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2014年1月31日金曜日

ごった煮の話:負けることを犯罪とした、その他

 題:ごった煮の話:負けることを犯罪とした、その他
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 イギリスの子爵=モンゴメリー元帥は、
 「戦犯裁判は、戦争に負けることを犯罪とした」との言
葉を残している。
 「ニュルンベルク裁判は、戦争をして負けることを犯罪
とした。
 敗者側の将軍たちは、裁判に付され、絞首刑に処せられ
るというわけだからだ」。
 そして、
 キリスト教の『宗教改革をした』というルターは、
 どうしてどうして、
 キリスト教の古い体質を『引きずった』キリスト教徒だ
った。
 ルターは、猛烈な『魔女信仰』を持っていた。
 中世は、魔女にされて、焼かれた女性が、あちこちにい
た。ある村は全滅してしまった。
 ヨーロッパ中が、魔女を焼く煙で煙っていたと言われて
いるくらいな、忌むべきキリスト教の大汚点なのだが、
 この魔女観念を、ルターは『熱烈に』持っていた。
 ルターは、ヴァルトブルクという城で悪魔と戦ったと称
した。
 悪魔は、袋からクルミを出し、床に撒いたりして攻撃し
て来たとのこと。
 ルターは、その悪魔にインク瓶を投げつけ、戦ったとの
こと。
 今でも、インク瓶からこぼれたインクが、染みとなって
壁に残っているとのこと。
 故に、民間に信じられていた魔女信仰を、ルターは信じ
ていた。
 『悪魔と魔女の情交」「愛撫術」なども。
 また、ルターは、ルターの母が魔女からいたずらされて
いると信じていた。
 ルターは、出エジプト記の「魔女は生かしておいてはな
らない」というキリスト教教義を信じ、そして、忠実だっ
た。
 ルターは、ドイツ語に翻訳した。
 ルターは、完全に教会悪魔学の「魔女理論」を引き継い
でいる。
 ルターは、卑劣な事に、実際、女性を『火あぶり』にし
ている。
 それでなくても、ルターは農民戦争で農民を多く殺した。
 そして、その火炙りの女性は、『魔女だ』という罪状だ
った。
 そして、
 キリスト教の最悪な事は、自分で免罪符を出しながら、
極悪のし放題をする所だ。
 強盗が、極悪な事をする前に、先に『無罪の判決書』を
自分で自分に出して、極悪行為をする様なものだ。
 キリスト教は、キリスト教の神を「殺人者製造マシン」
に堕落させた。
そして、
 ヨーロッパの土着民族だった『ケルト民族」が、聖なる
色とした『黒』を、キリスト教は忌んだ。・・が、
 後に受け入れ、ここまで聞いて、びっくりしなくなった
キリスト教徒。そんなことはよくあることさ・・と来る。
 キリスト教は、忌んでる『黒』に、後々まで、何だ、か
んだと関わり、とうとう、『黒いマリア像』まで出現させ
た、作り出した。
 この様に、コロコロ変わる、教義も変わるキリスト教。
 お粗末な話だ。
 尚、ローマ法王までが、命を狙われた時の事だ、
 銃弾によって狙撃された時、
 危うく助かったという法王。
 余りにびっくりした法王、気も動転だったのか?
 命が助かったローマ法王は、『黒いマリア像に感謝して
いる。祈る』・・と。
 天の居るという『三位一体神』ではなかったというのが
味噌。
 このお粗末さの芝居の、これが最後の言葉だった。
..
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2014年1月27日月曜日

TPP、日本の農業は潰されるのか?(その4)

 題:TPP、日本の農業は潰されるのか?(その4)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 皆で話し合って改善していった。
 土地改良事業となった。
 皆が得するやり方が確立したかった。
 大きな田へ変えたことだけで『25%のコストダウン』が
図れた。
 堆肥を入れる伝統も受け継いだ。
 土が肥えてこそ、うまい米が出来るのだ・・と。
 化学肥料はダメとした。
 元農家の地元の主婦も、社員として参加してもらった。
 土地を守り、農業を守り、そこの人も守る。
 ただ貸すだけでなく、一緒に見守って貰いたいだった。
 農家の方の声も「安心して任せられる」の評価だった。
 働く女性も、「会社の形態なので、お金が確実にもらえ
るのが有難いです」だった。
 この方式が、今、全国に広がっている。
 国も、担い手の無い田を集積して行こうとなった。
 「人・農地プラン」。
 国からの補助金も出る。
 『農業政策がころころ変わるのが怖い』という声もあっ
た。
 『他から入った人が百姓するのはダメだ』の声もあった。
 TPPのこと。
 何しろ不明なTPPダ・・という声。
 どうなるのだ・・のこえ。
 反対するの声。
 減反見直しの方針が国から出た(減反に国はお金を出さ
ないと変えた)。
 「今、組合は、努力を続けている、がしかし、これでは
行き詰ることになる」の声が。
 『努力している人を困らせる国策』の声が。
 米価を下げる競争と、その努力なのだが、国は、そのと
ころを明確に示していない・・と。
 息子の将来を案じる父と、最近、農業のあとを継いだ息
子・・、この様な父子を、国は見捨てるのか?
 『中国への輸出』も検討し始めた。
 国内は飽和なので、外国へ向かおうとの考えだ。
 40年前からの高畠の有機農法。
 農政が色々と変わって来たが、それらの荒波を何とか乗
り越えてきたが、今回のTPPは、完全に足を救われる様な
ものだの声。
 いままで、何とか乗り越えたが、今回は大き過ぎる・・
と。
 今まで、何とか、国の人たちの食糧を支え、供給して来
てくれた方々、そして、山形県高畠の人たちは、大きな壁・
TPPにぶつかっている。
 国は見放す形にしているが、これで良いのか? 
 国民の大切な、食の問題だ。
 アメリカは、農民に大きな補助金を与えて支えているの
に、日本は逆のことをしようとしている。(完)
.
 この記述は、NHKのEテレ『日本人は何を目指してき
たか?』の番組を参考にしています。
 放送を私なりにメモして書かせて戴いて居ります。
 尚、この番組は、2014・1・25、pm23:00~am0:30に
放送されました。
.
 (参考)しっ‐こく【桎梏】 《「桎」は足かせ、「梏」は
   手かせの意》人の行動を厳しく制限して自由を束縛
   するもの。
 (参考)唐鍬:鍬の一種。長方形の鉄板の一端に刃をつ
   け、他の端に木の柄をはめたもの。開墾や根切りに
   使う。
 (参考)まさかり:木を切ったり、削ったりするための
   刃幅の広い斧(おの) 。
 (参考)減反政策:戦後~1960年代について:戦後は農
   地改革により自作農が大量に発生し、食糧管理法(
   食管法)によって米は政府が全量固定価格で買い上
   げること(政府米)となっていたため、農家は生活
   の安定が保証されたことから、意欲的に生産に取り
   組むようになった。また、肥料の投入や農業機械の
   導入などによる生産技術の向上から生産量が飛躍的
   に増加した。一方で、日本国民の食事の欧風化など
   に伴って、米の消費量は漸減したため、政府が過剰
   な在庫を抱えることとなった。一方で、他の農作物
   が自給率が100%に達しない状況が続いた。元々、
   買取価格よりも売渡価格が安い逆ザヤ制度であった
   ことに加え、過剰となった在庫米を家畜の飼料など
   に処分した結果、歳入が不足し赤字が拡大した。
 (参考)オイルショック、オイル・ショック(和製英語:
   oil + shock)は、1973年と1979年に始まった(ピ
   ークは1980年)、原油の供給逼迫および価格高騰と、
   それによる世界の経済混乱である。石油危機(せき
   ゆきき、英語: oil crisis)または石油ショックとも称
   される。世界同時不況(せかいどうじふきょう)と
   も呼ばれた。
 (参考)地力(ちりょく):その土地が作物を生育させ
   ることのできる能力。土地の生産力。
 (参考)いもち病(稲熱病)とは、イネに発生する主要
   な病気の1つ。単に「いもち」と呼ばれることも多い。
   欧米では、「イネの爆発(Blast of rice)」、「イネ
   の疫病(Rice blight)」などと呼ばれる。
   そもそも、「いもち」という名前が付けられている
   ことから推察できるように、古来から稲に発生する
   定型的な病気であり、最も恐れられてきた。いもち
   が広範囲に発生した圃場では十分な登熟が期待出来
   なくなり、大幅な減収と共に食味の低下を招く。
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TPP、日本の農業は潰されるのか?(その3)

 題:TPP、日本の農業は潰されるのか?(その3)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 この様な方法による、大量の化学薬剤散布は、危険を感
じさせた。
 『散布されない田圃がない』というくらいに、実際は、
どの田にも薬剤がかかっているという状態だった。
 パイロットに難しい要求をしていることが分かった。
 この空中薬剤散布で、有機農法の米だと言えない状態が
現出した。
 消費者の気持ちは、『農薬がかかったコメでもいい』と
