ページビューの合計

2014年6月14日土曜日

虚・ろ・な・る・立・脚・点・・うつろなる立脚点

 題:虚・ろ・な・る・立・脚・点・・うつろなる立脚点
...(信を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 イエスは刑によって死した・・
 それを、キリスト教は・・
 「イエスが、我々の救済のために死に、そして後、復活
した」・・と言う。
 これが、キリスト教の原点なのだ・・と言う。
 このことを信じることが必須なのだ・・と言う。
 これをまず信ぜよ・・と言う。
 イエスが死に、復活したから人間は救われる・・である。
 使徒(イエスの弟子)たちが、イエスの復活を見たのだ
・・と言う。
 使徒が証人だ・・と言う。
 イエスの復活の事は、この証言によってのみ語られ、知
られた。
 イエスの復活に立ち会うことが、当然、出来ない使徒以
外の、その他の人々は、我々も含めて・・その使徒の言葉
を信ぜよ・・とも言われている。
 あのイエスの刑場から逃げた使徒と言われる弟子たちが
言うことを・・。
 もうこれは理解の問題ではない。理解を越えたものであ
る。信ぜよを求められる。
 そして、「そう信じない者は滅びる」と脅(おど)され
る言葉も言われる。
 そうして、信じない者は、また、切り捨てられる。
 故に、お分かりだと思いますが、使徒の言葉だけを中心
にして、使徒だけの言葉を中心に置いて、キリスト教は、
その言葉の状態だけに権威を与えている。中心なのだから。
・・というより、当然、キリスト教の道は、権威のあるも
のという位置に置かざるを得ない状況となっている。
 故に、キリスト教は、ここを中心に、絶対性を強調し、
誇示している。
 故にまた、当然に、その絶対性は『強力に排他』の状況
となり、絶対を主張する。また、主張をせざるを得ない宗
教の形態となっている。
 イエスの復活は、その様なものであり、キリスト教の中
心に置いたパウロという人間の思考・思惑は、まず、信を
と思考し、信を要求するところからスタートする。
 そして、なぜ、イエスの弟子たちが、イエスが復活した
などと言い出したのか? 
 イエスの墓に「イエスの肉体(死に殻)」が無くなった
と・・。
 そして、モーゼが神に会う場面は、燃える柴だけが見え、
神は声だけが聞こえたが・・、
 イエスの場合は、服を着たイエスが現われたと・・、そ
して、話をしたと・・、そして、その後の時代には、イエ
スは現れていない。
 そして、ある画家の絵には、服を着たイエスが、天に登
るという絵があるが、画家は、当然、聖職者から言われ、
想像して描いた絵なのだが、本物は、この画家と言えども
見ていない。
 絵を見る人たちは、「さも、あったように」錯覚に陥(
おちい)るが・・。モーゼの神の場合とは大きく違う。
 このモーゼの芝は、今・現代でも燃えているという。
 そこにはキリスト教会が建ち、金を取って燃えている柴
を見せているという。
 故に、イエスの復活は、弟子たちだけが見ている。
 しかし、弟子たちは、イエスの昇天は見ていない。
 当然、当時の、これ以外の人たちも何も誰も見ていない。
 エルサレムの話題にもなっていない。
 エルサレムの人たちも、イエスが死ぬ所は見ているが、
復活も見てなければ、昇天するところも見てないし、エル
サレムの街で話題にもなっていない。
 それは、真実でないから。デッチアゲなのだ。
 考えれば、罪作りな話だ。この話から、何人の方々が死
ななければならなくなったというのか?
 過去に、色々な有名な研究者が、ここの所を研究してい
るが・・、語っているが・・、偉大な新約聖書学者と言わ
れる「ブルトマン」と言う人は、イエスの墓が空になった
のは「伝説だ」と断定的に言う。
 端的に言えば、キリスト教の聖書の記述は、ブルトマン
も嘘でデッチアゲだと言っている。
 そしてさらに、ブルトマンは、復活したイエスが、使徒
(弟子)に現れたのは「(実際あったのではなく)幻覚だ」
と、これもまた断定的に言う。幻覚・・『虚(うつ)ろ
なる根拠』しか持たない宗教=キリスト教なのだ。
 空想立脚点宗教=キリスト教。
.
 そして、次の話。
 キリスト教聖職者は、信徒の方達へ言う・・、
 「キリスト教信仰とは、聖書の言葉を無批判・無理解の
まま真実として奉(ほう)ずることだ」・・と。
 そしてまた言う・・、
 「キリスト教信仰の立場は、人間理性の立場とは違うの
だ」・・と。だから、考えるな・・と言う。
 信徒の方々へ、「考えるな」とびっくりする様な事を言
っている。
 『キリスト教信仰の立場は、人間理性の立場とは違うの
だから、考えるな』という意味。
 そして、「信仰とは・・聖書の言葉を、無批判・無理解
のまま真実として奉ずることなのだ」と、信徒の方々が考
えて、そして、人間らしく思うことを批判されている。
 ただただ、無批判・無理解に奉(ほう)じ、奉(たてま
つ)る。
 真実なのだから・・と、それがキリスト教の信仰なのだ
と、そして、無批判・無理解の人を善(よ)き人と讃(た
た)え、ひたすら、無批判に純心に仕(つか)える人を讃
える・・それがキリスト教信仰と。
 キリスト教で繰り返すその様な行為から、洗脳され、マ
インド・コントロールされ、無批判で・・、
 理性で理解しようとする行為もしなくなり、心が、だん
だん、閉ざされて行き、心があっても無きが如くの、批判
のできない人間が出来上がって行く。
 心の働きが無くなった、無機質な心の人間が出来上がっ
て行く。
 キリスト教を信仰していると、この様に作り上げられて
行く。
 そこには心の働きが無い・・、批判もするが、切磋琢磨
して、喜びもあり、奮(ふる)い立つ心もあり、感動に沸
き、喜びに歓喜し、そして、涙する時もあり、笑う時もあ
る日常が・・その様なキリスト教のその洗脳行為によって
奪われて行く。
..
   (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /

2014年6月13日金曜日

少数の邪悪な見識・・

 題:少数の邪悪な見識・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 世界の人口が、2011年10月31日に70億人を越えたと
いう。アメリカの国勢調査局が推計した。
 そして今、1分間に137人が増えているという。
 それは、1日にすると、20万人が増えている事になり、
1年間に7000万人の人が増えているという事になるという。
 また、因みに、世界で、1年間に約6000万人の方が亡く
なり、1億3000万人の人が生まれているという。
 そして、キリスト教の信者数は約20億人(29%)と言
われている。()内の数字は、世界の人口に対する比率で
ある。以下同様。4人に1人強ぐらい。
 そして、イスラム教徒約11億人(16%)、ヒンズー教徒
10.5億人(15%)その他(40%)である。
 そして、キリスト教の内訳をみると、カトリック約10.8
億人(53%)である。()内の数字は、キリスト教徒全数
に対する比率である。以下同様。
 そして、プロテスタント約3.5億人(17%)、正教会約
2.2億人(11%)、その他教派3.9億人(19%)である。
 一番多いカトリック教徒は世界の全人口の15%である。
7人に1人ぐらいである。因みに、日本におけるキリスト教
徒の比率は1%である。
 故に、以上で見た様に、キリスト教を信仰して居るとい
う人が一番多く居ると言っても大多数ではない。1/4だ。
 故に、世界の多くの人々は、『キリスト教の神は居る』
というキリスト教徒ではない。
 また、キリスト教徒であっても、マザー・テレサさんの
様に、一生涯、キリスト教の神の存在に疑問を持ち、キリ
スト教の神は居ないと、感じていた人も居る。
 彼女の死後、この事が公表されたが、彼女が一生涯、死
ぬまで、『キリスト教の神は居ない』と思い、感じていた
という正直な話だ。彼女の真実への誠実さを感じる。
 キリスト教徒でさえ、この様に感じている状態なのであ
る。しかし・・、
 キリスト教の教義は、その神が居るものだとして、そし
てさらに、その神の『正義を錦の御旗だとして』、『異教
徒は殺せ』の教義の神の声を持ち、異教徒を殺して来た。
 あまりにも多くに人々を殺して、その悪魔の教義『異教
徒は殺せ』のキリスト教の教義の通りにしてきた。
 世界の人の『多数の人の見識ではない』、また、『多数
の人の賛同の意見でもない』、故に、少数の邪悪な見識と
言っても良い、そのキリスト教教義で、大多数の人々を殺
してきた、殺戮してきた。
 キリスト教の神の義があるから、人を誅しても良いのだ
と、キリスト教徒は、悪びれずに、悪行為をし続けて来た。
 この様なキリスト教について、富岡幸一郎・関東学院大
学教授は、赤子の手をひねる様なやり方で論をひねくり廻
している。正直な話ではない。
 富岡教授は「キリスト教は一神教だ」と言うが、キリス
ト教は三位一体神で無理に一神教的にしている、実態は多
神教です。
 エルサレム大学教授も言っているが、キリスト教はその
ほとんどが多神教の歴史なのです。
 そして、富岡教授は、美しくキリスト教は「世界宗教だ」
と言っていますが、戦勝を祈った神で『民族宗教』です。
 そして、絶対神なんかではない。
 神は変遷に次ぐ変遷で変わり、今、三位一体神です。そ
して多神教です。
 イエスの時に変わったと言われるのでしたら、富岡教授
の論理は破たんするわけですが・・、
 イエスは、ユダヤ教徒でユダヤ教改革者です。
 イエスの頭の中には、『同民族で、同宗教の人々』が対
象の宗教観で、ユダヤ人の幸福だけが頭にあった人です。
 その後のパウロの時に変わったというのならば、さらに、
富岡教授の論理は破たんを極めるのですが、
 パウロだって「ローマ信徒の手紙」において、
 「神はユダヤ民族を選び(選民思想)、これと契約を結
び、律法を与えた」と言っている様に、民族宗教の域を出
ていません。
 近年でさえ、ローマ教皇が銃弾に撃たれた時には・・
 「黒マリア様の御蔭で銃弾がそれてくれた」と言った様
にキリスト教にはマリア信仰もある。三位一体神ならぬ四
位一体神のマジックをまたしなければならない現況です。
 氏が、「イエスがガリラアの比較的緑豊かな地に生まれ
育った」と言うのは生まれた地だけであって、キリスト教
はエルサレムの砂漠の地の、その環境が反映して宗教が出
来ています。これも、知らない人を騙(だま)す言い方で
す。イエスの生まれた地についてもベツレヘムだと言った
り、色々都合のいい言い方を言いまわしています。
 ブロURL,http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009/を
参照下さい。
尚、富岡教授の発言を確認される方は下記を参照下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=m-hl1X8R6V0
 富岡幸一郎・関東学院大学教授は、「多神教のモンゴル
人だって人を殺した』と言う。そして、「バビロニアだっ
て多神教で人を殺した』と言う。
 しかし、キリスト教という宗教は、その教義からして『
人を殺せ』という殺人指令が、聖書のあちこちにあるでは
ないか。「魔女は生かしておいてはならない」などなど・・。
 宗教の本質から生じていることに目を向けて下さい。
 キリスト教の重鎮の方の中に・・、
 「わたしもキリスト教のそこだけは・・』と、キリスト
教の殺戮に対して不同意されて、明言されていた方が居た
が、この方の様に、言われるのが人間としてのあり様では
ありませんか?
..
   (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /

2014年6月12日木曜日

あまりにも・・プロパガンダ(嘘宣伝)されている。

 題:あまりにも・・プロパガンダ(嘘宣伝)されている。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 エルサレム神殿の民の店は・・
 暴力団の様に・・イエスと、その弟子たちの群れによっ
て破壊された・・暴力をふるわれた。
 被害者は・・立場としては・・『民であり』、『弱者で
ある』。
 現代においても・・その良否判断を行っても・・、それ
は、悪行為であり、当然、『暴力行為』で、『逮捕される
べき行為』である。
 この法的以外の・・判断においても・・『弱い者いじめ
の行為だ』・・この批難からは逃れられない。
 イエスが・・、
 『正義に訴える』と主張するなら・・暴力をふるう相手
は、同じ事をするなら(本当は悪い行為なのだが)、
 少なくとも、『強い者へ』、その行為を向けるべきだ。
 完全な『弱者いじめ(弱い者いじめ)』の態をなしてい
る。
 イエス、及び、イエスたちは、『卑怯にも』この強い権
力を持つ者への暴力は逃げ、行わず、弱者の民へだけ、暴
力をふるった。卑怯者の態である・・。
 現代においても、『当然であるが』、暴力行為をしたイ
エスとイエスの弟子たちは・・逮捕されるべきで・・、イ
エスだけが捕えられ、イエスの弟子たちは逃げてしまった、
そして、逮捕を逃れた、免れた。
 何らためにならない話が、聖書という本には続く。
 まったく卑怯なことをする弟子たちである。
 後ろめたいところが無いならば、堂々とするべきなのだ
が・・、
 やはり『悪いことをしたという意識があった』のだろう。
 町の暴力を振るうアンチャンの様に逃げた。
 同じ様に「お縄になるべき」ところを、逃亡したのであ
る。逃亡罪も加味される結果となった。
 以上の様に、この一部始終は、『町の愚連隊のあんちゃ
ん』というところの状況を呈した。
 イエスは、エルサレムの『民衆の怒りを買っていた』。
 当然である。民は怒ったのである。今までの鬱積(うっ
せき)もあったのであるが、今回の弱者をいじめたからで
もある。
 故に、イエスは、救われる道までも『自ら閉ざした』。
 イエスは、強盗とどちらかを助けるかという時にも、イ
エスは民から選択されずに、救われる道があったのを『民
からの選択はなされなかった』。
 『ここまで憎まれていた』のである。『その様な行為を
していた』のである。
 裁判も行われ、それまでのイエスの行為によって、刑が
執行された。
 アメリカの第二次世界大戦の後の『東京裁判』の様な
『形式的な裁判』とも言えるが・・。
 『偽(いつわ)りの正義』の様な裁判であったが・・、
 でも、イエスの裁判には、一応、『民の意見を聞く』と
いう『民主的な側面』があった。
 アメリカの東京裁判は、戦勝国だけの狭い人員で『広い
ように見せかけてはいるが』・・その『リンチ(私刑)の
状況』の中で・・事は・・行われた・・。
 イエスの気性の『短気から起きた大暴れ』の結果が、
『直接原因』であった。
 民からも、『救うべき点が無い』、『救うべき理由が無
い』と判断された。『東京裁判にはない』民主の意見を問
うというところは・・存在した。
 イエスに、民の支持は全くないという状態。
 尋問において「お前は、メシアなのか?」とイエスは問
われ、イエスは肯定しているとされている。
 キリスト教の聖書は、後から、多くの者によって、追記
されたり、書き換えされたりしているので、真実はどうで
あったかが不明だが・・。
 それにしても、メシア意識を持つ人間が、その『メシア
の到来を願う民衆』へ、暴力をふるう行為をするというの
か?
 同じ暴力を振るうという行為をするのであるなら、まず、
イエスも怖(こわ)かったのであろう、恐れたのであろう、
その暴力をふるうなら、まず、権力者へ向かうべきだ。
 その点の意識が・・少なくとも、イエスは、強く思って
いなかった・・と言える。
 メシア意識、救済意識がある人であるならば・・弱者へ
は絶対、絶対に向かわないはずだ。救済すべき相手に向か
わないはずだ。
 まったく、暴力団レベルの判断だ。『力で解決する』と
いう。相手がだれであろうと・・という。
 イエスは、刑の執行の時、「神よ、なんで、お見捨てに
なったのですか?」と言っているが・・、
 民衆からも『選択されず』に見放されたと思い・・、
 また、神からも『見放された』と思っていた。
 そして、肝心な・・その神からの・・『応答もなかった』。
 その点について、キリスト教の聖書には『何も記されて
いない』。故に確実に『無かった』としか判断はできない。
 この点について・・これから後、誰かが追記するかもし
れないが・・、書き換えるかもしれないが・・、キリスト
教聖書は『その様な書』で、歴史を経て来た書である。
 キリスト教は、後世に、次世代に、残してはいけない宗
教なのです。キリスト教の方々は、早く離れて下さい。
.
(追伸)
 実は、1人、弟子の12人全員が逃げた訳ではなく・・、
 1人だけが・・イエスがどうなるかを見に来ていた弟子が
居た。
 しかし、女性に、「この人、イエスの関係者です」と言
われたら・・「おれは、違う」・と、否認したという。
 まったく人の川上(かわかみ)にも置けない野郎だが、
 そしてまた、別の女性に指摘されると・・、またまた、
 「おら、違う」・・と、言ったという。
 そしてまた、兵士に咎(とが)められると、またまたま
た、「おら。違う」と、三度目も恍(とぼ)けたという。
 そして、鶏が鳴いたという。
 この事をイエスが予言していたという。
 なんと、「三度否認」して、そして、「その時、鶏が鳴
く」・・と、数と鶏が鳴くところまでも予言したという。
 そして、当たったという。
 それ程、将来予測ができるのなら、その後についても、
正確な予測をして貰いたかった。そして、予測ができると
いうものだ。
 そうしたら、弟子たちもこんな恥ずかしい行動は、取ら
ないだろうし、こんな悪結果にもならなかったはずだ。
 しかし、イエスは刑場で『神に訴えた』。心の中では、
『こんなはずじゃない訳だ』と思っていた。
 ここは、イエスには予測はできなかった事だった。読み
落としだった。
..
   (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /

2014年6月10日火曜日

ノアも含めて、死滅するという結果なのです。

 題:ノアも含めて、死滅するという結果なのです。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 仏教の遺跡発掘に立ち合って来たキリスト教の学者が・
 仏教遺跡が・・あまりにも、言い伝え通りに・・
 遺跡が発掘され、遺構が出土する事にびっくりしていた。
 キリスト教の遺跡は、ほとんど言い伝えどおりでないと、
この学者は言う。
 キリスト教の、この学者の事実に関する、この差の言葉
が、如実に、この二つの宗教の差を象徴的に表している。
 キリスト教に偏するNHKが、この類い放送を色々と、
キリスト教に偏して放送をしているが・・、その中の例で、
 「ノアの方舟」の調査についての放送は、まったく、馬
鹿馬鹿しくなるくらいの『話の展開になっていた』。
 まず、最初から、「ノアの方舟が実際にあった」という
視点で、その調査も、史実だ、最初からあったのだという
視点でやっていて・・、
 調査の内容も、何ら脈絡の無い事を「ああだこうだ」と
し、そして、「事実だ、事実だ」と、裏付けがはっきりし
ないのに、説明している。そして、その放送。
 見ている方は、「どこで事実であったと言えるの?」と、
疑問が解消されないまま番組は進行して行くという状態。
 やる事だけは大げさで、宇宙の人工衛星から「アララト
山」を見たら、事実であった事が証明されたと、アララト
山附近の宇宙からの衛星写真を見せて、証明された風な事
を言う。
 言っている事は大げさで、嘘としか言えない。
 そして、アララト山に登ったら、ある洞窟というのか、
穴の様な所にあった石か何かを示し、まったく不明瞭な話
し方で話を進め、「ノアの方舟の洪水があった事が証明で
きた」と、結果だけは変に明瞭に言う。
 この様な番組を、NHKは放送する。
 まったく変な番組で、キリスト教の教会の中で見せる様
な、宣教的な、伝道的な、教示的な『宗教色の強い番組』
だった。
 これは外国製の映像を、NHKが買って来たという番組
で、NHKはキリスト教会向けの番組を買って来たのでは
ないかという感じだった。
 まったく一般の人への放送には不適切な番組だった。
 「ノアの方舟」自体が科学的にあり得ないという事にな
っているのに、高い金を出して外国製のキリスト教の伝説、
神話を「事実だとする番組」を購入するとはおかしい。
 「ノアの方舟」が伝説であり、史実としてあり得ないと、
そして、科学的にも成立しないされているが・・、
 その1つは、「40日間、雨が降り続き、世界中が洪水に
なった」とするが、
 そして、「世界の山々のどれもが、その洪水の水に没し
た」とするが、この様なことは起こり得ない。
 もうこの時点で、すでに、あり得ない前提で、話が進め
られている。
 8000メートルを越えるエベレストも水没し・・、
 「アララト山」でさえ5000メートルを越える山だ。
 このエベレストより低いアララト山だって、40日間の雨
の降水で水没するには、その降水量が半端な量ではない。
 簡単に計算できるが、どのくらいの降水量でなければな
らないかを、NHKは計算してみなさい。
 あり得ない降水量・降雨量になって、笑いが出て来るく
らいの『異常な降水量』になることが分かるでしょう。
 こんな降水量はある訳がないが、あったとしたら、この
時点で、ノアさんを含めて、すべて生物や物が、この降水
量に流されて、ノアさんも死んでしまいます。
 その様な降水なのです。あり得ないのです。
 しかも、その様な雨を通り越した、滝の様な水の落ちる
中を、世界を訪ねて、一つがいの象とか、サイとか、ワニ
とか、コブラとか・・・を集め、歩けると思えるのか?
 何で行ったのか? 
 舟で行ったのか? 
 舟の中はすぐに水でいっぱいになります。
 駄目です、舟は。
 当然、歩ける訳もない。
 ザーザー降りの話を大きく越えている水が落ちて来るの
です。
 それも、ノアとその家族だけで・・?
 出来るわけがない。
 一瞬の降水量でなく、40日間の間、
 連続して・・その降水量がある中を、
 動物を一つがいづつ捕まえたとして、その食べるものも
確保しなければならないし、各動物とそれらの各動物の、
毎日、食べるものを、世界中から運ばなければならないし、
 NHKは、どうして、史実だと信じたのだ。
 国民の受信料を使って、くだらない外国製の映像を買っ
てまでして放送するのだ・・。
 ノアはどうして、ブラジルへ、アフリカへ、南極へと行
けると思うのか? 歩って行けるわけがない。飛行機があ
るわけじゃないし、あったって離陸ができないzzzzz
zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz。地上の
すべての生き物が、ノアも含めて死滅するという結果なの
です。
 キリスト教の聖書は、まことしやかに話を進めるが、
 キリスト教は、この様な宗教なのです、NHKよ!
 キリスト教は、一生懸命、プロパガンダ(嘘宣伝)する
が、もう古代人の様な頭の人々ではありません。
 もう、嘘を付く行為は、お止めなさい。
 純真な方々を惑わすような事は、お止めなさい。
 この様な事ばかりのキリスト教は、心を痛めている方の
事を思いやりなさい。
 また、この様なキリスト教から離れなさい。
 キリスト教は、次世代に残してはいけない宗教です。
.
 (参考)い‐こう【遺構】 残存する古い建築物。また、
   昔の都市や建造物の形や構造を知るための手がかり
   となる残存物。考古学では、住居跡・倉庫跡・水田
   跡など、その配置や様式を知る手がかりとなる基壇
   や柱穴など。
..
   (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /

2014年6月9日月曜日

皆で・・悔い改めて下さい。

 題: 皆で・・悔い改めて下さい。
    伝搬して・・いなかったなら・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 もし、ヨーロッパに・・、
 キリスト教が伝わっていなかったなら・・、
 世界は、本当に、本当に、平和な時代が続いただろう。
 キリスト教の・・『殺戮の宗教の伝搬』が・・伝わって
いなかったら・・、ヨーロッパも・・すべての地も・・
 戦争に満ちた地に・・ならなかっただろう。
 一神教と言うが・・実は、多神教の・・見せかけの一神
教の・・その気持ちだけでいる・・キリスト教が、
 その生まれた地の・・、砂漠の飢餓の地の・・、
 奪い取りをしなければ・・相手を殺さねば・・そうして
生存せねばならない地の・・
 その精神に染まった宗教=キリスト教が・・伝わらなけ
れば・・、
 魔女にされた女性の方々も・・無駄な・・無念の死を・
逃れる事が出来ただろう、逃れられただろう・・。
 当然・・、
 南米・中米・北米メキシコ、および、それらの離島のイ
ンディオスの方々も・・、
 1000万人以上に及ぶという・・筆舌につくせぬ多くの方
々も、死なずに、死なないで・・済んだだろう。
 また、ユダヤの方々も・・悲惨な死を免れただろう。
 あらゆる時代を通して、また、あらゆる場所において、
 『イエスの呪いの言葉』によって・・悲惨な死の事態に
巻き込まれ、追い込まれたユダヤの方々・・、
 逃げまどい、そうしても、殺され、殺戮されたユダヤの
方々の姿も・・なかったであろう。
 オーストラリアのアボリジニの方々も・・虐殺を免れ、
動物狩りの様に撃たれ・・死に・・そして・・絶滅の時を
迎えている・・その様な事にならずにも済んだだろう。
 キリスト教聖書に書かれ、そして、長い歴史に・・その
悪鬼の『奴隷制度』で苦しんだアフリカの方々・・、
 そして、それによって受けた、あまりにも多い死も・・
無かったであろう。
 そして、キリスト教の新世界を作るのだと・・渡ったそ
の地に・・既に居た方々・・
 アメリカの地に・・既に居た・・6000万人のインディア
ンの方々の・・これも悲惨な・・あまりにも多くの死の事
態も・・起こらなかったであろう。
 その他、書けば・・切が無い・・キリスト教の悪行・・
 キリスト教の悪の行為によって・・苦しみ悶(もだ)え、
死した方々はあまた・・大勢、居られる・・
 キリスト教が・・伝搬し・・広まらなかったら・・この
様な・・可哀想な方々は・・居なかったであろう。
 キリスト教徒の方々は、亡くなって・・天国へ行ったら、
 このあまりにも多くの・・キリスト教によって・・無念
のうちに亡くなった方々、殺された方々に・・会う。
 そのあまりにも多くの・・キリスト教の殺した方々の数
に、多さに・・びっくりするだろう。
 自分たちの・・罪深さに・・本当に・・本当に・・謝罪
せざるを得ない事態に・・なるだろう。実感するだろう。
 その時、仏の菩薩の様になりなさい・・。『一人も残ら
ず救い切るんだ』と・・心に決めなさい。
 その亡くなった方々へ、心から、衷心から、丁寧に、
 一人一人の方々に、丁寧に丁寧に、衷心から、心から
 謝罪しなさい、謝りなさい、悔い改めなさい、
 二度とこの様な事は致しませんと・・、
 心から言って下さい。
 そして、先立って死んだキリスト教徒の方々へも、
 一緒に・・謝り歩くことを・・説きなさい。
 神の右に、座っているだけの方へも説きなさい。
 皆で・・悔い改めて下さい。
..
   (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /

一切合財(いっさいがっさい)が聞き出されるのが・・普通だ・・

 題:一切合財(いっさいがっさい)が聞き出されるのが・・普通だ・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 イエスと弟子たちが・・、
 次の機会はないという・・「最後の晩餐」に臨(のぞ)
む・・、
 最後だから・・最後に際して・・イエスも言っておきた
い大切な事柄があっただろう。
 本当の最後なのだから・・そう思う・・さぞ意味ある時
間が流れるのだろう・・と・・、
 そう思っていれば・・、さにあらず・・、
 最後の言葉とは・到底思えない言葉が・・イエスから
言われた。
 「(この晩餐の席についている)・・この中のものが、
わたしを裏切る」・・と。
 そして続けて・・、「(そ奴は)・・今、私と同じに、
 テーブルに手を置いている(奴だ)」・・と、
 イエスは言う。イエスは、イエスを裏切るユダが・・、
 イエスと同じ様に、テーブルに手を置いているのを見て
・・、そう言ったのだろう。
 これから最後の晩餐の会食をしようという時に・・、何
と、場を白(しら)けさせるようなことを言うのだろう。
 これが、大切な会食の最後の晩餐の時にイエスが言いた
かった事なのか? 
 「裏切り者が居る」と言いたかったのか・・その言い方
とは??
 何しろ・・皆に・・裏切り者の存在を知らせただけのイ
エスのスピーチだった。
 はっきり言って、スピーチ・レベルは・・低い。
 採用試験だったら、採用はされません。よほどの就活を
しなければ駄目だろう・・。
 そして、その席の者たちには、「誰だろう」と詮索(せ
んさく)の言葉が飛び交う。
 猜疑の、疑いの言葉がこの会食の場に満ち、イエスのこ
の言葉で、陰湿な雰囲気に、一気になってしまい、会食は
シッ茶かメッチャカ・・となる。
 まったく、イエスのリーダー的センスは、無能としか言
えない。
 また、イエスが、そいつは、今、私と同じにテーブルに
手を置いている奴だと、こんなに明確な指摘をしているの
に、皆は「誰だ?誰だ?」と、イエスが指摘した、その席
に居る奴が、誰だかを言い合ったというのだから? 
 イエスが、ユダがテーブルに手を置いているのを見て、
今、そいつは、テーブルに手を置いていると言ったのに、
そのテーブルに居た、誰もが分からないとは? 
 少なくとも、ユダの隣の人間は、直ぐ分りそうなものを
・・。誰にもわからないとは?? 馬鹿ではないか? 分
かろうというものだ。
 こんな展開ではない、本当は・・、
 本当は、聖書の展開も、記述も変わってきただろう。
 例えば、当然、それはユダだと分かり・・ユダに・・、
 「ユダ! お前、裏切ったのか?」・・と、まず最初に
大きな声で問われるだろう。
 まず最初に、当然のごとく糾弾されるだろう。
 ユダは、仲間たちから次々に言われ、裏切っていること
を白状せざるを得なくなり、白状し、一切合財(いっさい
がっさい)が聞き出されるだろう。
 そして、誰かが・・「ラビ!」(イエスは、ユダヤ教の
聖職者の名・ラビで呼ばれていた)、
 「ラビ!今、やばいですよ」「今、出て行ったら、やば
いですよ、出直しましょう」・・と言うだろう。
 完全に不利な状況が生まれている。
 この様な状況を察知して、必ず誰かが、こう言う訳だ。
 裏切り者の、敵と通じているものの・・存在しているこ
とが分かっていて、敵の術中に、無策で、はまるという事
は、馬鹿な事だと誰でもわかる訳だ。
 そのまま、敵の策にはまる『愚かな行為』を、いくら馬
鹿な弟子と言えども、このくらいは分かる訳だ。
 聖書の記述も、絶対に、変わったはずだ。
 それが・・、イエスが・・、これほど、分かり易いヒン
トを出したのに、誰も、大勢居たのに、誰も分からずにい
たとは・・?? 
 また、その様な鈍感な弟子たちを見てても、それ以上、
言わずに、『お騒がせをしただけ』という事態へと進んで
行くだけとは・・お粗末だ。イエスはそれしか言わず・・
 白けた晩餐が終わったら、裏切りのユダは、早速(さっ
そく)その足で、祭司長の敵方へとご注進(ごちゅうしん)
に走ったという。
 本当に、本当に、お粗末な話だ。
 その様な展開で、イエス逮捕の敵が迫りつつあるという
時・・、イエスが祈りをあげているという時に・・、
 この馬鹿弟子たちは、「眠っていた」という。
 口が空いたままになるぐらいの話だ。
 何と言ったらいいのかという状態だ。軽蔑の極(きわ)
みだ。
 こんなキリスト教聖書を読んで、何が良いことがあると
言うのか? 良いことが起きる訳がない。人類も救われる
訳がない。あなたがたが幸せになれる訳がない。本当に・
・(怒)。キリスト教よ! 可哀想な方たちを、惑わすな!
.
(参考)せんさく【詮索】 [共通する意味] ★はっきりとし
   ない物事を調べ求めること。[英] groping[使い方]〔
   模索〕スル▽解決の方法を模索する▽暗中模索〔詮
   索〕スル▽事件について詮索する▽隣人の職業や収
   入などを詮...
..
   (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /

2014年6月8日日曜日

キリスト教を創始したパウロは、「律法はいらない」と・・、他

 人を有罪にするキリスト教。魔女とか、悪魔とか、キリスト教は人々をもて遊ぶ。キリスト教は、世の中に居ないものを、さも居る様に言い、思い込ませ、マインド・コントロールする。心を陰湿に弄(もてあそ)ぶ。その様に心を害するキリスト教。キリスト教は人に罪があると、無罪である人間を、有罪にしてしまう。そのキリスト教の教義。人間を悪に考える教義で、人間の心を壊すキリスト教。そのキリスト教を信じるキリスト教徒の人たち。このキリスト教の教義の性悪説で認知症になる。これは科学的に証明されている。また、認知症がより悪くなることも証明されている。鬱(うつ)に悩む人も多い。すぐにキリスト教から離れなさい。
.
 題:キリスト教を創始したパウロは、「律法はいらない」と・・、他
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教を創始したパウロは、「律法はいらない」と
棄てた。
 棄てたとは・・「棄てたとした」というのが正しい。
 実際、キリスト教には、「ああしなければいけない」「
こうしなければいけない」という取り決めが色々あり、実
質的には、厳然と律法が存在している。当然である。
 しかし、表面的な顔的には・・パウロの言う律法は無い
という宗教上の顔をしている。二重人格的な形と言える。
 キリスト教には、この様な1例の様に、心理的に惑わす
事項が実に多い。
 しかし、律法について、キリスト教徒のキリスト教学者
は、次のように言う。
 結論的に・・、
 このキリスト教学者は、律法を捨てたのは間違いと言っ
ている。つまり、パウロの律法を捨てた大原則は間違いと、
言っている。
 その論理・・、「律法」は、それ自身、神の要請にほか
ならない・・と。
 そこには、要請という神の支配がある・・と、言う。
 その神の支配の意志が、要請が、律法に、律法というと
ころに、現われている・・と、言う。
 律法否定は、その神の意志を拒絶している・・というこ
とになる・・と言う。
 キリスト教を作ったパウロは、この律法を『棄てろ』と
言ったが・・そして、今、キリスト教は、このパウロのキ
リスト教を実施しているとなっているが・・、
 この意味からも、今のキリスト教の方針は、論理的に・
・神の意志は無くなっている。
 この様に、キリスト教徒のキリスト教学者は、律法は神
の要請であり、『律法への服従』がそのまま人への定めで
あり、その定めで、人は創られ、立てられ、置かれている
・・と、言っている。
 そして、律法を棄てることは、神の言葉が、意志が・・、
「真」ではないと言っていることになり、その意味で、キ
リスト教は大矛盾を呈(てい)している。
 そして、この神の言葉の否定となる事は、人を創りし神
の言葉の否定となり、人間の創造の否定となり、つまると
ころは、人間の存在の否定にもなる・・と言う、その様な
今・現在のキリスト教の姿となっている。
 そしてそして、神の支配の否定にもなっている。神の希
望も成就しないということにもなっている。
.
 そして、次の話、
.
 題:立ち位置からからして・『罪作りな存在』なのだ。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 イエスが、磔刑にあう時のこと・・、
 イエスは、弟子に言う・・、
 「あなたは、今夜、鶏が鳴く前に、三度、私のことを知
らないと言うだろう」・・と、(「マタイによる福音書」
26・34)、
 イエスが、弟子・ペトロに言った言葉である、これから
起こる事を言った予言である。
