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2013年8月16日金曜日

古代からの長い期間ある意識を、払拭しなければならない。

 題:古代からの長い期間ある意識を、払拭しなければならない
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 戦国時代に覇(は)を競っていた各大名は、富国強兵の
ため、また、生き残りのため、南蛮船が持って来る「鉄砲
や弾薬の原料」などの軍需物資が、喉(のど)から手が出
るほど欲しかった。
 ここは、「キリスト教の布教に貢献した」と、キリスト
教系学者も認めるところ。
 『死の商人』をしていたキリスト教宣教師たち。
 キリスト教になったというキリシタン大名は、キリスト
教の宗教を知って、そのキリスト教を理解して、キリスト
教になったのではない。
 武器弾薬が欲しかった。
.
 そのキリシタン大名の子供の代になり、
 キリスト教宣教師も居なくなると、
 キリスト教と、まったく、関係のない状況になった。
 そして逆に、
 キリシタン大名の子に、「キリスト教のことを悪く言う」
という文献が残されている。
 子供として、父親の姿を見ていて、その状況が、この様
な態度をとらせたと考えられる。
 キリスト教との関係は、本当に嫌になる状態だったのだ
ろう。
 何しろ、キリスト教は、基本的に、日本人を馬鹿にする
という心が根底にある。
 有色人種の蔑視である。
 これが古代から抜けていない。
 キリスト教の教えの根底に、日本人に限らず、アフリカ
の黒人の方々を侮辱したキリスト教聖職者の言葉が残って
いるが、
 また、南米などで蛮行した出先が、
 本国へ問い合わせているその返答が、
 現地人の方たちを『人間ではない』と答えている。
 日本においても「日本人を馬鹿にしている記録が残って
いる」。
 キリスト教は、この根底にある、長い期間、古代から払
拭することが出来なかった「人種的偏見の意識を、払拭(
ふっしょく)しなければならない。
.
 (追伸) 戦国大名が、キリシタン宣教師たちが持ち込ん
だ物資を欲し、代わりに領内の布教を許したのは、いつ果
てるともなく続いていた戦乱の中で、貿易によって富みを
蓄積し、輸入した強力は火器(武器)によって戦いを有利
に導いて行きたかったから。
.
 (参考)は【覇】 1 武力や権力によって国を統一し、
治めること。「天下に―を唱える」 2 競技などで優勝す
ること。
 (参考)は【覇】 [常用漢字] [音]ハ(呉)(漢)
 1 武力で天下を取る者。「覇王・覇者/五覇」 2 力によ
って支配すること。また、競技で優勝すること。「覇権・
覇道/制覇・争覇・連覇」 [名のり]はる [難読]...
 (参考)し‐の‐しょうにん【死の商人】 営利本位に兵器
を製造・販売する業者や資本。中世ヨーロッパで、敵味方
を問わず武器を売り込んだ商人をいった語。
 (参考)ふっ‐しょく【払拭】 [名](スル)はらいぬぐ
い去ること。すっかり取り除くこと。一掃。ふっしき。
.
