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2013年6月8日土曜日

イエスの結婚観を例に・・・。

 題: イエスの結婚観を例に・・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教聖書における、イエスの結婚観を見てみると・・。
 聖書を参照してみる。
 初めの例として・・「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二
人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体であ
る。従って、神が結び合わせてくださった者を、人は離しては
ならない。・・妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対し
て姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする
者も、姦通の罪を犯すことになる。(「マルコによる福音書」
10・1~12)」
 この言葉は、多くの学者によって、イエスの真正な言葉であ
るとは認められていない。また、『創世記』の1・27と2・24
を合体させた言葉だと言われている。
 また、女性蔑視であった社会及びキリスト教は、女性から離
縁などできる状況ではなかった。
 何しろキリスト教の聖書は、似たような宗派が、言い争って
出て来た言葉などでできた教義で、言葉をまとめた書物と言え
る。
 「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする
者は、姦通の罪を犯すことになる(「マタイによる福音書」19
・9)。弟子たちは、このイエスの言葉を聞いて不満たらたら、
「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」
と、イエスの言葉に対して「ブーイング」を言っている。
 というのも、今の社会と比べようもない程度の低い社会で、
男尊女卑の社会であり、その様な観念の中にいた人たちである
ため、この様な不満が出た訳で、
 1例を言えば、この社会ではよくあったことなのだということ
なのですが、気に食わなくなったら、料理を焦がしただけでも
離縁ができるとされていた。
 つまり、『料理のお焦げ離婚』は合法の世界だった。(「マ
タイによる福音書」10節を参照)。
 ユダヤの法律において合法であれば、離縁しても良いとの考
えであって、現代人が考えたらおかしいこと。上記の様に、何
ら正しいことを言っていることにはならない。
 故に、今、我々がいる現代の法律の状況や、今の現代社会に
照らして考えても、何ら正しい示唆を与えていると言えない内
容となっている。
 「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を
犯す事になる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯す事
になる(「ルカによる福音書」16・18)。
 「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だ
けである。生まれながらの去勢者、人から去勢者・宦官にされ
た者もいるが、天の国のために自らすすんで去勢した者もいる。
これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。(「マタ
イによる福音書」19・11~12」。
 「バツイチ」は姦通罪、結婚できないという世界だった。ま
た、キリスト教の罰が怖いため、自分から去勢するものがいた。
 そして、イエスが、結婚について話していたと思ったら、急
にこんなことを言う。
 これは、イエスが悪いのではなく、聖書記述者が、聖書に書
き加えた結果で、聖書のそのほとんどがイエスの言葉でないと
いう研究者の研究結果の様に、これも聖書記述者が書き加えた
言葉なのである。
 結局、キリスト教聖書は、種々の(必ずしも、聖書の表題の
人が書いたとは限らない。キリスト教の聖書は、不特定の人た
ちが書き加えたり、削除したりしている)。故に、それらの種
々の記述者が勝手に書いていくので、そこには論理の統一性は
ない。矛盾が多いという状況となる。
 各人が、各自が持っている論理を書いているという状況とな
っている。そして、それを、当然、「一人のイエスが言った」
という形の書き方をしている。故に、イエスが、矛盾した事を
言ったという事にもなってしまう。
 種々の書き手のため、結果的に支離滅裂な事を言ったという
状態になっている。
 これ等の言葉を、色々な人が勝手に書いているという実態を、
一般の信徒は知らないで、信仰に忠実に、「信仰する宗教のイ
エスは1人」という形で捉(とら)えて、信仰し、真剣に毎日
読んでいると、意味の不一致のあちこちを、理解しようと悩み
の中で思い、思考するなどの行為から、精神の統合をはかれな
くなる。統合性に自信の無い状態に陥(おちい)ることが起き
る。
 故に、キリスト教聖職者は、この点について、責任ある説明
を(注意事項を)信徒に誠実にするべきである。
 (聖書を家に持って帰ってはいけないという教会もある。ま
た、聖書は一人では読まない事と指導しているところもある)。
 このあたりのコンプライアンスがしっかりしていないと、キ
リスト教聖職者が、被害者から責任を追求され得るという状況
もあると言える。
 矛盾の多い状況の聖書に対し、種々の見解を、その時々の権
力を持った者が、異論だと、異端だと、切り捨てて来て整合を
図って来た歴史だったと言ってもよいが、まだまだ不整合のと
ころが多い状況となっている。
 聖書学と称して研究し、後代の人たちが学究的にも整合性を
図ろうと研究・思考を重ねてきているが、キリスト教にはそれ
らのことについて統一的見解はなく、信徒がさ迷う状況にある。
 その様な思考の中で生活するという状況から、精神的にダメ
ージを受けるという中にいる。

2013年6月7日金曜日

南蛮宣教師のころの話・・2題。

題: 南蛮宣教師の頃のはなし・2題。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
その1: 南蛮のキリスト教宣教師たちが日本に来てた頃、
 キリスト教徒になって最初にヨーロッパへ行った日本人が2人
いました。
 1人は、行ってからの生活環境の違いの影響からか、直ぐに
亡くなってしまいました。
 もう1人は生存しましたが、結局は、同じ様に亡くなってし
まうのですが、その一人は、スペイン(イスパニア)国王に、
直接、進言した事柄がありました。
 国王からの返事は有りませんでしたが、当時、スペインは、
すでに中南米の征服・殺戮は終わった段階で、その殺戮の蛮行
し放題をした艦隊は太平洋に派遣されていました。
 日本の近海にも居たと考えられます。
 このヨーロッパへ行った最初の日本人(この人は、キリスト
教宣教師と東南アジアやインドなどのあちこちを、同一行動を
して、その経験・経過を経てから、ヨーロッパへ行っています)
は、この様な状況を当然知っていたのでしょう、『 日本の征
服はしないように 』・・と、国王へ進言をし、頼みました。
 当時の日本に対するヨーロッパ人の見聞は、マルコポーロに
よる東方見聞録に記された「黄金の国・ジパング」でした。
 ジパング探索のエネルギーが、結局、アメリカ発見になった
ということなのですが、スペインの征服者と同行したキリスト
教宣教師たちが中南米で奪った目的もこの黄金でした。
 彼等は、当然、日本との交易に対しても同じ目的・目標があ
り、またそれに加えて、当時、日本産の銀の世界へ流出量は、
その多くが日本産の銀が占めていったという、日本産の銀の産
出量の多さの事情もありました。
 これ等の事は、彼らの探検欲・征服欲・交易による儲け・利
潤欲を駆り立てました。
 当時のスペイン艦隊の行動状況は、スペイン勢力下のメキシ
コとフィリピンを往復するという行動状況でした。
 このスペイン艦隊と日本との間で、血生臭いトラブル・事件
が発生する可能性は、起こり得る事でした。
 惨劇が起こり得ないとは予想されず、そして、まったく予想
されないという状況は、その様相から、ありませんでした(発
生が予測されたので、そこでその日本人の国王への進言となっ
た訳でした)。
 これ等の事が、これから、日本の鎖国政策へとつながってい
く遠因の一つとなったのでした。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
その2: また信長の時代のはなし、インドから、キリスト教
の布教を強力に進めるため、『カブラル』という宣教師が、日
本に派遣されて来ました。
 彼は、『布教長』という日本で一番偉い指導的立場になりま
した。
 このカブラルの日本人観は、「彼等(日本たち)は、自尊心
の高い国民であるから、厳しく取り扱わねばならない」との考
えでした。
 また、カブラルは、日本人を『黒人で低級な国民』と呼び、
その他、侮辱的な表現を用いたりしました。
 (これは、キリスト教の教義から、現地人は、南米でもアフ
リカでも、人間ではないとか黒人と蔑(さげす)められました)
 カブラルは、しばしば日本人に向かい、『とどのつまり、お
前たちはジャポンニス(日本人)である』というのが常で、
 彼等(日本人たち)に対して、彼等が「誤った低級な人間」
であることを理解させよう・・としました。
 この様な態度を、日本人がどれほど嫌悪したことか。
 日本人修道士との間に不一致が招来したのは、当然のことで
した。
 カブラル布教長は、また、日本人を「われらの(ヨーロッパ
人の)習慣にしたいと考え、逆に、ヨーロッパ人を彼等(日本
人たち)の習慣にさせるべきではない・・としました。
 彼によれば、日本人は黒人であり、まったく野蛮な風習を持
っているというのでありました。
 従って、カブラルは、日本の風習には順応しませんでした。
 カブラルは、常に、日本の風習は親しみ難(がた)いものだ
と思い、これを悪しざまに言いました。
 日本の風習を覚えようとはせず、休息の時、またその他の機
会にこれを嘲笑し、自分たちの風習を優れたものと思い込んで
いました。
 この考えは、日本人を立腹させました。
 カブラルは、日本人修道士が知識を持たないようにもしまし
た。
 日本人修道士がポルトガル語を覚えることを許さず、
 彼らの中から司祭が出ぬようにとラテン語も学ばせず、
 学問をさせませんでした。
 カブラルは、日本人は高慢不遜と思いました。
 カブラルは、日本人は悪徳に走る傾向があると言い、
 日本人のための神学校を建てることに反対しました(その様
なレベルの人間ではないと言いました)。
 カブラルは、日本語は難解な言語なので、日本語で外国人は
説教できるわけがないと考えました。
 事実、カブラルは、13年の間、日本布教長として日本で過ご
しましたが、その間、日本語をほとんど学ぼうともしませんで
した。
(あまりに腹ただしいので、以下を略します)(本:「南蛮資
料の発見」・中公新書)をお読みください。
 (私の感想)キリスト教は、プロパガンダ(嘘宣伝)で、あ
まりにも彼ら・宣教師やキリスト教を美化して宣伝し過ぎてい
ます。本文はその実態を伝える1例です。

2013年6月6日木曜日

それを、宣教と称した。

 題:それを、宣教と称した。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 朝鮮へ軍隊を派遣するぐらい「充実した軍隊を持っていた豊
臣秀吉」。
 この様な、強大な軍事国家だった日本だからこそ・・、
 殺戮と占領の「キリスト教徒およびキリスト教聖職者たち」
の蛮行を受けずに済んだ。
 織田信長という不出生の戦略家は、宣教師たちと積極的に接
触した。
 そして、進んだヨーロッパ・キリスト教国の「先進的な武器」
を手に入れ、使いこなすこと」に専念した。
 先進的な知識摂取を優先した彼は、宣教師たちと積極的に接
した。
 有名な戦いであった「勇猛な武田軍に対した戦い」、不利な
立場だった中小企業軍団の織田軍が、勝利し・破った「長篠の
戦い」。
 キリスト教宣教師たちと接して得た先進的武器の鉄砲を、
「鉄砲隊」として使うというアイデア、
 そして、「弾込め」に時間がかかると思えば、複数の隊列を
時間差をもって用いるという戦術・戦略家が、キリスト教宣教
師たちを驚かせた。
 これらの行為・状況が、日本をキリスト教徒とキリスト教宣
教師たちの蛮行から、日本を救い、そして、蛮行を起こすこと
を防いだ。
 南蛮人・キリスト教宣教師たちに、その偉大さを示していた
からこそ、南蛮人に南米の様な殺戮と占領を起こさせなくて済
んだ。
 殺戮を受けた南米・中米・北米メキシコ、及び、その離島の
人たち・インディオの方たちは、
 「武器らしい武器を持たない平和な民」だった。
 持っていると言えば、木製の「投げ槍」程度で、
 コロンブス達が初めて上陸した時、かれらが武器を持ってい
なくて、また当然、武器らしい武器が無いから、攻めることも
しないことにびっくりしている。
 また、彼らの信仰が、運悪く、「天から素晴らしい人が来る」
という信仰であった。
 そして、この純心な、そして、純真無垢な人たちは、「南蛮
人を歓迎する心をもって、警戒心の欠片(かけら)も持ってい
ない、今で言うリスクを感じない対応をした。
 逃げることは逃げるが、すぐ、人なつこく寄って行った。
 外敵の経験がまったくなかったからで、(ある戦闘的な部族
は居たらしいが)、そして、幸い、コロンブス達が、「物を交
換するという態度」で接し、国へ帰って行ったから良かったが、
 彼らは結局、このコロンブスの後に、この地へ来たキリスト
教徒とキリスト教聖職者たちに、このインディオの方達は、殺
され、駆逐されてしまった。
 その悲惨な行為は、筆舌につくせぬ状況で、本『インディア
スの破壊についての簡潔な報告』に記されている。
 欲の塊(かたまり)のキリスト教徒とキリスト教聖職者たちは
黄金を手に入れたいという本心に猛進し、(キリスト教聖職者も
積極的にこの行為をしている、また、王へ献上すべき黄金を渡さ
ず、私腹を肥やしたとの事)、
 そして、誰も居なくなった地に教会を建てた。それを宣教と
称した。

2013年6月4日火曜日

アフリカの人々が奴隷にされないために介入し、(奴隷貿易をしたのだ)

