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2015年10月30日金曜日

(増補版)234D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1845年~1847年)

題:(増補版)234D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1845年~1847年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1845年、シーク(シク)戦争が起きた
  (イギリスの全インド支配の戦争)
  イギリスのインドにおける戦争で2回起きた。
  シク王国は、イギリスのインドに於ける支配が進む中
 でイギリスに対抗していた。
  イギリス軍の領内通過も拒否していた。
  この当時、インドに於ける唯一の独立した地位を保つ
 国だった。
  1845年~1846年と、1848年~1849年と二度に渡って戦
 った。
   イギリスは、この戦いに勝って全インドを支配下に置
 いた。
  東インド会社はイギリスの隠れ蓑。完全なるイギリス
 という国家がインドを駆逐して行った。そして、利益は
 すべて国が吸い上げた。
  「植民地が無くなったらイギリスは三等国になる」と
 言われていた。また、自らもそのように思っていた。
1846年(弘化3)、日本の総人口: 26,708,000人
1846年2月、仁孝天皇崩御(氷川清話)
1846年2月、徳川斉昭(なりあき、水戸藩主)が、幕府に対
 外意見を述べ、江川英竜(えがわひでたつ、幕臣、伊豆韮
 山代官、通称:太郎左衛門)の海防意見を提出した。
  江川太郎左衛門は、高島秋帆に弟子入りして、近代砲
 術を学んでいる。
  幕府に、高島流砲術を取り入れる様に、また、江戸で
 演習を行うように働きかけた。実現した。
  江川太郎左衛門の門下に、佐久間象山、橋本佐内、桂
 小五郎(後の木戸孝允)、大鳥圭介などの幕末の重要な
 人物がいる。
1846年閏5月、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が生まれ
 た(1846年~1866年)(将軍期間:1858年~1866年)
  和歌山藩主の子として生まれた。
  1849年(3歳)、和歌山藩主となった。
  1858年(13歳)、将軍継嗣問題で、井伊直弼に推され
 て将軍となった。
  1860年の井伊の死後、1862年(16歳)に、皇女・和宮
 (かずのみや)と結婚して、徳川慶喜を将軍後見職に任
 命した。公武合体を推し進めた。
  1863年(17歳)、将軍として、229年ぶりに上洛を果た
 した。
  1864年1月(18歳)、再度の上洛をする。公武合体を図
 り、大阪湾の防備を巡察した。勝海舟が随行。
  1865年5月(19歳)、長州処分のため大阪城に入る。
  1865年10月に、外交交渉に不備があったとして、朝廷
 が老中の阿部正外らの官位を剥奪した。
  幕臣は、これを人事干渉として反発した。これで、家
 茂は、将軍職辞表を提出したが却下された。
  1866年(21歳)、第二次長州征伐の際、大阪城で病死
 した。
  これを理由に休戦の朝命が出された。
1846年閏5月、アメリカ船(海軍司令官ビットル)浦賀に来
 て書(通商を求む)を呈す。幕府拒絶(氷川清話)
  アメリカ東インド艦隊司令官のジェームズ・ビドルが、
 コロンバス号とビンセンス号の2隻の軍艦を率いて、浦賀
 に渡航した。
  通商を求めたが拒否された。
  米軍艦の初の日本寄港であった。
1846年7月、佐久間象山、初めて洋書を学ぶ(氷川清話)
  福沢諭吉も佐久間象山の貴重な洋書を、片っ端から読
 んだという。