 イエスが居た、この頃には、予言者が、いっぱい居た。
 公(おおやけ)の身分を持つ予言者も居たが・・、
 イエスは、当然と言っていいのか? 私的な予言者だっ
た。
 公にはなれないだろう・・、体制側になれるような人で
はない・・、イエスの里のナザレでは、近隣の人が、昔の
イエスを知っている人は・・、「予言者とは、うまいこと
をやっているね」と、言ったというが・・、
 そして、この頃の預言者たちの大勢が、刑死させられた。
 そして、このイエスの言葉も・・、
 キリスト教徒が言う様に「予言」の言葉であることは間
違いないが、キリスト教聖職者は、イエスは預言者であっ
て、予言者ではないという。
 イエスは、これから起きることを予言する者などではな
く、神からの言葉を与えられる預言者なのだ・・と言うの
だ。
 このイエスの言葉を聞いたペトロは言う・・、
 「たとえ、一緒に死ななくてはならなくなっても、あな
たの事を知らないなどとは決して言いません」・・と、
 この後の話を知っている人は、この言葉を聞いて頭に来
るでしょう。本当に、ひどいことを言うペトロだと思う。
 イエスと一緒に死ぬことになっても、「イエスを知らな
い」なんて言いませんよ・・と嘘を言う、それも、イエス
の本人に、面と向かって・・言うとは・・??
 結果は、イエスの予想通り、『イエすなんて知らない』
と三度も言い、嘘をつくというペトロなのだ。
 ペトロは、『キリスト教会を託された』という男、キリ
スト教の重鎮だが、口の軽い輩だし、人徳なんてまったく
ないという男だ。
 イエスへ面と向かって嘘となる事を言ったのだが・・や
はり、イエスの言う通り、イエスへ言った口が乾かないう
ちに、「イエスなんて知りませんよ」と、嘘を言う。
 キリスト教には嘘がまったく多い。あちこちで、キリス
ト教で嘘にぶち当たる。
 このペトロもそう、最低な嘘つきだ、こんな人間に託さ
れたというキリスト教会(バチカン)も、その後の姿が知
れようというもの。
 バチカンの廊下を売春婦が品を作って歩き回ったという
話などなど・・。毒殺の横行などなど・・。
 そしてまた、キリスト教裁判所を作り、キリスト教聖職
者を裁判官にして、「裁くな」というキリスト教の教義が
あったって、「裁きに、裁いて」、魔女にされた女性の方
たちを、大勢、火あぶりの極刑にして殺し、その財産を奪
ったというキリスト教。
 キリスト教は、どこもかしこも、愚かな悪の行為に満ち
ている。キリスト教の聖書なんて、聖職者が率先して守っ
てない。馬鹿馬鹿しい話である。
 捕えられる前にイエスは祈った、その様な重要な時に・
・、
 キリスト教聖書には、まことしやかに、イエスの祈りの
言葉が記されているが、これは、嘘の記述だ・・嘘だ、作
り話だ・・と、すぐ分かる。
 イエスが祈っている時に、この緊迫した時に、イエスの
弟子たちは・・眠っていたのだ。
 誰が、イエスの祈りの言葉を聞いていたと言うのか?
 イエスが祈ったというその言葉を、弟子たちが伝えられ
る訳がない。眠っていた人に伝えられる訳がない。
 当然、聖書製作時には、イエスは生存していないし・・、
 眠っていたのだから、弟子も伝えることができる訳がな
いし・・、誰が伝えたというのか?
 何しろ、キリスト教の聖書のレベルが、こんなレベルな
のだ。キリスト教とはこんなレベルなのだ。
 内容も、文書としても、矛盾だらけ、成立していないの
だ。そして、ただの読み物というものと違い・・、
 その立ち位置からして・・『罪作りな存在』なのだ。
..
   (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /