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2017年2月4日土曜日

(増補版)489E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年6月~1889年6月)

題:(増補版)489E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年6月~1889年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年6月8日、市制実施後、最初の東京市会を開いた。
  市には市会を置き、土地所有と納税額による選挙権制
 限と高額納税者の重みを大きくした三等級選挙制によっ
 て市会議員を選出した。
  市は、条例制定などの権限を持つ。
  市長は、市会が候補者3名を推薦し、内務大臣が天皇陛
 下に上奏裁可を求めて決めた。
  市会は、別に助役と名誉職参事会員を選出した。
  市長、助役、名誉職参事会員で構成される市参事会が
 市の行政を統括した。
  東京市会は、1889年(明治22年)5月1日に、市制・町
 村制の施行に基づいて東京15区を市域とする東京市が設
 置された。
  東京市は、市制特例によって京都市・大阪市と共にい
 わゆる「三都」として一般の市よりも上位に位置付けら
 れ、
  東京府知事が、東京市長を兼務すると共に、従来の区
 も東京市長の指揮下でそれぞれ単独の区長(官選制)・
 区会を持つ変則的な自治体制が敷かれた。・・が、
  東京・大阪両市有志同盟が、特例撤廃を働き掛けた結
 果、1898年(明治31年)10月1日に、東京市は、一般市と
 なり、東京市長(官選制)と府知事の役職分離・東京市
 役所(庁舎は麹町区有楽町の東京府庁と共用)の設置が
 実現した。
1889年6月10日、第1回貴族院多額納税議員選挙
  議院や議員の権限などについては、議院法、貴族院令
 (明治22年勅令第11号)、その他の法令に定められた。
  議員の任期は原則として7年で、皇族議員、華族議員の
 うち公爵・侯爵議員、勅任議員のうち、勅選議員につい
 ては終身議員とされた。
  華族議員のうち、伯爵・子爵・男爵議員は、それぞれ
 同爵の者による互選により選出された。
  (参考)勅任議員:ちょくにんぎいん、勅任されて議
    員となった者、すなわち勅選議員・帝国学士院会
    員議員・多額納税者議員の総称。
1889年6月11日、ドイツと新通商航海条約に調印した。
  しかし、発効せず。
  グートシュミット独公使は、この条約が失敗した理由
 について・・、
  関税問題を除いて、ドイツとしては段階的に日本を解
 放する事を意図していたと後になって発言した。
1889年6月16日、横須賀線鉄道が開通した。
  横須賀線の大船駅~横須賀駅間が開通した。
  横須賀は、海軍の軍港を抱える軍港都市で、
  横須賀線は、軍事上、重要な路線だった。
  また、横須賀は、歴史のあるところで、幕府の俊英・
 小栗上野介(おぐりこうづけのすけ)とフランス人技師
 ウェルニーの胸像が立っているが、江戸幕府の造船所が
 あった。
  そして、横須賀鎮守府(ちんじゅふ:海軍の首都防衛
 拠点)と海軍工廠(こうしょう:軍用艦船の造船・修理
 所)・・、
  それまでの人員や物資の輸送は、横浜からの船便だっ
 た。
  軍は、鉄道が結ばれる事を要求し、1886年(明治19年)
 軍は請議書を提出した。
  そこで、1887年、測量が開始され、
  1888年初頭に起工し、そして、
  1889年6月、大船から鎌倉、逗子を経て、横須賀へ開通
 させた。
  横須賀線という名が決定したのは、1909年(明治42年)
  軍は、観音崎までを計画していたが、費用と用地確保
 で実現しなかった。
  一時は、貨物取扱量も増え、また、造船所もあり、ド
 ックもあり・・で、広大な操車場もあったが、今は、公
 共施設や高層住宅となっている。
  また、米軍と自衛隊の基地で、原子力潜水艦などの基
 地にもなっている。
  (因みに、アメリカ軍は、終戦後、この地を基地とす
 るため、ほとんど空襲を行なわずに温存した・・その様
 な軍港としての最適地)
1889年6月20日、富山県伏木に米騒動が起きる。
  1889年は凶作で、
  1890年に入ると、米価が暴騰し、
  1890年1月18日、富山市で、貧民が救助を要求して騒動
 を起こしたのを最初として、
  1890年4月~8月にかけて、鳥取市、新潟県下、下関市、
 高岡市などで貧民の暴動が相次いだ。
  また、この1889年の日本国内の凶作のため、翌年の1890
 年に、米の輸出量が激減した。
  そして、米騒動の最終目的は、小売米価の値下げの他
 に、救助基金の支出獲得にあった。
  そもそも、町当局があずかる救助基金(そのものの創
 設は1889年の米騒動(翌・1890年の全国的米騒動の引金
 となった)に由来し、
  ふたたび、2000人余もの大集団が参加するような大騒
 動をなからしめんがために、
  あるいは、また、騒動が起きたときの備えのために、
 町の有志たちが仲仕の労銀の中から輸出米一石につき、
 2銭~3銭の金を取り立て、
  それを積み、救助基金として管理したことからはじま
 り、それが後に町に移管された。
1889年6月、陸海軍造兵廠や石川島造船所の機関部職工ら、
 同盟進工組を結成した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ大統領になった・・ルーズベルトという男は・・??
.
  第二次世界大戦の日本との戦いが開始されると・・
  『戦争を作った』・・と、この男(フラクリン・ルー
 ズベルト)は言った。
  この男・ルーズベルトの思惑通りに事が進んだ・・
  そこで・・この様な言葉が飛び出したのだろう。
  (読売新聞、2017・1・30)に・・、
  本:『アメリカが隠しておきたい日本の歴史』の広告
 があった。
  その広告には・・以下の記述があった。
  著者は、マックス・フォン・シュラー氏で・・
 アメリカの精鋭部隊である海兵隊に所属した人だった。
  著者は言った、「本当のことを知らせることは・・、
  これから生きていく方々の為にもなる」・・と、
  また、広告の文には・・、
  「アメリカ人は、プロパガンダ(嘘宣伝)が巧みだ」
 ・・と、
  「アメリカ人は、大東亜戦争(第二次世界大戦)につ
 いて・・『日本人は腐敗した指導者たちに騙されていた』
 と言うが・・、
  アメリカが、日本を戦争に追い込んだという『事実』
 については絶対に認めません」・・と、
  (アイデンティティーが一気に崩れ去るので依怙地
 を張っている)
.
.
  この様な状況の中の要(かなめ)に居た・・戦争を始
 めたアメリカ大統領のルーズベルト・・は・・??
.
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1905年3月17日、フランクリン・ルーズベルト(第32代アメ
 リカ大統領、そして、第二次世界大戦を作った男)は結
 婚した。
  セオドア・ルーズベルト(第26代アメリカ大統領)の
 姪(弟の子)のアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚し
 た。
  フランクリン・ルーズベルト23歳、エレノア19歳だっ
 た。
  しかし、悲しいかな・・この夫婦はうまく行かなかっ
 た。
  ルーズベルトに責任があった。
  ルーズベルトが裏切ったのだった・・不誠実な男・夫
 ・・だった。
  「私はジャグラー(曲芸師、ペテン師)だ」と自ら言
 っていたルーズベルト。
  また、嘘をついても良いという自分勝手なルールを持
 っていたルーズベルトは、妻・エレノアまでも裏切った。
  夫・ルーズベルトに、愛人のルーシーが居るという事
 を知った妻・エレノアは、「世界が崩れ去ったようだっ
 た」と語った。
  「誠実」とか「信頼」とかの言葉から「遠かった男」
 だった。
.
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1913年、フランクリン・ルーズベルトは、海軍省海軍次官
 補の要職に就いた。
  この時、アメリカ海軍内に伝統的に強かった太平洋で
 の日本脅威論を身をもって体験した。
.
.
1913年、ラザフォード・ルーシーが、この年、フランクリ
 ン・ルーズベルトの妻・エレノアの秘書となった。
  そして、フランクリン・ルーズベルトとも知り合いと
 なり、
  そして、愛人関係と・・なった・・
  その事を、1918年に、妻エレノアは、ルーシーの恋文
 を発見して知った・・、
  エレノアは、ルーズベルトに「愛人と別れるか、離婚
 するか」を・・ルーズベルトへ迫った。
  ルーズベルトは、「二度とルーシーには会わない」と
 誓った。
  そして、ルーシーも、かなり年の差があるラザフォー
 ドという人と結婚した・・、が・・1941年に死別。
  そして、よりが戻る・・ルーズベルトとの間が元に戻
 った。
  1944年以降は、堂々とホワイトハウスでも密会する様
 になった。
  密会も多くなった・・、
  ルーズベルトが死ぬとき、傍にいたのは・・ルーシー
 だった。
.
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1915年、アメリカの連邦最高裁判所が、日系移民には市民
 権の資格がない・・とした。
  また、帰化申請も認めない・・とした。
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1917年、アメリカは、アジア地域の移民禁止地域を設けて、
 アジアからの移民を制限した・・さらに、有色人種蔑視
 へと向かった。
 (全てのアジア系移民は・・アメリカ入国禁止となった)
.
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1918年、アメリカの大統領となるフランクリン・ルーズベ
 ルトの妻・エレノアは、この年に、夫ルーズベルトの不
 倫を知った。
  そして、家庭の妻という立場を棄てる決意をした。
  社会奉仕や公民権運動に貢献するが・・、
  その間、元アメリカ共産党員だったジョセフ・ラッシ
 ュとの深い関係が暴露された。
  FBIの卑劣な監視を受けるなどのスキャンダルに見
 舞われた。
  エレノアは、裕福な家庭に生まれたが・・、
  父(セオドア・ルーズベルト大統領の実弟)は、勝手
 気ままな性格で、また、アルコール依存症であり、
  エレノアは祖母に預けられ、ここで育った。
.
.
1922年、アメリカは、ケーブル法で・・、
  日本を含むアジア系移民と結婚したアメリカ女性の市
 民権を剥奪した。
  (因みに、キリスト教聖書には、「異教徒に嫁に行か
 せるな」の遅れた教義がある・・隠されて、知らされて
 いないが・・)
.
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1923年、アメリカは、インド人もターゲットにして、排斥
 した。
  キリスト教の有色人種蔑視教義による『虐げ社会が吹
 き荒れた』。
  (今・現代でも、黒人の方々やマイノリティーの方々
 は虐げられている)
.
