。
 文の初めから失礼しましたが、本当に、このブログをズ
ーットお読みの方は、既に、お分かりと思いますが、キリ
スト教は本当に適当です、駄目です、そして、怖いことが
あります。
 キリスト教の肝心な、中心に位置している神が、また、
駄目なのです、適当なのです。
 これがキリスト教は、これが悩みなのですが、口に出し
ては言えません。
 昔から、キリスト教は『神問題』には悩んできました。
 今・現代もです。
 キリスト教の「イエス」も、『キリスト教の神だ』とは
されてはいませんでした。
 イエスは、キリスト教の最高会議である「公会議」でも、
『イエスは、神ではない』とされていた。
 しかし、それも、「すったもんだ」の末に・・、
 反対する者は、キリスト教の例の「異端だ」と差別する
 キリスト教の常套(じょうとう)文句を使われ・・、
 卑劣なキリスト教なのだが、何ら公会議の「体をなして
ない」過程で、
 反対者は放逐され・・一部は殺されたりして・・、
 中国に逃げた「景教」も、キリスト教ではないとされ・
 キリスト教の公会議が『景況は、キリスト教ではないと
した』。
 イエスもその様な、劣った『蛮』の公会議で討議され、
 神ではなかった。
 4世紀の頃、その様な、経過の中でイエスは神なれた。
 イエスが死してから400年という長い年月が流れての後
のことだった。
 キリスト教は、晴れて、「父なる神」と「子なる神」の
『2神』となった。
 名実ともにキリスト教は『多神教となった』。
 実際は、『多神教の歴史は長い』キリスト教なのだが・
・。
 キリスト教を、事実上、作ったパウロも、イエスに関し
ては、「イエスの刑場での死の血」と「イエスの復活」だ
けを使った。イエスのすべてを使わず、イエスを食い散ら
かすパウロだった。
 そして、今・現代、神の座にある「聖霊」、これも神だ
とはされてなかった。
 パウロは、(「コリントの信徒への手紙Ⅰ」7・40)で、
「そのままでいなさい」とサンザン言った後・・、
 「わたしも神の霊を受けていると思います」と、あやふ
やな言い方だが聖霊の事を言っている。『霊』であり、
『聖霊』でないことに注意。
 富岡幸一郎・関東学院大学教授が、「キリスト教の神は
絶対神だ」と言っているが、事実でない事を言って、嘘を
言って、皆様を洗脳している教授だが、『何処が絶対神な
のですか?』と問いたい。
 キリスト教の神は、色々な人が、色々に神を形作(かた
ちづく)っている。
 キリスト教はその様な宗教なのです。
 だからこそ、キリスト教の最高会議である公会議で議論
する必要があったのです。
 それも、『色々な意見があった』ので、長い間、すった
もんだしたのです。その様に、すったもんだする、問題が
多い、キリスト教の神だったのです。富岡教授だってその
くらいのことは知っているはずです。
 しかし、富岡教授は嘘を付きました。
 キリスト教を『巧妙に宣伝したい』からです。
 キリスト教、その姿は、もちろん多神教ですが・・、
 その姿は、「キリスト教・多神教A」とか、「キリスト
教・多神教B」とか、「キリスト教・多神教C」とか、と
いう姿です。
 そして、これではとなって、キリスト教の最高会議の公
会議が、やっとの決着点で・・『三位一体神』というマジ
ックを使いました。
 「父なる神」と、「子なる神」と、「聖霊」とを神とす
る・・と。しかし、一神教にしたいのだと・・。
 だから、今まで神とされて来た神は・「位格の神」とし
よう・・となった。そして、キリスト教は言った、「三位
一体神という神で、一神として下さい」と、そう考えて下
さいと・・。
 これで、キリスト教は一神教になれたと、キリスト教は、
頭に刷り込みされていた『一神教になれた』と、思った。
 しかし、実体は、3つの神々に、プラスされること、取り
まとめに使った「新しい神」が、増えた・・という実態と
なった。
 キリスト教信徒の方々の頭の中には、使い分けしなけれ
ばならないことが、また、1つ増えた。
 また、キリスト教の『都合から生まれた新しい神』によ
って、また新しいストレスが、ルールが生まれた。ルール
・約束事・戒・律法がキリスト教に増えた。
 もう、神をいじる事は止めなさい。
 キリスト教には、それでなくても、整理しなければなら
ない『神々』がいっぱい居るのです。
 さすがに、キリスト教は、説明しきれないので黙ってい
ますが、キリスト教の旧約聖書には、色々な預言者(予言者
)が作った神々が居て・・、
 その各預言者という(神から言葉を受けて、預言された
という者)が神を作っていて・・、
 キリスト教は、収拾がつかない状態なのです。
 本来は、棄ててしまわなければ、ならないのですが、棄
ててしまったら、キリスト教には、何も残らないという状
態になってしまいますので、キリスト教は、そのままにし
ています。
 預言者ですから、自分の言葉を神の言葉としています。
 ですから、多神教=キリスト教という状態となっていま
す。名誉一神教のキリスト教という状態となっています。
 パウロの様な好き勝手は、キリスト教のDNAなのです。
 預言者と言われる「あまたいる預言者たち」が、パウロ
以前から、『パウロの様な好き勝手』をやって来ているの
です。
 キリスト教に、齟齬(そご)・矛盾・食い違いが多いのは
当り前なのです。収拾は付きません、その様な宗教なので
す、キリスト教は・・。
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