いう消費者はいないというのが実態だった。
 しかし、生産現場の田圃は、実際とは違う状態だった。
 折角、信頼関係が築かれて来た有機米に対する信頼が、
崩れていった。
 研究会が動き出した。
 そして、空中散布の停止の申し入れをした。
 その返事は、『経済的価値を持たせるには空中散布に頼
らざるを得ない』が返事だった。
 視点はまったく違っていた。
 空中散布賛成側は、「しょうがない、一番いいやり方な
のだから」と言った。
 それでなくても、散布するための重い農薬散布ホースを
抱えて散布作業をする状況だった。
 散布作業は重労働だった。
 また、老齢化が、その作業を困難にした。
 また、農作業者が娘さんなどの働き手の場合の問題が、
空中散布に頼らざるを得ないという事情にもあった。
 中には、理解度が低い人もいたけど・・。
 環境汚染は、空中散布だけの問題ではないとの発言もあ
ったり、
 河川の汚染は農薬だけではない、問題は色々あるとの声
もあり、除草剤も汚しているという声もあった。
 その様な河川の水を使ってと、問題をすり替える様な事
もあった。
 議論を続けた。
 有機農法の基本が問われているのだなと思える部分もあ
った。
 消費者が問いたいのもそれではないかという声もあった。
 どういう農法であればいいかを一生懸命、もがき、討論
した。
 消費者の理解を得たいというだけに偏っているのではな
いかの声もあった。
 対立を生む場面もあった。
 でも、空中散布だけは受け入れられなかった。
 空中散布がまだ行われていない地区があった。
 その場所で、除草剤散布を1回だけにするという『減農薬
の農法』を広げたいとした。
 なぜなら、有機農法の広がらない最大の理由が、除草作
業の大変さ、辛さ、重労働さであった。
 なので1回の除草剤散布で、ハードルを低くしたいとの
発想となった。
 空中散布の実施を回避することができた。
 有機農法組合を結成した。
 今までの農業のやり方が180°近く変わった「違う農法」
だった。
 農法の限界に突き当たっていた方々も、組合に参加した。
 地域の農業を守りたいという有志の方々が集まった。
 近隣の山からはミネラル豊富な水が流れ出て、おいしい
コメが育った。
 また、その様な状況になる様に目指した。
 有機肥料も新しいものを開発した。
 技術の改良・開発もした。
 そして、みんなでその益が享受できるようにした。
 組合内で、品質の差が出ないよう、差のないコメが産出
したかった。
 人の考えも確実に変えて行きたかった。
 飽くなき研究もし、研究を続けた。
 浸水も研究した。
 長くて、低温なほど丈夫な苗になるのことも突き止めた。
 雪解け水に20日間、浸した。
 60°Cにもなる堆肥、牛糞など独自の堆肥、それらの研究
した堆肥を、秋に撒いて、豊かな土壌にして行った。
 『全国、米の食味コンクール』で、米のソムリエが判定
する会で、組合員の米が4年連続で優勝した。
 米は、3倍の価格で売れるようになった。
 耕作放棄地が増えているが、実態調査をしてる。
 道路が無いので大型機械が入らない、引き受ける人もな
かなか現れない、それらは色々な課題を抱えていた。
 5%が、高畠地区の耕作放棄地となっていた。
 小曾野塚地区の話。
 ここには高齢化と、後継者が後を継がないという問題が
あった。
 やむを得ず、高齢者が、農業をやっているという現状。
 85%が、後継者が居ないところだった。
 親も継がせたいと言えなかった。
 土地に対する執着はあるが、農業に対する執着はない・
・が、息子の想いだった。
 農協は多額の金を貸していた。
 親が死ぬと多額の借金が残った。
 コメの価格が年々下がっていた。
 この米価低落が問題だった。
 この様な状況の中で、耕作依頼をする農家ばかりが出た。
 株式会社を立ち上げた。
 子供へ継がせるという形から、会社へお願いするという
形へ変わった。
 借金返済問題を解決するために・・。
 優秀な後継者がやれば、継いでいける・・が、この考え
のポイントだった。
 小さな田で、作業効率が悪いところを改善したいがポイ
ントだった。
 皆で話し合って改善していった。(その4へ つづく)
..
