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2015年2月13日金曜日

(増補版)18A:気になった事柄を集めた年表(712年~732年)

 題:(増補版)18A:気になった事柄を集めた年表(712年~732年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
712年、古事記が作られた。
  日本最古の歴史書である。
  太安万侶(おおのやすまろ、太朝臣安萬侶・おほのあ
 そみやすまろ)が編纂し、元明天皇に献上された。
  まずは、稗田阿礼(ひえだのあれ)が記憶し暗唱して
 いた事柄を元にして編纂されている。
717年~741年、イコノクムス(聖像破壊運動)。
  この年に在位するレオ3世は、コンスタンティノーブ
 ルにあったものに聖像破壊運動(イコノクラムス)を始
 めた。
  首都にあった聖像のほとんどを消滅させてしまった。
  多くの教会の装飾や美術品は、オスマン=トルコ時代
 のイスラム教の偶像拒否によって徹底的に破壊された。
  ギリシャ正教の総本山であったアヤソフィア教会にお
 いては、イスラム教徒によってモザイクやフレスコ画す
 べてが漆喰で塗り固められてしまった。
  レオ3世は、799年に襲われて危うかったところをかろ
 うじて逃げ出し、アルプスを越え、フランク王国のカー
 ル1世のところへ逃げ込んだ。
  レオ3世のローマ教皇在位は、795年~816年である。
  816年死去。66歳?(生年不明のため)。
718年、孝謙天皇が生まれた。(718年~770年)
718年頃、大伴家持が生まれた。(718年頃~785年)
718年、養老律令が成った。
  藤原不比等(ふひと)が、養老律令の撰修(せんしゅ
 う、書物を著すこと、または、編集すること)した。
  ここで、大切な事は、日本の律令を作ろうという自覚
 的姿勢があったこと。
  この頃の朝鮮の新羅は、唐の冊封(さくほう、中国か
 ら位を授けられること)を受け、中国の属国になること
 に甘んじていた。
  それに対し、日本は、その様な行動に出ず、日本独自
 の政治体制を敷こうとしていた。
  また、この頃、我が国の国号を「日本」と明確に宣言
 している。
  この事も、素晴らしい先進的意識である。
  この様な事例において、ヨーロッパの場合、現在のイ
 ギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどの国の意識が、
 おぼろげでも登場する時期は、10世紀より以前に遡るこ
 とが出来ない。
  13世紀の説もあるくらいである。
  10世紀としても、日本は、ヨーロッパより300年も早
 く、国、国体の意識が確立していた。
  中国からの国家体制を、モデルとしながらも、日本は、
 独立自尊の意識がある国であった。
  この様な独自の道を進む国は、東アジアでも日本だけ
 だった。
  唐の滅亡後も、特に、中国からの決定的影響を受ける
 ようなことがない日本だった。
  因みに、この頃の日本の推定人口は560万人だった(
 国民総人口)。
720年、日本書紀が完成。
  日本に伝存する最古の正史(帝紀・・天皇の系譜)で
 ある。
  神代から持統天皇の時代が記述されている。
  舎人親王らの撰で完成した。全30巻。
720年、藤原不比等が没した(659年~720年、61歳)
  死後、長屋王(ながやのおおきみ、皇族)が政治の実
 権を握った。
720年、垂仁天皇が、殉死を悼み埴輪を立てた。
720年3月、隼人の反乱。
  九州南部の支持が完全に得られていなかった。
  中国との交流も活発な地域でもあった。
  朝廷は、大宰府を拠点にして体制強化もしていた。
  713年に大隅国を設置し、また、豊前国(ぶぜんのく
 に、福岡県頭部)から5000人を移住させ充実させたりし
 て来た、その中で、朝廷は、律令制、特に班田収授法を
 進めようとした。
  ここに軋轢(あつれき)が生まれた。
  この様な時、720年2月29日に大宰府から朝廷へ『大
 隅国の国司の陽侯史麻呂が殺害された」との報告が伝え
 られた。
  朝廷は、3月4日に、大伴旅人(おおとものたびと)を
 征隼人持節大将軍に、笠御室と巨勢真人を副将軍に任命
 し征討が行われた。
721年、元明天皇が崩御した(661年~721年)
722年、百万町歩開墾計画。
  この計画は、良田百万町歩計画とも呼ばれ、この年、
 この計画が出された。
  この朝廷から出された計画の『壮大な夢の考え方』に、
 国を、大きな心で、豊かにしたいとの心を感じる。
  古い時代にも、日本には、この様な心があった、また、
 この計画に、日本人のスケールの大きさを感じる。
  この計画には、政情が不安定で民が定住できにくいと
 いう事情もあった。特に、陸奥の地がそうだった。
  朝廷は、税である庸調を免じようともしていた。
  また、政情不安定で、都へ逃げて来ている民を、国へ
 帰れるようにしようとしていた。
  今・現在行われている「地方創生」である。
  そして、みんなで良田を開墾しようとしている。
  収穫をあげた人への報償も用意していた(勲位六階)、
 当然、罰もあったが・・。
  1000石以上の功績者には、終身に渡って庸を免除する
 という方針もあった。
  また、辺境の地の開墾や鎮守は大変で重要であるから、
 その貯えを貢進する人には叙位するという事も決められ
 ていた。
  しかし、計画通りにはいかなかった様である。
  この頃、世情が、公地公民の制が崩れ、浮浪・逃亡が
 多くなっていたことも関係している様である。
723年5月、三世一身の法が定まった。
  墾田の奨励のための法律。
  3世代、または、本人一代まで、墾田した田の私有を認
 めた。
  新しい灌漑施設を造って墾田をした場合は3世代で、
  既設の灌漑施設を改修して灌漑・墾田した場合は、本
 人一代の私有を許すというものだった。
  この背景は、食糧増産の政策があった。
  人口が増加していた。
  この事により、墾田開発は進んでいたことは確実。
  この頃、元正天皇のもとで、天武天皇の孫である長屋
 王が政治上の実権を握っていた事も関係している。
  そしてまた、平安時代以降、この班田収授法の実施が
 なされなくなった、公地公民制が崩壊して行ったという
 事と比較して考えると、この時代の政策に輝くものが見
 い出される。
723年、この頃、僧・行基が活躍。民を助け、また、施薬
 院・悲田院を建てた。
724年、陸奥の国に、多賀城が設置された。宮城県多賀城
 市。陸奥国府や鎮守府として機能した。
724年、聖武天皇が即位した。
  聖武天皇の皇后の父は藤原不比等。
  聖武天皇の即位とともに、藤原不比等の子の藤原四子
 (藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂)が政
 界に進出した。
727年、中国の東北部に、渤海(ぼっかい)という国があ
 った。この年以来、日本との外交関係を持った。
  渤海使は、日本海を渡って、まず、出羽に来た。
  そして、京に入った。
729年、藤原四子は、長屋王と政権の座を争ったが、この
 年、長屋王の変で、左大臣の長屋王を謀反の疑いをかけ
 て自殺させた。
  藤原四子は参議となり、9人の参議の大勢を占め、729
 年から737年までの間、朝廷政治を握った(藤原四子政
 権)。
  四兄弟は、737年の天然痘の流行によって相次いで病
 死し、この政権の終焉を迎えた。
  この後、橘諸兄(たちばなのもろえ、葛城王)が、右
 大臣として政権を担った。
  そして、唐から戻った吉備真備や僧・玄昉(げんぼう)
 を登用した。
732年、トゥール・ポワティエ間の戦いが起きた。
  トゥールとポワティエの間で、フランク王国(5世紀
 から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系
 の王国)と、ウマイヤ朝(イスラム史上最初の世襲イス
 ラム王朝、661年~750年)の間で起こった戦い。
  フランク王国は、伝統的に均等分割相続の制度があっ
 た。
  そのため、王位継承の度に国土が分割され、王権は弱
 体化した。
  逆に、王に仕える宮宰は力を強くした。
  7世紀の後半、フランク王国は2国に分かれており、
 それぞれの宮宰どうしが争っていた。
  この争いに勝利したのがピピン2世で、実権を掌握した。
  この内紛に乗じ、イベリア半島の西ゴート王国を征服
 したウマイア朝のイスラム政権が、ピレネー山脈を越え
 て、フランク王国内に侵入を始めた(720年から、大規
 模な侵入を始めていた)。
  イスラム軍の侵入の報を受けたカール・マルテル(ピ
 ピン2世の子)は、トゥールへ軍を進めた。
  トゥールにはイスラム軍が来ていなかったため、南の
 ポワティエに向かった。
  ここでイスラム軍との戦いが開始された。
  この戦いに勝ったカール・マルテルは声望が上がった。
  彼は、この戦いで兵を強くする必要性を痛感した。
  そこで、領土の3分の1を占有していたキリスト教会
 の領を、騎士に貸与し、強化しようと教会領を没収した。
  ピピン3世(在位751年~768年、カール・マルテルの
 子)の代になり、メロヴィング家の王を廃し、自ら王位
 についた。カロリング朝が始まった。
  この頃、東地中海の一部が、わずかにビザンチンの手
 に残ったが、西地中海はほぼ完全にイスラムに制圧され
 ていた。
..
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2015年2月12日木曜日

(増補版)17A:気になった事柄を集めた年表(689年~717年)

 題:(増補版)17A:気になった事柄を集めた年表(689年~717年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
690年、全国的な戸籍の庚寅年籍が作成され、人民を地域
 により編成するという作業はほぼ完了した。
690年1月、皇后(持統天皇)が即位。
  689年に草壁皇子が崩御したので、その遺児で孫にあた
 る軽皇子(かるのみこ、後の文武天皇)が成長するまでの
 間という御心で自ら即位した。
690年7月、高市皇子(たけちのみこ、天武天皇の皇子)が、
 太政大臣になる。
690年、武后(武則天)が、唐室を尽殺し、国号を州都改め
 自ら聖神皇帝と称した。
694年12月、持統天皇が、本格的な都城である藤原京に遷都
 した。
697年2月、立太子(軽皇子)。
697年8月、皇太子(文武天皇)が即位。
  祖母の持統天皇から譲位されて天皇の位につき、即位の
 詔を宣した。
698年、阿倍仲麻呂が生まれた(698年~770年)
8世紀頃、ゲルマン民族の第二次移動と言われる海上活動を
 開始し、略奪者としての印象を残した。
8世紀頃、イスラム商人が、貿易のために、紅海またはペル
 シャ湾から、インドを経て、アジア大陸の海岸線に沿って
 発達した海上貿易のルートが海の道。
8世紀頃、中国で発明された火薬や磁針、陶磁器などが、イ
 スラム世界を経て、ヨーロッパに伝えられ、ヨーロッパ人
 のアジアに対する強いあこがれを引き起こした。
8世紀、インドネシア:この頃に、ジャワにシャイレンドラ
 朝が興り、ボロブドール遺跡を残した。
8世紀、マレーシア:8世紀にスマトラ島にあった王朝の支配
 下に入った。
700年代(8世紀)、ベルベル人(北アフリカに広く居住す
 る先住民族、7世紀以降イスラム化した)の侵入によって、
 スペイン・ポルトガルの地・イベリア半島が征服された。
 以後、約300年支配する。
  「ベルベル」というヨーロッパ・キリスト教徒の言う意
 味は、「ギリシャ世界の外に住む文明化されていない人」
 という意味で、まったく馬鹿にしている。
701年、聖武天皇が生まれた(701年~756年)。
  即位前の名前は首皇子(おびとのみこ)。
  文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
701年1月、遣唐使が任命された。
  大通事は垂水広人(たるみのひろんど)
701年8月、大宝律令なる。
  刑部(おさかべ)親王や藤原不比等が中心になって編集。
  文武(もんむ)天皇より、律令制定を命ずる詔が発令さ
 れた。
  律令による統一的交通網の整備が行われた。
  これは、江戸時代以前の主な社会資本整備となっている。
  また、位階は30階になった。
  律は、今の刑法に相当し、令は、民法に相当する。
  全国は、畿内・七道の行政区に分けられ、畿内は、山城・
 大和・河内・和泉(いずみ)・摂津の5か国である。
  七道は、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の
 各道であった。
  約16キロメートルごとに駅家(うまや)を設ける駅制が
 しかれた。
  駅家では、一定数の駅馬が置かれ、以前には、駅馬伝馬
 の制、牧と貢馬の制があり、政府に鷹狩り用の鷹養育施設
 などがあった。
  また、「三関」が定められ、多くの兵士が配された。
 「畿内を守る役割」とともに、「畿内での動乱が、東国へ
 波及させないという役割」もあった。
  日本は、古い時代から、不幸の源の争いを拡大させない
 知恵を働かせていた。
  遺跡の発掘調査では、西に崖を作り、残りの三方を土塁
 で囲んでいる事が分かった。
  中に建物を並べて建て強力な体制で、用に供していたも
 のだと分かった。
  また、大宝律令の制定で大切な事柄は、班田収授法の本
 格的な成立である。
  班田制は、これ以前の大化の改新などにも見られ、古代
 の日本政治の政策として実施したいとして来た政策であっ
 た。
  これは、古代の日本において、理想の社会を造りたい、
 造ろうという動きであった。
  それは、出身や民族を差別しないで、土地を国有化し、
 平等分配する班田制や編戸制の採用など、専制に基づいた
 とはいえ、公平な世の中を造りたいという政策だった。
  この理念は、現代にも通用する日本人の素晴らしいとこ
 ろ、一気に封建社会を飛び越した理念は誇るべきである。
701年、李白が生まれた(701年~762年)
703年、「満濃池」が築造された。これは江戸時代以前の主
 な社会資本整備である。
706年、藤原仲麻呂が生まれた(706年~764年)
706年、斑鳩(いかるが)の法起寺(ほっきじ)の造営を開
 始した。
708年、日本最初の貨幣の和同開珎(わどうかいちん)が、
 武蔵の国から銅が献上され鋳造された。
  和同開珎は、山城や周防などに置いた鋳銭司で鋳造され
 た。
  和同開珎から、平安時代の中頃までつくられた貨幣を総
 称して皇朝十二銭と言う。
709年、光仁天皇が生まれた(709年~781年、49代天皇)
710年、僧・行基が五泊の制を定めた。江戸時代以前の主な
 社会資本整備である。
  また、行基の社会事業が諸国を行脚して行われた。
710年3月10日、平城京に都が移された。
  この時の天皇は、元明天皇(天智天皇の子)。
  条坊制によって、そのほぼ全体が整然と区画されている。
  平城京遷都は、六国史の中の続日本紀に記されている。
  しかし・・、
  唐の長安を真似たと教科書に書かれているが・・、
  唐の長安の町は、四角く区切られ、里(坊)は、外角と
 は別に、それ自体も城壁に囲まれていて、出入口として、
 里門が設けられ、里内には巷(こみち)が整然と通ってい
 た。
  正方形の里の四面に一つづつ門が開き、兵士が管理に
 あたっていた。
  里門建設の最大の目的は、治安の維持にあった。
  長安では、夜間になると坊門が閉鎖され、街路に出る
 事が禁じられた。
  これは、単に、閉じ込め機能だけでなく、君主の共同
 体(中に居る人たち)に対し、支配力浸透もあるが、富
 豪を集め守り、また、名門有力者を城郭内に移し、且つ、
 権力基盤を強める目的もあった。
  力の結集にもなった。
  科挙の採用によっても、地方氏族の中央官僚化が進展
 し、城郭内に続々と人が集中した。
  軍事制度も、天子の権力基盤を手厚く防備する体制が、
 一段と進めやすく整えられた。
  支配の安定が図られた。
  日本には、この様な坊門管理はない。
  坊城や坊門が、あったとしても、朱雀大路に面した辺り
 にしかなかった。
  故に、いくら坊門を管理しても、夜間通行の制限には効
 果はない状態だった。
  何故、日本はこの様にしたのか?
  つまり、日本は、唐の様な悪い治安でもなければ、臣
 下や民を囲い込んでおかなければならないほど、人身・
 民度の低く、乱れた状態ではなかった。
  つまり、そこまでする必要はないと知っていた。
  では何故、朱雀大路に面した所にだけ、坊城や坊門を
 設けたのかと言うと・・、
  儀容(ぎよう、礼儀にかなった姿や態度)である。
  「続日本紀」には、唐や新羅からの使いが入京した際
 に、官人が騎兵などの一団を率いて彼らを出迎えたこと
 が記されている。
  そして、外国使節は、まず平城京の羅生門をくぐり、
 宮城南面の朱雀門に続く朱雀大通りを直進した。
  朱雀大路の両側の坊城や坊門を、使節は見ながら宮城
 への大路を進んだ。
  その儀容だった。
  日本の皇帝の城に至る大路だった。
  日本の為政者には、民を軍事基盤に利用してやろうと
 いう心はなかった。
  自分のために住民を「閉じ込めよう」という考えはな
 かった。
  屯倉や三関を地域に設け、管理者を置くというスケール
 感で安全・安定を図っていた。
  基本的な人間観の違いにあった。
710年、日本は、厳密な意味で、唐から学んではいない。
  すべてを換骨奪胎(かんこつだったい、新味を加えて
 独自のものとする)して日本のものとしている。
  教科書や歴史書の多くが「唐から学んだ」と言うが、
  そこに、日本の叡智(えいち、優れた知恵)の取捨選
 択があり、日本のものに再構築されたものを造り上げて
 いたという所に気が付かねばならない。
  この日本の資質の高さを誇るべきである。
  昔から、日本には、この資質・智慧があった。
  もう1例を上げれば、
  平城京の律令制においても、基本的なところで、大き
 く日本の制度へと改革して実施している。
  日本は、太政官に権能(けんのう、法律的に実施できる
 能力、公の機関の権限)を集中している。
  唐は分散していた。
  権力中枢の大きな考え方の違いだった。
  また、唐は、皇帝崇拝と神の代償としての絶対化による
 政治形態だったが、日本の天皇は、神の祭司として祭政は
 分離されていた。
  近代政治でも祭政分離(政教分離原則)が基本となっ
 ているが・・。
  唐の様な政治形態は、もともと日本にはなじまないもの
 だった。
711年、蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)を出して貨幣の
 流通を図った。
  当時は、米・絹・布などが貨幣の役目をした。
711年、7世紀の前半にアッラーの教えが説かれてから、イ
 スラムの勃興は凄まじかった。
  西方の伝搬は、アフリカの地中海岸を進み、この年の
 711年に、スペインへ渡った。
  そして、一気にゲルマン人の国の一つの西ゴート王国を
 倒した。
  そして、ピレネー山脈を越えて、ガリア地方(フランス)
 に進出した。
712年、越後国と陸奥国をさいて出羽国をおいた。
712年、古事記ができた。(上)(中)(下)の三巻。
  太安万侶(おおのやすまろ)による。
712年、杜甫が生まれた(712年~770年)
712年、唐の玄宗皇帝が生まれた(712年~756年)。(開
 元の治)。
713年、風土記撰上の詔が出され、風土記の編纂が命じられ
 た。
717年、遣唐使として阿倍仲麻呂・吉備真備が唐に渡る。
  阿倍仲麻呂は、霊亀3年と養老元年(717年)に遣唐使
 となっている。
  717年の時は、多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行
 し、唐の都・長安に留学する。
  唐の太学で学び科挙に合格し、唐の玄宗に仕えた。
  後に、安南節度使としてベトナムに赴き総督を務めた。
  761年~767年の6年間も、ハノイに在任した。
  大都督(従二品)官位が授けられたが、日本に帰る希望
 はかなえられなかった。
  770年1月、73で死去した。
  当時の日本政府は、彼の遺族に、絹と綿を贈った。
  彼の家族は貧しく、葬儀も十分に行えなかったという。
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(増補版)16A:気になった事柄を集めた年表(661年~689年)

 題:(増補版)16A:気になった事柄を集めた年表(661年~689年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
662年1月、斉明天皇と中大兄皇子は飛鳥を出て筑紫の朝倉
 の宮に移って、朝鮮半島の救援のための百済援軍の準備
 をした。
662年2月、中国・唐の武将・蘇定方が、朝鮮半島攻撃の為
 に平壌城に赴(おもむ)き包囲するが、雪により苦戦し、
 包囲を解いて帰国した。
662年3月、日本の救援軍が、現在の朝鮮半島の忠清南道に
 あった周留城に入った。
662年8月、倭国に631年から人質として来ていた朝鮮の百
 済の王子である豊璋を、急遽(きゅうきょ)、帰国させ
 るとともに(百済を復興させようとの軍の強化と、太子
 の豊璋王を王へ擁立しようとした)、そしてまた、阿倍
 比羅夫らからなる5000人の救援軍を朝鮮半島へ派遣した。
663年3月、日本軍、救援のために新羅へ出兵。
663年8月、日本と朝鮮の連合軍が、白村江(はくすきのえ)
 で戦うも(663年~666年)敗北した。
  この戦いの結果、戦いに勝利した大国の唐が、大陸に
 出現した。
  また、この時、日本も、唐の占領下に入る危険性もあ
 った、属国化の危険性があった。
  朝鮮半島の白村江で行われたこの戦いは、倭国と百済
 国の遺民の連合軍(倭軍第一派1万余人・661年5月出陣、
 第二派2万7千人・662年3月出陣、第三派1万余人)と、
 唐と新羅の連合軍(唐軍13万、新羅5万)との戦いだった。
  この頃、唐は、あちこちで諸民族を征服し、唐の勢力
 圏は広かった。強力な国だった。
  敗戦の結果、日本は朝鮮半島の権益を失った。
  敗戦による日本の属国化の危険性は、日本の為政者を
 慌てさせた。
  日本は、国防体制・政治体制の変革の必要性を感じ、
 国家体制の整備が急速になされた。
  律令国家の建設のピッチも上がった。
  国号も『日本』とした。
664年、朝廷、辺防に着手。
664年、対馬・壱岐に烽火(とぶひ)を置き、また防人を
 置き、筑紫には防人を置き、防衛施設である水域をつく
 った。
  烽火とは、のろしを上げて外敵の侵入を急報する設備
 である。
664年2月、冠位26階を制定した。氏上、民部、家部を定め
 た。
664年2月、唐より劉仁願(白村江の戦いで倭軍を破った唐
 の武将)が来た。
  百済占領の軍司令官として日本と交渉を持ち、安定を
 図った。
664年2月、唐と新羅の同盟締結。
  新羅の金仁問は、唐の勅使・劉仁願、百済扶余隆と熊
 津で同盟を結んだ。
664年5月、蘇我臣連子が死んだ。
666年12月、唐が高句麗を討伐した。唐は、644年~668
 年まで3次にわたって討伐している。
667年3月、天智天皇が近江の大津へ都を移した。
667年8月、新羅の大軍が、平壌に向かって出陣した。
668年、近江令ができた。
668年、東ローマ皇帝のコンスタンス2世が、滞在中のシチ
 リア島で暗殺された。
668年1月、中大兄皇子が即位した(天智天皇)。都を近江
 に遷都した。
668年8月、新羅の貢調使が来朝した。
668年9月、唐が新羅と共に平壌を攻略し、安藤都護府を置
 いた。
668年9月、高句麗が滅亡した。
  朝鮮半島は穏やかな時代が過ぎていた。
  北に高句麗、南に新羅と百済があった。
  中国の地に唐が国を統一するや、その状態は一変した。
  新羅は、唐と手を結んで、半島に唐の大軍を引き入れ、
 まず百済が滅ぼされ、次に高句麗が滅んだ。
  そして、この年に、唐は、高句麗の地をおさめ、直轄
 地とした。
  その後、新羅は、唐に駆逐されない様に中国式国家を
 つくった。
  そして、唐に対し、無害の存在であることを示した。
  新羅の人たちの名前まで中国式にした。
  そして、この時、668年9月、新羅は唐と結んで、高句
 麗を滅亡させた。
  唐に敵対するのは日本だけだった。
669年、天智天皇は、唐との国交正常化を図り、この年に、
 河内鯨らを遣唐使として派遣した。
669年10月、藤原鎌足が死んだ(56歳、一説は50歳)
670年2月、全国的に戸籍作成(日本)。
  天智天皇が庚午年籍(こうごねんじゃく)をつくった。
  これは、永久保存された戸籍。
670年7月、新羅が、百済の旧領の八二城を攻略した。
671年、唐と新羅が対立する(唐・新羅戦争)。
  新羅は、対唐戦争に対処するために対日外交を積極的
 に推進し、支配下に入った高句麗、百済、耽羅(たんら、
 済州島)の使者を日本に送った。
671年1月、太政官執政部の任命。
671年1月、唐人・李守真が、熊津郡督府から筑紫に来て上
 表(じょうひょう、意見を書いた文書を君主に奉ること)
 した。
671年10月、大海人皇子が出家した。
  病床にあった天智天皇は、弟の大海人皇子を呼び、天
 皇の位に(この当時はまだ「大王(おおきみ)と呼ばれ
 ていて、「天皇」という称号を使っていない)を譲るこ
 とを伝えた。
  大海人皇子はこれを辞退し、即座に髪を切り出家して
 吉野宮へ移り住んだ。
671年11月、五大官の誓盟。
  大友王子を含めた重臣たちが、織物仏の前で誓盟を交
 わた、これは、大友皇子を天皇にするという事だろうと
 言われている。
671年12月、天智天皇が崩御した。
672年、飛鳥京に遷都した。
672年6月、壬申の乱が起きた。
  近江(滋賀県)の大友皇子(おおともみこ)と、吉野
 で挙兵した大海人皇子(おおあまのみこ)の争い。
  大海人皇子が勝利した。
672年7月、近江朝が覆滅(ふくめつ、完全に滅びること)、
 大友皇子自害。
673年2月、大海人皇子が、飛鳥浄御原宮(あすかきよみは
 らのみや)で即位し、天武天皇になった。
675年、牛、馬、犬、猿、鶏の肉を食用とすることを禁じ
 た。
675年2月、諸氏の部曲を廃止した。
675年2月、唐の武将・劉仁軌が、新羅を破った。
676年、新羅(しらぎ)、この年、唐を駆逐して朝鮮半島
 を統一した。
679年、ベトナムのハノイが、唐の直轄地となった。
681年、律令の編纂(へんさん)開始。
681年、諸国に命じ天下に大解除(おおはらえ)を行う。
  おおはらえは除災行事のこと。
681年2月、律令改修の詔。立太子(草壁皇子)。
681年3月、帝紀などの編述にかかる。
694年、藤原京に遷都した。
683年、唐の高宗が崩御すると、子の李顕(中宗)が即位
 するが、中宗の皇后・韋氏が、血縁者を要職に登用した
 ことを口実に、太平公主(高宗の娘)を使って中宗を廃
 位し、その弟の李旦(睿宗)を、新皇帝に擁立した。
  睿宗は、武后(武則天)の権勢の下、傀儡に甘んじる
 事を余儀なくされた。
  武則天(高宗の皇后)の専横に対して、皇族が次々と
 挙兵したが、いずれも打ち破られた。
  民衆は、武后に恐怖を感じ、朝政も生活を困窮に至ら
 しめ、多くの浮戸(土地を持たない生活困窮者)や逃戸
 を招いたが、農民蜂起が起こる程の情勢ではなかったた
 め、反乱軍に同調する者は少なく大勢力には発展しなか
 った。
  高宗が没したが、皇后・武氏政権を握った。
684年10月、天武天皇は、八色の姓(やくさのかばね)を
 定め、豪族を天皇中心の身分秩序に編成した。
  八色の姓は、真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰
 (すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣・
 連・稲置である。
685年1月、冠位の制を改め、60階とする。
686年9月、天武天皇が崩御する。皇后称制。
686年10月、大津皇子の異変。大津皇子が自害。
688年、鑑真が生まれた(688年~763年)
689年6月、持統天皇(天武天皇の皇后)が、この年、飛鳥
 浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行した。
  この令に基づく戸籍の庚寅年籍(こういんねんせき)
 をつくった。
..
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2015年2月10日火曜日

(増補版)15A:気になった事柄を集めた年表(650年~661年)

 題:(増補版)15A:気になった事柄を集めた年表(650年~661年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
651年、新羅の知万という貢調使(こうちょうし、諸国か
 ら毎年献納する品物を朝廷に納める使い)が、唐国の服
 を着て筑紫に着いたので追い返した。
  唐へ冊封して属国化している新羅が、日本への使いま
 でもが唐服を着ているのでそれを咎めてのこと。
  当時の日本の独立自尊を表している史実。
652年、班田を完了した。
652年、班田収授法が実施された。
  朝廷は、水田を整然とした区画に分ける条里制を実施
 し、
  国民一人ひとりに、一定面積の水田を口分田(くぶん
 でん)として分配し、割りあて、
  収穫を、田祖として、収穫の一部を納めることにした。
  公地公民制に基づいて、6歳になれば、良民男子は2段、
 同女子はその3分の2が与えられた。
  キリスト教の地の様な、女子は人間じゃない的な日本
 ではなかった。
652年4月、初めて戸籍を作った。
  日本の戸籍制度の起源と言われている。
  この事によっても、口分田の分配・割り当てが、日本
 国民の隅々まで、公平に、落ちなく行われた。
  公地・公民の考え、すべての国民や土地は天皇のもの
 (家族)であるという基本があった。
  平等の理念があった。
652年9月、難波宮(難波長柄豊崎宮)が落成した。
  650年から造営を始めて完成したものだった。
653年、皇太子ら政府を飛鳥に移した。
  天皇は難波宮にとどまった。
653年5月、唐に使節を送った。第2次船。
  緊迫した朝鮮半島情勢下で行われた。
  659年の第4次遣唐使は、唐による百済討伐の情報漏
 洩(ろうえい)を阻止するために、日本の使節が唐側に
 よって抑留された。
  2年後の解放されて帰国するまでの間に、日本側では、
 朝鮮半島の百済救援のために、唐との対決を決断した。
  白村江の戦いへ至る。
653年6月、飛鳥時代の学僧・旻が亡くなる。
  中国系の渡来氏族。魏の陳思王・曹植の系図の人。
  小野妹子と隋へ渡ったり、
  蘇我入鹿や藤原鎌足へ講義したりし、
  645年の大化の改新時に国博士になり、高向玄理と八
 省百官の制を立案している。
654年、高向漢人玄理が、唐で客死(かくし、旅先で、ま
 たは他国で死ぬこと)した。
654年10月、孝徳天皇が、難波宮で崩御(ほうぎょ、天皇・
 皇后・皇太后・太皇太后を敬ってその死をいう)する。
655年、飛鳥板蓋宮が火災になる。
655年、唐と新羅の軍事協力が660年に成立し、色々な戦
 いがあったが、
  655年、高句麗、靺鞨、百済の連合軍が、新羅北部の
 33城を奪ったため、真徳女王を継いだ新羅の29代の王・
 武烈王は唐の高宗に救援を求め、唐は高句麗を攻撃した。
655年1月、孝徳天皇の崩御後、655年1月3日、斉明天皇が
 62歳のとき、飛鳥板蓋宮で再び皇位についた。
  史上初の重祚(ちょうそ、一度退位した君主が再び即
 位する事)。
  政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。
656年、後飛鳥岡本宮、両槻宮、吉野宮をつくる。岡本宮
 炎上。
657年、新羅が日本の要請を拒否した。
657年、唐の高宗が、将軍・蘇定方に、西突厥(アフガニ
 スタン北方の国)を征服させた。
  多くの戦いの中、激戦だった。
  権謀術数が、色々、渦巻いた。
  味方のようなふりをして出迎え、城に入ると、囲みの
 中に入ってしまい捕らえられるなど。
658年1月、巨勢左大臣が死んだ。
658年4月、阿部臣比羅夫が、蝦夷を征伐した。
658年11月11日、有間皇子の変。
  有馬皇子は飛鳥時代の皇族。孝徳天皇の皇子。
  天皇への謀反の計画が発覚し、処刑された。
659年、藤原不比等が生まれた(659年~720年)
669年3月、天皇が、吉野・平浦に赴かれた。
660年、百済滅亡。
  この年に、唐と新羅の同盟は成立し、平壌以南を新羅、
 以北を唐が領有する約束がかわされた。
  新羅も、高句麗・百済との抗争の中で勢力を伸ばして
 いた。
  唐・新羅両軍は連合して、百済へ侵攻した。
  百済の福信も挙兵。
  日本軍も錦江河口で、連合軍に敗れ、百済は滅ぼされ
 てしまった。
660年、山上憶良が生まれた(660年~733年)
660年、武后の執政時代がはじまる。
660年3月、阿倍比羅夫が、粛慎を討伐する。
  阿倍比羅夫は658年から3年間、遠征した。
  658年に、水軍を180隻を率いて、日本海側を、北は
 北海道まで行き、蝦夷を服属させた。
  粛慎は、中国の文献ではツングース族だが詳細は不明。
  比羅夫は、660年3月、大河のほとりで粛慎に攻めら
 れた。
  渡島の蝦夷に助けを求められる。
  比羅夫は、粛慎を幣賄弁島(へろべびのしま、北海道
 の奥尻島と言われている)まで追って彼らと戦い、破っ
 た。
  この年の5月には粛慎の37人を饗応したともいう。
660年、中大兄皇子が、遅刻(水時計のこと)を造った。
660年10月、百済の滅亡後、朝鮮半島の鬼室福信らによっ
 て、百済の復興運動が展開された。
  日本の朝廷は救援を求められた。
  このいきさつで、日本は朝鮮半島へ救援の軍を送り、
 白村江の戦いへ至る。
660年12月、天皇が難波宮へ移る。
661年、元明天皇が生まれた(661年~721年)
661年1月、斉明天皇らが西航された。熟田津(にぎたづ)
 で歌を詠まれた。
661年4月、唐が、蘇定方をして高句麗を討った。
661年7月、斉明天皇が、朝倉宮(朝倉橘広庭宮、あさくら
 のたちばなのひろにわのみや)で崩御する。
  その後、皇太子(後の天智天皇)は、長い間、皇位に
 つかず皇太子のまま称制した。
661年、ウマイヤ朝(サラセン帝国確立)~750年。
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(増補版)14A:気になった事柄を集めた年表(618年~650年)

 題:(増補版)14A:気になった事柄を集めた年表(618年~650年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
620年、聖徳太子と蘇我馬子が、「天皇記」を編纂した。
 歴史書である。
622年、聖徳太子が病に死す(48歳)、翌日、妻も亡くな
 る。
622年、、マホメットがメッカよりメディナへ移る。イス
 ラム歴元年。
624年、唐の高祖が、官制を定め、律令を分かち均田とし、
 租庸調の法を定めた。
626年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が生まれた
 (626年~671年)
626年5月、大臣・蘇我馬子が死んだ。桃原墓に葬る。
  子供の蘇我蝦夷(そがのえみし)が大臣(おおおみ)
 になる。
626年8月、中国唐の第二代皇帝・の太宗李世民が即位した。
  (貞観の治・じょうかんのち、627年~649年)。
  この時代、中国史上最も良く国内が治まった時代と言
 われ、後世、政治的な理想時代とされた。
628年、唐、中国大陸を統一する。
628年4月、推古天皇が崩御した時、継嗣を定めていなか
 った。蘇我蝦夷は、群臣にはかって、その意見が、田村
 皇子と山背大兄王子に分かれていることを知り、田村皇
 子を立てて天皇にした。これが舒明天皇。
630年、初めての遣唐使。
  894年に菅原道真の建議によって停止されていた遣隋
 使以来、初めての第一次遣唐使が、630年の犬上御田鍬
 (いぬかみのみたすき)の派遣によって始まった。国交
 の再開。