題: アフリカの人々が奴隷にされないために介入し、(奴隷貿易をしたのだ)
....(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 アフリカの方々を奴隷として、
 数えきれない人数の方々を、
 「奴隷狩り」という非人道的な言葉がある如く、
 そして、
 「奴隷海岸」という悲しい名の地がある如く、
 アフリカの地から狩り出された多くの方々。
 『歴史に残る・・人類の大汚点』。
 狩り出し行為をしたのは、
 ヨーロッパのキリスト教国の諸国と、
 やはり、キリスト教国のアメリカ合衆国。
 キリスト教の聖書は、
 「自分の民族のみ」に利する教義に満ちているが、
 「自民族に利すればよい」という教え・教義の行為を、キリ
スト教の神が率先して行う。
 キリスト教の神は、「神の義があるから攻めよ」と、
 そして、叫ぶ、「奴隷にせよ、奴隷にせよ」・・と。
 「人道的見地から、行動は躊躇します」などという面は、
 おくびにも無い、毛の先ほども無い。
 (参考)おくびにも出さない:物事を深く隠して、決して口に出さず、それらしいようすも見せない。おくびにも見せない。
 アフリカの方々を奴隷に狩り出し、
 「奴隷貿易で人を家畜同様に扱う『人家畜商売』。
 人を家畜同様に売買し、利益を欲しいままに得るキリスト教
国。アフリカの方々を人と見ないキリスト教の教義に洗脳され
て行なう事。
 運搬船も、人として取り扱っていないため、4人に1人以上と
いう死亡率の状態。非常に多くのアフリカの方々が、運搬中の
船の中で亡くなった。
 この様な蛮行をし、
 利益を欲しいままに得ている行為に対し、
 次の様な屁理屈論理で、自分たちの悪行為を正当化しようと
してる。
 「アフリカの植民地を分割し、その行為に加わり、そして、
侵略もしましたが、アフリカを、ヨーロッパに隷属させようと
する侵略ではありません。
 その土地で行なわれて来たアラブ商人による奴隷売買の悪習
を止めさせるという正義のための介入でした」・・と主張した。
 「外からの力を加えること無しには、アフリカの人々が自分
たちの生活を救い出す事は出来ない、
 アフリカの人々が奴隷とされないようにするためには、
 ヨーロッパ諸国の介入が必要だったのだ」・・という主張。
 中世の何も知らない、また、知らしめられない民とは、現代
人は違うのです。真実を知っています。
  (追伸)
 ヨーロッパ諸国は、植民地で、砂糖、コーヒー、綿花、タバ
コなどの農作物を農園で作り出した。
 しかし、労働者の不足に悩まされた。
 ヨーロッパ諸国は、インディアンを奴隷化した。
 そしてまた、これと同じ時期に、アフリカ大陸の大西洋沿岸
にも進出し、現地のアフリカ諸部族の黒人有力者から黒人を買
い取り、南北アメリカ大陸に輸出するという非人道的な『奴隷
貿易』をやった。
 そして、更なる悪行をした。『死の商人』である。
 『進んだ火器』を渡し、黒人の方々と交換した。
 日本の戦国時代のキリシタン大名が、その時代の必要性から、
進んだキリスト教国の武器『進んだ銃火器』を欲しがったのと
同様に、そのキリスト教国は、黒人の諸部族に自分たちの『進
んだ武器』を与え、その土地の黒人の方々を『奴隷』として連
れ去った。
 
 また同時に、当時進出していたインド産の木綿をアフリカ諸
 国の黒人有力者に売った。
 初期の奴隷貿易は、カリブ海地域および中南米が圧倒的であ
った。
 アメリカ合衆国では、インディアンの方達が奴隷化されてい
た。(18世紀)、もっぱらサウスカロライナ州を中心に、イン
ディアン奴隷の売買が盛んであった。
 アメリカ合衆国の黒人奴隷の方達は、プランテーション経営
が盛んになるに従って、多くの黒人の方々の安い労働力を多量
に必要としていた時から盛んになった。
 奴隷制度によって維持されるアメリカ南部の広大なプランテ
ーション農業が盛んになったのは、19世紀に入ってからである。
                (参考:wikipedia)

生まれによって賤(いや)しい人となるのではない。

題: 生まれによって賤(いや)しい人となるのではない。
.....(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 仏教以前の宗教(例えば、バラモン教など)には、
女性の出家者が許されてなく、女性出家者は居なかった。
 しかし、
 
 仏教には女性出家者(尼僧)が居た。
 佛教が出来ての最初の女性出家者は仏陀の養母でした。
 (仏陀の実母は仏陀を産んですぐに亡くなられている)。
 この女性出家者の存在は、はるかヨーロッパのギリシャ人に
とっても驚きの先進的状況でした。
 このことは、シリア王の大使でギリシャ人の「メガスティー
ネス」が、インドの王のもとに来た時の見聞録に記録されてい
ます。
 その記録によれば、
 「尼たちが居て、そのうえ難解な事を男僧と共に、男女が分
け隔てなく議論していたことが、インドの驚くべきこと」とし
て記されています。
 その点、キリスト教は、現代の今時点においても、女性は聖
職者になれないなどの女性蔑視・男尊女卑をしています。
 そして、キリスト教の一番偉い地位であるキリスト教法王が
「女性は男の骨から出来ているのだし」と、女性聖職者が誕生
できない理由を、キリスト教の教義によっていることを述べて
います。近代においても、前近代的宗教の状態に置かれていま
す。
 仏教の基本の考え方は、この例の様な男女の平等性はもちろん、
 
次の仏陀の言葉によって分かります。
   「 生まれによって賤(いや)しい人となるのではない。
      生まれによってバラモン(高位者)となるのではない。
       行為によって賤しい人ともなり、
 
        行為によってバラモン(高位者)ともなる」。
                   (仏典:スッタニパータ)