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TPP、日本の農業は潰されるのか?(その2)

 題:TPP、日本の農業は潰されるのか?(その2)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 最初の1年目は減反ができない、しない人も居た。
 しかし、既に、米は、消費者離れが起きていた。
 コメの消費量は、昭和28年(1953年)がピークだった。
 これにも、アメリカの思惑が働いていた。
 アメリカは余った小麦を日本に売りたかった。
 小麦を消費するよう、パン食を、日本人に慣れて貰おう
という思惑で種々の策が採られた。
 制度的には、日本政府のコメの全量買い取りであった。
 しかし、先に記したアメリカのパン食の事もあり、米の
消費が減り、日本政府が買い取ったコメの在庫は積み上が
った。
 粒状のコメは、粉状のパンより健康的との話もあるが、
 そこでの減反政策であった。
 農家の方々は、政府の農業政策に不信感を抱いた。
 畜産の方向へ向かう方々もいた。
 しかし、5年後(1973年)、オイルショックが襲う。
 大きな壁に当たる。家畜のえさが高騰した。
 輸入品のすべてが、そして、飼料が値上がった。
 牛を売る時は安く、買うものはすべて高かったと、ため
息をつく、当時を思い出しての農家の方だった。
 『牛に万円札を貼って売るような感じだった』と辛い当
時を語った。
 また、殺虫剤の有機銀が問題となった。
 農薬で体を壊す農家の方々が多発した。
 生産性は向上したが、農家の方々の体が壊れたと言われ
た。
 その様な時、「有機農業にするべきだ】との声をあげる
方が現われた。
 今の農業は、「健康を忘れた農業だ」、また「地力を忘
れた農業だ」と説く方だった。
 農家の方々の中にも、「今までは、国に振り回された形
であったが、自主的に、自分たちの考えで働こう」と言う
人たちが現われた。
 視点が変わり、消費者の方々の姿が見えてきた。
 化学肥料を使わず、除草剤も使わなかった。
 しかし、過酷な除草作業が必要となった。
 その行動を見た親たちには、『近代化を、息子たちは否
定している』・・と、映った。
 また、『頭が変になったと思った』と当時を振り返って
語る。
 有機農業を目指す方々に、圧力もかかった。
 村八分状態にもなった。
 有機農業に踏み出すと、雑草がびっくりするぐらい、た
くさん生えた。
 初めは、堆肥(たいひ)が入って無いので、雑草がいっ
ぱい生えるという状態になった。
 結果、その雑草に敗北した。
 雑草にやられた。
 収量は、半作(半分)の散々だった。
 出来るという自信が消失した。
 まず、農家の方は、実りが悪いと駄目となるのだった。
 1年目は、10倍の労力をかけたが、その努力も水泡に帰
した。
 収量は半分の収穫だった。
 2年目は堆肥を多くした。多く入れた。
 3年目にやっと、順調になった。
 しかし、梅雨明けに低温状態に襲われた。
 「やませ」に会った。大冷害だった。
 夏、気温が上がらず、稲の穂は出なかった。
 『いもち病』で田圃(たんぼ)の稲は茶褐色になった。
 しかし、その様な田圃の中に、ポツン・ポツンと緑で実
った田圃があった。
 それが有機の田圃だった。
 有機栽培は、冷害に強いと分かった。
 根が太く長く育っていた。
 また、堆肥が地温を上げ、丈夫に育った。
 複合汚染の取材で、有吉佐和子さんが来た。
 その取材の時に出た農家の方のふとした言葉が、「ミミ
ズの居ない田は、土がかたくなって駄目だ」だった。
 『化学肥料でミミズが死ぬんです』と、取材時に、声と
して聞こえた。
 有機農業の本は売れ、話題になった。
 消費者の方々が、有機米を買いたいと言い出した。
 また、農家の方々を応援しようと、「援農」しようとい
うボランティアの、消費者の方々も出だした。
 ある朝、ご飯のときに、消費者の方が、「朝採り野菜で、
炊きたてご飯、こんな贅沢はありません」と言われた。
 この様な生活は、都会ではできないとの話が出た。
 また、その経験が、かけがえのない体験となって消費者
の方々に印象的に残った。
 おいしい味が脳裏に残った。
 産直の話が広がった。
 自主流通米の話が始まった。
 価格は、消費者と農家とで決めた。
 この頃、農薬の空中散布が始まった。
 農薬の濃度は、『30倍』という高濃度だった。
 動・植物が大量に死んだり、枯れたりした。
 農薬は、住宅地にも飛んで行った。
 畑の作物も枯れるなどという被害が出た。
 田圃に白旗と赤旗を立てて、『散布する』か、『散布し
ない』かの『意思表示』をした。
 その様な形で『散布拒否』を、空中散布のパイロットに
知らせたが、その様な散布はできなかった。難しかった。
 消費者は、不安の声を上げた。
 この様な方法による、大量の化学薬剤散布は、危険を感
じさせた。(その3へ つづく)
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TPP、日本の農業は潰されるのか?(その1)

 題:TPP、日本の農業は潰されるのか?(その1)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 生き延びるために重要な食糧。