632年、マホメットが亡くなった(571年~632年)
637年、唐の太宗が律令を制定した。
640年10月、唐より、学問僧・請安、留学生・高向漢人玄
 理らが帰朝した。
641年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の父・舒明
 天皇が崩御する。
642年、蘇我入鹿(そがのいるか)が勢力をふるった。
642年1月、中大兄皇子の母の皇極天皇(こうぎょくてんの
 う)として天皇となる。
642年、ササン朝ペルシャが滅亡した。
645年6月12日、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や
 中臣鎌足らが、蘇我入鹿(そがのいるか)を、飛鳥板蓋
 宮(あすかいたぶきのみや)にて暗殺し、
  翌日、入鹿の息子の蘇我蝦夷(えみし)が、自らの邸
 宅に火を放ち自殺した。蘇我氏が滅ぶ。蘇我体制に終止
 符を打たれた。[乙巳(いつし)の変]。
  大化の改新が始まった。
  唐にならった官僚的な中央集権国家体制樹立を目指し
 た。
  大化の改新に際し、皇極天皇は、孝徳天皇に譲位(軽
 皇子即位)し、
  都を難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)
 に移し、高向玄理や僧・請安を国博士に就任させ、
  中臣鎌足を内臣(うちつおみ)の官職に就けた。
  そして、初めての年号を定め、大化とした。
645年8月、東国へ、国司を派遣した。
645年9月、古人皇子の変。
  古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)は亡くな
 る。舒明天皇の第一皇子。中大兄皇子の異母兄。
645年12月、都を難波(難波)に移した。
  天皇中心の中央集権国家への第一歩。
  初めて左右大臣、内大臣、国博士を置いた。
  仏教興隆の詔。
645年、「武蔵の国」という分国が出来た。
  当時は、ほとんどが原野と森林の国だった。
  国府は、多摩郡の府中に置かれた。
  府中に、国府の社として「大國魂神社(おおくにたま
 じんじゃ)」が出来たが、大社ながら7世紀の新設のため、
 一の宮とは言われなかった。
  それ以上の社として、氷川大社があった。
  聖武天皇(701年~756年)の時、氷川大社は、武蔵の
 国の一宮の列せられ、武蔵の国の地の神々の筆頭となっ
 た。
  これにより、源頼朝が関東で幕府を起こした時も、社
 領300貫を寄進し、敬意を現わしている。
  これが先例になって、戦国期、小田原北条氏が関東を
 制した時も、礼を厚くし、
  また、徳川家康が江戸に入部した時も、朱印300石を
 寄進した。
  武蔵と言えば、氷川明神だったのである。
  徳川家は、江戸城内の鎮守神としても氷川明神を勧請
 している。
  明治になって、東京の遷都された時、明治天皇は、氷
 川大社に勅使を送り、一代のうちに三度参拝された。
645年1月、大化の改新の詔(みことのり)が出された。
  「大きな古墳造りを禁止」した。
646年1月、日本書紀によれば、この年の正月の改新の詔に
 おいて「初めて戸籍・計帳・班田収授法をつくれ」とあ
 り、これが、班田収授法の所見である。
646年3月、中大兄皇子が、自らの入部と屯倉を天皇に献じ
 た。
646年8月、諸々の部の廃止を宣告した。税制も改正した。
 品部を廃止し、旧職を廃し、百官を設け、冠位を叙する
 方針を詔した。
646年9月、高向玄理を新羅に遣わし、任那の調を止めさせ
 た。
647年、七色十三階冠(ななしきじゅうさんかいかん)が
 制定された。冠位十二階に合わせて冠位十三階を制定。
647年1月、新羅が、官職にある金春秋(キム・チュンチュ)
 を日本に派遣した。
  そして、以前、日本から新羅に派遣されていた高向漢
 人玄理と中臣連押熊を送ってよこし、孔雀、オウムそれ
 ぞれ一羽を献上した。
  その際に、金春秋は人質とされた。
647年、善徳女王。新羅初の女王。
  百済と高句麗は同盟していた。
  新羅は孤立した状態だった。
  643年9月に、新羅は、唐に使者を送って高句麗・百済
 を討つ援軍を求めたが、
  唐からは、援軍を派遣するには、善徳女王を廃して、
 唐の王室から深奥を立てる事を迫られた。
  こうした唐の姿勢に対し、新羅国内では親唐派と反唐
 派の対立が生じ、
  女王自らが任命した上大等の毗曇らが、647年正月に
 女王の廃位を求めて内乱を起こした。
  女王は、正月8日に陣中に没した。
  その後直ちに、金庾信らが、真徳女王を立て、正月17
 日になって乱を鎮圧した。毗曇ら20余名は誅殺された。
648年、磐舟柵(いわふねさく)が、現在の新潟県村上市
 岩船の辺りに置かれた。
  蝦夷に備える柵で、越と信濃の民を選んで、はじめて
 柵戸を置いた。
648年4月、旧冠制が廃止されるが、古冠を使用する。
649年2月、冠位19階を制定した。8省100官を置いた。
  背景には、官職の増加がある。
  この頃から、冠位を持つ地方豪族も増えた。
  また、この頃から、冠位がより官僚的になった。
  昇進とか、選考といった原型が形成されたと考えられ
 ている。
  より律令位階制度に近づいた。
  お役所が形作られて行く。
649年3月17日、阿部左大臣が薨去(こうきょ、貴人の死去
 すること)。
649年3月25日、左大臣の薨去後、8日目に、右大臣蘇我倉
 山田麻呂が謀反の疑いをかけれれて自殺する。
649年4月20日、左右大臣が任命された。巨勢徳陀古左大臣
 と大伴長徳右大臣。
650年、詔によって、山口大口費(やまぐちのおおぐちあ
 たい)が千仏像を造った。
  山口大口費は、法隆寺金堂の広目天像の光背に名を残
 しており、当時、著名な仏師であった。
7世紀、玄奘三蔵は、インドからの帰途、シルクロードの
 ルートを通り、
  4世紀頃、ロプノールが干上がって、楼蘭は衰退するが、
 その楼蘭の廃墟に立ち寄ったと「大唐聖域記」に記され
 ている。
  シルクロードは、紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立
 していたとされる。
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2015年2月9日月曜日

(増補版)13A:気になった事柄を集めた年表(591年~618年)

 題:(増補版)13A:気になった事柄を集めた年表(591年~618年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
592年、佛教興隆の詔(みことのり)が出る、
592年11月、蘇我馬子が、東漢直駒を使い、崇峻天皇を殺
 す。
592年12月、推古天皇(敏達天皇の皇太后)が豊浦(とゆ
 ら)で即位した。
  小墾田(おわりだ)宮に遷都した。
  この頃、朝廷において、蘇我馬子が権勢をふるう。
593年、四天王寺が造立された。
593年、聖徳太子の宮殿は、斑鳩(いかるが)宮。
593年5月15日、、推古天皇が甥厩戸皇子(聖徳太子)を
 皇太子とし、摂政とした(~622年)。
594年2月、三宝興隆の詔。
595年5月、高句麗の恵慈が来朝する。
595年7月、筑紫駐屯の将軍らが大和に帰る。
595年7月、百済の僧・慧聡(えそう)が来朝して仏教を広
 めた。
  596年に法興寺(現在の飛鳥寺安居院)が完成すると、
 高句麗から渡来した恵慈と住し、ともに三宝の棟梁と称
 された。厩戸皇子の仏教の師となった。
596年11月、法興寺が完成する。
597年4月、百済王子・阿佐が来朝する。聖徳太子の肖像を
 描いたと言われる。日本で一番古い肖像画とされている
 (お札の絵の聖徳太子)。原画は3人が立っているが、右
 が山背大兄王、左側が殖栗王。
598年8月、新羅が孔雀一匹を朝貢する。
598年、中国の官僚登用試験である科挙(高等官資格試験
 制度)が始まった。1905年までの約1300年間も続いた。
599年9月、百済が、駱駝一匹、驢(ろば)一匹・羊二頭・
 白雉一羽を貢した。
600年、新羅・任那の使者が貢調(こうちょう、貢物を奉
 ること)する。
600年、初めての遣隋使を派遣した。618年までの18年間
 に5回以上派遣している。
600年、テオティワカン文化:メキシコシティ北東約50キ
 ロの地点にあり、紀元前2世紀から6世紀まで繁栄した。
 7世紀には北方から「蛮族」の侵入を被り、急激に衰退に
 向かった。
600年、インドネシア:強力な王朝が出現するのは、7世紀
 にスマトラにシュリービジャヤ朝が出現して以後である。
600年頃、チベット:チベットは7世紀の頃、吐蕃(とばん
 )という国から歴史に登場する。7世紀の初め、ソンツ
 ェン=ガムポ王が出てチベットを統一し、唐を脅かした。
  中国・ネパールから二人の公主(こうしゅ、天子の娘。
 皇女)が嫁したのを機に仏教が入り、その後、ラマ教に
 発展し、インド文字を摸してチベット文字が作られた。
600年、境部臣(馬子の従弟ともいう)が征新羅大将軍(
 新羅征伐の責任者)に任ぜられた。しかし、実際は赴任
 していない模様。
601年、聖徳太子が斑鳩に宮を造る。
602年2月、来目皇子は、任那を滅ぼした新羅に対する新羅
 征討計画の際、征新羅大将軍として軍二万五千を授けら
 れた。4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営したが、
 6月に病を得て新羅への進軍を延期とした。征討を果たせ
 ぬまま、翌年(603年)2月4日、筑紫にて薨去した。
602年、百済の僧侶・観勒が渡来し、天文、暦本、陰陽道を
 伝えた。観勒は書生を選んで教えた。聖徳太子によって、
 604年歴本が採用された。
603年2月、来目皇子が筑紫で死ぬ。当麻皇子を将軍とした。
 皇子の妻の死によって討伐を中止した。
603年10月、推古天皇(女帝)が豊浦宮(とゆらのみや)
 で即位し、新宮として小墾田宮を造営し移った。
603年12月、秦河勝に仏像を授ける。
603年12月、冠位十二階を制定した。冠位十二階は、徳・
 仁・礼(らい)・智・信・義をそれぞれ大小に分けたも
 ので、等級は冠の色と飾りとで示された。
604年1月、冠位を諸臣に授与した。
604年4月、聖徳太子が17条憲法を制定した。
604年9月、聖徳太子が朝礼を改めた。
606年4月、飛鳥大仏。
  明日香村の安居院(あんごいん)にある金銅製丈六の
 釈迦如来像は、606年に元興寺(がんごうじ)金堂の本尊
 として鞍作止利(くらつくりのとり)が制作した。
  因みに、丈六(じょうろく)とは仏像の背丈の一基準。
  仏は、身長が1丈6尺(約4.85メートル)あると言わ
 れることから仏像も丈六を基準とし、その5倍、10倍、
 または2分の1などに造像された。
606年、日本書紀に、606年、聖徳太子が勝鬘経を講説した。
  また、岡本宮で法華経を講じた。
607年、法隆寺が建立された。
  用明天皇が、自らの病気平癒の為に発願した法隆寺建
 立を、用明天皇が亡くなったため、遺志を継いで推古天
 皇と聖徳太子が、607年に法隆寺を完成する。
  飛鳥文化が栄えた。
607年、この年、大和・山背・河内に池溝を掘り、国ごと
 に屯倉を置いた。
607年2月、日本書紀に、壬生部を定めるとある。
  壬生部とは皇子の養育料を出す部とされている。
607年7月、遣隋使。
  小野妹子が、大唐国に国書を持って派遣したと、日本
 書紀に記載されている。第二回である。
  倭王から隋皇帝・煬帝に宛てた国書に、「日出ずる処
 の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)な
 きや」の書き出しの国書を中国・隋へ渡した。
  日本の対等な姿があった。
  煬帝は立腹したという。
  しかし、立腹したところは「日出処」「日没処」では
 なく、倭王が「天子」を名乗ったところだという。
608年、この年、新羅人が、多く帰化する。
608年4月、小野妹子が、隋使の裴世清とともに筑紫に着く。
608年9月、小野妹子をふたたび隋に派遣する。
  第三回遣隋使。この時、留学生や学問僧らが同行した。
610年、この頃、高麗の僧・雲徴によって日本に製紙術が
 伝わった。その後、和紙になった。
610年3月、高麗の僧・曇徴(どんちょう)が来朝し、儒学、
 絵画工芸、紙墨彩色から農具までも伝え、中国製石臼も
 造ったという。
610年10月、新羅・任那の使者が入京した。
610年、マホメットのイスラム教が成立した。
611年5月、推古天皇が兎田野(宇陀郡大宇陀町)に薬猟(
 くすりがり)をした。
  山野に薬草や、鹿の若角を求めた記録が日本書紀にあ
 る。当時、宇陀などの山野は薬草の宝庫だった。
611年8月、新羅が朝貢する。
612年、隋が、未曾有の大軍を引き連れて高句麗遠征を起
 こした。
614年、中臣(藤原)鎌足が生まれた(614年~669年)
614年、再び、遣使が朝貢した。
614年7月、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)が、最終と
 なる遣隋使として、隋に渡った。
  翌年9月に、百済使を伴って帰国した。
618年5月、隋が、高句麗の征討の失敗が一因となって、こ
 の年、滅びた。
  そして、唐が興った(~907年)、
  隋の高官であった李淵が興した。
  李淵は、617年に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(
 長安)を陥落させると、煬帝を太上皇帝(前皇帝)に祭
 り上げて、その孫・恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中
 央を掌握した。
  翌618年(隋義寧2年、唐武徳元年)に、江南にいた煬
 帝が殺害され、李淵は、恭帝から禅譲を受けて即位(高
 祖)、唐を建国した。
  唐は、律令制を整備し、均田制を基礎に租庸調税制・
 府兵制を定め、官吏採用のための科挙を実施した。
  文化、芸術が、首都・長安を中心に開花し、儒教、道
 教、仏教のほか、西方から伝えられた景教、マニ教、ま
 た、回教も行われ、国際的性格を示した。
  因みに、景教の事を、今・現在、キリスト教は、「景
 教はキリスト教だ」と言うが、キリスト教は、派閥争い
 が酷く、公会議などで意見が合わないと直ぐ殺戮したり、
 放逐したりした。
  この景教もこの様な処分になった宗教であった。
  「キリスト教ではない」という処分を受けた宗教であっ
 た。景教は放逐され中国へ流れてきた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2015年2月8日日曜日

(増補版)12A:気になった事柄を集めた年表(500年~591年)

 題:(増補版)12A:気になった事柄を集めた年表(500年~591年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
500年(6世紀)、百済から五経(ごきょう)博士が渡来し
 て、日本に儒教を本格的に伝えた。
500年(6世紀)、6世紀には、易・医・暦の博士も渡来し
 た。
500年、テオティワカン文化:テオティワカンは、メキシ
 コ市の北東50キロにある紀元前1世紀~紀元7世紀の大遺
 跡。最盛期は6世紀で、人口は10万人に達した。
500年、トルコ民族:アルタイ語族。アルタイ山麓から各
 地へ拡散した。6世紀頃より、突厥(とっけつ)、次い
 で、ウイグルの大勢力を形成した。
512年、大伴金村は、百済の求めに応じて、任那の一部を
 割譲した。朝廷は、百済による「任那の四県」の領有を
 容認する(継体天皇の時代)。
513年、百済が、己汾 ・帯沙の領有を日本に承認させた。