1846年7月25日、高島秋帆追放、阿部虎之助へ永預け(氷川
 清話)
1846年8月、孝明天皇より幕府へ、海防を厳にすべしとの勅
 命が下った。
  幕府に宛てた「海防勅書」を京都所司代へ伝えた。
  これは、孝明天皇が、自ら外交問題にかかわり始めた
 最初の行為だった。
  この書を伝えた武家伝奏に・・、
  「近年異国船が時々見えるとの噂を(天皇は)内々に
 お聞きになられた。しかし、文道をよく修め、武事も全
 く整っている今日、殊に海辺の防御も堅固の旨、これま
 た兼がねお聞きになられご安心なされてはいたが、近頃
 この(異国船の)噂をいろいろ心に掛けご心配なされて
 おられる。なおこの上、武門の面々は洋蛮を侮らず、小
 寇を恐れず、大賊にはよく籌策(ちゅうさく=策略)を
 めぐらし、神州の瑕瑾(かきん=恥)とならぬよう十分
 指揮を執り、更に宸襟(しんきん=天皇の心)を安心さ
 せるように、とのお沙汰があった」。
1846年9月、大原幽学(おおはらゆうがく、道学者、農村指
 導者)が『微味幽玄考(びみゆうげんこう)』を著した。
  幽学は、仏教、神道、儒教を学び、下総国香取郡で村
 民を指導して村の立て直しを図った。
  また、各地を巡り農村振興に尽くした。
1846年、藤田東湖(ふじたとうこ)『弘道館記述義(こう
 どうかんきじゅつぎ)』初稿成る。
  水戸藩主の斉昭が、東湖に、水戸藩の藩校の弘道館の
 開校に際して、その教育方針を示すために、起草しなさ
 いと命じられて書かれたもの。
  建学の趣意書で・・、
  敬神崇儒(神を尊んで、孔子の思想を尊びうやまう)、
  尊王攘夷、
  忠孝無二(忠義と孝行を二つと無いと思い)、
  文武不岐(学問の道と武芸の道は一体となっている)、
  学問・事業の一致・・という、
  後期水戸学の主要思想が集約的に提示されている。
1846年9月15日、勝海舟、長女・夢子誕生、後、内田氏に嫁
 す(氷川清話)
1846年10月、幕府が、京都所司代を通じて、外国船来航の
 状況を朝廷に伝えた。
1846年12月、幕府が、藤田東湖の蟄居を免じた。
1846年、仏(フランス)船、長崎に来る(氷川清話)
1846年、勝海舟、本所から赤坂田町に転居す(氷川清話)
1846年、メキシコ戦争が起きた。
  アメリカが、メキシコと戦争をして、テキサス・ネバ
 ダ・アリゾナ・ユタ・ニューメキシコ・コロラドを、
 狡猾なやり方・手段で手に入れた。
1847年(弘化4年)2月、幕府、相模、安房、上総の沿岸警備を
 厳にす(強化)。
1847年3月、蘭船輸入の大砲2門を浦賀におくる。
1847年6月、オランダ人、再び、開国を勧める。
1847年、信州松代藩の佐久間象山が電信機を試作した。
 モールス電信機が発明されてから、わずか10年後のこと。
1847年、アメリカにトーマス・エジソンが生まれた
 (1847年~1931年)
  生涯で取得した特許の数は1093件。
1847年、アフリカのリベリア共和国が独立した。
  この年、ヨーロッパの植民地支配を受けていたアフリ
 カの国々のうち、いち早くリベリア共和国が独立した。
  アフリカで、このリベリアの次に独立する国は、110年後
 の1957年のガーナになり、イギリスから独立した。
  この1957年のガーナの独立が、アフリカの国の初めて
 の独立などともと言われているが、リベリア共和国の独
 立があった。
  そして、その説明として・・、
  リベリアの独立のきっかけは、アメリカで起こった奴
 隷解放に関係している。
  ジョージ・ワシントンの甥を会長とする「アメリカ植
 民協会」が現在の一部を購入し、そこに解放奴隷の町を
 作った。
  その後、同協会が、リベリア援助を縮小する方針を出
 したため、1847年に独立を宣言して、共和国憲法を採択
 した。アフリカ最初の共和国が誕生した。
  ・・と、美しく歴史に書かれているが・・?