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1925年10月、「主権国家」・・ロカルノ条約
  この時、スイスのロカルノで協議が行われ、
  1925年12月1日に、ロンドンで正式に調印され・・、
  この条約締結によって、ドイツは、ベルサイユ講和会
 議で制限された国防に関する条項が再確認された。
  ドイツは・・、
  「一人前の安全保障能力を持つ主権国家とされない」
 という地位に置かれた。
  自らが、主権国家として、自らを守ることが出来ない、
  『そうすることをを・・阻止される国家』だと・・、
  ドイツは、1919年のベルサイユ講和会議で、
  ドイツは、徴兵制や飛行機・戦車の保有を禁じられ、
 軍人の数も十万人以下と制限された。
  このベルサイユ条約の159条から213条は、軍備条項と
 されていて、ドイツの軍備に対し厳しい制限が加えられ
 た。
  さらに、武装解除についても規定された。
  その条項の1例は・・、
  ☆ドイツの陸軍兵力は、1920年3月31日までに歩兵・騎
   兵・将校を含めて10万人以下とする。
  ☆ドイツの海軍兵力は、本条約締結から2か月以内に1
   万5000人に縮小する。
  ☆参謀本部は持ってはならない。
  ・・等が決められ、
  ドイツ国民の方々は、大砲などを破壊した。
  また・・、
  「兵器などについても色々と制限された」
  「兵器、航空機を含む製造は連合国の許可を受けるこ
 と」
  「潜水艦・戦車・装甲車などの輸入・製造禁止」
  「海軍は、戦艦6隻、軽巡洋艦6隻・・で、潜水艦はだ
 め」
  「今、ドイツの港湾にある艦艇の所有権を放棄せよ」
  「航空機とその部品の製造・輸入禁止」・・など、
  日本も、日本の国防に関して『自由度を失っている』。
  自分の国を自由に守ることについて考えることが出来
 なくされている。
  『憲法があるからではない』。
  「主権国家」として、自国を守る自由が拘束されてい
 る。
  特に、キッシンジャーは、親中(反日)派で、
  中国寄りの考え方から、日本の国防についての軍備に
 ついて、厳しい考え方を持っていた。
  日本は、『国際的不正義のもとに置かれている』。
  国家の防衛主権というものがあるのだ。
  長期的観点で、アメリカの退潮を考えるとき、
  中国が、今度、内政干渉して来るだろう。
  1922年に、ワシントン会議で、日英同盟が廃棄された
 が、
  これは、今まで言われていた「アメリカの策略」では
 なく、中国の孫文などが先頭に立って計画し仕掛けた工
 作によっての結果だった。
  中国の歴史が、総べて、この「同盟関係を潰す戦略」
 の中で展開したが・・その姿であった。
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1926年、イタリアのムッソリーニが、独裁的な権力を握る。
  以後、ドゥーチェ(指導者)の地位を維持した。
  イタリアは、このムッソリーニの、国家の主動の下に、
 産業を再編し、
  公共事業や軍需生産の拡大で「景気の浮揚」を図った。
  このイタリアの国家管理経済に、アメリカのルーズベ
 ルトも『理解を示した』。
.
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1927年、リンドバーグが、「スピリッド・オブ・セントル
 イス号」で世界初の単独大西洋横断に成功し、アメリカ
 国民の英雄となった。
  因みに、リンドバーグは、1932年3月、長男が誘拐され、
 殺害されたのを機に・・欧州在住となった。
  『ルーズベルトの好戦的な所』を批判した。
  ルーズベルトからは、「親ドイツ派」と誤解を招く、
 プロパガンダの非難がされた。
.
.
1928年、この頃から深刻になりつつあった大恐慌で・・
  アメリカは、さらに、社会不安が社会に深まって行っ
 た。
  ルーズベルトは、この様な状況の中、大統領選に出馬
 した。
  そして、結果的に、ルーズベルトは、アメリカ史上最
 長の在任期間を誇る大統領となった。
  在任中に、戦争に突入する事により、アメリカは大恐
 慌の危機から脱した。
  ニューディール政策だからではない・・、
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1929年、アメリカの ホワイトハウスが火災となった。
.
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1929年10月24日、ウォール街の株価が大暴落に至った(世
 界大恐慌勃発)
.
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1930年代初頭、粛正(しゅくせい)のソ連
  この頃、独裁権を確立し、独裁者となったスターリン
 (レーニンの後継者)は・・、
  数百万人におよぶ人々を殺戮(数千万人の説もある)
 するという徹底した粛正を行なった。
  この様な暴力によって、独裁国家を確立し、権力を掌
 握して確立し、5ヵ年計画によって、「一国社会主義建設
 路線」を進めた。
  1930年代後半に、国際情勢が緊迫の度を加えると・・、
  スターリンは、ドイツの攻撃を恐れて、また、同時に
 第一次世界大戦で失った「旧ロシア帝国領土」を回復し
 たいという目的で、
  1939年8月に、「独ソ不可侵条約」を締結した。
  条約の秘密議定書には、ポーランドの分割、東ヨーロ
 ッパにおける独ソ両国の勢力範囲が記されていた。
.
.
1931年9月24日、上海の英語誌が「田中メモリアル」を掲載
 した。
  これが、陰謀の日本を貶(おとし)める策略だった・・、
  これが、日本にとって痛かった。
  日本にとって・・「根も葉もないこと」を言われた。
  日本が、「侵略国家体質だ」と言われた。
  世界を手中に収めたいという『大それた陰謀を持った
 国だ』と言われた・・、
  その流言飛語が・・世界中に・・根も葉もない印象を
 付けられてしまう日本だった・・、
  今・現代においても、節操なく・・「慰安婦とか」「
 南京事件とか」・・作り話が、日本をターゲットにして
 行われているが・・放っておいてはいけないのである。
  この様な行為を・・『軽く見ないこと』。
  この様な根拠のない流言を放っておかないで、「しっ
 かりした根拠を持って反論を行なえ」
  必ず・・反論をせよ・・、
.
.
1932年1月7日、スティムソン・ドクトリン
  アメリカの国務長官のスティムソンが、日本を『九カ国
 条約違反』というドクトリン(原則)を発表した。
  この男が・・曲者(くせもの)だった。
  この時点から、日本に対するアメリカの態度が、さら
 に、硬化して行った。
  また、世界の態度も・・アメリカに引きずられて行っ
 た。
  スティムソンは、何故か? 日本に対して批判的に見
 る、また、日本を貶める政治家だった。
  日本は、日露戦争までは、アメリカと良い関係にあっ
 た・・うまく言っていた。
  しかし、日露戦争の日本の勝利によって、ロシアから
 満州を移譲され、
  そして、日本は、満州へ、日本から資本を持って行っ
 て、また、人材を投入して「満州づくり」を始めた。
  「満蒙開拓団」という言葉もあり、自らも汗を流した。
  日本人が、額に汗して、誠実に満州を豊かな地にしよ
 うと立ち上がっていた。
  満州鉄道の敷設も始めた。
  この時点が、そして、この満州鉄道が、アメリカと火
 花を散らす一点でもあった。
  アメリカも、満州での利権が欲しかった。
  アメリカは、すでに、植民地としているフィリピンを
 拠点として、盛んに中国大陸へ進出していた。
  そして、満州においても、日本の満州鉄道敷設と同じ
 行為をし始めた。
  日本の鉄道敷設と並行して鉄道敷設を始めるという、
 日本の行動を邪魔する行為を始めた。
  日本は、中国政府との交渉の上で、満州鉄道敷設をし
 ており、
  また、この話し合いにおいて、並行する路線は敷設し
 ないと決めていた。
  これによって、当然に、アメリカの満州鉄道敷設は、
 実施できないことになった。
  この様にして、アメリカと日本は、満州で火花を散ら
 した。
  この様な経過の中で、日本は、南満州鉄道を敷設して
 行った。
  しかし、アメリカは、世界のどの国も理解していた日
 本の満州鉄道沿線の開拓行動を、「侵略だ」と、言い掛
 かりをつけた。
  この論理のポイントになったのが、このスティムソン
 の「九ヵ国条約の違反のドクトリン」だった。
  言い掛かりのドクトリン発表だった。
  この接点から「日本は、侵略国のレッテル」が張られ
 た。
  日本は、日露戦争の戦勝によってロシアから満州を移
 譲され、中国政府も認めていた。
  侵略行為ではない。
  中国政府との話し合いの上での行動という筋が通った
 行動だった。
  逆に、アメリカなどが、筋の通った話ではなかった。
  また、アメリカは、自分の都合の悪い本は、『焚書』
 として日本国民が読めなくした。
  卑劣な事である。
  (参考)九ヵ国条約(きゅうかこくじょうやく)は、
 1922年(大正11年)のワシントン会議に出席した9か国、
 すなわち、アメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタ
 リア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民
 国間で締結された条約。
  中国の関税自主権を拡大した。
  しかし、中国の領土や主権の尊重は、アメリカをはじ
 め、イギリスなど尊重する気配などはまったく無かった。
  大混乱の中国のおいしい権益を得ようと、うまく、立
 ちまわっているだけだった。
  (参考)焚書:(ふんしょ)学問・思想を権力によっ
 て弾圧するための手段として、書物を焼き捨てる事。
  第二次世界大戦後においても、GHQ(連合国軍総司
 令部)によって、7000冊以上の書物が焚書とされ、世の
 中から消された。
  正しい言論の道が閉ざされ、日本は自虐史観にプロパ
 ガンダ(嘘宣伝)されて行く。
  この焚書のすべてではないが、戦後70年を経て、少し
 ずつ世に出て来ている。
  真実の歴史に書き改められて来ている。
.
.
1934年3月、「日本、陰謀論」、日本の黒い噂を世界に流す、
 日本追い落としの論。
  この月の「アジア」というアメリカの雑誌に、この論
 が掲載された。
  この論文は、10年前に掲載されていて、今回は再掲載
 だった。
  その再掲載の狙いは、ルーズベルト政権の10年前の状
 況と大きく違って、
  ルーズベルト政権の厳しい対日姿勢を伝える狙いがあ
 った。
  10年前は、日本が、ワシントン会議で、日本は不利な
 状況を課せられたが受け入れて、
  海軍軍縮を誠実に実施していると、
  また、中国市場は、日本にとって重要であることに理
 解を示さなければならないという・・日本を少し思いや
 る様な記述もあった。
  そして、「旧思考を捨て去るべきだ」という事まで書
 かれていた。
  そして、編集長のコメントとして、「(ルーズベルト)
 海軍次官補として日本との戦争を常に念頭に置いてきた
 ルーズベルト氏の見解を今、紹介するのは非常に有益」
 と書いていた。
  「日米共存だ」という記述であった。
  この様なアメリカの状況から、何が変えさせたのか?
  また、何が変わったのか?
  ルーズベルトは、1913年から1920年まで、海軍次官補
 として勤めていた時は、この様な考え方だった。
  しかし、この時・1934年、日本についての黒い噂が世
 界に流された。
.
.
1934年6月、アメリカ、この頃から、ニューディールの批判
 が高まって行く。
  アメリカ国民の方々の不満の中で、ニューディール政
 策は行われた。
.