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2013年8月15日木曜日

自分の都合を優先することを許す宗教

 題:自分の都合を優先することを許す宗教
 ...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教が守るべき律法。その中で、食べて良い動物
は、「蹄(ひづめ)が割れていて、反芻(はんすう)する
動物」のみ。
 故に、蹄が割れていない馬は、食べてはならない。
 また、豚は、蹄が割れているが、反芻しないので食べて
はならない。
 故に、魔女事件で、魔女にされた女性を陰湿に虐(いじ)
めるキリスト教聖職者は言う・・、
 「ブタを食べただろう」・・と。
 可哀想なその魔女にされた女性は、「食べてません」「
食べてません、豚は食べると気持ち悪くなるから、食べら
れないのです」と一生懸命に言うが、イジメ抜かれた女性
は、命を落としめられる。
 この様に、キリスト教には食べてはならない食物がある。
 この事例の様に、動物の豚もその様な食べてはならない
動物。
 また、海や川にいるものの中では、食べて良いものは、
ヒレと鱗(うろこ)のあるものだけ。
 イカやタコや海老もそうだ。食べてはいけないのだ。
 また、貝やウナギも、当然、食べてはいけない食物とな
っている。
 また、食べて良いことになっている牛肉は、しっかり血
抜きをしなければならない。
 (肉汁たっぷりのステーキは駄目)。
 キリスト教の一派:「エホバの証人の」は、輸血も駄目
としている。
 幼い子が、この医学の発達した現代、立派な病院で「輸
血」を拒否され、尊い幼い子の命を落とし、救えなかった。
 また、「肉を乳で煮てはならない」という戒もある。
 別々に煮ても、同時に食べてはいけない。
 皿に盛る時も、同じ皿に盛ってはならない。
 キッチンの流しも別にするとよい。
 (こんな時代錯誤な教え、信徒はほとんどが馬鹿にして
守らないと、適当にやっている。『自分の御都合』を優先
しているのだ。元々、キリスト教は低劣な教義に満ちてい
る。勝手に皆で破って平然としている宗教なのだ。一面で
は「神だ」「神だ」と言い、別の面では『自分の御都合を
優先する』。それを組織的にキリスト教は目をづぶってや
っている。組織自体が御都合主義にどっぷり漬(つか)っ
た宗教なのだ。くだらないの一言。こんな宗教を信じて、
皆様が幸せになれるはずがない)。
 着るものも、「男は女の着るものを着てはならない」と
なっている。そしてまた、反対に「女は男の着るものを着
てはならない」となっている。だから、女が「ネクタイ」
をする事が出来ない。
 また、2階にバルコニーを設ける時には、「手摺をちゃ
んと設けるようにしなさい」というのもある。これは当た
り前。言われなくても。落ちてしまうではないか。
 マニュアル宗教のレベルなのである。
 そして、『ユダヤ教徒の意識で死んだイエス』を供犠(
くぎ)として利用したパウロのキリスト教の宗教企画(現
在のキリスト教)をキリスト教の宗教教義とした。
 そして、今では、多くのキリスト教聖職者でさえ信じて
いない「復活」を、「イエスの復活はあった」とパウロは
宗教企画に決めた。
 しかし、パウロは、肝心な「イエスの行動や言葉」はい
りませんと、必要ありませんと、捨ててしまった。そのこ
とを文にしてまでして残した。パウロの都合、お好み。
 そして、キリスト教は、ユダヤ教正典を「旧なる神との
契約の書」の地位に貶(おとし)めた。
 「神の子」を勝手に作ったキリスト教は、良かれと思っ
てやったのだろうが、神を『神の地位』からも貶(おとし)
めた。
 神に、「時間に捉われる」という行為をさせている。こ
の様な「大失態」をもしている。
 また、名も呼んではならないという神概念を崩す行為を
している。
 神を、「ある空間」の中に置くという行為もキリスト教
はしている。
 これでは、まったく、「人間と同じではないか」。
 この事例の様に、キリスト教は、神に良かれとやったが、
「神への大冒瀆(ぼうとく)」をしている。
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2013年8月14日水曜日

嘘を言っていたら、深まりません・・。

 題:嘘を言っていたら、深まりません・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は、『1神教の壁』があって・・、
 キリスト教より早くに成立した仏教の影響は受けていま
せん・・と言う。
 これは、キリスト教の良くやる嘘です。
 キリスト教は、色々な面で、仏教の影響を受けています。
 例えば1例ですが、地獄の概念です。
 キリスト教の「地獄」の概念は、まったく、仏教の影響
を受けています。
 「裁かれて天獄にはいる。そしてまたは、はいれない人
もいる」という、キリスト教の宗教概念は、完全に仏教か
らの影響です。
 (「マルコによる福音書」9・48)に、「地獄では蛆(
うじ)尽(つ)きることも、火が消えることもない。人は
皆、火で塩味を付けられる」とある。
 また、(「マタイによる福音書」25・41)に、「呪わ
れた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のため
に用意してある永遠の火に入れ」。
 イエスが居たナザレは、交通の要衝(ようしょう)、異
邦人が多く居た。
 また、インドの佛教宣教師も、「一神教の壁」と称する
ものなど何の関係もなく、越え、パレスチナの地へ宣教に
来ています。
 イエスの思考形態に、仏教的な面が見られるのは、イエ
スの生まれ育った地に多く居た異邦人が、インドから持ち
帰った仏教的考え方に影響を受けていた。
 また、イスラム教には、「ラザー」という「火炎地獄」
があり、「キリスト教徒が入(い)れられる地獄」だとさ
れている。
 その「キリスト教徒が入れられる地獄」は、イスラム教
の教義で決められています。
 キリスト教の地獄の教義・宗教概念は、「永遠に責め苦
を受ける」となっています。
 しかし、このキリスト教の教義は、まったく慈悲心がな
い状態です。
 「攻め・イジメ一本やり」です。これが、キリスト教の
考え方であり、教義なのです。
 この点、仏教の地獄は、「一定の期間、罪を償(つぐな)
うところ・場所」とされています。
 そこには、「救いの道」があります・・その様な、教え
を説いています。
 キリスト教は「無限の責め苦」という宗教概念で、救い
はまったく無い、ありません。
 キリスト教の「愛の宗教」は、この様な宗教概念・シス
テムで、救いの道が無い考え方・教義で・・愛?・・と、
疑問が・・。
 これで、どこで愛を説いて居るのですか?・・と、言い
たいのです。
 キリスト教の「愛の宗教」は、嘘宣伝・プロパガンダな
のです。実態面で、愛となっていないのです。
.
 この無慈悲さに気付くいたキリスト教は、
 大分、年月が経過した後、
 仏教的な地獄の概念を、キリスト教会は作った。
 気付きましたか、良かったですね、おめでとう・・です。
 しかし、プロテスタントは、今でも、頑(かたく)なに
拒(こば)んでいます。『責め・イジメ一本』です。
 この様な、慈悲ある地獄の概念はありません。
 「最終的に、人類を救うという宗教概念」でなければい
けません。
 煉獄の宗教概念を取り入れたキリスト教と、
 拒んでいるキリスト教という状態です。
 ちなみに、プロテスタントは、「告解」も否定していま
す。
 いずれにしても後追い宗教=キリスト教です。
 人類救済は表面だけの言葉です。実態は実際は、救うこ
とはできない教義になっています。
 嘘ばっかり言っている宗教では真実は深まりません。
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2013年8月12日月曜日

時の流れは、その中にある・・

 題:時の流れは、その中にある・・
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 エジプトには、豊かな「ナイルの流れ」があり、
 その豊かな「ナイル川の流れ」は、豊かな実りをもたら
しました。
 そしてまた、その豊かな実りは、民へ豊かな生活をもた
らし、
 豊かな生活は、「豊かな文化」をもたらしました。
 エジプトの文化は栄えました。
 花は大きく開きました。
 その文化は、数々の『人類の至宝』を生みだしました。
 それに引き換え、
 「キリスト教の生まれた地・パレスチナ」は、
 砂漠の地で、『飢餓と背中合わせの地』でした。
 民は、飢餓にさ迷い、
 大挙して豊かなエジプトに流れ込む事もしばしばでした。