  リンカーンも関係したこの件は、実は、アメリカに居
 る黒人の方々の棄民であった。
  本ブログの〈 子供たちの「リンカーンの伝記」は間
 違っています(その1) 〉にも書きました。
  リンカーンは、「黒人奴隷を解放した」と言われてい
 ますが、間違いです。
  彼には、黒人奴隷を解放したいという希望や意志は全く
 有りませんでした。
  リンカーンの黒人奴隷解放の意思は、「事の成り行きか
 ら持った」という状態でした。
  その様に仕向けたのは、黒人の黒人奴隷解放戦士『フレ
 デリック・ダグラス』でした。
  また、その組織の働きかけがあったから、その方向に流
 れただけです。これが真実なのです。
  子供たちの伝記には間違いが書かれて居ります。
  正しい内容に書き換えられなければならないのです。
  キリスト教には「黒人は人ではない」とみる歴史があり
 ます。
  この様な見方に影響された人々がしたことは、黒人の奴
 隷解放に一旦ちょっぴり至っても、直ぐに自分たちの利
 にとらわれて、元に戻ってしまうという事でした。
  悲しいかな、黒人の方たちは、「人間ではない、奴隷と
 いう原罪」があると理由づけられた考え方をされていま
 した。
  特に、アメリカ南部は、現在も「バイブル・ベルト」と
 言われている様にキリスト教徒が多い地帯。
  ここの地に、黒人奴隷の悲しい歴史が刻まれました。
  奴隷制は、疑問なく容認する考え方の地でありました。
  キリスト教聖書に説かれている奴隷制、アメリカ南部の
 人達は、当然のごとく、奴隷制を容認し、黒人の方達を
 奴隷として虐げました。
  そして、この南部の奴隷制寡頭勢力は、(かとう‐せい
 【寡頭制】 少数者が権力を握って行う独裁的な形態)、
 自分たちの利が脅(おびや)かされるに及んで剣を引き
 抜き南北戦争を起こしました。
  自分の意に合わない相手を殺す教義「異教徒は殺せ」の
 教義のままに「考え方の違うものは滅ぼせ」の教義どお
 りの行動となってしまいました。
  その様なアメリカの中でも共和党は、アメリカ全土の奴
 隷制反対勢力が応援し、育て、そして、強固にした党で
 した。
  (ちなみに、民主党は、奴隷制を容認する党です)。
  くすぶりの中にあったアメリカは、1861年に南北戦争が
 起き、リンカーンはこの年に大統領に就任しました。
  後代の歴史家が「南北戦争は奴隷解放戦争」と位置付け
 していますが、、リンカーンの大統領就任演説は、「奴
 隷財産を擁護する論理展開をするという演説」でした。
  何と愚かな演説でしょう。
  奴隷制について、反対するか賛成するかわからない州が
 存在したからと言い訳する人たちもいますが、リンカー
 ンのその後の行動からみても「彼は奴隷解放の大統領」
 とは言えません。
  南北戦争の戦況は、リンカーンの奴隷解放への意思がな
 く、不決断もあって、また、軍の首脳部の腐敗もあって
 北部軍は敗北が続きました。
  北部のシンボルである首都=ワシントンが、陥落する危
 険にさらされる緊急事態にもなりました。
  この状況を救ったのが、黒人の黒人奴隷解放戦士『フレ
 デリック・ダグラス』でした。
  奴隷解放に不決断だったリンカーンは、黒人の軍への参
 加をも容認していませんでした。
  フレデリックは、「黒人奴隷も、自由黒人も、黒人を軍
 務につかせよ」・・と、訴えました。
  「奴隷に対する自由が、今こそ国会議事堂から全戦場の
 砲焔の空高く宣言されなければならない」・・と、叫び
 ました。
  「黒人を軍務につかせよ、そして黒人解放軍を組織せよ。
 かれらは南部に進軍し奴隷たちの間に解放の旗を揚げる
 であろう」・・と、世論に訴えました。
  愚かにも、首都ワシントンが陥落の事態になっても、リ
 ンカーンは、「黒人奴隷は漸進的に解放したい、一気に
 解放という事はしたくない」の意思でした。
  また、リンカーンは、卑劣な事に「解放された黒人はア
 フリカかどこかに植民させたい」と考えていました。
  黒人の方たちを捨てるということです。「棄民」の考え
 です。
  当然、黒人の方たちからは、強い反対の声が沸き起こり
 ました。
 ..