.
1937年8月13日、第二次上海事変が起きた。
  この事変も、新史料が公開されて、史実が明らかにな
 る・・曲者(くせもの)が横行する事変だった。
  この事変の新事実が明らかになった。
  この日、中国国民党軍が、上海の日本海軍陸戦隊に
 大攻撃をした。
  和平への可能性が、最終的に・・「完全に吹き飛んだ」。
  そして、中国国民党軍との全面戦争へと突入した。
  新たに明らかになった事は、中国国民党のトップの蒋
 介石は、『日本と和平をしようとの方針』だった。
  日本と合った和平への方向性だった。
  これが、ルーズベルトには都合が悪かった・・、
  また、この蒋介石の命令を無視して、当時、国民党の
 上海方面の総司令官の張治中(将軍)は・・、
  実は、中国共産党の秘密党員で、スパイ工作員であっ
 た。
  蒋介石の和平方針命令を無視して、日本軍に対しての
 攻撃を指揮し、戦いが起こした。
  中国共産党とコミンテルンの指令を受けて始まった攻
 撃だった。
  ソ連コミンテルンも大きく関(かか)わっていた。
  中国共産党とソ連のスターリンは、中国国民党軍と日
 本の戦いによって、その両者の消耗を尽くさせようと仕
 組んでいた。
  そして、自国軍の温存を計っていた。
  スパイの根は深かった。
  かつて、孫文の妻・宋慶齢は、中国共産党のスパイだ
 った、それで、ソ連のスターリンの命令を忠実に果たし
 ていた。
  背後には、「国際共産主義としての結束と目標」があ
 った。
.
.
1937年、盧溝橋事件、(スターリンの工作だと分かった)
  日本は、事件を収めたい、収束したいと努力していた。
  この事件の後、不拡大方針をとって、現地解決を進め
 る日本を・・その様にさせまいと・・、
  何としても日本を引きずり込んで・・日中全面戦争へ
 引きずり込みたいと・・、スターリンと中国共産党によ
 る工作が行われていた・・
  そして、上海で・・日本軍に対しての総攻撃が行われ
 た。
  これが・・全面戦争の始まるきっかけだった。
  この様なことが、戦後60年を経て、明らかになり・・
 証明されるようになった。
  (ユン・チアン他著「マオ≪上≫」第19章、2005年刊)
  また、アメリカも・・酷いことをしていた・・
  中華民国の蒋介石政権に対して行われていたアメリカ
 や、イギリスなどによる軍事援助は・・、
  いわゆる『援蒋ルート』を通じて行われていた。
  アメリカは、火に油を注ぐように・・武器を供給した。
  戦いが収まるわけはなかった。
  特に、フランス領インドシナを経由するルート(仏印
 ルート)は4つの『援蒋ルート』の中で最大のものであっ
 た。
  このアメリカの『援蒋ルート』が・・問題の根本原因
 だった。
  そして、この中国への武器・弾薬の支援が、第二次世
 界大戦が開始される・・『根本的な原因』だった。
.
.
1940年12月29日、ルーズベルトが、兵器庫になると発言。
  アメリカは、世界に武器をばらまくと宣言した。
.
.
1940年、アメリカに『正論』が現れた・・アメリカのリチ
 ャードソン海軍大将が、
  「日本との戦争なんか利益が無い」と、ルーズベルト
 大統領へ言った。
  ルーズベルト大統領は、リチャードソン海軍大将を、
 即解任し、そして、降格した。
.
.
1940年、フランクリン・ルーズベルト大統領は、断固とし
 て日本と戦争をしたかった。
  この年に、リチャードソン海軍大将は、日本との戦争
 はするべきではないという考えから・・、
  『日本との戦争の検討計画は止めるべきだ』との意見
 を、さらに、主張した。
  ルーズヘルトは、直ちに、アメリカ海軍艦隊司令長官
 で、且つ、太平洋艦隊司令長官であったこのリチャード
 ソン海軍大将を解任した。
  また、卑劣にも、少将に降格した。
  この様な人事は、異例中の異例だった。
  しかも、リチャードソン海軍大将は、超エリートだっ
 た。
.
.
1940年~1942年、ルーズベルト大統領は、CIAの前身の
 OSSに、「対日占領プランを作るように」にと命令し
 た。
  また、ルーズベルトは、「人種差別主義者」だった。
  さらに、ルーズベルトは、スミソニアン研究所の文化
 人類学者アールス・ヒルデリカを、ホワイトハウスに招
 き・・、
  「日本人全員を、温和な南太平洋の原住民と強制的に
 交配させて、やる気がない、無害な民族につくり替える
 計画をたてたい」と・・研究する事を命令した。
.
.
1945年8月6日、この日に、広島に原爆が投下されたが・・、
  フーバー第31代アメリカ大統領は・・、
  「原爆を投下する理由はなかった」と言った。
  また・・、
  「原爆を投下しないでも、日本は降伏させることは
   出来た」・・と言った。
  さらに・・また・・、
  「原爆投下の罪は、アメリカ国民の上に重くのしかか
 っている」
   ・・と言った。
.
.
1946年5月3日、東京裁判(極東国際再軍事裁判)が始まった。
  しかし、フーバー・第31代アメリカ大統領は、
  「東京裁判史観は、全面的に否定する」・・と、言っ
 た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年2月2日木曜日

(増補版)488E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年6月)

題:(増補版)488E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年5月31日、華族女学校が完成した。
  沿革・・、
  1885年(明治18年)四谷区尾張町に華族女学校を創設
   した。
    この年、皇族・華族子女のための官立の教育機関
   として華族女学校の名で四谷に創立された。
  1889年(明治22年)麹町区永田町に移転。
    永田町に移転し、平民子女の入学も許可された。
  1906年(明治39年)華族女学校と学習院を併合し、華
   族女学校を学習院女学部と改称した。
  1918年(大正7年)女学部は青山に移転し、女子学習院
   となった。
  アリス・ベーコンは、日本の家族の令嬢たちがおとな
 しくて、アメリカとは全然違うことに驚いている。
  確かに、彼女たちは、まだ小さいころから、歩き方や
 座り方、襖の開け方や箸の使い方まで、細かく注意され
 て育っていた。
  とくに、かつて大名だった華族の令嬢たちは、姫君に
 ふさわしい気品を身につけるために、「小笠原流」の礼
 式を厳しく教えこまれていた。
  たとえば、食事の時に箸の先が「一寸や一寸五分」も
 汚れる食べ方は行儀が悪いとされ、
  ご飯やおかずに触れていいのはわずか「六分」だった。
  一寸は、約3.03センチメートルで、
  一分は、その十分の一である。
  つまり、六分は約1.8センチにすぎないわけで、箸
 をそれしか汚さずに食事するのは至難の業だ。
  さらに、華族の令嬢たちは、歩き方から寝ているとき
 の姿まで、すべて品良く、美しく見えなければならない、
 とうるさく教えこまれた。
  そうしたしつけの成果が見事に発揮されて、アメリカ
 人のアリスには、十代の彼女たちが「完璧な淑女」に見
 えたのだろう。
  因みに:アリス・ベーコンは、アメリカの女性教育者
 で、
  育った家庭は貧しかったようだ。
  大学進学は、経済的理由であきらめた。
  しかし、1881年、ハーバード大学の学士検定試験に合
 格し、学士号を取得した。
  1883年、ハンプトン師範学校正教師となる。
  1884年、大山捨松や津田梅子の招聘により華族女学校
 (後の学習院女学校)英語教師として来日した。
  来日中の1年間の手紙をまとめたものを、1894年『日本
 の内側』(日本語訳題『華族女学校教師が見た明治日本
 の内側』)として出版し反響を呼んだ。
  帰国後は、ハンプトン師範学校校長となっていたが、
  1900年4月、大山捨松と津田梅子の再度の招聘により、
 東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)と、津田梅
 子が建てた女子英学塾(現:津田塾大学)の英語教師と
 して赴任して来た。
  1902年4月に、任期満了で帰国するまで貢献した。
  特に、女子英学塾ではボランティアで教師を務め、梅
 子にかわって塾の家賃を代わりに支払うなど貢献は大で
 あった。
1889年5月、北海道で鶴猟が禁止された。
  明治維新をきっかけとして、江戸時代の禁鳥制度が廃
 止され、野生鳥獣の乱獲が進んだ。
  1872年、そこで、明治政府は、この年に『鉄砲取締規
 則』を、
  1873年、『鳥獣猟規則』を、
  1892年、『狩猟規則』を公布し、
  捕獲を禁止する鳥類として12種を保護鳥として指定し
 た。
  また、保護鳥は、別に捕獲禁止期間指定種を設け、
 保護鳥、および、期間指定鳥に対しての売買も禁じた。
  1895年、『狩猟規則』が『狩猟法』へ改正され、
  小雀(こがら、シジュウカラ科の鳥)や郭公(かっこ
 う、カッコウ目カッコウ科の鳥)など4種が保護鳥に追加
 された。
  1910年、再び改正が行われ、60種を超える鳥類が保護
 対象となった。
  1918年、本法律に関する抜本的な見直しが図られた。
1889年5月、法学士会が、法典編纂に関する意見書を提出し、
 民法施行延期を主張し、民法典論争が起こった。
  民法典論争(みんぽうてんろんそう)は、民法典を、
 「このまま施行して良いのか」の是非をめぐって行われ
 た論争で、
  条約改正促進のために、近代的法典の整備を迫られて
 いた明治政府は、
  1890年、フランス人 のG.ボアソナードを中心に完成し
 た民法典 (旧民法 ) を、1890年に公布して、そして・・、
  1893年から施行することを定めていた、しかし・・、
  この年・1889年、東京大学法学士会の、「民法は天賦
 人権論に基づき社会の人倫を破壊するもの」との反対意
 見発表から実施延期・断行の論争が起こった。
  国論は、「延期派と断行派に二分され」、はげしい論
 争が起こった。
  この法典論争は、「商法典論争」、あるいは、「民法
 典論争」とも呼ばれた。
  この基本には、「日本の民俗慣習に合わない」、それ
 故、施行を延期すべきだ・・という議論が出て来たのだ
 った。
  明治政府は「施行を断行しようとした」、
  これに対し、穂積八束などが「国情にそぐわない」な
 どとして、施行の延期を主張した。
  1892年になって、旧民法の施行延期を求める法案が議
 会で可決された。
  旧民法は流産し、結局、施行はされなかった。
1889年6月1日、青年絵画共進会が、上野公園で展覧会を開
 催した。
  小堀鞆音は、この時・1889年、東京美術協会・青年絵
 画共進会に出品し、一等褒状を受け、この頃から雅号を
 「鞆音」と改めた。
  因みに、日本絵画協会は・・日本の美術家の団体でま
 ぎらわしいが・・、、
  1891年(明治24年)9月に、画塾間の交流を図り、日本
 画家の川端玉章が川辺御楯らに働きかけて、後進の育成
 を目的として日本青年絵画協会を設立した。
  そして、1891年10月に、岡倉覚三(天心)が会頭に就
 任した。
  また、岡倉天心を盟主とする日本青年絵画協会の創立
 により、同協会共進会の委員、審査員として活動し自ら
 も幾多の力作を発表した。
  1892年(明治25年)、第1回日本青年絵画協会主催、青
 年絵画共進会展開催。
  1893年(明治26年)第2回展、
  1894年(明治27年)第3回展、
  1895年(明治28年)第4回展と回数を重ねるに従って、
 岡倉秋水、本多天城、高屋肖哲、岡不崩といった狩野芳
 崖の門下生が影をひそめ、川端玉章による東京美術学校
 の自然主義的、写生派的な傾向が台頭してきた。
  1896年(明治29年)に、日本青年絵画協会は、日本絵
 画協会と改称した。
1889年6月1日、伊藤博文が著した「憲法義解(けんぽうぎげ)」
 が刊行した(明治憲法・皇室典範の逐条解説書)
  この年に発布された大日本帝国憲法、および、皇室典
 範の逐条解説書で、
  「大日本帝国憲法義解」と「皇室典範義解」の2部から
 成っている。
  両者を合わせたものが公刊以来「憲法義解」と呼ばれ
 ている。
  両法案が、枢密院に諮詢(しじゅん、参考として他の
 機関などに意見を問い求めること)された際、
  各条項ごとに、説明を付した原案理由書ともいうべき
 文書が配布された。
  井上毅が執筆し、伊藤が加除修正してできたものであ
 った。
  両法が制定されるや、この文書に対し伊藤が中心とな
 って、井上ほかの草案起草関係者に専門学者を加えた審
 査委員会がつくられ、綿密な共同審査を行って完成した
 のが本書だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:朝鮮・韓国・・そして、中国・・は・・
.