 BC17世紀の時にも、この様な事がありました。
 因(ちな)みに、
 この豊かなエジプトが貧しくなったのは、ヨーロッパ・
キリスト教諸国の『植民地支配』があったからです・・、
 民が得るべき『富み』は吸い上げられました。
 民・国民のための作物は、栽培できなく・・、
 植民地支配をする側の国の『儲けに都合の良い作物』で
ある「商品作物」を作らされました。
 土地も貧しくなって行きました。
 かつては「非常」という言葉を付けることが出来るほど
の豊さだったのに・・。
 例えば、エジプトと同じ様に植民地支配に苦しめられ、
泣いた「インド」の例をみると・・、
 支配者のイギリスは、実質、「国策であるインド支配」
を「東インド会社」を作って会社組織で行いました。
 これは、表面を繕(つくろ)っているのです。
 東インド会社は1600年に作られ、
 インドを、何と、『257年』にも及ぶ長い長い期間牛耳
(ぎゅうじ)りました。苦しめ、搾取しました。
 その富の奪い取り・取り上げ・吸い上げは凄(すさ)ま
じい限りで、
 「非人道的」などという言葉は、とっくに、通り越して
いる状態でした。
 「奴隷としての人の使役」を赦(ゆる)すキリスト教。
 「奴隷制度」を容認するキリスト教、
 このインドの収奪も、形の変わった『奴隷制度的略奪』
でした。
 キリスト教の発生地の出来事。苦しい時には「隣国の富
を奪いに行く事を、『神の義がある』から赦されるのだ・
良いのだとするキリスト教、
 その考え・思考形態・文化に染まった植民地支配国・イ
ギリスのなす行為。
 悪辣(あくらつ)ぶりの一端、この東インド会社の配当
率を見るとびっくりする。
 この257年間に、なんと、100%の配当率を割り込んだ
事はありませんでした。
 銀行の利子が1%にも達しない事からもお分かりと思い
ますが、如何(いか)に悪どく利益をこの会社は得ていた
か・・という事です。
 堂々とこの様な馬鹿みたいな配当を、超・長期にできた
という呆(あき)れた話なのです。
 この様な配当が出来たこの会社がどんだけ収奪利益があ
ったかは想像を絶します。
 旨い汁を吸ったこのヨーロッパ・キリスト教諸国は、
 この1例の様に、あらゆる場面で利益を吸い上げていま
した。
 そして、この様な行為は、世界のあちこちで、強い立場
を利用して、弱小の国の富を吸い上げ、本国へ持ち去り、
奪い去りました。
 本来は、差別されている植民地の人たちのものを・・。
 当然、当り前のことですが、ヨーロッパ・キリスト教国
の本国は、豊かになりました。
 収奪・奪(うば)った富み・利益で肥え・太りました。
 その1例が、今・現代でも、強者の国・差別行為をした
国・収奪した国=本国のキリスト教諸国に見られる「社会
資本の充実ぶり」です。
 綺麗なのは当たり前。自分たちで稼いで作ったのではあ
りません。
 綺麗なヨーロッパ・キリスト教諸国の街などは、世界の
弱者の国から吸い上げた富で出来ている。
 キリスト教に偏するNHKは「世界遺産」という番組名
で、何度も何度も放送するが、再放送に再放送と、その放
送頻度は「ヨーロッパ・キリスト教国」に偏(かたよ)り、
番組名の「世界」を冠しているのが泣くぐらいです。
 番組名を「世界遺産」ではなく、「ヨーロッパ・キリス
ト教国遺産」としたい位です。
 そして、キリスト教会とかキリスト教関係(例えば、ま
ったく関係のないミサなど)を放送し「巧妙な伝道行為」
をしています。
 さて、飢餓の苦しさから、豊かなエジプトに逃れた「イ
スラエルの民」の話は・・、
 エジプトに逃れたパレスチナの民は、当初は寛大に受け
入れられていました。
 しかし、エジプトで、BC13世紀の頃になると、パレス
チナの民は奴隷化されて行きました。
 でも、パレスチナの民も、エジプトの宗教を信仰する様
にもなったりして、エジプトに溶け込んで生活しました。
 エジプト脱出の時に、苦しい場面で、モーゼがなじられ
たくらいでした。「こんなに苦しいならエジプトに居れば
よかった」と・・。
 それなりの安定した、満足した生活をしていました。
 パレスチナの宗教は、「律法を守る事が大切」とされ、
 「律法を守れば、神は保護してくれる」、
 しかし、「律法を守らないと、神は陰湿化し、色々な仕
打ちをする」。
 キリスト教の神は、「総べてにおいて、この発想」。
 「律法を守れば保護する」、「そうでなければ、懲らし