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2015年10月29日木曜日

(増補版)233D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1843年~1845年)

題:(増補版)233D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1843年~1845年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1844年(天保15年)(弘化1年)1月、天保暦(てんぽうれ
 き)を採用した(1843年説あり)
  1842年に改暦が決まり、幕府が、天文方の渋川景佑ら
 に命じて作らせた。
  この暦は、1844年から施行され、1872年(明治5年)の
 太陽暦の採用まで施行された(1873年まで施行されたの
 説あり)
1844年、帆足万里(ほあしばんり、儒者、理学者)の『東
 潜夫論(とうせんぷろん)』が成立した。
  東潜夫論は、経世論で、幕府・諸藩などの社会経済、
 国防の改革を論じ、諸制度を批判し、改革について述べ
 ている。
  例えば、幕府には、西力東漸(西の勢力が東の方へど
 んどん押し寄せて来ること)に備えて、洋式の大艦を建
 造する、
  そして、大砲・鉄砲の充実と訓練、大名城郭の石造、南
 北国境に大名を封じ、防御体制を充実すべき・・、
1844年、間宮林蔵が没した(1775年~1844年)(1845・2月
 説あり)
1844年5月、水戸斉昭謹慎、其臣の藤田東湖らも幽閉される
 (氷川清話)
  徳川(水戸)斉昭(とくがわなりあき、水戸藩主)は、
 徳川慶喜の実父で、
  鉄砲斉射(せいしゃ、一斉に射撃すること)事件や、
 藩内の派閥が絡む原因などで、幕命によって、家督を嫡
 男に譲った上、強制隠居となった。
  そして、藤田東湖も、5月に、斉昭の処分と共に失脚し、
 藩邸に幽閉された。
  斉昭は、1846年に謹慎が解除され(1844年11月説あり)、
  1849年に、藩政関与も許された。
1844年5月、和蘭書をよせて欧州の形成を告ぐ(氷川清話)
1844年5月、江戸城火災(氷川清話)
  江戸城本丸が全焼し、翌年2月に、殿舎再建成る。
1844年6月、印旛沼開墾停止
  1843年に、勘定奉行の鳥居輝蔵を責任者として、沼津
 藩、鳥取藩、庄内藩、秋月藩、上総貝渕藩の5藩が、御手
 伝普請が命じられて、工事は進められたが、
  多大な金銭的負担や、人的に大きな犠牲を払う事で失
 敗になった・・とある。
  水害対策など難しい工事であった。
1844年6月、水野、老中に再任、
  5月に、江戸城本丸が火災となったが、その再建費用を
 老中首座の土井利位は、集められなかったことが発端で、
  また、将軍・家慶の不興も買った、
  そして、外国問題の紛糾などもあり、水野忠邦が老中
 首座に再任された。
1844年7月、オランダ国王の開国勧告
  オランダ国王のウィレム2世から、将軍へあてた手紙を、
 遣日大使になった海軍大佐のコープスが、軍艦のパレム
 バム号で長崎に持って来た。
  開国が勧告されたが、幕府は、国王の親書のみを受理
 し、開国は拒否した。
  使節は、親書と献上品を置いて去った。
1844年12月、天保15年から弘化1年に改元された(氷川清話)
1844年、箱館、国後(くなしり)など11か所に守備兵が配
 備され、15か所に砲台が築かれた。
  弘化の改元から、「弘化台」という。
1844年、フランス船が琉球に来航した。
  フォニエル・デュプラン大佐が率いるフランス海軍の
 遠征隊が、琉球に来航した。
  通商を求めた、
  薩摩藩に限り、琉球対仏貿易を許した(通商拒否の説
 もあり)
1844年、勝海舟、佐久間修理(象山)を訪う、一見旧知の
 如し(氷川清話)
1844年、シーボルトは、1830年に、オランダに帰着した。
  シーボルトが帰国するときに、500種800株の植物を積
 み込んだ。
  そのうち、ヨーロッパに移植が成功したもので、生き
 残っていたのは204品種だった(129種の記述もあり)
   シーボルトが作成した販売カタログには、
  バイカイカリソウ、イカリソウ、トリカブト、ショウ
 ブ、シャクヤク、ヌルデ、サルトリイバラ、チャ、ツバ
 キ、ガガイモ、ツルボ、シキミ、サネカズラ、ネズミモ
 チ、カノコユリ、エビネ、シュンランなど
1845年(弘化2年)1月、新砲台を浦賀に築く(氷川清話)
  浦賀に新砲台が築造された。
1845年2月、米船、漂民を浦賀に送る(氷川清話)
  アメリカ捕鯨船のマンハッタン号が、浦賀に来航した。
  日本人漂流民を送還した(阿波館山に来たの説あり)
1845年2月、江戸城本丸の修築が成った。
1845年3月、高野長英、脱獄(氷川清話)
  伝馬町の獄舎を火災にし、高野長英は、逃走した。
1845年6月、幕府、オランダ国王に返書、開国勧告を拒否。
1845年、幕府が、海防掛を設置した
  この年に、老中の阿部正弘・牧野忠雅らが任じられて
 以降、常置となった。