 国民の重要な・第一の安全保障項目。
 その為に必須の『日本の大切な農業』。
 国民の安全保障の要(かなめ)である。
 今、TPPで、かつてない大きな壁にぶつかっている日本
の『農業』。
 日本の有能な農家の方々が口にもする『大きな壁だ』
という指摘。
 日本の『食の安全保障』が大変な危機に直面している。
 TPPは、日本が望んで参加したわけではない。
 ある小さな国が始めたものに、アメリカが目を付け、参
加し、イニシアチブは何時しかアメリカのものとなり、
 日本は、そのいきさつから参加せざるを得ない『いきさ
つの中』に居る。
 今、秘密会議で進んでいるが、この様な中、NHKは、
第二次世界大戦後の日本の占領政策を行ったGHQの『農
地解放』から農業を考える番組を始めた。
 以下はそれをメモして、小生なりの記述。
 昭和20年、GHQの最高司令官・マッカーサーは、日本
政府にSCAPINー411「農地改革に関する覚書」を送った。
 それには、
 「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化し
てきた経済的桎梏(しっこく・足かせの事)を打破する」
と言って、指示した。
 まったく、日本人を上から目線で蛮民的に断定している。
 また、奴隷観念を聖書に記して、長い歴史の中、連綿と
伝えてきたキリスト教の教義の見方・有色人種蔑視に感化
され、洗脳されている如くの言い方だ。
 これ以前に、日本政府により国会に提案されていた第一
次農地改革法は、GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示
により、より徹底的な第二次農地改革法を作成した。
 そして、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。
 この法律の下に、農地が、政府によって強制的に安値で
買い上げられ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。
 そして、その農地に、開田政策がとられ、唐鍬(とうく
わ)やまさかりで、開墾が行われた。 
 まったく、人力に頼る農業だった。
 地域の結びつきの力で田畑が作られていった。
 過酷な重労働だった。
 田に這う作業が人々を苦しめた。
 特に、草取りの四つん這いの作業は過酷だった。
 その労働を支える為の食事・飯は、『いっぱい喰わない
と持たなかった』と農家の方々は言う。
 その体力勝負が、その辛さを表していた。
 子供たちも皆、手伝い、家族総出の農作業の風景だった。
 昭和30年代から、日本は工業化していった。
 年率10%で、国民総生産(GDP)は伸びた。
 その伸びが、労働力を欲した。
 農村の労働力が食われた。
 そして、今も、TPPで農業が餌にされそうになっている。
 しかし、工業の伸びに比して、農業の伸びは少なく問題
となった。
 昭和36年(1961年)、「農業基本法」が制定された。
 農業に関する政策の目標を示す目的があった。
 別名「農業界の憲法」と言われた。
 基本的なものだった。
 補助金が投入された。
 農地は、曲がりくねった小さな田だったが、整然とした
広い田となって行った。
 農機具メーカーは、次々と新しい農機具を作り出した。
 かつて、農家の方々を苦しめた「手作業の労働」は無く
なっていった。
 農家の方々は重労働から解放されていった。
 『化学肥料』や『農薬』も導入された。
 収量も増えていった。
 農家も豊かになって行き、農業機器や化学肥料や農薬を、
農家の方たちは喜んで買い、使った。
 一方、若者達は都市へ向かった。村を離れて行った。
 農業地帯は労働力の供給地であった。
 村に残った人たちも、農機具を買うために、農閑期には
都市へ向かう様になった。
 米どころ山形県高畠町からも900人もの人たちが、都市
へ出稼ぎとして出た。
 工事現場の飯場の寝泊まりとなった。
 寒い風の入る環境だった。
 『人間というより道具のように扱われた』とそのころを
思い出して語る。
 この頃、「村の女は眠れない」という詩集が出た。
 残された女は心で泣いていると詠った。
 若者たちは、嫁がもらえるのか?・・と、その状況を見
ていた。
 青年団活動で生き方の模索もなされた。
 出稼ぎを止めるか?・・と。
 地元で冬場でも働こうと、切り替える人も出始めた。
 出稼ぎを止めた人は、米作りに励んだ。
 収量の多い品種を選んだ。
 しかし、国は、農家の方々の思いと全く逆の方向へ動い
た。
 国はコメの増産から逆転した策を示した。
 昭和45年(1970年)から減反政策が始まった(下記の
参考を参照下さい)。
 農家の方々は「青田刈り」をした。
 せっかく育てた稲を、草を刈る様に、まだ、穂の出ない、
田の稲を草刈り機で刈った。
 『大変なショックを心に受けました』と、農家の方は、
当時を語る。
 そしてまた、『怒り心頭だった』とも言う。
 最初の1年目は減反ができない、しない人も居た。
        (その2へ つづく)
..
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