め・虐(いじ)め」です。
 また、この発想で、信仰していない異教徒に対しては、
キリスト教の教義である「異教徒は殺せ」の対応です。
 結局、キリスト教は、
 「キリスト教の神様、これからは、あなたの言うがまま
にします」という宗教。
 そして、キリスト教は「契約の思想が入り、介在すると
いう宗教」。
 そこには、『契約していない人は知りません』という「
限定」が厳然とある宗教。
 故に、『契約外の人も守る』という宗教では無い。
 「契約の外の人は排除する」というキリスト教の宗教思
想・理念・教義の宗教。
 「宗教教義を信仰する人の身だけを守る宗教」。
 「人類救済の宗教ではない」。
 「愛の宗教といっても、同じ宗教を信じる、同じ民族を
対象とした=我が民族の同じ宗教を信じる民だけへの愛」
となる。(隣人愛である)
 だから、異教徒の人々が、いくら苦しみに、のたうち回
っていようが、無視するという教義・考え方の宗教。
 無視するというより、「異教徒は滅っせしめよ(殺せ)」
の宗教教義なのです。
 「キリスト教の神は、信者だけの安寧(あんねい)と幸
福だけを守る」。だから・・・、
 「自分の国の兵隊が死なないためには何でもする」。
 「異教徒の命なんて意識の外」。
 「ましてや」、自国の兵の命を捨てて、異教徒の民を守
るなんて、考えられないくらいな、「あり得ない事」。
 「甘い考え・期待は捨てよ」。
 「自分の事は自分で」。
 キリスト教の教義は、その様に、教徒へ、幼い時から、
 この様な話を教え、聞かせ、育って来た、
 洗脳されて来た。
 過去の歴史は、この事例で満ちています。
 北アメリカのインディアンの方々、
 南アメリカや中米などのインディオの方々、
 オーストラリアのアボリリジニの方々、
 アフリカ大陸の方々などなどなどなど・・。
 好きなまでに、ここまでかというところまで、
 際限なく
 蹂躙されています。
 時の流れは、今も、その中にある。
 (題:時の流れはその中にある)完。
.
 (参考)し‐ほう【至宝】 この上なく大切な宝。
 (参考)あく‐らつ【悪辣】 [名・形動]情け容赦もなく、
たちが悪いこと。あくどいこと。また、そのさま。
 (参考)あん‐ねい【安寧】 無事でやすらかなこと。特に、
世の中が穏やかで安定していること。
.     
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2013年8月11日日曜日

イエスに会ったことがない人・・そして、そのもがきが・・

 題:イエスに会ったことがない人・・そして、そのもがきが・・
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 (「マルコによる福音書」6・7~13)に、
 イエスがする「病気癒し」が、奇蹟的業(きせきてき、わざ)
と言われているが、イエスだけが独占する業(わざ)ではなく、
皆がする業(わざ)の様に書かれている。
 そして、「悔い改め」の宣教をしたとあるが、
 「宣教」の内容が、言葉で相変わらずはっきりと示されては
いない。
 内容のない、内容不明の話・聖書記述となっている。
 聖書は何時もこのような話の展開。
 肝心要(かんじんかなめ)の役に立つ話が抜け落ちている。
 また、マタイによる福音書のこの部分の並行記事部分の、
 (「マタイによる福音書」10・5~15)には、「天の国が近
づいた」とだけは言ったようだ・・が、これはもう、遠の昔
「洗礼者ヨハネ」が言ったこと。
 洗礼者ヨハネの言葉の「受け売り」だけになっている。
 また、「死者を生き返らせる」のも弟子が出来たりして、イ
エスだけが出来るということではない様な事。
 宣教内容はないし、また、他人の受け売りだし、「病気癒し」
や「死者の生き返らせ」は弟子たちの皆が出来てしまうという
「どこでも、だれでも」という嘘っぽい話となっている。
 そして、おかしいところは、その理由として「働くものが食
べ物を受けるのは当然である」と言い、宣教意識がまったく欠
落している。
 「食べ物を貰(もら)いたいからやっている」という感じで
ある。
 そして、「町や村に入ったら、そこでふさわしい人は誰かを
調べよ」と言い、「受け入れない者たち」へ報復をするように
と説く。
 それも、「裁(さば)きの日のソドムとかゴモラの故事」を
持ち出して、おどろおどろしく、ねっちりと陰湿に語(かた)
る。精神衛生に良くない。
 さらに、(「ルカによる福音書」9・1~6、10・1~12)の
並行記事になると、12人派遣が、72人に増え、どちらの人数が
正しいのかが不明。
 または、12人と72人の二重の伝承という問題となっているの
か、色々と不定に考えられるあてにならない状況。
 この適当状態は、伝承の確度が疑われるからである。
 伝承は、「告げられた通りに受け取らなければならない」。
 そうでなければ、「伝承の意義が崩れる」。
 「伝承が崩れ」「伝承にならない」のである。
 「違う」とか「間違い」とかで済ませられる問題ではない。
 伝承されてない、変わったとかも含め、宗教の伝承として
根本的問題である。
 キリスト教は、この1例の様な問題が、あちこちにあり、宗
教的に確定されない、成立しない問題が多く孕(はら)んでい
る。
 この様な文を毎日読んで糧となるか?という事である。
 (「ガラテア」1・6~9)に、
 「違った福音」は「呪(のろ)われる」と記されている。
 そういう意味で、今、パウロが宗教企画した「パウロ・キリ
スト教」であるが、
 このパウロが、あってはならない嘘を言っている。
 「福音の伝承」において、あってはならない嘘なのである。
 パウロは、「イエスに会った事がない人なのである」。
 しかし、(「使徒言行録」9・1~9、22・6~11)で、
 パウロは、「サウロ」と名のっていた頃、
 ダマスコへ行く時、
 イエスに直接会ったことがあると嘘をついている。
 キリスト教会は、この問題をもみ消し、かつ、権威を得たい
と、恥の上塗り的な嘘をつく。
 イエスが、ペトロに「あなたが地上でつなぐことは、天上で
もつながれる。あなたが地上で解くことは、天でも解かれる」
(「マタイによる福音書」16・19)と言い、
 さらに、ペトロは「神の代理人」だとした。
 そしてまた、「キリストの代理人」だと嘘の極地をつく。
 そして、これが、「継承されていく」。(デッチアゲの継承)
 しかし、嘘をついたのが、後(うし)ろめたいのか、
 気になった頃に、教皇は神であり嘘・偽(いつわ)りが一切
ないという「教皇無謬説」という人を馬鹿にした説・教理を制
定する。
 神は嘘をつかない。その神になってしまった。
 キリスト教の悪いところは、この様な、筋の通らない、不合
理な教えさえも、さも正しい様に教徒・民をゴマカシ、思わせ
るところである。
 その不合理な嘘行為を正しいことの様に錯覚させるところに
ある。
 過去が事実なら、「歴史的事実の継承」として堂々としてい
られるし、生き生きとした信仰としていられるわけだ。
 しかし、後ろめたいキリスト教は、嘘を糊塗(こと、嘘の上
にまた嘘を塗る)する歴史を刻む。
 そして、さらに、キリスト教は、「聖霊が来臨」の話を持ち
出し・追加し、過去の嘘のしがらみから逃れようと、
 似たような『もがき』を繰り返す。
 聖霊は便利な『グッズ(道具)』。あちこちで多用された。
 聖霊自体が得体のしれないものなので、あちこちで便利に使
うことが出来た。
 (「ヨハネによる福音書」3・8)も、図(はか)らずも言う、
 聖霊は「思いのまま吹く」と。
 あてにならないものなのだ。確かさはない。
 救いを得るという、肝心な信仰の中心が不確かに揺れるキリ
スト教なのである。
 そして、カール・バルトは、キリスト教のカトリックも、プ
ロテスタントも異端で駄目だと言う。
 カール・バルトの言葉:
 「プロテスタントはちゃちな異端であり、カトリックは壮大
な異端である」・・と。
 どっちみち、どちらも異端で駄目なのだと言っている。
 そして、C・G・ユングは報告する。
  多くの患者を診察して、
 「一番に神経症になっているのが『ユダヤ人』で、次が『プ
ロテスタント』で、次が『カトリック教徒』」だと、
 みんな病気と報告している。
 そして、キリスト教は、信仰の不確かさをカバーしようと
「告解」などの、さも威厳のありそうなサクラメント(秘跡)
を作り、その信仰の不確かさを紛(まぎ)らわしている。
 内実はない。儀式だけ。
 プロテスタントは、それらの儀式が馬鹿馬鹿しいのか?すべ
てを、取っ払って、一切無しにしている・・が、病人が多い。
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