1845年7月4日、イギリス船、長崎に来る(氷川清話)
  イギリスの測量船が、伊王島(長崎県)沖に来航した。
  測量許可と薪水を求めた。
  薪水を与えて出港を命じ、7月8日に、出帆した。
1845年8月、甲比丹(船長)を召し幕府より蘭国王への書及
 び青貝細工などの贈品を贈与する。開国は拒絶。
1845年9月、勝海舟、幕臣、岡野孫一郎の娘・民子(実は砥
 目氏)を娶る(氷川清話)
1845年9月、水野忠邦ら罰せられる。
1845年 阿部正弘、老中首座となる。
1845年12月、蘭人の外出を厳しく取り締まる。
  蘭人は、月に5~6回は病気保養と称して市街(長崎)
 を遊歩することを許されていた。
  近年は度を越えることがあったことによる。
1845年、杉田成卿、翻訳局員となる(氷川清話)
   杉田成卿(すぎたせいけい、蘭学者)、杉田玄白の孫、
  (1817年~1859年)
  1840年に、幕府の天文台訳員に任じられた。
  1844年に、命を受けて、オランダ図書の翻訳にあたっ
 た。
1845年、勝海舟、専ら泰西の兵学を修む、また、筑前藩・
 永井青崖について蘭書の習読を始む(永井は、溜池黒田
 邸住)、
  手紙に禁足を申付けられたので夜中潜行云々とあり、
 当時、西洋のことをほめ、横文字を学ぶことは、世の中
 から嫌われ、支配頭の処分で禁足されたものだろう(氷
 川清話)
1845年、オランダ船によって、日本に初めてパイナップル
 の種苗がもたらされた。
1845年、アメリカ・インディアンの方々の反撥
  アメリカ合衆国に好き勝手にやられ、繰られていたイ
 ンディアンの方々が反発した。
  テキサスが、アメリカ合衆国の州に入ることに対して、
 コマンチ族は拒否した。
  「これから、10年間、コマンチ族とアパッチ族は、自
 分たちが本当のこの国の持ち主だ」と主張したゲリラ戦
 を開始した。
  彼らの土地が、入植者の手に渡ることを阻止する行動
 をした。しかし・・、
1845年、「マニフェスト・デスティニー」という言葉があ
 る。
  マニフェストと言えば「政権公約」であり、「政策宣
 言」の意味である。
  また、デスティニーは運命の意味であり、宿命の意味
 である。
  そして、「マニフェスト・デスティニー」は、辞書に、
  「1840年代、アメリカの西方への領土拡張を正当化す
 るために使用されたスローガン」・・とある。
  アメリカ人は、「明白なる使命」とか、「明白なる運
 命」とかという言葉で、正当化を洗脳された。
  この洗脳が、歴史の中で消えることなく、アメリカ人
 の頭の中に、さも正しい行動の様に洗脳され、錯覚され
 て入り込んでいる。
  そして、アメリカ西部を手に入れ、先住の方々を駆逐
 し、虐殺し・・
  そして、その後までも、太平洋の島々を次々と手に入
 れ、フィリピンを手に入れ、太平洋の西端の中国に至り、
 日本と衝突した。
  その洗脳のスローガンが、この年に、ジョン・オサリ
 バンが初めて用いた。
  アメリカ人は、洗脳化された頭で、「文明化」とか、
 「天命」とかと、勝手に良い方向へ、拡大解釈し・・、
  インディアンの方々を、悪い意識も、気持ちも起こさ
 ずに、安易に、簡単に・・虐殺の限りをした。
  正当化する筋を見つけ、語って・・悪行為を続けた。
  誰も気づかず・・、気付いた人も居たのだろうが・・、
  「みんながいいのだ」と・・、相手の方々・インディ
 アンの先住の方々を・・誰もが思いやらず、
  自分の富だけを追求した。
  そのように教えるキリスト教の聖書の通りに行動した。
  わが民族が幸せであれ、同民族で、同じ宗教を信じる
 者こそ幸せであれと、悪の行為の限りを尽くした。
  メキシコとの戦争、スペインとの戦争、イギリスとの
 戦争、フランスとの戦争、ハワイの併合、日本との戦争、
  すべてが、このラインに入った悪の論理展開だった。
  アメリカは、今でも、この擦り込みは消えていない。
1845年、アメリカは、1846年~1848年にメキシコと戦争を
 するが、
  1836年に、メキシコから独立したテキサス共和国は、
 1845年に、アメリカに併合された。
  しかし、この地を、メキシコは、自国の領土と見なし
 ていた。
  また、この年の1845年に、アメリカ大統領ポークは、
 メキシコ領カリフォルニアと、ニューメキシコを譲るよ
 うメキシコ政府に要請した。
  アメリカの強引なやり方で、1846年4月に、アメリカと
 メキシコは戦闘状態になった。
  アメリカの連邦議会は、5月13日に宣戦布告し、
  メキシコ政府は、5月23日に宣戦布告した(アメリカが
 強引に戦争状態に持ち込んだ戦争だった)。
  1848年2月に、グアダルーペ・イダルゴ条約を締結し、
 戦争は、アメリカの勝利に終わり、
  アメリカは、カリフォルニア、ニューメキシコなどを
 併合した。
  メキシコは、国土の3分の1を失った。
  日本に来たペリーは、「(アメリカが)メキシコに、
 道徳に背くようなことをやった」と言った(因みに、ペ
 リーはこの戦争で戦っている)。
  アメリカが強盗の様に奪い取ったという感じだった。
  ユネスコの世界記憶遺産に登録申請をすべきだ。
..
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2015年10月27日火曜日

(増補版)232D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1842年~1843年)

題:(増補版)232D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1842年~1843年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1842年(天保13年)10月、米商の忠兵衛らの10人が、困窮
 者へ米405俵を寄付など・・、生活困窮者に、米または銭
 を寄付する町人や米商人が多くなった。
  奉行所では、御救銀会所請払役格に任命し、銀2~3
 枚を褒美として与えた。
  石川県史の「御救米銀」には、
  「凶作の翌年夫食御貸米を給せらるゝも尚食料の不足
 を感じ、百姓以外の者も一般に困窮する場合に在りては、
 米銀・雜穀又は粥を施與せらる。
  之を御救米又は御救銀といふ。
  御救米銀を給すべきや否やは郡奉行・改作奉行の調査
 による。
  山方等の稼業少く、深雪の爲坐食せざるベからざる如
 き地方に在りては、不作ならずとも尚御救米銀を給して
 保護せられしものあり」・・とある。
1842年12月、長崎市中の結髪営業者中20人が、規約を設け、
 賃銭を下げた。
  これを賞して、税金を免除した。
1842年、二宮尊徳(にのみやそんとく、農政家、思想家)
 が、幕府の役人になった。
  通商:金次郎、
  諸藩・諸村の復興に尽力した。
  幕臣になって、日光領の復興をした。
1842年8月29日、南京条約が結ばれた。
  イギリスは、阿片戦争を仕掛け、イギリスは戦争に勝
 った。
  そして、条約が、南京で締結された。
  香港を中国・清から奪うなど、中国にとって屈辱の条
 項が多々ある条約だった。
 ★広州・福州・厦門(アモイ)・寧波(ニンポー)・上
  海の開港、
 ★香港の割譲、
 ★賠償金の支払い・・など、
  この時、中国は、アメリカ、および、ヨーロッパ諸国
 の侵略の最大の対象国だった。
  その背後には、この様な甘い汁が吸える結果があった。
  また、逆に、アメリカや、イギリスなどのヨーロッパ
 諸国には、「世界に膨張する行為」を止めた時、国力が
 低下をすることを恐れていた。
  特に、イギリスは、止めた時に、「三流の国に成り下
 がる」という恐怖観があった。また、この様に、流布さ
 れていた。
  不正は世界の各地で行われていた。
  1813年2月には、南米の極小国・ギアナまでもが紛争の
 対立点となっていて、イギリス船ピーコックが、アメリ
 カ船に撃沈されるなどという事件も起きていた。
  そして、列強の手に落ちる清を日本は見ていて、鳥肌
 の立つほどの恐怖感を感じていた。
1842年、第二次アヘン戦争(1856年~1860年)への道
  清は、悲惨な事に、第二次のアヘン戦争をせざるを得
 ない状況にまでこれからも置かれて行く。
  この年から戦争は始まったと言ってもよい。
  1856年10月のアロー号事件がきっかけで、第二次アヘ
 ン戦争は勃発したが・・、
  この戦争は、イギリスにフランスも加わって、イギリ
 スとフランスの連合軍で、利益を目あてに、戦争が起き
 た。
  清は敗北し、これによってさらに、悲惨な半植民地の
 状態に置かれてしまう。
  1682年以降、既に、
  清国には、『広東十三行』というものがあって、
  清国は富を収奪されていた(清の富を吸うガンのよう
 な存在だった)。
  広東十三行は、許可されて、存続し続けていた。
  アメリカ、イギリス、デンマーク、スペイン、スウェ
 ーデンの「洋行」呼ばれる組織で、巨万の富を手にした。
  広東十三行は、貿易を独占し、徴税行為まで行ない(
 請け負ったと言っているが?)、
  また、貿易を自分たちの統制下に置いて、アメリカ・
 イギリスを筆頭に、甘い汁を吸っていた。
  この悪徳行為は続き、1842年の南京条約以降は、イギ
 リスへ移った。
  さらに、イギリスは、不公正な関税率の設定をした。
  また、裁判権も握った(司法権を自分のものとした)。
  また、最恵国条項も認めさせた(自分だけに、特別に
 利益を得る条項)。
  そして、開港させた港には、軍艦の停泊する権利も認
 めさせ(武力で威圧した)。
  清国政府にやりたい放題の事をしていた。
  そして、卑劣な事に、最初のアヘン戦争の原因だった
 アヘンの中国への売り付けは、相変わらず続けた。
  アヘン(麻薬)を、強権で黙認させた。
  この様な力での、圧力を掛けて、問題が起きれば、武
 力行使で決着をつけようとするイギリスがあった。
  アロー事件は起こるべくして起こった。
1843(天保14)4月、将軍・家慶が、日光廟に詣ず(氷川
 清話)
  将軍の最後の日光社参だった。
1843年4月、水野越前守免職、阿部伊勢守これに代わる(氷
 川清話)(閏9月の説あり)
  上知令(じょうちれい、土地の没収の令)、老中首座
 の水野忠邦は、アヘン戦争の清国の状況を見ていて、イ
 ギリスは、日本に攻めてくるという状況を予測していた。
  そのため、江戸と大阪の十里四方を上げ地して、幕府
 が監理し、対策(防備)を固めようとした。
  大名や旗本の反対に遭った。
  そして、水野の腹心の部下の鳥居が、上知令反対派の
 老中・土井利位に寝返り、機密文書を渡したりした。
  そのため、水野忠邦は、老中を罷免された。
1843年4月、新潟奉行を置く(氷川清話)
  長岡藩に上知を命じ、幕府に上知され天領となった。
  そして、新潟周辺地域を支配するために新設した。
  目的は、日本海の要港としての新潟の防備の充実や、
 当時、多くなった外国船の応接、そして、当時、横行し
 ていた唐物抜荷の取締り、運上の幕府財政への組み入れ
 などがあった。
  1835年に起きた抜荷事件と、天保の改革の上知令が発
 端で、遠国奉行の一つで、老中の下にあった。
1843年、中台芳昌(なかだいよしまさ)の『老農夜話(ろ
 うのうやわ、農業書)』が出来た。
  稲作農業絵巻で、種子の準備、種子浸しの準備、苗代
 作り・・など、
1843年6月、アーネスト・サトウ(イギリスの外交官)が、
 生まれた(1843年~1929年)
  イギリス公使館の通訳、駐日公使。
  イギリスにおける日本学の基礎を築いた。
  日本名は、佐藤愛之助、
  日本滞在:1862年~1883年、1895年~1900年、25年間
  学生時代の本で日本に憧れ、通訳として横浜に着任し
 た。
  日本で日本人女性と家庭を持った。
  生麦事件で幕府との交渉に立ち会い、また、薩摩藩と
 の交渉にも立ち会うが、交渉決裂して薩英戦争となった。
  また、伊藤博文や井上馨がヨーロッパから、急遽、帰
 国した時は、長州まで送り届けたりしている。
  しかし、この時も、下関戦争が始まる。
  長州藩との講和交渉の時も、高杉晋作を相手に通訳を
 務めている。
  パークスが将軍の慶喜に謁見したときも通訳を務めた。
  など、日本の事件の折々に関係している。
1843年6月、印旛沼の開削を命ず
  洪水氾濫の防止対策を目的の一つとしたが、主たる目
 的は、水運(船運)の整備に重点を置いたとある。
  外国軍艦による、万一の江戸湾封鎖に備えた国防があ
 った(この水路を活用した物資運送)。
  掘削工事を5人の大名に命じたとある。
  工事着手はすぐ行われた。
1843年6月、上知令(じょうちれい)が発布された(9月説
 あり)
  幕府が、江戸・大坂10里四方を直轄地とする。
  大名・旗本の反対が強く、同年撤回した。
  改革挫折の直接的原因。
1843年閏9月、平田篤胤(ひらたあつたね)が没した。
1843年閏9月、老中・水野忠邦が免官された。
1843年、勝海舟、剣術の免許を受く。
  「之より先、師の代稽古として諸藩邸そのほか巡回し
 たが、近年、洋学を始めたとの評判から嫌悪され代稽古
 の受けがよくないので次第に巡回を少なくする」(氷川
 清話)
1843年、ルシアン・バイディ(フランス)が、アネロイド
 気圧計を発明した。
  アネロイドは、水銀を使っていないというギリシャ語。
  薄い金属製の容器の内部を真空にして測定した。
1843年、マオリ戦争が起きた。(1860年~1872年説あり)
  ニュージーランドのマオリ族とイギリス人の植民者と
 の間に起きた戦争。
  土地を奪われたことによって武力衝突した。
  1840年に締結されたワイタンギ条約によってニュージ
 ーランドはイギリスの植民地になった。しかし、・・
  ワイタンギ条約は・・(1)マリオ族はイギリス国王
 に主権を渡す(譲渡する)
  (2)イギリス国王はマオリ族の権利を保護する。
  (3)土地の売買はイギリス国王との間でのみ認めら
    れる。
  (4)マオリ族は、イギリス国民と同等のすべての権
    利を持つ・・だった・・、
  1850年代に入ると、イギリスは大量に移民した。
  イギリスからの移住民は、土地が不足した。
  そのため、土地を必要としたので、マリオ族の土地を
 買おうとした。
  あまりの土地買収に歯止めを掛けたいとした。
  そして、1858年に、代表者(マオリ王)を選出し、各
 部族も連合し、マオリ族の方々の土地が無くならない、
 歯止めを意図した。
  そして、先住民のマリオ族の方々は、土地を売らない
 ことを決定した。
  イギリスが安く買おうとする価格の低さにも問題はあ
 った。
  そして、農業振興などもするが、強引な行動をとり始
 める。
  そして、強引な土地測量等を巡って紛争が起き、小競
 り合いが繰り返され、殺戮も繰り返し起きた。
  1860年に、首長・キンギ以下のマオリ戦士1500名と、
 イギリス軍・ニュージーランド植民地軍の3000名が衝突
 した。
  イギリスが約束した、イギリス人と同等のすべての権
 利など、マオリ族の方々になかった。
1843年3月、ある広告がなされた。
  アメリカ合衆国の西部地域に、「入植者を募る広告」
 だった。
  「オレゴンへ向かう移住隊に参加を希望する者は、ス
 レイピング・グロウブに、馬車を引いてきたれ!」と。
  こうした広告が、ミズーリーの新聞に、繰り返し繰り
 返し出されていた。
  広告を見て集まった人々は、年々、増えて行った。
  1869年に、大陸横断鉄道が開通するまで、数十万の人
 々がオレゴンへの道をひたすら西部へ辿って行った。
  その街道が、「オレゴン街道」「サンタフェ街道」だ
 った。
  スー族や、アラパホ族や、シャイアン族の領土を横切
 って行った。
  アメリカ人たちは、途中でも留まり、家畜を飼い、ま
 た、土地を耕したりもした。そこは、インディアンの方
 々の土地だった。
  インディアンの方々の意思表示である攻撃は、映画に
 ある様な形は全くのプロパガンダ(嘘宣伝)。
  インディアンの方々が、怖くて、荒っぽく描かれてい
 るが・・嘘である。
  インディアンの方々は、映画の様に、正面から襲撃す
 る事はほとんどなかった。
  隊列から離れた馬車を襲ったり、
  進行してくる馬車を、先回りして待ち伏せしたり、
  馬車と一緒に移動して、家畜を驚かせて、鳴き声を上
 げさせ、馬を挑発して暴れさせる方法だった。
  そして、幌馬車隊をパニックにさせた。
  アメリカの先住民の方々・アメリカインディアンの方
 々を、野蛮で、獰猛(どうもう)に感じさせるプロパガ
 ンダ(嘘宣伝)だった。
 ..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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