6世紀前半、この頃に、大連・大伴金村が、外交政策の失敗
 をとがめられて失脚した。
522年2月、司馬達等(しばだっと、孫に仏師の鞍作止利
 がいる)が、飛鳥坂田原の草堂に仏像を安置し、礼拝し
 た。
  仏教が、公に伝わる以前から仏教を信仰していたとさ
 れる。この年に日本に渡来し、本尊を安置して帰依礼拝
 したという。
527年、磐井の乱(いわいのらん)。
  磐井の乱は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出
 兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を、
  筑紫君磐井がはばみ、
  翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧
 された反乱、または王権間の戦争。
  この反乱もしくは戦争の背景には、朝鮮半島南部の利
 権を巡るヤマト王権と、親新羅だった九州豪族との主導
 権争いがあったと見られている。
  天皇は継体天皇だった。
  磐井の墓は岩戸山古墳と推定される。
  『日本書紀』によると、527年6月、朝鮮の倭国勢の後
 退を防ぐため、近江臣・毛野の率いる6万人の軍隊が、
 新羅討伐のために朝鮮・任那に向かって派遣された。こ
 の計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者
 だった磐井(筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の
 妨害を要請した。
527年、東ローマ皇帝・ユスチニアヌス大皇(在位527年
 ~565年)。大帝と呼ばれるが、帝国版図も広げたが、
 結果的に失敗の帝王。
529年、ユスティニアヌス1世が編纂させたローマ法の法
 典であるユスティ二アヌス法典(東ローマ帝国)が公布
 され、施行された。
  この頃の法律は、新しい法律ができると、自動的に古
 い法律が無効になることになっていた。
  その為、何が何だか分からない「ごちゃごちゃの状態」
 になっていた。
  ジュリアス・シーザーは、すっかり忘れ去られていた
 法律を持ち出して活用したりして、政敵を罠にかけたり
 していた。シーザーは、この名人だった。
532年、金官国(南加羅、日本領・任那の前身)が、新羅
 に滅ぼされた(安閑天皇の時代)
538年、蘇我稲目、向原(むくはら)の家を仏殿とする。
 (物部氏と対立する豪族の蘇我氏。天皇の外戚として権
 力を持っていた。渡来人の集団を支配して進んだ知識や
 技術を持っていた。この事もあって仏教を信仰していた。
 蘇我稲目~馬子~蝦夷~入鹿の直系4代は独占体制だっ
 た)
538年、仏教が朝鮮から公的に伝来する。
 百済の聖明王が欽明天皇に、仏教及び経論を献じた。
 (552年説もある)。この頃、豪族の争いが盛ん、氏姓
 制度が乱れた。
543年、黒死病(ペスト)が」流行する。「ユスティニア
 ヌスのペスト」と言われ、ユスティニアス帝の活動の終
 わりの印ともなった。
  これ以後、帝国の領土は縮小する時代に入った。
6世紀頃、カンボジア国家の起源とみなされている国、北
 方クメール人による真臘(しんろう、チェンラ)が勃興
 した。クメール帝国(カンボジア):メコン川の中流域
 に、クメール族の国が建てられたのは、6世紀の中葉と言
 われる。
552年、正史「日本書紀」による仏教伝来。
554年、推古天皇が生まれた(554年~628年)
555年、朝廷は、大臣稲目、穂積臣磐弓を遣わして、吉備
 の五地域に屯倉(みやけ)を設けさせる。
  屯倉は、ヤマト王権の支配制度の一つで、全国に設置
 したのは直轄地だという事を表してもいる。
  後の地方の行政組織の先駆けとなっている。
  屯倉の周りの低湿地を開発して田地として、倭屯倉を
 造ったりした。5世紀頃よりと考えられている。
562年1月、任那(みまな)日本府の衰退と滅亡。任那(伽
 耶)の宮家(日本府)が、新羅の真興王(新羅の第24代
 王)に滅ぼされた。
  朝鮮半島の新羅は、加羅諸国を支配下に押さえた。朝
 鮮半島の南東部は、すべて新羅の領域となった。
570年3月、蘇我稲目(?~570年)が死ぬ。物部氏ら、向
 原の仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に流す。
574年、聖徳太子が生まれた(574年~622年)。父・用
 明天皇。
577年、推古天皇が23歳で敏達天皇(30代)の后になった。
577年11月、百済が、経論・僧尼などを寄越した。
579年10月、新羅が、仏像を献じた。
581年、北周の宰相・楊堅が中国を統一した。
 律令制、均田制、科挙などを実施した。この次の帝は、
 大規模な運河を開掘したり、高句麗遠征を行ったりした
 が、国は疲弊し、民衆が反乱を起こして滅んだ。
583年、火葦北国造の子の日羅が、百済から来朝する。
  葦北国造(肥)、あしきたのくにのみやつこ、葦北(
 葦分)国造とは、葦北国(現・熊本県水俣市、八代市、
 葦北郡周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本
 紀)によると景行天皇(12代)の時代、吉備津彦命(き
 びつひこのみこと)の子である三井根子命(みいねこの
 みこと)を国造に定めたことに始まるとされる。
  国造本紀には、葦分と名が記され、また記紀では火葦
 北国造とも表されているので、火国造の支流とも見られ
 ている。
  三井根子命後、日奉(ひまつり)部・日奉直・日奉宿
 禰等を賜姓され、後裔としては達率日羅(にちら)、万
 葉歌人・日奉部与曽布などが著名である。
  三井根子命の子・刑部靱負阿利斯登(おさかべのゆけ
 ひありしと)は、大伴金村によって朝鮮に使わされた国造
 で、その子・日羅は、日本では刑部靱負の職(軍隊の長)、
 百済では達率(高官の1つ)となり、武人・賢人として
 知られる。
  葦北郡津奈木町にある将軍神社は、日羅(将軍)を祀
 っており、逸話も多い。
  宇土半島にある鴨籠古墳の被葬者は、その棺の大きさ
 から葦北国造の息子と考えられている。
584年、高句麗の還俗僧・恵便が、司馬達等の娘の善信ら
 を尼にし、蘇我馬子は、飛鳥豊浦の石川の家に仏殿を営
 み、善信尼らを置いた。
585年2月、蘇我馬子が、仏塔を大野丘の北に建てた。
585年3月、物部守屋・中臣勝海らが、仏殿・仏塔を焼き、
 善信尼らを監禁した。
585年8月、敏達天皇が、訳語田幸玉宮(おさだのさきたま
 のみや)で崩御した。
  崩御の後、皇位が橘豊日皇子(たぎばなのとよひのみ
 こ)と穴穂部皇子(あなほべのみこ)の両異母兄弟で争
 われた。
  そして、仏教に関心を寄せていた橘豊日皇子が、同母
 妹の炊屋姫および大臣・蘇我馬子の支持によって、9月
 に即位した。用明天皇(31代)となった。
587年4月、崇仏の可否を群臣に諮(はか)った。
587年4月、用明天皇が崩御。
587年7月、大臣・蘇我馬子等が、大連・物部連守屋を滅ぼ
 した。
587年8月、崇峻天皇(泊瀬部皇子)が即位した。
588年、百済が、仏舎利・僧・寺工・画工などを献じた。
588年、善信尼らが、百済に派遣されて仏法を学んだ。
588年、法隆寺の建立が始まった。
589年1月、隋の文帝が、50万の軍でもって江南の陳朝を
 征服して、南北朝(中国)を統一した。
590年、善信尼らが、百済から帰った。
591年4月、敏達天皇のもがりの儀礼が6年間続き、この年、
 母の石姫(いわひめ)が葬られている磯長(しなが、大
 阪府)の陵墓に合葬された。
591年11月、紀男麻呂(きの・おまろ)宿祢・巨勢猿臣ら
 が、2万余の軍を率いて筑紫に出兵し布陣した(新羅討伐
 軍)。遠征軍は渡海することなく595年に帰還した。
..
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