1603年、江戸時代(徳川幕府)、朝鮮とは濃密に付き合っ
 ていた。
  朝鮮通信使は、徳川幕府のもとにやって来ていた。
  この時、必ず、この朝鮮通信使が持ち出す話が、「豊
 臣秀吉の朝鮮出兵」の話だった。
  そして、「謝罪せよ」と繰り返し幕府へせまった。
  いつの時代も・・そして、今・現在の韓国・朝鮮と同
 じである。
  その時、幕府の取った対応が・・「完全なる無視」だ
 った。
  とっくの昔に講和は終わっているのに、この様に話を
 持ち出すのが、この国の昔からのやり方だった。
  友好を結びたいから朝鮮通信使は送って来る、しかし、
 過去のことを蒸し返して・・『言ってみたい』だった。
  そして、なお、朝鮮通信使が謝罪を求めた場合は・・、
  徳川幕府は、朝鮮使節を、京都の東山の高台寺へ案内
 した。
  高台寺は、秀吉ゆかりの寺で、ここに秀吉の朝鮮出兵
 の時に戦いで、倒した朝鮮の兵士たちの耳を埋めた「耳
 塚」があった。
  これは日本だけの事ではなく、当時の世界的な慣行で
 あった。
  自分たちの戦いの戦果を示す方法だった。
  そのため、討ち取った兵士の耳をそいで持ち帰り、戦
 いの働きの証明にして(御褒美を戴き)、そして、塚に
 して・・供養していた。
  その耳塚を、朝鮮使節に見せて・・、
  「これ以上、問題を持ち出すな、また、新しい耳塚が
 出来る事になりますよ」・・
 ・・と・・暗に示して・・脅した。
  しかし、その後、延々と170年余りに渡って『謝罪』を
 求め続けたのだった・・。
  徳川幕府は、無視し続けた。
  しかし、だからと言って日朝間に戦争は一度も起こら
 なかった。
  今・現在、『最終決着ですよ』・・と、
  『無い事まで有ったようにして』・・一筆書かされ、
  10億円出した・・日本。
  金額の問題ではない。
  また、一筆という形、完全に前と同じパターンである。
  前も・・これで終りにしますからと言って・・やられ
 ていた。
  終りにするという朝鮮側の一筆は取りそこなった。
  そして、蒸し返された。
  こんなパターンを、繰り返す国なのだ。
  子供に、これで終わり、これで終わりと、ねだられて、
 与え続けるようなものなのだ。
  また、のど元過ぎた頃、話は蒸し返されるだろう。
  優しい国・・日本だから。
  いつも、なんだかんだと助けてきた・・日本だった。
  しかし、最近は、いやらしい手を使う。
  日朝問題に第三国へ言いふらす手を使う。
  あたかも・・「○○ちゃんが、△△したよ」と、クラ
 ス中に言いふらす様にだ。
  これは、逆に・・日本は、それを知ったら、一つ一つ
 丁寧に、話して・・事実を伝えに行くにかぎる。
  黙っていてはいけない、どこまでも、どこまでも、手
 抜きをせずに、事実を伝えて行かねばならない。
  黙っていては・・終りは来ない。
  逆に、日本への・・信頼は増すのだ。
  これが・・大事な仕事なのだ。
  これしかない。
  これをきっかけに、その第三国と、より緊密な関係が
 結ばれるのだ。
  もう謝罪して治まる国ではないという事は、歴史の上
 で、何度も何度も・・何度も何度も繰り返して来た、
  もうこの具の骨頂は繰り返さないにしよう・・、
  仮の謝罪だ何て絶対に思わないこと。
  日本が失うもの、日本国民が失うものが、絶大に大き
 すぎるのだ。
  「たかが10億円」などと思うな。
  毅然と自国の主張すべき所は主張し続けよ!
  このような基本は、絶対に崩さないこと!
  極端に言えば、この国の立場を崩せば国が無くなるく
 らいに思うこと!
  この事は、特に、特に・・安きに流れないこと!
.
.
1905年、竹島は、この年以降、日本領となっている。
  1951年8月10日の「ラスク書簡」には以下の様に記され
 ている。
  アメリカ政府より、「竹島は韓国の領土として扱われ
 たことは無く、1905年以降、日本領である」とし拒絶さ
 れる(ラスク書簡)。
  以上の様に、「ラスク書簡」には、「竹島は韓国の領
 土として扱われたことはない」と明記されている。
  そして、「1905年以降、日本領である」と拒絶された。
.
1906年6月、日本の領土である竹島で、日本の漁民が、漁協
 組合の設置申請をした。
  今・現在、竹島は、不本意ながら韓国に不法占拠され
 ている。
  この事を示す新資料が、また出て、裏付けられた。
  (産経新聞、2017年1月21日、08:48)が伝えている。
  「竹島」領有権に新資料 明治時代に隠岐の住民が漁
 業組合設置を計画 島根
  これを受け、県は、漁業組合設置に関する文書の存在
 を調査した。
  県公文書センターに「竹島貸下(かしさげ)海驢(あ
 しか)漁業」と題した竹島関連文書のつづりがあり、そ
 の中に、中井らが明治39年6月、県に提出した「竹島
 漁業組合設置認可申請」などの書類を確認した。
  当時、県は、この申請について国と協議し、国は、不
 許可とする意見を伝達した。
  県は、これを基に「住所を有しない竹島への出稼ぎ目
 的の出漁であり、漁業組合を設置すべきものではない」
 と漁業法に基づいて判断、不許可とした・・などの経緯
 が、残された文書で判明した。
  隠岐の島町は、町内の「久見竹島歴史館」で、これら
 の資料の展示を検討している。
  県竹島資料室は、「漁業組合設置の動きは、これまで
 ほとんど知られておらず、貴重な資料といえる。
  結果的に申請は却下されたとはいえ、県が竹島をめぐ
 って行政権を行使した証拠となっている。
  こうした事実を積み上げていきたい」としている。
  資料:中井養三郎氏らが島根県に提出した「竹島漁業
 組合設置認可申請」の書類。
  「竹島貸下海驢漁業」の綴りの中にあった(島根県提
 供)
.
.
1919年、毛沢東が、この年の五・四運動前後にマルクス主
 義に触れた。
.
.
1920年~1930年、この頃、金日成は、毛沢東の中国側に居
 たが、毛沢東の物質的な支援が、たいしてできないとい
 う理由で、
  1930年代の末ごろ、金日成は、ソ連が極東に設立した
 朝鮮人部隊に、ソ連軍の軍人として所属し、くら替えし
 た。
  ソ連は、1945年に、朝鮮半島における38度線の北側を
 占領した際、金日成を連れて行き、
  その後、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)となる政
 権の指導者として擁立した。
  金日成とスターリンのソ連は、直ちに、ソ連を模範と
 して北朝鮮社会を軍国化し始めた。
  この抑圧に、朝鮮戦争の始まるまでに、すでに100万人
 近い北朝鮮国民が、背負えるものだけ持って、やっとの
 思いで南へ逃げた。
  金日成は、最初は、分捕った日本軍の残していった武
 器で北朝鮮人民軍を武装した。
  そして、入手できる限りのソ連の武器で補強した。
  1950年の春には、ソ連が、北朝鮮に大量の武器を配給
 した。
  また、1949年末に、朝鮮半島から引き上げたソ連軍(
 12万人のイワン・チスチャコフ大将の軍)の武器のすべ
 てが、機材とともに、北朝鮮人民軍に引き渡された。
  そして、金日成は、南へ奇襲攻撃を始める。
  1950年6月25日までに、ソ連のスターリンは、T34戦車
 を150台~200台、長距離砲、戦闘機を北朝鮮人民軍へ与
 え、武装し終えていた。
.
.
  題:中国の・・『 国際世論操作 』・・、
    本当に、深いところまで、中国の要員が存在している
.
1930年代、中国は、巧妙だった。
  中国は、アメリカの国民の方々を味方に付けなければ
 駄目だと、アメリカの国民の方々の世論を、中国の味方
 になる様な作戦をとった。
  それも、アメリカの文化人や、芸術家や、知識人を味
 方にするのが合理的だという作戦をとった。
  金を使った。
  そして、その作戦は、自国内でも行われた。
  味方に引き込む作戦が行われた。
  この理解者を獲得して行く作戦を「統一人民戦線」と
 言った。
  中国は、柔軟路線をとり、中国は柔軟だと印象付けた。
  中国も民主主義国家だと印象付けた。
  実態はどうであろうと・・。
  アメリカ世論を中国に引き入れ、中国・蒋介石政権と
 の戦いに勝利をおさめたいとして、結果、勝利をおさめ
 た。
  この様な中国の歴史は、連綿と今・現在も続いている。
  また、中国には「モグラ」という作戦がある(中国名
 は、「沈底魚」と呼ばれている)。
  それは、日本の頭の良いエリートを、日本の大切な部
 署・権力の中枢に送り込み、
  一定の期間、何の活動もさせず、工作もさせずに出世
 させる。
  やがて時が来ると、重大な秘密を流させる。
  日本の例ではないが、蒋介石の部下の胡宗南将軍は、
 22年間、「中国共産党特務」で、毛沢東へ情報を流し続
 けた。
  また、しばしば、中国・国民党軍が不利になる作戦の
 指揮をとり、中国・国民党軍を敗北へと導いた。
  1972年の田中首相の訪中以降、日本と中国共産政権と
 の「人材交流」という名目で、中国との人的交流が、大
 々的に行なわれているが、大いに危険という日本の知識
 人は指摘している。
  NHKが、ロシアの冬季オリンピック(2014年、ソチ
 オリンピック)の時、安倍首相が参列しているのに、ま
 ったく放映しなかった。
  (ちらっと、物の陰の首相が写ったという話はあるが、
 それにしても異常だった・・?)、
  その時のNHKの放送では、中国の首脳は、長時間、
 それも、あらゆる角度から写し、放映し、また、中国選
 手団が、その中国首脳へ手を振り、そして騒ぐ姿まで、
 丁寧に、長い時間、放映した。
  まったく、どこの国の放送局かと思えるほどだった。
  日本を蔑視するNHK、日本を蔑(さげす)むNHK
 だった。
.
.
1934年10月15日、中国共産党、長征開始
.
.
1935年1月13日、毛沢東の指導権確立
  延安への長征途上、指導権を確立した
.
.
1937年7月29日、通州事件(つうしゅうじけん)が起きた。
  通州事件とは、1937年(昭和12年)7月29日に、中国陥
 落区の通州(現:北京市通州区)において、
  冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、日本軍の
 通州守備隊・通州特務機関、及び、日本人居留民を襲撃
 した事件で・・、
  通州守備隊は、包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅
 した、そして、
  猟奇的な殺害、処刑が行われた。
  通州虐殺事件とも言われている。
  通州は、北平(現:北京市)の東約30kmにあった通県
 (現:北京市通州区北部)の中心都市で、
  殷汝耕が、南京政府から離脱して設立した冀東防共自
 治政府が置かれていた。
  (別史料)
  1937年(昭和12年)7月29日に、中国の通州において、
 冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、日本軍部隊・
 特務機関、及び、日本人居留民を襲撃し、大量虐殺した
 事件。
  日本軍は壊滅し、日本人居留民の385名のうち223名が
 虐殺され、女性はほとんど強姦されて殺害され、殺害方
 法も猟奇的なものがおおかった。また、朝鮮人慰安婦も
 殺害されている(日本人が連れて来たのではない。この頃、
 朝鮮人が自国の娘を連れて来て、商売をするという行為が
 あちこちで行なわれていた)。
 韓国! 銅像を建ててあげなさい。
.
.
1949年10月1日、中国・共産党政権樹立。
  中国大陸において国民党軍を破った中国共産党軍によ
 り、北京市にて中華人民共和国が建国された。
  人口は13億5千万人。
  台湾の領有も主張している。
.
.
1949年~1950年初め、国際共産主義の頂点
  この頃に、国際共産主義の一枚岩体制が頂点に達した。
  主要な、共産主義指導者たちは、共産主義による世界
 制覇という野望に、唯一の目標を見い出していた。
  そして、サミットが開催され、
  今ある東アジアの枠組みが作り出された。
  そして、一連の決定がなされた。それは・・、
  1、金日成に、韓国侵略のゴーサインが出た。
  2、毛沢東に、チベット制服のゴーサインが出た。
  3、毛沢東に、台湾侵略のゴーサインが出た。
  4、ホー・チ・ミン体制の承認と、彼へのインドシナ征
   服のゴーサインが出た。
  5、駐留米軍に武力抵抗しない日本共産党への非難がな
   された。
.
.
1950年1月、アメリカの国務長官のアチソンは、この日、声
 明した、「我々・アメリカは、朝鮮半島や台湾問題には
 干渉しない」・・と・・この言葉が、朝鮮戦争を起こさ
 せた・・この5ヶ月後に・・、
  朝鮮戦争が始まる1950年6月25日の約5ヶ月前だった。
  1972年に、アメリカのニクソン大統領が、中国訪問を
 した。
  ニクソンは、毛沢東と周恩来と話し合った時に、ニク
 ソンは質問をした、
  「朝鮮半島で我々がぶつかった理由は何だと思います
 か?」・・と。
  周恩来が答えた、「それは台湾です」・・と。
  そして、その理由を、周恩来は、「あの時、アメリカ
 は第七艦隊を派遣して、台湾を我々から切り離した」
  「我々は、それへの対抗策をとらなければならなかっ
 た」・・と。
  1950年6月25日、北朝鮮の金日成は、この日、38度線の
 休戦ラインを越えて韓国に侵攻したが、
  毛沢東の中国共産党政権は、この時、台湾へ武力侵攻
 する機会をうかがっていた。
  侵攻しようと思っていた時、アメリカが、突然、台湾
 海峡へ第七艦隊を送り込んだ。
  中国が、朝鮮での動乱を利用して渡ろうとしていたこ
 とが挫折した。
  そこで、中国共産党政権は、朝鮮半島へ介入した。
  戦争なんて、この様に・・簡単に、トップの思惑で始
 められてしまうもの。
.
.
1950年6月25日、日本との平和条約に、韓国は参加できない
 と、再度、決定された。
  この日に、朝鮮戦争が勃発し、アメリカ・イギリスも、
 この戦争に参戦する中・・、
  1951年(昭和26年)5月のアメリカ・イギリスの協議等
 において・・、
  第二次世界大戦において、韓国が日本側で、戦争をし
 ていなかったことを理由に、
  イギリスが、韓国の条約署名に反対した。
  イギリスの方針表明を受けて、アメリカも、大戦中に
 韓国臨時政府を承認したことがない(その様な政府が存
 在したのか?の状態)ことから・・方針はイギリスと同
 一とした。
  (これは、1949年(昭和24年)12月29日の条約草案で
 は、韓国が締結国のリストに一旦加えられたが、その締
 結国リストに入れないとされた)。
  この様なしつこい韓国の「嫌になるくらいの粘り強さ」
 は、学ばなければならない。
.
.
  題:中国の諜報
.
1970年代、フランスのパリの中華レストランの5分の1は、
 中国大使館の情報ネットワークになっていた。
  イギリスの治安機関の見方も、中国系レストランの15
 %~20%は、中国政府とかかわりがあるとみている。
  早く言えば、中国政府のスパイの出先機関の役目を負
 っていた。
.
.
1970年、この年代初頭の話・・、
  中国共産党軍が、朝鮮戦争に参戦して、朝鮮戦争は、
 悲惨な戦争になった。
  数百万人が死んだ。
  しかし、この責任を、中国共産党に問うこと無く、国
 連(国際連合)は、中国共産党の北京政権に、常任理事
 国の座を与えた。
  この様な不合理が、何故、起きたのか?
  これもまた、アメリカの都合であった。
  1970年代初め、アメリカは、ソ連との冷戦を戦うにあ
 たって・・
  何としても、共産中国を、対ソ冷戦の同盟国として引
 き入れたいとしていた。
  そこで、共産中国の戦争責任を問わなかった。
  だから、この理屈の様に、この理屈通りの逆の場合の
 第二次世界大戦の場合は、日本の戦争責任を取らす事が、
 アメリカに都合がよかったのである。
  そうしたのは、過去のその時の場合に都合が良いだけ
 で・・
  だから、今・現在、その都合はなくなっているので、
 日本は、昔のその都合の論理を言われる「いわれ」はな
 いのである。
  だから、当然に、日本は、過去のアメリカの御都合の
 歴史観に捉(とら)われている必要はない。
  西洋の国際秩序観に付き合う必要はない。
  日本は、立派に戦争責任を果たした。
  そこで、今、何ら、戦争責任を追及されてないアメリ
 カがいて、アメリカは戦争責任を果たしてない逆の面が
 ある。
.
.
1970年代、この時になって中国は、急に、尖閣諸島に関す
 る領有権を主張し始めた。
  国連が、この地域に石油が埋蔵されていると発表した
 からだった。
.
.
1971年、中国・北京政権が、国連の常任理事国になった。
  中国・国民党(蒋介石)政権は、常任理事国の席から
 降ろされた。
  中国・北京政権は、朝鮮戦争で、国連軍と戦い、この
 国連軍と韓国人を数百万人も殺戮した。
  アメリカは、この様な中国・北京政権を、ソ連との冷
 戦を戦うにあたって、自分側に引き入れたいと、朝鮮戦
 争の戦争責任を、何ら問う事もしないで、最良のポスト
 (地位)を与えた。
  何でもアメリカの『さじ加減』で進んで行く世界だっ
 た。
.
.
1974年、韓国と北朝鮮との間にある非武装地帯。
  ここで、韓国軍が、4本のトンネルを発見した。
  地下を通って韓国へ侵入するためのトンネルである。
  最初の発見が1974年。
  最後が1989年。
  少なくとも北朝鮮軍は、20本のトンネルを掘っている
 と推測されている。
.
.
1983年6月6日、中国の鄧小平が、初代国家中央軍事委員会
 主席になった(この時、国家主席は李先念)(~1990年
 3月19日)
  鄧小平が残した16文字というのがある。
  それは、「冷静観察、沈着対応、韜光養晦、決不当頭」
 である。
  以下の解説が見られる。
  「頭を低くし、こちらの能力を見せつけてはならない。
  外国との摩擦は極力避け、経済発展がある段階を越え
 るまでは隠忍自重せよ。
  矛盾は矛盾のまま放置し、将来の解決に備えるにとど
 めよ。
  自らの力を付けることに、何よりの関心を集中せよ」。
  この意味するのは「中国は表と裏、二つの顔を持て」
 ということ。
  これは、中国の伝統論理で、最も優れた指導者の資質
 とされてきた。
  「中国は、いずれ、がらりと態度を変える」・・とあ
 る。それが・・今。
.
.
1998年、金大中・韓国大統領が訪日した。
  金大中氏は、「もう歴史問題は持ち出しません」と約
 束した。
  しかし、いつもの韓国の道徳レベルの低さを露呈した。
  その後、韓国の国のトップが、この様に約束したって、
 どこ吹く風として、言いたい放題だった。
  国家の成熟度が問われる大切なポイントなのに、その
 様なものは必要ありません、いりませんの態度だった。
  約束なんてどうでもいいの国家だった。
  繰り返すのである。
.
.
  題:中国の岐路であって、中国方針決定となった事件・・
   そして、時を得て・・今、中国へなびく国が連なる・・
   中国と北朝鮮は蜜月だ・・、
.
2001年4月、中国の海南島付近で、アメリカの偵察機が、中
 国の戦闘機と衝突した。
  今日(こんにち)、分かっている事であるが、この時、
 アメリカと中国は、「一触即発の状態」にあった。
  そして、その後、中国は、アメリカと対抗できる力を
 付けるまで、少しでも時間を稼ぐ戦略となった。
  中国と北朝鮮、この二つの共産主義国同士の繋(つな)
 がりは強い。
  ロシアの北朝鮮の影響力は・・ない。
  1990年に、ソ連が、韓国と国交正常化をして以来、こ
 の時の北朝鮮の金日成は、ソ連との関係を「切断」する
 ほどの強い否定的態度をとった。
  その態度は、変わらず続いて、北朝鮮は、完全に中国
 に取り込まれてしまった。
  今、2016年10月にも、フィリピンが、中国の投資・
 金を呼び込むために、中国に取り入れられてしまった。
  しかし、『人民元下落』が長期的視野の中にある現在、
 この問題と共に・・中国は、経済から破綻して行くと言
 われている。
  ここの革命がなければ、『救われない社会』と言われ
 てる。
  そこが、できるか? 否か? が・・大きな岐路とな
 っている。
  プーチン時代になって、改善を図ろうとの動きの中で、
 北朝鮮の金正日が、モスクワへ行く・・その時・・、
  必ず、金正日は列車を使った。
  金日成には、父親譲りの「暗殺への恐怖」があるから
 で、表面的には「飛行機嫌い」とされている。
  金正日が、延々と、シベリア横断鉄道に乗って、そし
 て、列車を乗り継いで、モスクワ参りをした。
  これは、中国に対し、「中国べったりではないよ」と、
 中国をけん制したい気持ちからの行動だった。
  また一方、これは、「列車にする」という不信感が、
 ロシアに対してあることを示している、暗殺されたくな
 いという。
  また、この様な行動で、中国を引き付けるという『中
 国への重要度の高さ』を示している。
  しかし、今・2016年、北朝鮮からの高級幹部のエリー
 ト層の脱北が続いている。
  (読売新聞、2016・10・13)には、「北朝鮮・秘密警
 察幹部が、韓国亡命」とある。
  北朝鮮の秘密警察・国家安全保衛部の局長級幹部が、
 韓国に亡命していたことが分かったと報じている。
  脱北や反体制的活動を監視し、強い権力を持つ国家安
 全保衛部の幹部の亡命は、「異例中の異例」と報じてい
 る。
  今、恐怖政治を進める金正恩(きんじょんうん)・・、
  ロシアの建設現場で働いていた北朝鮮労働者10人が逃
 げ出し、サンクトペテルブルク(ロシア西部のレニング
 ラード州の州都)の韓国総領事館に逃げ込んだ。
  中国レストランの従業員が集団脱北した話もある。
  在イギリス大使館のナンバー2が亡命もあった(8月)。
  中国・北京の北朝鮮代表部の保険省幹部の亡命(10月)。
  今、北朝鮮は、恐怖と粛正で荒れている。
.
.
2002年5月、中国にある日本の瀋陽(しんよう)領事館事件。
  日本の領事館の中は、日本の国内と同じで、中国は、
 侵す事が出来ない、侵犯できない、尊重しなければなら
 ない。
  しかし、しかし、まったく恥ずかしい事件が起きた。
  まったく、日本が馬鹿にされた事件が起きた。
  中国の国家権力の侵犯があった。
  日本の領土侵犯と同じ行為が起きたのだった。
  しかも、この対応が最悪だった。
  当然、この時点で、日本政府は、中国政府へ『厳重抗
 議をするべき』だった。
  しかし、この領事館の敷地内に無断で侵入してきた武
 装警察官に対して、日本の外交官は、何ら抗議も何もし
 なかった。
  逆に、この武装警察官が落した帽子を拾い、「ご苦労
 様でした」と言わんばかりにして、渡してやったのだっ
 た。
  お粗末な外交官である。
  この日本の外交官は、恥ずかしい事に、この領事館の
 副領事だったという・・トップだったからさらに情けな
 い。
  筋を通すことのできない、また、日本を貶(おとし)
 める外交官だった。
  これは、日本の外交姿勢を表わす典型的事例であり、
 これは例外ではない。
  日本の外交は、こんな形で行われている。
  こんな姿勢で行なわれている。
  中国から完全に馬鹿にされている。
  結局、この時、この日本の総領事館に助けを求め、駆
 け込んだ北朝鮮からのこの家族(脱北家族)は、中国政
 府に捕らわれ、連れ去られてしまった。
  安全地帯の日本の総領事館内に逃げ込むことに成功し
 ていたのにである。
  何が原因で、この様な哀れな日本の状態になっている
 のか?
  とことん国と国の状態を突き詰めて行ったとき、中国
 は、何ら、日本を恐れるに足る国ではないと見ているか
 らである。
  「仁」や「徳」を説いた国ではないのである。
  それは、すでに消え去っている国なのである。
  「パワー・オブ・バランス」である。
  これが崩れているのである。
  明確な国際条約(領事関係に関するウィーン条約)違
 反であるが、中国は謝罪しようともしない。
  こんな日中関係なのである。
  互いに尊重するなどという状態にない。
  こんな様な状態なので、可哀想に・・、日本の外交官
 の自殺事件(上海)が起きるのである。
  国際法に則(のっと)り謝罪を求めなくてはならない
 時は、毅然と謝罪を求めなくてはならない。
  謝罪を求めたのか、求めもしなかったのか?・・とい
 うみじめな判然としない、判別できないような『謝罪の
 求め方』では、馬鹿にされはすれ、何の益も無い、
  惨(みじ)めになるだけである。
  この様な日本の姿を「他の国も見ている」のである。
  この様な時に毅然とした日本の態度がなされることに、
 「日本外交の基底」があり、醸成されるのだ。
  大切な所なのだ・・おろそかにできないのだ。
  ここが「貧ずれば、鈍し」、豊かな日本外交が築ける
 はずがない。
  最重要なポイントなのだ。
  この最重要ポイントが、日本は『ないがしろにされて
 いる』。
.
.
  題:日本国内に1000人の活動家がいると・・中国外交官が・・、
.
2005年、中国の外交官が亡命した。
  これが、ただの亡命なら何も問題なかったが、
  この中国の外交官は、「日本の国内には、1000人をは
 るかに超える中国のスパイがいて、盛んに活動している」
 と言った。
  2005年、この中国外交官は、オーストラリアのシドニ
 ー総領事館にいた一等書記官で、オーストラリアに亡命
 した。
  また、彼は、中国国内で、中国の民主化の活動をした
 活動家が、身の安全が危うくなり、海外へ逃れても、中
 国は、その活動家を拉致して、中国・本国へ連れ帰る事
 もしていると暴露した。
  約100年前、ロンドンにいた孫文が、当時の中国清朝政
 府に拉致され。
  北京に連れ戻されそうになったが、その血が、今だに
 中国共産党政権にも流れている。
.
.
  題:丸腰で・・一人立つ・・、
.
2005年5月11日、北朝鮮が、寧辺(ニョンビョン)の実験用
 黒鉛減速炉から、『使用済み核燃料棒8000本を取り出し
 た』と宣言し、
  この事によって、東アジア情勢が一気に緊迫の度を増
 した。
  そして、不安視していた道へ進んで行く、
  これが始まりだった。
  六か国協議(2003年8月が第1回~、だが、2007年3月の
 第6回以降開かれず)をやったが、何ら事は解決しなかっ
 た。
  この「北朝鮮の核保持への道」は、北朝鮮を代理とし
 て、中国が進めて来た事だった。
  これは、時を経て、最終的に核を手に入れ・・、
  ロケット技術も手に入れて・・行く。
  その向かう先は「アメリカと日本」だった。
  この技術は、北朝鮮だけでは出来なかった。
  寧辺の原子炉は旧ソ連が造った。
  そして、中国が引き継いだ。
  1970年代末の中国の鄧小平時代以降、旧ソ連に変わっ
 て北朝鮮の核開発を積極的に支援した。
  1990年代以降も、中国は核開発を促してきた。
  アメリカのペンタゴン(米国国防省)の情報部門出身
 で連邦議会上院外交委員会の首席顧問も務め、中国の軍
 事・情報問題分析に定評のあるウィリアム・トリプレッ
 ト氏の本「悪の連鎖、北朝鮮と中国の無法」に示されて
 いる。
  中国は、北朝鮮の動きを完全に掌握している。
  それを、水面下のものとして・・隠した。
  中国は、北朝鮮に大きな影響力を保持している。
  そして、ミサイル開発にも多かれ少なかれ関与して来
 た。
  中国は、秘かに、北朝鮮に手を貸してきた。
  「北は、中国が、アメリカと日本に突き付けた刃(や
 いば)」だと・・トリプレット氏は言った。
  そして、やはり一番は、核のない北朝鮮の国としての
 存続に対する懸念があった。
  核のない北朝鮮に、非常な危うさを感じたのである。
  そこから、国の興廃(こうはい、盛んになるか、衰え
 るか)に大きく関係する核の保持を求め、持たざるを得
 ないという考え・意識に至ったのだった。
  日本も立場は同じ・・、
  丸腰で、周りが銃を持っている者ばかりの中に立って
 いる様なもの・・。
.
.
2014年2月7日、ソチ・オリンピック
  ロシアのソチで、第22回冬季オリンピックが開幕した
 (~2014年2月23日)
  日本のマスコミは、何故か?中国の諜報活動や情報活
 動に触れる事に遠慮している。
  NHKなどは、NHKの局内に、中国のための部屋を
 与えていると言う、特別待遇をしている。
  ソチオリンピックでは、安倍首相が出席されて居るの
 に、「放送したのか?」と疑われるくらいの軽い軽い扱
 いなのに、
  中国首脳の場合は、超アップで、大変な長時間、また、
 中国選手が『エールを送る姿』まで、しっかり日本の放
 送局NHKは放送した。
  まったく逆転している放送局=NHKである。
  まだまだおかしいNHKである??
  そして、何と、この様な事をしろと、日本の外務省の
 動きがあるという?
  日本の官僚からして腐っている。
  自分の仕事を楽にするため「日本を売っている」。
  日本の外務省は、この他でも日本を売っている、曲者
 (くせもの)である。
  是非、日本のために働く、苦労する、安易な日本を売
 る様な事をしない外務省になってもらいたい。
  競う、そして戦う、外務省になってもらいたい。
.
.
2015年4月2日、日本のマスコミが、この頃に、「日本は孤
 立している」というプロパガンダを執拗にした。
  日本のマスコミは、非常に中国寄りになっている。
  特に、朝日新聞が、この頃に、中国のアジアインフラ
 投資銀行(AIIB)に日本を参加させようと、この論
 調のプロパガンダを盛んにした。
  そして、特に、朝日新聞は、「日本はアジアで孤立し
 てはいけない」と歴史問題などで中国や韓国への迎合や
 譲歩を説いた。
  この様な論理展開する朝日新聞の思考レベルの低さを
 感じる。
  例えば、「日本はアジアで孤立してはいけない、だか
 ら、朝日新聞の論調は、日本のアジアでの孤立を助長す
 るから、今後、朝日新聞の論調のすべてを、今までの論
 調の反対を主張すべきだ」・・という言い方も、成立す
 るのだ。
  朝日新聞というのは、その朝日の言い方は、前段の論
 理を、誰でも分かる、正しい事を言う、しかし、その後
 の後段で、自分の言いたい論調を無理にくっつけるとい
 う言い方なのである。
  うっかりしていると朝日新聞の言い方に引っ掛かって
 しまう。
  極端な言い方にすれば、「砂糖は甘い、だから、塩も
 甘いのである」的な言い方なのである。
  こんな言い方は何でも、いくらでもできる。
  「自動車事故は怖い、だから、安倍政権は怖いのであ
 る」など。
  この様にはっきりしていれば、「おかしい」と、すぐ
 に分かるが、微妙な事項と組み合わせて、この様な言い
 方の記事を書かれると引っ掛かるのである。
  この様な記事を書く朝日新聞なのである。
  「アジアで孤立する」ような状況は、誰もが良くない
 と容易に判断できる。
  しかし、日本の立場を説明もしないで、迎合や譲歩を
 良しとする、その様な論理を説く朝日新聞は間違いであ
 る。
  「正しい意見を、考え方を、丁寧に分かりやすく説き
 なさい」というべきなのだ。
  朝日新聞こそ、いつも、偏頗(へんぱ、かたよってい
 て不公平なこと)なものの言い方・論調は止めて、他の
 正論に耳を傾け、迎合・譲歩をしなさい。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年1月31日火曜日

(増補版)487E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年5月)

題:(増補版)487E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年5月15日、大槻文彦著の「言海 (第一冊)」が発刊さ
 れた。
  最初の近代的国語辞書で、後に、大言海となる。
  1875年(明治8年)2月に起草(きそう、草稿を書くこと)
 し、
  1884年、脱稿して、これを4分冊にして
  1889年5月、この時に、第1版を刊行した。
1889年5月16日、宮内省図書寮付属博物館を廃止し、帝国博
 物館、帝国京都博物館、帝国奈良博物館を設置した。
  官制が成って、初代の博物館総長に九鬼隆一を任命し
 た。
1889年5月21日、最初の市会議員選挙、
  東京において本日より3日間行われた。
1889年5月23日、讃岐鉄道の丸亀~琴平間が開通した。
  この時の開通式で香川県議の大久保諶之丞が祝辞で瀬
 戸大橋の架橋を提唱した。
1889年5月28日、地久節(ちきゅうせつ)の御儀が初めて行
 われた。
  地久節は、皇后陛下の誕生日の旧称。
  老子の「天長地久」による語で、天皇陛下の誕生日の
 旧称である天長節(てんちょうせつ)に対する名称。
  地久節を奉祝すべきとの世論が高まり、女学校では、
 学業を休んで奉祝式を催すようになった。
  以来、昭和に至るまで続いた。
1889年5月31日、6月2日にかけて、雑誌「日本」にロンドン
 =タイムスに掲載された大隈条約改正案が翻訳されて、
 掲載され、波紋を引き起こした。
.
  (今日の言葉)
.
  題:愚かなる・・第二次世界大戦への道程・・そして、今のアメリカは・・??
.
1899年、アメリカが、「中国の門戸解放を宣言した」。
  これは、遅れて来たアメリカが、中国に参入したいと
 いう宣言だった。
  この様な「言い方」や「書き方」からは、事実が見え
 にくいが、これは「アメリカが中国に参入し、中国の旨
 (うま)い汁を吸いたいという宣言」だった。
  中国を「アメリカの利益を生み出す地にしたい」だっ
 た。
  中国市場参入を狙ったアメリカなのだった。
  それは、日露戦争前の極東では、清国の義和団の乱が
 収まると同時に、『 ロシアの満州支配 』が強まって
 いた。
  アメリカは、この動きに対抗した1899年の「門戸開放
 宣言」だった。
  ロシアに強く反発した。
  1904年に日露戦争が開戦すると、
  強まるロシアの力を抑止するため、『日本を応援』し
 た。
.
1906年、日露戦争に勝利した日本に、満州がロシアから移
 譲(いじょう、権限や権利、財産などを他に譲り移すこ
 と)された。
  この時のアメリカ大統領は、第26代大統領のセオドア・
 ルーズベルトだった。。
  アメリカは、中国を美味(おい)しい市場としたかっ
 た・・しかし・・、
  1899年に、アメリカは、中国市場の門戸開放をしろと
 宣言していた。
  出遅れていたアメリカのアピールだった。
  ヨーロッパ列強諸国、および、ロシアは、すでに、中
 国を美味しい市場としていた。
  イギリスは、あくどい麻薬のアヘンを使ってまでして、
 吸い取る限りの利益を中国から得ていた。
  満州は、ロシアの市場となっていた。
  そして、日露戦争が始まると、アメリカは、日本を支
 援した。
  しかし、日露戦争に日本が勝利すると、満州が、ロシ
 アから日本へ『移譲』された。
  「アメリカさん・・どうぞ・・」とは、ならなかった。
  日本は、中国政府とも条約を結び、満州に日本から資
 本を持って行って・・投じ、満州経営を始めた。
  アメリカの思惑と違った。
  ここが、アメリカには面白くなかった。
  白人植民地に入って来た新参の有色人種の日本となっ
 た。
  新興国の日本だった。
  ここのポイントからが、最終的に第二次世界大戦へ通
 じて行くことになる。
  日本がドアボーイの如く・・満州へ招き入れる日本の
 振る舞う事を、セオドア・ルーズベルトは期待していた。
  「満州のドアから入って来なさい」にはならなかった。
  満州から美味しい汁が来るとはならなかった。
  逆に、今、美味しい汁を吸っているアメリカの植民地
 のフィリピンが、日本にとられるという、脅威と感じる
 る『日本の見事な日露戦争の勝ち方』だった。
.
20世紀初頭、アメリカの西海岸地域に『黄禍論』という日
 本人差別が吹き荒れた。
  そのたびに、日米両国は、鋭い緊張関係に陥(おちい)
 った。
.
1906年、セオドア・ルーズベルト(第26代アメリカ大統領)
 が、日本との将来対決を意識した。
  そして、『対日戦争の準備』を始めさせた。
  この年に、対日戦争計画である『オレンジ計画』の準
 備を指令した。
  日露戦争の翌年のこの年、その指令を出した。
  このセオドア・ルーズベルトは、フランクリン・ルー
 ズベルト(第32代アメリカ大統領)と従兄弟関係にある。
  また、アメリカの大学生の歴史教科書に使われている
 「アメリカ外交史」(ロバート・ファレル著)には、
 「日露戦争こそが日米対立の序曲」と論じられている。
.
1933年3月14日、第32代アメリカ大統領に就任したてのフラ
 ンクリン・ルーズベルトが、閣僚会議で日本との戦争に
 ついて論じた(就任して10日目)。
  アメリカの日本の見方の転換は、「日露戦争後」にあ
 った。
  日露戦争後は、アメリカは、常に、日本を軍事的、経
 済的ライバルと意識してきた。
  それまでは、東洋の小国、近代化を一生懸命にやって
 いる発展途上国と見て来た。
  だから、日露戦争の時は、アメリカは、日本にとって
 良いタイミングで戦争の仲介をしてくれた。
  しかし、日露戦争後にその見方が変わった。
  それまでと変わって・・「ライバル国・日本」となっ
 た。
  1933年3月14日、ルーズベルトは、大統領就任後二回目
 の閣僚会議を開いた。
  この時、早くも、ルーズベルトは、日本との戦争につ
 いて論じた。
  前置きは・・「日本人が(マレー半島の)ジョホール
 から、中国の万里の長城まであふれるだろう」という言
 葉から始まった。
  そして、「できれば戦争を避け『兵糧攻め(経済制裁)』
 によって屈服させる方針をとりたい」と、
  しかし、戦争になった場合は、「陸軍は役に立たない。
  太平洋を挟んだ戦争は、海軍が主力になるためハワイ
 を基地とし、
  さらに、アリューシャン列島から日本本土を空爆すべ
 きだ」・・と、熱心に論じた。
.
1938年、日本は、中国のすべての港の封鎖に成功し、海上
 からの補給が出来なくすることに成功した、1838年の後
 半の事だった。
  この頃、あまりにも、アメリカなどの一方的な戦争介
 入が酷かった。
  ルーズベルトの頭にあったことは・・先に銃を抜く「
 農夫」だった。
  その農夫の「肩を持つ(かたをもつ)」わけではない
 が・・、
  その農夫の人格をも口汚く、品なく、あらん限りの悪
 口を言う「金持ち牧場種に雇われた銃の早撃ちの殺し屋」。
  とうとう、その農夫は耐えきれなくなり銃に手を掛け
 る。
  それを「待ってました」と早撃ちの殺し屋は、銃など
 持ったことのない農夫が銃を半分抜いたところで、農夫
 の心臓を撃ち抜いた。
  正当防衛だという。
  法律違反ではない人の殺し方で、金で雇われた殺し屋
 は依頼主の要望に応えた。
  アメリカは、この様な卑劣なファイトバックを歴史の
 あちこちでやっている。
  メキシコもやられた。
  領土を取られた。
  散々メキシコを虐めて・・メキシコが立ち上がったら・・
 これでもかというほどに・・「やっつける」。
  また、ドイツの・・、ナチスのヒトラーの肩を持つ訳
 ではないが・・、
  返済しても、返済しても、まだまだあるという膨大な
 借金を戦争に打ちひしがれて、「言い訳や反論もできな
 いドイツ」に、一方的に戦争に勝った者として押し付け
 た戦勝国。
  返済しきれない借金を、重い重い借金を敗戦国に背負
 わせた戦勝国。
  ここに・・正義は・・あるのか?
  正当性は・・あるのか?
  出来ないことを背負わせた方が、当然、悪いのである。
  出来ないことは、当然、言ってはいけないのである。
  暴力的に押し付けたあなたが悪い。
  そこには・・キリスト教の教義の復讐(ふくしゅう)
 の悪意しかない。
  そこからは、ヒトラーという人間も出て来るだろう。
  その様に仕向けた・・君たちに責任があるのだ。
  その責任の重さを分からないか?
  自分たちの責任に口をつぐんで、吐露しないで、謝罪
 しないで、懺悔しないで・・、
  次の世代の子供たちへ問題を先送りした・・
  この卑怯な自分たちの態度・行動を反省しないか?
  卑怯だと思わないのか?
  その自責の念は生まれないか?
  真の責任者は、君たちではないのか・・?
  日本も、長い期間、仕組まれていたのだった・・卑劣
 なアメリカ大統領のルーズベルトが仕組んでいた。
  知らないうちに、中国で、秘密裏に、アメリカは宣戦
 布告していた。
  ルーズベルトは「義勇軍だと、嘘のレッテルを貼って、
 『日本と戦え』と命じていた」(何だって・・レッテル
 は貼れる)。
  この時に、第二次世界大戦の開戦がなされた。
  アメリカの宣戦布告なしの開戦だった。
  これは、アメリカの日本に対するれっきとした『奇襲』
 だった。
  世界遺産に登録せよ!!
  1938年、日本は、中国沿岸の港のすべてを閉鎖するの
 に成功した。
  アメリカは、海洋からの中国への補給が出来なくなっ
 た。
  アメリカは、中国の蒋介石を援助しようと「援蒋ルー
 ト」を仏印(ベトナム、ラオス、カンボジア)に、無断
 で作った。
  国家の主権の侵害である。
  侵略行為である。
  侵略行為をしてまでして、アメリカは戦争に介入して
 来た。
  そして、アメリカは、秘密裏に、アメリカ正規軍まで
 この地点に上陸させて、派遣した。
  日本は、当然、このアメリカの仏印の武器弾薬の供給
 ルートを遮断したいとなる。
  日本は、真珠湾で、あたかも先に銃を抜いたように見
 せかけられた。
  卑劣なアメリカのルーズベルトのプロパガンダ(嘘宣
 伝)であった。
  真珠湾攻撃を知り・・ルーズベルトは「戦争を作った」
 と言った。
  そして、「シャローム」のキリスト教教義の様に、「
 完全破壊の原爆投下と、
  やはり、「シャローム」のキリスト教教義の「無条件
 降伏」を日本に突き付けた。
  キリスト教に強く洗脳されたルーズベルトのやりたい
 ことだった。
.
1943年8月11日、第一次ケベック会談(~1943年8月24日)
  実質、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチ
 ャーチル首相の会談(秘密会談)。
  カナダのウイリアム首相も加わった(カナダは、正式
 な参加国ではない)。
  イタリアの枢軸国からの脱落も話し合われた。
  日本は、ドイツ降伏後に、12か月以内に降伏させると
 した。
  中国の「援蒋ルート(中国の蒋介石に武器と金を援助
 するルート)」を強化する事についても話し合われた。
  ソ連と蒋介石の中国へも連絡された。
  また、反英運動が激化しているパレスチナについても
 話し合われた。
  核兵器の開発についても話し合われ、核兵器技術の共
 有に合意し、合意書が作成された。
.
1945年4月12日、ルーズベルト、脳出血で死去する。
  この日に、第32代アメリカ大統領フランクリン・ルー
 ズベルトは死んだが・・、
  ルーズベルトの妻エレノアによると、ルーズベルトは、
 「戦後は、社会主義的な世界になる」と予測していた。
  そして、スターリンが「アメリカとソ連が、いずれ立
 場を同じにする」と話したことに希望が湧いたという。
.
1945年9月に、FBIに駆け込むまで、スパイ網の要(かな
 め)にいたエリザベス・ベントレーは・・、
  1951年8月、アメリカ上院国内安全保障小委員会で、ホ
 ワイトら政府内の情報員の活動実態について証言した。
  ベントレーは、「工作員の役割は、秘密文書を持ち出
 す事の他に、
  アメリカの政策(ルーズベルトの政策)に、こちらの
 望むような影響を与える事だった」と言っている。
  それだからか、何故か? ルーズベルトの政策がおか
 しかった。
  第二次世界大戦中のルーズベルト政権が、如何に、ソ
 連スパイによって浸透されていたか?
  議会の調査委員会や、FBIの捜査で、かなりの部分
 が明らかにされた。
  ルーズベルトのやっていることがおかしいと、動いた
 アメリカ国民の方々もあった。
.
1947年、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(イギリ
 スの哲学者、バーバード大学教授、また、ケンブリッジ
 大学教授などを歴任、1861年~1947年)氏は言う・・、
  「私は、アメリカ人を3つに分けて考える。
  最初の3分の1は、まともで正直で優秀な人たち。
  次の3分の1は、善良であるけれど、それほど優秀でな
 い人たち。
  残りの3分の1のアメリカ人は、クリミナル(犯罪者〉
 だ」・・と。
  実際、アメリカ人の3人に1人は、「ケロッと嘘を付く」、
 その様な人が多い。
  この様な国民性だから「訴訟社会」となっている。
  ワシントンが、「桜の枝を折った」と正直に言ったぐ
 らいで大騒ぎに褒めちぎる・・その様な国。
  アメリカは、知的真剣さを持つ優秀な人もいるが、犯
 罪者タイプの狡猾で冷酷で偽善者的な人が多い。
  日本人は「誠実」「誠意を示す」を大切にしているが、
 その様な「日本人の誠意」は通じない。
  シニカル(冷笑的、嘲笑的、あざ笑う)に利用される
 だけ・・。
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1953年11月に、アイゼンハワー政権のブラウネル司法長官
 が・・、
  アメリカ上院国内安全保障小委員会で、
 「ホワイト以外に、カリーや、陸軍省のジョージ・シル
 バーマンらの名前を明らかにした」ように・・、
  また、戦争中のソ連の交信記録(1943年~1944年)を
 解読したアメリカVENONA資料には・・、
  スパイ網は、FBI報告をはるかに上回る規模だった。
  何故、ルーズベルト政権に、ソ連協力者が浸透するこ
 とが出来たのか?
  また、浸透を止めることが出来なかったのか?
.
1953年(昭和28年)11月16日、ハリー・トルーマンは、ア
 メリカ大統領職を退(しりぞ)いた後も、全米に向けて、
 ラジオで言い訳し、説明しなければならない事があった。
  それは、ルーズベルト時代に蓄積された負の遺産の清
 算を迫られたからだった。
  急に、ルーズベルトから引き継いだ大統領職に就いた
 トルーマンは、ルーズベルトの悪が清算されないまま、
 引き続いて政治をやってしまっていた。
  ルーズベルト政権内には、ソ連の息のかかった人間が、
 うようよと居た。
  ソ連の巧妙なスパイ網となっていた。
  それが白日の下になると、アメリカ国民の方々は厳し
 く批判した。
  日本やドイツに厳しい制裁案を書いたり、そして、当
 時の財務長官のモーゲンソーの右腕で、そして、トルー
 マンも重く用いられて来ていた、そして、出世までさせ
 ていた財務次官補のハリー・デクスター・ホワイトも『
 ソ連のスパイ』だった。
  ホワイトは、消されたのか?・・米下院非米活動委員
 会の喚問を受けた直後に、心臓麻痺で死去した。
  国際通貨基金(IMF)の初代・米国理事をしたり・・
 「ブレトンウッズ体制」を作ったりした功績のあった人
 物だった・・が・・、
  そして、その他にも・・ルーズベルトが、推し進めた
 ニューディール政策の推進者の中にも、特に、多くのソ
 連スパイがいた。
.
2010年、そして・・今のアメリカ・・、
  グローバル化の制度の下で、貧富の格差は広がってい
 る。
  アメリカは、富める者を、「より富ませる政治」をや
 っている国。
  アメリカで、1980年から2010年までの30年間で、所得
 の低い下層(40%)の人々の所得は『減少』した。
  また、40%~60%の中間層の人々は『停滞、動かず』
 だった。
  豊かになった人々は、上層20%の人々だけだった。
  アメリカの株式の半分以上は、「最上層の1%」の人が
 所有している。
  この層が豊かになることに、アメリカの政治は集中し
 た。
  アメリカ政府が、「労働者の利益を上げる」と言った
 が・・??・・まったくの空論で、嘘だった。
  事態は・・空転していた。
  政府は、多額の『政治資金』を豊かな層から受け取っ
 て来ていた。
  そして、その層が豊かになる・・、その層に応える政
 策を行なった。
  貧富の差は・・拡大した。
  MITの経済学者のフランク・レビイらは、「これは、
 アメリカ経済の制度(グローバル制度)から来るものだ
 と説明した。
  それで・・、
  勤労者の経済的貢献が、反映していない仕組みとなっ
 ている・・と、
  (勤労者は、しっかり働いているが、制度が悪いから、
 この勤労の結果が反映しないで、この実態となっている)」
 ・・と・・、
  つまり、勤労者が、一生懸命に働いても、制度的なこ
 とから、上層に吸い取られてしまう・・と・・、
  また、1950年代~1970年代初期の約20年間で、アメリ
 カの大企業500社の会長の年収は、平均的労働者の20倍~
 30倍だった。
  しかし、1980年代からこの格差は、拡大し始め・・、
  アメリカ政府は・・貧富の格差が拡大する政策を露骨
 にやっていた。
  2000年には、何と! この格差は、525倍となった。
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2016年、アメリカの上院議員のジェームス・ウェブ氏(ア
 メリカ上院外交委員会・東アジア・太平洋小委員会委員
 長など歴任)は言う、
  「アメリカに、貧富の差がこんなに拡がると、大変な
 ことになる。
  そのうち、アメリカ政治は、『動乱期』に入るのでは
 ないか」・・と・・、
  このウェッブ氏は、海軍士官学校卒の職業軍人で、正
 直な人だという。
  そして、彼は、アメリカの民主党が、陰で、金融業者
 (ゴールドマン・サックスなどという)に繰られている
 事に、非常に怒り、そして、嫌っていると表明した。
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2016年以降、アメリカ連邦議会の予算局は、「2016年以降、
 アメリカの財政は、どんどん悪化していく」と見ていて、
 『国防予算を削るしかない』・・と、している。
  アメリカの政治家たちも、同じ見方で・・、
  アメリカの安全保障の最大の敵は、『財政難だ』と言
 っている。
  「予算を削減するところは、ここしかない」・・と・・、
  日本は、アメリカの日本での軍事費の75%を負担して
 いて、ドイツや韓国の負担割合の2倍から4倍と、超高率
 な負担を要求されている状況にある。
  アメリカの軍事費が縮減すれば、アメリカの軍事的な
 勢力圏は縮小せざるを得なくなる。
  その隙間に、中国の拡大となる・・その様な時代とな
 っている・・、
  アメリカの縮小の時代において・・日本の安全は、放
 っておけない『大問題』と・・なっている。
  手遅れにならないうちに、対応は・・急(いそ)がれ
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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